≪ 宝虫プロダクション TOPへ戻る
江戸のベストセラーシリーズ vol.2

近松門左衛門曽根崎心中

現代語訳:磐城まんぢう

難解な浄瑠璃を、現代の呼吸で。今も昔も変わらない、切ない人情とものの道理。

もとが面白いから面白い!
ペーパーバック版を購入 Kindle版を購入

収録五作品

曽根崎心中

油屋徳兵衛とお初の悲恋。騙され、追い詰められた二人が辿り着いた結末とは。

冥途の飛脚

遊女梅川のために公金を使い込んだ忠兵衛。逃避行の果てに待つ宿命の物語。

国性爺合戦

鄭成功が明朝復興のために戦う壮大な英雄譚。近松が描く異国情緒溢れる国盗り物語。

心中天の網島

義理と人情に挟まれた治兵衛とおさん、そして小春。究極の愛と葛藤を描く傑作。

女殺油地獄

放蕩息子・与兵衛が引き起こす衝撃の惨劇。リアルな人間描写が光る現代的な一作。

国性爺合戦〈冒頭抜粋〉

花々が飛び散り蝶(ちょう)たちはおどろいても人は歎いたり悲しんだりしない。

水辺の御殿(ご てん)に雲がたなびく優雅な廊(ろう)はそれとは別に春を留(とど)め、朝陽に粧(よそお)う千の女性たちは唇(くちびる)に紅(べに)を置いて眉(まゆ)を引き、頬(ほお)に血色のよい色を交え、例え醜(みに)くも蘭(らん)の花に麝香(じゃ こう)を芳(かぐわ)せた梅(うめ)の香りを漂わせている。桃も桜も常(とこ)しえの花が咲き乱れたこの南京の時代は、今その盛りの最高潮と言ってよい。

そもそも大明国(だい みん こく)十七代〝思宗烈(し そう れつ)皇帝〟というのは、〝光宗(こう そう)皇帝〟の第二皇子(おう じ)で、この血筋は代々譲位(じょう い)の継承(けい しょう)を絶やさず、また乱さなかったので、その威光は四方の国々を従え、御殿(ご てん)の蔵は各国からの貢物(こう もつ)や宝物(ほう もつ)で満ち、皇帝もまた歌舞遊宴(か ぶ ゆう えん)に日を送っていた。だから群臣(ぐん しん)や諸侯(しょ こう)はみな媚(こ)びを売り、競(きそ)って珍物(ちん ぶつ)・奇観(き かん)の捧(ささ)げ物を献(けん)じ合い、二月の中旬だというのに夏に収穫される瓜(うり)が届けられる──これが栄華というものである。

珠玉(しゅ ぎょく)を散りばめた美麗な高殿(たか どの)、金で飾った殿舎の中には皇后(こう ごう)と妃(きさき)と夫人(ふ じん)の三人、皇帝はその下に九人の嬪(ひん)(寝所に仕える女官)を持ち、更にその下には二十七人の世婦(せい ふ)(後宮女官)を抱え、ほかにも八十一人の女御(にょう ご)(寝所に侍(じ)す女性)がいて──国内のおよそ三千人もの美貌(び ぼう)と見目容(み め かたち)の良い若い女たちを欲しいままにしていた。

三千人の中でも特に寵愛(ちょう あい)を受ける〝華清夫人(か せい ふ じん)〟がいた。

彼女は去年の秋に懐妊してより十月十日を指折り数えながら、このとき出産に当たる月を迎えた。いまだ世継ぎの太子を得ず、齢(よわい)四十に及んでいた思宗烈(し そう れつ)の喜びは一塩(ひと しお)で、兼ねてからの天地の祈祷(き とう)の験(しる)しで、

「王子の誕生は疑いない」

と聞いては、臣下たちは産殿(さん でん)に名珠(めい しゅ)、美玉(び ぎょく)を列(つら)ねて産衣(うぶ ぎぬ)に羅越(ら えつ)の蜀錦(しょっ きん)を裁(た)って悦び、「御出産は今か今か」と待ち望んだ。

中でも大司馬(だい し ば)将軍〝呉(ご)三桂(さん けい)〟の妻〝柳歌君(りょう か くん)〟は、このころ安産で初子(うい ご)を出産したばかりで、殊(こと)「男子に乳を与えるならば」と乳付(ち つけ)の役に抜擢され、その外にも乳母(めのと)や王子専属の侍女、阿監(あ かん)等の役々に官女を付き添え、生まれて来る王子を掌(たなごころ)の上の珊瑚(さん ご)の珠(たま)のようにかしづいた。

時に祟禎(すう てい)十七(一六四四)年中呂(ちゅう りょ)(陰暦四月)上旬の事である。

韃靼国(だっ たん こく)の主(あるじ)〝順治大王(じゅん じ だい おう)〟が鎮護大将(ちん ご だい しょう)〝貝勒王(ばい ろく おう)〟と言う男を遣(つか)いに送り、『虎(とら)の皮』と『豹(ひょう)の皮』、そして『南海(なん かい)の火浣布(か かん ふ)(石綿)』と『刺支国(し し こく)の馬肝石(ば かん せき)』の他、辺境の島々の宝などを広大な庭に並べて謹んでこう言った。

「韃靼国と大明国は、昔から覇権(は けん)を争い鉾先(ほこ さき)を交えて敵対し、隣国(りん ごく)の好誼(こう ぎ)を違(たが)えて民を苦しめてきました。我が韃靼(だっ たん)国は大国ですので七珍(しっ ちん)万宝(ばん ぽう)には困っていませんが、美しい女がおりません。帝には華清夫人と申す隠れなき美人がいると聞き、我が大王は恋い焦れ、探く所望しております。しかれば韃靼(だっ たん)へお贈りいただければ大王の后と仰ぎ、大明国と韃靼国はこれより唇歯(しん し)の間柄となり、末長く和睦(わ ぼく)いたしましょう」

作法通りに貢ぎ物を献上した貝勒王(ばい ろく おう)は、后を迎えるために高揚した気持ちで参朝して思宗烈(し そう れつ)に奏上(そう じょう)したが、帝をはじめ卿相(けい しょう)〝雲客(うん かく)〟は、

「我が国と韃靼国との諸問題は今に始まったことではない! そこにきて華清夫人を后に迎えたいなどとよく言えたものだ。また争乱の種を持ち込む気か!」

と異議を延べた。