> (一)(じゃく)(ほむら)
(一)(じゃく)(ほむら)
 幕末の混沌期(こん とん き)燎原(りょう げん)に例えるなら、彼はそこに屹立(きつ りつ)する一本の桜である。
 「桜」のことを彼は「(じゃく)」と呼んだ。中国では「扶桑(ふ そう)」の木をそう呼び、総じて日本の代名詞として古くより用いられてきたが、嘉永(か えい)六年(一八五三)のペリー来航以来、否応(いや おう)なしに世界を意識せざるを得なくなった極東(きょく とう)日出(ひ い)ずる国の住人としては、地球という星における秀気(しゅう き)の集まる場所に生ずるその花を「叒」と呼ばずにはおれない。
 彼は、父に序文を書くよう言われた『花譜』というサクラの系譜集に描かれた山桜と、庭に満開と咲く桜花(おう か)の実物とを見比べながら、うっとりとその美しさに見惚(み ほ)れた。時を尋ねれば文久元年(一八六一)三月のことである。
 「良山(りょう ざん)様、剣術の稽古(けい こ)の時間ですぞ」
 声をかけたのは三十前後の須坂藩では随一の直心影流(じき しん かげ りゅう)の剣豪で、名を小林要右衛門季定(こ ばやし よ う え もん すえ さだ)という。良山というのは後に須坂藩第十三代藩主となるこのとき数えで二十六歳の堀直虎(ほり なお とら)(いみな)である。良山は、桜花の一枝をもぎ取ってから「もうそんな時間か?」と言いたげな顔で、
 「剣術は気が乗らぬなぁ……」
 と、何かの許しを()うように破顔一笑(は がん いっ しょう)した。
 「その人懐(ひと なつ)っこそうな笑みにはもう(だま)されませんぞ。攘夷派(じょう い は)の連中が江戸にもうようよしているという話です。良山様とていつ井伊直弼(い い なお すけ)様のように襲撃されるか分かったものではありませんからな。剣術修業は(おこた)らない方がよろしい」
 江戸城桜田門前で時の大老(たい ろう)井伊直弼が暗殺されたのはちょうど一年ほど前の出来事だった。ペリー来航にはじまった空前の激動期の幕開けは、日米和親条約(にち べい わ しん じょう やく)により鎖国(さ こく)が解かれ、日本に不利な日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)締結(てい けつ)から攘夷思想が熟成(じゅく せい)し、あわせて将軍継承(けい しょう)問題による幕府内勢力争いによる政治不信、それらに対して安政(あん せい)大獄(たい ごく)と呼ばれる反政府思想を持つ者達が恐怖政治の犠牲となった挙句(あげ く)に大老が殺害され、こののち収拾のつかない事態へと発展していく。その象徴として、安政の大獄により年号が安政から万延(まん えん)に、国内の混乱による危機感からわずか一年にも満たない間で万延から文久にと改元された。要右衛門はその不穏(ふ おん)な世の中のことを言っている。しかしあまり真顔(ま がお)で言うので、良山はさもおかしそうに声を挙げて笑った。
 「たかだか一万石の弱小大名の、しかも何の影響力もない堀家の五男坊(ご なん ぼう)を襲うもの好きな攘夷論者などおるものか。もしそんな奴がいたら会ってみたいものだ。わし一人死んだところで天下が動くわけでもあるまい。せいぜい瓦版(かわら ばん)のネタにされてイイ人だったねぇ≠ニ同情されて(しま)いじゃ」
 「またそんな御冗談(ご じょう だん)を! 攘夷の連中だけではありませんぞ。いまやメリケン国をはじめ我が国は列強諸国に囲まれているのです。もし彼らが攻めて来たらどうなさるおつもりですか?」
 「要右衛門はいつから攘夷派になったのだ? そうなったら君はその自慢の剣術で戦うつもりかい? 向こうは片手で握れるピストールとかいう火縄銃(ひ なわ じゅう)の何倍も優れた武器を持っているそうじゃないか。飛び道具を相手に刀で戦うとは勇敢(ゆう かん)、勇敢──その時はわしの護衛を頼むぞ」
 良山は笑いながら手にした桜花を『花譜』に描かれたそれと重ねて「我ながらなかなかよく描けておる」と(つぶや)いた。要右衛門は(あき)れ顔で、
 「それは御隠居様(ご いん きょ さま)がまとめられた桜図鑑(さくら ず かん)の写本ですな?」
 良山の手にする書物を見て言った。御隠居とは良山の父、第十一代須坂藩主を務めた堀直格(ほり なお ただ)のことだが、今はその長男で良山の兄にあたる直武(なお たけ)が十二代藩主を務めているので、須坂藩江戸藩邸下屋敷(しも や しき)悠々自適(ゆう ゆう じ てき)な生活を送っている。
 「父上にこの本の序文(じょ ぶん)を書くよう頼まれてのう……はてさて、どうしたものかと悩んでいたところだ」
 「御隠居様の道楽(どう らく)のお供もよろしいが、ずいぶんと悠長(ゆう ちょう)なことですなぁ。韓詩(かん し)余暇(よ か)に写本していると聞きましたが、それにしては大層(たい そう)な手の入れようではありませんか」
 要右衛門は皮肉(ひ にく)の苦笑いを浮かべた。
 「お前はこの桜を見てどう思う?」
 「そうですなあ? 花見をしながら酒でも飲みたいものです」
 「それだけか?」
 要右衛門は「はぁ」と言ったまま黙り込んだ。
 「お前は何年直心影流の修行をしておる?」
 「剣術の方は物心ついた頃には剣を握っておりましたので、かれこれ三十年近く──」
 良山は「三十年修行してその程度か」と言いたそうに、
 「その刀を抜いて見せてみよ」
 と言った。要右衛門は言われるまま刀を(さや)から引き抜いた。
 「その日本刀を見てどう思う?」
 「はぁ」と要右衛門はまた(つぶや)いて、刃渡りをじっと見つめ(しばら)く考えてから、
 「少し手入れが(とどこお)っていたかと──」
 良山はまた声を挙げて笑った。それにしてもよく笑う人である。(こと)()げな質問をしておいて(けむ)に巻いたかと思えば、自らは高みから全てを見通しているかのふうにおろおろする様子を楽しんでいるようでもあり、剣術一本で成長してきた単純な要右衛門などはいつもよい標的なのだ。その意見が良山の意にそぐわないことを察した彼は、
 「刀は人を()るための武器ですが、拙者(せっ しゃ)はできれば人を斬りたくはありません」
 と言い改めた。
 「それだけか?」
 良山はまた笑う。
 「なにが可笑(お か)しいのでございます? 拙者には若様の笑いのツボがいまだに理解できません」
 「すまんすまん、答えが普通過ぎて面白(おも しろ)い。わしはこの桜や日本刀を見ると、奥に潜んでいる日本人の(さが)≠ニいうものを感じる──世の中は開国≠カゃ攘夷≠カゃ、あるいは尊王(そん のう)≠カゃと騒いでいるが、結局どこまでいっても日本人≠ゥらは離れられん。その本性とは何か──列強諸国を相手にするといっても、日本人が日本人たる心を失った時、日本はそれらの国の属国(ぞっ こく)となってしまうのであろうなと思ってしまう」
 「なんだか難しくてよく解りません。それより剣術の稽古(けい こ)に参りましょう、遅刻(ち こく)ですぞ」
 「そうだ!」
 と良山は突然手を(たた)いた。
 「なんでございます?」
 「(じゃく)≠カゃ! この系譜図の題号は叒譜(じゃく ふ)≠ェ良い!」
 「ジャ、ジャク……?ジャク≠ニは何でございます?」
 「(わか)る者に解ればよい──」
 ひとしきりの風に散る桜花の中、要右衛門は呆れた表情で良山を見つめた。

 直心影流(じき しん かげ りゅう)の島田派剣術道場は浅草(あさ くさ)新堀にある。須坂藩邸下屋敷の在する深川本所亀戸(ふか がわ ほん しょ かめ いど)からは隅田川(すみ だ がわ)に架かる吾妻橋(あが つま ばし)を渡って歩いて半時もかからないほどの距離で、もともとは男谷精一郎(おとこ だに せい いち ろう)の高弟、幕末の三剣士にも数えられる島田虎之助(しま だ とら の すけ)により開かれた道場だが、三十九歳の若さで(ぼっ)してからは兄の島田小太郎が師範(し はん)を務めていた。
 いつもなら木剣(ぼっ けん)と木剣とが激しくぶつかり合う音と甲高(かん だか)い掛け声が絶え間なく路地にまで響いてくるのに、この日はなぜか道場敷地内はシンと静まり返り、そのかわりに時々大きな笑い声が聞こえた。稽古の時間に遅れた良山と要右衛門は、顔を見合わせそろそろと道場内へ入っていくと、門人たちに囲まれて、何やら楽しそうに異国の見聞(けん ぶん)を講義する三十代半ばのやせ型の男の姿があった。
 「むこうの女子(おな ご)はレデーっちゅってな、スカートっちゅうひらひらの(ころも)を腰に巻いておるんじゃ。そりゃお前さん風が吹けばふわぁってなもんで、こっちの方が恥ずかしくなっちまうぜ」
 「で、(かつ)先生はその中身を見たんですかい?」
 「それが見えそうで見えないのが不思議だね。おいらなんか腰をこうして曲げて(のぞ)き込もうとしたんだけどさ、それでも見えない。挙句(あげ く)に案内の役人が『お金でも落ちてますか?』だとさ。言い訳するにも言葉が通じねえから困ったもんだ。そういう時は(おけ)(OK)=A『桶、桶、桶』と()り返し言えばなんとかなるよ」
 道場内は笑いに包まれた。
 「英語なんて案外簡単なものさ。時間を聞く時は()った(いも)(What time)=Aいくらかと値段を聞く時はブリでもカンパチでもなくハマチ(How much)≠カゃ。あと、そこに座って下さいというのは知らんぷり(Sit down please)≠チてえばたいてい話しが通じる」
 道場内は再び大爆笑。良山と要右衛門は道場の後方に座って近くの門人に「誰ですか?」と尋ねれば、「昨年、咸臨丸(かん りん まる)でメリケンに渡った勝海舟(かつ かい しゅう)先生だ」と教えられた。勝海舟も直心影流島田虎之助の門弟であり、そもそも直心影流の男谷精一郎とは義理の従兄弟(い と こ)関係になる。たまたま挨拶(あい さつ)がてら道場に顔を見せたところ「ぜひメリケン国の話を聞かせてほしい」ということになり、今日の稽古は海外見聞講演会になってしまったらしい。
 「あれが勝海舟か……」
 良山はまじまじとひと回りほど年上のその屈託(くっ たく)ない顔を見つめた。
 日米修好通商条約の批准書(ひ じゅん しょ)交換のため、幕府の米国使節団を乗せたポーハタン号が浦賀(うら が)からワシントンへ向かったのが昨年一月のことだった。その護衛として一緒に出航したのが勝海舟や福沢諭吉(ふく ざわ ゆ きち)らを乗せた咸臨丸で、一行は日本軍艦としては初めて太平洋を横断し、サンフランシスコで使節団の到着を見届けた後、ホノルル経由で一足先に浦賀に戻った。使節団が帰国したのは同年九月のことだが、いよいよ世界を相手に動き出した日本の動向に、良山は()(たて)もたまらず兄の藩主直武にオランダ式の軍備を取り入れ整えるべきとした『警備策(けい び さく)』と題する進言をしたのはそれから間もなくのことだった。あのときは又聞(また ぎ)きの海外事情に危機感を(つの)らせ、蘭学(らん がく)に基づいたオランダ式を藩に取り入れようとしたが、その内容は今から思えば(あせ)りばかりが先走る稚拙(ち せつ)な内容で、とても西洋に対する恐怖心はぬぐえなかった。ところが、孫子(そん し)兵法(へい ほう)を改めて読み返したとき、西洋人も同じ人間ではないかと気付く。

 知彼知己者百戦不殆。不知彼而知己一勝一負。不知彼不知己毎戦必殆。
 (()れを知りて(おのれ)を知れば百戦して(あや)うからず。彼れを知らずして己を知れば一勝一負す。彼れを知らず己を知らざれば戦う(ごと)に必ず(あやう)し。)

 「何を恐れる。西洋の文明とやらを知って己を知れば恐れるに足りん──」
 そう思い極めると気持ちが軽やかになり、勝の話はそんな良山の身体(からだ)にしみ込むように入って来た。その内容を要約すれば、彼がアメリカで驚愕(きょう がく)の視線を向けて来たものは、科学技術よりむしろ社会制度の方だった。民主主義や資本主義や自由主義はそれまでの日本にはない概念(がい ねん)で、それをもって「徳川幕府は百年遅れている」と平然と言い放つ。無論(む ろん)彼自身は直心影流免許皆伝(めん きょ かい でん)の腕前であるし(ぜん)にも傾倒(けい とう)していた時期もある。ある意味日本の精神風土を知った上での発言であるから「そんなものか」と聞き流すこともできたが、日本の何千年にもわたる長い歴史を()まえてそれらの概念が(つちか)われなかった事実を考えたとき、それらは日本人には不向きな思想なのではないかとも思えた。
 一連の講演を終えて「何か聞きたいことはあるかな?」と勝が言ったので、良山はすくっと立ち上がった。
 「まっこと面白(おも しろ)い講義でありました」
 勝はその愛嬌(あい きょう)のある表情を見つめて「君は?」と問うた。
 「私、信州(しん しゅう)須坂藩(す ざか はん)堀家(ほり け)の五男坊で良山(りょう ざん)と申します」
 「ほう、信州か。屁理屈(へ り くつ)並べの得意な土地柄だな。わしの妹は松代藩の佐久間象山(さ く ま しょう ざん)先生のところに(とつ)いでおる。もっとも吉田松陰(よし だ しょう いん)君の密航未遂(みっ こう み すい)片棒(かた ぼう)を担いで今は蟄居中(ちっ きょ ちゅう)だが、あの先生も非常に偏屈(へん くつ)な変わり者だ。そこに好んで嫁いだ妹はもっと変わり者と言わねばならん。で、何が聞きたい?」
 「メリケン国は、もとを正せばエゲレス国からの移住民によって建国されてまだ一〇〇年にも満たない新しい国と聞きました。原住民たちの生活はどうなのか気になります。確かに民主主義、自由主義と言えば聞こえはいいが、まだ実証(じっ しょう)されたと判断するには早すぎると思います。それをそのまま日本に当てはめてよいものかと?」
 「君は国学者(こく がく しゃ)かね?」
 「いえ、漢学(かん がく)を学んでおります」
 「誰に師事(し じ)しているか?」
 「亀田鴬谷(かめ だ おう こく)先生です」
 「ああ思い出した。和魂漢才(わ こん かん さい)≠フ折衷学派(せっ ちゅう がく は)だね。要するに君は東洋思想を学んでいるわけだ。おそらくこのままおいらと話を続けても、とどのつまりは西洋と東洋の根本的相違(こん ぽん てき そう い)に行きついて平行線をたどるばかりだ。しかし一つだけ言っておこう、二十年前、その漢学の本家本元(ほん け ほん もと)、あの(ねむ)れる獅子(し し)と恐れられた清国(しん こく)が、アヘン戦争であっけなくエゲレスに負けていまや植民地同然だ。日本は今、その西洋の強大な脅威(きょう い)にさらされていることだけは紛れもない事実だ。君はどうする?」
 良山は勝の洞察力(どう さつ りょく)に驚きながら、やがて、
 「すべき事に力を尽くして、あとは天命(てん めい)に任せます」
 勝はにこっと微笑むと、
 「そこは僕と一緒だ。堀良山(ほり りょう ざん)君、君の名は覚えておくよ」
 そう言い、「他に聞きたいことは?」と聴衆(ちょう しゅう)に続けて、良山の質疑はそこで終わってしまった。
 道場からの帰り道、良山は要右衛門にぽつんと呟いた。
 「私塾(し じゅく)でも開いてみようかな?」
 要右衛門は「いま何とおっしゃいました?」と目を丸くして立ち止まった。さっそく勝海舟に感化されて、時代の変化に対応し得る人材を輩出(はい しゅつ)しようと考えたことはすぐに知れたが、道場に行く前、桜を眺めてしきりに感心していた男の発言にしては唐突(とう とつ)すぎる。しかし、当時の江戸では武士といっても家督(か とく)を継げるのは長男だけで、次男以下は部屋住(へ や ず)み≠ニか()飯喰(めし ぐ)い≠ネどと揶揄(や ゆ)され、どこか子のない家へ養子に行ける幸運でもない限り、何もしなければ仕事もなく、結婚もできないというのが普通である。現に堀家も長男の直武が家督を継いだため、(次男として生まれた繁若(しげ わか)早逝(そう せい))三男直尚(なお ひさ)旗本(はた もと)水野石見守貞勝(みず の いわ みの かみ さだ かつ)の養子となり、四男直正(なお まさ)は分地され堀譲三郎という男の養子となっており、五男坊として生まれた良山は、剣術や学問に明け暮れる日々を送っているのだ。大名とはいえ部屋住みの者は、剣術道場の師範になるか寺小屋の先生などして()扶持(ぶ ち)(かせ)ぐか、あるいは農業にいそしむか、さもなければ全てを諦観(てい かん)して遊蕩(ゆう とう)道楽(どう らく)の道に進むしかない現実があった。要右衛門にしてみればその気持ちも分からないでない。
 「私塾を開いて何を教えるというのですか?」
 「折衷学(せっ ちゅう がく)じゃ。鴬谷(おう こく)先生はわしに和魂漢才(わ こん かん さい)≠フ学問を教えてくれた。しかし今の世の中を見るに、西洋の技術や文明が怒涛(ど とう)のごとく流れ込んでいて漢才≠セけでは心もとない。ならばわしは和魂洋才(わ こん よう さい)≠ニいう新しい学派を打ち立てたいと思うが」
 勝は和魂漢才を一言で東洋思想という言葉でひとくくりにしてしまった。ならば和魂洋才とは、東洋の粋が結晶した極東日本の精神と西洋の学識を折衷した地球思想≠ニ言えまいか──直虎の心に無尽蔵の歓びがむくむくと込み上げる。
 「西洋の思想、学問を取り入れた日本人学? なるほど和魂洋才≠ニは考えましたな。ならばわざわざ私塾など開かなくとも須坂に立成館(りっ せい かん)というれっきとした藩校(はん こう)があるではございませんか。そこで教鞭(きょう べん)()られるが良い」
 「ダメじゃダメじゃ。北村方義(きた むら ほう ぎ)君が江戸にまで遊学(ゆう がく)して、せっかく漢学を身に就けて帰っていったというのに、立成館はいま心学(しん がく)()まれてしまっているそうな」
 北村方義は良山より二つ年上の儒学者(じゅ がく しゃ)で、つい最近まで江戸におり、良山にとっては亀田鴬谷のもとで(きそ)って学んだ学問の()きライバルであり先輩である。その才能は、
 『作る詩の清新端麗(せい しん たん れい)なる対句(つい く)韓愈(かん ゆ)(いき)に達し、(こう)ずる経書(きょう しょ)千古不変(せん こ ふ へん)大儀(たい ぎ)鄭玄(てい げん)に等しい』
 と良山自身が彼に与えた『餞別(せん べつ)の詩』の中でそう言わしめるほどで、深い尊敬の念を抱かずにおれない。
 「心学に?」
 要右衛門は意外なことのように(つぶや)いた。
 心学は藩校立成館の前身となる教倫舎で訓導されていたものである。一八二九年(文政十二年)、直格の代に亀田塾の門人菊池行蔵を儒官として招いて立成館と改称してより、須坂藩の教育は儒学が中心となったが、教倫舎の心学者たちが依然根強く残っているのだ。
 「このあいだの手紙で(なげ)いていたわい。優秀な人材なのに埋もれたままだ……」
 「それで私塾開設というわけですか──といっても良山様は漢学においては学者級ですが、洋学を勉強する姿など見たことがありません。いまさら蘭学を学ぶおつもりですか」
 「今の蘭学(らん がく)は日本人の解釈(かい しゃく)が深く入り込んでしまっている。現実問題、現在日本を取り巻いているのはオランダではなくメリケン、エゲレス、ロシア、フランセ……その内、今後力を伸ばしてきそうなのはメリケン国だが、その民族のもとを正せばエゲレスじゃ。ペルリの黒船の煙を()動力源(どう りょく げん)もエゲレスが発明したらしい。世界の産業技術の中心はエゲレスに違いない」
 「エゲレスねぇ?」
 「誰か英学(えい がく)を教えてくれる者はおらぬかの?」
 悩んだ表情を浮かべつつ良山の顔は明るい。
 
> (二)参勤交代(さん きん こう たい)、兄の苦悩
(二)参勤交代(さん きん こう たい)、兄の苦悩
 参勤交代は江戸幕府の(もと)、藩主が一年おきに江戸と自領とを行き来しなければならない諸大名に課せられた制度である。その際、正室と世継(よ つ)ぎは絶えず江戸に常住(じょう じゅう)しなければならない幕府の人質のような役目を担ったが、側室および世継ぎ以外の子にはその義務はない。須坂藩のそれは丑年(うし どし)卯年(うさぎ どし)巳年(み どし)未年(ひつじ どし)酉年(とり どし)亥年(い どし)の六月が参府(さん ぷ)で須坂を出立しなければならず、逆に子年(ねずみ どし)寅年(とら どし)辰年(たつ どし)午年(うま どし)申年(さる どし)戌年(いぬ どし)の六月は御暇(お いとま)といって自領に戻ることになる。この年(文久元年)の干支(え と)辛酉(かのと とり)なので参府の年で、六月下旬といえば藩主直武(なお たけ)は須坂藩江戸屋敷に入っていた。
 その日、一年ぶりに父子(おや こ)兄弟水入らずで(さかずき)を交わした良山(りょう ざん)は、げっそりとやつれた兄の顔に驚いた。
 「お身体(からだ)の調子でも悪いのですか? 顔色も随分(ずい ぶん)青い気がします」
 「(つか)れたよ……」
 と、直武の最初の一言がそれだった。良山より六つ年上の彼は、御年(おん とし)数えで三十二歳の働き盛りの年代ではあるが、「疲れた」という言葉の中に、死をも予感させるような落ち込んだ生気(せい き)を感じた良山は首を傾げた。
 その場に顔を(そろ)えたのは、父の直格(なお ただ)はじめ直武、良山と、異母(い ぼ)の弟恭之進(後の直明(なお あき))である。
 「道中いかがでしたか? かなりお疲れの様子ですが」
 良山は直武の盃に酒を注ぎながら言った。
 「中山道(なか せん どう)和宮(かずのみや)降嫁(こう か)の話題で持ち切りだ。江戸でもそうとう盛り上がっているんだろうな?」
 「盛り上がっているというか何というか」と、良山は弟の恭之進と顔を見合わせた。
 第十四代将軍徳川家茂(とく がわ いえ もち)御台所(み だい どころ)として皇女(こう じょ)和宮の降嫁が決ったのは昨年十月のことである。ペリー来航により朝廷(ちょう てい)の許可を得ずに日米修好通商条約に調印(ちょう いん)開国路線(かい こく ろ せん)に踏み切った幕府と、攘夷派(じょう い は)との対立は激しさを増し、攘夷の立場をとる孝明天皇(こう めい てん のう)は、水戸藩(み と はん)をはじめとする徳川御三家(ご さん け)御三卿(ご さん きょう)などに対して戊午(ぼ ご)密勅(みっ ちょく)≠ニ呼ばれる幕政改革遂行(すい こう)の命を下す。つまり幕府に攘夷を推進(すい しん)するよう(せま)り、外様(と ざま)譜代大名(ふ だい だい みょう)らと協調して公武合体(こう ぶ がっ たい)≠実現しようとしたのである。ところがこれを陰謀(いん ぼう)と見た大老(たい ろう)井伊直弼(い い なお すけ)は安政の大獄(たい ごく)断行(だん こう)し、その圧力を一掃(いっ そう)しようとしたが、怒りを買った直弼は暗殺され、両者の対立はますます深まった。しかしここにきて混乱する国論(こく ろん)を統一せざるを得なくなった幕府と朝廷は、時の将軍家茂(いえ もち)と皇女和宮(かずのみや)のご成婚という形を世に示し、公武合体を実現しようとしたわけである。いわば家茂も和宮もその犠牲者と言えるが、そんな思惑(おも わく)とは裏腹に、時の政治に対して庶民(しょ みん)たちは面白(おも しろ)おかしく醜聞(しゅう ぶん)を振りまくものだと、良山は苦笑いを浮かべて江戸の様子を伝える。
 「公家(こう け)久我(く が)様が幕府から賄賂(わい ろ)を受け取り、天皇を(だま)して嫁入(よめ い)りを決めたと(もっぱ)ら騒いでいます。つまり和宮様は幕府の人質だと」
 「江戸の庶民は幕府より天皇の味方というわけじゃ。しかし(たみ)の言うことなどいちいち気にしていたのでは政治などできんわい」
 直格の口調は「それが世の道理だ」と言わんばかり。それにしても口数の少ない直武の様子が気になった。
 「兄上、どうなさいました? 先ほどから元気がないように見えますが」
 すると直武は力なく笑った。
 「旅費を捻出(ねん しゅつ)するだけでも大変な苦労さ。藩の財政は火の車、おれが藩主になってからますます悪化している。領民からは惣領(そう りょう)甚六(じん ろく)≠ネどと陰口(かげ ぐち)され、すっかり自信をなくしたよ……」
 須坂藩の財政難は深刻な問題だった。直武が家督を継いでより、翌弘化三年(一八四六)の江戸の大火で、南八丁堀の上屋敷と駒込目白台にあった下屋敷が全焼の類焼に見舞われ、更にその翌年には善光寺大地震によって千曲川沿いの村々が大災害を被る災難続き。南八丁堀の上屋敷の再建と亀戸の下屋敷新築に加え、大坂加番などという役職を仰せつかった日には遠く現地まで赴く旅費やら何やらで出費がかさみ、あたかも大きな穴の開いた小さな樽から水がこぼれ落ちるが如くお金が流れて消えた。否──それは直武の代に始まったことでない。天保(てん ぽう)大飢饉(だい き きん)以来の作物の不作が招いた危機であり、それはまさに第十一代藩主である父堀直格の代からの負の遺産なのだ。その借財額は嘉永三年(一八五〇)の時点で四万四千両以上にのぼっており、返済の目途もたたないまま負債額は膨らみ続けている。当時どこの藩も同じような問題を抱えてはいたが、あの手この手を尽くしてみても、わずか一万石あまりの小規模な藩にとっては耐えていくにも限界が見えた。
 「このまま財政破綻(ざい せい は たん)してしまったら、須坂藩はどうすればよいのでしょう?」
 直武はため息まじりに呟いた。
 「最悪の場合、領地を幕府に返上するしかなかろうが……そんなに(きび)しいのか?」
 直格は半分他人事(ひ と ごと)のように言ったが、続けて、
 「ほれ、あれはどうした、あれは──吉向焼(きっ こう やき)
 そこにいた者は皆「またか」と思ったが、父に対してそれを口にする者はない。
 須坂吉向焼は、直格が須坂藩の財政難克服(こく ふく)のため、起死回生(き し かい せい)()けて行った藩主としての最後の事業と言えた。陶技(とう ぎ)意匠(い しょう)に優れ、諸大名にもてはやされていた吉向焼の創始者戸田治兵衛(と だ じ へ え)吉向行阿(きっ こう ぎょう あ))父子を須坂に招いて弘化二年(一八四五)、鎌田山(かま た やま)(ふもと)に信州最大級にして最先端の製陶技術(せい とう ぎ じゅつ)駆使(く し)した紅翠軒窯(こう すい けん よう)≠ニ名付けられた須坂吉向焼の巨大な登り窯を築いたのである。もっともそのとき家督は直武に譲っていたが、膨大(ぼう だい)な初期投資に加え、時代は高級陶器(こう きゅう とう き)などで呑気(のん き)に茶の湯などやっている雰囲気でなくなった。焼けば焼くだけ赤字がかさみ、わずか九年足らずで廃窯(はい よう)に追い込まれる。その後は行阿の弟子の手で日用雑器をひっそり焼いているが、隠居(いん きょ)の身となって久しい彼は、失敗の責任をすべて直武に負わせる形になったわけだ。それでもこうして顔を合わせるたびに「設備はあるのだ。もう一度挑戦してみろ」と(あきら)めが悪い。
 「父上に言われて高麗人参(こう らい にん じん)にも取り組んでみましたが、なかなかどうして栽培(さい ばい)が難しい……。杏や漆や桃にも手を伸ばしてみましたが、いまだ明るい兆しは見えません」
 直武の苦悩は想像以上で、深いため息を落とした。おそらくこのとき既に精神を病んでいたのだろう。
 「生糸(き いと)をやってみてはいかがです?」
 良山が呼吸をするように言った。
 「生糸?」
 「少し前に上田藩の松平伊賀守(まつ だいら い がの かみ)忠固(ただ かた))様がオランダやエゲレスを相手に生糸貿易を始めたという話を聞きました。上田の方では生糸商人が盛んに動いているらしいですよ」
 「面白(おも しろ)そうだが」と直武が言おうとしたとき、
 「忠固か……亡くなって今年の長月でもう二年になるか? 老中を二度も務めたのに、幕府にとっても須坂藩にとっても惜しい人物を失った」
 直格がぽつんと言った。彼にとっては財政のことより藩を取り巻く情勢の方が気になるらしい。直武は「お金の話はもうよそう」と言うように杯を飲み干した。

 文久年間の頃の須坂藩江戸藩邸上屋敷は南八丁堀にある。
 幕府の都合で敷地替えさせられることもしばしばあるが、いわゆるそこは与力や同心の組屋敷が建ち並ぶ町であり、代々の須坂藩主はおおむね呉服橋御門番(ご ふく ばし ご もん ばん)とか日比谷御門番(ひ び や ご もん ばん)などの警備職を歴任している。職種柄からすれば都合の良い場所なのである。
 翌日からさっそく登庁(と ちょう)した直武は例外にもれず江戸城警備に当たることになったが、これが大坂加番とか二条城加番、あるいは駿府城加番(すん ぷ じょう くわえ ばん)などの役目を与えられたとなれば現地にまで行かねばならないから、憔悴(しょう すい)した彼の身体を考えると免れただけで喜ばなければならない。
 当時は日曜とか土曜といった概念はないので、武士ともなれば盆と正月以外はいわゆる二十四時間体制で将軍を守らなければならない。と言えばひどく大変な仕事のように思えるが、その実質を問えば、出仕時間が朝四ツ時(十時)から午後九ツ半(十三時)までの三時間程度、門番などは交代番があるが、現代と比べれば職務の拘束時間は極端に短い。有事の時はいざ知らず、日常の時間的余裕はかなりあるので、その時間を当てて武術や学問などの自己研鑽に励み、有事に備えるのが面目である。それにつけても直武は出仕するだけでもきつそうで、上屋敷常住の江戸家老(え ど が ろう)駒澤式左衛門貞利(こま ざわ しき ざ え もん ただ とし)は、彼の様子を心配して下屋敷の直格に報告をしたほどだった。
 そして──
 十日ほど経ったある日、良山が直格に呼ばれて告げられたのは驚くべきことだった。
 「家督を継いでもらえんか?」
 良山は暫く言葉を失った。直武の妻は松平忠固(まつ だいら ただ かた)の弟に当たる西尾隠岐守忠受(にし お お きの かみ ただ さか)の養女であるが、嫡男がない。
 「承知の通り須坂藩の財政はにっちもさっちもいかん。そこへきて直武は人が良すぎる。国元の家老たちにものも言えず、好き勝手にやらせているようじゃ。それ以前にどうやら身体を(わずら)っておる。直武が血を吐くところを貞利が見たそうじゃ」
 「えっ?」と良山は小さな驚きの声を挙げた。
 「このままあいつに任せていたら、近い将来本当に須坂藩は破綻(は たん)する」
 直格の表情は深刻だった。この間の(うたげ)ではとぼけたふうを装いながら、彼は彼なりにすっかり直武の置かれた状況を見抜いていたようである。良山は突然の展開に躊躇(ちゅう ちょ)するより仕方ない。
 「こんなこともあろうかと五年前、お前を直武の養子にしておいたのじゃ。交代の日取りも決めた、霜月の六日じゃ。考える余地などない、腹を決めるだけだ」
 五年前の安政三年(一八五六)二月、何の前触れもなくその話を聞かされた良山は、父より直虎≠ニいう名を与えられていたが、あまり自分と合っていないようで馴染めず、実感が湧かないままいつしか忘れ去っていた。良山は父の抜け目なさに渋面を作り、
 「強引ですね。この前も申し上げましたが、私は私塾を開きたいのです」
 「私塾を開いて人を育てて何がしたい? 何を教えようとしてるのか知らんが、そんなもん開いてちまちま門弟に言い含めるより、藩主になれば(つる)の一声じゃ。この家に生まれた者の定めと思って(あきら)めよ。頼んだぞ」
 直格は有無を言わさず背を向けて、やりかけの日本画の画家伝記集の編纂の仕事を始めてしまった。お家にとっては何より重要な家督の話は二言三言で終えてしまって、自らの楽しみである仕事に向かう直格は根っからの文化人なのだ。
 「そういえばこの間頼んだ山桜の系譜集の方はどうなった?」
 良山はその言動に腹を立てたが、ぐっとこらえて、
 「題号を叒譜(じゃく ふ)≠ノしようと思います」
 と、静かに応えた。
 「叒譜=c…。うむ、なかなかよいな」
 良山は父の背中に一礼すると、そのまま部屋を出た。

 さて困った──。
 藩主になれと突然言われても、覚悟もなければその気もない。私塾を開いてようやく人生の道筋が見えかけたというのに、ああも強引に押し付けられたら身も(ふた)もない。直武が血を吐いたというのは当主に仕立て上げるための作り話ではないか? 兄は品行方正(ひん こう ほう せい)で知恵もあり、確かに人の良すぎるところはあるが、それが自分に替わったところで藩の状況が変わるわけでない。
 いらぬ事を考えながら下屋敷の敷地内を歩いていると、やがて家臣たちの長屋(なが や)が立ち並ぶ一角にたどり着いた。
 「なぜこんな所に来たのだ?」
 良山は自分の行動に首を傾げたが、無意識のうちに中島宇三郎(なか じま う さぶ ろう)の住居に向かっていたかと合点(が てん)がいった。幼少の頃の良山付き御近習(ご きん じゅう)で、元服(げん ぷく)して人事変更があったのでかれこれ十年くらい会っていない。もう五十路(い そ じ)を過ぎたろう、やたらと腰が低く馬鹿正直(ば か しょう じき)な上、気が良すぎるほどの善人で、当時も独り身だったが所帯(しょ たい)を持った(うわさ)は聞こえてこないのできっといまだ独身だろう。
 数えで十歳の夏だったか──
 ある夕暮れ、宇三郎の住居の前を通りかかったとき、開け放った屋内の中央に木机(き づくえ)を置き、上に乗ってなにやら黄ばんだ長い布切(ぬの き)れを一生懸命天井に()るそうとしている彼の姿を偶然見かけた。不審に思った良山は近寄り、
 「なにをしておる?」
 と声を掛ければ、驚いた宇三郎はバランスを崩して転げ落ち、腰を打って暫く痛そうにさすっていた。
 「(わか)(ぼっ)ちゃん……突然びっくりするではございませんか」
 「なにをしておると聞いておる」
 「もう夏でございましょう? 最近、()に喰われて(かゆ)くて痒くて仕方ありません。そこで蚊帳(か や)を吊るそうとしていたのでございます」
 「その黄ばんだ布切れは何じゃ?」
 「こ、これでございますか?」
 宇三郎は言いにくそうに暫くもじもじしていたが、やがて、
 「ふんどしでございます……」
 武士は食わねど高楊枝(たか よう じ)と言うほどに、ふんどしで蚊帳を吊るとは武士としてあまり格好の良い姿でない。宇三郎は顔を真っ赤に染めて、吊るしかけたふんどしをはずそうとすると、
 「はずすにはおよばぬ。そのままでよい」
 良山は無表情のまま暫く宇三郎の顔を見つめていたが、やがて、

 ふんどしで蚊帳をつりけり宇三郎

 そんな即興句(そっ きょう く)()んで何食わぬ顔で立ち去った。一応季語があるから俳句に違いないが、その滑稽さは川柳とか狂歌とか当時江戸で流行りの雑排の類いである。折に触れてそんな俳諧を詠むのを楽しみにした良山の、これが最初のそれである。
 おかげで夏の間中、宇三郎は他の家臣たちからふんどし宇三郎≠ニからかわれて過ごしたようだが、その出来事があった翌日、良山はこっそり真田紐(さな だ ひも)を届けた。これで蚊帳を吊るせというのである。ところが宇三郎はその紐を有難(あり がた)がって使おうとせず、ずっと神棚(かみ だな)に供えていたということだ。
 良山は長屋の一室で草鞋(ぞう り)を編むすっかり老いた宇三郎の姿を見つけた。
 「よう宇三郎、元気にしておるか?」
 宇三郎は仕事の手を休めて、立派に成長した良山に気付くと、みるみる双眸(そう ぼう)に輝きを取り戻し、「若お坊ちゃん!」と、しわがれた喜びの声を挙げた。彼は良山のことをいまだにそう呼んだ。
 「今日はふんどしは吊るしておらぬのか?」
 「──もうそんな季節でございますなあ」
 宇三郎は過ぐる日の冗談に乗って笑い、(わら)で散らかった部屋を片付け「いまお茶を()れます」と土間の釜戸(かま ど)で湯を沸かし始めた。
 「かまうな。ちと近くに来たもので、宇三郎がどうしているか気になって寄ったまでだ」
 「また(うれ)しいことをおっしゃいますが、そのお顔は、何かあったのでございましょ?」
 どうもこの男は(だま)せない。良山は遠くを見つめて、
 「実は父上より家督を継げと言われてのう……」
 遠い昔の思い出を辿るふうに呟いた。
 「それは、ご相談ですか? ご報告ですか?」
 「言い出したら梃子(て こ)でも動かぬ父上が申したのだ。両方じゃ」
 「それはおめでとうございます! たった今から殿≠ニ呼ばせていただきます!」
 宇三郎は自分のことのように歓声を挙げた。不思議なもので、()った瞬間、会わなかった間の(みぞ)が一瞬にして埋まる関係もあったものだ。
 「そんなにめでたいか?」
 「はい、めでとうございます。私は直武様が藩主になられた時から、若お坊ちゃん──いや、殿が藩主になれば良いのにとずっと思っておりました。もっともあのとき殿はまだ(とお)洟垂(はな た)れ小僧でしたがな」
 宇三郎は懐かしそうに笑って「むさくるしい所ですが」と屋内に招き入れた。藩主になろうとする者としては、藩が提供している長屋をむさくるしい≠ニは(しゃく)(さわ)ったが、部屋の中を四顧(し こ)してみれば、まだ築十数年ほどの建物はなるほどそう言われても仕方ない。弘化三年(一八四六)の大火で目白台の下屋敷を締め出され、ようやく見つけた亀戸の敷地内に建てられたそれは、財政難と突貫工事の代物なのだ。
 宇三郎は釜戸に(まき)をくべた。
 「わしに藩主など務まると思うか?」
 「思いますとも! たかだか一万石の小さな国の藩主など殿には役不足(やく ぶ そく)でしょう。殿はいずれ将軍様のお膝元(ひざ もと)で国を動かす仕事をなさるお方です。私は昔からそう思ってました」
 「ずいぶん大きく出たな。なぜそう思う?」
 「そりゃ御近習(ご きん じゅう)ですから。そうでも思わなきゃ、あのやんちゃな若お坊ちゃん──いや、殿の御世話などできません」
 「さような意味か。がっかりさせるな」
 「いいえ、本心ですとも! その利発(り はつ)さ、機転(き てん)の良さ、度胸(ど きょう)愛嬌(あい きょう)、人を引き込む魅力──、どれをとっても申し分ありません。こんな小さな時から殿を見て来た私が言うのです。間違いございません!」
 宇三郎の老いた瞳には涙がにじんでいた。
 思えば昔、この男を随分と困らせたものだ。家老が大切にしていた床の間の盆栽に小便をひっかけてみたり、手習いの(すみ)で掛け軸にらく書きしたり、できたばかりの屋敷の門を壊してみたり、そのたび宇三郎が間に入っていつも代わりに怒られ役を引き受けてくれた。あるときなど過ぎた悪戯(いた ずら)を見かねた彼の上役が、「お前には監督能力が全くない!」とお役御免(やく ご めん)を言い渡したこともあったが、寸でのところで父に泣きつき、「もうしませんから宇三郎をお許しください」と固く誓って許しを請うたこともある──その良山の長所も短所も知り尽くした宇三郎が、
 「でも……」
 と言いかけ言葉を止めた。
 「でも──? なんじゃ? 気になる、言え」
 宇三郎はそっと目を()らして、静かに「優しすぎます」と、彼の短所をずばりと言った。
 「なに?」
 「殿は優しすぎます。それだけが心配でございます」
 「どういうことだ?」
 「藩主になったら、家臣を(さば)かねばならない時もありましょう。そのときは鬼にならなければなりません。同情や優しさは一凶(いっ きょう)となり、時に大きな禍根(か こん)を残します。裁くべきは断じて裁く。上に立つとはそういうことでございます」
 「そう言う宇三郎は、わしを裁くことなどただの一度もなかったではないか」
 「裁かれる者の気持ちを知れば、優しい若お坊ちゃんは人を裁くことができなくなりましょう」
 「それを教えるために……?」と良山は思った。人生を懸けて自分を育ててくれた彼の心を知ったとき、今更のように胸が熱くなる。宇三郎はこの年になってようやく使命を終えたような晴れ晴れとした表情で土色(つち いろ)の顔に幾重(いく え)もの深い(しわ)を作ると、良山は涙腺を湯気で隠すように()れたての(しぶ)い番茶をすすった。
 
> (三)鴬谷(おう こく)先生
(三)鴬谷(おう こく)先生
 良山が深川の亀田鴬谷(かめ だ おう こく)が開く通称『亀田塾(かめ だ じゅく)』に通い始めたのは物心がつき始めた頃である。
 もともと亀田塾の祖亀田鵬斎(かめ だ ぼう さい)は書道の大家でもあり、妻を亡くした鵬斎(ぼう さい)が文化六年(一八〇九)、日光から佐渡の門弟のところへの傷心(しょう しん)の旅の途中、信州は北信地方を通った時に、藩や村を越えて地域の有力農民や富裕商家の文化人たちと交流したのが関わりの始まりだった。その復路(ふく ろ)(文化八年)、須坂藩の家老駒沢清泉(こま ざわ せい せん)が彼を屋敷に招き、七絃琴(しち げん きん)の演奏で歓迎した。
 それまでの須坂藩の教育は、第九代藩主堀直皓(ほり なお てる)が創設した講舎『教倫舎(きょう りん しゃ)』で教えた心学が中心だったが、郷土の中村習輔はじめ心学の中心的人物の力が弱まると、鵬斎の門人のひとり菊池行蔵を儒官として須坂に招き、併設という形で藩校『立成館(りっ せい かん)』を開設して藩の教育に儒学(じゅ がく)を取り入れるようになった。以来鵬斎(ぼう さい)の門は、一子である亀田綾瀬(かめ だ りょう らい)が後を継ぎ、更に鴬谷(おう こく)へと、須坂藩堀家では代々この亀田塾をひいきにしている。
 通う門弟といえば主に旗本(はた もと)御家人(ご け にん)の子弟たちで、亀田綾瀬(りょう らい)下総国(しもうさのくに)関宿藩(せき やど はん)教倫館(きょう りん かん)』の儒官(じゅ かん)を務めていたことから関宿藩の門人も多く、表向きは主に儒学を教えた。
 このとき鴬谷五十四歳、もとは下総(しも うさ)岡田郡(現茨城県)の出で鈴木を名乗っていたが、江戸に出て浅草の蔵前(くら まえ)で私塾を開いていた亀田綾瀬の門を叩いてからは、近くの鶯谷(うぐいす だに)に居住したことから『鴬谷(おう こく)』を名乗るようになった。
 良山が鴬谷先生を敬愛したのはその温かみのある笑顔と、あからさまに自分の過去を語るけっして偉ぶらない人柄による。亀田塾の祖鵬斎が豪放磊落(ごう ほう らい らく)な性格だったのに対し、二代目の綾瀬は「温顔(おん がん)の中、眼光(がん こう)人を()るを(おぼ)ゆ」と称される温厚篤実(おん こう とく じつ)君子(くん し)であったが、鴬谷はその二人の性格をあわせ持つような不思議な魅力があった。
 「おれが亀田塾の三代目になったのは、ぬい()れたからよ」
 とは酔ったときの口癖(くち ぐせ)で、(ぬい)とは彼の妻の名である。
 実は綾瀬には子がなかった。そこで養女を迎え入れたが、ただの書生だった鴬谷はその娘をひと目見てぞっこん惚れてしまった。その娘というのが若かりし縫である。それまで塾生の中でも特に目立ちもしない存在だった鴬谷が、以来(ぬい)と一緒になることを目標に定め、師の綾瀬(りょう らい)に認めてもらおうと俄然(が ぜん)勉学に打ち込んだのだ。
 「学問なんて所詮(しょ せん)そんなものよ。それより大事なのは(おのれ)がどうあるかだ」
 と、いつも冗談交じりに笑い飛ばすが、それが案外(まと)を射ていると感じてしまうところに、良山は強い(あこが)れと親近感を覚える。
 鴬谷(おう こく)の唱える和魂漢才(わ こん かん さい)≠ネるものは、その言葉自体は古くは平安時代中期には成立していた概念で、大和魂(やまとだましい)唐才(から ざえ)≠ニいう言い方もある。読んで字のごとく「日本の精神」をもって「中国の学識」を為すことで、中国渡来の学問や優れた思想哲学(し そう てつ がく)を実生活の中に取り入れながら、振る舞いや行動、あるいは処世術(しょ せい じゅつ)や判断は、日本固有の精神である大和魂(やまとだましい)に従おうとする考え方である。鴬谷自身「和心(わ ごころ)のない(やつ)に儒学を学ぶ資格などない」とよく言っているが、彼の言う和魂≠ニは大和魂だけにとどまらず、その生きざまと深く関係しているようだった。つまり(おのれ)≠ニいうものが入ってくる。大和魂の実在は己にあり、突き詰めるところ「己とは何ぞや」を問い、追求するところに学問・教育の意義があると結論していた。
 そんな講義を流暢(りゅう ちょう)(しゃべ)っていると、決って妻の(ぬい)が現れて塾生に茶菓子(ちゃ が し)を振る舞う。そして、
 「そう言うあなたは何者よ、ねぇ?」
 と塾生たちに賛同を求めた。すると、
 「おれか? おれはぬいに惚れた男よ」
 とのろけて、亀田塾はいつも笑いに包まれた。
 そんな気さくな妻(ぬい)も良山は大好きで、(よめ)にもらうなら彼女のような根っから明るい女性が良いと密かに思った。ちなみに二人の子である亀田雲鵬(うん ぽう)も須坂との関わりが深い。
 幼少の頃の良山は学問よりいたずらをしている方が楽しく、塾以外では勉強などしたことがなかったが、元服(げん ぷく)を迎えて浦賀のペリー来航で江戸の町が天地鳴動(てん ち めい どう)の騒ぎに包まれた時、
 「わしはこのままでいいのか?」
 と心の底から動執生疑(どう しゅう しょう ぎ)が湧き起こった。そうなったら()(たて)もたまらず、「何か事を起こさなければ!」と若い血が騒ぎ、居ても立ってもいられなくなった。数えで十八歳の夏である。
 そして翌年、日米和親条約締結(にち べい わ しん じょう やく てい けつ)のため再航した総計九隻の黒船に対し、幕府から下総の海岸防備を命じられた松代藩と一緒に、須坂藩からは藩士(はん し)四十四名がその警備に当たることになった。そこに自ら志願した良山は、浦賀沖に停船する巨大な船から、もうもうと()き上がる黒い煙を見たのだった。
 松代藩の中に(ひげ)(たくわ)えた目付きの鋭い不惑の年ほどの偉そうな男がいた。彼の存在が気になったのは、その頃はまだ珍しい望遠鏡をしきりに覗き込み、観察した黒船の絵図を紙に描き込んでいたからである。このとき軍議役を仰せつかっていた松代藩の佐久間象山という男であることはすぐに知ったが、突然観察の手を休めた彼がこう叫んだ。
 「おーぃ誰か、あそこまで泳いで異人(い じん)さんに挨拶(あい さつ)して来れる(やつ)はないか?」
 「わしが行く!」
 良山は燃える情熱に任せて象山の前に進み出ると、衣服を脱ぎ捨てふんどし一丁姿で、そのまま海に飛び込もうとした。ところがその腕を慌てて(つか)んだ象山は、
 「阿呆(あ ほう)! 冗談じゃ」
 と差し止めた。幕府に無断で外国船と接触するなど重大な罪に問われる。まして密航(みっ こう)など考えようものなら──と思うそばから、それを(くわだ)てたのが長州藩(ちょう しゅう はん)吉田松陰(よし だ しょう いん)だった。曲がりなりにも彼もまた象山の弟子であり、そのとき「あの船に乗って外国事情を学んで来たいとは思わぬか?」とそそのかしたのも象山なのである。
 「馬鹿が二人いた」
 と(あき)れつつも、内心どこかで喜んでいた象山は、幕府の取り調べを受けた時、
 「若者が外国へ学びに行こうとするのを勧めて何が悪い!」
 と突っぱねて、自国蟄居(ちっ きょ)沙汰(さ た)を言い渡されるのだ。
 象山の話はさておき、そんな出来事を通して、良山は自分がいかに無知であったかに愕然(がく ぜん)とした。彼が漢学に没頭(ぼっ とう)し始めたのはそれからである。
 『四書五経(し しょ ご きょう)』は(はな)から、『史記(し き)』や『漢書(かん しょ)』や『三国志』や『晋書(しん じょ)』などの中国の歴史書をはじめ、手に入る書物なら片っ端から集め、寝る時間も惜しんで学問に励んだ。そのすさまじさたるや、元服後に御近習となった柘植宗固(つ げ むね かた)に言わせれば、
 「若様がいつ寝ていつ起きているのか、まったくわからん」
 だった。夜が()ければ「先に寝よ」と家臣たちに気を遣い、自分はいつまでも机にむかって誰よりも遅く寝たかと思えば、朝は誰よりも早く起きて机にかじりついている。わずか唐紙(から がみ)一枚ほどで(へだ)てた隣の部屋にいながら、良山が寝ている姿を誰も見たことがないのだ。
 この柘植という男だが、その苗字の出どこを探れば伊賀国である。戦国時代はいわゆる忍びの者の血筋で、その彼にしてそう言わしめる良山は、もとより素質もあっただろうが、その成長ぶりには師の亀田鴬谷も目を丸くした。
 「もう教えることがない──」
 と(した)を巻いたので、当時西洋学の主流であった蘭学(らん がく)に手を出した。今から思えば英学(えい がく)を学べば良かったと思うが、「藩主になれ」と父に告げられた頃に至っても、開国間もない日本では肝心(かん じん)の英語の書物自体手に入らない。
 そして月日は矢のように流れ去り、藩主交代の十一月六日が近づいた。
 それにつけても父の強引さが気に入らない。宇三郎の前で素直になれたのは、幼少より跡継(あと つ)ぎ教育を無意識のうちに受けてきたからだろう、五男とはいえ心のどこかで「もしや」を感じていたからだ。世襲制(せ しゅう せい)が当たり前の国だから仕方ないかも知れないが、日本人たる(じゃく)≠フ習わしに矛盾(む じゅん)するその大きな葛藤(かっ とう)は、あるいは若さの(しる)しだった。
 そもそも須坂藩堀家の発祥を探れば戦国時代にまで遡る。豊臣秀吉の重臣堀秀政の従兄弟に当たり、堀家の家老だった奥田直政の四男直重が祖とされる。最初奥田姓だった直政はやがて堀姓を与えられ、初代堀直重は早い時期から徳川家に近づいた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで東軍について軍功を挙げ、下総国(しもうさのくに)矢作(や はぎ)に二、〇〇〇石と信濃国須坂に六、〇〇〇石の所領を与えられ、さらに慶長十九年(一六一四)からの大坂の陣でも徳川方として参戦し、そこでも功績を挙げて高井郡内に四、〇五三石を封土され一万二、〇五三石の大名となった。その後二代直升の代に下総矢作の二、〇〇〇石を弟たちに分知したため一万五十三石となって現在に至る。とはいえ豊臣政権下から派生したものだから外様大名には違いない。
 初代直重(なお しげ)∴ネ来、須坂藩堀家の当主は代々直≠フ後ろに(ます)(てる)(すけ)(ひで)(ひろ)(かた)(さと)(てる)(おき)(ただ)(たけ)≠当てて名としてきた。なのに、なぜ自分だけ獰猛(どう もう)畜生(ちく しょう)である(とら)≠ネのか? 良山は父が命名した直虎≠ニいう名からして納得していない。
 自分はもっと穏やかで、どちらかと云えばのほほんとした性格なのだ。どうせ名乗るならもっと知的で上品な方が良い。いっそ直虎≠ヘやめて、自ら考えた名で藩主になるのを条件にしようとも考えたが、肝心の佳い名が思いつかない。憤慨と迷いで揺れる良山はその夜、亀田塾の門をくぐった。
 「どうした? ()えない顔をしておるぞ。藩主がそれでは須坂藩の先が思いやられるな」
 鴬谷はいつものように彼を迎え入れた。
 「ちと、ご相談に乗っていただきたい儀がございまして……」
 「そうか、まあ中に入れ」
 誰もない亀田塾のいつもの部屋に通され師の正面に対座した良山は、「一本浸けますか?」と姿を現した縫のいつもの笑みに心和ませた。
 「急に逃げ出したくでもなったか? 顔に書いてあるぞ」
 鴬谷は全てを見抜いているかのように「お前らしくない」と笑う。
 「なんだか落ち着かないというか、自分が自分でないようで、どうもしっくりこないのです」
 すると鴬谷は少し考えて、
 「お前は何になろうとしているのか?」
 と問うた。
 「無論、藩主です」
 「それだ、それがいかん。お前はお前でないものに成ろうとして、無理やり覚悟を決めようとしておるのだろう。お前はお前にしかなれんよ」
 と、幼少の思い出話がはじまり、ふとした拍子に宇三郎のことが話題に挙がった。思い起こせばその小さかった手を引き、いつも亀田塾に連れて来たのも彼だった。
 「御近習の中島宇三郎君には相談したのかい? 彼が君のことを一番よく知っているじゃないか。最近見ないが元気にしているのかな」
 宇三郎の話が出たのはやや意外であるが、本題から離れ、別の話題で(こと)(きも)を見つけ出し、本人を納得に導こうとする鴬谷のいつもの手法であろう。
 五、六歳の頃だったか、塾の勉強に()いた良山がすぐ横にあった障子を破り始め、そのうち暴れて部屋中の障子を破ってしまったことがある。そのとき「申し訳ない!」と頭を床にこすりつけた宇三郎が、夜中まで一人で張り替えをしていたことや、年上の子と喧嘩(けん か)して怪我(け が)をさせてしまい、先方の親がひどい剣幕で塾に苦情を言いに来たときも、宇三郎がすまなそうに大きな菓子折りを持って謝りに行ったことなど、塾で起こった彼にまつわる思い出話が次々と飛び出した。そして酒を運んで来た(ぬい)が笑いながらこう言った。
 「(りょう)ちゃんの半分は宇三郎さんでできているのね」
 彼女は良山のことを親しみを込めて「良ちゃん」と呼ぶ。その笑顔を見ていると、どれほど深刻な状況に置かれていても、悩んでいること自体馬鹿げてくる。
 やがて鴬谷は話しを戻す。
 「おれはお前の師匠(し しょう)だが、お前の師匠になろうと思ってなったわけでない。お前がここに来たから師匠になったのだ。いまでさえ多くの塾生を得たが、もとをただせば綾瀬(りょう らい)先生と出逢い、(ぬい)に惚れたからこそおれがある。ぜんぶ母ちゃんのお陰さ」
 「またその話し?」と(ぬい)は呆れたようにまた笑った。
 「いいじゃねえか、ホントのことなんだから。だからおれは儒学の師匠だなんてこれっぽっちも思っていないんだ。どこまでいってもおれは綾瀬先生の弟子であるし、母ちゃんに惚れたただの男だよ。だから偉そうに背伸びする必要もなければ、見栄(み え)を張る必要もない」
 (さっ)しのいい良山は、おおよそ師の言わんとすることが理解できた。彼の説く和魂≠ニは大和魂≠フことであり、大和魂≠フ実在は己≠ノあり、己≠ニはすなわちありのまま≠ニいう意味で、そこから離れた時、人は何者にもなれないという事を教えようとしているのであろう。
 「さて良山君、いまから一つ試験問題を出そうと思うが、答えられるかな?」
 鴬谷は禅問答(ぜん もん どう)でもするような意地悪(い じ わる)(ふく)み笑いで良山を見つめた。良山はかしこまって「どうぞ」と姿勢を正した。
 「──君は何者か?」
 「私はたかだか一万石の堀家の五男坊です」
 「それだけか?」
 「亀田鴬谷先生の弟子になった男です」
 「それから?」
 良山は少し考えて、
 「父上の盆栽(ぼん さい)に小便をかけて遊んでいた男です」
 (ぬい)がプッと吹き出した。
 「そんなことをしたのか! まあよい、それから? まだあるだろう?」
 すると良山の頭の中に、幼い日の出来事が走馬灯(そう ま とう)のようによみがえった──。
 まだ三、四歳の頃だったろうか、一人で遊んでいると乳母(めのと)(とも)が「負んぶしてあげましょう」と言ってきた。若い彼女は美しく、幼かった彼の憧れだったが、()(かく)しに「オオ」と横柄(おう へい)に応えて勢いよく背中に負ぶさると、手にした手拭(て ぬぐ)いの先端を彼女の口もとに垂らして「くわえよ」と命じた。朋は言われるまま(くわ)えると、
 「やあっ! バカを釣った、バカを釣ったぞ!」
 魚釣りを()したその光景を見ていた周りの者たちはどっと笑い、良山も得意になって大喜び。朋はすっかりしょげてしまう。またある時は「この手ぬぐいをくわえて()え!」と命じた。
 「若様、ご冗談はおやめください」
 彼女は恥じらいもじもじしたが、もっと困らせてやろうと腹を立てた振りをして「無礼者(ぶ れい もの)!」と叫ぶと、彼女は仕方なく言われたとおりに腹ばいになって手拭いを銜えた。すると良山はいきなりその背にまたがり、手拭いを馬の手綱(た づな)に見立て、
 「やあっ! お(んま)じゃ、お(んま)じゃ! ハィ、ハィ、ドウ、ドウ、飛べ、飛べっ!」
 と大はしゃぎ。その遊びがたいそう楽しく、朋の(ひざ)はいつも()り切れ「痛い、痛い」と言っていた。
 なぜよりによってそんな事が思い出されたか、あの時「ごめん」の一言が(のど)まで出かかって言えなかった後悔が、今更のように良山を苦しめた。もしかするとあれが支配欲の芽生えであったか、結局その言葉を伝えられないまま彼女はどこかへ嫁いで行った。
 しょせん自分はそんな人間なのだ──。
 そう思ったとき、他人にはけっして知られたくない一番思い出したくない自分を思い出す。
 「お前は何者だ?」
 更に問い詰める師に隠し事はできない。良山は人非人(にんぴにん)(ののし)られようと白状しなければいけない良心に従った。
 「乳母(めのと)行水(ぎょう ずい)(のぞ)き見した男です」
 鴬谷と(ぬい)は顔を見合わせた。
 「(あき)れたやつだ! もうよい。そんな奴がよくぞここまで成長したものだ。これからも学問を(おこた)ることなく、お前のままでゆけばよい」
 自分らしくあれ──鴬谷先生はそう教えている。ありのまま眼前の障害に尽力し、乗り越え難きは力を付けるだけで、己を取り巻く環境などある意味どうでもよいことなのだ。私塾開設の夢が強引な父に打ち砕かれ、翻弄されて己の実在を見失っていたことに気付いた良山の煩悶(はん もん)は、俄かに嘘のように晴れ渡った。
 「わかったようだな」と柔和な笑みを浮かべた鴬谷の表情は、つい先ほどまで拷問官に見えていたものが、慈父の菩薩に変わったかに感じられた。
 「実はもう一つお願いがございます。新しい名を命名して欲しいのです。堀家は代々初代直重公(なお しげ こう)の直≠フ字を頂戴(ちょう だい)することになっておりますが、私に見合った()い名を先生から(たまわ)りたい」
 「直虎(なお とら)≠ナはないのか?」
 「どうも何から何まで父上の言いなりになっているようで癪なのです。自分らしくあるために、私に相応しい名を名乗りとうございます」
 「名など何でもよいでないか。今年の干支(え と)は何じゃ?」
 「辛酉(かのと とり)です」
 「では(とり)でよかろう。直鳥(なお とり)≠ナどうじゃ」
 その身も(ふた)もない単純な発想に、(ぬい)の方が不服(ふ ふく)そうに口を(はさ)んだ。
 「それでは鉄砲の音がしたらすぐに飛んで逃げて行ってしまいそう。藩主が真っ先に逃げそうな名前なんて可哀想(か わい そう)よ」
 「そうか?」と鴬谷は首を傾げて、
 「藩主になる日は何日だったかな?」
 「来月六日でございます」
 「十一月の六日(新暦では一八六一年十二月七日)か……その日の干支日(え と び)は何かな?」
 頭をひねった割に発想が同じことを笑いながら、縫は箪笥(たん す)の上に置いてあった(こよみ)をめくって「庚寅(かのえ とら)ね」と言った。
 「では(とら)でどうじゃ? 直虎(なお とら)≠カゃ!」
 「いいじゃない!」と縫も喜びの声を挙げたので、良山は「同じではないですか!」と反駁した。
 すると鴬谷はニヤリと笑んで「お前は父の心が分らぬか?」と諭した。
 「直虎(なお とら)≠ニ命名されたのはいつじゃ、何年の何月何日じゃ? 家に帰ってちゃんと調べてみよ。おそらく庚寅(かのえ とら)の日に違いない。(かのえ)≠ヘ五行(ご ぎょう)金行(きん ぎょう)のうち(よう)(きん)を表すから(かね)には困らん。それに鉱石や金属の原石の例えにも使われる文字だから(かた)くて荒々しい攻撃的な性質を示す。いかにも強そうじゃないか! 父はお前に勇ましくなって欲しいのだ。なよなよしていたのでは藩主など務まらん」
 良山は「はっ!」として、今更のように父の思いを知った気がした。鴬谷は続けた。
 「儒学では父親への孝≠ヘその思想の根幹とも言える。それに報いるのが子の務めというものぞ。ここはつまらぬ我≠ネど捨てて、父を立ててやってはどうか」
 この瞬間、良山の腹は完全に決まった。ここに須坂藩第十三代当主堀直虎(ほり なお とら)が誕生したのである。
 
> (四)上田藩の姫君
(四)上田藩の姫君
 良山(りょう ざん)改め直虎(なお とら)が藩主になって、最初にやったことは挨拶(あい さつ)回りである。
 大江戸の町は、京都を発った和宮(かずのみや)様がご到着されるのは今日か明日(あ す)かと落ち着かない中、(わず)か一万石の大名の藩主の誕生などに関心を示す者などない。
 向こう三軒両隣(さん げん りょう どなり)、武家屋敷が立ち並ぶ亀戸周辺を直虎は、まず須坂藩下屋敷西隣りの井上筑後守(ちく ごの かみ)下総(しも うさ)高岡藩(たか おか はん)下屋敷から本多隠岐守(い きの かみ)近江(おう み)膳所藩(ぜ ぜ はん)下屋敷へ、続いて南の旗本秋月金次郎(あき づき きん じ ろう)の屋敷に松浦豊後守(ぶん ごの かみ)平戸新田藩(ひら ど しん でん はん)下屋敷へ、須坂藩屋敷すぐ東の天神橋を渡って加藤遠江守(とおとうみのかみ)伊予大洲藩(い よ おお ず はん)下屋敷、そのほか近所付き合いのある家々を回って、江戸家老(え ど が ろう)駒澤式左衛門(こま ざわ しき ざ え もん)(ともな)ってからは、須坂藩と関係の深い諸藩の上屋敷を(まわ)ろうと、なんとも目まぐるしい日々である。これが何万石の大名であれば、向こうの方から大層な進物(しん もつ)を持って祝賀の挨拶に訪れるのだろうが、一万石の小国大名ではそうもいかない。十五日の登城の日には、運が良ければ将軍に拝謁した後、老中や御三家、御三卿などの屋敷も回る予定だ。
 将軍に拝謁といっても直武から聞いた話しでは、従五位以下の外様大名の身分では、同等の他藩の者と同列に、広い部屋の一番下座に平伏しているだけで、はるか彼方にお座りになられる将軍様など見れるわけではないと教えられた。拝謁≠ナなく見れる≠ニいうのは、下級大名にして正直な表現だったろう。
 その日式左衛門と、上田藩松平家の族親(ぞく しん)にも挨拶しておこうと馬にまたがった二人は、東部浅草茅町(かや ちょう)にある上田藩中屋敷(なか や しき)を目指した。多い時は上方も含め五つも屋敷を持っていた上田藩は、深川扇橋にも下屋敷を持っており、そこまで気を回さねばならないのは、須坂藩にとってけっしておろそかにできない藩の一つだったからだ。
 上田藩譜代五万三千石──
 石高(こく だか)からいえば格が違う両藩だが、もともと自領も地理的に近隣(きん りん)で、特にその関係を深めたのは天保(てん ぽう)大飢饉(だい き きん)以降であった。どこの藩も作物が穫れず()えに苦んでいたのは上田藩も例外でない。そんな中、隣国の松代藩が、領内からの米穀(べい こく)の流出を防ぐため『穀留(こく どめ)』政策を行う。上田藩は越後(えち ご)高田へ米を買いに行こうとしたが、それができない状況に(おちい)った。というのは、上田の地から越後へ行くには松代藩の領地を横切らなければならず、行くに行けずにほとほと困り果てた。そのとき道を開いたのが須坂藩だった。水内郡豊野(み のち ぐん とよ の)より布野(ふ の)の渡しを通して須坂藩領を経由し、仁礼村(に れ むら)より菅平(すが だいら)を通って長村(おさ むら)本原(もと はら)神科(かみ しな)の道順で輸送を可能にしたのだ。いわば須坂藩は貸しをつくる形になって、松平家という名門と石高の差による偏見(へん けん)を薄めたのである。この時の上田藩主が松平伊賀守忠固(まつ だいら い がの かみ ただ かた)で、須坂藩主は直虎の父直格(なお ただ)だった。
 その後、松平忠固は老中に抜擢(ばっ てき)された。嘉永元年(一八四八)十月のことである。そしてその五年後に起こる黒船来航事件で、彼はまさに幕内闘争の混乱の渦の中に巻き込まれていく。
 ペリーの開国要求に対し、幕内の意見は攘夷派(じょう い は)開国派(かい こく は)とに真っ二つに割れた。海防参与(かい ぼう さん よ)に任じられ水戸学(み と がく)の見地から夷敵(い てき)を打ち払うべきと主張する水戸藩徳川斉昭(とく がわ なり あき)と、文明の力をひっさげたアメリカを敵にするのは得策でないとする穏便(おん びん)、開国派である。
 開国派の中でも忠固(ただ かた)のそれは、二世紀以上続いた鎖国制度の国の住人にしてよくぞ思いついたと言うべき先進的な開国論だった。それは単なる開国でなく、「積極的に海外と交易を成すべき」とするものだったから、真逆(ま ぎゃく)の立場の徳川斉昭(なり あき)との対立が深まった。しかし事態の収拾(しゅう しゅう)(せま)られた老中首座(ろう じゅう しゅ ざ)阿部正弘(あ べ まさ ひろ)は、やがて斉昭の圧力に(くっ)し忠固を更迭(こう てつ)してしまう。
 ところが忠固はここで終わらなかった──幕内で孤立を深めた阿部正弘は、開国派の堀田正睦(ほっ た まさ よし)を老中に起用し、更には老中首座の地位まで彼に(ゆず)って間もなく在任中に死去してしまうと、老中首座になった堀田正睦(まさ よし)は、再び忠固を老中に復帰させ、日米修好通商条約締結に(のぞ)んだのだ。
 その最中に浮上してきたのが将軍後継者問題である。十三代将軍徳川家定(とく がわ いえ さだ)には嫡子(ちゃく し)がおらず、その病気が悪化したためだった。井伊直弼(い い なお すけ)南紀派(なん き は)紀州(き しゅう)藩主徳川慶福(よし とみ)(後の徳川家茂(いえ もち))を推薦し、島津斉彬(しま づ なり あきら)や徳川斉昭(なり あき)一橋派(ひとつ ばし は)一橋慶喜(ひとつ ばし よし のぶ)(後の徳川慶喜)を()して争った。その間、条約締結においては、孝明天皇(こう めい てん のう)勅許(ちょっ きょ)を得るか得ないかの問題になっていた。得てしてこの頃の日本の政治情勢に目を向けるとき、一般的に後継者問題の方に意識がいってしまうが、この後の日本の方句を決定づける海外との関係の舵取りにこそ重大な意味があったと言える。
 忠固(ただ かた)は、
 「勅許どうこうでなく、一刻も早く調印すべきだ」
 と主張した。その背景には、少しでも早くアメリカと条約を結んでしまわなければ、飛ぶ鳥の勢いでアジア諸国を植民地化(しょく みん ち か)するイギリスが、いつ日本を襲ってくるか分からないという強い危機感があった。その結果として、勅許不要(ちょっ きょ ふ よう)の立場をとらざるを得なかったのだ。
 対して要勅許(よう ちょっ きょ)を唱える堀田正睦(まさ よし)は天皇のいる京都へ向かうが、帰りを待っていられない忠固は、同じ開国派の近江彦根(おう み ひこ ね)藩主井伊直弼を大老(たい ろう)にしようと動き出す。そして勅許獲得に失敗した正睦が江戸に戻り、将軍家定に「松平春嶽(まつ だいら しゅん がく)を大老にして対処したい」(むね)を述べると、家定は「大老は井伊直弼しかいない」と発言したため、急遽(きゅう きょ)直弼を大老とする動きが強まり、安政五年(一八五八)四月二十三日、井伊直弼は大老に就任する。
 直弼(なお すけ)忠固(ただ かた)の言い分も理解できたが、勅許(ちょっ きょ)なしの条約調印には反対だった。ところがアメリカが即時調印を要求してきたため、交渉の引き延ばしも限界に達した直弼は、勅許を得られないまま六月十九日、日米修好通商条約に調印した。
 それから間もなく直弼は、無勅許調印(む ちょっ きょ ちょう いん)の責任を堀田正睦と松平忠固に(かぶ)せ、二人を老中から罷免(ひ めん)してしまう。これがいわゆる安政の大獄(たい ごく)の始まりとなった。
 そして忠固は翌年(安政六年)九月、突然四十八歳の生涯を閉じる──。その遺訓(い くん)は、
 「交易は世界の通道(つう どう)である。皇国(こう こく)の前途は交易によって栄えさせなければならない。世論(せ ろん)囂々(ごう ごう)としているが、交易の通道ができるのは道理である。皆はその方法を話し合え」
 だった。実にこの松平忠固こそ開国派の旗手であり、その中心人物だったと言わざるを得ない。直虎もそんな彼とは何度か会っており、開国の必要性を強く感じていた。
 忠固の死後、上田藩主を継いだのは当時まだ数えで十歳の子、忠礼(ただ なり)だった。あれから二年、数え二十六歳で藩主になった身の上を考える時、直虎は人の境遇(きょう ぐう)の様々なことを思う。
 上田藩中屋敷の門をくぐって馬屋(ま や)に馬を置き、直虎と式左衛門の二人は母屋(おも や)の玄関に向かって歩いていくと、そこに(あで)やかな装飾に(いろど)られた駕籠(か ご)一挺(いっ ちょう)(わき)駕籠引(か ご ひ)きの家臣らしき二人の男が(ひざまず)いている。
 「どなたかお出かけか?」
 直虎と式左衛門は顔を見合わせると、駕籠の中から、
 「えぇぃ、松野(まつ の)はまだか! お(しり)から根っこが生えてしまうっ!」
 若い女の声がした。「尻から根が生える」とは若い女性にしては(ひん)がなさすぎる。直虎と式左衛門はまた顔を見合わせて笑った。見れば、駕籠横面の物見(もの み)(すだれ)は巻き上げられており、幼さを残す十五歳くらいの美しい娘が、待ちくたびれた苛立(いら だ)ちの表情で、天井から釣り下がる体を支える(ひも)をじりじりしながら引っ張っている。その顔に見覚えがあった。松平忠固の葬儀に参列した際、喪服(も ふく)を着た親族の女衆(おんな しゅう)の中にその娘はおり、そのとき彼が目を奪われたのは、彼女の(ひとみ)からこぼれるキラリと光る(なみだ)の輝きを見たからだった。
 上田藩の姫君(ひめ ぎみ)相違(そう い)ない──。
 直虎と式左衛門はその場に(ひざまず)き、姫君に向かって頭を下げたまま、駕籠が屋敷を出るのを待った。
 ところが、母屋の中から「はーい、只今(ただ いま)っ」と声がするきり、姫君の待ち人は一向に姿を現さない。ついに(しび)れを切らせた姫君は、駕籠の(とびら)を開けて外に飛び出した。
 そのとき、(つる)が舞った──と直虎は思った。
 何がそう思わせたのかは解らなかったが、そのとき彼は確かにその光景を見た。
 その(はな)やかさといったら、着物に描かれた何羽もの真っ白な鶴が、茜色(あかね いろ)の大空に向かって舞い上がったようで、寒水仙(かん すい せん)の咲く庭に吹いた冷たいひとしきりの風は、(ほの)かな(こう)(かお)りを運んだ。
 「早くせぬか! (とり)(いち)≠ェ終わってしまうではないか!」
 「大丈夫(だい じょう ぶ)ですよ。(いち)は逃げたりしませんから」
 どうやら浅草鷲神社(おおとり じん じゃ)で毎年十一月の酉の日に行われる酉の市≠フ物見遊山(もの み ゆ さん)に出かけるところらしい。その日は神社に(まつ)られる(わし)に乗った妙見大菩薩(みょう げん だい ぼ さつ)開帳(かい ちょう)され、和宮降嫁(かずの みや こう か)の祝福ムードも(あい)まって、鷲在山長国寺(じゅ さい さん ちょう こく じ)境内(けい だい)は多くの人で(にぎ)わった。
 (ひめ)は一度母屋の中に入り込んだが、すぐに再び姿を現して、腹立たしそうに「おそい、おそい、おそい」を何度も繰り返して地団太踏(じ だん だ ふ)んだ。すると、ふと、直虎たちに気付いてこちらを見た。
 「何の用じゃ?」
 と、(てら)いもなくつつつ……と近くに寄って来たので、直虎は改めて(こうべ)()れて、
 「失礼しております。私ども須坂藩の者にて、こちらにご挨拶に伺いました」
 と伝えた。姫君は首を傾げて、
 「何の挨拶じゃ?」
 とあどけない表情で聞いた。
 「このたび須坂藩の当主となりましたので、そのご挨拶にございます」
 「須坂藩……? 聞いたことがないが、いったいどこの国の藩じゃ?」
 「信州にございます」
 「おお、信州なら知っておるぞ。行ったことはないが、わらわも信州じゃ。仲良くしてやってもよいぞ」
 姫君はそんな話はどうでもよいといったふうに「(おもて)を上げてわらわを見よ」と言った。直虎と式左衛門は戸惑いながら顔を上げると、姫君はその場でくるりとひと回りして、
 「どうじゃ?」
 と、自慢(じ まん)げに直虎を見つめた。直虎は突然の意味不明な行動に躊躇(ちゅう ちょ)しながらも、その屈託(くっ たく)のないキラキラとした瞳に見つめられて顔が赤らむのを覚えた。
 「どうじゃ、と聞いておる!」
 「どう?……と申しますと?」
 「似合うか? 先日京から帰った男どもが、わらわの誕生の祝いに()うてきてくれたのだ。西陣織(にし じん おり)じゃ」
 なんのことはない、()(もの)()めてもらいたいらしい。その関西訛りが微妙に交じる、率直(そっ ちょく)(はら)一物(いち もつ)微塵(み じん)もない様子に、直虎は「可愛(か わい)い女だ……」と思った。
 「よくお似合いにございます」
 「そうか? どこが似合う?」
 「先ほど姫様が駕籠(か ご)を出られたとき、赤く染まった夕暮れに千羽の(つる)が舞ったように見えました。その茜色(あかね いろ)の着物には鶴が描かれておりましたか。鶴は君子(くん し)()()むと申します。姫様のお優しいお心が、そのお召し物によって引き立てられているのでございましょう。それに()めの(おび)友禅(ゆう ぜん)でございますね。(あわ)い青の色彩(しき さい)が、お着物の色と対照をなしてまたお美しい。それも姫様の御見立(お み た)てでございますか? とってもよくお似合いです」
 式左衛門はよくそんな言葉が咄嗟(とっ さ)に出て来るものだと、(あき)れたように直虎の横顔を見つめた。
 「そうか、よく似合うか! その方の(かみしも)もよう似合っておるぞ。名は何と申す?」
 「堀直虎と申します」
 「直虎か、(とら)さんだな。分かった、覚えておこう」
 藩主ともあろうお方が虎さん≠ニは、式左衛門は、そのあっけらかんとした乙女に、まんまと一本とられたと心で吹いた。
 すると、母屋の玄関から四十過ぎのめかし込んだ女が「(しゅん)姫様、お待たせしました!」と言いながら出て来た。どうやらその姫の名を(しゅん)≠ニいうらしい。俊は声のした方に顔を向けると、
 「やっと出て来たか。松野、遅いぞ!」
 と叫んで、「待ちくたびれてどうかなってしまうかと思った」と、花のように笑った。直虎はその花びらに少し触れてみたくなって、
 「大丈夫でございますよ」
 と応えた。俊は不思議そうな顔をして「何がじゃ?」と聞いてきたので、
 「まだお尻から根は生えていないようでございます」
 と言って愛嬌(あい きょう)のある笑いを浮かべた。俊はムッとして直虎を(にら)み、
 「キライじゃ……名は忘れることにする」
 そう言い残して、駕籠の方へ走って行ってしまった。
 松平忠固には何人もの側室がいて九男七女の子をもうけており、そのうちの一人が俊である。子の多くは早世したが、実母はとしという名の側室で、現在の上田藩主忠礼(ただ なり)は同じ母から生まれた彼女は三つ年上の実の姉になる。老中になる以前の忠固は、大坂城代として三年の間大坂におり、その間(しゅん)は生まれた。弘化四年(一八四七)十一月十六日のことである。彼女の言葉の中に時々関西訛りが交じるのは大坂育ちの母の影響か。忠固が江戸に戻り老中に任じられてから、まだ数えで二歳だった彼女は、気っ風と人情の花の大江戸で成長したのだった。
 直虎が忠固と最後に一度会ったのは、忠固が二度目の老中に就任した頃である。父の直格(なお ただ)から「上田の忠固が佐久間象山を赦免(しゃ めん)しようと動いているようだ」と聞いて、じっとしていられなくなったのだ。当時象山は吉田松陰の密航未遂連座の罪で松代に蟄居中(ちっ きょ ちゅう)であり、本来なら死罪を言い渡されても仕方なかったところを国元蟄居という軽い罪で穏便(おん びん)に処理したのも彼であった。
 「象山先生には黒船来航の浦賀で恩がある」と言い張って、その秘密会議に身を置けば、周りには上田藩士の面々(めん めん)桜井純蔵(さくら い じゅん ぞう)恒川才八郎(つね かわ さい はち ろう)らの顔があった。
 「象山先生の赦免については八方手を尽くしているが、もう一人赦免してやりたい人物がいる。長州藩の吉田松陰(よし だ しょう いん)君だ。誰か(はぎ)に飛んでくれる者はないか?」
 そう忠固が言った。吉田松陰と言えば国禁(こっ きん)を犯そうとしたいわば直虎の中では無二(む に)の同志である。その時も、
 「わしが行く!」
 と手を挙げたが、「君は?」と問われて「須坂藩の堀良山と申します」と応えれば、「他藩に迷惑はかけれん」とあっさり却下されてしまった。結局その役割は桜井と恒川が任されたようだが、その時、
 「茶をお持ちしました」
 と(ふすま)が開き、十歳くらいの女の子が姿を現した。もしかしたらあれは(しゅん)だったかも知れないと、直虎は今更のように思い出した。
 忠固が逝去(せい きょ)したとき彼女は数え十三歳の少女だった。その死は暫く公表されずにいたが、やがて病死と発表されて葬儀が終わった。江戸の町では攘夷派の手にかかったのだとの(うわさ)もたったが、おそらく彼女はその真相を知っているのだろうと直虎は思う。いずれにせよまだ年端(とし は)もいかない少女にとっては衝撃的な出来事だったに相違なく、つい昨日まで一緒に遊んでいた幼い弟がいきなり藩主に(まつ)り上げられたのだから、その大きな生活の変化は、わずか二年という歳月の中で彼女を気丈(き じょう)乙女(おと め)に変えたことだろう。
 駕籠(か ご)(わき)に立った松野と呼ばれた女は直虎たちの方を見てお辞儀(じ ぎ)し、
 「誰でございます?」
 と俊に尋ねた。
 「知らない、忘れたあんな(ひと)──それより、いったい何をしていたのじゃ? 遅すぎるではないか」
 「俊姫様(しゅん ひめ さま)だけ左様(さ よう)()で立ちでは()り合いがとれません。私もちょっとおめかしを」
 「()殿方(との がた)でも見つけるつもりであろう?」
 「まあ、はしたない! 上田藩の姫様の御付女中(お つき じょ ちゅう)がみすぼらしい恰好(かっ こう)などできません──」
 二人は駕籠の前で可愛げな会話をしてから、ようやく俊は駕籠に乗り込んだ。そして松野はその駕籠の脇を歩いて、直虎と式左衛門の前を会釈(え しゃく)して通り過ぎる。二人は駕籠が門を出るまで見届けて、
 「やれやれ、忠固様にあのようなお転婆娘(てん ば むすめ)がいらしたとは。殿はご存じでしたか?」
 式左衛門が呆れたふうに言った。
 「いや──」
 直虎は葬儀の時に見た、俊の輝く涙の色を思い浮かべた。
 
> (五)土屋坊(ど や ぼう)村の民蔵(たみ ぞう)
(五)土屋坊(ど や ぼう)村の民蔵(たみ ぞう)
 藩主交代の報は間もなく本領須坂にも伝えられ、その(うわさ)がわずか一万石の領内に広がるのにさほどの時間は必要としなかった。時の国家老は野口源兵衛(の ぐち げん べ え)はじめ河野連(こう の むらじ)らで、
 「直武様が家督を譲るとは意外だったなあ? 直虎(なお とら)ってあの良山お坊ちゃんだろ?」
 「なあに、あの直武(なお たけ)様の弟だからたいしたことないよ。今まで通りやればいいさ」
 と、そんな陰口(かげ ぐち)をたたいた。
 もともと野口は越後村松藩から養子に来た野心家で、はじめは茶の相手として直格に仕えていたが、直武が藩主になるとすかさずその近くにすり寄り、顔色をうかがって細かな気を配ったものだからひどく気に入られ、時の家老丸山舎人が引責退隠したのを機に家老に抜擢された抜け目のない男であった。家老になるや否や藩中の硬骨漢と言われていた河野連を配下にしようと、独身の河野に藩中のおたかという娘を介して妻にさせ、その恩顧をもって同志に加えてしまうと、次に目の上の瘤だった駒澤勇左衛門に対してあらぬ罪をでっちあげ、彼を家老の座から引きずり降ろし政権を掌握してしまう。そして河野を中老に据えると、続いて江戸家老中野仁右衛門まで退けて自分の娘婿である亘理(わた り)をその職に就け、如実にその本性を顕したのだった。いまや藩政は野口源兵衛の独壇場(どく だん じょう)であり、彼の息のかかった者たちで政治を仕切り、新たな藩政改革を名目に、やりたい放題の手法で財を集めていたのである。
 その一つに貸金会所(かし きん かい しょ)の設置がある。領民へ金の貸し付けをし、その資金は年貢のほかに御用金(ご よう きん)として強制的に領民に割り当て、しかも納める金額に応じて名字帯刀(みょう じ たい とう)の許可や町や村役人等への採用や昇格を野放図に認める横暴(おう ぼう)なものだったから、(ちまた)では賄賂(わい ろ)横行(おう こう)し、過重な負担を()いられた領民は塗炭(と たん)の苦しみを味わっていた。貸金会所では毎日のように、
 「なんだ、またお前か! 返せるあてのない(やつ)に貸す金なんぞない! 利子だけでも払ったら少しは相談に乗ってやる。仕事の邪魔(じゃ ま)だ、さっさと出てけ!」
 高利貸しでなくこれは役人の科白(せりふ)である。利子といっても現代でいえば悪徳(あく とく)金融(きん ゆう)業者どころでない。それでもお金を借りに来た男は(ねば)っていると、中から数人の強面(こわ おもて)の役人が出て来て(なぐ)()るの暴行を加える。そのくせ身なりが少しでもましな者が訪れれば、
 「ようこそいらっしゃいました! 今日はどんなご相談で?」
 と、(てのひら)を返したニコニコ顔で迎え入れる──金の有る無しで人の価値を見極める役人の体質は今も昔も変わっていない。
 須坂藩領綿内村(わた うち むら)千曲川(ち くま がわ)(はさ)んだ飛び地に土屋坊村(ど や ぼう むら)と呼ばれる集落があった。もともとは須坂藩第一の石高(こく だか)を誇った綿内村の一部の人間が、千曲川を渡った対岸に土地を(ひら)いて一つの村として独立したものだが、綿内村から分村した以上、須坂藩の管轄(かん かつ)に違いない。
 ところがその辺りの地籍では、毎年頭を悩ます大きな災難があった。大雨や台風による洪水被害である。地形的にいえば少し上流は千曲川と犀川(さい がわ)の合流地点であり、二つの大きな川の勢いは、少し下ったところで(わず)かに綿内側へ蛇行(だ こう)していたため、水かさが増すと容赦(よう しゃ)なく土屋坊へ流れ込んだ。安政六年(一八五九)五月に起こった洪水はその(さい)たるもので、それまで築いていた土堤(ど てい)大破(たい は)し、村は壊滅的(かい めつ てき)な被害を(こうむ)ったのである。土堤の修復と延長は急務であったが、綿内村に相談しても、
 「そんな所に村を作ったのがいけないのだ。自分たちでなんとかしろ」
 と、分村(ぶん そん)以来の感情的な隔壁(かく へき)から取り合ってももらえず、拡張計画が隣の松代藩領の大豆島(ま め じま)地籍にかかっていたことから松代藩の福島村へも願い出たが、
 「()れ合いでそんなことはできん」
 と拒絶(きょ ぜつ)されてしまった。その対応に納得がいかない土屋坊村は、福島村を寺社奉行(じ しゃ ぶ ぎょう)(うった)え出たが、そこに幕府が加わったことで、工事の目処(め ど)もたたないまま話はますますこじれていった。いわゆる役所のたらい回しに似たものである。当然その出来事は家老野口源兵衛も知っていたはずで、明治初期のデータによると、綿内村の石高が二、五〇〇石に対して土屋坊村は(わず)か一六五石、
 「年貢(ねん ぐ)もろくに納めん村など(ほう)っておけ。そのうち幕府がなんとかしてくれるわ」
 と、高見(たか み)見物(けん ぶつ)でもするように何の救いの手も差し延べなかった。作物の不作も重なり、ついに生活の苦しみから逃れるため、土屋坊村の男たちが次々と村から逃げ出す事態にまで発展していく。
 土屋坊村で百姓代(ひゃく しょう だい)を務めていた民蔵(たみ ぞう)は、これまでも再三にわたり須坂藩へ『水防の事』で嘆願(たん がん)をしてきた。ところが綿内村やその他の村は賄賂(わい ろ)を送って藩の対応を受けてきたが、それも額によって命令の内容がその都度変わるといった杜撰(ず さん)なもので、それでも百世帯ほどの土屋坊村の民たちは必死にお金を工面(く めん)しようとしたが、(ぜに)(にお)いで態度を(ひるがえ)風見鶏(かざ み どり)のような役人を動かすことなどできなかった。
 その日も須坂藩の陣屋(じん や)(おもむ)き、何とか願いを聞き入れてもらおうと、朝から門前で粘った民蔵だったが、結局担当の役人にすら会うことができないまま、日が暮れた街道を提灯(ちょうちん)も持たずに土屋坊に戻った。季節はすっかり冬である。寒々(さむ ざむ)とした星空の下、今年も不作で荒れ果てた耕地を見ながら、
 「苛政(か せい)(とら)よりも(たけ)し……か」
 寺小屋(てら ご や)で覚えた故事(こ じ)を口ずさんで深いため息を落とす。
 このままでは村が滅亡してしまう―――
 そう思ったとき、陣屋からの帰り道、「お殿様が替わったらしいぞ」という町民の噂話が聞こえたのを思い出した。そっと耳を傾ければ、「新しい殿様の名は直虎」といい、「四書(し しょ)にあるような大覚殿(だい かく でん)をお世話なさった立派な方らしい」という声が聞こえた。およそ故事の虎≠ゥら連想したのだろうが、民蔵はふと、「苛政に挑むために虎を名乗ったのではなかろうか」と思い始めた。その(ひらめ)きは、村をなんとか救いたいという切実な思いから、強い思い込みとなって心を支配した。
 「新しい御殿様なら、我々の願いをお聞き入れくださるかもしれん!」
 その翌日、彼は村の(しゅう)を集めてこう告げた。
 「江戸に行こうと思う……直虎様に会って来る」
 村の衆は力なくどよめいた。
 「直談判(じか だん ぱん)する気か? そんなことをしたら打ち首だぞ!」
 「ここで()え死にを待つより、その方がましだ。それともやはり離散(り さん)するか?」
 離散の話は以前から出ていたが、何もない荒野を開拓し、ゼロから作り上げてきた村に対する愛着はみな同じで、離散したとて行く宛などない彼らは民蔵の決意に希望を(たく)すよりなかった。民蔵は、着の身着のまま(はる)か江戸へ向かって旅立ったのだった。

 そのころ直虎は住まいを上屋敷(かみ や しき)へ移した。それは与力や同心の組屋敷が立ち並ぶ八丁堀の南にある。
 堀の長さが隅田川との合流地点より八丁(約873m)あったことからそう呼ばれるようになった地籍だが、秋は東を流れる楓川は美しい紅葉に彩られ、それと対照をなすように春は桜が咲き乱れる八丁堀川は俗に桜川とも呼ばれ、その川の南側二つ目の路地沿い、東に近江膳所藩(ぜ ぜ はん)上屋敷、西に彦根藩蔵屋敷に挟まれた二千五百坪ほどの敷地内に屋敷は立つ。
 藩主になったからには上屋敷で政務を執る習いだが、国元(くに もと)の過去の帳簿など見て財政難の原因を探るにはこちらでなければ都合が悪い。
 直武から引き継いだ職務は江戸城の御門警備で、毎月一日、十五日、二十八日と五節句(ご せっ く)の日は将軍と拝謁(はい えつ)するため江戸城へ登ることになる。つい先日登城(と じょう)した際は、城内では右も左も分からないだろうと、藩主としてはひと月先輩の親戚、大関肥後守増裕(おお ぜき ひ ごの かみ ます ひろ)(ともな)った。彼は下野国(しもつけのくに)黒羽藩(くろ ばね はん)一万八千石の養嫡子(よう ちゃく し)として十五代藩主になったばかりの数歳年下の実直誠実(じっ ちょく せい じつ)な男であるが、お家の事情がやや複雑で、「どこかによい養子候補はおらぬか」と、しきりに聞いて探していたが、それについては後述することになるだろう。その隣で直虎は、得意の愛嬌(あい きょう)を振りまいて何人かの友人ができた。ちなみに十一月十五日のその日は、和宮(かずのみや)が無事に九段(く だん)の清水邸に入ったとの噂を聞いた。
 十二月に入って初旬のことだった。
 御門番(ご もん ばん)の仕事を終えて上屋敷に戻ったところ、門の前でみすぼらしい農民姿の若い男が(あや)しげな様子でうろうろしている。
 「何をしておる?」
 直虎護衛の小林要右衛門が不審そうに身元を尋ねると、男は振り返り、
 「須坂藩の江戸藩邸というのはこちらでございましょうか?」
 とおどおどした様子で言った。民蔵に相違ない。およそ花の大江戸にある藩邸というくらいだから度肝(ど ぎも)を抜く大きなきらびやかな屋敷を想像していたのだろうか、案外こじんまりとした門構えの屋敷に面妖(めん よう)そうな表情をつくった。
 「左様(さ よう)だが、なんの用だ?」
 もう一人の護衛の真木万之助(ま き まん の すけ)が近寄った。彼はもともと河内国(かわ ちの くに)郷士(ごう し)で堀家に出仕するようになった江戸定府(え ど じょう ふ)の家臣である。民蔵は恐縮して、
 「新しく御殿様(との さま)になられた直虎様にお願いの()がございまして須坂より参上いたしました」
 と一口に告げた。
 「直虎はわしだが」
 直虎は前に進み出て、土で汚れた顔にギラギラと光る充血した彼の(まなこ)を見てとった。
 驚愕(きょう がく)して「ご無礼をお許し下さい!」とその場に(ひざまず)く民蔵は、まさか会う目的の殿様がいきなり目の前に現れるなど思ってない。そのうえ殿様といえば羅紗(ら しゃ)の羽織を着ていてしかるべきだとでも思ったのだろうが、突然直虎を名乗った男ときたら、浅黄木綿(あさ ぎ も めん)羽織(は おり)小倉(お ぐら)木綿袴(も めん ばかま)、腰に二本の刀は差しているものの、どう見ても少しまともな庶民(しょ みん)の出で立ち──冬だというのにどっとあふれ出る(ひたい)(あせ)を土にしみ込ませると、その様子に直虎は柔和(にゅう わ)な笑みを浮かべた。
 「そうかしこまらずともよい。殿様は駕籠に乗って出歩くとでも思ったか? はるばる須坂より参ったと? 須坂の(たみ)の前でこんなことを言うのも難だが、今は財政が厳しく何から何まで倹約(けん やく)、倹約じゃ。苦しゅうない、まずは(おもて)をあげよ」
 民蔵は身体をガタガタ震わせ、頭を地面にこすりつけたまま(ふところ)から長旅でボロボロになった直訴状(じき そ じょう)を頭の上に差し出した。直虎は無造作にそれを受け取り、表情ひとつ変えずに一読すると、
 「長旅、疲れたであろう。まずはゆるりとドブ湯≠ノでも浸かって参れ」
 ドブ湯≠ニいうのは八丁堀にある銭湯のことである。元々は同心の足洗い場がいつしか大衆浴場に変わった場所で、ドンブリ入る≠ェドブ湯≠ノなったという謂れがある。民蔵は「ドブに入れられるのか?」と直訴した報いを受け入れるような困惑の表情を作ったが、直虎が屋敷から一人の家臣中野五郎太夫を呼び銭湯へ案内するよう言いつけ、湯から出たら屋敷内の部屋に入れるよう命じたので、「処罰ではなさそうだ」と、安心したように五郎太夫に付いて行ったのだった。
 上屋敷公の間に江戸家老駒澤式左衛門と要右衛門を呼び寄せた直虎は、二人の顔を静かにながめた。
 「野口亘理(わた り)はどうした?」
 野口亘理(わた り)とはもう一人の江戸家老である。国家老野口源兵衛の娘婿であるが、式左衛門は少し困った顔をして、
 「柳橋ではないかと……」
 と俯きがちに答えた。
 「柳橋? いったい何をしに?」
 柳橋といえば隅田川と神田川の合流地点に架かる神田川下流の橋だが、周辺には船宿を中心に待合茶屋や料亭などが軒を連ねる大江戸繁華街の一つである。直虎が顔をしかめる間もなく「どうせ柳橋芸者を買いに行っているのでしょう」と要右衛門が不愉快そうに言った。
 「やつはそんな所へ通っておるのか?」
 「いつもというわけではないと思いますが……」と同じ家老の醜態に式左衛門は言葉を濁したが、直虎は呆れて「まあ、よい」と、民蔵から受け取った訴状の文面を二人に見せた。
 「どう思うか?」
 そこに書かれた内容は土堤(ど てい)が改修されない経緯(けい い)と土屋坊の窮状(きゅう じょう)うんぬんだが、これと財政窮乏(きゅう ぼう)とにどんな因果関係(いん が かん けい)がありそうかと聞いている。

 『再三にわたり水防普請(すい ぼう ふ しん)を願い出ましたが、なにごとも賄賂(わい ろ)のご政治にて、小村で賄賂が少ないため差別され取り合ってもらえず、一村離散(り さん)(ひん)してございます──』

 現在の国家老(くに が ろう)首座は野口源兵衛が務めていることは皆知っており、直虎はこの時点で既にその娘婿である亘理が何らかの関与をしているのではないかと疑っている。でなければ窮乏している藩の財政を考え、柳橋などで遊び惚ける金などあろうはずがない。源兵衛を家老に抜擢(ばっ てき)したのは直武であるが、話によれば細かなことまで気の付く切れ者ということだが、
 「賄賂(わい ろ)という言葉が気になりますな」
 と、やがて式左衛門が答えた。
 「そうであろう? 兄も小銭(こ ぜに)に困り朝暮(あさ く)れの暮らしもつきかね、家中の扶持(ふ ち)も六割減らしたと言っておった。(すで)に限界を超え領民に大きな負担をかけていることはその訴状でも明白だ」
 「あの者、よほど切羽詰(せっ ぱ つ)まっていたのでしょうなぁ。直虎様だからよかったものの、一介(いっ かい)の農民が殿に直訴(じき そ)など、他藩でしたらその場で打ち首ですぞ」
 と要右衛門が続けた。
 「これが須坂藩の現実ということでしょう。賄賂でもなんでも金を徴収(ちょう しゅう)する仕組みを作らなければもはやどうにもならないのでございましょう」
 式左衛門の言葉に直虎は、直武が苦しんでいたのはこれだと思った。しかし、だからといって領民に過大な負担をかけて苦しめ、人道をはずすようなことまでして公金を調達するのは、国を治める者としてあってはならないことだと断じて思う。
 「発想が逆であろう? 政治というのは民の側に立って国を考えるものじゃ。国を治める者、そして国の政務を司る者が最もしてはならぬことは何だ?」
 式左衛門と要右衛門は首を傾げた。
 「民心を乱すことじゃ。民衆ほど恐ろしいものはない。民衆が団結して総決起すれば一国などあっという間に滅びてしまう。かといって君主が不要かといえばそうでもない。国を治める者がなければ無法地帯となり、争いの絶えない状態が永遠に続く。大事なのは国の政治と民とが共存することではないか? 国の執政に関わる者たちが民の尊敬に値する振る舞いができるかどうかだ」
 直虎は事の一凶(いっ きょう)を見透かしたように続ける。
 「日本書記にある仁徳天皇(にん とく てん のう)の民のかまど≠フ故事を知っておろう。百姓の家に煙が立っていないのを見て天が君主を立てるのは百姓のためである≠ニいうあれじゃ。あれは確か三年間、税を徴収(ちょう しゅう)するのをやめたと思ったぞ。すると三年後には百姓に余裕ができ、家々に煙が立つようになって、挙句は天皇を称賛する声で世は満ち溢れたと言う。大和魂(やまとだましい)とはそういうものではないか? 『老子(ろう し)』にもこう説いてあるぞ」
 と紙にすらすらと文字を書きはじめた。

 『民之飢、以其上食税之多、是以飢。民之難治、以其上之有為、是以難治。民之輕死、以其求生之厚、是以輕死。夫唯無以生為者、是賢於貴生。』

 「民が()えるのは君主の食税(しょく ぜい)が多いからである。民を(おさ)めることが難しいのは主君の作為(さく い)のせいである。そして民が命を軽んずるのは、豊かな生を求めているからである。ただありのままに生くる者こそ賢く(とうと)いのである──」
 要右衛門と式左衛門はしきりに感心し、主君に和魂漢才(わ こん かん さい)叡智(えい ち)をかいま見た。
 「まずは真相を確かめることだ」
 直虎は、少し前の財政改革(ざい せい かい かく)の失敗の責任を負い、家老職を追われた丸山舎人(とねり)の息子である丸山次郎本政にすらすらと密書(みっ しょ)をしたためた。ここ何年も須坂へ帰っていない彼は、国許の政治がどのような顔ぶれで行われているかしっかり掌握(しょう あく)できていない。その中で丸山家は、九代藩主直皓(なお てる)の代より堀家に仕えてきた唯一顔の見える信頼できる家臣であった。

 『もしかしたら重臣たちを罰することになるかも知れない。双方の言い分をよく聞き、つまびらかに書き並べ、罪状を聞かせてほしい。よく検討して処分を決めたい。追放する家臣を書状で通達する。直虎 花押 大司(丸山次郎)君へ』

 その密書の内容も伝えず直虎は要右衛門に手渡すと、
 「今すぐ須坂へ飛べ」
 と命じた。要右衛門はその意味をすぐに察した。もう一人の側近である柘植宗固(つ げ むね かた)と一緒に須坂へ下り、現地の北村方義(きた むら ほう ぎ)らと連携し、事実確認をして真相を見極め、打てる手を打って直ちに報告せよという事である。
 ここに出てきた柘植という男が伊賀国の忍者の血筋であることは前に少し触れたが、彼は直虎が元服してから直属に仕えるようになった古参の庭番である。いわゆる服部半蔵から始まる徳川家における伊賀衆は、寛永年間に麹町御門(半蔵門)周辺から四谷門外の祥山寺周辺の伊賀町に移転させられて以来、諜報業務など不要の泰平の世にあって、すっかり江戸の町民と同化しつつも忍術の継承は密かに行われていた。大名ならそうした諜報業務を専門に司る家臣の一人くらい召し抱えているものだが、目聡い要右衛門などは古くから彼に近づき、伊賀流忍術なるものを習得してやろうとちゃっかりしている。
 「それから──」
 と直虎は声を潜めた。
 「この話は野口亘理(わた り)の耳には入れるな。今回の件に関与しているかも知れぬ」
 要右衛門は低い声で「はっ!」と応えると音もなく部屋から姿を消した──それが民蔵が銭湯から戻るまでの束の間の時間だった。
 その後、「少し国許の様子を聞かせてもらえんか?」と、民蔵にあてがった部屋に直虎が顔を出したのは間もなくのこと。民蔵は驚いて終始かしこまっていたが、その愛嬌のある笑みに緊張をほぐしながら、土屋坊の惨状(さん じょう)や役人たちの対応の様子など話して、「明日の朝には国に帰って、今日のことを皆に伝えます」と言った。
 「せっかく江戸まで来たのじゃ。少しばかり町を見聞(けん ぶん)して帰ったらどうじゃ?」
 「それには及びません。お気遣いだけで私にはもったいのうございます」
 「なんであれば案内に先ほどの五郎太夫を連れていけ。無粋な顔をしておるが気のいい男であろう?」
 「いえいえ、恐れ多きことにございます」と、民蔵は平伏してしまった。路銀(ろ ぎん)も持たずに村を飛び出して来たことは、土で汚れたボロボロな身なりですぐ知れる。持ち金などあろうはずもないのに、直虎は余計なことを言ってしまったと後悔した。懐から銭入(ぜに い)れを取り出して(のぞ)いてみれば、藩主ともあろう者が一朱銀(いっ しゅ ぎん)一枚と小銭が数枚あるだけで、他人の心配をする前に自分の方が金欠(きん けつ)なのだ。文久年間当時でその持ち金を現代の価値に換算(かん さん)すれば数千円といったところか。これより後、米の高騰(こう とう)貨幣価値(か へい か ち)(いちぢる)しく低下していく。
 直虎は気まずそうに「見聞(けん ぶん)()しにせよ」と言って、手にした銭入れを袋ごと民蔵に渡してしまった。民蔵は(こば)んだが、一度出した物を引っ込めるのも恰好(かっ こう)がつかない直虎は、
 「物見遊山(もの み ゆ さん)も後学のためじゃ。余るか知れんが、もし余ったら国元の皆に何か食わせてやれ」
 そう言い残して部屋を出た。ところが案内を仰せつけた中野五郎太夫に翌日の民蔵の様子を聞けば、「蕎麦(そ ば)を一杯食っただけで、すぐに国元へ戻りました」ということである。

 それから──要右衛門が戻って来たのは、細雪(ささめ ゆき)の降る夕暮れ時のことだった。
 「たいへんなことになっておりますぞ!」と、旅の疲れを(いや)しもせず口早に語り出した話によれば、家老野口源兵衛らは、心学(しん がく)を利用して庶民(しょ みん)からお金を巻き上げていると言う。
 心学とは神道、儒教、仏教の合一を基盤とした江戸中期の石田梅岩(いし だ ばい がん)を開祖とする学問の一派で、本来その教えは究極的に正直(しょう じき)(とく)≠尊重する倫理学(りん り がく)の一種である。須坂藩では第九代藩主堀直皓(ほり なお てる)の代に石門心学(せき もん しん がく)講舎『教倫舎(きょう りん しゃ)』を立ち上げていたが、その後、儒学を基調とする藩校『立成館』を作ったことから、この時すでに藩内の精神的支柱となる学問は二分されていたと言える。
 藩の財政に悩む前の国家老丸山舎人が、当時財政改革で高名だった京都本覚寺(ほん がく じ)の心学者石田小右衛門知白斎(いし だ しょ う え もん ち はく さい)を須坂に招いたのが嘉永三年(一八五〇)のこと。ところが、手紙・贈答・来客をやめ、借り入れ停止・衣服は綿服・参勤交代費を二一〇両に限るなどの五カ年改革『規定書十ヶ条』を定めたところまではよかったが、定期的に領内十三カ村を巡回(じゅん かい)して心学を語る中で、表向きは勤倹節約(きん けん せつ やく)を説きながらも、その行為は次第に領民から献金(けん きん)を強要する悪質な金の取り立てへと変わっていったのだった。その手口は、
 『借金あるとて石田の隠居(いん きょ)小山(こ やま)へ連れ込み、心学論じて百姓だまして、献金出せとて大小御免(だい しょう ご めん)(かみしも)くれたり、なんのかのとてむやみに取り立て、心学いうては用金、献金、無理銭(む り ぜに)取り立て―――』
 とちょぼくれ≠ノ歌われるほどで、そのあまりのひどさに憤慨(ふん がい)した領民の感情を押えるため、石田は退任して須坂を去り、丸山舎人も責任を負って辞職したのだ。
 このとき藩政を独占した野口源兵衛と河野連(こう の むらじ)らは、根強く残ったその風潮を利用しつつ、この項の冒頭で述べた貸金会所の設置や、金額に応じた名字(みょう じ)帯刀(たい とう)の許可や町村役人や取締役への昇格等、やりたい放題の暴政をはじめた。財政が逼迫(ひっ ぱく)している時にはすべきでない無駄(む だ)な土木建設事業もその規模が半端(はん ぱ)でない。町家、田畑をつぶしてまで日滝(ひ たき)道、相森(おう もり)道、八幡(はち まん)道の道幅を広げて新しい町を(おこ)して家賃を取り立てるための貸し家を建てたり、芝宮(しば みや)神社を美麗荘厳(び れい そう ごん)に建て替えたり、陣屋の馬場を拡張したりと、しかもその人足は全て村々に割り当て農繁期も無視して強制労働を強いたから、重税と人手不足に苦しむ農民の中には、生きる希望を失って命を絶つ者も数知れず。挙句(あげ く)に要右衛門が見たものは、奪った金で私服を肥やし、陰でドンチャン騒ぎの飲み食いをする堕落しきった役人たちの姿であった。
 自分はなけなしの金をそっくり民蔵に与えて文無(もん な)しというのに、政治という権力を傘に(おど)(だま)した金で私服を肥やすとはなにごとか!
 直虎は激怒(げき ど)して(あき)れ果てた。
 「もはや秩序(ちつ じょ)もなにもあったものではありません。民心(みん しん)は離れ、最悪の状況です」
 と、要右衛門は暗い表情をつくった。
 直虎の頭に中国の兵法書のひとつ『呉子(ご し)』の『治兵(ち へい)第三』にある言葉が思い浮かぶ。

 用兵之害猶予最大(兵を用うるの害は猶予(ゆう よ)最大なり)

 戦いを起こすに当たって最大の妨害となるのは、ぐずぐずして事を決しかねることである──。
 まだ藩主になって間もない彼が直面した、これが最初の難題(なん だい)だった。
 
> (六)切腹の沙汰
(六)切腹の沙汰
 国家老野口源兵衛らの処分を決めるため、野口亘理とその周りの家臣を省いた重臣たちが、連日密かに直虎のもとに集まった。要右衛門の報告によれば、密書を受けた丸山次郎本政が指揮を執り、綿内村の堀内教助が罪状を調査し、ひそかに一派の者達を捕えたと言う。その罪状を挙げれば、

一、藩のためといって強制労働・年貢以外の雑税などを課した。
一、町家を取り潰して貸し家を建て、耕地をならして新道を拓くため高掛人足を使い、農事の季節も無視して使役した。
一、自分に媚びる者を藩士に取り立て、多人数になると家臣の扶持給を引いたため、その多くが困窮し文武が廃れた。
一、御用金を多くとるため町役人・取締りに多く取り立て、百姓に苗字帯刀などの特権を認めたため賄賂が横行した。
一、勝手に芝宮神社を拡張し、美麗な新宅を建て、陣屋を広げ馬場を作った。
一、嘉永三年以来奢侈にふけり、下役人の姦曲を助けて栄華を極め、特に追分出張のとき上をも恐れず先払いの足軽をさし出し、臣下にあるまじき振舞いをした。

 ──などで、係った人物の名を挙げればその重臣の数三十三名にのぼり、野口源兵衛らを確信犯と断定した直虎は、その娘婿である野口亘理を即時国許へ護送し、十二月十五日付で野口らに仕置きすることを申し渡すと、その入れ替えに丸山次郎本政を家老に据えて、政務首脳体制を刷新してしまった。野口らにしてみれば青天の霹靂で、まさに電光石火の早業である。
 そこまでは何の迷いもなく断行した直虎だったが、その罪状の処分を決める段階に至って、はたと仕事の手が止まってしまった。特に重罪と見なした四人に対して、家臣たちは口を揃えて「斬首じゃ、切腹じゃ」と言い立てる。すなわちその四人とは、家老、中老ら野口源兵衛、河野連、野口亘理、広沢善兵衛であるが、いざその決断を下せとなると、簡単に人の命など奪えるものでない。藩主になる前殿は優しすぎる∞同情や優しさは一凶となり時に大きな禍根を残す″と忠告した中島宇三郎の深い皺を思い浮かべて、
 「あいつが言ったのはこの事か──」
 直虎は一人ごちて、暫く考えてこう言った。
 「藩籍剥奪、永久追放でどうじゃ?」
 「生温い!」と要右衛門は畳を叩いた。続いて式左衛門、万之助らが、
 「それでは領民に対しても、今後の政治運営においても示しがつきませんぞ」
 「極悪の四人が、それ以下の者と同じ対処ではおかしいではございませんか」
 「藩を追放したところで、別の場所で同じような事をしでかすに決まっている」
 と波風のように追い立てた。困った直虎は、
 「では無期懲役とし、一生牢につないでおこう」
 「殿!」
 家臣たちは叱責するように口を揃える。
 「お主ら気が合うのぉ……」
 直虎は「こんな時ばかり」と呆れた苦笑いを浮かべ、いたたまれず、
 「二、三日考えさせてくれ……ちと雪隠へ」
 ボソッと呟きその場を立ち去った。
 直虎にとって斬首だけはあり得なかった。どんな理由を並べ立てても、それは人殺しに違いなく、特に国が行う殺人行為は、民に対してそれを容認しているようなものである。人命軽視につながる行為は国としては絶対にすべきでない。
 となると無期懲役を極刑と位置づけるしかないが、それでは家臣たちから大反発を喰らうのである。もっとも江戸における罪人に対する一般論からしても、あるいは過去の幕府の判決を考慮しても、彼らの言い分は理解できる。死をもって償うという考え方からすれば、
 「やはり切腹が妥当か──」
 と思わざるを得ない。しかし死ぬことで本当に罪が償えるかと言えば、生きていてこそ罪を償う機会が与えられるわけであり、かといって無期懲役で一生牢獄に押し込んでしまえばその機会を奪うのと同じだ。罪人とはいえ生きていれば天が与えたるであろう使命とか天命とかいうものを持っているかも知れない。それを神や仏でない凡夫の智慧で図れるはずもない。
 であるなら一生監視付きの自由生活を与えるのが妥当か?
 否──一人の人間が改心するということは一時的にはあったとしても、その生命の次元から改めるのは至極困難であり、それ以前に、重罪を犯した人間を監視付きとはいえ市井に解き放ったのでは民が不安がって国の安定は図れない。
 「どうしたものか──」
 直虎は藩主の責任の重さとかじ取りの難しさを深く感じた。そしてようやく切腹やむなし≠ニいう結論を導き出そうとしたとき、「それでも」と思って切腹について改めて考え直してみることにした──掘直虎という人物を描こうとする時、彼にとってこの切腹≠ニはいかなるものかを理解することは、けっして避けて通れない難問であろう。
 切腹≠ニは腹≠切≠驍ニ書くが、実際歴史を紐解くと、腹を切るという自死行為が定型化したのは江戸以降で、以前は腹ばかりでなく喉や胸などを刺す場合も多く、それらを含めた自死行為もすべからく意は同じと考える。それは日本独自のものと思われがちだが、中国においては紀元前から記録が残り、日本ではまだ弥生時代に、それは忠≠竍義≠尽くした行為として民衆の心をとらえ、称賛を得てきた。この民衆に支持されてきたという点が肝で、でなければ何千年もの間、語り伝えられることはなかったろうし、その意味から言えば、それらの自死行為は肉体を滅ぼした後なお、その精神は生き続けたと言ってよい。
 そうしたとき彼が真っ先にすることは、中国における切腹事例を調べることだった。
 『呂氏春秋』が編纂されたのは紀元前二三八年の中国戦国時代末期にあたり、仲冬が紀した『弘演納肝』の故事は、そこから更に時代を遡る。
 古代中国春秋時代、衛の国に弘演という家臣がいた。あるとき主君の懿公が異民族に襲われ、肉を食べられ肝だけ残して殺害される。その遺体を見た弘演は天を仰いで嘆き悲しみ、自分の腹を割いてその肝をつかみ出し、懿公の肝を自分の腹中に納めて果てたという。後世の人々はその忠勇を讃え、この故事は後の『漢詩外伝』などでも取り扱われ、かなり後の時代になるが日本の『太平記』や、日蓮の書の中にもその記述がたびたび見られる。
 また司馬遷によって書き上げられた『史記』は、紀元前九一年頃に成立したとされる。司馬遷は匈奴に降参した友人を弁護したため武帝の怒りを買い、宮刑に処せられてなお執筆の手を止めなかった筆聖である。
 その『刺客列伝二十六』に登場する聶政という男は、人を殺して復讐を避け、老いた母と未婚の栄という姉を伴って斉の国に身を隠し、屠殺業をして密かに生計を立てていた。一方、韓の国の重臣厳仲子は、宰相侠累と仲たがいし、亡命して諸国遊行の身であった。
 ある日、「聶政という勇敢な男がある」という噂を聞いた厳仲子は彼の家に訪れた。やがて酒を飲み交わす仲になるものの、厳仲子は宰相への復讐の思いは告げず、そのまま親しい関係を続ける。
 あるとき厳仲子は、聶政の母の長寿を祝い黄金百鎰(一鎰は二十四両)という大金を贈るが、聶政はそれを拒む。このとき厳仲子は「自分は仇を持つ身である」ことを告げ協力を要請するが、聶政は「老母の存命の限りはこの身を他人に委ねるような事はできない」と断ると、厳仲子はお金を置いて立ち去った。
 それから数年後、聶政の母は世を去り、姉の栄も嫁ぐ。一人残された聶政は、「私のような田舎者に車駕を枉げて交友を結んでくれた厳仲子は、誰よりも私の事を知ってくれていた」と、己を知る者のために衛の濮陽へ向かう。再会した厳仲子は喜び「宰相侠累を討ちたい」旨を告げた。
 聶政は多勢で事を為す危険を案じ、剣を杖に単身韓に乗り込み、たちどころに厳仲子の仇である侠累を斬り捨て、更に数十人の衛兵を撃殺して目的を遂げると、自らの顔の皮を剥ぎ、目玉をえぐり、腹を割いて息絶えたのだった。
 話は続く。
 韓は罪悪人の身元を突き止めようと、その屍骸を市場にさらし、千金の賞金を懸けて触れを出したが、いつまでたってもその身元を知る者は現れなかった。
 やがて噂が姉の栄の耳に届き、厳仲子が弟の知己であったことに「もしや?」と思った彼女は韓の都へ向かい、死体が弟であるのを確認すると、
 「この男は聶政といって私の弟です!」
 と告げた。死体の見物人たちは「そんなことを言えばあなたも同罪だ」と諫めたが、彼女はきっぱりとこう言い切った。
 「厳仲子様は弟の人物を見込み、身分も財産も関係なく弟と交際いたしました。弟はその恩義に報いたのでございます。士は己を知る者のために死すと言います。私が罰を恐れて、どうして賢弟の名を世に埋もれさせることができましょうか!」
 と、三度天を呼ばわり、弟の傍らで自害して果てたのだった。
 この話は瞬く間に国中に広まり、人々は「この一件は聶政ひとりが成したものでなく、その姉もまた烈女だ」と、二人に称賛の涙を流したという。
 また、『旧唐書』は西暦六一八年の唐の成立から九〇七年の滅亡までを記したもので、日本では飛鳥時代から平安時代にかけての書で、『列伝第一三七』に登場する安金蔵は、太常工人という身分の男である。
 則天武后が即位し、子の容宗が皇嗣と決ってより、誰も容宗に近付くことができなかったが、安金蔵ら太常工人だけは側に仕えることができた。
 あるとき「容宗が謀反を企てている」との流言が立ち、則天武后は事実の糾明を行わせたところ、容宋に仕える者達は捕えられ、みな拷聞に耐えきれず虚偽の自白をしてしまう。ところが安金蔵ただ一人は容疑を否認し、
 「私の言葉を信じないのであれば、心臓を切り裂いて皇嗣の無実を証明して下さい」
 と叫び、刀を引き抜き自らその胸腹を切り裂いた。
 話を聞いた則天武后は、急いで安金蔵を宮中に運び入れ、医者に命じて五臓を体内に収め縫合し、薬を塗らせた。すると翌日、彼は息を吹き返し、則天武后はこう言う。
 「我が子は己の無実を証明できぬが、お前の忠義がそれを証明している」
 と。そして直ちに糾聞を中止させ、容宗は難を免れた。安金蔵は自分の身体を割いて死のうとすることで赤誠を示し、主人を守ったのである。
 弘演と安金蔵の話は忠≠フ手本として、また聶政と栄の話は義≠フ手本として後世に語り継がれるわけだが、これら中国の自死行為はやがて日本に伝わり、武士に特化した日本独自の死に方として根付いていく。『忠臣蔵』の集団自決などはその象徴ともいえようが、文献上日本でもっとも古いものは九八八年(永延二年)の藤原保輔の切腹である。
 藤原保輔は官僚だが盗賊としての名を残す。寛和元年(九八五)に傷害事件を起こしてから、身近な官僚を襲撃したり強盗を繰り返した挙句に捕らえられるが、その際、自らの腹部を刀で割いて自害を図り、翌日獄中で没したというものだ。
 これは一見忠≠竍義≠ニは違うもののように見えるが、腹を裂いて内臓をえぐり出したというから、形の上では前述の弘演や聶政、安金蔵のそれと全く同じである。藤原保輔の自死行為の背景を探ってみると、捕らわれる少し前、彼の父藤原致忠が捕まり監禁されている。その直後、彼は剃髪して出家した事実から察するに、けっして単なる悪篤心から犯罪を働いていたわけではなさそうだ。己の死をもって贖えるものがあるとすれば、それ相応の怨恨なり無念があるはずで、そこにはきっと己自身の生き方に対する何かがあったと見える。現にこれ以降、無念を晴らすための無念腹≠ニいう、切腹における一つの動機が生まれた。
 もっとも『史記』などには、思惑や信念を果たせず自殺する諸侯の話があるから日本独自のものとは言えないが、『平家物語』や『太平記』などに書かれる自刃つまり切腹の描写には、なにか特別な感情が込められている。
 戦国時代に入ると一層顕著だ。有名どこを列挙するだけでも織田信長、武田義信、朝倉義景、浅井長政、松平信康、武田勝頼、清水宗治、柴田勝家、北条氏政──武士という特別階級における切腹の例を見つけるに雑作もない。
 賤ヶ岳の戦い≠ノおける柴田勝家のそれは、豊臣秀吉に追い詰められ、落ち行く北ノ庄城の天守閣九段目に登った彼は、継室であった織田信長の妹お市を道連れに、
 「わしの腹を切り割く様を見て後学のために役立てよ!」
 と雄叫びを挙げ、妻子とその侍女たちを一突きにした後、自らの腹を十文字に割いたという壮絶なものだった。そして苦しみ喘ぎながら家臣の一人を呼び寄せ介錯させると、それに続いて八十余名もの者が後を追って殉死したと言う。捕虜となる恥辱を避け、お家に対する忠義や己の信念を示すための意味合いが込められているのだろう。
 豊臣秀吉が得意とした兵糧攻めにおいて見られる切腹には、また別の意味が含まれる。『三木の干し殺し』と呼ばれる『三木合戦』は、織田信長による播磨平定の際、秀吉が三木城主別所長治に対して行った兵糧攻めである。天正六年(一五七八)、東播磨一帯から集まった約七千五百が城に結集し、一年十ヶ月に渡って篭城戦が繰り広げられた。しかし結局食料が尽き、成す術を失った別所長治は、切腹をもって城兵を助命するという条件を飲んで自らの腹を切った。また天正八年(一五八〇)の『鳥取の飢え殺し』と呼ばれる『鳥取城攻略戦』においても、秀吉は吉川経家を相手に同じ兵糧攻めを行い、城中を飢餓状態に追い込む。追い込まれた城の者は人肉まで喰らう地獄のような有り様だったと伝わるが、この凄惨たる状況に耐え切れず、吉川経家は自決と引き換えに開城したのだった。経家は、
 武士の取り伝えたる梓弓かえるやもとの栖なるらん
 との辞世を残し、その死に様を哀れなる義士≠ニ讃えた秀吉は涙を流したと言う。
 そして天正十年(一五八二)、高松城を攻めた際切腹した清水宗治の潔さは、秀吉に強い感銘を与えたとされる。それは毛利征討、世に言う備中高松城水攻めである。
 本能寺の変で織田信長死去の報を知った秀吉は、一刻も早く片を付けなければならない状況に陥った。そこで使者を送って和平交渉を行うが、その条件が「高松城主清水宗治の命と引き換えに城兵を助命する」というものだった。水没した城での籠城は限界に達し、ついに宗治は城兵の命を救うため、小舟で秀吉の陣に近づき舟上で舞を舞い、切腹の道を選ぶ。
 この三件の兵糧攻めにおける城主の切腹には、それまでとは異なる特別な意味が際立っている。それは城兵の命と引き換えに城主自らが腹を切ったこと──つまり、それまでの切腹は身分が下の者が上の者に対して行っていたのが、上の者が下の者のために腹を切った点である。日本古来の武士の約束事は、戦にあっては主君が死ねば全てが決着する。つまり乱世における領主の切腹≠ニは、領民を巻き込んでそれ以上犠牲者を増さないための、平和的でもっとも確実な究極の解決策になり得たということである。これこそ和の国日本≠フ精神風土が、長い時間をかけてたどりついた一つの産物と言ってよいだろう。
 日本固有の概念とか命の傾向のことを、直虎は叒≠ニか秀気≠ニ名付けていたが、自己犠牲の精神がそれではないかと、ふと、脳裏に閃いた。
 民のために腹を切る>氛
 この長たるものの一つの死に方は、長たる者の責任として、また覚悟として後の世に継承されるべきであろう。
 清水宗治の切腹は、その作法があまりに見事であった事から、秀吉は「武士の鑑」とまで絶賛し、以降、切腹が名誉ある行為であるという認識が定着したとも言われる。豊臣秀次や千利休に対して秀吉は切腹の沙汰を下し、徳川家康もまた、関ヶ原の敗者の中でも古田織部や細川興秋などには切腹による処罰を命じた。
 それら切腹行為の中で、直虎が特に着目したのは浅井長政だった。
 琵琶湖周辺の北近江を治めていた長政は、武力で統治していたというより徳≠フ力で統治していたという色合いが強い。というのは、もともと琵琶湖周辺は食が豊富で、その自治体制は、領地を奪い合い勝利者が統治するというより、惣村≠ニ呼ばれる小さな村の集合体で形成されていたからだ。戦国時代当初は六角氏の傘下にあったが、戦上手の長政は野良田の戦いで鮮やかな勝利を収め、いつしか推されて領主となり、やがて六角氏の力を封じてしまう。その手法は命令を下して周辺惣村を武力で押えるというものでなく、横の連携で国をまとめあげる、ある意味共和制国家とも言える形である。
 その頃、東で勢力を強めていたのが隣国の斎藤氏だった。このとき、尾張の織田信長から一つの提案がもたらされる。
 「妹のお市を嫁にどうか」
 と。つまり北近江と尾張が同盟を結び、斎藤氏の美濃を挟み撃ちにするあからさまな政略結婚である。長政は斎藤氏の脅威を封じるためその申し出を飲んだ。
 ところが美濃を攻略した信長は、長政を同盟相手としてではなく配下に置いた傲慢さで天下布武≠旗印に天下統一に動き出す。更には長政と同盟関係にあった越前朝倉義景を攻撃するのだった。それがもとで両者の関係に亀裂が生じる。察するに、長政の信念は天下布武とは真逆の統治偃武≠ニもいえるもので、武力によらない平和で豊かな自領にするのが目的で、天下統一があるとしたら、その延長にこそ実現させるべきといった理想があったのではなかろうか。
 信長と敵対関係になったこの時点で、嫁のお市は信長の許へ帰されるのが戦国の習いだが、彼女は長政の許にとどまり、茶々(豊臣秀吉側室淀)やお江(徳川秀忠正室)といった後の歴史に絶大な影響を及ぼす姫たちを産む。そして長政もまた、妻お市を愛し娘を愛した。
 しかし兵力の差は歴然だった。破竹の勢いで侵攻する信長にとても勝てる見込みのない長政だったが、そこで奇跡が起こる。彼の徳≠フ力に呼応して、本願寺の僧侶たちが立ち上がり、更には朝倉軍や延暦寺の一向宗徒らも加わったのだ。信長に対抗し得る勢力に膨れあがった長政連合軍は、ついに信長軍を押し返すのだ。
 焦った信長はここで一計を案じる。そこが信長の憎いほどの才能とも言えるだろう、こともあろうに朝廷工作を行う。時の将軍足利義昭を利用して天皇に和睦調停を依頼し、勅命≠フ名の下に講和を成立させてしまう。まさにこの策は、幕末にあっては長州藩や薩摩藩が主導したそれと同じやり方と言えるが、日本という国の不思議は、国において天皇は絶対的存在≠ナあり続けてきたことだ。勅命≠ニあらば長政とて従わないわけにいかない。
 ところが──
 講和した直後、信長は京都からの北近江への道をちゃっかり寸断してしまうと、あの残忍無比な惨事として歴史に残る『比叡山焼き討ち』を決行し、長政を完全に孤立させてしまった。更には信長にとって東の脅威であった武田信玄が没すると、三万の軍勢で一気に北近江を攻め込み、長政の本拠地小谷城を取り囲む。
 命運尽きた長政のもとに降伏を勧める使者が何人も来たが、彼はそれを断り、天正元年(一五七三)秋、切腹して二十九年の生涯を閉じる。その直前、愛するお市と茶々、初、江の三人の娘を密かに城外へ逃がした──いわば長政の生涯は、信長の裏切りに翻弄され続けた一生であり、その切腹は、
 「信長よ! それがお前の人の道か!」
 という叫びでもあった。
 直虎は彼の生き方を尊敬の眼で拝す。和をもって国をつくろうとした点、家族を愛し武士の戦いに家族を巻き込まなかった点、天皇にはけっして逆らわなかった点、そして自らの腹を切って最後まで敵に抵抗した点──得体不明瞭な日本人たる者の性を感じつつ、やがて彼の思考は、江戸に入ってからの切腹の歴史を紐解きはじめた。
 まずは江戸初期。
 松平忠吉や結城秀康に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行するといった奇妙な風潮が起こった。集団の殉死自体は中国にも記録が残るから日本固有のものとは言えない。古代中国では王が死ぬと何千、何万という殉死者があった。しかしそれは君主に殉じるというより、民を養うことができなくなった国のやむを得ない手段だったようで、忠≠フ意味合いが強い日本のものとは異質である。伊達政宗の時は連鎖も含めて二十人、細川忠利の時は十九人、将軍徳川家光の時は老中や側近たちが次々と主君の後を追った。これには四代将軍徳川家綱も困って、『天下殉死御禁断の旨』という厳禁令を出したほどである。
 時代が遡ってしまうが、鎌倉時代の切腹にまつわる話を一つ──。
 法華衆の日蓮の弟子に四条金吾という武士がいる。経文に書かれた通りの法難が身に降りかかり続ける日蓮は、国主を諌暁してついに自らの教義の上で発迹顕本に位置づけられる竜の口の法難に臨む。そこでまさに斬首されようとする時、その場に付き従った四条金吾は日蓮の乗る馬の口にしがみつき、
 「われも腹を切らん!」
 と叫んで日蓮と生死を共にしようとした。結局そのときは、空に巨大な光り物(彗星と思われる)が現れて、死刑執行の役人たちは驚愕のあまり日蓮を斬ることができなかったが、後に日蓮はこの時の金吾に対して、
 「かの弘演が腹をさいて主の懿公が肝を入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり」
 と讃える。法華経の行者として切腹しようとした金吾の覚悟を不思議≠ニまで言って絶賛するのである。
 これは腹を切ろうとした武士としての金吾の切腹行為を讃えたわけでない。釈迦の経典に説かれる法難とまるっきり同じことが身に降りかかる日蓮は、最高無上の経典である法華経を身読したわけだが、その自分と生死を共にすることは、正に法華経の行者の証しであり、つまり最高の法≠ノ殉じようとした金吾の信心に対する称賛である。
 このように、ひとたび仏教に目を移せば、薬王菩薩の過去世である一切衆生喜見菩薩が法を聴き、歓喜して仏を供養するため焼身する話や、釈尊の過去世である雪山童子が、羅刹に化身した帝釈天から半偈を聞くため、その身を食べさせることを約して高い木から身を投げる話、あるいは飢えた虎のために身を捨てる捨身飼虎の説話など、法のために命を使う話がたびたび見られる。それらは命を粗末にするといった次元でなく、民衆を救済するための、人の命を尊ぶからこそ生まれた究極の人間の生き方を示しているように見える。ダイヤモンドがダイヤモンドでしか磨けないように、命も命でしか磨けないことを教えようとしているのかも知れない。
 総じて見るに、切腹とは形の上では死ぬための行為に違いないが、けっして死ぬことを目的にしていないことが歴然としてくる。つまり現代人が言うところの自殺とは全く異質のものである。
 ところが現代人は目に見える事象でしか物事を判断できない生き物に退化──というよりそういう教育をする場が皆無であるから物事の本質が分からない。生の尊厳は強調するが、万人が必ず経験することになる死の尊厳については忌み嫌って見向きもしないのだ。
 切腹についていろいろ論じてきたが、結論として、切腹による自死の背景には忠・義≠尽くす目的や己の信念≠ニか自己存在≠示すため、あるいは領民(民衆)≠フため、あるいは法≠フために命を尽くすといった大目的が必ず存在し、人はそのために命を使うことのできる生き物であると言ってよい。
 畜生たる動物はけっして忠・義・法、信念などのために命を落とすことはない。それはつまり人間であることの証明であり、古来より人は、その人間たる光に称賛の拍手を送ってきたのではなかろうか。
 ではなぜ、この切腹というものが、日本においてのみ根付き、その概念が定着するに至ったか?
 それは江戸時代以降、罪人を裁く一手段として、司法の場に取り入れられたためではないかと考えた。つまり切腹の概念が公然化したところに日本人の特色があり、日本人にはそれを受け入れる精神的土壌があった。
 裁くといっても、あくまで罪を犯した者自身が自らけじめをつける武士独自の慣習とか慣例を利用したものであるから処刑≠ニいうものとは一線を画す。とはいえ判決であるからには刑罰に違いない日本民族の曖昧さを露骨に示す一つの例とも言えるだろうが、悪しきにつけ直虎は、切腹≠ニいう概念の奥には少なからず叒≠ニいうものが潜んでいるように思えてならない。
 「切腹とは、生と死の境目を限りなく追及したところにある、日本の武士にだけ天が与えた究極の選択肢──」
 そう納得したが、今ではすっかり形骸化していることに一抹の疑問を覚えずにいられない。
 「切腹の機会は、本来他人から与えられるものでなく、究極において自ら選択すべきものであるはずだ。主君はその機会を与えるのみであり、いわば死刑にすべきを救う最期の慈悲なのだ。決断は本人に委ねることになるが、それで家臣たちが納得するのであれば──」
 と、切腹の沙汰を下す覚悟を自分に言い聞かせた。ところが、いざ式左衛門と要右衛門が最終決断を迫りに来た時、
 「ならぬ──」
 直虎はなおも拒んで二人を困らせた。
 「それでは民が納得しません!」と要右衛門は吠えた。
 「お前はわしより民に従うか? 民が腹を切れと申したら切るか!」
 「殿、聞き分けのないことを申さないで下さい」
 「その覚悟もないくせに軽々しく切腹などと申すな! わしは民が腹を切れと申したら切ってみせるぞ! その覚悟が今できたわい!」
 直虎は激怒した口調で二人を公の間から追い出し勢いよく襖を閉じた。そして暫く床の間に向かって目を閉じていたが、やがて密かに家臣のひとり柘植宗固を呼び寄せた。
 「お呼びでございますか」
 宗固は影のように姿を現わした。
 「宗さん、すまんがこれから須坂に飛んでくれ。これから告げることは要右衛門にも式左衛門にもけっして悟られてはならん、よいな」
 と小声で密命を伝えると、宗固は煙のように消えた。それから直虎は墨をすり、さらさらと切腹の沙汰を言い渡す書状を書き付け、
 「これで満足か!」
 式左衛門に投げつけるように手渡したのだった。
 こうして十二月二十九日付で、野口源兵衛、河野連、野口亘理、広沢善兵衛の四人に対し、その厳粛な沙汰を言い渡す。更に、彼らに付き従った者に対して、永久追放二十一名、藩籍剥奪十一名、隠居言い渡し一名等、処罰対象者合計三十九名に最終判決を言い渡し、その役員の総入れ替えとして、要右衛門を郡代席側用人に、北村方義を藩校立成館の教授にするなど、前代未聞の大規模な藩政改革が断行される。
 一方で、直虎本人に直訴した民蔵の処分も話し合われたが、
 「一連の事件のとどのつまりは執事らが邪であったことが全てであろう。民蔵に罪はない。後に同じような事があった時、上に意見を申しやすくするため、お咎めはなしということでどうか?」
 直虎はさあらぬ体で言った。それには家臣たちも納得して、土屋坊村事件の顛末は、その後、紆余曲折はあったものの間もなく収拾の方向へ動いていく。
 切腹の儀式は、年が明けて文久二年(一八六二)正月五日の夜に行われることとなった。ところが直前になって興国寺、普願寺、浄念寺の住職らが助命嘆願を申し出たため、四人は九死に一生を得、藩籍剥奪、永久追放の上、同寺院にお預けの身となる。
 三権分立ではないが、中世から近世の日本では武家・寺社・公家はそれぞれ独立したある種の権力を持っている。特に民事における寺社の権限は強く、それを利用して切腹の沙汰を無効せしめようと柘植宗固を使って住職らに助命の耳打ちをしたわけだが、報告を受けた直虎は、
 「そうか……」
 と呟き、遠くを見つめたきりだった。
 
> (七)(ほう)けもの()けもの
(七)(ほう)けもの()けもの
 東京都台東区三ノ輪に『大関横丁(おお ぜき よこ ちょう)』と呼ばれる一角がある。
 江戸時代、その付近に下野国(しもつけのくに)黒羽藩(くろ ばね はん)大関家(おお せき け)の下屋敷があったことからそう呼ばれるようになったと伝わるが、そこの第十五代藩主大関増裕(おお せき ます ひろ)は、直虎の母(しず)の兄である西尾忠宝(にし お ただ とみ)の実の子で、大関家の養子となって家を継いだ。つまり直虎とは従兄弟(い と こ)関係になる。
 『大関横丁由来の碑』に刻まれた文には、「黒羽藩第十一代藩主大関増業(おお せき ます なり)は、智徳兼備(ち とく けん び)英傑(えい けつ)にして藩政を教育で行い、自ら一千余巻の書を著した。特に著書『止戈枢要(しかすうよう)』は科学的編纂法(へん さん ほう)による構想が雄大で内容が充実しており、世界に誇るべき不朽(ふ きゅう)の名著と云われる。在職十三年の後この箕輪(みの わ)の別邸に住み、歌道や茶道等に精通して人心救済(じん しん きゅう さい)のため筆を振るったが、弘化二年(一八四五)六十五歳の生涯を終った」とある。
 増業(ます なり)が十一代だから直虎の従兄弟増裕(ます ひろ)はその四代後の藩主ということになるが、どういうわけか増業(ます なり)以降彼も含め、代々そのほとんどが養子によって家をつないできた家系でもある。特に増裕(ます ひろ)の養父増徳(ます よし)(十四代藩主)は、安政三年(一八五六)に末期養子(まつ ご よう し)として家督を相続した経緯があり、十二代藩主増儀(ます のり)の娘於鉱(お こう)(十三代増昭(ます あきら)の妹)を正室とした。末期養子というのは、嗣子(し し)のない当主が事故や急病などで急死した場合、家の断絶を防ぐため緊急に縁組された養子のことで、そうせざるを得なかったのは、十三代藩主増昭(ます あきら)が二十三歳の若さで急死したためである。
 この増昭(ます あきら)だけが唯一実子による家督相続だった点も気になるが、十四代藩主となった増徳(ます よし)は、その四年後於鉱(お こう)と離婚してしまうのだ。よほど仲が悪かったか、あるいは継室がいるところを見るとそちらとの愛を貫こうとしたものか、いずれにせよこの行動に対して家臣たちが「藩主による御家の乗っ取りだ!」と騒ぎ出した。家老たちはその騒動を抑えきれず文久元年(一八六一)一月、増徳(ます よし)を座敷牢に監禁してしまった──そんな経過から直虎の母(しず)の実兄西尾忠宝の第二子だった西尾忠徳(にし お ただ のり)が、形の上では於鉱(お こう)を正室とし、実質は十二代増儀(ます のり)の長女待子(まち こ)の方を妻として養子に迎えられ、大関増裕(おお せき ます ひろ)を名乗ってこの年の十月、家督を継いだというわけだった。
 年齢は直虎より二つほど年下だが、予てからのお家事情の心配から養子を迎える手を尽くしていたところ、
 「ついに見つけた」
 と養嫡子を連れて、正月の挨拶がてら須坂藩下屋敷の叔母のところへお披露目にやってきた。母からは、
 「正月くらい顔を出しなさい。直武は病気療養中で父様(ちち さま)だけでは心配だから」
 との伝言を受けていた直虎だったが、藩政改革の残務も忙しい中、年頭といえばどうしてもはずせない須坂藩にとって重要な行事があった。蜂須賀家阿淡(あ たん)二ケ国二十五万七千右の大守が、毎年()()げて須坂藩邸までわざわざ祝賀を述べに来るのである。
 石高でいったら二十五倍、なぜそのような奇妙なことが行われているかといえば、その発端は戦国末期にまでさかのぼる。
 須坂藩主初代直重は、豊臣家臣だった父の内命によって徳川秀忠に仕えていた。関ヶ原の戦いを経、元和元年(一六一五)の大坂夏の陣に際し、秀忠家臣土井利勝の軍に属した直重は、先鋒として天王寺表に突き進み城将毛利勝永軍と戦った。このとき同じ徳川方の一将だったのが蜂須賀彦右衛門家政で、一番槍を競って直重は自ら矛を執り憤激した末ついに敵将を討ち取ったのだった。他の将兵も力戦して兜首三級を得たのだが、蜂須賀軍は城兵に切り崩されて手柄を挙げられずに敗走し始めた。するとそれに乗じて敵が押し寄せ、蜂須賀家の丸に万字(卍)≠フ軍旗を奪って城中に戻ろうとする者があった。敵に軍旗を奪われることは武将にとって最大の屈辱である。蜂須賀家政は驚いて、
 「すぐに取り返せ!」
 と雄叫びを挙げたが、もはや意気消沈の蜂須賀軍にそんな勢いは残っていなかった。
 その時、その光景を見るなり汗馬を馳せて、城門際でその旗を奪い返したのが直重だった。その大胆で知略に富んだ勇ましい姿は、蜂須賀家政はもとよりそこにいた者の耳目を驚かせた。はるか遠くで見ていた徳川家康も例外でなく、
 「あれは誰なるや?」
 と問えば、近くにいた秀忠の小姓が、
 「堀大学直重にございます」
 と答える。それがきっかけで直重は軍中において初めて家康と御目見えし、さらに凱旋の後、軍賞として四千五十石余りを与えられたのである。
 そして軍旗を家政に返しに行った時、
 「こたびの働き、感謝の言葉もありません。よろしければ当家の紋を自由にお使いください。軍功の印です」
 と、当主自ら頭を下げて礼を尽くしたのである。それを機に須坂藩は蜂須賀家と同じ丸に万字≠家紋に用いるようになった。更に蜂須賀家政は礼の上に礼を尽くす。間もなく黄金に彩られた大鎧に赤地の皮胴七子塗のヌメ皮着せ、細かな装飾を施した相引の緒がついた鎧一式が直重のもとに届けられ、そこにはことごとく丸に万字≠フ紋が刻まれていた。そして丸に万字の鎧は堀家の家宝となった。
 ところが二代目直升の代になり、
 「蜂須賀家と同紋とはおこがましくなかろうか? 先方が気の毒じゃ」
 と言って、もともと亀甲花菱≠セった堀家の家紋の亀甲≠、丸に万字≠フ丸≠ノ変え、亀甲万字≠堀の家紋と改めた。以来それが須坂藩の紋となって今に至る。
 そればかりでない──蜂須賀家政の義心は更なる上に、
 『蜂須賀家よりは子々孫々廉略にすべからず』
 との一書を書き残したために、毎年年始めになると、蜂須賀家の藩主、家老が堀家に訪れて新年を祝い、両家の間ではそんな慣習が息づいたのだった。
 その日は藩を挙げて万端準備を整え、家宝の丸に万字の鎧を祀って酒宴を催す。忙しい時にはなんとも面倒な堅苦しい式典であるが、そんな義理堅い話が直虎は嫌いでない。
 さて、蜂須賀家一行を見送った直虎は、母の伝言を思い出して下屋敷へ向かった。そこにいたのが、
 「大関泰次郎と申します。以後お見知りおきを」
 家人の前で顔見せしたのはまだ十二歳ほどの少年で、周囲をきょろきょろしながら、別段かしこまった素振りも見せず、どちらかと言えば厚顔な態度で名乗った。およそ若さに裏打ちされた怖いもの知らずのうつけ者か、突然義理の従甥(いとこ おい)となったいたずら小僧のような様子に「昔のわしを見ているようだ」と直虎は心の中で笑んだ。
 実父は常陸(ひたち)府中(ふ ちゅう)藩主松平頼説(まつ だいら より ひさ)の五男谷衛滋(たに もり しげ)庶子(しょ し)だと増裕(ます ひろ)は紹介したが、酒が振る舞われた途端、給仕に出入りする直虎の妹である緑と房をつかまえ酌をさせると、
 「可愛い、可愛い、嫁に来ぬか?」
 と口説き始める始末。これには静も増裕も戸惑って、ただただ笑って場を繕うしかない。
 「ときに従叔父上(おじうえ)様は須坂藩の藩主と聞きましたが、嫁はどのお女中でございますか?」
 泰次郎は直虎に目配せして聞いた。
 「なぜかな?」
 「さすがに殿の室に手を出してはまずかろうと思いまして」
 と泰次郎は粗略に笑った。別に悪気があって言ったのではあるまいが、父の直格は気分を害して勢いよく立ち上がると、「仕事がある」と荒々しく部屋を出てしまった。
 「いやぁ、申し訳ござらん。まだ礼儀も作法も知らないようだ。若すぎて精力の方があり余っているのです。早く嫁を見つけてやらねばなりませんな!」と増裕(ます ひろ)は赤面して頭を掻いたが、
 「面白いことを言うのぉ。藩主になったばかりで嫁どころでないわい」
 直虎は不快な表情ひとつせず、呵々大笑して彼の脇に移動し酒を勧めた。
 「今日より泰次郎≠ニ呼ばせてもらうぞ。錦絵の春画ばかり見ていそうな顔をしておるのぉ」
 「分かりますか?」
 その臆面(おく めん)もない即答に「正直なやつだ」と直虎は腹を抱えて笑った。
 「写真鏡(しゃ しん きょう)というものを知っておるか?」
 「写真鏡……? なんでございます?」
 「読んで字のごとく(まこと)を写し撮る鏡じゃ。見た物そのままを紙に写す西洋の機械だ」
 一八三九年にフランスの画家により発明された写真機が日本に入ってきたのは一八四三年のことである。もっともそれはオランダより持ち込まれた銀板写真機で、国内産で最初の撮影に成功するまでには更に十四年の歳月を必要とした。佐久間象山も安政の初めにはすでにカメラを持っていたとされ、松代に蟄居中はその研究に没頭して自作の写真機まで作り上げた。オリン・フリーマンが日本最初の写真館を横浜に開いたのは一八六〇年のことで、文久元年(一八六一)のこの年は、フリーマンより機材を購入した鵜飼玉川という男が、薬研堀(東京都中央区東日本橋辺り)で日本人初の写真館を開いたと噂になった。しかし当時の日本人には絵にしては緻細すぎる表現が受け入れがたく、「魂が抜き取られる」と不気味がって、実物を見た者はまだまだ稀有な時代である。
 「それがどうかしましたか?」
 泰次郎は興味がないというどころか、口を揃えたように西洋化を語りはじめた世のお偉方たちの説教など聞くのは御免だというように盃の酒を飲み干した。
 「鈍いやつじゃのう。写真鏡で女子を写してみよ。春画など物足りず二度と見なくなるわい」
 泰次郎は俄かに目の色を変えて「本当か?」と直虎を凝視した。
 「一妙開程芳(いちみょうかいほどよし)も腰を抜かすぞ」
 一妙開程芳は春画を描く時のペンネームで、昨年三月に逝去した超売れっ子絵師歌川国芳のことである。
 「今はちと金がなくて買えんが、いずれわしは写真鏡を買うつもりじゃ。そしたら泰次郎にも貸してあげてもよいぞ」
 直虎にとって彼を手玉に取るのは雑作もない。泰次郎は生唾を飲み込んで「兄貴、まあ飲んで下さい」と態度を翻して、自分の盃をまた飲み干し返盃を繰り返すと、まるで舎弟にでもなったかのように喜んだ。直虎は、また可愛い弟が一人できたようで嬉しい。

 もう一人、九鬼長門守隆義(く き なが との かみ たか よし)とは正月の登城(と じょう)の際、江戸城『(やなぎ)()』で知り合った。昨年十二月、従五位下長門守(じゅう ご い げ なが との かみ)叙任(じょ にん)された直虎だが、従五位および無官の外様(と ざま)大名の寄合(より あい)の場となっている『柳の間』は、もっぱら翌月の十一日に行われる予定の将軍家茂(いえ みつ)和宮(かずのみや)の祝言の話題でもちきりだった。将軍拝謁(はい えつ)までの時間を待っている最中、向こうの方から、
 「同じ長門守ですなあ」
 と、気さくに声をかけてきたのである。
 大名の苗字(みょう じ)と下の名の間に「○○の(かみ)」とか「○○の(かみ)」とか「○○の(すけ)」とかあるのはみな『武家官位(ぶ け かん い)』といって将軍から承認されただけの実態のない肩書(かた が)きのようなものである。歴代の堀家の当主は淡路守(あわ じの かみ)や長門守、あるいは内蔵頭(く らの かみ)等を名乗る者が多かったが、兄の直武は長門守を名乗った。そこに朝廷へ何十両ばかりの金を払えば叙爵(じょ しゃく)が下り従五位下などの(くらい)が付く──ちなみに位が高いほど金もかかる。
 それはさておき武家官位というのはもともとは律令制度(りつ りょう せい ど)から生まれてきたものだが、江戸初期に定められた『禁中並公家諸法度(きん ちゅう ならびに く げ しょ はっ と)』で「武家の官位はその職の定員外とする」とされて以降、朝廷とは切り離されたいわば単に武士の格式を示すものとなった。六代将軍家宣(いえ のぶ)より全ての大名に授けられるようになったため今では記号同然だが、官位で名を呼ぶと箔が付くというメリットがあるほか、本名を呼ぶに(はばか)れるときなど(いみな)としての役割を果たすので彼らにとっても重宝(ちょう ほう)している。しかし「国名」に「守」が付く官位というのは、律令制の国の数が全部で六十八ヶ国であるのに対し、大名の数がこの幕末では二五〇以上もあるから、「内匠頭(たくみのかみ)」とか「図書頭(ずしょのかみ)」とか「右京大夫(う きょう だ ゆう)」などの朝廷の官職名をもらう者も多く出てきてはいるが、おのずと重複(ちょう ふく)してしまうのだ。
 「ということは貴公(き こう)も?」
 「拙者(せっ しゃ)、九鬼長門守隆義と申す。以後、よろしゅう」
 と言って、面長(おも なが)精悍(せい かん)な顔つきの男は直虎の隣に座った。
 九鬼隆義(く き たか よし)は安政六年(一八五九)十二月、先代藩主の急逝(きゅう せい)により養嗣子(よう し し)となって跡を継いだ摂津国三田藩(せっ つの くに さん だ はん)第十三代の当主である。九鬼家といえば熊野水軍(くま の すい ぐん)で有名な志摩(し ま)の出で、戦国時代は織田水軍として活躍した九鬼嘉隆(く き よし たか)()とする。関ヶ原の戦いで嘉隆は豊臣方に付き、子の守隆(もり たか)は徳川方に付いて争うが、西軍の敗北により父嘉隆は自刃(じ じん)する。家康は守隆に鳥羽(と ば)城と志摩領五万六千石を与えたが、更にその息子の代になって家督(か とく)争いが勃発(ぼっ ぱつ)した。その騒動をおさめるため幕府は、家督を継いだ弟の久隆(ひさ たか)に摂津国三田三万六千石を、兄の隆季(たか すえ)丹波国綾部(たん ばの くに あや べ)二万石を与え収拾させるが、ここにおいて九鬼氏は二つに分裂することになる。だから宗家(そう け)から数えると隆義(たか よし)は十四代ということになり、年は直虎より一つ下だが、藩主としては二つ先輩の彼は、優しげな目付きの奥に鋭い眼光(がん こう)を隠し、どこか愛嬌(あい きょう)のある直虎と並ぶと、なにやら滑稽(こっ けい)さを(ただよ)わせた妙なコンビが成立したように見えた。九鬼はにこやかに笑いながら、
 「派手(は で)な藩政改革をやったそうですな」
 と、興味津々な様子で言った。
 「こりゃまたずいぶんと耳が早い。いったいどこで?」
 「あちこちで(うわさ)ですよ。四〇人もの藩政首脳陣を一掃(いっ そう)した上に、このご時世、年貢免除(ねん ぐ めん じょ)、藩の貸金(かし きん)棒引(ぼう び)き、御用金(ご よう きん)献金(けん きん)免除なんて思い切ったことをやりなすった。うちの国でやったら(そく)財政破綻(は たん)だ」
 「一万石の小藩だからできたのです。おかげで私は文無(もん な)しですが」
 直虎は空っぽの銭入れを出して振って見せた。
 「しかし諸外国が来てより藩政改革は急務。私も何かせにゃいかんと思っているのですが、何をどうしてよいやら? 堀殿は、次は何をなさるおつもりか?」
 (にわ)かに九鬼の眼が光ったのを直虎は見た。この男もめまぐるしく変化しつつある時代の中で、危機感にも似た何かを抱いているようだ。直虎は(おだ)やかな口調で、
 「西洋化ですな」
 と呼吸をするように答えた。
 「西洋化……? と申しますと?」
 「さしずめ藩の軍備体制に西洋の方式を取り入れたいと考えています」
 「西洋の方式といったら、皆で足並みを(そろ)えて(いくさ)をする隊列型(たい れつ がた)アレかい? ライフル銃や西洋の大筒(おお づつ)も必要だろう? 雷管式(らい かん しき)(じゅう)(ゲベール銃)一挺(いっ ちょう)だけでも十両はするんじゃないか? こりゃずいぶん金がかかりそうだ」
 九鬼は夢物語でも見るように苦笑いを浮かべた。
 「そこが問題です。だが、金のあるなしに(しば)られて生きることほど窮屈(きゅう くつ)なことはない」
 直虎は他人事(ひ と ごと)のように笑った。
 「ちと(かわや)へ参らぬか?」と九鬼が言う。
 「拙者、尿意はもよおしておりませんが」
 「城内表を出歩くのさ。そうでもしなきゃ格上の大名とお知り合いになれないぞ」
 九鬼はそそくさと立ち上がり部屋を出たので、直虎もそれに続いた。すると案の定、(けわ)しい顔つきをした四十(じ じゅう)くらいの男とすれ違う。
 「これはこれは図書頭(ず しょの かみ)様、相変わらず(むずか)しい顔をしておりますな」
 九鬼は親し気に話しかけると、図書頭と呼ばれた男は直虎を一瞥(いち べつ)して目礼した。九鬼の説明によれば、彼は名を小笠原長行(お がさ わら なが みち)といい、唐津藩(から つ はん)譜代(ふ だい)六万石の世子(せい し)帝鑑之間(てい かん の ま)詰めの大名であると言う。昨年五月に江戸に来てより図書頭を名乗って幕府の仕事を頼まれているそうで、時代は少し下るが、第二次長州征討の際、北九州は小倉に陣を構え、長州──否幕末の異端児あの高杉晋作と下関で矛先を交えることになる男である。
 ちなみに唐津藩は肥前(ひ ぜん)にあり、佐賀藩などと並んで幕府直轄領(ちょっ かつ りょう)である長崎奉行を助ける役割を(にな)っていた。その特権として長崎貿易を認められていたため、表向きは六万石と称されるが、その実高(じつ だか)は二十万石を越えるとも噂される大金持ちである。そのやや複雑な藩内の利害と勢力関係の中で紆余曲折(う よ きょく せつ)はあったが、現在の藩主小笠原長国は、聡明(そう めい)な二歳年上の長行を養嗣子に迎え、藩の実権を(ゆず)っていた。そのため世子でありながら幕府の公務に就く機会を得ているのである。
 「図書頭様はいずれ老中(ろう じゅう)になるお人だ」
 と九鬼は言った。何を根拠にそう言ったかその時の直虎には分からなかったが、生真面目(き ま じ め)すぎるその風貌(ふう ぼう)の中に、「老中とはかくあるべき」という印象を持ったのは確かだった。長行は目をキッと狭めると、
 「立ち話でつまらぬことを申すな。老中は幕府が決めることだ」
 九鬼はごまかしの愛想笑(あい そ わら)いを浮かべてすかさず脇に立つ直虎を紹介した。すると、
 「攘夷(じょう い)などとは全く馬鹿(ば か)げている。そなたはどう思う?」
 突然直虎に問いかけた。
 「私は松平忠固(まつ だいら ただ かた)様の影響を強く受けておりまして、(はな)から開国派です。海外と貿易を成し、一刻も早く藩内の軍備体制を西洋化したいと考えております」
 「堀殿は金もないくせにそういうことを簡単に申す男でして──」
 九鬼がそう言いかけた時、
 「金がないのか? 貸してやってもよいぞ」
 と、長行は直虎の双眸の輝きの中に何を見たのか、西洋化のために金を貸すのは当前のことのように言った。直虎にとっては願ってもない言葉である。
 「そのかわりに一つ条件がある。再来月(さ らい げつ)の頭にはお(ひま)をいただき、わしは唐津へ戻らねばならん。しかしいかんせんまとめねばならん書類が山積みで間に合いそうもない。手伝ってくれぬか?」
 直虎は「私でよろしければ」と頭を下げた。それにしても藩の西洋化にかかる莫大な費用をいとも簡単に「貸す」とはどういう男か。
 「では今日からでも手伝いに来てくれ」
 長行はそう言い残すと、何事もなかったかのように立ち去った。瓢箪から駒とはこのことで、九鬼とのひょんな出会いから、長行からの資金援助を取り付けたのである。
 その日の午後、九鬼を伴った直虎は、外桜田永田町(がい さくら だ なが た ちょう)にある唐津藩上屋敷邸内の別殿(べつ でん)にやって来た。そして、部屋に無造作に散らかる書類の山を見て愕然(がく ぜん)とした。
 「ではさっそく長門守殿──」と長行が言ったので、直虎と九鬼は同時に「はい」と返事をした。
 「なんじゃ? 二人とも長門守では紛らわしい。どちらか官位名を変えたらどうか?」
 二人は顔を見合わせて、
 「ならば堀家の当主は内蔵頭(く らの かみ)≠名乗ったこともありますので、私の方がお(うかが)いを立ててみましょう」
 と直虎が言った。長行も「その方がわしの手伝いをする文官らしい」と言ったので、この年から内蔵頭≠ニいうのが直虎の通称となる。
 手伝いを始めた彼は、書類の中に『西洋流町打(ちょう うち)之事』と書かれたメモのような紙きれを見つけた。町打というのは銃や大砲の射撃発砲を修練することである。それが西洋流とあらば、もはや心をくすぐられずにおれない。「これは?」と聞けば、「西洋流の大砲を作らせて実験しているところだが、なかなかうまくいかないのだ」と長行は隠す様子もなく答えた。
 西洋式の大砲については既に十年ほど前、まだペリーが来航する以前、佐久間象山が蘭学書に書かれた原理の見よう見まねで鋳造し、発射実験も成功させていたが、完全というにはほど遠く、命中率も格段に低かった。幕府内でも嘉永六年(一八五三)以来、勅命を受けて国防のため寺の梵鐘を溶かして大砲を鋳造するよう命じる『毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)勅諚(ちょくじょう)』を発令し、開発に取り組んではいるものの、まだまだ端を発したばかり、江戸市中にはそうした洋式砲術を教える兵学者もいたが、その必要性を感じている者は人口の比率でいえば皆無と言ってよい。
 「唐津藩ではすでに西洋流の軍備を進めておられるか?」
 直虎は思わず声を挙げた。
 「何を驚く、遅いくらいじゃ。長州藩の屋敷には連日大砲操練(そう れん)の兵士達が盛んに出入りしているそうだ。もっぱら攘夷(じょう い)を図っているとの噂だが、そうはさせん」
 直虎は大きな(あせ)りを覚えるとともに心躍(こころ おど)った。攘夷とか戦争といったものに対してでない。大きく動き出した時代のうねりにである。
 「図書頭様のお知り合いで西洋兵学を教えてくれる者はおりませんか? ぜひご紹介願いたい!」
 その勢いに押されて今度は長行の方が驚いた。「なんだ?こやつ」といった表情で見つめ返すが、愛嬌のある笑みの中にほとばしる情熱を見て取った彼は、やがて静かに何人かの名を挙げた。
 「赤松小三郎(あか まつ こ さぶ ろう)というのがいる。確か上田藩士と思ったが、以前長崎の海軍伝習所(かい ぐん でん しゅう じょ)に顔を出したとき、勝海舟と一緒にいた男だ。オランダ人から直接数学や兵学、航海術を学んで、そのときすでにオランダの兵学書を翻訳しておった。聞くところによれば今は家督を継いで国許におるそうじゃ」
 その名は直虎も知っている。島田剣術道場で出会った勝海舟の講演の中でも何度か出て来た名だが、彼が須坂のすぐお隣の上田藩士だったとは驚きだ。
 「それと──」と長行は続けた。
 「洋学を学ぶなら加賀藩士の佐野(かなえ)がよかろう。もともとは駿河の郷士の出だが、西洋砲術の腕を買われて前田家の家臣になった男だ。二年前、遣米使節団に随行し、今は遣欧使節として竹内下野守殿と共にエゲレスへ渡航中だったかな? あいつもひときわ目立った西洋通じゃ。将来きっと何かやらかすに違いない」
 直虎はその二人の名を記憶した。
 ()しくもこの日、小笠原図書頭長行との出合いによって、西洋化への確かな道筋を描いたのである。そして、(わき)で話を聞いていた九鬼隆義もまた、なにやら頭上で激しく回転しはじめた世の中の趨勢(すう せい)(あお)られながら、密かに西洋化への藩政改革を決意していた。
 
> (八)十六連発銃
(八)十六連発銃
 藩主になって世界が変わった。
 (いな)──変わったというのは実感で、実際は付き合う人間の幅が広がったわけであり、以前の付き合いといえば家人とその人間関係の中でのみの生活だったのが、ひとたび藩という囲いを飛び出せば、そこは心ある者たちが西洋というものに目を据えて生きる志士たちの住処(すみ か)であった。
 打つ手がひとつ遅れれば、取り返しのつかない遅れをとっていたかも知れないと思うと、父が藩主を交代させた意味が、単に直武の身体を心配したわけでなく、何か別のところにあったのではないかと思えてくる。
 小笠原長行(お がさ わら なが みち)と出会ってより、家臣が心配するほど寸暇(すん か)を惜しんで唐津藩(から つ はん)屋敷の別邸に出入りし業務を手伝う中で、人の出入りの多さに驚かされながら、中には浪人風情の者までやってきては、長行と密談を交わしているのを横目で見ているのである。
 そんなある日、
 「内蔵頭(くらのかみ)殿、ちょっと使いを頼まれてくれぬか? これを芝新銭座(しば しん せん ざ)大小砲(だい しょう ほう)習練場(しゅうれんじょう)に届けてほしい」
 と一通の書状を手渡された。
 「して、どなたに?」
 「江川太郎左衛門(え がわ た ろう ざ え もん)殿に届くようしてくれ。まあ急いでいるわけでないから調練(ちょう れん)の様子など見聞して来てもよいぞ。いろいろ学ぶこともあろう」
 直虎は書状を(ふところ)にしまい込んで別邸を出た。
 江川太郎左衛門とは伊豆韮山(い ず にら やま)の代官を務める江川英敏(ひで とし)のことである。彼の父江川坦庵(たん なん)は、国産反射炉(はん しゃ ろ)の基礎を築いた西洋砲術の草分けである。
 幕府の代官というのは天領(てん りょう)に置かれる旗本の役人で、大きな幕府直轄領(ちょっかつりょう)の代官ともなれば数万石の大名と同程度あるいはそれ以上の統括力を持っている。坦庵(たん なん)の管轄は武蔵(むさし)相模(さがみ)、伊豆、駿河(する が)甲斐(か い)の五か国にまたがる十万石に及ぶ領地で、若い頃は世直し江川大明神(だいみょうじん)≠ニ呼ばれるほどの手腕を発揮してきたが、時折来航する外国船に対して必要以上の警戒をしなければならない土地柄でもあった。そのため蘭書(らん しょ)を読み兵学を学び、西洋における軍事手法を研究していた。
 天保十二年(一八四一)、当時西洋砲術の最先端ともいえる長崎の高島秋帆(たか しま しゅう はん)が西洋砲術による実地演習を成功させると、その脅威を目の当たりにした幕府は、西洋砲術を習得させるため坦庵を秋帆の門に入門させ、やがて高島流西洋砲術を皆伝(かい でん)された坦庵は『韮山塾(にら やま じゅく)』を開設する。そこには高島秋帆の西洋砲術を学ぼうとする幕臣や諸藩の藩士が数多く集まり、中には佐久間象山をはじめ大鳥圭介や橋本左内、桂小五郎などの名も見られる。
 彼の持論は、
 「歩兵・騎兵・砲兵の三兵を柱とする西洋式の軍制にもとづき、西洋式の小銃・大砲を導入し、それらの火器を集団的に運用すべき」
 とするもので、単なる理論でなく実践において西洋式砲術を習得しようと試みた。
 嘉永六年のペリー来航を契機に勘定吟味役格海防掛(かんじょうぎんみやくかくかいぼうがかり)に任じられた後、江戸湾防備の実務責任者として奔走することとなり、幕府から江戸内湾への台場築造(だい ば ちく ぞう)とあわせて反射炉の建造の許可を得た。『反射炉』とは不純物を多く含む銑鉄(せん てつ)を溶解して優良な鉄を生産するための炉で、その技術は十八世紀から十九世紀にかけてヨーロッパで発達したものだが、天保年間には長崎の高島秋帆が輸入した蘭書などを通じて日本にも伝わっていた。より安価で大量の大砲を製造するためには絶対的に必要な設備だったのだ。
 ところが激務による無理から病気になり、安政二年正月、坦庵はその竣工(しゅん こう)を見ることなく他界する。そして、その意志を継いだのが子の江川英敏で、幕府から芝新銭座に八千数百坪の土地を下賜(か し)され、その地に大小砲専門の演習場と付属の建物が設置されるに至る。
 つまり幕末における西洋砲術の系譜は、高島秋帆による大成から江川坦庵への伝授、そして坦庵の『韮山塾』からの弟子の輩出、更に坦庵死後はその弟子たちによる芝新銭座大小砲習練場からの普及という一つの構図が成り立つ。
 とはいえ文久に入った今になっても、西洋砲術と言ったところで攘夷派や一般民にとってはまだまだ関心は薄く、ようやく普及の途につきはじめた時分である。
 長行の別邸から芝新銭座の大小砲習練場までは、外濠(そと ぼり)に架かる新シ橋を渡って道なりに進み、距離にして一里もない。近くには将軍の別邸浜御殿(はま ご でん)があるが、幕臣といっても御門警備の分際では、幕府の軍事演習の現場などチャンスがない限り施設に近付くこともない。その道のりを要右衛門を伴にした直虎は、西洋の小銃や大砲の調練の様子を見聞できる幸運に胸をわくわくさせた。すると、
 「アニキ!」
 聞き覚えのある声に振りむけば、三頭の馬にまたがった三人の家族連れ。声の主は歌舞(か ぶ)いた衣装に身をまとう、年頭に出会った大関家の跡取り泰次郎で、後ろには西洋を真似た正装姿の大関増裕(おお せき ます ひろ)とその妻待子(まち こ)が並んで、少し照れくさそうにしていた。主君の親戚の登場に、伴の要右衛門はその場にひざまずいた。
 「こりゃ(まっ)さん、どうしたその恰好(かっ こう)は? おや、髪型を変えたか?」
 直虎は月代(かさ やき)(頭髪を()りあげた部分)のせまい増裕の丁髷頭(ちょんまげあたま)を見て言った。
 「最近、なんでもかんでも西洋、西洋だ。わしもあちらさんに習って、ちと髪を伸ばしてみようと思ってな……」
 増裕はまだ生えかけの月代(さか やき)部分を()いて苦笑い。これより後、『講武所髷(こうぶしょまげ)』と呼ばれるその髪型は江戸で大流行することになる。そんなことより目を引くのは、当時女性の馬術などほとんど稀有(け う)な時代にあって、隣で同じように馬にまたがっている待子の凛々(り り)しさで、このとき色香(いろ か)漂う二十三の彼女を直虎は()()れと見つめた。
 「巴御前(ともえごぜん)かとみまごうたわい」
 「織田家から鈴木勘右衛門(かんえもん)殿を屋敷に招いて、愚妻(〇 〇)長足流馬術(ちょう そく りゅう ば じゅつ)稽古(けい こ)をさせておるのです。それでも最近ようやく板についてきましたかな?」
 増裕は待子を自慢げに見つめて「かかかっ」と笑った。
 「まあ、愚妻(ぐ さい)なんてヒドイっ」
 馬上から(にら)む待子の視線上にある増裕の顔を、直虎は少し(うらや)まし()に見つめた。
 「仲のよろしいこった。で、どうしてかようなところに?」
 増裕は思い出したように事情を話し出す。
 「須坂藩邸に行ったら外桜田(がい さくら だ)の唐津藩邸に行ったというから来てみたのさ。会えてよかったよ」
 「急ぎの用かい? それにしたって家族連れでその仰々(ぎょう ぎょう)しさは、何かめでたい事でもあったかな?」
 「実は、このたび講武所奉行(こう ぶ しょ ぶ ぎょう)″に任じられ、今日はその報告と挨拶に来たのだ」
 「こ、講武所の奉行に?」
 直虎は思わず声を挙げた。『講武所』とは幕府直轄の兵学校のことである。ペリー来航に伴い浜御殿の南側に四町の大筒操練場(おお づつ そう れん じょう)が作られたのが始まりだが、正式に発足したのは安政三年(一八五八)で、間もなくその場所は軍艦操練所(ぐん かん そう れん じょ)となり、組織改編に伴って洋式調練や砲術を教授する『講武所』は神田(かん だ)に移された。その奉行に抜擢(ばっ てき)されたとは、ほぼ同時期に藩主となった従兄弟(いとこ)にして随分な出世のしようである。
 「それはおめでとうございます!」
 「忙しくなってからでは挨拶もままならないと思い、いち早く知らせに参ったしだい。(なお)さん、これからはなにもかも西洋に見習わなきゃいかん。遅れをとるな」
 「そりゃご丁寧に。こんな所で立ち話も難だ、茶屋にでも入るか?」
 「それには及ばん。まだ回るところがある。(なお)さんも用事の途中だろ?」
 増裕は「ドウっ!」と叫ぶと馬を回した。それに従おうとした派手な衣装の泰次郎の腕を(つか)んだ直虎は、「またゆっくり遊びに来い」と早口に伝えた。
 「そうします。実はおいらもアニキに相談があるんです」
 「金の相談以外なら何でも申せ」
 「これです……」
 泰次郎は右手の小指を立てて頭を掻くと、三人は慌ただしそうに立ち去った。
 こんなふうに大関増裕は、暇を見つけては時折待子と(くつ)を並べて、江戸市中を馬で遠乗りするのが楽しみだったと伝わる。その派手々々しさに驚嘆の目を見張った市中の人々は、後にこんな狂歌(きょう か)落首(らく しゅ)にして通路の板壁に貼りだした。

 夫婦して江戸町々を乗りあるき異国の真似する馬鹿の大関

 「あれは報告に来たというより馬に乗れる嫁さんを見せびらかしに来たのですなぁ。それにしたってあの息子のていたらくは何たる様……」
 要右衛門が膝の砂を払って立ち上がった。
 「親と一緒に挨拶まわりとは、泰次郎にしては上出来じゃ」
 二人は西洋風を装った夫婦と歌舞伎役者まがいの様相をした息子のアンバランスな家族の後ろ姿を見送った。

 江川英敏(ひで とし)の屋敷は大小砲習練場敷地内東側にあり、すぐ隣の習練場からはときたま大きな号令とともに鉄砲のパンパンという耳をつんざく音が響いていた。到着した直虎は門番の男に主人の在宅を確認して「小笠原図書頭(ずしょのかみ)様の使いで参りました」と告げると、門番の男は直虎と要右衛門の身なりを注意深く観察してから、腰の刀を預かり「どうぞ」と中に招き入れた。直虎は要右衛門を外で待たせると、そのまま屋敷内へと入った。
 はたして客間で姿を現したのは二十代半ばの目付きの鋭い面長(おも なが)な貴公子で、
 「江川太郎左衛門英敏と申します。図書頭様から何でしょう?」
 と対座し、直虎も名乗って頭を下げて、懐から書状を差し出すと、英敏はその場でさらりと黙読し始めた。
 坦庵から家督を継いで今年で七年目になる英敏は、父の事業の全てを引き継ぎ完成へと導いた敏腕(びん わん)である。一端は閉門となった韮山塾(にら やま じゅく)を再開させ、習練場は多くの門下や、小銃や大砲術を学ぶ幕臣たちで賑わい、そこで学んだ人数は延べで三千人とも言われる。幕府からは鉄砲方という職務を任されていたため、昨年の五月には同門の鉄砲組を率いて日本初のイギリス公使館になっていた東禅寺の警備にも加わり、公使ラザフォード・オールコックの守衛も任されていた。同所ではオールコック付き通訳が門前で殺害されるとか、攘夷派水戸藩浪士によって寺が襲撃されるなどの死傷事件が発生しており、まさに時代の最先端で任に当たる彼の双眸(そう ぼう)からは、死と隣り合わせの物を射るような光を放っていた。
 「返書をしたためるので暫しお待ち願えませんか?」
 と英敏が言った。
 「ならばその間、習練場を見学してもかまいませんか?」
 「どうぞお好きに。興味がおありですか?」
 「拙者(せっ しゃ)(わず)か一万石の信州須坂は堀家の当主ですが、藩の軍備を西洋化しようと思っております」
 「それはけっこう」
 英敏はひとつ笑んで客間を出て行った。それを見送った直虎は屋敷を出、すぐ隣の習練場へ向かって歩いていると、
 「片井(かた い)先生、横浜から荷が届きましたぞ!」
 と声が聞こえた。見れば二人の門人らしき(さむらい)が、離れの建物に三、四尺ほどの細長い二つの木箱を運び込んでいる。直虎が気を止めたのは片井≠ニいう名に覚えがあったからで、近くに寄って「中身は何か?」と愛嬌(あい きょう)笑いで聞くと、
 「さあな? 片井先生のことだから、どうせ西洋のライフル銃とかじゃないか? きっと研究のための標本さ」
 「あの年でよくやるよ。まだ自分の方が西洋より優れていると思ってんだから」
 二人の侍は交互に言って笑い合うと、
 「誰が年だって?」
 離れの中からしわがれた大声がした。
 「こういう話ばかり耳が()えるよ」
 二人はうつけたように屋敷を立ち去った。
 「おおっ、来たか!」
 姿を現したのは傘寿(さん じゅ)にもならんとするよぼよぼの(じい)さんで、重そうな木箱を屋内に運び込もうとする動作に職人気質(しょくにんかたぎ)頑固(がん こ)さが垣間(かい ま)見えた。
 「手伝いましょう」
 直虎は近寄って一緒に荷の運び込みを手伝い、鍜治場(か じ ば)のような暗い部屋に入った。辺りを見回せば鉄の(かたまり)や細かい環貫(かん ぬき)やくの字に曲がった金具、ヤットコ(ばさみ)鉄刀鎚(てっ とう づち)などの道具類がところ狭しと置いてあり、格子戸(こう し ど)から差し込む日の光は強烈な火薬の匂いを漂わせた。
 「荷の中身はいったい何ですか?」
 「これか?」
 爺さんは「何だと思う?」と言いたげに鉄梃(かな てこ)で木箱の(ふた)を開けようとしたが、
 「おっと、どこの誰だか知らん(やつ)に教えるわけにいかん」
 と手を止めて、(しわ)だらけの乾燥した茶色い肌に、目だけ爛々(らん らん)と輝かせて直虎を睨んだ。
 「怪しい者ではございません。小笠原図書頭様の使いで江川様のところに来ました。習練場を見学させていただこうと屋敷を出たところ、この荷が運び込まれるのを見かけたもので」
 「唐津藩の使いか?」
 「そんなところです。もっとも私は唐津藩ではなく信州須坂藩ですが」
 「須坂……?」
 「ご存知ですか?」
 「わしも軽井沢出の松代藩士だからな」
 爺さんは同州の仲間に会った喜びからか、(わず)かに口許をほころばせ、
 「攘夷派の間者ではなさそうじゃな。わしのすることは幕府の機密だ。他言無用じゃぞ」
 そう言って木箱を空けると「これかぁ」と呟いて、目を更に輝かせながら中から新品のライフル銃を取り出した。
 「メリケン製のヘネル連発銃じゃ。十六連発らしい」
 独り言のように呟くと、細いネジ廻しを手にしておもむろに分解し始めた。
 「な、何をするんです? 輸入したばかりの新品じゃないのですか?」
 「あほう! 壊さなくて仕組みが解るか」
 この爺さん、名を片井京助、(いみな)直徹(なおあきら)という砲術家であり発明家である。
 天保十四年(一八四三)、ペリーの部下が所持するホール式元込(もと ご)め銃からヒントを得、世界に先駆け四連発の雷管式(らい かん しき)ドンドル銃を製作した男である。その特徴は点火方法にあり、火縄銃を改良した傍装雷火式(ぼうそうらいかしき)≠ヘ当時としては先進的で、火縄銃の三倍の速射能力があったという。西洋の銃は火縄式から火打ち式(燧式(すい しき))を経て雷管式へという発明経過をたどるが、京助のそれは燧式(すい しき)を飛び越えて雷管式に至ったものだ。雷管式と言っても一つ一つの弾丸(だん がん)薬莢(やっ きょう)を取り付ける形でなく、火薬玉(か やく だま)を一粒ずつ火皿(ひ ざら)の中に落として撃鉄(げき てつ)で点火させる傍装(ぼう そう)と呼ばれる仕組みで、火縄銃を進化させたこの方式なら騎乗からもあるいは雨天の時でも使用可能という代物(しろ もの)であった。
 ところが幕府はその余りに強力な性能を恐れ、秘密裏(ひ みつ り)にしたまま厳重に管理した。しかし諸外国が迫りくる国難に際し、見過ごすことができなかった京助の息子佐野三郎が「大儀に反す」と脱藩までして時の老中阿部正弘(あ べ まさ ひろ)にその銃を持ち込んだおかげで、幕府は松代藩に銃の献上を求め公開されるに至ったという経緯がある。
 直虎はそんなことより片井≠ニいう姓が気になった。というのは以前須坂藩で砲術指南役(し なん やく)として雇っていたのが片井伝助(でん すけ)という同姓の男だったからだ。
 「伝助という名の兄弟、もしくは親戚はおりますか?」
 「伝助……? さて、いたような気もしないではないが、なんせこの年になると忘れることの方が多くて困る。だいたいわしは片井家といっても養子じゃから、家についてはそれほど詳しくない」
 そう言いつつ研究に傾ける頭脳は明晰(めい せき)で、分解する部品を見つめながら「なるほど、こういう仕組みか」といちいち呟く。
 天明五年(一七八五)に信州軽井沢の農民柳沢伝五郎の子として生まれた京助は、佐久郡八満村の鍛冶師(か じ し)片井宗造の養子となって松代に移住した後、藩主真田家の御用鉄砲鍛冶(ご よう てっ ぽう か じ)となって佐久間象山に仕えた。そこで一分間に十発撃てるという『早打鉄砲(はや うち てっ ぽう)』を考案し才能を開花させた彼は、江川坦庵(たん なん)の門に入って洋式砲術を学ぶ機会を与えられるが、雷管式四連発銃はその時の作である。他にも神槍銃(しん そう じゅう)とかスプリング式空気銃なども製作し、直徹流(ちょくてつりゅう)を名乗って砲術道場まで創った。
 もっとも京助の養父片井宗造といえば佐久でも大きな家だから同姓の分家も多かろうが、須坂の砲術指南役の片井伝助は上州の生まれだったことを思い出した。それは父直格が藩主だった頃の話で、直虎はまだ生まれておらず、須坂藩士たちの笑い話として語り継がれているものである。
 ペリー来航の翌年、大砲を量産するため朝廷が五畿七道(ご き しち どう)の諸国司に太政官符(だいじょうかんぷ)『諸国寺院の梵鐘(ぼんしょう)を以って大砲小銃鋳造(ちゅうぞう)に応じる事』を発し、これを受けた幕府が諸藩に対して『毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)勅諚(ちょくじょう)』、つまり寺院梵鐘の供出を布告したのが安政年間始め。ところが須坂藩ではそれより三十年も前の文政年間に、領内の各寺院の梵鐘を献じさせ、八門の大砲を鋳造したというのだ。佐久間象山が西洋式の大砲を鋳造するより更に数十年前である。
 その時の砲術指南役が片井伝助で、その頃の大砲の弾丸といえば球状が常識だったのを、直格(なおただ)が、
 「火矢(ひ や)は細長いからまっすぐ飛ぶのであろう。弾丸も長細くしてみてはどうか?」
 という言葉を受けて、長弾(ちょう だん)を作って実験することになった。成功すれば城を焼き落とす攻城砲の原型とも言うべきもので、果たして発砲実験当日、須坂陣屋近く鎌田山(かま た やま)の山麓に(まき)三〇〇()を積み置いて、いざ発火してみれば、
 ドンッ!
 地面を揺るがすものすごい爆発音とともに火矢が放たれた。瞬転、薪はことごとく打ち砕かれて、めらめらと炎をあげ、見事実験を成功させたのである。
 ところがその事が幕府に聞こえてしまった。「謀反(む ほん)の疑いあり」と、江戸詰めの藩士が早馬で国許の陣屋に馳せ付けて言うには、
 「殿、何てことをしてくれたのですか! 御家断絶(お いえ だん ぜつ)、領地没収の沙汰(さ た)が下されてしまいます!」
 涙ながらに訴えた。時の国家老は丸山巨宰司(まる やま こ さい し)で、
 「慌てるな。徳川様のためにやったことである。話せばわかる」
 と泰然(たい ぜん)として驚かず、出府して幕府に申し開きをして事なきを得たというエピソードである。
 そんな話を気のない様子で笑いながら、
 「得てして技術というのは飽くなき欲求と戦争が産み出すものさ。この十六連発の銃も、いまメリケンで起こっている内戦の産物なのだ」
 と京助が言った。アメリカの内戦とはちょうど一年ほど前に開戦された南北戦争のことである。そして作業の手を動かしつつ何かを発見したように、
 「なるほど、ここが弾倉(だん そう)か──」
 ひとりごちた。それは十六連発の仕組みで、ライフル銃の特徴である長い銃身の下にもう一つ同じ太さの円筒(えん とう)があり、その部分が弾倉になっていて十六発の弾丸を縦に装填(そう てん)可能にし、スプリングで一発ずつ薬室(やく しつ)に送り込む構造をしきりに感心した。
 直虎は無性にその銃が欲しくなった。
 須坂藩内でも西洋化に取り組み始めたとはいえ、藩主一人が口でいくら西洋化を唱えても、決意は行動と物で示さなければ誰にも信用してもらえない。この西洋の最新式の銃でそれを示せば、半ば西洋化を冗談半分に捉えている家臣たちを本気にさせることができるのではなかろうか──同時にここに来る途中に会った大関増裕の西洋風の姿が脳裏に浮かんだ。
 「ところで二丁ありますが、二つとも分解するおつもりですか?」
 「一つは一橋慶喜(ひとつ ばし よし のぶ)様のお買い上げじゃ」
 「一橋様の?」
 「日本にこの二つしかない最強兵器じゃ。そんじょそこらで手に入れられるモノでない」
 「もう一つは?」
 「原理が分ったら破棄じゃ。わしがこれ以上のモノを発明してやる」
 「ならば私に譲ってください!」
 京助は直虎を見つめて哄笑した。
 「本体が百五十両、弾丸百発十両、占めて百六十両。払えるか?」
 直虎はぐいっと生唾(なま つば)を飲み込んだ。今の自分にそんな金などあろうはずがない。おまけに六月は参勤交代帰藩の月なのでその出費もかさむ。
 「分り申した。一カ月待って下さい。必ず用意いたします」
 「うむ。その頃にはこのライフル銃も用済みじゃ。精度を上げて新品以上の物にして組み立てておくさ」
 と、商談が成立したところで、
 「こんな所にいらしたか。内蔵頭(くらのかみ)様、主人がお探しです。返書を渡したいと」
 と英敏(ひで とし)の側近がやって来た。直虎は京助に頭を下げてまた会うことを約して戻った。
 返書を受け取った直虎は、英敏から更に『パン製法書』なる書き付けをもらった。パンは西洋の軍事携帯食でもあり、長期保存がきき、日本の兵糧丸(ひょうろうがん)より味がよく手軽に扱える優れものだと、
 「これも手前の父、江川坦庵が長崎のパン職人より学んだ秘蔵のもので、今後の軍事食の常識となるであろう。西洋化にお役立てください」
 と言った。この後直虎は、二度と再び彼と会うことはなかった。この年の十二月、江川英敏は二十四歳の若さで病死する。

 それにしても忙しい。
 この頃の直虎は、小笠原長行の屋敷通いの他、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(翌年より開成所と改名)にも盛んに通い始めた。蘭学を中心に洋学を教える昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)と並ぶ幕府の教育機関だが、そこの教授手伝いである杉田玄端(げんたん)に師事して蘭学を学ぶようになった。彼は杉田玄白の義理の孫になるが、実父は尾張藩医を務めた權頭信a(ごんどうしんびん)という男で、もともと医術を好み、やがて幕府お抱え医師も務める。一方で、嘉永四年(一八五一)に完成させた『地学正宗図(まさむねず)』は幕末最高の世界地理知識書とも言われ、その世界観は吉田松陰や橋本左内にも影響を与えたとされる。
 ともあれ夜以外はほとんど上屋敷に姿のない藩主の多忙さに、いよいよ家臣たちが心配を募らせた。
 「殿はまた今日もお出かけか?」と、真木万之助は小林要右衛門をつかまえて半分呆れ顔。
 「もう少し武芸の方に心血を注いでほしいものじゃ」と、要右衛門はいつもの愚痴を漏らした。
 「それもそうだが少し働き過ぎじゃ。藩邸にいる時も毎日横文字ばかり読んでおられる。あんなふうに昼夜わかたず勉強をしていたらお体がいくつあっても足りぬぞ」
 そこに中野五郎太夫が口を挟む。
 「拙者もそれを心配している。あの調子ではいつかご病気になられてしまうぞい」
 交互に相槌(あい づち)を打ったところを見ると、みな思っていることは同じだった。少し考えて、
 「何か保養になることをお勧めしようではないか」
 と提案したのは万之助。ところが当の直虎は旅行は嫌い、囲碁(い ご)将棋(しょう ぎ)もやらない、学問のほかに好きなものなどあるのかと、三人はほとほと困り果てた。
 そこへもう一人の家臣竹中清之丞(せい の じょう)が「なんの話じゃ?」とやって来た。
 「殿のお体のことを心配していたのだ。なにか保養になることはないか?」
 清之丞は(ひらめ)いて、とっておきの妙案があるとばかりに三人の(こうべ)を集めた。比較的頭の堅い家臣団の中では、機転の利いた発想のできる男なのだ。
 「そりゃ腰元女(こし もと おんな)を雇うに限るぞ。殿とて男じゃ、お疲れのとき我々が無粋(ぶ すい)な顔で(とお)一辺倒(いっぺんとう)の声をかけるより、美しい腰元女中(じょちゅう)に『少し御休息(ごきゅうそく)遊ばせ』とか物柔らかに言わせてみよ。(じゅう)()(ごう)を制すと申す、きっと絶大な効き目があるに違いない」
 「なるほど! ここはどうもそれに限る」と、清之丞の発案に皆感心しながら手を打った。
 しかし腰元を雇うといっても金がかかる。藩の財政はいまだ厳しく、公金を使うわけにはいかないし、四人の有り金を出し合ったところで腰元に支払う一月分の給金さえ満たせない。そこで他の家臣たちの手も借りて、あの手この手の資金作りに奔走することになった。
 須坂藩では月に何度か執政会議が開かれる。どこの藩でも行っているものだが、そこには家老、中老、藩主側用人(そば よう にん)や各部署の組頭が集まって、重要な執務が話し合われるわけだが、やっとの思いで二百両ばかりを集めた四人は、次の会議でその話を持ち出そうと算段した。藩主直虎が退府で国許に帰る期限も迫った頃のことである。
 彼らは主君直虎の性格をよく知っていた。下手(へ た)に進言しようものなら叱責(しっ せき)を買うどころか、ますます思惑(おも わく)とは逆の行動をとりだす少しつむじ曲がりなところがあるし、「ならば全員同時に進言しよう」と団結し、いよいよその機会を得た。
 議案は来月に控えた帰藩に関する内容が主で、話し合いが終わったのを見計らい、まず要右衛門が「殿、最近少し働き過ぎではございませんか?」と切り出した。
 それを受けてすかさず万之助が続けた。
 「私たちは殿のお体が心配でなりません。万一ご病気にでもなられたら、それこそ藩の一大事!」
 そこに五郎太夫と清之丞が進み出て、異口同音に同じような内容を申し述べたと思うと、
 「ひとつ進言したき儀がございます!」
 四人口を揃えて平伏した。直虎は上座(かみ ざ)から四つのオツムを見下ろした。
 「なんじゃ、申してみよ」
 すると四人は「そのぉ……」とうそぶいたあと、手はず通りに、
 「若い娘をお一人腰元に召されてはいかがかと!」
 これまた口を揃えて言うものだから、そんな算段があることを知らない家老の駒澤式左衛門(こま ざわ しき ざ え もん)は、
 「突然なにを言い出すか!」
 と顔を蒼白(そう はく)にした。重要案件が話し合われる執政会議の場で、しかも若い腰元を勧める無粋(ぶ すい)な話を殿に直接進言するなど、ひとつ間違えば切腹ものである。つい先の藩政改革においても、柳橋通いの家老野口亘理(わた り)を断罪したばかりなのだ。
 ところが直虎は俄かに笑い出した。
 「腰元じゃと? うむ、なかなかよいことに気づいてくれた。実は心当たりがないではないが、ちと金がかかるのでどうしようかと考えていたところだ」
 悪たれの一つも言われると覚悟していた四人は、意外な展開に顔を見合わせた。
 「だが金がかかるぞ、百六十両ばかり──工面できるかのう? さすればお前たちがびっくりするほどの別嬪(べっ ぴん)をさっそく召し抱えることにしよう」
 四人はすんなり話が通ったことに返って不安が湧いた。しかし会議の後、
 「殿も人の子、どこかに目星(め ぼし)を付けられた女子(おな ご)がいると見える。隅に置けないナア」
 と清之丞が言ったので、「それもそうじゃ」と納得し合った四人であった。
 それから数日して「腰元のお披露目をしたい」との沙汰が出た。
 四人のほか他の家臣が集められた広間にはささやかな酒席が設けられ、やがて登場した直虎はいつにないご機嫌な様子でこう言った。
 「これより我が藩は西洋化に向けて新たな前進を開始する! 今日の(うたげ)は要右衛門はじめ、皆で集めてくれた金の一部で準備したものじゃ。お前たちの金じゃ、遠慮せずにどんどん飲んでくれたまえ」
 お()めに預かった要右衛門と万之助と五郎太夫と清之丞は、出された酒を酌み交わしながら「これで殿のお体も少しは休まるに違いない」と喜び合って、およそ美しいであろう女性の登場を今か今かと待ち受けた。
 ところがいつまで待っても肝心の腰元が出てこない。四人の中では一番気の長い万之助も、さすがに「ハテ? どうしたことか?」としびれを切らせていると、突然、直虎が笑い壷にでも入ったかのように笑い出した。
 「お前たちは何を期待しておる? 腰元ならさっきからずっとここにおるぞ」
 と床の間を指差した。ところが女性などどこにもおらず、かわりに真新しい西洋のライフル銃が一丁、美しい着物をまとって厳かに飾ってあるだけだった。
 「そ、それは何でございます?」
 「見て分らぬか? 今度召し抱えたわしの可愛い腰元じゃ」
 直虎は片井京助から譲り受けた十六連発銃を誇らしげに手にすると、要右衛門はじめ四人に銃口を向けて「バ、バ、バ、バンッ」と茶目(ちゃ め)()たっぷりに撃つ振りをした。
 せっかく集めた二百両という金が、一瞬のうちに今日の宴と銃身が二つ並んだような見慣れない鉄砲に変わってしまったことに気付いた四人は、その衝撃に唖然と口を開いた。