> (一)(じゃく)(ほむら)
(一)(じゃく)(ほむら)
 幕末の混沌期(こん とん き)燎原(りょう げん)に例えるなら、彼はそこに屹立(きつ りつ)する一本の桜である。
 「桜」のことを彼は「(じゃく)」と呼んだ。中国では「扶桑(ふ そう)」の木をそう呼び、総じて日本の代名詞として古くより用いられてきたが、嘉永(か えい)六年(一八五三)のペリー来航以来、否応(いや おう)なしに世界を意識せざるを得なくなった極東(きょく とう)日出(ひ い)ずる国の住人としては、地球という星における秀気(しゅう き)の集まる場所に生ずるその花を「叒」と呼ばずにはおれない。
 彼は、父に序文を書くよう言われた『花譜』というサクラの系譜集に描かれた山桜と、庭に満開と咲く桜花(おう か)の実物とを見比べながら、うっとりとその美しさに見惚(み ほ)れた。時を尋ねれば文久元年(一八六一)三月のことである。
 「良山(りょう ざん)様、剣術の稽古(けい こ)の時間ですぞ」
 声をかけたのは三十前後の須坂藩では随一の直心影流(じき しん かげ りゅう)の剣豪で、名を小林要右衛門季定(こ ばやし よ う え もん すえ さだ)という。良山というのは後に須坂藩第十三代藩主となるこのとき数えで二十六歳の堀直虎(ほり なお とら)(いみな)である。良山は、桜花の一枝をもぎ取ってから「もうそんな時間か?」と言いたげな顔で、
 「剣術は気が乗らぬなぁ……」
 と、何かの許しを()うように破顔一笑(は がん いっ しょう)した。
 「その人懐(ひと なつ)っこそうな笑みにはもう(だま)されませんぞ。攘夷派(じょう い は)の連中が江戸にもうようよしているという話です。良山様とていつ井伊直弼(い い なお すけ)様のように襲撃されるか分かったものではありませんからな。剣術修業は(おこた)らない方がよろしい」
 江戸城桜田門前で時の大老(たい ろう)井伊直弼が暗殺されたのはちょうど一年ほど前の出来事だった。ペリー来航にはじまった空前の激動期の幕開けは、日米和親条約(にち べい わ しん じょう やく)により鎖国(さ こく)が解かれ、日本に不利な日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)締結(てい けつ)から攘夷思想が熟成(じゅく せい)し、あわせて将軍継承(けい しょう)問題による幕府内勢力争いによる政治不信、それらに対して安政(あん せい)大獄(たい ごく)と呼ばれる反政府思想を持つ者達が恐怖政治の犠牲となった挙句(あげ く)に大老が殺害され、こののち収拾のつかない事態へと発展していく。その象徴として、安政の大獄により年号が安政から万延(まん えん)に、国内の混乱による危機感からわずか一年にも満たない間で万延から文久にと改元された。要右衛門はその不穏(ふ おん)な世の中のことを言っている。しかしあまり真顔(ま がお)で言うので、良山はさもおかしそうに声を挙げて笑った。
 「たかだか一万石の弱小大名の、しかも何の影響力もない堀家の五男坊(ご なん ぼう)を襲うもの好きな攘夷論者などおるものか。もしそんな奴がいたら会ってみたいものだ。わし一人死んだところで天下が動くわけでもあるまい。せいぜい瓦版(かわら ばん)のネタにされてイイ人だったねぇ≠ニ同情されて(しま)いじゃ」
 「またそんな御冗談(ご じょう だん)を! 攘夷の連中だけではありませんぞ。いまやメリケン国をはじめ我が国は列強諸国に囲まれているのです。もし彼らが攻めて来たらどうなさるおつもりですか?」
 「要右衛門はいつから攘夷派になったのだ? そうなったら君はその自慢の剣術で戦うつもりかい? 向こうは片手で握れるピストールとかいう火縄銃(ひ なわ じゅう)の何倍も優れた武器を持っているそうじゃないか。飛び道具を相手に刀で戦うとは勇敢(ゆう かん)、勇敢──その時はわしの護衛を頼むぞ」
 良山は笑いながら手にした桜花を『花譜』に描かれたそれと重ねて「我ながらなかなかよく描けておる」と(つぶや)いた。要右衛門は(あき)れ顔で、
 「それは御隠居様(ご いん きょ さま)がまとめられた桜図鑑(さくら ず かん)の写本ですな?」
 良山の手にする書物を見て言った。御隠居とは良山の父、第十一代須坂藩主を務めた堀直格(ほり なお ただ)のことだが、今はその長男で良山の兄にあたる直武(なお たけ)が十二代藩主を務めているので、須坂藩江戸藩邸下屋敷(しも や しき)悠々自適(ゆう ゆう じ てき)な生活を送っている。
 「父上にこの本の序文(じょ ぶん)を書くよう頼まれてのう……はてさて、どうしたものかと悩んでいたところだ」
 「御隠居様の道楽(どう らく)のお供もよろしいが、ずいぶんと悠長(ゆう ちょう)なことですなぁ。韓詩(かん し)余暇(よ か)に写本していると聞きましたが、それにしては大層(たい そう)な手の入れようではありませんか」
 要右衛門は皮肉(ひ にく)の苦笑いを浮かべた。
 「お前はこの桜を見てどう思う?」
 「そうですなあ? 花見をしながら酒でも飲みたいものです」
 「それだけか?」
 要右衛門は「はぁ」と言ったまま黙り込んだ。
 「お前は何年直心影流の修行をしておる?」
 「剣術の方は物心ついた頃には剣を握っておりましたので、かれこれ三十年近く──」
 良山は「三十年修行してその程度か」と言いたそうに、
 「その刀を抜いて見せてみよ」
 と言った。要右衛門は言われるまま刀を(さや)から引き抜いた。
 「その日本刀を見てどう思う?」
 「はぁ」と要右衛門はまた(つぶや)いて、刃渡りをじっと見つめ(しばら)く考えてから、
 「少し手入れが(とどこお)っていたかと──」
 良山はまた声を挙げて笑った。それにしてもよく笑う人である。(こと)()げな質問をしておいて(けむ)に巻いたかと思えば、自らは高みから全てを見通しているかのふうにおろおろする様子を楽しんでいるようでもあり、剣術一本で成長してきた単純な要右衛門などはいつもよい標的なのだ。その意見が良山の意にそぐわないことを察した彼は、
 「刀は人を()るための武器ですが、拙者(せっ しゃ)はできれば人を斬りたくはありません」
 と言い改めた。
 「それだけか?」
 良山はまた笑う。
 「なにが可笑(お か)しいのでございます? 拙者には若様の笑いのツボがいまだに理解できません」
 「すまんすまん、答えが普通過ぎて面白(おも しろ)い。わしはこの桜や日本刀を見ると、奥に潜んでいる日本人の(さが)≠ニいうものを感じる──世の中は開国≠カゃ攘夷≠カゃ、あるいは尊王(そん のう)≠カゃと騒いでいるが、結局どこまでいっても日本人≠ゥらは離れられん。その本性とは何か──列強諸国を相手にするといっても、日本人が日本人たる心を失った時、日本はそれらの国の属国(ぞっ こく)となってしまうのであろうなと思ってしまう」
 「なんだか難しくてよく解りません。それより剣術の稽古(けい こ)に参りましょう、遅刻(ち こく)ですぞ」
 「そうだ!」
 と良山は突然手を(たた)いた。
 「なんでございます?」
 「(じゃく)≠カゃ! この系譜図の題号は叒譜(じゃく ふ)≠ェ良い!」
 「ジャ、ジャク……?ジャク≠ニは何でございます?」
 「(わか)る者に解ればよい──」
 ひとしきりの風に散る桜花の中、要右衛門は呆れた表情で良山を見つめた。

 直心影流(じき しん かげ りゅう)の島田派剣術道場は浅草(あさ くさ)新堀にある。須坂藩邸下屋敷の在する深川本所亀戸(ふか がわ ほん しょ かめ いど)からは隅田川(すみ だ がわ)に架かる吾妻橋(あが つま ばし)を渡って歩いて半時もかからないほどの距離で、もともとは男谷精一郎(おとこ だに せい いち ろう)の高弟、幕末の三剣士にも数えられる島田虎之助(しま だ とら の すけ)により開かれた道場だが、三十九歳の若さで(ぼっ)してからは兄の島田小太郎が師範(し はん)を務めていた。
 いつもなら木剣(ぼっ けん)と木剣とが激しくぶつかり合う音と甲高(かん だか)い掛け声が絶え間なく路地にまで響いてくるのに、この日はなぜか道場敷地内はシンと静まり返り、そのかわりに時々大きな笑い声が聞こえた。稽古の時間に遅れた良山と要右衛門は、顔を見合わせそろそろと道場内へ入っていくと、門人たちに囲まれて、何やら楽しそうに異国の見聞(けん ぶん)を講義する三十代半ばのやせ型の男の姿があった。
 「むこうの女子(おな ご)はレデーっちゅってな、スカートっちゅうひらひらの(ころも)を腰に巻いておるんじゃ。そりゃお前さん風が吹けばふわぁってなもんで、こっちの方が恥ずかしくなっちまうぜ」
 「で、(かつ)先生はその中身を見たんですかい?」
 「それが見えそうで見えないのが不思議だね。おいらなんか腰をこうして曲げて(のぞ)き込もうとしたんだけどさ、それでも見えない。挙句(あげ く)に案内の役人が『お金でも落ちてますか?』だとさ。言い訳するにも言葉が通じねえから困ったもんだ。そういう時は(おけ)(OK)=A『桶、桶、桶』と()り返し言えばなんとかなるよ」
 道場内は笑いに包まれた。
 「英語なんて案外簡単なものさ。時間を聞く時は()った(いも)(What time)=Aいくらかと値段を聞く時はブリでもカンパチでもなくハマチ(How much)≠カゃ。あと、そこに座って下さいというのは知らんぷり(Sit down please)≠チてえばたいてい話しが通じる」
 道場内は再び大爆笑。良山と要右衛門は道場の後方に座って近くの門人に「誰ですか?」と尋ねれば、「昨年、咸臨丸(かん りん まる)でメリケンに渡った勝海舟(かつ かい しゅう)先生だ」と教えられた。勝海舟も直心影流島田虎之助の門弟であり、そもそも直心影流の男谷精一郎とは義理の従兄弟(い と こ)関係になる。たまたま挨拶(あい さつ)がてら道場に顔を見せたところ「ぜひメリケン国の話を聞かせてほしい」ということになり、今日の稽古は海外見聞講演会になってしまったらしい。
 「あれが勝海舟か……」
 良山はまじまじとひと回りほど年上のその屈託(くっ たく)ない顔を見つめた。
 日米修好通商条約の批准書(ひ じゅん しょ)交換のため、幕府の米国使節団を乗せたポーハタン号が浦賀(うら が)からワシントンへ向かったのが昨年一月のことだった。その護衛として一緒に出航したのが勝海舟や福沢諭吉(ふく ざわ ゆ きち)らを乗せた咸臨丸で、一行は日本軍艦としては初めて太平洋を横断し、サンフランシスコで使節団の到着を見届けた後、ホノルル経由で一足先に浦賀に戻った。使節団が帰国したのは同年九月のことだが、いよいよ世界を相手に動き出した日本の動向に、良山は()(たて)もたまらず兄の藩主直武にオランダ式の軍備を取り入れ整えるべきとした『警備策(けい び さく)』と題する進言をしたのはそれから間もなくのことだった。あのときは又聞(また ぎ)きの海外事情に危機感を(つの)らせ、蘭学(らん がく)に基づいたオランダ式を藩に取り入れようとしたが、その内容は今から思えば(あせ)りばかりが先走る稚拙(ち せつ)な内容で、とても西洋に対する恐怖心はぬぐえなかった。ところが、孫子(そん し)兵法(へい ほう)を改めて読み返したとき、西洋人も同じ人間ではないかと気付く。

 知彼知己者百戦不殆。不知彼而知己一勝一負。不知彼不知己毎戦必殆。
 (()れを知りて(おのれ)を知れば百戦して(あや)うからず。彼れを知らずして己を知れば一勝一負す。彼れを知らず己を知らざれば戦う(ごと)に必ず(あやう)し。)

 「何を恐れる。西洋の文明とやらを知って己を知れば恐れるに足りん──」
 そう思い極めると気持ちが軽やかになり、勝の話はそんな良山の身体(からだ)にしみ込むように入って来た。その内容を要約すれば、彼がアメリカで驚愕(きょう がく)の視線を向けて来たものは、科学技術よりむしろ社会制度の方だった。民主主義や資本主義や自由主義はそれまでの日本にはない概念(がい ねん)で、それをもって「徳川幕府は百年遅れている」と平然と言い放つ。無論(む ろん)彼自身は直心影流免許皆伝(めん きょ かい でん)の腕前であるし(ぜん)にも傾倒(けい とう)していた時期もある。ある意味日本の精神風土を知った上での発言であるから「そんなものか」と聞き流すこともできたが、日本の何千年にもわたる長い歴史を()まえてそれらの概念が(つちか)われなかった事実を考えたとき、それらは日本人には不向きな思想なのではないかとも思えた。
 一連の講演を終えて「何か聞きたいことはあるかな?」と勝が言ったので、良山はすくっと立ち上がった。
 「まっこと面白(おも しろ)い講義でありました」
 勝はその愛嬌(あい きょう)のある表情を見つめて「君は?」と問うた。
 「私、信州(しん しゅう)須坂藩(す ざか はん)堀家(ほり け)の五男坊で良山(りょう ざん)と申します」
 「ほう、信州か。屁理屈(へ り くつ)並べの得意な土地柄だな。わしの妹は松代藩の佐久間象山(さ く ま しょう ざん)先生のところに(とつ)いでおる。もっとも吉田松陰(よし だ しょう いん)君の密航未遂(みっ こう み すい)片棒(かた ぼう)を担いで今は蟄居中(ちっ きょ ちゅう)だが、あの先生も非常に偏屈(へん くつ)な変わり者だ。そこに好んで嫁いだ妹はもっと変わり者と言わねばならん。で、何が聞きたい?」
 「メリケン国は、もとを正せばエゲレス国からの移住民によって建国されてまだ一〇〇年にも満たない新しい国と聞きました。原住民たちの生活はどうなのか気になります。確かに民主主義、自由主義と言えば聞こえはいいが、まだ実証(じっ しょう)されたと判断するには早すぎると思います。それをそのまま日本に当てはめてよいものかと?」
 「君は国学者(こく がく しゃ)かね?」
 「いえ、漢学(かん がく)を学んでおります」
 「誰に師事(し じ)しているか?」
 「亀田鴬谷(かめ だ おう こく)先生です」
 「ああ思い出した。和魂漢才(わ こん かん さい)≠フ折衷学派(せっ ちゅう がく は)だね。要するに君は東洋思想を学んでいるわけだ。おそらくこのままおいらと話を続けても、とどのつまりは西洋と東洋の根本的相違(こん ぽん てき そう い)に行きついて平行線をたどるばかりだ。しかし一つだけ言っておこう、二十年前、その漢学の本家本元(ほん け ほん もと)、あの(ねむ)れる獅子(し し)と恐れられた清国(しん こく)が、アヘン戦争であっけなくエゲレスに負けていまや植民地同然だ。日本は今、その西洋の強大な脅威(きょう い)にさらされていることだけは紛れもない事実だ。君はどうする?」
 良山は勝の洞察力(どう さつ りょく)に驚きながら、やがて、
 「すべき事に力を尽くして、あとは天命(てん めい)に任せます」
 勝はにこっと微笑むと、
 「そこは僕と一緒だ。堀良山(ほり りょう ざん)君、君の名は覚えておくよ」
 そう言い、「他に聞きたいことは?」と聴衆(ちょう しゅう)に続けて、良山の質疑はそこで終わってしまった。
 道場からの帰り道、良山は要右衛門にぽつんと呟いた。
 「私塾(し じゅく)でも開いてみようかな?」
 要右衛門は「いま何とおっしゃいました?」と目を丸くして立ち止まった。さっそく勝海舟に感化されて、時代の変化に対応し得る人材を輩出(はい しゅつ)しようと考えたことはすぐに知れたが、道場に行く前、桜を眺めてしきりに感心していた男の発言にしては唐突(とう とつ)すぎる。しかし、当時の江戸では武士といっても家督(か とく)を継げるのは長男だけで、次男以下は部屋住(へ や ず)み≠ニか()飯喰(めし ぐ)い≠ネどと揶揄(や ゆ)され、どこか子のない家へ養子に行ける幸運でもない限り、何もしなければ仕事もなく、結婚もできないというのが普通である。現に堀家も長男の直武が家督を継いだため、(次男として生まれた繁若(しげ わか)早逝(そう せい))三男直尚(なお ひさ)旗本(はた もと)水野石見守貞勝(みず の いわ みの かみ さだ かつ)の養子となり、四男直正(なお まさ)は分地され堀譲三郎という男の養子となっており、五男坊として生まれた良山は、剣術や学問に明け暮れる日々を送っているのだ。大名とはいえ部屋住みの者は、剣術道場の師範になるか寺小屋の先生などして()扶持(ぶ ち)(かせ)ぐか、あるいは農業にいそしむか、さもなければ全てを諦観(てい かん)して遊蕩(ゆう とう)道楽(どう らく)の道に進むしかない現実があった。要右衛門にしてみればその気持ちも分からないでない。
 「私塾を開いて何を教えるというのですか?」
 「折衷学(せっ ちゅう がく)じゃ。鴬谷(おう こく)先生はわしに和魂漢才(わ こん かん さい)≠フ学問を教えてくれた。しかし今の世の中を見るに、西洋の技術や文明が怒涛(ど とう)のごとく流れ込んでいて漢才≠セけでは心もとない。ならばわしは和魂洋才(わ こん よう さい)≠ニいう新しい学派を打ち立てたいと思うが」
 勝は和魂漢才を一言で東洋思想という言葉でひとくくりにしてしまった。ならば和魂洋才とは、東洋の粋が結晶した極東日本の精神と西洋の学識を折衷した地球思想≠ニ言えまいか──直虎の心に無尽蔵の歓びがむくむくと込み上げる。
 「西洋の思想、学問を取り入れた日本人学? なるほど和魂洋才≠ニは考えましたな。ならばわざわざ私塾など開かなくとも須坂に立成館(りっ せい かん)というれっきとした藩校(はん こう)があるではございませんか。そこで教鞭(きょう べん)()られるが良い」
 「ダメじゃダメじゃ。北村方義(きた むら ほう ぎ)君が江戸にまで遊学(ゆう がく)して、せっかく漢学を身に就けて帰っていったというのに、立成館はいま心学(しん がく)()まれてしまっているそうな」
 北村方義は良山より二つ年上の儒学者(じゅ がく しゃ)で、つい最近まで江戸におり、良山にとっては亀田鴬谷のもとで(きそ)って学んだ学問の()きライバルであり先輩である。その才能は、
 『作る詩の清新端麗(せい しん たん れい)なる対句(つい く)韓愈(かん ゆ)(いき)に達し、(こう)ずる経書(きょう しょ)千古不変(せん こ ふ へん)大儀(たい ぎ)鄭玄(てい げん)に等しい』
 と良山自身が彼に与えた『餞別(せん べつ)の詩』の中でそう言わしめるほどで、深い尊敬の念を抱かずにおれない。
 「心学に?」
 要右衛門は意外なことのように(つぶや)いた。
 心学は藩校立成館の前身となる教倫舎で訓導されていたものである。一八二九年(文政十二年)、直格の代に亀田塾の門人菊池行蔵を儒官として招いて立成館と改称してより、須坂藩の教育は儒学が中心となったが、教倫舎の心学者たちが依然根強く残っているのだ。
 「このあいだの手紙で(なげ)いていたわい。優秀な人材なのに埋もれたままだ……」
 「それで私塾開設というわけですか──といっても良山様は漢学においては学者級ですが、洋学を勉強する姿など見たことがありません。いまさら蘭学を学ぶおつもりですか」
 「今の蘭学(らん がく)は日本人の解釈(かい しゃく)が深く入り込んでしまっている。現実問題、現在日本を取り巻いているのはオランダではなくメリケン、エゲレス、ロシア、フランセ……その内、今後力を伸ばしてきそうなのはメリケン国だが、その民族のもとを正せばエゲレスじゃ。ペルリの黒船の煙を()動力源(どう りょく げん)もエゲレスが発明したらしい。世界の産業技術の中心はエゲレスに違いない」
 「エゲレスねぇ?」
 「誰か英学(えい がく)を教えてくれる者はおらぬかの?」
 悩んだ表情を浮かべつつ良山の顔は明るい。
 
> (二)参勤交代(さん きん こう たい)、兄の苦悩
(二)参勤交代(さん きん こう たい)、兄の苦悩
 参勤交代は江戸幕府の(もと)、藩主が一年おきに江戸と自領とを行き来しなければならない諸大名に課せられた制度である。その際、正室と世継(よ つ)ぎは絶えず江戸に常住(じょう じゅう)しなければならない幕府の人質のような役目を担ったが、側室および世継ぎ以外の子にはその義務はない。須坂藩のそれは丑年(うし どし)卯年(うさぎ どし)巳年(み どし)未年(ひつじ どし)酉年(とり どし)亥年(い どし)の六月が参府(さん ぷ)で須坂を出立しなければならず、逆に子年(ねずみ どし)寅年(とら どし)辰年(たつ どし)午年(うま どし)申年(さる どし)戌年(いぬ どし)の六月は御暇(お いとま)といって自領に戻ることになる。この年(文久元年)の干支(え と)辛酉(かのと とり)なので参府の年で、六月下旬といえば藩主直武(なお たけ)は須坂藩江戸屋敷に入っていた。
 その日、一年ぶりに父子(おや こ)兄弟水入らずで(さかずき)を交わした良山(りょう ざん)は、げっそりとやつれた兄の顔に驚いた。
 「お身体(からだ)の調子でも悪いのですか? 顔色も随分(ずい ぶん)青い気がします」
 「(つか)れたよ……」
 と、直武の最初の一言がそれだった。良山より六つ年上の彼は、御年(おん とし)数えで三十二歳の働き盛りの年代ではあるが、「疲れた」という言葉の中に、死をも予感させるような落ち込んだ生気(せい き)を感じた良山は首を傾げた。
 その場に顔を(そろ)えたのは、父の直格(なお ただ)はじめ直武、良山と、異母(い ぼ)の弟恭之進(後の直明(なお あき))である。
 「道中いかがでしたか? かなりお疲れの様子ですが」
 良山は直武の盃に酒を注ぎながら言った。
 「中山道(なか せん どう)和宮(かずのみや)降嫁(こう か)の話題で持ち切りだ。江戸でもそうとう盛り上がっているんだろうな?」
 「盛り上がっているというか何というか」と、良山は弟の恭之進と顔を見合わせた。
 第十四代将軍徳川家茂(とく がわ いえ もち)御台所(み だい どころ)として皇女(こう じょ)和宮の降嫁が決ったのは昨年十月のことである。ペリー来航により朝廷(ちょう てい)の許可を得ずに日米修好通商条約に調印(ちょう いん)開国路線(かい こく ろ せん)に踏み切った幕府と、攘夷派(じょう い は)との対立は激しさを増し、攘夷の立場をとる孝明天皇(こう めい てん のう)は、水戸藩(み と はん)をはじめとする徳川御三家(ご さん け)御三卿(ご さん きょう)などに対して戊午(ぼ ご)密勅(みっ ちょく)≠ニ呼ばれる幕政改革遂行(すい こう)の命を下す。つまり幕府に攘夷を推進(すい しん)するよう(せま)り、外様(と ざま)譜代大名(ふ だい だい みょう)らと協調して公武合体(こう ぶ がっ たい)≠実現しようとしたのである。ところがこれを陰謀(いん ぼう)と見た大老(たい ろう)井伊直弼(い い なお すけ)は安政の大獄(たい ごく)断行(だん こう)し、その圧力を一掃(いっ そう)しようとしたが、怒りを買った直弼は暗殺され、両者の対立はますます深まった。しかしここにきて混乱する国論(こく ろん)を統一せざるを得なくなった幕府と朝廷は、時の将軍家茂(いえ もち)と皇女和宮(かずのみや)のご成婚という形を世に示し、公武合体を実現しようとしたわけである。いわば家茂も和宮もその犠牲者と言えるが、そんな思惑(おも わく)とは裏腹に、時の政治に対して庶民(しょ みん)たちは面白(おも しろ)おかしく醜聞(しゅう ぶん)を振りまくものだと、良山は苦笑いを浮かべて江戸の様子を伝える。
 「公家(こう け)久我(く が)様が幕府から賄賂(わい ろ)を受け取り、天皇を(だま)して嫁入(よめ い)りを決めたと(もっぱ)ら騒いでいます。つまり和宮様は幕府の人質だと」
 「江戸の庶民は幕府より天皇の味方というわけじゃ。しかし(たみ)の言うことなどいちいち気にしていたのでは政治などできんわい」
 直格の口調は「それが世の道理だ」と言わんばかり。それにしても口数の少ない直武の様子が気になった。
 「兄上、どうなさいました? 先ほどから元気がないように見えますが」
 すると直武は力なく笑った。
 「旅費を捻出(ねん しゅつ)するだけでも大変な苦労さ。藩の財政は火の車、おれが藩主になってからますます悪化している。領民からは惣領(そう りょう)甚六(じん ろく)≠ネどと陰口(かげ ぐち)され、すっかり自信をなくしたよ……」
 須坂藩の財政難は深刻な問題だった。直武が家督を継いでより、翌弘化三年(一八四六)の江戸の大火で、南八丁堀の上屋敷と駒込目白台にあった下屋敷が全焼の類焼に見舞われ、更にその翌年には善光寺大地震によって千曲川沿いの村々が大災害を被る災難続き。南八丁堀の上屋敷の再建と亀戸の下屋敷新築に加え、大坂加番などという役職を仰せつかった日には遠く現地まで赴く旅費やら何やらで出費がかさみ、あたかも大きな穴の開いた小さな樽から水がこぼれ落ちるが如くお金が流れて消えた。否──それは直武の代に始まったことでない。天保(てん ぽう)大飢饉(だい き きん)以来の作物の不作が招いた危機であり、それはまさに第十一代藩主である父堀直格の代からの負の遺産なのだ。その借財額は嘉永三年(一八五〇)の時点で四万四千両以上にのぼっており、返済の目途もたたないまま負債額は膨らみ続けている。当時どこの藩も同じような問題を抱えてはいたが、あの手この手を尽くしてみても、わずか一万石あまりの小規模な藩にとっては耐えていくにも限界が見えた。
 「このまま財政破綻(ざい せい は たん)してしまったら、須坂藩はどうすればよいのでしょう?」
 直武はため息まじりに呟いた。
 「最悪の場合、領地を幕府に返上するしかなかろうが……そんなに(きび)しいのか?」
 直格は半分他人事(ひ と ごと)のように言ったが、続けて、
 「ほれ、あれはどうした、あれは──吉向焼(きっ こう やき)
 そこにいた者は皆「またか」と思ったが、父に対してそれを口にする者はない。
 須坂吉向焼は、直格が須坂藩の財政難克服(こく ふく)のため、起死回生(き し かい せい)()けて行った藩主としての最後の事業と言えた。陶技(とう ぎ)意匠(い しょう)に優れ、諸大名にもてはやされていた吉向焼の創始者戸田治兵衛(と だ じ へ え)吉向行阿(きっ こう ぎょう あ))父子を須坂に招いて弘化二年(一八四五)、鎌田山(かま た やま)(ふもと)に信州最大級にして最先端の製陶技術(せい とう ぎ じゅつ)駆使(く し)した紅翠軒窯(こう すい けん よう)≠ニ名付けられた須坂吉向焼の巨大な登り窯を築いたのである。もっともそのとき家督は直武に譲っていたが、膨大(ぼう だい)な初期投資に加え、時代は高級陶器(こう きゅう とう き)などで呑気(のん き)に茶の湯などやっている雰囲気でなくなった。焼けば焼くだけ赤字がかさみ、わずか九年足らずで廃窯(はい よう)に追い込まれる。その後は行阿の弟子の手で日用雑器をひっそり焼いているが、隠居(いん きょ)の身となって久しい彼は、失敗の責任をすべて直武に負わせる形になったわけだ。それでもこうして顔を合わせるたびに「設備はあるのだ。もう一度挑戦してみろ」と(あきら)めが悪い。
 「父上に言われて高麗人参(こう らい にん じん)にも取り組んでみましたが、なかなかどうして栽培(さい ばい)が難しい……。杏や漆や桃にも手を伸ばしてみましたが、いまだ明るい兆しは見えません」
 直武の苦悩は想像以上で、深いため息を落とした。おそらくこのとき既に精神を病んでいたのだろう。
 「生糸(き いと)をやってみてはいかがです?」
 良山が呼吸をするように言った。
 「生糸?」
 「少し前に上田藩の松平伊賀守(まつ だいら い がの かみ)忠固(ただ かた))様がオランダやエゲレスを相手に生糸貿易を始めたという話を聞きました。上田の方では生糸商人が盛んに動いているらしいですよ」
 「面白(おも しろ)そうだが」と直武が言おうとしたとき、
 「忠固か……亡くなって今年の長月でもう二年になるか? 老中を二度も務めたのに、幕府にとっても須坂藩にとっても惜しい人物を失った」
 直格がぽつんと言った。彼にとっては財政のことより藩を取り巻く情勢の方が気になるらしい。直武は「お金の話はもうよそう」と言うように杯を飲み干した。

 文久年間の頃の須坂藩江戸藩邸上屋敷は南八丁堀にある。
 幕府の都合で敷地替えさせられることもしばしばあるが、いわゆるそこは与力や同心の組屋敷が建ち並ぶ町であり、代々の須坂藩主はおおむね呉服橋御門番(ご ふく ばし ご もん ばん)とか日比谷御門番(ひ び や ご もん ばん)などの警備職を歴任している。職種柄からすれば都合の良い場所なのである。
 翌日からさっそく登庁(と ちょう)した直武は例外にもれず江戸城警備に当たることになったが、これが大坂加番とか二条城加番、あるいは駿府城加番(すん ぷ じょう くわえ ばん)などの役目を与えられたとなれば現地にまで行かねばならないから、憔悴(しょう すい)した彼の身体を考えると免れただけで喜ばなければならない。
 当時は日曜とか土曜といった概念はないので、武士ともなれば盆と正月以外はいわゆる二十四時間体制で将軍を守らなければならない。と言えばひどく大変な仕事のように思えるが、その実質を問えば、出仕時間が朝四ツ時(十時)から午後九ツ半(十三時)までの三時間程度、門番などは交代番があるが、現代と比べれば職務の拘束時間は極端に短い。有事の時はいざ知らず、日常の時間的余裕はかなりあるので、その時間を当てて武術や学問などの自己研鑽に励み、有事に備えるのが面目である。それにつけても直武は出仕するだけでもきつそうで、上屋敷常住の江戸家老(え ど が ろう)駒澤式左衛門貞利(こま ざわ しき ざ え もん ただ とし)は、彼の様子を心配して下屋敷の直格に報告をしたほどだった。
 そして──
 十日ほど経ったある日、良山が直格に呼ばれて告げられたのは驚くべきことだった。
 「家督を継いでもらえんか?」
 良山は暫く言葉を失った。直武の妻は松平忠固(まつ だいら ただ かた)の弟に当たる西尾隠岐守忠受(にし お お きの かみ ただ さか)の養女であるが、嫡男がない。
 「承知の通り須坂藩の財政はにっちもさっちもいかん。そこへきて直武は人が良すぎる。国元の家老たちにものも言えず、好き勝手にやらせているようじゃ。それ以前にどうやら身体を(わずら)っておる。直武が血を吐くところを貞利が見たそうじゃ」
 「えっ?」と良山は小さな驚きの声を挙げた。
 「このままあいつに任せていたら、近い将来本当に須坂藩は破綻(は たん)する」
 直格の表情は深刻だった。この間の(うたげ)ではとぼけたふうを装いながら、彼は彼なりにすっかり直武の置かれた状況を見抜いていたようである。良山は突然の展開に躊躇(ちゅう ちょ)するより仕方ない。
 「こんなこともあろうかと五年前、お前を直武の養子にしておいたのじゃ。交代の日取りも決めた、霜月の六日じゃ。考える余地などない、腹を決めるだけだ」
 五年前の安政三年(一八五六)二月、何の前触れもなくその話を聞かされた良山は、父より直虎≠ニいう名を与えられていたが、あまり自分と合っていないようで馴染めず、実感が湧かないままいつしか忘れ去っていた。良山は父の抜け目なさに渋面を作り、
 「強引ですね。この前も申し上げましたが、私は私塾を開きたいのです」
 「私塾を開いて人を育てて何がしたい? 何を教えようとしてるのか知らんが、そんなもん開いてちまちま門弟に言い含めるより、藩主になれば(つる)の一声じゃ。この家に生まれた者の定めと思って(あきら)めよ。頼んだぞ」
 直格は有無を言わさず背を向けて、やりかけの日本画の画家伝記集の編纂の仕事を始めてしまった。お家にとっては何より重要な家督の話は二言三言で終えてしまって、自らの楽しみである仕事に向かう直格は根っからの文化人なのだ。
 「そういえばこの間頼んだ山桜の系譜集の方はどうなった?」
 良山はその言動に腹を立てたが、ぐっとこらえて、
 「題号を叒譜(じゃく ふ)≠ノしようと思います」
 と、静かに応えた。
 「叒譜=c…。うむ、なかなかよいな」
 良山は父の背中に一礼すると、そのまま部屋を出た。

 さて困った──。
 藩主になれと突然言われても、覚悟もなければその気もない。私塾を開いてようやく人生の道筋が見えかけたというのに、ああも強引に押し付けられたら身も(ふた)もない。直武が血を吐いたというのは当主に仕立て上げるための作り話ではないか? 兄は品行方正(ひん こう ほう せい)で知恵もあり、確かに人の良すぎるところはあるが、それが自分に替わったところで藩の状況が変わるわけでない。
 いらぬ事を考えながら下屋敷の敷地内を歩いていると、やがて家臣たちの長屋(なが や)が立ち並ぶ一角にたどり着いた。
 「なぜこんな所に来たのだ?」
 良山は自分の行動に首を傾げたが、無意識のうちに中島宇三郎(なか じま う さぶ ろう)の住居に向かっていたかと合点(が てん)がいった。幼少の頃の良山付き御近習(ご きん じゅう)で、元服(げん ぷく)して人事変更があったのでかれこれ十年くらい会っていない。もう五十路(い そ じ)を過ぎたろう、やたらと腰が低く馬鹿正直(ば か しょう じき)な上、気が良すぎるほどの善人で、当時も独り身だったが所帯(しょ たい)を持った(うわさ)は聞こえてこないのできっといまだ独身だろう。
 数えで十歳の夏だったか──
 ある夕暮れ、宇三郎の住居の前を通りかかったとき、開け放った屋内の中央に木机(き づくえ)を置き、上に乗ってなにやら黄ばんだ長い布切(ぬの き)れを一生懸命天井に()るそうとしている彼の姿を偶然見かけた。不審に思った良山は近寄り、
 「なにをしておる?」
 と声を掛ければ、驚いた宇三郎はバランスを崩して転げ落ち、腰を打って暫く痛そうにさすっていた。
 「(わか)(ぼっ)ちゃん……突然びっくりするではございませんか」
 「なにをしておると聞いておる」
 「もう夏でございましょう? 最近、()に喰われて(かゆ)くて痒くて仕方ありません。そこで蚊帳(か や)を吊るそうとしていたのでございます」
 「その黄ばんだ布切れは何じゃ?」
 「こ、これでございますか?」
 宇三郎は言いにくそうに暫くもじもじしていたが、やがて、
 「ふんどしでございます……」
 武士は食わねど高楊枝(たか よう じ)と言うほどに、ふんどしで蚊帳を吊るとは武士としてあまり格好の良い姿でない。宇三郎は顔を真っ赤に染めて、吊るしかけたふんどしをはずそうとすると、
 「はずすにはおよばぬ。そのままでよい」
 良山は無表情のまま暫く宇三郎の顔を見つめていたが、やがて、

 ふんどしで蚊帳をつりけり宇三郎

 そんな即興句(そっ きょう く)()んで何食わぬ顔で立ち去った。一応季語があるから俳句に違いないが、その滑稽さは川柳とか狂歌とか当時江戸で流行りの雑排の類いである。折に触れてそんな俳諧を詠むのを楽しみにした良山の、これが最初のそれである。
 おかげで夏の間中、宇三郎は他の家臣たちからふんどし宇三郎≠ニからかわれて過ごしたようだが、その出来事があった翌日、良山はこっそり真田紐(さな だ ひも)を届けた。これで蚊帳を吊るせというのである。ところが宇三郎はその紐を有難(あり がた)がって使おうとせず、ずっと神棚(かみ だな)に供えていたということだ。
 良山は長屋の一室で草鞋(ぞう り)を編むすっかり老いた宇三郎の姿を見つけた。
 「よう宇三郎、元気にしておるか?」
 宇三郎は仕事の手を休めて、立派に成長した良山に気付くと、みるみる双眸(そう ぼう)に輝きを取り戻し、「若お坊ちゃん!」と、しわがれた喜びの声を挙げた。彼は良山のことをいまだにそう呼んだ。
 「今日はふんどしは吊るしておらぬのか?」
 「──もうそんな季節でございますなあ」
 宇三郎は過ぐる日の冗談に乗って笑い、(わら)で散らかった部屋を片付け「いまお茶を()れます」と土間の釜戸(かま ど)で湯を沸かし始めた。
 「かまうな。ちと近くに来たもので、宇三郎がどうしているか気になって寄ったまでだ」
 「また(うれ)しいことをおっしゃいますが、そのお顔は、何かあったのでございましょ?」
 どうもこの男は(だま)せない。良山は遠くを見つめて、
 「実は父上より家督を継げと言われてのう……」
 遠い昔の思い出を辿るふうに呟いた。
 「それは、ご相談ですか? ご報告ですか?」
 「言い出したら梃子(て こ)でも動かぬ父上が申したのだ。両方じゃ」
 「それはおめでとうございます! たった今から殿≠ニ呼ばせていただきます!」
 宇三郎は自分のことのように歓声を挙げた。不思議なもので、()った瞬間、会わなかった間の(みぞ)が一瞬にして埋まる関係もあったものだ。
 「そんなにめでたいか?」
 「はい、めでとうございます。私は直武様が藩主になられた時から、若お坊ちゃん──いや、殿が藩主になれば良いのにとずっと思っておりました。もっともあのとき殿はまだ(とお)洟垂(はな た)れ小僧でしたがな」
 宇三郎は懐かしそうに笑って「むさくるしい所ですが」と屋内に招き入れた。藩主になろうとする者としては、藩が提供している長屋をむさくるしい≠ニは(しゃく)(さわ)ったが、部屋の中を四顧(し こ)してみれば、まだ築十数年ほどの建物はなるほどそう言われても仕方ない。弘化三年(一八四六)の大火で目白台の下屋敷を締め出され、ようやく見つけた亀戸の敷地内に建てられたそれは、財政難と突貫工事の代物なのだ。
 宇三郎は釜戸に(まき)をくべた。
 「わしに藩主など務まると思うか?」
 「思いますとも! たかだか一万石の小さな国の藩主など殿には役不足(やく ぶ そく)でしょう。殿はいずれ将軍様のお膝元(ひざ もと)で国を動かす仕事をなさるお方です。私は昔からそう思ってました」
 「ずいぶん大きく出たな。なぜそう思う?」
 「そりゃ御近習(ご きん じゅう)ですから。そうでも思わなきゃ、あのやんちゃな若お坊ちゃん──いや、殿の御世話などできません」
 「さような意味か。がっかりさせるな」
 「いいえ、本心ですとも! その利発(り はつ)さ、機転(き てん)の良さ、度胸(ど きょう)愛嬌(あい きょう)、人を引き込む魅力──、どれをとっても申し分ありません。こんな小さな時から殿を見て来た私が言うのです。間違いございません!」
 宇三郎の老いた瞳には涙がにじんでいた。
 思えば昔、この男を随分と困らせたものだ。家老が大切にしていた床の間の盆栽に小便をひっかけてみたり、手習いの(すみ)で掛け軸にらく書きしたり、できたばかりの屋敷の門を壊してみたり、そのたび宇三郎が間に入っていつも代わりに怒られ役を引き受けてくれた。あるときなど過ぎた悪戯(いた ずら)を見かねた彼の上役が、「お前には監督能力が全くない!」とお役御免(やく ご めん)を言い渡したこともあったが、寸でのところで父に泣きつき、「もうしませんから宇三郎をお許しください」と固く誓って許しを請うたこともある──その良山の長所も短所も知り尽くした宇三郎が、
 「でも……」
 と言いかけ言葉を止めた。
 「でも──? なんじゃ? 気になる、言え」
 宇三郎はそっと目を()らして、静かに「優しすぎます」と、彼の短所をずばりと言った。
 「なに?」
 「殿は優しすぎます。それだけが心配でございます」
 「どういうことだ?」
 「藩主になったら、家臣を(さば)かねばならない時もありましょう。そのときは鬼にならなければなりません。同情や優しさは一凶(いっ きょう)となり、時に大きな禍根(か こん)を残します。裁くべきは断じて裁く。上に立つとはそういうことでございます」
 「そう言う宇三郎は、わしを裁くことなどただの一度もなかったではないか」
 「裁かれる者の気持ちを知れば、優しい若お坊ちゃんは人を裁くことができなくなりましょう」
 「それを教えるために……?」と良山は思った。人生を懸けて自分を育ててくれた彼の心を知ったとき、今更のように胸が熱くなる。宇三郎はこの年になってようやく使命を終えたような晴れ晴れとした表情で土色(つち いろ)の顔に幾重(いく え)もの深い(しわ)を作ると、良山は涙腺を湯気で隠すように()れたての(しぶ)い番茶をすすった。
 
> (三)鴬谷(おう こく)先生
(三)鴬谷(おう こく)先生
 良山が深川の亀田鴬谷(かめ だ おう こく)が開く通称『亀田塾(かめ だ じゅく)』に通い始めたのは物心がつき始めた頃である。
 もともと亀田塾の祖亀田鵬斎(かめ だ ぼう さい)は書道の大家でもあり、妻を亡くした鵬斎(ぼう さい)が文化六年(一八〇九)、日光から佐渡の門弟のところへの傷心(しょう しん)の旅の途中、信州は北信地方を通った時に、藩や村を越えて地域の有力農民や富裕商家の文化人たちと交流したのが関わりの始まりだった。その復路(ふく ろ)(文化八年)、須坂藩の家老駒沢清泉(こま ざわ せい せん)が彼を屋敷に招き、七絃琴(しち げん きん)の演奏で歓迎した。
 それまでの須坂藩の教育は、第九代藩主堀直皓(ほり なお てる)が創設した講舎『教倫舎(きょう りん しゃ)』で教えた心学が中心だったが、郷土の中村習輔はじめ心学の中心的人物の力が弱まると、鵬斎の門人のひとり菊池行蔵を儒官として須坂に招き、併設という形で藩校『立成館(りっ せい かん)』を開設して藩の教育に儒学(じゅ がく)を取り入れるようになった。以来鵬斎(ぼう さい)の門は、一子である亀田綾瀬(かめ だ りょう らい)が後を継ぎ、更に鴬谷(おう こく)へと、須坂藩堀家では代々この亀田塾をひいきにしている。
 通う門弟といえば主に旗本(はた もと)御家人(ご け にん)の子弟たちで、亀田綾瀬(りょう らい)下総国(しもうさのくに)関宿藩(せき やど はん)教倫館(きょう りん かん)』の儒官(じゅ かん)を務めていたことから関宿藩の門人も多く、表向きは主に儒学を教えた。
 このとき鴬谷五十四歳、もとは下総(しも うさ)岡田郡(現茨城県)の出で鈴木を名乗っていたが、江戸に出て浅草の蔵前(くら まえ)で私塾を開いていた亀田綾瀬の門を叩いてからは、近くの鶯谷(うぐいす だに)に居住したことから『鴬谷(おう こく)』を名乗るようになった。
 良山が鴬谷先生を敬愛したのはその温かみのある笑顔と、あからさまに自分の過去を語るけっして偉ぶらない人柄による。亀田塾の祖鵬斎が豪放磊落(ごう ほう らい らく)な性格だったのに対し、二代目の綾瀬は「温顔(おん がん)の中、眼光(がん こう)人を()るを(おぼ)ゆ」と称される温厚篤実(おん こう とく じつ)君子(くん し)であったが、鴬谷はその二人の性格をあわせ持つような不思議な魅力があった。
 「おれが亀田塾の三代目になったのは、ぬい()れたからよ」
 とは酔ったときの口癖(くち ぐせ)で、(ぬい)とは彼の妻の名である。
 実は綾瀬には子がなかった。そこで養女を迎え入れたが、ただの書生だった鴬谷はその娘をひと目見てぞっこん惚れてしまった。その娘というのが若かりし縫である。それまで塾生の中でも特に目立ちもしない存在だった鴬谷が、以来(ぬい)と一緒になることを目標に定め、師の綾瀬(りょう らい)に認めてもらおうと俄然(が ぜん)勉学に打ち込んだのだ。
 「学問なんて所詮(しょ せん)そんなものよ。それより大事なのは(おのれ)がどうあるかだ」
 と、いつも冗談交じりに笑い飛ばすが、それが案外(まと)を射ていると感じてしまうところに、良山は強い(あこが)れと親近感を覚える。
 鴬谷(おう こく)の唱える和魂漢才(わ こん かん さい)≠ネるものは、その言葉自体は古くは平安時代中期には成立していた概念で、大和魂(やまとだましい)唐才(から ざえ)≠ニいう言い方もある。読んで字のごとく「日本の精神」をもって「中国の学識」を為すことで、中国渡来の学問や優れた思想哲学(し そう てつ がく)を実生活の中に取り入れながら、振る舞いや行動、あるいは処世術(しょ せい じゅつ)や判断は、日本固有の精神である大和魂(やまとだましい)に従おうとする考え方である。鴬谷自身「和心(わ ごころ)のない(やつ)に儒学を学ぶ資格などない」とよく言っているが、彼の言う和魂≠ニは大和魂だけにとどまらず、その生きざまと深く関係しているようだった。つまり(おのれ)≠ニいうものが入ってくる。大和魂の実在は己にあり、突き詰めるところ「己とは何ぞや」を問い、追求するところに学問・教育の意義があると結論していた。
 そんな講義を流暢(りゅう ちょう)(しゃべ)っていると、決って妻の(ぬい)が現れて塾生に茶菓子(ちゃ が し)を振る舞う。そして、
 「そう言うあなたは何者よ、ねぇ?」
 と塾生たちに賛同を求めた。すると、
 「おれか? おれはぬいに惚れた男よ」
 とのろけて、亀田塾はいつも笑いに包まれた。
 そんな気さくな妻(ぬい)も良山は大好きで、(よめ)にもらうなら彼女のような根っから明るい女性が良いと密かに思った。ちなみに二人の子である亀田雲鵬(うん ぽう)も須坂との関わりが深い。
 幼少の頃の良山は学問よりいたずらをしている方が楽しく、塾以外では勉強などしたことがなかったが、元服(げん ぷく)を迎えて浦賀のペリー来航で江戸の町が天地鳴動(てん ち めい どう)の騒ぎに包まれた時、
 「わしはこのままでいいのか?」
 と心の底から動執生疑(どう しゅう しょう ぎ)が湧き起こった。そうなったら()(たて)もたまらず、「何か事を起こさなければ!」と若い血が騒ぎ、居ても立ってもいられなくなった。数えで十八歳の夏である。
 そして翌年、日米和親条約締結(にち べい わ しん じょう やく てい けつ)のため再航した総計九隻の黒船に対し、幕府から下総の海岸防備を命じられた松代藩と一緒に、須坂藩からは藩士(はん し)四十四名がその警備に当たることになった。そこに自ら志願した良山は、浦賀沖に停船する巨大な船から、もうもうと()き上がる黒い煙を見たのだった。
 松代藩の中に(ひげ)(たくわ)えた目付きの鋭い不惑の年ほどの偉そうな男がいた。彼の存在が気になったのは、その頃はまだ珍しい望遠鏡をしきりに覗き込み、観察した黒船の絵図を紙に描き込んでいたからである。このとき軍議役を仰せつかっていた松代藩の佐久間象山という男であることはすぐに知ったが、突然観察の手を休めた彼がこう叫んだ。
 「おーぃ誰か、あそこまで泳いで異人(い じん)さんに挨拶(あい さつ)して来れる(やつ)はないか?」
 「わしが行く!」
 良山は燃える情熱に任せて象山の前に進み出ると、衣服を脱ぎ捨てふんどし一丁姿で、そのまま海に飛び込もうとした。ところがその腕を慌てて(つか)んだ象山は、
 「阿呆(あ ほう)! 冗談じゃ」
 と差し止めた。幕府に無断で外国船と接触するなど重大な罪に問われる。まして密航(みっ こう)など考えようものなら──と思うそばから、それを(くわだ)てたのが長州藩(ちょう しゅう はん)吉田松陰(よし だ しょう いん)だった。曲がりなりにも彼もまた象山の弟子であり、そのとき「あの船に乗って外国事情を学んで来たいとは思わぬか?」とそそのかしたのも象山なのである。
 「馬鹿が二人いた」
 と(あき)れつつも、内心どこかで喜んでいた象山は、幕府の取り調べを受けた時、
 「若者が外国へ学びに行こうとするのを勧めて何が悪い!」
 と突っぱねて、自国蟄居(ちっ きょ)沙汰(さ た)を言い渡されるのだ。
 象山の話はさておき、そんな出来事を通して、良山は自分がいかに無知であったかに愕然(がく ぜん)とした。彼が漢学に没頭(ぼっ とう)し始めたのはそれからである。
 『四書五経(し しょ ご きょう)』は(はな)から、『史記(し き)』や『漢書(かん しょ)』や『三国志』や『晋書(しん じょ)』などの中国の歴史書をはじめ、手に入る書物なら片っ端から集め、寝る時間も惜しんで学問に励んだ。そのすさまじさたるや、元服後に御近習となった柘植宗固(つ げ むね かた)に言わせれば、
 「若様がいつ寝ていつ起きているのか、まったくわからん」
 だった。夜が()ければ「先に寝よ」と家臣たちに気を遣い、自分はいつまでも机にむかって誰よりも遅く寝たかと思えば、朝は誰よりも早く起きて机にかじりついている。わずか唐紙(から がみ)一枚ほどで(へだ)てた隣の部屋にいながら、良山が寝ている姿を誰も見たことがないのだ。
 この柘植という男だが、その苗字の出どこを探れば伊賀国である。戦国時代はいわゆる忍びの者の血筋で、その彼にしてそう言わしめる良山は、もとより素質もあっただろうが、その成長ぶりには師の亀田鴬谷も目を丸くした。
 「もう教えることがない──」
 と(した)を巻いたので、当時西洋学の主流であった蘭学(らん がく)に手を出した。今から思えば英学(えい がく)を学べば良かったと思うが、「藩主になれ」と父に告げられた頃に至っても、開国間もない日本では肝心(かん じん)の英語の書物自体手に入らない。
 そして月日は矢のように流れ去り、藩主交代の十一月六日が近づいた。
 それにつけても父の強引さが気に入らない。宇三郎の前で素直になれたのは、幼少より跡継(あと つ)ぎ教育を無意識のうちに受けてきたからだろう、五男とはいえ心のどこかで「もしや」を感じていたからだ。世襲制(せ しゅう せい)が当たり前の国だから仕方ないかも知れないが、日本人たる(じゃく)≠フ習わしに矛盾(む じゅん)するその大きな葛藤(かっ とう)は、あるいは若さの(しる)しだった。
 そもそも須坂藩堀家の発祥を探れば戦国時代にまで遡る。豊臣秀吉の重臣堀秀政の従兄弟に当たり、堀家の家老だった奥田直政の四男直重が祖とされる。最初奥田姓だった直政はやがて堀姓を与えられ、初代堀直重は早い時期から徳川家に近づいた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで東軍について軍功を挙げ、下総国(しもうさのくに)矢作(や はぎ)に二、〇〇〇石と信濃国須坂に六、〇〇〇石の所領を与えられ、さらに慶長十九年(一六一四)からの大坂の陣でも徳川方として参戦し、そこでも功績を挙げて高井郡内に四、〇五三石を封土され一万二、〇五三石の大名となった。その後二代直升の代に下総矢作の二、〇〇〇石を弟たちに分知したため一万五十三石となって現在に至る。とはいえ豊臣政権下から派生したものだから外様大名には違いない。
 初代直重(なお しげ)∴ネ来、須坂藩堀家の当主は代々直≠フ後ろに(ます)(てる)(すけ)(ひで)(ひろ)(かた)(さと)(てる)(おき)(ただ)(たけ)≠当てて名としてきた。なのに、なぜ自分だけ獰猛(どう もう)畜生(ちく しょう)である(とら)≠ネのか? 良山は父が命名した直虎≠ニいう名からして納得していない。
 自分はもっと穏やかで、どちらかと云えばのほほんとした性格なのだ。どうせ名乗るならもっと知的で上品な方が良い。いっそ直虎≠ヘやめて、自ら考えた名で藩主になるのを条件にしようとも考えたが、肝心の佳い名が思いつかない。憤慨と迷いで揺れる良山はその夜、亀田塾の門をくぐった。
 「どうした? ()えない顔をしておるぞ。藩主がそれでは須坂藩の先が思いやられるな」
 鴬谷はいつものように彼を迎え入れた。
 「ちと、ご相談に乗っていただきたい儀がございまして……」
 「そうか、まあ中に入れ」
 誰もない亀田塾のいつもの部屋に通され師の正面に対座した良山は、「一本浸けますか?」と姿を現した縫のいつもの笑みに心和ませた。
 「急に逃げ出したくでもなったか? 顔に書いてあるぞ」
 鴬谷は全てを見抜いているかのように「お前らしくない」と笑う。
 「なんだか落ち着かないというか、自分が自分でないようで、どうもしっくりこないのです」
 すると鴬谷は少し考えて、
 「お前は何になろうとしているのか?」
 と問うた。
 「無論、藩主です」
 「それだ、それがいかん。お前はお前でないものに成ろうとして、無理やり覚悟を決めようとしておるのだろう。お前はお前にしかなれんよ」
 と、幼少の思い出話がはじまり、ふとした拍子に宇三郎のことが話題に挙がった。思い起こせばその小さかった手を引き、いつも亀田塾に連れて来たのも彼だった。
 「御近習の中島宇三郎君には相談したのかい? 彼が君のことを一番よく知っているじゃないか。最近見ないが元気にしているのかな」
 宇三郎の話が出たのはやや意外であるが、本題から離れ、別の話題で(こと)(きも)を見つけ出し、本人を納得に導こうとする鴬谷のいつもの手法であろう。
 五、六歳の頃だったか、塾の勉強に()いた良山がすぐ横にあった障子を破り始め、そのうち暴れて部屋中の障子を破ってしまったことがある。そのとき「申し訳ない!」と頭を床にこすりつけた宇三郎が、夜中まで一人で張り替えをしていたことや、年上の子と喧嘩(けん か)して怪我(け が)をさせてしまい、先方の親がひどい剣幕で塾に苦情を言いに来たときも、宇三郎がすまなそうに大きな菓子折りを持って謝りに行ったことなど、塾で起こった彼にまつわる思い出話が次々と飛び出した。そして酒を運んで来た(ぬい)が笑いながらこう言った。
 「(りょう)ちゃんの半分は宇三郎さんでできているのね」
 彼女は良山のことを親しみを込めて「良ちゃん」と呼ぶ。その笑顔を見ていると、どれほど深刻な状況に置かれていても、悩んでいること自体馬鹿げてくる。
 やがて鴬谷は話しを戻す。
 「おれはお前の師匠(し しょう)だが、お前の師匠になろうと思ってなったわけでない。お前がここに来たから師匠になったのだ。いまでさえ多くの塾生を得たが、もとをただせば綾瀬(りょう らい)先生と出逢い、(ぬい)に惚れたからこそおれがある。ぜんぶ母ちゃんのお陰さ」
 「またその話し?」と(ぬい)は呆れたようにまた笑った。
 「いいじゃねえか、ホントのことなんだから。だからおれは儒学の師匠だなんてこれっぽっちも思っていないんだ。どこまでいってもおれは綾瀬先生の弟子であるし、母ちゃんに惚れたただの男だよ。だから偉そうに背伸びする必要もなければ、見栄(み え)を張る必要もない」
 (さっ)しのいい良山は、おおよそ師の言わんとすることが理解できた。彼の説く和魂≠ニは大和魂≠フことであり、大和魂≠フ実在は己≠ノあり、己≠ニはすなわちありのまま≠ニいう意味で、そこから離れた時、人は何者にもなれないという事を教えようとしているのであろう。
 「さて良山君、いまから一つ試験問題を出そうと思うが、答えられるかな?」
 鴬谷は禅問答(ぜん もん どう)でもするような意地悪(い じ わる)(ふく)み笑いで良山を見つめた。良山はかしこまって「どうぞ」と姿勢を正した。
 「──君は何者か?」
 「私はたかだか一万石の堀家の五男坊です」
 「それだけか?」
 「亀田鴬谷先生の弟子になった男です」
 「それから?」
 良山は少し考えて、
 「父上の盆栽(ぼん さい)に小便をかけて遊んでいた男です」
 (ぬい)がプッと吹き出した。
 「そんなことをしたのか! まあよい、それから? まだあるだろう?」
 すると良山の頭の中に、幼い日の出来事が走馬灯(そう ま とう)のようによみがえった──。
 まだ三、四歳の頃だったろうか、一人で遊んでいると乳母(めのと)(とも)が「負んぶしてあげましょう」と言ってきた。若い彼女は美しく、幼かった彼の憧れだったが、()(かく)しに「オオ」と横柄(おう へい)に応えて勢いよく背中に負ぶさると、手にした手拭(て ぬぐ)いの先端を彼女の口もとに垂らして「くわえよ」と命じた。朋は言われるまま(くわ)えると、
 「やあっ! バカを釣った、バカを釣ったぞ!」
 魚釣りを()したその光景を見ていた周りの者たちはどっと笑い、良山も得意になって大喜び。朋はすっかりしょげてしまう。またある時は「この手ぬぐいをくわえて()え!」と命じた。
 「若様、ご冗談はおやめください」
 彼女は恥じらいもじもじしたが、もっと困らせてやろうと腹を立てた振りをして「無礼者(ぶ れい もの)!」と叫ぶと、彼女は仕方なく言われたとおりに腹ばいになって手拭いを銜えた。すると良山はいきなりその背にまたがり、手拭いを馬の手綱(た づな)に見立て、
 「やあっ! お(んま)じゃ、お(んま)じゃ! ハィ、ハィ、ドウ、ドウ、飛べ、飛べっ!」
 と大はしゃぎ。その遊びがたいそう楽しく、朋の(ひざ)はいつも()り切れ「痛い、痛い」と言っていた。
 なぜよりによってそんな事が思い出されたか、あの時「ごめん」の一言が(のど)まで出かかって言えなかった後悔が、今更のように良山を苦しめた。もしかするとあれが支配欲の芽生えであったか、結局その言葉を伝えられないまま彼女はどこかへ嫁いで行った。
 しょせん自分はそんな人間なのだ──。
 そう思ったとき、他人にはけっして知られたくない一番思い出したくない自分を思い出す。
 「お前は何者だ?」
 更に問い詰める師に隠し事はできない。良山は人非人(にんぴにん)(ののし)られようと白状しなければいけない良心に従った。
 「乳母(めのと)行水(ぎょう ずい)(のぞ)き見した男です」
 鴬谷と(ぬい)は顔を見合わせた。
 「(あき)れたやつだ! もうよい。そんな奴がよくぞここまで成長したものだ。これからも学問を(おこた)ることなく、お前のままでゆけばよい」
 自分らしくあれ──鴬谷先生はそう教えている。ありのまま眼前の障害に尽力し、乗り越え難きは力を付けるだけで、己を取り巻く環境などある意味どうでもよいことなのだ。私塾開設の夢が強引な父に打ち砕かれ、翻弄されて己の実在を見失っていたことに気付いた良山の煩悶(はん もん)は、俄かに嘘のように晴れ渡った。
 「わかったようだな」と柔和な笑みを浮かべた鴬谷の表情は、つい先ほどまで拷問官に見えていたものが、慈父の菩薩に変わったかに感じられた。
 「実はもう一つお願いがございます。新しい名を命名して欲しいのです。堀家は代々初代直重公(なお しげ こう)の直≠フ字を頂戴(ちょう だい)することになっておりますが、私に見合った()い名を先生から(たまわ)りたい」
 「直虎(なお とら)≠ナはないのか?」
 「どうも何から何まで父上の言いなりになっているようで癪なのです。自分らしくあるために、私に相応しい名を名乗りとうございます」
 「名など何でもよいでないか。今年の干支(え と)は何じゃ?」
 「辛酉(かのと とり)です」
 「では(とり)でよかろう。直鳥(なお とり)≠ナどうじゃ」
 その身も(ふた)もない単純な発想に、(ぬい)の方が不服(ふ ふく)そうに口を(はさ)んだ。
 「それでは鉄砲の音がしたらすぐに飛んで逃げて行ってしまいそう。藩主が真っ先に逃げそうな名前なんて可哀想(か わい そう)よ」
 「そうか?」と鴬谷は首を傾げて、
 「藩主になる日は何日だったかな?」
 「来月六日でございます」
 「十一月の六日(新暦では一八六一年十二月七日)か……その日の干支日(え と び)は何かな?」
 頭をひねった割に発想が同じことを笑いながら、縫は箪笥(たん す)の上に置いてあった(こよみ)をめくって「庚寅(かのえ とら)ね」と言った。
 「では(とら)でどうじゃ? 直虎(なお とら)≠カゃ!」
 「いいじゃない!」と縫も喜びの声を挙げたので、良山は「同じではないですか!」と反駁した。
 すると鴬谷はニヤリと笑んで「お前は父の心が分らぬか?」と諭した。
 「直虎(なお とら)≠ニ命名されたのはいつじゃ、何年の何月何日じゃ? 家に帰ってちゃんと調べてみよ。おそらく庚寅(かのえ とら)の日に違いない。(かのえ)≠ヘ五行(ご ぎょう)金行(きん ぎょう)のうち(よう)(きん)を表すから(かね)には困らん。それに鉱石や金属の原石の例えにも使われる文字だから(かた)くて荒々しい攻撃的な性質を示す。いかにも強そうじゃないか! 父はお前に勇ましくなって欲しいのだ。なよなよしていたのでは藩主など務まらん」
 良山は「はっ!」として、今更のように父の思いを知った気がした。鴬谷は続けた。
 「儒学では父親への孝≠ヘその思想の根幹とも言える。それに報いるのが子の務めというものぞ。ここはつまらぬ我≠ネど捨てて、父を立ててやってはどうか」
 この瞬間、良山の腹は完全に決まった。ここに須坂藩第十三代当主堀直虎(ほり なお とら)が誕生したのである。
 
> (四)上田藩の姫君
(四)上田藩の姫君
 良山(りょう ざん)改め直虎(なお とら)が藩主になって、最初にやったことは挨拶(あい さつ)回りである。
 大江戸の町は、京都を発った和宮(かずのみや)様がご到着されるのは今日か明日(あ す)かと落ち着かない中、(わず)か一万石の大名の藩主の誕生などに関心を示す者などない。
 向こう三軒両隣(さん げん りょう どなり)、武家屋敷が立ち並ぶ亀戸周辺を直虎は、まず須坂藩下屋敷西隣りの井上筑後守(ちく ごの かみ)下総(しも うさ)高岡藩(たか おか はん)下屋敷から本多隠岐守(い きの かみ)近江(おう み)膳所藩(ぜ ぜ はん)下屋敷へ、続いて南の旗本秋月金次郎(あき づき きん じ ろう)の屋敷に松浦豊後守(ぶん ごの かみ)平戸新田藩(ひら ど しん でん はん)下屋敷へ、須坂藩屋敷すぐ東の天神橋を渡って加藤遠江守(とおとうみのかみ)伊予大洲藩(い よ おお ず はん)下屋敷、そのほか近所付き合いのある家々を回って、江戸家老(え ど が ろう)駒澤式左衛門(こま ざわ しき ざ え もん)(ともな)ってからは、須坂藩と関係の深い諸藩の上屋敷を(まわ)ろうと、なんとも目まぐるしい日々である。これが何万石の大名であれば、向こうの方から大層な進物(しん もつ)を持って祝賀の挨拶に訪れるのだろうが、一万石の小国大名ではそうもいかない。十五日の登城の日には、運が良ければ将軍に拝謁した後、老中や御三家、御三卿などの屋敷も回る予定だ。
 将軍に拝謁といっても直武から聞いた話しでは、従五位以下の外様大名の身分では、同等の他藩の者と同列に、広い部屋の一番下座に平伏しているだけで、はるか彼方にお座りになられる将軍様など見れるわけではないと教えられた。拝謁≠ナなく見れる≠ニいうのは、下級大名にして正直な表現だったろう。
 その日式左衛門と、上田藩松平家の族親(ぞく しん)にも挨拶しておこうと馬にまたがった二人は、東部浅草茅町(かや ちょう)にある上田藩中屋敷(なか や しき)を目指した。多い時は上方も含め五つも屋敷を持っていた上田藩は、深川扇橋にも下屋敷を持っており、そこまで気を回さねばならないのは、須坂藩にとってけっしておろそかにできない藩の一つだったからだ。
 上田藩譜代五万三千石──
 石高(こく だか)からいえば格が違う両藩だが、もともと自領も地理的に近隣(きん りん)で、特にその関係を深めたのは天保(てん ぽう)大飢饉(だい き きん)以降であった。どこの藩も作物が穫れず()えに苦んでいたのは上田藩も例外でない。そんな中、隣国の松代藩が、領内からの米穀(べい こく)の流出を防ぐため『穀留(こく どめ)』政策を行う。上田藩は越後(えち ご)高田へ米を買いに行こうとしたが、それができない状況に(おちい)った。というのは、上田の地から越後へ行くには松代藩の領地を横切らなければならず、行くに行けずにほとほと困り果てた。そのとき道を開いたのが須坂藩だった。水内郡豊野(み のち ぐん とよ の)より布野(ふ の)の渡しを通して須坂藩領を経由し、仁礼村(に れ むら)より菅平(すが だいら)を通って長村(おさ むら)本原(もと はら)神科(かみ しな)の道順で輸送を可能にしたのだ。いわば須坂藩は貸しをつくる形になって、松平家という名門と石高の差による偏見(へん けん)を薄めたのである。この時の上田藩主が松平伊賀守忠固(まつ だいら い がの かみ ただ かた)で、須坂藩主は直虎の父直格(なお ただ)だった。
 その後、松平忠固は老中に抜擢(ばっ てき)された。嘉永元年(一八四八)十月のことである。そしてその五年後に起こる黒船来航事件で、彼はまさに幕内闘争の混乱の渦の中に巻き込まれていく。
 ペリーの開国要求に対し、幕内の意見は攘夷派(じょう い は)開国派(かい こく は)とに真っ二つに割れた。海防参与(かい ぼう さん よ)に任じられ水戸学(み と がく)の見地から夷敵(い てき)を打ち払うべきと主張する水戸藩徳川斉昭(とく がわ なり あき)と、文明の力をひっさげたアメリカを敵にするのは得策でないとする穏便(おん びん)、開国派である。
 開国派の中でも忠固(ただ かた)のそれは、二世紀以上続いた鎖国制度の国の住人にしてよくぞ思いついたと言うべき先進的な開国論だった。それは単なる開国でなく、「積極的に海外と交易を成すべき」とするものだったから、真逆(ま ぎゃく)の立場の徳川斉昭(なり あき)との対立が深まった。しかし事態の収拾(しゅう しゅう)(せま)られた老中首座(ろう じゅう しゅ ざ)阿部正弘(あ べ まさ ひろ)は、やがて斉昭の圧力に(くっ)し忠固を更迭(こう てつ)してしまう。
 ところが忠固はここで終わらなかった──幕内で孤立を深めた阿部正弘は、開国派の堀田正睦(ほっ た まさ よし)を老中に起用し、更には老中首座の地位まで彼に(ゆず)って間もなく在任中に死去してしまうと、老中首座になった堀田正睦(まさ よし)は、再び忠固を老中に復帰させ、日米修好通商条約締結に(のぞ)んだのだ。
 その最中に浮上してきたのが将軍後継者問題である。十三代将軍徳川家定(とく がわ いえ さだ)には嫡子(ちゃく し)がおらず、その病気が悪化したためだった。井伊直弼(い い なお すけ)南紀派(なん き は)紀州(き しゅう)藩主徳川慶福(よし とみ)(後の徳川家茂(いえ もち))を推薦し、島津斉彬(しま づ なり あきら)や徳川斉昭(なり あき)一橋派(ひとつ ばし は)一橋慶喜(ひとつ ばし よし のぶ)(後の徳川慶喜)を()して争った。その間、条約締結においては、孝明天皇(こう めい てん のう)勅許(ちょっ きょ)を得るか得ないかの問題になっていた。得てしてこの頃の日本の政治情勢に目を向けるとき、一般的に後継者問題の方に意識がいってしまうが、この後の日本の方句を決定づける海外との関係の舵取りにこそ重大な意味があったと言える。
 忠固(ただ かた)は、
 「勅許どうこうでなく、一刻も早く調印すべきだ」
 と主張した。その背景には、少しでも早くアメリカと条約を結んでしまわなければ、飛ぶ鳥の勢いでアジア諸国を植民地化(しょく みん ち か)するイギリスが、いつ日本を襲ってくるか分からないという強い危機感があった。その結果として、勅許不要(ちょっ きょ ふ よう)の立場をとらざるを得なかったのだ。
 対して要勅許(よう ちょっ きょ)を唱える堀田正睦(まさ よし)は天皇のいる京都へ向かうが、帰りを待っていられない忠固は、同じ開国派の近江彦根(おう み ひこ ね)藩主井伊直弼を大老(たい ろう)にしようと動き出す。そして勅許獲得に失敗した正睦が江戸に戻り、将軍家定に「松平春嶽(まつ だいら しゅん がく)を大老にして対処したい」(むね)を述べると、家定は「大老は井伊直弼しかいない」と発言したため、急遽(きゅう きょ)直弼を大老とする動きが強まり、安政五年(一八五八)四月二十三日、井伊直弼は大老に就任する。
 直弼(なお すけ)忠固(ただ かた)の言い分も理解できたが、勅許(ちょっ きょ)なしの条約調印には反対だった。ところがアメリカが即時調印を要求してきたため、交渉の引き延ばしも限界に達した直弼は、勅許を得られないまま六月十九日、日米修好通商条約に調印した。
 それから間もなく直弼は、無勅許調印(む ちょっ きょ ちょう いん)の責任を堀田正睦と松平忠固に(かぶ)せ、二人を老中から罷免(ひ めん)してしまう。これがいわゆる安政の大獄(たい ごく)の始まりとなった。
 そして忠固は翌年(安政六年)九月、突然四十八歳の生涯を閉じる──。その遺訓(い くん)は、
 「交易は世界の通道(つう どう)である。皇国(こう こく)の前途は交易によって栄えさせなければならない。世論(せ ろん)囂々(ごう ごう)としているが、交易の通道ができるのは道理である。皆はその方法を話し合え」
 だった。実にこの松平忠固こそ開国派の旗手であり、その中心人物だったと言わざるを得ない。直虎もそんな彼とは何度か会っており、開国の必要性を強く感じていた。
 忠固の死後、上田藩主を継いだのは当時まだ数えで十歳の子、忠礼(ただ なり)だった。あれから二年、数え二十六歳で藩主になった身の上を考える時、直虎は人の境遇(きょう ぐう)の様々なことを思う。
 上田藩中屋敷の門をくぐって馬屋(ま や)に馬を置き、直虎と式左衛門の二人は母屋(おも や)の玄関に向かって歩いていくと、そこに(あで)やかな装飾に(いろど)られた駕籠(か ご)一挺(いっ ちょう)(わき)駕籠引(か ご ひ)きの家臣らしき二人の男が(ひざまず)いている。
 「どなたかお出かけか?」
 直虎と式左衛門は顔を見合わせると、駕籠の中から、
 「えぇぃ、松野(まつ の)はまだか! お(しり)から根っこが生えてしまうっ!」
 若い女の声がした。「尻から根が生える」とは若い女性にしては(ひん)がなさすぎる。直虎と式左衛門はまた顔を見合わせて笑った。見れば、駕籠横面の物見(もの み)(すだれ)は巻き上げられており、幼さを残す十五歳くらいの美しい娘が、待ちくたびれた苛立(いら だ)ちの表情で、天井から釣り下がる体を支える(ひも)をじりじりしながら引っ張っている。その顔に見覚えがあった。松平忠固の葬儀に参列した際、喪服(も ふく)を着た親族の女衆(おんな しゅう)の中にその娘はおり、そのとき彼が目を奪われたのは、彼女の(ひとみ)からこぼれるキラリと光る(なみだ)の輝きを見たからだった。
 上田藩の姫君(ひめ ぎみ)相違(そう い)ない──。
 直虎と式左衛門はその場に(ひざまず)き、姫君に向かって頭を下げたまま、駕籠が屋敷を出るのを待った。
 ところが、母屋の中から「はーい、只今(ただ いま)っ」と声がするきり、姫君の待ち人は一向に姿を現さない。ついに(しび)れを切らせた姫君は、駕籠の(とびら)を開けて外に飛び出した。
 そのとき、(つる)が舞った──と直虎は思った。
 何がそう思わせたのかは解らなかったが、そのとき彼は確かにその光景を見た。
 その(はな)やかさといったら、着物に描かれた何羽もの真っ白な鶴が、茜色(あかね いろ)の大空に向かって舞い上がったようで、寒水仙(かん すい せん)の咲く庭に吹いた冷たいひとしきりの風は、(ほの)かな(こう)(かお)りを運んだ。
 「早くせぬか! (とり)(いち)≠ェ終わってしまうではないか!」
 「大丈夫(だい じょう ぶ)ですよ。(いち)は逃げたりしませんから」
 どうやら浅草鷲神社(おおとり じん じゃ)で毎年十一月の酉の日に行われる酉の市≠フ物見遊山(もの み ゆ さん)に出かけるところらしい。その日は神社に(まつ)られる(わし)に乗った妙見大菩薩(みょう げん だい ぼ さつ)開帳(かい ちょう)され、和宮降嫁(かずの みや こう か)の祝福ムードも(あい)まって、鷲在山長国寺(じゅ さい さん ちょう こく じ)境内(けい だい)は多くの人で(にぎ)わった。
 (ひめ)は一度母屋の中に入り込んだが、すぐに再び姿を現して、腹立たしそうに「おそい、おそい、おそい」を何度も繰り返して地団太踏(じ だん だ ふ)んだ。すると、ふと、直虎たちに気付いてこちらを見た。
 「何の用じゃ?」
 と、(てら)いもなくつつつ……と近くに寄って来たので、直虎は改めて(こうべ)()れて、
 「失礼しております。私ども須坂藩の者にて、こちらにご挨拶に伺いました」
 と伝えた。姫君は首を傾げて、
 「何の挨拶じゃ?」
 とあどけない表情で聞いた。
 「このたび須坂藩の当主となりましたので、そのご挨拶にございます」
 「須坂藩……? 聞いたことがないが、いったいどこの国の藩じゃ?」
 「信州にございます」
 「おお、信州なら知っておるぞ。行ったことはないが、わらわも信州じゃ。仲良くしてやってもよいぞ」
 姫君はそんな話はどうでもよいといったふうに「(おもて)を上げてわらわを見よ」と言った。直虎と式左衛門は戸惑いながら顔を上げると、姫君はその場でくるりとひと回りして、
 「どうじゃ?」
 と、自慢(じ まん)げに直虎を見つめた。直虎は突然の意味不明な行動に躊躇(ちゅう ちょ)しながらも、その屈託(くっ たく)のないキラキラとした瞳に見つめられて顔が赤らむのを覚えた。
 「どうじゃ、と聞いておる!」
 「どう?……と申しますと?」
 「似合うか? 先日京から帰った男どもが、わらわの誕生の祝いに()うてきてくれたのだ。西陣織(にし じん おり)じゃ」
 なんのことはない、()(もの)()めてもらいたいらしい。その関西訛りが微妙に交じる、率直(そっ ちょく)(はら)一物(いち もつ)微塵(み じん)もない様子に、直虎は「可愛(か わい)い女だ……」と思った。
 「よくお似合いにございます」
 「そうか? どこが似合う?」
 「先ほど姫様が駕籠(か ご)を出られたとき、赤く染まった夕暮れに千羽の(つる)が舞ったように見えました。その茜色(あかね いろ)の着物には鶴が描かれておりましたか。鶴は君子(くん し)()()むと申します。姫様のお優しいお心が、そのお召し物によって引き立てられているのでございましょう。それに()めの(おび)友禅(ゆう ぜん)でございますね。(あわ)い青の色彩(しき さい)が、お着物の色と対照をなしてまたお美しい。それも姫様の御見立(お み た)てでございますか? とってもよくお似合いです」
 式左衛門はよくそんな言葉が咄嗟(とっ さ)に出て来るものだと、(あき)れたように直虎の横顔を見つめた。
 「そうか、よく似合うか! その方の(かみしも)もよう似合っておるぞ。名は何と申す?」
 「堀直虎と申します」
 「直虎か、(とら)さんだな。分かった、覚えておこう」
 藩主ともあろうお方が虎さん≠ニは、式左衛門は、そのあっけらかんとした乙女に、まんまと一本とられたと心で吹いた。
 すると、母屋の玄関から四十過ぎのめかし込んだ女が「(しゅん)姫様、お待たせしました!」と言いながら出て来た。どうやらその姫の名を(しゅん)≠ニいうらしい。俊は声のした方に顔を向けると、
 「やっと出て来たか。松野、遅いぞ!」
 と叫んで、「待ちくたびれてどうかなってしまうかと思った」と、花のように笑った。直虎はその花びらに少し触れてみたくなって、
 「大丈夫でございますよ」
 と応えた。俊は不思議そうな顔をして「何がじゃ?」と聞いてきたので、
 「まだお尻から根は生えていないようでございます」
 と言って愛嬌(あい きょう)のある笑いを浮かべた。俊はムッとして直虎を(にら)み、
 「キライじゃ……名は忘れることにする」
 そう言い残して、駕籠の方へ走って行ってしまった。
 松平忠固には何人もの側室がいて九男七女の子をもうけており、そのうちの一人が俊である。子の多くは早世したが、実母はとしという名の側室で、現在の上田藩主忠礼(ただ なり)は同じ母から生まれた彼女は三つ年上の実の姉になる。老中になる以前の忠固は、大坂城代として三年の間大坂におり、その間(しゅん)は生まれた。弘化四年(一八四七)十一月十六日のことである。彼女の言葉の中に時々関西訛りが交じるのは大坂育ちの母の影響か。忠固が江戸に戻り老中に任じられてから、まだ数えで二歳だった彼女は、気っ風と人情の花の大江戸で成長したのだった。
 直虎が忠固と最後に一度会ったのは、忠固が二度目の老中に就任した頃である。父の直格(なお ただ)から「上田の忠固が佐久間象山を赦免(しゃ めん)しようと動いているようだ」と聞いて、じっとしていられなくなったのだ。当時象山は吉田松陰の密航未遂連座の罪で松代に蟄居中(ちっ きょ ちゅう)であり、本来なら死罪を言い渡されても仕方なかったところを国元蟄居という軽い罪で穏便(おん びん)に処理したのも彼であった。
 「象山先生には黒船来航の浦賀で恩がある」と言い張って、その秘密会議に身を置けば、周りには上田藩士の面々(めん めん)桜井純蔵(さくら い じゅん ぞう)恒川才八郎(つね かわ さい はち ろう)らの顔があった。
 「象山先生の赦免については八方手を尽くしているが、もう一人赦免してやりたい人物がいる。長州藩の吉田松陰(よし だ しょう いん)君だ。誰か(はぎ)に飛んでくれる者はないか?」
 そう忠固が言った。吉田松陰と言えば国禁(こっ きん)を犯そうとしたいわば直虎の中では無二(む に)の同志である。その時も、
 「わしが行く!」
 と手を挙げたが、「君は?」と問われて「須坂藩の堀良山と申します」と応えれば、「他藩に迷惑はかけれん」とあっさり却下されてしまった。結局その役割は桜井と恒川が任されたようだが、その時、
 「茶をお持ちしました」
 と(ふすま)が開き、十歳くらいの女の子が姿を現した。もしかしたらあれは(しゅん)だったかも知れないと、直虎は今更のように思い出した。
 忠固が逝去(せい きょ)したとき彼女は数え十三歳の少女だった。その死は暫く公表されずにいたが、やがて病死と発表されて葬儀が終わった。江戸の町では攘夷派の手にかかったのだとの(うわさ)もたったが、おそらく彼女はその真相を知っているのだろうと直虎は思う。いずれにせよまだ年端(とし は)もいかない少女にとっては衝撃的な出来事だったに相違なく、つい昨日まで一緒に遊んでいた幼い弟がいきなり藩主に(まつ)り上げられたのだから、その大きな生活の変化は、わずか二年という歳月の中で彼女を気丈(き じょう)乙女(おと め)に変えたことだろう。
 駕籠(か ご)(わき)に立った松野と呼ばれた女は直虎たちの方を見てお辞儀(じ ぎ)し、
 「誰でございます?」
 と俊に尋ねた。
 「知らない、忘れたあんな(ひと)──それより、いったい何をしていたのじゃ? 遅すぎるではないか」
 「俊姫様(しゅん ひめ さま)だけ左様(さ よう)()で立ちでは()り合いがとれません。私もちょっとおめかしを」
 「()殿方(との がた)でも見つけるつもりであろう?」
 「まあ、はしたない! 上田藩の姫様の御付女中(お つき じょ ちゅう)がみすぼらしい恰好(かっ こう)などできません──」
 二人は駕籠の前で可愛げな会話をしてから、ようやく俊は駕籠に乗り込んだ。そして松野はその駕籠の脇を歩いて、直虎と式左衛門の前を会釈(え しゃく)して通り過ぎる。二人は駕籠が門を出るまで見届けて、
 「やれやれ、忠固様にあのようなお転婆娘(てん ば むすめ)がいらしたとは。殿はご存じでしたか?」
 式左衛門が呆れたふうに言った。
 「いや──」
 直虎は葬儀の時に見た、俊の輝く涙の色を思い浮かべた。
 
> (五)土屋坊(ど や ぼう)村の民蔵(たみ ぞう)
(五)土屋坊(ど や ぼう)村の民蔵(たみ ぞう)
 藩主交代の報は間もなく本領須坂にも伝えられ、その(うわさ)がわずか一万石の領内に広がるのにさほどの時間は必要としなかった。時の国家老は野口源兵衛(の ぐち げん べ え)はじめ河野連(こう の むらじ)らで、
 「直武様が家督を譲るとは意外だったなあ? 直虎(なお とら)ってあの良山お坊ちゃんだろ?」
 「なあに、あの直武(なお たけ)様の弟だからたいしたことないよ。今まで通りやればいいさ」
 と、そんな陰口(かげ ぐち)をたたいた。
 もともと野口は越後村松藩から養子に来た野心家で、はじめは茶の相手として直格に仕えていたが、直武が藩主になるとすかさずその近くにすり寄り、顔色をうかがって細かな気を配ったものだからひどく気に入られ、時の家老丸山舎人が引責退隠したのを機に家老に抜擢された抜け目のない男であった。家老になるや否や藩中の硬骨漢と言われていた河野連を配下にしようと、独身の河野に藩中のおたかという娘を介して妻にさせ、その恩顧をもって同志に加えてしまうと、次に目の上の瘤だった駒澤勇左衛門に対してあらぬ罪をでっちあげ、彼を家老の座から引きずり降ろし政権を掌握してしまう。そして河野を中老に据えると、続いて江戸家老中野仁右衛門まで退けて自分の娘婿である亘理(わた り)をその職に就け、如実にその本性を顕したのだった。いまや藩政は野口源兵衛の独壇場(どく だん じょう)であり、彼の息のかかった者たちで政治を仕切り、新たな藩政改革を名目に、やりたい放題の手法で財を集めていたのである。
 その一つに貸金会所(かし きん かい しょ)の設置がある。領民へ金の貸し付けをし、その資金は年貢のほかに御用金(ご よう きん)として強制的に領民に割り当て、しかも納める金額に応じて名字帯刀(みょう じ たい とう)の許可や町や村役人等への採用や昇格を野放図に認める横暴(おう ぼう)なものだったから、(ちまた)では賄賂(わい ろ)横行(おう こう)し、過重な負担を()いられた領民は塗炭(と たん)の苦しみを味わっていた。貸金会所では毎日のように、
 「なんだ、またお前か! 返せるあてのない(やつ)に貸す金なんぞない! 利子だけでも払ったら少しは相談に乗ってやる。仕事の邪魔(じゃ ま)だ、さっさと出てけ!」
 高利貸しでなくこれは役人の科白(せりふ)である。利子といっても現代でいえば悪徳(あく とく)金融(きん ゆう)業者どころでない。それでもお金を借りに来た男は(ねば)っていると、中から数人の強面(こわ おもて)の役人が出て来て(なぐ)()るの暴行を加える。そのくせ身なりが少しでもましな者が訪れれば、
 「ようこそいらっしゃいました! 今日はどんなご相談で?」
 と、(てのひら)を返したニコニコ顔で迎え入れる──金の有る無しで人の価値を見極める役人の体質は今も昔も変わっていない。
 須坂藩領綿内村(わた うち むら)千曲川(ち くま がわ)(はさ)んだ飛び地に土屋坊村(ど や ぼう むら)と呼ばれる集落があった。もともとは須坂藩第一の石高(こく だか)を誇った綿内村の一部の人間が、千曲川を渡った対岸に土地を(ひら)いて一つの村として独立したものだが、綿内村から分村した以上、須坂藩の管轄(かん かつ)に違いない。
 ところがその辺りの地籍では、毎年頭を悩ます大きな災難があった。大雨や台風による洪水被害である。地形的にいえば少し上流は千曲川と犀川(さい がわ)の合流地点であり、二つの大きな川の勢いは、少し下ったところで(わず)かに綿内側へ蛇行(だ こう)していたため、水かさが増すと容赦(よう しゃ)なく土屋坊へ流れ込んだ。安政六年(一八五九)五月に起こった洪水はその(さい)たるもので、それまで築いていた土堤(ど てい)大破(たい は)し、村は壊滅的(かい めつ てき)な被害を(こうむ)ったのである。土堤の修復と延長は急務であったが、綿内村に相談しても、
 「そんな所に村を作ったのがいけないのだ。自分たちでなんとかしろ」
 と、分村(ぶん そん)以来の感情的な隔壁(かく へき)から取り合ってももらえず、拡張計画が隣の松代藩領の大豆島(ま め じま)地籍にかかっていたことから松代藩の福島村へも願い出たが、
 「()れ合いでそんなことはできん」
 と拒絶(きょ ぜつ)されてしまった。その対応に納得がいかない土屋坊村は、福島村を寺社奉行(じ しゃ ぶ ぎょう)(うった)え出たが、そこに幕府が加わったことで、工事の目処(め ど)もたたないまま話はますますこじれていった。いわゆる役所のたらい回しに似たものである。当然その出来事は家老野口源兵衛も知っていたはずで、明治初期のデータによると、綿内村の石高が二、五〇〇石に対して土屋坊村は(わず)か一六五石、
 「年貢(ねん ぐ)もろくに納めん村など(ほう)っておけ。そのうち幕府がなんとかしてくれるわ」
 と、高見(たか み)見物(けん ぶつ)でもするように何の救いの手も差し延べなかった。作物の不作も重なり、ついに生活の苦しみから逃れるため、土屋坊村の男たちが次々と村から逃げ出す事態にまで発展していく。
 土屋坊村で百姓代(ひゃく しょう だい)を務めていた民蔵(たみ ぞう)は、これまでも再三にわたり須坂藩へ『水防の事』で嘆願(たん がん)をしてきた。ところが綿内村やその他の村は賄賂(わい ろ)を送って藩の対応を受けてきたが、それも額によって命令の内容がその都度変わるといった杜撰(ず さん)なもので、それでも百世帯ほどの土屋坊村の民たちは必死にお金を工面(く めん)しようとしたが、(ぜに)(にお)いで態度を(ひるがえ)風見鶏(かざ み どり)のような役人を動かすことなどできなかった。
 その日も須坂藩の陣屋(じん や)(おもむ)き、何とか願いを聞き入れてもらおうと、朝から門前で粘った民蔵だったが、結局担当の役人にすら会うことができないまま、日が暮れた街道を提灯(ちょうちん)も持たずに土屋坊に戻った。季節はすっかり冬である。寒々(さむ ざむ)とした星空の下、今年も不作で荒れ果てた耕地を見ながら、
 「苛政(か せい)(とら)よりも(たけ)し……か」
 寺小屋(てら ご や)で覚えた故事(こ じ)を口ずさんで深いため息を落とす。
 このままでは村が滅亡してしまう―――
 そう思ったとき、陣屋からの帰り道、「お殿様が替わったらしいぞ」という町民の噂話が聞こえたのを思い出した。そっと耳を傾ければ、「新しい殿様の名は直虎」といい、「四書(し しょ)にあるような大覚殿(だい かく でん)をお世話なさった立派な方らしい」という声が聞こえた。およそ故事の虎≠ゥら連想したのだろうが、民蔵はふと、「苛政に挑むために虎を名乗ったのではなかろうか」と思い始めた。その(ひらめ)きは、村をなんとか救いたいという切実な思いから、強い思い込みとなって心を支配した。
 「新しい御殿様なら、我々の願いをお聞き入れくださるかもしれん!」
 その翌日、彼は村の(しゅう)を集めてこう告げた。
 「江戸に行こうと思う……直虎様に会って来る」
 村の衆は力なくどよめいた。
 「直談判(じか だん ぱん)する気か? そんなことをしたら打ち首だぞ!」
 「ここで()え死にを待つより、その方がましだ。それともやはり離散(り さん)するか?」
 離散の話は以前から出ていたが、何もない荒野を開拓し、ゼロから作り上げてきた村に対する愛着はみな同じで、離散したとて行く宛などない彼らは民蔵の決意に希望を(たく)すよりなかった。民蔵は、着の身着のまま(はる)か江戸へ向かって旅立ったのだった。

 そのころ直虎は住まいを上屋敷(かみ や しき)へ移した。それは与力や同心の組屋敷が立ち並ぶ八丁堀の南にある。
 堀の長さが隅田川との合流地点より八丁(約873m)あったことからそう呼ばれるようになった地籍だが、秋は東を流れる楓川は美しい紅葉に彩られ、それと対照をなすように春は桜が咲き乱れる八丁堀川は俗に桜川とも呼ばれ、その川の南側二つ目の路地沿い、東に近江膳所藩(ぜ ぜ はん)上屋敷、西に彦根藩蔵屋敷に挟まれた二千五百坪ほどの敷地内に屋敷は立つ。
 藩主になったからには上屋敷で政務を執る習いだが、国元(くに もと)の過去の帳簿など見て財政難の原因を探るにはこちらでなければ都合が悪い。
 直武から引き継いだ職務は江戸城の御門警備で、毎月一日、十五日、二十八日と五節句(ご せっ く)の日は将軍と拝謁(はい えつ)するため江戸城へ登ることになる。つい先日登城(と じょう)した際は、城内では右も左も分からないだろうと、藩主としてはひと月先輩の親戚、大関肥後守増裕(おお ぜき ひ ごの かみ ます ひろ)(ともな)った。彼は下野国(しもつけのくに)黒羽藩(くろ ばね はん)一万八千石の養嫡子(よう ちゃく し)として十五代藩主になったばかりの数歳年下の実直誠実(じっ ちょく せい じつ)な男であるが、お家の事情がやや複雑で、「どこかによい養子候補はおらぬか」と、しきりに聞いて探していたが、それについては後述することになるだろう。その隣で直虎は、得意の愛嬌(あい きょう)を振りまいて何人かの友人ができた。ちなみに十一月十五日のその日は、和宮(かずのみや)が無事に九段(く だん)の清水邸に入ったとの噂を聞いた。
 十二月に入って初旬のことだった。
 御門番(ご もん ばん)の仕事を終えて上屋敷に戻ったところ、門の前でみすぼらしい農民姿の若い男が(あや)しげな様子でうろうろしている。
 「何をしておる?」
 直虎護衛の小林要右衛門が不審そうに身元を尋ねると、男は振り返り、
 「須坂藩の江戸藩邸というのはこちらでございましょうか?」
 とおどおどした様子で言った。民蔵に相違ない。およそ花の大江戸にある藩邸というくらいだから度肝(ど ぎも)を抜く大きなきらびやかな屋敷を想像していたのだろうか、案外こじんまりとした門構えの屋敷に面妖(めん よう)そうな表情をつくった。
 「左様(さ よう)だが、なんの用だ?」
 もう一人の護衛の真木万之助(ま き まん の すけ)が近寄った。彼はもともと河内国(かわ ちの くに)郷士(ごう し)で堀家に出仕するようになった江戸定府(え ど じょう ふ)の家臣である。民蔵は恐縮して、
 「新しく御殿様(との さま)になられた直虎様にお願いの()がございまして須坂より参上いたしました」
 と一口に告げた。
 「直虎はわしだが」
 直虎は前に進み出て、土で汚れた顔にギラギラと光る充血した彼の(まなこ)を見てとった。
 驚愕(きょう がく)して「ご無礼をお許し下さい!」とその場に(ひざまず)く民蔵は、まさか会う目的の殿様がいきなり目の前に現れるなど思ってない。そのうえ殿様といえば羅紗(ら しゃ)の羽織を着ていてしかるべきだとでも思ったのだろうが、突然直虎を名乗った男ときたら、浅黄木綿(あさ ぎ も めん)羽織(は おり)小倉(お ぐら)木綿袴(も めん ばかま)、腰に二本の刀は差しているものの、どう見ても少しまともな庶民(しょ みん)の出で立ち──冬だというのにどっとあふれ出る(ひたい)(あせ)を土にしみ込ませると、その様子に直虎は柔和(にゅう わ)な笑みを浮かべた。
 「そうかしこまらずともよい。殿様は駕籠に乗って出歩くとでも思ったか? はるばる須坂より参ったと? 須坂の(たみ)の前でこんなことを言うのも難だが、今は財政が厳しく何から何まで倹約(けん やく)、倹約じゃ。苦しゅうない、まずは(おもて)をあげよ」
 民蔵は身体をガタガタ震わせ、頭を地面にこすりつけたまま(ふところ)から長旅でボロボロになった直訴状(じき そ じょう)を頭の上に差し出した。直虎は無造作にそれを受け取り、表情ひとつ変えずに一読すると、
 「長旅、疲れたであろう。まずはゆるりとドブ湯≠ノでも浸かって参れ」
 ドブ湯≠ニいうのは八丁堀にある銭湯のことである。元々は同心の足洗い場がいつしか大衆浴場に変わった場所で、ドンブリ入る≠ェドブ湯≠ノなったという謂れがある。民蔵は「ドブに入れられるのか?」と直訴した報いを受け入れるような困惑の表情を作ったが、直虎が屋敷から一人の家臣中野五郎太夫を呼び銭湯へ案内するよう言いつけ、湯から出たら屋敷内の部屋に入れるよう命じたので、「処罰ではなさそうだ」と、安心したように五郎太夫に付いて行ったのだった。
 上屋敷公の間に江戸家老駒澤式左衛門と要右衛門を呼び寄せた直虎は、二人の顔を静かにながめた。
 「野口亘理(わた り)はどうした?」
 野口亘理(わた り)とはもう一人の江戸家老である。国家老野口源兵衛の娘婿であるが、式左衛門は少し困った顔をして、
 「柳橋ではないかと……」
 と俯きがちに答えた。
 「柳橋? いったい何をしに?」
 柳橋といえば隅田川と神田川の合流地点に架かる神田川下流の橋だが、周辺には船宿を中心に待合茶屋や料亭などが軒を連ねる大江戸繁華街の一つである。直虎が顔をしかめる間もなく「どうせ柳橋芸者を買いに行っているのでしょう」と要右衛門が不愉快そうに言った。
 「やつはそんな所へ通っておるのか?」
 「いつもというわけではないと思いますが……」と同じ家老の醜態に式左衛門は言葉を濁したが、直虎は呆れて「まあ、よい」と、民蔵から受け取った訴状の文面を二人に見せた。
 「どう思うか?」
 そこに書かれた内容は土堤(ど てい)が改修されない経緯(けい い)と土屋坊の窮状(きゅう じょう)うんぬんだが、これと財政窮乏(きゅう ぼう)とにどんな因果関係(いん が かん けい)がありそうかと聞いている。

 『再三にわたり水防普請(すい ぼう ふ しん)を願い出ましたが、なにごとも賄賂(わい ろ)のご政治にて、小村で賄賂が少ないため差別され取り合ってもらえず、一村離散(り さん)(ひん)してございます──』

 現在の国家老(くに が ろう)首座は野口源兵衛が務めていることは皆知っており、直虎はこの時点で既にその娘婿である亘理が何らかの関与をしているのではないかと疑っている。でなければ窮乏している藩の財政を考え、柳橋などで遊び惚ける金などあろうはずがない。源兵衛を家老に抜擢(ばっ てき)したのは直武であるが、話によれば細かなことまで気の付く切れ者ということだが、
 「賄賂(わい ろ)という言葉が気になりますな」
 と、やがて式左衛門が答えた。
 「そうであろう? 兄も小銭(こ ぜに)に困り朝暮(あさ く)れの暮らしもつきかね、家中の扶持(ふ ち)も六割減らしたと言っておった。(すで)に限界を超え領民に大きな負担をかけていることはその訴状でも明白だ」
 「あの者、よほど切羽詰(せっ ぱ つ)まっていたのでしょうなぁ。直虎様だからよかったものの、一介(いっ かい)の農民が殿に直訴(じき そ)など、他藩でしたらその場で打ち首ですぞ」
 と要右衛門が続けた。
 「これが須坂藩の現実ということでしょう。賄賂でもなんでも金を徴収(ちょう しゅう)する仕組みを作らなければもはやどうにもならないのでございましょう」
 式左衛門の言葉に直虎は、直武が苦しんでいたのはこれだと思った。しかし、だからといって領民に過大な負担をかけて苦しめ、人道をはずすようなことまでして公金を調達するのは、国を治める者としてあってはならないことだと断じて思う。
 「発想が逆であろう? 政治というのは民の側に立って国を考えるものじゃ。国を治める者、そして国の政務を司る者が最もしてはならぬことは何だ?」
 式左衛門と要右衛門は首を傾げた。
 「民心を乱すことじゃ。民衆ほど恐ろしいものはない。民衆が団結して総決起すれば一国などあっという間に滅びてしまう。かといって君主が不要かといえばそうでもない。国を治める者がなければ無法地帯となり、争いの絶えない状態が永遠に続く。大事なのは国の政治と民とが共存することではないか? 国の執政に関わる者たちが民の尊敬に値する振る舞いができるかどうかだ」
 直虎は事の一凶(いっ きょう)を見透かしたように続ける。
 「日本書記にある仁徳天皇(にん とく てん のう)の民のかまど≠フ故事を知っておろう。百姓の家に煙が立っていないのを見て天が君主を立てるのは百姓のためである≠ニいうあれじゃ。あれは確か三年間、税を徴収(ちょう しゅう)するのをやめたと思ったぞ。すると三年後には百姓に余裕ができ、家々に煙が立つようになって、挙句は天皇を称賛する声で世は満ち溢れたと言う。大和魂(やまとだましい)とはそういうものではないか? 『老子(ろう し)』にもこう説いてあるぞ」
 と紙にすらすらと文字を書きはじめた。

 『民之飢、以其上食税之多、是以飢。民之難治、以其上之有為、是以難治。民之輕死、以其求生之厚、是以輕死。夫唯無以生為者、是賢於貴生。』

 「民が()えるのは君主の食税(しょく ぜい)が多いからである。民を(おさ)めることが難しいのは主君の作為(さく い)のせいである。そして民が命を軽んずるのは、豊かな生を求めているからである。ただありのままに生くる者こそ賢く(とうと)いのである──」
 要右衛門と式左衛門はしきりに感心し、主君に和魂漢才(わ こん かん さい)叡智(えい ち)をかいま見た。
 「まずは真相を確かめることだ」
 直虎は、少し前の財政改革(ざい せい かい かく)の失敗の責任を負い、家老職を追われた丸山舎人(とねり)の息子である丸山次郎本政にすらすらと密書(みっ しょ)をしたためた。ここ何年も須坂へ帰っていない彼は、国許の政治がどのような顔ぶれで行われているかしっかり掌握(しょう あく)できていない。その中で丸山家は、九代藩主直皓(なお てる)の代より堀家に仕えてきた唯一顔の見える信頼できる家臣であった。

 『もしかしたら重臣たちを罰することになるかも知れない。双方の言い分をよく聞き、つまびらかに書き並べ、罪状を聞かせてほしい。よく検討して処分を決めたい。追放する家臣を書状で通達する。直虎 花押 大司(丸山次郎)君へ』

 その密書の内容も伝えず直虎は要右衛門に手渡すと、
 「今すぐ須坂へ飛べ」
 と命じた。要右衛門はその意味をすぐに察した。もう一人の側近である柘植宗固(つ げ むね かた)と一緒に須坂へ下り、現地の北村方義(きた むら ほう ぎ)らと連携し、事実確認をして真相を見極め、打てる手を打って直ちに報告せよという事である。
 ここに出てきた柘植という男が伊賀国の忍者の血筋であることは前に少し触れたが、彼は直虎が元服してから直属に仕えるようになった古参の庭番である。いわゆる服部半蔵から始まる徳川家における伊賀衆は、寛永年間に麹町御門(半蔵門)周辺から四谷門外の祥山寺周辺の伊賀町に移転させられて以来、諜報業務など不要の泰平の世にあって、すっかり江戸の町民と同化しつつも忍術の継承は密かに行われていた。大名ならそうした諜報業務を専門に司る家臣の一人くらい召し抱えているものだが、目聡い要右衛門などは古くから彼に近づき、伊賀流忍術なるものを習得してやろうとちゃっかりしている。
 「それから──」
 と直虎は声を潜めた。
 「この話は野口亘理(わた り)の耳には入れるな。今回の件に関与しているかも知れぬ」
 要右衛門は低い声で「はっ!」と応えると音もなく部屋から姿を消した──それが民蔵が銭湯から戻るまでの束の間の時間だった。
 その後、「少し国許の様子を聞かせてもらえんか?」と、民蔵にあてがった部屋に直虎が顔を出したのは間もなくのこと。民蔵は驚いて終始かしこまっていたが、その愛嬌のある笑みに緊張をほぐしながら、土屋坊の惨状(さん じょう)や役人たちの対応の様子など話して、「明日の朝には国に帰って、今日のことを皆に伝えます」と言った。
 「せっかく江戸まで来たのじゃ。少しばかり町を見聞(けん ぶん)して帰ったらどうじゃ?」
 「それには及びません。お気遣いだけで私にはもったいのうございます」
 「なんであれば案内に先ほどの五郎太夫を連れていけ。無粋な顔をしておるが気のいい男であろう?」
 「いえいえ、恐れ多きことにございます」と、民蔵は平伏してしまった。路銀(ろ ぎん)も持たずに村を飛び出して来たことは、土で汚れたボロボロな身なりですぐ知れる。持ち金などあろうはずもないのに、直虎は余計なことを言ってしまったと後悔した。懐から銭入(ぜに い)れを取り出して(のぞ)いてみれば、藩主ともあろう者が一朱銀(いっ しゅ ぎん)一枚と小銭が数枚あるだけで、他人の心配をする前に自分の方が金欠(きん けつ)なのだ。文久年間当時でその持ち金を現代の価値に換算(かん さん)すれば数千円といったところか。これより後、米の高騰(こう とう)貨幣価値(か へい か ち)(いちぢる)しく低下していく。
 直虎は気まずそうに「見聞(けん ぶん)()しにせよ」と言って、手にした銭入れを袋ごと民蔵に渡してしまった。民蔵は(こば)んだが、一度出した物を引っ込めるのも恰好(かっ こう)がつかない直虎は、
 「物見遊山(もの み ゆ さん)も後学のためじゃ。余るか知れんが、もし余ったら国元の皆に何か食わせてやれ」
 そう言い残して部屋を出た。ところが案内を仰せつけた中野五郎太夫に翌日の民蔵の様子を聞けば、「蕎麦(そ ば)を一杯食っただけで、すぐに国元へ戻りました」ということである。

 それから──要右衛門が戻って来たのは、細雪(ささめ ゆき)の降る夕暮れ時のことだった。
 「たいへんなことになっておりますぞ!」と、旅の疲れを(いや)しもせず口早に語り出した話によれば、家老野口源兵衛らは、心学(しん がく)を利用して庶民(しょ みん)からお金を巻き上げていると言う。
 心学とは神道、儒教、仏教の合一を基盤とした江戸中期の石田梅岩(いし だ ばい がん)を開祖とする学問の一派で、本来その教えは究極的に正直(しょう じき)(とく)≠尊重する倫理学(りん り がく)の一種である。須坂藩では第九代藩主堀直皓(ほり なお てる)の代に石門心学(せき もん しん がく)講舎『教倫舎(きょう りん しゃ)』を立ち上げていたが、その後、儒学を基調とする藩校『立成館』を作ったことから、この時すでに藩内の精神的支柱となる学問は二分されていたと言える。
 藩の財政に悩む前の国家老丸山舎人が、当時財政改革で高名だった京都本覚寺(ほん がく じ)の心学者石田小右衛門知白斎(いし だ しょ う え もん ち はく さい)を須坂に招いたのが嘉永三年(一八五〇)のこと。ところが、手紙・贈答・来客をやめ、借り入れ停止・衣服は綿服・参勤交代費を二一〇両に限るなどの五カ年改革『規定書十ヶ条』を定めたところまではよかったが、定期的に領内十三カ村を巡回(じゅん かい)して心学を語る中で、表向きは勤倹節約(きん けん せつ やく)を説きながらも、その行為は次第に領民から献金(けん きん)を強要する悪質な金の取り立てへと変わっていったのだった。その手口は、
 『借金あるとて石田の隠居(いん きょ)小山(こ やま)へ連れ込み、心学論じて百姓だまして、献金出せとて大小御免(だい しょう ご めん)(かみしも)くれたり、なんのかのとてむやみに取り立て、心学いうては用金、献金、無理銭(む り ぜに)取り立て―――』
 とちょぼくれ≠ノ歌われるほどで、そのあまりのひどさに憤慨(ふん がい)した領民の感情を押えるため、石田は退任して須坂を去り、丸山舎人も責任を負って辞職したのだ。
 このとき藩政を独占した野口源兵衛と河野連(こう の むらじ)らは、根強く残ったその風潮を利用しつつ、この項の冒頭で述べた貸金会所の設置や、金額に応じた名字(みょう じ)帯刀(たい とう)の許可や町村役人や取締役への昇格等、やりたい放題の暴政をはじめた。財政が逼迫(ひっ ぱく)している時にはすべきでない無駄(む だ)な土木建設事業もその規模が半端(はん ぱ)でない。町家、田畑をつぶしてまで日滝(ひ たき)道、相森(おう もり)道、八幡(はち まん)道の道幅を広げて新しい町を(おこ)して家賃を取り立てるための貸し家を建てたり、芝宮(しば みや)神社を美麗荘厳(び れい そう ごん)に建て替えたり、陣屋の馬場を拡張したりと、しかもその人足は全て村々に割り当て農繁期も無視して強制労働を強いたから、重税と人手不足に苦しむ農民の中には、生きる希望を失って命を絶つ者も数知れず。挙句(あげ く)に要右衛門が見たものは、奪った金で私服を肥やし、陰でドンチャン騒ぎの飲み食いをする堕落しきった役人たちの姿であった。
 自分はなけなしの金をそっくり民蔵に与えて文無(もん な)しというのに、政治という権力を傘に(おど)(だま)した金で私服を肥やすとはなにごとか!
 直虎は激怒(げき ど)して(あき)れ果てた。
 「もはや秩序(ちつ じょ)もなにもあったものではありません。民心(みん しん)は離れ、最悪の状況です」
 と、要右衛門は暗い表情をつくった。
 直虎の頭に中国の兵法書のひとつ『呉子(ご し)』の『治兵(ち へい)第三』にある言葉が思い浮かぶ。

 用兵之害猶予最大(兵を用うるの害は猶予(ゆう よ)最大なり)

 戦いを起こすに当たって最大の妨害となるのは、ぐずぐずして事を決しかねることである──。
 まだ藩主になって間もない彼が直面した、これが最初の難題(なん だい)だった。