小説・堀直虎 燎原が叒


続・堀直虎辞世 完全解読!

 

堀直虎の辞世

 

いま書斎にて執筆中の小説の場面は、須坂に帰藩中の直虎がワラビ狩りをするところなのですが、筆者自身も早蕨(さわらび)を見つけようと思い、鎌田山のふもとにある須坂吉向焼の窯跡へ行ってみました。

残念ながらワラビが芽を出すにはまだ早かったらしく、名も知れない細かな雑草を見ただけでしたが、これがきっかけで驚くような大発見をしてしまいました。(←筆者がそう思っているだけ?笑)
「麁勺胸痛(そしゃくきょうつう)」というタイトルのついた直虎辞世の歌を完全解読できたのです!

 

【堀直虎辞世「麁勺胸痛」】
『越くれたるはる越を里とるわらびが重ねきわ越もき心やわらび山』

 

直虎辞世
直虎辞世

まるで暗号文ですね!(笑)
この辞世と伝わる歌は、意味が解からないことから、150年の間、勝海舟の直虎悩乱説の裏付けにもされてきたものです。
これについては、以前『
(堀直虎・考)解読!堀直虎辞世の歌』でも扱い、隠された直虎の本意を探ってきましたが、実際解読できたのは下の句(越もき心やわらび山)の方だけで、上の句の方はあいまいさを残したままでした。
ところが今回、上の句(上の句っていうのかなあ?)に隠された全く別の意味を解読することができたのです。

 

なぜこんなにたくさん“ワラビ”が?

 

『解読!堀直虎辞世の歌』では、直虎がこの辞世を詠むとき(旧暦の1月/新暦では2月頃)、きっかけとして今井谷の上屋敷の庭に早蕨を見つけたのではないかと想像しました。
須坂吉向焼窯跡に早蕨を見つけに行ったのも、「こんな季節にワラビなど生えているのか?」と実地検証しようとしたためですが、見つけられずに家に帰って改めて『早蕨(さわらび)』について調べた時でした。。。
「早蕨」の表面上の意味は、芽を出したばかりのワラビのことで、春の季語でもありますが、ほかにこんなことが書いてありました。
早蕨……②襲(かさね)の色目の名。表は紫、裏は青。三月着用。
襲(かさね)というのは女房装束の袿の重ね(五つ衣)のことで、色目というのは色の組み合わせのことですネ。
すっかり失われた日本文化のひとつですが、昔の絹の生地は非常に薄く、裏地の色が表に透けて見えて、独特の美しい色調が現れるのだそうです。
『早蕨色』というのはその色目の一つで、表の紫の生地に裏生地の青が透けて見える春の色なのだと言います。

早蕨色
早蕨色

それを知ったとき、筆者がずっと解読できないでいた辞世の「わらびが重ねきわ」の部分ですが、ふと、「早蕨色の襲(かさね)着は」と読むのではないかと閃いたわけです。
余談ですが、この解釈が正しければ「わらびが重ねぎ」の「が」と、小説のタイトルである「燎原ケ叒」の「ケ(が)」は同じ連体助詞で、「の」と置き換えることができます。
須坂の人は「竜が池」ですっかりお馴染みですよネ。
ちなみに「燎原ケ叒」を「燎原の叒」にしなかったのは、須坂を象徴する「臥竜山」と言葉の響きが似ていたからです。(※RyogenGaJaku(Zaku) と GaRyu(Ryo)Zan(Jan))
この「が」の字が肝だった!
そう読めた瞬間、パッと世界が広がりました。
直虎は妻である俊(しゅん)への思いを詠っている!!と──

 

俊姫様がまとう重ね着

 

季節は冬──
俊(直虎の妻)が早蕨色の襲(かさね)着を身にまとっており、その色の組み合わせの中に、わらび狩りの春を折って取ってきたような美しさと暖かさを彼女に見たに相違ないと確信したのです!(←筆者の思い込みでないと信じます・笑)
真冬にそこだけ“ポッ”と花が咲いた春を思わせる俊姫様の美しさって一体どんなでしょう?
(“ポッ”というのはワラビを折り採る時の音=俊が春風のように忽然と姿を現わす様や、それを見た直虎が“ぽっ”と頬を赤らめる様さえ連想させます。直虎はそんな細かなことまで計算していたのでしょうか?)
どこかに俊姫様の写真が残っていませんか?(上田市にお住まいで、もし手元にある方がいらしたらぜひ教えて下さい!)
このとき直虎はどんな思いで俊を見つめていたのでしょうか?
それは、辞世最初の「越くれたる」という言葉の中に隠れています。
「越くれたる」は「おくれたる」と読み、「遅(後)れる」には「後に残る。取り残される。」あるいは「先立つ」という意味もあるのです。
筆者は「はっ!」としました。
俊がひとり残されることを想定して出た言葉に違いありません。
つまり、このとき直虎は、自分が死ぬことになるであろう事を知っていたことになるのです。(大発見っ!)
この線から「麁勺胸痛」を現代かなづかいに直し、読みやすいように句読点で句切ってみました。

 

【直虎辞世現代かなづかい】

『おくれたる、春を折り取る蕨(わらび)の襲(かさね)着は、重き心や蕨山』
では、改めて一語一語の意味を見ていきましょう。(くどい?)
おくれたる……後に残される・先立つ
春を折り取る……春を折り取ったような
蕨(わらび)の襲(かさね)着は……妻の早蕨色の重ね着は(“妻”が隠れている)
重き心……心が重い
蕨山……首陽山(※『解読!堀直虎辞世の歌』参照)

 

現代語訳すると次のような感じでしょうか?

 

【堀直虎辞世現代語訳(訳:磐城まんぢう)

『私が死んでしまえば独り取り残される愛しい俊よ──。
こんな寒い日に、春を折り採ってきたような美しいお前の早蕨色の襲(かさ)ね着を見て、どうして未練を絶ち切れようか。
この切なく重い私の心は、まるで史記に出て来る首陽山で、わらびだけを食して餓死しようとしている伯夷と叔斉のようだ』

 

“蕨(わらび)”を二度も重ねて“春”を予感させながらも、それが叶わぬ身の上──
激しい時代の渦に飲み込まれながら、妻の美しさの中に束の間の春を感じさせる一縷の望み──
抒情あふれる情景(俊の姿)と史実に裏付けられた叙事(史記「伯夷列伝」)とを“蕨”を通して交錯させる中に織り込まれた愛別離苦──
まさに生と死との境で迷い苦しむ直虎の心情が見事に反映されているではないか!
勝よ聞け!
どうしてこんな素晴らしいポエムを、悩乱した人間が詠めただろうか!
そして、
叒──
この後、彼がとった行動こそ叒が成し得た術(業)ではないかと思うのです。

 

辞世を国家老に託した切ない思い

 

歌が詠まれたのは九日であることが分かりました。
9日といえば慶応4年の1月9日しかありません。
そして直虎は、この辞世を国家老の丸山次郎本政に送りました。
なぜ妻への思いを隠したこんな歌を本政に送ったのでしょうか?
タイトルの「麁勺胸痛」については『解読!堀直虎辞世の歌』の中では「なんとなく胸が痛む」と訳しましたが、「麁」は「粗」の異体字で、「粗品」というふうにへりくだった意味もありますから「たいしたことではないが少し胸が痛む」と訳した方がしっくりきますね。
直虎はそう言いつつも、書状の表書きには「令」と記すのです。
「令」とは「命ずる・言いつけ」の意ですから、その心はまさに、
「俊をよろしく頼む!」
との心の叫びを伝えようとしたのに相違ないと私は考えるのです。(これで辞世の解釈は完結です)

 

この事実から、直虎が本政にどれだけ信頼を寄せていたかが伺えますが、妻への思いを秘めた命令書を暗号文のように難解にして託すとは、イキというかまどろっこしいというか(笑)──照れくさかったこともあるのでしょうが、ひょっとしてこれも叒(日本人のDNA)?
昨年(2018年)は「忖度」という言葉が流行りましたが、この日本人特有の「察しろよ」とか「空気を読め」というのは人間関係に亀裂を生じさせる因になることもしばしばですが、逆に言えばそれは日本人の美徳であり、日本文化をより深く豊かなものにしているとは思いませんか?
ともあれ、この複雑難解に真意を隠した直虎の心境を、須坂の人の中には理解できる方もいますでしょう?(笑)

 

この5日後の1月14日、親友である土佐新田藩主山内豊福が妻と共に自刃します。
更にその3日後、直虎は将軍徳川慶喜を前にして諌死するのです。
長年五里霧中だったこの歌の中に、勝海舟が狂人呼ばわりした男とは想像もできないほど繊細で、死すべきか生くるべきかの激しい葛藤に苛まれながら、妻を思いながらも凄まじい覚悟を決っしようとする心を詠み込んでいたのですね。
こんなところから直虎の俊への深い愛情が垣間見えてきます。

 

 

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