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【桜花の章】
 
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(一)(じゃく)(ほむら)
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 幕末の混沌期(こん とん き)燎原(りょう げん)に例えるなら、彼はそこに屹立(きつ りつ)する一本の桜である。
 「桜」のことを彼は「(じゃく)」と呼んだ。中国では「扶桑(ふ そう)」の木をそう呼び、総じて日本の代名詞として古くより用いられてきたが、嘉永(か えい)六年(一八五三)のペリー来航以来、否応(いや おう)なしに世界を意識せざるを得なくなった極東(きょく とう)日出(ひ い)ずる国の住人としては、地球という星における秀気(しゅう き)の集まる場所に生ずるその花を「叒」と呼ばずにはおれない。
 彼は、父に序文を書くよう言われた『花譜』というサクラの系譜集に描かれた山桜と、庭に満開と咲く桜花(おう か)の実物とを見比べながら、うっとりとその美しさに見惚(み ほ)れた。時を尋ねれば文久元年(一八六一)三月のことである。
 「良山(りょう ざん)様、剣術の稽古(けい こ)の時間ですぞ」
 声をかけたのは三十前後の須坂藩では随一の直心影流(じき しん かげ りゅう)の剣豪で、名を小林要右衛門季定(こ ばやし よ う え もん すえ さだ)という。良山というのは後に須坂藩第十三代藩主となるこのとき数えで二十六歳の堀直虎(ほり なお とら)(いみな)である。良山は、桜花の一枝をもぎ取ってから「もうそんな時間か?」と言いたげな顔で、
 「剣術は気が乗らぬなぁ……」
 と、何かの許しを()うように破顔一笑(は がん いっ しょう)した。
 「その人懐(ひと なつ)っこそうな笑みにはもう(だま)されませんぞ。攘夷派(じょう い は)の連中が江戸にもうようよしているという話です。良山様とていつ井伊直弼(い い なお すけ)様のように襲撃されるか分かったものではありませんからな。剣術修業は(おこた)らない方がよろしい」
 江戸城桜田門前で時の大老(たい ろう)井伊直弼が暗殺されたのはちょうど一年ほど前の出来事だった。ペリー来航にはじまった空前の激動期の幕開けは、日米和親条約(にち べい わ しん じょう やく)により鎖国(さ こく)が解かれ、日本に不利な日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)締結(てい けつ)から攘夷思想が熟成(じゅく せい)し、あわせて将軍継承(けい しょう)問題による幕府内勢力争いによる政治不信、それらに対して安政(あん せい)大獄(たい ごく)と呼ばれる反政府思想を持つ者達が恐怖政治の犠牲となった挙句(あげ く)に大老が殺害され、こののち収拾のつかない事態へと発展していく。その象徴として、安政の大獄により年号が安政から万延(まん えん)に、国内の混乱による危機感からわずか一年にも満たない間で万延から文久にと改元された。要右衛門はその不穏(ふ おん)な世の中のことを言っている。しかしあまり真顔(ま がお)で言うので、良山はさもおかしそうに声を挙げて笑った。
 「たかだか一万石の弱小大名の、しかも何の影響力もない堀家の五男坊(ご なん ぼう)を襲うもの好きな攘夷論者などおるものか。もしそんな奴がいたら会ってみたいものだ。わし一人死んだところで天下が動くわけでもあるまい。せいぜい瓦版(かわら ばん)のネタにされてイイ人だったねぇ≠ニ同情されて(しま)いじゃ」
 「またそんな御冗談(ご じょう だん)を! 攘夷の連中だけではありませんぞ。いまやメリケン国をはじめ我が国は列強諸国に囲まれているのです。もし彼らが攻めて来たらどうなさるおつもりですか?」
 「要右衛門はいつから攘夷派になったのだ? そうなったら君はその自慢の剣術で戦うつもりかい? 向こうは片手で握れるピストールとかいう火縄銃(ひ なわ じゅう)の何倍も優れた武器を持っているそうじゃないか。飛び道具を相手に刀で戦うとは勇敢(ゆう かん)、勇敢──その時はわしの護衛を頼むぞ」
 良山は笑いながら手にした桜花を『花譜』に描かれたそれと重ねて「我ながらなかなかよく描けておる」と(つぶや)いた。要右衛門は(あき)れ顔で、
 「それは御隠居様(ご いん きょ さま)がまとめられた桜図鑑(さくら ず かん)の写本ですな?」
 良山の手にする書物を見て言った。御隠居とは良山の父、第十一代須坂藩主を務めた堀直格(ほり なお ただ)のことだが、今はその長男で良山の兄にあたる直武(なお たけ)が十二代藩主を務めているので、須坂藩江戸藩邸下屋敷(しも や しき)悠々自適(ゆう ゆう じ てき)な生活を送っている。
 「父上にこの本の序文(じょ ぶん)を書くよう頼まれてのう……はてさて、どうしたものかと悩んでいたところだ」
 「御隠居様の道楽(どう らく)のお供もよろしいが、ずいぶんと悠長(ゆう ちょう)なことですなぁ。韓詩(かん し)余暇(よ か)に写本していると聞きましたが、それにしては大層(たい そう)な手の入れようではありませんか」
 要右衛門は皮肉(ひ にく)の苦笑いを浮かべた。
 「お前はこの桜を見てどう思う?」
 「そうですなあ? 花見をしながら酒でも飲みたいものです」
 「それだけか?」
 要右衛門は「はぁ」と言ったまま黙り込んだ。
 「お前は何年直心影流の修行をしておる?」
 「剣術の方は物心ついた頃には剣を握っておりましたので、かれこれ三十年近く──」
 良山は「三十年修行してその程度か」と言いたそうに、
 「その刀を抜いて見せてみよ」
 と言った。要右衛門は言われるまま刀を(さや)から引き抜いた。
 「その日本刀を見てどう思う?」
 「はぁ」と要右衛門はまた(つぶや)いて、刃渡りをじっと見つめ(しばら)く考えてから、
 「少し手入れが(とどこお)っていたかと──」
 良山はまた声を挙げて笑った。それにしてもよく笑う人である。(こと)()げな質問をしておいて(けむ)に巻いたかと思えば、自らは高みから全てを見通しているかのふうにおろおろする様子を楽しんでいるようでもあり、剣術一本で成長してきた単純な要右衛門などはいつもよい標的なのだ。その意見が良山の意にそぐわないことを察した彼は、
 「刀は人を()るための武器ですが、拙者(せっ しゃ)はできれば人を斬りたくはありません」
 と言い改めた。
 「それだけか?」
 良山はまた笑う。
 「なにが可笑(お か)しいのでございます? 拙者には若様の笑いのツボがいまだに理解できません」
 「すまんすまん、答えが普通過ぎて面白(おも しろ)い。わしはこの桜や日本刀を見ると、奥に潜んでいる日本人の(さが)≠ニいうものを感じる──世の中は開国≠カゃ攘夷≠カゃ、あるいは尊王(そん のう)≠カゃと騒いでいるが、結局どこまでいっても日本人≠ゥらは離れられん。その本性とは何か──列強諸国を相手にするといっても、日本人が日本人たる心を失った時、日本はそれらの国の属国(ぞっ こく)となってしまうのであろうなと思ってしまう」
 「なんだか難しくてよく解りません。それより剣術の稽古(けい こ)に参りましょう、遅刻(ち こく)ですぞ」
 「そうだ!」
 と良山は突然手を(たた)いた。
 「なんでございます?」
 「(じゃく)≠カゃ! この系譜図の題号は叒譜(じゃく ふ)≠ェ良い!」
 「ジャ、ジャク……?ジャク≠ニは何でございます?」
 「(わか)る者に解ればよい──」
 ひとしきりの風に散る桜花の中、要右衛門は呆れた表情で良山を見つめた。

 直心影流(じき しん かげ りゅう)の島田派剣術道場は浅草(あさ くさ)新堀にある。須坂藩邸下屋敷の在する深川本所亀戸(ふか がわ ほん しょ かめ いど)からは隅田川(すみ だ がわ)に架かる吾妻橋(あが つま ばし)を渡って歩いて半時もかからないほどの距離で、もともとは男谷精一郎(おとこ だに せい いち ろう)の高弟、幕末の三剣士にも数えられる島田虎之助(しま だ とら の すけ)により開かれた道場だが、三十九歳の若さで(ぼっ)してからは兄の島田小太郎が師範(し はん)を務めていた。
 いつもなら木剣(ぼっ けん)と木剣とが激しくぶつかり合う音と甲高(かん だか)い掛け声が絶え間なく路地にまで響いてくるのに、この日はなぜか道場敷地内はシンと静まり返り、そのかわりに時々大きな笑い声が聞こえた。稽古の時間に遅れた良山と要右衛門は、顔を見合わせそろそろと道場内へ入っていくと、門人たちに囲まれて、何やら楽しそうに異国の見聞(けん ぶん)を講義する三十代半ばのやせ型の男の姿があった。
 「むこうの女子(おな ご)はレデーっちゅってな、スカートっちゅうひらひらの(ころも)を腰に巻いておるんじゃ。そりゃお前さん風が吹けばふわぁってなもんで、こっちの方が恥ずかしくなっちまうぜ」
 「で、(かつ)先生はその中身を見たんですかい?」
 「それが見えそうで見えないのが不思議だね。おいらなんか腰をこうして曲げて(のぞ)き込もうとしたんだけどさ、それでも見えない。挙句(あげ く)に案内の役人が『お金でも落ちてますか?』だとさ。言い訳するにも言葉が通じねえから困ったもんだ。そういう時は(おけ)(OK)=A『桶、桶、桶』と()り返し言えばなんとかなるよ」
 道場内は笑いに包まれた。
 「英語なんて案外簡単なものさ。時間を聞く時は()った(いも)(What time)=Aいくらかと値段を聞く時はブリでもカンパチでもなくハマチ(How much)≠カゃ。あと、そこに座って下さいというのは知らんぷり(Sit down please)≠チてえばたいてい話しが通じる」
 道場内は再び大爆笑。良山と要右衛門は道場の後方に座って近くの門人に「誰ですか?」と尋ねれば、「昨年、咸臨丸(かん りん まる)でメリケンに渡った勝海舟(かつ かい しゅう)先生だ」と教えられた。勝海舟も直心影流島田虎之助の門弟であり、そもそも直心影流の男谷精一郎とは義理の従兄弟(い と こ)関係になる。たまたま挨拶(あい さつ)がてら道場に顔を見せたところ「ぜひメリケン国の話を聞かせてほしい」ということになり、今日の稽古は海外見聞講演会になってしまったらしい。
 「あれが勝海舟か……」
 良山はまじまじとひと回りほど年上のその屈託(くっ たく)ない顔を見つめた。
 日米修好通商条約の批准書(ひ じゅん しょ)交換のため、幕府の米国使節団を乗せたポーハタン号が浦賀(うら が)からワシントンへ向かったのが昨年一月のことだった。その護衛として一緒に出航したのが勝海舟や福沢諭吉(ふく ざわ ゆ きち)らを乗せた咸臨丸で、一行は日本軍艦としては初めて太平洋を横断し、サンフランシスコで使節団の到着を見届けた後、ホノルル経由で一足先に浦賀に戻った。使節団が帰国したのは同年九月のことだが、いよいよ世界を相手に動き出した日本の動向に、良山は()(たて)もたまらず兄の藩主直武にオランダ式の軍備を取り入れ整えるべきとした『警備策(けい び さく)』と題する進言をしたのはそれから間もなくのことだった。あのときは又聞(また ぎ)きの海外事情に危機感を(つの)らせ、蘭学(らん がく)に基づいたオランダ式を藩に取り入れようとしたが、その内容は今から思えば(あせ)りばかりが先走る稚拙(ち せつ)な内容で、とても西洋に対する恐怖心はぬぐえなかった。ところが、孫子(そん し)兵法(へい ほう)を改めて読み返したとき、西洋人も同じ人間ではないかと気付く。

 知彼知己者百戦不殆。不知彼而知己一勝一負。不知彼不知己毎戦必殆。
 (()れを知りて(おのれ)を知れば百戦して(あや)うからず。彼れを知らずして己を知れば一勝一負す。彼れを知らず己を知らざれば戦う(ごと)に必ず(あやう)し。)

 「何を恐れる。西洋の文明とやらを知って己を知れば恐れるに足りん──」
 そう思い極めると気持ちが軽やかになり、勝の話はそんな良山の身体(からだ)にしみ込むように入って来た。その内容を要約すれば、彼がアメリカで驚愕(きょう がく)の視線を向けて来たものは、科学技術よりむしろ社会制度の方だった。民主主義や資本主義や自由主義はそれまでの日本にはない概念(がい ねん)で、それをもって「徳川幕府は百年遅れている」と平然と言い放つ。無論(む ろん)彼自身は直心影流免許皆伝(めん きょ かい でん)の腕前であるし(ぜん)にも傾倒(けい とう)していた時期もある。ある意味日本の精神風土を知った上での発言であるから「そんなものか」と聞き流すこともできたが、日本の何千年にもわたる長い歴史を()まえてそれらの概念が(つちか)われなかった事実を考えたとき、それらは日本人には不向きな思想なのではないかとも思えた。
 一連の講演を終えて「何か聞きたいことはあるかな?」と勝が言ったので、良山はすくっと立ち上がった。
 「まっこと面白(おも しろ)い講義でありました」
 勝はその愛嬌(あい きょう)のある表情を見つめて「君は?」と問うた。
 「私、信州(しん しゅう)須坂藩(す ざか はん)堀家(ほり け)の五男坊で良山(りょう ざん)と申します」
 「ほう、信州か。屁理屈(へ り くつ)並べの得意な土地柄だな。わしの妹は松代藩の佐久間象山(さ く ま しょう ざん)先生のところに(とつ)いでおる。もっとも吉田松陰(よし だ しょう いん)君の密航未遂(みっ こう み すい)片棒(かた ぼう)を担いで今は蟄居中(ちっ きょ ちゅう)だが、あの先生も非常に偏屈(へん くつ)な変わり者だ。そこに好んで嫁いだ妹はもっと変わり者と言わねばならん。で、何が聞きたい?」
 「メリケン国は、もとを正せばエゲレス国からの移住民によって建国されてまだ一〇〇年にも満たない新しい国と聞きました。原住民たちの生活はどうなのか気になります。確かに民主主義、自由主義と言えば聞こえはいいが、まだ実証(じっ しょう)されたと判断するには早すぎると思います。それをそのまま日本に当てはめてよいものかと?」
 「君は国学者(こく がく しゃ)かね?」
 「いえ、漢学(かん がく)を学んでおります」
 「誰に師事(し じ)しているか?」
 「亀田鴬谷(かめ だ おう こく)先生です」
 「ああ思い出した。和魂漢才(わ こん かん さい)≠フ折衷学派(せっ ちゅう がく は)だね。要するに君は東洋思想を学んでいるわけだ。おそらくこのままおいらと話を続けても、とどのつまりは西洋と東洋の根本的相違(こん ぽん てき そう い)に行きついて平行線をたどるばかりだ。しかし一つだけ言っておこう、二十年前、その漢学の本家本元(ほん け ほん もと)、あの(ねむ)れる獅子(し し)と恐れられた清国(しん こく)が、アヘン戦争であっけなくエゲレスに負けていまや植民地同然だ。日本は今、その西洋の強大な脅威(きょう い)にさらされていることだけは紛れもない事実だ。君はどうする?」
 良山は勝の洞察力(どう さつ りょく)に驚きながら、やがて、
 「すべき事に力を尽くして、あとは天命(てん めい)に任せます」
 勝はにこっと微笑むと、
 「そこは僕と一緒だ。堀良山(ほり りょう ざん)君、君の名は覚えておくよ」
 そう言い、「他に聞きたいことは?」と聴衆(ちょう しゅう)に続けて、良山の質疑はそこで終わってしまった。
 道場からの帰り道、良山は要右衛門にぽつんと呟いた。
 「私塾(し じゅく)でも開いてみようかな?」
 要右衛門は「いま何とおっしゃいました?」と目を丸くして立ち止まった。さっそく勝海舟に感化されて、時代の変化に対応し得る人材を輩出(はい しゅつ)しようと考えたことはすぐに知れたが、道場に行く前、桜を眺めてしきりに感心していた男の発言にしては唐突(とう とつ)すぎる。しかし、当時の江戸では武士といっても家督(か とく)を継げるのは長男だけで、次男以下は部屋住(へ や ず)み≠ニか()飯喰(めし ぐ)い≠ネどと揶揄(や ゆ)され、どこか子のない家へ養子に行ける幸運でもない限り、何もしなければ仕事もなく、結婚もできないというのが普通である。現に堀家も長男の直武が家督を継いだため、(次男として生まれた繁若(しげ わか)早逝(そう せい))三男直尚(なお ひさ)旗本(はた もと)水野石見守貞勝(みず の いわ みの かみ さだ かつ)の養子となり、四男直正(なお まさ)は分地され堀譲三郎という男の養子となっており、五男坊として生まれた良山は、剣術や学問に明け暮れる日々を送っているのだ。大名とはいえ部屋住みの者は、剣術道場の師範になるか寺小屋の先生などして()扶持(ぶ ち)(かせ)ぐか、あるいは農業にいそしむか、さもなければ全てを諦観(てい かん)して遊蕩(ゆう とう)道楽(どう らく)の道に進むしかない現実があった。要右衛門にしてみればその気持ちも分からないでない。
 「私塾を開いて何を教えるというのですか?」
 「折衷学(せっ ちゅう がく)じゃ。鴬谷(おう こく)先生はわしに和魂漢才(わ こん かん さい)≠フ学問を教えてくれた。しかし今の世の中を見るに、西洋の技術や文明が怒涛(ど とう)のごとく流れ込んでいて漢才≠セけでは心もとない。ならばわしは和魂洋才(わ こん よう さい)≠ニいう新しい学派を打ち立てたいと思うが」
 勝は和魂漢才を一言で東洋思想という言葉でひとくくりにしてしまった。ならば和魂洋才とは、東洋の粋が結晶した極東日本の精神と西洋の学識を折衷した地球思想≠ニ言えまいか──直虎の心に無尽蔵の歓びがむくむくと込み上げる。
 「西洋の思想、学問を取り入れた日本人学? なるほど和魂洋才≠ニは考えましたな。ならばわざわざ私塾など開かなくとも須坂に立成館(りっ せい かん)というれっきとした藩校(はん こう)があるではございませんか。そこで教鞭(きょう べん)()られるが良い」
 「ダメじゃダメじゃ。北村方義(きた むら ほう ぎ)君が江戸にまで遊学(ゆう がく)して、せっかく漢学を身に就けて帰っていったというのに、立成館はいま心学(しん がく)()まれてしまっているそうな」
 北村方義は良山より二つ年上の儒学者(じゅ がく しゃ)で、つい最近まで江戸におり、良山にとっては亀田鴬谷のもとで(きそ)って学んだ学問の()きライバルであり先輩である。その才能は、
 『作る詩の清新端麗(せい しん たん れい)なる対句(つい く)韓愈(かん ゆ)(いき)に達し、(こう)ずる経書(きょう しょ)千古不変(せん こ ふ へん)大儀(たい ぎ)鄭玄(てい げん)に等しい』
 と良山自身が彼に与えた『餞別(せん べつ)の詩』の中でそう言わしめるほどで、深い尊敬の念を抱かずにおれない。
 「心学に?」
 要右衛門は意外なことのように(つぶや)いた。
 心学は藩校立成館の前身となる教倫舎で訓導されていたものである。一八二九年(文政十二年)、直格の代に亀田塾の門人菊池行蔵を儒官として招いて立成館と改称してより、須坂藩の教育は儒学が中心となったが、教倫舎の心学者たちが依然根強く残っているのだ。
 「このあいだの手紙で(なげ)いていたわい。優秀な人材なのに埋もれたままだ……」
 「それで私塾開設というわけですか──といっても良山様は漢学においては学者級ですが、洋学を勉強する姿など見たことがありません。いまさら蘭学を学ぶおつもりですか」
 「今の蘭学(らん がく)は日本人の解釈(かい しゃく)が深く入り込んでしまっている。現実問題、現在日本を取り巻いているのはオランダではなくメリケン、エゲレス、ロシア、フランセ……その内、今後力を伸ばしてきそうなのはメリケン国だが、その民族のもとを正せばエゲレスじゃ。ペルリの黒船の煙を()動力源(どう りょく げん)もエゲレスが発明したらしい。世界の産業技術の中心はエゲレスに違いない」
 「エゲレスねぇ?」
 「誰か英学(えい がく)を教えてくれる者はおらぬかの?」
 悩んだ表情を浮かべつつ良山の顔は明るい。
 
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(二)参勤交代(さん きん こう たい)、兄の苦悩
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 参勤交代は江戸幕府の(もと)、藩主が一年おきに江戸と自領とを行き来しなければならない諸大名に課せられた制度である。その際、正室と世継(よ つ)ぎは絶えず江戸に常住(じょう じゅう)しなければならない幕府の人質のような役目を担ったが、側室および世継ぎ以外の子にはその義務はない。須坂藩のそれは丑年(うし どし)卯年(うさぎ どし)巳年(み どし)未年(ひつじ どし)酉年(とり どし)亥年(い どし)の六月が参府(さん ぷ)で須坂を出立しなければならず、逆に子年(ねずみ どし)寅年(とら どし)辰年(たつ どし)午年(うま どし)申年(さる どし)戌年(いぬ どし)の六月は御暇(お いとま)といって自領に戻ることになる。この年(文久元年)の干支(え と)辛酉(かのと とり)なので参府の年で、六月下旬といえば藩主直武(なお たけ)は須坂藩江戸屋敷に入っていた。
 その日、一年ぶりに父子(おや こ)兄弟水入らずで(さかずき)を交わした良山(りょう ざん)は、げっそりとやつれた兄の顔に驚いた。
 「お身体(からだ)の調子でも悪いのですか? 顔色も随分(ずい ぶん)青い気がします」
 「(つか)れたよ……」
 と、直武の最初の一言がそれだった。良山より六つ年上の彼は、御年(おん とし)数えで三十二歳の働き盛りの年代ではあるが、「疲れた」という言葉の中に、死をも予感させるような落ち込んだ生気(せい き)を感じた良山は首を傾げた。
 その場に顔を(そろ)えたのは、父の直格(なお ただ)はじめ直武、良山と、異母(い ぼ)の弟恭之進(後の直明(なお あき))である。
 「道中いかがでしたか? かなりお疲れの様子ですが」
 良山は直武の盃に酒を注ぎながら言った。
 「中山道(なか せん どう)和宮(かずのみや)降嫁(こう か)の話題で持ち切りだ。江戸でもそうとう盛り上がっているんだろうな?」
 「盛り上がっているというか何というか」と、良山は弟の恭之進と顔を見合わせた。
 第十四代将軍徳川家茂(とく がわ いえ もち)御台所(み だい どころ)として皇女(こう じょ)和宮の降嫁が決ったのは昨年十月のことである。ペリー来航により朝廷(ちょう てい)の許可を得ずに日米修好通商条約に調印(ちょう いん)開国路線(かい こく ろ せん)に踏み切った幕府と、攘夷派(じょう い は)との対立は激しさを増し、攘夷の立場をとる孝明天皇(こう めい てん のう)は、水戸藩(み と はん)をはじめとする徳川御三家(ご さん け)御三卿(ご さん きょう)などに対して戊午(ぼ ご)密勅(みっ ちょく)≠ニ呼ばれる幕政改革遂行(すい こう)の命を下す。つまり幕府に攘夷を推進(すい しん)するよう(せま)り、外様(と ざま)譜代大名(ふ だい だい みょう)らと協調して公武合体(こう ぶ がっ たい)≠実現しようとしたのである。ところがこれを陰謀(いん ぼう)と見た大老(たい ろう)井伊直弼(い い なお すけ)は安政の大獄(たい ごく)断行(だん こう)し、その圧力を一掃(いっ そう)しようとしたが、怒りを買った直弼は暗殺され、両者の対立はますます深まった。しかしここにきて混乱する国論(こく ろん)を統一せざるを得なくなった幕府と朝廷は、時の将軍家茂(いえ もち)と皇女和宮(かずのみや)のご成婚という形を世に示し、公武合体を実現しようとしたわけである。いわば家茂も和宮もその犠牲者と言えるが、そんな思惑(おも わく)とは裏腹に、時の政治に対して庶民(しょ みん)たちは面白(おも しろ)おかしく醜聞(しゅう ぶん)を振りまくものだと、良山は苦笑いを浮かべて江戸の様子を伝える。
 「公家(こう け)久我(く が)様が幕府から賄賂(わい ろ)を受け取り、天皇を(だま)して嫁入(よめ い)りを決めたと(もっぱ)ら騒いでいます。つまり和宮様は幕府の人質だと」
 「江戸の庶民は幕府より天皇の味方というわけじゃ。しかし(たみ)の言うことなどいちいち気にしていたのでは政治などできんわい」
 直格の口調は「それが世の道理だ」と言わんばかり。それにしても口数の少ない直武の様子が気になった。
 「兄上、どうなさいました? 先ほどから元気がないように見えますが」
 すると直武は力なく笑った。
 「旅費を捻出(ねん しゅつ)するだけでも大変な苦労さ。藩の財政は火の車、おれが藩主になってからますます悪化している。領民からは惣領(そう りょう)甚六(じん ろく)≠ネどと陰口(かげ ぐち)され、すっかり自信をなくしたよ……」
 須坂藩の財政難は深刻な問題だった。直武が家督を継いでより、翌弘化三年(一八四六)の江戸の大火で、南八丁堀の上屋敷が全焼の類焼に見舞われ、更にその翌年には善光寺大地震によって千曲川沿いの村々が大災害を被る災難続き。南八丁堀の上屋敷の再建と亀戸の下屋敷新築に加え、大坂加番などという役職を仰せつかった日には遠く現地まで赴く旅費やら何やらで出費がかさみ、あたかも大きな穴の開いた小さな樽から水がこぼれ落ちるが如くお金が流れて消えた。否──それは直武の代に始まったことでない。天保(てん ぽう)大飢饉(だい き きん)以来の作物の不作が招いた危機であり、それはまさに第十一代藩主である父堀直格の代からの負の遺産なのだ。その借財額は嘉永三年(一八五〇)の時点で四万四千両以上にのぼっており、返済の目途もたたないまま負債額は膨らみ続けている。当時どこの藩も同じような問題を抱えてはいたが、あの手この手を尽くしてみても、わずか一万石あまりの小規模な藩にとっては耐えていくにも限界が見えた。
 「このまま財政破綻(ざい せい は たん)してしまったら、須坂藩はどうすればよいのでしょう?」
 直武はため息まじりに呟いた。
 「最悪の場合、領地を幕府に返上するしかなかろうが……そんなに(きび)しいのか?」
 直格は半分他人事(ひ と ごと)のように言ったが、続けて、
 「ほれ、あれはどうした、あれは──吉向焼(きっ こう やき)
 そこにいた者は皆「またか」と思ったが、父に対してそれを口にする者はない。
 須坂吉向焼は、直格が須坂藩の財政難克服(こく ふく)のため、起死回生(き し かい せい)()けて行った藩主としての最後の事業と言えた。陶技(とう ぎ)意匠(い しょう)に優れ、諸大名にもてはやされていた吉向焼の創始者戸田治兵衛(と だ じ へ え)吉向行阿(きっ こう ぎょう あ))父子を須坂に招いて弘化二年(一八四五)、鎌田山(かま た やま)(ふもと)に信州最大級にして最先端の製陶技術(せい とう ぎ じゅつ)駆使(く し)した紅翠軒窯(こう すい けん よう)≠ニ名付けられた須坂吉向焼の巨大な登り窯を築いたのである。もっともそのとき家督は直武に譲っていたが、膨大(ぼう だい)な初期投資に加え、時代は高級陶器(こう きゅう とう き)などで呑気(のん き)に茶の湯などやっている雰囲気でなくなった。焼けば焼くだけ赤字がかさみ、わずか九年足らずで廃窯(はい よう)に追い込まれる。その後は行阿の弟子の手で日用雑器をひっそり焼いているが、隠居(いん きょ)の身となって久しい彼は、失敗の責任をすべて直武に負わせる形になったわけだ。それでもこうして顔を合わせるたびに「設備はあるのだ。もう一度挑戦してみろ」と(あきら)めが悪い。
 「父上に言われて高麗人参(こう らい にん じん)にも取り組んでみましたが、なかなかどうして栽培(さい ばい)が難しい……。杏や漆や桃にも手を伸ばしてみましたが、いまだ明るい兆しは見えません」
 直武の苦悩は想像以上で、深いため息を落とした。おそらくこのとき既に精神を病んでいたのだろう。
 「生糸(き いと)をやってみてはいかがです?」
 良山が呼吸をするように言った。
 「生糸?」
 「少し前に上田藩の松平伊賀守(まつ だいら い がの かみ)忠固(ただ かた))様がオランダやエゲレスを相手に生糸貿易を始めたという話を聞きました。上田の方では生糸商人が盛んに動いているらしいですよ」
 「面白(おも しろ)そうだが」と直武が言おうとしたとき、
 「忠固か……亡くなって今年の長月でもう二年になるか? 老中を二度も務めたのに、幕府にとっても須坂藩にとっても惜しい人物を失った」
 直格がぽつんと言った。彼にとっては財政のことより藩を取り巻く情勢の方が気になるらしい。直武は「お金の話はもうよそう」と言うように杯を飲み干した。

 文久年間の頃の須坂藩江戸藩邸上屋敷は南八丁堀にある。
 幕府の都合で敷地替えさせられることもしばしばあるが、いわゆるそこは与力や同心の組屋敷が建ち並ぶ町であり、代々の須坂藩主はおおむね呉服橋御門番(ご ふく ばし ご もん ばん)とか日比谷御門番(ひ び や ご もん ばん)などの警備職を歴任している。職種柄からすれば都合の良い場所なのである。
 翌日からさっそく登庁(と ちょう)した直武は例外にもれず江戸城警備に当たることになったが、これが大坂加番とか二条城加番、あるいは駿府城加番(すん ぷ じょう くわえ ばん)などの役目を与えられたとなれば現地にまで行かねばならないから、憔悴(しょう すい)した彼の身体を考えると免れただけで喜ばなければならない。
 当時は日曜とか土曜といった概念はないので、武士ともなれば盆と正月以外はいわゆる二十四時間体制で将軍を守らなければならない。と言えばひどく大変な仕事のように思えるが、その実質を問えば、出仕時間が朝四ツ時(十時)から午後九ツ半(十三時)までの三時間程度、門番などは交代番があるが、現代と比べれば職務の拘束時間は極端に短い。有事の時はいざ知らず、日常の時間的余裕はかなりあるので、その時間を当てて武術や学問などの自己研鑽に励み、有事に備えるのが面目である。それにつけても直武は出仕するだけでもきつそうで、上屋敷常住の江戸家老(え ど が ろう)駒澤式左衛門貞利(こま ざわ しき ざ え もん ただ とし)は、彼の様子を心配して下屋敷の直格に報告をしたほどだった。
 そして──
 十日ほど経ったある日、良山が直格に呼ばれて告げられたのは驚くべきことだった。
 「家督を継いでもらえんか?」
 良山は暫く言葉を失った。直武の妻は松平忠固(まつ だいら ただ かた)の弟に当たる西尾隠岐守忠受(にし お お きの かみ ただ さか)の養女であるが、嫡男がない。
 「承知の通り須坂藩の財政はにっちもさっちもいかん。そこへきて直武は人が良すぎる。国元の家老たちにものも言えず、好き勝手にやらせているようじゃ。それ以前にどうやら身体を(わずら)っておる。直武が血を吐くところを貞利が見たそうじゃ」
 「えっ?」と良山は小さな驚きの声を挙げた。
 「このままあいつに任せていたら、近い将来本当に須坂藩は破綻(は たん)する」
 直格の表情は深刻だった。この間の(うたげ)ではとぼけたふうを装いながら、彼は彼なりにすっかり直武の置かれた状況を見抜いていたようである。良山は突然の展開に躊躇(ちゅう ちょ)するより仕方ない。
 「こんなこともあろうかと五年前、お前を直武の養子にしておいたのじゃ。交代の日取りも決めた、霜月の六日じゃ。考える余地などない、腹を決めるだけだ」
 五年前の安政三年(一八五六)二月、何の前触れもなくその話を聞かされた良山は、父より直虎≠ニいう名を与えられていたが、あまり自分と合っていないようで馴染めず、実感が湧かないままいつしか忘れ去っていた。良山は父の抜け目なさに渋面を作り、
 「強引ですね。この前も申し上げましたが、私は私塾を開きたいのです」
 「私塾を開いて人を育てて何がしたい? 何を教えようとしてるのか知らんが、そんなもん開いてちまちま門弟に言い含めるより、藩主になれば(つる)の一声じゃ。この家に生まれた者の定めと思って(あきら)めよ。頼んだぞ」
 直格は有無を言わさず背を向けて、やりかけの日本画の画家伝記集の編纂の仕事を始めてしまった。お家にとっては何より重要な家督の話は二言三言で終えてしまって、自らの楽しみである仕事に向かう直格は根っからの文化人なのだ。
 「そういえばこの間頼んだ山桜の系譜集の方はどうなった?」
 良山はその言動に腹を立てたが、ぐっとこらえて、
 「題号を叒譜(じゃく ふ)≠ノしようと思います」
 と、静かに応えた。
 「叒譜=c…。うむ、なかなかよいな」
 良山は父の背中に一礼すると、そのまま部屋を出た。

 さて困った──。
 藩主になれと突然言われても、覚悟もなければその気もない。私塾を開いてようやく人生の道筋が見えかけたというのに、ああも強引に押し付けられたら身も(ふた)もない。直武が血を吐いたというのは当主に仕立て上げるための作り話ではないか? 兄は品行方正(ひん こう ほう せい)で知恵もあり、確かに人の良すぎるところはあるが、それが自分に替わったところで藩の状況が変わるわけでない。
 いらぬ事を考えながら下屋敷の敷地内を歩いていると、やがて家臣たちの長屋(なが や)が立ち並ぶ一角にたどり着いた。
 「なぜこんな所に来たのだ?」
 良山は自分の行動に首を傾げたが、無意識のうちに中島宇三郎(なか じま う さぶ ろう)の住居に向かっていたかと合点(が てん)がいった。幼少の頃の良山付き御近習(ご きん じゅう)で、元服(げん ぷく)して人事変更があったのでかれこれ十年くらい会っていない。もう五十路(い そ じ)を過ぎたろう、やたらと腰が低く馬鹿正直(ば か しょう じき)な上、気が良すぎるほどの善人で、当時も独り身だったが所帯(しょ たい)を持った(うわさ)は聞こえてこないのできっといまだ独身だろう。
 数えで十歳の夏だったか──
 ある夕暮れ、宇三郎の住居の前を通りかかったとき、開け放った屋内の中央に木机(き づくえ)を置き、上に乗ってなにやら黄ばんだ長い布切(ぬの き)れを一生懸命天井に()るそうとしている彼の姿を偶然見かけた。不審に思った良山は近寄り、
 「なにをしておる?」
 と声を掛ければ、驚いた宇三郎はバランスを崩して転げ落ち、腰を打って暫く痛そうにさすっていた。
 「(わか)(ぼっ)ちゃん……突然びっくりするではございませんか」
 「なにをしておると聞いておる」
 「もう夏でございましょう? 最近、()に喰われて(かゆ)くて痒くて仕方ありません。そこで蚊帳(か や)を吊るそうとしていたのでございます」
 「その黄ばんだ布切れは何じゃ?」
 「こ、これでございますか?」
 宇三郎は言いにくそうに暫くもじもじしていたが、やがて、
 「ふんどしでございます……」
 武士は食わねど高楊枝(たか よう じ)と言うほどに、ふんどしで蚊帳を吊るとは武士としてあまり格好の良い姿でない。宇三郎は顔を真っ赤に染めて、吊るしかけたふんどしをはずそうとすると、
 「はずすにはおよばぬ。そのままでよい」
 良山は無表情のまま暫く宇三郎の顔を見つめていたが、やがて、

 ふんどしで蚊帳をつりけり宇三郎

 そんな即興句(そっ きょう く)()んで何食わぬ顔で立ち去った。一応季語があるから俳句に違いないが、その滑稽さは川柳とか狂歌とか当時江戸で流行りの雑排の類いである。折に触れてそんな俳諧を詠むのを楽しみにした良山の、これが最初のそれである。
 おかげで夏の間中、宇三郎は他の家臣たちからふんどし宇三郎≠ニからかわれて過ごしたようだが、その出来事があった翌日、良山はこっそり真田紐(さな だ ひも)を届けた。これで蚊帳を吊るせというのである。ところが宇三郎はその紐を有難(あり がた)がって使おうとせず、ずっと神棚(かみ だな)に供えていたということだ。
 良山は長屋の一室で草鞋(ぞう り)を編むすっかり老いた宇三郎の姿を見つけた。
 「よう宇三郎、元気にしておるか?」
 宇三郎は仕事の手を休めて、立派に成長した良山に気付くと、みるみる双眸(そう ぼう)に輝きを取り戻し、「若お坊ちゃん!」と、しわがれた喜びの声を挙げた。彼は良山のことをいまだにそう呼んだ。
 「今日はふんどしは吊るしておらぬのか?」
 「──もうそんな季節でございますなあ」
 宇三郎は過ぐる日の冗談に乗って笑い、(わら)で散らかった部屋を片付け「いまお茶を()れます」と土間の釜戸(かま ど)で湯を沸かし始めた。
 「かまうな。ちと近くに来たもので、宇三郎がどうしているか気になって寄ったまでだ」
 「また(うれ)しいことをおっしゃいますが、そのお顔は、何かあったのでございましょ?」
 どうもこの男は(だま)せない。良山は遠くを見つめて、
 「実は父上より家督を継げと言われてのう……」
 遠い昔の思い出を辿るふうに呟いた。
 「それは、ご相談ですか? ご報告ですか?」
 「言い出したら梃子(て こ)でも動かぬ父上が申したのだ。両方じゃ」
 「それはおめでとうございます! たった今から殿≠ニ呼ばせていただきます!」
 宇三郎は自分のことのように歓声を挙げた。不思議なもので、()った瞬間、会わなかった間の(みぞ)が一瞬にして埋まる関係もあったものだ。
 「そんなにめでたいか?」
 「はい、めでとうございます。私は直武様が藩主になられた時から、若お坊ちゃん──いや、殿が藩主になれば良いのにとずっと思っておりました。もっともあのとき殿はまだ(とお)洟垂(はな た)れ小僧でしたがな」
 宇三郎は懐かしそうに笑って「むさくるしい所ですが」と屋内に招き入れた。藩主になろうとする者としては、藩が提供している長屋をむさくるしい≠ニは(しゃく)(さわ)ったが、部屋の中を四顧(し こ)してみれば、築何十年にもなる建物はなるほどそう言われても仕方ない。
 宇三郎は釜戸に(まき)をくべた。
 「わしに藩主など務まると思うか?」
 「思いますとも! たかだか一万石の小さな国の藩主など殿には役不足(やく ぶ そく)でしょう。殿はいずれ将軍様のお膝元(ひざ もと)で国を動かす仕事をなさるお方です。私は昔からそう思ってました」
 「ずいぶん大きく出たな。なぜそう思う?」
 「そりゃ御近習(ご きん じゅう)ですから。そうでも思わなきゃ、あのやんちゃな若お坊ちゃん──いや、殿の御世話などできません」
 「さような意味か。がっかりさせるな」
 「いいえ、本心ですとも! その利発(り はつ)さ、機転(き てん)の良さ、度胸(ど きょう)愛嬌(あい きょう)、人を引き込む魅力──、どれをとっても申し分ありません。こんな小さな時から殿を見て来た私が言うのです。間違いございません!」
 宇三郎の老いた瞳には涙がにじんでいた。
 思えば昔、この男を随分と困らせたものだ。家老が大切にしていた床の間の盆栽に小便をひっかけてみたり、手習いの(すみ)で掛け軸にらく書きしたり、できたばかりの屋敷の門を壊してみたり、そのたび宇三郎が間に入っていつも代わりに怒られ役を引き受けてくれた。あるときなど過ぎた悪戯(いた ずら)を見かねた彼の上役が、「お前には監督能力が全くない!」とお役御免(やく ご めん)を言い渡したこともあったが、寸でのところで父に泣きつき、「もうしませんから宇三郎をお許しください」と固く誓って許しを請うたこともある──その良山の長所も短所も知り尽くした宇三郎が、
 「でも……」
 と言いかけ言葉を止めた。
 「でも──? なんじゃ? 気になる、言え」
 宇三郎はそっと目を()らして、静かに「優しすぎます」と、彼の短所をずばりと言った。
 「なに?」
 「殿は優しすぎます。それだけが心配でございます」
 「どういうことだ?」
 「藩主になったら、家臣を(さば)かねばならない時もありましょう。そのときは鬼にならなければなりません。同情や優しさは一凶(いっ きょう)となり、時に大きな禍根(か こん)を残します。裁くべきは断じて裁く。上に立つとはそういうことでございます」
 「そう言う宇三郎は、わしを裁くことなどただの一度もなかったではないか」
 「裁かれる者の気持ちを知れば、優しい若お坊ちゃんは人を裁くことができなくなりましょう」
 「それを教えるために……?」と良山は思った。人生を懸けて自分を育ててくれた彼の心を知ったとき、今更のように胸が熱くなる。宇三郎はこの年になってようやく使命を終えたような晴れ晴れとした表情で土色(つち いろ)の顔に幾重(いく え)もの深い(しわ)を作ると、良山は涙腺を湯気で隠すように()れたての(しぶ)い番茶をすすった。
 
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(三)鴬谷(おう こく)先生
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 良山が深川の亀田鴬谷(かめ だ おう こく)が開く通称『亀田塾(かめ だ じゅく)』に通い始めたのは物心がつき始めた頃である。
 もともと亀田塾の祖亀田鵬斎(かめ だ ぼう さい)は書道の大家でもあり、妻を亡くした鵬斎(ぼう さい)が文化六年(一八〇九)、日光から佐渡の門弟のところへの傷心(しょう しん)の旅の途中、信州は北信地方を通った時に、藩や村を越えて地域の有力農民や富裕商家の文化人たちと交流したのが関わりの始まりだった。その復路(ふく ろ)(文化八年)、須坂藩の家老駒沢清泉(こま ざわ せい せん)が彼を屋敷に招き、七絃琴(しち げん きん)の演奏で歓迎した。
 それまでの須坂藩の教育は、第九代藩主堀直皓(ほり なお てる)が創設した講舎『教倫舎(きょう りん しゃ)』で教えた心学が中心だったが、郷土の中村習輔はじめ心学の中心的人物の力が弱まると、鵬斎の門人のひとり菊池行蔵を儒官として須坂に招き、併設という形で藩校『立成館(りっ せい かん)』を開設して藩の教育に儒学(じゅ がく)を取り入れるようになった。以来鵬斎(ぼう さい)の門は、一子である亀田綾瀬(かめ だ りょう らい)が後を継ぎ、更に鴬谷(おう こく)へと、須坂藩堀家では代々この亀田塾をひいきにしている。
 通う門弟といえば主に旗本(はた もと)御家人(ご け にん)の子弟たちで、亀田綾瀬(りょう らい)下総国(しもうさのくに)関宿藩(せき やど はん)教倫館(きょう りん かん)』の儒官(じゅ かん)を務めていたことから関宿藩の門人も多く、表向きは主に儒学を教えた。
 このとき鴬谷五十四歳、もとは下総(しも うさ)岡田郡(現茨城県)の出で鈴木を名乗っていたが、江戸に出て浅草の蔵前(くら まえ)で私塾を開いていた亀田綾瀬の門を叩いてからは、近くの鶯谷(うぐいす だに)に居住したことから『鴬谷(おう こく)』を名乗るようになった。
 良山が鴬谷先生を敬愛したのはその温かみのある笑顔と、あからさまに自分の過去を語るけっして偉ぶらない人柄による。亀田塾の祖鵬斎が豪放磊落(ごう ほう らい らく)な性格だったのに対し、二代目の綾瀬は「温顔(おん がん)の中、眼光(がん こう)人を()るを(おぼ)ゆ」と称される温厚篤実(おん こう とく じつ)君子(くん し)であったが、鴬谷はその二人の性格をあわせ持つような不思議な魅力があった。
 「おれが亀田塾の三代目になったのは、ぬい()れたからよ」
 とは酔ったときの口癖(くち ぐせ)で、(ぬい)とは彼の妻の名である。
 実は綾瀬には子がなかった。そこで養女を迎え入れたが、ただの書生だった鴬谷はその娘をひと目見てぞっこん惚れてしまった。その娘というのが若かりし縫である。それまで塾生の中でも特に目立ちもしない存在だった鴬谷が、以来(ぬい)と一緒になることを目標に定め、師の綾瀬(りょう らい)に認めてもらおうと俄然(が ぜん)勉学に打ち込んだのだ。
 「学問なんて所詮(しょ せん)そんなものよ。それより大事なのは(おのれ)がどうあるかだ」
 と、いつも冗談交じりに笑い飛ばすが、それが案外(まと)を射ていると感じてしまうところに、良山は強い(あこが)れと親近感を覚える。
 鴬谷(おう こく)の唱える和魂漢才(わ こん かん さい)≠ネるものは、その言葉自体は古くは平安時代中期には成立していた概念で、大和魂(やまとだましい)唐才(から ざえ)≠ニいう言い方もある。読んで字のごとく「日本の精神」をもって「中国の学識」を為すことで、中国渡来の学問や優れた思想哲学(し そう てつ がく)を実生活の中に取り入れながら、振る舞いや行動、あるいは処世術(しょ せい じゅつ)や判断は、日本固有の精神である大和魂(やまとだましい)に従おうとする考え方である。鴬谷自身「和心(わ ごころ)のない(やつ)に儒学を学ぶ資格などない」とよく言っているが、彼の言う和魂≠ニは大和魂だけにとどまらず、その生きざまと深く関係しているようだった。つまり(おのれ)≠ニいうものが入ってくる。大和魂の実在は己にあり、突き詰めるところ「己とは何ぞや」を問い、追求するところに学問・教育の意義があると結論していた。
 そんな講義を流暢(りゅう ちょう)(しゃべ)っていると、決って妻の(ぬい)が現れて塾生に茶菓子(ちゃ が し)を振る舞う。そして、
 「そう言うあなたは何者よ、ねぇ?」
 と塾生たちに賛同を求めた。すると、
 「おれか? おれはぬいに惚れた男よ」
 とのろけて、亀田塾はいつも笑いに包まれた。
 そんな気さくな妻(ぬい)も良山は大好きで、(よめ)にもらうなら彼女のような根っから明るい女性が良いと密かに思った。ちなみに二人の子である亀田雲鵬(うん ぽう)も須坂との関わりが深い。
 幼少の頃の良山は学問よりいたずらをしている方が楽しく、塾以外では勉強などしたことがなかったが、元服(げん ぷく)を迎えて浦賀のペリー来航で江戸の町が天地鳴動(てん ち めい どう)の騒ぎに包まれた時、
 「わしはこのままでいいのか?」
 と心の底から動執生疑(どう しゅう しょう ぎ)が湧き起こった。そうなったら()(たて)もたまらず、「何か事を起こさなければ!」と若い血が騒ぎ、居ても立ってもいられなくなった。数えで十八歳の夏である。
 そして翌年、日米和親条約締結(にち べい わ しん じょう やく てい けつ)のため再航した総計九隻の黒船に対し、幕府から下総の海岸防備を命じられた松代藩と一緒に、須坂藩からは藩士(はん し)四十四名がその警備に当たることになった。そこに自ら志願した良山は、浦賀沖に停船する巨大な船から、もうもうと()き上がる黒い煙を見たのだった。
 松代藩の中に(ひげ)(たくわ)えた目付きの鋭い不惑の年ほどの偉そうな男がいた。彼の存在が気になったのは、その頃はまだ珍しい望遠鏡をしきりに覗き込み、観察した黒船の絵図を紙に描き込んでいたからである。このとき軍議役を仰せつかっていた松代藩の佐久間象山という男であることはすぐに知ったが、突然観察の手を休めた彼がこう叫んだ。
 「おーぃ誰か、あそこまで泳いで異人(い じん)さんに挨拶(あい さつ)して来れる(やつ)はないか?」
 「わしが行く!」
 良山は燃える情熱に任せて象山の前に進み出ると、衣服を脱ぎ捨てふんどし一丁姿で、そのまま海に飛び込もうとした。ところがその腕を慌てて(つか)んだ象山は、
 「阿呆(あ ほう)! 冗談じゃ」
 と差し止めた。幕府に無断で外国船と接触するなど重大な罪に問われる。まして密航(みっ こう)など考えようものなら──と思うそばから、それを(くわだ)てたのが長州藩(ちょう しゅう はん)吉田松陰(よし だ しょう いん)だった。曲がりなりにも彼もまた象山の弟子であり、そのとき「あの船に乗って外国事情を学んで来たいとは思わぬか?」とそそのかしたのも象山なのである。
 「馬鹿が二人いた」
 と(あき)れつつも、内心どこかで喜んでいた象山は、幕府の取り調べを受けた時、
 「若者が外国へ学びに行こうとするのを勧めて何が悪い!」
 と突っぱねて、自国蟄居(ちっ きょ)沙汰(さ た)を言い渡されるのだ。
 象山の話はさておき、そんな出来事を通して、良山は自分がいかに無知であったかに愕然(がく ぜん)とした。彼が漢学に没頭(ぼっ とう)し始めたのはそれからである。
 『四書五経(し しょ ご きょう)』は(はな)から、『史記(し き)』や『漢書(かん しょ)』や『三国志』や『晋書(しん じょ)』などの中国の歴史書をはじめ、手に入る書物なら片っ端から集め、寝る時間も惜しんで学問に励んだ。そのすさまじさたるや、元服後に御近習となった柘植宗固(つ げ むね かた)に言わせれば、
 「若様がいつ寝ていつ起きているのか、まったくわからん」
 だった。夜が()ければ「先に寝よ」と家臣たちに気を遣い、自分はいつまでも机にむかって誰よりも遅く寝たかと思えば、朝は誰よりも早く起きて机にかじりついている。わずか唐紙(から がみ)一枚ほどで(へだ)てた隣の部屋にいながら、良山が寝ている姿を誰も見たことがないのだ。
 この柘植という男だが、その苗字の出どこを探れば伊賀国である。戦国時代はいわゆる忍びの者の血筋で、その彼にしてそう言わしめる良山は、もとより素質もあっただろうが、その成長ぶりには師の亀田鴬谷も目を丸くした。
 「もう教えることがない──」
 と(した)を巻いたので、当時西洋学の主流であった蘭学(らん がく)に手を出した。今から思えば英学(えい がく)を学べば良かったと思うが、「藩主になれ」と父に告げられた頃に至っても、開国間もない日本では肝心(かん じん)の英語の書物自体手に入らない。
 そして月日は矢のように流れ去り、藩主交代の十一月六日が近づいた。
 それにつけても父の強引さが気に入らない。宇三郎の前で素直になれたのは、幼少より跡継(あと つ)ぎ教育を無意識のうちに受けてきたからだろう、五男とはいえ心のどこかで「もしや」を感じていたからだ。世襲制(せ しゅう せい)が当たり前の国だから仕方ないかも知れないが、日本人たる(じゃく)≠フ習わしに矛盾(む じゅん)するその大きな葛藤(かっ とう)は、あるいは若さの(しる)しだった。
 そもそも須坂藩堀家の発祥を探れば戦国時代にまで遡る。豊臣秀吉の重臣堀秀政の従兄弟に当たり、堀家の家老だった奥田直政の四男直重が祖とされる。最初奥田姓だった直政はやがて堀姓を与えられ、初代堀直重は早い時期から徳川家に近づいた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで東軍について軍功を挙げ、下総国(しもうさのくに)矢作(や はぎ)に二、〇〇〇石と信濃国須坂に六、〇〇〇石の所領を与えられ、さらに慶長十九年(一六一四)からの大坂の陣でも徳川方として参戦し、そこでも功績を挙げて高井郡内に四、〇五三石を封土され一万二、〇五三石の大名となった。その後二代直升の代に下総矢作の二、〇〇〇石を弟たちに分知したため一万五十三石となって現在に至る。とはいえ豊臣政権下から派生したものだから外様大名には違いない。
 初代直重(なお しげ)∴ネ来、須坂藩堀家の当主は代々直≠フ後ろに(ます)(てる)(すけ)(ひで)(ひろ)(かた)(さと)(てる)(おき)(ただ)(たけ)≠当てて名としてきた。なのに、なぜ自分だけ獰猛(どう もう)畜生(ちく しょう)である(とら)≠ネのか? 良山は父が命名した直虎≠ニいう名からして納得していない。
 自分はもっと穏やかで、どちらかと云えばのほほんとした性格なのだ。どうせ名乗るならもっと知的で上品な方が良い。いっそ直虎≠ヘやめて、自ら考えた名で藩主になるのを条件にしようとも考えたが、肝心の佳い名が思いつかない。憤慨と迷いで揺れる良山はその夜、亀田塾の門をくぐった。
 「どうした? ()えない顔をしておるぞ。藩主がそれでは須坂藩の先が思いやられるな」
 鴬谷はいつものように彼を迎え入れた。
 「ちと、ご相談に乗っていただきたい儀がございまして……」
 「そうか、まあ中に入れ」
 誰もない亀田塾のいつもの部屋に通され師の正面に対座した良山は、「一本浸けますか?」と姿を現した縫のいつもの笑みに心和ませた。
 「急に逃げ出したくでもなったか? 顔に書いてあるぞ」
 鴬谷は全てを見抜いているかのように「お前らしくない」と笑う。
 「なんだか落ち着かないというか、自分が自分でないようで、どうもしっくりこないのです」
 すると鴬谷は少し考えて、
 「お前は何になろうとしているのか?」
 と問うた。
 「無論、藩主です」
 「それだ、それがいかん。お前はお前でないものに成ろうとして、無理やり覚悟を決めようとしておるのだろう。お前はお前にしかなれんよ」
 と、幼少の思い出話がはじまり、ふとした拍子に宇三郎のことが話題に挙がった。思い起こせばその小さかった手を引き、いつも亀田塾に連れて来たのも彼だった。
 「御近習の中島宇三郎君には相談したのかい? 彼が君のことを一番よく知っているじゃないか。最近見ないが元気にしているのかな」
 宇三郎の話が出たのはやや意外であるが、本題から離れ、別の話題で(こと)(きも)を見つけ出し、本人を納得に導こうとする鴬谷のいつもの手法であろう。
 五、六歳の頃だったか、塾の勉強に()いた良山がすぐ横にあった障子を破り始め、そのうち暴れて部屋中の障子を破ってしまったことがある。そのとき「申し訳ない!」と頭を床にこすりつけた宇三郎が、夜中まで一人で張り替えをしていたことや、年上の子と喧嘩(けん か)して怪我(け が)をさせてしまい、先方の親がひどい剣幕で塾に苦情を言いに来たときも、宇三郎がすまなそうに大きな菓子折りを持って謝りに行ったことなど、塾で起こった彼にまつわる思い出話が次々と飛び出した。そして酒を運んで来た(ぬい)が笑いながらこう言った。
 「(りょう)ちゃんの半分は宇三郎さんでできているのね」
 彼女は良山のことを親しみを込めて「良ちゃん」と呼ぶ。その笑顔を見ていると、どれほど深刻な状況に置かれていても、悩んでいること自体馬鹿げてくる。
 やがて鴬谷は話しを戻す。
 「おれはお前の師匠(し しょう)だが、お前の師匠になろうと思ってなったわけでない。お前がここに来たから師匠になったのだ。いまでさえ多くの塾生を得たが、もとをただせば綾瀬(りょう らい)先生と出逢い、(ぬい)に惚れたからこそおれがある。ぜんぶ母ちゃんのお陰さ」
 「またその話し?」と(ぬい)は呆れたようにまた笑った。
 「いいじゃねえか、ホントのことなんだから。だからおれは儒学の師匠だなんてこれっぽっちも思っていないんだ。どこまでいってもおれは綾瀬先生の弟子であるし、母ちゃんに惚れたただの男だよ。だから偉そうに背伸びする必要もなければ、見栄(み え)を張る必要もない」
 (さっ)しのいい良山は、おおよそ師の言わんとすることが理解できた。彼の説く和魂≠ニは大和魂≠フことであり、大和魂≠フ実在は己≠ノあり、己≠ニはすなわちありのまま≠ニいう意味で、そこから離れた時、人は何者にもなれないという事を教えようとしているのであろう。
 「さて良山君、いまから一つ試験問題を出そうと思うが、答えられるかな?」
 鴬谷は禅問答(ぜん もん どう)でもするような意地悪(い じ わる)(ふく)み笑いで良山を見つめた。良山はかしこまって「どうぞ」と姿勢を正した。
 「──君は何者か?」
 「私はたかだか一万石の堀家の五男坊です」
 「それだけか?」
 「亀田鴬谷先生の弟子になった男です」
 「それから?」
 良山は少し考えて、
 「父上の盆栽(ぼん さい)に小便をかけて遊んでいた男です」
 (ぬい)がプッと吹き出した。
 「そんなことをしたのか! まあよい、それから? まだあるだろう?」
 すると良山の頭の中に、幼い日の出来事が走馬灯(そう ま とう)のようによみがえった──。
 まだ三、四歳の頃だったろうか、一人で遊んでいると乳母(めのと)(とも)が「負んぶしてあげましょう」と言ってきた。若い彼女は美しく、幼かった彼の憧れだったが、()(かく)しに「オオ」と横柄(おう へい)に応えて勢いよく背中に負ぶさると、手にした手拭(て ぬぐ)いの先端を彼女の口もとに垂らして「くわえよ」と命じた。朋は言われるまま(くわ)えると、
 「やあっ! バカを釣った、バカを釣ったぞ!」
 魚釣りを()したその光景を見ていた周りの者たちはどっと笑い、良山も得意になって大喜び。朋はすっかりしょげてしまう。またある時は「この手ぬぐいをくわえて()え!」と命じた。
 「若様、ご冗談はおやめください」
 彼女は恥じらいもじもじしたが、もっと困らせてやろうと腹を立てた振りをして「無礼者(ぶ れい もの)!」と叫ぶと、彼女は仕方なく言われたとおりに腹ばいになって手拭いを銜えた。すると良山はいきなりその背にまたがり、手拭いを馬の手綱(た づな)に見立て、
 「やあっ! お(んま)じゃ、お(んま)じゃ! ハィ、ハィ、ドウ、ドウ、飛べ、飛べっ!」
 と大はしゃぎ。その遊びがたいそう楽しく、朋の(ひざ)はいつも()り切れ「痛い、痛い」と言っていた。
 なぜよりによってそんな事が思い出されたか、あの時「ごめん」の一言が(のど)まで出かかって言えなかった後悔が、今更のように良山を苦しめた。もしかするとあれが支配欲の芽生えであったか、結局その言葉を伝えられないまま彼女はどこかへ嫁いで行った。
 しょせん自分はそんな人間なのだ──。
 そう思ったとき、他人にはけっして知られたくない一番思い出したくない自分を思い出す。
 「お前は何者だ?」
 更に問い詰める師に隠し事はできない。良山は人非人(にんぴにん)(ののし)られようと白状しなければいけない良心に従った。
 「乳母(めのと)行水(ぎょう ずい)(のぞ)き見した男です」
 鴬谷と(ぬい)は顔を見合わせた。
 「(あき)れたやつだ! もうよい。そんな奴がよくぞここまで成長したものだ。これからも学問を(おこた)ることなく、お前のままでゆけばよい」
 自分らしくあれ──鴬谷先生はそう教えている。ありのまま眼前の障害に尽力し、乗り越え難きは力を付けるだけで、己を取り巻く環境などある意味どうでもよいことなのだ。私塾開設の夢が強引な父に打ち砕かれ、翻弄されて己の実在を見失っていたことに気付いた良山の煩悶(はん もん)は、俄かに嘘のように晴れ渡った。
 「わかったようだな」と柔和な笑みを浮かべた鴬谷の表情は、つい先ほどまで拷問官に見えていたものが、慈父の菩薩に変わったかに感じられた。
 「実はもう一つお願いがございます。新しい名を命名して欲しいのです。堀家は代々初代直重公(なお しげ こう)の直≠フ字を頂戴(ちょう だい)することになっておりますが、私に見合った()い名を先生から(たまわ)りたい」
 「直虎(なお とら)≠ナはないのか?」
 「どうも何から何まで父上の言いなりになっているようで癪なのです。自分らしくあるために、私に相応しい名を名乗りとうございます」
 「名など何でもよいでないか。今年の干支(え と)は何じゃ?」
 「辛酉(かのと とり)です」
 「では(とり)でよかろう。直鳥(なお とり)≠ナどうじゃ」
 その身も(ふた)もない単純な発想に、(ぬい)の方が不服(ふ ふく)そうに口を(はさ)んだ。
 「それでは鉄砲の音がしたらすぐに飛んで逃げて行ってしまいそう。藩主が真っ先に逃げそうな名前なんて可哀想(か わい そう)よ」
 「そうか?」と鴬谷は首を傾げて、
 「藩主になる日は何日だったかな?」
 「来月六日でございます」
 「十一月の六日(新暦では一八六一年十二月七日)か……その日の干支日(え と び)は何かな?」
 頭をひねった割に発想が同じことを笑いながら、縫は箪笥(たん す)の上に置いてあった(こよみ)をめくって「庚寅(かのえ とら)ね」と言った。
 「では(とら)でどうじゃ? 直虎(なお とら)≠カゃ!」
 「いいじゃない!」と縫も喜びの声を挙げたので、良山は「同じではないですか!」と反駁した。
 すると鴬谷はニヤリと笑んで「お前は父の心が分らぬか?」と諭した。
 「直虎(なお とら)≠ニ命名されたのはいつじゃ、何年の何月何日じゃ? 家に帰ってちゃんと調べてみよ。おそらく庚寅(かのえ とら)の日に違いない。(かのえ)≠ヘ五行(ご ぎょう)金行(きん ぎょう)のうち(よう)(きん)を表すから(かね)には困らん。それに鉱石や金属の原石の例えにも使われる文字だから(かた)くて荒々しい攻撃的な性質を示す。いかにも強そうじゃないか! 父はお前に勇ましくなって欲しいのだ。なよなよしていたのでは藩主など務まらん」
 良山は「はっ!」として、今更のように父の思いを知った気がした。鴬谷は続けた。
 「儒学では父親への孝≠ヘその思想の根幹とも言える。それに報いるのが子の務めというものぞ。ここはつまらぬ我≠ネど捨てて、父を立ててやってはどうか」
 この瞬間、良山の腹は完全に決まった。ここに須坂藩第十三代当主堀直虎(ほり なお とら)が誕生したのである。
 
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(四)上田藩の姫君
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 良山(りょう ざん)改め直虎(なお とら)が藩主になって、最初にやったことは挨拶(あい さつ)回りである。
 大江戸の町は、京都を発った和宮(かずのみや)様がご到着されるのは今日か明日(あ す)かと落ち着かない中、(わず)か一万石の大名の藩主の誕生などに関心を示す者などない。
 向こう三軒両隣(さん げん りょう どなり)、武家屋敷が立ち並ぶ亀戸周辺を直虎は、まず須坂藩下屋敷西隣りの井上筑後守(ちく ごの かみ)下総(しも うさ)高岡藩(たか おか はん)下屋敷から本多隠岐守(い きの かみ)近江(おう み)膳所藩(ぜ ぜ はん)下屋敷へ、続いて南の旗本秋月金次郎(あき づき きん じ ろう)の屋敷に松浦豊後守(ぶん ごの かみ)平戸新田藩(ひら ど しん でん はん)下屋敷へ、須坂藩屋敷すぐ東の天神橋を渡って加藤遠江守(とおとうみのかみ)伊予大洲藩(い よ おお ず はん)下屋敷、そのほか近所付き合いのある家々を回って、江戸家老(え ど が ろう)駒澤式左衛門(こま ざわ しき ざ え もん)(ともな)ってからは、須坂藩と関係の深い諸藩の上屋敷を(まわ)ろうと、なんとも目まぐるしい日々である。これが何万石の大名であれば、向こうの方から大層な進物(しん もつ)を持って祝賀の挨拶に訪れるのだろうが、一万石の小国大名ではそうもいかない。十五日の登城の日には、運が良ければ将軍に拝謁した後、老中や御三家、御三卿などの屋敷も回る予定だ。
 将軍に拝謁といっても直武から聞いた話しでは、従五位以下の外様大名の身分では、同等の他藩の者と同列に、広い部屋の一番下座に平伏しているだけで、はるか彼方にお座りになられる将軍様など見れるわけではないと教えられた。拝謁≠ナなく見れる≠ニいうのは、下級大名にして正直な表現だったろう。
 その日式左衛門と、上田藩松平家の族親(ぞく しん)にも挨拶しておこうと馬にまたがった二人は、東部浅草茅町(かや ちょう)にある上田藩中屋敷(なか や しき)を目指した。多い時は上方も含め五つも屋敷を持っていた上田藩は、深川扇橋にも下屋敷を持っており、そこまで気を回さねばならないのは、須坂藩にとってけっしておろそかにできない藩の一つだったからだ。
 上田藩譜代五万三千石──
 石高(こく だか)からいえば格が違う両藩だが、もともと自領も地理的に近隣(きん りん)で、特にその関係を深めたのは天保(てん ぽう)大飢饉(だい き きん)以降であった。どこの藩も作物が穫れず()えに苦んでいたのは上田藩も例外でない。そんな中、隣国の松代藩が、領内からの米穀(べい こく)の流出を防ぐため『穀留(こく どめ)』政策を行う。上田藩は越後(えち ご)高田へ米を買いに行こうとしたが、それができない状況に(おちい)った。というのは、上田の地から越後へ行くには松代藩の領地を横切らなければならず、行くに行けずにほとほと困り果てた。そのとき道を開いたのが須坂藩だった。水内郡豊野(み のち ぐん とよ の)より布野(ふ の)の渡しを通して須坂藩領を経由し、仁礼村(に れ むら)より菅平(すが だいら)を通って長村(おさ むら)本原(もと はら)神科(かみ しな)の道順で輸送を可能にしたのだ。いわば須坂藩は貸しをつくる形になって、松平家という名門と石高の差による偏見(へん けん)を薄めたのである。この時の上田藩主が松平伊賀守忠固(まつ だいら い がの かみ ただ かた)で、須坂藩主は直虎の父直格(なお ただ)だった。
 その後、松平忠固は老中に抜擢(ばっ てき)された。嘉永元年(一八四八)十月のことである。そしてその五年後に起こる黒船来航事件で、彼はまさに幕内闘争の混乱の渦の中に巻き込まれていく。
 ペリーの開国要求に対し、幕内の意見は攘夷派(じょう い は)開国派(かい こく は)とに真っ二つに割れた。海防参与(かい ぼう さん よ)に任じられ水戸学(み と がく)の見地から夷敵(い てき)を打ち払うべきと主張する水戸藩徳川斉昭(とく がわ なり あき)と、文明の力をひっさげたアメリカを敵にするのは得策でないとする穏便(おん びん)、開国派である。
 開国派の中でも忠固(ただ かた)のそれは、二世紀以上続いた鎖国制度の国の住人にしてよくぞ思いついたと言うべき先進的な開国論だった。それは単なる開国でなく、「積極的に海外と交易を成すべき」とするものだったから、真逆(ま ぎゃく)の立場の徳川斉昭(なり あき)との対立が深まった。しかし事態の収拾(しゅう しゅう)(せま)られた老中首座(ろう じゅう しゅ ざ)阿部正弘(あ べ まさ ひろ)は、やがて斉昭の圧力に(くっ)し忠固を更迭(こう てつ)してしまう。
 ところが忠固はここで終わらなかった──幕内で孤立を深めた阿部正弘は、開国派の堀田正睦(ほっ た まさ よし)を老中に起用し、更には老中首座の地位まで彼に(ゆず)って間もなく在任中に死去してしまうと、老中首座になった堀田正睦(まさ よし)は、再び忠固を老中に復帰させ、日米修好通商条約締結に(のぞ)んだのだ。
 その最中に浮上してきたのが将軍後継者問題である。十三代将軍徳川家定(とく がわ いえ さだ)には嫡子(ちゃく し)がおらず、その病気が悪化したためだった。井伊直弼(い い なお すけ)南紀派(なん き は)紀州(き しゅう)藩主徳川慶福(よし とみ)(後の徳川家茂(いえ もち))を推薦し、島津斉彬(しま づ なり あきら)や徳川斉昭(なり あき)一橋派(ひとつ ばし は)一橋慶喜(ひとつ ばし よし のぶ)(後の徳川慶喜)を()して争った。その間、条約締結においては、孝明天皇(こう めい てん のう)勅許(ちょっ きょ)を得るか得ないかの問題になっていた。得てしてこの頃の日本の政治情勢に目を向けるとき、一般的に後継者問題の方に意識がいってしまうが、この後の日本の方句を決定づける海外との関係の舵取りにこそ重大な意味があったと言える。
 忠固(ただ かた)は、
 「勅許どうこうでなく、一刻も早く調印すべきだ」
 と主張した。その背景には、少しでも早くアメリカと条約を結んでしまわなければ、飛ぶ鳥の勢いでアジア諸国を植民地化(しょく みん ち か)するイギリスが、いつ日本を襲ってくるか分からないという強い危機感があった。その結果として、勅許不要(ちょっ きょ ふ よう)の立場をとらざるを得なかったのだ。
 対して要勅許(よう ちょっ きょ)を唱える堀田正睦(まさ よし)は天皇のいる京都へ向かうが、帰りを待っていられない忠固は、同じ開国派の近江彦根(おう み ひこ ね)藩主井伊直弼を大老(たい ろう)にしようと動き出す。そして勅許獲得に失敗した正睦が江戸に戻り、将軍家定に「松平春嶽(まつ だいら しゅん がく)を大老にして対処したい」(むね)を述べると、家定は「大老は井伊直弼しかいない」と発言したため、急遽(きゅう きょ)直弼を大老とする動きが強まり、安政五年(一八五八)四月二十三日、井伊直弼は大老に就任する。
 直弼(なお すけ)忠固(ただ かた)の言い分も理解できたが、勅許(ちょっ きょ)なしの条約調印には反対だった。ところがアメリカが即時調印を要求してきたため、交渉の引き延ばしも限界に達した直弼は、勅許を得られないまま六月十九日、日米修好通商条約に調印した。
 それから間もなく直弼は、無勅許調印(む ちょっ きょ ちょう いん)の責任を堀田正睦と松平忠固に(かぶ)せ、二人を老中から罷免(ひ めん)してしまう。これがいわゆる安政の大獄(たい ごく)の始まりとなった。
 そして忠固は翌年(安政六年)九月、突然四十八歳の生涯を閉じる──。その遺訓(い くん)は、
 「交易は世界の通道(つう どう)である。皇国(こう こく)の前途は交易によって栄えさせなければならない。世論(せ ろん)囂々(ごう ごう)としているが、交易の通道ができるのは道理である。皆はその方法を話し合え」
 だった。実にこの松平忠固こそ開国派の旗手であり、その中心人物だったと言わざるを得ない。直虎もそんな彼とは何度か会っており、開国の必要性を強く感じていた。
 忠固の死後、上田藩主を継いだのは当時まだ数えで十歳の子、忠礼(ただ なり)だった。あれから二年、数え二十六歳で藩主になった身の上を考える時、直虎は人の境遇(きょう ぐう)の様々なことを思う。
 上田藩中屋敷の門をくぐって馬屋(ま や)に馬を置き、直虎と式左衛門の二人は母屋(おも や)の玄関に向かって歩いていくと、そこに(あで)やかな装飾に(いろど)られた駕籠(か ご)一挺(いっ ちょう)(わき)駕籠引(か ご ひ)きの家臣らしき二人の男が(ひざまず)いている。
 「どなたかお出かけか?」
 直虎と式左衛門は顔を見合わせると、駕籠の中から、
 「えぇぃ、松野(まつ の)はまだか! お(しり)から根っこが生えてしまうっ!」
 若い女の声がした。「尻から根が生える」とは若い女性にしては(ひん)がなさすぎる。直虎と式左衛門はまた顔を見合わせて笑った。見れば、駕籠横面の物見(もの み)(すだれ)は巻き上げられており、幼さを残す十五歳くらいの美しい娘が、待ちくたびれた苛立(いら だ)ちの表情で、天井から釣り下がる体を支える(ひも)をじりじりしながら引っ張っている。その顔に見覚えがあった。松平忠固の葬儀に参列した際、喪服(も ふく)を着た親族の女衆(おんな しゅう)の中にその娘はおり、そのとき彼が目を奪われたのは、彼女の(ひとみ)からこぼれるキラリと光る(なみだ)の輝きを見たからだった。
 上田藩の姫君(ひめ ぎみ)相違(そう い)ない──。
 直虎と式左衛門はその場に(ひざまず)き、姫君に向かって頭を下げたまま、駕籠が屋敷を出るのを待った。
 ところが、母屋の中から「はーい、只今(ただ いま)っ」と声がするきり、姫君の待ち人は一向に姿を現さない。ついに(しび)れを切らせた姫君は、駕籠の(とびら)を開けて外に飛び出した。
 そのとき、(つる)が舞った──と直虎は思った。
 何がそう思わせたのかは解らなかったが、そのとき彼は確かにその光景を見た。
 その(はな)やかさといったら、着物に描かれた何羽もの真っ白な鶴が、茜色(あかね いろ)の大空に向かって舞い上がったようで、寒水仙(かん すい せん)の咲く庭に吹いた冷たいひとしきりの風は、(ほの)かな(こう)(かお)りを運んだ。
 「早くせぬか! (とり)(いち)≠ェ終わってしまうではないか!」
 「大丈夫(だい じょう ぶ)ですよ。(いち)は逃げたりしませんから」
 どうやら浅草鷲神社(おおとり じん じゃ)で毎年十一月の酉の日に行われる酉の市≠フ物見遊山(もの み ゆ さん)に出かけるところらしい。その日は神社に(まつ)られる(わし)に乗った妙見大菩薩(みょう げん だい ぼ さつ)開帳(かい ちょう)され、和宮降嫁(かずの みや こう か)の祝福ムードも(あい)まって、鷲在山長国寺(じゅ さい さん ちょう こく じ)境内(けい だい)は多くの人で(にぎ)わった。
 (ひめ)は一度母屋の中に入り込んだが、すぐに再び姿を現して、腹立たしそうに「おそい、おそい、おそい」を何度も繰り返して地団太踏(じ だん だ ふ)んだ。すると、ふと、直虎たちに気付いてこちらを見た。
 「何の用じゃ?」
 と、(てら)いもなくつつつ……と近くに寄って来たので、直虎は改めて(こうべ)()れて、
 「失礼しております。私ども須坂藩の者にて、こちらにご挨拶に伺いました」
 と伝えた。姫君は首を傾げて、
 「何の挨拶じゃ?」
 とあどけない表情で聞いた。
 「このたび須坂藩の当主となりましたので、そのご挨拶にございます」
 「須坂藩……? 聞いたことがないが、いったいどこの国の藩じゃ?」
 「信州にございます」
 「おお、信州なら知っておるぞ。行ったことはないが、わらわも信州じゃ。仲良くしてやってもよいぞ」
 姫君はそんな話はどうでもよいといったふうに「(おもて)を上げてわらわを見よ」と言った。直虎と式左衛門は戸惑いながら顔を上げると、姫君はその場でくるりとひと回りして、
 「どうじゃ?」
 と、自慢(じ まん)げに直虎を見つめた。直虎は突然の意味不明な行動に躊躇(ちゅう ちょ)しながらも、その屈託(くっ たく)のないキラキラとした瞳に見つめられて顔が赤らむのを覚えた。
 「どうじゃ、と聞いておる!」
 「どう?……と申しますと?」
 「似合うか? 先日京から帰った男どもが、わらわの誕生の祝いに()うてきてくれたのだ。西陣織(にし じん おり)じゃ」
 なんのことはない、()(もの)()めてもらいたいらしい。その関西訛りが微妙に交じる、率直(そっ ちょく)(はら)一物(いち もつ)微塵(み じん)もない様子に、直虎は「可愛(か わい)い女だ……」と思った。
 「よくお似合いにございます」
 「そうか? どこが似合う?」
 「先ほど姫様が駕籠(か ご)を出られたとき、赤く染まった夕暮れに千羽の(つる)が舞ったように見えました。その茜色(あかね いろ)の着物には鶴が描かれておりましたか。鶴は君子(くん し)()()むと申します。姫様のお優しいお心が、そのお召し物によって引き立てられているのでございましょう。それに()めの(おび)友禅(ゆう ぜん)でございますね。(あわ)い青の色彩(しき さい)が、お着物の色と対照をなしてまたお美しい。それも姫様の御見立(お み た)てでございますか? とってもよくお似合いです」
 式左衛門はよくそんな言葉が咄嗟(とっ さ)に出て来るものだと、(あき)れたように直虎の横顔を見つめた。
 「そうか、よく似合うか! その方の(かみしも)もよう似合っておるぞ。名は何と申す?」
 「堀直虎と申します」
 「直虎か、(とら)さんだな。分かった、覚えておこう」
 藩主ともあろうお方が虎さん≠ニは、式左衛門は、そのあっけらかんとした乙女に、まんまと一本とられたと心で吹いた。
 すると、母屋の玄関から四十過ぎのめかし込んだ女が「(しゅん)姫様、お待たせしました!」と言いながら出て来た。どうやらその姫の名を(しゅん)≠ニいうらしい。俊は声のした方に顔を向けると、
 「やっと出て来たか。松野、遅いぞ!」
 と叫んで、「待ちくたびれてどうかなってしまうかと思った」と、花のように笑った。直虎はその花びらに少し触れてみたくなって、
 「大丈夫でございますよ」
 と応えた。俊は不思議そうな顔をして「何がじゃ?」と聞いてきたので、
 「まだお尻から根は生えていないようでございます」
 と言って愛嬌(あい きょう)のある笑いを浮かべた。俊はムッとして直虎を(にら)み、
 「キライじゃ……名は忘れることにする」
 そう言い残して、駕籠の方へ走って行ってしまった。
 松平忠固には何人もの側室がいて九男七女の子をもうけており、そのうちの一人が俊である。子の多くは早世したが、実母はとしという名の側室で、現在の上田藩主忠礼(ただ なり)は同じ母から生まれた彼女は三つ年上の実の姉になる。老中になる以前の忠固は、大坂城代として三年の間大坂におり、その間(しゅん)は生まれた。弘化四年(一八四七)十一月十六日のことである。彼女の言葉の中に時々関西訛りが交じるのは大坂育ちの母の影響か。忠固が江戸に戻り老中に任じられてから、まだ数えで二歳だった彼女は、気っ風と人情の花の大江戸で成長したのだった。
 直虎が忠固と最後に一度会ったのは、忠固が二度目の老中に就任した頃である。父の直格(なお ただ)から「上田の忠固が佐久間象山を赦免(しゃ めん)しようと動いているようだ」と聞いて、じっとしていられなくなったのだ。当時象山は吉田松陰の密航未遂連座の罪で松代に蟄居中(ちっ きょ ちゅう)であり、本来なら死罪を言い渡されても仕方なかったところを国元蟄居という軽い罪で穏便(おん びん)に処理したのも彼であった。
 「象山先生には黒船来航の浦賀で恩がある」と言い張って、その秘密会議に身を置けば、周りには上田藩士の面々(めん めん)桜井純蔵(さくら い じゅん ぞう)恒川才八郎(つね かわ さい はち ろう)らの顔があった。
 「象山先生の赦免については八方手を尽くしているが、もう一人赦免してやりたい人物がいる。長州藩の吉田松陰(よし だ しょう いん)君だ。誰か(はぎ)に飛んでくれる者はないか?」
 そう忠固が言った。吉田松陰と言えば国禁(こっ きん)を犯そうとしたいわば直虎の中では無二(む に)の同志である。その時も、
 「わしが行く!」
 と手を挙げたが、「君は?」と問われて「須坂藩の堀良山と申します」と応えれば、「他藩に迷惑はかけれん」とあっさり却下されてしまった。結局その役割は桜井と恒川が任されたようだが、その時、
 「茶をお持ちしました」
 と(ふすま)が開き、十歳くらいの女の子が姿を現した。もしかしたらあれは(しゅん)だったかも知れないと、直虎は今更のように思い出した。
 忠固が逝去(せい きょ)したとき彼女は数え十三歳の少女だった。その死は暫く公表されずにいたが、やがて病死と発表されて葬儀が終わった。江戸の町では攘夷派の手にかかったのだとの(うわさ)もたったが、おそらく彼女はその真相を知っているのだろうと直虎は思う。いずれにせよまだ年端(とし は)もいかない少女にとっては衝撃的な出来事だったに相違なく、つい昨日まで一緒に遊んでいた幼い弟がいきなり藩主に(まつ)り上げられたのだから、その大きな生活の変化は、わずか二年という歳月の中で彼女を気丈(き じょう)乙女(おと め)に変えたことだろう。
 駕籠(か ご)(わき)に立った松野と呼ばれた女は直虎たちの方を見てお辞儀(じ ぎ)し、
 「誰でございます?」
 と俊に尋ねた。
 「知らない、忘れたあんな(ひと)──それより、いったい何をしていたのじゃ? 遅すぎるではないか」
 「俊姫様(しゅん ひめ さま)だけ左様(さ よう)()で立ちでは()り合いがとれません。私もちょっとおめかしを」
 「()殿方(との がた)でも見つけるつもりであろう?」
 「まあ、はしたない! 上田藩の姫様の御付女中(お つき じょ ちゅう)がみすぼらしい恰好(かっ こう)などできません──」
 二人は駕籠の前で可愛げな会話をしてから、ようやく俊は駕籠に乗り込んだ。そして松野はその駕籠の脇を歩いて、直虎と式左衛門の前を会釈(え しゃく)して通り過ぎる。二人は駕籠が門を出るまで見届けて、
 「やれやれ、忠固様にあのようなお転婆娘(てん ば むすめ)がいらしたとは。殿はご存じでしたか?」
 式左衛門が呆れたふうに言った。
 「いや──」
 直虎は葬儀の時に見た、俊の輝く涙の色を思い浮かべた。
 
> (五)土屋坊(ど や ぼう)村の民蔵(たみ ぞう)
(五)土屋坊(ど や ぼう)村の民蔵(たみ ぞう)
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 藩主交代の報は間もなく本領須坂にも伝えられ、その(うわさ)がわずか一万石の領内に広がるのにさほどの時間は必要としなかった。時の国家老は野口源兵衛(の ぐち げん べ え)はじめ河野連(こう の むらじ)らで、
 「直武様が家督を譲るとは意外だったなあ? 直虎(なお とら)ってあの良山お坊ちゃんだろ?」
 「なあに、あの直武(なお たけ)様の弟だからたいしたことないよ。今まで通りやればいいさ」
 と、そんな陰口(かげ ぐち)をたたいた。
 もともと野口は越後村松藩から養子に来た野心家で、はじめは茶の相手として直格に仕えていたが、直武が藩主になるとすかさずその近くにすり寄り、顔色をうかがって細かな気を配ったものだからひどく気に入られ、時の家老丸山舎人が引責退隠したのを機に家老に抜擢された抜け目のない男であった。家老になるや否や藩中の硬骨漢と言われていた河野連を配下にしようと、独身の河野に藩中のおたかという娘を介して妻にさせ、その恩顧をもって同志に加えてしまうと、次に目の上の瘤だった駒澤勇左衛門に対してあらぬ罪をでっちあげ、彼を家老の座から引きずり降ろし政権を掌握してしまう。そして河野を中老に据えると、続いて江戸家老中野仁右衛門まで退けて自分の娘婿である亘理(わた り)をその職に就け、如実にその本性を顕したのだった。いまや藩政は野口源兵衛の独壇場(どく だん じょう)であり、彼の息のかかった者たちで政治を仕切り、新たな藩政改革を名目に、やりたい放題の手法で財を集めていたのである。
 その一つに貸金会所(かし きん かい しょ)の設置がある。領民へ金の貸し付けをし、その資金は年貢のほかに御用金(ご よう きん)として強制的に領民に割り当て、しかも納める金額に応じて名字帯刀(みょう じ たい とう)の許可や町や村役人等への採用や昇格を野放図に認める横暴(おう ぼう)なものだったから、(ちまた)では賄賂(わい ろ)横行(おう こう)し、過重な負担を()いられた領民は塗炭(と たん)の苦しみを味わっていた。貸金会所では毎日のように、
 「なんだ、またお前か! 返せるあてのない(やつ)に貸す金なんぞない! 利子だけでも払ったら少しは相談に乗ってやる。仕事の邪魔(じゃ ま)だ、さっさと出てけ!」
 高利貸しでなくこれは役人の科白(せりふ)である。利子といっても現代でいえば悪徳(あく とく)金融(きん ゆう)業者どころでない。それでもお金を借りに来た男は(ねば)っていると、中から数人の強面(こわ おもて)の役人が出て来て(なぐ)()るの暴行を加える。そのくせ身なりが少しでもましな者が訪れれば、
 「ようこそいらっしゃいました! 今日はどんなご相談で?」
 と、(てのひら)を返したニコニコ顔で迎え入れる──金の有る無しで人の価値を見極める役人の体質は今も昔も変わっていない。
 須坂藩領綿内村(わた うち むら)千曲川(ち くま がわ)(はさ)んだ飛び地に土屋坊村(ど や ぼう むら)と呼ばれる集落があった。もともとは須坂藩第一の石高(こく だか)を誇った綿内村の一部の人間が、千曲川を渡った対岸に土地を(ひら)いて一つの村として独立したものだが、綿内村から分村した以上、須坂藩の管轄(かん かつ)に違いない。
 ところがその辺りの地籍では、毎年頭を悩ます大きな災難があった。大雨や台風による洪水被害である。地形的にいえば少し上流は千曲川と犀川(さい がわ)の合流地点であり、二つの大きな川の勢いは、少し下ったところで(わず)かに綿内側へ蛇行(だ こう)していたため、水かさが増すと容赦(よう しゃ)なく土屋坊へ流れ込んだ。安政六年(一八五九)五月に起こった洪水はその(さい)たるもので、それまで築いていた土堤(ど てい)大破(たい は)し、村は壊滅的(かい めつ てき)な被害を(こうむ)ったのである。土堤の修復と延長は急務であったが、綿内村に相談しても、
 「そんな所に村を作ったのがいけないのだ。自分たちでなんとかしろ」
 と、分村(ぶん そん)以来の感情的な隔壁(かく へき)から取り合ってももらえず、拡張計画が隣の松代藩領の大豆島(ま め じま)地籍にかかっていたことから松代藩の福島村へも願い出たが、
 「()れ合いでそんなことはできん」
 と拒絶(きょ ぜつ)されてしまった。その対応に納得がいかない土屋坊村は、福島村を寺社奉行(じ しゃ ぶ ぎょう)(うった)え出たが、そこに幕府が加わったことで、工事の目処(め ど)もたたないまま話はますますこじれていった。いわゆる役所のたらい回しに似たものである。当然その出来事は家老野口源兵衛も知っていたはずで、明治初期のデータによると、綿内村の石高が二、五〇〇石に対して土屋坊村は(わず)か一六五石、
 「年貢(ねん ぐ)もろくに納めん村など(ほう)っておけ。そのうち幕府がなんとかしてくれるわ」
 と、高見(たか み)見物(けん ぶつ)でもするように何の救いの手も差し延べなかった。作物の不作も重なり、ついに生活の苦しみから逃れるため、土屋坊村の男たちが次々と村から逃げ出す事態にまで発展していく。
 土屋坊村で百姓代(ひゃく しょう だい)を務めていた民蔵(たみ ぞう)は、これまでも再三にわたり須坂藩へ『水防の事』で嘆願(たん がん)をしてきた。ところが綿内村やその他の村は賄賂(わい ろ)を送って藩の対応を受けてきたが、それも額によって命令の内容がその都度変わるといった杜撰(ず さん)なもので、それでも百世帯ほどの土屋坊村の民たちは必死にお金を工面(く めん)しようとしたが、(ぜに)(にお)いで態度を(ひるがえ)風見鶏(かざ み どり)のような役人を動かすことなどできなかった。
 その日も須坂藩の陣屋(じん や)(おもむ)き、何とか願いを聞き入れてもらおうと、朝から門前で粘った民蔵だったが、結局担当の役人にすら会うことができないまま、日が暮れた街道を提灯(ちょうちん)も持たずに土屋坊に戻った。季節はすっかり冬である。寒々(さむ ざむ)とした星空の下、今年も不作で荒れ果てた耕地を見ながら、
 「苛政(か せい)(とら)よりも(たけ)し……か」
 寺小屋(てら ご や)で覚えた故事(こ じ)を口ずさんで深いため息を落とす。
 このままでは村が滅亡してしまう―――
 そう思ったとき、陣屋からの帰り道、「お殿様が替わったらしいぞ」という町民の噂話が聞こえたのを思い出した。そっと耳を傾ければ、「新しい殿様の名は直虎」といい、「四書(し しょ)にあるような大覚殿(だい かく でん)をお世話なさった立派な方らしい」という声が聞こえた。およそ故事の虎≠ゥら連想したのだろうが、民蔵はふと、「苛政に挑むために虎を名乗ったのではなかろうか」と思い始めた。その(ひらめ)きは、村をなんとか救いたいという切実な思いから、強い思い込みとなって心を支配した。
 「新しい御殿様なら、我々の願いをお聞き入れくださるかもしれん!」
 その翌日、彼は村の(しゅう)を集めてこう告げた。
 「江戸に行こうと思う……直虎様に会って来る」
 村の衆は力なくどよめいた。
 「直談判(じか だん ぱん)する気か? そんなことをしたら打ち首だぞ!」
 「ここで()え死にを待つより、その方がましだ。それともやはり離散(り さん)するか?」
 離散の話は以前から出ていたが、何もない荒野を開拓し、ゼロから作り上げてきた村に対する愛着はみな同じで、離散したとて行く宛などない彼らは民蔵の決意に希望を(たく)すよりなかった。民蔵は、着の身着のまま(はる)か江戸へ向かって旅立ったのだった。

 そのころ直虎は住まいを上屋敷(かみ や しき)へ移した。それは与力や同心の組屋敷が立ち並ぶ八丁堀の南にある。
 堀の長さが隅田川との合流地点より八丁(約873m)あったことからそう呼ばれるようになった地籍だが、秋は東を流れる楓川は美しい紅葉に彩られ、それと対照をなすように春は桜が咲き乱れる八丁堀川は俗に桜川とも呼ばれ、その川の南側二つ目の路地沿い、東に近江膳所藩(ぜ ぜ はん)上屋敷、西に彦根藩蔵屋敷に挟まれた二千五百坪ほどの敷地内に屋敷は立つ。
 藩主になったからには上屋敷で政務を執る習いだが、国元(くに もと)の過去の帳簿など見て財政難の原因を探るにはこちらでなければ都合が悪い。
 直武から引き継いだ職務は江戸城の御門警備で、毎月一日、十五日、二十八日と五節句(ご せっ く)の日は将軍と拝謁(はい えつ)するため江戸城へ登ることになる。つい先日登城(と じょう)した際は、城内では右も左も分からないだろうと、藩主としてはひと月先輩の親戚、大関肥後守増裕(おお ぜき ひ ごの かみ ます ひろ)(ともな)った。彼は下野国(しもつけのくに)黒羽藩(くろ ばね はん)一万八千石の養嫡子(よう ちゃく し)として十五代藩主になったばかりの数歳年下の実直誠実(じっ ちょく せい じつ)な男であるが、お家の事情がやや複雑で、「どこかによい養子候補はおらぬか」と、しきりに聞いて探していたが、それについては後述することになるだろう。その隣で直虎は、得意の愛嬌(あい きょう)を振りまいて何人かの友人ができた。ちなみに十一月十五日のその日は、和宮(かずのみや)が無事に九段(く だん)の清水邸に入ったとの噂を聞いた。
 十二月に入って初旬のことだった。
 御門番(ご もん ばん)の仕事を終えて上屋敷に戻ったところ、門の前でみすぼらしい農民姿の若い男が(あや)しげな様子でうろうろしている。
 「何をしておる?」
 直虎護衛の小林要右衛門が不審そうに身元を尋ねると、男は振り返り、
 「須坂藩の江戸藩邸というのはこちらでございましょうか?」
 とおどおどした様子で言った。民蔵に相違ない。およそ花の大江戸にある藩邸というくらいだから度肝(ど ぎも)を抜く大きなきらびやかな屋敷を想像していたのだろうか、案外こじんまりとした門構えの屋敷に面妖(めん よう)そうな表情をつくった。
 「左様(さ よう)だが、なんの用だ?」
 もう一人の護衛の真木万之助(ま き まん の すけ)が近寄った。彼はもともと河内国(かわ ちの くに)郷士(ごう し)で堀家に出仕するようになった江戸定府(え ど じょう ふ)の家臣である。民蔵は恐縮して、
 「新しく御殿様(との さま)になられた直虎様にお願いの()がございまして須坂より参上いたしました」
 と一口に告げた。
 「直虎はわしだが」
 直虎は前に進み出て、土で汚れた顔にギラギラと光る充血した彼の(まなこ)を見てとった。
 驚愕(きょう がく)して「ご無礼をお許し下さい!」とその場に(ひざまず)く民蔵は、まさか会う目的の殿様がいきなり目の前に現れるなど思ってない。そのうえ殿様といえば羅紗(ら しゃ)の羽織を着ていてしかるべきだとでも思ったのだろうが、突然直虎を名乗った男ときたら、浅黄木綿(あさ ぎ も めん)羽織(は おり)小倉(お ぐら)木綿袴(も めん ばかま)、腰に二本の刀は差しているものの、どう見ても少しまともな庶民(しょ みん)の出で立ち──冬だというのにどっとあふれ出る(ひたい)(あせ)を土にしみ込ませると、その様子に直虎は柔和(にゅう わ)な笑みを浮かべた。
 「そうかしこまらずともよい。殿様は駕籠に乗って出歩くとでも思ったか? はるばる須坂より参ったと? 須坂の(たみ)の前でこんなことを言うのも難だが、今は財政が厳しく何から何まで倹約(けん やく)、倹約じゃ。苦しゅうない、まずは(おもて)をあげよ」
 民蔵は身体をガタガタ震わせ、頭を地面にこすりつけたまま(ふところ)から長旅でボロボロになった直訴状(じき そ じょう)を頭の上に差し出した。直虎は無造作にそれを受け取り、表情ひとつ変えずに一読すると、
 「長旅、疲れたであろう。まずはゆるりとドブ湯≠ノでも浸かって参れ」
 ドブ湯≠ニいうのは八丁堀にある銭湯のことである。元々は同心の足洗い場がいつしか大衆浴場に変わった場所で、ドンブリ入る≠ェドブ湯≠ノなったという謂れがある。民蔵は「ドブに入れられるのか?」と直訴した報いを受け入れるような困惑の表情を作ったが、直虎が屋敷から一人の家臣中野五郎太夫を呼び銭湯へ案内するよう言いつけ、湯から出たら屋敷内の部屋に入れるよう命じたので、「処罰ではなさそうだ」と、安心したように五郎太夫に付いて行ったのだった。
 上屋敷公の間に江戸家老駒澤式左衛門と要右衛門を呼び寄せた直虎は、二人の顔を静かにながめた。
 「野口亘理(わた り)はどうした?」
 野口亘理(わた り)とはもう一人の江戸家老である。国家老野口源兵衛の娘婿であるが、式左衛門は少し困った顔をして、
 「柳橋ではないかと……」
 と俯きがちに答えた。
 「柳橋? いったい何をしに?」
 柳橋といえば隅田川と神田川の合流地点に架かる神田川下流の橋だが、周辺には船宿を中心に待合茶屋や料亭などが軒を連ねる大江戸繁華街の一つである。直虎が顔をしかめる間もなく「どうせ柳橋芸者を買いに行っているのでしょう」と要右衛門が不愉快そうに言った。
 「やつはそんな所へ通っておるのか?」
 「いつもというわけではないと思いますが……」と同じ家老の醜態に式左衛門は言葉を濁したが、直虎は呆れて「まあ、よい」と、民蔵から受け取った訴状の文面を二人に見せた。
 「どう思うか?」
 そこに書かれた内容は土堤(ど てい)が改修されない経緯(けい い)と土屋坊の窮状(きゅう じょう)うんぬんだが、これと財政窮乏(きゅう ぼう)とにどんな因果関係(いん が かん けい)がありそうかと聞いている。

 『再三にわたり水防普請(すい ぼう ふ しん)を願い出ましたが、なにごとも賄賂(わい ろ)のご政治にて、小村で賄賂が少ないため差別され取り合ってもらえず、一村離散(り さん)(ひん)してございます──』

 現在の国家老(くに が ろう)首座は野口源兵衛が務めていることは皆知っており、直虎はこの時点で既にその娘婿である亘理が何らかの関与をしているのではないかと疑っている。でなければ窮乏している藩の財政を考え、柳橋などで遊び惚ける金などあろうはずがない。源兵衛を家老に抜擢(ばっ てき)したのは直武であるが、話によれば細かなことまで気の付く切れ者ということだが、
 「賄賂(わい ろ)という言葉が気になりますな」
 と、やがて式左衛門が答えた。
 「そうであろう? 兄も小銭(こ ぜに)に困り朝暮(あさ く)れの暮らしもつきかね、家中の扶持(ふ ち)も六割減らしたと言っておった。(すで)に限界を超え領民に大きな負担をかけていることはその訴状でも明白だ」
 「あの者、よほど切羽詰(せっ ぱ つ)まっていたのでしょうなぁ。直虎様だからよかったものの、一介(いっ かい)の農民が殿に直訴(じき そ)など、他藩でしたらその場で打ち首ですぞ」
 と要右衛門が続けた。
 「これが須坂藩の現実ということでしょう。賄賂でもなんでも金を徴収(ちょう しゅう)する仕組みを作らなければもはやどうにもならないのでございましょう」
 式左衛門の言葉に直虎は、直武が苦しんでいたのはこれだと思った。しかし、だからといって領民に過大な負担をかけて苦しめ、人道をはずすようなことまでして公金を調達するのは、国を治める者としてあってはならないことだと断じて思う。
 「発想が逆であろう? 政治というのは民の側に立って国を考えるものじゃ。国を治める者、そして国の政務を司る者が最もしてはならぬことは何だ?」
 式左衛門と要右衛門は首を傾げた。
 「民心を乱すことじゃ。民衆ほど恐ろしいものはない。民衆が団結して総決起すれば一国などあっという間に滅びてしまう。かといって君主が不要かといえばそうでもない。国を治める者がなければ無法地帯となり、争いの絶えない状態が永遠に続く。大事なのは国の政治と民とが共存することではないか? 国の執政に関わる者たちが民の尊敬に値する振る舞いができるかどうかだ」
 直虎は事の一凶(いっ きょう)を見透かしたように続ける。
 「日本書記にある仁徳天皇(にん とく てん のう)の民のかまど≠フ故事を知っておろう。百姓の家に煙が立っていないのを見て天が君主を立てるのは百姓のためである≠ニいうあれじゃ。あれは確か三年間、税を徴収(ちょう しゅう)するのをやめたと思ったぞ。すると三年後には百姓に余裕ができ、家々に煙が立つようになって、挙句は天皇を称賛する声で世は満ち溢れたと言う。大和魂(やまとだましい)とはそういうものではないか? 『老子(ろう し)』にもこう説いてあるぞ」
 と紙にすらすらと文字を書きはじめた。

 『民之飢、以其上食税之多、是以飢。民之難治、以其上之有為、是以難治。民之輕死、以其求生之厚、是以輕死。夫唯無以生為者、是賢於貴生。』

 「民が()えるのは君主の食税(しょく ぜい)が多いからである。民を(おさ)めることが難しいのは主君の作為(さく い)のせいである。そして民が命を軽んずるのは、豊かな生を求めているからである。ただありのままに生くる者こそ賢く(とうと)いのである──」
 要右衛門と式左衛門はしきりに感心し、主君に和魂漢才(わ こん かん さい)叡智(えい ち)をかいま見た。
 「まずは真相を確かめることだ」
 直虎は、少し前の財政改革(ざい せい かい かく)の失敗の責任を負い、家老職を追われた丸山舎人(とねり)の息子である丸山次郎本政にすらすらと密書(みっ しょ)をしたためた。ここ何年も須坂へ帰っていない彼は、国許の政治がどのような顔ぶれで行われているかしっかり掌握(しょう あく)できていない。その中で丸山家は、九代藩主直皓(なお てる)の代より堀家に仕えてきた唯一顔の見える信頼できる家臣であった。

 『もしかしたら重臣たちを罰することになるかも知れない。双方の言い分をよく聞き、つまびらかに書き並べ、罪状を聞かせてほしい。よく検討して処分を決めたい。追放する家臣を書状で通達する。直虎 花押 大司(丸山次郎)君へ』

 その密書の内容も伝えず直虎は要右衛門に手渡すと、
 「今すぐ須坂へ飛べ」
 と命じた。要右衛門はその意味をすぐに察した。もう一人の側近である柘植宗固(つ げ むね かた)と一緒に須坂へ下り、現地の北村方義(きた むら ほう ぎ)らと連携し、事実確認をして真相を見極め、打てる手を打って直ちに報告せよという事である。
 ここに出てきた柘植という男が伊賀国の忍者の血筋であることは前に少し触れたが、彼は直虎が元服してから直属に仕えるようになった古参の庭番である。いわゆる服部半蔵から始まる徳川家における伊賀衆は、寛永年間に麹町御門(半蔵門)周辺から四谷門外の祥山寺周辺の伊賀町に移転させられて以来、諜報業務など不要の泰平の世にあって、すっかり江戸の町民と同化しつつも忍術の継承は密かに行われていた。大名ならそうした諜報業務を専門に司る家臣の一人くらい召し抱えているものだが、目聡い要右衛門などは古くから彼に近づき、伊賀流忍術なるものを習得してやろうとちゃっかりしている。
 「それから──」
 と直虎は声を潜めた。
 「この話は野口亘理(わた り)の耳には入れるな。今回の件に関与しているかも知れぬ」
 要右衛門は低い声で「はっ!」と応えると音もなく部屋から姿を消した──それが民蔵が銭湯から戻るまでの束の間の時間だった。
 その後、「少し国許の様子を聞かせてもらえんか?」と、民蔵にあてがった部屋に直虎が顔を出したのは間もなくのこと。民蔵は驚いて終始かしこまっていたが、その愛嬌のある笑みに緊張をほぐしながら、土屋坊の惨状(さん じょう)や役人たちの対応の様子など話して、「明日の朝には国に帰って、今日のことを皆に伝えます」と言った。
 「せっかく江戸まで来たのじゃ。少しばかり町を見聞(けん ぶん)して帰ったらどうじゃ?」
 「それには及びません。お気遣いだけで私にはもったいのうございます」
 「なんであれば案内に先ほどの五郎太夫を連れていけ。無粋な顔をしておるが気のいい男であろう?」
 「いえいえ、恐れ多きことにございます」と、民蔵は平伏してしまった。路銀(ろ ぎん)も持たずに村を飛び出して来たことは、土で汚れたボロボロな身なりですぐ知れる。持ち金などあろうはずもないのに、直虎は余計なことを言ってしまったと後悔した。懐から銭入(ぜに い)れを取り出して(のぞ)いてみれば、藩主ともあろう者が一朱銀(いっ しゅ ぎん)一枚と小銭が数枚あるだけで、他人の心配をする前に自分の方が金欠(きん けつ)なのだ。文久年間当時でその持ち金を現代の価値に換算(かん さん)すれば数千円といったところか。これより後、米の高騰(こう とう)貨幣価値(か へい か ち)(いちぢる)しく低下していく。
 直虎は気まずそうに「見聞(けん ぶん)()しにせよ」と言って、手にした銭入れを袋ごと民蔵に渡してしまった。民蔵は(こば)んだが、一度出した物を引っ込めるのも恰好(かっ こう)がつかない直虎は、
 「物見遊山(もの み ゆ さん)も後学のためじゃ。余るか知れんが、もし余ったら国元の皆に何か食わせてやれ」
 そう言い残して部屋を出た。ところが案内を仰せつけた中野五郎太夫に翌日の民蔵の様子を聞けば、「蕎麦(そ ば)を一杯食っただけで、すぐに国元へ戻りました」ということである。

 それから──要右衛門が戻って来たのは、細雪(ささめ ゆき)の降る夕暮れ時のことだった。
 「たいへんなことになっておりますぞ!」と、旅の疲れを(いや)しもせず口早に語り出した話によれば、家老野口源兵衛らは、心学(しん がく)を利用して庶民(しょ みん)からお金を巻き上げていると言う。
 心学とは神道、儒教、仏教の合一を基盤とした江戸中期の石田梅岩(いし だ ばい がん)を開祖とする学問の一派で、本来その教えは究極的に正直(しょう じき)(とく)≠尊重する倫理学(りん り がく)の一種である。須坂藩では第九代藩主堀直皓(ほり なお てる)の代に石門心学(せき もん しん がく)講舎『教倫舎(きょう りん しゃ)』を立ち上げていたが、その後、儒学を基調とする藩校『立成館』を作ったことから、この時すでに藩内の精神的支柱となる学問は二分されていたと言える。
 藩の財政に悩む前の国家老丸山舎人が、当時財政改革で高名だった京都本覚寺(ほん がく じ)の心学者石田小右衛門知白斎(いし だ しょ う え もん ち はく さい)を須坂に招いたのが嘉永三年(一八五〇)のこと。ところが、手紙・贈答・来客をやめ、借り入れ停止・衣服は綿服・参勤交代費を二一〇両に限るなどの五カ年改革『規定書十ヶ条』を定めたところまではよかったが、定期的に領内十三カ村を巡回(じゅん かい)して心学を語る中で、表向きは勤倹節約(きん けん せつ やく)を説きながらも、その行為は次第に領民から献金(けん きん)を強要する悪質な金の取り立てへと変わっていったのだった。その手口は、
 『借金あるとて石田の隠居(いん きょ)小山(こ やま)へ連れ込み、心学論じて百姓だまして、献金出せとて大小御免(だい しょう ご めん)(かみしも)くれたり、なんのかのとてむやみに取り立て、心学いうては用金、献金、無理銭(む り ぜに)取り立て―――』
 とちょぼくれ≠ノ歌われるほどで、そのあまりのひどさに憤慨(ふん がい)した領民の感情を押えるため、石田は退任して須坂を去り、丸山舎人も責任を負って辞職したのだ。
 このとき藩政を独占した野口源兵衛と河野連(こう の むらじ)らは、根強く残ったその風潮を利用しつつ、この項の冒頭で述べた貸金会所の設置や、金額に応じた名字(みょう じ)帯刀(たい とう)の許可や町村役人や取締役への昇格等、やりたい放題の暴政をはじめた。財政が逼迫(ひっ ぱく)している時にはすべきでない無駄(む だ)な土木建設事業もその規模が半端(はん ぱ)でない。町家、田畑をつぶしてまで日滝(ひ たき)道、相森(おう もり)道、八幡(はち まん)道の道幅を広げて新しい町を(おこ)して家賃を取り立てるための貸し家を建てたり、芝宮(しば みや)神社を美麗荘厳(び れい そう ごん)に建て替えたり、陣屋の馬場を拡張したりと、しかもその人足は全て村々に割り当て農繁期も無視して強制労働を強いたから、重税と人手不足に苦しむ農民の中には、生きる希望を失って命を絶つ者も数知れず。挙句(あげ く)に要右衛門が見たものは、奪った金で私服を肥やし、陰でドンチャン騒ぎの飲み食いをする堕落しきった役人たちの姿であった。
 自分はなけなしの金をそっくり民蔵に与えて文無(もん な)しというのに、政治という権力を傘に(おど)(だま)した金で私服を肥やすとはなにごとか!
 直虎は激怒(げき ど)して(あき)れ果てた。
 「もはや秩序(ちつ じょ)もなにもあったものではありません。民心(みん しん)は離れ、最悪の状況です」
 と、要右衛門は暗い表情をつくった。
 直虎の頭に中国の兵法書のひとつ『呉子(ご し)』の『治兵(ち へい)第三』にある言葉が思い浮かぶ。

 用兵之害猶予最大(兵を用うるの害は猶予(ゆう よ)最大なり)

 戦いを起こすに当たって最大の妨害となるのは、ぐずぐずして事を決しかねることである──。
 まだ藩主になって間もない彼が直面した、これが最初の難題(なん だい)だった。
 
> (六)切腹の沙汰
(六)切腹の沙汰
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 国家老野口源兵衛らの処分を決めるため、野口亘理とその周りの家臣を省いた重臣たちが、連日密かに直虎のもとに集まった。要右衛門の報告によれば、密書を受けた丸山次郎本政が指揮を執り、綿内村の堀内教助が罪状を調査し、ひそかに一派の者達を捕えたと言う。その罪状を挙げれば、

一、藩のためといって強制労働・年貢以外の雑税などを課した。
一、町家を取り潰して貸し家を建て、耕地をならして新道を拓くため高掛人足を使い、農事の季節も無視して使役した。
一、自分に媚びる者を藩士に取り立て、多人数になると家臣の扶持給を引いたため、その多くが困窮し文武が廃れた。
一、御用金を多くとるため町役人・取締りに多く取り立て、百姓に苗字帯刀などの特権を認めたため賄賂が横行した。
一、勝手に芝宮神社を拡張し、美麗な新宅を建て、陣屋を広げ馬場を作った。
一、嘉永三年以来奢侈にふけり、下役人の姦曲を助けて栄華を極め、特に追分出張のとき上をも恐れず先払いの足軽をさし出し、臣下にあるまじき振舞いをした。

 ──などで、係った人物の名を挙げればその重臣の数三十三名にのぼり、野口源兵衛らを確信犯と断定した直虎は、その娘婿である野口亘理を即時国許へ護送し、十二月十五日付で野口らに仕置きすることを申し渡すと、その入れ替えに丸山次郎本政を家老に据えて、政務首脳体制を刷新してしまった。野口らにしてみれば青天の霹靂で、まさに電光石火の早業である。
 そこまでは何の迷いもなく断行した直虎だったが、その罪状の処分を決める段階に至って、はたと仕事の手が止まってしまった。特に重罪と見なした四人に対して、家臣たちは口を揃えて「斬首じゃ、切腹じゃ」と言い立てる。すなわちその四人とは、家老、中老ら野口源兵衛、河野連、野口亘理、広沢善兵衛であるが、いざその決断を下せとなると、簡単に人の命など奪えるものでない。藩主になる前殿は優しすぎる∞同情や優しさは一凶となり時に大きな禍根を残す″と忠告した中島宇三郎の深い皺を思い浮かべて、
 「あいつが言ったのはこの事か──」
 直虎は一人ごちて、暫く考えてこう言った。
 「藩籍剥奪、永久追放でどうじゃ?」
 「生温い!」と要右衛門は畳を叩いた。続いて式左衛門、万之助らが、
 「それでは領民に対しても、今後の政治運営においても示しがつきませんぞ」
 「極悪の四人が、それ以下の者と同じ対処ではおかしいではございませんか」
 「藩を追放したところで、別の場所で同じような事をしでかすに決まっている」
 と波風のように追い立てた。困った直虎は、
 「では無期懲役とし、一生牢につないでおこう」
 「殿!」
 家臣たちは叱責するように口を揃える。
 「お主ら気が合うのぉ……」
 直虎は「こんな時ばかり」と呆れた苦笑いを浮かべ、いたたまれず、
 「二、三日考えさせてくれ……ちと雪隠へ」
 ボソッと呟きその場を立ち去った。
 直虎にとって斬首だけはあり得なかった。どんな理由を並べ立てても、それは人殺しに違いなく、特に国が行う殺人行為は、民に対してそれを容認しているようなものである。人命軽視につながる行為は国としては絶対にすべきでない。
 となると無期懲役を極刑と位置づけるしかないが、それでは家臣たちから大反発を喰らうのである。もっとも江戸における罪人に対する一般論からしても、あるいは過去の幕府の判決を考慮しても、彼らの言い分は理解できる。死をもって償うという考え方からすれば、
 「やはり切腹が妥当か──」
 と思わざるを得ない。しかし死ぬことで本当に罪が償えるかと言えば、生きていてこそ罪を償う機会が与えられるわけであり、かといって無期懲役で一生牢獄に押し込んでしまえばその機会を奪うのと同じだ。罪人とはいえ生きていれば天が与えたるであろう使命とか天命とかいうものを持っているかも知れない。それを神や仏でない凡夫の智慧で図れるはずもない。
 であるなら一生監視付きの自由生活を与えるのが妥当か?
 否──一人の人間が改心するということは一時的にはあったとしても、その生命の次元から改めるのは至極困難であり、それ以前に、重罪を犯した人間を監視付きとはいえ市井に解き放ったのでは民が不安がって国の安定は図れない。
 「どうしたものか──」
 直虎は藩主の責任の重さとかじ取りの難しさを深く感じた。そしてようやく切腹やむなし≠ニいう結論を導き出そうとしたとき、「それでも」と思って切腹について改めて考え直してみることにした──掘直虎という人物を描こうとする時、彼にとってこの切腹≠ニはいかなるものかを理解することは、けっして避けて通れない難問であろう。
 切腹≠ニは腹≠切≠驍ニ書くが、実際歴史を紐解くと、腹を切るという自死行為が定型化したのは江戸以降で、以前は腹ばかりでなく喉や胸などを刺す場合も多く、それらを含めた自死行為もすべからく意は同じと考える。それは日本独自のものと思われがちだが、中国においては紀元前から記録が残り、日本ではまだ弥生時代に、それは忠≠竍義≠尽くした行為として民衆の心をとらえ、称賛を得てきた。この民衆に支持されてきたという点が肝で、でなければ何千年もの間、語り伝えられることはなかったろうし、その意味から言えば、それらの自死行為は肉体を滅ぼした後なお、その精神は生き続けたと言ってよい。
 そうしたとき彼が真っ先にすることは、中国における切腹事例を調べることだった。
 『呂氏春秋』が編纂されたのは紀元前二三八年の中国戦国時代末期にあたり、仲冬が紀した『弘演納肝』の故事は、そこから更に時代を遡る。
 古代中国春秋時代、衛の国に弘演という家臣がいた。あるとき主君の懿公が異民族に襲われ、肉を食べられ肝だけ残して殺害される。その遺体を見た弘演は天を仰いで嘆き悲しみ、自分の腹を割いてその肝をつかみ出し、懿公の肝を自分の腹中に納めて果てたという。後世の人々はその忠勇を讃え、この故事は後の『漢詩外伝』などでも取り扱われ、かなり後の時代になるが日本の『太平記』や、日蓮の書の中にもその記述がたびたび見られる。
 また司馬遷によって書き上げられた『史記』は、紀元前九一年頃に成立したとされる。司馬遷は匈奴に降参した友人を弁護したため武帝の怒りを買い、宮刑に処せられてなお執筆の手を止めなかった筆聖である。
 その『刺客列伝二十六』に登場する聶政という男は、人を殺して復讐を避け、老いた母と未婚の栄という姉を伴って斉の国に身を隠し、屠殺業をして密かに生計を立てていた。一方、韓の国の重臣厳仲子は、宰相侠累と仲たがいし、亡命して諸国遊行の身であった。
 ある日、「聶政という勇敢な男がある」という噂を聞いた厳仲子は彼の家に訪れた。やがて酒を飲み交わす仲になるものの、厳仲子は宰相への復讐の思いは告げず、そのまま親しい関係を続ける。
 あるとき厳仲子は、聶政の母の長寿を祝い黄金百鎰(一鎰は二十四両)という大金を贈るが、聶政はそれを拒む。このとき厳仲子は「自分は仇を持つ身である」ことを告げ協力を要請するが、聶政は「老母の存命の限りはこの身を他人に委ねるような事はできない」と断ると、厳仲子はお金を置いて立ち去った。
 それから数年後、聶政の母は世を去り、姉の栄も嫁ぐ。一人残された聶政は、「私のような田舎者に車駕を枉げて交友を結んでくれた厳仲子は、誰よりも私の事を知ってくれていた」と、己を知る者のために衛の濮陽へ向かう。再会した厳仲子は喜び「宰相侠累を討ちたい」旨を告げた。
 聶政は多勢で事を為す危険を案じ、剣を杖に単身韓に乗り込み、たちどころに厳仲子の仇である侠累を斬り捨て、更に数十人の衛兵を撃殺して目的を遂げると、自らの顔の皮を剥ぎ、目玉をえぐり、腹を割いて息絶えたのだった。
 話は続く。
 韓は罪悪人の身元を突き止めようと、その屍骸を市場にさらし、千金の賞金を懸けて触れを出したが、いつまでたってもその身元を知る者は現れなかった。
 やがて噂が姉の栄の耳に届き、厳仲子が弟の知己であったことに「もしや?」と思った彼女は韓の都へ向かい、死体が弟であるのを確認すると、
 「この男は聶政といって私の弟です!」
 と告げた。死体の見物人たちは「そんなことを言えばあなたも同罪だ」と諫めたが、彼女はきっぱりとこう言い切った。
 「厳仲子様は弟の人物を見込み、身分も財産も関係なく弟と交際いたしました。弟はその恩義に報いたのでございます。士は己を知る者のために死すと言います。私が罰を恐れて、どうして賢弟の名を世に埋もれさせることができましょうか!」
 と、三度天を呼ばわり、弟の傍らで自害して果てたのだった。
 この話は瞬く間に国中に広まり、人々は「この一件は聶政ひとりが成したものでなく、その姉もまた烈女だ」と、二人に称賛の涙を流したという。
 また、『旧唐書』は西暦六一八年の唐の成立から九〇七年の滅亡までを記したもので、日本では飛鳥時代から平安時代にかけての書で、『列伝第一三七』に登場する安金蔵は、太常工人という身分の男である。
 則天武后が即位し、子の容宗が皇嗣と決ってより、誰も容宗に近付くことができなかったが、安金蔵ら太常工人だけは側に仕えることができた。
 あるとき「容宗が謀反を企てている」との流言が立ち、則天武后は事実の糾明を行わせたところ、容宋に仕える者達は捕えられ、みな拷聞に耐えきれず虚偽の自白をしてしまう。ところが安金蔵ただ一人は容疑を否認し、
 「私の言葉を信じないのであれば、心臓を切り裂いて皇嗣の無実を証明して下さい」
 と叫び、刀を引き抜き自らその胸腹を切り裂いた。
 話を聞いた則天武后は、急いで安金蔵を宮中に運び入れ、医者に命じて五臓を体内に収め縫合し、薬を塗らせた。すると翌日、彼は息を吹き返し、則天武后はこう言う。
 「我が子は己の無実を証明できぬが、お前の忠義がそれを証明している」
 と。そして直ちに糾聞を中止させ、容宗は難を免れた。安金蔵は自分の身体を割いて死のうとすることで赤誠を示し、主人を守ったのである。
 弘演と安金蔵の話は忠≠フ手本として、また聶政と栄の話は義≠フ手本として後世に語り継がれるわけだが、これら中国の自死行為はやがて日本に伝わり、武士に特化した日本独自の死に方として根付いていく。『忠臣蔵』の集団自決などはその象徴ともいえようが、文献上日本でもっとも古いものは九八八年(永延二年)の藤原保輔の切腹である。
 藤原保輔は官僚だが盗賊としての名を残す。寛和元年(九八五)に傷害事件を起こしてから、身近な官僚を襲撃したり強盗を繰り返した挙句に捕らえられるが、その際、自らの腹部を刀で割いて自害を図り、翌日獄中で没したというものだ。
 これは一見忠≠竍義≠ニは違うもののように見えるが、腹を裂いて内臓をえぐり出したというから、形の上では前述の弘演や聶政、安金蔵のそれと全く同じである。藤原保輔の自死行為の背景を探ってみると、捕らわれる少し前、彼の父藤原致忠が捕まり監禁されている。その直後、彼は剃髪して出家した事実から察するに、けっして単なる悪篤心から犯罪を働いていたわけではなさそうだ。己の死をもって贖えるものがあるとすれば、それ相応の怨恨なり無念があるはずで、そこにはきっと己自身の生き方に対する何かがあったと見える。現にこれ以降、無念を晴らすための無念腹≠ニいう、切腹における一つの動機が生まれた。
 もっとも『史記』などには、思惑や信念を果たせず自殺する諸侯の話があるから日本独自のものとは言えないが、『平家物語』や『太平記』などに書かれる自刃つまり切腹の描写には、なにか特別な感情が込められている。
 戦国時代に入ると一層顕著だ。有名どこを列挙するだけでも織田信長、武田義信、朝倉義景、浅井長政、松平信康、武田勝頼、清水宗治、柴田勝家、北条氏政──武士という特別階級における切腹の例を見つけるに雑作もない。
 賤ヶ岳の戦い≠ノおける柴田勝家のそれは、豊臣秀吉に追い詰められ、落ち行く北ノ庄城の天守閣九段目に登った彼は、継室であった織田信長の妹お市を道連れに、
 「わしの腹を切り割く様を見て後学のために役立てよ!」
 と雄叫びを挙げ、妻子とその侍女たちを一突きにした後、自らの腹を十文字に割いたという壮絶なものだった。そして苦しみ喘ぎながら家臣の一人を呼び寄せ介錯させると、それに続いて八十余名もの者が後を追って殉死したと言う。捕虜となる恥辱を避け、お家に対する忠義や己の信念を示すための意味合いが込められているのだろう。
 豊臣秀吉が得意とした兵糧攻めにおいて見られる切腹には、また別の意味が含まれる。『三木の干し殺し』と呼ばれる『三木合戦』は、織田信長による播磨平定の際、秀吉が三木城主別所長治に対して行った兵糧攻めである。天正六年(一五七八)、東播磨一帯から集まった約七千五百が城に結集し、一年十ヶ月に渡って篭城戦が繰り広げられた。しかし結局食料が尽き、成す術を失った別所長治は、切腹をもって城兵を助命するという条件を飲んで自らの腹を切った。また天正八年(一五八〇)の『鳥取の飢え殺し』と呼ばれる『鳥取城攻略戦』においても、秀吉は吉川経家を相手に同じ兵糧攻めを行い、城中を飢餓状態に追い込む。追い込まれた城の者は人肉まで喰らう地獄のような有り様だったと伝わるが、この凄惨たる状況に耐え切れず、吉川経家は自決と引き換えに開城したのだった。経家は、
 武士の取り伝えたる梓弓かえるやもとの栖なるらん
 との辞世を残し、その死に様を哀れなる義士≠ニ讃えた秀吉は涙を流したと言う。
 そして天正十年(一五八二)、高松城を攻めた際切腹した清水宗治の潔さは、秀吉に強い感銘を与えたとされる。それは毛利征討、世に言う備中高松城水攻めである。
 本能寺の変で織田信長死去の報を知った秀吉は、一刻も早く片を付けなければならない状況に陥った。そこで使者を送って和平交渉を行うが、その条件が「高松城主清水宗治の命と引き換えに城兵を助命する」というものだった。水没した城での籠城は限界に達し、ついに宗治は城兵の命を救うため、小舟で秀吉の陣に近づき舟上で舞を舞い、切腹の道を選ぶ。
 この三件の兵糧攻めにおける城主の切腹には、それまでとは異なる特別な意味が際立っている。それは城兵の命と引き換えに城主自らが腹を切ったこと──つまり、それまでの切腹は身分が下の者が上の者に対して行っていたのが、上の者が下の者のために腹を切った点である。日本古来の武士の約束事は、戦にあっては主君が死ねば全てが決着する。つまり乱世における領主の切腹≠ニは、領民を巻き込んでそれ以上犠牲者を増さないための、平和的でもっとも確実な究極の解決策になり得たということである。これこそ和の国日本≠フ精神風土が、長い時間をかけてたどりついた一つの産物と言ってよいだろう。
 日本固有の概念とか命の傾向のことを、直虎は叒≠ニか秀気≠ニ名付けていたが、自己犠牲の精神がそれではないかと、ふと、脳裏に閃いた。
 民のために腹を切る>氛
 この長たるものの一つの死に方は、長たる者の責任として、また覚悟として後の世に継承されるべきであろう。
 清水宗治の切腹は、その作法があまりに見事であった事から、秀吉は「武士の鑑」とまで絶賛し、以降、切腹が名誉ある行為であるという認識が定着したとも言われる。豊臣秀次や千利休に対して秀吉は切腹の沙汰を下し、徳川家康もまた、関ヶ原の敗者の中でも古田織部や細川興秋などには切腹による処罰を命じた。
 それら切腹行為の中で、直虎が特に着目したのは浅井長政だった。
 琵琶湖周辺の北近江を治めていた長政は、武力で統治していたというより徳≠フ力で統治していたという色合いが強い。というのは、もともと琵琶湖周辺は食が豊富で、その自治体制は、領地を奪い合い勝利者が統治するというより、惣村≠ニ呼ばれる小さな村の集合体で形成されていたからだ。戦国時代当初は六角氏の傘下にあったが、戦上手の長政は野良田の戦いで鮮やかな勝利を収め、いつしか推されて領主となり、やがて六角氏の力を封じてしまう。その手法は命令を下して周辺惣村を武力で押えるというものでなく、横の連携で国をまとめあげる、ある意味共和制国家とも言える形である。
 その頃、東で勢力を強めていたのが隣国の斎藤氏だった。このとき、尾張の織田信長から一つの提案がもたらされる。
 「妹のお市を嫁にどうか」
 と。つまり北近江と尾張が同盟を結び、斎藤氏の美濃を挟み撃ちにするあからさまな政略結婚である。長政は斎藤氏の脅威を封じるためその申し出を飲んだ。
 ところが美濃を攻略した信長は、長政を同盟相手としてではなく配下に置いた傲慢さで天下布武≠旗印に天下統一に動き出す。更には長政と同盟関係にあった越前朝倉義景を攻撃するのだった。それがもとで両者の関係に亀裂が生じる。察するに、長政の信念は天下布武とは真逆の統治偃武≠ニもいえるもので、武力によらない平和で豊かな自領にするのが目的で、天下統一があるとしたら、その延長にこそ実現させるべきといった理想があったのではなかろうか。
 信長と敵対関係になったこの時点で、嫁のお市は信長の許へ帰されるのが戦国の習いだが、彼女は長政の許にとどまり、茶々(豊臣秀吉側室淀)やお江(徳川秀忠正室)といった後の歴史に絶大な影響を及ぼす姫たちを産む。そして長政もまた、妻お市を愛し娘を愛した。
 しかし兵力の差は歴然だった。破竹の勢いで侵攻する信長にとても勝てる見込みのない長政だったが、そこで奇跡が起こる。彼の徳≠フ力に呼応して、本願寺の僧侶たちが立ち上がり、更には朝倉軍や延暦寺の一向宗徒らも加わったのだ。信長に対抗し得る勢力に膨れあがった長政連合軍は、ついに信長軍を押し返すのだ。
 焦った信長はここで一計を案じる。そこが信長の憎いほどの才能とも言えるだろう、こともあろうに朝廷工作を行う。時の将軍足利義昭を利用して天皇に和睦調停を依頼し、勅命≠フ名の下に講和を成立させてしまう。まさにこの策は、幕末にあっては長州藩や薩摩藩が主導したそれと同じやり方と言えるが、日本という国の不思議は、国において天皇は絶対的存在≠ナあり続けてきたことだ。勅命≠ニあらば長政とて従わないわけにいかない。
 ところが──
 講和した直後、信長は京都からの北近江への道をちゃっかり寸断してしまうと、あの残忍無比な惨事として歴史に残る『比叡山焼き討ち』を決行し、長政を完全に孤立させてしまった。更には信長にとって東の脅威であった武田信玄が没すると、三万の軍勢で一気に北近江を攻め込み、長政の本拠地小谷城を取り囲む。
 命運尽きた長政のもとに降伏を勧める使者が何人も来たが、彼はそれを断り、天正元年(一五七三)秋、切腹して二十九年の生涯を閉じる。その直前、愛するお市と茶々、初、江の三人の娘を密かに城外へ逃がした──いわば長政の生涯は、信長の裏切りに翻弄され続けた一生であり、その切腹は、
 「信長よ! それがお前の人の道か!」
 という叫びでもあった。
 直虎は彼の生き方を尊敬の眼で拝す。和をもって国をつくろうとした点、家族を愛し武士の戦いに家族を巻き込まなかった点、天皇にはけっして逆らわなかった点、そして自らの腹を切って最後まで敵に抵抗した点──得体不明瞭な日本人たる者の性を感じつつ、やがて彼の思考は、江戸に入ってからの切腹の歴史を紐解きはじめた。
 まずは江戸初期。
 松平忠吉や結城秀康に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行するといった奇妙な風潮が起こった。集団の殉死自体は中国にも記録が残るから日本固有のものとは言えない。古代中国では王が死ぬと何千、何万という殉死者があった。しかしそれは君主に殉じるというより、民を養うことができなくなった国のやむを得ない手段だったようで、忠≠フ意味合いが強い日本のものとは異質である。伊達政宗の時は連鎖も含めて二十人、細川忠利の時は十九人、将軍徳川家光の時は老中や側近たちが次々と主君の後を追った。これには四代将軍徳川家綱も困って、『天下殉死御禁断の旨』という厳禁令を出したほどである。
 時代が遡ってしまうが、鎌倉時代の切腹にまつわる話を一つ──。
 法華衆の日蓮の弟子に四条金吾という武士がいる。経文に書かれた通りの法難が身に降りかかり続ける日蓮は、国主を諌暁してついに自らの教義の上で発迹顕本に位置づけられる竜の口の法難に臨む。そこでまさに斬首されようとする時、その場に付き従った四条金吾は日蓮の乗る馬の口にしがみつき、
 「われも腹を切らん!」
 と叫んで日蓮と生死を共にしようとした。結局そのときは、空に巨大な光り物(彗星と思われる)が現れて、死刑執行の役人たちは驚愕のあまり日蓮を斬ることができなかったが、後に日蓮はこの時の金吾に対して、
 「かの弘演が腹をさいて主の懿公が肝を入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり」
 と讃える。法華経の行者として切腹しようとした金吾の覚悟を不思議≠ニまで言って絶賛するのである。
 これは腹を切ろうとした武士としての金吾の切腹行為を讃えたわけでない。釈迦の経典に説かれる法難とまるっきり同じことが身に降りかかる日蓮は、最高無上の経典である法華経を身読したわけだが、その自分と生死を共にすることは、正に法華経の行者の証しであり、つまり最高の法≠ノ殉じようとした金吾の信心に対する称賛である。
 このように、ひとたび仏教に目を移せば、薬王菩薩の過去世である一切衆生喜見菩薩が法を聴き、歓喜して仏を供養するため焼身する話や、釈尊の過去世である雪山童子が、羅刹に化身した帝釈天から半偈を聞くため、その身を食べさせることを約して高い木から身を投げる話、あるいは飢えた虎のために身を捨てる捨身飼虎の説話など、法のために命を使う話がたびたび見られる。それらは命を粗末にするといった次元でなく、民衆を救済するための、人の命を尊ぶからこそ生まれた究極の人間の生き方を示しているように見える。ダイヤモンドがダイヤモンドでしか磨けないように、命も命でしか磨けないことを教えようとしているのかも知れない。
 総じて見るに、切腹とは形の上では死ぬための行為に違いないが、けっして死ぬことを目的にしていないことが歴然としてくる。つまり現代人が言うところの自殺とは全く異質のものである。
 ところが現代人は目に見える事象でしか物事を判断できない生き物に退化──というよりそういう教育をする場が皆無であるから物事の本質が分からない。生の尊厳は強調するが、万人が必ず経験することになる死の尊厳については忌み嫌って見向きもしないのだ。
 切腹についていろいろ論じてきたが、結論として、切腹による自死の背景には忠・義≠尽くす目的や己の信念≠ニか自己存在≠示すため、あるいは領民(民衆)≠フため、あるいは法≠フために命を尽くすといった大目的が必ず存在し、人はそのために命を使うことのできる生き物であると言ってよい。
 畜生たる動物はけっして忠・義・法、信念などのために命を落とすことはない。それはつまり人間であることの証明であり、古来より人は、その人間たる光に称賛の拍手を送ってきたのではなかろうか。
 ではなぜ、この切腹というものが、日本においてのみ根付き、その概念が定着するに至ったか?
 それは江戸時代以降、罪人を裁く一手段として、司法の場に取り入れられたためではないかと考えた。つまり切腹の概念が公然化したところに日本人の特色があり、日本人にはそれを受け入れる精神的土壌があった。
 裁くといっても、あくまで罪を犯した者自身が自らけじめをつける武士独自の慣習とか慣例を利用したものであるから処刑≠ニいうものとは一線を画す。とはいえ判決であるからには刑罰に違いない日本民族の曖昧さを露骨に示す一つの例とも言えるだろうが、悪しきにつけ直虎は、切腹≠ニいう概念の奥には少なからず叒≠ニいうものが潜んでいるように思えてならない。
 「切腹とは、生と死の境目を限りなく追及したところにある、日本の武士にだけ天が与えた究極の選択肢──」
 そう納得したが、今ではすっかり形骸化していることに一抹の疑問を覚えずにいられない。
 「切腹の機会は、本来他人から与えられるものでなく、究極において自ら選択すべきものであるはずだ。主君はその機会を与えるのみであり、いわば死刑にすべきを救う最期の慈悲なのだ。決断は本人に委ねることになるが、それで家臣たちが納得するのであれば──」
 と、切腹の沙汰を下す覚悟を自分に言い聞かせた。ところが、いざ式左衛門と要右衛門が最終決断を迫りに来た時、
 「ならぬ──」
 直虎はなおも拒んで二人を困らせた。
 「それでは民が納得しません!」と要右衛門は吠えた。
 「お前はわしより民に従うか? 民が腹を切れと申したら切るか!」
 「殿、聞き分けのないことを申さないで下さい」
 「その覚悟もないくせに軽々しく切腹などと申すな! わしは民が腹を切れと申したら切ってみせるぞ! その覚悟が今できたわい!」
 直虎は激怒した口調で二人を公の間から追い出し勢いよく襖を閉じた。そして暫く床の間に向かって目を閉じていたが、やがて密かに家臣のひとり柘植宗固を呼び寄せた。
 「お呼びでございますか」
 宗固は影のように姿を現わした。
 「宗さん、すまんがこれから須坂に飛んでくれ。これから告げることは要右衛門にも式左衛門にもけっして悟られてはならん、よいな」
 と小声で密命を伝えると、宗固は煙のように消えた。それから直虎は墨をすり、さらさらと切腹の沙汰を言い渡す書状を書き付け、
 「これで満足か!」
 式左衛門に投げつけるように手渡したのだった。
 こうして十二月二十九日付で、野口源兵衛、河野連、野口亘理、広沢善兵衛の四人に対し、その厳粛な沙汰を言い渡す。更に、彼らに付き従った者に対して、永久追放二十一名、藩籍剥奪十一名、隠居言い渡し一名等、処罰対象者合計三十九名に最終判決を言い渡し、その役員の総入れ替えとして、要右衛門を郡代席側用人に、北村方義を藩校立成館の教授にするなど、前代未聞の大規模な藩政改革が断行される。
 一方で、直虎本人に直訴した民蔵の処分も話し合われたが、
 「一連の事件のとどのつまりは執事らが邪であったことが全てであろう。民蔵に罪はない。後に同じような事があった時、上に意見を申しやすくするため、お咎めはなしということでどうか?」
 直虎はさあらぬ体で言った。それには家臣たちも納得して、土屋坊村事件の顛末は、その後、紆余曲折はあったものの間もなく収拾の方向へ動いていく。
 切腹の儀式は、年が明けて文久二年(一八六二)正月五日の夜に行われることとなった。ところが直前になって興国寺、普願寺、浄念寺の住職らが助命嘆願を申し出たため、四人は九死に一生を得、藩籍剥奪、永久追放の上、同寺院にお預けの身となる。
 三権分立ではないが、中世から近世の日本では武家・寺社・公家はそれぞれ独立したある種の権力を持っている。特に民事における寺社の権限は強く、それを利用して切腹の沙汰を無効せしめようと柘植宗固を使って住職らに助命の耳打ちをしたわけだが、報告を受けた直虎は、
 「そうか……」
 と呟き、遠くを見つめたきりだった。
 
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(七)(ほう)けもの()けもの
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 東京都台東区三ノ輪に『大関横丁(おお ぜき よこ ちょう)』と呼ばれる一角がある。
 江戸時代、その付近に下野国(しもつけのくに)黒羽藩(くろ ばね はん)大関家(おお せき け)の下屋敷があったことからそう呼ばれるようになったと伝わるが、そこの第十五代藩主大関増裕(おお せき ます ひろ)は、直虎の母(しず)の兄である西尾忠宝(にし お ただ とみ)の実の子で、大関家の養子となって家を継いだ。つまり直虎とは従兄弟(い と こ)関係になる。
 『大関横丁由来の碑』に刻まれた文には、「黒羽藩第十一代藩主大関増業(おお せき ます なり)は、智徳兼備(ち とく けん び)英傑(えい けつ)にして藩政を教育で行い、自ら一千余巻の書を著した。特に著書『止戈枢要(しかすうよう)』は科学的編纂法(へん さん ほう)による構想が雄大で内容が充実しており、世界に誇るべき不朽(ふ きゅう)の名著と云われる。在職十三年の後この箕輪(みの わ)の別邸に住み、歌道や茶道等に精通して人心救済(じん しん きゅう さい)のため筆を振るったが、弘化二年(一八四五)六十五歳の生涯を終った」とある。
 増業(ます なり)が十一代だから直虎の従兄弟増裕(ます ひろ)はその四代後の藩主ということになるが、どういうわけか増業(ます なり)以降彼も含め、代々そのほとんどが養子によって家をつないできた家系でもある。特に増裕(ます ひろ)の養父増徳(ます よし)(十四代藩主)は、安政三年(一八五六)に末期養子(まつ ご よう し)として家督を相続した経緯があり、十二代藩主増儀(ます のり)の娘於鉱(お こう)(十三代増昭(ます あきら)の妹)を正室とした。末期養子というのは、嗣子(し し)のない当主が事故や急病などで急死した場合、家の断絶を防ぐため緊急に縁組された養子のことで、そうせざるを得なかったのは、十三代藩主増昭(ます あきら)が二十三歳の若さで急死したためである。
 この増昭(ます あきら)だけが唯一実子による家督相続だった点も気になるが、十四代藩主となった増徳(ます よし)は、その四年後於鉱(お こう)と離婚してしまうのだ。よほど仲が悪かったか、あるいは継室がいるところを見るとそちらとの愛を貫こうとしたものか、いずれにせよこの行動に対して家臣たちが「藩主による御家の乗っ取りだ!」と騒ぎ出した。家老たちはその騒動を抑えきれず文久元年(一八六一)一月、増徳(ます よし)を座敷牢に監禁してしまった──そんな経過から直虎の母(しず)の実兄西尾忠宝の第二子だった西尾忠徳(にし お ただ のり)が、形の上では於鉱(お こう)を正室とし、実質は十二代増儀(ます のり)の長女待子(まち こ)の方を妻として養子に迎えられ、大関増裕(おお せき ます ひろ)を名乗ってこの年の十月、家督を継いだというわけだった。
 年齢は直虎より二つほど年下だが、予てからのお家事情の心配から養子を迎える手を尽くしていたところ、
 「ついに見つけた」
 と養嫡子を連れて、正月の挨拶がてら須坂藩下屋敷の叔母のところへお披露目にやってきた。母からは、
 「正月くらい顔を出しなさい。直武は病気療養中で父様(ちち さま)だけでは心配だから」
 との伝言を受けていた直虎だったが、藩政改革の残務も忙しい中、年頭といえばどうしてもはずせない須坂藩にとって重要な行事があった。蜂須賀家阿淡(あ たん)二ケ国二十五万七千右の大守が、毎年()()げて須坂藩邸までわざわざ祝賀を述べに来るのである。
 石高でいったら二十五倍、なぜそのような奇妙なことが行われているかといえば、その発端は戦国末期にまでさかのぼる。
 須坂藩主初代直重は、豊臣家臣だった父の内命によって徳川秀忠に仕えていた。関ヶ原の戦いを経、元和元年(一六一五)の大坂夏の陣に際し、秀忠家臣土井利勝の軍に属した直重は、先鋒として天王寺表に突き進み城将毛利勝永軍と戦った。このとき同じ徳川方の一将だったのが蜂須賀彦右衛門家政で、一番槍を競って直重は自ら矛を執り憤激した末ついに敵将を討ち取ったのだった。他の将兵も力戦して兜首三級を得たのだが、蜂須賀軍は城兵に切り崩されて手柄を挙げられずに敗走し始めた。するとそれに乗じて敵が押し寄せ、蜂須賀家の丸に万字(卍)≠フ軍旗を奪って城中に戻ろうとする者があった。敵に軍旗を奪われることは武将にとって最大の屈辱である。蜂須賀家政は驚いて、
 「すぐに取り返せ!」
 と雄叫びを挙げたが、もはや意気消沈の蜂須賀軍にそんな勢いは残っていなかった。
 その時、その光景を見るなり汗馬を馳せて、城門際でその旗を奪い返したのが直重だった。その大胆で知略に富んだ勇ましい姿は、蜂須賀家政はもとよりそこにいた者の耳目を驚かせた。はるか遠くで見ていた徳川家康も例外でなく、
 「あれは誰なるや?」
 と問えば、近くにいた秀忠の小姓が、
 「堀大学直重にございます」
 と答える。それがきっかけで直重は軍中において初めて家康と御目見えし、さらに凱旋の後、軍賞として四千五十石余りを与えられたのである。
 そして軍旗を家政に返しに行った時、
 「こたびの働き、感謝の言葉もありません。よろしければ当家の紋を自由にお使いください。軍功の印です」
 と、当主自ら頭を下げて礼を尽くしたのである。それを機に須坂藩は蜂須賀家と同じ丸に万字≠家紋に用いるようになった。更に蜂須賀家政は礼の上に礼を尽くす。間もなく黄金に彩られた大鎧に赤地の皮胴七子塗のヌメ皮着せ、細かな装飾を施した相引の緒がついた鎧一式が直重のもとに届けられ、そこにはことごとく丸に万字≠フ紋が刻まれていた。そして丸に万字の鎧は堀家の家宝となった。
 ところが二代目直升の代になり、
 「蜂須賀家と同紋とはおこがましくなかろうか? 先方が気の毒じゃ」
 と言って、もともと亀甲花菱≠セった堀家の家紋の亀甲≠、丸に万字≠フ丸≠ノ変え、亀甲万字≠堀の家紋と改めた。以来それが須坂藩の紋となって今に至る。
 そればかりでない──蜂須賀家政の義心は更なる上に、
 『蜂須賀家よりは子々孫々廉略にすべからず』
 との一書を書き残したために、毎年年始めになると、蜂須賀家の藩主、家老が堀家に訪れて新年を祝い、両家の間ではそんな慣習が息づいたのだった。
 その日は藩を挙げて万端準備を整え、家宝の丸に万字の鎧を祀って酒宴を催す。忙しい時にはなんとも面倒な堅苦しい式典であるが、そんな義理堅い話が直虎は嫌いでない。
 さて、蜂須賀家一行を見送った直虎は、母の伝言を思い出して下屋敷へ向かった。そこにいたのが、
 「大関泰次郎と申します。以後お見知りおきを」
 家人の前で顔見せしたのはまだ十二歳ほどの少年で、周囲をきょろきょろしながら、別段かしこまった素振りも見せず、どちらかと言えば厚顔な態度で名乗った。およそ若さに裏打ちされた怖いもの知らずのうつけ者か、突然義理の従甥(いとこ おい)となったいたずら小僧のような様子に「昔のわしを見ているようだ」と直虎は心の中で笑んだ。
 実父は常陸(ひたち)府中(ふ ちゅう)藩主松平頼説(まつ だいら より ひさ)の五男谷衛滋(たに もり しげ)庶子(しょ し)だと増裕(ます ひろ)は紹介したが、酒が振る舞われた途端、給仕に出入りする直虎の妹である緑と房をつかまえ酌をさせると、
 「可愛い、可愛い、嫁に来ぬか?」
 と口説き始める始末。これには静も増裕も戸惑って、ただただ笑って場を繕うしかない。
 「ときに従叔父上(おじうえ)様は須坂藩の藩主と聞きましたが、嫁はどのお女中でございますか?」
 泰次郎は直虎に目配せして聞いた。
 「なぜかな?」
 「さすがに殿の室に手を出してはまずかろうと思いまして」
 と泰次郎は粗略に笑った。別に悪気があって言ったのではあるまいが、父の直格は気分を害して勢いよく立ち上がると、「仕事がある」と荒々しく部屋を出てしまった。
 「いやぁ、申し訳ござらん。まだ礼儀も作法も知らないようだ。若すぎて精力の方があり余っているのです。早く嫁を見つけてやらねばなりませんな!」と増裕(ます ひろ)は赤面して頭を掻いたが、
 「面白いことを言うのぉ。藩主になったばかりで嫁どころでないわい」
 直虎は不快な表情ひとつせず、呵々大笑して彼の脇に移動し酒を勧めた。
 「今日より泰次郎≠ニ呼ばせてもらうぞ。錦絵の春画ばかり見ていそうな顔をしておるのぉ」
 「分かりますか?」
 その臆面(おく めん)もない即答に「正直なやつだ」と直虎は腹を抱えて笑った。
 「写真鏡(しゃ しん きょう)というものを知っておるか?」
 「写真鏡……? なんでございます?」
 「読んで字のごとく(まこと)を写し撮る鏡じゃ。見た物そのままを紙に写す西洋の機械だ」
 一八三九年にフランスの画家により発明された写真機が日本に入ってきたのは一八四三年のことである。もっともそれはオランダより持ち込まれた銀板写真機で、国内産で最初の撮影に成功するまでには更に十四年の歳月を必要とした。佐久間象山も安政の初めにはすでにカメラを持っていたとされ、松代に蟄居中はその研究に没頭して自作の写真機まで作り上げた。オリン・フリーマンが日本最初の写真館を横浜に開いたのは一八六〇年のことで、文久元年(一八六一)のこの年は、フリーマンより機材を購入した鵜飼玉川という男が、薬研堀(東京都中央区東日本橋辺り)で日本人初の写真館を開いたと噂になった。しかし当時の日本人には絵にしては緻細すぎる表現が受け入れがたく、「魂が抜き取られる」と不気味がって、実物を見た者はまだまだ稀有な時代である。
 「それがどうかしましたか?」
 泰次郎は興味がないというどころか、口を揃えたように西洋化を語りはじめた世のお偉方たちの説教など聞くのは御免だというように盃の酒を飲み干した。
 「鈍いやつじゃのう。写真鏡で女子を写してみよ。春画など物足りず二度と見なくなるわい」
 泰次郎は俄かに目の色を変えて「本当か?」と直虎を凝視した。
 「一妙開程芳(いちみょうかいほどよし)も腰を抜かすぞ」
 一妙開程芳は春画を描く時のペンネームで、昨年三月に逝去した超売れっ子絵師歌川国芳のことである。
 「今はちと金がなくて買えんが、いずれわしは写真鏡を買うつもりじゃ。そしたら泰次郎にも貸してあげてもよいぞ」
 直虎にとって彼を手玉に取るのは雑作もない。泰次郎は生唾を飲み込んで「兄貴、まあ飲んで下さい」と態度を翻して、自分の盃をまた飲み干し返盃を繰り返すと、まるで舎弟にでもなったかのように喜んだ。直虎は、また可愛い弟が一人できたようで嬉しい。

 もう一人、九鬼長門守隆義(く き なが との かみ たか よし)とは正月の登城(と じょう)の際、江戸城『(やなぎ)()』で知り合った。昨年十二月、従五位下長門守(じゅう ご い げ なが との かみ)叙任(じょ にん)された直虎だが、従五位および無官の外様(と ざま)大名の寄合(より あい)の場となっている『柳の間』は、もっぱら翌月の十一日に行われる予定の将軍家茂(いえ みつ)和宮(かずのみや)の祝言の話題でもちきりだった。将軍拝謁(はい えつ)までの時間を待っている最中、向こうの方から、
 「同じ長門守ですなあ」
 と、気さくに声をかけてきたのである。
 大名の苗字(みょう じ)と下の名の間に「○○の(かみ)」とか「○○の(かみ)」とか「○○の(すけ)」とかあるのはみな『武家官位(ぶ け かん い)』といって将軍から承認されただけの実態のない肩書(かた が)きのようなものである。歴代の堀家の当主は淡路守(あわ じの かみ)や長門守、あるいは内蔵頭(く らの かみ)等を名乗る者が多かったが、兄の直武は長門守を名乗った。そこに朝廷へ何十両ばかりの金を払えば叙爵(じょ しゃく)が下り従五位下などの(くらい)が付く──ちなみに位が高いほど金もかかる。
 それはさておき武家官位というのはもともとは律令制度(りつ りょう せい ど)から生まれてきたものだが、江戸初期に定められた『禁中並公家諸法度(きん ちゅう ならびに く げ しょ はっ と)』で「武家の官位はその職の定員外とする」とされて以降、朝廷とは切り離されたいわば単に武士の格式を示すものとなった。六代将軍家宣(いえ のぶ)より全ての大名に授けられるようになったため今では記号同然だが、官位で名を呼ぶと箔が付くというメリットがあるほか、本名を呼ぶに(はばか)れるときなど(いみな)としての役割を果たすので彼らにとっても重宝(ちょう ほう)している。しかし「国名」に「守」が付く官位というのは、律令制の国の数が全部で六十八ヶ国であるのに対し、大名の数がこの幕末では二五〇以上もあるから、「内匠頭(たくみのかみ)」とか「図書頭(ずしょのかみ)」とか「右京大夫(う きょう だ ゆう)」などの朝廷の官職名をもらう者も多く出てきてはいるが、おのずと重複(ちょう ふく)してしまうのだ。
 「ということは貴公(き こう)も?」
 「拙者(せっ しゃ)、九鬼長門守隆義と申す。以後、よろしゅう」
 と言って、面長(おも なが)精悍(せい かん)な顔つきの男は直虎の隣に座った。
 九鬼隆義(く き たか よし)は安政六年(一八五九)十二月、先代藩主の急逝(きゅう せい)により養嗣子(よう し し)となって跡を継いだ摂津国三田藩(せっ つの くに さん だ はん)第十三代の当主である。九鬼家といえば熊野水軍(くま の すい ぐん)で有名な志摩(し ま)の出で、戦国時代は織田水軍として活躍した九鬼嘉隆(く き よし たか)()とする。関ヶ原の戦いで嘉隆は豊臣方に付き、子の守隆(もり たか)は徳川方に付いて争うが、西軍の敗北により父嘉隆は自刃(じ じん)する。家康は守隆に鳥羽(と ば)城と志摩領五万六千石を与えたが、更にその息子の代になって家督(か とく)争いが勃発(ぼっ ぱつ)した。その騒動をおさめるため幕府は、家督を継いだ弟の久隆(ひさ たか)に摂津国三田三万六千石を、兄の隆季(たか すえ)丹波国綾部(たん ばの くに あや べ)二万石を与え収拾させるが、ここにおいて九鬼氏は二つに分裂することになる。だから宗家(そう け)から数えると隆義(たか よし)は十四代ということになり、年は直虎より一つ下だが、藩主としては二つ先輩の彼は、優しげな目付きの奥に鋭い眼光(がん こう)を隠し、どこか愛嬌(あい きょう)のある直虎と並ぶと、なにやら滑稽(こっ けい)さを(ただよ)わせた妙なコンビが成立したように見えた。九鬼はにこやかに笑いながら、
 「派手(は で)な藩政改革をやったそうですな」
 と、興味津々な様子で言った。
 「こりゃまたずいぶんと耳が早い。いったいどこで?」
 「あちこちで(うわさ)ですよ。四〇人もの藩政首脳陣を一掃(いっ そう)した上に、このご時世、年貢免除(ねん ぐ めん じょ)、藩の貸金(かし きん)棒引(ぼう び)き、御用金(ご よう きん)献金(けん きん)免除なんて思い切ったことをやりなすった。うちの国でやったら(そく)財政破綻(は たん)だ」
 「一万石の小藩だからできたのです。おかげで私は文無(もん な)しですが」
 直虎は空っぽの銭入れを出して振って見せた。
 「しかし諸外国が来てより藩政改革は急務。私も何かせにゃいかんと思っているのですが、何をどうしてよいやら? 堀殿は、次は何をなさるおつもりか?」
 (にわ)かに九鬼の眼が光ったのを直虎は見た。この男もめまぐるしく変化しつつある時代の中で、危機感にも似た何かを抱いているようだ。直虎は(おだ)やかな口調で、
 「西洋化ですな」
 と呼吸をするように答えた。
 「西洋化……? と申しますと?」
 「さしずめ藩の軍備体制に西洋の方式を取り入れたいと考えています」
 「西洋の方式といったら、皆で足並みを(そろ)えて(いくさ)をする隊列型(たい れつ がた)アレかい? ライフル銃や西洋の大筒(おお づつ)も必要だろう? 雷管式(らい かん しき)(じゅう)(ゲベール銃)一挺(いっ ちょう)だけでも十両はするんじゃないか? こりゃずいぶん金がかかりそうだ」
 九鬼は夢物語でも見るように苦笑いを浮かべた。
 「そこが問題です。だが、金のあるなしに(しば)られて生きることほど窮屈(きゅう くつ)なことはない」
 直虎は他人事(ひ と ごと)のように笑った。
 「ちと(かわや)へ参らぬか?」と九鬼が言う。
 「拙者、尿意はもよおしておりませんが」
 「城内表を出歩くのさ。そうでもしなきゃ格上の大名とお知り合いになれないぞ」
 九鬼はそそくさと立ち上がり部屋を出たので、直虎もそれに続いた。すると案の定、(けわ)しい顔つきをした四十(じ じゅう)くらいの男とすれ違う。
 「これはこれは図書頭(ず しょの かみ)様、相変わらず(むずか)しい顔をしておりますな」
 九鬼は親し気に話しかけると、図書頭と呼ばれた男は直虎を一瞥(いち べつ)して目礼した。九鬼の説明によれば、彼は名を小笠原長行(お がさ わら なが みち)といい、唐津藩(から つ はん)譜代(ふ だい)六万石の世子(せい し)帝鑑之間(てい かん の ま)詰めの大名であると言う。昨年五月に江戸に来てより図書頭を名乗って幕府の仕事を頼まれているそうで、時代は少し下るが、第二次長州征討の際、北九州は小倉に陣を構え、長州──否幕末の異端児あの高杉晋作と下関で矛先を交えることになる男である。
 ちなみに唐津藩は肥前(ひ ぜん)にあり、佐賀藩などと並んで幕府直轄領(ちょっ かつ りょう)である長崎奉行を助ける役割を(にな)っていた。その特権として長崎貿易を認められていたため、表向きは六万石と称されるが、その実高(じつ だか)は二十万石を越えるとも噂される大金持ちである。そのやや複雑な藩内の利害と勢力関係の中で紆余曲折(う よ きょく せつ)はあったが、現在の藩主小笠原長国は、聡明(そう めい)な二歳年上の長行を養嗣子に迎え、藩の実権を(ゆず)っていた。そのため世子でありながら幕府の公務に就く機会を得ているのである。
 「図書頭様はいずれ老中(ろう じゅう)になるお人だ」
 と九鬼は言った。何を根拠にそう言ったかその時の直虎には分からなかったが、生真面目(き ま じ め)すぎるその風貌(ふう ぼう)の中に、「老中とはかくあるべき」という印象を持ったのは確かだった。長行は目をキッと狭めると、
 「立ち話でつまらぬことを申すな。老中は幕府が決めることだ」
 九鬼はごまかしの愛想笑(あい そ わら)いを浮かべてすかさず脇に立つ直虎を紹介した。すると、
 「攘夷(じょう い)などとは全く馬鹿(ば か)げている。そなたはどう思う?」
 突然直虎に問いかけた。
 「私は松平忠固(まつ だいら ただ かた)様の影響を強く受けておりまして、(はな)から開国派です。海外と貿易を成し、一刻も早く藩内の軍備体制を西洋化したいと考えております」
 「堀殿は金もないくせにそういうことを簡単に申す男でして──」
 九鬼がそう言いかけた時、
 「金がないのか? 貸してやってもよいぞ」
 と、長行は直虎の双眸の輝きの中に何を見たのか、西洋化のために金を貸すのは当前のことのように言った。直虎にとっては願ってもない言葉である。
 「そのかわりに一つ条件がある。再来月(さ らい げつ)の頭にはお(ひま)をいただき、わしは唐津へ戻らねばならん。しかしいかんせんまとめねばならん書類が山積みで間に合いそうもない。手伝ってくれぬか?」
 直虎は「私でよろしければ」と頭を下げた。それにしても藩の西洋化にかかる莫大な費用をいとも簡単に「貸す」とはどういう男か。
 「では今日からでも手伝いに来てくれ」
 長行はそう言い残すと、何事もなかったかのように立ち去った。瓢箪から駒とはこのことで、九鬼とのひょんな出会いから、長行からの資金援助を取り付けたのである。
 その日の午後、九鬼を伴った直虎は、外桜田永田町(がい さくら だ なが た ちょう)にある唐津藩上屋敷邸内の別殿(べつ でん)にやって来た。そして、部屋に無造作に散らかる書類の山を見て愕然(がく ぜん)とした。
 「ではさっそく長門守殿──」と長行が言ったので、直虎と九鬼は同時に「はい」と返事をした。
 「なんじゃ? 二人とも長門守では紛らわしい。どちらか官位名を変えたらどうか?」
 二人は顔を見合わせて、
 「ならば堀家の当主は内蔵頭(く らの かみ)≠名乗ったこともありますので、私の方がお(うかが)いを立ててみましょう」
 と直虎が言った。長行も「その方がわしの手伝いをする文官らしい」と言ったので、この年から内蔵頭≠ニいうのが直虎の通称となる。
 手伝いを始めた彼は、書類の中に『西洋流町打(ちょう うち)之事』と書かれたメモのような紙きれを見つけた。町打というのは銃や大砲の射撃発砲を修練することである。それが西洋流とあらば、もはや心をくすぐられずにおれない。「これは?」と聞けば、「西洋流の大砲を作らせて実験しているところだが、なかなかうまくいかないのだ」と長行は隠す様子もなく答えた。
 西洋式の大砲については既に十年ほど前、まだペリーが来航する以前、佐久間象山が蘭学書に書かれた原理の見よう見まねで鋳造し、発射実験も成功させていたが、完全というにはほど遠く、命中率も格段に低かった。幕府内でも嘉永六年(一八五三)以来、勅命を受けて国防のため寺の梵鐘を溶かして大砲を鋳造するよう命じる『毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)勅諚(ちょくじょう)』を発令し、開発に取り組んではいるものの、まだまだ端を発したばかり、江戸市中にはそうした洋式砲術を教える兵学者もいたが、その必要性を感じている者は人口の比率でいえば皆無と言ってよい。
 「唐津藩ではすでに西洋流の軍備を進めておられるか?」
 直虎は思わず声を挙げた。
 「何を驚く、遅いくらいじゃ。長州藩の屋敷には連日大砲操練(そう れん)の兵士達が盛んに出入りしているそうだ。もっぱら攘夷(じょう い)を図っているとの噂だが、そうはさせん」
 直虎は大きな(あせ)りを覚えるとともに心躍(こころ おど)った。攘夷とか戦争といったものに対してでない。大きく動き出した時代のうねりにである。
 「図書頭様のお知り合いで西洋兵学を教えてくれる者はおりませんか? ぜひご紹介願いたい!」
 その勢いに押されて今度は長行の方が驚いた。「なんだ?こやつ」といった表情で見つめ返すが、愛嬌のある笑みの中にほとばしる情熱を見て取った彼は、やがて静かに何人かの名を挙げた。
 「赤松小三郎(あか まつ こ さぶ ろう)というのがいる。確か上田藩士と思ったが、以前長崎の海軍伝習所(かい ぐん でん しゅう じょ)に顔を出したとき、勝海舟と一緒にいた男だ。オランダ人から直接数学や兵学、航海術を学んで、そのときすでにオランダの兵学書を翻訳しておった。聞くところによれば今は家督を継いで国許におるそうじゃ」
 その名は直虎も知っている。島田剣術道場で出会った勝海舟の講演の中でも何度か出て来た名だが、彼が須坂のすぐお隣の上田藩士だったとは驚きだ。
 「それと──」と長行は続けた。
 「洋学を学ぶなら加賀藩士の佐野(かなえ)がよかろう。もともとは駿河の郷士の出だが、西洋砲術の腕を買われて前田家の家臣になった男だ。二年前、遣米使節団に随行し、今は遣欧使節として竹内下野守殿と共にエゲレスへ渡航中だったかな? あいつもひときわ目立った西洋通じゃ。将来きっと何かやらかすに違いない」
 直虎はその二人の名を記憶した。
 ()しくもこの日、小笠原図書頭長行との出合いによって、西洋化への確かな道筋を描いたのである。そして、(わき)で話を聞いていた九鬼隆義もまた、なにやら頭上で激しく回転しはじめた世の中の趨勢(すう せい)(あお)られながら、密かに西洋化への藩政改革を決意していた。
 
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(八)十六連発銃
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 藩主になって世界が変わった。
 (いな)──変わったというのは実感で、実際は付き合う人間の幅が広がったわけであり、以前の付き合いといえば家人とその人間関係の中でのみの生活だったのが、ひとたび藩という囲いを飛び出せば、そこは心ある者たちが西洋というものに目を据えて生きる志士たちの住処(すみ か)であった。
 打つ手がひとつ遅れれば、取り返しのつかない遅れをとっていたかも知れないと思うと、父が藩主を交代させた意味が、単に直武の身体を心配したわけでなく、何か別のところにあったのではないかと思えてくる。
 小笠原長行(お がさ わら なが みち)と出会ってより、家臣が心配するほど寸暇(すん か)を惜しんで唐津藩(から つ はん)屋敷の別邸に出入りし業務を手伝う中で、人の出入りの多さに驚かされながら、中には浪人風情の者までやってきては、長行と密談を交わしているのを横目で見ているのである。
 そんなある日、
 「内蔵頭(くらのかみ)殿、ちょっと使いを頼まれてくれぬか? これを芝新銭座(しば しん せん ざ)大小砲(だい しょう ほう)習練場(しゅうれんじょう)に届けてほしい」
 と一通の書状を手渡された。
 「して、どなたに?」
 「江川太郎左衛門(え がわ た ろう ざ え もん)殿に届くようしてくれ。まあ急いでいるわけでないから調練(ちょう れん)の様子など見聞して来てもよいぞ。いろいろ学ぶこともあろう」
 直虎は書状を(ふところ)にしまい込んで別邸を出た。
 江川太郎左衛門とは伊豆韮山(い ず にら やま)の代官を務める江川英敏(ひで とし)のことである。彼の父江川坦庵(たん なん)は、国産反射炉(はん しゃ ろ)の基礎を築いた西洋砲術の草分けである。
 幕府の代官というのは天領(てん りょう)に置かれる旗本の役人で、大きな幕府直轄領(ちょっかつりょう)の代官ともなれば数万石の大名と同程度あるいはそれ以上の統括力を持っている。坦庵(たん なん)の管轄は武蔵(むさし)相模(さがみ)、伊豆、駿河(する が)甲斐(か い)の五か国にまたがる十万石に及ぶ領地で、若い頃は世直し江川大明神(だいみょうじん)≠ニ呼ばれるほどの手腕を発揮してきたが、時折来航する外国船に対して必要以上の警戒をしなければならない土地柄でもあった。そのため蘭書(らん しょ)を読み兵学を学び、西洋における軍事手法を研究していた。
 天保十二年(一八四一)、当時西洋砲術の最先端ともいえる長崎の高島秋帆(たか しま しゅう はん)が西洋砲術による実地演習を成功させると、その脅威を目の当たりにした幕府は、西洋砲術を習得させるため坦庵を秋帆の門に入門させ、やがて高島流西洋砲術を皆伝(かい でん)された坦庵は『韮山塾(にら やま じゅく)』を開設する。そこには高島秋帆の西洋砲術を学ぼうとする幕臣や諸藩の藩士が数多く集まり、中には佐久間象山をはじめ大鳥圭介や橋本左内、桂小五郎などの名も見られる。
 彼の持論は、
 「歩兵・騎兵・砲兵の三兵を柱とする西洋式の軍制にもとづき、西洋式の小銃・大砲を導入し、それらの火器を集団的に運用すべき」
 とするもので、単なる理論でなく実践において西洋式砲術を習得しようと試みた。
 嘉永六年のペリー来航を契機に勘定吟味役格海防掛(かんじょうぎんみやくかくかいぼうがかり)に任じられた後、江戸湾防備の実務責任者として奔走することとなり、幕府から江戸内湾への台場築造(だい ば ちく ぞう)とあわせて反射炉の建造の許可を得た。『反射炉』とは不純物を多く含む銑鉄(せん てつ)を溶解して優良な鉄を生産するための炉で、その技術は十八世紀から十九世紀にかけてヨーロッパで発達したものだが、天保年間には長崎の高島秋帆が輸入した蘭書などを通じて日本にも伝わっていた。より安価で大量の大砲を製造するためには絶対的に必要な設備だったのだ。
 ところが激務による無理から病気になり、安政二年正月、坦庵はその竣工(しゅん こう)を見ることなく他界する。そして、その意志を継いだのが子の江川英敏で、幕府から芝新銭座に八千数百坪の土地を下賜(か し)され、その地に大小砲専門の演習場と付属の建物が設置されるに至る。
 つまり幕末における西洋砲術の系譜は、高島秋帆による大成から江川坦庵への伝授、そして坦庵の『韮山塾』からの弟子の輩出、更に坦庵死後はその弟子たちによる芝新銭座大小砲習練場からの普及という一つの構図が成り立つ。
 とはいえ文久に入った今になっても、西洋砲術と言ったところで攘夷派や一般民にとってはまだまだ関心は薄く、ようやく普及の途につきはじめた時分である。
 長行の別邸から芝新銭座の大小砲習練場までは、外濠(そと ぼり)に架かる新シ橋を渡って道なりに進み、距離にして一里もない。近くには将軍の別邸浜御殿(はま ご でん)があるが、幕臣といっても御門警備の分際では、幕府の軍事演習の現場などチャンスがない限り施設に近付くこともない。その道のりを要右衛門を伴にした直虎は、西洋の小銃や大砲の調練の様子を見聞できる幸運に胸をわくわくさせた。すると、
 「アニキ!」
 聞き覚えのある声に振りむけば、三頭の馬にまたがった三人の家族連れ。声の主は歌舞(か ぶ)いた衣装に身をまとう、年頭に出会った大関家の跡取り泰次郎で、後ろには西洋を真似た正装姿の大関増裕(おお せき ます ひろ)とその妻待子(まち こ)が並んで、少し照れくさそうにしていた。主君の親戚の登場に、伴の要右衛門はその場にひざまずいた。
 「こりゃ(まっ)さん、どうしたその恰好(かっ こう)は? おや、髪型を変えたか?」
 直虎は月代(かさ やき)(頭髪を()りあげた部分)のせまい増裕の丁髷頭(ちょんまげあたま)を見て言った。
 「最近、なんでもかんでも西洋、西洋だ。わしもあちらさんに習って、ちと髪を伸ばしてみようと思ってな……」
 増裕はまだ生えかけの月代(さか やき)部分を()いて苦笑い。これより後、『講武所髷(こうぶしょまげ)』と呼ばれるその髪型は江戸で大流行することになる。そんなことより目を引くのは、当時女性の馬術などほとんど稀有(け う)な時代にあって、隣で同じように馬にまたがっている待子の凛々(り り)しさで、このとき色香(いろ か)漂う二十三の彼女を直虎は()()れと見つめた。
 「巴御前(ともえごぜん)かとみまごうたわい」
 「織田家から鈴木勘右衛門(かんえもん)殿を屋敷に招いて、愚妻(〇 〇)長足流馬術(ちょう そく りゅう ば じゅつ)稽古(けい こ)をさせておるのです。それでも最近ようやく板についてきましたかな?」
 増裕は待子を自慢げに見つめて「かかかっ」と笑った。
 「まあ、愚妻(ぐ さい)なんてヒドイっ」
 馬上から(にら)む待子の視線上にある増裕の顔を、直虎は少し(うらや)まし()に見つめた。
 「仲のよろしいこった。で、どうしてかようなところに?」
 増裕は思い出したように事情を話し出す。
 「須坂藩邸に行ったら外桜田(がい さくら だ)の唐津藩邸に行ったというから来てみたのさ。会えてよかったよ」
 「急ぎの用かい? それにしたって家族連れでその仰々(ぎょう ぎょう)しさは、何かめでたい事でもあったかな?」
 「実は、このたび講武所奉行(こう ぶ しょ ぶ ぎょう)″に任じられ、今日はその報告と挨拶に来たのだ」
 「こ、講武所の奉行に?」
 直虎は思わず声を挙げた。『講武所』とは幕府直轄の兵学校のことである。ペリー来航に伴い浜御殿の南側に四町の大筒操練場(おお づつ そう れん じょう)が作られたのが始まりだが、正式に発足したのは安政三年(一八五八)で、間もなくその場所は軍艦操練所(ぐん かん そう れん じょ)となり、組織改編に伴って洋式調練や砲術を教授する『講武所』は神田(かん だ)に移された。その奉行に抜擢(ばっ てき)されたとは、ほぼ同時期に藩主となった従兄弟(いとこ)にして随分な出世のしようである。
 「それはおめでとうございます!」
 「忙しくなってからでは挨拶もままならないと思い、いち早く知らせに参ったしだい。(なお)さん、これからはなにもかも西洋に見習わなきゃいかん。遅れをとるな」
 「そりゃご丁寧に。こんな所で立ち話も難だ、茶屋にでも入るか?」
 「それには及ばん。まだ回るところがある。(なお)さんも用事の途中だろ?」
 増裕は「ドウっ!」と叫ぶと馬を回した。それに従おうとした派手な衣装の泰次郎の腕を(つか)んだ直虎は、「またゆっくり遊びに来い」と早口に伝えた。
 「そうします。実はおいらもアニキに相談があるんです」
 「金の相談以外なら何でも申せ」
 「これです……」
 泰次郎は右手の小指を立てて頭を掻くと、三人は慌ただしそうに立ち去った。
 こんなふうに大関増裕は、暇を見つけては時折待子と(くつ)を並べて、江戸市中を馬で遠乗りするのが楽しみだったと伝わる。その派手々々しさに驚嘆の目を見張った市中の人々は、後にこんな狂歌(きょう か)落首(らく しゅ)にして通路の板壁に貼りだした。

 夫婦して江戸町々を乗りあるき異国の真似する馬鹿の大関

 「あれは報告に来たというより馬に乗れる嫁さんを見せびらかしに来たのですなぁ。それにしたってあの息子のていたらくは何たる様……」
 要右衛門が膝の砂を払って立ち上がった。
 「親と一緒に挨拶まわりとは、泰次郎にしては上出来じゃ」
 二人は西洋風を装った夫婦と歌舞伎役者まがいの様相をした息子のアンバランスな家族の後ろ姿を見送った。

 江川英敏(ひで とし)の屋敷は大小砲習練場敷地内東側にあり、すぐ隣の習練場からはときたま大きな号令とともに鉄砲のパンパンという耳をつんざく音が響いていた。到着した直虎は門番の男に主人の在宅を確認して「小笠原図書頭(ずしょのかみ)様の使いで参りました」と告げると、門番の男は直虎と要右衛門の身なりを注意深く観察してから、腰の刀を預かり「どうぞ」と中に招き入れた。直虎は要右衛門を外で待たせると、そのまま屋敷内へと入った。
 はたして客間で姿を現したのは二十代半ばの目付きの鋭い面長(おも なが)な貴公子で、
 「江川太郎左衛門英敏と申します。図書頭様から何でしょう?」
 と対座し、直虎も名乗って頭を下げて、懐から書状を差し出すと、英敏はその場でさらりと黙読し始めた。
 坦庵から家督を継いで今年で七年目になる英敏は、父の事業の全てを引き継ぎ完成へと導いた敏腕(びん わん)である。一端は閉門となった韮山塾(にら やま じゅく)を再開させ、習練場は多くの門下や、小銃や大砲術を学ぶ幕臣たちで賑わい、そこで学んだ人数は延べで三千人とも言われる。幕府からは鉄砲方という職務を任されていたため、昨年の五月には同門の鉄砲組を率いて日本初のイギリス公使館になっていた東禅寺の警備にも加わり、公使ラザフォード・オールコックの守衛も任されていた。同所ではオールコック付き通訳が門前で殺害されるとか、攘夷派水戸藩浪士によって寺が襲撃されるなどの死傷事件が発生しており、まさに時代の最先端で任に当たる彼の双眸(そう ぼう)からは、死と隣り合わせの物を射るような光を放っていた。
 「返書をしたためるので暫しお待ち願えませんか?」
 と英敏が言った。
 「ならばその間、習練場を見学してもかまいませんか?」
 「どうぞお好きに。興味がおありですか?」
 「拙者(せっ しゃ)(わず)か一万石の信州須坂は堀家の当主ですが、藩の軍備を西洋化しようと思っております」
 「それはけっこう」
 英敏はひとつ笑んで客間を出て行った。それを見送った直虎は屋敷を出、すぐ隣の習練場へ向かって歩いていると、
 「片井(かた い)先生、横浜から荷が届きましたぞ!」
 と声が聞こえた。見れば二人の門人らしき(さむらい)が、離れの建物に三、四尺ほどの細長い二つの木箱を運び込んでいる。直虎が気を止めたのは片井≠ニいう名に覚えがあったからで、近くに寄って「中身は何か?」と愛嬌(あい きょう)笑いで聞くと、
 「さあな? 片井先生のことだから、どうせ西洋のライフル銃とかじゃないか? きっと研究のための標本さ」
 「あの年でよくやるよ。まだ自分の方が西洋より優れていると思ってんだから」
 二人の侍は交互に言って笑い合うと、
 「誰が年だって?」
 離れの中からしわがれた大声がした。
 「こういう話ばかり耳が()えるよ」
 二人はうつけたように屋敷を立ち去った。
 「おおっ、来たか!」
 姿を現したのは傘寿(さん じゅ)にもならんとするよぼよぼの(じい)さんで、重そうな木箱を屋内に運び込もうとする動作に職人気質(しょくにんかたぎ)頑固(がん こ)さが垣間(かい ま)見えた。
 「手伝いましょう」
 直虎は近寄って一緒に荷の運び込みを手伝い、鍜治場(か じ ば)のような暗い部屋に入った。辺りを見回せば鉄の(かたまり)や細かい環貫(かん ぬき)やくの字に曲がった金具、ヤットコ(ばさみ)鉄刀鎚(てっ とう づち)などの道具類がところ狭しと置いてあり、格子戸(こう し ど)から差し込む日の光は強烈な火薬の匂いを漂わせた。
 「荷の中身はいったい何ですか?」
 「これか?」
 爺さんは「何だと思う?」と言いたげに鉄梃(かな てこ)で木箱の(ふた)を開けようとしたが、
 「おっと、どこの誰だか知らん(やつ)に教えるわけにいかん」
 と手を止めて、(しわ)だらけの乾燥した茶色い肌に、目だけ爛々(らん らん)と輝かせて直虎を睨んだ。
 「怪しい者ではございません。小笠原図書頭様の使いで江川様のところに来ました。習練場を見学させていただこうと屋敷を出たところ、この荷が運び込まれるのを見かけたもので」
 「唐津藩の使いか?」
 「そんなところです。もっとも私は唐津藩ではなく信州須坂藩ですが」
 「須坂……?」
 「ご存知ですか?」
 「わしも軽井沢出の松代藩士だからな」
 爺さんは同州の仲間に会った喜びからか、(わず)かに口許をほころばせ、
 「攘夷派の間者ではなさそうじゃな。わしのすることは幕府の機密だ。他言無用じゃぞ」
 そう言って木箱を空けると「これかぁ」と呟いて、目を更に輝かせながら中から新品のライフル銃を取り出した。
 「メリケン製のヘネル連発銃じゃ。十六連発らしい」
 独り言のように呟くと、細いネジ廻しを手にしておもむろに分解し始めた。
 「な、何をするんです? 輸入したばかりの新品じゃないのですか?」
 「あほう! 壊さなくて仕組みが解るか」
 この爺さん、名を片井京助、(いみな)直徹(なおあきら)という砲術家であり発明家である。
 天保十四年(一八四三)、ペリーの部下が所持するホール式元込(もと ご)め銃からヒントを得、世界に先駆け四連発の雷管式(らい かん しき)ドンドル銃を製作した男である。その特徴は点火方法にあり、火縄銃を改良した傍装雷火式(ぼうそうらいかしき)≠ヘ当時としては先進的で、火縄銃の三倍の速射能力があったという。西洋の銃は火縄式から火打ち式(燧式(すい しき))を経て雷管式へという発明経過をたどるが、京助のそれは燧式(すい しき)を飛び越えて雷管式に至ったものだ。雷管式と言っても一つ一つの弾丸(だん がん)薬莢(やっ きょう)を取り付ける形でなく、火薬玉(か やく だま)を一粒ずつ火皿(ひ ざら)の中に落として撃鉄(げき てつ)で点火させる傍装(ぼう そう)と呼ばれる仕組みで、火縄銃を進化させたこの方式なら騎乗からもあるいは雨天の時でも使用可能という代物(しろ もの)であった。
 ところが幕府はその余りに強力な性能を恐れ、秘密裏(ひ みつ り)にしたまま厳重に管理した。しかし諸外国が迫りくる国難に際し、見過ごすことができなかった京助の息子佐野三郎が「大儀に反す」と脱藩までして時の老中阿部正弘(あ べ まさ ひろ)にその銃を持ち込んだおかげで、幕府は松代藩に銃の献上を求め公開されるに至ったという経緯がある。
 直虎はそんなことより片井≠ニいう姓が気になった。というのは以前須坂藩で砲術指南役(し なん やく)として雇っていたのが片井伝助(でん すけ)という同姓の男だったからだ。
 「伝助という名の兄弟、もしくは親戚はおりますか?」
 「伝助……? さて、いたような気もしないではないが、なんせこの年になると忘れることの方が多くて困る。だいたいわしは片井家といっても養子じゃから、家についてはそれほど詳しくない」
 そう言いつつ研究に傾ける頭脳は明晰(めい せき)で、分解する部品を見つめながら「なるほど、こういう仕組みか」といちいち呟く。
 天明五年(一七八五)に信州軽井沢の農民柳沢伝五郎の子として生まれた京助は、佐久郡八満村の鍛冶師(か じ し)片井宗造の養子となって松代に移住した後、藩主真田家の御用鉄砲鍛冶(ご よう てっ ぽう か じ)となって佐久間象山に仕えた。そこで一分間に十発撃てるという『早打鉄砲(はや うち てっ ぽう)』を考案し才能を開花させた彼は、江川坦庵(たん なん)の門に入って洋式砲術を学ぶ機会を与えられるが、雷管式四連発銃はその時の作である。他にも神槍銃(しん そう じゅう)とかスプリング式空気銃なども製作し、直徹流(ちょくてつりゅう)を名乗って砲術道場まで創った。
 もっとも京助の養父片井宗造といえば佐久でも大きな家だから同姓の分家も多かろうが、須坂の砲術指南役の片井伝助は上州の生まれだったことを思い出した。それは父直格が藩主だった頃の話で、直虎はまだ生まれておらず、須坂藩士たちの笑い話として語り継がれているものである。
 ペリー来航の翌年、大砲を量産するため朝廷が五畿七道(ご き しち どう)の諸国司に太政官符(だいじょうかんぷ)『諸国寺院の梵鐘(ぼんしょう)を以って大砲小銃鋳造(ちゅうぞう)に応じる事』を発し、これを受けた幕府が諸藩に対して『毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)勅諚(ちょくじょう)』、つまり寺院梵鐘の供出を布告したのが安政年間始め。ところが須坂藩ではそれより三十年も前の文政年間に、領内の各寺院の梵鐘を献じさせ、八門の大砲を鋳造したというのだ。佐久間象山が西洋式の大砲を鋳造するより更に数十年前である。
 その時の砲術指南役が片井伝助で、その頃の大砲の弾丸といえば球状が常識だったのを、直格(なおただ)が、
 「火矢(ひ や)は細長いからまっすぐ飛ぶのであろう。弾丸も長細くしてみてはどうか?」
 という言葉を受けて、長弾(ちょう だん)を作って実験することになった。成功すれば城を焼き落とす攻城砲の原型とも言うべきもので、果たして発砲実験当日、須坂陣屋近く鎌田山(かま た やま)の山麓に(まき)三〇〇()を積み置いて、いざ発火してみれば、
 ドンッ!
 地面を揺るがすものすごい爆発音とともに火矢が放たれた。瞬転、薪はことごとく打ち砕かれて、めらめらと炎をあげ、見事実験を成功させたのである。
 ところがその事が幕府に聞こえてしまった。「謀反(む ほん)の疑いあり」と、江戸詰めの藩士が早馬で国許の陣屋に馳せ付けて言うには、
 「殿、何てことをしてくれたのですか! 御家断絶(お いえ だん ぜつ)、領地没収の沙汰(さ た)が下されてしまいます!」
 涙ながらに訴えた。時の国家老は丸山巨宰司(まる やま こ さい し)で、
 「慌てるな。徳川様のためにやったことである。話せばわかる」
 と泰然(たい ぜん)として驚かず、出府して幕府に申し開きをして事なきを得たというエピソードである。
 そんな話を気のない様子で笑いながら、
 「得てして技術というのは飽くなき欲求と戦争が産み出すものさ。この十六連発の銃も、いまメリケンで起こっている内戦の産物なのだ」
 と京助が言った。アメリカの内戦とはちょうど一年ほど前に開戦された南北戦争のことである。そして作業の手を動かしつつ何かを発見したように、
 「なるほど、ここが弾倉(だん そう)か──」
 ひとりごちた。それは十六連発の仕組みで、ライフル銃の特徴である長い銃身の下にもう一つ同じ太さの円筒(えん とう)があり、その部分が弾倉になっていて十六発の弾丸を縦に装填(そう てん)可能にし、スプリングで一発ずつ薬室(やく しつ)に送り込む構造をしきりに感心した。
 直虎は無性にその銃が欲しくなった。
 須坂藩内でも西洋化に取り組み始めたとはいえ、藩主一人が口でいくら西洋化を唱えても、決意は行動と物で示さなければ誰にも信用してもらえない。この西洋の最新式の銃でそれを示せば、半ば西洋化を冗談半分に捉えている家臣たちを本気にさせることができるのではなかろうか──同時にここに来る途中に会った大関増裕の西洋風の姿が脳裏に浮かんだ。
 「ところで二丁ありますが、二つとも分解するおつもりですか?」
 「一つは一橋慶喜(ひとつ ばし よし のぶ)様のお買い上げじゃ」
 「一橋様の?」
 「日本にこの二つしかない最強兵器じゃ。そんじょそこらで手に入れられるモノでない」
 「もう一つは?」
 「原理が分ったら破棄じゃ。わしがこれ以上のモノを発明してやる」
 「ならば私に譲ってください!」
 京助は直虎を見つめて哄笑した。
 「本体が百五十両、弾丸百発十両、占めて百六十両。払えるか?」
 直虎はぐいっと生唾(なま つば)を飲み込んだ。今の自分にそんな金などあろうはずがない。おまけに六月は参勤交代帰藩の月なのでその出費もかさむ。
 「分り申した。一カ月待って下さい。必ず用意いたします」
 「うむ。その頃にはこのライフル銃も用済みじゃ。精度を上げて新品以上の物にして組み立てておくさ」
 と、商談が成立したところで、
 「こんな所にいらしたか。内蔵頭(くらのかみ)様、主人がお探しです。返書を渡したいと」
 と英敏(ひで とし)の側近がやって来た。直虎は京助に頭を下げてまた会うことを約して戻った。
 返書を受け取った直虎は、英敏から更に『パン製法書』なる書き付けをもらった。パンは西洋の軍事携帯食でもあり、長期保存がきき、日本の兵糧丸(ひょうろうがん)より味がよく手軽に扱える優れものだと、
 「これも手前の父、江川坦庵が長崎のパン職人より学んだ秘蔵のもので、今後の軍事食の常識となるであろう。西洋化にお役立てください」
 と言った。この後直虎は、二度と再び彼と会うことはなかった。この年の十二月、江川英敏は二十四歳の若さで病死する。

 それにしても忙しい。
 この頃の直虎は、小笠原長行の屋敷通いの他、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(翌年より開成所と改名)にも盛んに通い始めた。蘭学を中心に洋学を教える昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)と並ぶ幕府の教育機関だが、そこの教授手伝いである杉田玄端(げんたん)に師事して蘭学を学ぶようになった。彼は杉田玄白の義理の孫になるが、実父は尾張藩医を務めた權頭信a(ごんどうしんびん)という男で、もともと医術を好み、やがて幕府お抱え医師も務める。一方で、嘉永四年(一八五一)に完成させた『地学正宗図(まさむねず)』は幕末最高の世界地理知識書とも言われ、その世界観は吉田松陰や橋本左内にも影響を与えたとされる。
 ともあれ夜以外はほとんど上屋敷に姿のない藩主の多忙さに、いよいよ家臣たちが心配を募らせた。
 「殿はまた今日もお出かけか?」と、真木万之助は小林要右衛門をつかまえて半分呆れ顔。
 「もう少し武芸の方に心血を注いでほしいものじゃ」と、要右衛門はいつもの愚痴を漏らした。
 「それもそうだが少し働き過ぎじゃ。藩邸にいる時も毎日横文字ばかり読んでおられる。あんなふうに昼夜わかたず勉強をしていたらお体がいくつあっても足りぬぞ」
 そこに中野五郎太夫が口を挟む。
 「拙者もそれを心配している。あの調子ではいつかご病気になられてしまうぞい」
 交互に相槌(あい づち)を打ったところを見ると、みな思っていることは同じだった。少し考えて、
 「何か保養になることをお勧めしようではないか」
 と提案したのは万之助。ところが当の直虎は旅行は嫌い、囲碁(い ご)将棋(しょう ぎ)もやらない、学問のほかに好きなものなどあるのかと、三人はほとほと困り果てた。
 そこへもう一人の家臣竹中清之丞(せい の じょう)が「なんの話じゃ?」とやって来た。
 「殿のお体のことを心配していたのだ。なにか保養になることはないか?」
 清之丞は(ひらめ)いて、とっておきの妙案があるとばかりに三人の(こうべ)を集めた。比較的頭の堅い家臣団の中では、機転の利いた発想のできる男なのだ。
 「そりゃ腰元女(こし もと おんな)を雇うに限るぞ。殿とて男じゃ、お疲れのとき我々が無粋(ぶ すい)な顔で(とお)一辺倒(いっぺんとう)の声をかけるより、美しい腰元女中(じょちゅう)に『少し御休息(ごきゅうそく)遊ばせ』とか物柔らかに言わせてみよ。(じゅう)()(ごう)を制すと申す、きっと絶大な効き目があるに違いない」
 「なるほど! ここはどうもそれに限る」と、清之丞の発案に皆感心しながら手を打った。
 しかし腰元を雇うといっても金がかかる。藩の財政はいまだ厳しく、公金を使うわけにはいかないし、四人の有り金を出し合ったところで腰元に支払う一月分の給金さえ満たせない。そこで他の家臣たちの手も借りて、あの手この手の資金作りに奔走することになった。
 須坂藩では月に何度か執政会議が開かれる。どこの藩でも行っているものだが、そこには家老、中老、藩主側用人(そば よう にん)や各部署の組頭が集まって、重要な執務が話し合われるわけだが、やっとの思いで二百両ばかりを集めた四人は、次の会議でその話を持ち出そうと算段した。藩主直虎が退府で国許に帰る期限も迫った頃のことである。
 彼らは主君直虎の性格をよく知っていた。下手(へ た)に進言しようものなら叱責(しっ せき)を買うどころか、ますます思惑(おも わく)とは逆の行動をとりだす少しつむじ曲がりなところがあるし、「ならば全員同時に進言しよう」と団結し、いよいよその機会を得た。
 議案は来月に控えた帰藩に関する内容が主で、話し合いが終わったのを見計らい、まず要右衛門が「殿、最近少し働き過ぎではございませんか?」と切り出した。
 それを受けてすかさず万之助が続けた。
 「私たちは殿のお体が心配でなりません。万一ご病気にでもなられたら、それこそ藩の一大事!」
 そこに五郎太夫と清之丞が進み出て、異口同音に同じような内容を申し述べたと思うと、
 「ひとつ進言したき儀がございます!」
 四人口を揃えて平伏した。直虎は上座(かみ ざ)から四つのオツムを見下ろした。
 「なんじゃ、申してみよ」
 すると四人は「そのぉ……」とうそぶいたあと、手はず通りに、
 「若い娘をお一人腰元に召されてはいかがかと!」
 これまた口を揃えて言うものだから、そんな算段があることを知らない家老の駒澤式左衛門(こま ざわ しき ざ え もん)は、
 「突然なにを言い出すか!」
 と顔を蒼白(そう はく)にした。重要案件が話し合われる執政会議の場で、しかも若い腰元を勧める無粋(ぶ すい)な話を殿に直接進言するなど、ひとつ間違えば切腹ものである。つい先の藩政改革においても、柳橋通いの家老野口亘理(わた り)を断罪したばかりなのだ。
 ところが直虎は俄かに笑い出した。
 「腰元じゃと? うむ、なかなかよいことに気づいてくれた。実は心当たりがないではないが、ちと金がかかるのでどうしようかと考えていたところだ」
 悪たれの一つも言われると覚悟していた四人は、意外な展開に顔を見合わせた。
 「だが金がかかるぞ、百六十両ばかり──工面できるかのう? さすればお前たちがびっくりするほどの別嬪(べっ ぴん)をさっそく召し抱えることにしよう」
 四人はすんなり話が通ったことに返って不安が湧いた。しかし会議の後、
 「殿も人の子、どこかに目星(め ぼし)を付けられた女子(おな ご)がいると見える。隅に置けないナア」
 と清之丞が言ったので、「それもそうじゃ」と納得し合った四人であった。
 それから数日して「腰元のお披露目をしたい」との沙汰が出た。
 四人のほか他の家臣が集められた広間にはささやかな酒席が設けられ、やがて登場した直虎はいつにないご機嫌な様子でこう言った。
 「これより我が藩は西洋化に向けて新たな前進を開始する! 今日の(うたげ)は要右衛門はじめ、皆で集めてくれた金の一部で準備したものじゃ。お前たちの金じゃ、遠慮せずにどんどん飲んでくれたまえ」
 お()めに預かった要右衛門と万之助と五郎太夫と清之丞は、出された酒を酌み交わしながら「これで殿のお体も少しは休まるに違いない」と喜び合って、およそ美しいであろう女性の登場を今か今かと待ち受けた。
 ところがいつまで待っても肝心の腰元が出てこない。四人の中では一番気の長い万之助も、さすがに「ハテ? どうしたことか?」としびれを切らせていると、突然、直虎が笑い壷にでも入ったかのように笑い出した。
 「お前たちは何を期待しておる? 腰元ならさっきからずっとここにおるぞ」
 と床の間を指差した。ところが女性などどこにもおらず、かわりに真新しい西洋のライフル銃が一丁、美しい着物をまとって厳かに飾ってあるだけだった。
 「そ、それは何でございます?」
 「見て分らぬか? 今度召し抱えたわしの可愛い腰元じゃ」
 直虎は片井京助から譲り受けた十六連発銃を誇らしげに手にすると、要右衛門はじめ四人に銃口を向けて「バ、バ、バ、バンッ」と茶目(ちゃ め)()たっぷりに撃つ振りをした。
 せっかく集めた二百両という金が、一瞬のうちに今日の宴と銃身が二つ並んだような見慣れない鉄砲に変わってしまったことに気付いた四人は、その衝撃に唖然と口を開いた。
 
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(九)糸縒(いと よ)りの娘
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 文久二年(一八六二)は壬戌(みずのえいぬ)で、須坂藩の参勤交代は御暇(おひま)の年なので、六月になったら国許(くに もと)へ帰らねばならない。直虎にとっては藩主になって初めての帰藩であるが、もっとも過去には父に連れられ、あるいは兄の御供(お とも)として何度か帰ったことはあるが、新たな気持ちで(いど)むからには帰る≠ニいうよりゆく≠ニ言った方が正確だった。
 参勤交代の従者の数については、幕府指針に従い、例えば十万石の藩では足軽・人足を含めて二三〇人から二四〇人としており、財政が厳しいからといって極端に人数を減らすことはできない。一万石の須坂藩においては、馬上三騎、足軽二十名、その他の人足三十名が通例で、道程や日数にもよるが、百万石と言われる巨大な加賀藩ともなれば総勢数千名の規模になり、かかる費用は五千両にも及ぶまさに住民の大移動である。
 江戸から須坂へは中山道(なか せん どう)を行き、追分宿(おい わけ じく)から北国街道(ほっ こく かい どう)を経由するルートと、少し手前の沓掛宿(くつ かけ じく)から沓掛街道を大笹(おお ざさ)まで行きそこから大笹街道(おお ざさ かい どう)を経由するルート、更にはもっと手前の高崎宿(たか さき じく)から、大戸(おお ど)を経て大笹から大笹街道を経由する三つのルートがあった。もっとも「大笹街道」というのは江戸側から見た名称で、須坂の人は「仁礼街道(に れい かい どう)」とか「信州街道」と呼んでいる。例えば北国街道を経由すると、馬一頭に荷物をつけて須坂から江戸まで通常六日ほどかかるが、大笹街道を使えば一日短縮でき、これが江戸までの最短コースである。
 経費を浮かせるために、無論(む ろん)直虎たちは大笹街道を経由するわけだが、須坂生まれで何度も行き来している要右衛門が、今回はじめて行く者たちに説明するには、大笹宿(おお ざさ じく)から田代(た しろ)を経由し、そこから険しい鳥居峠(とり い とうげ)を登り、菅平(すが だいら)を南北に横切って(みね)(はら)へ、そこから峠を下って宇原川(う ばら がわ)沿いを進めばもう仁礼宿(に れい じく)で、あとは鮎川(あゆ かわ)に沿って栃倉(とち くら)八町(はっ ちょう)井上(いの うえ)と、最終的に北国街道の福島宿(ふく じま じく)(須坂市福島町)が大笹街道の起点(き てん)であると自慢げである。
 その道すがら、直虎の頭の中はめまぐるしく回転していた。
 野口源兵衛らの糾弾(きゅう だん)により藩政の方は不正も正され、順調だとの報告を受けていたが、それにつけても財政の方は依然借金返済の目処(め ど)は立っていない。赤字総額は四万四千両以上にのぼっており、これは現代の金額でいえば、仮に一両六万円として換算(かん さん)しても二十六億四千万円、それを一万石の大名がその年の米の取れ高を丸々返済に宛てたとしても、優に四年以上かかる単純計算だ。小笠原長行から金を借用できたとしても、それは西洋式軍備体制を整えるためという約束なので使うわけにいかないし、目下(もっ か)の課題は確たる殖産事業(しょく さん じ ぎょう)の確立であるが、生糸(き いと)を手掛かりにしようとおぼろげながら考えてはいたが、それを具体化(ぐ たい か)して定着させるまでには経費も時間もかかるだろう。さしあたって当面の難局を(しの)ぐには、金を貸してくれそうな商家や豪農に頭を下げて回るしかなさそうだ。
 彼が須坂に到着した頃、領内は夏祭りの真っ最中だった。領民たちは不景気などどこ吹く風の陽気(よう き)さで、祭り囃子(ばや し)にでんでん太鼓(だい こ)を打ち鳴らし、新しい領主となった直虎を迎え入れた。こんな流行(は や)り唄まで聞こえてくるほどである。

♪これさ皆さん聞いておくんない、須坂の小町(こ まち)の話を聞きない

 心学(しん がく)論じて百姓だまして何のかのとてむやみに取り立て
 しかるところへ、四書(し しょ)にあるよな大覚殿(だい かく でん)とか御世話(お せ わ)なさって立派にのりだし
 隠密(おん みつ)まわして家中(か ちゅう)のくせもの町役見届(み とど)け、万一(まん いち)同々よくよく見定め
 それから江戸より御下(お さが)がりて
 悪人どもは法雨(ほう う)(はら)われ家老の者ども(なわ)めに(およ)んで
 吟味(ぎん み)の上にて切腹しろとのお(かみ)のご上意(じょう い)
 百姓泣かせた(むく)いがきたやらショウシイものだよ
 百姓方で大きに喜び、御年貢(お ねん ぐ)けんむでうれしいうれしい

 カッタカタノタ、ソレ、カッタカタノタ──

 「ずいぶんと(にぎ)やかだのう」
 須坂藩には天守を持つ城がない。それに代わる陣屋(じん や)に入って着替えを済ませた直虎は、遅くまで鳴り響く笛や太鼓の音に耳を傾けながら国家老の丸山本政にそう言った。
 須坂館と呼ばれるこの陣屋は、大坂の陣で功績を挙げた初代直重が、信州須坂十三か村四千五十石余りの加増をされた際、元和元年(一六一五)八月に初入国し、小山の普願寺に仮陣屋を設けたのが始まりとされる。そして家臣を留めて下総矢作に帰った直重は、元和三年六月、三十三歳の若さで没し、その家督は二代直升に引き継がれた。当時直升は数え九歳だったが、十一歳の時(元和六年)すでに駿府加番の役職を果たしているのをみると、幼くも賢い敏腕な人物であったと見える。
 ちょうどその頃、関ヶ原の戦いで徳川方に参戦して勝ったものの、その後は憂き目を見ながら高井野に移封を命じられ川中島に流されてきた武将福島正則が、須坂にやってきて仮陣屋を設けたのが元和五年(一六一九)七月のことだった。その後彼は二年余りを須坂の地で過ごす。
 一方、翌年の秋に駿府加番の職務を終えた直升は、将軍秀忠より福島正則の見張りの命を受け自国普願寺の仮陣屋に入るが、元和七年八月、正則は高井野館(現高山村)に居を移す。
 すると直升は正則が住んでいた館を改修し、間口十三間奥行き三間の馬小舎のみそのまま用いて、現在の場所に陣屋を築いた。その後増築して東西八十間、南北八十六間の規模となり、天守を持つ城とまではいかないが、須坂藩の拠点としての機能を果たしている。
 直虎は、詰め所に用いるがらんとした大部屋の格子窓から、ぼんやりとした夜明かりを見つめて、遠くから聞こえてくる囃子太鼓の陽気なリズムに笑みを漏らした。その様子に本政が、
 「みな殿の領内入りを喜んでいるのでございます。なにせ今年の年貢を(めん)ずる()れを出したのですから喜ばれて(しか)るべきでしょうな。一方、役人どもは扶持(ふ ち)を半分に減らされて愚痴(ぐ ち)しか出てきません。無論(む ろん)私も──須坂陣屋にかかる経費も全て自費です……」
 「陣屋でない、須坂城と呼べ」と、開口早々はったりでもいいから景気よくいけと直虎は笑う。そして、
 「半分だけでも出れば良いではないか。わしなど()しじゃ」
 とまた笑う。
 「よくもまあ、呑気にいられますなあ……」
 野口らの悪行(あく ぎょう)に苦しめられた領民に対する直虎の措置(そ ち)は、現代ではおよそ考えられないほど寛大なものだった。すなわち、

一、今年の年貢を免ずる
一、没収金(ぼっ しゅう きん)は貧しい民に分与し、貸し金一切は藩から破棄(は き)のこと
一、諸々(もろ もろ)の貸金は破棄のこと
一、御用金(ご よう きん)その他非常の課物(か もつ)を一切停止すべし

 というもので、更にさんざん領民を(いじ)めた役人の給料を五〇パーセント削減したというから、庶民たちが大喜びするはずだった。本政はその能天気(のう てん き)な当主の笑みに(あき)れるより仕方ない。
 「明日から忙しくなるぞ。田中主水(もん ど)には江戸で話を通してあるが、ほか小田切辰之助(お た ぎり たつ の すけ)など回って金を借りにゃならん」
 「殿自ら(おもむ)くつもりで?」
 「当たり前じゃ。こういう大事なことを人任せにするからあんなことになる」
 あんなこととは言わずと知れた野口源兵衛らの数々の悪事のことである。本政は「やれやれ」といった表情を浮かべた。
 「それから」と直虎は続けた。
 「領内にいま糸師(いと し)は何人おる?」
 糸師≠ニは生糸(き いと)職人のことである。いわゆる養蚕農家(よう さん のう か)や生糸商人も含めた職種だが、突然何を言い出すかといった顔付きの本政は、領内の職業台帳を取り出し、「三十数軒といったところでしょうか」と答えた。
 「そればかりではなかろう。その調べはいつのものだ? もう一度調べなおせ」
 「五年前のものですが……須坂には糸仲間というものがありまして、そこに属さぬ者が数人あったとしても大きな違いはないはずです」
 と、台帳をもとの場所に戻しに行ったところが、「一昨年前のものがありました!」と万延元年(一八六〇)の記録を見て目を丸くした。
 「どうした?」
 「六十三名になっております。ここ数年で倍に……しかも糸仲間に牧茂助や小田切武兵衛、十二屋清兵衛も加わっておりますぞ……?」
 挙がった名はみな領内の豪商達である。
 「ほれみろ。さすが商人は目聡いのぉ。時勢をちゃんとわきまえておる。どんどん彼らの後押しをせい。わしは須坂を生糸殖産の国にしようと思う」
 「生糸殖産の国……? お待ちください! 吉向焼(きっ こう やき)高麗人参(こう らい にん じん)の次は生糸(き いと)ですか? (もも)栽培もやっておりますが、まだまだ軌道(き どう)に乗るどころの話しではありません。それに生糸なぞ既に先が見えておりますぞ──」
 須坂の生糸産業は、第九代藩主直晧から十代直興にかけての文化年間期(一八〇四〜一八)には、土地の性質を活かして、松代藩とともに養蚕を見据えた桑園の拡大を奨励しており、その頃から繭の問屋や糸商人が現れ、それぞれ組合のような組織を作って業を行っていた。しかしそれはあくまで『登せ糸』──つまり京都の西陣や、蚕糸業の本場である上州へ送るのがほとんどで、領内を潤す規模のものでない。日本国内の需要と供給の関係は他の地方の競争も加わり過渡期を迎え、業種の将来性としては暗いという認識を本政は持っている。
 「だいたいこのご時世(じ せい)、西陣や上州のほか一体誰がそんなもん買いますか?」
 「外国よ! おまえの目は節穴か? 横浜開港以来、生糸商人が盛んに動いておるのを知らぬか? 須坂においても糸師の急増がそれを証明しておる。こりゃいけるぞい……」
 直虎は勝算の笑みを浮かべた。
 上田藩では既に諸外国との生糸貿易が始まっていたことは前述したが、一八五〇年代、ヨーロッパにおいて(かいこ)の伝染病が大流行し、(きぬ)の産地だったフランスとイタリアの養蚕業を壊滅的(かい めつ てき)にした。それを知った将軍徳川家茂(いえ もち)は、これより少し後、蚕の卵を集めてナポレオン三世に寄贈(き ぞう)し、その返礼としてアラブ馬が贈られたという美談が残るほどで、ヨーロッパからの生糸蚕種(き いと さん しゅ)需要(じゅ よう)が急増している世界情勢を直虎は知っている。
 「が、外国……こりゃまた途方(と ほう)もない話ですなぁ」
 「藩の窮乏をよそに商人たちはすでに動いておる。しかし桑園の奨励をしたのは藩じゃ。わしらは海外貿易を盤石なものにし、糸師にどんどん(もう)けてもらおうではないか。そしていずれ生糸取引に冥加金をかけよう。儲かるぞい。だいたい生糸の元は何だと思う、(くわ)じゃ、扶桑(ふ そう)じゃ、(じゃく)じゃ。よい考えであろう?」
 「殿のお考えになることはどうも私には……」
 「まっ、それよりまずは当面の資金繰(し きん ぐ)りじゃ」
 と、さっそく翌日から豪商、豪農廻りをしようと張り切ったところが、出かけるまでもなく、向こうの方から新領主への挨拶だと言って、次々と手土産(てみやげ)を持って陣屋に訪れた。
 「土産(みやげ)進物(しん もつ)は無用。課物は一切停止したはずじゃ」
 と、直虎は自分が出した触れに忠実で、その都度厳重に注意して帰した。
 「まったくお(かた)いお殿様じゃ」と、たちまち噂が広まってしまったが、そんな対応に追われてひと月などあっという間に過ぎ去った。
 直虎にしてみれば、一刻も早く軍備の西洋化に着手したいところであるが、まともな知識もなければ金もない。講武所奉行になった大関増裕に最先端の歩兵・砲術の教練の様子を聞き出す書状をつづってみたり、小笠原長行から紹介された赤松小三郎や佐野鼎(さ の かなえ)などとつながるために上田藩や福井藩の知人に根回しを要請する書簡をしたためたり、杉田玄端へ蘭学の質問書など書き、長行にも相談方々近況など書き(つづ)ってしまえば、あとは漢書や江戸より持ち返ったわずかな蘭学書(らん がく しょ)など読みふけるほか須坂の片田舎(かたいなか)ではできることは限られていた。
 「まったく暇じゃ──」
 アブラゼミの声がコオロギのそれに変わる季節になって、直虎はお(しの)びで陣屋を出ることを覚えた。町民風情(ふ ぜい)の身なりで出歩いて、領内の空気を自分の肌で確かめようとしたのだ。要右衛門や本政に見つかればまたうるさい事を言うに決まっているから、いつも陣屋を出るのも一苦労で、部屋にこもって本を読むと言っては目を盗んで外に出、馬場で馬の世話をする振りを装って抜け出してみたり、あるいは(かわや)へ行く振りをしてそのままふらりと出たり、手拭(て ぬぐ)いで頬被(ほお かぶ)りをして人目を忍んで素早く陣屋を抜け出した。
 その日も町民姿を装った彼は、鼻歌を歌いながら相森(おう もり)方面へ向かって歩く。
 青い空には蜻蛉(とんぼ)が舞って、一筋(ひと すじ)の雲が浮かんでゆっくり流れていた。
 やがて目が覚めるほど青々とした桑畑(くわ ばたけ)が広がる土地に出ると、ふとそこが、昔少年時代に来た場所と同じであることを思い出したのだった。気候も気温も見る景色も、全くその時と似ていたからだろう、確か兄の直武が家督(か とく)を継いだ翌年──藩主側近として兄と一緒に帰藩した弘化三年(一八四八)の、季節こそ違えちょうど今とまったく同じ天候だった。その年の一月に発生した江戸の大火で、南八丁堀の上屋敷が類焼し、そのあと江戸を離れた数えで十一の思春期──。
 兄が家督を継いでからというもの、もはや自分は当主になることもないだろうと、ある種の(あきら)めが心を重くしていた時期がある。そんなことは堀家の五男坊として産まれた時点で分かっていたが、世話焼(せ わ や)きの者達が口々に「若様(わか さま)」などと呼ぶものだから、いつの頃からか心のどこかにもしや≠ェ生まれていたのかも知れない。しかし兄が厳然と当主になった日、自分の中で何かがはじけ、
 「違う……」
 と、とても居心地(い ごこ ち)の悪い気持ちが湧いて出たことがある。
 否、そうでない──
 あの例えようのない重く暗い心持ちは、家督を継いだ兄の存在がもたらしたものでなく、何かもっと大きなものに対する虚無感だった。須坂に帰藩する五カ月ほど前、江戸の町を灰燼(かい じん)に帰した弘化の大火災で、美しいまでの火の粉が飛び交う炎の中で、たまたまいた上屋敷が炎に呑まれゆく光景を目の当たりにした衝撃は、幼心に少なくともそれまでの人生観を一新するものであり、死人が千人出たと聞いた時には「生き延びることができて良かった」というより人の命の儚さを感じずにいられなかった。
 「口減らしだ。お前も兄と一緒に須坂へ行け」
 父に言われて江戸から追い出されるように直武の伴をしてきたが、その翌年の六月に参府を控えた三月下旬には、今度は死者一万人ともいわれる善光寺大震災が発生したのである。須坂陣屋の揺れも甚だしく、家屋の棚や箪笥が倒れ建物の壁にいくつものひび割れを作った。その震災による千曲川の氾濫被害もさることながら、須坂陣屋すぐ裏の鎌田山の頂きに登って四顧すれば、善光寺平方面の夜空が三日三晩オレンジ色に染まっていたのをその目で見たのだった。
 「あの淡い光の中で、いったい何人の人の命が燃えているのか──?」
 そのやるせない心持ちを押えるように、震災後まもない町中へ陣屋を抜け出した。そう、今日と同じように目的もなく歩いていると、眼前(がん ぜん)に広がる災害とは対照的な、同じこの緑鮮やかな桑畑と遭遇(そう ぐう)したのだ。
 あのとき──
 桑畑に七つくらいの童女(どう じょ)と五つくらいの(わらべ)が桑の実をほおばり、口の中を紫色(むらさき いろ)に染めているのを見かけた。二人は姉弟(きょう だい)のようで、桑の葉を()みに来たところが実を食べるのに夢中になってしまったことは、背負(せ お)う大きな桑背負(くわしょい)(かご)の中に、まだ半分ほどしか入っていない桑の葉の量でおおよそ察しがついた。震災のことなど歯牙にもかけないその姉弟の光景が(いと)おしく、
 「何をしておる?」
 声をかければ、驚いて逃げ出した姉弟の後を、良山は本能的に追いかけた。
 (しばら)く行くと、二人は粗末(そ まつ)なあばら家の中に「お糸姉(いと ねえ)ちゃん!」と叫びながら駆け込んだ。入り口あたりに無数のまぶしが立てかけられているのを見ると養蚕業を営む家に違いなく、戸口に立って「なぜ逃げる?」と屋内に向かって声を挙げると、中から彼と同じ十歳くらいの土で汚れた少女が顔を出し、腰の刀を見て恐縮(きょう しゅく)したように「お(さむらい)さん?」と(つぶや)(ひざまず)いた。
 「お許し下さい。妹たちがなにか無礼(ぶ れい)を働きましたでしょうか?」
 土間(ど ま)一面に蚕が飼われた薄暗い屋内の隅で、先ほどの二人が身体を寄せ合ってこちらを見る穢れなき瞳の色が胸を突き刺した。
 「桑畑であの二人を見かけてな、うまそうに桑の実を()っていたから声をかけたのじゃ。そしたら逃げ出したので追って来た。こちらは糸師の家か?」
 「左様(さ よう)です」と、少女は顔を伏したまま答えた。
 腰の物が彼女を委縮させてしまっていることに気付いた良山は、刀を鞘ごと抜いて少し離れた壁に立てかけ、
 「そうかしこまるな。一応士族ではあるがたいした身分でない。(おもて)を上げて話をしよう」
 お糸姉ちゃんと呼ばれた少女は最初戸惑(と まど)った様子だったが、やがて顔を挙げ、年も近かったせいもあるだろう、身分のことなど忘れて二人はすっかり打ち解けた。
 彼女は糸師の長女で名を(いと)といい、商品を納めに出た父親の留守(る す)を仕事をしながら待っているのだと言う。母はなく、自分が母親がわりで妹と弟の面倒を見ており、今日中に蚕を全部メダナへ移さなければいけないのだと、黙々(もく もく)と仕事を始めるのだった。
 「こんなことを毎日しているのか?」
 糸は怪訝(け げん)な顔をして良山を見つめた。そのはずである。良山にとっては物珍(もの めずら)しくとも、彼女にとっては物心ついてからの当然の仕事なのだ。
 「ひとつ糸師の仕事をわしにも教えてくれぬか? 武士など人に仕えてなんぼじゃ。それより腕に職を付ければそれだけで生きてゆける」
 自然の脅威を前に虫けらのように死んでいく人の命もあれば、目の前の少女のように、それでも力強く生きようとする人の命もある。その少女の瞳の輝きに、彼は状況や環境に翻弄される己の弱さを見たのかも知れない。
 「本気で言っているのですか?」と糸は花のように笑った──。
 それからというもの、連日のように彼女の家へ通って養蚕の仕事を教わるようになった。陣屋を出るときは刀を持たず、着物も汚れてもよいボロを着て行ったから、ますます彼女は気を許し、良山のことを「(りょう)ちゃん」と呼ぶようになった。
 桑摘みをしながら自分の仕事を誇らしげに語る彼女によれば、そもそも養蚕業、あるいは糸師と一口に言っても蚕種農家と生糸生産者とそれらを扱う商人がおり、商人には蚕種(さん しゅ)を扱う(まゆ)仲買人と生糸を扱う糸商人とがあって、須坂における生糸産業の歴史はその両者による争いでもあったと言う。その争いを回避するため糸仲間が結成され、今では世話人の下で出釜(で がま)の生産形態が出来あがっている。出釜というのはいわゆる問屋制家内工業のような生産形態のことで、繭仲買人が繭を買い付け、農作業の合間に農家の婦女子に糸繰(いと ぐ)りの仕事を与え、蚕種の仕入れから生糸の生産までを村の有力者が一手に引き受ける方式である。ところが糸が住む相森(おう もり)は、すぐ隣りが松代藩領の小河原という地籍で、歴史的には須坂の生糸産業よりずっと古い。しかも糸の家は上州座繰(じょう しゅう ざ ぐ)り≠ニいう最新の機材を備えた、蚕種から生糸生産までを行う専業蚕種農家なので、営業力さえあれば須坂の糸仲間に加わらなくても自力でやっていくことができた。昔から松代藩小河原や天領小布施との結びつきが強い分、領内の同業者のしがらみも少ないらしい。
 そんな話を聞きながら、心の煩悶(はん もん)を忘れるように良山は初めての養蚕体験に没頭した。
 そして糸の支持に従って手伝ううちに、仕事の手順も要領もすっかり覚えてしまう。もちろん時季的にできないこともあるが、それは彼女の説明で知ることができた。
 養蚕には春蚕(はる ご)夏蚕(なつ ご)秋蚕(あき ご)の年三回(かいこ)の飼育があり、生糸をつむぐのには春蚕のものが一番質が良く、夏蚕と秋蚕は取れ高が少ない上に質もあまり良くないのだと糸は言う。糸仲間が行う出釜は、上族(じょう ぞく)といって成熟した蚕をまぶしに入れた日から七日目くらいの生繭(なま まゆ)からとった生糸が上等とされているが、
 「農家の女の子たちだって農作業の合間の作業だからみんな忙しいの。生繭を残さないように糸を取ろうとするけど、結局取り切れずに残った繭を囲炉裏で煎ったり、天日で干して、(さなぎ)を殺して、保存するんだけど、それでは日増しに艶が悪くなって糸繰りの量も減ってくるの。結局残った繭を繭仲買人に売るようになるわけ。その点、私の家は専業だから効率も良く、質もいいわけ」
 誇らしげな彼女の笑顔がまぶしい。そして毎日桑の葉を刻んで蚕に与え、蚕座(さん げ)の掃除をし、(まゆ)ができたら()して中のサナギを取り出し、サナギは()って甘露煮にして食べると珍味なのだと小壺に保存したそれを頬張っては手を動かした。
 「食べてみる?」
 と、糸はサナギの甘露煮をひとつつまんで良山の口中に(ほう)り込んだ。それは蜂の子の味にも似て、一度食べたら癖になりそうだった。
 繭は乾燥させてから(なべ)()る。
 「それでもうちは上州座繰り≠使っているから効率がいいの。このへんでは座繰り機を使ってるところなんてまだあまりないのよ」
 と自慢げに、器用に何本かの糸口を引いてはより合わせ、小枠に巻き取っていく。更にもう一度ねん糸機で大きな枠に巻き直して生糸は出来あがる。彼女は更にその生糸を絹糸(きぬ いと)にし、()ってから鍋で染色(せん しょく)して刺繍糸(し しゅう いと)を作るのだと教えた。
 百姓の(たみ)は、そんな同じことを一生繰り返し、やがて老いて死んでいくのだ。そのあまりに素朴(そ ぼく)な生きざまの中に、人の生命(いのち)の輝きを見る思いがする。糸縒(いと よ)りの作業をする彼女の横顔を(なが)めながら、働く娘のなんと美しいことかと良山は思った。
 「そんなに見ないでください。気が散ります──」
 その恥じらいの乙女(おとめ)仕草(し ぐさ)が、ふと、延年舞(えん ねん まい)の一つに、稚児(ち ご)が女装して糸を縒りながら男を待つ所作(しょ さ)があったそれと重なった。良山は、即興(そっ きょう)で和歌──(いな)、江戸で流行りの七度返し″と呼ばれる雑排(ざっ ぱい)を思いついて口ずさむ。

 糸縒(いと よ)りの 暇厭(いとま いと)おふ 糸姫(いと ひめ)の いと(いと)しいと 糸染(いと ぞ)めの(いと)

 それを聞いて、糸は仕事の手を休めてぽかんと見つめ返した。そして「意味が分からない」と言ったので、歌を紙に書いて手渡した。
 「字が読めません──」
 まだ識字率(しき じ りつ)が低い時代である。良山は優しく笑んで、
 「休みもせず、糸縒りの仕事に夢中のお糸ちゃんが、とても美しいという意味だよ」
 と教えた。糸は(ほの)かに(ほお)を赤らめ、その梅のような口元から呼吸のように小さな声で「ふ〜ん」と言って、恋文でも隠すように襟元(えり もと)にしまい込んだ。その澄んだ瞳は、まだ少年の良山にとってあまりに艶めかしく、やがて見つめ合う二人の口許は、引き合うようにそっと触れた。
 そんなことがあって間もなく参府の時を迎えた良山は、兄と伴に江戸に行ったきり、以降彼女とは会っていない──。
 と、
 「良ちゃん?」
 背中で昔の名を呼ぶ女の声がした。振り向けば、すっかり()れた女に成長した糸がそこに立っているではないか。
 「お、お糸ちゃん! どうしてここにおる?」
 思わず直虎は声を挙げた。
 「それは私の科白(せりふ)。この桑畑はうちの畑です。江戸に行くと言ったきり何年経っても帰って来ないから、てっきり向こうで所帯(しょ たい)を持って暮らしているのかと思いました」
 「そう言うお糸ちゃんはどうなのだ? 婿(むこ)さんを迎えて子もおるのではないか?」
 「そうであったらいいのですが、いまだ独りです。どこかにお嫁の(もら)い手ないかしらん? そんな事より寄っていきませんか? また糸の作り方教えてあげます。いまは夏蚕(なつ ご)の真っ最中」
 直虎は、その弾む声に誘われて、久しぶりに彼女のあばら家に立ち寄った。
 薄暗い家の中は相変わらず人の住処(すみ か)というより蚕に占領された空間で、その片隅に病に伏した彼女の父親が蚕に申し訳なさそうに横になっていた。数年前から病気がちで今は働くこともできず、妹はとっくに嫁に行き、弟の方は丁稚奉公(でっ ち ぼう こう)に出たままで、糸師の仕事は全て自分がやっているのだと糸は近況を語った。同情した直虎は、
 「女手ひとつで大変であろう」
 「それがそうでもないのです。お陰様で上田からの引き合いが多くて、父と二人の生活くらいなんとかなってしまいます」
 糸ははにかみながら静かに言った。
 「このまま糸師を続けるがよいぞ。できれば仲間をたくさん増やしておけば、将来もっと繁盛(はん じょう)することになるだろう」
 糸は不思議そうな顔をしたが、そんな話より彼女にとってはなぜ彼が須坂にいるかが気になるようで、それを自問自答(じ もん じ とう)して楽しむように、
 「分かった! 新しいお殿様に仕官(し かん)したのでしょう。それでこの間、そのお殿様と一緒に江戸から下って来たんじゃないかしら。どう、当たり?」
 直虎は目聡(め ざと)い女だと思いながら「まあ、そんなところだ」ととぼけて糸が()れたお茶をすすった。
 「今度の御殿様(お との さま)はずいぶんお(かた)い方のようですね。なんてったってご家老様に切腹を命じるくらいですもの、きっと閻魔様(えん ま さま)のようなお顔をしているんですわ。でも今年のお年貢が免除ですから悪口は言えませんね」
 直虎は閉口(へい こう)しながら「それがなかなかいい男であるぞ」と(うそぶ)いた。
 「ふ〜ん」と糸はつぶやいて、ふと何かを思い出したように部屋の奥の古い箪笥(たん す)の中をごそごそし出す。どうやら(つの)る話が山ほどあるらしい。そうして手渡されたのは一枚の紙きれで、そこには昔彼が彼女に(うた)ったあの雑排(ざっ ぱい)が書かれていた。あのとき字が読めなかった彼女は、その後歌の意味が知りたくて猛勉強したのだと笑う。そして、
 「このいと(いと)しい≠ニいうのは糸染(いと ぞ)めの(いと)≠ノ掛かっているのですか? それとも糸姫(いと ひめ)≠ノ掛かっているのですか?」
 と真顔(ま がお)で聞くのだ。直虎にとっては()(ごと)のつもりで作ったものが、糸の表情は冗談ではすまされない気迫(き はく)(にじ)み、恥じらいの頬を赤く染め、土で汚れているとはいえその表情からあの日と同じ(なま)めかしい色香(いろ か)(ただよ)わせた。
 直虎は得体の知れない妙な空気に呑まれつつ、静かに近付き合う身体にはた″と我に戻った。奥には彼女の父親も寝ているし、このままなるようになってしまったらまた要右衛門や本政にどれほどの嫌味(いや み)や悪たれを言われるか知ったものでない。慌てて「すまぬが用事を思い出した」と立ち上がり、あばら家を飛び出した。
 「次はいつ来られますか?」
 糸の言葉に責められながら、「気が向いたらな」と言い残し、逃げるように立ち去る直虎に、またひとつ小さな悩みが生まれた。
 
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(十)直武の死と風雲の世
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 息せき切って江戸にいた真木万之助(ま き まん の すけ)が須坂にやって来たのは八月半ばのことだった。
 「直武様がお亡くなりになられました!」
 と涙をためて言った言葉が陣屋に衝撃(しょう げき)を走らせた。
 「いったいどうしたことじゃ!」
 直虎は信じられないといったふうに声を挙げた。
 「ずっと病に伏しておられましたが、八月に入って容体が急変し、七日に息をお引き取りになりました……」
 万之助はその場にうずくまって慟哭(どう こく)した。
 まだ三十三歳である。働き盛りの年代だというのに、人の人生とはなんと無常であることか。昨年六月、江戸に戻った時の兄の憔悴(しょう ずい)した顔を思い浮かべながら、そこまで体を病んでいたかと、また、もう少し何かしてあげられることはなかったかと、直虎は今更のように後悔した。
 「殿、いかがいたしましょう? 一刻も早く江戸へ向かわれた方が──」
 本政が言った。
 「そうしたいが、金がない……」
 家の私情に藩の公金を使うなど、家臣がいいと言っても直虎にはできず、今ほど金がないことを情けないと痛感したことはない。
 近親者の死に際しては、通常、五代将軍徳川綱吉が定めた『服忌令(ぶっ き りょう)』に従い、()(ふく)すべき期間が定められている。それによれば兄弟姉妹の死に際しては二十日間の()≠ノ服≠含めて九十日間は喪に服さなければならず、期間中は極力外出は控え、(まつ)りごとや神事は行えない。それ以前に退府の期間中に江戸に昇るとなるといちいち幕府にお伺いを立てて許可を得なければならず、それには時間もかかるし、江戸に行ったからといって屋敷内にずっと(こも)っているほど(ひま)でない。
 「兄上が喜ぶことは何だと思う? 江戸には行けぬが、せめてここ須坂の地で、兄上が喜ぶことをやって差し上げたい……」
 直虎は一人ごちると暫く腕を組んで考えた。やがて、兄が喜ぶことといったら藩の存続と財政難の克服(こく ふく)しか思いつかない彼は、脇で同じように落胆している本政に向かって、
 「陣屋内の(よろい)(かぶと)、全て売り払え。(やり)や刀もじゃ。できるだけ高く買い取ってくれる商人を探して金に換えろ」
 と命じた。本政は何を血迷ったかと主君の顔を見つめた。
 「おっしゃる意味がわかりませんが……」
 「言葉の通りじゃ。兄上は金に困って命を縮めた。あんな骨董品(こっ とう ひん)をいつまでも大事に持っているからいかんのじゃ。須坂藩はどこの藩よりも先んじて軍備を西洋化して新しい時代に備える。最先端の軍備をもって兄上の供養(く よう)としたい」
 「こ、骨董品……? し、しかし、武器がなければ有事(ゆう じ)となったとき戦えません。西洋化するといっても西洋の武器を買い揃えるのに一体いくらかかるとお思いですか!」
 「知らん」
 「無責任な。いくら殿の下知(げ ち)とはいえ、そんな無謀(む ぼう)なことはできません!」
 本政は反駁(はん ばく)したが、直虎は言いなだめるように諭した。
 「論語の温故知新≠ニいう言葉を知っておるか?」
 「無論、(ふる)きを(たず)ねて新しきを知る──つまり、古きものから新しい知識を得ることです。古き物は大切にせねばなりません」
 「その通りじゃ、一般論ではな。ところが亀田鴬谷先生の和魂漢才の英知ではこう読む。新しきを知りて(ふる)きを(あたた)めよ=A新しいものをどんどん吸収しつつ古き日本の精神は常に心に置けと。よく聞け。須坂藩はいま存亡の危機に(ひん)しておる。しかしお前をはじめ家臣たちは、まだ心のどこかでなんとかなるだろうと思うておる。それこそ一凶じゃ」
 今にも泣き出しそうな眼の奥で、ぼうっと音をたてて何かが燃えだした。
 「こういう時は守りに入ったら負ける。西洋化すると申したら断じて成す! 史記にもこうある水を背にして陣すれば絶地(ぜっ ち)となる(背水陳爲絶地)=B孫子(そん し)もこう言うておるぞ兵は死地において初めて生きる(陷之死地然後生)≠ニ。今はその覚悟をする時なのだ! 兄上は自らの死をもってわしにこの覚悟をくれたのじゃ」
 言い出したら聞かない頑固(がん こ)なところは先々代の直格(なお ただ)と同じだと思いながら、意見を言ったところで聞き入れてはもらえないと(あきら)めた本政は、
 「やれやれ、本当に死地にならねばよいですが……」
 と、嫌味(いや み)を垂れながら深いため息を落とした。
 「本政──」
 直虎はすまなそうに赤らんだ両眼で彼を見つめた。
 「死ぬるときは須坂を(まくら)に共に死のうぞ」
 本政の両目が(にわ)かに(うる)み、「はい!」と応えた言葉は涙でかすれた。
 万之助が江戸へ戻るのとすれ違いに、江戸家老の駒澤式左衛門から矢継(や つぎ)ぎ早に(ふみ)が届く。
 最初の一通は八月十九日付で、その内容は小笠原図書頭長行(お がさ わら ず しょの かみ なが みち)様から軍資金が届いたとあり、更には「足りなければ相談してほしいとの有難(あり がた)きお言葉うんぬん」というもので、読んだ瞬間小躍(こ おど)りした直虎は、すぐさま本政を呼んで「ほれみろ」と言わんばかりに、
 「腹を決めればこうして見えぬ力が働くものじゃ」
 と、さも自慢げに手紙を見せつけた。まるで(きつね)にでもつままれたような顔の本政は、「殿おっ!」と涙をためて、直虎の手をきつく握りしめた。更に手紙には、つい最近奏者番(そう じゃ ばん)になったばかりの長行が、とんとん拍子(びょう し)若年寄(わか どし より)に昇格したことが(つづ)られており、「なんとも頭の切れる義人(ぎ じん)で、いずれ老中(ろう じゅう)になる日も近いのでは」と九鬼隆義(く き たか よし)と同様のことを書いて文を結んでいた。現にそれから間もなく、ひと月も経たない九月十一日、その言葉の通りに小笠原長行は老中格(ろう じゅう かく)へのスピード出世を成し遂げる。持つべきものは友であると、直虎は身の福運(ふく うん)に感謝した。
 二通目が来たのはそれから数日後の事だった。今度は幕府の様子を伝えた内容である。
 八月二十一日に武蔵国橘樹郡生麦村(むさしのくにたちばなぐんなまぬぎむら)(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩士(さつ ま はん し)がイギリス人を殺傷した事件の報告である。いわゆる『生麦事件(なま むぎ じ けん)』であるが、それを受けて幕府役人が大騒ぎしているとつづる。事の経緯(けい い)はこうである。
 薩摩藩の実質的な中心人物である島津久光(しま づ ひさ みつ)勅書(ちょく しょ)を持って、幕府に幕政改革を訴えるため七〇〇の軍勢を引き連れ江戸に入ったのは、ちょうど直虎が帰藩の準備をしていた頃だった。その後一行が京都へ帰る途中、生麦村に差しかかった時、東海道で乗馬を楽しんでいた四人のイギリス人と鉢合(はち あ)わせた。
 先頭の薩摩藩士は身振り手振りで「馬を降りて道を(ゆず)れ」と説明したが、イギリス人たちは日本のしきたりなど知らないから、そのまま行列の中央を逆行して進んだ。ところが久光の乗る駕籠(か ご)とすれ違おうとしたとき、供回(とも まわ)りの者が何か叫んだ。イギリス人たちは慌てて、それに驚いた馬が右往左往(う おう さ おう)したものだから、突然数人の藩士がイギリス人に()りかかったのだ。死者一名、重傷者二名の惨事である。
 これまで攘夷(じょう い)殺傷事件はなかったわけでない。しかしいずれも攘夷論者による個人的な行為であったのに対し、今回の場合、大名、すなわち幕府による行為だとイギリス側が解釈したところに重大な意味があった。やがてこの事件は賠償金(ばい しょう きん)をめぐって国際問題へと発展していく。
 幕臣の多くは久光に対して、おおむね「薩摩は幕府を困らせるためにわざと外国人を怒らせたのだ」と言っており、「幕府はイギリスを怖れているようだ」とは式左衛門の洞察(どう さつ)である。しかし東海道筋の民たちは「さすがは薩州さま」と歓呼(かん こ)して久光の行列を迎えたと言う。
 この事件のもう一つの大きな意味は、安政の大獄(たい ごく)により師吉田松陰(よし だ しょう いん)を幕府によって斬首(ざん しゅ)された当時尊王攘夷(そん のう じょう い)思想の長州藩の若き志士たちのほとばしるような燃える情熱を呼び覚ましたことである。
 「薩摩は生麦に()いて夷人(い じん)斬殺(ざん さつ)し、先に攘夷(じょう い)()を挙げてしまった!」
 といきり立ったのがこの時二十三歳の吉田松陰門下高杉晋作(たか すぎ しん さく)である。同年十二月、久坂玄瑞(く さか げん ずい)をはじめとした十二人の同志を伴って、自藩に内緒で品川御殿山(ご てん やま)に幕府が建設中の英国公使館を焼き打ちする。その後京都に上った久坂玄瑞は、見事な手腕で朝廷工作(ちょう てい こう さく)を繰り返し、幕府権威を大きく失墜(しっ つい)させる行動に出るのである。
 無論そんな先のことまで読めない直虎だが、(いや)な胸騒ぎを感じずにいられない。
 更に三通目はそれから二十日くらいして(うるう)八月十五日付と同月二十二日付の二度に渡って、これもまた重大な内容で、一つ目は「参勤交代の制度が緩和(かん わ)された」とあり、
 『方今(ほう こん)宇内(う ない)()形勢一変いたし(そうろう)(つき)……参勤(さん きん)()年割(とし わり)在府(ざい ふ)()日数御緩(お ゆる)メ……』
 と、幕府方針の布告(ふ こく)の写しが綴られていた。直虎は目を疑った。そして二つ目はその具体的な内容と、新たな参勤順を記した文面である。
 これらを要約すると──
 「まさに天下の形勢が一変した」という書き出しにはじまり、臨海藩(りん かい はん)は海軍振興を進め、そうでない藩も国威伸長(こく い しん ちょう)のため富国強兵(ふ こく きょう へい)を進めることを(うなが)した上で、各藩の財政の負担を軽減するため、これまで隔年(かく ねん)だった参勤交代を三年に一度に改め、江戸在留(ざい りゅう)期間も一〇〇日と大幅に縮めるとした、江戸幕府が始まってより続いてきた参勤交代の仕組みを変えるという寝耳(ね みみ)に水のお(たっ)しである。
 更に詳しく言えば、御三家と溜間詰(たまりの ま づめ)大名(江戸城内黒書院(くろ しょ いん)溜間に席のある大名)は三年のうち一年、その他の大名は例外もあるが、三年のうち約百日の在府となり、多くの大名は、一年を春(十二月〜四月)、夏(三月〜七月)、秋(六月〜十月)、冬(九月〜十二月)の四つに区切って、それを三年間で全十二期に分けたいずれか一期のみ在府すればよいこととなったのである。ちなみにそれでいくと、須坂藩は来年(文久三年)の冬が参府の期間であった。
 その他、必要な場合は嫡子(ちゃく し)が参府するのは自由で、定府(じょう ふ)大名については願い届けによって御暇(お ひま)が下される。また、それまで常時江戸に住まわねばならなかった妻子に対しても帰国が許可され、江戸屋敷の家臣も極力(きょく りょく)減らすようにと『心得(こころ え)』が示された。実質的には江戸にいる必要のない者は全員国許(くに もと)に帰りなさいとの意味である。更には年始などの重要儀礼以外における献上(けん じょう)や贈答品の慣習なども全て廃止とされた。要は江戸における大名の無駄な負担を軽減し、その分、国許の軍備を進め、しかるべき時に備えようとする幕府の思惑(おも わく)があった。
 横浜で刊行されていた英字新聞『ジャパン・ヘラルド(洋暦十月二十五日)』によれば、
 『この一週間に革命が行われた。静かにデモ一つ無く国の基本構造が変わったのだ』
 と証言しており、国家の骨組みを変える大改革に対し、何の騒ぎも起こさず受け入れる日本人の性質は、外国人の目になんとも不思議に映っただろう。
 とはいえ、こうも立て続けに重要な事が重なり、一つは幕府制度の根本的な変革であると、流石(さすが)の直虎も「いま江戸で何が起こっているのだ?」と居ても立ってもいられなくなる。
 これは『文久の改革』のうちの一つで、その背景には薩摩藩の島津久光が江戸に入ったことが大きく影響している。というのも、江戸に入る前久光は京都において、幕府に無断で公家(く げ)と接触し、安政の大獄の処分者の赦免(しゃ めん)復権(ふっ けん)越前藩(えち ぜん はん)松平慶永(まつ だいら よし なが)大老(たい ろう)就任、一橋慶喜(ひとつ ばし よし のぶ)を将軍後見(こう けん)とすること、そして過激派尊攘浪士(そん じょう ろう し)を取り締まることなどを綴った建白書(けん ぱく しょ)を天皇に提出しており、それとほぼ同じ内容の勅書(ちょく しょ)を得た上で幕府と交渉に臨んでいた。地方の一大名の改革案に、幕府は混乱するものの、勅命(ちょく めい)≠フ名のもとに結局その大部分を受け入れざるを得なかったという側面がある。いずれにせよそれまで長い間、朝廷の介在(かい ざい)しない政治を行っていた幕府が、朝廷を意識しなければ政治が行えないほど権威が落ちていたという一つの証しと言える。
 改革の中身はこの参勤交代の緩和の他、人事においては将軍家茂の補佐役として一橋慶喜の起用と松平慶永のとってつけたような政事総裁職(せい じ そう さい しょく)任命、また、京都における尊王攘夷過激派によって(いちじる)しく悪化した治安(ち あん)を取り締まるため京都守護職(きょう と しゅ ご しょく)を新設し、そこに会津藩主松平容保を起用するというものである。
 「江戸での動きがとれなくなる──」
 そう咄嗟(とっ さ)に判断した直虎は、要右衛門と北村方義(きた むら ほう ぎ)を呼んで密かに一つの命を下した。
 「横浜へ行け」
 「横浜……? して、またどうして?」
 「西洋の武器を扱う武器商人を探せ。見つけたら最新のライフル銃を百(ちょう)ばかりと大筒一門注文してすぐに取り寄せるよう話をつけろ。もう一つ、生糸貿易の西洋事情を探り、生糸を欲しがっている外国商人を探せ。いま海外貿易は、幕府の江戸廻送令≠フ縛りを受けて横浜への直送はできないことになっている。しかしそれを無視して海外と直接取引をしている糸師も多いはずだ。横浜在所の生糸を扱う問屋を調べて来い──」
 江戸廻送令≠ニは万延元年(一八六〇)三月に幕府が公布した海外貿易に関わる取り決めである。正確には五品江戸廻送令≠ニいうが、五品とは茶・水油・雑穀・蝋・呉服で、それまで市場に出回る諸国の産物は、一度江戸に送られ幕府指定の問屋を経てから江戸市内と各地に売られていたが、安政六年(一八五九)の横浜開港後、大量の生糸が直接横浜へ運ばれたため、江戸の生糸問屋はほとんど品薄となり諸物価の高騰を招いた。そこで幕府は海外輸出品の横浜直送を禁じ、すべて江戸問屋へ回送させ、そこで検査して荷主に買い受けるよう命じた。その結果、輸出生糸の買いあさりが進み、買入れ価格も開港前の二倍に跳ね上がる。
 直虎は続けた。
 「廻送令≠ヘ自由貿易を望む海外商人と売り込み商人たちの反感の種だ。いずれ緩和されるだろう。いまのうちに外国商人と直接つながっておき、緩和されたらいち早く横浜直送体制を可能にするのじゃ。よいか、今後の須坂藩の命運を左右する重要な任務だ。目的を達するまでは帰って来るな」
 二人の目付きが変わった。そして直虎は先日鎧甲(よろい かぶと)を売って得たうちの一〇〇両を二人に手渡し、「頼んだぞ」といつもの柔和(にゅう わ)な笑顔を見せた。

 さて、ここいらで、この頃の京都の様子を綴っておこう。
 幕末の流れを知るには京都における長州藩の動きに注目するのが理解しやすい。なぜ京都かといえば、そこに天皇がいるからで、まさに幕末のゴタゴタの(すじ)は、この朝廷の争奪劇(そう だつ げき)でもあり、長州藩のそれは、やがて討幕への潮流を作る最大の(いん)となるからだ。
 時の天皇は孝明天皇(こう めい てん のう)であり、もともと攘夷思想を持っていた。そして京都における時の政局は、薩摩藩が主導する公武合体派(こう ぶ がっ たい は)と、長州藩が主導する尊王攘夷派とに大きく二分されていたという構図がある。そもそも公武合体と尊王攘夷とは相反(あい はん)するものではないが、事の本質は幕府が開国まっしぐらなのに対し天皇は攘夷思想といった水と油を、公武合体という言葉で一つの物にまとめようとしたところに無理があった。その点、長州藩の尊王攘夷というのは天皇寄りの考え方だから、朝廷にも受け入れられやすく、京都の町を大腕を振って闊歩(かっ ぽ)することができたのである。
 もともと長州藩も公武合体の開国論を()し進めていたが、それを主導していた同藩の要職にあった長井雅楽(なが い う た)が、この年の一月に起こった坂下門外(さか した もん がい)の変を契機(けい き)失脚(しっ きゃく)したのを機に、故吉田松陰の門下や息のかかった者たちの台頭(たい とう)により、尊王攘夷の気運が一気に高まり、それを藩論としたという経緯がある。天皇側近の攘夷派の公卿(く げ)達を味方に付け、征夷大将軍職(せい い たい しょう ぐん しょく)にある徳川家茂に対し、幕府命令として攘夷決行を発令させようと、ほぼ強引といってよいほどの策をめぐらし躍起(やっ き)になった。西洋文明の脅威(きょう い)に対して、あまりに無知であったと言わざるを得ない。
 幕府にとっては苦しい立場であった。そもそも『征夷大将軍』とは本来()≠フ征討(せい とう)に際して天皇から任命された将軍であるから夷敵(い てき)(はら)うのが使命のはずが、朝廷側から見れば勅許(ちょっ きょ)なしの開国路線を突き進んでいたからだ。
 「将軍を江戸から引きずり出し、天子様(てん し さま)(もと)にひざまずかせよ!」
 これが時の長州藩の要求であり、九月、長州と行動を共にする急進派の公卿(く きょう)三条実美(さん じょう さね とみ)勅使(ちょく し)となって江戸に向かい、幕府に攘夷決行とともに将軍上洛(じょう らく)を強く迫った。
 これに対し、幕府は約束はしたものの、内部の意見対立は激しかった。何よりの問題は京都の政情不安(せい じょう ふ あん)である。京都では若い情熱をたぎらせた尊王攘夷派の過激志士たちが問答無用に暴れまわっており、そこへ行くということは襲撃(しゅう げき)されに行くと言っても言い過ぎでない。あとは予算の問題で、将軍が上洛するのにかかる費用が当時一五〇万両だったというからただ事でない。加えて街道筋に在する諸藩の普請負担(ふ しん ふ たん)が大きすぎるということだった。しかし若干(じゃっ かん)十七歳の将軍家茂はまだ若く、そんな政治的な思惑以前に一つの蟠りがあった。天皇家の和宮を嫁にもらっておきながら、一度も天皇と直接会って挨拶をしていないことである。家茂とは政治の最高権力者でありながら、極めて民衆寄りな、そうした繊細な配慮のできる男なのである。そして、
 「この上洛によって朝幕(ちょう ばく)関係が円満になるならば、巨額の費用も惜しむに足らず」
 と、期限を定めた条件付きでついに英断し、実に第三代将軍徳川家光以来、二二九年振りの将軍上洛が決定したのである。
 それに伴って、老中格に昇進した小笠原長行は上坂を命じられ、勝海舟らと一足先に幕府艦蟠竜丸(ばん りゅう まる)で海路大坂へと向かう──。

 横浜に走った北村方義が朗報を持ち返ったのは間もなくのことだった。
 「生糸を欲しがる外国商人を見つけました! 先方もえらく乗り気です!」
 と、その声はおのずと高ぶった。
 「御苦労であった。意外と早かったな。要右衛門はどうした?」
 「彼はまだ武器商を探しております。向こうで私が生糸、彼が武器商を担当しようとなりまして、彼の方はもう少し時間がかかりそうです」
 「そうか、で?」
 「ロイス・ブーレとエドアール・シュミットというフランス商人です──そしてリヨンの町から来たというベルテンジーという男と合って話をしました」
 「言葉はどうした?」
 「横浜表の出店に須坂に縁故のある男を見つけまして──」
 安政六年(一八五九)に横浜港が開港して以来、横浜には外国人居留地が作られジャーディン・マセソン商会やデント商会といった商社の進出が始まっていた。イギリスやアメリカに遅れてフランスも例外でなく、その最初の商人としてガルニエという名が残る。その時すでに生糸貿易は始まっており、この文久二年(一八六二)という年には、パリのレミ・シュミット社のブーレとエドゥアールが、居留地内に絹製糸工場を設けて操業を開始したばかりで、二人は一攫千金を求める商人だった。加えてフランスのリヨンからも絹買付人が来日しており、横浜の波止場はちょうど世界への窓口として機能しはじめた時分。方義は続けた。
 「が、一つ宿題を持ち返ってございます。見本を見せろと言われました──そこで急いで戻った次第。すぐに須坂産の特級品を見つけて横浜に戻らねばなりません」
 「特級品……?」
 直虎の脳裏に相森で糸師を営む、土で汚れたお糸の(つや)めいた瞳の色が思い浮かぶ。
 方義の話しによれば、ヨーロッパ全土における(かいこ)の伝染病の大流行により壊滅的な被害を被ったヨーロッパの絹織物産業は、原料不足が深刻な問題になっていると言う。特にフランスでは、一八〇一年に発明されたジャカード織機によって、機械化による大量生産が行われるようになってより、絹織物はナポレオン三世統治下における一大輸出品で、その品質は世界一との評価を受けていた。繊細な織りのリボンは、婦人服のフリル等に使用され、絹織物産業の拠点ともいえるフランスのリヨンの町は、急速な発展を遂げてきたのだ。そんな中、ただでさえ原料となる生糸を輸入に頼っていたものが、(かいこ)の伝染病の大流行により失業者が急増し、民衆の不満が一気に高まった。
 「生糸を欲しがっているのは特にフランスです。彼らが欲しいのは、上質な生糸と病気に強い蚕です」
 と方義は言う。そして、現在フランス人らが好んで買い取っているのは前橋産の生糸であり、上州はじめ以下武蔵、奥州、甲州、越前、町田、美濃、但馬その他の生糸が参入を図ろうとしのぎを削っていると続けた。
 「上田産はどうじゃ?」
 直虎は身を乗り出して聞いた。
 「横浜の生糸問屋も回って来ましたが、小松屋平兵衛、中沢屋五兵衛、糸屋万吉、藤屋善十郎、いずれも大きな店構えをしており、みな口を揃えて信州産を高く評価していました」
 「そうか!」
 思わず打った膝が赤く腫れあがり、直虎は痛そうに暫くさする。
 「で、いくらで売れそうじゃ?」
 「一貫(約三・七五キログラム)十五両が相場だそうです。生糸一貫の元値が八、九両、更に駄賃を差し引いた残りが儲けです。ただしこれは廻送令を無視した場合で、従った場合、江戸の問屋に安値で引き取られた上に検査の手数料として売値の一分五厘を取られます。うまみのある商売とはいえません。これがもし緩和され、外国商人と直接取引ができれば、生糸貿易の主導権を握ることができるでしょう。生糸貿易はまだ始まったばかりです。その時に備えていかに良質の生糸を生産できるかが鍵です!」
 方義も高揚ぎみだが、「しかし──」と少し声を低くした。
 「生糸には太い糸と細い糸があるようで──」
 「太い糸と細い糸? なんじゃ、それは?」
 つまり生糸にはその生産段階で、六粒から七粒の繭を付けて繰ったものと、八粒から十粒ないしそれ以上の繭を付けて繰ったものがあり、前者が細糸、後者が太糸だと教えた。絹織物の生産量減少と価格高騰を余儀なくされたヨーロッパでは、生糸を細くすることによって原料を節約する動きが広がっており、
 「いまの主流は細い糸です。上州産や信州産は細糸で、しかも節がなく丈夫なため、あちらさんは喉から手が出るほど欲しがっております。しかし須坂産の物がどちらか分かりません。私はこれから糸師を回り──」
 「細糸じゃ」
 直虎は以前、糸師のお糸からそのやり方をすっかり教わっていたため、すぐにそれと知れた。方義は不思議そうに直虎の意味深な表情を見つめ返す。
 「なれば話は早い。これから仕入れて──」
 「それには及ばん、わしに心当たりがある。長旅ご苦労、方義君は『大谷の温湯(ぬる ゆ)』にでも浸かって暫し身体を休めるがよい」
 『大谷の温湯』とは現在の須坂温泉のことである。当時地元の人間はみなそう呼んだ。
 「そういうわけにはいきません!」
 方義の表情には、一度引き受けたからには最後までやり遂げるといった強い責任感がにじみ出ていた。それにつけても頭の切れる男だと直虎は感心しきり。僅かの間にヨーロッパの生糸事情をここまで細かに掌握し、売り込みのツボまできちんと押さえて報告して来るのである。こうした忠実で有能な家臣たちに支えられて自分がいることに、直虎は改めて感謝した。
 「これは御下命(ご か めい)じゃ。言う通りにせい!」
 そう叱り付けると、さっそくお糸のところに顔を出そうと立ち上がった──。
 
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(十一)七両と二分
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 直虎がいつもの町人姿でお糸の家に着いた時、彼女はちょうど仕上がったばかりの生糸を詰め込んだ背負子を背負って、あばら家を出るところであった。ところが薄化粧を施し、口に紅を乗せたその表情は、一瞬あの土で汚れた彼女とは別人でないかと見まごうた。
 「お出かけか?」
 「あら良ちゃん、ごめんなさい。これから取り引きに出るところなの」
 お糸は「今日は相手をしてられない」と言うように、慌ただしく草鞋の紐を結んだ。取り引きに出るのに化粧とは、糸もやはり女かと、すっかり糸師の手に変形している白い甲に、彼はそこはかとない美しさを見た。
 「どこまで行くのだ?」
 「善光寺さん。いつも納品の時期になると、上田の生糸商人が近くまで来るの。だからその周辺の糸師さんが集まって取り引きが行われるんだ」
 「領内の糸商人とは取り引きしないのか?」
 「須坂は糸仲間の世話人が仕切っているし、仲間内で生糸を作っているわ。その方が安くできるし、わざわざうちから高価な生糸なんか買わない」
 「それにしても随分な量だね。いったいどれくらいあるのかな?」
 直虎は背負子いっぱいの生糸の塊を見て聞いた。
 「これで一貫くらいかな? 着物三、四反分?」
 「いくらで売れるんだい?」
 「七両ばかり。もうちょっと上げてくれって言うんだけど、なかなか……でも私は腕がいいって評判なのよ」
 七両と聞いて直虎は少し安いなと思った。方義は生糸一貫の元値は八、九両で、外国はそれを十五両で買うと言っていたのに、あるいは須坂という片田舎ではそれが相場なのかもしれないが、商業に疎い彼は、「余剰は全部上田藩領の取り分というわけか」と思うと、何だか騙されているような気になる。
 糸は「父ちゃん、夜には帰るから!」と、家の中で寝ている父に向かって言うと、そのまま「また来てね」と言い残し、香の薫りを漂わせて彼の前を通り過ぎた。
 「お糸ちゃん──」
 直虎は糸を呼び止めた。
 「その生糸を全部わしに譲ってもらえんか?」
 「ダメよ。これを売らなきゃ生活できない」
 お糸は軽い冗談と受け止めて取り合いもせず歩き出した。直虎はその後ろを追いかける。
 「ただでとは言わん。十五両で譲ってくれ」
 お糸は足を止めて突然笑い出した。
 「織物屋でも始めるつもり? それにしたって仕入れで十五両じゃ大赤字じゃない! だいいち良ちゃん、そんなお金持ってるの?」
 笑いしま再び歩きはじめた糸の隣を、直虎は同じ歩調で連れ添った。なるほど彼女の言い分はもっともで、十五両で仕入れて織物四反作り、仮に一反百(もんめ)で売ったとしても全く割に合わない。一瞬にしてそんな損得の計算をしてしまう彼女の商才に驚かされながら、生糸とはそれほど価値のあるものかと初めて知った思いである。それ以前に、生糸一貫七両で売るなら、せいぜい八、九両で買い取って、残りの六、七両を儲けにしてしまえばいいのに、当の直虎にはそういう発想が出てこない。その点無欲というか商売下手というか、彼は兄直武に劣らないほどのお人好しなのだ。
 金は天下のまわりもの──
 直虎に限らず当時の士族には少なからずそういう考えがある。自らは稼がず、全て年貢や税金で生活できてしまう彼らは、金の出入りの調節が全てで、ゼロから価値を生み出し、金銭を獲得する術など生まれた時から持ち合わせていない。そのくせ武士たる誇りは高く、苦しい時は、耐え忍ぶところに美徳を見出してきた。
 ところが天保の大飢饉以来、三十年近くも財政難が続いてくると、さすがに高楊枝をくわえて見栄を張っているわけにいかなくなった。いまはちょうどその過渡期で、時を合わせるように西洋の功利主義とか実利主義とか合理主義とかいう新しい思想が怒涛のようになだれ込み、否が応でも変わらざるを得ない状況を、幕臣の中で彼ほど強く感じていた者はないかも知れない。
 「そんなこと言わずに頼むよ」
 お糸はふっと立ち止まり、「はい」と言って右手を差し出した。いますぐその十五両をよこせと言うのである。
 「いまはないが明日には届ける」
 「そんなこと言って──また顔も見せずに江戸に行かれたら大損だわ!」
 糸は再び歩き出した。
 「どうしても須坂の生糸が必要なんじゃ」
 「だから、どうして? 訳も話さずいきなりくれなんて言われても納得できないでしょ? この手塩にかけて育てたかわいい生糸ちゃん達の嫁ぎ先はもう決まっているのぉ!」
 「そこをなんとか」と迫ったところで、糸はついに怒り出した。もともと癇癪を起すような女でない。ところがその口調は厳しく、初めて見るきつい目つきに直虎ははたと尻込んだ。糸にしてみれば良ちゃん≠フ関心が、自分でなく生糸に向いていることが許せない。いつか自分にくれた七度返しの雑俳を思い出し、「あんな恋文を渡しておいて、何も言わずに江戸へ行ってしまうなんて」と十歳の頃の秘密の出来事を思い出し、更に嫁入りの年頃も過ぎてしまった今の今まで、何の音沙汰もなく突然姿を現して、挙句に自分のことなどお構いなしに「生糸を譲ってくれ」はないだろう。
 「ずっと待っていたの!」
 と、糸は逃げるように駆け出した。
 意味が飲み込めない直虎は、慌てて後ろを追いかけた。
 「須坂のために必要なんじゃ」
 「意味不明! お殿様にでも頼まれた?」
 ふと「それじゃ──」と直虎は手を打った。
 「実はそうなんじゃ。殿がお召し物を新調するとかで、それも須坂産の生糸でこしらえたいと、いま家臣たちが手を尽くしているところなのだ」
 「殿様なんて呑気なものね!」
 「ばかっ! そんな言葉が殿の耳に聞こえたら首が飛ぶぞ!」と直虎は少し脅してやった。
 「いいわ、譲ったげる!」
 「そうか!」と商談成立の握手を交わそうとした時、
 「でも一つだけ条件があります」
 引き眉でいっそう美しく感じる糸の眼は真剣だった。
 「なんじゃ、申してみよ。殿にご相談して可能ならば何でもしよう」
 糸は少し戸惑って、やがて意を決したようにこうつぶやいた。
 「お嫁にもらって……」
 「誰を? おお、この生糸か」
 「ちがう! 私に決ってるじゃない!」
 「誰にじゃ?」
 「良ちゃんよ!」
 我が耳を疑った直虎は、糸の眼光に言葉の真実を見てとって、暫く呆然自失してうろたえた。その様子から、彼の心に自分が棲んでいないことを悟ったお糸は俄かに笑い出し、
 「冗談よ、本気にした?」
 と、ため息まじりに背負った背負子を足元に置いた。所詮かなわぬ思いであることは彼女自身知っていた──下級とはいえ士族と農民とは一緒になれない世の常だ。そんなことは分かっていたはずなのに……
 「七両と二分でいいよ……」
 俯き涙をこらえながらそう言い残し、糸は足早に立ち去った。
 この年、国内の生糸輸出量は横浜開港以来ピークに達した。須坂産の生糸も飛ぶように売れ、山城屋八右衛門とか原田屋新兵衛といった儲けがしらも出始めた。それに伴って生糸業に参入する商家も急増し、職を糸師に鞍替えする民も以前の三倍以上に膨れあがったわけだった。ところがこれよりわずか後、質の高い生糸の貿易競争が激化し、その価格がみるみる高騰するのは翌文久三年のこと。生糸輸出の好況も束の間、一方で世情を騒がす尊王攘夷運動が激烈化すると、外国との交易を阻止する動きが強まった。幕府は江戸廻送令を厳格に実施する布告をし、事実上の海外貿易を禁止して生糸の横浜への出荷を厳しく取り締まる。その結果、生糸の価格は暴落し、蚕糸業全体が大打撃を受けることになる。
 「殿、話が違います! 廻送令は緩和されると申したではありませんか?」
 本政は目くじらを立てた。
 「そう怒らずともよい。こういうこともある。しかし幕府とて、外国の圧力にどこまで耐えられるかな?」
 直虎の鋭い視線は、遠い未来を見据えているようだった。
 話を文久二年に戻す──。
 武器商人を探している要右衛門の方は、年が暮れようとしても帰って来る気配すらない。路銀はすっかり使い果たしているはずで、尽きたら江戸屋敷で調達せよと伝えてあるが、江戸家老式左衛門のところにはいまだ姿を見せないと言う。直虎は陣屋にしんしんと降り積もる雪を眺めて、どんより曇った天を仰いだ。


 明けて文久三年(一八六三)は、徳川幕府が崩壊へと静かに動き始めた年である。この年の五月には長州藩が諸外国を相手に下関戦争を、七月には薩摩藩が薩英戦争を立て続けに引き起こす。すなわち地方の一大名が、幕府を盾にして勝手に諸外国を相手に動き出したのである。これについては後に記すことになると思うが、まずは順を追って進めなければなるまい。その発端となったのが、開国路線をひた走って来た幕府が京都において、長州藩の策謀により一転して攘夷路線への切り替えを余儀なくされたことにある。
 三月十一日──
 徳川幕府第十四代将軍徳川家茂は上洛して二条城に入った。そしてそこから、長州藩尊王攘夷派による画策が現実のものとなっていく。将軍の上洛を待っていたかのように、孝明天皇による賀茂神社(か も じん じゃ)行幸(ぎょう こう)がお膳立(ぜん だ)てされていたのだ。
 賀茂神社は下鴨神社と上加茂神社の総称で、下鴨神社は賀茂氏の祖神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とその娘である玉依媛命(たまよりひめのみこと)を祀ったもので、上加茂神社は賀茂川の川上から流れてきた丹塗(に ぬ)りの矢によって身ごもった玉依姫命(たまよりひめのみこと)の子である別雷神命(わけいかづちのみこと)を祀ったものだから、行幸の表面上の意味は、天皇家と将軍家、つまり家茂と和宮の世が末永く続くことを祈願するものであるが、策謀の真意は、将軍が天皇に従ったという事実を作ることであった。つまり、今は天皇統治の世であることを満天下に示し、幕府権威の失墜(しっ つい)(ねら)った長州藩の画策である。幕府とはいえ徳川とは一つの巨大なお家にすぎない。日本という国はそんなお家の集まりで構成された、いわば徳川家はその元締めというだけなのだ。本来日本は天皇統治の国なのだから、夷敵に対してすべき使命を果たせないお家などもはや必要としない。日本という国の舵取りは、いまや「天子様中心の国家体制の許で行われるべき」とするこれが長州尊王攘夷派の思想的筋である。その策謀に家茂はまんまとはめられたわけだ。
 その日沿道は、歴史的光景をひと目見ようと、数日前から京につめかけた人々でぎっしりうめつくされ、中には神仏でも拝むように柏手(かしわ で)を打つ者もいたという。
 長州藩の要求は、幕府に攘夷方針を打ち出させることである。しかしすでに開国を果たし後戻りできない幕府にとっては、いまさら攘夷決行の命など下せるはずがなかった。激しい圧力に耐えながら帰東の約束である三月二十二日を待つが、そうはさせない尊王攘夷派はいつまでたっても帰東の勅許を与えず、続いて四月十一日には、今度は石清水行幸(いわ し みず ぎょう こう)を行うと言い出した。
 そしてこの行幸にこそ長州藩の真のねらいがあった。というのは石清水八幡宮は古くより源氏の武神として戦いの神様として信仰を集めている神社で、つまり石清水八幡宮は攘夷の象徴であり、すなわち石清水行幸(いわ し みず ぎょう こう)イコール攘夷祈願(じょう い き がん)というわけである。
 幕府側は何とかそれを阻止(そ し)しようと、「過激派の公卿が長州浪人と結託(けっ たく)し、行幸中の将軍を殺害する計画がある」という流言を広める姑息(こ そく)な手段まで考えた。それを理由に行幸中止を申し入れるが、長州藩の大反発を食らってあえなく失敗に終わる。そして迎えた行幸当日、絶体絶命の幕府が苦し紛れにとった行動は仮病(け びょう)作戦≠セった。
 「将軍家茂公は風邪(か ぜ)で動けぬ。申し訳ないが供奉(ぐ ぶ)を辞退いたす」
 と前日になって言う。「ならば代理人を立てよ」とまくし立てられ、やむなく行幸に参列したのが将軍後見職(こう けん しょく)一橋慶喜(ひとつ ばし よし のぶ)だった。ところが攘夷祈願を済ませた天皇が攘夷の節刀(せっ とう)≠将軍に授ける段になって、
 「腹が痛いっ!」
 と、これまた慶喜は仮病を使って応じることはなかった。
 怒った尊王攘夷派は将軍に攘夷実行の命令を出させるため、あの手この手を使って執拗に圧力を加えるが、将軍もいつまでも京都にいられない事情があった。というのも、前年起こった薩摩藩による生麦事件の賠償(ばい しょう)問題で、返答の次第によってはイギリスが江戸を攻撃するといった危機的な状況に置かれていたからである。イギリス軍艦の砲口は江戸の町に向けられ、今すぐにでも攻撃が開始できると威嚇し、浦賀の住人たちは家財道具一切を運び出して保土ヶ谷へ避難したほどである。
 その対応に抜擢されたのが、老中格であり外国御用掛(がい こく ご よう がかり)の職にあった小笠原長行だった。
 慶喜は、
 「わしが帰るまで交渉を引き延ばせ。できるならば、賠償金の支払いを拒絶(きょ ぜつ)し、横浜の鎖港(さ こう)を実現しろ!」
 と、今の今まで開国を論じていた者とは思えない科白を吐いた。時間的余裕(よ ゆう)などほとんどない。この期に及んで戦争を回避しつつ、賠償金の支払いを拒絶(きょ ぜつ)し、更には既に開港している港を封鎖するなどお釈迦様でもできるはずがない。重く頭を抱えながら長行(なが みち)は海路横浜へ向かう。
 慶喜にしてみればそうする以外になかったのだろう。将軍を残して自分だけ帰るわけにいかず、攘夷決行問題をうやむやにしたまま将軍を連れ帰ればそれこそ勅命に背くことになり、かといってこれ以上の長居は将軍の命を(ねら)う輩に襲撃される危険性が増すばかり。
 苦渋(く じゅう)の選択を迫られた幕府は、遂に将軍退京の勅許(ちょっ きょ)獲得を条件に、四月二十日、
 攘夷期限五月十日──
 という約束を交わし、諸大名に通達してしまうのだった。
 この決定により、日本──というより長州藩は、下関(しもの せき)において、諸外国を相手に勝てるはずのない戦争の火蓋(ひ ぶた)を切って落とす。そして、攘夷決定を見届けた慶喜は、できることなら関わりたくない生麦事件の賠償金交渉真っ最中の、陸路をゆっくり江戸へと向かう。
 というのは下々(しも じも)の話しで──、
 孝明天皇と謁見(えっ けん)した家茂の二人の関係は、至って穏やかであったと言ってよい。和宮(かずのみや)を江戸に(くだ)らせてから、その実の兄たる天皇に初めて目通りした家茂は、婿として、また男として、ひとつ大きな責任を果たしたことに胸を撫でおろす。この徳川家茂という男、幕末改革派の視点から見れば大悪人のように取られるが、その実際は、歴代の将軍きっての若き人格者であり、日本という国を一つにまとめようと、皇族である一人の妻だけを愛し抜いた誇り高き人間愛を知る人物と見ゆる。
 「和宮は元気にしていますか?」
 「はい、お兄様。手前の大奥にてすこぶる健やかにお過ごしです。つい先日も京の土産物を贈ったところでございます」
 「仲睦(なか むつ)まじいようですね。喜ばしい限りです。ふつつかな妹ですが、これからも末永くよろしくお願いします」
 「もったいないお言葉です。(わたくし)の方こそ」
 「ところで攘夷命令を下したようですが大丈夫ですか? 江戸の方では諸外国との交渉事が増えていると聞きますが、どうか上手に対応して下さい」
 「お兄様のお心遣いに感謝いたします。退京の勅許を頂いたからには、これより私めは大坂へ向かい、船で周辺を視察し攘夷に備えたいと思います。防備等の必要性を(かんが)み、その報告を致してから江戸に戻ろうと存じます」
 「ありがたいことです。よろしくお願いします」
 家茂はその後大坂城へ入り、勝海舟の操る順動丸(じゅん どう まる)に乗船し、兵庫、西宮(にしのみや)沿岸、紀淡海峡(き たん かい きょう)などを視察して再び二条城に入る──それからの経緯(けい い)はまた後ほど綴ることになるだろう。


 さて、江戸の方へ目を移してみよう。
 参勤交代緩和の命が下されてから、諸家の大名妻子や家族の帰藩は、文久二年の冬から翌文久三年春頃にかけて集中した。そのため各国許へ至る街道は大混雑し、宿場の人手も疲労困憊して、幕府はお供の人数を減らすようにとか、関所の複雑な手続きを簡素化するようにとか、そんな細かな命令まで下さなければならないほどである。
 文久三年(一八六三)の三月には、上田藩の妻子家族も信州へ帰藩することとなり、江戸上田藩邸下屋敷は国許からの手伝い人足も加えてその準備に追われていた。
 「なぜそんな片田舎へゆかねばならぬ? わらわは江戸がよい!」
 「公方様のお下知です。仕方ないではありませんか。さっ、早く帯をお締め下さい」
 「イヤじゃ!」
 と駄々をこねているのは上田藩の姫君俊である。華やかで気風の良い江戸の暮らしがすっかり気に入っていると見え、信州の上田へ行くのを拒んでいるのだ。
 「俊姫様! あまり松野を困らせないで下さい。それとも襦袢(じゅ ばん)のまま参りますか?」
 「意地悪はキライじゃ。そんなに行かせたければ、わらわを行きたいと思わせてみよ」
 俊は「こんな着物はイヤじゃ」と脱ぎ捨てた。松野は困った顔をして「道中その土地々々に美味しい餅や団子がある」と教えれば、「どんな団子じゃ?」と一瞬気を引くことに成功するが、無論上田を発ったのはもう二十年も前のことなので覚えているはずもなく、松野の曖昧な応えに満足しない俊は、「もうよい」と言って襦袢姿のまま庭に飛び出した。そこには帰藩のお供の男たちが長持ちを並べ、自国から応援に来た男達も含め、屋内から奥方や女中たちの荷物を搬出している真っ最中。突然現れた下着姿の俊を見て、全員驚いた様子で平伏した。後を追いかけて来た松野は慌てて着物を羽織らせたが、そんなことはおかまいなしに、
 「お前たちの中で上田へ行ったことのある者はおるか?」
 と、俊は恥じらう様子もなく男たちに聞いたので、松野はその場に膝をついて頭を垂れた。すると中の数人の男が手を挙げた。その者に俊は、
 「上田への道中、ほっぺが落ちるほど美味しい食べ物はあるか?」
 と聞く。すると男の一人が、「浦和宿の(うなぎ)と焼き米が(うも)うございます」と答えた。
 「ほお、ウナギか! 焼き米とはどういうものじゃ?」
 「新名物やき米≠ニいう看板を掲げている茶屋が数軒ございまして、(もみ)のまま米を焼き、それを()いて殻を除くのですが、これが香ばしくてたまりません。拙者などいつも歩きしま食っております」
 「うまそうじゃなぁ! ほかはどうか?」
 「うどんです。たいていどこの茶屋にもございますが、歩き疲れているせいか、どこの宿場のうどんも旨い。そして信州に入ったらなんといっても蕎麦でございましょう。江戸前の蕎麦もよろしいが、信州のものは一味違います」
 「どう違うのじゃ?」
 「蕎麦に深みがございます。本物の蕎麦といいますか、一度食ったらクセになりましょう」
 「そんなに美味いか?」
 「そりゃもう!」
 「ほかはどうじゃ?」
 「あとは饅頭でございましょう。その土地その土地の味があり、拙者は次の宿場にはどんな饅頭があるかと楽しみで、それだけで上田から江戸へ歩き通せてしまいます。中でも高崎宿の饅頭は格別です」
 俊は生唾を飲み込んだ。
 「その方、名は何と申す?」
 「赤松小三郎にございます」
 「サブちゃんだな。よし、覚えておこう。褒美をとらす。今日ここに手伝いに来ている男どもは何人じゃ?」
 「六十名ほどにございます」
 「松野、出前を頼め。六間堀(ろっ けん ぼり)の『松の寿司』から五〇〇文の特上握りを六十人前届けさせよ」
 松野は慌てて目を丸くした。
 「俊姫様、勝手にそのようなことをされては殿に怒られます!」
 「忠礼(ただ なり)など怖くない。五〇〇文の最上級の握り寿司を人数分じゃ、よいな」
 「姫様! 簡単におっしゃいますが、いったいいくらになるとお思いですか!」
 「七両と二分ほどになるかと」
 赤松小三郎が涼しい声で答えた。
 「おぉ、サブちゃんは頭も良いのだな! うむ、気に入った。何か困ったことがあったら申して来い。いつでも相談に乗ってやるぞ」
 俊はそう言うと、道中の食い道楽を思い浮かべて嬉しそうに屋内に戻った。その後を追いかけた松野は、
 「俊姫様、なんて事を! こんな始末では嫁のもらい手がなくなりますよ」
 「お生憎(あい にく)さまじゃ、わらわは嫁に行く気などない。それよりアノ着物を着ていくことにした」
 「ようやく行く気になっていただけましたか」
 「うむ。わらわはお饅頭(まん じゅう)とお蕎麦(そ ば)が食べたくなった。早よ上田へ参ろう! アノ着物を持ってこい」
 「あの着物とはどの着物のことでございましょう?」
 「ほれあれじゃ、(とら)さんが似合うと言うた西陣の鶴のやつじゃ」
 「虎さん……? 虎さんとは誰でございます?」
 「ええい、説明するのが面倒じゃ。早く持って来ないと気が変わってしまうぞ」
 「はい、はい……」
 松野は世話の焼ける姫だと思いながらも、それが楽しい事のように、やがて所望の着物を取ってくると、ようやく着させて駕籠(か ご)に乗せた。
 
> (十二)采薇(さい び)
(十二)采薇(さい び)
歴史・時代小説 検索エンジン 奇譚・古事記
 須坂藩の藩校『立成館』は中町にある。
 建坪三十八坪ほどの茅葺(かや ぶ)き平屋建ての質素なものだが、それでも五十人ほど収容できる大広間では、藩士の子弟たちに教育が施された。そこには儒官一人に助教授四、五人のほか茶童が二人ほどおり、通う学徒たちは朝四ツ半時(午前八時頃)といえば音読を取り入れた読書をし、午後は日によって講義や研究発表、詩文会や算術などの学習をするよう時間割が決められていた。須坂藩江戸屋敷にも『五教館』という藩校があり、同等の教育が行われている。
 藩政改革以来、直虎は教育の重要性を思い知らされた。しかもあの時は、本来、人格を磨くための教育が悪用されたのである。よほど頭にきたので、
 『最近、文武両道を怠る者がおるようだがもってのほかじゃ! 士族たる者、学ばなければ武士を名乗る資格などない! 今後、学ばぬ者は取り調べのうえ減俸することもあるゆえ心せい!』
 と、きつく触れを出したほどである。
 藩政改革のとき、関わった官僚の断罪と合わせて、道徳を乱した心学を教えた『教倫舎』を廃止してしまったが、心学の全てが悪かったかといえばそうでもない。『教倫舎』では二と七の付く日、つまり二の付く日は学徒の友人知人が集い、また七の付く日は講話が開かれ、そこは武士や農民や町民の分け隔てなく、たとえ女性であっても参加が許され、儒学書『礼記(らい き)』の「男女七歳にして席を同じうせず」の教えであろうか、男女は(すだれ)で仕切って隔ててはいたものの、領民に対して開かれた教育が行われていた。直虎は、そんな良き伝統は残していかなければいけないと思う。
 藩校に限らず寺子屋に目を向けてみても、須坂藩内の各村々には複数存在しており、そこで師匠を務める者は士族ではなく僧侶や農民、あるいは医者などが九割以上を占めるというのも須坂藩の特徴であった。そして寺子屋では読み書きや商業上の一般知識を教えたが、中でも特筆すべきは、井上、仁礼、八町の三カ村においては、当時にして女性の師匠が存在していた事実である。いわば須坂藩はこの当時にして民間主導型の教育体制が既にできあがっていた教育大国と言っても過言でないだろう。
 その日──
 『立成館』では、なぜか町人姿の直虎が、自らが弁士となって狭い部屋にあふれんばかりの聴衆を前に講話を説いていた。
 「なぜわしはこんな所でこんな事をしておる?」
 腑に落ちない状況に内心首を傾げながらも、その論舌は次第に流暢になり、北村方義や中島淡水ら同校の教授陣をはじめ家老の丸山本政まで顔を揃えて、ついには受講者全員の感心と感動がどよめき拍手喝采が沸き起こった。藩主になる以前、私塾を開こうと考えてはみたが、まさかこのような形で実現するとは思ってもない直虎は、開け放たれた障子戸の外から差し込む晩春のうららかな陽光を見つめ言葉を次いだ。
 「そんなわけで今朝ワラビをたんと採って来たから帰りに好きなだけ持ち帰ってくれたまえ。まあある分しかないが」
 そうして縁側に置いてある(わらび)が山ほど入った頭陀袋(ずだぶくろ)を指差した。
 ──今朝目が覚めて、家臣たちの目を盗んでいつものように陣屋を出たのは吉向焼の窯跡を見ておこうとふいに思い立ったことによる。父直格の発案により兄の直武が作った須坂吉向焼の釜工場であるが、閉鎖されてより小田切辰之助が吉向の門人を抱えてひっそりと須坂焼きというお庭焼きで日常品を焼いているとは聞いていたが、実際現場に赴いたことはなく、一度見ておかねばと思いつつ、過去を振り返っても仕方がないとの思いもあって、いつも後回しにしてきたものだ。今朝に限ってそのことが無性に気になり、思い立ったらどうにも行かずには気がおさまらなくなったのだ。
 どこかで(にわとり)()いていた。
 町人姿の着流しに着替えた彼は、丁髷(ちょんまげ)隠しに手拭いで頬被りをし、早朝の冴えた空気の中に飛び出せば、どこからともなく雉鳩(きじ ばと)の声も聞こえた。
 陣屋内母屋の藩主の部屋(公の間)から庭園を挟んで反対側の笹藪(ささ やぶ)をかいくぐって進めば、非常門から陣屋の外に出られる。それは万が一の避難や逃亡用の秘密の通路であるが、今となっては家臣の目を免れ陣屋の外に出るための都合のよい抜け道である。
 直虎は門の鍵を開けて陣屋の外に出た。
 すると眼前にそびえるのは標高四九〇メートルの鎌田山(かま た やま)という小さな里山で、須坂陣屋の後方を守るようにしてあるこの山を、地元の人間はかんだ山≠ニ呼んでいる。吉向焼の窯跡はその山の反対側、坂田山とのくぼみのような場所にあるが、山頂に登れば眼下に須坂藩領を一望でき、遠く千曲川のきらめきや北の松川、南の百々川(ど ど がわ)の扇状地形、松代藩の領地も手に取るようにして掌握できた。西の北信五岳の山々とその左遥か遠くには万年雪で輝く飛驒山脈も眺望でき、目的地へはその山頂経由で行く手もあるが、急峻な登り坂は撃剣所や柔術場の体力増強の稽古に使われるくらいで、よほど気が向かない限り登る気にはなれない。大抵は山裾を左回りに行くのが一般的だ。
 途中、一人の青年と出会う。
 「よう信敏(のぶ とし)、久し振りじゃなあ。こんな早くに何をしておる?」
 早朝の心地よい大気の中、信敏と呼ばれた男は腰に頭陀袋(ず だ ぶくろ)をさげており、山裾の茂みの中で山菜でも採っている様子。最初直虎の声に不審な表情を見せたが、それが見覚えのある顔であることを認めると、みるみる表情を変えて足元に駆け寄りひざまずいた。
 「りょ、良山様──いえ、今は直虎様ですね! 殿こそそんな恰好で、しかもこんな早朝におひとりで……」
 「元気そうだな? 父には帰藩の前、無理を言って江戸に来てもらい政務を手伝ってもらっていたが、お前とは十年ぶりか?」
 「そんなになりましょうか?」
 信敏は恐縮した表情で顔をあげた。
 「あの直武様が身罷(み まか)られたと聞いた時は驚きました……しかし直虎様ならこの須坂を一層盛り立ててくれましょうな。そうだ、また当家で殿をおもてなししたいのでいつでも遠慮なくお運びください」
 「松茸尽くしの膳か? そりゃよい! ──だが、残念だが非常の課物は禁止じゃ。たくあんでよい」
 「接待が課物になりますか?」
 信敏はお堅い方だと笑った。彼の父は田中新十郎信秀、通称田中主水という田中家五代目当主で、この三月、江戸藩邸の庶務仕事をするため急きょ江戸に昇った勘定方である。家は代々主に穀物を扱う商人で、初代田中新八は小山村上新田(現須坂市穀町)で穀物の他、菜種油や煙草、綿や酒造業などの商いで巨万の富を得、近年は江戸は日本橋通り室町にまで店を進出させて不動産業を営むと聞く。
 もともと初代新八は仁礼村出の次男坊だったが、母を亡くして十六歳の時に須坂の豪家牧七郎右エ門の家で奉公をはじめ、享保十八年(一七三三)に独立を果たした。以来二代目からは新十郎を襲名し、ものを大切にする心≠家訓としたその財力は須坂藩をもしのぐと言われ、御用達商人として藩の窮乏に際してはその都度献金を惜しまなかった。その功績から名字帯刀を免除され、三代目新十郎信厚の代には士分まで与えられるという未曽有の大出世を遂げた家である。
 厳然たる身分制度が存在した江戸時代にあって、この商人から武士への転身は稀有ともいえるが、もともと一万石という小規模な藩では、身分にこだわり過ぎると藩政に弊害をもたらすこともたびたびあったのだろう、須坂藩にそのような寛容な気風が培われたのもある意味必然だったかも知れない。
 現在の五代目当主田中主水は齢六十の壮年であるが、その矍鑠(かく しゃく)たる風貌は勘定方としての貫禄も助けて須坂藩内の重鎮として一目(いち もく)二目(ふた もく)も置かれる存在である。いずれ六代目新十郎を襲名するはずの信敏はこのとき二十五歳、同年代の直虎とは旧知でよく囲碁や将棋などして遊んだものだった。信敏は直虎を懐かしそうに見つめながら、
 「母が好きなわらび餅≠(こさ)えようと思いまして、(わらび)を採っております」
 と言った。
 「わらび餅とはずいぶん手間がかかるであろう?」
 彼の母であり主水の妻である古宇(こ う)の品格ある姿を思い浮かべて、直虎は「親孝行じゃな」と感心の笑みを浮かべた。わらび餅の原料となる蕨粉は、その根から取れるデンプンを乾燥させて作るが、手間がかかる割に抽出される量は微々たるもので、
 「一人で作るのか? 嫁はどうした?」
 「嫁ですか──まだまだそのような身分ではありません。私の心配より殿の方こそ早く奥を迎え、世継ぎをお産みになりませんと」
 すかさず切り返す頭の回転の早さを小気味よく思う。
 「阿呆、忙しくてそれどころでないわい。胸をチクリと刺すようなことを」
 直虎は窯跡に行こうとしていたことなどすっかり忘れ、「ではわしはお浸しでも作って食おうかな」と一緒に蕨採りに夢中になってしまったのだった。
 信敏は家から別の頭陀袋を持って来て、坂田山の方まで足を延ばしてひとたび山に入れば、ワラビのほかにゼンマイやコゴミ、タラの芽やウド、セリなど、そこは山菜の宝庫。二人で競うように春の山の恵みを集めていると、瞬く間に二つの頭陀袋はいっぱいになって、太陽の光は真上から降り注いだ。
 「今日はこんなところでしょうか?」
 と、汗を拭いた信敏の言葉に、二人は袋いっぱいの蕨と山菜を見つめながら「こんなにたくさん……どうしよう?」と顔を見合わせた。
 「そうだ、私はこれから立成館に行くのですが、来た人たちに分けて帰ってもらいましょう」
 信敏の提案を聞けば、今日の立成館では一般講話が行われ、「北村方義先生の講義が聞けるから殿も一緒にどうか?」と、心待ちにしたはずんだ口調で付け加える。
 「わしは遠慮しておくさ。突然藩主が顔など見せたらみな大慌てだ」
 と言いつつ、日常のありのままの藩校の様子を見ておきたいとも思いながら、見つかったときの本政の怖い顔を思い浮かべた。
 「その格好なら誰も殿だとは気付きませんよ。後ろの方で静かにしていれば」
 「そうか?」と、戸惑いながら手を引かれるままやってきたところが、
 「と、殿ぉ──!」
 案の定驚愕したのは論語を講じている真っ最中の北村方義である。部屋の後方、手拭いで頬被りをしている不審な男が直虎だと気付いた瞬間、方義はたちまち言葉をつかえ、論語に出て来る人名を間違えるわ年代を間違えるわで、ついに中断して続きを中島淡水に任せると、急いで町人姿の直虎を藩主詰め所に連れ込んだ。
 「殿! 陣屋を抜け出してまたお忍びですか!」
 「そんな目くじらを立てずともよい。陣屋におっても暇でしかたない」
 「本政様が領内の案件の承認を得ようと公の間に行っても、いつも殿はいらっしゃらないと嘆いておりましたぞ」
 「あそこにおっても花押を記すだけじゃ。目をつむっても書けるようになってしまったわい」
 「またお(たわむ)れを……こちらだって突然来られては困ります。準備というものが!」
 「かまうな、後ろの方で静かにしておる」
 「そうはいきません。殿がお見えになるなら、それ相応の対応を示すのも教育です!」
 「わしがおるとやりにくいのであろう? 正直に申せ」
 「殿! そういう問題ではありません!」
 方義の狼狽ぶりを見て直虎はにべもない愛嬌笑いを浮かべた。
 「いますぐ本政様を呼んで来ますので、それまでここでじっとしてお待ち下さい!」
 方義はひどい剣幕で立成館を飛び出した。
 ところが本政を連れて戻ったところが、どういう経緯か中島淡水に替わって今度は直虎が講義をしているではないか。部屋の後ろにいた淡水に「いったいどうなっておる?」と問い質せば、淡水の講義に不満を持った受講者が「今日は北村先生の講話だから来たのに話が違う」と騒ぎ出し、挙句に収拾がつかなくなった場をおさめようと詰め所にいた殿に相談したところ、
 「わしがやる!」
 ということになったらしい。どうも直虎にはやりたがり屋の(へき)があるようだ。方義と本政は「やれやれ」と顔を見合わせた。
 正面の床の間に、亀田鴬谷が書いた『皇漢二学』の書が飾られる前に置かれた文机に正座して講話に没頭する直虎の論調は、いよいよ油がのっていた。
 「ワラビの話題が出たので史記≠フ『伯夷列伝(はく い れつ でん)』の話をしようか。知っている者?」
 誰の手も挙がらないのを見て直虎はニヤリと笑んで、
 「古代中国の殷王朝(いん おう ちょう)は、暴君と名高い紂王(ちゅう おう)が治めていた国である──」
 と得意げに話しはじめた。江戸遊学の際、酒を交わしながらたびたび漢学を論じ合ったことのある方義は、こうなってはもう誰も止められないことを知っている。
 史記=w伯夷列伝』は、紀元前千年も昔の中国殷王朝末期の伯夷と叔斉(しゅく せい)の史実である。
 殷という国に紂という王がいた。紂王はことのほか弁が立ち、素手で猛獣を倒すほどの剛腕の持ち主で、見識も広く行動も敏捷であることに加え莫大な財を蓄えていた。珍しい犬や馬や野獣飛鳥を庭に放ち、世の中の珍しい物品を集めて宮室を満たし、そのうえ悪知恵を働かす才に優れていたので、家臣から(いさ)めを受けても反対にやり込め、また悪事を善事と言い飾ることができる口達者でもあった。彼はその能力を誇り、毎日酒に溺れ女にたわむれ、妲己(だっ き)という名の妻を愛して彼女の言うことなら何でも聞き入れ暴政を奮っていた。
 その様子に怨望した諸侯の中にやがて背く者が現れると、紂王はその罪に対して炮烙(ほう らく)≠ニいう刑罰を科した。それは銅の柱に油を塗り、下で炭火を燃やして罪人にその上を渡らせ処刑する惨いものである。
 その紂王の三公(天子を補佐する最高官職)に西伯(さい はく)九侯(きゅう こう)鄂侯(がく こう)の三人がいた。このうちの九侯には美しい娘があり、その美貌を気に入った紂王は彼女を宮室に入れるが、娘は彼に従わなかったため紂王は怒って娘を殺し、父親の九侯も塩漬けの肉にしてしまう。それを鄂侯が能弁に厳しく諌めると、今度は鄂侯を(ほしにく)にしてしまったのだった。
 この話を聞いた西伯はひそかに嘆息した。するとその様子を紂王に告げ口する者がいて、西伯は羑里(ゆう り)という僻地へ流罪されてしまう。すると西伯の下臣たちは主君を助けようと、紂王の好きな美人や奇物や善馬を探して献上すると、紂王は大いに喜んで西伯を許し、西伯はそのうえ自分の領地の一部を献上して炮烙の刑≠廃止するよう請うて紂王はこれを許したのだった。しかし殷の民心はすでに紂王からはなれ、諸侯は次第に西伯の住む周という国に帰服するようになっていく。
 一方、孤竹(こ ちく)という国の主君の子に伯夷と叔斉という二人の賢人がいた。
 父は末弟の叔斉を後継にしたいと思っていたが、父が死ぬと、叔斉は兄の伯夷に家督を譲ろうとした。ところが伯夷は父の命に背くと言ってこれを受けず、ついに国を逃れると、叔斉もまた主君に立つことを承諾せず、兄を追って国を出てしまった。
 こうして伯夷と叔斉は、よく老人を労わり養うと聞く西伯を頼って周に行くが、このときすでに西伯は没し、後継の太子は自らを武王(ぶ おう)と称して大軍を集め、父西伯の位牌を車にかざして殷の紂王討伐のための挙兵をしたところであった。
 このとき伯夷と叔斉は武王の乗った馬をひかえ止め、こう諫言(かん げん)する。
 『亡父の葬儀も行わぬうちに戦争を起こすのは孝≠ニ言えましょうか? 臣下の身で主君を討つことが仁≠ニ言えましょうか!』
 武王の近衛兵(このえへい)たちが二人を捕えて殺そうとしたとき、軍師太公望(たいこうぼう)が、
 『これは義人である!』
 と一喝して二人を助けてその場をおさめた。
 伯夷と叔斉の諌言を聞かなかった武王は、間もなく周軍に参戦する八百の諸侯を引き連れ東の殷へ進軍していく。その道中、紂王に不満を持った勇士たちが陸続と集まり、最終的に武王の兵力は三千余りにまで膨れ上がった。とはいえ、対する紂王の兵力は実に七十万に及んでいた。
 「どっちが勝ったと思う?」
 直虎は聞き入る聴衆の顔を意地悪そうに見回した。
 「そりゃ殷の紂王に決ってます。二百倍以上の軍勢に勝てる道理などありません」
 田中信敏の思い通りにはまった答えにニンマリ笑んだ直虎は、
 「ハズレじゃ。勝ったのは周の武王の方じゃ」
 と、さも嬉しそうに「なぜだかわかるか?」と問いを重ねた。聴衆は黙り込んだ。
 「周の武王の軍は数は少ないながら異体同心(い たい どう しん)で死に物狂いだったのじゃ。一方殷の紂王の軍はかねてからの暴政に愛想をつかして忠心もなく、数は多けれど同体異心(どう たい い しん)烏合(う ごう)(しゅう)だった。中には武器を逆さに持って戦った者もおると史記にある。戦の勝ち負けとは数だけでは図れんものだ」
 言いたいことを得意そうに言った直虎は更に続けた。
 敗れた紂王は宝玉で飾った着物を着て逃げたが、ついに火の中に飛びこんで死んだ。武王は紂王の首を白旗の上にかけ、妻の妲己を殺す。かくして周の武王は王となった──。
 「さて、わしが言いたいのはここからじゃ。周の武王に諫言した伯夷と叔斉はその後どうしたかという話じゃ。一見、殷の紂王は暴君なのだから、それを倒した周の武王は英雄と讃えられてしかるべきだが、二人はその武王に諫言した上、その後は首陽山(しゅ よう ざん)という山に隠棲し、周の俸禄で生活するのを(いさぎよ)しとせず、ただ首陽山に生える(わらび)だけを食べて餓死するのを待ったと言うのじゃ。なぜだろう?」
 直虎は「これが分ったら孔子でなくとも論語が書ける」と冗談を言いながら、後方で聴講する北村方義と丸山本政に紙と筆を用意させると、さらさらと一つの詩を書きあらわした。

 登彼西山兮。采其薇矣。(首陽山に登り、蕨を採って暮らした)
 以暴易暴兮。不知其非矣。(武王は暴力を除くために暴力を用いたが人はその非を知らない)
 神農虞夏忽焉沒兮。(神農(しん のう)舜帝(しゅん てい)禹王(う おう)の世はもうない)
 吾適安歸矣。(私はどこへ身を寄せればよいのか)
 吁嗟徂兮。命之衰矣。(ああ、行こう。命も衰えた)

 「これは伯夷と叔斉の『采薇(さい び)の歌』という辞世である。神農とは中国神話に登場する建国の聖人三皇の一人で、虞夏(ぐ か)は舜帝と禹王のことで、舜帝は五帝最後の聖人、禹王は三皇五帝に続く理想の統治者である。それらが没=Aつまり真の義人はもうこの世にはいないという意味だが、重要なのはこの前、暴を(もっ)て暴に()え、その()を知らず≠ニ言っているところじゃ。伯夷と叔斉は、殷の紂王に対する民心の不満に応えようとする武王の正義心∴ネ前に、孝≠ニ仁≠(そな)えない武王の行動に納得していない。暴に暴を以て≠ニ断言し、それを(はじ)≠ニまでしている点なのだ。それを孔子は『伯夷・叔斉は人の旧悪を思わず、人を恨むことがなかった』そして『彼らは仁を求めて仁を得た。また何を恨むことがあろう』として、二人を仁人・聖人・賢人として数えるが、史記を書いた司馬遷(し ば せん)の方は、『采薇の歌』を読む限り二人に恨みの心がなかったかといえば首を傾げざるを得ないとしているのじゃ。つまり『天は善行を行う者に善の報いを与える』という人間として信じたい迷信に対して天道是邪非邪(てん どう ぜ か ひ か)>氛氓ツまり『天は常に善人の味方をするとは限らない』という問いを出発点として、あの一大叙事詩『史記列伝』をつづり始めるというわけじゃ」
 直虎の口調はひどくご機嫌だった。
 「ちなみに水戸藩の徳川光圀(みつ くに)公は十八の頃にこれを読み、自分と兄松平頼重公を伯夷と叔斉に重ね、それまでの行動を改めて以後学問に目覚めたということじゃ」
 直虎は聴衆の顔を見まわし、
 「わしの講義はこれで終いじゃ。そうそう帰りにワラビを忘れずに持っていってくれたまえ、首陽山のワラビではないが、今日の講義を聞いたからには、さしずめ坂田山は首陽山だ」
 直虎はひとりで笑っていたが、会場はシンと静まり返ったままだった。驚くのは誰も飽きた顔をしていないことで、それどころか目をらんらんと輝かせまだ聞きたいと言わんばかりだ。方義はまた別の話が始まったら日が暮れてしまうと、慌てて前に出て「では本日の会日(かい じつ)はこれで終いです!」と言いかけたが、
 「何か聞きたいことがありそうだな?」
 直虎が話し足りない様子で言ったので、今度は本政まで出て来て、
 「終いじゃ、終い。皆の者、気を付けて帰りなさい」
 と促した。
 そのとき、四十くらいの農民だか武士だか分からない身なりの一人の男が手を挙げた。直虎は「待ってました」とばかりに指名した。
 「伯夷と叔斉はなぜ首陽山に隠棲(いん せい)してしまったのでしょうか?」
 直虎は男の顔を凝視した。
 「ほう……お前は他に手段があったと思うか? お前ならどうする?」
 「私なら、例え老いても武王に諫言し続けます。どうせワラビだけを食って餓死する身の上なら、その命、少しでも可能性のある方に使いとうございます」
 直虎は小気味よい返答に満足げな笑みを作った。大藩政改革以前の頭の切れる重臣たちは、ことごとく私利私欲に犯され多くの人材を失ったばかりの直虎が、いま一番欲しいのは人材なのだ。彼は男の顔を見つめながら荀子(じゅんし)≠フ『勧学篇』の一節を思い出した。

 蓬生麻中 不扶而自直((よもぎ)(あさ)の中に生えるは(たす)けずして自ずから直す)

 蓬はねじれたり曲がったりして伸びる植物だが、まっすぐに伸びる麻の中では自然とまっすぐ伸びるという意で、逆に(やぶ)の中の(いばら)は雑然と生える草木の影響で煩雑に曲がってしまい、それと人も同じで悪い仲間と交わると悪人になってしまうものである。須坂藩においては二度と繰り返してはならない教訓で、直虎が咽喉(の ど)から手が出るほど欲しいのは道義を裏切らない人物であり、特に藩政を司る人間は全員が麻でなければならないと強く感じていた。そして目の前の男はいま、『史記』や『論語』に記された賢人伯夷・叔斉≠フ二人の行動を本能的に否定して、命の限り主君を諫言すると言ったのだ。
 「その方、名は何と申す?」
 「やへいにございます」
 「姓は何じゃ?」
 「まだ苗字を名乗ることを許されておりません」
 「農人か?」
 「いいえ、何年か前に足軽になりました。これでもお供で江戸に行ったことがございます」
 直虎は不意に思いついた名を彼に与えることにした。
 「では良い名を授けよう、今日より野平野平(の だいら や へい)と名乗るがよい」
 やへいは拍子抜けした顔で「のだいら……?」と呟いて、
 「漢字は野原(の はら)≠フ野≠ノ(たい)ら≠フ平≠ナ良いでしょうか?」
 「そうじゃ。ついでに名のやへい≠ノも同じ漢字を当てるがよい、野平野平(や へい や へい)じゃ」
 そこにいた者達は声を挙げてどっと笑った。ところが直虎はひどく真面目な様子で、我ながら佳い名を思いついたと自慢げだ。見たところ野平は頭の切れそうな顔付きであるし、冗談のような名前の方がこの男にはちょうど良いと思ったのだ。また、その方が親しみが涌いて他の家臣たちとも付き合いやすかろう。
 「ヤヘイ・ヤヘイとは、なんだかいつも息切れしているようですなぁ……」
 また爆笑が起こった。
 「不服か?」
 「め、滅相もございません! 有難く頂戴いたします」
 すると直虎は本政に向かって「武鑑(ぶ かん)はあるか?」と聞いた。武鑑とは大名家の家紋や石高などが記された武家辞典のようなものである。本政は言われるまま懐から武艦のポケットブックともいえる『懐寶(かい ほう)略武鑑』を差し出すと、それを取った直虎は野平に手渡した。
 「そこに記された内容を三日で覚えて来い」
 野平は武鑑をパラパラとめくって「三日ですか?」と聞き直す。
 「三日後に陣屋に来い。試験を行う。もし合格したら、わしのそばで仕えてもらおうと思うが、どうか?」
 野平は突然の成り行きに驚愕したが、
 「やらせてください!」
 と、自信ありげな小気味よい言葉を返したのだった。こうしてその試験に合格した野平野平は、その後直虎の祐筆(ゆう ひつ)へと大出世を遂げる。
 
> (十三)パンなるもの
(十三)パンなるもの
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 文久三年(一八六三)になって小笠原長行からの返事がはたと途絶えた。江戸の駒澤式左衛門に調べさせても「上洛したようだ」との報告があるだけで、それからの動きが杳として知れない。
 昨年四月に講武所奉行に任じられた従兄弟の大関増裕(おおせきますひろ)は、翌五月には新設された海陸両軍兵制所の主宰に任命されるといったスピード昇格を成し遂げ、同所御用取調掛の小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)や勝海舟ら十二名を従え幕府の軍備強化に尽力するようになっていた。直虎が退府してからも、親衛軍の設置や歩・騎・砲三兵科の養成と編成、あるいは全国海軍を六つに分けた総計三七〇隻の大中小軍艦を建造するといった壮大な計画も企画した。
 そんな増裕からの情報も吸い上げながら、できる範囲で蘭学に基づいたオランダ式の軍備体制を整えようとはしているが、肝心のライフル銃も西洋式の大砲もなければ、本による知識だけではたかが知れていた。春も過ぎてようやく届いた小林要右衛門からの文には、進展どころか、
 「(にわ)かにイギリスが不穏な動きを見せている」
 と、先行き不透明な内容が記されており、
 「いったい何がどうなっておる……?」
 隔靴掻痒(かっかそうよう)の直虎は近頃富みに落ち着かない。突然の参勤交代緩和の改革命令があったと思えば立て続けに生麦事件である。更には徳川家茂が何百年ぶりかの将軍家上洛を果たしたと思えばイギリスの不穏な動き──真相を知るに知れないもどかしさのまま、突然何を思ったか陣屋内の台所に入り込んだ。と、そこにいた女中たちをつかまえて、にべもない笑顔で(ひつ)や棚に収めてある小麦粉や砂糖や塩、あるいは油や(こざけ)といった食材を取り出し、釜戸に置いた焼き鍋をみつめて楽し気に雑談をはじめたのだった。
 そこへ顔を出したのが丸山本政、「殿、今日はどこかと思いましたらこんな所で油を売っておられましたか」と、いつもの嫌味気な口調で渋面をつくった。
 「不妻の料理手習いでございますか? 二葉屋百助が参りましたぞ」
 二葉屋百助は陣屋近く中町に店を構える須坂藩御用達の菓子職人である。
 「来たか、はよ通せ! これからお三どんの手も借りながらパンを作ろうと思う。西洋の兵糧食(ひょうろうしょく)じゃ。長崎のパン職人秘蔵の製法らしいが、百助なら作れるかもしれぬと思い呼びつけたのじゃ」
 直虎は手にしたメモ書きが埋蔵金が記された地図でもあるかのように本政にそっと見せた。そこには以前芝新銭座(しば しん せん ざ)の大小砲習練場に行ったとき、江川英敏(ひで とし)からもらったパンの製法が記されている。
 「パンだか兵糧丸だか知りませんが、あまり陣屋内をうろつかないで下さい。最近女どもが妙にそわそわしております」
 「小言はいいから早よ百助をここへ連れて参れ。聞きたい事がたんとある」
 こうして台所に姿を現した百助は、このとき(よわい)数え四十(しじゅう)の菓子屋『二葉堂』の二代目である。
 もともと『二葉堂』は初代長治郎が十四の時、江戸に登って本所亀井戸にあった菓子の老舗『亀屋』に奉公したのが始まりとされる。長治郎はそこで弟弟子と二人で菓子づくりの修行に励むが、やがて店主が没すると、その技術と働きぶりに感心を示したのが須坂藩第九代藩主直皓だった。奇しくも店の近くに須坂藩邸下屋敷があったのだ。
 「その方、生まれはどこじゃ?」
 「信州は松代藩領、東福寺村でございます」
 同国の菓子職人というのが縁となり長治郎はますます直皓に気に入られ、藩邸御用達を仰せつかるとともに『二葉屋』の屋号を賜った。そればかりでない──亀井戸の店を弟弟子に託すと、直皓の下向に従って須坂に移り、須坂藩御用達の御菓子司(おかしのつかさ)となって中町に暖簾(のれん)を掲げたのであった。
 須坂に限らず各地の城下町に銘菓が数多く残るのには理由がある。それは武家社会と深く関わる茶の湯に菓子はつきものだったからである。特に江戸時代は大名の献上品としても用いられ、菓子づくりの競い合いが銘菓誕生の土壌になったと言ってよい。
 百助は文政七年(一八二四)に須坂で生まれた。
 もの心つく前から菓子の魅力に取りつかれた彼は、成長とともに天性の菓子職人としての腕を開花させ、『鳴門巻』とか『中華饅頭』といった独自の名菓を編み出した。『中華饅頭』はいわゆるどら焼き≠ニ見ゆるが、十二代直武が将軍家に献上したそれは、時の徳川家慶の舌をもうならせ褒賞を頂戴したほどで、その名は江戸でも評判となった。これを機に『二葉屋』から『二葉堂』に屋号を改めたのが嘉永六年(一八五三)のこと、以来直皓から賜った二葉屋を自らの姓としている。
 「これじゃ」と直虎はパンの製法が記された書き付けを百助に手渡した。
 『差し渡し二寸強(約六センチ強)の大きさにいたし、厚さ三分(約一センチ)にて、焼なべに油を引き、狐色に焼き申し候。
一、パンの法 西洋人兵糧
  麦粉 百六十匁(約六〇〇グラム)
  砂糖 四十匁(約一五〇グラム)
  玉子 五つ
 右の三味を水にて粉ね、焼なべにて焼く。
一、別の法
  麦粉 百六十匁
  (こざけ) 五勺
  これらは饅頭のもとに相成り候品に、砂糖 二十匁
一、また別の法
  麦粉 百六十匁
  醴 五勺
  水 適量
 右のもの、いずれも製方が容易でなく宜しからず。ある村では麦粉を水にて粉ね、図の如くまるめ押して平らにし、温灰で焼く。塩けを忖度(そん たく)候えば程よく塩水にて練る。この法一番手軽で実用的である。また、麦粉の替わりに小麦粉でもよい。』
 「どうじゃ? 作れそうか?」
 百助は暫く書き付けを見つめてから次のように言った。
 「材料を見たところカステイラ≠ゥと思いましたが、砂糖と玉子が少なく焼き方も違います。どちらかといえばビスコイト≠ノ近い気もしますが、まずはこのパンなるものを食した時の殿のご感想をお聞かせください」
 当時の製法つまりレシピなど写真もない上かくの如き大雑把なものである。実物を見て食し、あれこれ試作を重ねて作るより仕方ない。ところが、
 「実はわしも食ったことも見たことさえない」
 百助は唖然と口を開いた。
 「──だからお前を呼んだのじゃ」
 「食したことも見たこともない物を作れと仰せられても……こりゃ困りましたなぁ」
 すると二人の様子を見ていた女中の一人が口をはさんだ。
 「ひょっとしたら具のない甘いおやき≠ンたいなものではないでしょうか?」
 また別の一人が、
 「それはダメよ。長期保存をするなら、おやきのように水分が多くてはいけません。きっとカチコチに焼いてしまわなければ保存には向きません」
 さらにまた別の女中が、
 「しかしここには温灰(ぬく はい)≠ニありますから、ゆっくりと焼けばカチコチにはならないのかも知れませんよ」
 と、女たちの会話が始まった。パンは西洋人の日常食でもあり、極度に専門的な知識に寄るよりも、日常生活の達人であるこうした女性たちの会話の中にこそ重要なヒントが潜んでいると考えている直虎は、女中たちを眺めてにんまり笑んだ。
 「パンというものは長期保存がきく西洋の軍事携帯食じゃ。兵糧丸よりもずっとうまいと言う。どうじゃ、そなた達も喰ってみたいだろう? もしうまくできたら褒美をとらそう!」
 困り顔の百助を差し置き「きゃっ!」と女中たちは大いに沸いて、やる気満々で釜戸に薪をくべたり水を運んで来たりと俄かに台所が動き出した。
 ──さて話は変わるが、そのころ一橋慶喜の命を受けた小笠原長行は、生麦事件賠償金問題解決のため京都、大坂から海路江戸に向かっていた。その命令とは、長州藩の画策により攘夷決行を余儀なくされた幕府の、立場上の筋を通すため、それまで推し進めてきた開国路線を一八〇度翻し、
 「生麦事件の賠償金支払いを拒絶(きょ ぜつ)し、横浜鎖港(さ こう)を実現しろ!」
 既に外国に開いた横浜港を封鎖せよという全くの無理難題だった。老中格並びに外国御用掛(がい こく ご よう がかり)になったばかりで何の経験もない小笠原長行は、いきなり国の命運を左右する重大な使命を担わされたわけだった。
 イギリスは、幕府に対して謝罪と十万ポンド(約二十四万両)の賠償金を要求してきており、その返答内容次第では江戸を総攻撃する構えで、横浜湾内にフランス、オランダ、アメリカを集結させて四カ国連合艦隊をして幕府を威嚇していた。しかも賠償金支払い期限を五月三日と定めたから、時間的余裕(よ ゆう)などほとんどないに等しい。
 これに対して江戸の幕議では、一旦は支払い要求に応じようとしたものの、長行が戻って攘夷の勅命を帯びた慶喜の意向を伝えると、再び物議をかもして評議は大混乱に陥った。支払い期日の前日になって延期を願い出た末、最終的に拒否≠決定したのである。
 これにはイギリスも大激怒。艦隊に戦闘準備を命じて横浜の緊張は一気に高まった。要右衛門の書状にはその様子が綿綿と綴られていたのである。
 当時の江戸は一〇〇万人とも言われる世界一の人口を誇った都市なのだ。
 「このまま攻撃が開始されたら、大江戸の町が焦土と化してしまうではないか!」
 もとより長行は開国派である。いくら将軍後見職(こう けん しょく)一橋慶喜の命とはいえ、一夜で攘夷に鞍替(くら が)えできるほど器用でないし納得自体していない。かといって下手な交渉で幕府のお膝元である江戸を火の海にするなど天地が逆さになってもできない相談なのだ。彼の苦悶は果てしなく、江戸の町を守るも燃やすも己の采配(さい はい)一つで決まるという重圧に苦しみながら、もはや正気の沙汰でない。
 そして、ついに支払い拒否≠ニいう幕義決定を無視するしかなくなった長行は、八日になって独断で賠償金の支払いを決断し、海路横浜へ向かってその全額を支払ったのだった。この後、横浜港鎖港をめぐって、幕府とイギリスの交渉は続けられることになるわけだが、長行にとってこの決断は、戦争回避と引き換えに己の政治生命を断つことを意味した。
 これこそ一橋慶喜の計算だったのかも知れない。
 「わしは勅命(ちょく めい)を忠実に守り、再三にわたって賠償金の支払いを禁じたにも関わらず、部下が勝手に支払ってしまったのだ──」
 という思惑(おも わく)をあざやかに達成し、賠償金問題の終結を待つように、ゆっくりと東海道(とう かい どう)を東進していたのである。
 さすがに温和な長行も激怒した。
 「慶喜公はまっこと(ずる)いお方じゃ。わしに責任の全てを押し付けたな!」
 腹をくくった人間というのは時に想像だにしないことをやってのけてしまうものか。長行は、
 「賠償金支払いに至る経緯(けい い)を朝廷に釈明(しゃく めい)し、家茂公を江戸に連れ戻す!」
 と、俄かに幕内クーデターを企てた。
 ベールに包まれた家茂と孝明天皇との個人的関係など知る由もない幕臣たちにとって、将軍家茂は現在朝廷による軟禁状態である。江戸の幕臣達は実行不可能な攘夷を安請(やす う)け合いした慶喜を批判し、その尻拭(しり ぬぐ)いを要求してきた上方駐在(かみ がた ちゅう ざい)の幕閣に対して大きな不信感を募らせた。
 「よもや将軍家茂様の失脚(しっ きゃく)(ねら)っているのではないか?」
 との(うわさ)まで沸き起こって、朝廷を(あやつ)る過激攘夷派の横暴(おう ぼう)とテロの恐怖におびえる上方の幕閣に対して怒りを爆発させた。
 いわば機根は整っていた──。
 長行の呼びかけに呼応したそうした不満を持つ江戸の幕臣達が決起し、その数は瞬く間に膨れ上がって一、六〇〇ものいっぱしの軍隊ができあがったのである。
 「いざ、上方へ参るぞっ!」
 その(つわもの)たちの多くは、密かに芝新銭座(しば しん せん ざ)の大小砲習練場や築地の軍艦操練所で西洋式の調練を受けていた者たちで、その装束は歩兵部隊の完全武装──帰藩中の直虎にその知らせが届く間もない五月二十六日、彼らを幕府海軍の船に分乗(ぶん じょう)させた長行は、いざや大坂へと向かったのだった。
 いわゆるこれが小笠原長行による率兵上京事件(そっ ぺい じょう きょう じ けん)と呼ばれるものである。
 小笠原長行には算段があった。
 優柔不断な幕府の姿勢に不満を募らせているのは江戸の幕臣たちだけでなく、こうして決起すれば上方の同じ不信感を抱く幕臣たちもこちらになびく──。やがて兵は更に膨れ上がり、あわよくば家茂を京都から救い出し、幕府内クーデターによる幕府主導型の維新の波を起こす可能性を()めた行軍だった。もし成功すれば小笠原長行こそ幕末の英雄となり得たか。
 大阪に上陸した長行は、六月二日の朝には京都の手前枚方(ひら かた)まで行軍した。その報に驚愕(きょう がく)したのが上方の幕閣たちで、慌てて若年寄稲葉正巳(いな ば まさ み)派遣(は けん)して入京()し止めを命じたが、もとより覚悟が決まっているうえ職務上格下の若年寄の言には耳も貸さない長行は、無視して橋本まで兵を進めた。次いで将軍直属の使い番松平甲太郎(まつ だいら こう た ろう)という男がやって来る。
 「しばらくそこにとどまれぃ!」
 「何を申す! こんなところでは宿(やど)もござらん!」
 と、更に伏見(ふし み)(よど)まで進んで、ようやく兵を分宿(ぶん しゅく)させた。
 この事態に朝廷は(ふる)え上がった。
 「すぐに小笠原長行とか申す者を食い止めよ!」
 将軍家茂にそう命じるとともに皇居の護衛を固めると、四日に至って老中首座(ろう じゅう しゅ ざ)水野忠精(みず の ただ きよ)が現地に駆けつけこう告げた。
 「勅命及び台命(たい めい)じゃ! 入京は絶対ならん!」
 再三に渡る説得が繰り返された末、ついに将軍親筆(しん ぴつ)の入京禁止命令が長行に届けられた。
 上方の幕臣たちの賛同を得ようと周旋の手を尽くしていた長行だったが、思いのほかその効果は薄く、もとより将軍を救い出すための決起のはずが、その将軍自らの台命とあらばいくら正義の旗だと言い張っても賊軍以外のなにものでもない。
 終わった──
 長行は愕然と肩を落とし、結局このクーデターは失敗に終わる。
 彼にとって幸いだったのは、それから間もなく将軍家茂が江戸帰東の途についた事だった。幸いだった≠ニいうのは、下々の者たちの目には、軟禁状態の将軍が解放されたのは朝廷が江戸の勢力を恐れたように見えたからである。あるいはそうとも言えた。
 これにより長行は老中格を罷免されたものの切腹は(まぬが)れ、クーデターに随行(ずい こう)した主要官僚も謹慎(きん しん)処分を言い渡されただけで事態は収拾した。罰としては思いのほか軽いと言わざるを得ないが、この朝議による謹慎処分で、長行はしばらく政治の表舞台から姿を消すことになる。
 この率兵上京事件(そっ ぺい じょう きょう じ けん)とほぼ時を同じくし、長州は下関では──
 攘夷決行の幕府命令を得た長州藩は、期日の五月十日を待ってましたとばかりに攘夷戦争(下関戦争)を引き起こす。何も知らずに下関海峡を通りかかったアメリカ商船ベンプローク号に対して、藩兵および浪士軍からなる兵力一、〇〇〇の陣営をもって一斉砲撃を開始したのだ。驚いたのは幕府と通商条約を結んでいるから攻撃されるなど夢にも思っていないベンプローク号の乗組員達で、慌てて周防灘へ逃げ出した。
 続いて二十三日、今度は横浜から長崎へ向かう途中のフランスの通報艦キャンシャン号が二隻目の犠牲となった。このときまだキャンシャン号はベンプローク号が攻撃を受けたことを知らず、これまたふいをつかれて船に損傷をこうむる。フランス側は交渉のため書記官をボートで陸へ向かわせるが、長州側は無防備な彼らに向かって銃撃を加え、フランスは四名の死者を出す。
 更に三日後の二十六日、長崎から横浜へ向かうオランダ東洋艦隊所属のメジューサ号が同様の無差別攻撃を受け、一時間ほどの激しい砲撃戦の末、四名の死者と船体に大きな損傷を受けて周防灘へ逃走した。
 戦闘意識のない商船相手に攘夷を実らせた長州藩は、連続勝利の歓喜に沸いた。
 ところがそれも束の間、欧米側の反撃が牙をむく。
 ベンプローク号が攻撃されたことを知らされたアメリカ戦艦ワイオミング号のデービット・マックドガール艦長は驚き、直ちに報復攻撃を決定して横浜湾を出港した。いよいよ当時の最先端兵器を備えた軍艦のお出ましである。六月一日に下関海峡に入った戦艦ワイオミング号は、港内に停泊する長州藩の軍艦庚申丸と壬戌丸と癸亥丸の三隻に砲撃を加え、たちまち撃沈あるいは大破してしまうと、西洋軍事の脅威を前に何もできない長州藩は、海峡沿いの砲台を奪われ、甚大な被害をこうむった。たった一隻のたった一回の攻撃で、長州海軍は壊滅状態に追い込まれてしまったのである。
 続いて六月五日、今度はフランス艦隊が報復攻撃をかけた。仏東洋艦隊バンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号とタンクレード号の大型艦二隻は、前田と壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加え、陸上戦に持ち込んだかと思うと、あっという間に二つの砲台を占拠した。戦国以来戦いを忘れた長州藩の武士たちは、鎧兜と刀鑓、あとは火縄銃に願掛けするような骨董と化した武器と戦法で、先祖が築いた栄光など何の役にも立たない。フランス兵は大砲を破壊し民家を焼き払い、我がもの顔で暴れ回った挙句、そそくさと撤収してしまう───ここではじめて攘夷を声高に宣揚してきた長州藩は、夷敵の脅威に蒼白となるのだった。幕府にとっては新たな賠償問題が浮上する。
 動乱はそれだけでない。
 生麦事件の賠償問題において、イギリスは薩摩藩に対しても犯人の処罰と二万五千ポンド(約六万両)の賠償金を要求していた。横浜における幕府との交渉が一段落したイギリスは、艦隊を薩摩に派遣し直接交渉をはじめる。七隻のイギリス軍艦が鹿児島湾に入港すると七月二日、イギリス側の薩摩藩船の拿捕(だ ほ)を合図に薩摩藩側はイギリス艦隊への砲撃を開始したのだ。いわゆる薩英戦争である。
 この戦闘によって薩摩は鹿児島城下の約一割を焼失する大きな損害を被るが、イギリス艦隊側も旗艦ユーライアラス号の艦長や副長の戦死や戦艦の損傷が重なる甚大な損害を被り、二日間に亘る戦闘はイギリス艦隊が撤収する形で収束する。そして十月五日、横浜のイギリス公使館において両者は講和に至り、薩摩藩は幕府から借りた六万三、〇〇〇両(約二万五、〇〇〇ポンド)をイギリス側に支払い、もう一つの条件である生麦事件の加害者処罰については逃亡中≠ニしたまま行使されることはなかった。
 これが日本を包囲するかのように取り巻く西洋諸国に対する幕府と、後に討幕を目論む地方雄藩の動きの違いである。
 そんな激動の事件が重なっているとはつゆ知らず、直虎は参勤交代参府の九月をじっと待つ──。
 さて話を戻して須坂陣屋の台所。
 顔を白く染めて小麦粉をこねながら手際の悪さを自ら笑う直虎に、「そこはこうだ、ああだ」と言いながら、パンづくりに夢中の数人の女中たちとはすっかり友達のようになっていた。
 かくしてパンづくりの挑戦は、幾度となく失敗を繰り返し、やがて現代で言うところのホットケーキのようなものが焼き上がり、二葉屋百助も「こんなところでしょうかね?」と言ったので、みな歓声を挙げて手を叩き合った。
 「お殿様、早く食べてみましょう!」
 「そう騒ぐでない。まずは指南役の百助に毒見してもらおう」
 女中たちの視線が一斉に百助にそそがれると、百助は少し照れたように咳ばらいをしてから、
 「菓子は五感で食べる≠烽フです。心鎮めて……」
 と畏まって言った。
 「あら、これは菓子ではございませんわ。パンでございます」
 一人の女中がそう笑ったが、直虎自身たった今焼きあがったばかりの目の前で湯気をあげる食べ物が、パンなのかそうでないのか判断がつかずに首を傾げている。
 「お殿様、褒美をくれるお約束をお忘れになったとは言わせませんよ」
 別の一人がそう言った。
 「嘘など申すものか。さあ遠慮はいらん、欲しい物をなんなり申せ。ただし、これが確たるパンだと証明できたらな」
 女中たちは呆気にとられて顔を見合わせた。
 「誰も見たことがないのに証明なんかできるわけがございません」
 「そりゃ残念じゃ。証明できぬなら褒美はお預けじゃ」
 直虎は呵々大笑して彼女たちを煙にまいてしまうと、百助と台所を出て行った。
 
> (十四)フランス革命〜パリ民衆の春と冬
(十四)フランス革命〜パリ民衆の春と冬
歴史・時代小説 検索エンジン 奇譚・古事記
 ペリー来航以来、日本は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア……といった欧米諸国の産業技術や思想・文化が怒涛の如く国内になだれ込み、その行く末の舵取りに大混乱をきたしていたが、およそ徳川幕府が興って以来、西洋の中ではオランダとのみ国交を保ってきた日本のそれら国々に対する認識は至って稚拙であった。と言うよりあまりに無知でありすぎた。欧米諸国の内情などには見向きする余裕もなく、ただただ科学技術の脅威に驚嘆し、国の分別もなしに「西洋、西洋」とバカの一つ覚えのように叫んでいるのだ。
 そこで、ここからは暫し筆者の世界史の学習に付き合っていただこう。無論、読み飛ばしてもらっていっこうにかまわない。が、明治維新への道すじを洞察するに当たって、世界各国の革命や戦争や内乱の動向を知ることは、これから綴るこの小説で起こる日本のそれを深く認識し、際立たせることができると信じている。この小説の中で、日本が化け物のように西洋≠ニ言っている国々は、この時代において全く完全でなく、むしろ日本と同じで、深い深い迷宮に迷い込んだ子どものように、母親の乳房を求めて泣きじゃくりながらもがいているようでもある──。
 まずはフランスを中心としたヨーロッパ諸国である。
 日本が未曽有の大革命を果たさんとしているこの十九世紀半ばは、世界的に見ても革命に継ぐ革命の大混乱の時代と言える。西暦を軸として世界史を見るならば、いわば一八〇〇年前後は十八歳の悩み多き青春期にも似ている。別の言い方をすれば、地球上に誕生した人類の秩序立った進化の過程で形成された王政という名の野に、どこからともなく燃え始めた炎が、瞬く間に燃え広がる燎原にも例えられようか。小説で進行中の一八六三年(文久三年)は、あのフランス革命においてルイ十六世と王妃マリー・アントワネットが断頭台の露と消えてより七十年しか経っていない。この七十年を長いと見るか短いと見るかはその尺度にもよるが、人の一生を八十年、否、近年で言うところの百年とするならば、少なくともこの歴史的出来事は、一人の人間が一生の中のニュースをライブで知ることのできるごく短いスパンと言うべきだろう。
 それまでの世界の国家というものは、ヨーロッパに限らずその多くは国王の支配によって成り立っている。日本でいえば天皇に当たる。フランス革命の偉業は、その国王支配の国が権力を持たない民衆の力によって覆された点にあり、その意味から、フランスの首都パリは民衆革命の都である。
 日本の幕末革命(ここではあえてそう呼ぶが)を理解するには長州藩の動向を見れば分かると前述したように、十九世紀の世界史はフランスの動向を見れば理解が早い。
 フランス革命以前のこの国は、著しい身分階層が存在していた。すなわち頂点に国王を置き、その下をピラミッド式に第一身分が聖職者、第二身分が貴族、そして第三身分が市民と農民といった構図である。そして聖職者と貴族には免税という特権が与えられており、特筆すべきは、人口の比率でいえばわずか二パーセントほどのこの特権身分の人たちを、残りの九八パーセントの平民が支えていた事である。一言で平民といっても、その中身は富裕層(地主や大商人)と農民・市民などで構成されており、さらに農民・市民といっても、中産階級と下層階級(小作人や都市労働者)とに区別され、その財産に応じて課税額が決められていた。そして、この下層階級と呼ばれる人たちが、人口のおよそ九〇パーセントをも占めていたから、ピラミッド型と言うより朝顔の花を逆さに伏せて置いた形に近いだろう。この極度に不均衡なバランスの上に社会が成り立っており、いわゆるこれがアンシャン・レジーム(旧制度)である。
 アンシャン・レジームの下、特権階級者たる貴族と聖職者は堕落しきっていた。特権を傘に、市民・農民から自由と財産をしぼり取れるだけ搾取し、その利で贅沢な暮しと享楽三昧の日常を過ごしていた。第一身分の聖職者に至っては、特に高位の者たちの中には人を教え導くことなど忘れ、神の名のもとに、その裏では教会の権威をかざし、欲望のまま酒色に溺れ──聖職者の堕落ほど質の悪いものはない。
 一説では、天明三年(一七八三)の浅間山の大噴火による噴煙が北半球を覆い、これが世界的な不作を招いてフランス革命の因になったと言う。哀れを留めるのはいつの世も貧乏人で、重税にあえぐ彼らの主食はライ麦や大麦、あるいはハダカ麦がほとんど全てで、特に貧しい農民などは、馬小屋で雨風をしのぎ、靴や靴下はおろか木靴さえ履けない者で満ちており、かのヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』に登場するような無数のジャン・バルジャンやファンティーヌを生み出していた。もっともあの物語はナポレオン失脚後のフランスが舞台だが、貧困庶民が社会に苦しめられる意味においては世の中の様相に大きな違いはないはずだ。
 ところが、こうした社会問題を打開するのに、時の国王ルイ十六世はあまりに無能だった。下層民の苦しみなどどこ吹く風の無慈悲さで、王宮を中心とした王侯貴族の豪奢な生活はとどまるところを知らず、王妃マリー・アントワネットの享楽とその浪費振りは、現代にまで語り継がれるほどである。
 そんな王侯貴族の様相を批判するように、このころヨーロッパでは自由と平等、基本的人権や抵抗権を主張する啓蒙思想が広がりつつあった。ドイツの思想家ジャン=ジャック・ルソーは、
 『……国家におけるあらゆることを決定するものは、この人民の意志であり、国王とか大臣はいわばその使用人にすぎない。解放された人民はいわば社会の中の自然人″であり、もともと自由であり平等でなければならない……(人間不平等起源論)』
 と唱えた。この影響を強く受けた北アメリカに渡ったイギリス人は、一七七六年にアメリカ合衆国の独立を成功(アメリカ独立宣言)させ、貧困に苦しむフランスの民衆の不満は頂点に達していたのであった。
 同時に、イギリスより遅れて産業革命の緒についたばかりのフランスは、植民地戦争で敗北したり、アメリカの独立戦争を支援したり、あるいはヨーロッパ内の戦争に積極的に参戦したりと、とにかくお金がなかった。
 時のフランス政府は、この財政難を打開すべく苦肉の策として、免税の特権を持つ聖職者と貴族たちに対して税金を課そうとしたが、案の定特権階級者はこれを拒み、その反抗がヴェルサイユ宮殿に『三部会』を召集させる因を作った。一七八九年五月のことである。
 この三部会というのは、第一身分の代表約三百名と第二身分の代表約三百名、そして第三身分の代表約六百名によって構成されていた。ところが社会体制に大きな不満を持つ第三身分の議院たちは、自ら『国民議会(アサンブレ・ナショナール)』を作って憲法制定を目指して動き出す。驚いた国王は軍事力をもってこれを押さえ込もうとするが、このときすでに機は熟していた。七月十四日、これまで虐げ続けられてきたパリ市民たちが遂に立ちあがったのだった。
 「国王などいらぬ! 自由と平等を我らの手に!」
 バスティーユ監獄は、革命派の政治犯が収容されているうえ武器弾薬の保管所だった。権力の足枷を解き放ったパリの市民たちがここをめがけて一斉になだれ込んだのだ。つまりこれが世に言うバスティーユ監獄襲撃事件──フランス革命の勃発だった。
 この暴動は思わぬ方向へ飛び火した。農民たちは、導火線でつながれたダイナマイトのように次々と各地で反乱を引き起こし、瞬く間にフランス全土へと波及したのだ。もはや国王に対する不満は、首都パリだけにとどまらず、国全体を覆い尽くす不満であったのだ。
 ところが農民たちには自由や平等といった大義名分などなく、単にやりどころのない生活の怒りを暴発させていた。これと似た状況が日本でも起こるが、慌てた革命派の議会は農民を鎮めるために、八月、聖職者と貴族の封建的特権の廃止を宣言し、人権宣言を取りあげて自由と平等の原理を明示する。革命には大義名分が必要なのである。
 穀物価格の高騰を受け、パリの経済は危機的状態にあった。十月に入って初め、次に暴発したのはパリの女性たちだった。雨の中、国王のいるベルサイユ宮殿までの二〇キロの道のりをデモ行進し、国王一家をパリに引きずり出した。これは『ベルサイユ行進』と呼ばれるが、世の女性たちを怒らせることほど恐ろしい事はない。
 政府を掌握した国民議会は、一七九一年に入って人民主権と一院制の立憲王政を敷く憲法を制定するが、フランスから国外に逃れた亡命貴族たちによる反革命の動きに呼応して、オーストリアやプロシャなどの周辺諸外国が動き出す。そのような中、六月には国王一家がパリを脱出しようと企てるが東部国境で捕えられ失敗に終わり、ルイ十六世に対する国民感情は甚だしく失墜して共和主義への期待が一段と高まる結果を招いた。一度権威を失墜させた権力は、かくも脆く崩れ落ちるものか?十月に入り、新しく発足した立法議会は、穏健な共和主義者であったブリッソーやコンドルセなどに率いられたジロンド党を政界に進出させ、オーストリアとプロシャに宣戦布告した。

 Allons enfants de la Patrie,(行こう 祖国の子らよ)
 Le jour de gloire est arrivé !(栄光の日が来た!)
 Contre nous de la tyrannie,(我らに向かって 暴君の)
 L'étendard sanglant est levé,(血まみれの旗が 掲げられた)
 Entendez-vous dans les campagnes(聞こえるか 戦場の)
 Mugir ces féroces soldats ?(残忍な敵兵の咆哮を?)
 Ils viennent jusque dans vos bras(奴らは汝らの元に来て)
 Égorger vos fils, vos compagnes !(汝らの子と妻の 喉を搔き切る!)

 このとき各地から集められた義勇兵に歌われ出したのが、工兵大尉ルージェ・ド・リールが作ったとされる現在のフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』である。革命は歌を生み、歌は革命児を鼓舞するのだ。
 ところがこの戦いによるフランスに利はなかった。
 戦争指揮に失敗したジロンド党に換わって台頭するのが、急進共和主義者ダントン、マラ、ロベスピエールなどが率いるジャコバン党である。一七九二年八月九日、パリ市政を独占した彼らは、国民衛兵司令長官マンダーを虐殺すると、その翌日には、再び市民が蜂起して王宮を襲撃し、国王一家をタンプル塔におしこめた。さらに九月には立法議会が解消して改めて『国民公会(コンヴァンション・ナショナール)』が召集されるが、このとき行なわれたのが世界で初となる男子の普通選挙であった。
 当初、国民公会はジロンド党とジャコバン党との協調のもとに政策が推し進められたが、徐々にジャコバン党の中でも左翼の『山岳党』と呼ばれる者たちが主導権を握るようになると、ついに国民公会は国王ルイ十六世を裁判にかけ、九三年一月、あの歴史的事件を裁断したのであった。
 国王ルイ十六世の断頭台──
 ここに西ヨーロッパにおいて、およそ三〇〇年あまり続いた絶対王政の歴史に風穴を開け、民衆は共和制国家を打ち立てたのである。
 筆者はこの革命の流れの中に、日本の幕末革命とのいくつかの類似点を見出すが、それは、この小説を読み進める中で読者自身気付くことになるだろう。
 ところが、国王を倒して男性の普通選挙権まで手に入れたフランスが、この後、本当に自由と平等を手にし、理想的な国家を建設できたかといえばけっしてそうではない。皮肉にも彼らが見たものは、絶対王政以前と何も変わらぬ荒廃したままの現実だった。きらびやかな大きな箱をあけてみたら中は空っぽだったわけである。
 九二年九月のヴァルミーの戦いをはじめ各地で好戦するフランス革命軍は、九三年の二月と三月にはイギリス、オランダ、スペインに対しても宣戦を布告する。
 ルイ十六世の処刑によりヨーロッパ諸国の王政国家は顔を蒼白にした。
 「よもや我が国でも同じことが起こるのではないか?」
 ヨーロッパ諸国はその余波が自国に及ぶのを怖れ、反革命勢力と呼応しながら執拗にフランス革命の動向を警戒し、ついにはイギリスの呼びかけで第一回対仏大同盟を結成してこの民衆革命を潰そうと動き出した。
 これに対してジャコバン派は、国内に徴兵制を実施し、全土から三十万とも言われる兵を召集しようとするが、貧しい上に働き手を兵隊に取られてはたまらない農民たちは政府への不満を高め、九三年三月十日、『ヴァンデの反乱』を引き起こして対抗したのだった。この反乱軍には旧貴族や僧侶なども加わったため王党色や宗教色が強く、戦いの際、王党の歩兵は白い軍服を着、共和政府軍の兵士は青い軍服を着ていたことから、王党派を白=A共和派を青≠ニ称した。文聖ヴィクトル・ユゴーの作品に『九十三年』があるが、この小説はまさにこの時を扱った物語であり、この戦いは単に王党派と共和派の争いでなく、その犠牲となった民衆こそに光が当てられる。いずれにせよ、互いに互いの捕虜を虐殺し合う有り様は、憎悪に憎悪を重ね、怨恨に怨恨を重ねる悲劇を生むことになるが、十カ月にわたる内乱の結末は、最終的に共和政府軍の勝利に終わる。
 この年、国民公会は『九三年憲法』を制定し、農民解放や経済統制、軍制改革などの政策を実施するが、それは反革命勢力に対する徹底的な弾圧で、テロ行為による恐怖政治というのが実態だった。そしてこの体制に内部分裂の兆しが見え始めると、過激なエベールや穏和なダントンなどが次々に粛清され、九四年四月には、ついに『山岳派』のロベスピエール一派が完全なる独裁体制をつくり上げた。
 ロベスピエールは純粋すぎるほどの理想家で、その理念は働く庶民による平等な共和国の樹立であった。しかし、純粋な理想家ほど権力を手に入れたとき、自らの正義を実現するために手段を選ばないものか。その非現実的な政策は返って大きな反発を招き寄せ、九四年七月の国民公会において、テルミドールのクーデターによって彼もまた、二十二名の同志と共に断頭台の露と消える。
 テルミドールとは、革命から生まれた紀年法の月の呼び名で熱月≠フことである。革命暦≠るいは市民暦≠ニも言われるそれは、西暦の九月二十二日から十月二十一日までを最初の月とし、ヴァンデミエール(ぶどう月)、ブリュメール(霧月)、フリメール(霜月)、ニヴォーズ(雪月)、プリュヴィヨーズ(雨月)、ヴァントーズ(風月)、ジェルミナール(芽月)、フロレアル(花月)、プレリヤル(草月)、メシドール(収穫月)、テルミドール(熱月)、フリュクティドール(果月)というように一年間を各三十日ずつ十二カ月に分けて月日を刻む。これは一七九三年十月五日に国民公会によって採用されたものだが、フランス革命において、パリの断頭台は延べで一、三七六名もの血を吸い込んだとも言われている。
 九五年に制定された憲法では権力の分割や財産による制限選挙制を復活させたものの、依然経済は低迷したままで、一種の絶望感は人心の中に大きな不安を温存させたまま、長い長い暗闇のトンネルに入り込んだように見えた。
 バスティーユの年に生まれた子どもが十歳になろうとした頃のパリは、革命による異常な興奮状態から解放された一種の享楽ムードが漂っていた。王政の束縛の縄を断ち切り自由を得たはずのパリっ子たちを次に苦しめていたのは清教徒じみたロベスピエールによる専制だったが、熱月(テルミドール)日(一七九四年七月二十七日)に彼が処刑されたクーデター以降、民衆は糸が切れた凧のように攪乱した陽気さを手に入れたのだった。死への恐怖が生への反動となり、革命を成さんがための我慢が保守的な薄弱さへと変わった社会様相は、美食家を生み舞踏会を流行らせ、女たちを化粧で着飾らせ、肌を露出させて町を歩かせるようになった。それに伴って喧嘩や盗みが横行し、パリはさながらスリの町と化した。善良な男たちの気晴らしといえば、裁判所の広場のさらし台にさらされた女泥棒を見に行くことで、それは哀れみや野次馬というわけでなく、スカートの下を覗くのが目的だったと言うから、看守の仕事はスカートをいつも縛っておくといった具合である。
 夜明けの来ない朝はないと理屈で分かっていても、実際苦悩の中に身を置けば日の出の光景など思い浮かべるはずもない。冬は必ず春になると分かっていても、雪が降り続く凍てつく日々の中では桜が咲き乱れる光景など想像できるはずもない。厚い雲で覆われた闇空の下では、希望を見いだせないばかりか、その闇による縁によって人の心は閉塞感に苛まれ、やがて絶望の境地に陥るものだろう。闇は悪心を呼び覚まし、人は刹那の享楽と犯罪を求めて動き出す。当時のパリがそれだった。
 ところが、たった一人だけ、民衆の中から発ち起こった革命の完全成就を信じて疑わない者があった。その人間に灯り続けた希望の光は、深い暗闇にたった一本だけ光る蝋燭の炎のように、やがて激しい閃光となり、ついにはフランス全土に夜明けをもたらす。ナポレオン・ボナパルトである。絶望の様相を呈しながらも、フランスの大衆は心のどこかで真に国家を救う英雄の登場を待ち望んでいたのであった。
 イタリア遠征に始まるナポレオンの進撃は、革命に敵対するマリー・アントワネットの故郷オーストリアを破り、フランスを危機に追い込んでいた第一回対仏大同盟を崩壊せしめた。続くエジプト遠征では、イギリスのインドへの道を封じようと奮戦し、この彼の勇敢な姿に、国民は熱狂して惜しみない称賛の拍手を送ったのである。
 九九年霧月(ブリュメール)十八日──。
 ナポレオンは武力をしてクーデターを敢行し、ここに三執政による執政政府が樹立される。そして彼は叫ぶ。
 「フランス革命は終わった! 我々はその目的を達成したのだ!」
 それは同時に新しい時代の始まりであった。
 ここに筆者は、時代というものは巨大な振り子が大きく振れるように、古いものと新しいものとが均衡を保とうとしながら激しい対立を繰り返しつつも、ゆっくりと、それはそれはゆっくりと前進する様を見る。
 政権を握ったナポレオンが最初にやったことはローマ教皇との和解だった。かつては革命の敵だった聖職者ではあるが、国民の大半がカトリック信仰であることを考えると、その信仰の保護こそ最重要要件だったわけである。続けてイギリスと休戦条約を結び、彼のエジプト遠征によって再結成された第二回対仏大同盟を完全に崩してフランスに平和をもたらした。さらには私有財産の不可侵や契約の自由を規定した『ナポレオン法典』を発布するが、これはフランス革命における成果を保障したもので、これらの政策で国民から絶大な人気を博した彼は、一八〇四年十二月、国民投票によって皇帝に即位する。戴冠式はパリのノートル・ダム寺院で挙行され、ナポレオンは文字通り英雄になった。人々は彼のことをナポレオン一世と呼んだ。
 ナポレオンの皇帝即位は周囲の国々に再び緊張を走らせた。
 イギリス・オーストリア・ロシアが三度目の対仏大同盟を結成すると、ナポレオンはこの挑戦状を受けるように戦闘を開始する。イギリスとのトラファルガーの海戦では敗れたものの、アウステルリッツの戦いではロシアとオーストリアを相手に勝利し、ここでまた第三回対仏大同盟を崩壊せしむ。
 その後もナポレオンは各地へ遠征し、次々とヨーロッパ諸国をフランスの統治下にしてしまう。それはギリシャからアジア諸国にまで勢力を伸ばしたアレキサンダー王の進撃にも似て、さもなければモンゴルのチンギス・カンが中国から東ヨーロッパ全域にまで権力を拡げた勢いさながらに、ついには大陸封鎖令を発して大陸に在するヨーロッパ諸国とイギリスとの貿易や交通を全面的に禁止したのであった。
 当時のイギリスは産業革命によって世界一富める国だった。ナポレオンはこれまで二回イギリスに破れているが、これは科学技術に負けたのかも知れない。彼にとってイギリスは、目の上のコブだったに違いない。
 破竹の勢いで勢力をのばすナポレオンに対し、ヨーロッパ各地では当然反ナポレオン感情が高まった。プロイセン(ドイツ)では農民を解放し、行政機構の改革や営業の自由化を認めて近代化の道を示して対抗し、哲学者フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』と叫んでドイツ民族の誇りを呼び覚ます。またスペインでは、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトを国王に即位させたことに対し、農民がゲリラ戦でこれに抵抗してスペイン反乱(一八〇八年)が起こる。出る杭はいつの世でもどこの国でも打たれるのである。
 栄光を極めたナポレオンの没落は、一八一二年のロシア遠征から始まる。
 その発端は、ロシアが大陸封鎖令を破って勝手にイギリスと貿易を再開したことによる。怒ったナポレオンはロシアの首都モスクワへ大軍隊を派遣する。その数六〇万とも言われ、次々とロシア軍を破って進撃するナポレオン軍は、いとも容易くモスクワを占拠したのだった。
 ところがこれこそロシア側の罠で、モスクワの街を焼き払うという焦土作戦にまんまとはめられたわけである。冬を前に、兵糧も尽きたナポレオン軍は窮地に追い込まれ、この戦闘は泥沼の戦いとなる。その結果、六〇万とも言われるナポレオン軍は壊滅状態に陥った。
 力を失ったナポレオンを潰すのは今とばかりに、ヨーロッパ諸国が結束してライプツィヒの戦い(一八一三年)を起こすと、敗れたナポレオンは皇帝を退位させられエルバ島へ流刑された。
 彼がいなくなったフランスがどうなったか──?
 あろうことか、あれほど多くの血の犠牲をはらって推し進められたフランス革命で滅亡したはずのブルボン朝が復活を果たし、まさかのルイ十八世(ルイ十五世の三男)による復古王政が実現するのである(一八一四年)。かの徳川家康は、豊臣家を滅亡させるためには非常かつ冷酷だった。秀吉の子秀頼に微塵の同情も覚えずその息の根を絶ったが、フランス人はルイ十六世の子ルイ・シャルルと娘のマリー・テレーズを幽閉こそするものの殺しはしなかった。もっとも当時六歳だったルイ・シャルルは病死するが、王統の血筋は残したのである。時代を完璧に変えるということは、常に人にあらざる振る舞いが伴うのかも知れない。その点、パリの民衆は王族に対して人の情というものを残したものか。
 フランスの国民は悪夢のような現実に絶望するが、これを知ったナポレオンはエルバ島を脱出し、再びパリに戻って復位を成し遂げる。彼は革命で流された民衆の血の数を知っていただろう。
 これに対して再びヨーロッパ連合軍がフランスに攻めて来て、ナポレオンは彼にとって最期の戦いとなるワーテルローの戦い(一八一五年)に望むが、敗れ、その後は二度と帰れぬセントヘレナ島へ流刑された。栄光と没落、光と影、赤と黒、そして力と悲劇──革命を彩る様々な事象は、悲しくもあり美しくもある。
 ナポレオンの出現がヨーロッパ諸国にもたらしたものは何か?
 それはそれぞれの国においてそれぞれの国民意識というものを芽生えさせたことであろう。スペイン人、ロシア人、ドイツ人……、彼らが彼らと異なる人種のフランス人に支配される矛盾と憤り──そうした人々の国民意識が、この後の時代を形成していく。
 ナポレオンがいなくなったヨーロッパでは、秩序の回復を目指して各国君主らが集まりウィーン会議が開かれた。彼らにとってはフランス革命からナポレオン支配までのおよそ二十年間の出来事は、悪夢でなければ消したい歴史であった。そして、かつての国王が支配していた領土と国家体制を取り戻そうと、自由主義や国民主義を排除する方策について話し合う。こうして決められたヨーロッパの体制をウィーン体制≠ニ言い、ここにおいてドイツ連邦の成立やスイスの永世中立、フランスとスペインはブルボン朝の復活、そしてオランダ国王の成立が議定書で決められたのである。
 するとまた当然のようにウィーン体制に対する反発が起こる。
 ドイツ、イタリア、スペイン、ロシアでは自由を求める運動が。しかしいずれもウィーン体制により鎮圧せられた。その一方で、国民主義(ナショナリズム)に基づく独立運動ではギリシア独立戦争(一八二一〜二九年)を経てロンドン会議(一八三〇)においてギリシアの独立が認められたのを契機に、独立への動きはヨーロッパ諸国の植民地となっていたラテンアメリカの国々へも波及していくことになる。
 再び視点をフランスに戻そう。ナポレオンが失脚し、ブルボン朝を復活させたフランスはその後どのような動きを見せたか、である。
 王政の時代に逆戻りしたという民衆の不安をくすぶらせながら、ルイ十八世の後に王座に即位したのはシャルル十世。彼は絶対王政時代に戻すため自由と平等を抑圧し、王侯貴族の権利を守る動きを強めた反動政治の強化を図った。さらに民衆の意識を政治からそらすために戦争(アルジェリア出兵・一八三〇)を行ない、どさくさに紛れて選挙資格を大幅制限し、言論と出版に対しても統制を強化した。そのあくどいやり方を察知した民衆はまた蜂起する。これが有名な七月革命(一八三〇)である。その主導者は学生や小市民や労働者たち。これによってシャルル十世は失脚し、フランスからの亡命を余儀なくされた。
 七月革命の噂は瞬く間にヨーロッパ各地に伝わった。すると連鎖反応をおこして、ベルギーのオランダからの独立、ロシアからの離脱を求めたポーランド蜂起、ドイツ反乱、イタリア反乱へと自由主義と国民主義の運動は瞬く間に伝播する。その多くは武力で鎮圧させられたが、ウィーン体制の動揺は大きかった。
 そして間もなくフランスのブルボン朝は瓦解し、その後国王に即位したのはルイ・フィリップだった。ところが彼が行った政治は、いわゆるお金持ちしか相手にしないもので、特に、極端に制限された選挙制度は人口のわずか一パーセントの富豪にしか選挙権を与えなかった。この頃ようやく産業革命の途についたフランスの中小産業資本家やその労働者たちは、男性普通選挙を求めて選挙法改正運動を展開するが、ルイ・フィリップはその要求を受け入れようとしなかった。
 このとき、ドイツの思想家マルクスの言葉がパリの労働者や学生や資本家らを奮い立たせた。
 「万国のプロレタリア(労働者たち)よ、団結せよ!」
 こうして起こった暴動が一八四八年の二月革命である。
 これによりルイ・フィリップは失脚し、再びフランスには国王のいない時代が訪れた。そしてこの二月革命がヨーロッパ全体に与えた影響はそれまで以上に絶大だった。
 オーストリアではウィーン体制を支えていたメッテルニヒの失脚を呼び込んだウィーン三月革命が、ドイツでは国王に憲法制定を約束させたベルリン三月革命が、さらにはオーストリアに支配されていたマジャール人(ハンガリー民族運動)やチェック人(ベーメン民族運動)による激しい民族運動が次々と起こり、さらにはイタリア民族運動や、イギリスでは労働者たちが参政権を求めてチャーティスト運動がそれらの刺激を受けて最高潮の盛り上がりを見せた。ここにおいて王政を復活させようとしたウィーン体制は完全に崩壊することになる。
 これらの出来事をまとめて諸国民の春(一八四八年革命)≠ニ呼ばれ、文字通りこの年の季節の春と重なっていた。ところが束の間、この年の六月以降はまた反動化が強まり冬を迎えることになる。
 とまれこの五十年ほどの短い間に、これでもかと言うほどの激しい浮き沈みを経験しながら、民衆が王政を覆す数々の歴史的なシーンが演じられたのである。
 二月革命を経たフランスでは再びの共和制が敷かれた。
 そしてその大統領選挙に当選したのがナポレオン一世の甥に当たるルイ・ナポレオンであった。一八五二年、彼は皇帝に即位するとナポレオン三世を名乗り、フランスにおいて二回目となる帝政体制を確立し、独裁体制を手にした彼はボナパルティズムという統治体制をもってフランスに安定をもたらした。
 日本の幕末期はまさにこの頃と一致する。同時にペリーが来航した一八五三年頃は、クリミア戦争(一八五三〜五六年)、アロー戦争(一八五六〜六〇年)、インドシナ出兵(一八五八〜六七年)などに介在するなど、フランスは対外的にも大きく動き出していた。
 
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(十五)樅木(もみのき)叒木(じゃくぼく)
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 鎖国時代の沈黙を破って日本に上陸してきたペリーはアメリカ人である。なので当時のアメリカの様子も少し詳しく覗いておきたい。
 幕末期のアメリカは南北戦争(一八六一〜六五年)の真っ最中である。
 そもそもアメリカ合衆国という国はイギリスの人達が移り住んだ植民地であり、その歴史は大航海時代、コロンブスが大陸を発見した十六世紀にまでさかのぼる。悲しいかな、それまでずっとアメリカ大陸で生き、生活してきた原住民たちの歴史はほとんど語られることはない。
 国家として成立したのはそれより二世紀後のことで、独立戦争を経、一七七六年七月四日の『独立宣言』をもって建国とした。だから日本の幕末期は、誕生してまだ一〇〇年にも満たない未成熟の国であったと言ってよい。逆に言えば生まれたての真新しい国家は、新しもの好きの日本人にとっては特に魅力的な存在だったろう。
 十九世紀初期のアメリカは、大陸の東側にある十三州の領土のみ持つ小さな国だった。そして未開拓の地である西部をフロンティア(辺境)と呼び、これ以後マニフェストディスティニー(明白な天命)の名のもとに、対先住民の迫害を伴いながら西側への領土拡大を推し進めていた。フロンティア精神≠ニいう言葉はここからきたものだが、彼らは太平洋に接するカリフォルニアまで行きつくと大きな金鉱を発見し、十九世紀中ごろから空前のゴールドラッシュが始まるわけである。
 十九世紀初頭に話しを戻す。
 ヨーロッパにおけるナポレオンの出現で、彼が出した大陸封鎖令に対抗してイギリスは海上封鎖を実施しヨーロッパへの物流を止めた。これによりアメリカの通商は妨害され、イギリスとの間で戦争が始まる。これによってアメリカは経済的自立を余儀なくされたが、その結果、白人による民主主義が大いに発達し、時の大統領ジャクソンは人民に普通選挙権を与えた。ただし対象はあくまで白人男性だけで、黒人とインディアン、そして女性などには目もくれない。しかも先住民を強制的にアメリカ大陸の中央を縦に流れるミシシッピ川以西の荒地へと移住させる政策を行う。民主主義といっても当時はこの程度で、黒人に対する奴隷制度は既にできあがっていた。
 一言でアメリカといっても北側と南側とではその体質に大きな違いがあった。
 北側は資本主義的な商工業が中心だったので保護貿易を望み、南側はイギリスに輸出するための綿花プランテーションの農業が中心だったので自由貿易を望んだ。綿花プランテーションといっても実質的な働き手は黒人たちで、奴隷制に対する考え方も北と南で真っ二つに割れていた。無論南は奴隷制に賛成で、北は奴隷を解放してその労力を工場にあてたいねらいがあった。
 一八二〇年、ミズーリ協定により、北緯三六度三〇分を境に、北側を自由州>氛氓ツまり奴隷を使わない州と、南側を奴隷州>氛氓ツまり奴隷を使ってもよい州とに分け、その人口を同数にするといった規定が制定される。ところがカンザス・ネブラスカ法の制定(一八五四)により人口の均衡が崩れると、奴隷州は拡大され、ここに奴隷制反対運動が巻き起こる。これが十九世紀のアメリカの運動を象徴するものである。
 共和党が結成されたのはこの時である。アメリカで現在なお続く共和党と民主党という政党の構図は、理念不在でカメレオンのように名を変える現代日本の政党と違い、実はこの当時から続く長い歴史があるわけだが、この奴隷制度の賛否をめぐってアメリカ人同士が殺し合う内戦へと突入していく。
 ここに登場したのが一八六〇年の大統領選挙に当選したエイブラハム・リンカーンで、彼はこう言った。
 「私が大統領になったからには、黒人奴隷制度を廃止し、彼らに自由を与えるだろう!」
 それに反発したのが奴隷制賛成の南部の人たちである。アメリカからの独立を宣言し、リッチモンドに都を置いたアメリカ連合国≠建国する。こうして南北戦争(一八六一〜六五年)が勃発する。まさにこの時期が幕末だ。
 発端は南軍のサウスカロライナ州のチャールストンの港にあったサムター要塞への砲撃だった。慌てたリンカーンは、北部の支持者を集めるためにホームステッド法≠制定し、西部の開拓農民の支持を集めることに成功する。そして、まさに本小説で現在進行中の一八六三年(文久三)一月、奴隷解放宣言を布告し、戦争の大義名分を表明したのだった。黒人奴隷の人たちは狂喜乱舞。激化した南北戦争は最大の激戦と言われるゲティスバーグの戦い(一八六三)を迎える。
 そしてリンカーンは勝利し叫んだ。
 「人民の、人民による、人民のための政治を、地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意しよう!」
 と。一八六五年、リッチモンドは陥落し、南北戦争は北軍の勝利をもって幕を閉じる。しかしリンカーンは、その完全勝利を見ることなく銃弾に倒れることになる。暗殺だった。彼は奴隷制度廃止後のアメリカの発展を見ることはなかった。
 この奴隷解放によって、果たして本当に黒人は差別されなくなったかといえば、それはまた別の話をしなければならないのは悲しいことである。この根強い黒人差別問題の真の黎明を迎えるには、さらに二十世紀半ばのマーティン・ルーサー・キングの登場を待たなければならない。ここに人間の持つ宿業というべきものを見る。それ以前に──ここではあえて主義≠ナなく魂≠ニいう言葉を使うが、白人至上魂≠フ根っことはいったい何か?
 その後のアメリカは、北部主導で商工業が発達し、資本主義の発展は第二次産業革命を生み出した。結果、十九世紀後半のアメリカには世界各国からの移民が急増し、加えて大陸横断鉄道の開通(一八六九年五月)によって国内市場が統一され、十九世末にはついにイギリスを抜いて世界第一位の工業国へと発展する。

 次にロシアを見てみよう。
 当時のロシアは南下政策をとっていた。
 ヨーロッパ東部からアジア大陸北部にかかる広大な土地を有するこの国は、当時世界第一の国家と言われるイギリスのような産業革命を目指し、広大な耕地で安く収穫できる良質の麦を外国に売って資金を蓄えようと目論んだ。ところがロシアには海がない。あるにはあるが北側のそれは冬になると凍り、船が出せずに収穫したばかりの新鮮な麦を輸出することができなかった。そこで南へ進出し、海を手に入れようとしたわけである。
 最初に目指したのは黒海から地中海に出るルートであった。そのためギリシア独立戦争(一八二一〜二九年)、第一次エジプト・トルコ戦争(一八三一〜三三年)、第二次エジプト・トルコ戦争(一八三九〜四〇年)などに介入するが、ヨーロッパ諸国の利害関係や政治的意図からいずれも失敗に終わる。
 諦めきれないロシアが次に狙ったのはバルカン半島経由で地中海に出るルートであった。そこでオスマン帝国を相手に引き起こしたのがクリミア戦争(一八五三〜五六年)である。ところがオスマン帝国はイギリス・フランス・サルテーニャの連合軍で、所詮ロシア単独で勝てる戦争でない。
 時の皇帝はアレクサンドル二世。国力の弱さを痛感した彼は、農奴に自由を与えて国力を高めようと農奴解放令(一八六一)を発布した。ところがその結果、人民主義思想の動きが思いのほか盛り上がり、逆に粛清を強めたアレクサンドル二世だったが、最期は暗殺(一八八一)され、やがてはテロリズムの横行へと思わぬ方向へ発展するのである。
 その後もロシアの南下政策は継続されるが、結果的には実現されることはなく、やがてロシアの目はアジア方面へ向けられていく。しかしそれはこの小説の舞台より少しあと、二十世紀に入ってからの話である。

 そして最後は、当時世界第一位の富める国イギリスである。
 ちなみに本小説で進行中の一八六三年(文久三)には、すでに世界初の地下鉄がロンドンで開業している──。
 イギリスは産業革命の本家本元である。
 十八世紀後半から始まった産業革命は、イギリスに多くの産業資本家を生み出すが、十九世紀は自由貿易の熱望が作り出した時代とも言える。世界を股に富を求める商人たちの追い風になったのが東インド会社の中国貿易の独占廃止(一八三三)と航海法の廃止(一八四九)だった。この自由貿易主義の完成をもって力を強めたイギリスの商社や貿易商は、インドや中国などアジアとの貿易が自由にできるようになり、この動きは一八四〇年のアヘン戦争や一八五七年のセポイの乱などを引き起こす種となった。自由というのは戦争を招く悪魔かも知れない。
 産業資本家が台頭すると、都市に人口が集中する。すると人口の減った地域の中に腐敗選挙区を発生させた。そこで政府は腐敗選挙区を廃し、産業資本家に選挙権を付与したが、その際選挙権が与えられなかった労働者たちはチャーティスト運動≠展開して選挙権を求めた。そしてこれが実現したのが一八六七年のこと──。
 民主主義の根本原理は実に普通選挙にある。この選挙権の獲得の歴史こそ近代国家構築へのカギだったわけだ。世界初の普通選挙がフランス革命期にあったそれだとすれば、日本はおよそ一世紀ほど遅れたことになる。日本における最初の普通選挙は明治二十二年(一八八九)の大日本帝国憲法及び衆議院議員選挙法で定められるもので、選挙権とは言っても、直接国税十五円以上納める二十五歳以上の男子に限られたものだが。
 欧米がこの一世紀の間に普通選挙権の獲得を目指して闘争している時、日本はどうかと言えば、天皇の権威の奪い合いをしているのである。これは言い得て妙である。大規模な革命や維新という騒乱が西と東でほぼ同時に起こっているというのに、獲得しようとしている対象が、片や民衆の権利であり、片や天皇(国王)の権威なのである。叒≠ニいうものを追求し、定義づけしようとしている筆者には見逃せない事象なのだ──。
 とまれこうしてイギリスは大航海時代より遅れて二、三世紀、名実ともに世界一の国家へとのし上がったわけである。
 この期間に王座に君臨したのがヴィクトリア女王である。彼女は一八三七年に即位し、十九世紀末まで在位した。そしてこの時代をヴィクトリア時代≠ニ言う。
 欧米諸国やアジアやアフリカに自由貿易主義を拡大し、安い部材を仕入れて世界をあっと驚かすハイテクな工業製品を生産しては海外に高く売り付ける。イギリスは世界の工場≠ニも言われ、イギリスのルールが世界のルールだと言わんばかりにその黄金期を極めたろう。また首都ロンドンで世界初となる万国博覧会(一八五一)を開催し、その強大な国力を世界に見せつけた。
 ヴィクトリア女王──
 得てして女性の力が強い時代は平和と言えるかも知れない。日本においては光明皇后が即位していた時に天平文化が花開き、紫式部や清少納言ら女性文化が開化した平安時代も平和であった。
 パクス・ブリタニカ──圧倒的な工業力と軍事力をもってこの時期のイギリスを、人はイギリスの平和≠ニ呼んだ。
 とはいえもう一方では宗教問題も存在していた。もともとイングランドはプロテスタントの国である。ところが併合するアイルランドにはカトリック教徒が多く、この異なる宗派の統合に苦労を重ねている。一八二九年に施行されたカトリック教徒解放法により宗教的自由が認められ多少は緩和されたように思われるが、アイルランドとの問題は、この後二十一世紀に至った今なお尾を引く根深い問題であることを記しておかなければなるまい。
 ともあれ、フランスからはじまり、ヨーロッパ大陸諸国、アメリカ、ロシア、イギリスと、欧米の十九世紀を覗いてきたが、それらの国々に共通する規範は何であったかと問えば、それは紛れもなくキリスト教であり、彼らの心の奥の無意識の領域は、常にキリスト教によって支配されていたに相違ない。その意味からいえば、彼らはキリストの奴隷であった。徳川時代は、そのキリストを根こそぎ排除してきたというわけである。

 では日本はどうだろう? この小説は十九世紀半ばの日本を綴ろうとしているわけだがら、ここに至るまでの経緯を見ておかなければなるまい。しかし二世紀半にわたる江戸時代は戦争のない至って平和な時代だから、それ以前に目を向ける必要がある。
 現在世界は、イエス・キリストの生誕を基準とした西暦≠ニいう紀年法で歴史を刻んでいるが、日本にはこれとは別に神武天皇即位紀元(じん む てん のう そく い き げん)≠ニいうのがある。別名神武紀元(じん む き げん)=A簡単に言えば皇紀≠ワたは天皇歴≠セが、これは『日本書紀』の記述に基づき、初代神武天皇が即位した年を元年とする。これでいけば現在この小説が進行中の一八六三年(文久三年)は二五二三年で、西暦より六六〇年長い。
 フランス革命の時も革命暦という新しい紀年法が生まれたが、カトリック教会との和解の目的もあり、ナポレオンが皇帝となって二年後、僅か十二年あまりで廃止された。また仏教にも仏滅紀元≠ェあるが、これは釈迦が入滅した年を元年としており、仏教国によって一年の違いがあるから紀元前五四四年もしくは前五四三年がその始まりとされる。ただし仏教の年の数え方というのは、あくまで民衆の主観に重きを置くので、日照りの年が三年続けばそれを一年と刻んでしまう場合もあるし、年に二回の洪水が続けばそれを二年と刻んでしまうような非常に曖昧なものだから正確性はかなり欠いていると考えられる。それにつけても驚くのは、天皇歴はこれらの紀年法より長い歴史を持っているということで、その意味から言えば日本は世界一古い歴史を持つ国家と言える。
 この長い歴史のおおよそ前の半分は、親政あるいは摂関政治・院政の時代である。ところが平安時代末期に源頼朝が出現すると、天皇、朝廷に変わって武家が政治を行うようになった。しかしこれは頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉に幕府を開いて実権を握っただけであって、天皇がなくなったわけでない。そして以降幕末までのおよそ七百年に迫る長い歳月を、いわゆる武家政権によって政治が行なわれてきたわけだ。
 その間、欧米諸国のような民衆革命が全くなかったわけでない。室町時代に加賀国で起こった一向一揆(一四七〇年代)なぞは、一揆勢が守護の富樫(と がし)氏を追放して戦国時代までのおよそ百年近くに亘って共和国的自治体制を維持したという例がある(加賀一向一揆)。しかしこれは日本国を覆すほどの規模でない。が、たった一度だけ、再び日本がその政治体制を根底から変わろうとした時期を認めることができる。それは源頼朝によって打ち立てられた鎌倉幕府滅亡期、南北朝時代のはじめ、つまり北条氏の武家政権の力が弱まって、討幕の流れから天皇が再び政権を取り戻すところの話である。
 それは後醍醐(ご だい ご)天皇の時代──。
 このとき鎌倉幕府の力は弱まっていた。二度にわたる元寇の恩賞不足や貨幣経済の浸透によって、幕府体制を支えていた御家人制が崩壊しつつあったり、当時悪党≠ニ呼ばれる新興勢力の出現による寺社からの強い訴えに対する対応も後手々々で、それらに対する改革に消極的だった幕府は、加えて霜月騒動(しも つき そう どう)(一二八五・弘安八年)、平禅門(へい ぜん もん)の乱(一二九三・正応六年)、嘉元(か げん)の乱(一三〇五・嘉元三年)といった内紛も相次ぎ疲弊(ひ へい)は加速していた。こうした諸問題を抱えながら幕府第十四代執権に就いた北条高時(ほう じょう たか とき)(一三一六〜一三二六在職)は、『太平記』によれば政治を顧みず闘犬(とう けん)田楽(でん がく)などの遊びにふける暴君≠セった(※一説には病弱と)。
 時の後醍醐天皇には夢があった。
 それは延喜(えん ぎ)天暦(てん りゃく)()≠理想とする国家を構築することだった。延喜、天暦というのは平安時代中期の元号で、前者は第六〇代醍醐(だい ご)天皇の時代、後者は第六二代村上天皇の時代である。ちなみに後醍醐≠フ名は(のち)≠フ醍醐天皇≠フ意味である。
 延喜年間(九〇一〜九二三)の政治はいわゆる親政(天皇自らが行なう政治)で、その間醍醐天皇は数々の業績を収めた。その逸話を『大鏡(おお かがみ)』はこう綴る。
 「雪が降り積もって寒さが一段と厳しい夜、諸国の民はいかに寒からんとて御衣(ぎょ い)を脱す」
 と。いつも民の生活の心配をし、流行り病や天候不順が生ずると、罪人の大赦(たい しゃ)や税金の免除政策を行ない、不作の年は、民の負担を減らすために重陽(ちょう よう)(せち)(九月九日)などの宮中行事を幾度となく中止し、また旱魃(かん ばつ)の時には、民に冷泉院(れい ぜい いん)の池の水を汲むことを許し、その水がなくなると更に神泉院(しん せん いん)の水を汲ませ、ついにはその水もなくなった──とある。そして鴨川(かも がわ)が氾濫すれば、水害を(こうむ)った者を救援し、その年貢や労役を免除した。
 また、天暦年間(九四七〜九五七)の村上天皇は文化振興に秀でていた。自身歌人でもあり、内裏歌合(だいりうたあわせ)催行(さい こう)し、(こと)琵琶(び わ)などに精通し、そのほか『後撰和歌集(ご せん わ か しゅう)』の編さんや、自ら朝儀書『清涼記(せい りょう き)』を書き残す。(みやび)な宮廷平安文化の大絢爛期(だい けん らん き)を開花させた天皇である。
 王朝政治と王朝文化の最盛期を思う時、荒廃した時代の様相とのギャップに愕然とする後醍醐天皇は、密かに討幕′v画を企てた。しかしこの計画が幕府(六波羅探題(ろく はら たん だい))に露見し隠岐島(おきのしま)に流罪され、計画に加わった多くの者も追討された。ところが後醍醐天皇の皇子護良親王(もり よし しん のう)は辛くも幕府の手を逃れ、大和国に潜み抵抗を続ける。そして、
 「もともと伊豆の地方役人に過ぎない北条氏が朝廷を軽んじる横暴を絶対に許してはならない!」
 という令旨(りょう じ)(親王の命令書)を各地に発し、反幕府勢力を結集しようと挙兵する。これに呼応したのが楠木正成(くす のき まさ しげ)である。
 正成(まさ しげ)護良親王(もり よし しん のう)は赤坂城に立てこもった。その兵力わずか五〇〇、そこに二〇万とも三〇万とも言われる幕府軍が一気に攻め寄せた。これが一三三一年の赤坂城の戦い≠ナ、続けて一三三三年、千早城(ち はや じょう)の戦い≠ェ繰り広げられる。この二つは正成にとっては籠城戦(ろう じょう せん)で、この際演じられた奇想天外な数々の奇策は『太平記』に詳しい。そして楠木正成は勝利をおさめ、結果、鎌倉幕府を滅ぼした。
 後醍醐天皇は建武の新政を開始する。夢に描いた天皇による政治の復活だった──。これが、日本がその根底から政治の仕組みを変えた頼朝に次ぐ二度目の革命である。ここではあえて革命と呼ぶ。
 ところがわずか三年程で崩壊の時を迎えることになる。
 ここで筆者は、ナポレオンの栄枯盛衰(えい こ せい すい)を思い浮かべる。アミアンの和約で第二回対仏大同盟を崩したナポレオンは、国民投票において終身統領(しゅう しん とう りょう)にまで上り詰めた(皇帝になる前)。つまり死ぬまであなたはリーダーですよという約束を国民から得たわけである。ところが実際彼の結末はどうだったか? 流刑ではないか──。人が変われば法が刷新され、法が変われば時代も変わる。それは時に英雄を罪人に陥れ、賊軍を官軍に変貌させる。これが歴史の実相であり、時の冷淡さなのだ。
 しかし──である。日本ではフランスでは見られなかった現象が一つだけ残った──と筆者は見ている。それは何か?
 後醍醐天皇の思い描いた延喜(えん ぎ)天暦(てん りゃく)()≠フ如き夢は(つゆ)と消えた。既に武家の勢力は全国に広がっており、時代錯誤の天皇集権政治など誰も望んでいなかったのだ。その不満は地方武士の反乱となって現れ、一三三五年(建武二)には北条氏の生き残り北条時行(ほう じょう とき ゆき)が信濃で挙兵し鎌倉を占拠する。
 このころ急速に力を持ち始めていたのは御家人の代表格でもあった足利尊氏(あし かが たか うじ)である。彼は征夷大将軍の任命を求めたが、もとより武家政権を嫌う後醍醐天皇はこれを退け、尊氏は天皇の勅許を持たぬまま京を発ち、北条時行を潰して鎌倉を奪還した。
 こうした流れの中で、足利尊氏は朝廷に反旗を翻す決心を固め、彼に差し向けられた討伐軍を蹴散(け ち)らし京都に侵入。一度は失敗して九州に逃れるも、武家社会を取り戻そうとする者たちが彼のもとに参集し雪だるま式に膨れ上がった。尊氏はこの大軍を率いて再び京都に迫った。
 このとき尊氏征伐の勅命を受けて応戦したのが楠木正成である。
 一三三六年(建武三)七月、摂津国(せっつのくに)湊川(みなと がわ)の戦いが勃発(ぼっ ぱつ)
 正成を討ち取った尊氏は京都を制圧して後醍醐天皇を廃し、新たに光明天皇を擁立(よう りつ)して室町幕府を成立させた。日本の不思議は、時代の転換期にあって常に天皇を残してきたところにある。天皇を凌ぐ力を手に入れたのだから、自らが国王になってしまえばいいのに、日本に名を残した英雄たちは、誰一人としてそうしようとはしなかった。源頼朝然り、足利尊氏然り、豊臣秀吉然り、そして徳川家康然り……。彼らの心のもっとその奥の無意識の領域に、犯すべからざる存在として常に天皇というものが厳然としてあったのだ。
 それはともあれ、ここで触れておきたいのは尊氏でなく敗戦の将楠木正成の方である。
 彼の旗印は『非理法権天(ひ り ほう けん てん)』──「非(無理)は理(道理)に劣り、理は法に劣り、法は権(権威)に劣り、権は天(天道)に劣る」の意であるが、最後の天≠ヘ正成の生き方と照合した時、天子≠るいは天皇≠ノ置き換えられる。つまり彼の生き方、言い方を借りればその(スピリット)は、『七生報国(しち しょう ほう こく)』──つまり「七(たび)生まれ変わって国に報いる」という言葉に象徴される。国≠ニは即ち天皇≠ナあることを、極東(きょく とう)日出(ひ い)ずる国の住人は疑うことを知らない。
 楠正成は湊川の戦いで討ち死にしたが、彼は討たれる最後の最期まで天皇の忠臣として戦い名を残す。そしてその尊王の情熱は、正成(まさ しげ)正行(まさ なり)の父子の訣別(けつ べつ)≠ニ魂の継承≠フコントラストを映し出した桜井の別れ≠フドラマとなって、江戸時代においては国学の(かがみ)として崇拝され、幕末に至っては時代を動かす原動力となって生き続けるのである。

 さて筆者は、極東の小国日本で起こった幕末という時期を綴るのに、世界各国の革命の動向と日本のそれとを記してきたわけだが、この試みが物語にどういう影響を与えるかといった計算があるわけでない。ただ、日本が列強諸国と言って怖れている国々も、実は日本同様さまざまな問題を抱え、様々な大変革を遂げている真っ最中であったということだけは押さえておきたい。
 十九世紀は革命と暴力の世紀とも言える──産業革命によって手に入れた武器を使い、人類は二十世紀を戦争の世紀に仕立て上げてしまうのだ。そしていま二十一世紀は──。
 本編から離れてここまで長々と見てきた世界的規模の人類の大変革は、人が成したものなのか、はたまた天が成したものなのか。その善とも悪とも見分けの付かない不気味な足音が、刻一刻と直虎の近くに歩み寄っている。
 
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(十六)大番頭(おお ばん がしら)
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 文久三年(一八六三)九月──。
 堀直虎にいよいよ参勤の時がやって来た。
 退府在藩の間、江戸留守居の駒澤式左衛門からマメに送られてきた書状からは、せいぜい江戸市中の出来事が知れるくらいで、いま日本という国と世界との間で何が起こっているかといったグローバルな情勢などは想像に任せるしかなく、唯一その手掛かりとなるはずの横浜に向かわせた小林要右衛門季定(すえ さだ)は、いまだ戻らずその消息も気がかりなままだった。
 「はよ江戸へ参るぞ!」
 はやる気持ちを抑えながら参勤の準備を整えた直虎は、九月を待たずに須坂を出立し、予定どおり五日歩いて江戸に到着した。その足で城へ登ったところが、ばったり出くわしたのが陸奥(む つ)下手渡(しも て ど)藩主立花出雲守(いずものかみ)種恭(たね ゆき)という男である。
 「ようクラ内蔵頭(くらのかみ))さん、今は江戸か?」
 覚えのある声に振り向けば、直虎も思わず「イズ出雲守(いずものかみ))さん」と返す二人は、内蔵(く ら)さん・(いず)さん≠ニ呼び合う旧知の仲なのだ。無論種恭(たね ゆき)が直虎のことを内蔵(く ら)さん≠ニ呼ぶのは内蔵頭(くらのかみ)≠名乗るようになってからだが、年も全く同じこの二人の出会いは幼少の頃にまで遡る──。
 須坂藩九代藩主は直晧(なお てる)である。
 実はこの直晧(なお てる)、筑後三池(み いけ)藩五代藩主立花長燕(なが ひろ)の七男で、嗣子のない八代直郷(なお さと)の養子となって天明年間に堀家の家督を継いだ。そして直虎の実父・第十一代藩主直格(なお ただ)はその直晧(なお てる)の実子なのである。そればかりでない。二十九歳の若さで卒した直格の実兄・十代藩主直興(なお おき)の妻・寛寿院は、三池藩六代藩主立花出雲守種周(たね ちか)の娘であり、これまた立花家から嫁いだ人間なのだ。いわば直虎の身体には立花家の血が半分以上流れているというわけである。
 寛寿院の実父・立花種周(たね ちか)というのは種恭(たね ゆき)の祖父に当たる人物である。早い話が直虎から見て立花種恭(たね ゆき)は、父の兄嫁の甥っ子に当たり、もっと分かりやすく言えば、天保七年(一八三六)という同じ年に、種恭(たね ゆき)は直虎より四ケ月早く生まれた親戚同士なのである。
 そんな繋がりから子どもの時分からよく遊んだものだが、立花家が下手渡(しも て ど)藩と言ったり三池藩と言ったりするのは、この家がたどったやや複雑な道のりがあるからだ。
 江戸の初め、立花家は五千石の旗本だったが、後に筑後国三池郡に五千石の加増をされて一万石の三池藩を立藩したのが始まりである。ところが六代藩主立花種周(寛寿院の父)が若年寄となって寛政の改革に関わった時に、大奥の改革闘争をめぐって敗北したことにより、その子である七代種善(たね よし)(寛寿院の兄)は陸奥国下手渡に左遷されてしまう。よって種善(たね よし)が下手渡藩の初代藩主となったが、その子である二代目藩主種温(たね はる)には娘しかなく、父種善(たね よし)の弟種道(たね みち)(寛寿院の兄)の長男・種恭(たね ゆき)を養子として迎えたという経緯である。
 更には再び藩庁を三池に移し、三池藩は再興されて種恭(たね ゆき)は三池藩最後の藩主ということになるわけだが、それはこれより後、戊辰戦争の頃の話である。
 直虎は以前に比べ眼光が鋭くなった種恭(たね ゆき)の表情に一驚しながら、
 「たったいまさっき江戸に着いたところだ」
 といつもの愛嬌で言った。
 「公方(くぼう)様上洛や、長州や薩州の風聞を耳にしながらも須坂から出るに出られず、浦島太郎になっているのではと気をもんでおったわい。イズさんはいま大番頭(おおばんがしら)だったかな? 不穏な世の中で全くおちおちしてられんなぁ」
 大番頭とは幕職の一つである。
 いわゆる五番方と言って幕府軍事を司る大番(おおばん)書院番(しょいんばん)新番(しんばん)小姓組(こしょうぐみ)小十人(こじゅうにん)のうち大番のまとめ役で、書院番・新番・小姓組・小十人の四番は若年寄の管轄であるのに対し、大番頭は老中直属の組織で全部で十二組ある。何年かに一度は京都か大坂に出張する上方勤番があり、江戸における主な職務としては江戸城二の丸・西の丸の警備と府内巡邏(じゅん ら)がある。つまり幕府軍事機関の最高責任者というわけで、有事となれば将軍の先手として真っ先に出陣する任を帯びた。そのため町奉行や大目付より格が高く、騎馬による登城も許された特別な職務である。
 「そのことだ……」
 種恭(たね ゆき)は周囲に人けがないのを見計らって、直虎の耳元に顔を寄せた。
 「実は先ほど、小生、若年寄への昇進を告げられた。しかも上様の側近だ」
 「それはめでたい!」
 思わず大きな声を挙げた直虎の口を種恭は慌てて押さえた。
 「内蔵(く ら)さんも解かるだろう、当家もたかだか一万石の小藩だ。やっかみも多い。いずれ幕内に知れることになろうが、あまり騒ぎたてられたくない」
 直虎はどんどん先に出世していく同僚を羨むように、「やはり浦島太郎になっていた」と心で思った。種恭(たね ゆき)は続けた。
 「で、相談なのだが、大番頭のわしの後任に誰か適任はないかと聞かれ、はて、どうしたものか≠ニ頭を悩ませていたところだ。ここで会ったのもなにかの因縁だ。内蔵(く ら)さんを推挙してよいか?」
 直虎は「ううっ」と言葉を詰まらせた。
 歴代の須坂藩主では五代直英(なお ひで)、六代直寛(なお ひろ)、九代直晧(なお てる)の時に大番頭を歴任しているからここで承諾したとしても堀家では直虎が初めてというわけでない。特に直晧が大番頭を勤めた時は、武州大宮宿近くの八貫野(はち かん の)(いのしし)狩りを催した十一代将軍徳川家斉(いえ なり)のお供をし、大勢の組武者を預かって引率したという武勇伝が堀家で語り継がれているほどだが、俄かに大番頭になって欲しいと請われても、すぐには肯けない事情があった。
 「お気持ちは嬉しいが、恥ずかしい話、いま須坂藩は()るか()るかの財政難からようやく抜け出しつつある大事な時でな。仮に大番頭になったとして、いきなり上方勤番を仰せつけられた日には、たちまち窮乏状態に逆戻りじゃ。今回は遠慮しておくよ」
 「心配なさるな。それ相応の御役料が支給されるから財政の足しになろう。上方勤番がイヤならその旨伝えおくから是非受けてくれ」
 「困ったなあ……本当を申せばそれだけではないのじゃ……」
 直虎は手招きで種恭(たね ゆき)の顔を寄せ、「他言無用だが守れるか?」「無論」と短い約束を交わすと、
 「実はいま、武器がない──」
 と囁いた。
 「……? とは?」
 「金に困って(やり)も刀も(よろい)(かぶと)火縄銃(ひ なわ じゅう)も、あるもの全て売り払ってしまったのじゃ」
 「それじゃ今……?」
 「須坂藩は丸裸同然じゃ。武装できない大番頭など聞いたことがあるか?」
 「ない──。では、(いくさ)が起こったら先鋒どころの話でないな。と云うより、国許で百姓一揆でも起こったらどうするつもりじゃ!」
 「国が滅びてしまうなぁ……?」
 直虎は他人ごとのように笑った。
 「よくもまあ呑気に……これから先の算段はあるのかい?」
 「西洋の武器を買い揃えようと、今、横浜に部下を送って武器商人を探させているところだ」
 種恭は気の毒そうな表情で見つめ返した。
 「参勤したばかりで知らんかもしれんが、横浜はいま鎖港じゃ賠償金じゃという騒ぎが一段落したばかりで、武器弾薬の取り引きに関しては外国(あちら)さんも神経質になっているぞ。鹿児島事件(薩英戦争)においても、先日エゲレスのニール代理公使との交渉が始まったようだが問題は山積みだ。そう簡単にはいかんと思うぞ」
 「そうなのかい? それで要右衛門はいまだ戻らぬか……」
 初耳だと言わんばかりに口をポカンと開けた直虎に、種恭は同情の色を隠せない。
 「その能天気さが羨ましいよ。まあ、そこがクラさんの好いところでもあるが……仕方ない、大番頭は別を当たるとするよ」
 と、その日はそれで別れたものである。

 十五日の将軍拝謁の登城日となって、再び江戸城へ登った直虎は控えの柳之間に入った。
 三年に一度に改められた参勤交代緩和の影響だろう、柳之間は以前のような賑わいはなく、集まった大名たちは言葉少なに拝謁までの時間を待っていた。そのなか部屋の隅に、一人読書にふける同年代の凛々しい顔つきの男がいる。以前も見かけたことがあるが、他の大名との交わりを嫌い独りを好む様子から、声もかけずにやり過ごしていたものだった。
 「何をお読みですかな?」
 独りでいる者に声をかけたくなってしまう性分なのだろう、直虎は男の脇に寄って腰を下ろした。男は顔を挙げ不思議そうに見つめ返す。
 「最近出た蘭学書の翻訳本です。まあ医学書ですのであまり役立ちそうにありませんが。貴殿は?」
 「申し遅れました。拙者、信州須坂藩(ほり)内蔵頭(くらのかみ)直虎(なお とら)と申します。以後お見知りおきを」
 男は直虎の言葉に慇懃(いん ぎん)に頭を下げると、自らを山内(やま うち)摂津守(せっつのかみ)豊福(とよ よし)と名乗った。これがよもや生涯の朋友との出会いになるとは神ならぬ身では知る由もない。
 土佐新田藩第五代藩主──土佐山内藩の支藩で領地を持たず、そのため参勤交代がない江戸詰めの定府大名である。石高一万三千石を本藩より分与され安永年間に立藩したもので、藩邸が麻布古川町にあることから麻布藩あるいは麻布山内氏などとも呼ばれる男である。
 豊福が藩主になったのは安政三年(一八五六)六月で、藩主経験としては直虎より五年ほど先輩になり、江戸での仕事は「既に隠居の土佐宗家山内容堂様の補佐役として、専ら国事に関わることです」と、キリリとした目つきを細めて慣れない笑みを浮かべた。
 生まれを問えば天保七年(一八三六)五月十日。同じ小藩同士の特別な親近感を覚えずにいられない。
 「わしも丙申(へい しん)(天保七年)八月十六日じゃ」
 と、直虎は同い年生まれの立花種恭(たね ゆき)の顔を思い浮かべて「天保七年組じゃな……」と小さくひとりごちた。そして徳川幕府への恩顧の思いや、藩の現状や抱える問題など話すうち、すっかり意気投合してしまった。
 「ところで堀殿はこたびの長州と薩州の諸外国相手の干戈をどう思われますかな?」
 豊福はひどく真面目な顔付で聞いた。
 「恥ずかしながらつい先日参府したばかりで、詳しい経緯がいまひとつ飲み込めておりません。しかしながら、どれほどの軍備を整えていたか知りませんが、西洋を相手によく戦争を起こせたものだと、その無謀さには敬服するより仕方ありませんな。戦争などしなくて済むならそれが一番よろしい」
 「左様に思われますか……」
 「西洋に対して諸藩の軍備は赤子同然。徳川諸藩に急務なのは、西洋諸国が攻むるに手を出せないほどの軍備や文明の力を示すことだと思っております。こたびの参勤交代の緩和も、参勤にかかる無駄金をそちらへ回すための策だと心得ております──」
 「なるほど。参勤交代もなく、宗家の援助のみで成り立つ当家にはあまり関係ないように思われますが、堀殿は何をもって文明となさるおつもりか?」
 「さしあたっては西洋化ですな。古来より日本は大陸文明を柱に据えて独自の文化・文明を形成してきた国と存じます。そしていま、海の向こうから西洋という未知の文明が渡ってきたのなら、それを柱に据えて新たな日本文明を作っていくのが自然かと」
 「新たな日本文明ですか……いったいどのような国になるのでしょうな?」
 「ところで、横浜の一件についてご存知のことをお教え願えませんか?」
 直虎は先日種恭(たね ゆき)から聞いた話がひどく気になっている。
 「上洛された上様が開国方針を反故(ほ ご)にし、攘夷方針への転換を打ち出した件ですかな? なんとも無茶なことをすると思いましたが、天子様のお考えならやむを得ないかも知れません。暴発して上方の役人に抗議の出兵をした時はどうなるかと思いましたが、しかし小笠原様のお気持ちもよく理解できます。御切腹を免れ、今は謹慎中と聞きおよんでおりますが、江戸の幕臣はみな小笠原様びいきですよ。英国は、今度は上方の港の早期開港を要求しているようですが、はてさて難しい舵取りを強いられそうですなぁ」
 聞きたい事とは少し違う返答が返って来たが、小笠原長行の名が出たことで、資金援助のお礼やら出兵に協力できなかった詫びやらで、早いうちに見舞いに顔を出さなければいけないと思う直虎である。
 そこへ一人の役人が柳之間に姿を現し、
 「堀内蔵頭はおられるか?」
 と声を挙げた。
 「わしであるが、何か?」
 「ちと御用部屋(ご よう べ や)に参られよ。ご老中様たちがお呼びだ」
 御用部屋といえば老中や若年寄たちの詰め所である。それは本丸表の奥にあり、座敷内に囲炉裏があるのは、灰に火箸で密談ができるようにするためと噂に聞く。
 直虎は「何事か?」と首を傾げ、一礼して豊福と別れた。
 「内蔵頭殿をお連れして参りました」
 御用部屋の廊下で役人がそう告げると、中から「入られよ」と声がした。
 襖が開き部屋には老中や若年寄の面々──その中につい先日若年寄に昇進した立花種恭(たね ゆき)の顔もあった。視線がぶつかった瞬間、彼の目が「すまぬ」と言ったのは気のせいか?
 部屋に入った直虎は畳に平伏した。
 「その方が堀内蔵頭か?」
 老中の一人がそう聞いた。
 「左様にございます」
 「面を挙げよ。本日より大番頭の職務を与える」
 直虎は耳を疑った。「どういうことか?」と横目で種恭(たね ゆき)に視線を送れば、彼は再び「許せ」と目だけで答えた。
 「(おそ)れながら──そのような大役、とても私には勤まりかねます。なにとぞご容赦を!」
 「謙遜するな。そこもとの話は耳にしておる。相当の切れ者だとな。四書五経を(そら)んじ、藩の軍事力強化にも尽力しておるそうじゃないか。密かに英学を学んでおることもな」
 と言ったのは老中の一人、井上河内守(かわちのかみ)正直である。
 年は直虎と同じくらいだろう、遠江(とおとおみ)浜松藩の二代藩主で、外国御用取扱役(がいこくごようとりあつかいやく)を兼務し、横浜におけるイギリスとの鎖港・賠償金問題で尽力しているうちの一人である。つい先日も横浜鎖港問題を提議するため、築地の軍艦操練所へ赴き、アメリカ代理公使ブリュインやオランダ総領事フォン・ボルスブルックらと会見してきたばかりで、西洋に通じた人材を咽喉から手が出るほど欲しがっている。
 直虎は自分のことを彼に話したのは「小笠原様か」と咄嗟に思った。現に生麦事件賠償交渉の際、長行と井上は協力してあの窮地を乗り切ったという噂を聞いていた。
 「心して励め」
 有無を言わさぬ命令で受け入れざるを得なくなった直虎は、その日の将軍拝謁の儀が済むと、中雀門(ちゅう じゃく もん)の前で種恭(たね ゆき)の職務が終わるのを待った。やがて陽も暮れかけた頃、
 「いやあクラさん、すまん、すまん」
 と、大番頭就任を喜ぶような満面の笑みを浮かべた種恭(たね ゆき)がやって来た。
 「イズさん、ヒドイじゃないか。どうして止めてくれなんだ」
 「申し訳ない。しかし誤解してくれるな、クラさんの名を出したのはわしではなく井上様だ。どこで知ったかクラさんがひどくお気に入りの様子で、どうしてもと聞かん。お主の事情も承知していたが、端から適任と思っていたのでなぁ」
 直虎は愛想のないため息を落とした。
 「そんな気の抜けたような顔をするな。戦などそうそう起こるものでない。上方勤番の件は上言しておいたから、おそらく井上様支配の大番頭になるはずだ。なあに番頭(ばん がしら)とか目付(め つけ)とか奉行(ぶ ぎょう)といったって、あんなもんみんな尊称で役名とは言い難い。気軽に受ければいいさ」
 「そうは申してもなぁ……」
 「どうじゃ? 久し振りに角打(かく う)ちでも。募る愚痴を聞いてやる」
 角打ち≠ニはちょいと一杯ひっかけよう≠ニいう意味である。種恭(たね ゆき)は右手で(ます)を口許に運ぶ振りをした。二人は下級役人の姿に変じると、お忍びで近くの料亭に足を運んだ。

 幕内クーデターとも言える率兵事件を引き起こした謹慎中の小笠原長行の屋敷へ、直虎が見舞いに顔を出したのはそれから間もなくのことである。
 謹慎と一言で言ってもこの当時は差控(さし ひかえ)″とも言って様々な形がある。これは武士や僧侶など社会的身分の高い者たちに科せられた処罰であるが、基本的に屋敷の門や窓を固く閉ざされ、出仕や外出が禁じられる。普通逼塞(ひっ そく)″と言えば三十日間もしくは五十日間は昼間の出入りが許されず、閉門(へい もん)″と言えば五十日間もしくは一〇〇日間、昼夜ともに屋敷の出入りが禁じられた上に見張りがつけられた。さらに蟄居(ちっ きょ)″と言えばもっと重く、その刑期の期限さえ告げられないまま屋敷の一室に閉じ込められ、時には死ぬまで続くこともあった終身刑のようなものである。
 いずれにしろ武士にとっては不名誉なことだが、長行は別段落ち込む様子もなく素直に再会を喜んで久方ぶりの来客を客間に招き入れたのだった。
 それにしても不思議な空間である。畳敷きの座敷の中央には大きなテーブルが置かれてあり、その周りには日本では珍しい西洋の椅子がある。室内を四顧すれば、飾り棚に置かれたステンドグラスのオブジェや英国国旗をあしらった置物は英国(あちらさん)からの頂き物だろう、その隣にはいくつかのワイングラスが飾ってあった。
 長行が言うには、生麦事件賠償金交渉と横浜鎖港交渉で英国鑑ユーライアス号の艦内で見た西洋の会議室を真似たそうだが、見慣れない調度品や装飾品を珍しそうに眺めながら直虎は、招かれるまま一つの椅子に腰かけた。
 「暫く国許におりましたもので、何のお力にもなれず恐縮至極にございます。謹慎と聞いて心配しておりました」
 「なあに世の喧騒さえ聞こえてこなければ気楽なものさ。それより藩の西洋化は進んでおるか?」
 長行は天気を問う世間話のようにそう聞いた。
 「いやはやどうして……」
 直虎は西洋の武器を購入するため手を尽くしていることや、なかなか道が拓けない現実を吐露したが、それについては英国との交渉で苦しめられた当事者の長行が一番身に染みて理解しているはずで、西洋化を推し進めるのに幕府自体が大きな壁になっていることを嘆くのだった。
 「あの時、もっとうまい手段はなかったかと、いまだに夜も眠れんよ。だがそのおかげで南蛮の公人たちとも随分知り合いができた。怪我の功名とはこのことだ」
 あの時″とは生麦事件賠償金交渉で、幕議に反して独断でイギリスに賠償金を支払った件に違いない。幕府随一の西洋通にして、このとき長行はイギリスのことを南蛮≠ニ言った。その苦笑の奥に、ただでは起きない彼の強かさが隠れていた。
 「そうじゃ、珍しい物が手に入ったのだ」
 長行は思い出したように客間を出たと思うと、間もなく両手に西洋の赤いガラスビンと、菓子置きの盆には拳ほどの茶色い塊を数個のせて持って来た。まだ細君のない彼は「何をするにも全部自分でやるのだ」と笑いながらテーブルの上に無造作に置くと、グラスにワインを注いだ。
 トクトクと注がれる赤い液体がなんとも不気味に見える。
 「これは?」
 「イエス・キリストの血と肉だそうな」
 直虎は神妙な顔付きで生唾を飲み込んだのを見て、長行は急に笑い出した。
 「冗談だ、西洋の酒だ。肉の方はパンだよ」
 「小笠原様ほど冗談が似合わぬ方もおりますまい……」
 「さあ、召しあがるがよい。本当は食す前、南蛮人は胸の前で十字を切って『アーメン』と言うのだが、どうもイエス・キリストに魂を売るようでわしゃ好かん」
 「御法度ですからな」
 そう警戒しながら直虎は赤い液体を口に含んだ。
 それにしても主食であるパンとワインが、イエス・キリストの肉と血であるとはあながち間違ってはおるまい。日常食に主たる神を重ねるほど、西洋人の精神には深くキリスト教が刻み込まれているというわけだ。
 直虎はパンの方に手を伸ばして一口ほおばり、
 「パンとはこれほど柔らかいものでしたか……」
 と、帰藩中に作ったパンなるもの″とは全く違う食感に驚いた。実物を見、口にしたのはこれが初めてなのだ。江川英敏の『パン製法書』に記されていた材料や製法のことなど話しながら、「私が焼いたパンはこんな物ではなかった」としきりに感心するのだった。
 「ヰーストを加えてないからではないか?」
 と長行が教えた。
 「ヰースト?」
 「わしもよく知らんが、パンは特別な菌で膨らませてから焼くらしいぞ。横浜港の日本大通りに外国人の食料品を扱う『お貸し長屋』に『富田屋』というパン屋がある。そこではフランス人に習ったパンを売っているそうだが、今度横浜に行く機会があったら寄ってみるよ」
 「ぜひそのヰーストとやらを入手していただけませんか? しかし謹慎中では行けますまいな」
 「なあに、こっそり部下を偵察に送っているのさ」
 そう約束して、話題は政治情勢へと移っていった。
 いまの長行の心配事は四民が困窮していることにあり、様々な面で穏やかならざる事態が続いていることを危惧しながら、その根本原因が貨幣経済の乱れにあると断じるのだった。
 「一刻も早く安定させなければならない」
 と、貨幣改鋳の急務であることを説き、「近々建白書を進言するつもりだ」と熱っぽく語った。
 自藩のことだけで手一杯の直虎は、日本国全体を考える視野の広さにとまどいながら、進むべき荒野の広さを見すえていた。
 
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(十七)ストレート・タイガー
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 大番頭(おおばんがしら)になって数日後、幕府は府内見回りの強化を命じた。
 『例え諸藩の藩士であっても市中での宿泊を禁じ、必ず藩邸内に泊まることとする』
 軍事を司る大番はともかく、これは書院番頭(しょいんばんがしら)小姓組頭(こしょうくみがしら)、更には小普請組(こぶしんぐみ)が支配する全ての組織に通達されたもので、諸藩や町民に対して身元不明者の雇用や宿泊を禁じた。
 これは京都における著しい治安の悪化を受けたものでもあるが、江戸においても浪士による殺傷事件が多発し始めていたためだった。
 先月、京都で起こった世に言う『八月十八日の政変』と呼ばれるクーデターにより、会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派の諸大名と公卿が連携して、朝議において攘夷親征の延期を強行採決すると、軍事力によって長州藩をその担当する堺町御門警備から強制排除して尊攘派を一掃してしまった。これにより長州藩と攘夷派公卿たちは京都から追放されたわけだが、政変の前日の十七日には大和国で、反幕府勢力尊皇攘夷派浪士集団『天誅組(てんちゅうぐみ)』が決起して過激な行動を始めており、こちらも幕府軍一、四〇〇の兵力をもって鎮圧させられていた。いわゆる『天誅組の変』であるが、これらによって攘夷派の幕府に対する怨恨が沸騰し、京都のそれとは明らかに温度差はあるものの、殺伐(さつ ばつ)とした空気は江戸にまで流れ込んでいる。
 それにしても南八丁堀の須坂屋敷は俄かに人の出入りが激しくなった。
 八丁堀が同心の町ということもあるだろうが、もともと大番頭は十二組ある大番一組の頭で、一人の大番頭は四人の大番頭を従え四十六人の大番衆(おおばんしゅう)をまとめる。更に一組につき大番頭与力というのが十騎(騎馬に乗るわけでないがそう数える)と、大番頭同心というのが二十人いる。更にその下には無数の岡っ引きのような者が存在しており、それぞれの役に付くための石高や俸禄、あるいは細かなしきたりが決められていて、たいていの者は上役への印象を良くするため、月々や時候の挨拶、事あるごとに見舞いやらお祝いやら持って来て、つまらない気遣いを欠かさない。大番頭ともなれば一層激しさを増すというわけだ。
 何食わぬ顔で(そで)の下を持って来る者や、中には奉行所で扱われるべき町人同士のいざこざとか夫婦喧嘩の始末まで、江戸の町人の中には奉行所と番頭の区別もない者もいて、屋敷に訪れたからには無下にできない直虎は、賄賂(わい ろ)については厳しく叱り、お悩み相談についてはいちいち話を聞いてやり、
 「殿、こんな事を繰り返していたら、お体がいくつあっても足りませんぞ」
 とは、式左衛門の最近の口癖である。
 目先のことばかりでない。軍事頭となったからには世の中の不穏な動きに堪えず目を光らせ、大事に発展する前にその芽を摘み取らなければならない。さしずめ気がかりなのは水戸藩や長州藩をはじめとした攘夷浪士たちの暗躍で、直虎は柘植角二宗固を呼び寄せ、
 「水戸浪士をはじめとした攘夷派の動きを監視せよ」
 と命じた。彼ら伊賀者は独自の情報網を持っている。それはつまり内部事情が外部に漏れる可能性を秘めた諸刃の剣というわけだが、直虎は親しみを込めて彼を「角さん」と呼ぶ。要右衛門などは二言目には「伊賀者なぞ」と敬遠するから藩政会議には寄せないながらも、その人間性の本質は信用していた。宗固もそれを承知の上で仕官しているが、いざという時は血筋を優先するか忠義を優先するかは天にしか判るまい。
 そんな折、大関泰次郎が相変わらず能天気な(つら)を下げて屋敷にのこのこやって来た。
 「アニキ、一杯ひっかけに行きませんか?」
 太陽はまだ真上にある時分。
 「少し見ないうちにずいぶん凛々しくなったじゃないか」
 昨年正月に初めて大関増裕に紹介され、講武所奉行に昇進した増裕の挨拶回りに伴って路上でばったり会った時より、泰次郎とは妓楼のおいらんとのつまらないのろけ話の相談などに乗ってやっていたものだ。
 あるときは鉄砲洲の夕霧とかいう女郎に惚れて、その女の取り合いで大工のなにがしという男に追われて須坂藩邸に転げ込んで来たこともあるが、翌日には懲りずに別の女の尻を追い回す始末。そのうち退府となってしまってからは手紙のやりとりもなかったが、このたび参勤してからは忙しさに追われ、実に一年と何カ月振りかの再会であった。
 「増っさんは元気にしておるか?」
 直虎は大関増裕のことをそう呼ぶ。
 「開口一番、義父(ちち)の話はないでしょう。義父(ちち)身体を壊して国許へ帰りました
 「えっ? いつ?」
 「今年の三月だったかな?」
 泰次郎の話によればそれは仮病であるらしい。講武所勤めが始まってから幕府海軍にも関わるようになり、更には将軍上洛の折には旗奉行や槍奉行を仰せつかって忙しさに輪をかけた。それでも最初は「誉れだ」と嬉しそうに働いていたが、立て続けに歩兵奉行やら歩兵頭やら騎兵頭やらを統括するよう命が下っては、軍役多重でさすがの増裕も青ざめた。それを心配した家老たちは、慌てて病気を理由に帰藩させたのだと泰次郎は他人ごとのように話した。
 「それならばよいが。藩主が不在なのに跡取りのお前さんがこんなところにいてよいのか?」
 「屋敷にいたってすることなんかありませんからね。それよりアニキ、飲みに行きましょうや!」
 泰次郎はお家のことなどどこ吹く風の呑気さでへなへなと笑う。
 「真っ昼間っから酒はなかろう。それにわしはこれから市中の見回りだ」
 「柳橋にウメ子っていう馴染みの芸者ができましてね、ぜひアニキに紹介したいんだ」
 大関泰次郎の遊興ぶりは江戸でも評判なのだ。昨日は吉原、今日は芳町・柳橋・品川と、行く先々でサダやらリンやらトシやら芸者をはべらせ、しまいには武家の娘にまで手を出して、遊び盛りの年頃とはいえその体たらくには大関家の者たちもほとほと手を焼いた。ついにその遊蕩癖を抑えつけようと縁組話を決めたわけだが、祝言を挙げる前に増裕が国許へ帰ってしまったため、話は宙に浮いたまま相も変わらず屋敷を抜け出しては遊び惚けているわけだった。
 「縁談のお相手は誰じゃ?」
 「鍋島直与(なべ しま なお とも)とかいう大名の娘で(つな)と言うのですが、まだ十一、二歳の子供ですよ。お守りなんてまっぴらです」
 そう言う泰次郎とてまだ十四の小童(こわっぱ)なのだ。
 それにしても鍋島直与といえばオランダかぶれの蘭癖大名(らんぺきだいみょう)で有名である。肥前佐賀藩の三支藩のひとつ蓮池藩(はすいけはん)五万二千石の家であるから一万八千石の黒羽藩にとってはけっして悪い話でない。その娘を嫁にしようとは西洋通の大関増裕にして佳い相手を見つけたというべきだろう。
 「早く家の者を安心させよ」
 「兄貴の方こそ嫁をとったらどうなの? おいらにばっか言わないで」
 直虎に結婚する気がないのを知っていて、これがなかなか一筋縄ではいかない大関家の放蕩息子のいつもの逃げ口上なのだ。それも承知のうえで何食わぬ顔で直虎は更生を促す。
 「柳橋もいいが、ちと使いを頼まれてくれぬか? ほれ、以前話した薬研堀の鵜飼玉川のところへ行って写真鏡を買ってきて欲しいのだ。わしも一緒に行きたいが、なんせ忙しくて時間が取れん」
 直虎は「これだけあれば足りるだろう」と言って、懐から十両ほどの金を取り出すと泰次郎に渡した。
 「ずいぶんと金回りが良くなりましたね。前はそば一杯おごるにも渋っていたのに」
 「金は天下の回りものじゃ。こういう時もある」
 直虎は市中巡回の準備を始めた。
 「買った写真鏡で柳橋のウメ子姉さんを写してもいいかい? アニキに見せてやるよ」
 「かまわんが、壊すなよ」
 喜び勇んで屋敷を飛び出す泰次郎は、やはりまだまだ子供である。その後姿を直虎は微笑ましそうに見送った。
 ところが夕刻になって巡回を終えて帰って来ると、座敷でひとりごろりと寝転がる泰次郎の姿。
 「写真鏡はどうした?」
 泰次郎は直虎を見るなり、
 「何がこれだけあれば足りる≠ナすか! 写真鏡一台で家が一軒買えるそうですヨ。おかげでボクは赤っ恥をかきました」
 「そ、そんなにするのか──最新式の西洋銃器が買えてしまうな……」
 法外な値段に驚きながら、直虎は普段着に着替えはじめた。写真機を手にする日はもう少し先の話のようだ。
 「気を取り直して今日はこの十両で飲みに行きましょう」
 そう泰次郎が言ったとき、突然ガタガタっと大きな物音がした。すでに閉門したはずの門を激しく叩く音──警戒の色を深めた中野五郎太夫と竹中清之丞が腰に刀を備えて庭に飛び出すと、俄かに玄関が騒がしい。
 「夜分、何用じゃ?」
 「わしじゃ、要右衛門じゃ!」
 驚いた二人は急いで錠前をはずすと、そこに無精ひげを生やした懐かしい男が顔をのぞかせた。
 「要右衛門さんではないか!」
 「いやはや、あやうく浪人と間違われるところだったわい。江戸も随分と警備が厳しくなったなあ」
 五郎太夫と清之丞は、風呂もろくに入っていない異臭に鼻をつまんで「さもあろう」と顔を見合わせた。要右衛門は事情もろくに説明せず、「殿はおられるか?」とそのままずかずかと藩邸に上がり込んだ。
 「要右衛門にございます。ただいま戻りましてございます!」
 公の間の「なに?」という直虎の歓声に、隣の政務室にいた式左衛門は耳をそばだてた。
 「帰ったか! 入れ! ずいぶん心配したのだぞ! いったいどこで何をしておった?」
 直虎はやつれた彼の顔を見て抱きかかえるような哀れみの声を挙げた。
 「お人払いを──」
 血走った目付きがとなりの泰次郎を睨みつけた。その形相は行燈の薄明りで深い影をつくり、暗いオレンジの血色と起伏の黒に不気味な不精髭を浮かび上がらせている。
 「すまぬが大事な話だ。泰次郎君は席を外してもらおう」
 鬼のような赤目とドスのきいた低い声で威嚇したから、落ち武者の亡霊でも見たかのような顔をした泰次郎はたじろいだ。
 「かまわぬ。泰次郎もいずれ黒羽藩を背負って立つ身だ。見聞を広げるのもよかろう」
 直虎は泰次郎を脇に座らせ「続けよ」と言った。
 「……軽々しく他言するでないぞ」
 いまにも喰いついてきそうな声に、額に冷や汗をにじませた泰次郎は震え上がった。
 「ついに武器商人を見つけ出してございます。公使館に出入りするローダという名のエゲレス人です。我々日本人を見下すような高慢ちきな野郎ですが、あれくらいのへそ曲がりでないとどうにも交渉が進みませんでした。どうも西洋諸国は口裏を合わせたように日本人には武器を売るなと通達しているようです」
 横浜開港以来、攘夷派による外国人襲撃事件は後を絶たない。イギリス公使館が置かれた芝高輪東禅寺は攘夷浪士にたびたび襲撃されているし、昨年(文久二年)の生麦事件を皮切りに十二月には品川御殿山に建築中の竣工目前のイギリス公使館が長州攘夷派によって焼失し、今年に入ってからは下関戦争と薩英戦争が立て続けに起こる。個人レベルの外国人とのいざこざを挙げても、フランス人と日本商人の貸金をめぐる傷害事件、アメリカ人拉致事件、四〇〇名の浪人による横浜港内の異国船焼き払いと外国人斬殺を企てた横浜襲撃未遂事件。横浜ではつい先日もフランス陸軍少尉アンリ・カミュという男が襲撃され斬殺されたばかりなのだ。つまり外国人にとって心胆寒からしむる事件が相次いでいるというわけである。

 「で、肝心の武器は買えたのか?」
 要右衛門は神妙な表情で続けた。
 「はい。仰せの通りライフル銃一〇〇丁と、新式の大筒一門、注文いたしました」
 「そうか、でかした! で、いつ届く?」
 と歓びの声を挙げたのは、大番頭の任務遂行に不可欠な武器の買い付けに成功した安堵感からか。ところが、
 「それが──」
 と言ったまま、要右衛門は言葉を詰まらせた。
 「どうした?」
 「はあ……、本国に発注して取り寄せなければ物がないとのこと。早くて三、四ケ月──いや、半年から一年くらい見ていた方が良いでしょうな……」
 「ずいぶんかかるな……待つしかないのか──」と、直虎は腕を組んで続けた。
 「それにしても、お前にしてはずいぶん手こずったのではないか?」
 「生麦の賠償問題やら、薩・長の対外戦争の勃発で、西洋諸国(あちら)さんはひどく日本を警戒しています。貿易商人たちはなりを潜め、どうも行く時期が悪かったようですな」
 「ならばいったん戻ってくればよかったのだ。どれだけ心配したか」
 「任務を果たすまで戻るなと言ったのは殿ではありませんか!」
 「そうだったかな?」と、直虎はとぼけたふうに笑った。
 聞きたいことは山ほどあった。
 「交渉は英語ではなかったのか? よくお前の須坂弁が通じたな?」
 すっかり安心した直虎は、いつもの冗談でまた笑う。
 「柘植角二殿のつてで、横浜の伊賀衆を紹介してもらいました」
 「ほう、角さんにか……」
 直虎は表情を変えず「やるな」と心で笑んだ。普段はライバル視しているくせに、いざというときは連携を怠らない家臣たちを頼もしく感じたのだ。
 文久三年のこの当時、横浜にはアメリカ人宣教師を教師とした英語伝習所が既にできている。目聡い伊賀者はすかさずそこへの出入りを開始していると言う。
 「手土産がございます」
 要右衛門は懐からボロボロの本を取り出した。
 「英語の字引(じ びき)にございます。通訳を頼んだ伊賀者から譲り受けました。中浜万次郎が日常会話を記した『英米対話捷径(しょう けい)』なるもので、読みがカタカナで書いてあります。伊賀者自らが調べた単語も種別ごとにびっしり書き込まれてありますので非常に読みづらいのですが……。以前、殿が英学を学びたいと言ったのを思い出しましてな」
 「気がきくのぉ」と直虎は嬉しそうに手に取ってペらぺらとページをめくった。
 「恐れながら、殿のお名前を英語に訳してご覧にいれましょう」
 「面白い──言ってみよ」
 「堀≠ヘ則ちモー(moat)=A直≠ヘまっすぐ≠ノて則ちストレート(straight)=A虎≠ヘ則ちタイガー(tiger)≠ニ申しまするに、モー・ストレート・タイガー≠ニなります」
 「モー・ストレート・タイガー≠ゥ──」
 直虎はひどく気に入った様子で「内蔵頭(くらのかみ)≠ヘどう訳す?」と更に問うた。要右衛門は「俄か仕込みなもんで」と頭を掻いて、直虎の手から字引を拝借すると、
 「蔵≠ヘウェアハウス(warehouse)=A頭≠ヘヘッド(head)≠ニ訳すようですな……」
 「モー・ウェアハウス・ヘッド・ストレート・タイガー=c…? えらく長ったらしいのぉ。ストレート・タイガー≠ナよいわい」
 これ以来直虎は、親しくなろうとする友人に対してそう名乗って自分をアピールするようになる。
 そんな二人のやり取りに立ち会った泰次郎は、自分の放蕩生活とは異次元の世界に衝撃を受けた様子で、やがて口数も少なに須坂藩邸を後にした。

 それから一月ほど経ったある日の夜、江戸城本丸から火の手があがった。
 直虎は夕餉を済ませ、例の『英米対話捷径』を本台に置いて英学の学習に没頭していた時である。
 「お城の様子が変ですな」
 と知らせに来たのは式左衛門で、やがて「火事だ!」と南八丁堀の同心たちが騒ぎ出したのはそれからすぐのことだった。
 お城の大事とあらば取る物も取りあえず直ちに駆け付けるのが武士の習いである。
 慌てて家臣たちに大八車を用意させ、黒縮緬(くろ ちり めん)の衣服を帯で前結びに着た直虎は、車に掛矢(かけ や)大木槌(おお き づち)鳶口(とび ぐち)や荒縄などを積み込み屋敷を飛び出した。火事の多い江戸では、火の手があがると延焼を防ぐのにそれらの道具を用いて周辺の家屋を手当たりしだい解体する。そのため家の造りも華奢(きゃしゃ)にできている。
 果たして江戸城に到着すると、大手門は城から逃げ出す大奥の女中たちでごった返し、夜闇に紅蓮の光を浮かべる城からは、美しいばかりの火の粉が舞いあがり、炎は本丸から二の丸へと燃え広がっている様子だった。時の鐘が鳴り響き、消し口の屋根に上った火消しの(まとい)が激しく振られ、城内周辺は激しい音を立てて家屋の打ちこわしが行われていた。
 「上様はご無事か?」
 城中から逃げ出して来た役人姿の男をつかまえて聞けば、
 「分からんが、大奥からだと吹上方面へお逃げあそばされただろうな」
 「御台所(みだいどころ)は?」
 「知らんよ! こっちだって逃げるのに精いっぱいだったのだ!」
 役人の男は直虎を振り払うように逃げ去った。
 「殿! 始めますぞ!」
 掛矢(かけ や)を掴んだ要右衛門はじめ直虎の家臣たちは、目の前の建物の解体に取り掛かった。直虎も大木槌(おお き づち)を握り、慣れない手つきで柱を叩く。
 「まったく今年に入って二度目ですぞ」
 真木万之助が壁の木っ端を砕きながら半分呆れたように言った。彼の言う通り今年の六月にも江戸城が火災に見舞われ、西の丸御殿を焼失してその再建もまだ半ばなのだ。
 火事と喧嘩は江戸の花≠ニはよく言ったものだが、どんな災難も(いき)≠ノ代えてしまう江戸っ子の力強さには感心するしかない。
 それにしても多すぎる。大火と呼ばれるものは三年に一度と言われるほどに、江戸城だけでも徳川家康が幕府を築いてから今回を含め二桁の大台に乗ったのだ。明暦三年(一六五七)に焼け落ちた天守閣は、その後再建されることがないまま現在に到る。
 夜五ツ時(午後八時頃)に出火した火災は明け方になってようやく鎮火し、火災の詮議でその全容が次第に明らかにされた。
 火元は添番詰所と医者部屋の境で、類焼範囲は大奥を含めた本丸一帯と二の丸。火事による犠牲者は二十四名。将軍家茂と和宮は一旦吹上の滝見茶屋に避難し、その後、清水邸に引っ越し更にその向かいの田安邸に移ったという噂である。
 そして当日の添番の任務に就いていた者たちはみな町奉行に召喚され、追放あるいは謹慎の処分を言い渡されたのだった。
 職責が上がれば上がるほど重くのしかかる責任に、明日は我が身と思わずにいられない直虎である。
 この時点で江戸城に残っていた建物は、実に二の丸の燃え残った一部と三の丸と吹上、北の丸のみというお粗末な状態だった。以後、幕末まで本丸は再建されることはなく、本丸にあった施設はその後間もなく再建される西之丸仮御殿に集約され、幕府の機能は全て西之丸へ移されることになる。ちなみにその際大奥の女性達も西之丸仮御殿に引っ越すが、その多くは暇を出されて城を出たと言われる。
 この時の徳川幕府には、かつての繁栄を示すほどの城を再現するだけの統括力も財力も、すでに残されてはいなかった。
 
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(十八)赤い糸
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 江戸城の火災から数日して、突然父の直格(なお ただ)から、
 「たまには下屋敷に顔を出せ」
 と、伝言を伝えに直格古参の寺門という臣下が上屋敷にやって来た。
 「父の相手をするほど暇でない」と言いたげに、丁重に断るよう言い含めて使者を帰そうとしたところが、
 「首根っこを捕まえても殿を連れてくるようきつく仰せつけられておりまして、このまま手ぶらで戻ったら、拙者打ち首に相成ります!」
 目を潤ませ座敷に座り込んだまま梃子(て こ)でも動こうとしないものだから、さすがに根負けした直虎は、久方ぶりに亀井戸の下屋敷に顔を出したのであった。
 ところが父の隠居部屋に入ってみれば、
 「縁組の相手を見つけたぞ!」
 と、ひどくご機嫌な口ぶりで直格が言った。
 「何かと思って来てみれば、さような話でございますか」
 こちらは時間をこじ開けて来たというのに、そんな他愛ない話のためにわざわざ呼んだかと無性に腹が立つ。どうも父とは馬があわない。
 「御免──」
 直虎は有無を言わさず部屋を出ようと立ち上がった。
 「まあ話を聞け、悪い話でない」
 「また勝手に──申し訳ございませんが、私は室を持つ気はありません。ただでさえ忙しいのに嫁の相手などしておれません」
 「アホウ! 子を作らん気か? 堀家が途絶えてしまうではないか!」
 「恭之進(直虎の異母の弟)に任せます」
 直虎には結婚する気など端からない。いずれ弟に家督を譲って堀家を継がせればよいとでも思っているのだろう。そうでなくとも幕府の職務であたふたしており、さらに藩内の軍備改革にも手が抜けない。イギリス式導入のため数名を人選し、今は木っ端をライフル銃替わりに研究と習練を積ませ、英語をはじめ自身も学ばなければならないことが山ほどある。加えて最近は他藩との交遊も広がった。いま一番欲しいのは細君でなく時間なのだ。
 直虎はこれ以上話しても無駄だとばかりに再び退室しようと立ち上がる。
 「あ〜ぁ、残念だのう。えっらく別嬪なおなごじゃというのに……」
 直格の勿体ぶった捨て台詞を背に、そのまま何も言わずに退室したのだった。
 ところが上屋敷に戻った途端、
 「殿っ、聞きましたぞ! おめでとうございます!」
 まるで初孫ができたような喜びようで式左衛門が迎えた。
 「なにがじゃ?」
 「寺門殿に聞きましたぞ! 縁組が決まったそうですな」
 式左衛門の含み笑いに直虎は頭を抱えた。
 比較的口が固い須坂の藩士にして、どうしてこういう話ばかりは風に乗った羽毛のように軽々しく伝わってしまうものか。あるいは独り身であることが、それほど周囲に心配をかけているものか。直虎は珍しく仏頂面で、
 「父上が一方的に申しておるだけだ」
 そして浮かれた期待をくじいてやろうと「妻を持つ気など毛頭ないわ!」と言うより早く、
 「上田藩の姫君だそうですな──お相手を聞いて驚きましたぞ!」
 式左衛門が満面の含み笑いでそう言った。
 「なに? 上田藩──?」
 瞬転、高鳴る動悸にうろたえた。
 まさか、あのとき会った姫様か──?
 確か(しゅん)″と申した──?
 その期待は俄かに心臓を踊らせ、聡明な思考回路はまったく停止したように身体を硬直させた。それは茨の道に咲く一輪の燕子花(かきつばた)に足を止め、気付いた瞬間その群生の中に身を投じていたことに驚愕したような、あるいは何日も迷いあぐねた冬の迷路の中で、出口を指し示す外からの音楽に安堵したような、そうでなければ雪山童子が残りの半偈を聞いた喜びにも似ていた。
 「どうなさいました? ほれ、殿が藩主になったとき、一緒にご挨拶に行った上田屋敷で会った──お尻に根っこのお転婆娘(てん ば むすめ)……」
 慌てて「過ぎたことを言ってしまった」と口をつぐんだ式左衛門のことなど目に入らない。その脳裏には、あのときに見た茜色(あかねいろ)の空に舞い上がった数千羽の真っ白な鶴の光景がよみがえっていた。その鮮烈な印象は、同時に香った名も知らない冬咲く花の芳香さえ思い出させ、あの可憐な乙女のあかぬけな笑顔と、乙女の父である松平忠固の葬儀で見た同じ彼女の裏腹な泪の色が重なって、他人事でない親近感が心を支配した。幸運とはかくも突然に身に降りかかるものか。
 「聞いてないのでございますか? そのお話しで下屋敷に行かれたのではなかったのですか?」
 動揺を隠しきれない直虎は、心の乱れを悟られまいとして逃げるように公の間に駆け込んだ。
 その慌てふためきように式左衛門は不思議そうに首を傾げた。
 
 一方──
 こちらは信州上田城は三の丸の屋敷、季節はすっかり冬である。
 雪化粧を施した武家屋敷が建ち並ぶ街並みを狭い格子戸から眺めながら、寒気に小さな白いため息を落とす乙女がひとり。
 ぽつんと、
 「ひまじゃのう……」
 と呟いた。
 乙女は虚ろな視線を、雪が降りそうで降らないどんよりとした空に泳がせて、また大きな吐息を落とす。参勤交代の緩和で江戸から信州上田に移り住んだ俊である。
 「俊姫様、そんなにため息ばかり落としては幸運まで落としてしまいますよ。少しはお手を動かし下さい」
 侍女の松野から刺繍(ししゅう)の手習い中の彼女は、
 「いやじゃ、指がかじかんでもう動かぬ」
 いつもの駄々をこねて松野を困らせた。
 「これも花嫁修業のひとつです。あまりわがままばかり申していては、お嫁のもらい手がなくなりますよ」
 「おあいにく様じゃ。わらわは嫁になどゆかぬ」
 これは何十回、何百回と繰り返す二人のいつもの決まり問答だ。
 俊は舌をベーっ≠ニ出して、手にした針を針刺しに戻し、
 「やーめたっ」
 と、そのまま後ろに寝ころんだ。
 「暇じゃのう……暇じゃ、暇じゃ、暇じゃ! それに寒い、寒すぎじゃ! ここはホントに城下町か? 人っ子一人歩いておらぬではないか。侘びし過ぎる……そうじゃ、せっかく雪があるのじゃ。おもてに出て雪だるまでも作ろう!」
 「外はもっと寒いのです。風邪を召されます」
 俊はいぃっっ!≠ニ松野を睨んで、
 「ああ……江戸に帰りたい……」
 まだ十にも満たない童女のようにひとりごちた。
 そこへ襖の外から、「姫様、少しよろしいですかな?」というしわがれた声がした。俊は上半身を起こして「誰じゃ?」と声に問いかけた。
 「岡部の(じい)にございます」
 「おお、爺か。何の用じゃ? 入れ」
 襖が開くとそこには七十にもなろうとする老人が一人、深々と頭を下げている。こんな淋しい冬の田舎では、たとえそれが遊び相手にもならない一〇〇歳のよぼよぼ爺さんの訪問だったとしても嬉しい。
 老人は厳格な作法で座敷内に入り込むと、中にいた松野を部屋から遠ざけ、襖が閉じたのを確認してから改めて座りなおして再び額を畳にこすりつけた。
 そうされると何だか申し訳なく感じてしまう俊は、襟元を正して正座する。
 「何をしに参った?」
 と言いながら、そのくせおおよそ察しはついていた。この老人が顔を見せる時は、たいてい縁談話と相場が決っている。その老人の名を岡部九郎兵衛百人といった。
 上田藩主が松平忠固の時に家老を務めていた彼は、忠固が徳川幕府の老中を務めた際、つまり二度に渡る日米両国の条約調印で、徳川時代において松平上田藩が最も世間から注目され、また華やいだ時代に、藩政の中心人物として藩主忠固と労苦を分かち合ってきた男である。
 彼の先祖は、宝暦十一年(一七六一)に勃発した農民一万三千ともいわれる上田全域を巻き込んだ百姓一揆の際、城主参勤で国家老を務めていた初代岡部九郎兵衛という男で、このとき年貢の軽減と高掛(たか がかり)人足(にん そく)の廃止、そして不正を働く郡奉行の解任を求めた農民の要求に対して、
 「もし願いが聞き届けられなかったら、お前たちの目の前で切腹してみせる!」
 と豪語した気骨漢だった。百人はその六代目に当たる──。
 しかし忠固が死に、藩主が忠礼に替わると家老職を退き、その職を息子の岡部九郎兵衛志津馬に引き継いでからは、今は隠居の身となって陰で上田藩を支えている。俊とは生まれた時からの付き合いで、亡き藩主忠固の忘れ形見を守護するように、密かにその幸福を祈っているわけだった。
 俊は神妙な顔つきの百人を見て、
 「わらわは刺繍の手習いで忙しい。手短かに申せ」
 「ははっ」と百人は(おもて)を挙げ、
 「実は姫様に縁談話が来てございます」
 唐突に告げた。
 俊にとって縁談はこれが初めてというわけではないから驚きもしないが、その都度結婚する気のない彼女は冷たくあしらい、今回も心配する百人の気持ちも顧みず、
 「ことわれ!」
 迷惑そうにぷいっ≠ニ天井を仰いだ。
 その間髪入れない即答に、また(へそ)を曲げられては一大事とばかりに、百人は(やわ)(やわ)りと語り始めた。
 「姫様、江戸に帰りとうございませぬか?」
 そっぽを向いた俊の目線が一瞬、百人の方をちらりと向いたのを見逃さない。十七年間も彼女を見ていれば、七十近い人生経験をしてその気持ちを手玉に取るくらい雑作もないことのように思えた。
 「江戸はいいですなぁ、何と申しましても花の大江戸ですから。六間堀(ろっ けん ぼり)の松の寿司も食べとうございますなぁ?」
 深川六間堀の『松の寿司』といえば、文政年間に堺屋松五郎が考案した握り寿司の江戸で評判の老舗である。俊が大坂から江戸に移った幼い頃から、百人はたまに彼女を連れて一緒に食べに行ったものだった。百人は彼女が握り寿司が大好物なのを知っている。
 「江戸の話をしに来たのか? その手には乗らぬ。はよ要件を申せ」
 「はい──つまり、縁談のお相手といいますのは、いま江戸で一番と噂の偉丈夫(い じょう ぶ)にございます」
 「興味がない。さがれ」
 「そう申さずお聞きください。その男、姫様の亡き父上忠固様の遺訓のままに、西洋諸国と交易をなさんと英学を学び、四書五経を(そら)んじる幕府随一の鋭才にございます。この縁談がまとまればすぐにでも江戸に帰ることができましょう」
 「江戸を餌にするとはズルイぞ爺! 寿司は食いたいが嫁にはゆかぬ。丁重に断っておけ」
 「まあまあ最後までお聞きくだされ。当家は、昔から子女の縁組は譜代大名からとの習いでございますが、この男、一万石の外様大名の家柄にしてなかなかの切れ者。上田松平家の習いを()げて姫様との縁組をお勧めするのには、それほど価値のある人物だからにございます」
 「もうよい、さがれさがれ!」
 「芳姫(よしひめ)様は聞き分けがよろしかったのに、意固地なのはいったい誰に似たのでしょう?」
 「爺ではないのか? 妹は妹、わらわはわらわじゃ、関係ない」
 芳姫≠ニいうのは俊の妹である。昨年、老中になった井上何某(なに がし)という男に嫁いで行ったが、妹が承諾する前に「どうか?」と勧められたのは俊の方だった。ところが全くその気のない彼女は一蹴してろくに話も聞かなかったのだ。
 百人は暫く無言になると、たちまちその老いた細い両目から涙をこぼし、やがてグスンと泣き出した。
 「年を取ると、すぐに涙が出ていけませんな……」
 「泣いてもダメじゃ。爺の泪は信用できぬ」
 彼女がそう言うのには理由がある。父忠固が死に、その死因が病死と知らされた時も、彼は今と同じ色の泪を流したのだ。そのことを思い出した俊は、
 「父上の亡骸(なき がら)には刀傷があった。あれは病死などでない。何故に隠したのじゃ?」
 と百人を責めた。すると百人は涙をピタリと止め、暫く彼女をじっと見つめ言いにくそうに、
 「女子(おな ご)には知らなくてよい事もございます……」
 「おなごをバカにするな! さがれ」
 「忠固様がお隠れになって、かつての上田藩の栄光もどこへやら……。殿が老中だった頃は、どこの藩も我が藩に一目置いて、江戸の町を大腕を振って闊歩(かっ ぽ)したものですが、今となっては忠礼様が若年なのをいいことに、諸藩から全く軽くあしらわれております……かような屈辱にはもう耐えられません! お相手は一万石の大名とはいえ大番頭への栄転を遂げ、いずれは若年寄か老中かと囁かれる出世頭です。けっして悪い話ではありません! どうかお考え直しを──」
 俊は世間体ばかりに執着している家の男たちのそうした言動がまったくもって気に入らない。父が誰に斬られたかは知らないが、お家の名誉とか時の情勢におけるお家の立場とか、そんなもののために父上の生涯の真実を隠すことなどないのだ!
 しかしそれをうまく言葉にできない(わずら)わしさで、
 「大判ガシラだろうと小判ガシラだろうと嫌なものは嫌なのじゃ! 爺が部屋を出ぬならわらわが出る!」
 と言って荒々しく立ち上がった。
 「あんまり爺を困らせないで下さい。須坂藩には天保の飢饉以来の恩義もあるのです」
 「恩義などわらわには関係ない──」
 と言いかけて、俊はふと首をひねった。
 「はて──?」
 その小さな疑問は、最初は道端に落ちている一文銭を見つけたような心の動きだったが、近づくに従ってそれが一文銭でなく一分銀だったような、あるいは日がな一日刺繡の手習いをしているところへ、誰かが頼んだ出前の(うなぎ)が良いにおいをさせて届いたような、そうでなければ徳勝童子からもらった土の餅が突然大福餅に変わったような喜びにも似ていた。しかし、その疑問の正体がどうしても思い出せない。
 「須坂……いま須坂と申したか? どこぞで聞いたことがある……」
 「上田と同じ信州の国です。一万石の小藩ですが」
 「信州……須坂……? ああ、もうよい! 嫌なものは嫌じゃ!」
 思い出すのも面倒で、俊はそのまま百人から遠ざかろうと襖に向かって歩き出した。
 「お待ちを! ああっ……どのように堀殿にお断りすればよいやら……」
 俊はぴたりと立ち止まり、無意識のうちに振り向いた。
 「堀……? その男、もしかして虎さん≠ゥ?」
 「と、虎さん……? だれでございます?」
 「ほれ、虎さんじゃ!」
 俊はつつつと立ち返り、見上げる百人の正面に立った。
 「虎さんと申されましても……あ、あぁ、相手のお名前でございますか? 虎さん、そう堀直虎様です。よくご存じでしたな」
 「そうじゃ堀直虎じゃ! それならそうと早よ申せ! うむ、虎さんならよいぞ。わらわは虎さんのところへ嫁にゆく」
 俊は片膝をついてしゃがみ込み、輝く瞳で百人の肩に手を置いた。
 あまりの急展開に逆に動揺を隠せない百人は、暫く彼女を呆然と見つめていたが、やがてその白い手をつかんで「ま、まことでございますか!」と歓喜の声を挙げた。
 「うむ。で、婚礼の日取りはいつじゃ?」
 「お気が早うございますなぁ……」
 こうしてこの縁組話はとんとん拍子にまとまった。
 記録によれば、両家の合意の後、文久三年十二月三日に幕府に縁組願いを提出し、同月二十二には正式な許可が下りたと記される。そしておよそ一ケ月後の翌文久四年(元治元年)正月二十五日、俊は上田を出立し、再び江戸へと上るのだった──。
 
 縁談話とほぼ時を同じくして、幕府内ではまたまた大きな騒ぎが起こっていた。将軍家茂が再び上洛することになったのである。
 開国を推し進めてきた幕府は、先の将軍上洛において長州藩に攘夷実行を約束させられた。その板挟みの中で苦肉の策として横浜鎖港を打ち出し、西洋諸国の反発を受けながらもその交渉を続けていたところ、
 「横浜鎖港についての諸外国との交渉状況を聞かせよ」
 と、将軍に再上洛の朝命が下ったのである。
 京都は八月十八日の政変で大きく変わっている。つまり攘夷派の格であった長州藩が京都を追われ、薩摩藩や会津藩を中心とする公武合体派が勢力を占めていた。つまり将軍再上洛要求の背景には、公武合体の実を満天下に示す意味があったわけである。
 将軍再上洛の要請に幕議は再び物議をかもす。
 「一代で二度の上洛は如何なものか?」
 「財政の問題はどうするか?」
 それにも増して大きな反発は、
 「前回の上洛で恥辱ともいうべき処遇を受けたことをお忘れか!」
 だった。
 一旦はこの上洛要請を辞退したものの、朝廷からの再度通告が下ってはどうすることもできなかったという経緯がある。
 家茂に先立って将軍後見職の一橋慶喜が上洛することになり海路上方へ向かう。そして慶喜は公武合体の基礎を固め、政治秩序を整えると同時に将軍を迎える準備を進めた。
 こうして家茂は十二月二十七日、今回は海路で大坂へ向かい、文久四年一月十五日、二条城に入る。喜んだ孝明天皇は家茂に対して、
 『鳴呼(あ あ)(なんじ)方今(ほう こん)の形勢如何(いかん)(かえりみ)る。()(すなわ)ち汝の罪にあらず、(ちん)不徳(ふ とく)の致す所。朕汝を愛すること子の(ごと)し,汝朕を親しむこと父の如くせよ。嗚呼汝夙夜(しゃく や)心を(つく)(おもい)(こが)し、(つと)めて征夷(せい い)()職掌(しょく しょう)を尽して天下人心(じん しん)企望(き ぼう)に対応せよ』
 との勅諭(ちょく ゆ)を授け、表面上は公武一和(いち わ)の実を挙げた体裁を保つ。
 一方、京都を追われた長州藩に対し、二月十一日、幕府は長州征討準備令を発した。そして朝議においてその話し合いが行なわれ、この後慶喜は将軍後見職を解かれ、朝廷から新しく摂海(せっかい)の防護役である摂海防禦指揮(せっ かい ぼう ぎょ し き)と、禁裏の守衛役である禁裏御守衛総督(きん り ご しゅ えい そう とく)を命じられた。
 こうして五月七日、参内(さん だい)をすませた家茂は二条城を発って帰東することになるが、俊が将軍不在の江戸へ向けて上田を発ったのはこの間のことである。。
 晩冬は春の陽気が見えかくれする季節、雪の中から顔を出し始めた(ふき)(とう)土筆(つくし)大犬(おおいぬ)陰嚢(ふぐり)福寿草(ふくじゅそう)の道草を食いながら、その道中は世情とは裏腹なのんびりとした空気に包まれていた。
 行く先々の旅籠(はたご)に二日、通常上田から江戸まで四泊五日の道のりが、このとき実に九日かけての旅だった。
 「俊姫様、泊まるお宿でお団子ばかり食べていては、顔が団子のようになってしまいますよ」
 相変わらず小言を重ねる松野に、
 「松野の意地悪はもうわらわには通用せぬ。顔がお団子になったら虎さんに食べてもらうから心配は無用じゃ。それより次の宿場はどこじゃ? サブちゃんを呼べ」
 一行の護衛役の中に赤松小三郎がいた。彼は、幕府の長州征討準備令を受けて、上田藩の戦備品調達の任務も兼ねて江戸に向かっている。参勤交代緩和で江戸屋敷から上田へ移る荷造りの際に二人が出会ってから、博識の小三郎は俊の大のお気に入りなのだ。何かとこうして近くに呼び寄せては、宿場町の名物を聞いては取り寄せ、名所を聞いては出かけて行った。そんなことをしているうちにすっかり気心が知れてきて、
 「いつもすまぬのう。わらわを江戸に送り届けたらすぐに上田に帰るのか?」
 と世間話をし始めるのである。
 「いいえ、横浜に参ります」
 「横浜? 何をしに参るのじゃ?」
 「藩の買い物にございます」
 藩の姫君とはいえ機密を漏らすわけにいかない小三郎は言葉を濁すが、
 「そうか、ご苦労じゃ。せっかく江戸に行くのだ、他に行くところはないのか?」
 あっけらかんとした彼女の言動に乗せられて、ついつい以前入門していた下曽根金三郎の下曽根塾に顔を出そうとしていることや、師ともいえる勝海舟にも会おうとしていること、そして横浜に行った際は英国事情を見聞し、英語や軍事演習にも触れていろいろ学びたいことがあるのだと口にしてしまう。見かけによらず聞き上手な俊は、彼の江戸での行動をすっかり聞き出してしまった。そのうち身の上を話す間柄になり、
 「ほう、サブちゃんは昨年の春に嫁をとったか。名は何と申す?」
 「松代藩の娘にてたか≠ニ申します」
 と聞けば、
 「なぜ松代から嫁をもろうた? 上田にはよき娘はおらなかったか?」
 ずけずけと質問攻めを繰り返した。
 「憧れの佐久間象山先生にお会いしたい一心でした。一昨年末先生の蟄居が解かれ、妻を介して初めて先生にお会いすることが叶いました。それ以来、妻には頭が上がりません」
 「おお、ついに象山は赦免されたか! それはめでたい。わらわの父上が力を尽くした最後の仕事じゃ。もっとも仕事半ばで死んでしもうたが……。そういえば長州の吉田松陰とかいう者を赦免しようと話していたが、あの密談の時はそなたもいたのではないか?」
 「はて? 覚えがございません。おそらく上田にいたのでしょう」
 「そうか……サブちゃんが申すなら間違いない、わらわの気のせいか──」
 比較的口数の少ない小三郎がついつい口を滑らせてしまうのは、自分の事をてらいもなく話す彼女の無防備とも言える性格のせいだろうか? どこまで突っ込んで聞いていいやら戸惑いつつも、小三郎は己の身の程をしっかり弁える男なのである。俊は続ける。
 「あのとき集まった者の中に妙に(まなこ)をキラキラさせた男がいてのう。長州へはわしが行く!≠ニ名乗りを挙げていた。(いき)鯔背(いな せ)でそれでいて優しそうで、わらわはこの世にこんなまっすぐな男もおったと、ひと目で()れてしもうた……」
 もしかしたらその男の目の輝きと小三郎のそれとがあまりに似ていたため勘違いしたのかも知れない。幼い瞳に焼き付けたその男の風姿を思い出しながら、
 「その男の名……確か、りょ? りょ……? なんであったかな? りょ≠ェ付いたと思ったが、下の方を忘れてしもうた」
 柄になく頬をぽっと赤らめるのであった。
 これから正に嫁入りしようとする姫の密かな思いを知ってしまった小三郎は、慌てて、
 「聞かなかったことにいたしましょう」
 素知らぬ素振りで名物の団子をほおばった。
 かの男の眼光は彼女の朧げな記憶の中にのみあるが、あの日酉の市に出かける直前に出会った男のそれと、全く同じ光彩を放っていたことは、もはや彼女だけの秘め事である。
 俊は大好きな団子を食べるのも忘れて遥か江戸のある方角の空を見つめた。
 こうして一行が江戸の上田藩邸に到着したのは文久四年(一八六四)二月三日のことだった。
 
 
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(十九)木花桜姫(この はな さくや ひめ)
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 文久四年という年は二月(ふた つき)と十九日間で終わった。
 二月二十日から元治元年と改められたのは天皇が崩御(ほう ぎょ)したわけでなく、こうした短期間での改元は飛鳥時代の昔からたまにあったことではある。文久元年は暦の上で辛酉(しん ゆう)の年に当たり、辛酉の年から三年後は天意が(あらた)まり徳を備えた人に天命が下される革令(かく れい)の年=Aつまり変乱の多い年とされ、この年はそれに当たった。これを甲子革令(かっしかくれい)と言うが、更に深まる暗雲を暗示しているようでもあり、この元治という元号も僅か一年たらずで慶応へと改まる──。
 そんな重い空気を吹きとばし、江戸で一組の夫婦が誕生した。
 このころ将軍は江戸不在で、どことなし緊張感が薄れていると感じるのは気のせいか。その分婚礼の儀は一層喜びが露骨に顕われ、祝賀を見守る人々の心を躍らせる。
 元治元年(一八六四)二月二十七日──。
 桜の蕾が膨らみはじめたこの日、紋付き袴で威風堂々と身なりを固めた直虎は、やや緊張した面持ちで駕籠に乗り込んだ。『婿入り』といって、これから花嫁の待つ上田藩邸へ向かうところなのだ。
 須坂在する高井・上水内地方の婚礼の儀で『婿入り』といえば、結婚当日に媒酌人に導かれた新郎とその親族が嫁の屋敷に行くことで、そこで新婦の親族と新郎の間で盃を交わすことを言う。その後、夕刻まで酒宴が開かれると、今度は新婦とその親族が媒酌人に導かれて新郎の屋敷に移動し、そこでまた新郎とその親族および近しい人と盃が交わされる。その後再び酒宴が催され、このとき高砂≠竍玉の井≠ネどの謡曲が歌われた。
 この儀式は一般に公開されたので、新婦をひと目見ようと老若男女を問わず見物人が自由に屋敷や庭に入り込む。ここは江戸だがこれに似た慣例に従ったことだろうか。
 「いったいどこの姫君だ?」
 「信州上田らしいぞ。あんな別嬪(べっ ぴん)なら一生尻に敷かれたって文句は言わねえ」
 「内蔵頭(くらのかみ)様は果報者だ。あやかりたいねぇ」
 と、そんな囁き声が聞こえた。
 当日の新郎および新婦の出立に際しては、『見立て』といって親族や友人知人を招いて酒が振る舞われ、そこに同じ地域の住人が呼ばれてこれが現代で言うところの披露宴である。これを『三ッ目』と言う。
 それだけで終わらない。結婚の翌々日は『里帰り』といって、新郎新婦とその両親は媒酌人に導かれて新婦の屋敷に再び赴き、そこでまた饗宴がもてなされる。更にその翌日、新婦とその両親が媒酌人に導かれて新郎の屋敷にやって来てまた宴──実に四日がかりである。もっとも上田にも『風呂敷入れ』とか、江戸にも昔から似たような習慣があったりで、両家の話し合いで上田での習わしを取り入れたりもしたろうから純粋に須坂由来とはいかなかっただろうが、婚姻の儀式は滞りなく執り行われたのだった。
 髪を丸髷(まる まげ)に結った白無垢(しろむく)姿の俊は口に鮮やかな紅を乗せ、そのまばゆいばかりの御姿(みすがた)白鶴(はっ かく)と見まごうほどで、恍惚(こう こつ)とした新郎の(まなこ)に見つめられた花嫁は少し照れながら俯いている。これまで見たこともないしおらしさを目の当たりにした側付(そばづ)きの松野は、嬉しさのあまり号泣し、涙で霞んでその晴れ姿をまともに見てあげることができなかった。
 参列者の中に直虎の学問の師である亀田鴬谷(かめだおうこく)夫妻の姿も見えた。実に会うのは数年振りで、夫人の(ぬい)は立派に成長した新郎の姿に瞠目しながら「あの(にわとり)みたいな良ちゃん≠ェ(たか)に化けた」と笑った。
 酒が入るとますます弁舌になるのが鴬谷だった。しかも酔えば酔うほど言葉に鋭利さが増して、新郎の隣に座る美しい花嫁を見つめて小声でこう教えた。
 「直虎よ、承知していると思うがわしの(はなむけ)じゃ、聞いておけ。『礼記正義(らいきせいぎ)』にこうある。
 昔三代明王之政、必敬其妻子也。有道。妻也者、親之主也、敢不敬与。
 昔、明王三代の(まつりごと)は必ずその妻子を敬うのが道であった。妻というものは親の主であるから不敬があってはならない──とな」
 妻が親の主≠ニいうのは、妻というものは夫の親の祭祀には必ず大事な役を努めるという意味で、これは夏殷周三代の賢王を例えにして妻を尊敬することの大切さを説いた孔子の言葉である。思えば何でもかんでも「母ちゃんのお陰」と(ぬい)の面目を立てる彼の生き方の奥には、こうした思想的背景があるのだろう。
 「勘違いするなよ。そうやって細君を意のままに従わせるのだ。もっともわしにはできんがな」
 鴬谷はいつにも増してご機嫌な様子で何杯も酒を勧める。
 ──なんやかやでこうして祝言も無事終わり、どっと疲れを覚えた直虎だが、この日から須坂藩上屋敷には初々しい姫様と付き添いの女中が増えて一気に花の咲いた賑わいである。直虎の心は、新しく始まる未知の世界に戸惑いつつも、これまでに覚えたことのない歓喜で欣喜雀躍(きんきじゃくやく)とした。
 ところが祝いの人々が帰った屋敷の中を見渡せば散らかり放題のゴミの山。座敷に置いたやりかけの仕事は跡形もなく「あれはどうした、それはこっちだ」と遅れた何日間の仕事の穴は大きい。藩主自ら後片付けに翻弄されていると、その様を脇で見ていた俊が、
 「わらわも手伝う」
 と、これが嫁に来て初めての努めとばかりに目についた書類や本やらを片付け出した。ところが勝手にあちこち動かすものだからますますわけが分からなくなって、ついにしびれを切らせた直虎は、
 「姫様もひどくお疲れでしょう。先に奥でお休みください」
 と促した。しかし俊はなかなかやめようとしない。ついに主人の心を察したお付きの松野が、
 「俊様、お着物が汚れます。お部屋に行ってお着替えをいたしましょう」
 と誘ってようやく俊は奥の部屋へと姿を消した。
 ところが三日経っても四日経っても直虎の仕事は終わらない。
 毎晩奥の部屋で松野を話し相手にひとり過ごす新妻は、それでも健気に夫が部屋に来るのを待ちわびていたが、そのうち下屋敷から義母の(しず)が直虎の妹(ふさ)を連れてやって来て、
 「堀家に嫁いだからには堀家のしきたりを覚えてもらわねばなりません。いつまでも上田のお姫様気分では困りますよ」
 と上屋敷に住みついたものだから、浮かれ華やいだ空気はいっぺんに緊張へと変わった。
 ──(しず)は下屋敷では「梅印@l」と呼ばれている。一方、(ふさ)は「椿印≠フ姫様」である。普通『○○(いん)』といえば夫を亡くした奥方の尼称だが、江戸の終わり頃になると当主以外の家の女性にはみないん≠当てて呼ぶようになったものか? 未亡人を表わす院≠フ字を使うのを(はばか)り印≠フ字を当てて呼んだのかも知れない。
 静が(ふさ)すなわち椿(つばき)を連れて来たのは、新天地で慣れない嫁に対するささやかな気遣いだろう、年の近い話し相手に俊もたいそう喜ぶが、そのうち静の(しゅうとめ)根性が露骨に顕われ出して、料理にはじまって掃除や洗濯、針仕事に至るまで、細かなことにいちいち小言を言い出した。それには俊も耐え切れず、
 「いったいわらわはここに何しに来たのじゃ? もうおうちへ帰る!」
 夜中に松野をつかまえて、半べそをかきながら遅くまで愚痴を繰り返す。
 「ここが俊様のお(うち)です」
 最初のうちは松野もなんとかなだめ聞かせていたが、十日経っても奥に姿を見せない須坂の当主に対して「姫様の言い分はもっともだ!」と、ついにお役御免を覚悟で執務中の公の間の襖を叩いて食って掛かった。
 「お殿さま! いったいどういう御了見でしょう。毎日俊様をお一人にしておいて。俊様は大奥様の召し使いではありません! 上田藩邸に帰りたいと申しておいでです」
 「おい、ちと待て、先日嫁に来たばかりでないか」
 「嫁をとったという自覚がおありなら、少しは俊様のお相手をして下さいませ。毎日泣いてお過ごしです」
 「そりゃいかん──」
 と直虎は、慌てた様子で立ち上がったつま先を木机の角にぶつけて「いてて!」と悲鳴を挙げた。
 「さっ、早く俊様のところへ……」
 松野は、静にいびられ泣きべそをかく俊のいる台所へ向かおうとしたが、当の直虎はそそくさと屋敷を出てしまった。
 「まあっ! なんたる無粋(ぶ すい)なお方……」
 呆れかえって近くにいた式左衛門を睨み付け、松野はぷいっとそっぽを向いてひっこんだ。
 暫くして直虎が戻った。
 「殿、いったいどこへ行かれていたのですか? 松野殿はいまご機嫌斜めですのであまり近付かぬ方がよろしいですぞ」
 式左衛門の忠告も聞こえない様子でそのまま台所へ向かった直虎は、夕餉(ゆう げ)の煮物の味付けに首を傾げている静に向かって、
 「母上、もうよろしいのでお部屋でお休みください。ちと姫様にやっていただきたい仕事がございます」
 と言った。静と俊のやり取りを脇で見ていた妹の椿も、母の遠慮のない言動に手をこまねいている様子で「そうしましょ」と誘ったが、静は解せない表情で直虎を睨み返した。
 すると地獄に仏の俊がすかさず、
 「おお虎さん、来てくれたか! こき使われてわらわはもう息も絶え絶えじゃ。助けてたもれ……」
 とすがりついたものだから、「虎さん」という言葉に目を丸くした静は、「殿もしくは旦那様とお呼びなさい!」と大激怒。さも使えぬ嫁だと言いたげな顔付きで「まだ夕餉のひと品ができておりません」と陰険に付け加えた。
 「母上、お気遣いは嬉しいのですが、ここは私の屋敷にて私の流儀にてやらせていただきます。どうかお部屋にお引き取りを。今宵は姫様とパンを作ろうと思います」
 「ぱ、ぱん……? なんですか、それは」と静が問う。
 「須坂の軍備改革に欠かせない西洋の兵糧食にございます。姫様にはパン作りを覚えていただきますので、母上はどうかお休みを」
 すかさず松野と椿が気をきかせ、「さあ大奥様、お部屋へ参りましょう」と、不満たらたらの静はようやく台所を出て行った。
 膨れっ面の俊は直虎を睨んだ。
 その表情は愛らしく、思わず顔を赤らめた直虎は照れ々々(でれでれ)の目線をそらさずにおれない。暫くは何から話してよいやら分からぬ二人だったが、最初に沈黙を破ったのはやはり俊だった。
 「なにゆえずっとわらわを抛っておいた。わらわは虎さんだから嫁に来たのじゃ」
 「相すみません。仕事に夢中になってしまい、松野殿に言われるまで姫様が淋しい思いをしているとは気付きませなんだ」
 「鈍い、鈍すぎるぞ……世の男どもはみなそうじゃ──鈍くてキライじゃ」
 俊は江戸に向かう途中、身の上話を交わして直虎との過去の出会いを告白しようとした時の、赤松小三郎のぶっきらぼうな表情を思い起こした。
 「椿とは話が合いませなんだか? てっきり仲良うしとると思っておりました」
 「椿は嫌いでない。だが義母君(ははぎみ)はイヤじゃ。わらわは召し使いでない──かような日々が続くならわらわはもう上田のお屋敷へ帰る!」
 「そ、それは困ります」
 「わらわは困らぬ」
 「し、しかし……」と言ったきり直虎は顔を真っ赤に染めてなかなか次の言葉を言い出せない。それを察した俊は少し意地悪そうに、
 「わらわのことが好きなのじゃな?──ならば許してもよいぞ」
 と、涙を溜めたふくれっ面をみるみる笑顔に変えた。彼女も仲直りの糸口を捜しているのだ。
 「で、そのパンとは何じゃ?」
 直虎は思い出したように懐から西洋のガラス瓶を取り出した。
 「ヰーストです」
 「なんじゃそれは?」
 「パンの(もと)です。前に一度作ろうとしたのですが、肝心のこれがなくてできませなんだ。しかし、ようやく手に入れました」
 実は先ほど屋敷を飛び出したのは小笠原長行のところへ行ったためだった。先日「ヰーストを入手した」との連絡があり、松野の苦情を受けて一緒に作ろうと咄嗟に思い立ったのだ。
 「それはうまいのか?」
 新しい物好きの俊が興味深げに聞いた。
 「西洋人はパンに、牛酪や果実を砂糖で煮込んだジャムなるものをつけて食べるのですが、それが甘くてなかなか旨うございます」
 「ほっぺが落ちる程うまいか?」
 「そりゃもう!」
 「うむ……、結婚は今回お互い初めてであるし、まだ夫婦になって気心が知れぬこともあろうから、仕方ない、今回は許してやる──では一緒にそのパンとやらを作ろうではないか!」
 俊は上田藩邸で初めて会った時と同じ天真爛漫な笑顔を見せると、二人は早速(ひつ)から小麦粉を取り出し、顔を白く染めながら粉をこね始めた。
 
 元治元年の旧暦弥生(三月)初旬といえば新暦の四月初旬から中旬にかけての季節になる。
 南八丁堀の須坂藩邸上屋敷周辺の桜はいまちょうど満開と咲き薫り、藩邸北側を流れる桜川はその名の通りの光景を映し出し、夜風に舞う無数の花びらは庭の篝火(かがりび)に照らされてキラキラと光り輝いて季節はずれの雪が降っているようだった。
 縁側に佇む二人は互いに俯きながら、言葉少なに盆に乗せた焼き立てのパンを見るともなしに見つめていると、空から降ってきた一弁の花びらがパンの上に乗った。直虎はそれをつまんで取って、
 「もうこんな季節であったか……」
 と心で呟き、忙しさにかまけて移り行く季節にさえ気付かなかった自分を恥じる。そして、小笠原長行のところで食した本物のパンと寸分たがわぬ出来ばえに満足しながら、盆の上のパンをひとつ取って俊にさし出した。
 「ほんに良いにおいじゃ、うまそうじゃのぉ。西洋の者はこれを毎日食うておるのか?」
 俊は手に取って焼き立てのパンの香りを吸い込んだ。
 「ほんとにうまそうじゃ。俊姫様のおかげでこんなに上手にできたわい」
 「今宵は花見じゃな」
 俊は無邪気に小さな口に頬張り、弱々しくゆっくり噛み砕いて喉元をコクリと動かした。その素朴な仕草の一部始終をすっかり見ていた直虎は、彼女をいぢらしく感じながら「やはり花より団子だ」と思って自分も口に運ぶのだった。
 こうして降りしきる桜の花を見つめていると、ふと唄うようなつぶやきの声が空から静かに降ってきたのを聞いた。
 
 娘子(おとめ)らが頭挿(かざし)のために風流士(みやびを)(かづら)のためと敷きませる国のはたてに咲きにける桜の花のにほひはもあなに
 (乙女の髪飾りのために、そして風流な男の髪を結うためにと、天皇が治める国の隅々に咲いている桜のなんと美しいことか)
 
 万葉集の歌に相違ない。およそ食べることに夢中な彼女の口からどうしてこのような歌が出たものか。天から降ってきたその歌は、確かに彼女の口から漏れた声だった。目を見張った直虎は、かつて自ら綴った『叒譜(じゃく ふ)』の序文を思い浮かべた。
 『桜の花のことはよく知らないが、その美しさは筆舌に尽くせない。桜を愛する者は多いが、花見などして酔舞狼藉しているだけでその姿は感心しない。この桜は東方の秀気が集まる所に生ずる日本にのみある木であり、その名を叒″と名付く』
 隣に座る姫がまさに同じ思いであるのを知ったのだ。
 「万葉集ですな。ようご存じでしたな」
 「姫のたしなみじゃ。むかし御伽(おとぎ)の者が教えてくれた」
 「松野どのですか?」
 「ちがう。松野は小言ばかりじゃ」
 ニコリと笑った俊の微笑みの中に、理性と煩悩が同時に見えた。桜の花には嬌蘂艶弁(きょう ずい えん べん)さと爛漫妖嬈(らん まん よう じょう)とした美しさだけでなく、人を酔舞狼藉へと導く不思議な力が確かにある──いまの俊がそれだった。
 直虎は身に余る家宝を手に入れた喜びでむくりと立ち上がり、踏み石に置かれた草履をはいて庭に咲くうちの一本の桜に近寄った。そして、たわわに咲く拳ほどの枝を折って戻ると、俊の高島田の結い髪に刺し入れた。
 
 去年(こぞ とし)の春()へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも──
 
 これは万葉集に綴られる先の歌に対する返歌である。去年の春にお会いしたあなたが恋しくて、桜の花が咲いて迎えているようです″とでも訳そうか。俊はその意味をすぐに理解した。
 「もっとも姫様とはじめてお会いしたのは、辛酉(しん ゆう)(文久元年)の十一月、あれはとても寒い日でありました……」
 俊は「覚えていたか!」と言うように瞳を輝かせ、二人は申し合わせでもしていたかのように一緒に次の歌を口ずさんだ。
 
 花ぐはし桜の()(こと)()でば早く()でず我が()づる子ら……
 
 これは『日本書紀』の衣通姫伝説(そ とおり ひめ でん せつ)に出てくる允恭天皇(いん ぎょう てん のう)が思い人を詠んだ桜の歌である。桜を愛でるように貴方を愛そう。もっと早く出会えばよかった″とでも訳しておこうか。
 俊は急にかしこまって襟元を整え三つ指をついた。
 「これで虎さんはわらわのものじゃ。そしてわらわは今宵より虎さんのものになる。これからは喜びも悲しみも分かち合おうぞ」
 妙な言い回しだが、これが彼女の新妻としての挨拶だった。そして少し照れながら、
 「何かわらわに()き名を付けてくれ」
 と頬を染めた。江戸以前の日本では大きな環境の変化に伴って名を変えることは珍しいことでない。
 「佳き名でございますか……」
 眼を閉じれば彼女と初めて出会った時の、茜色の空に舞い立つ何千羽の鶴の光景が鮮やかに脳裏に浮かんだ。
 「(ち づる)というのはいかがでしょう? 千羽の鶴という意味です」
 「千か──あの日、虎さんが申しておったな──鶴は君子(くん し)()()む″と。うむ、気に入った。佳き名じゃ、今日から千と名乗ることにする」
 同じあの日の情景を思い描いた彼女は、暮れなずむ大空に飛び立った自分が、やがて天女のように地上に舞い降りた気がしたろうか。
 「夢とは叶うものなのじゃなぁ……その通りになった」
 俊は無邪気に立ちあがり、縁側の踏み石に先ほど直虎が履いた大きすぎる草履をつっかけると、そのまま飛び降りて花吹雪と戯れた。その姿は桜の化身か妖精かと見まごうほどで、直虎は、
 「木花桜姫(このはなさくやひめ)のようですな……」
 と「ははは」と笑いながら幻想の中のその神を見つめた。思えば『古事記』や『日本書紀』に登場する木花開耶姫(コノ ハナ サク ヤ ヒメ)″は桜の名を冠した姫の名である。『桜』の語源は『開耶(さくや)』であるとも言われ、この国の民族は(いにしえ)より()ノ花″を何より(いと)おしんできたのだ。
 俊はつつつと近づいて、
 「その名はわらわも知っておるぞ! 日の本最初の天子様(神武天皇)の曾祖母様(ひいばあさま)の名じゃ。わらわはそれほどに美しいか?」
 と屈託のない笑顔を浮かべた。
 ──瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)日向国(ひ むかの くに)の高千穂へ降り立ち木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と出会う。開耶姫(さくやひめ)には磐長姫(いわながひめ)という姉がいたが、木花開耶姫がとても美しかったのに対し磐長姫はいわゆる醜女(しこめ)だった。二人の父大山津見神(おおやまつみのかみ)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)こう言う。
 「磐長姫を(めと)らば(あま)つ神の御子(み こ)の御寿命は雪が降り風が吹いても永久に石のように堅実でありましょう。しかし木花開耶姫を娶らば、世は木の花の栄えるように繁栄するでありましょうが、天の神の御子の御壽命は木の花のように(はかな)いでありましょう」
 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は木花開耶姫を選んだ。それは日本人たるDNA″に刻まれた宿業とも言うべきものかも知れない。
 俊は少し意地悪そうな目付きでこう問い掛けた。
 「美しきけれど(はかな)きものと、(みにく)きけれど末長きものと、虎さんだったらどちらを選ぶ?」
 「そりゃ難しい質問ですな……? しかし、わしゃもう千さんを選んでしもうたわい」
 「まあ!」と俊はまた花のように笑う。
 「わらわならば美しく末長きものを選ぶぞ!」
 「欲張りですなあ」
 胸のあたりに俊の黒髪が不意に倒れかかった。その(びん)から香る白檀(びゃくだん)丁子(ちょうじ)の薫りに酔いしれながら、散りゆく桜のなんと美しいことかと直虎は思う。
 古来日本人はこの桜の中に無上の美しさを感じ取ってきたのだ。それは開花の喜びよりむしろ散りゆく(はかな)さにある(ほろ)びの美学″とも言ってよいかもしれない。日本人とは、生まれ来るものより死にゆくものへの憧れが僅かに強い民族なのだろうか──?
 二人は、自然の生業(なり わい)のまま無作(む さ)に散る幾千、幾万もの桜の花びらに包まれていた。
 俊の黒髪に一弁の花びらが舞い降りた。直虎はそれを取って、
 「桜は何故これほど美しいのだろうか?」
 ぽつんと言った。俊は彼の指先のそれをとって、
 「白に僅かの紅を乗せているからじゃ」
 と当たり前のように答えた。また落ちて来た一弁を拾った直虎は、叒譜(じゃく ふ)″に描いた様々な山桜を思い浮かべながら白い花弁の根元が確かに赤いのを見た。
 俊は続けた。
 「鶴もそうであろう。真っ白な羽根と体の長い首の頭に、ちょこんと紅を乗せている。だから美しい」
 「なるほど──白に紅……()(もと)の色じゃな」
 直虎には桜の花びらの根元の紅色が、ぽたりと血の垂れたように見えた。
 はっ!″と俊に視線を移せば、そこに新妻の微笑みがある。
 直虎はそのしなやかな身体を抱き寄せた。
 
 
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(二十)虎さん・サブちゃん
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 ちょうど枕もとの下の床が小さくトントンと鳴った音に直虎は目覚めた。
 水戸藩と長州藩を中心とする尊王攘夷派浪士たちの動きを探っている柘植角二(つ げ かく じ)宗固(むね かた)が、縁の下から話がある″と伝えている。
 横で小さな寝息をたてる俊に気遣いながら、そっと上半身を起こした直虎は、物音ひとつたてずに着物を羽織って奥の間を出た。そして闇に支配された公の間に行燈(あん どん)の灯をともせば、そこに慇懃(いん ぎん)に平伏している宗固がいて、胡坐(あぐら)をかいた直虎は花冷えの寒気にぶるると体を震わせた。
 「どうした、こんな夜更けに?」
 「水戸の筑波山(つく ば さん)にて浪士六十数名が挙兵し、その数が雪だるま式に膨れ上がっている模様です」
 「なにっ?」と声を挙げた表情が一瞬青ざめる。よもやその鎮圧を命ぜられるとしたら、大番頭(おお ばん がしら)こそ筆頭に挙げられる役回り。いま須坂藩には武器がない。「こりゃ参った……」と言わんばかりの表情で、
 「水戸藩内のゴタゴタには水戸家老武田耕雲斎(たけ だ こう うん さい)殿が収拾に動いていたのではなかったか?」
 とひとりごちた。
 水戸藩内のゴタゴタというのは、その政権をめぐる保守派と尊王攘夷派との勢力争いのことである。このとき耳順(じじゅん)に一つ年を加えていた水戸藩士武田耕雲斎は、徳川御三家の一つ水戸藩第九代藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)時代からの水戸の忠臣と聞こえる男であった。そもそも水戸藩と言えばペリー来航当時から尊王攘夷≠主導しており、斉昭時代がその最盛期だった。ところがどんな組織においても保守派と革新派は必ず存在するもので、平時は両者の絶妙なバランスの上で健全な組織体制を保持するが、幕末の如き乱世にあっては支点を失ったシーソーが大きく(かし)いで崩壊するものか。水戸藩に関して言えば支点≠ヘ徳川斉昭(とくがわなりあき)に違いなく、安政の大獄で力を奪われた彼が万延元年(一八六〇)八月にこの世を去ると、それまでの中心勢力は次第に力を失い藩内は大混乱に陥った。これと同様の現象は少し後の長州藩などでも見て取れる。
 そんな勢力争いの中で昨年の十二月から今年にかけて、上総国(かずさのくに)の農家に攘夷派浪士たちが集団で押し入り、金銀・米穀・刀槍・木材などを掠奪したり乱暴を働くといった事件が横行していた。これに対して幕府は、いずれも上総国の佐倉藩主堀田中備守正睦(なかつかさのかみまさよし)一宮藩(いちのみやはん)加納備中守久徴(びっちゅうのかみひさあきら)、そして東金御殿(とうがねごてん)を有する板倉内膳正(ないぜんのしょう)勝長(福島藩主)に命じて浪士の(やから)を捕縛せしめたが、警戒を深めた幕府を刺激するように、水戸浪士たちの筑波山挙兵は、武田耕雲斎の必死の押さえが限界に達した印しに違いなかった。宗固は続けた。
 「耕雲斎はいま江戸におり、京都の一橋(ひとつ ばし)公は耕雲斎に出兵の要請を打診したとのことです」
 「それは水戸の挙兵に対してか?」
 「いえいえ、出兵要請は筑波山の挙兵より前ですから一橋公はまだ知りません」
 「とすると京に兵の入り用だな。長州攻めの方か? それとも水戸藩を一つにまとめ上げるための算段か?」
 一橋慶喜は一橋家の養子だが、もとを正せば徳川斉昭の実の子(七男)である。このとき朝廷から禁裏御守衛総督(きん り ご しゅ えい そう とく)および摂海防御指揮(せっ かい ぼう ぎょ し き)に任じられていた彼は、いわば朝廷の顔、幕府の顔、そして水戸藩の顔といった三つの顔を持っていた。直虎は小笠原長行が彼のことを『二枚舌の喰えない男』と酷評していたのを思い出し、その腹を探ろうとしてみたが、持ち得る情報だけでは今の段階で何とも評価することはできない。
 昨年の八月十八日の政変で、京都を追われた長州藩に対する朝廷と幕府の非常な警戒心は、今年の二月に出された長州征討準備令を見ても明らかだ。京都における政治運営は、将軍徳川家茂の二度目の上洛に伴い実質的に組織された一橋慶喜・島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城らを中心とした参与会議で行っており、そこでは長州藩の処分問題や横浜鎖港問題について話し合われていたはずだが、この会議には諸問題を解決する以前に構成員同士の不仲という大きな欠陥があった。直虎が俊との結婚を控えていた頃、参与メンバーの酒席で慶喜が、
 「島津と慶永と伊達の如きは天下の大愚物! 俺と一緒にするな!」
 と暴論を吐いたという噂が江戸にまで聞こえて来たほどだ。案の定、参与会議は結成からわずか三カ月足らずで瓦解を迎え、その後慶喜は、会津藩主松平容保(かた もり)と桑名藩主松平定敬(さだ あき)との関係を深めていく。その間、長州征討問題は放置されたままの状態なのである──。
 宗固の情報によれば、水戸藩内の情勢は次のとおり。
 現在政権を握っているのは諸生党と呼ばれる保守派勢力で、まだ年少の藩主慶篤(よしあつ)を取り込み斉昭時代の中心勢力を次々と排除して幕府にすり寄っていると言う。幕府にとって攘夷派は敵であり、その分諸生党と結び付きやすい。一方、藩を追い出された攘夷派の者達は、政権を奪還するためなりふり構わぬ盗賊まがいの悪事を働き資金集めに躍起になった挙句、ついに筑波山に結集したというわけである。この集団は鼻を高くして偉ぶる″意から、後に天狗党(てん ぐ とう)″と呼ばれる。
 そんな水戸藩を中心とした関東一円のゴタゴタを収拾させるため、名目上幕府から派遣されたのが武田耕雲斎だった。
 耕雲斎は斉昭時代から藩の要職にあり、文久二年(一八六二)十二月に、一橋慶喜が京都に向かう際も随従するほど慶喜から信頼されており、京都においては水戸藩主徳川慶篤(よし あつ)の弟松平昭訓(あき くに)の補佐役となって御所近くの長者町に住まうようになってからは、宮中において孝明天皇との陪食を仰せ付かるほどの栄転を果たしていた。その後、慶喜の帰東に伴い京都を離れ、藩主から水戸の海岸巡視を命ぜられ国許に戻るものの、再びの将軍上洛に伴い慶喜の要請で再度水戸から江戸に登った。ところが慶喜が京へ発った後の文久三年(一八六三)も終わろうとする頃、攘夷派浪士たちによる関東の不穏な動きに対処するため、幕府の関東鎮撫の命により再び水戸へ向かう。そして年が明けて一月、家老クラスとしては破天荒と言える伊賀守≠フ官位と従五位下≠フ叙任を受け、つまりここまでの武田耕雲斎は、朝廷からも幕府からも大きな信頼を寄せられた陪臣のはずだった。
 ところが、事態は彼自身想像だにしない方向へと展開していく──。
 
 翌朝──、
 須坂藩邸の門前に一人の旅姿の男が立っていた。それに気付いた野平野平(の だいら や へい)が声をかければ、男は「上田藩から嫁いだ俊姫様にご挨拶に参った」と言う。野平が台所でパンの生地をこね回していた俊に取り次げば、
 「サブちゃんではないか、よう参った! ここはわらわの家じゃ、遠慮せずにあがるがよい」
 小麦粉で顔を白く染めた歓喜の奇声が俄かに玄関先を賑わせた。男は俊の嫁入りの護衛で江戸に来て、これから上田へ帰ろうとする赤松小三郎である。
 「ちょうどよいところに来た、サブちゃんは運が良い! 亀井戸の下屋敷から椿(つばき)さんがどら焼き″を()うてきたのじゃ、食うてゆけ。須坂藩御用達(ご よう たし)の『三葉屋(みつ ば や)』だか『四葉屋(よつ ば や)』だか忘れたが、そこの菓子がめっぽう旨いのじゃ!」
 無邪気に屋敷内に招き入れた見知らぬ男の侵入に、式左衛門や要右衛門、その他の須坂藩士たちはみな怪訝(け げん)そうな目付きで彼を迎え入れたが、そんなことにはおかまいなしの俊は、
 「松野、茶の用意じゃ!」
 と童女のように声を弾ませ接客用の座敷へと入った。その様子を目で追いながら、
 「どら焼きだってよ……」
 真木万之助が近くにいた中野五郎太夫にぼやくと、五郎太夫も「いいなぁ……」とでも言いたげな表情で、二人は手にした(いびつ)なパンをかじった。
 部屋に通された小三郎は、脇で茶を淹れている松野を横目に、
 「俊姫様、そのお顔はいったいどうなされたのですか?」
 おしろいにしては杜撰(ず さん)な白く汚れた顔を見て聞いた。
 「わらわはもう俊でない。(ち づる)と申す。君子(くん し)()()(つる)じゃ。虎さんが名付けてくれた」
 冒頭から的外れな事を口走るのはいつもの癖で、話を合わせて「それは佳き名にございます。仲睦(なか むつ)まじいご様子、なによりでございます」と言う小三郎は、先ほどから鼻の頭の白い粉が気になって仕方ない。
 「これより上田へ戻ります故、その前にご挨拶にお伺いしました。お元気そうなお顔を拝見し、忠礼(ただ なり)様(上田藩主)もさぞお喜びになるでしょう」
 「うむ、わらわはすこぶる息災じゃ。忠礼にそう伝えよ。そうじゃ、帰る前に虎さんに()うてゆけ。虎さんもサブちゃんに会いたがっていたところじゃ!」
 小三郎は恐縮して「あまり長居もできません……」と拒むより早く、俊はすくっと立ち上がり「虎さん、サブちゃんが来たぞ!」と、大声を挙げて襖も閉めずに座敷を飛び出した。
 茶を淹れ終えた松野はその襖を閉めて、
 「お転婆(てん ば)ぶりは相変わらずでございましょ? 前よりはじけているかも知れません」
 と、湯呑に添えてどら焼きを差し出した。
 「慣れない環境で委縮してないかと心配していましたが、天真爛漫で無邪気な性格を更に引き出すとは、直虎公とはよほど(ふところ)の深いお方と見える──。ところで姫様のあのお顔の白い粉はいったい何でございます?」
 「あぁ、あれですか!」
 松野は声を挙げて笑い出した。
 「俊様はこのところパン作りに夢中なのです」
 「パン? パンとは西洋のあのパンですか? また異な趣味を持たれましたなぁ?」
 「ここのお殿様が藩内を西洋化すると入れ込んでいるのです。俊様はパンの作り方をお殿様から(じか)に教わりになって、来る日も来る日もパンばかり作っておいでです。ああ見えて気に入られようと一生懸命なのですよ。おかげで須坂の藩士の皆さんは、食べたくもないパンを毎日食べさせられて、もう見るのもうんざりのご様子です」
 「それはお気の毒に……」
 暫くして家老の式左衛門が「赤松殿、公の間へおいで下さい」と藩主の言葉を伝えた。
 単に挨拶に来ただけの小三郎は恐縮しながら公の間に連れられると、身支度を整え正座した直虎の隣に、すっかり一国の藩主の奥方の顔をした俊を見た。
 脇に目を移せば、明らかに火縄銃とは違う西洋のライフル銃が飾り物のように立てかけられている。片井京助から買い受けたアメリカ製のヘンリー十六連発銃である。
 小三郎は用意された座布団の上に正座して平伏すると、直虎は柔和な表情を浮かべ、ようやく見つけた大事な探し物を掘り当てた童のように目を輝かせた。
 「お初にお目にかかります。わたくし、須坂藩当主(ほり)内蔵頭(くらのかみ)ストレート・タイガーと申します。ずっとお会いしたいと思っておりました、貴殿が赤松小三郎殿ですか! 実は──」
 と、小笠原長行にその名を聞かされてから今に至るまで、会うためにさんざん手を尽くしてきた経緯を語って聞かせた。
 赤松小三郎は天保二年(一八三一)、上田藩士芦田勘兵衛の次男として上田城下で生まれ、幼少は藩校『明倫堂』で学び、嘉永元年(一八四八)数え十八のとき江戸に遊学して西洋兵学者下曽根信敦(金三郎)の門を叩く。二十四歳のとき同藩士赤松弘の養子になった後、勝海舟に師事して長崎海軍伝習所に赴き、オランダ人から語学、航海術、測量術、西洋騎兵学等を学び、その時すでにオランダの兵学書『矢ごろのかね小銃彀率(しょう じゅう こう りつ)』を翻訳・出版した英才である。その後、海軍伝習所の閉鎖に伴ない江戸に戻るが、万延元年(一八六〇)、家の事情により上田に帰って赤松家の家督を継いでからは、上田藩の歩兵銃隊や砲術の軍事に関わり、このとき数えで三十四歳──。
 「ス、ストレート・タイガー?」
 小三郎は臆面もなくそう名乗った五つ年下の直虎の顔を不思議そうに見つめ返した。
 「直虎≠英語でストレート・タイガー≠ニ訳すのです。赤松殿は英学の方は?」
 「下曾根金三郎先生のもとで蘭学を学びましたが、恥ずかしながら英学の方はまだまだで、これから勉強しなければと思っていたところです」
 「西洋砲術の下曾根稽古場ですな。先生はいま歩兵奉行をなさっていると思ったが、そういえば講武所で砲術師範役を務めていたこともあったそうですなあ」
 大関増裕(おお ぜき ます ひろ)からの又聞きで講武所の様子は詳しい。
 下曾根金三郎(信敦(のぶあつ))といえば江戸では西洋砲術の師範として高名な旗本である。江川坦庵(たん なん)同様、高島秋帆の砲術公開演習に立ち会ったあと彼に弟子入りし、以後私塾を開いてその普及に努めていると聞く。佐久間象山もこの塾に通っていた時期があり、入門者は延べで千人を数えると言われるほどで、幕職としては鉄砲頭にはじまり、西ノ丸留守居、講武所砲術師範役、歩兵奉行などを歴任して、この頃は西ノ丸留守居格・砲術師範役となっていた。
 「昨日、下曾根先生の私塾へ顔を出したのですが生憎(あい にく)先生は不在で、以前塾頭をされ遣欧使節として西欧からお帰りになられた佐野鼎(さ の かなえ)さんとお会いすることができました」
 遣欧使節というのは万延元年に日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカに派遣された使節団に続いて幕府が欧州に向けて派遣した文久遣欧使節の事である。文久元年十二月に品川を出航した一行は、オランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルを廻り文久二年四月に帰国した。佐野鼎はその派遣員三十六名のうちの一人で、万延元年の遣米使節にも選ばれた逸材である。
 「佐野鼎──」
 直虎は小笠原長行から聞いたもう一人のその名を思い浮かべた。
 「砲術師範としていまは加賀藩に仕官されている方です。加賀藩では昨年蒸気帆船『発機丸』を購入し、こたびの上様の上洛にもお供する予定でしたが、機関部のボイラが故障し品川で足止めを喰らったと嘆いておりました」
 「海に隣接する国は何かと物入りですな。してその『発機丸』はどこの国の船か?」
 「エゲレス製にございます」
 「では佐野鼎殿は英語も堪能ですな?」
 「そりゃもう。メリケン人に将棋のやり方を教えたほどだと聞きます」
 実は赤松小三郎も遣米使節の咸臨丸の乗組員に志願した経緯を持っている。しかし願い叶わず彼曰く、
 「佐野鼎さんとは長崎の海軍伝習所で共に学んでいました。メリケン行きには私も願い出たのですが、選ばれたのは同じ伝習所の同窓生で十歳年下の同じ赤松という姓の大三郎君でした。私は悔しくて、悔しくて──以来、彼の名をもじって清次郎≠ゥら小三郎≠ニ名乗ることにしたのです」
 苦笑いを浮かべる案外気さくな一面に直虎は声を挙げて笑った。
 「それは残念、勝先生にお願いすれば良かったではないですか?」
 「もちろんお願いしました。ところが大三郎君は石高何千扶持(ぶ ち)のお旗本、こちらはわずか十石三人扶持の貧乏(ざむらい)です。勝先生もお旗本ですが小普請組(こ ぶ しん ぐみ)の出ですから、学を積んだところで身分の差というのはそういうところで歴然としてくるのです」
 「なるほど、わしもたかだか一万石の小大名だから、江戸城に登っても肩身が狭い」
 直虎は「同類だ」と言わんばかりにまた笑った。
 「ところでそのライフル銃は?」
 小三郎は部屋に入った時からずっと気になっていた見慣れない形のライフルを指して問うた。
 「おおこれか? これはメリケンのヘネルライフル銃と申して最新式の十六連発です。もっとも弾一発で蕎麦が二十五杯も食えてしまうから、もったいなくて一度も打ったことがない」
 哄笑した直虎は突然改まり、座っていた座布団を外してその場に平伏した。
 「ひとつ赤松殿のお知恵をこの須坂藩の西洋化にお貸しいただけませんか?」
 思わぬなりゆきに銃に関心を示す間もない小三郎は、
 「どうかお顔をお上げください!」
 と同じように座布団を外して額を畳にこすりつけた。ところが直虎はなかなか頭を上げようとしない。
 暫くそんな状態が続いたまま、脇では先ほどから何やら難しい会話を続ける二人にしびれを切らせていた俊が、あるいは機転を利かせて場を繕おうとしたものか、大きな声で松野を呼んだ。
 「二葉屋(ふた ば や)のどら焼きを持って参れ!」
 『二葉屋』は須坂藩下屋敷のある亀井戸にあり、須坂の二葉屋百助の父長治郎の兄弟弟子が江戸で継承する老舗である。第九代須坂藩主堀直晧(なお てる)の頃からの藩御用達の菓子屋であることは前述したが、つまり須坂の二葉屋の江戸店というわけだ。
 やがて平伏したままの二人の間に五つ六つのどら焼きが置かれ、てっきり二人に勧めるかと思えば、俊はいきなりその一つを自分の口に頬張った。
 「うむ、やはりここのどら焼きは誠にうまい。二人でそんなに畳を睨みつけていては穴があいてしまうぞ。ほれ、サブちゃんも喰うてみよ」
 別の一つを小三郎のつむじの上に置いたものだから、その滑稽さに思わず「ワハハハ」と腹を抱えたのは直虎だった。
 「まったく千さんにはかないませんな!」
 「舎弟同士の盃のかわりじゃ。虎さんも食べよう」
 ようやく頭をあげた直虎は、上機嫌にどら焼きを口にして小三郎にも勧めた。
 「いきなり師範をお願いしても、こりゃちと唐突過ぎた、失礼、失礼。上田藩士の立場もおありでしょうから即答は難しいでしょうな。いっそ脱藩でもして学問一つで身を立てたらいかがですか?」
 近年の下級武士たちは、この脱藩≠ニいう言葉にひどく敏感になっている。水戸藩や長州藩、あるいは薩摩藩や土佐藩でも、攘夷思想にほだされて脱藩する者が次々と出ていたからだ。捕らわれれば死罪、そうでなくとも入牢あるいは身分剥奪、最悪の場合はお家断絶も免れない重罪だから、脱藩≠ヘすなわち命を捨てる行為と等しい。冗談でもそれをそそのかす一国の主などいようはずもない。
 小三郎は直虎の腹を探りながら、
 「そうなったら、私を(かくま)っていただけますか?」
 「無論──」
 冗談半分の小三郎の言葉に、直虎の即答はまんざらでない。しかし、上田藩の姫君が嫁いだ須坂藩との良好な関係を崩すような無謀な行動を起こす勇気は、この信州出の善良な男は持ちあわせていない。小三郎は話を継いだ。
 「今の日本では私のような下級武士に自由は与えられていないのです。欧米のようになるためには国の仕組みを根本から変えねばなりません」
 「ほう──わしは西洋の事をもっと知りたい。どうかご教示いただけませんか?」
 小三郎は遠慮しがちに「まだ考えがまとまっているわけではありませんが」と前置きしてから、やがて持論を語り始めた。その内容はおよそ次の通りである。
 日本は封建国家であり、何を決めるにしても一応評定(ひょう じょう)という形をとってはいるが、結局最終判断は主君に委ねられ、それがそのまま政治に反映される。小三郎のような低い身分の者は、いくら崇高な理念を掲げてもその声は上層部に届きもしない。それではいつまで経っても社会は変わらない。その点アメリカ社会は民主主義だから一介の民の声が政治に反映される。日本もそれに習って民主制議会制に改めるべきであり、まずは二大議会を創設し、二つの議会の合議のもとで政治を行えば今より民主的な国家になると力説する。そして議会の構成員は選挙によって選出すべきだとし、人民はどこまでも平等でなければならないと強く主張した。
 「本来、人に身分などあってはならないのです! そのためには人民に教育をほどこさなければなりません──」
 小三郎の燃え(たぎ)る情熱に直虎は目を細めた。
 「それが西洋の考え方ですか? 民主主義は私も分からんでないが、民衆は賢くもあり愚かでもある。教育の必要性は理解できるが、その両面を持ちあわせている以上、主権をことごとく人民に委ねるのは危険を(はら)む。それに──ちょっと困ったことが生じる……」
 直虎は腕を組んで考え込み、隣の俊に目を向けた。
 「わしらの居場所がなくなるぞい──そうなったらどうしましょうかな?」
 直虎はどら焼きを頬張りながら上の空で話を聞いていた彼女に突然聞いた。すると俊は井戸端で女子会の雑談でもするように、
 「サブちゃんの考えはひがみ根性じゃ」
 と何の悪気もなく一蹴してしまった。つまり「身分の低い家に生まれたサブちゃんが悪い」と言うのである。
 「もっと良い家柄に生まれれば良いのじゃ。わらわが姫に生まれたのは、過去世でそれ相応の努力をしたからじゃと思うておるぞ。サブちゃんも命あるうちに人のためにうんと働け。さすれば次に生まれる時は家老くらいの家に生まれて来るに違いない」
 俊の発言は生命の永遠性を信じる者にとっては的を射ているように聞こえたかも知れない。しかし人が生まれる時には人種、性別、身分または門地は選べないというのが一般認識で、現にそれらで不当な差別を強いられている民がいる。
 直虎は小三郎の主張に九割は賛同できたが、残りの一割にしっくりいかない不興を感じた。
 社会に身分が生じるのはある意味人間の(さが)とも思える。とすれば身分が問題でなく、生まれた環境に幸福感を得られない点にこそ問題があるのではないか? 彼などは願わずして一国の当主の座にあるが、それは生まれながらの宿業(しゅく ごう)とも言い換えることができる。農民や下級武士などにも生まれながらの不平等さとそれに伴なう大きな苦しみはあろうが、藩主には藩主の人には言えない苦しみがあり、不満を言い出せばきりがない。理想を描くことは大事だが、その理想が実現すればまた次の理想が生まれ、その繰り返しの中で進んでいくより仕方ない。しかも人の欲求は果てしない。
 肝心なのは自分が何者であるかを知り、自分の居場所で自らができることに力を尽くし、苦しみもがきながらも懸命に生きることしか思いつかない。
 「わしはどうすれば民が幸せになれるかいつも心を砕き、民にとっていい主君であらねばと日々勉強し努力しているつもりです。力足らずな部分は有能な家臣たちが助けてくれるし、それでけっこう平和な国になっていると思っているが過信かな?」
 小三郎は慌てて「直虎様のことではありません……」と付け加え、欧米は法治国家であると教えた。
 すると直虎は再び考え込んだ。
 「法律も万能とは言えまい……第一法律は人の心が作った成文ではあるが、その文言には心があるようでいてない。法の整備も大事だが、もっと大事なのは、その法を扱う人の心をいかに育てるかにあると思う。本来弱者のために作られた法であっても使う人間が悪人だったら、逆に弱者を苦しめることに利用されてしまう可能性がある。法は心を持たぬ。心を持たぬものが国を支配したら、やがて民も心を失うでしょう。こりゃ難題……」
 いくら制度を整えようが法律を定めようがそれを使う人の心が育まれない限り、例え理想が形の上で実現できても、それは紙上で兵を談じているのと同じであると彼は言いたい。
 小三郎は直虎の中に誠実たらんとする一国の長たる姿を見た。そして西欧の思想や制度のみが優れているとは限らないのではないかと自分に反問した。もし万人の痛みや苦しみを吸収できたとして、それを幸福に転じる政策を打ち出せる名君がいたとしたら、そういう国もあっていいではないか?
 ……しかしそんな仏のような全人的な人間など存在し得るだろうか──?
 一つだけあるとしたら、国を構成する一人ひとりの民が菩薩のような心を持つ教育を施すことだ。
 直虎も考え込んだまま、
 「いずれにせよ、いまわしがやらねばならぬ事は西洋化だと思っています。西洋化といっても大和心(やまとごころ)を捨てるつもりは毛頭ありません。とはいえ、今の日本は科学技術において明らかに西洋に劣っていると言わざるを得ない。軍事、文化、教養などにおいて西洋と同じ、あるいはそれ以上の力をつけなければ、日本を侮る彼らは必ず戦争を仕掛けてくるでしょう。そうさせないために、どうか赤松殿の力を当藩に貸して欲しいのです!」
 と、再び深々と頭を下げた。
 「どうかお上げください。こんな私でよろしければお力になりたいのですが、私とてまだまだ学ぶことが山ほどございます。そこでどうでしょう? ここはひとつ私が教えるというのでなく、共に学んで参りたいのですが、いかがですか?」
 こうして赤松小三郎は、次に江戸に来た時は必ず会うと約して上田へと帰っていく。