小説・堀直虎 燎原が叒


column-08 16連発銃

 

西洋砲術の草分け・江川但庵

2019年3月23日

 

江川但庵
江川坦庵「Wikipediaより転載」

江川英敏
江川英敏「Wikipediaより転載」

今回は、伊豆韮山代官だった江川坦庵、江川英敏親子が登場してきたので江川家の話を少し。。。

 

江川家の歴史は古く、初代は平安時代中期の武将、源頼親(源満仲の次男)にまで遡るそうです。

戦国時代は23代江川英住の時に、北条早雲に仕えて一緒に韮山城に入ったといいます。

江戸時代に入り、28代の江川英長が徳川家康に仕えて幕府の代官になって以来明治に至るまで、代々“お代官さま”の家柄を継ぎ、江川坦庵で36代目、江川英敏は37代目に当たります。

700年以上という長きに渡り家が存続してきたのは、鎌倉時代に数日間、日蓮を家に迎えて改宗した功徳だとか。。。

 

あまり目を向けられることはありませんが、歴史上の人物が何を信仰していたかに焦点を当てると、また別の歴史が見えてきます。

 

 

講武所奉行・大関増裕

2019年3月30日

 

講武所髷

今回の話の中に出て来た“講武所髷(こうぶしょまげ)”は、文久年間(1861~1863)の末ごろから江戸で流行り始め、それ以降、若い幕臣たちの間で大流行した髪型だそうです。

ちょうどこのころ大関増裕が講武所奉行になっていますから、彼が流行らせたというのもあながち間違いでないかも。。。(笑)

 

月代(さかやき)の幅を細めに、髷を直線にした男髷──言葉で書いてもよく分からないと思うので少し下手ですが絵にしてみました。

 

高杉晋作のざんぎり頭は有名ですが、あれはちょんまげを切り落とした西洋風の髪型です。

対して「尊王風」という髪型もありますが、これは月代を剃らずに髪を後ろで束ねた形で、髪型で佐幕派と尊皇派を見分けるというのもアリ???(笑)

 

いつの時代も若者たちが作り出す流行があるのは面白い事です。特にこの幕末という混乱期ですから、そのエネルギーは凄まじいものだとは思いませんか。

 

でも、江戸時代の時代劇では“ちょんまげ”は当たり前ですが、現代の感性で冷静に見てみると、やっぱりあれは少し変ですね(笑)

 

 

十六連発銃との出会い

2019年4月6日

 

片井京助
「信州松代観光情報」様
http://www.matsushiro-year.jp/
「ふるさと松代人物館のパンフレット」より

今回登場してきた謎の老人──。

名前が明かされるのは次回ですが、FBをご覧の皆様に先にお伝えしますと、その名を片井京助といいます。

「お宝鑑定団」にもたびたび?登場してきますネ(笑)

 

「ふるさと松代人物館のパンフレット」によりますと、

 

『元込連発銃を完成、黒船来航時の銃器改良

片井京助 天明5年(1785)~文久3年(1863)

軽井沢に生まれ、鍛冶片井家の養子となって松代に移り、御用鉄砲鍛冶として「早打鉄砲」を考案。

江川太郎左衛門の門下で洋式砲術を学び、傍装雷火銃や元込め式迅発撃鉄、雷管式4連発銃、空気銃などを製作、黒船来航時の銃器改良に貢献した。』

 

とあります。

「元込銃」というのは、火縄銃のように銃の先端から弾を込めるのではなく、手元の方から弾を込める形の銃で「後込め(あとごめ)」とも言います。

これだと弾の装填が簡単ですので、ここから連発式も可能になったわけです。

すでに西洋では開発されていたようですが、日本においては片井京助が1分間に10発撃てるという元込連発銃を発明したといいます。

 

さて、この片井京助、物語にどのような影響を与えてくれるのでしょうか?

 

 

須坂藩の砲術実験

2019年4月20日

 

堀直格
堀直格(直虎の父)
「Wikipediaより転載」

堀直虎の父須坂藩11代藩主堀直格といえば、『扶桑名画伝』を編纂した文化人だとばかり思っていましたが、実は文政年間(1818~1831年)に、どこの藩より先んじて──というよりまだペリーも来ていない時代に何を思ったか、攻城砲の鋳造をしていたとは驚きです。

少し後の戊辰戦争でさえ、日本の大砲といえば球状の砲弾を使っていましたから、それを細長くして実験をしたとは、アームストロング砲まがいのものだったのでしょうか?(笑)

 

現代で発砲実験などしたら即警察行きでしょうが、当時も「謀反だ!」と幕府から目を付けられて当然。

そんなことを平気でやってしまう直格は、やはりちょっと破天荒なところがあったのでしょう。

 

直格のこんな言葉が残っています。

 

「工匠を見よ、木の曲がれるは曲がりなりに用うるにあらずや。
心曲がれるを用い得ぬようにては人の主たることを得ず」

 

つまり、

「大工や彫り物師の匠は、どんなクセのある木も適材適所で上手に使いこなしてしまう。

人も同じで、どんなへそ曲がりやひねくれ者がいても、それを上手に扱うことが出来なければ人の主とはいえない」

どんな人間でも自在に操ってみせるといった自信に溢れています。

 

きっと直格自身、相当のくせ者だったのではないでしょうか。

おそらく直虎は、そんな父の性格を受け継いでいたと思います。

 

 

日本に2つしかない最新銃

2019年5月11日

 

直虎の16連発銃
直虎の16連発銃

M1860ヘンリー・ライフル銃
M1860ヘンリー・ライフル銃
「Wikipedia」より転載

16連発銃は資料の写真から、どうも1860年にアメリカのニューヘイヴン・アームズ社から発売されたレバーアクション式の「M1860ヘンリー・ライフル銃」のようですね。

最初知った時、当時にして16連発などと俄かには信じられなかったのですが、仕組みを知って解せました。

 

そんな折、先日、田中本家12代新十郎様と懇談する幸運に恵まれ、ご親切に博物館までご案内していただきました。(じっくりと説明付き(しかも当主の)で観賞できて本当に幸せな時間でした!)

その中で新十郎様は、この16連発銃を実際に手に持って「油をさしました」と言っておられました!(笑)

現存しているんですね!(ちなみに個人蔵で、誰が所有しているかまでは教えてもらえませんでした。)

ビックリするものばかりですので、みなさんもぜひ「豪商の館 田中本家博物館」にお出かけ下さい。

お庭も綺麗で、ここを直虎が歩いたかも知れないと思うだけで、胸がワクワクします。

 

話を戻しますが、アメリカの南北戦争は1861年から1865年にかけての内戦なので、この銃はそれ以前に開発されたことになります。

しかし物語では、あえて「得てして技術というのは飽くなき欲求と戦争が産み出すものさ」と片井恭介に語らせました(前回)。

 

また今回、直虎は江川英敏から「パンの製法書」をもらったことにしましたが、日本で最初にパンを作ったのが江川坦庵であることはあまり知られていないかも知れません。

言い伝えでは、直虎は常備食として常にパンを懐に持っていたとされています。

パンの製造法をどこで知ったのでしょうか?

 

小説の現在の舞台は文久2年(1862)の春の頭──、

この年の4月に薩摩藩の寺田屋騒動、8月に生麦事件が起こりますから、直虎はやはりかなり先進的な人物だったと言えるでしょう。

 

 

直虎、ライフル銃を腰元に

2019年6月8日

 

今回のお話しは、直虎の生涯をつづった「碧血録(へっけつろく)」に残されている逸話です。

ところがこの碧血録、内容は面白いのですが、史実とは多少違っている箇所も見え、歴史書としてそのまま鵜呑みにしてしまうわけにはいきません。

ただ、直虎の性格や人柄を読み解くにはこの本の右に出るものはなく、筆者も大いに参考としているところです。

 

史実だけを忠実に追っていると、堀直虎という人物は、幕府役人としてクソが付くほどの真面目な堅物人間に感じてしまいますが、「碧血録」に記された直虎は人間臭い一面が見えかくれします。

今回の、家臣たちが集めた金で買った16連発銃を「腰元だ」と言い張って紹介する場面などはその最たるもので、ちゃっかりしてるというか、やっぱりおちゃめな殿様です。(笑)

 

筆者は、悩みもし、愚痴も言い、社会に不満を持ちながらも、それでも自らの信念を貫こうと葛藤するような、そんな人間・堀直虎が描ければいいなあと思っています。

 

武鑑
文久2年『武鑑』の須坂藩

登場する家臣の参考にしようと、文久2年の『武鑑』の中に須坂藩の箇所を見つけました。

 

ところが家老のところには、この時すでに隠居しているはずの丸山舎人の名があったり、先の藩政改革で断罪されているはずの野口源兵衛や、中老にも河野連と野口亘理の名があったりで全くあてになりません。

さすがに藩主の名は堀長門守直虎になっていますが、家臣の部分はこの5年後の慶応3年の武鑑でも全く同じ顔ぶれなのです。

これは武鑑を編纂した役人の怠慢でしょうか?(笑)

参考に須坂藩の部分を切り抜いておきます。
※一枚目の写真(文久2年の武鑑・須坂藩堀家)

 

 

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