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燎原ケ叒
> (一)
叒
(
じゃく
)
の
炎
(
ほむら
)
(一)
叒
(
じゃく
)
の
炎
(
ほむら
)
幕末の
混沌期
(
こん とん き
)
を
燎原
(
りょう げん
)
に例えるなら、彼はそこに
屹立
(
きつ りつ
)
する一本の桜である。
「桜」のことを彼は「
叒
(
じゃく
)
」と呼んだ。中国では「
扶桑
(
ふ そう
)
」の木をそう呼び、総じて日本の代名詞として古くより用いられてきたが、
嘉永
(
か えい
)
六年(一八五三)のペリー来航以来、
否応
(
いや おう
)
なしに世界を意識せざるを得なくなった
極東
(
きょく とう
)
の
日出
(
ひ い
)
ずる国の住人としては、地球という星における
秀気
(
しゅう き
)
の集まる場所に生ずるその花を「叒」と呼ばずにはおれない。
彼は、父に序文を書くよう言われた『花譜』というサクラの系譜集に描かれた山桜と、庭に満開と咲く
桜花
(
おう か
)
の実物とを見比べながら、うっとりとその美しさに
見惚
(
み ほ
)
れた。時を尋ねれば文久元年(一八六一)三月のことである。
「
良山
(
りょう ざん
)
様、剣術の
稽古
(
けい こ
)
の時間ですぞ」
声をかけたのは三十前後の須坂藩では随一の
直心影流
(
じき しん かげ りゅう
)
の剣豪で、名を
小林要右衛門季定
(
こ ばやし よ う え もん すえ さだ
)
という。良山というのは後に須坂藩第十三代藩主となるこのとき数えで二十六歳の
堀直虎
(
ほり なお とら
)
の
諱
(
いみな
)
である。良山は、桜花の一枝をもぎ取ってから「もうそんな時間か?」と言いたげな顔で、
「剣術は気が乗らぬなぁ……」
と、何かの許しを
乞
(
こ
)
うように
破顔一笑
(
は がん いっ しょう
)
した。
「その
人懐
(
ひと なつ
)
っこそうな笑みにはもう
騙
(
だま
)
されませんぞ。
攘夷派
(
じょう い は
)
の連中が江戸にも
うようよ
しているという話です。良山様とていつ
井伊直弼
(
い い なお すけ
)
様のように襲撃されるか分かったものではありませんからな。剣術修業は
怠
(
おこた
)
らない方がよろしい」
江戸城桜田門前で時の
大老
(
たい ろう
)
井伊直弼が暗殺されたのはちょうど一年ほど前の出来事だった。ペリー来航にはじまった空前の激動期の幕開けは、
日米和親条約
(
にち べい わ しん じょう やく
)
により
鎖国
(
さ こく
)
が解かれ、日本に不利な
日米修好通商条約
(
にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく
)
締結
(
てい けつ
)
から攘夷思想が
熟成
(
じゅく せい
)
し、あわせて将軍
継承
(
けい しょう
)
問題による幕府内勢力争いによる政治不信、それらに対して
安政
(
あん せい
)
の
大獄
(
たい ごく
)
と呼ばれる反政府思想を持つ者達が恐怖政治の犠牲となった
挙句
(
あげ く
)
に大老が殺害され、こののち収拾のつかない事態へと発展していく。その象徴として、安政の大獄により年号が安政から
万延
(
まん えん
)
に、国内の混乱による危機感からわずか一年にも満たない間で万延から文久にと改元された。要右衛門はその
不穏
(
ふ おん
)
な世の中のことを言っている。しかしあまり
真顔
(
ま がお
)
で言うので、良山はさもおかしそうに声を挙げて笑った。
「たかだか一万石の弱小大名の、しかも何の影響力もない堀家の
五男坊
(
ご なん ぼう
)
を襲うもの好きな攘夷論者などおるものか。もしそんな奴がいたら会ってみたいものだ。わし一人死んだところで天下が動くわけでもあるまい。せいぜい
瓦版
(
かわら ばん
)
のネタにされてイイ人だったねぇ≠ニ同情されて
終
(
しま
)
いじゃ」
「またそんな
御冗談
(
ご じょう だん
)
を! 攘夷の連中だけではありませんぞ。いまやメリケン国をはじめ我が国は列強諸国に囲まれているのです。もし彼らが攻めて来たらどうなさるおつもりですか?」
「要右衛門はいつから攘夷派になったのだ? そうなったら君はその自慢の剣術で戦うつもりかい? 向こうは片手で握れるピストールとかいう
火縄銃
(
ひ なわ じゅう
)
の何倍も優れた武器を持っているそうじゃないか。飛び道具を相手に刀で戦うとは
勇敢
(
ゆう かん
)
、勇敢──その時はわしの護衛を頼むぞ」
良山は笑いながら手にした桜花を『花譜』に描かれたそれと重ねて「我ながらなかなかよく描けておる」と
呟
(
つぶや
)
いた。要右衛門は
呆
(
あき
)
れ顔で、
「それは
御隠居様
(
ご いん きょ さま
)
がまとめられた
桜図鑑
(
さくら ず かん
)
の写本ですな?」
良山の手にする書物を見て言った。御隠居とは良山の父、第十一代須坂藩主を務めた
堀直格
(
ほり なお ただ
)
のことだが、今はその長男で良山の兄にあたる
直武
(
なお たけ
)
が十二代藩主を務めているので、須坂藩江戸藩邸
下屋敷
(
しも や しき
)
で
悠々自適
(
ゆう ゆう じ てき
)
な生活を送っている。
「父上にこの本の
序文
(
じょ ぶん
)
を書くよう頼まれてのう……はてさて、どうしたものかと悩んでいたところだ」
「御隠居様の
道楽
(
どう らく
)
のお供もよろしいが、ずいぶんと
悠長
(
ゆう ちょう
)
なことですなぁ。
韓詩
(
かん し
)
の
余暇
(
よ か
)
に写本していると聞きましたが、それにしては
大層
(
たい そう
)
な手の入れようではありませんか」
要右衛門は
皮肉
(
ひ にく
)
の苦笑いを浮かべた。
「お前はこの桜を見てどう思う?」
「そうですなあ? 花見をしながら酒でも飲みたいものです」
「それだけか?」
要右衛門は「はぁ」と言ったまま黙り込んだ。
「お前は何年直心影流の修行をしておる?」
「剣術の方は物心ついた頃には剣を握っておりましたので、かれこれ三十年近く──」
良山は「三十年修行してその程度か」と言いたそうに、
「その刀を抜いて見せてみよ」
と言った。要右衛門は言われるまま刀を
鞘
(
さや
)
から引き抜いた。
「その日本刀を見てどう思う?」
「はぁ」と要右衛門はまた
呟
(
つぶや
)
いて、刃渡りをじっと見つめ
暫
(
しばら
)
く考えてから、
「少し手入れが
滞
(
とどこお
)
っていたかと──」
良山はまた声を挙げて笑った。それにしてもよく笑う人である。
事
(
こと
)
も
無
(
な
)
げな質問をしておいて
煙
(
けむ
)
に巻いたかと思えば、自らは高みから全てを見通しているかのふうにおろおろする様子を楽しんでいるようでもあり、剣術一本で成長してきた単純な要右衛門などはいつもよい標的なのだ。その意見が良山の意にそぐわないことを察した彼は、
「刀は人を
斬
(
き
)
るための武器ですが、
拙者
(
せっ しゃ
)
はできれば人を斬りたくはありません」
と言い改めた。
「それだけか?」
良山はまた笑う。
「なにが
可笑
(
お か
)
しいのでございます? 拙者には若様の笑いのツボがいまだに理解できません」
「すまんすまん、答えが普通過ぎて
面白
(
おも しろ
)
い。わしはこの桜や日本刀を見ると、奥に潜んでいる日本人の
性
(
さが
)
≠ニいうものを感じる──世の中は開国≠カゃ攘夷≠カゃ、あるいは
尊王
(
そん のう
)
≠カゃと騒いでいるが、結局どこまでいっても日本人≠ゥらは離れられん。その本性とは何か──列強諸国を相手にするといっても、日本人が日本人たる心を失った時、日本はそれらの国の
属国
(
ぞっ こく
)
となってしまうのであろうなと思ってしまう」
「なんだか難しくてよく解りません。それより剣術の
稽古
(
けい こ
)
に参りましょう、
遅刻
(
ち こく
)
ですぞ」
「そうだ!」
と良山は突然手を
叩
(
たた
)
いた。
「なんでございます?」
「
叒
(
じゃく
)
≠カゃ! この系譜図の題号は
叒譜
(
じゃく ふ
)
≠ェ良い!」
「ジャ、ジャク……?ジャク≠ニは何でございます?」
「
解
(
わか
)
る者に解ればよい──」
ひとしきりの風に散る桜花の中、要右衛門は呆れた表情で良山を見つめた。
直心影流
(
じき しん かげ りゅう
)
の島田派剣術道場は
浅草
(
あさ くさ
)
新堀にある。須坂藩邸下屋敷の在する
深川本所亀戸
(
ふか がわ ほん しょ かめ いど
)
からは
隅田川
(
すみ だ がわ
)
に架かる
吾妻橋
(
あが つま ばし
)
を渡って歩いて半時もかからないほどの距離で、もともとは
男谷精一郎
(
おとこ だに せい いち ろう
)
の高弟、幕末の三剣士にも数えられる
島田虎之助
(
しま だ とら の すけ
)
により開かれた道場だが、三十九歳の若さで
没
(
ぼっ
)
してからは兄の島田小太郎が
師範
(
し はん
)
を務めていた。
いつもなら
木剣
(
ぼっ けん
)
と木剣とが激しくぶつかり合う音と
甲高
(
かん だか
)
い掛け声が絶え間なく路地にまで響いてくるのに、この日はなぜか道場敷地内はシンと静まり返り、そのかわりに時々大きな笑い声が聞こえた。稽古の時間に遅れた良山と要右衛門は、顔を見合わせそろそろと道場内へ入っていくと、門人たちに囲まれて、何やら楽しそうに異国の
見聞
(
けん ぶん
)
を講義する三十代半ばのやせ型の男の姿があった。
「むこうの
女子
(
おな ご
)
はレデーっちゅってな、スカートっちゅうひらひらの
衣
(
ころも
)
を腰に巻いておるんじゃ。そりゃお前さん風が吹けば
ふわぁっ
てなもんで、こっちの方が恥ずかしくなっちまうぜ」
「で、
勝
(
かつ
)
先生はその中身を見たんですかい?」
「それが見えそうで見えないのが不思議だね。おいらなんか腰をこうして曲げて
覗
(
のぞ
)
き込もうとしたんだけどさ、それでも見えない。
挙句
(
あげ く
)
に案内の役人が『お金でも落ちてますか?』だとさ。言い訳するにも言葉が通じねえから困ったもんだ。そういう時は
桶
(
おけ
)
(OK)=A『桶、桶、桶』と
繰
(
く
)
り返し言えばなんとかなるよ」
道場内は笑いに包まれた。
「英語なんて案外簡単なものさ。時間を聞く時は
掘
(
ほ
)
った
芋
(
いも
)
(What time)=Aいくらかと値段を聞く時はブリでもカンパチでもなくハマチ(How much)≠カゃ。あと、そこに座って下さいというのは知らんぷり(Sit down please)≠チてえばたいてい話しが通じる」
道場内は再び大爆笑。良山と要右衛門は道場の後方に座って近くの門人に「誰ですか?」と尋ねれば、「昨年、
咸臨丸
(
かん りん まる
)
でメリケンに渡った
勝海舟
(
かつ かい しゅう
)
先生だ」と教えられた。勝海舟も直心影流島田虎之助の門弟であり、そもそも直心影流の男谷精一郎とは義理の
従兄弟
(
い と こ
)
関係になる。たまたま
挨拶
(
あい さつ
)
がてら道場に顔を見せたところ「ぜひメリケン国の話を聞かせてほしい」ということになり、今日の稽古は海外見聞講演会になってしまったらしい。
「あれが勝海舟か……」
良山はまじまじとひと回りほど年上のその
屈託
(
くっ たく
)
ない顔を見つめた。
日米修好通商条約の
批准書
(
ひ じゅん しょ
)
交換のため、幕府の米国使節団を乗せたポーハタン号が
浦賀
(
うら が
)
からワシントンへ向かったのが昨年一月のことだった。その護衛として一緒に出航したのが勝海舟や
福沢諭吉
(
ふく ざわ ゆ きち
)
らを乗せた咸臨丸で、一行は日本軍艦としては初めて太平洋を横断し、サンフランシスコで使節団の到着を見届けた後、ホノルル経由で一足先に浦賀に戻った。使節団が帰国したのは同年九月のことだが、いよいよ世界を相手に動き出した日本の動向に、良山は
矢
(
や
)
も
楯
(
たて
)
もたまらず兄の藩主直武にオランダ式の軍備を取り入れ整えるべきとした『
警備策
(
けい び さく
)
』と題する進言をしたのはそれから間もなくのことだった。あのときは
又聞
(
また ぎ
)
きの海外事情に危機感を
募
(
つの
)
らせ、
蘭学
(
らん がく
)
に基づいたオランダ式を藩に取り入れようとしたが、その内容は今から思えば
焦
(
あせ
)
りばかりが先走る
稚拙
(
ち せつ
)
な内容で、とても西洋に対する恐怖心はぬぐえなかった。ところが、
孫子
(
そん し
)
の
兵法
(
へい ほう
)
を改めて読み返したとき、西洋人も同じ人間ではないかと気付く。
知彼知己者百戦不殆。不知彼而知己一勝一負。不知彼不知己毎戦必殆。
(
彼
(
か
)
れを知りて
己
(
おのれ
)
を知れば百戦して
殆
(
あや
)
うからず。彼れを知らずして己を知れば一勝一負す。彼れを知らず己を知らざれば戦う
毎
(
ごと
)
に必ず
殆
(
あやう
)
し。)
「何を恐れる。西洋の文明とやらを知って己を知れば恐れるに足りん──」
そう思い極めると気持ちが軽やかになり、勝の話はそんな良山の
身体
(
からだ
)
にしみ込むように入って来た。その内容を要約すれば、彼がアメリカで
驚愕
(
きょう がく
)
の視線を向けて来たものは、科学技術よりむしろ社会制度の方だった。民主主義や資本主義や自由主義はそれまでの日本にはない
概念
(
がい ねん
)
で、それをもって「徳川幕府は百年遅れている」と平然と言い放つ。
無論
(
む ろん
)
彼自身は直心影流
免許皆伝
(
めん きょ かい でん
)
の腕前であるし
禅
(
ぜん
)
にも
傾倒
(
けい とう
)
していた時期もある。ある意味日本の精神風土を知った上での発言であるから「そんなものか」と聞き流すこともできたが、日本の何千年にもわたる長い歴史を
踏
(
ふ
)
まえてそれらの概念が
培
(
つちか
)
われなかった事実を考えたとき、それらは日本人には不向きな思想なのではないかとも思えた。
一連の講演を終えて「何か聞きたいことはあるかな?」と勝が言ったので、良山はすくっと立ち上がった。
「まっこと
面白
(
おも しろ
)
い講義でありました」
勝はその
愛嬌
(
あい きょう
)
のある表情を見つめて「君は?」と問うた。
「私、
信州
(
しん しゅう
)
は
須坂藩
(
す ざか はん
)
の
堀家
(
ほり け
)
の五男坊で
良山
(
りょう ざん
)
と申します」
「ほう、信州か。
屁理屈
(
へ り くつ
)
並べの得意な土地柄だな。わしの妹は松代藩の
佐久間象山
(
さ く ま しょう ざん
)
先生のところに
嫁
(
とつ
)
いでおる。もっとも
吉田松陰
(
よし だ しょう いん
)
君の
密航未遂
(
みっ こう み すい
)
の
片棒
(
かた ぼう
)
を担いで今は
蟄居中
(
ちっ きょ ちゅう
)
だが、あの先生も非常に
偏屈
(
へん くつ
)
な変わり者だ。そこに好んで嫁いだ妹はもっと変わり者と言わねばならん。で、何が聞きたい?」
「メリケン国は、もとを正せばエゲレス国からの移住民によって建国されてまだ一〇〇年にも満たない新しい国と聞きました。原住民たちの生活はどうなのか気になります。確かに民主主義、自由主義と言えば聞こえはいいが、まだ
実証
(
じっ しょう
)
されたと判断するには早すぎると思います。それをそのまま日本に当てはめてよいものかと?」
「君は
国学者
(
こく がく しゃ
)
かね?」
「いえ、
漢学
(
かん がく
)
を学んでおります」
「誰に
師事
(
し じ
)
しているか?」
「
亀田鴬谷
(
かめ だ おう こく
)
先生です」
「ああ思い出した。
和魂漢才
(
わ こん かん さい
)
≠フ
折衷学派
(
せっ ちゅう がく は
)
だね。要するに君は東洋思想を学んでいるわけだ。おそらくこのまま
おいら
と話を続けても、とどのつまりは西洋と東洋の
根本的相違
(
こん ぽん てき そう い
)
に行きついて平行線をたどるばかりだ。しかし一つだけ言っておこう、二十年前、その漢学の
本家本元
(
ほん け ほん もと
)
、あの
眠
(
ねむ
)
れる
獅子
(
し し
)
と恐れられた
清国
(
しん こく
)
が、アヘン戦争であっけなくエゲレスに負けていまや植民地同然だ。日本は今、その西洋の強大な
脅威
(
きょう い
)
にさらされていることだけは紛れもない事実だ。君はどうする?」
良山は勝の
洞察力
(
どう さつ りょく
)
に驚きながら、やがて、
「すべき事に力を尽くして、あとは
天命
(
てん めい
)
に任せます」
勝はにこっと微笑むと、
「そこは僕と一緒だ。
堀良山
(
ほり りょう ざん
)
君、君の名は覚えておくよ」
そう言い、「他に聞きたいことは?」と
聴衆
(
ちょう しゅう
)
に続けて、良山の質疑はそこで終わってしまった。
道場からの帰り道、良山は要右衛門にぽつんと呟いた。
「
私塾
(
し じゅく
)
でも開いてみようかな?」
要右衛門は「いま何とおっしゃいました?」と目を丸くして立ち止まった。さっそく勝海舟に感化されて、時代の変化に対応し得る人材を
輩出
(
はい しゅつ
)
しようと考えたことはすぐに知れたが、道場に行く前、桜を眺めてしきりに感心していた男の発言にしては
唐突
(
とう とつ
)
すぎる。しかし、当時の江戸では武士といっても
家督
(
か とく
)
を継げるのは長男だけで、次男以下は
部屋住
(
へ や ず
)
み≠ニか
冷
(
ひ
)
や
飯喰
(
めし ぐ
)
い≠ネどと
揶揄
(
や ゆ
)
され、どこか子のない家へ養子に行ける幸運でもない限り、何もしなければ仕事もなく、結婚もできないというのが普通である。現に堀家も長男の直武が家督を継いだため、(次男として生まれた
繁若
(
しげ わか
)
は
早逝
(
そう せい
)
)三男
直尚
(
なお ひさ
)
は
旗本
(
はた もと
)
水野石見守貞勝
(
みず の いわ みの かみ さだ かつ
)
の養子となり、四男
直正
(
なお まさ
)
は分地され堀譲三郎という男の養子となっており、五男坊として生まれた良山は、剣術や学問に明け暮れる日々を送っているのだ。大名とはいえ部屋住みの者は、剣術道場の師範になるか寺小屋の先生などして
食
(
く
)
い
扶持
(
ぶ ち
)
を
稼
(
かせ
)
ぐか、あるいは農業にいそしむか、さもなければ全てを
諦観
(
てい かん
)
して
遊蕩
(
ゆう とう
)
、
道楽
(
どう らく
)
の道に進むしかない現実があった。要右衛門にしてみればその気持ちも分からないでない。
「私塾を開いて何を教えるというのですか?」
「
折衷学
(
せっ ちゅう がく
)
じゃ。
鴬谷
(
おう こく
)
先生はわしに
和魂漢才
(
わ こん かん さい
)
≠フ学問を教えてくれた。しかし今の世の中を見るに、西洋の技術や文明が
怒涛
(
ど とう
)
のごとく流れ込んでいて漢才≠セけでは心もとない。ならばわしは
和魂洋才
(
わ こん よう さい
)
≠ニいう新しい学派を打ち立てたいと思うが」
勝は和魂漢才を一言で東洋思想という言葉でひとくくりにしてしまった。ならば和魂洋才とは、東洋の粋が結晶した極東日本の精神と西洋の学識を折衷した地球思想≠ニ言えまいか──直虎の心に無尽蔵の歓びがむくむくと込み上げる。
「西洋の思想、学問を取り入れた日本人学? なるほど和魂洋才≠ニは考えましたな。ならばわざわざ私塾など開かなくとも須坂に
立成館
(
りっ せい かん
)
というれっきとした
藩校
(
はん こう
)
があるではございませんか。そこで
教鞭
(
きょう べん
)
を
執
(
と
)
られるが良い」
「ダメじゃダメじゃ。
北村方義
(
きた むら ほう ぎ
)
君が江戸にまで
遊学
(
ゆう がく
)
して、せっかく漢学を身に就けて帰っていったというのに、立成館はいま
心学
(
しん がく
)
に
呑
(
の
)
まれてしまっているそうな」
北村方義は良山より二つ年上の
儒学者
(
じゅ がく しゃ
)
で、つい最近まで江戸におり、良山にとっては亀田鴬谷のもとで
競
(
きそ
)
って学んだ学問の
佳
(
よ
)
きライバルであり先輩である。その才能は、
『作る詩の
清新端麗
(
せい しん たん れい
)
なる
対句
(
つい く
)
は
韓愈
(
かん ゆ
)
の
域
(
いき
)
に達し、
講
(
こう
)
ずる
経書
(
きょう しょ
)
の
千古不変
(
せん こ ふ へん
)
の
大儀
(
たい ぎ
)
は
鄭玄
(
てい げん
)
に等しい』
と良山自身が彼に与えた『
餞別
(
せん べつ
)
の詩』の中でそう言わしめるほどで、深い尊敬の念を抱かずにおれない。
「心学に?」
要右衛門は意外なことのように
呟
(
つぶや
)
いた。
心学は藩校立成館の前身となる教倫舎で訓導されていたものである。一八二九年(文政十二年)、直格の代に亀田塾の門人菊池行蔵を儒官として招いて立成館と改称してより、須坂藩の教育は儒学が中心となったが、教倫舎の心学者たちが依然根強く残っているのだ。
「このあいだの手紙で
嘆
(
なげ
)
いていたわい。優秀な人材なのに埋もれたままだ……」
「それで私塾開設というわけですか──といっても良山様は漢学においては学者級ですが、洋学を勉強する姿など見たことがありません。いまさら蘭学を学ぶおつもりですか」
「今の
蘭学
(
らん がく
)
は日本人の
解釈
(
かい しゃく
)
が深く入り込んでしまっている。現実問題、現在日本を取り巻いているのはオランダではなくメリケン、エゲレス、ロシア、フランセ……その内、今後力を伸ばしてきそうなのはメリケン国だが、その民族のもとを正せばエゲレスじゃ。ペルリの黒船の煙を
吐
(
は
)
く
動力源
(
どう りょく げん
)
もエゲレスが発明したらしい。世界の産業技術の中心はエゲレスに違いない」
「エゲレスねぇ?」
「誰か
英学
(
えい がく
)
を教えてくれる者はおらぬかの?」
悩んだ表情を浮かべつつ良山の顔は明るい。
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