> （三）鴬谷先生
（三）鴬谷先生
良山が深川の亀田鴬谷が開く通称『亀田塾』に通い始めたのは物心がつき始めた頃である。
もともと亀田塾の祖亀田鵬斎は書道の大家でもあり、妻を亡くした鵬斎が文化六年（一八〇九）、日光から佐渡の門弟のところへの傷心の旅の途中、信州は北信地方を通った時に、藩や村を越えて地域の有力農民や富裕商家の文化人たちと交流したのが関わりの始まりだった。その復路（文化八年）、須坂藩の家老駒沢清泉が彼を屋敷に招き、七絃琴の演奏で歓迎した。
それまでの須坂藩の教育は、第九代藩主堀直皓が創設した講舎『教倫舎』で教えた心学が中心だったが、郷土の中村習輔はじめ心学の中心的人物の力が弱まると、鵬斎の門人のひとり菊池行蔵を儒官として須坂に招き、併設という形で藩校『立成館』を開設して藩の教育に儒学を取り入れるようになった。以来鵬斎の門は、一子である亀田綾瀬が後を継ぎ、更に鴬谷へと、須坂藩堀家では代々この亀田塾をひいきにしている。
通う門弟といえば主に旗本や御家人の子弟たちで、亀田綾瀬が下総国関宿藩『教倫館』の儒官を務めていたことから関宿藩の門人も多く、表向きは主に儒学を教えた。
このとき鴬谷五十四歳、もとは下総岡田郡(現茨城県)の出で鈴木を名乗っていたが、江戸に出て浅草の蔵前で私塾を開いていた亀田綾瀬の門を叩いてからは、近くの鶯谷に居住したことから『鴬谷』を名乗るようになった。
良山が鴬谷先生を敬愛したのはその温かみのある笑顔と、あからさまに自分の過去を語るけっして偉ぶらない人柄による。亀田塾の祖鵬斎が豪放磊落な性格だったのに対し、二代目の綾瀬は「温顔の中、眼光人を射るを覚ゆ」と称される温厚篤実の君子であったが、鴬谷はその二人の性格をあわせ持つような不思議な魅力があった。
「おれが亀田塾の三代目になったのは、ぬいに惚れたからよ」
とは酔ったときの口癖で、縫とは彼の妻の名である。
実は綾瀬には子がなかった。そこで養女を迎え入れたが、ただの書生だった鴬谷はその娘をひと目見てぞっこん惚れてしまった。その娘というのが若かりし縫である。それまで塾生の中でも特に目立ちもしない存在だった鴬谷が、以来縫と一緒になることを目標に定め、師の綾瀬に認めてもらおうと俄然勉学に打ち込んだのだ。
「学問なんて所詮そんなものよ。それより大事なのは己がどうあるかだ」
と、いつも冗談交じりに笑い飛ばすが、それが案外的を射ていると感じてしまうところに、良山は強い憧れと親近感を覚える。
鴬谷の唱える〝和魂漢才〟なるものは、その言葉自体は古くは平安時代中期には成立していた概念で、〝大和魂・唐才〟という言い方もある。読んで字のごとく「日本の精神」をもって「中国の学識」を為すことで、中国渡来の学問や優れた思想哲学を実生活の中に取り入れながら、振る舞いや行動、あるいは処世術や判断は、日本固有の精神である大和魂に従おうとする考え方である。鴬谷自身「和心のない奴に儒学を学ぶ資格などない」とよく言っているが、彼の言う〝和魂〟とは大和魂だけにとどまらず、その生きざまと深く関係しているようだった。つまり〝己〟というものが入ってくる。大和魂の実在は己にあり、突き詰めるところ「己とは何ぞや」を問い、追求するところに学問・教育の意義があると結論していた。
そんな講義を流暢に喋っていると、決って妻の縫が現れて塾生に茶菓子を振る舞う。そして、
「そう言うあなたは何者よ、ねぇ？」
と塾生たちに賛同を求めた。すると、
「おれか？ おれはぬいに惚れた男よ」
とのろけて、亀田塾はいつも笑いに包まれた。
そんな気さくな妻縫も良山は大好きで、嫁にもらうなら彼女のような根っから明るい女性が良いと密かに思った。ちなみに二人の子である亀田雲鵬も須坂との関わりが深い。
幼少の頃の良山は学問よりいたずらをしている方が楽しく、塾以外では勉強などしたことがなかったが、元服を迎えて浦賀のペリー来航で江戸の町が天地鳴動の騒ぎに包まれた時、
「わしはこのままでいいのか？」
と心の底から動執生疑が湧き起こった。そうなったら矢も楯もたまらず、「何か事を起こさなければ！」と若い血が騒ぎ、居ても立ってもいられなくなった。数えで十八歳の夏である。
そして翌年、日米和親条約締結のため再航した総計九隻の黒船に対し、幕府から下総の海岸防備を命じられた松代藩と一緒に、須坂藩からは藩士四十四名がその警備に当たることになった。そこに自ら志願した良山は、浦賀沖に停船する巨大な船から、もうもうと噴き上がる黒い煙を見たのだった。
松代藩の中に髭を蓄えた目付きの鋭い不惑の年ほどの偉そうな男がいた。彼の存在が気になったのは、その頃はまだ珍しい望遠鏡をしきりに覗き込み、観察した黒船の絵図を紙に描き込んでいたからである。このとき軍議役を仰せつかっていた松代藩の佐久間象山という男であることはすぐに知ったが、突然観察の手を休めた彼がこう叫んだ。
「おーぃ誰か、あそこまで泳いで異人さんに挨拶して来れる奴はないか？」
「わしが行く！」
良山は燃える情熱に任せて象山の前に進み出ると、衣服を脱ぎ捨てふんどし一丁姿で、そのまま海に飛び込もうとした。ところがその腕を慌てて掴んだ象山は、
「阿呆！ 冗談じゃ」
と差し止めた。幕府に無断で外国船と接触するなど重大な罪に問われる。まして密航など考えようものなら──と思うそばから、それを企てたのが長州藩の吉田松陰だった。曲がりなりにも彼もまた象山の弟子であり、そのとき「あの船に乗って外国事情を学んで来たいとは思わぬか？」とそそのかしたのも象山なのである。
「馬鹿が二人いた」
と呆れつつも、内心どこかで喜んでいた象山は、幕府の取り調べを受けた時、
「若者が外国へ学びに行こうとするのを勧めて何が悪い！」
と突っぱねて、自国蟄居の沙汰を言い渡されるのだ。
象山の話はさておき、そんな出来事を通して、良山は自分がいかに無知であったかに愕然とした。彼が漢学に没頭し始めたのはそれからである。
『四書五経』は端から、『史記』や『漢書』や『三国志』や『晋書』などの中国の歴史書をはじめ、手に入る書物なら片っ端から集め、寝る時間も惜しんで学問に励んだ。そのすさまじさたるや、元服後に御近習となった柘植宗固に言わせれば、
「若様がいつ寝ていつ起きているのか、まったくわからん」
だった。夜が更ければ「先に寝よ」と家臣たちに気を遣い、自分はいつまでも机にむかって誰よりも遅く寝たかと思えば、朝は誰よりも早く起きて机にかじりついている。わずか唐紙一枚ほどで隔てた隣の部屋にいながら、良山が寝ている姿を誰も見たことがないのだ。
この柘植という男だが、その苗字の出どこを探れば伊賀国である。戦国時代はいわゆる忍びの者の血筋で、その彼にしてそう言わしめる良山は、もとより素質もあっただろうが、その成長ぶりには師の亀田鴬谷も目を丸くした。
「もう教えることがない──」
と舌を巻いたので、当時西洋学の主流であった蘭学に手を出した。今から思えば英学を学べば良かったと思うが、「藩主になれ」と父に告げられた頃に至っても、開国間もない日本では肝心の英語の書物自体手に入らない。
そして月日は矢のように流れ去り、藩主交代の十一月六日が近づいた。
それにつけても父の強引さが気に入らない。宇三郎の前で素直になれたのは、幼少より跡継ぎ教育を無意識のうちに受けてきたからだろう、五男とはいえ心のどこかで「もしや」を感じていたからだ。世襲制が当たり前の国だから仕方ないかも知れないが、日本人たる〝叒〟の習わしに矛盾するその大きな葛藤は、あるいは若さの印しだった。
そもそも須坂藩堀家の発祥を探れば戦国時代にまで遡る。豊臣秀吉の重臣堀秀政の従兄弟に当たり、堀家の家老だった奥田直政の四男直重が祖とされる。最初奥田姓だった直政はやがて堀姓を与えられ、初代堀直重は早い時期から徳川家に近づいた。慶長五年（一六〇〇）の関ヶ原の戦いで東軍について軍功を挙げ、下総国矢作に二、〇〇〇石と信濃国須坂に六、〇〇〇石の所領を与えられ、さらに慶長十九年（一六一四）からの大坂の陣でも徳川方として参戦し、そこでも功績を挙げて高井郡内に四、〇五三石を封土され一万二、〇五三石の大名となった。その後二代直升の代に下総矢作の二、〇〇〇石を弟たちに分知したため一万五十三石となって現在に至る。とはいえ豊臣政権下から派生したものだから外様大名には違いない。
初代〝直重〟以来、須坂藩堀家の当主は代々〝直〟の後ろに〝升〟〝輝〟〝佑〟〝英〟〝寛〟〝堅〟〝郷〟〝皓〟〝興〟〝格〟〝武〟を当てて名としてきた。なのに、なぜ自分だけ獰猛な畜生である〝虎〟なのか？ 良山は父が命名した〝直虎〟という名からして納得していない。
自分はもっと穏やかで、どちらかと云えばのほほんとした性格なのだ。どうせ名乗るならもっと知的で上品な方が良い。いっそ〝直虎〟はやめて、自ら考えた名で藩主になるのを条件にしようとも考えたが、肝心の佳い名が思いつかない。憤慨と迷いで揺れる良山はその夜、亀田塾の門をくぐった。
「どうした？ 冴えない顔をしておるぞ。藩主がそれでは須坂藩の先が思いやられるな」
鴬谷はいつものように彼を迎え入れた。
「ちと、ご相談に乗っていただきたい儀がございまして……」
「そうか、まあ中に入れ」
誰もない亀田塾のいつもの部屋に通され師の正面に対座した良山は、「一本浸けますか？」と姿を現した縫のいつもの笑みに心和ませた。
「急に逃げ出したくでもなったか？ 顔に書いてあるぞ」
鴬谷は全てを見抜いているかのように「お前らしくない」と笑う。
「なんだか落ち着かないというか、自分が自分でないようで、どうもしっくりこないのです」
すると鴬谷は少し考えて、
「お前は何になろうとしているのか？」
と問うた。
「無論、藩主です」
「それだ、それがいかん。お前はお前でないものに成ろうとして、無理やり覚悟を決めようとしておるのだろう。お前はお前にしかなれんよ」
と、幼少の思い出話がはじまり、ふとした拍子に宇三郎のことが話題に挙がった。思い起こせばその小さかった手を引き、いつも亀田塾に連れて来たのも彼だった。
「御近習の中島宇三郎君には相談したのかい？ 彼が君のことを一番よく知っているじゃないか。最近見ないが元気にしているのかな」
宇三郎の話が出たのはやや意外であるが、本題から離れ、別の話題で事の肝を見つけ出し、本人を納得に導こうとする鴬谷のいつもの手法であろう。
五、六歳の頃だったか、塾の勉強に飽いた良山がすぐ横にあった障子を破り始め、そのうち暴れて部屋中の障子を破ってしまったことがある。そのとき「申し訳ない！」と頭を床にこすりつけた宇三郎が、夜中まで一人で張り替えをしていたことや、年上の子と喧嘩して怪我をさせてしまい、先方の親がひどい剣幕で塾に苦情を言いに来たときも、宇三郎がすまなそうに大きな菓子折りを持って謝りに行ったことなど、塾で起こった彼にまつわる思い出話が次々と飛び出した。そして酒を運んで来た縫が笑いながらこう言った。
「良ちゃんの半分は宇三郎さんでできているのね」
彼女は良山のことを親しみを込めて「良ちゃん」と呼ぶ。その笑顔を見ていると、どれほど深刻な状況に置かれていても、悩んでいること自体馬鹿げてくる。
やがて鴬谷は話しを戻す。
「おれはお前の師匠だが、お前の師匠になろうと思ってなったわけでない。お前がここに来たから師匠になったのだ。いまでさえ多くの塾生を得たが、もとをただせば綾瀬先生と出逢い、縫に惚れたからこそおれがある。ぜんぶ母ちゃんのお陰さ」
「またその話し？」と縫は呆れたようにまた笑った。
「いいじゃねえか、ホントのことなんだから。だからおれは儒学の師匠だなんてこれっぽっちも思っていないんだ。どこまでいってもおれは綾瀬先生の弟子であるし、母ちゃんに惚れたただの男だよ。だから偉そうに背伸びする必要もなければ、見栄を張る必要もない」
察しのいい良山は、おおよそ師の言わんとすることが理解できた。彼の説く〝和魂〟とは〝大和魂〟のことであり、〝大和魂〟の実在は〝己〟にあり、〝己〟とはすなわち〝ありのまま〟という意味で、そこから離れた時、人は何者にもなれないという事を教えようとしているのであろう。
「さて良山君、いまから一つ試験問題を出そうと思うが、答えられるかな？」
鴬谷は禅問答でもするような意地悪な含み笑いで良山を見つめた。良山はかしこまって「どうぞ」と姿勢を正した。
「──君は何者か？」
「私はたかだか一万石の堀家の五男坊です」
「それだけか？」
「亀田鴬谷先生の弟子になった男です」
「それから？」
良山は少し考えて、
「父上の盆栽に小便をかけて遊んでいた男です」
縫がプッと吹き出した。
「そんなことをしたのか！ まあよい、それから？ まだあるだろう？」
すると良山の頭の中に、幼い日の出来事が走馬灯のようによみがえった──。
まだ三、四歳の頃だったろうか、一人で遊んでいると乳母の朋が「負んぶしてあげましょう」と言ってきた。若い彼女は美しく、幼かった彼の憧れだったが、照れ隠しに「オオ」と横柄に応えて勢いよく背中に負ぶさると、手にした手拭いの先端を彼女の口もとに垂らして「くわえよ」と命じた。朋は言われるまま銜えると、
「やあっ！ バカを釣った、バカを釣ったぞ！」
魚釣りを模したその光景を見ていた周りの者たちはどっと笑い、良山も得意になって大喜び。朋はすっかりしょげてしまう。またある時は「この手ぬぐいをくわえて這え！」と命じた。
「若様、ご冗談はおやめください」
彼女は恥じらいもじもじしたが、もっと困らせてやろうと腹を立てた振りをして「無礼者！」と叫ぶと、彼女は仕方なく言われたとおりに腹ばいになって手拭いを銜えた。すると良山はいきなりその背にまたがり、手拭いを馬の手綱に見立て、
「やあっ！ お馬じゃ、お馬じゃ！ ハィ、ハィ、ドウ、ドウ、飛べ、飛べっ！」
と大はしゃぎ。その遊びがたいそう楽しく、朋の膝はいつも擦り切れ「痛い、痛い」と言っていた。
なぜよりによってそんな事が思い出されたか、あの時「ごめん」の一言が喉まで出かかって言えなかった後悔が、今更のように良山を苦しめた。もしかするとあれが支配欲の芽生えであったか、結局その言葉を伝えられないまま彼女はどこかへ嫁いで行った。
しょせん自分はそんな人間なのだ──。
そう思ったとき、他人にはけっして知られたくない一番思い出したくない自分を思い出す。
「お前は何者だ？」
更に問い詰める師に隠し事はできない。良山は人非人と罵られようと白状しなければいけない良心に従った。
「乳母の行水を覗き見した男です」
鴬谷と縫は顔を見合わせた。
「呆れたやつだ！ もうよい。そんな奴がよくぞここまで成長したものだ。これからも学問を怠ることなく、お前のままでゆけばよい」
自分らしくあれ──鴬谷先生はそう教えている。ありのまま眼前の障害に尽力し、乗り越え難きは力を付けるだけで、己を取り巻く環境などある意味どうでもよいことなのだ。私塾開設の夢が強引な父に打ち砕かれ、翻弄されて己の実在を見失っていたことに気付いた良山の煩悶は、俄かに嘘のように晴れ渡った。
「わかったようだな」と柔和な笑みを浮かべた鴬谷の表情は、つい先ほどまで拷問官に見えていたものが、慈父の菩薩に変わったかに感じられた。
「実はもう一つお願いがございます。新しい名を命名して欲しいのです。堀家は代々初代直重公の〝直〟の字を頂戴することになっておりますが、私に見合った佳い名を先生から賜りたい」
「〝直虎〟ではないのか？」
「どうも何から何まで父上の言いなりになっているようで癪なのです。自分らしくあるために、私に相応しい名を名乗りとうございます」
「名など何でもよいでないか。今年の干支は何じゃ？」
「辛酉です」
「では酉でよかろう。〝直鳥〟でどうじゃ」
その身も蓋もない単純な発想に、縫の方が不服そうに口を挟んだ。
「それでは鉄砲の音がしたらすぐに飛んで逃げて行ってしまいそう。藩主が真っ先に逃げそうな名前なんて可哀想よ」
「そうか？」と鴬谷は首を傾げて、
「藩主になる日は何日だったかな？」
「来月六日でございます」
「十一月の六日（新暦では一八六一年十二月七日）か……その日の干支日は何かな？」
頭をひねった割に発想が同じことを笑いながら、縫は箪笥の上に置いてあった暦をめくって「庚寅ね」と言った。
「では寅でどうじゃ？ 〝直虎〟じゃ！」
「いいじゃない！」と縫も喜びの声を挙げたので、良山は「同じではないですか！」と反駁した。
すると鴬谷はニヤリと笑んで「お前は父の心が分らぬか？」と諭した。
「〝直虎〟と命名されたのはいつじゃ、何年の何月何日じゃ？ 家に帰ってちゃんと調べてみよ。おそらく庚寅の日に違いない。〝庚〟は五行の金行のうち陽の金を表すから金には困らん。それに鉱石や金属の原石の例えにも使われる文字だから堅くて荒々しい攻撃的な性質を示す。いかにも強そうじゃないか！ 父はお前に勇ましくなって欲しいのだ。なよなよしていたのでは藩主など務まらん」
良山は「はっ！」として、今更のように父の思いを知った気がした。鴬谷は続けた。
「儒学では父親への〝孝〟はその思想の根幹とも言える。それに報いるのが子の務めというものぞ。ここはつまらぬ〝我〟など捨てて、父を立ててやってはどうか」
この瞬間、良山の腹は完全に決まった。ここに須坂藩第十三代当主堀直虎が誕生したのである。
もともと亀田塾の祖亀田鵬斎は書道の大家でもあり、妻を亡くした鵬斎が文化六年（一八〇九）、日光から佐渡の門弟のところへの傷心の旅の途中、信州は北信地方を通った時に、藩や村を越えて地域の有力農民や富裕商家の文化人たちと交流したのが関わりの始まりだった。その復路（文化八年）、須坂藩の家老駒沢清泉が彼を屋敷に招き、七絃琴の演奏で歓迎した。
それまでの須坂藩の教育は、第九代藩主堀直皓が創設した講舎『教倫舎』で教えた心学が中心だったが、郷土の中村習輔はじめ心学の中心的人物の力が弱まると、鵬斎の門人のひとり菊池行蔵を儒官として須坂に招き、併設という形で藩校『立成館』を開設して藩の教育に儒学を取り入れるようになった。以来鵬斎の門は、一子である亀田綾瀬が後を継ぎ、更に鴬谷へと、須坂藩堀家では代々この亀田塾をひいきにしている。
通う門弟といえば主に旗本や御家人の子弟たちで、亀田綾瀬が下総国関宿藩『教倫館』の儒官を務めていたことから関宿藩の門人も多く、表向きは主に儒学を教えた。
このとき鴬谷五十四歳、もとは下総岡田郡(現茨城県)の出で鈴木を名乗っていたが、江戸に出て浅草の蔵前で私塾を開いていた亀田綾瀬の門を叩いてからは、近くの鶯谷に居住したことから『鴬谷』を名乗るようになった。
良山が鴬谷先生を敬愛したのはその温かみのある笑顔と、あからさまに自分の過去を語るけっして偉ぶらない人柄による。亀田塾の祖鵬斎が豪放磊落な性格だったのに対し、二代目の綾瀬は「温顔の中、眼光人を射るを覚ゆ」と称される温厚篤実の君子であったが、鴬谷はその二人の性格をあわせ持つような不思議な魅力があった。
「おれが亀田塾の三代目になったのは、ぬいに惚れたからよ」
とは酔ったときの口癖で、縫とは彼の妻の名である。
実は綾瀬には子がなかった。そこで養女を迎え入れたが、ただの書生だった鴬谷はその娘をひと目見てぞっこん惚れてしまった。その娘というのが若かりし縫である。それまで塾生の中でも特に目立ちもしない存在だった鴬谷が、以来縫と一緒になることを目標に定め、師の綾瀬に認めてもらおうと俄然勉学に打ち込んだのだ。
「学問なんて所詮そんなものよ。それより大事なのは己がどうあるかだ」
と、いつも冗談交じりに笑い飛ばすが、それが案外的を射ていると感じてしまうところに、良山は強い憧れと親近感を覚える。
鴬谷の唱える〝和魂漢才〟なるものは、その言葉自体は古くは平安時代中期には成立していた概念で、〝大和魂・唐才〟という言い方もある。読んで字のごとく「日本の精神」をもって「中国の学識」を為すことで、中国渡来の学問や優れた思想哲学を実生活の中に取り入れながら、振る舞いや行動、あるいは処世術や判断は、日本固有の精神である大和魂に従おうとする考え方である。鴬谷自身「和心のない奴に儒学を学ぶ資格などない」とよく言っているが、彼の言う〝和魂〟とは大和魂だけにとどまらず、その生きざまと深く関係しているようだった。つまり〝己〟というものが入ってくる。大和魂の実在は己にあり、突き詰めるところ「己とは何ぞや」を問い、追求するところに学問・教育の意義があると結論していた。
そんな講義を流暢に喋っていると、決って妻の縫が現れて塾生に茶菓子を振る舞う。そして、
「そう言うあなたは何者よ、ねぇ？」
と塾生たちに賛同を求めた。すると、
「おれか？ おれはぬいに惚れた男よ」
とのろけて、亀田塾はいつも笑いに包まれた。
そんな気さくな妻縫も良山は大好きで、嫁にもらうなら彼女のような根っから明るい女性が良いと密かに思った。ちなみに二人の子である亀田雲鵬も須坂との関わりが深い。
幼少の頃の良山は学問よりいたずらをしている方が楽しく、塾以外では勉強などしたことがなかったが、元服を迎えて浦賀のペリー来航で江戸の町が天地鳴動の騒ぎに包まれた時、
「わしはこのままでいいのか？」
と心の底から動執生疑が湧き起こった。そうなったら矢も楯もたまらず、「何か事を起こさなければ！」と若い血が騒ぎ、居ても立ってもいられなくなった。数えで十八歳の夏である。
そして翌年、日米和親条約締結のため再航した総計九隻の黒船に対し、幕府から下総の海岸防備を命じられた松代藩と一緒に、須坂藩からは藩士四十四名がその警備に当たることになった。そこに自ら志願した良山は、浦賀沖に停船する巨大な船から、もうもうと噴き上がる黒い煙を見たのだった。
松代藩の中に髭を蓄えた目付きの鋭い不惑の年ほどの偉そうな男がいた。彼の存在が気になったのは、その頃はまだ珍しい望遠鏡をしきりに覗き込み、観察した黒船の絵図を紙に描き込んでいたからである。このとき軍議役を仰せつかっていた松代藩の佐久間象山という男であることはすぐに知ったが、突然観察の手を休めた彼がこう叫んだ。
「おーぃ誰か、あそこまで泳いで異人さんに挨拶して来れる奴はないか？」
「わしが行く！」
良山は燃える情熱に任せて象山の前に進み出ると、衣服を脱ぎ捨てふんどし一丁姿で、そのまま海に飛び込もうとした。ところがその腕を慌てて掴んだ象山は、
「阿呆！ 冗談じゃ」
と差し止めた。幕府に無断で外国船と接触するなど重大な罪に問われる。まして密航など考えようものなら──と思うそばから、それを企てたのが長州藩の吉田松陰だった。曲がりなりにも彼もまた象山の弟子であり、そのとき「あの船に乗って外国事情を学んで来たいとは思わぬか？」とそそのかしたのも象山なのである。
「馬鹿が二人いた」
と呆れつつも、内心どこかで喜んでいた象山は、幕府の取り調べを受けた時、
「若者が外国へ学びに行こうとするのを勧めて何が悪い！」
と突っぱねて、自国蟄居の沙汰を言い渡されるのだ。
象山の話はさておき、そんな出来事を通して、良山は自分がいかに無知であったかに愕然とした。彼が漢学に没頭し始めたのはそれからである。
『四書五経』は端から、『史記』や『漢書』や『三国志』や『晋書』などの中国の歴史書をはじめ、手に入る書物なら片っ端から集め、寝る時間も惜しんで学問に励んだ。そのすさまじさたるや、元服後に御近習となった柘植宗固に言わせれば、
「若様がいつ寝ていつ起きているのか、まったくわからん」
だった。夜が更ければ「先に寝よ」と家臣たちに気を遣い、自分はいつまでも机にむかって誰よりも遅く寝たかと思えば、朝は誰よりも早く起きて机にかじりついている。わずか唐紙一枚ほどで隔てた隣の部屋にいながら、良山が寝ている姿を誰も見たことがないのだ。
この柘植という男だが、その苗字の出どこを探れば伊賀国である。戦国時代はいわゆる忍びの者の血筋で、その彼にしてそう言わしめる良山は、もとより素質もあっただろうが、その成長ぶりには師の亀田鴬谷も目を丸くした。
「もう教えることがない──」
と舌を巻いたので、当時西洋学の主流であった蘭学に手を出した。今から思えば英学を学べば良かったと思うが、「藩主になれ」と父に告げられた頃に至っても、開国間もない日本では肝心の英語の書物自体手に入らない。
そして月日は矢のように流れ去り、藩主交代の十一月六日が近づいた。
それにつけても父の強引さが気に入らない。宇三郎の前で素直になれたのは、幼少より跡継ぎ教育を無意識のうちに受けてきたからだろう、五男とはいえ心のどこかで「もしや」を感じていたからだ。世襲制が当たり前の国だから仕方ないかも知れないが、日本人たる〝叒〟の習わしに矛盾するその大きな葛藤は、あるいは若さの印しだった。
そもそも須坂藩堀家の発祥を探れば戦国時代にまで遡る。豊臣秀吉の重臣堀秀政の従兄弟に当たり、堀家の家老だった奥田直政の四男直重が祖とされる。最初奥田姓だった直政はやがて堀姓を与えられ、初代堀直重は早い時期から徳川家に近づいた。慶長五年（一六〇〇）の関ヶ原の戦いで東軍について軍功を挙げ、下総国矢作に二、〇〇〇石と信濃国須坂に六、〇〇〇石の所領を与えられ、さらに慶長十九年（一六一四）からの大坂の陣でも徳川方として参戦し、そこでも功績を挙げて高井郡内に四、〇五三石を封土され一万二、〇五三石の大名となった。その後二代直升の代に下総矢作の二、〇〇〇石を弟たちに分知したため一万五十三石となって現在に至る。とはいえ豊臣政権下から派生したものだから外様大名には違いない。
初代〝直重〟以来、須坂藩堀家の当主は代々〝直〟の後ろに〝升〟〝輝〟〝佑〟〝英〟〝寛〟〝堅〟〝郷〟〝皓〟〝興〟〝格〟〝武〟を当てて名としてきた。なのに、なぜ自分だけ獰猛な畜生である〝虎〟なのか？ 良山は父が命名した〝直虎〟という名からして納得していない。
自分はもっと穏やかで、どちらかと云えばのほほんとした性格なのだ。どうせ名乗るならもっと知的で上品な方が良い。いっそ〝直虎〟はやめて、自ら考えた名で藩主になるのを条件にしようとも考えたが、肝心の佳い名が思いつかない。憤慨と迷いで揺れる良山はその夜、亀田塾の門をくぐった。
「どうした？ 冴えない顔をしておるぞ。藩主がそれでは須坂藩の先が思いやられるな」
鴬谷はいつものように彼を迎え入れた。
「ちと、ご相談に乗っていただきたい儀がございまして……」
「そうか、まあ中に入れ」
誰もない亀田塾のいつもの部屋に通され師の正面に対座した良山は、「一本浸けますか？」と姿を現した縫のいつもの笑みに心和ませた。
「急に逃げ出したくでもなったか？ 顔に書いてあるぞ」
鴬谷は全てを見抜いているかのように「お前らしくない」と笑う。
「なんだか落ち着かないというか、自分が自分でないようで、どうもしっくりこないのです」
すると鴬谷は少し考えて、
「お前は何になろうとしているのか？」
と問うた。
「無論、藩主です」
「それだ、それがいかん。お前はお前でないものに成ろうとして、無理やり覚悟を決めようとしておるのだろう。お前はお前にしかなれんよ」
と、幼少の思い出話がはじまり、ふとした拍子に宇三郎のことが話題に挙がった。思い起こせばその小さかった手を引き、いつも亀田塾に連れて来たのも彼だった。
「御近習の中島宇三郎君には相談したのかい？ 彼が君のことを一番よく知っているじゃないか。最近見ないが元気にしているのかな」
宇三郎の話が出たのはやや意外であるが、本題から離れ、別の話題で事の肝を見つけ出し、本人を納得に導こうとする鴬谷のいつもの手法であろう。
五、六歳の頃だったか、塾の勉強に飽いた良山がすぐ横にあった障子を破り始め、そのうち暴れて部屋中の障子を破ってしまったことがある。そのとき「申し訳ない！」と頭を床にこすりつけた宇三郎が、夜中まで一人で張り替えをしていたことや、年上の子と喧嘩して怪我をさせてしまい、先方の親がひどい剣幕で塾に苦情を言いに来たときも、宇三郎がすまなそうに大きな菓子折りを持って謝りに行ったことなど、塾で起こった彼にまつわる思い出話が次々と飛び出した。そして酒を運んで来た縫が笑いながらこう言った。
「良ちゃんの半分は宇三郎さんでできているのね」
彼女は良山のことを親しみを込めて「良ちゃん」と呼ぶ。その笑顔を見ていると、どれほど深刻な状況に置かれていても、悩んでいること自体馬鹿げてくる。
やがて鴬谷は話しを戻す。
「おれはお前の師匠だが、お前の師匠になろうと思ってなったわけでない。お前がここに来たから師匠になったのだ。いまでさえ多くの塾生を得たが、もとをただせば綾瀬先生と出逢い、縫に惚れたからこそおれがある。ぜんぶ母ちゃんのお陰さ」
「またその話し？」と縫は呆れたようにまた笑った。
「いいじゃねえか、ホントのことなんだから。だからおれは儒学の師匠だなんてこれっぽっちも思っていないんだ。どこまでいってもおれは綾瀬先生の弟子であるし、母ちゃんに惚れたただの男だよ。だから偉そうに背伸びする必要もなければ、見栄を張る必要もない」
察しのいい良山は、おおよそ師の言わんとすることが理解できた。彼の説く〝和魂〟とは〝大和魂〟のことであり、〝大和魂〟の実在は〝己〟にあり、〝己〟とはすなわち〝ありのまま〟という意味で、そこから離れた時、人は何者にもなれないという事を教えようとしているのであろう。
「さて良山君、いまから一つ試験問題を出そうと思うが、答えられるかな？」
鴬谷は禅問答でもするような意地悪な含み笑いで良山を見つめた。良山はかしこまって「どうぞ」と姿勢を正した。
「──君は何者か？」
「私はたかだか一万石の堀家の五男坊です」
「それだけか？」
「亀田鴬谷先生の弟子になった男です」
「それから？」
良山は少し考えて、
「父上の盆栽に小便をかけて遊んでいた男です」
縫がプッと吹き出した。
「そんなことをしたのか！ まあよい、それから？ まだあるだろう？」
すると良山の頭の中に、幼い日の出来事が走馬灯のようによみがえった──。
まだ三、四歳の頃だったろうか、一人で遊んでいると乳母の朋が「負んぶしてあげましょう」と言ってきた。若い彼女は美しく、幼かった彼の憧れだったが、照れ隠しに「オオ」と横柄に応えて勢いよく背中に負ぶさると、手にした手拭いの先端を彼女の口もとに垂らして「くわえよ」と命じた。朋は言われるまま銜えると、
「やあっ！ バカを釣った、バカを釣ったぞ！」
魚釣りを模したその光景を見ていた周りの者たちはどっと笑い、良山も得意になって大喜び。朋はすっかりしょげてしまう。またある時は「この手ぬぐいをくわえて這え！」と命じた。
「若様、ご冗談はおやめください」
彼女は恥じらいもじもじしたが、もっと困らせてやろうと腹を立てた振りをして「無礼者！」と叫ぶと、彼女は仕方なく言われたとおりに腹ばいになって手拭いを銜えた。すると良山はいきなりその背にまたがり、手拭いを馬の手綱に見立て、
「やあっ！ お馬じゃ、お馬じゃ！ ハィ、ハィ、ドウ、ドウ、飛べ、飛べっ！」
と大はしゃぎ。その遊びがたいそう楽しく、朋の膝はいつも擦り切れ「痛い、痛い」と言っていた。
なぜよりによってそんな事が思い出されたか、あの時「ごめん」の一言が喉まで出かかって言えなかった後悔が、今更のように良山を苦しめた。もしかするとあれが支配欲の芽生えであったか、結局その言葉を伝えられないまま彼女はどこかへ嫁いで行った。
しょせん自分はそんな人間なのだ──。
そう思ったとき、他人にはけっして知られたくない一番思い出したくない自分を思い出す。
「お前は何者だ？」
更に問い詰める師に隠し事はできない。良山は人非人と罵られようと白状しなければいけない良心に従った。
「乳母の行水を覗き見した男です」
鴬谷と縫は顔を見合わせた。
「呆れたやつだ！ もうよい。そんな奴がよくぞここまで成長したものだ。これからも学問を怠ることなく、お前のままでゆけばよい」
自分らしくあれ──鴬谷先生はそう教えている。ありのまま眼前の障害に尽力し、乗り越え難きは力を付けるだけで、己を取り巻く環境などある意味どうでもよいことなのだ。私塾開設の夢が強引な父に打ち砕かれ、翻弄されて己の実在を見失っていたことに気付いた良山の煩悶は、俄かに嘘のように晴れ渡った。
「わかったようだな」と柔和な笑みを浮かべた鴬谷の表情は、つい先ほどまで拷問官に見えていたものが、慈父の菩薩に変わったかに感じられた。
「実はもう一つお願いがございます。新しい名を命名して欲しいのです。堀家は代々初代直重公の〝直〟の字を頂戴することになっておりますが、私に見合った佳い名を先生から賜りたい」
「〝直虎〟ではないのか？」
「どうも何から何まで父上の言いなりになっているようで癪なのです。自分らしくあるために、私に相応しい名を名乗りとうございます」
「名など何でもよいでないか。今年の干支は何じゃ？」
「辛酉です」
「では酉でよかろう。〝直鳥〟でどうじゃ」
その身も蓋もない単純な発想に、縫の方が不服そうに口を挟んだ。
「それでは鉄砲の音がしたらすぐに飛んで逃げて行ってしまいそう。藩主が真っ先に逃げそうな名前なんて可哀想よ」
「そうか？」と鴬谷は首を傾げて、
「藩主になる日は何日だったかな？」
「来月六日でございます」
「十一月の六日（新暦では一八六一年十二月七日）か……その日の干支日は何かな？」
頭をひねった割に発想が同じことを笑いながら、縫は箪笥の上に置いてあった暦をめくって「庚寅ね」と言った。
「では寅でどうじゃ？ 〝直虎〟じゃ！」
「いいじゃない！」と縫も喜びの声を挙げたので、良山は「同じではないですか！」と反駁した。
すると鴬谷はニヤリと笑んで「お前は父の心が分らぬか？」と諭した。
「〝直虎〟と命名されたのはいつじゃ、何年の何月何日じゃ？ 家に帰ってちゃんと調べてみよ。おそらく庚寅の日に違いない。〝庚〟は五行の金行のうち陽の金を表すから金には困らん。それに鉱石や金属の原石の例えにも使われる文字だから堅くて荒々しい攻撃的な性質を示す。いかにも強そうじゃないか！ 父はお前に勇ましくなって欲しいのだ。なよなよしていたのでは藩主など務まらん」
良山は「はっ！」として、今更のように父の思いを知った気がした。鴬谷は続けた。
「儒学では父親への〝孝〟はその思想の根幹とも言える。それに報いるのが子の務めというものぞ。ここはつまらぬ〝我〟など捨てて、父を立ててやってはどうか」
この瞬間、良山の腹は完全に決まった。ここに須坂藩第十三代当主堀直虎が誕生したのである。