江戸のベストセラーシリーズvol.2
近松門左衛門 曽根崎心中
現代語:磐城まんぢう
読みにくく難解な江戸時代の浄瑠璃を、現代人に読みやすくしました。
今も江戸の昔も変わらない人情とものの道理。
もとが面白いから面白い!
『曽根崎心中』の他
『冥途の飛脚』
『国性爺合戦』
『心中天の網島』
『女殺油地獄』収録。
※ルビを多用しているので難解な漢字もすぐ読める。
朗読漫画で紹介 曽根崎心中 ラストシーン
実にヤバイ!思わず絶句!【朗読漫画】近松門左衛門『曽根崎心中』衝撃のラストシーン
『あとがき』より(磐城まんぢう)
〈前略〉
こうした宗教的背景を知りつつ作品に与える印象を考えながら読むと、また違った意味が見えて来るのではないか。その物語が読む人間にどのような影響を与えるか、生きる糧になるのか死への誘いになるのか、近松が読み継がれる背景にある日本人の深い宿業というものとともに、宗教に対してあまりに無頓着で〝和〟というものに名を変えた正邪を問わない日本人の不寛容さを知るのである。
とはいえ三〇〇年以上も前の作品がいまだに語り継がれ、また読み継がれている事実を思う時、近松門左衛門の偉大な文化的価値を認めざるを得ないのである。
収録作品
曽根崎心中(元禄16年〈1703〉)
油屋徳兵衛との将来を祈って観音廻りをするお初。浮き名が立って天満屋の主から店の出入り禁止を言い渡された徳兵衛と、ある日生玉神社で出くわすが、彼は友だちに騙されて大きな借金を作ってしまっていた。追い詰められた徳兵衛はお初を連れて……。
冥途の飛脚(正徳元年〈1711〉)
三度飛脚屋『亀屋』の跡取り忠兵衛は、『島屋』の梅川に首ったけ。ところが中の島で巾をきかせる忠兵衛に身請けされる事を知り、嫌がる彼女を助けようと大事な客の預かり金を使い込んでしまう。すったもんだの挙句に忠兵衛は梅川の手を引いて逃げ出すが……。
国性爺合戦(正徳5年〈1715〉)
中国明朝末期、肥前国松浦郡平戸島で生まれた国性爺(鄭成功)が、清に滅ぼされようとしていた明を擁護し抵抗した史実を近松門左衛門が大胆に創作した国盗り物語。日本びいきの視点で近松の日本に対する思いや考えを知ることができる。
心中天の網島(享保5年〈1720〉)
紙屋治兵衛は妻のおさんと二人の子持ちだが紀国屋の小春に惚れて傾城通い。そんな治兵衛に兄も舅も手を焼き縁を切らせるが、天満の大尽太兵衛に身請けされた小春が死のうとしている事を知り、おさんは金を作って夫を走らせる。行く所も帰る場所もなくなった治兵衛と小春は……。
女殺油地獄(享保6年〈1721〉)
『天王寺屋』の小菊に逆上せる油屋『河内屋』与兵衛。辻向かいの同業『手島屋』の女房お吉は与兵衛の両親から「息子をなんとかしてほしい」と頼られる存在。しかし先代に忠誠を誓った父の徳兵衛とは血がつながっておらず、侍の森右衛門とは親類同士。家族の大喧嘩の末に勘当された与兵衛は……。
国性爺合戦〈冒頭抜粋〉
花々が飛び散り蝶たちはおどろいても人は歎いたり悲しんだりしない。
水辺の御殿に雲がたなびく優雅な廊はそれとは別に春を留め、朝陽に粧う千の女性たちは唇に紅を置いて眉を引き、頬に血色のよい色を交え、例え醜くも蘭の花に麝香を芳せた梅の香りを漂わせている。桃も桜も常しえの花が咲き乱れたこの南京の時代は、今その盛りの最高潮と言ってよい。
そもそも大明国十七代〝思宗烈皇帝〟というのは、〝光宗皇帝〟の第二皇子で、この血筋は代々譲位の継承を絶やさず、また乱さなかったので、その威光は四方の国々を従え、御殿の蔵は各国からの貢物や宝物で満ち、皇帝もまた歌舞遊宴に日を送っていた。だから群臣や諸侯はみな媚びを売り、競って珍物・奇観の捧げ物を献じ合い、二月の中旬だというのに夏に収穫される瓜が届けられる──これが栄華というものである。
珠玉を散りばめた美麗な高殿、金で飾った殿舎の中には皇后と妃と夫人の三人、皇帝はその下に九人の嬪(寝所に仕える女官)を持ち、更にその下には二十七人の世婦(後宮女官)を抱え、ほかにも八十一人の女御(寝所に侍す女性)がいて──国内のおよそ三千人もの美貌と見目容の良い若い女たちを欲しいままにしていた。
三千人の中でも特に寵愛を受ける〝華清夫人〟がいた。
彼女は去年の秋に懐妊してより十月十日を指折り数えながら、このとき出産に当たる月を迎えた。いまだ世継ぎの太子を得ず、齢四十に及んでいた思宗烈の喜びは一塩で、兼ねてからの天地の祈祷の験しで、
「王子の誕生は疑いない」
と聞いては、臣下たちは産殿に名珠、美玉を列ねて産衣に羅越の蜀錦を裁って悦び、「御出産は今か今か」と待ち望んだ。
中でも大司馬将軍〝呉三桂〟の妻〝柳歌君〟は、このころ安産で初子を出産したばかりで、殊「男子に乳を与えるならば」と乳付の役に抜擢され、その外にも乳母や王子専属の侍女、阿監等の役々に官女を付き添え、生まれて来る王子を掌の上の珊瑚の珠のようにかしづいた。
時に祟禎十七(一六四四)年中呂(陰暦四月)上旬の事である。
韃靼国の主〝順治大王〟が鎮護大将〝貝勒王〟と言う男を遣いに送り、『虎の皮』と『豹の皮』、そして『南海の火浣布(石綿)』と『刺支国の馬肝石』の他、辺境の島々の宝などを広大な庭に並べて謹んでこう言った。
「韃靼国と大明国は、昔から覇権を争い鉾先を交えて敵対し、隣国の好誼を違えて民を苦しめてきました。我が韃靼国は大国ですので七珍万宝には困っていませんが、美しい女がおりません。帝には華清夫人と申す隠れなき美人がいると聞き、我が大王は恋い焦れ、探く所望しております。しかれば韃靼へお贈りいただければ大王の后と仰ぎ、大明国と韃靼国はこれより唇歯の間柄となり、末長く和睦いたしましょう」
作法通りに貢ぎ物を献上した貝勒王は、后を迎えるために高揚した気持ちで参朝して思宗烈に奏上したが、帝をはじめ卿相〝雲客〟は、
「我が国と韃靼国との諸問題は今に始まったことではない! そこにきて華清夫人を后に迎えたいなどとよく言えたものだ。また争乱の種を持ち込む気か!」
と異議を延べた。