小説・堀直虎 燎原が叒


column-04 上田藩の姫君

 

須坂藩主堀直虎が歩き出す

2018年6月23日

 

いよいよ直虎の妻となる俊(しゅん)姫様が登場してきます。

 

彼女の父親は信州上田藩第6代藩主の松平忠固という人物です。

あまり聞きなれない名かも知れませんが、嘉永7年(1854年)の日米和親条約、そして安政5年(1857年)の日米修好通商条約という徳川幕府にとってものすごい重要な時期に、2度にわたって老中を務めた逸材です。

 

その割に影が薄いのは、このとき台頭してくる尊王攘夷派の動きや将軍後継者問題の方に目がいってしまうからでしょうか。安政の大獄とか桜田門外の変といった強烈な事件が起こる時でもありますからあるいは仕方ないことかも知れません。

しかし攘夷論の対照にあるのが開国論ですし、やがて日本はすべからく開国していくわけですから、そちらの動きに目を向けないわけにいかないでしょう。

 

後に坂本竜馬や岩崎弥太郎といった人物が海運を駆使して西洋諸国と渡り合うようになりますが、その海外貿易の走りを唱えたのが松平忠固だと言えば、そのすごさが少しは伝わるかもしれません。

まだ鎖国のあの当時にして、彼の主張は単なる開国でなく、貿易を成して諸外国を席巻しようとする超積極的な開国論者だったのです。

そして横浜が開港されたのを「待ってました!」とばかりに海外との生糸貿易を始めます。

明治に入ってからの日本は、その生糸・蚕種貿易を大きな輸出品戦力として列強諸国の仲間入りを果たしていくことは周知のとおりですね。

 

幕末を語るのに、彼の存在を差し置く手はありません。

そしてその娘こそ直虎の妻となる俊姫様なのです。

 

 

運命の人、上田藩の姫君

2018年7月14日

 

物語は上田藩の姫君 俊姫様登場シーンです。

 

彼女の性格をどうしようかと頭を悩ませましたが、直虎とは逆の方が面白いのではないかと思い、模索しながら書き進めております。

以前同紙掲載の「堀直虎・考」で、俊姫様の性格を探ったことがありました。

 

彼女の生まれは弘化4年(1847)の11月16日で、この年は未(ひつじ)年です。

対して直虎は天保7年(1836)の8月16日の申(さる)年。

彼女が大坂生まれなのに対して直虎は江戸生まれ。

その年の差は実に11歳。

そして申と未の相性をインターネットで占ってみたのです(笑)

 

すると、

 

①気持ちが通じ合い、お互いの欠点を補える相性。

②申(直虎)にとって未(俊)は温かな心遣いで育ててくれる親のような存在。

③未(俊)は神経質で、余計な一言で申(直虎)の気分を悪くさせないよう注意が必要。

 

と出ました(笑)

また、彼女の性質を誕生日でも占ってみました。

グレゴリオ暦に換算すると彼女の生まれは1847年12月23日。

 

結果は、

「沈着冷静な狼タイプ」―――だそうです(笑)

 

④明るく華やかな印象で輪の中心におり、時に配慮が足らない言動も

⑤新しい事が大好きで理想を追求する一方現実的で、金銭感覚が鋭く地に足が着いたしっかり者タイプ
だそうです。

 

その性質は、

⑥お人好しで飾らず、男女分かたず上手につき合い、探求心や知識欲など知的でクールだが、自分の考えに固執するあまり意地っ張りに見られ、物事を冷静に判断する反面、考えるより経験による直感で決断するタイプ

⑦堅実で責任感が強く独創的で、周囲から一目置かれる存在

 

だそうです。

さらに対人関係では、

⑧笑顔で周囲を楽しくさせるのが得意で、選り好みなく誰とも同じ態度で接する。

⑨社交的でもあるが少数と深くつき合うを好み、一度信用すると何でもしてあげたくなり、相手が窮地の時は自分そっちのけで助けようとする

 

また恋愛に関しては、

⑩非常に不器用で、この人とならという相手を求める。

⑪どちらかというとアプローチが苦手で、相手が自分を理解するまでじっと待つタイプ

⑫早婚か晩婚かの両極端になることが多く、理解し合うと良き妻として家庭を大事にする。

⑬別離が来ると、次の相手を見つけるまで時間がかかる

と出ました。

 

占いも案外馬鹿にできないものだと感心したものです。

真に受けるわけにはいきませんが、想像力をかきたてるには充分です。

 

当時「そこが歴史家でないただの物書きの特権なのだ」と記していましたが、我ながらうまいことを言ったものだと感心します。(笑)

 

 

特別コラム 三池藩主立花種恭

2018年7月23日

 

立花種恭

後国三池藩最後の藩主に立花種恭(たねゆき)という人物がいます。

堀直虎関連の書は一通り目を通したのですが、この人物との関連を記すものはなく、なんとなく不自然に感じておりました。

 

というのは、、、

 

堀直虎の父11代須坂藩主直格の養母(10代兄直興の妻)に寛寿院(もともとは直格の義理の姉)という女性がおりまして、彼女は立花家から嫁いでいるからです。

それだけではありません。

須坂藩9代藩主の直晧も、実は立花長燕という人物の四男であり、立花家から養子として須坂に来ているのです。

つまり立花種恭と堀直虎は親戚同士であり、しかも生まれた年が全く同じ(天保7年生まれ)のタメなのです。

 

立花種恭も須坂藩と同じ一万石の小藩の藩主で、幕末、大番頭から若年寄になり、徳川幕府崩壊の最後の一瞬だけ老中になった人物です。

そしてその間の記録を日記に書き残しており、現存していることを知ったのです。

 

かくして筆者は、『立花種恭の老中日記』なる本を読むため長野県立図書館へ行ったのでした。

 

ところが、そんな築後の特殊な書籍を所蔵しているはずもなく、職員の方に頼んで取り寄せていただくことにしたのでした。

そして待つことおよそ二週間──、

ようやく手にしたその本を読んでビックリ!

直虎が自刃する様子とその直前の様子が克明に記されているではありませんか!

 

日記に直虎が内蔵頭の名で登場して来るのは慶応3年10月24日からで、数えたら全部で6箇所あり、「無二の精神を話し感慨す」と記してあったり、江戸の薩摩藩邸焼き討ちの時も一緒にいて、江戸城の「御高屋へいたり遠望」して火の手があがり、大砲の音が響くのを聞いています。

そして極めつけが下の記述です。

 

【(慶応四年)一月十六日】

『立花種恭の老中日記(p121)より』

「 晴 今朝 土岐白堂きたる 加州邸へ到り度き旨に付 余に添書を乞う 余認め渡す 御目付支配岡本数馬 柳の間に於て面会 献言ある

堀内蔵頭 近日 気分常ならず 若年寄心配強く 種々余に内話あり 余 堀氏とは 元来知己なれば 別席に会し 内存を尋問す 同氏は唯 看破せし心地す 故に 家族をして一同 御城内には留め有度し などの言葉を発す 余は 何等の理由より かかる言の出る哉 不審晴ず 押而問え共その答へ無く 或は帯剣へ手をかけ 自殺せんとするの 意現わる 余 厚く説諭を加へ 且 若年寄中へ 厚く心を付べき旨を内告せり 夜半に至り 京極主膳正 余が前に来り 内蔵頭の容貌 甚だ変じ非常の状あらわる 猶は 一説諭を乞う と あわただしく告ぐ 余 大目付戸川伊豆守に 内告し 駕籠を呼びて 宅へ引取 わざわざ養生を加へしむるの事 肝要ならん 然れ共 駕籠中の挙動甚だ危うし 家臣を申して 厚く心付しむべしと 申達す 戸川諾して そのことを臣に告ぐ

程なく 唯ならざる物音せしにより 板倉伊賀守 余先に出て 若年寄詰所 御用部屋に至れば 堀内蔵頭 短刀を以て咽喉を指貫き 鮮血ほとばしり 切口より ヒウヒウたる声 並に 血の泡を発し もだへる形勢 実に目もあてられざりし 余 奥詰外療医を 急速に呼ばしめ 鍼に糸して 咽喉の血を洗うに至り 溘焉として こときれたり

遺憾やる方なしといえども 如何ともなすべきの道なければ 同氏 御城詰家来を呼び その有様を見せしめたるに 家来  茫然 何と心得 罷り候べき哉と 問う 余 答 大病なれば 速やかに帰宅せしめ 療養叶わさると見ば 舎弟雪若殿を以って 相続願あるべしと 大声に申し述べ 大目付 その他を顧み 左には非ずやと 言いしに 戸川伊豆守 初め 左なりと 答う よりて 堀氏の遺体をば ケットに巻いて 下た部屋に さげしやる

此の人 性質温厚にして 文武の技を練磨し 仁心ありて 家臣も服従せしは 諸人の知る所なりしも 如何なれば 如此 一心切迫 かかる場に至りしや 可歎 可惜 此時三十三歳なり」

 

慶応4年の直虎に関する記載は以上が全てで、慶喜に諫言したなどの内容については一切触れてありません。

じっくり読み込んでみないといけませんが、みなさんはどう思います?

 

 

上田藩の俊姫に一目惚れ

2018年7月28日

 

浅草酉の市
浅草酉の市
浅草 酉の市
photo credit: Yoshikazu
https://www.flickr.com/photos/yoshikazut/

今回出て来た浅草の「酉(とり)の市」ですが、これは鷲(わし)や鳥にちなんだ寺社の年中行事として行われていました。

毎年11月の酉の日に市が立ち、午前0時の一番太鼓を合図に終日お祭りが執り行われます。

中でも浅草の鷲(おおとり)神社のそれは最大規模であり、冬の訪れを告げる風物詩として、来たる年の商売繁盛や家内安全を願い、お守りとして売られる縁起物の熊手を売る露店が立ち並んで大人気だったと言います。

その謂れを調べると、「古事記」や「日本書紀」に出て来る「ヤマトタケルノミコト」とかの神話にいきつきますが、長くなるのでここでは述べることはやめましょう。(笑)

 

11月の酉の日といっても月に一度だけではありません。

最初の酉の日を「一の酉」、二回目を「二の酉」、三回目を「三の酉」と呼び、年によっては二回だけの時もあります。

ちなみに直虎が藩主となった文久元年の11月では三回あり、調べてみますと次の日が該当します。

 

【文久元年11月の酉の日】

11月1日……乙酉

11月13日……丁酉

11月25日……己酉

 

直虎が藩主になったのが6日で、俊の誕生日が16日ですので、今回のお話しは文久元年11月13日の出来事という設定が妥当でしょうか?(笑)

 

そこまで深く考えていたわけではありませんが、こういったことを通して江戸の風情や二人の関係などおぼろげなら伝われば嬉しいです。

 

蛇足ですが、「三の酉」のある年は火事が多いといわれたそうです。

もちろん迷信ですが、この年はいつもに増して火の用心が心がけられ、縁起熊手に「火の用心シール」を貼って売りだしたそうです。

俗説には、浅草の鷲神社と長國寺の近くには吉原があり、酉の市にかこつけて家を空けて吉原に遊びに行く男たちを戒めるため、女房たちが「三の酉は火事が多い」と言ったという説があります。(笑)

 

忘れ去られてしまった日本の文化って、探せばまだまだうじゃうじゃ出てきそうです。

 

 

賢君・上田藩主松平忠固

2018年8月4日

 

さて、俊姫様のお付き女中で松野という女性を登場させておりますが、実は彼女、実在した人物なのです。

上小郷土研究会の会報によりますと、、、

 

「松野は及川氏、上田藩士笈川玖太の娘、弘化二年から松平家の奥に勤めはじめました。俊姫が生まれてからは養育役になり、その道にひとすじでした(後略)」

 

とあります。

笈川家というのは、安永年間に松平家に取り立てられた中級家臣の家だそうで、弘化2年ですから俊が生まれる二年前から奥女中になりました。

時に28歳の頃でした。

松平忠固が大阪城代になったのが弘化2年(1845)ですから重なります。

もしかしたら忠固の大坂行きに随行したのかも知れません。

いずれにせよ、俊姫が生まれてより養育係を任されました。

 

俊が直虎と結婚した後も、南八丁堀の須坂藩上屋敷から俊の使いとして何度か上田藩江戸屋敷に足を運んでいる記録もあるそうで、俊と生活を共にした息づかいが聞こえて来そうです。

 

きっと、自由奔放な姫様に振り回されつつも(笑)、どこかで我が娘のように愛おしく感じていたのではないでしょうか?

 

享年67歳──

彼女のお墓は、今も東京谷中にある俊の墓標の前に佇んでいるといいます。

御付き女中松野は、自分が生まれた国のひとりの御姫様に、その尊い一生涯を捧げたのですね。

 

そんな健気な女性の生き方もあるものかと、筆者は感慨を禁じ得ません。

 

 

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