小説・堀直虎 燎原が叒


column-06 切腹の沙汰

 

家老野口の処分に悩む直虎

2018年10月6日

 

今回からは“切腹”という日本特独な死に方について考えます。

話が古代中国に飛んだり、戦国日本へ飛んだりして、けっこう重くなると思いますので、ご興味のない方は読み飛ばしてください(笑)

そんな話を、ある意味須坂市公共の紙面に載せるなと怒られそうですが、将軍慶喜に対していわゆる“ハラキリ”をして果てた堀直虎という人物を描く上では、けっして避けて通れない難題ですので、しばしお付き合いをいただきたいと思います。

 

さて話は、直虎が藩主となって最初に取り組んだ大藩政改革にまつわる導入部分です。

筆者は「死刑」というものを真っ向否定したわけですが、これについては様々に議論が分かれるところと思います。

つい先日も、オウム事件一連の犯人たちの死刑が執行されたわけですが、なんとも複雑な思いを感じた人は多いはずです。

議論する気は毛頭ございませんが、人命というもの、法律というもの、あるいは生死について、考えてみるのもいいかもしれません。

 

 

直虎、切腹の意義を思索す

2018年10月13日

 

今回は中国に残る古書から、切腹にまつわるお話を紹介しています。

 

切腹といえば特に日本を連想しますが、西洋に目を向ければ、切腹という表現はあてはまらないかもしれませんが、意義の同じ死に方をした偉人をみつけることができます。

古代ギリシアの哲学者ソクラテスです。

 

いわゆる「ソクラテスの毒杯」は、「義」とか「忠」といったものとは少し違いますが、その本質には同じ何かが流れているように思えてなりません。

「産婆術」や「無知の知」や「汝自身を知れ」など、彼の哲学は現代なお生き続けていますが、その死に方は「人間とはどうあるべきか」といった、とても重大な示唆が含まれているように思います。

 

ソクラテスがいた当時のアテネは、足の引っ張り合いと欺瞞が渦巻く嫉妬と利己主義の社会だったといいます。

なんだか現代と似ていますね(笑)

自由自在に正義を語るソクラテスの評判を良く思わないソフィスト達は、彼を犯罪者に仕立てあげ捕えるのです。

その裁判でソクラテスは、堂々とアテネ人の誇りを謳い、私利私欲と名声や栄誉ばかり追求する社会の恥辱を訴え、魂の自由を叫びました。

その結果、彼は有罪となり、毒杯による死刑が確定したのです。

死刑執行のとき、彼は毒杯を飲むために死の床に赴き、自らの命を絶つのです──。

 

あのとき、毒杯を飲まない選択もあったはずなのに、ソクラテスはなぜ飲んだのでしょうか?

ここに命を賭けた哲学者としての大きな問いかけがあるのです。

 

「燎原ケ叒」は東洋の話ですのでソクラテスの毒杯には触れませんが、筆者は東洋・西洋問わず、切腹には、単に自殺と言って片付けてしまうわけにはいかない、人間としてのすざまじい発光を見る思いがするのです。

 

 

忠義に切腹した武士を偲ぶ

2018年10月20日

 

「漢字が難しくて読めない!」というお声をいただきました(笑)

申し訳ありません。今回から紙面の制限文字数を見ながら(よみがな)が入るようになりました。

とはいえ昔の本など読んでいますと、筆者も読めない漢字が随分とあり、そのまま引用するようなこともございます。

 

そもそも漢字は中国から渡ってきたもので、日本では「音読み」「訓読み」と読み分ける文化が残りました。

学校の先生には怒られてしまうかも知れませんが、小学校などでは「この漢字はこう読まなければいけない」と教わります。しかし、あくまでそれは一般的な読み方であり、別の読み方も必ずできるはずなのです。

それをテストなどでははっきりと正誤が決められ採点されてしまいます。

ちなみに筆者は国語が大の苦手でした(笑)

 

象徴的なものとして、憲法にある「何人」という漢字です。

法律に係る人にとっては常識でしょうが、これを「なんぴと」と読むなんて一体だれが思いつくでしょう?(笑)

中学校あたりで教えられて初めて「そうなのか」と知るわけですが、その授業を居眠りしてしまえば、その人は一生「なんにん」と読むに違いありません(笑)

 

苗字などはその最たるもので、NHKの「日本人のお名前」など見ていれば、意外な読み方が紹介されるたびに目から鱗です。

筆者はこの曖昧さというか、含蓄の深さが日本語というものなのかと思うのです。

 

最近では新聞でもテレビでも難しい漢字はひらがなに替える傾向にありますが、漢字には一字一字に深い意味があり、それを読めないからといって安易にひらがなに直してしまうことには疑問を感じています。

その意味から、この小説で読めない漢字が出て来たら、自分なりの読み方をするのもけっして間違いではないと考えています。

 

 

民のために腹を切る領主たち

2018年11月3日

 

切腹というものに対する考察が続きます。
今回は日本の戦国時代の中でも特に、城主の命と引き換えに兵の命を救ったという逸話を取り上げました。

探せばまだあるかも知れませんが、このほかに、身分が上の者が身分が下の者のために腹を切ったという事例があれば、ぜひ教えてほしいです。

 

切腹の概念が消え失せている現代にあって、堀直虎の正当性を主張するのはなかなか骨の折れる仕事です。(笑)

 

 

浅井長政に武士の鑑を見る

2018年12月1日

 

今回の後半は、江戸初期の殉死の話に触れましたが、司馬遷の『史記』(筑摩書房刊)を読んでいましたら、中国における殉死の話を見つけましたので書き記しておきます。

 

それは『田儋(でんたん)列伝第三十四』に出てきます。

田儋というのは紀元前200年頃の人で、子に田巿(でんし)、従弟に田栄(でんえい)、田栄の弟で田横(でんおう)がおり、これはその田氏一族の記録です。

 

時代は漢王朝──

斉の統治をめぐるゴタゴタの中で、取ったり取られたりしながら田氏は代わり番こに斉の王となってきました。

この時は韓信(かんしん)という男が平定しており、戦いに敗れた田横は、500余人の部下と一緒に海の孤島に逃れておりました。

あるとき漢王は、田横が乱を起こすかも知れないことを恐れて、彼の罪を許し、召し寄せようと島に使者を送ります。

ところが田横は以前、行き違いから漢王の使者だった酈生(れきせい)という男を煮殺してしまったことがあり、今はその弟の酈商(れきしょう)が漢の将軍になっていたのです。

田横は漢王の招へいを断りました。

しかし使者から話を聞いた漢王は、

「もし田横を召し抱えることによって妄動する者がいたら、その一族を誅滅する」

と約束して再び使者を送ったので、田横はやむなく了承して二人の家臣を伴なって漢の都雒陽(らくよう)へ向かいます。

雒陽の手前30里の尸郷(しきょう)という町に着いたときでした。

田横は二人の家臣にこう言います。

「はじめ私は、漢王とともに主君として政治を行っていたのに、いまや漢王は天子となり、私は亡命の虜(とりこ)として、その臣下として仕えるようになった。この恥辱はまことに堪えられない。

そのうえ私は人の兄を煮殺し、その弟と肩を並べるのでは、たとい彼が天子の詔(みことのり)をかしこみ、あえて心を動かさないとしても、私としては心に恥じずにおられようか。

なおまた陛下が私を引見されるのは、ただ私の顔を一見されたいだけのことだろう。

いまわが首を斬り、雒陽まで30里の間を馳せて持参しても、顔形はまだくずれるほどにならず、なおわが面目は見るに堪えよう。」

と、自ら首をはね、家臣に首を奉じて、使者とともに漢王に奏上させたのです。

それを見た漢王は、

「ああ、庶民から身をおこし、兄弟三人(田儋・田栄・田横)がかわるがわる斉の王となったのも道理(ことわり)である。なんと賢明ではないか」

と涙を流し、田横の二人の家臣を都尉(とい)という軍の官職に任命して、二千人の兵で田横を葬り王者の礼を尽くしたのでした。

ところが葬儀の後、田横の二人の家臣は墓のかたわらに穴を掘り、二人とも主君田横に殉じて、みずから首をはねて穴の中に身を埋めたと言います。

 

そればかりでありません──。

 

漢王はこれを聞いて驚き、

「田横の臣はみな賢士である」

と察し、島にいた五百人の田横の部下たちを雒陽に招きました。

ところが、

彼らが都に到着してはじめて主君田横の死を聞くと、彼らもまたことごとく自殺してしまったというお話です──。

 

まったく中国にはすごい話があったものです。。。

※「雒陽」は「洛陽」と同じですが、漢王朝の時代は「雒」の字を用いました。

 

 

殉死は民衆救済のためなのか

2018年12月8日

 

切腹というものを考えているうちに、ついに宗教の次元にまで足を踏み入れることになってしまいました。

しかしこれは仕方のないことで、当然の道理だろうと思っています。

なぜなら“死”というものの本質に対して、真っ向からその解明に挑んでいる学問というのは、仏教をおいて他にないからです。

今回は“殉教”というものを取り扱いましたが、西洋においてはイエス・キリストの死も殉教でした。

 

話は少し変わりますが、以前講演を頼まれて“殉死”の話をしましたら、たまたま元警察官の方がおられ、

「警官にとって殉死は不名誉なことだ」

と教えられました。

なるほど人命というのは、自分の命を守ってこその物種なのだろうと思いましたが、例えば愛する者のためや命を賭けているもののために亡くなった人を不名誉とするならば、それはとても悲しいことだと思います。

 

考えれば考えるほど深みにはまってしまう難問中の難問ですが、直虎があの時代に自尽したという事実の奥には、きっと現代人には非常に理解しづらい真実が潜んでいるだろうと思います。

 

 

野口一味、直前で切腹免れる

2018年12月22日

 

このところとびとびの掲載で、しかも切腹についての考察が長く続いていましたが、ようやく本編の筋に戻りました。

怪我の功名か旧暦と新暦との違いはありますがおおよそ物語の季節が今と一致し、文久元年(1861)の年の瀬も迫った12月も、平成最後の今12月と少し似たようなところがあるのではないかと勝手に思っています。

今年1年を表わす漢字が「災」ということですが、小説の方もいよいよ幕末の本格的な「災」を呈していきます。

 

次回から第7節「呆(ほう)けもの利(き)けもの」に入り、文久2年正月は江戸が舞台で、幕末としては少しマイナーな人物達も登場してきます。

 

黒羽藩主 大関増裕

三田藩主 九鬼隆義

唐津藩世嗣 小笠原長行

 

堀直虎自体全国的にはマイナーですから仕方ないかも知れませんが、聞いたことくらいありますか?(笑)

須坂の子供達も新年正月6日に、ストレート・タイガーこと堀直虎を演じようとがんばっているようです。

応援しつつ、大人も負けてはいられません。

 

 

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