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堀直虎・考K 解読!堀直虎辞世の歌
 これまで堀直虎について筆者なりにいくつかの角度から考察を加えてきたが、いくら考えても、どう頭をひねっても理解できない重大な事柄があった。それは直虎という人物を知る以上、おそらく誰もが気になるところのもの―――、
 堀直虎辞世の歌の意味―――である。
 言葉だけならすぐ知れる。おそらく家老丸山次郎本政に宛てた「麁勺胸痛」という見出しの歌がそれではないかとされるが、詠まれた明確な日付は分かっていない。そこには、
 『越久れたる者る越を里とるわらびが重ねきわ越もき心やわらび山』
 と書かれている。原本は変体仮名でつづられ非常に読みづらい、というより読めないので現代の読みと漢字に変換してみる。
 『遅れたる春を折り取るわらびが重ねきわ重き心やわらび山』
 こうした歌は、どこに句読点を打つかで大きく意味が変わってしまう。なにやら「遅れた春」とか、「わらび」という言葉が二回使われていたり、また「心が重い」と言っているのは分かるが、実際問題その心が全く読めない。筆者が直虎に関心を持って約二年近くを経ているが、実はその間ずっと悩まされ続けてきた難問題である。
 ある書には、これを辞世の歌とは認めているものの意味が理解できず、「乱心の兆しが見える」とまで書いている。結局、解読不能であったがために、勝海舟が言う直虎「乱心説」を助長する結果を招いてしまった元凶の一つと言える。その汚名を返上するためにも是が非でも読み解くことが、直虎を幕末の中心的立役者に仕立て上げようとする者の至上命令であるわけだ。
 この難題にペンを走らせる決意をしたのは、筆者なりにひとつの結論を見たからで、今回は直虎辞世の歌の心に迫ってみたい。

 まずタイトルにあたる「麁勺胸痛」の意味だが、「麁」とは常用漢字では「粗」と書き、「あらいこと・雑なこと・大まかなこと」を表わし、「勺」とは積の単位で、もともとは「わずか・少量」を意味しているから直訳すれば「大まかに僅か」、つまり「なんとなく胸が痛む」といったところか。そしてなぜ胸が痛むのか、その理由が辞世の歌に詠まれていることになる。
 歌の中でもっとも気になるのは「わらび」が二度出てくることだ。「わらび」といえば山菜の「蕨」しか思いつかないが、直虎がこの「わらび」に込めた思いが解らなければ歌の意味など理解できるはずもない。この“わらび”こそ解読のポイントであるとまでは見当がついたが、そこからが堂々巡りの地獄であった。
 そもそもワラビには弱い毒性があるが、その繁殖力から凶作と飢饉に備えた食料として、あく抜きをし、お浸しや漬物、あるいはわらび餅などにして食べるのが昔からの習いだが、ワラビの他の能力を探れば、ワラビの“ワラ”は“藁”から来たという説があり、城などを築城する際、干した蕨を紐の替わりにして、籠城戦の非常食として建築材料にも使用されていた。
 その他「蕨」と名の付く地名もあり、奥武蔵の蕨山や中山道の蕨宿、埼玉県の蕨市や、もしかしたら直虎が住んでいた住居周辺に同じ名の地籍があったかもしれないと、江戸の古地図を調べてみたり、あるいは「わらび」にまつわる民話や伝承など、そんな余計な雑学ばかりを身に着けながら時間ばかりが経過した。
 ところがある日、「蕨手刀」という六世紀から八世紀頃にかけて東北地方の蝦夷を中心に制作された鉄製の剣があることを知る。柄が蕨の形状をしているためそう呼ばれるが、日本刀の起源の一つともされ、平将門は茎に毛抜形の透かしを入れた蕨手刀を進化させた「毛抜形太刀」という刀を持っていた。瓢箪から駒とはこのことで、平将門からつながったのが「平家物語」であった。

 『平家物語(巻第二)教訓状』の一節、筆者がその記述を見つけたのはまったくの偶然である。
 『先づ世に四恩候ふ。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩これなり。その中にもつとも重きは朝恩なり。普天の下、王地にあらずと言ふことなし。さればかの頴川の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を折りし賢人も、勅命背き難き礼儀をば存知すとこそ承れ』
 この中の“蕨を折りし賢人”の文字が目に飛び込んだ。直虎が詠んだ“折り取るわらび”とぴったり重なったのだ。ふつう物を収穫するという意味には「採る」や「狩る」という言葉を使う。それが蕨の場合「折る」と表現するのは慣例的なものか。確かに収穫の際はポキッと折れる音に心地よさを感じるが、調べてみるとそう表現する俳句などあるにはあるがあまり一般的でない。とすると、やはり無関係であるとは断言できない。
 前半部分を訳すと、
 「世の中には四つの恩がある。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩である。その中でも最も重要なのは朝廷の恩である。天下は全て朝廷の治める地であることは言うまでもない」
 ここで「朝廷の恩」という言葉が出てくる。前回『「叒」の心』でも触れたが、「叒」の意味の中に含まれているのも日本における天皇の存在である。筆者はそれを「大和魂」と表現したが、直虎の中に「朝恩」があったことも事実だろう。
 次に「かの頴川の水に耳を洗ひ」とは、「世の穢れを聞いた耳も頴川の水で洗うと清められる」という中国古代の故事を引いたもので、司馬遷の『史記』や荘周の『荘子』にも見られる。内容が面白いので記しておこう。
 許由という賢人がいた。あるとき皇帝から「大臣になれ」と言われるが、彼は頴川という川に行き耳を洗って帰った。一方、巣父という賢人がいて、牛に水をのませようと頴川に向かったところ二人がばったり出会う。すると許由は、
 「大臣になれと聞いて耳が穢れてしまったから頴川ですすいで来たのだ」
 と言うと巣父はこう答えた。
 「ならばその水は穢れているから牛に与えるのはやめておこう」
 と。栄貴を忌み嫌うことの例えである。
 さて問題は次の『首陽山に蕨を折りし賢人』である。
 まず「首陽山」であるが、これは中国山西省の西南部に実在する山の名である。この山で何があったかが司馬遷の『史記(伯夷列伝)』の冒頭を飾る。その内容は、
 古代中国の殷王朝は、暴君と名高い紂王が治めていた国である。その末期のこと、孤竹国に伯夷と叔斉という君主の子がいた。君主は末弟の叔斉を後継に考えていたが、やがて亡くなると、長兄の伯夷は父の遺志に従い叔斉が位を継承すべきと言って国を出奔する。ところが叔斉は、長兄を差し置いて就位などできないと同じく国を出てしまい、結局二人の真ん中の子が君主になった。
 こうして伯夷と叔斉は、老人をいたわると聞く周国の文王西伯を頼って西へ向かうが、やがて西伯は没し、その後継の太子は自らを武王と称して大軍を集め、父西伯の位牌をかざして東の殷の紂王を征伐に行くと挙兵した。そのとき伯夷と叔斉は武王の馬の手綱に取り付いて、
 「亡くなられた父君を葬りもせず、しかも戦争を起こすとは“孝”といえましょうか?臣下の身で主君を討つことが“仁”といえましょうか!」
 と諌言した。しかし武王は忠告を聞かず、家来たちは刀を抜いて二人を取り囲む。そこへ文王西伯以来の軍師太公望が出てきて「これぞ義人である!」と一喝してその場は収まるが、その後武王は殷を平定し、天下の諸侯はこぞって周を朝廷と仰ぐようになった。
 ところが伯夷と叔斉はそれを恥とし、暴に暴をもって報いる武王のやり方に対し、“義”を守り周の穀物を食べる事を潔よしとはしなかった。人里はなれた首陽山に隠れ、蕨を採って命をつなぎ、そして餓えてまさに死のうとするとき『采薇の歌』を詠む。この“采薇”が“折りしわらび”のことである。
 登彼西山兮。采其薇矣。(首陽山に登り、蕨を採って暮らした)
 以暴易暴兮。不知其非矣。(武王は暴力を除くために暴力を用いたが、人はその非を知らない)
 神農虞夏忽焉沒兮。(神農、舜帝、禹王の世はもうない)
 吾適安歸矣。(私はどこへ身を寄せればよいのか)
 吁嗟徂兮。命之衰矣。(ああ、行こう。命も衰えた)
 (注釈……神農は中国神話に登場する建国の聖人三皇の一人。虞夏は舜帝と禹王のこと。舜帝は五帝最後の聖人で、禹王は三皇五帝に続く理想の統治者。)
 こうして二人は世を憂いて餓死する。司馬遷は「天道是邪非邪」、つまり「天は常に善人の味方をするとは限らない」という問いを出発点として、あの一大叙事詩『史記』の列伝をつづり始めるのである。
 平家物語の『首陽山に蕨を折りし賢人』とは伯夷と叔斉のことで、続く『勅命背き難き礼儀をば存知すとこそ承れ』とは、その二人が朝廷の命令に背いてはならないことをよくよく知っていた、と説いているわけだ。
 「采薇の歌」では蕨を採る場面を「采其薇矣」と書いているのが判る。平家物語で「折りし」と訳されているのが「采」の漢字で、もともとは「えらびとる」という意味がある。ではどこで「采」が「折る」となったかといえば、それには日本における「史記」の系譜を克明に調べなければならない。それは後の研究者に譲るとして、なにより興味をそそるのは、伯夷と叔斉の時代背景と、諫死直前の直虎が置かれた時代背景が非常によく似ている点である。つまり殷の紂王に対応するのが朝廷の名を冠した薩長軍で、周の武王に対応するのが追い詰められた将軍慶喜である。物語では周の武王が国を統治するが、直虎が自刃の覚悟を決めるその時は、世の中がどう動くか誰にも全く予測がつかなかった。
 直虎の切腹姿が描かれた錦絵「名誉新談」の注釈にこうある。
 『慶応四年一月中旬、前将軍東遁の後、主家の浮沈を憂い西城に登り、更に寝食を忘れしばしば大君に議論を起こし―――』
 “憂いて寝食を忘れ”そして“大君(慶喜)に議論を起こし”である。まさに伯夷と叔斉が“武王に諌言”し“世を憂いて餓死”した故事の内容と物の見事に一致するとは思わないだろうか。筆者には、直虎は「蕨を折りし賢人」と自分を重ねているとしか思えない。つまり歌に詠まれる『わらび山』とは『首陽山』を指していると結論付ければ、これまで直虎を取り巻いていた様々な謎が、靄が晴れていくように一気に視界がひらけていく心地がするのである。
 であるならば、まずこの歌が詠まれた期日は、直虎が諫死を遂げる直前の慶応四年、慶喜が大坂から戻り江戸城に入った一月一二日から直虎自刃の一月一七日の間のいずれかということになり(おそらく彼が自刃する数日前、親友山内豊福が切腹(一三日夜半)し、その訃報を知った一四・一五・一六日のいずれかではないかと推測する)、正真正銘の辞世の歌であることに間違いない。しかも末期に詠んだ言葉が史記の伯夷列伝からきているならば、最大の謎とされてきた直虎の将軍に対する諌言の内容まで、予想可能な範囲に照準を定めることができる。つまりキーワードとなるのは伯夷と叔斉が武王に諌言した「孝」と「仁」の二字と、二人が守った「義」の一字だ。これについては改めて考察を試みたい。
 では『遅れたる春』とはどういう意味か?
 それは文上においては「春はまだ来ない」という意味であり、文底においては次の二つの意味を潜めていると考えた。
 一つ目は、「春」とは直虎が若年寄兼外国総奉行になった栄達の道、つまり「遅れたる春」とは幕府の重臣に登用されるのが遅すぎたという意味である。もう少し早くに取り立てられていれば、このような窮地は免れたかも知れないという、己を賢人と知るところの悔しさである。
 二つ目は、「春」とは徳川家再興の先に築かれたはずの天皇中心、徳川家主導の理想国家である。「遅れたる」とはその道を築く手段が尽きてしまったことを言っている。固い友情で結ばれていた友たちも、この時となっては互いに別々の意見を激しくぶつけ合い、一人、二人と徳川家を離れて行ってしまった。心がばらばらでは成就できることも不可能となる。もはや打つ手がないという諦観だ。いずれにせよ思い通りにならないもどかしさを表現しているのではないだろうか。
 直虎は漢学のエキスパートであり、非常に聡明な頭脳の持ち主だった。だから史記伯夷列伝第一の伯夷・叔斉の故事を知らなかったはずがないし、その時代背景の類似性にもきっと気付いていたはずだ。もし自分が伯夷や叔斉だったならばと必ず考えていたはずである。ただ、膨大な量の中国故事の中からこの特定の故事を閃くには、縁となる、直虎の身の回りで起こったそれ相応の出来事があったはずである。

 ―――慶喜が大坂から戻り江戸城に入ってからというもの、城内は喧々囂々、戦々恐々とした緊張感が充満していた。直虎は何度か将軍のいる西の丸に登って面会を求め、議論を持ちかけようと試みたが、目通りが叶うことはなかった。
 山内豊福の訃報を知り、須坂藩江戸上屋敷で静かに思索に耽る彼は、火鉢の炎を見るともなしに、ここ数日なんとなく息苦しいような胸の痛みに耐えながら食事も喉を通らない。その息苦しさから障子を開くと寒気がいちどきに室内に流れ込んだ。ぶるっとひとつ武者震いをした彼の視線の先、ふと、寒々とした殺風景な庭に積もった雪の間から萌える、季節はずれの蕨が光っているのを見つけた。
 「ほう、わらびか……」
 思わず草履を履いて外に出れば、蕨はそこかしこに生えていた。彼はドングリを拾い集める童子のように、雪の中から凛と伸びた青々した蕨を折り取り手の中に重ねていった。
 「そうじゃ。確か史記の中に“采薇の歌”があったなあ……。ひとつわしもあの二人の仲間に寄してもらおうか……」

 おくれたる春を 折りとる蕨が重ねきわ 重き心や采薇山

 この蕨が冬蕨なのか早蕨なのかは分からない。冬蕨ならば遅すぎるし早蕨ならば早すぎる旧暦睦月。いずれにしても季節はずれの蕨である。それは江戸から明治への移り変わりの中に芽吹いた、混乱の時代を生きた人間群像の象徴でもある。
 直虎が詠んだ辞世の歌を、筆者は次のように読み返してみた。
 『遅すぎる春はもう訪れることはないだろう。季節はずれの蕨を折り取り手の中に重ねていけば、首陽山で死んでいった伯夷と叔斉のように心が重い。新しい時代へのけじめをつけねばなるまい』
 この歌には乱心の兆しなど微塵もない。深く世を憂いた一人の男の、熱き思いが秘められているのである。