小説・堀直虎 燎原が叒


column-13 パンなるもの

 

未知の西洋兵糧、パンとは?

2020年9月26日

 

あんまり不評で打ち切りになったかと思いました!(笑)

 

今回登場した二葉屋百助は須坂銘菓『二葉堂』の二代目です。

筆者は同店の『雪踏』というブッセを食べた時、ほのかに塩味の利いた美味しさに目ん玉が飛び出しました!(笑)

以前に一度だけ二葉堂の副社長という方にお会いして、二葉堂の発祥が江戸時代、亀井戸にあった須坂藩邸江戸屋敷近くの「亀屋」という老舗菓子屋に奉公した長治郎という男が初代であることを知りました。

須坂藩9代藩主堀直皓に気に入られた彼は文化元年(一八〇四)に藩邸御用達となって「二葉屋」という屋号を賜って以後、ずっと須坂藩に関わってきたのです。

 

直虎が藩主だった頃は二代目百助が当主で、彼は須坂で生まれています。

天性の菓子づくりの才があったのでしょう、「二葉屋」の名声は江戸にまで広がり、彼が生み出した「鳴門巻」とか「中華饅頭」は名菓として江戸で大ヒットしたそうです。

直虎の兄の直武は、将軍へ献上して褒賞まで賜ったと言います。

 

どんなお菓子かとても気になりますが、写真を見る限り「中華饅頭」の方はいわゆるドラえもんが好きな「どら焼き」のようで、「鳴門巻」の方は和風「ロールケーキ」のように見えます。

ぜひ一度でいいから食べてみたいですね!

 

実はこうした資料は田中本家12代新十郎様にご提供いただきました。

この場をお借りし感謝申し上げます。

 

 

直虎、二葉屋百助に命じる

2020年10月24日

 

日本で最初にパンを焼いたのは誰か?

 

一般的には伊豆韮山の代官江川坦庵(たんなん)だったとされています。

軍備用の非常食として徳川幕府の命により彼がはじめてパンを焼いたのが天保13年(1842年)4月12日のこと。

この日は現在『パンの日』に制定されているそうです(笑)

しかし当時は現在のようにふわふわしたようなものではなく、保存性や携帯性の優れたカチカチの乾パンのようなものだったと言います。

直虎は、そんなパンをいつも懐に忍ばせていたと伝わっています。

 

ところが実は、パンが初めて日本に伝わったのはこれより3世紀も前の1543年のことだったといいます。

種子島に漂流したポルトガル人が鉄砲とともに持ち込んだとされ、キリスト教の布教に来たフランシスコ・ザビエルらも日本でパンを焼いていたと言われます。

ではなぜ300年もの間、日本ではパンを作る文化が根付かなかったのでしょうか?

 

それはおそらく江戸時代の鎖国政策が大きな要因だったことでしょう。

あわせてキリスト教が禁止されていましたから、パンとワインがイエス・キリストの肉と血として食べる西洋文化自体、忌み嫌われたものと思われます。

しかしまったく作られていなかったかといえばそうではなく、長崎のオランダ屋敷で細々と作られてはいたようです。

 

日本で今のような食感のパンが一般的になったのは、イースト菌を用いて作られるようになった大正期に入ってからのようですので、まだまだその本格的な歴史は浅いと言えます。

パンは英語で「Bread」と言いますが、日本でパンと称されるのはポルトガル語の「Pão」という発音に由来しているからです。

カステラもポルトガル語から来たお菓子の名前ですが、こちらもパンと同じく戦国時代に宣教師によって伝えられ、長崎で発展してきました。

ところがパンと違うのは、江戸時代は「カステイラ」と称され、上流階級の特別なお菓子として接待や茶会などで食されていたことです。

 

二葉堂二代目百助も、当然カステラくらい焼けたことでしょうね。

 

 

生麦事件で揺れる幕府

2020年11月21日

 

今回は小笠原長行の卒兵上京事件を扱いました。

幕末といえば坂本龍馬や西郷隆盛、あるいは高杉晋作など革命派の動きの方に目を奪われがちですが、幕府側の動きに目を移せばまた違った幕末が見えてきます。

しかし当時の幕府は諸外国との交渉や対応といった大問題も抱えているため、話が複雑すぎてわけが分からなくなります(笑)

少しマイナーですが小笠原長行という人物を中心とした幕府の動きには、けして華やかではありませんが、堅実に幕府の立て直しをしようとする気概を感じます。

それから見ると改革派の進め方は強引ですね(笑)

特にこれより少し後になりますが、小御所会議など、あれは詐欺でなければ恐喝です(笑)

その長行が挙兵したのですから相当だったのでしょう。

堀直虎はその小笠原長行の系統ですね。

 

 

攘夷決行に勇み立つ長州藩

2020年12月5日

 

長州四各国戦争連合国によって占拠された長府の前田砲台
(Wikipediaより)

長州藩の攘夷決行により、いよいよ徳川幕府崩壊へのみちすじができあがってきました。

それにしても“知らない”ということはなんと恐ろしいことでしょうか?

長州藩のこの行為は、ヘビの尻尾の先端を見て襲い掛かるカエルに等しい(笑)

西洋の軍事力を前に全く歯が立たず、ついには四ヶ国連合と徳川幕府に挟まれる最悪の状況に追い込まれます。

でもそこで匙を投げないところが長州藩のすごいとろこですね!

 

一方、薩摩藩も薩英戦争をはじめますが、ここに至って両者ともに初めて西洋の脅威を知るわけですから、当時の日本は外国事情に対してあまりに無知でありすぎました。

 

その点、徳川幕府の方は、ペリー来航以来様々な形で外国と交渉しているわけですから、世界の中の日本というものをよく知っていたことでしょう。

しかし歴史というのは皮肉なもので、無知であるがゆえに勝者となり得るケースもあるわけです。

これまで“尊王攘夷”を強烈に推し進めていた長州藩は、掌を返したように“尊王開国”に方針を覆しますが、やはり当初から“開国”を推し進めていた幕府方針は正しかったと言えるのではないでしょうか。

 

幕府主導型の維新であったら、現代はいったいどのようなものになっていたでしょう?

 

興味は尽きませんが、筆者は今よりもう少し“和の文化”が多く残っていたのではないかと口惜しく感じる時があります。

 

 

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