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(二十)虎さん・サブちゃん
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 ちょうど枕もとの下の床が小さくトントンと鳴った音に直虎は目覚めた。
 水戸藩と長州藩を中心とする尊王攘夷派浪士たちの動きを探っている柘植角二(つ げ かく じ)宗固(むね かた)が、縁の下から話がある″と伝えている。
 横で小さな寝息をたてる俊に気遣いながら、そっと上半身を起こした直虎は、物音ひとつたてずに着物を羽織って奥の間を出た。そして闇に支配された公の間に行燈(あん どん)の灯をともせば、そこに慇懃(いん ぎん)に平伏している宗固がいて、胡坐(あぐら)をかいた直虎は花冷えの寒気にぶるると体を震わせた。
 「どうした、こんな夜更けに?」
 「水戸の筑波山(つく ば さん)にて浪士六十数名が挙兵し、その数が雪だるま式に膨れ上がっている模様です」
 「なにっ?」と声を挙げた表情が一瞬青ざめる。よもやその鎮圧を命ぜられるとしたら、大番頭(おお ばん がしら)こそ筆頭に挙げられる役回り。いま須坂藩には武器がない。「こりゃ参った……」と言わんばかりの表情で、
 「水戸藩内のゴタゴタには水戸家老武田耕雲斎(たけ だ こう うん さい)殿が収拾に動いていたのではなかったか?」
 とひとりごちた。
 水戸藩内のゴタゴタというのは、その政権をめぐる保守派と尊王攘夷派との勢力争いのことである。このとき耳順(じじゅん)に一つ年を加えていた水戸藩士武田耕雲斎は、徳川御三家の一つ水戸藩第九代藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)時代からの水戸の忠臣と聞こえる男であった。そもそも水戸藩と言えばペリー来航当時から尊王攘夷≠主導しており、斉昭時代がその最盛期だった。ところがどんな組織においても保守派と革新派は必ず存在するもので、平時は両者の絶妙なバランスの上で健全な組織体制を保持するが、幕末の如き乱世にあっては支点を失ったシーソーが大きく(かし)いで崩壊するものか。水戸藩に関して言えば支点≠ヘ徳川斉昭(とくがわなりあき)に違いなく、安政の大獄で力を奪われた彼が万延元年(一八六〇)八月にこの世を去ると、それまでの中心勢力は次第に力を失い藩内は大混乱に陥った。これと同様の現象は少し後の長州藩などでも見て取れる。
 そんな勢力争いの中で昨年の十二月から今年にかけて、上総国(かずさのくに)の農家に攘夷派浪士たちが集団で押し入り、金銀・米穀・刀槍・木材などを掠奪したり乱暴を働くといった事件が横行していた。これに対して幕府は、いずれも上総国の佐倉藩主堀田中備守正睦(なかつかさのかみまさよし)一宮藩(いちのみやはん)加納備中守久徴(びっちゅうのかみひさあきら)、そして東金御殿(とうがねごてん)を有する板倉内膳正(ないぜんのしょう)勝長(福島藩主)に命じて浪士の(やから)を捕縛せしめたが、警戒を深めた幕府を刺激するように、水戸浪士たちの筑波山挙兵は、武田耕雲斎の必死の押さえが限界に達した印しに違いなかった。宗固は続けた。
 「耕雲斎はいま江戸におり、京都の一橋(ひとつ ばし)公は耕雲斎に出兵の要請を打診したとのことです」
 「それは水戸の挙兵に対してか?」
 「いえいえ、出兵要請は筑波山の挙兵より前ですから一橋公はまだ知りません」
 「とすると京に兵の入り用だな。長州攻めの方か? それとも水戸藩を一つにまとめ上げるための算段か?」
 一橋慶喜は一橋家の養子だが、もとを正せば徳川斉昭の実の子(七男)である。このとき朝廷から禁裏御守衛総督(きん り ご しゅ えい そう とく)および摂海防御指揮(せっ かい ぼう ぎょ し き)に任じられていた彼は、いわば朝廷の顔、幕府の顔、そして水戸藩の顔といった三つの顔を持っていた。直虎は小笠原長行が彼のことを『二枚舌の喰えない男』と酷評していたのを思い出し、その腹を探ろうとしてみたが、持ち得る情報だけでは今の段階で何とも評価することはできない。
 昨年の八月十八日の政変で、京都を追われた長州藩に対する朝廷と幕府の非常な警戒心は、今年の二月に出された長州征討準備令を見ても明らかだ。京都における政治運営は、将軍徳川家茂の二度目の上洛に伴い実質的に組織された一橋慶喜・島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城らを中心とした参与会議で行っており、そこでは長州藩の処分問題や横浜鎖港問題について話し合われていたはずだが、この会議には諸問題を解決する以前に構成員同士の不仲という大きな欠陥があった。直虎が俊との結婚を控えていた頃、参与メンバーの酒席で慶喜が、
 「島津と慶永と伊達の如きは天下の大愚物! 俺と一緒にするな!」
 と暴論を吐いたという噂が江戸にまで聞こえて来たほどだ。案の定、参与会議は結成からわずか三カ月足らずで瓦解を迎え、その後慶喜は、会津藩主松平容保(かた もり)と桑名藩主松平定敬(さだ あき)との関係を深めていく。その間、長州征討問題は放置されたままの状態なのである──。
 宗固の情報によれば、水戸藩内の情勢は次のとおり。
 現在政権を握っているのは諸生党と呼ばれる保守派勢力で、まだ年少の藩主慶篤(よしあつ)を取り込み斉昭時代の中心勢力を次々と排除して幕府にすり寄っていると言う。幕府にとって攘夷派は敵であり、その分諸生党と結び付きやすい。一方、藩を追い出された攘夷派の者達は、政権を奪還するためなりふり構わぬ盗賊まがいの悪事を働き資金集めに躍起になった挙句、ついに筑波山に結集したというわけである。この集団は鼻を高くして偉ぶる″意から、後に天狗党(てん ぐ とう)″と呼ばれる。
 そんな水戸藩を中心とした関東一円のゴタゴタを収拾させるため、名目上幕府から派遣されたのが武田耕雲斎だった。
 耕雲斎は斉昭時代から藩の要職にあり、文久二年(一八六二)十二月に、一橋慶喜が京都に向かう際も随従するほど慶喜から信頼されており、京都においては水戸藩主徳川慶篤(よし あつ)の弟松平昭訓(あき くに)の補佐役となって御所近くの長者町に住まうようになってからは、宮中において孝明天皇との陪食を仰せ付かるほどの栄転を果たしていた。その後、慶喜の帰東に伴い京都を離れ、藩主から水戸の海岸巡視を命ぜられ国許に戻るものの、再びの将軍上洛に伴い慶喜の要請で再度水戸から江戸に登った。ところが慶喜が京へ発った後の文久三年(一八六三)も終わろうとする頃、攘夷派浪士たちによる関東の不穏な動きに対処するため、幕府の関東鎮撫の命により再び水戸へ向かう。そして年が明けて一月、家老クラスとしては破天荒と言える伊賀守≠フ官位と従五位下≠フ叙任を受け、つまりここまでの武田耕雲斎は、朝廷からも幕府からも大きな信頼を寄せられた陪臣のはずだった。
 ところが、事態は彼自身想像だにしない方向へと展開していく──。
 
 翌朝──、
 須坂藩邸の門前に一人の旅姿の男が立っていた。それに気付いた野平野平(の だいら や へい)が声をかければ、男は「上田藩から嫁いだ俊姫様にご挨拶に参った」と言う。野平が台所でパンの生地をこね回していた俊に取り次げば、
 「サブちゃんではないか、よう参った! ここはわらわの家じゃ、遠慮せずにあがるがよい」
 小麦粉で顔を白く染めた歓喜の奇声が俄かに玄関先を賑わせた。男は俊の嫁入りの護衛で江戸に来て、これから上田へ帰ろうとする赤松小三郎である。
 「ちょうどよいところに来た、サブちゃんは運が良い! 亀井戸の下屋敷から椿(つばき)さんがどら焼き″を()うてきたのじゃ、食うてゆけ。須坂藩御用達(ご よう たし)の『三葉屋(みつ ば や)』だか『四葉屋(よつ ば や)』だか忘れたが、そこの菓子がめっぽう旨いのじゃ!」
 無邪気に屋敷内に招き入れた見知らぬ男の侵入に、式左衛門や要右衛門、その他の須坂藩士たちはみな怪訝(け げん)そうな目付きで彼を迎え入れたが、そんなことにはおかまいなしの俊は、
 「松野、茶の用意じゃ!」
 と童女のように声を弾ませ接客用の座敷へと入った。その様子を目で追いながら、
 「どら焼きだってよ……」
 真木万之助が近くにいた中野五郎太夫にぼやくと、五郎太夫も「いいなぁ……」とでも言いたげな表情で、二人は手にした(いびつ)なパンをかじった。
 部屋に通された小三郎は、脇で茶を淹れている松野を横目に、
 「俊姫様、そのお顔はいったいどうなされたのですか?」
 おしろいにしては杜撰(ず さん)な白く汚れた顔を見て聞いた。
 「わらわはもう俊でない。(ち づる)と申す。君子(くん し)()()(つる)じゃ。虎さんが名付けてくれた」
 冒頭から的外れな事を口走るのはいつもの癖で、話を合わせて「それは佳き名にございます。仲睦(なか むつ)まじいご様子、なによりでございます」と言う小三郎は、先ほどから鼻の頭の白い粉が気になって仕方ない。
 「これより上田へ戻ります故、その前にご挨拶にお伺いしました。お元気そうなお顔を拝見し、忠礼(ただ なり)様(上田藩主)もさぞお喜びになるでしょう」
 「うむ、わらわはすこぶる息災じゃ。忠礼にそう伝えよ。そうじゃ、帰る前に虎さんに()うてゆけ。虎さんもサブちゃんに会いたがっていたところじゃ!」
 小三郎は恐縮して「あまり長居もできません……」と拒むより早く、俊はすくっと立ち上がり「虎さん、サブちゃんが来たぞ!」と、大声を挙げて襖も閉めずに座敷を飛び出した。
 茶を淹れ終えた松野はその襖を閉めて、
 「お転婆(てん ば)ぶりは相変わらずでございましょ? 前よりはじけているかも知れません」
 と、湯呑に添えてどら焼きを差し出した。
 「慣れない環境で委縮してないかと心配していましたが、天真爛漫で無邪気な性格を更に引き出すとは、直虎公とはよほど(ふところ)の深いお方と見える──。ところで姫様のあのお顔の白い粉はいったい何でございます?」
 「あぁ、あれですか!」
 松野は声を挙げて笑い出した。
 「俊様はこのところパン作りに夢中なのです」
 「パン? パンとは西洋のあのパンですか? また異な趣味を持たれましたなぁ?」
 「ここのお殿様が藩内を西洋化すると入れ込んでいるのです。俊様はパンの作り方をお殿様から(じか)に教わりになって、来る日も来る日もパンばかり作っておいでです。ああ見えて気に入られようと一生懸命なのですよ。おかげで須坂の藩士の皆さんは、食べたくもないパンを毎日食べさせられて、もう見るのもうんざりのご様子です」
 「それはお気の毒に……」
 暫くして家老の式左衛門が「赤松殿、公の間へおいで下さい」と藩主の言葉を伝えた。
 単に挨拶に来ただけの小三郎は恐縮しながら公の間に連れられると、身支度を整え正座した直虎の隣に、すっかり一国の藩主の奥方の顔をした俊を見た。
 脇に目を移せば、明らかに火縄銃とは違う西洋のライフル銃が飾り物のように立てかけられている。片井京助から買い受けたアメリカ製のヘンリー十六連発銃である。
 小三郎は用意された座布団の上に正座して平伏すると、直虎は柔和な表情を浮かべ、ようやく見つけた大事な探し物を掘り当てた童のように目を輝かせた。
 「お初にお目にかかります。わたくし、須坂藩当主(ほり)内蔵頭(くらのかみ)ストレート・タイガーと申します。ずっとお会いしたいと思っておりました、貴殿が赤松小三郎殿ですか! 実は──」
 と、小笠原長行にその名を聞かされてから今に至るまで、会うためにさんざん手を尽くしてきた経緯を語って聞かせた。
 赤松小三郎は天保二年(一八三一)、上田藩士芦田勘兵衛の次男として上田城下で生まれ、幼少は藩校『明倫堂』で学び、嘉永元年(一八四八)数え十八のとき江戸に遊学して西洋兵学者下曽根信敦(金三郎)の門を叩く。二十四歳のとき同藩士赤松弘の養子になった後、勝海舟に師事して長崎海軍伝習所に赴き、オランダ人から語学、航海術、測量術、西洋騎兵学等を学び、その時すでにオランダの兵学書『矢ごろのかね小銃彀率(しょう じゅう こう りつ)』を翻訳・出版した英才である。その後、海軍伝習所の閉鎖に伴ない江戸に戻るが、万延元年(一八六〇)、家の事情により上田に帰って赤松家の家督を継いでからは、上田藩の歩兵銃隊や砲術の軍事に関わり、このとき数えで三十四歳──。
 「ス、ストレート・タイガー?」
 小三郎は臆面もなくそう名乗った五つ年下の直虎の顔を不思議そうに見つめ返した。
 「直虎≠英語でストレート・タイガー≠ニ訳すのです。赤松殿は英学の方は?」
 「下曾根金三郎先生のもとで蘭学を学びましたが、恥ずかしながら英学の方はまだまだで、これから勉強しなければと思っていたところです」
 「西洋砲術の下曾根稽古場ですな。先生はいま歩兵奉行をなさっていると思ったが、そういえば講武所で砲術師範役を務めていたこともあったそうですなあ」
 大関増裕(おお ぜき ます ひろ)からの又聞きで講武所の様子は詳しい。
 下曾根金三郎(信敦(のぶあつ))といえば江戸では西洋砲術の師範として高名な旗本である。江川坦庵(たん なん)同様、高島秋帆の砲術公開演習に立ち会ったあと彼に弟子入りし、以後私塾を開いてその普及に努めていると聞く。佐久間象山もこの塾に通っていた時期があり、入門者は延べで千人を数えると言われるほどで、幕職としては鉄砲頭にはじまり、西ノ丸留守居、講武所砲術師範役、歩兵奉行などを歴任して、この頃は西ノ丸留守居格・砲術師範役となっていた。
 「昨日、下曾根先生の私塾へ顔を出したのですが生憎(あい にく)先生は不在で、以前塾頭をされ遣欧使節として西欧からお帰りになられた佐野鼎(さ の かなえ)さんとお会いすることができました」
 遣欧使節というのは万延元年に日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカに派遣された使節団に続いて幕府が欧州に向けて派遣した文久遣欧使節の事である。文久元年十二月に品川を出航した一行は、オランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルを廻り文久二年四月に帰国した。佐野鼎はその派遣員三十六名のうちの一人で、万延元年の遣米使節にも選ばれた逸材である。
 「佐野鼎──」
 直虎は小笠原長行から聞いたもう一人のその名を思い浮かべた。
 「砲術師範としていまは加賀藩に仕官されている方です。加賀藩では昨年蒸気帆船『発機丸』を購入し、こたびの上様の上洛にもお供する予定でしたが、機関部のボイラが故障し品川で足止めを喰らったと嘆いておりました」
 「海に隣接する国は何かと物入りですな。してその『発機丸』はどこの国の船か?」
 「エゲレス製にございます」
 「では佐野鼎殿は英語も堪能ですな?」
 「そりゃもう。メリケン人に将棋のやり方を教えたほどだと聞きます」
 実は赤松小三郎も遣米使節の咸臨丸の乗組員に志願した経緯を持っている。しかし願い叶わず彼曰く、
 「佐野鼎さんとは長崎の海軍伝習所で共に学んでいました。メリケン行きには私も願い出たのですが、選ばれたのは同じ伝習所の同窓生で十歳年下の同じ赤松という姓の大三郎君でした。私は悔しくて、悔しくて──以来、彼の名をもじって清次郎≠ゥら小三郎≠ニ名乗ることにしたのです」
 苦笑いを浮かべる案外気さくな一面に直虎は声を挙げて笑った。
 「それは残念、勝先生にお願いすれば良かったではないですか?」
 「もちろんお願いしました。ところが大三郎君は石高何千扶持(ぶ ち)のお旗本、こちらはわずか十石三人扶持の貧乏(ざむらい)です。勝先生もお旗本ですが小普請組(こ ぶ しん ぐみ)の出ですから、学を積んだところで身分の差というのはそういうところで歴然としてくるのです」
 「なるほど、わしもたかだか一万石の小大名だから、江戸城に登っても肩身が狭い」
 直虎は「同類だ」と言わんばかりにまた笑った。
 「ところでそのライフル銃は?」
 小三郎は部屋に入った時からずっと気になっていた見慣れない形のライフルを指して問うた。
 「おおこれか? これはメリケンのヘネルライフル銃と申して最新式の十六連発です。もっとも弾一発で蕎麦が二十五杯も食えてしまうから、もったいなくて一度も打ったことがない」
 哄笑した直虎は突然改まり、座っていた座布団を外してその場に平伏した。
 「ひとつ赤松殿のお知恵をこの須坂藩の西洋化にお貸しいただけませんか?」
 思わぬなりゆきに銃に関心を示す間もない小三郎は、
 「どうかお顔をお上げください!」
 と同じように座布団を外して額を畳にこすりつけた。ところが直虎はなかなか頭を上げようとしない。
 暫くそんな状態が続いたまま、脇では先ほどから何やら難しい会話を続ける二人にしびれを切らせていた俊が、あるいは機転を利かせて場を繕おうとしたものか、大きな声で松野を呼んだ。
 「二葉屋(ふた ば や)のどら焼きを持って参れ!」
 『二葉屋』は須坂藩下屋敷のある亀井戸にあり、須坂の二葉屋百助の父長治郎の兄弟弟子が江戸で継承する老舗である。第九代須坂藩主堀直晧(なお てる)の頃からの藩御用達の菓子屋であることは前述したが、つまり須坂の二葉屋の江戸店というわけだ。
 やがて平伏したままの二人の間に五つ六つのどら焼きが置かれ、てっきり二人に勧めるかと思えば、俊はいきなりその一つを自分の口に頬張った。
 「うむ、やはりここのどら焼きは誠にうまい。二人でそんなに畳を睨みつけていては穴があいてしまうぞ。ほれ、サブちゃんも喰うてみよ」
 別の一つを小三郎のつむじの上に置いたものだから、その滑稽さに思わず「ワハハハ」と腹を抱えたのは直虎だった。
 「まったく千さんにはかないませんな!」
 「舎弟同士の盃のかわりじゃ。虎さんも食べよう」
 ようやく頭をあげた直虎は、上機嫌にどら焼きを口にして小三郎にも勧めた。
 「いきなり師範をお願いしても、こりゃちと唐突過ぎた、失礼、失礼。上田藩士の立場もおありでしょうから即答は難しいでしょうな。いっそ脱藩でもして学問一つで身を立てたらいかがですか?」
 近年の下級武士たちは、この脱藩≠ニいう言葉にひどく敏感になっている。水戸藩や長州藩、あるいは薩摩藩や土佐藩でも、攘夷思想にほだされて脱藩する者が次々と出ていたからだ。捕らわれれば死罪、そうでなくとも入牢あるいは身分剥奪、最悪の場合はお家断絶も免れない重罪だから、脱藩≠ヘすなわち命を捨てる行為と等しい。冗談でもそれをそそのかす一国の主などいようはずもない。
 小三郎は直虎の腹を探りながら、
 「そうなったら、私を(かくま)っていただけますか?」
 「無論──」
 冗談半分の小三郎の言葉に、直虎の即答はまんざらでない。しかし、上田藩の姫君が嫁いだ須坂藩との良好な関係を崩すような無謀な行動を起こす勇気は、この信州出の善良な男は持ちあわせていない。小三郎は話を継いだ。
 「今の日本では私のような下級武士に自由は与えられていないのです。欧米のようになるためには国の仕組みを根本から変えねばなりません」
 「ほう──わしは西洋の事をもっと知りたい。どうかご教示いただけませんか?」
 小三郎は遠慮しがちに「まだ考えがまとまっているわけではありませんが」と前置きしてから、やがて持論を語り始めた。その内容はおよそ次の通りである。
 日本は封建国家であり、何を決めるにしても一応評定(ひょう じょう)という形をとってはいるが、結局最終判断は主君に委ねられ、それがそのまま政治に反映される。小三郎のような低い身分の者は、いくら崇高な理念を掲げてもその声は上層部に届きもしない。それではいつまで経っても社会は変わらない。その点アメリカ社会は民主主義だから一介の民の声が政治に反映される。日本もそれに習って民主制議会制に改めるべきであり、まずは二大議会を創設し、二つの議会の合議のもとで政治を行えば今より民主的な国家になると力説する。そして議会の構成員は選挙によって選出すべきだとし、人民はどこまでも平等でなければならないと強く主張した。
 「本来、人に身分などあってはならないのです! そのためには人民に教育をほどこさなければなりません──」
 小三郎の燃え(たぎ)る情熱に直虎は目を細めた。
 「それが西洋の考え方ですか? 民主主義は私も分からんでないが、民衆は賢くもあり愚かでもある。教育の必要性は理解できるが、その両面を持ちあわせている以上、主権をことごとく人民に委ねるのは危険を(はら)む。それに──ちょっと困ったことが生じる……」
 直虎は腕を組んで考え込み、隣の俊に目を向けた。
 「わしらの居場所がなくなるぞい──そうなったらどうしましょうかな?」
 直虎はどら焼きを頬張りながら上の空で話を聞いていた彼女に突然聞いた。すると俊は井戸端で女子会の雑談でもするように、
 「サブちゃんの考えはひがみ根性じゃ」
 と何の悪気もなく一蹴してしまった。つまり「身分の低い家に生まれたサブちゃんが悪い」と言うのである。
 「もっと良い家柄に生まれれば良いのじゃ。わらわが姫に生まれたのは、過去世でそれ相応の努力をしたからじゃと思うておるぞ。サブちゃんも命あるうちに人のためにうんと働け。さすれば次に生まれる時は家老くらいの家に生まれて来るに違いない」
 俊の発言は生命の永遠性を信じる者にとっては的を射ているように聞こえたかも知れない。しかし人が生まれる時には人種、性別、身分または門地は選べないというのが一般認識で、現にそれらで不当な差別を強いられている民がいる。
 直虎は小三郎の主張に九割は賛同できたが、残りの一割にしっくりいかない不興を感じた。
 社会に身分が生じるのはある意味人間の(さが)とも思える。とすれば身分が問題でなく、生まれた環境に幸福感を得られない点にこそ問題があるのではないか? 彼などは願わずして一国の当主の座にあるが、それは生まれながらの宿業(しゅく ごう)とも言い換えることができる。農民や下級武士などにも生まれながらの不平等さとそれに伴なう大きな苦しみはあろうが、藩主には藩主の人には言えない苦しみがあり、不満を言い出せばきりがない。理想を描くことは大事だが、その理想が実現すればまた次の理想が生まれ、その繰り返しの中で進んでいくより仕方ない。しかも人の欲求は果てしない。
 肝心なのは自分が何者であるかを知り、自分の居場所で自らができることに力を尽くし、苦しみもがきながらも懸命に生きることしか思いつかない。
 「わしはどうすれば民が幸せになれるかいつも心を砕き、民にとっていい主君であらねばと日々勉強し努力しているつもりです。力足らずな部分は有能な家臣たちが助けてくれるし、それでけっこう平和な国になっていると思っているが過信かな?」
 小三郎は慌てて「直虎様のことではありません……」と付け加え、欧米は法治国家であると教えた。
 すると直虎は再び考え込んだ。
 「法律も万能とは言えまい……第一法律は人の心が作った成文ではあるが、その文言には心があるようでいてない。法の整備も大事だが、もっと大事なのは、その法を扱う人の心をいかに育てるかにあると思う。本来弱者のために作られた法であっても使う人間が悪人だったら、逆に弱者を苦しめることに利用されてしまう可能性がある。法は心を持たぬ。心を持たぬものが国を支配したら、やがて民も心を失うでしょう。こりゃ難題……」
 いくら制度を整えようが法律を定めようがそれを使う人の心が育まれない限り、例え理想が形の上で実現できても、それは紙上で兵を談じているのと同じであると彼は言いたい。
 小三郎は直虎の中に誠実たらんとする一国の長たる姿を見た。そして西欧の思想や制度のみが優れているとは限らないのではないかと自分に反問した。もし万人の痛みや苦しみを吸収できたとして、それを幸福に転じる政策を打ち出せる名君がいたとしたら、そういう国もあっていいではないか?
 ……しかしそんな仏のような全人的な人間など存在し得るだろうか──?
 一つだけあるとしたら、国を構成する一人ひとりの民が菩薩のような心を持つ教育を施すことだ。
 直虎も考え込んだまま、
 「いずれにせよ、いまわしがやらねばならぬ事は西洋化だと思っています。西洋化といっても大和心(やまとごころ)を捨てるつもりは毛頭ありません。とはいえ、今の日本は科学技術において明らかに西洋に劣っていると言わざるを得ない。軍事、文化、教養などにおいて西洋と同じ、あるいはそれ以上の力をつけなければ、日本を侮る彼らは必ず戦争を仕掛けてくるでしょう。そうさせないために、どうか赤松殿の力を当藩に貸して欲しいのです!」
 と、再び深々と頭を下げた。
 「どうかお上げください。こんな私でよろしければお力になりたいのですが、私とてまだまだ学ぶことが山ほどございます。そこでどうでしょう? ここはひとつ私が教えるというのでなく、共に学んで参りたいのですが、いかがですか?」
 こうして赤松小三郎は、次に江戸に来た時は必ず会うと約して上田へと帰っていく。