小説・堀直虎 燎原が叒


ひょっとして新発見!?須坂藩江戸藩邸はどこにあったか?

 

《この考察は解決済みです。→『須坂藩江戸屋敷の変遷』参照》

 

諸藩の江戸藩邸は、大きな藩では上屋敷と中屋敷と下屋敷がありました。
一般的に上屋敷は藩主やその妻子が住む公邸で藩の政務を司り、中屋敷・下屋敷は前藩主の隠居場所であったり嗣子の生活場所であったり、あるいは藩士たちの長屋や蔵などがあり、それぞれ別の役割を担ったそうです。
ちなみに弱小(笑)1万53石の須坂藩には中屋敷はありません。
堀直虎の生涯をつづった「碧血録」には、天保7年(1836)、江戸の赤坂今井谷の邸で直虎は産湯をつかったと記されています。
そもそもこれを鵜呑みにしたのが間違いの始まりでした。(笑)
というのは、直虎が今井谷の上屋敷へ移ったのは慶応元年(1865)8月のことで、それ以前は今井谷に須坂藩邸はなかったのですから。
一方、「奥田家系譜」には天保7年(1836)8月16日、亀井戸の下屋敷で直虎は誕生したと記されています。
奥田という姓は、明治になって堀家が戦国以前の奥田姓に改めたもので、家系譜という意味ではこちらの方が信ぴょう性がありますね。
ところが歴代首相の田中角栄さんが余計なことをしてくれました!(笑)
氏の邸宅、通称目白御殿のあった場所が須坂藩堀邸があった場所だと言って、首相在任中にわざわざ須坂にまでお越しになったのです。(昭和48年/1973年11月)
当時の須坂は大騒ぎ!(笑)
ついには記念碑まで建立して荘厳に祀ったのでした。
ところがどっこい、これには後日談がありまして、、、
後に角栄さんの邸宅があった場所は、堀は堀でも飯田藩堀氏(別説では越後椎谷藩堀氏・筆者も調べましたが確認できず・いずれにせよ須坂藩堀氏ではないらしい)の邸宅だったらしく、数年前、私が直虎の講演を頼まれて行ったとき、
「記念碑まで立てたのに、いったいどうすればいいですか?」
と問われ、返答に窮した挙句、
「大先輩である皆さんで考えてください」と答えて逃げて来ました。(笑)
嘉永5年(1852・ペリー来航の前年)の江戸の地図には、亀戸町に「堀長門守」(直武)の名がありますから、この時点において亀戸に下屋敷があったことは間違いありません。
そして更にいろいろ調べた結果、南八丁堀に上屋敷があったことと、浜町にも屋敷(上屋敷とも記される)があったことをつきとめました。(Vっ!)
しかし時代の前後関係が分からず、なお追跡を続けていたところ、寛寿院の手記に興味深い記述があるのを見つけました。
寛寿院というのは須坂藩第10代藩主堀直興の妻に当たる人物です。
直虎の父11代藩主直格の養母で、夫である直興を若くして亡くし、男子をもうけましたがこれまた早世してしまい、以後未亡人として須坂藩を陰で支えていた女性です。
その彼女が国許の家老丸山舎人への手紙の中でこんなことを言っています。
「先年は江戸下町の大火で須坂御屋敷も焼失いたし、あちこち転居を余儀なくさせられましたけれど……」(「鵲の香合」より)
この部分の内容は善光寺地震があった年のもので、その先年というと弘化3年(1846)を指します。
藩主が直格から直武に替わって間もない頃で、直虎は数えで11歳の時ですネ。
大火というのは弘化3年1月15日(1846年2月10日)に発生した江戸の大火に違いありません。
火事の様子は「斎藤月岑日記」にこう記してあるそうです。
「今日七時頃より本郷丸山、いせ守様上ケ地、御代官筑山茂左衛門様手付中村惣助地内坂本林平宅より出火にして、丸山、本郷、ゆしま、駿河台、神田、本丁、石丁通、京橋まで、八丁堀、霊岸しま、佃島、深川へ飛火大火になり、わたしの家も夜九つ頃類焼した。
昨夜の出火、今日昼時頃京橋手前にして鎮まる、筑地門跡のこる、神田御本社、湯島天満宮、聖堂残る」
南南東へ燃え広がったことから、北北西から強い風が吹いていたことは明らかですが、江戸の東半分を灰燼にしてしまうほどの大きな火事です。
別名「青山火事」とも呼ばれるこの大火で800~900人の死者が出たと言われます。
その被災地域を予想したのが下の1つ目の図です。
これを見ますと、存在していたとすれば南八丁堀の上屋敷も浜町の屋敷も類焼しており、寛寿院が「あちこち転居を余儀なくされ」と言っている事実からすると、弘化3年の大火の時点では亀戸の下屋敷は存在していなかったと推測できるのです。
その間寛寿院は、
「立花家(実家)の兄が何かと面倒をみてくれ、近くの深川浄心寺の堀家の菩提所へお詣りすることが楽しみだった」
と綴ります。
これが事実だとすれば、深川まで延びた類焼は立花家のすぐ隣にある浄心寺の手前で鎮火していること、そして類焼の及んだ地域の外側に、須坂藩が所有する屋敷は1つもなかったことになります。
弘化3年に上屋敷が類焼したことは他の史料からも確認できますが、それが南八丁堀なのか浜町なのかまではわかりません。
しかし寛寿院が住んでいたとしたら下屋敷の方ですから、南八丁堀が上屋敷だったとすれば浜町の方は下屋敷だったのではないかと想像したのです。
では、いつ亀戸の下屋敷ができたかと言うと、寛寿院はこうつづります。
「それから数年が経ち丸山舎人をはじめ、御家中のやりくりにて、やっと私が安心して住めそうな亀戸の新宅が落成いたしまして、水無月の一日に、新居に引っ越しを完了いたしました。」(同「鵲の香合」より)
嘉永年間(1848~)の初めに亀戸の下屋敷が落成して引っ越した──と。
つまり、「奥田家系譜」の直虎生誕地の記述も間違いではないかと思うに至った訳です。
これがもし本当だとすれば、須坂藩邸の系譜は間違いに間違いを重ねて語られてきたことになりますネ!(笑・それはそれで面白いですが!)
ただこの文章(「鵲の香合」)自体、『須坂藩主 堀家の歴史』で著者廣瀬紀子氏がいくつかの書簡を回想文としてまとめたものなので、寛寿院がいつ書いたものかという設定にあいまいさを残す部分もあり、一概に鵜呑みにすることはできないかもしれません。
しかし「燎原ケ叒」ではおおむね次のような設定で物語を進めていきたいと思います。
直虎が藩主となった文久元年(1861)時点で、


1.須坂藩下屋敷は亀戸にある。
2.上屋敷は南八丁堀にある。
3.下屋敷は以前浜町にあったが、弘化3年の大火事で焼失してしまった。


新しい事実を発見するたび、歴史の解釈はどんどん変わってきます──
そこが歴史の面白いところであり、魅力でもありますネ!
※もっといい当時の地図を見つけましたので転載します♪(2枚目)


【上部に書かれている内容】
弘化三丙午年正月十五日昼八ツ半時より
出火本郷丸山上ケ地より一口ハ御弓町又一口ハ本郷通より妻恋明神下
御成道○御茶の水より駿河台へとぶ小川町西神田不残東神だ
少シ残る本町辺日本はし中橋京ばしにて焼止る
西中通り片側のこる○大伝馬町一二より堀江丁通り
甚左ヱ門町稲荷堀小網町箱崎霊岸しま辺
不残八丁堀鉄砲洲佃島飛ふ
さむさはしにてやけ止る
明ル十六日夜四頃迄
橋数多落る
土蔵百六十六ケ所
落る


ってか!!もっとすごい当時の瓦版を見つけてしまいましたっ!

 


江戸本郷辺大火(仮) 弘化3年(1846)かわら版

被災地域を報道する内容にこんなことが書かれているぞっ!


(前略)
南北新川『はま丁』大川ばた辺……
(中略)
本八丁堀通り南八丁堀通り本多様『堀くら様』かもん様下やしき……
(後略)


この『堀くら様』とは堀 内蔵頭(くらのかみ)直格のことではないかっ???
次の「かもん様」というのは井伊 掃部頭(かもんのかみ)直亮(直弼の前の彦根藩主)じゃないかと考えていますが、こちらには「下屋敷」がついているのに「堀くら様」の方には何も書かれていないので「上屋敷」と読めます。
つまり結論として、
弘化3年(1846)において須坂藩下屋敷は亀戸に存在せず、南八丁堀に上屋敷が存在した──。
ひょっとして長々書いた上記のこれらは、定説を覆す新発見か???(笑)

 

 

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