> (二)参勤交代(さん きん こう たい)、兄の苦悩
(二)参勤交代(さん きん こう たい)、兄の苦悩
 参勤交代は江戸幕府の(もと)、藩主が一年おきに江戸と自領とを行き来しなければならない諸大名に課せられた制度である。その際、正室と世継(よ つ)ぎは絶えず江戸に常住(じょう じゅう)しなければならない幕府の人質のような役目を担ったが、側室および世継ぎ以外の子にはその義務はない。須坂藩のそれは丑年(うし どし)卯年(うさぎ どし)巳年(み どし)未年(ひつじ どし)酉年(とり どし)亥年(い どし)の六月が参府(さん ぷ)で須坂を出立しなければならず、逆に子年(ねずみ どし)寅年(とら どし)辰年(たつ どし)午年(うま どし)申年(さる どし)戌年(いぬ どし)の六月は御暇(お いとま)といって自領に戻ることになる。この年(文久元年)の干支(え と)辛酉(かのと とり)なので参府の年で、六月下旬といえば藩主直武(なお たけ)は須坂藩江戸屋敷に入っていた。
 その日、一年ぶりに父子(おや こ)兄弟水入らずで(さかずき)を交わした良山(りょう ざん)は、げっそりとやつれた兄の顔に驚いた。
 「お身体(からだ)の調子でも悪いのですか? 顔色も随分(ずい ぶん)青い気がします」
 「(つか)れたよ……」
 と、直武の最初の一言がそれだった。良山より六つ年上の彼は、御年(おん とし)数えで三十二歳の働き盛りの年代ではあるが、「疲れた」という言葉の中に、死をも予感させるような落ち込んだ生気(せい き)を感じた良山は首を傾げた。
 その場に顔を(そろ)えたのは、父の直格(なお ただ)はじめ直武、良山と、異母(い ぼ)の弟恭之進(後の直明(なお あき))である。
 「道中いかがでしたか? かなりお疲れの様子ですが」
 良山は直武の盃に酒を注ぎながら言った。
 「中山道(なか せん どう)和宮(かずのみや)降嫁(こう か)の話題で持ち切りだ。江戸でもそうとう盛り上がっているんだろうな?」
 「盛り上がっているというか何というか」と、良山は弟の恭之進と顔を見合わせた。
 第十四代将軍徳川家茂(とく がわ いえ もち)御台所(み だい どころ)として皇女(こう じょ)和宮の降嫁が決ったのは昨年十月のことである。ペリー来航により朝廷(ちょう てい)の許可を得ずに日米修好通商条約に調印(ちょう いん)開国路線(かい こく ろ せん)に踏み切った幕府と、攘夷派(じょう い は)との対立は激しさを増し、攘夷の立場をとる孝明天皇(こう めい てん のう)は、水戸藩(み と はん)をはじめとする徳川御三家(ご さん け)御三卿(ご さん きょう)などに対して戊午(ぼ ご)密勅(みっ ちょく)≠ニ呼ばれる幕政改革遂行(すい こう)の命を下す。つまり幕府に攘夷を推進(すい しん)するよう(せま)り、外様(と ざま)譜代大名(ふ だい だい みょう)らと協調して公武合体(こう ぶ がっ たい)≠実現しようとしたのである。ところがこれを陰謀(いん ぼう)と見た大老(たい ろう)井伊直弼(い い なお すけ)は安政の大獄(たい ごく)断行(だん こう)し、その圧力を一掃(いっ そう)しようとしたが、怒りを買った直弼は暗殺され、両者の対立はますます深まった。しかしここにきて混乱する国論(こく ろん)を統一せざるを得なくなった幕府と朝廷は、時の将軍家茂(いえ もち)と皇女和宮(かずのみや)のご成婚という形を世に示し、公武合体を実現しようとしたわけである。いわば家茂も和宮もその犠牲者と言えるが、そんな思惑(おも わく)とは裏腹に、時の政治に対して庶民(しょ みん)たちは面白(おも しろ)おかしく醜聞(しゅう ぶん)を振りまくものだと、良山は苦笑いを浮かべて江戸の様子を伝える。
 「公家(こう け)久我(く が)様が幕府から賄賂(わい ろ)を受け取り、天皇を(だま)して嫁入(よめ い)りを決めたと(もっぱ)ら騒いでいます。つまり和宮様は幕府の人質だと」
 「江戸の庶民は幕府より天皇の味方というわけじゃ。しかし(たみ)の言うことなどいちいち気にしていたのでは政治などできんわい」
 直格の口調は「それが世の道理だ」と言わんばかり。それにしても口数の少ない直武の様子が気になった。
 「兄上、どうなさいました? 先ほどから元気がないように見えますが」
 すると直武は力なく笑った。
 「旅費を捻出(ねん しゅつ)するだけでも大変な苦労さ。藩の財政は火の車、おれが藩主になってからますます悪化している。領民からは惣領(そう りょう)甚六(じん ろく)≠ネどと陰口(かげ ぐち)され、すっかり自信をなくしたよ……」
 須坂藩の財政難は深刻な問題だった。直武が家督を継いでより、翌弘化三年(一八四六)の江戸の大火で、南八丁堀の上屋敷と駒込目白台にあった下屋敷が全焼の類焼に見舞われ、更にその翌年には善光寺大地震によって千曲川沿いの村々が大災害を被る災難続き。南八丁堀の上屋敷の再建と亀戸の下屋敷新築に加え、大坂加番などという役職を仰せつかった日には遠く現地まで赴く旅費やら何やらで出費がかさみ、あたかも大きな穴の開いた小さな樽から水がこぼれ落ちるが如くお金が流れて消えた。否──それは直武の代に始まったことでない。天保(てん ぽう)大飢饉(だい き きん)以来の作物の不作が招いた危機であり、それはまさに第十一代藩主である父堀直格の代からの負の遺産なのだ。その借財額は嘉永三年(一八五〇)の時点で四万四千両以上にのぼっており、返済の目途もたたないまま負債額は膨らみ続けている。当時どこの藩も同じような問題を抱えてはいたが、あの手この手を尽くしてみても、わずか一万石あまりの小規模な藩にとっては耐えていくにも限界が見えた。
 「このまま財政破綻(ざい せい は たん)してしまったら、須坂藩はどうすればよいのでしょう?」
 直武はため息まじりに呟いた。
 「最悪の場合、領地を幕府に返上するしかなかろうが……そんなに(きび)しいのか?」
 直格は半分他人事(ひ と ごと)のように言ったが、続けて、
 「ほれ、あれはどうした、あれは──吉向焼(きっ こう やき)
 そこにいた者は皆「またか」と思ったが、父に対してそれを口にする者はない。
 須坂吉向焼は、直格が須坂藩の財政難克服(こく ふく)のため、起死回生(き し かい せい)()けて行った藩主としての最後の事業と言えた。陶技(とう ぎ)意匠(い しょう)に優れ、諸大名にもてはやされていた吉向焼の創始者戸田治兵衛(と だ じ へ え)吉向行阿(きっ こう ぎょう あ))父子を須坂に招いて弘化二年(一八四五)、鎌田山(かま た やま)(ふもと)に信州最大級にして最先端の製陶技術(せい とう ぎ じゅつ)駆使(く し)した紅翠軒窯(こう すい けん よう)≠ニ名付けられた須坂吉向焼の巨大な登り窯を築いたのである。もっともそのとき家督は直武に譲っていたが、膨大(ぼう だい)な初期投資に加え、時代は高級陶器(こう きゅう とう き)などで呑気(のん き)に茶の湯などやっている雰囲気でなくなった。焼けば焼くだけ赤字がかさみ、わずか九年足らずで廃窯(はい よう)に追い込まれる。その後は行阿の弟子の手で日用雑器をひっそり焼いているが、隠居(いん きょ)の身となって久しい彼は、失敗の責任をすべて直武に負わせる形になったわけだ。それでもこうして顔を合わせるたびに「設備はあるのだ。もう一度挑戦してみろ」と(あきら)めが悪い。
 「父上に言われて高麗人参(こう らい にん じん)にも取り組んでみましたが、なかなかどうして栽培(さい ばい)が難しい……。杏や漆や桃にも手を伸ばしてみましたが、いまだ明るい兆しは見えません」
 直武の苦悩は想像以上で、深いため息を落とした。おそらくこのとき既に精神を病んでいたのだろう。
 「生糸(き いと)をやってみてはいかがです?」
 良山が呼吸をするように言った。
 「生糸?」
 「少し前に上田藩の松平伊賀守(まつ だいら い がの かみ)忠固(ただ かた))様がオランダやエゲレスを相手に生糸貿易を始めたという話を聞きました。上田の方では生糸商人が盛んに動いているらしいですよ」
 「面白(おも しろ)そうだが」と直武が言おうとしたとき、
 「忠固か……亡くなって今年の長月でもう二年になるか? 老中を二度も務めたのに、幕府にとっても須坂藩にとっても惜しい人物を失った」
 直格がぽつんと言った。彼にとっては財政のことより藩を取り巻く情勢の方が気になるらしい。直武は「お金の話はもうよそう」と言うように杯を飲み干した。

 文久年間の頃の須坂藩江戸藩邸上屋敷は南八丁堀にある。
 幕府の都合で敷地替えさせられることもしばしばあるが、いわゆるそこは与力や同心の組屋敷が建ち並ぶ町であり、代々の須坂藩主はおおむね呉服橋御門番(ご ふく ばし ご もん ばん)とか日比谷御門番(ひ び や ご もん ばん)などの警備職を歴任している。職種柄からすれば都合の良い場所なのである。
 翌日からさっそく登庁(と ちょう)した直武は例外にもれず江戸城警備に当たることになったが、これが大坂加番とか二条城加番、あるいは駿府城加番(すん ぷ じょう くわえ ばん)などの役目を与えられたとなれば現地にまで行かねばならないから、憔悴(しょう すい)した彼の身体を考えると免れただけで喜ばなければならない。
 当時は日曜とか土曜といった概念はないので、武士ともなれば盆と正月以外はいわゆる二十四時間体制で将軍を守らなければならない。と言えばひどく大変な仕事のように思えるが、その実質を問えば、出仕時間が朝四ツ時(十時)から午後九ツ半(十三時)までの三時間程度、門番などは交代番があるが、現代と比べれば職務の拘束時間は極端に短い。有事の時はいざ知らず、日常の時間的余裕はかなりあるので、その時間を当てて武術や学問などの自己研鑽に励み、有事に備えるのが面目である。それにつけても直武は出仕するだけでもきつそうで、上屋敷常住の江戸家老(え ど が ろう)駒澤式左衛門貞利(こま ざわ しき ざ え もん ただ とし)は、彼の様子を心配して下屋敷の直格に報告をしたほどだった。
 そして──
 十日ほど経ったある日、良山が直格に呼ばれて告げられたのは驚くべきことだった。
 「家督を継いでもらえんか?」
 良山は暫く言葉を失った。直武の妻は松平忠固(まつ だいら ただ かた)の弟に当たる西尾隠岐守忠受(にし お お きの かみ ただ さか)の養女であるが、嫡男がない。
 「承知の通り須坂藩の財政はにっちもさっちもいかん。そこへきて直武は人が良すぎる。国元の家老たちにものも言えず、好き勝手にやらせているようじゃ。それ以前にどうやら身体を(わずら)っておる。直武が血を吐くところを貞利が見たそうじゃ」
 「えっ?」と良山は小さな驚きの声を挙げた。
 「このままあいつに任せていたら、近い将来本当に須坂藩は破綻(は たん)する」
 直格の表情は深刻だった。この間の(うたげ)ではとぼけたふうを装いながら、彼は彼なりにすっかり直武の置かれた状況を見抜いていたようである。良山は突然の展開に躊躇(ちゅう ちょ)するより仕方ない。
 「こんなこともあろうかと五年前、お前を直武の養子にしておいたのじゃ。交代の日取りも決めた、霜月の六日じゃ。考える余地などない、腹を決めるだけだ」
 五年前の安政三年(一八五六)二月、何の前触れもなくその話を聞かされた良山は、父より直虎≠ニいう名を与えられていたが、あまり自分と合っていないようで馴染めず、実感が湧かないままいつしか忘れ去っていた。良山は父の抜け目なさに渋面を作り、
 「強引ですね。この前も申し上げましたが、私は私塾を開きたいのです」
 「私塾を開いて人を育てて何がしたい? 何を教えようとしてるのか知らんが、そんなもん開いてちまちま門弟に言い含めるより、藩主になれば(つる)の一声じゃ。この家に生まれた者の定めと思って(あきら)めよ。頼んだぞ」
 直格は有無を言わさず背を向けて、やりかけの日本画の画家伝記集の編纂の仕事を始めてしまった。お家にとっては何より重要な家督の話は二言三言で終えてしまって、自らの楽しみである仕事に向かう直格は根っからの文化人なのだ。
 「そういえばこの間頼んだ山桜の系譜集の方はどうなった?」
 良山はその言動に腹を立てたが、ぐっとこらえて、
 「題号を叒譜(じゃく ふ)≠ノしようと思います」
 と、静かに応えた。
 「叒譜=c…。うむ、なかなかよいな」
 良山は父の背中に一礼すると、そのまま部屋を出た。

 さて困った──。
 藩主になれと突然言われても、覚悟もなければその気もない。私塾を開いてようやく人生の道筋が見えかけたというのに、ああも強引に押し付けられたら身も(ふた)もない。直武が血を吐いたというのは当主に仕立て上げるための作り話ではないか? 兄は品行方正(ひん こう ほう せい)で知恵もあり、確かに人の良すぎるところはあるが、それが自分に替わったところで藩の状況が変わるわけでない。
 いらぬ事を考えながら下屋敷の敷地内を歩いていると、やがて家臣たちの長屋(なが や)が立ち並ぶ一角にたどり着いた。
 「なぜこんな所に来たのだ?」
 良山は自分の行動に首を傾げたが、無意識のうちに中島宇三郎(なか じま う さぶ ろう)の住居に向かっていたかと合点(が てん)がいった。幼少の頃の良山付き御近習(ご きん じゅう)で、元服(げん ぷく)して人事変更があったのでかれこれ十年くらい会っていない。もう五十路(い そ じ)を過ぎたろう、やたらと腰が低く馬鹿正直(ば か しょう じき)な上、気が良すぎるほどの善人で、当時も独り身だったが所帯(しょ たい)を持った(うわさ)は聞こえてこないのできっといまだ独身だろう。
 数えで十歳の夏だったか──
 ある夕暮れ、宇三郎の住居の前を通りかかったとき、開け放った屋内の中央に木机(き づくえ)を置き、上に乗ってなにやら黄ばんだ長い布切(ぬの き)れを一生懸命天井に()るそうとしている彼の姿を偶然見かけた。不審に思った良山は近寄り、
 「なにをしておる?」
 と声を掛ければ、驚いた宇三郎はバランスを崩して転げ落ち、腰を打って暫く痛そうにさすっていた。
 「(わか)(ぼっ)ちゃん……突然びっくりするではございませんか」
 「なにをしておると聞いておる」
 「もう夏でございましょう? 最近、()に喰われて(かゆ)くて痒くて仕方ありません。そこで蚊帳(か や)を吊るそうとしていたのでございます」
 「その黄ばんだ布切れは何じゃ?」
 「こ、これでございますか?」
 宇三郎は言いにくそうに暫くもじもじしていたが、やがて、
 「ふんどしでございます……」
 武士は食わねど高楊枝(たか よう じ)と言うほどに、ふんどしで蚊帳を吊るとは武士としてあまり格好の良い姿でない。宇三郎は顔を真っ赤に染めて、吊るしかけたふんどしをはずそうとすると、
 「はずすにはおよばぬ。そのままでよい」
 良山は無表情のまま暫く宇三郎の顔を見つめていたが、やがて、

 ふんどしで蚊帳をつりけり宇三郎

 そんな即興句(そっ きょう く)()んで何食わぬ顔で立ち去った。一応季語があるから俳句に違いないが、その滑稽さは川柳とか狂歌とか当時江戸で流行りの雑排の類いである。折に触れてそんな俳諧を詠むのを楽しみにした良山の、これが最初のそれである。
 おかげで夏の間中、宇三郎は他の家臣たちからふんどし宇三郎≠ニからかわれて過ごしたようだが、その出来事があった翌日、良山はこっそり真田紐(さな だ ひも)を届けた。これで蚊帳を吊るせというのである。ところが宇三郎はその紐を有難(あり がた)がって使おうとせず、ずっと神棚(かみ だな)に供えていたということだ。
 良山は長屋の一室で草鞋(ぞう り)を編むすっかり老いた宇三郎の姿を見つけた。
 「よう宇三郎、元気にしておるか?」
 宇三郎は仕事の手を休めて、立派に成長した良山に気付くと、みるみる双眸(そう ぼう)に輝きを取り戻し、「若お坊ちゃん!」と、しわがれた喜びの声を挙げた。彼は良山のことをいまだにそう呼んだ。
 「今日はふんどしは吊るしておらぬのか?」
 「──もうそんな季節でございますなあ」
 宇三郎は過ぐる日の冗談に乗って笑い、(わら)で散らかった部屋を片付け「いまお茶を()れます」と土間の釜戸(かま ど)で湯を沸かし始めた。
 「かまうな。ちと近くに来たもので、宇三郎がどうしているか気になって寄ったまでだ」
 「また(うれ)しいことをおっしゃいますが、そのお顔は、何かあったのでございましょ?」
 どうもこの男は(だま)せない。良山は遠くを見つめて、
 「実は父上より家督を継げと言われてのう……」
 遠い昔の思い出を辿るふうに呟いた。
 「それは、ご相談ですか? ご報告ですか?」
 「言い出したら梃子(て こ)でも動かぬ父上が申したのだ。両方じゃ」
 「それはおめでとうございます! たった今から殿≠ニ呼ばせていただきます!」
 宇三郎は自分のことのように歓声を挙げた。不思議なもので、()った瞬間、会わなかった間の(みぞ)が一瞬にして埋まる関係もあったものだ。
 「そんなにめでたいか?」
 「はい、めでとうございます。私は直武様が藩主になられた時から、若お坊ちゃん──いや、殿が藩主になれば良いのにとずっと思っておりました。もっともあのとき殿はまだ(とお)洟垂(はな た)れ小僧でしたがな」
 宇三郎は懐かしそうに笑って「むさくるしい所ですが」と屋内に招き入れた。藩主になろうとする者としては、藩が提供している長屋をむさくるしい≠ニは(しゃく)(さわ)ったが、部屋の中を四顧(し こ)してみれば、まだ築十数年ほどの建物はなるほどそう言われても仕方ない。弘化三年(一八四六)の大火で目白台の下屋敷を締め出され、ようやく見つけた亀戸の敷地内に建てられたそれは、財政難と突貫工事の代物なのだ。
 宇三郎は釜戸に(まき)をくべた。
 「わしに藩主など務まると思うか?」
 「思いますとも! たかだか一万石の小さな国の藩主など殿には役不足(やく ぶ そく)でしょう。殿はいずれ将軍様のお膝元(ひざ もと)で国を動かす仕事をなさるお方です。私は昔からそう思ってました」
 「ずいぶん大きく出たな。なぜそう思う?」
 「そりゃ御近習(ご きん じゅう)ですから。そうでも思わなきゃ、あのやんちゃな若お坊ちゃん──いや、殿の御世話などできません」
 「さような意味か。がっかりさせるな」
 「いいえ、本心ですとも! その利発(り はつ)さ、機転(き てん)の良さ、度胸(ど きょう)愛嬌(あい きょう)、人を引き込む魅力──、どれをとっても申し分ありません。こんな小さな時から殿を見て来た私が言うのです。間違いございません!」
 宇三郎の老いた瞳には涙がにじんでいた。
 思えば昔、この男を随分と困らせたものだ。家老が大切にしていた床の間の盆栽に小便をひっかけてみたり、手習いの(すみ)で掛け軸にらく書きしたり、できたばかりの屋敷の門を壊してみたり、そのたび宇三郎が間に入っていつも代わりに怒られ役を引き受けてくれた。あるときなど過ぎた悪戯(いた ずら)を見かねた彼の上役が、「お前には監督能力が全くない!」とお役御免(やく ご めん)を言い渡したこともあったが、寸でのところで父に泣きつき、「もうしませんから宇三郎をお許しください」と固く誓って許しを請うたこともある──その良山の長所も短所も知り尽くした宇三郎が、
 「でも……」
 と言いかけ言葉を止めた。
 「でも──? なんじゃ? 気になる、言え」
 宇三郎はそっと目を()らして、静かに「優しすぎます」と、彼の短所をずばりと言った。
 「なに?」
 「殿は優しすぎます。それだけが心配でございます」
 「どういうことだ?」
 「藩主になったら、家臣を(さば)かねばならない時もありましょう。そのときは鬼にならなければなりません。同情や優しさは一凶(いっ きょう)となり、時に大きな禍根(か こん)を残します。裁くべきは断じて裁く。上に立つとはそういうことでございます」
 「そう言う宇三郎は、わしを裁くことなどただの一度もなかったではないか」
 「裁かれる者の気持ちを知れば、優しい若お坊ちゃんは人を裁くことができなくなりましょう」
 「それを教えるために……?」と良山は思った。人生を懸けて自分を育ててくれた彼の心を知ったとき、今更のように胸が熱くなる。宇三郎はこの年になってようやく使命を終えたような晴れ晴れとした表情で土色(つち いろ)の顔に幾重(いく え)もの深い(しわ)を作ると、良山は涙腺を湯気で隠すように()れたての(しぶ)い番茶をすすった。