小説・堀直虎 燎原が叒


column-12 采薇

 

教育に力を入れた須坂藩

2020年5月23日

 

江戸の中期以降、だいたいどこの藩も独自の藩校という学問所(学校)を持っていました。

有名どこを挙げれば、会津藩の日新館、長州藩の明倫館、熊本藩の時習館、薩摩藩の造士館などありますが、須坂藩にも立成館という藩校がありました。

 

立成館間取り

天明年間(1781~1789)に創設されたそれは、最初「教倫舎」と称し朱子学を教えていましたが、文化年間(1804~1818)に亀田鵬斎(ぼうさい)の弟子を招いて儒学を教えるようになって「立成館」と改称しました。

当初、教倫舎と立成館は併設されていましたが、直虎が藩主になってから立成館に統一され、そのいきさつは小説でも書いたので略します。

 

文久三年の十月に、直虎が出した触れがあるので記しておきましょう。

 

『文武両道は一も欠くべからざる事は、従前より度々仰せ出され候趣もこれあり候処、近来往々遊惰(ゆうだ)に流れ候者、これあるやに相聞け、もっての外の事に候、士たる者学ばざれば道を知らず、道を知らざれば庶人に劣れり、爾今(じこん)、文は論語一部を読み得ざる者、武は炮術操練を為(な)さざる者は、取調の上其身分に応じ減禄仰せ付けられ候儀もこれあり候間、この旨洩れなく御家中へ触示これあるべき事(後略)(『須坂市史』より引用)』

 

やっぱり直虎はかなりお堅いお殿様であったことが伺えます。

 

ちなみに立成館の間取り図があったのでこれも引用画像として掲載させていただきます。

 

立成館の場所
立成館のあった場所

さて、この立成館がどこにあったのか? 地元住民なら興味のあるところでしょう。

須坂市史には「字中町374番の地にあり」とあり、googleマップで調べてみますと八十二銀行の辺りを教えてくれます。

ところが文政10年(1827)の須坂の地図を見つけたので、よくよく目を凝らして探してみると、そことは違う場所に「学問所」の文字を筆者は見つけてしまったのです。

やらなきゃいいのに、ついつい現在の地図と重ね合わせてみたくなってしまうのは、人が本然的に持っている探求心でしょうか。

※二枚目のgifアニメーション画像

 

須坂市史の編さん者にはたいへん申し訳ないのですが、若干のズレがあるようです。

おそらく最古の資料にはそう記されていたか、昔の住所と今の住所は違うのか?

 

それにしてもNHKのブラタモリではありませんが、江戸時代の道が今もそのまま残っていることに感動です!

今度ゆっくり歩いてみよう。(笑)

 

 

須坂藩御用達の田中家

2020年5月30日

 

12代直武が食べた料理
12代藩主直武が食べた
「松茸尽くしの料理」

今回は須坂藩の豪商、田中家について触れさせていただきました。

地元にいると案外そのすごさを知らないもので、以前、東京のある大学の歴史の教授とお話する機会があり、筆者が須坂市の出身であることを伝えると、

「田中本家のあるところですね」

と、すかさず答えが返ってきたことに驚いたことがあります。

「そんなに有名なんですか?」

と問うと、

「あそこには江戸時代から残る、歴史学者にはたまらない品がたくさんあるのですよ!」

と教えてくれました。

まさに「灯台下暗し」とはこのことです。

 

須坂新聞に「采薇」の章が掲載されるにあたり、間違いがあってはいけないと思い、田中本家様を訪れたのは今から1年くらい前のことでした。

当時、数か月後くらいには掲載されるだろうと思っていたところが、延びに延びて本日になってしまったというわけです。(この調子だと完結するまでに20年かかってしまう!笑)

あのときご対応いただいたのが田中本家12代新十郎様。

ご親切に博物館内をご案内していただいたことを昨日のことのように思い出します。

 

直虎が藩主だった頃の当主は田中新十郎信秀、通称田中主水(もんど)といって、藩では勘定方を勤める田中本家の5代目になります。

実は、その次に当主となる人物の名前があやふやで、その確認を兼ねての訪問でした。

 

というのはその人物、直虎と同年代であることを知ったからでした。

 

その名、信敏(のぶとし)──

 

彼は幕末も幕末、慶応2年だか3年に(←うろ覚え)田中家6代目当主になりますが、明治を迎え、どのくらいも経たないうちに家督を次に譲りました。

実は明治3年(1870)に須坂騒動という農民一揆が発生し、12代新十郎様はそれが原因ではないかと推察していましたが、幕末を経て明治の初頭は戊辰戦争しかり、全国的に相当の動乱だったことが伺えます。

 

お品書き
おしながき

博物館内に、直虎の前の藩主直武が田中家で接待された時の復元した料理の写真展示があったので、許可を得て撮影させていただきました。

松茸尽くしの料理だそうです。(上の写真)

ついでにお品書きも添えておきましょう。

海のない信州で鯛のお刺身や海老ですか!

鳴門鶏卵? こちらは徳島からお取り寄せ!?

まだ列車も走っていない幕末にっ!

それともぐるぐる巻きの食べ物は総じて“鳴門”と呼んだのでしょうか?

いずれにせよ直武さんもさぞご満悦だったことでしょう。(笑)

 

コロナ対策をして、皆さんもぜひ「豪商の館 田中本家博物館」にお出かけしてみてはいかがですか? 一番いい季節ですよ♪

 

 

直虎、立成館にひょっこり

2020年6月6日

 

改正全国書画一覧
改正全国書画一覧

大日本書画価額表
大日本書画価額表

須坂に住んでいれば「中島淡水」の名前は一度くらいは聞いたことがあるかも知れません。

ところが「何をした人?」と問われると、答えられる人はあまりいないかも知れません。

今回は、立成館の教授としてちょっとだけ物語に登場してきた彼のお話しです。

 

実は中島淡水といえば須坂が生んだ書家として高名な人物です。

どれくらい有名かというと、明治25年に印刷された『改正全国書画一覧』の「書家の部」最上段に記載されるほど。

※1枚目の画像

とはいえ筆者と同じく、現在では全国的にはほとんど無名ですね(笑)

 

当時、中島淡水の書がどれほどの値打ちがあったのか?

明治17年に印刷された『大日本書画価額表』という興味深いものを見つけましたので、有名な人物と比較してみましょう。

※2枚目の画像

上段右上にあるのが勝海舟で、1枚金9円50銭だそうです。

当時の1円は現在のいくらくらいかといえば、これまた明確な答えは出ませんが、すごくおおざっぱに明治の前半期では2万円くらいに相当するのではともいわれます。

つまり勝海舟の書1枚20万円也。

対して中島淡水は、右側三段目中ほどに名があり、1枚金1円80銭。

およそ5倍ほどの差がありますね!(さすが、勝大先生!・笑)

とはいえ全国のこうしたものに名前が出るだけでもスゴイ!

 

淡水は書家としてだけではなく、北村方義と並んで立成館の教授としても名を連ねており、書家ですから書道の先生でもしていたのでしょうか?

また、藩内ではお医者様としても活躍していたようです。

地元の偉人は地元で継承していきたいものですね。

 

 

直虎、伯夷と淑斉を語る

2020年6月27日

 

今回から紹介される史記(司馬遷)の「伯夷列伝」は、当小説の大きな伏線になってくる話です。

 

殷の紂王
殷の紂王(Wikipediaより)

時は古代中国殷時代末期、およそ500年も続いた殷王朝最後の皇帝を紂王(ちゅうおう)別称帝辛と言います。

史記に綴られる彼は酒池肉林の暴君だったとされており、その暴政は知れば知るほど恐ろしい。

およそ現代にこんな君主がいたらマスコミに袋叩きにされるでしょう(笑)

気に入らない部下がいると塩辛や干し肉にしてしまいます。

それを食べたのかな?と考えただけで何とも身震いします。

中国の書物を読んでいると、たまに人肉を食す話がけっこうあったりしますので、大陸にはそういう風土があったんですね。

妲己(だっき)という愛妾に溺れ、連日連夜宴を開いて乱交三昧。

彼女の言うことなら何でも聞き入れたと言いますから、妲己は男を惑わす相当の美人だったに違いありません。

 

歴史の表舞台にはあまり出てくることはありませんが、時代の転換点には妲己のような魔性の女性が少なからずいるのではないかと考えます。

歴史は男によって作られたもののようになっていますが、実はその背後にある女性の存在こそ見逃してはならないと思っています。

でなければ世の中に半分ずつ存在している男女の、影響し合って物事が進むといった道理が成り立たない。

西洋でいえばクレオパトラ然り、また三国志に出て来る貂蝉(ちょうせん)然り──。

男を手玉に取る美貌と才気が時代を動かしてきたのです。

 

妲己
葛飾北斎が描いた妲己(Wikipediaより)

権力と女──

これに取りつかれて国を滅ぼしたという男の話はよく聞きますね。

夢と滅亡は常に隣り合わせにあるのかもしれません。

 

次回はこの殷の紂王を滅ぼした周の武王が出てきます。

勝てば官軍負ければ賊軍と言いますが、果たして武王は暴君を滅ぼしたからといって仁君と言えるのでしょうか?

伯夷と叔斉を通して司馬遷が問い掛けた疑問は、殷王朝滅亡から約3000年以上経った今なお問われ続けてる永遠のテーマとも言えますね。

 

 

天道是か非か、伯夷と淑斉の諌言

2020年7月11日

 

小さな者が大きな者を倒す──。

大相撲でもそうだが、舞の海とか炎鵬とか、少し前でいえば寺尾とかが、大きな相手に勝った勝負には相撲ファンでなくとも興奮してしまう。

柔道家の姿三四郎は創作ではあるが、必殺の山嵐という投げ技で自分の何倍もある巨大な相撲取りを投げ飛ばす場面などは、夜を徹して胸躍らせ読みふけったものだ。

それは個人勝負の世界だけでなく、小軍が大軍を破った歴史上の戦さにおいても同じで、源義経の一ノ谷や、織田信長の桶狭間、筆者が真田をこよなく愛すのは、同じ長野県というのもあるが、昌幸・幸村父子が歴史に刻んだ、強大な徳川を相手にいくつもの勝利を挙げた知略と負けじ精神に感銘するからである。

幕末においては高杉晋作。

彼は第一次長州征討でまったく孤立したところから、たった一人で功山寺で決起し、討幕への道を切り開く。

 

周の武王
周の武王(Wikipediaより)

大が数の力で小を屈服せしむるのは当然の道理であり常識だろう。

しかし小が大を打ち砕くところには尋常ならぬ精神力があり、奇想天外な智力が働いているはずであり、それがたびたび歴史を動かす。

そこには希望があり、ロマンがあり、夢があり、筆者はここに“人間”というものを見る。

 

今回話に出て来た周の武王は、最初わずか800人の兵力で決起し、強大な殷の紂王70万に挑んだ。

これは紀元前1000年頃の出来事だから、極小が強大を打ち破った世界最古の記録ではないだろうか。

それにしてもどこに勝因があったのだろうか?

それ以前にかくも無謀な戦をしようと考えた武王の心理が分からない(笑)

赤穂浪士の討ち入りに似た感情でもあったのだろうか?

いずれにせよ武王が紂王を破ったという史実だけが残される。

殷にしてみれば負ける道理がないのに負けたということになる。

これは幕末の徳川家とまったく同じと見ゆる。

そして伯夷と叔斉が武王に諌言したように、堀直虎は最後の将軍徳川慶喜に諫言するのである。

 

この見事なまでに符合している事実こそが、小説「燎原ヶ叒」の骨格である。

 

天道是か非か──?

 

人の善悪、好い嫌いを越えて、厳然と存在する天道とは何か?

コロナ禍や天災が相次ぐ近年の地球規模の様相に、ほんの少し前まで科学万能思想に陥っていた非力な人間の力を思い知るより仕方ないのだろうか?

 

 

直虎、忠臣野平野平を得る

2020年8月1日

 

幕末の須坂藩に野平野平(のだいらやへい)という名の家臣がいます。

最初この名を知ったとき、

「これは何て読むのだ?ヤヘイヤヘイか?」

と思わず笑ってしまいました。

「なんてふざけた名だ」と呆れましたが、直虎死後、掌を返したように急変する藩論や世情に対し、「人面狗(じんめんく)」と題する痛烈な憤りを記しているのを見ると、曲がったことが大嫌いな気骨な武士であったことが知れます。

 

須坂市立博物館編さんの『激動の幕末を拓いた藩士たち』の中にこうあります。

 

「野平は文政4年(1821)に須坂に生まれ、伝手を頼って須坂藩に出仕し足軽格一人扶持に取立てられます。その後文武に励み万延元年(1860)には江戸勤番となりました。(中略)その後、御達御用、御徒士勤兼御坊主、更には御徒士組頭に登用されます。」

 

面白いのは、

 

「文久2年(1862)に、直虎より“野平(やへい)”と改名を仰付けられ、、、」

 

とあることで、このふざけた名が直虎によって命名されたというのです。

このエピソードは、クソ真面目でお堅いお殿様という直虎のイメージを一変させます。

実は冗談好きで、非常に人懐っこい一面があったことをうかがわせます。

「燎原ヶ叒」の堀直虎は、そうした性格を前面に出して描くことを心掛けています。

 

人面狗
野平野平『人面狗』

【激動の幕末を拓いた藩士たち(須坂市立博物館)】より

この後直虎は江戸に行き大番頭になりますが(文久3年9月)、野平は家族と共に随行し、祐筆として最後まで直虎に仕えました。

彼の手記にこう綴られています。

 

「貧(ひん)すれども謡らわず

賤(せん)すれども貧(むさぼ)らず

非法を否とし

理を推して不義を諌(いさ)め

勢にも憚(はば)からず

利に誘へども従わず

是(これ)武士の道たるべし」

 

維新後は須坂藩知事となった堀直明の下で行政の任務を遂行しますが、総督府の命令によって切腹させられた同僚の無念を抱きつつ、それでも生き抜いた彼の思いはいかばかりであったことでしょう。

 

 

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