> (三)鴬谷(おう こく)先生
(三)鴬谷(おう こく)先生
 良山が深川の亀田鴬谷(かめ だ おう こく)が開く通称『亀田塾(かめ だ じゅく)』に通い始めたのは物心がつき始めた頃である。
 もともと亀田塾の祖亀田鵬斎(かめ だ ぼう さい)は書道の大家でもあり、妻を亡くした鵬斎(ぼう さい)が文化六年(一八〇九)、日光から佐渡の門弟のところへの傷心(しょう しん)の旅の途中、信州は北信地方を通った時に、藩や村を越えて地域の有力農民や富裕商家の文化人たちと交流したのが関わりの始まりだった。その復路(ふく ろ)(文化八年)、須坂藩の家老駒沢清泉(こま ざわ せい せん)が彼を屋敷に招き、七絃琴(しち げん きん)の演奏で歓迎した。
 それまでの須坂藩の教育は、第九代藩主堀直皓(ほり なお てる)が創設した講舎『教倫舎(きょう りん しゃ)』で教えた心学が中心だったが、郷土の中村習輔はじめ心学の中心的人物の力が弱まると、鵬斎の門人のひとり菊池行蔵を儒官として須坂に招き、併設という形で藩校『立成館(りっ せい かん)』を開設して藩の教育に儒学(じゅ がく)を取り入れるようになった。以来鵬斎(ぼう さい)の門は、一子である亀田綾瀬(かめ だ りょう らい)が後を継ぎ、更に鴬谷(おう こく)へと、須坂藩堀家では代々この亀田塾をひいきにしている。
 通う門弟といえば主に旗本(はた もと)御家人(ご け にん)の子弟たちで、亀田綾瀬(りょう らい)下総国(しもうさのくに)関宿藩(せき やど はん)教倫館(きょう りん かん)』の儒官(じゅ かん)を務めていたことから関宿藩の門人も多く、表向きは主に儒学を教えた。
 このとき鴬谷五十四歳、もとは下総(しも うさ)岡田郡(現茨城県)の出で鈴木を名乗っていたが、江戸に出て浅草の蔵前(くら まえ)で私塾を開いていた亀田綾瀬の門を叩いてからは、近くの鶯谷(うぐいす だに)に居住したことから『鴬谷(おう こく)』を名乗るようになった。
 良山が鴬谷先生を敬愛したのはその温かみのある笑顔と、あからさまに自分の過去を語るけっして偉ぶらない人柄による。亀田塾の祖鵬斎が豪放磊落(ごう ほう らい らく)な性格だったのに対し、二代目の綾瀬は「温顔(おん がん)の中、眼光(がん こう)人を()るを(おぼ)ゆ」と称される温厚篤実(おん こう とく じつ)君子(くん し)であったが、鴬谷はその二人の性格をあわせ持つような不思議な魅力があった。
 「おれが亀田塾の三代目になったのは、ぬい()れたからよ」
 とは酔ったときの口癖(くち ぐせ)で、(ぬい)とは彼の妻の名である。
 実は綾瀬には子がなかった。そこで養女を迎え入れたが、ただの書生だった鴬谷はその娘をひと目見てぞっこん惚れてしまった。その娘というのが若かりし縫である。それまで塾生の中でも特に目立ちもしない存在だった鴬谷が、以来(ぬい)と一緒になることを目標に定め、師の綾瀬(りょう らい)に認めてもらおうと俄然(が ぜん)勉学に打ち込んだのだ。
 「学問なんて所詮(しょ せん)そんなものよ。それより大事なのは(おのれ)がどうあるかだ」
 と、いつも冗談交じりに笑い飛ばすが、それが案外(まと)を射ていると感じてしまうところに、良山は強い(あこが)れと親近感を覚える。
 鴬谷(おう こく)の唱える和魂漢才(わ こん かん さい)≠ネるものは、その言葉自体は古くは平安時代中期には成立していた概念で、大和魂(やまとだましい)唐才(から ざえ)≠ニいう言い方もある。読んで字のごとく「日本の精神」をもって「中国の学識」を為すことで、中国渡来の学問や優れた思想哲学(し そう てつ がく)を実生活の中に取り入れながら、振る舞いや行動、あるいは処世術(しょ せい じゅつ)や判断は、日本固有の精神である大和魂(やまとだましい)に従おうとする考え方である。鴬谷自身「和心(わ ごころ)のない(やつ)に儒学を学ぶ資格などない」とよく言っているが、彼の言う和魂≠ニは大和魂だけにとどまらず、その生きざまと深く関係しているようだった。つまり(おのれ)≠ニいうものが入ってくる。大和魂の実在は己にあり、突き詰めるところ「己とは何ぞや」を問い、追求するところに学問・教育の意義があると結論していた。
 そんな講義を流暢(りゅう ちょう)(しゃべ)っていると、決って妻の(ぬい)が現れて塾生に茶菓子(ちゃ が し)を振る舞う。そして、
 「そう言うあなたは何者よ、ねぇ?」
 と塾生たちに賛同を求めた。すると、
 「おれか? おれはぬいに惚れた男よ」
 とのろけて、亀田塾はいつも笑いに包まれた。
 そんな気さくな妻(ぬい)も良山は大好きで、(よめ)にもらうなら彼女のような根っから明るい女性が良いと密かに思った。ちなみに二人の子である亀田雲鵬(うん ぽう)も須坂との関わりが深い。
 幼少の頃の良山は学問よりいたずらをしている方が楽しく、塾以外では勉強などしたことがなかったが、元服(げん ぷく)を迎えて浦賀のペリー来航で江戸の町が天地鳴動(てん ち めい どう)の騒ぎに包まれた時、
 「わしはこのままでいいのか?」
 と心の底から動執生疑(どう しゅう しょう ぎ)が湧き起こった。そうなったら()(たて)もたまらず、「何か事を起こさなければ!」と若い血が騒ぎ、居ても立ってもいられなくなった。数えで十八歳の夏である。
 そして翌年、日米和親条約締結(にち べい わ しん じょう やく てい けつ)のため再航した総計九隻の黒船に対し、幕府から下総の海岸防備を命じられた松代藩と一緒に、須坂藩からは藩士(はん し)四十四名がその警備に当たることになった。そこに自ら志願した良山は、浦賀沖に停船する巨大な船から、もうもうと()き上がる黒い煙を見たのだった。
 松代藩の中に(ひげ)(たくわ)えた目付きの鋭い不惑の年ほどの偉そうな男がいた。彼の存在が気になったのは、その頃はまだ珍しい望遠鏡をしきりに覗き込み、観察した黒船の絵図を紙に描き込んでいたからである。このとき軍議役を仰せつかっていた松代藩の佐久間象山という男であることはすぐに知ったが、突然観察の手を休めた彼がこう叫んだ。
 「おーぃ誰か、あそこまで泳いで異人(い じん)さんに挨拶(あい さつ)して来れる(やつ)はないか?」
 「わしが行く!」
 良山は燃える情熱に任せて象山の前に進み出ると、衣服を脱ぎ捨てふんどし一丁姿で、そのまま海に飛び込もうとした。ところがその腕を慌てて(つか)んだ象山は、
 「阿呆(あ ほう)! 冗談じゃ」
 と差し止めた。幕府に無断で外国船と接触するなど重大な罪に問われる。まして密航(みっ こう)など考えようものなら──と思うそばから、それを(くわだ)てたのが長州藩(ちょう しゅう はん)吉田松陰(よし だ しょう いん)だった。曲がりなりにも彼もまた象山の弟子であり、そのとき「あの船に乗って外国事情を学んで来たいとは思わぬか?」とそそのかしたのも象山なのである。
 「馬鹿が二人いた」
 と(あき)れつつも、内心どこかで喜んでいた象山は、幕府の取り調べを受けた時、
 「若者が外国へ学びに行こうとするのを勧めて何が悪い!」
 と突っぱねて、自国蟄居(ちっ きょ)沙汰(さ た)を言い渡されるのだ。
 象山の話はさておき、そんな出来事を通して、良山は自分がいかに無知であったかに愕然(がく ぜん)とした。彼が漢学に没頭(ぼっ とう)し始めたのはそれからである。
 『四書五経(し しょ ご きょう)』は(はな)から、『史記(し き)』や『漢書(かん しょ)』や『三国志』や『晋書(しん じょ)』などの中国の歴史書をはじめ、手に入る書物なら片っ端から集め、寝る時間も惜しんで学問に励んだ。そのすさまじさたるや、元服後に御近習となった柘植宗固(つ げ むね かた)に言わせれば、
 「若様がいつ寝ていつ起きているのか、まったくわからん」
 だった。夜が()ければ「先に寝よ」と家臣たちに気を遣い、自分はいつまでも机にむかって誰よりも遅く寝たかと思えば、朝は誰よりも早く起きて机にかじりついている。わずか唐紙(から がみ)一枚ほどで(へだ)てた隣の部屋にいながら、良山が寝ている姿を誰も見たことがないのだ。
 この柘植という男だが、その苗字の出どこを探れば伊賀国である。戦国時代はいわゆる忍びの者の血筋で、その彼にしてそう言わしめる良山は、もとより素質もあっただろうが、その成長ぶりには師の亀田鴬谷も目を丸くした。
 「もう教えることがない──」
 と(した)を巻いたので、当時西洋学の主流であった蘭学(らん がく)に手を出した。今から思えば英学(えい がく)を学べば良かったと思うが、「藩主になれ」と父に告げられた頃に至っても、開国間もない日本では肝心(かん じん)の英語の書物自体手に入らない。
 そして月日は矢のように流れ去り、藩主交代の十一月六日が近づいた。
 それにつけても父の強引さが気に入らない。宇三郎の前で素直になれたのは、幼少より跡継(あと つ)ぎ教育を無意識のうちに受けてきたからだろう、五男とはいえ心のどこかで「もしや」を感じていたからだ。世襲制(せ しゅう せい)が当たり前の国だから仕方ないかも知れないが、日本人たる(じゃく)≠フ習わしに矛盾(む じゅん)するその大きな葛藤(かっ とう)は、あるいは若さの(しる)しだった。
 そもそも須坂藩堀家の発祥を探れば戦国時代にまで遡る。豊臣秀吉の重臣堀秀政の従兄弟に当たり、堀家の家老だった奥田直政の四男直重が祖とされる。最初奥田姓だった直政はやがて堀姓を与えられ、初代堀直重は早い時期から徳川家に近づいた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで東軍について軍功を挙げ、下総国(しもうさのくに)矢作(や はぎ)に二、〇〇〇石と信濃国須坂に六、〇〇〇石の所領を与えられ、さらに慶長十九年(一六一四)からの大坂の陣でも徳川方として参戦し、そこでも功績を挙げて高井郡内に四、〇五三石を封土され一万二、〇五三石の大名となった。その後二代直升の代に下総矢作の二、〇〇〇石を弟たちに分知したため一万五十三石となって現在に至る。とはいえ豊臣政権下から派生したものだから外様大名には違いない。
 初代直重(なお しげ)∴ネ来、須坂藩堀家の当主は代々直≠フ後ろに(ます)(てる)(すけ)(ひで)(ひろ)(かた)(さと)(てる)(おき)(ただ)(たけ)≠当てて名としてきた。なのに、なぜ自分だけ獰猛(どう もう)畜生(ちく しょう)である(とら)≠ネのか? 良山は父が命名した直虎≠ニいう名からして納得していない。
 自分はもっと穏やかで、どちらかと云えばのほほんとした性格なのだ。どうせ名乗るならもっと知的で上品な方が良い。いっそ直虎≠ヘやめて、自ら考えた名で藩主になるのを条件にしようとも考えたが、肝心の佳い名が思いつかない。憤慨と迷いで揺れる良山はその夜、亀田塾の門をくぐった。
 「どうした? ()えない顔をしておるぞ。藩主がそれでは須坂藩の先が思いやられるな」
 鴬谷はいつものように彼を迎え入れた。
 「ちと、ご相談に乗っていただきたい儀がございまして……」
 「そうか、まあ中に入れ」
 誰もない亀田塾のいつもの部屋に通され師の正面に対座した良山は、「一本浸けますか?」と姿を現した縫のいつもの笑みに心和ませた。
 「急に逃げ出したくでもなったか? 顔に書いてあるぞ」
 鴬谷は全てを見抜いているかのように「お前らしくない」と笑う。
 「なんだか落ち着かないというか、自分が自分でないようで、どうもしっくりこないのです」
 すると鴬谷は少し考えて、
 「お前は何になろうとしているのか?」
 と問うた。
 「無論、藩主です」
 「それだ、それがいかん。お前はお前でないものに成ろうとして、無理やり覚悟を決めようとしておるのだろう。お前はお前にしかなれんよ」
 と、幼少の思い出話がはじまり、ふとした拍子に宇三郎のことが話題に挙がった。思い起こせばその小さかった手を引き、いつも亀田塾に連れて来たのも彼だった。
 「御近習の中島宇三郎君には相談したのかい? 彼が君のことを一番よく知っているじゃないか。最近見ないが元気にしているのかな」
 宇三郎の話が出たのはやや意外であるが、本題から離れ、別の話題で(こと)(きも)を見つけ出し、本人を納得に導こうとする鴬谷のいつもの手法であろう。
 五、六歳の頃だったか、塾の勉強に()いた良山がすぐ横にあった障子を破り始め、そのうち暴れて部屋中の障子を破ってしまったことがある。そのとき「申し訳ない!」と頭を床にこすりつけた宇三郎が、夜中まで一人で張り替えをしていたことや、年上の子と喧嘩(けん か)して怪我(け が)をさせてしまい、先方の親がひどい剣幕で塾に苦情を言いに来たときも、宇三郎がすまなそうに大きな菓子折りを持って謝りに行ったことなど、塾で起こった彼にまつわる思い出話が次々と飛び出した。そして酒を運んで来た(ぬい)が笑いながらこう言った。
 「(りょう)ちゃんの半分は宇三郎さんでできているのね」
 彼女は良山のことを親しみを込めて「良ちゃん」と呼ぶ。その笑顔を見ていると、どれほど深刻な状況に置かれていても、悩んでいること自体馬鹿げてくる。
 やがて鴬谷は話しを戻す。
 「おれはお前の師匠(し しょう)だが、お前の師匠になろうと思ってなったわけでない。お前がここに来たから師匠になったのだ。いまでさえ多くの塾生を得たが、もとをただせば綾瀬(りょう らい)先生と出逢い、(ぬい)に惚れたからこそおれがある。ぜんぶ母ちゃんのお陰さ」
 「またその話し?」と(ぬい)は呆れたようにまた笑った。
 「いいじゃねえか、ホントのことなんだから。だからおれは儒学の師匠だなんてこれっぽっちも思っていないんだ。どこまでいってもおれは綾瀬先生の弟子であるし、母ちゃんに惚れたただの男だよ。だから偉そうに背伸びする必要もなければ、見栄(み え)を張る必要もない」
 (さっ)しのいい良山は、おおよそ師の言わんとすることが理解できた。彼の説く和魂≠ニは大和魂≠フことであり、大和魂≠フ実在は己≠ノあり、己≠ニはすなわちありのまま≠ニいう意味で、そこから離れた時、人は何者にもなれないという事を教えようとしているのであろう。
 「さて良山君、いまから一つ試験問題を出そうと思うが、答えられるかな?」
 鴬谷は禅問答(ぜん もん どう)でもするような意地悪(い じ わる)(ふく)み笑いで良山を見つめた。良山はかしこまって「どうぞ」と姿勢を正した。
 「──君は何者か?」
 「私はたかだか一万石の堀家の五男坊です」
 「それだけか?」
 「亀田鴬谷先生の弟子になった男です」
 「それから?」
 良山は少し考えて、
 「父上の盆栽(ぼん さい)に小便をかけて遊んでいた男です」
 (ぬい)がプッと吹き出した。
 「そんなことをしたのか! まあよい、それから? まだあるだろう?」
 すると良山の頭の中に、幼い日の出来事が走馬灯(そう ま とう)のようによみがえった──。
 まだ三、四歳の頃だったろうか、一人で遊んでいると乳母(めのと)(とも)が「負んぶしてあげましょう」と言ってきた。若い彼女は美しく、幼かった彼の憧れだったが、()(かく)しに「オオ」と横柄(おう へい)に応えて勢いよく背中に負ぶさると、手にした手拭(て ぬぐ)いの先端を彼女の口もとに垂らして「くわえよ」と命じた。朋は言われるまま(くわ)えると、
 「やあっ! バカを釣った、バカを釣ったぞ!」
 魚釣りを()したその光景を見ていた周りの者たちはどっと笑い、良山も得意になって大喜び。朋はすっかりしょげてしまう。またある時は「この手ぬぐいをくわえて()え!」と命じた。
 「若様、ご冗談はおやめください」
 彼女は恥じらいもじもじしたが、もっと困らせてやろうと腹を立てた振りをして「無礼者(ぶ れい もの)!」と叫ぶと、彼女は仕方なく言われたとおりに腹ばいになって手拭いを銜えた。すると良山はいきなりその背にまたがり、手拭いを馬の手綱(た づな)に見立て、
 「やあっ! お(んま)じゃ、お(んま)じゃ! ハィ、ハィ、ドウ、ドウ、飛べ、飛べっ!」
 と大はしゃぎ。その遊びがたいそう楽しく、朋の(ひざ)はいつも()り切れ「痛い、痛い」と言っていた。
 なぜよりによってそんな事が思い出されたか、あの時「ごめん」の一言が(のど)まで出かかって言えなかった後悔が、今更のように良山を苦しめた。もしかするとあれが支配欲の芽生えであったか、結局その言葉を伝えられないまま彼女はどこかへ嫁いで行った。
 しょせん自分はそんな人間なのだ──。
 そう思ったとき、他人にはけっして知られたくない一番思い出したくない自分を思い出す。
 「お前は何者だ?」
 更に問い詰める師に隠し事はできない。良山は人非人(にんぴにん)(ののし)られようと白状しなければいけない良心に従った。
 「乳母(めのと)行水(ぎょう ずい)(のぞ)き見した男です」
 鴬谷と(ぬい)は顔を見合わせた。
 「(あき)れたやつだ! もうよい。そんな奴がよくぞここまで成長したものだ。これからも学問を(おこた)ることなく、お前のままでゆけばよい」
 自分らしくあれ──鴬谷先生はそう教えている。ありのまま眼前の障害に尽力し、乗り越え難きは力を付けるだけで、己を取り巻く環境などある意味どうでもよいことなのだ。私塾開設の夢が強引な父に打ち砕かれ、翻弄されて己の実在を見失っていたことに気付いた良山の煩悶(はん もん)は、俄かに嘘のように晴れ渡った。
 「わかったようだな」と柔和な笑みを浮かべた鴬谷の表情は、つい先ほどまで拷問官に見えていたものが、慈父の菩薩に変わったかに感じられた。
 「実はもう一つお願いがございます。新しい名を命名して欲しいのです。堀家は代々初代直重公(なお しげ こう)の直≠フ字を頂戴(ちょう だい)することになっておりますが、私に見合った()い名を先生から(たまわ)りたい」
 「直虎(なお とら)≠ナはないのか?」
 「どうも何から何まで父上の言いなりになっているようで癪なのです。自分らしくあるために、私に相応しい名を名乗りとうございます」
 「名など何でもよいでないか。今年の干支(え と)は何じゃ?」
 「辛酉(かのと とり)です」
 「では(とり)でよかろう。直鳥(なお とり)≠ナどうじゃ」
 その身も(ふた)もない単純な発想に、(ぬい)の方が不服(ふ ふく)そうに口を(はさ)んだ。
 「それでは鉄砲の音がしたらすぐに飛んで逃げて行ってしまいそう。藩主が真っ先に逃げそうな名前なんて可哀想(か わい そう)よ」
 「そうか?」と鴬谷は首を傾げて、
 「藩主になる日は何日だったかな?」
 「来月六日でございます」
 「十一月の六日(新暦では一八六一年十二月七日)か……その日の干支日(え と び)は何かな?」
 頭をひねった割に発想が同じことを笑いながら、縫は箪笥(たん す)の上に置いてあった(こよみ)をめくって「庚寅(かのえ とら)ね」と言った。
 「では(とら)でどうじゃ? 直虎(なお とら)≠カゃ!」
 「いいじゃない!」と縫も喜びの声を挙げたので、良山は「同じではないですか!」と反駁した。
 すると鴬谷はニヤリと笑んで「お前は父の心が分らぬか?」と諭した。
 「直虎(なお とら)≠ニ命名されたのはいつじゃ、何年の何月何日じゃ? 家に帰ってちゃんと調べてみよ。おそらく庚寅(かのえ とら)の日に違いない。(かのえ)≠ヘ五行(ご ぎょう)金行(きん ぎょう)のうち(よう)(きん)を表すから(かね)には困らん。それに鉱石や金属の原石の例えにも使われる文字だから(かた)くて荒々しい攻撃的な性質を示す。いかにも強そうじゃないか! 父はお前に勇ましくなって欲しいのだ。なよなよしていたのでは藩主など務まらん」
 良山は「はっ!」として、今更のように父の思いを知った気がした。鴬谷は続けた。
 「儒学では父親への孝≠ヘその思想の根幹とも言える。それに報いるのが子の務めというものぞ。ここはつまらぬ我≠ネど捨てて、父を立ててやってはどうか」
 この瞬間、良山の腹は完全に決まった。ここに須坂藩第十三代当主堀直虎(ほり なお とら)が誕生したのである。