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城郭拾集物語G 長野飯山城
飯山城址
飯山城門
正受庵 李雪の墓



 『飯山城は上杉謙信の築城である。(岩井備中守信能公之碑より)』

 小高い丘の上にあるこの城は、もともと常盤牧(ときわのまき)の泉氏の居城だったが、あの川中島の合戦の際は上杉謙信の属城として、当初、信濃出陣のための重要拠点としての機能を果たした。しかし越後と信濃を阻む冬の豪雪期を狙った武田信玄の侵攻(第三次合戦)以降の永禄七年(一五六四)ごろからは、謙信自らの創意による縄張(なわ ば)りで春日山(かすがやま)防衛の(とりで)としての機能を備え、さらには上杉景勝(かげ かつ)の修築も加わって、飯山城は二重(やぐら)を天守に見立てたいわゆる本格的な戦国城郭としての完成を見た。
 東を流れる日本一長い千曲川、西は関田(せき だ)斑尾(まだらお)などの山地が囲み、なるほど越後と信濃を結ぶ軍事的交通の要衝地であることは間違いない。
 独立丘陵を削りならして構築されたこの平山城は、梯郭(てい かく)式に本丸、二ノ丸、三ノ丸が南北に連なり、その西側は帯郭(おびぐるわ)西郭(にしのくるわ)外郭(そとぐるわ)に区画され、四周は一重の濠をめぐらす。本丸の南面は特に防備が固く、その濠は広く、かつ土塁は高く急傾斜で、東北西の三方向には直立に切り立った石垣が築かれている。そして本丸と二ノ丸と三ノ丸には城主の居館や政庁や城櫓があり、西郭は重臣たちの屋敷が置かれ、濠外(ほりそと)は家中屋敷や公共施設、その外側は現在も寺の町≠ニして知られる城下町が発達してきた。
 筆者がこの城に寄ったのは秋も終ろうとする十一月。本丸あたりに立った時だろうか、辺りに漂うどこかで()いだことのある異様な薫りに、懐かしくも温かくもある気分に包まれた。すでにほとんどの木は葉を散らした後だったので、その匂いの正体が何であるかなど全く分らなかったが、それがイチョウに実る銀杏(ぎんなん)の香りだったことは後で知る。飯山市には樹齢およそ五〇〇年とも言われる『神戸(ごう ど)の大イチョウ』という長野県の天然記念物に指定されている大木があるが、その気根は乳房のように垂れ下がって見えることから、地元では、母親がお乳の出を祈願する風習が残っているそうだ。ひょっとしたら飯山城のイチョウも、そんな母の密かな願いを込めて植樹されたのかも知れない。

 謙信の築城より四百五十余年──。
 慶長三年(一五九八)に上杉氏が会津へ移封された後は、関氏、皆川氏、堀氏、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏、本多氏とめまぐるしく城主を替えてきたが、川中島の合戦をはじめとして幕末期には戊辰戦争(うち飯山戦争)等の大事件にも巻き込まれてきた。
 今回扱う話は戦国でも幕末でもない、時を尋ねれば戦国が終って江戸の初期、城主で言ったら佐久間氏から桜井松平氏へと移った頃が舞台。そこに生き抜いた二人の女性の物語だ。
 とはいえ、話は戦国の頃より始めなければなるまい──。



 天正十五年(一五八七)三月、真田昌幸と徳川家康の会見により、昌幸の長男信幸(のぶゆき)と家康の家臣本多忠勝の娘小松姫(こまつひめ)との婚姻が成立した。
 信幸は四男二女をもうけたが、小松姫との間に生まれたのはそのうちの二男二女で、長男信吉(のぶ よし)は伯父真田信綱(のぶ つな)の娘清音院殿(せい いん いん でん)との子であり、四男もまた別の側室との子であるとされている。
 文禄二年(一五九四)、小松姫との間に生まれた次女は名を(まさ)≠ニ名付けられ、それはそれは信幸の可愛いがりようといったら大層なものだった。目に入れても痛くないとはこのことで、(やかた)にいる時などは片時も離さず膝の上に置き、真田氏が歩むお家大事の事情を空言(そらごと)のように話して聞かせた。
 ちなみにこの(まさ)≠ニいうのは父昌幸≠フ一字を取ったものだが、時は関ケ原直後、東軍に付いた信幸の置かれた立場というのが微妙だった。西軍に付いた父昌幸と弟幸村は、そうでなくとも上田合戦で、一度ならずも二度までも徳川の大軍を相手に打ち負かしていたから、信幸は徳川配下の中でも非常に肩身が狭かったのである。それでも父と弟の助命嘆願をするのだが、結縁の決別を表すためには父から授かった信()≠ゥら信()≠ノ名を改めなければならなかった。
 義父本多忠勝の働きかけもあり、昌幸と幸村は辛くも斬首を免れ紀州九度山(くどやま)へ流罪されるが、昌幸が亡くなった際(慶長十六年)はその葬儀さえ執り行うことが許されなかった。上田城は取り壊され、信幸は上田領を引き継いだものの三の丸跡地に粗末な居館を構えて住むより仕方ない。そんな背景から次女(まさ)於千世(お ち せ)≠ニ名を改めたとも考えられるが、この小説では信幸∞昌≠ニ表記していこうと思う。

 大坂の陣で豊臣家が滅亡して間もなく、二十歳の(まさ)に縁談が持ちあがった。
 相手は佐久間勝宗(さ く ま かつ むね)という男で、大坂夏の陣では徳川方として参戦し、家康本陣一番手左の備えとして父安政(やす まさ)やその弟勝之(かつ ゆき)とともに天王寺表で戦功を挙げたこのとき二十七歳の美青年、佐久間家継嗣(けい し)である。
 もともと父佐久間安政は織田信長や柴田勝家の家臣だったが、戦国勢力の変遷の荒波の中で、紀州保田氏、北条氏、蒲生(がもう)氏と主君を転々と替えていたが、秀吉直臣となってからは信濃槇島城(まきしまじょう)を賜り、その死後は徳川家康の傘下に入り関ヶ原で戦功を挙げて近江高嶋を加増され、更に常陸(ひたち)小田を加増されたときは合計二万石の諸侯に列する大名だった。紆余曲折の辛酸を舐めてきた意味では真田氏ともよく似ている。
 昌が嫁ぐ日、信幸は彼女の目をじっと見つめて不思議な事を言った。
 「真田の血と佐久間の血が交われば、日ノ本を一変させる英傑(えいけつ)が生まれるやも知れぬ……。どんなに辛いことがあっても絶え忍ぶのだよ」
 その言葉の意味など知る由もなかったが、昌は心の奥にしまい込んで、父の顔を見つめ返し涙を落した。
 そして元和元年(一六一五)秋、昌は勝宗のいる近江高嶋へと嫁ぐ──。
 その祝言の際、昌の花嫁姿に瞠目(どうもく)する一人の童女があった。年の頃なら三、四歳。そのつぶらな瞳は、まるで昌を京の都の公家のお姫様でも見るような驚きようをして、何も言わずにじっと彼女を見つめるのだった。
 「どうした? 私の顔に何かついておるか?」
 すると童女は顔を真っ赤に染めて、やがてはにかんで逃げていくかと思えば、依然その場に立ち尽くしたまま昌を見つめることをやめない。
 「李雪(り せつ)さま、そんなにじっと見つめては花嫁さんもさぞお恥ずかしいでしょうから、仕度が済むまで姉様たちと遊んでらっしゃい」
 花嫁衣装の準備を手伝う侍女の一人がそう言ったが、李雪≠ニ呼ばれた童女は姿を消すどころかそろりそろりとだんだん近くに寄って来て、やがて、
 「キレイじゃ……」
 と呟き、すっかり昌になついてしまった。こうして花嫁の周囲で(じゃ)れているうちに、嫁入り道具の鼈甲(べっ こう)(かんざし)を踏みつけて割ってしまった。蒼白になった李雪に昌は優しくこう言った。
 「おお、ものの見事きれいに割れたな。片方は其方にあげよう。形見分(かた み わ)けじゃ」
 以来その鼈甲(べっ こう)(かんざし)は二人の(きずな)の証しとなって、たまに見せ合って元の形に戻しては笑うのである。
 この童女は当主安政の十三才はなれた弟勝之の末娘である。だから昌から見て義理の従妹(じゅう まい)に当たる。夫勝宗とは二十一才年上の勝之は今年四十七歳の壮年で、彼には三人の男子に加えて十人もの娘がいた。つまり行く末も安泰と思われた佐久間の家は、安政、勝之、勝宗の絆によって戦国乱世を勝ち越え生き抜いてきたというわけだった。祖父昌幸が流罪地で死に、先の大坂の陣では叔父幸村を失った昌にとっては、一父二子で戦国を乗り越えようとした真田の家ともどことなし重なって、妙な親近感を覚えたものである。
 「私は佐久間の家の女となり、この家の繁栄を築いてみせる──」
 昌の心には密かな決意がみなぎった。
 そしてもう一人、安政(やす まさ)には李雪と同じ年に生まれた安長(やすなが)という息子がいる。つまり勝宗とは二十二歳はなれた弟であるが、李雪と兄妹同然に育つ彼に対しても、昌は「守らなければ」という母性にも似た感情が芽生えるのであった。
 館の近くには「これが海か」と思うほどの琵琶湖(びわこ)が広がっていた。
 山育ちの昌にとってはそれが何より珍しく、李雪と安長を伴なっては波打ち際を歩いて遊んだ。そして湖に反射する太陽の光を見つめては、遠く離れた信州上田の父信幸の顔を思い出す。
 「昌さま……また、とと様のことを考えているの……?」
 新天地で誰一人身寄りのない昌にとって、李雪は唯一の年の離れた親友だった。どこへ行くにも何をするにもいつも一緒で、その仲の良さに呆れた佐久間家の者達は「きっと前世は姉妹か母娘だったに違いない」と言い合った。特に李雪の父勝之などは、
 「そんなにお昌さんが好きなら侍女(じ じょ)になってしまえ! 娘十人のうちの一人くらい勝宗にくれてやるわい!」
 と、本気とも冗談ともとれる言葉を口癖のように言って笑っていたから、いつしか本人たちもその気になって、二人の間には主従とも友だちとも言えない不思議な関係が成立していた。

 (まさ)が嫁いで初めての年の暮れを迎えようとしていたある日のことである。
 「昌っ、喜べ! 領地替えじゃ!」
 と、息せき切って勝宗(かつむね)がそう伝えた。
 「りょ、領地替えでございますか?」
 「大坂の陣での功績が認められた! 一万石の加増で佐久間家は三万石じゃ!」
 大坂の陣では信幸の弟である幸村が戦死している。昌にはやや複雑な心境もあるが、
 「で、どちらへ?」
 「信濃の飯山(いいやま)じゃ! 叔父上(おじうえ)(勝之)も信濃の長沼城(ながぬまじょう)を賜り一万八、〇〇〇石の(あるじ)となった! さっそく移封の準備をせにゃならんぞ!」
 勝宗はまるで天下でも取ったような喜びようで昌の手を握りしめたのだった。
 ところが──
 年が明けて飯山移封を直前に控えた三月四日、勝宗は突然この世を去る。享年二十八歳──。まさに絵に画いたような幸せを目前にして、昌は奈落(な らく)の底に突き落とされたのである。
 涙に暮れる昌に佐久間家の者たちはこう言った。
 「夫を亡くした今となっては、そなたはもうこの家にいる意味もない。佐久間家のことは気にせず、上田へ帰ってもいいのだぞ──」
 それは正論に違いなかった。もし李雪の涙ながらに訴えた次の言葉がなかったら、あるいはそうしていたかも知れない。
 「昌さま……とと様のところへ行っちゃうの?」
 昌は李雪の小さな身体を抱きしめて、鼈甲(べっこう)(かんざし)を懐から取り出した。
 「行きはせぬ。私は佐久間家の人間じゃ。ずっと李雪と一緒だよ……」
 こうして昌は佐久間安政に随行して近江高嶋を離れる。
 信濃は飯山へ向かう一行を、琵琶湖に映る朝日が見送っていた。



 元和(げんな)二年(一六一六)は当主佐久間安政(さ く ま やす まさ)が飯山城に入った年である。そして四月、豊臣家を完全に滅亡させ元和偃武(げん な えん ぶ)を打ち立てた徳川家康が死去した年でもある。
 飯山城から富倉峠(とみくらとうげ)を隔てた越後に高田城(たかだじょう)があり、松平忠輝(まつだいらただてる)はその城の城主である。
 彼は家康の六男だが庶子(しょ し)で、その生母の身分が低かったことや、その生まれた時の容貌が(みにく)かったこと、またその性格が剛毅(ごう き)だったためか、家康は彼の存在を生涯好まなかった。その妻は伊達政宗の長女五郎八姫(いろはひめ)であるが、大坂冬の陣では江戸の留守居を命じられ出陣することはなく、夏の陣でも出陣はしたものの戦に遅れた上に義父政宗の指示にも従わず軍功を挙げることはなかった。その背景には妻五郎八姫がキリシタンで、大坂にはキリシタンが多くいたためだとも言われる。さらに、大坂の陣の戦勝を朝廷に奏上する家康が共に参内(さんだい)するよう命じたにも関わらず、忠輝は病気と称して行かなかったばかりか、そのとき川で舟遊びをしていたというから家康の気持ちも分からないでない。家康は以後自分との面会を禁じ、今際(いま わ)(きわ)にも寄せ付けることはなかった。
 これらを理由に二代将軍となった秀忠(ひでただ)は、この年の七月六日に忠輝に改易(かいえき)を命じて伊勢へ流罪することを決定した。
 その領地没収のため越後高田へ向かったのが真田信幸(さなだのぶゆき)と当時小諸(こもろ)城主の仙石忠政(せんごくただまさ)だった。
 道中、信幸は娘との再会を果たすため、当然のように飯山城に立ち寄った。このとき信幸五十歳、城主安政(やすまさ)は六十一歳の初対面。開口一番、信幸は長子勝宗(かつむね)死去に対する哀悼(あいとう)の意を伝えるとともに、娘(まさ)が世話になっていることに対する御礼を述べた。
 「なあに、まったくよくできた娘で、当方こそ世話になっているところじゃ」
 と言った安政の言葉には阿諛(あ ゆ)追従(つい しょう)もなく、それより移封してきたばかりの飯山の地をいかに治めていくかで頭が一杯の様子だった。
 「信濃国の事情は伊豆守(いずのかみ)(信幸)殿の方が詳しかろうて、ひとつお知恵を拝借できんだろうか?」
 と、年に似合わぬ謙虚さで、小柄な身体でお辞儀した。
 「はてさてこれは困った……。我が真田家も佐久間家も、共に戦国の世をかろうじて生き延びて来た家同志。こたび婚姻関係を結んだからには何かしらのお役に立ちたいものですが、元和偃武の世となったいま、真田の戦国生き残り術など甚だ怪しきものです。しかし、もしかしたらご参考になることもあるかもしれませんので、一つだけ教示させていただきましょう」
 安政は「ありがたい!」と言った様子で微笑んだ。
 「信濃の国はもともと細かな豪族の寄せ集めで成り立ってきた国です。ですので分裂させることは容易ですが、結束させるのは至難の技なのです。そこで重要なのが情報です。どこで誰が何を考え、何を言ったか? それさえつかめばあとはそれらの情報をうまい具合につなぐだけ。要はいかに正確な情報を吸い上げるかです」
 「ほう、どうすればよい?」
 「結論から申しますと、真田は寺社を建てました」
 「寺社を……? 寺社を建てて何とする?」
 「寺社を建てれば修験者(しゅげんじゃ)や僧侶らが盛んに往来します。彼らは全国を巡りますから北は陸奥(むつ)国から西は筑前、薩州まで、日ノ本全土の情報を集めることが可能になるのです」
 「なるほど、寺社か! さすが天下に名を(とどろ)かせた真田のすることは壮大じゃ!」
 安政は声を挙げて笑ったが、「しかし真田の家で生き残ったのは伊豆守殿だけではないか」と痛いところを突く。
 「時の流れのいたずらです……」
 信幸はそこまで言うと、これに関する事にはもう口を開かなかった。
 時の流れの悪戯(いた ずら)≠ニいう言葉の裏には、徳川家康に対する謀反(む ほん)と取られても仕方ない意味も含んでいたからである。即ち信幸の中では真田≠フ辿(たど)ってきた道のりの中でターニングポイントと言える大きな出来事が二度あった。一つは元亀(げん き)四年(一五七三)四月の武田信玄の死と、一つは今年(元和二年)四月の徳川家康の死である。前者はあまりに突然で早過ぎて、後者はあまりに漸次(ぜん じ)で遅すぎた。せめて父昌幸が生きていたあと五年早く時がめぐっていたら、片方の真田の家もきっと生き残ったに違いないと考えている。
 それを察してか、安政もただ「寺社の町か……」と呟いたきり、それ以上はもう何も聞かなかった。
 そのあと信幸は昌との再会を果たす。会って最初に、
 「勝宗は優しいまっすぐな男であったろう。惜しい人間というのはいつの世も早死にするものか?」
 と、彼女を包み込むように励ましたが、すぐに、
 「もうここにいる必要はないのだぞ。上田に戻って来い──」
 と促した。ところが昌は、隣にちょこんと座る李雪(り せつ)を抱き寄せひとつ笑んだきり、やがて静かにこう言うのだった。
 「私がちょうどこの子くらいの年でしたか、父上は私を膝に抱いてこう申したのを覚えております。女子(おな ご)は嫁いだ家の人間になるのだ≠ニ。そして母上の姿を通して、私もそうなるのだと思ったものです。夫は亡くなりましたが佐久間家がなくなったわけではありません。であるならば、私はこの家の人間として生きなければならないのだと──」
 信幸は暫く考えて、
 「そうか……」
 と言ったきり、今度は彼の方が黙ってしまった。
 「このおじちゃん、昌さまのとと様?」
 脇から李雪が口を挟んだ。
 「そうよ、私のとと様よ」
 「ふ〜ん」
 信幸は、ようやく今気付いたとばかりに李雪に目を向けた。
 「その()は?」
 「義父(ち ち)の弟君の末娘です」
 「安政殿の弟と申せば勝之(かつゆき)殿か。長沼城を(たまわ)ったと聞いたが、帰りに挨拶に寄らねばならんなあ。しかして、どうしてその娘がここにおる?」
 「すっかり私になついてしまいまして、父母の近くより私の方が良いと申します。それで私の侍女という建て前でこうして近くに置いているのでございます。実は私にしてみればそれも名目で、本当はたった一人の親友なのですよ」
 「昌さま付きの侍女じゃ」
 と李雪はお道化(どけ)てみせた。
 「おお、賢い()じゃ。どうれ、こっちに来てみよ」
 李雪は遠慮する様子もなく、つつつと信幸の方へ寄って行くと、その膝の上にちょこんと座った。
 「なぜそんなに昌のことが好きなのか?」
 「だって、キレイなんだもん。私も昌さまみたいになりたいの!」
 「そうかそうか、昌は小松姫によう似ておるからなあ」
 「小松姫……?」
 「そうだよ、おじちゃんの奥様じゃ」
 「ナ〜んだ……」
 「ナーんだとはなんだ!」と言って、信幸が李雪の身体をくすぐったものだから、李雪は「キャッキャ、キャッキャ」と大騒ぎ。やがて信幸の手を逃れて昌の背中の後に逃げ込んだ。
 「佳き友もできたようなので少しは安心したわい。でも、本当にいつでも戻ってきてよいのだぞ。わしにとっては佐久間の家より真田のお家の方が大事なのだから。どんな辛酸を舐めさせられようと、どんな屈辱を浴びせられようと、わしは真田の家を守り通さねばならぬのだから。それが父昌幸から託された遺言なのだからね……」
 そうなのである。
 世に言う犬伏(いぬぶし)の別れ≠ヘ関ヶ原の前、会津征伐を発した家康に従った昌幸、信幸、幸村の真田親子三人の逸話である。
 下野(しもつけ)の宇都宮城を目指す三人が犬伏に着いたとき、大坂からの密使が石田三成からの書状を届け『大谷吉継(おおたによしつぐ)らと、家康を討つため兵を挙げた』と伝えた。ここに三成の西軍につくか、はたまた家康の東軍につくかの、真田家にとって命運を分ける決断の時を迎えたのである。
 長男信幸の正室は本多忠勝の娘(徳川家康の養女)、対して次男幸村の正室は大谷吉継の娘である。加えて昌幸の妻と三成の妻が姉妹とあってはその選択はすでに決っていたと言ってよい。昌幸は理屈では簡単な心情的には難しい真田家生き残りの道を決断するしかなかった。
 「わしと幸村は三成に付くしかあるまいし、信幸は家康に付くしかあるまい。しかしこたびの決戦でどちらかが滅びるだろう。であるならば、生き残ったどちらかが真田の血を守り抜くしかあるまいて。信幸(のぶゆき)、お前にそれができるか?」
 それは結果的に昌幸の信幸に対する遺言となった。こうして信幸は父昌幸と(たもと)を分けたのだ。
 昌幸と幸村は会津征伐を中止して、信幸を残し上田に引き返す。その途中、事の仔細を小松姫に伝え、今生の別れに孫の顔をひと目みようと、城主不在の沼田城に立ち寄った。
 ところが小松姫は昌幸と会おうとはせず、侍女を遣わし城下の旅宿で丁重にもてなした。その一方で、城中の家臣に命じて、弓や鉄砲を城の狭間(さ ま)に配備させたのだ。
 暫くして、小松姫の使者が昌幸に次の言葉を伝えた。
 『かような夜中に、会津に向かった父君が上田にとって返すとは不審を抱いても仕方のないことと存じます。この城は徳川様の城にて、私は主人不在の間を預かっているものなれば、例え御父子の間柄とはいえ、(にわ)かに城中に入れることはできません。お引き取りを──』
 「孫にも会わせぬ気か!」
 激怒した昌幸は幸村を連れて、単身沼田城に乗り込んだ。
 間もなく門が開くと、そこにいたのは甲冑(かっちゅう)を身にまとい、旗を取って床几椅子(しょうぎいす)に腰掛ける小松姫の姿だった。その脇にはこれまた子供用の甲冑をつけた長女のまん(○○)と幼い(まさ)を従えて、更にはこのとき五歳の長男信吉と、二男信政はこのとき三才、生まれたばかりの信重は侍女に抱かせて、城中留守居(るすい)の家人やそのほか諸士の妻女に至るまで、ことごとく甲冑を(あらわ)し、あるいは長刀(なぎなた)を持ち、あるいは弓槍(ゆみやり)を握って居並んでいるではないか!
 小松姫が叫んだ。
 「ただいま殿は、家康様の御供にて御出陣あそばされており申す! その御留守(ごるす)を伺って、父君の名を偽り来るは曲者(くせもの)じゃ! みな打ち向かってあの者らを討ち捕えるのじゃ!」
 全身に冷や汗を流した昌幸だったが、襲う気配のない様子にやがて哄笑しながらこう言った。
 「見よ! あれが日本一の本多忠勝が娘じゃい! 武士の妻はかくあらねばならんのお!」
 昌幸は遠くの孫たちの姿を目に焼き付けて、やがて、
 「ゆこう……」
 と幸村に言った。



 信幸(のぶゆき)が飯山城に立ち寄った翌年、飯山城主佐久間安政(さ く ま やす まさ)は江戸に登って二代将軍徳川秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)に任ぜられるも、それから十年後の寛永四年(一六二七)四月二十五日、江戸において死去した。享年七十二。安政亡きあとの佐久間家は、安政の二男で亡き勝宗の弟安長(やすなが)が二代目当主となった。このとき(まさ)は三十三歳、李雪(り せつ)は十六歳になっていた。
 その間信幸は、元和八年(一六二二)十月、信濃松代に加増移封され、沼田三万石を加えて十三万石の大名へと成長した。そしてこれより先、そのうちの三万石を長男信吉(のぶよし)に、一万七〇〇〇石を二男信政(のぶまさ)に分け与えた。そしてその翌年、徳川家光が第三代将軍に就任する。
 飯山にも花菖蒲(はなしょうぶ)が咲き始める季節である。
 西郭(にしのくるわ)に建つ館の縁側で、初夏の陽ざしを浴びながら、昌は庭の池に咲くその花をぼーっと見つめていた。
 「昌さま、お殿様がお替わりになりましたね。これからどうなさるおつもりですか?」
 隣で同じようにしていた李雪が聞いた。あのときはまだ幼すぎた彼女も、今ではすっかり若かりし日の昌のように、女性の色香を感じさせる乙女に成長している。
 「どうするとは……?」
 昌は李雪の方に振り向いて、静かに言った。
 「松代のお殿様のところへお帰りになるのかな……? って」
 「李雪はどうしたい?」
 「私はここ飯山が大好き──冬は雪遊びができるし、待ち遠しい春が訪れればきれいなお花がたくさん咲くもの! 食べ物だって美味しいわ! それになにより町の人たちも皆やさしいから」
 昌は、彼女が「松代へ行きたくないのだな」とすぐに悟った。というのは、李雪には思いを寄せる一人の男がいることを密かに知っていたからである。
 城の(うまや)で馬の世話をする青年は、城下で伝馬業を営む家の一人息子で名を伝介(でんすけ)といった。年は李雪と同じくらいで元来真面目な性分なのだろう、毎日々々せっせと厩に足を運んでは、小屋を掃除し堆肥(たい ひ)を集め馬にエサを与え、馬具の整備はもちろん馬を馬場に連れ出してはメンテナンスを怠らず、暇さえあれば(たま)を磨くように馬の毛並みを手拭いで()でていたから城の馬はいつもサラブレッドのように光り輝いていた。その様子が昌と李雪のいる館の奥座敷からよく見えた。
 厩には(さる)が一匹飼われている。武家の厩では猿は馬の病気を治すと信じられていたからである。
 ある日伝介はその猿と(たわむ)れて遊んでいた。それはまるで猿回しをするような滑稽(こっけい)さで、何となしに遠くから見ていた李雪は「ぷっ」と吹き出した。
 二人の目と目が合ったとき、李雪は顔を赤らめて、思わず障子の陰に身を隠したが、以来二人の間に特別な感情が芽生えた。
 言葉にせずとも昌はそれを知っていた。そして、
 「私も飯山が好きよ……」
 と言いながら、少し寂しそうな目をするのだが、
 「昌さまがお帰りになると言うのなら、私もお供いたします」
 李雪は鼈甲(べっこう)(かんざし)を取り出して、静かにそう応えるのであった。
 「帰りはせぬ。佐久間家を盛り立てるのは私の役目だからのぉ……」
 思えば勝宗と死に別れてから十一年の歳月が通り過ぎたのだ。嫁いで夫と過ごした時間は僅かに半年ばかり、その顔を思い出そうにも輪郭すら浮かばない。家臣の中には新当主安長(やすなが)様の正室に昌様はどうかとの話も挙がったようだが、このとき安長は李雪と同じ十六歳。彼女と夫婦になるならまだしも十七も離れた姉さん女房など当の安長自身許さないだろう。それにすでに「井上正就の娘はどうか?」との縁談話も持ちあがっていて、三十路(みそじ)を過ぎた女など佐久間家にとってはもはやお払い箱のようにも思えた。案の定、それから間もなく安長は井上正就の娘を正室に迎える。
 それでも、
 「飯山はほんに良いところであるのぉ……」
 李雪を気遣っているのか己自身を慰めているのか、昌の(まなこ)はいつまでも紫の花菖蒲を見つめているのだった。

 このころより家光による参勤交代が制度化されつつある。参勤交代は家康の頃より行なわれていたが、それはあくまで各大名の自発的行為によるもので、秀忠の時代に至っても武家諸法度で従者の人数を定めたくらいで制度と呼べるものではない。しかし各地の大名の江戸行きは次第に定例化されていき、安長も例外にもれず江戸に登った。
 寛永九年(一六三二)の参勤の際は、飯山を出るとき身体の不調をうったえながらも無理して江戸へ登った甲斐あって、将軍家光の日光東照宮御成(お なり)の随行という栄誉に預かるが、突然高熱を出して倒れ込んだと思うと、顔から生じた白色の隆起物がみるみる全身に広がった。天然痘(てんねんとう)に違いない。やがて安長は呼吸困難を引き起こし、四月十二日にあっけなく急死するのである。享年二十二歳。
 飯山の佐久間家は大わらわ。まさかまだ若い安長が突然この世を去るなど思ってもない。しかし幸いだったのは、安長と井上正就の娘の間には四歳になる長子安次(やすつぐ)がいたことで、彼に家督を継がせることでこの窮地を凌ぐ。
 それを他人事のように李雪は(うまや)を眺めていた。
 そこではいつものように伝介が仕事をしていて、相変わらず二人は言葉さえ交わすことはなかったが、見つめ合う眼の間には、いつか結ばれることを疑いもしない希望という名の確信に満ちていたのである。
 そんな彼女に昌は何も言えない。
 あの日一緒に見つめた池の同じ花菖蒲を、このときは一人で見つめていた。

 運命とはかくも残酷なものか──。
 いな、その残酷さゆえに運命から逃れられる者があったとしたら、運命とはあるいは人を活かす希望とも言える。
 若干四歳にして家督を継いだ安次が、わずか九歳にしてこの世を去ったのは寛永十五年(一六三八)のことだった。病死と伝わる。
 もはや飯山佐久間家に家督を継ぐ者はなく、徳川幕府は無情にも無嗣絶家(む し だん ぜつ)を言い渡す。昌が命に替えて守ろうとした佐久間家は、もはやこの世に存在しない──。
 しかし佐久間の家が完全に滅びたわけではない。安政(やす まさ)の弟勝之(かつゆき)が初代当主となった長沼の佐久間がある。四年ほど前だったか、勝之は死去したが、その後を次男勝友(かつとも)が家督を継いだという話を耳にしていた。
 「しかし、私の使命は終った──」
 と、昌は思った。
 「昌さま、これからどうなさるおつもりですか?」
 李雪がいつか聞いた同じ質問をしたとき、昌は李雪を見つめて「佐久間の血はこの娘にも流れているではないか──」とふと心で思ってみた。しかし彼女の境遇を思うとき、その思いは誠に自分勝手で彼女を不幸にしてしまうと思いなおした。彼女には想い人があり、その男と一緒にさせてあげることが、李雪の幸せになる唯一の道ではなかろうか? と。
 「そうさなあ……。もうここに私がいる意味が完全に消えてしまいました。松代へ行こうか……。いずれこの城には、私とは縁もゆかりもない見知らぬ方が御城主として入られるだろうから……」
 「松代に参られますか……」
 李雪は飯山を離れる悲しみを断ち切るようにそう言った。
 「名残り惜しければ李雪はここに残ってよいのだぞ。いいや、残りなさい。残って伝介と一緒になれ」
 「昌さま……」
 李雪は涙を落して昌を見つめた。
 「いいえ、昌さまと一緒に参ります……」
 幼少より仕えてきた昌は、彼女にとって主人なのだ。それより鼈甲(べっこう)(かんざし)の誓いをこの純真な乙女は裏切ることはできない。それにもとは佐久間勝之の末娘、武士の娘は一介の町人の(せがれ)などとはしょせん一緒になれないことを端から承知している。
 昌四十四歳、李雪は二十七歳──二人は運命に導かれながら、やがて飯山の地を後にした。このとき佐久間家に仕えていた家臣たちもまた、昌と共に松代へ移り住み、その多くが真田信幸に仕官したという。
 その後、飯山城に入ったのは松平忠倶(ただ とも)という男である。それまで遠江(とおとうみ)掛川城(かけがわじょう)にいたが、寛永十六年(一六三九)に父の死去にともなって家督を継いで、その直後に飯山への移封を命じられた。



 昌が松代に着いたころ、真田家はちょうど沼田領をめぐってちょっとした問題でもめていた。沼田城は信幸の長男信吉が卒してから、その嫡男(ちゃくなん)熊之助が後を継いでいたのだが、いくほどなくしてこの熊之助も卒したため、信幸は二男信政を沼田城主としようとしたのだが、その際、沼田領三万石の配分をめぐって内輪喧嘩(うち わ げん か)が始まったというわけだ。
 「外部に敵がなくなると、こうして内部で争いが起こるものか? まったく戦国の世が懐かしいわい……」
 信幸はそうぼやきながらも、三万石のうち二万五〇〇〇石を信政に、残りの五〇〇〇石を熊之助の弟兵吉信利に、そしてこれまで信政が領していたところの一万七〇〇〇石をさらにその弟の隼人信重に分け与える沙汰(さた)を下して、ようやく信政を沼田城主におさめたのだった。そんなゴタゴタ騒ぎの最中に帰った昌を前に、
 「ようやく帰って来てくれたというのに、まったく見苦しいところを見せてしまったなあ……」
 信幸は頭を搔きながら久しぶりの愛娘(まな むすめ)との対面に顔をほころばせた。このとき小松姫はすでにこの世の人でない。
 信幸は昌の顔に残る小松姫の面影を見てとって、妻と出会った時の事を思い出していた──。
 あれは小松姫が家康の養女となって、その婿(むこ)選びをするときの逸話である。若い武将達が集められ、家康が小松姫にこう言った。
 「この中から好きな男を選ぶがよい」
 集められた男たちは委縮(い しゅく)してみな平伏した。元来男勝りの小松姫はスクっと立ちあがると、一人一人の男の前に立ち、その(もとどり)をグイっと(つか)んで(おもて)を上げさせ吟味(ぎん み)をしはじめた。
 「妙な顔をしておるのぉ。道化(どう け)にでもなるのか?」
 「この髭面(ひげづら)はなんじゃ? 虫が湧いてきそうじゃ」
 「(もとどり)が短くて掴めんわ!」
 「顔の(あざ)をどうした? 疱瘡(ほう そう)か?」
 男たちの顔を見ていちいち文句を垂れながら、そうして平伏する信幸に順番が回ってきた時である。髻を掴まれた信幸は手にした扇子(せん す)で小松姫の(ひたい)をピシリと打った。その音が部屋に響いた瞬間、家康はじめそこにいた者たちは全員凍りついた。
 「何をするか! 書紀に矢を(もとどり)に隠し、刀を(ふところ)に帯びる≠ニ申す。男に近づく時はそれ相応の覚悟をもって触れよ! とうてい武士の妻になる者の行為(こう い)とは思えん!」
 この気概(き がい)()れて小松姫は信幸を選んだのだった。
 その最后(さい ご)は病気療養のため江戸から草津温泉へと向かう道中。草津への湯治を決めたのは、まだ春が遠く感じられた冬のはじめ、日に日に病が悪化する妻の身体を案じて、
 「春になったら草津へ湯治に参るがよい」
 と、信幸が勧めたのである。
 江戸の真田邸の奥の間は、床の間に南天の赤い実が生けられて、小松姫の瞳から目じりを伝った清い(しずく)は、その赤を映して真っ赤に燃えているように見えた。それが信幸が見た最初で最後の妻の涙である。
 元和六年(一六二〇)春、小松姫は道中武蔵(むさし)鴻巣(こうのす)で四十八歳の生涯を閉じる。その菩提(ぼだい)は、一つは沼田の正覚寺、一つは上田の芳泉寺、そしてもう一つは彼女が生前帰依していた武蔵の勝願寺、(まさ)はその寺に墓石を建立する。
 自分の容姿を通してそんな事を考えているとも知らず、昌は、
 「父上、ただいま戻りましてございます」
 と、少し無念を残した表情で言った。
 「うむ、長い間、ご苦労であった。これよりはここ松代が其方の故郷じゃ。心ゆくまでゆるりと暮らすがよいぞ」
 「私の力が及ばなかったものか、佐久間のお家が絶えてしまいました──」
 「気にするな、お前のせいではない。長い人生、こういうこともあるさ。本来ならば佐久間の血と真田の血は交わるはずだったのに、残念じゃが仕方がない」
 信幸は彼女の心情を気遣いながらもそう言った。
 「確か私が嫁ぐ日、父上は同じ事を申しました。ずっと心にしまっておりましたが、いったいそれはどういう意味なのでございましょう?」
 「なあに、単なる(かん)じゃ」
 と信幸は笑って見せた。
 「ほうれ、わしの父昌幸も、弟の幸村も(いくさ)の天才じゃった。これは誰にも話したことはないが、わしは密かにあの才の少しでもわしに備わっていればとずっと(うらや)んでおったのじゃ。しかし今から思えば例えいくら戦の才があっても敗けて死んでしまえばお終いじゃ。ところがどうじゃ、わしはこの年七十三になってもまだ生きておる。どうやらわしは父にも弟にもない特殊な才を持って生まれてきたらしい。乱世を生き延びる人読(ひと よ)み≠フ才じゃ。佐久間の家にも、わしと同じ星を感じたのじゃ。しかしいくら人読みの才があっても、出会う人間に己を生かす縁に恵まれなければ、佐久間のように滅びてしまうのだな。まことこの世は不思議でできておる」
 現に信幸が上田から松代に移封させられたのも、当初は「左遷(さ せん)か?」と思っていたが、今となっては北陸と江戸を結ぶ重要な要所であった事を知る。それはお家の面目であり、何も言うことがないほど光栄≠ネことだった。そのほか、すでに高齢になったので何度も隠居願いを出したが、いずれも幕府はそれを認めなかった。おかげで戦国を知る数少ない大名として生き残り、やがては天下の(しょく)∞武士の(かがみ)≠ニまで称賛されるほど諸大名からの尊敬を集めるようにもなった。家康、秀忠、そして今は家光の時代だが、ついには四代将軍家綱の時代に至るまで命をつなぐことになる彼は、若干十一歳で将軍となった家綱の御伽衆(お とぎ しゅう)となり、家綱は彼の戦国話を聞くのが大好きだったと伝わる。
 信幸にしてみれば、これらは意図したことではないが、結果的に全てが真田家にとって利をもたらしているのを知るにつけ、それを人読み≠ニ表現したのである。
 信幸は先ほどから昌の後で平伏している李雪(り せつ)に目を向けた。
 「その者は誰じゃ?」
 昌は李雪を一瞥すると急に笑い出した。
 「李雪にございます。以前に一度、父上は飯山城で会っておりますよ」
 「はて……?」と信幸は首をひねったが、やがて身体をくすぐりキャッキャと暴れる童女のことを思い出し、
 「おお、あの小さな昌の侍女か! 佐久間勝之殿の末娘と申したな? 年端もゆかぬ童がずいぶん美しく成長したものじゃ。いくつになった?」
 「二十八にございます」
 その穢れのない澄んだ瞳を見て「佐久間の血はここにもあるではないか──」と、信幸は満足したように微笑んだ。
 「長沼へは戻らぬのか?」
 「姉たちは全て嫁いでおり、兄の藩主勝友(かつ とも)ともずいぶん年が離れて話し相手にもなりません。もともと幼き頃より昌さまのお供をし飯山の佐久間の家に入った者ですので、いまさら帰ろうなどとは考えておりません。私は昌さまとずっと一緒にいたいのでございます」
 「そうか、ならば仕方あるまい。これからも昌をよろしく頼むよ」
 そして「そうじゃ!」と呟いて、玉川秀政という一人の重臣を呼び寄せたこう言った。
 「その方、まえから娘が欲しいと申しておったな? そこの娘を養女にどうじゃ? 李雪とて縁もゆかりもない土地でこれから生きていくのも何かと心苦しかろう」
 そう言い残すと、やがて信幸は部屋を出た。
 これ以降、昌は見樹院(けん じゅ いん)を名乗ることになる。

 江戸初期の諸大名は、江戸の天下普請(てんかぶしん)で忙しい。
 特に家光などは、秀忠が天下泰平の象徴としてせっかく建て替えた江戸城天守閣をわずか十五年足らずで解体し、家康から数えると三度目になる別の天守に建て替えたばかり。石垣づくりやら(ほり)さらいやら地ならしなどのいわば大江戸の街づくりに関わる天下普請は、偃武(えん ぶ)が宣言されて二十年以上経った今なお続く徳川幕府の一大事業なのだ。少しでも将軍に気に入られようとする各地の諸大名たちは、競うようにして江戸に出て喜んで街づくりに参加した。
 信幸とて同じで、老体を(いと)わず暇さえ見つければ江戸に登り、その陣頭指揮を執るのである。将軍の近くに身を置いていれば、幕府から打ち出される細かな指示や要求にいち早く対応できるというわけだった。だから松代にいるより江戸の桜田真田之邸にいることの方が多い。
 ある日、そんな信幸のところに桜井松平家の家老を名乗る男がやってきた。桜井松平といえば飯山佐久間家断絶の後、飯山藩に入領した家である。
 「藩主忠倶(ただ とも)若干六歳にて仕置家老(しおきがろう)をしている」
 と言うその男は、飯山城下に寺院の多いことに疑問を持ち、その理由を領民の聞き取りから調査するうちに、前藩主の佐久間氏が寺社の守護に力を入れていたことや、そのきっかけとなったのが「どうも松代藩の真田氏の助言らしい」という話を聞き付け、
 「その仔細を訊ねに参った」
 と言った。
 確かに飯山領は小さい割に寺が多い。上杉謙信の時代、飯山城代を任された上杉家臣岩井信能(いわいのぶよし)が城下町を作り始めた当初、城内にあった飯笠山(いいかさやま)八幡神社を移転させる際社領を寄進したのを初めとして、すでに町には英岩寺や大聖寺なども存在していた。また、関長門守一政が飯山に国替えになった際も、信濃長沼にあった忠恩寺を移転させてきたり、愛宕権現(あたごごんげん)や別当大輪院を創建した。その後も堀直寄(ほりなおより)が伊勢社を再興したりと、もともと飯山には寺の町たり得る資質があったかも知れない。
 信幸が助言したかどうかは別にして、次に入封した佐久間安政は、真宗寺、大聖寺、英岩寺、光蓮寺、常福寺、慶宗寺などの寺領を安堵し、新たに移転してきた称念寺、西敬寺、蓮証寺にそれぞれ屋敷地まで与えたほか、修験寺院の庇護(ひ ご)にも精力的だったのである。
 桜井松平家の家老からそんな話を聞いて、信幸はにんまり微笑んだ。
 「安政殿に問われ、寺社の町にしたらどうかと言ったかも知れぬが、寺が多いと何か問題でも? ひょっとしてそなたはキリシタンか?」
 「め、滅相(めっそう)もございません……!」
 キリスト教は幕府による完全なる御法度(ほはっと)だ。家老は血相を変えて否定した。
 「では、なにゆえわしに左様な事を聞く?」
 「はあ、当藩飯山国替えに伴ない掛川より桜井松平家菩提所の西念寺を移築させたのですが、どうも飯山には寺が多すぎます。もし伊豆守様が寺の町にと助言されたのでしたら、その(こころ)を知りたく存じまして。いやなに、深い意図はございません。飯山藩はこのまま寺社の国として発展させていってよいものか、またそうした場合、どれほど藩に利があるものかと不肖(ふ しょう)の身では判断しかねまして、こうして助言者にまた助言を求めに来た次第……」
 家老は恐れ多いといった口調でそう言った。なるほどわずか六歳の藩主にお伺いをたてるわけにもいかないし、国の行く末を担うには、家老の立場では少し荷が重いのだろう。いまや幕府の重鎮ともいえる信幸に、こうした相談事を持ちかける者が最近けっこう多いのだ。
 「わしはただ、佐久間安政殿には、真田は寺社を大切にしてきたと申しただけじゃ。そなたが違うと思うなら寺を減らせばよい話。わざわざわしに聞く事でもないだろう。だが一つ言えることは、寺社は民の心を育てるぞ。国を一つにまとめようと思うなら寺社を大切にすることじゃ」
 「なるほど、そのような意味が……」と、家老の表情がぱっと晴れた。
 「これで私の腹も決ってございます。願わくば、伊豆守様のお心を知る者をお一人、飯山藩に置いていただけませんか? 丁重にお迎えいたします」
 「わかった、考えておこう」
 と、この時はこれで終った話である。



 見樹院(けんじゅいん)は江戸から届いた父からの便りを読んでいた。
 まったく信幸は娘のことが余程心配らしく、飯山にいた時も身の回りの些細な出来事をこうしてたびたび文にしたためてよこすのだ。そんなまめなところが彼の人読み術≠ノ活かされているのかも知れない。手紙には飯山藩の仕置家老が尋ねてきて「わしの心を知る者を飯山藩に貸してくれと申しておった」と、歯牙(しが)にもかけない様子で記されていたが、これもまた、飯山の民の様子を誰よりも知る見樹院から、なにかしらの情報を引き出そうとする意図を含むものだろう。
 「父上からの(ふみ)じゃ。飯山のことが書かれておるぞ」
 見樹院は近くにいた李雪(り せつ)に声をかけたが、松代に来てからというもの彼女の表情は目に余って暗い。
 松代に来てすぐ、信幸の提案で藩士玉川秀政の養女になってはいたが、片時も見樹院のそばにいたのでは友だちはおろか知り合いもできず、いつも遠くをボーっ眺めていては、ちょっと話しかけただけで鉄砲にでも撃たれたように驚くのだ。
 「また伝介のことを思っているのか?」
 「そんなんではございません……」
 「顔に画いてあるぞ。気晴らしに双六(すごろく)でもしようか?」
 「実は──」
 と、李雪は昨晩の出来事を打ち明けた。
 「義父(ち ち)から、お殿様の御寵愛(ごちょうあい)(たまわ)って、子をつくってはどうかと言われました……」
 見樹院は「ぶっ!」と吹き出した。なぜ男というのは、荒唐無稽な非現実的なことを思いつくものか。
 「李雪、そなた父がいくつだか知っておるのか? 七十五であるぞ! ご公儀の仕事で気張っておるからずいぶん若く見えるが、世間で言えばよれよれ(じい)さんじゃ。子など作れるはずがなかろう!」
 「それが、義父(ち ち)が申しますには、真田の血と佐久間の血が交わることは、お殿様のかねてよりの念願であると──見樹院さまの婚姻が決まった時などは、それはそれは浴びるほどのお酒をお飲みになりお喜びになられたと申します。それはそのまま見樹院さまのお望みでもあるのでしょ? 見樹院さまのためなら……」
 「やめよやめよ、父上と李雪が交わりを結ぶなど、考えただけで具合が悪くなる。その話はもう(しま)いじゃ。飯山での思い出話をしよう……伝介は相変わらず猿回しに励んでおるかのう──?」
 李雪はやはり寂しそうな目をして、その瞳から一粒の涙を落した。

 ぽつん──

 乾いた(たたみ)の上に落ちたその一滴(ひと しずく)の音は、身寄りのない李雪の心情のように、あるいは奈落(な らく)の底へ通じる扉を叩いた音にも似て、見樹院は「はっ!」と口をつぐんだ。高嶋へ嫁いだ日より片時も離れることのなかった李雪という女性の存在が急に愛おしく思え、近くにいることが当たり前すぎて彼女の事を全く考えていなかった自分にはじめて気付いたのだ。
 李雪は、本当はもっと違う生き方を望んでいたのではないか──?
 そう考えると、やり切れない思いは見樹院を苦しめた。
 「あれ? なんで涙がこぼれたんだろう──?」
 本人さえ気付かないその涙の意味を、見樹院は知ってしまった気がした。

 信幸が江戸から帰ったのは寛永十八年の松代に初雪が降る少し前のことだった。
 「江戸も寒くなってきたが、やはりこちらはもっと寒いのお……」
 と言いながら「土産(みやげ)じゃ」と持ってきたのは花鳥が描かれた綺麗な絵で、「幕府御用絵師(ご よう え し)狩野探幽(か のう たん ゆう)の弟子が画いたものだ」と言いながら、その一枚を見樹院に、もう一枚を仏間に置かれた小松姫の位牌の前に置くと、最後の一枚は見樹院の隣に端座する李雪に与えた。
 「もったいのうございます! 私に下さるなら他のお方にお与え下さい」
 李雪は遠慮して返そうとしたが、
 「まあよい。昌がいつも世話になっている礼だ。この場にいた其方の福運じゃて」
 見樹院は「受け取っておきなさい」と目で合図を送り、
 「母上もきっとお喜びでしょう」
 と位牌の方を見つめた。
 床の間の唐様(からよう)の大きな(つぼ)には誰が生けたか赤い南天の実が飾られていた。それに視線を写した見樹院は、
 「南天の実を見ると母上を思い出します。難を転じて福となす≠ニよく申しておりました」
 と言った。
 「さようであったなあ……」
 父娘して同じ南天を見つめていると、
 「ひょっとして母上が恋しくなったのではありませんか?」
 見樹院は父を茶化(ちゃか)すようにつぶやいた。
 「バカ申せ! もうそんな年ではないわい!」
 二人は声を挙げて笑った。暫くそうして小松姫との思い出話をしていたときだった──水滴が畳の上にぽたん、ぽたんと落ちる音に、ふと李雪の方へ目を移せば、彼女の瞳から涙がぼろぼろとこぼれているのに気が付いた。見樹院は慌てて、
 「おお、どうした? すまぬすまぬ、李雪に気遣わずすっかり母上との昔話をしてしまった。許せ──」
 そう言いつつ、彼女があのことを打ち明けた日のことを思い出し、そのとき落した涙と同じであるのをその(しずく)の中に見たのだった。不意にいやな予感にとらわれて、父に視線を移してみたが、信幸は変わらぬ笑顔を浮かべながら、
 「きっと両親のことを思い出したのであろう?」
 と李雪に言ったが、李雪はそれを否定して、
 「違います……私もなぜだか分からないのです。ですが涙が自然とぽろぽろ(あふ)れて来るのです。どうかお許しくださいまし──」
 と応えて、とめどなくこぼれる涙の雫を着物の(そで)で拭うのだった。
 信幸はしわだらけの眼を見開いた。李雪が流すその涙の色に見覚えがあったからである。
 真っ赤に燃える南天の赤──。
 最後に見たあの日の妻の涙の色と同じ色のそれを、いま目の前の娘が流していたのだ。次の瞬間、李雪が確かに小松姫に見えた。
 豊臣秀吉が関白から太閤(たいこう)になり聚楽第(じゅらくだい)を秀次に明け渡し、自らは隠居場所として京都郊外に伏見城を築こうとしていた時だった。父昌幸と弟幸村は朝鮮出兵で肥前国の名護屋城に駆り出され、それを免れた信幸は大坂城下の屋敷で(つか)の間の小松姫との時間を謳歌していた。
 庭に実った真っ赤な南天の実を摘みながら、「難を転ずる実だ」と言いながら二人で口に含んだ。そのときできた子が昌なのだ。
 そう思ったとき、信幸の全身に若かったあの頃の気力がみなぎった。
 「昌、すまぬが、はずせ──」
 「えっ?」
 と、見樹院は自分の耳を疑った。信幸の表情には、ついいましがた見えた笑顔など微塵もなく、恍惚(こうこつ)とした目線は李雪の身体を見つめている。すると突然、父の気配と李雪の想いが得体の知れない大きな鬼に変じて襲い掛かって来るのを感じた。その勢いに呑まれるままに、ここにいてはいけない恐怖に囚われ、見樹院は逃げるように部屋から飛び出した。
 閉じた襖の(たもと)で高鳴る鼓動を感じながら、
 いまの鬼はいったい何なのか──?
 これから部屋の中で何が行なわれるのか?
 そう考えた刹那(せつ な)、見樹院は尊敬する父親が親友の身体をもてあそぶ光景が思い浮かんで俄かに吐き気をもよおした。
 いまならまだ間に合う──。
 と咄嗟(とっ さ)に思った。
 いま部屋に飛び込めば、少なくともこの極度の嫌悪感から逃れられるのだ!
 しかし彼女はそうすることをしなかった。
 激しい憎悪の大地の中に、ぽつんと芽吹いた真理の光が、誰知るともない真田家が進むべき淡いもう一本の道筋を指し示していた。道の先にあるものが何であるかなど知る由もないが、その(おぼろ)げに光る到達点には、父信幸が見続けてきた夢と、李雪が望む未来が隠されているように感じた。もしそれが母小松姫も望んでいるものだとしたら、甘んじて受け入れなければならない使命感にも似た覚悟だった。そして同時に、どうしても手に入れなければならない、見樹院自身が望んでいた一つの命の灯火(ともしび)に違いなかった。
 見樹院は胃のあたりから込み上げる嘔吐(おう と)を押さえながら、おろおろとよろけながら部屋に戻った──。

 それから数か月して、李雪は信幸の子を宿す。
 そして信幸は、跡目争いを防ぐという理由で李雪を飯山城へと預けたのだった。



 寛永十九年(一六四二)十月二十二日、飯山城内で李雪が産んだ男の子は名を恵端(え たん)と名付けられた。
 この年、長沼藩主佐久間勝友(さ く ま かつ とも)が江戸で没し、その長男である勝豊(かつ とよ)が若干八歳で家督を継いだことを李雪はここ飯山の地で知った。
 信幸に抱かれたあの夜以来、 見樹院との関係は修復不可能なまでに壊れてしまい、もはや李雪は完全に帰る場所を失った。しかし飯山の藩士たちは恵端を真田信幸が庶子(しょ し)と敬い、その母である李雪に対してもけっして粗末に扱わなかったので、その身は飯山城内西郭に置きながら、李雪は我が子の成長のみを生きがいとして生きている。
 「李雪様、猿回しの伝介がおりますよ」
 飯山城に来てより彼女の世話をしている侍女が伝えた。かつて李雪が想いを寄せていた伝介は、今も(うまや)の馬の世話をしていて、あるとき彼が厩の猿を相手に芸を仕込む様子を見つけた恵端は、若かりし李雪と同じように面白がって猿回しの伝介≠ニ言っては来るのを楽しみにしているのである。しかし昔と違っていたのは、伝介の脇には恵端より少し年上の男の子をいつも伴なっていたことで、聞き伝てによれば城下の町娘と結婚したとのことだった。
 恵端が十三になった年、飯山城に一人の禅僧が訪れた。藩主松平忠倶(まつだいらただとも)はこのとき二十歳になっており、その講義を一緒に聞いた恵端は、館に帰ると李雪にこんなことを訊ねた。
 「母上、今日和尚(おしょう)さまが()()観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)あり≠ニ申しておりましたが、これはどういう意味でございますか?」
 李雪は一度聞いた禅語をすっかり覚えて帰って来た恵端の利発さに驚いた。
 「はて……それは難しくて母にもわかりません」
 すると恵端はその翌日から飯山城下の寺々を片端から回り、その意味を探求するのに夢中になった。ところが城下には満足のいく答えを返す僧侶を見い出せず、ついには、
 「江戸に行きとうございます」
 と言い出した。
 「江戸に出てなんとする?」
 「佳き師を見つけとうございます」
 「恵端や、お前の探求しているものは飯山のお寺の和尚様でも答えられないたいへん難しい問題です。江戸に出たからといって佳き師匠が見つかるとは限りませんよ。もし江戸にいなかったらどうするのですか?」
 「京都に参ります。京都はお寺発祥の地と聞きました。行けば必ず私が求めている師がいるはずです。どうか私を行かせて下さい」
 困った李雪はここに来た当初から世話になっている仕置家老に相談した。すると、
 「恵端様は真田様よりお預かりしている大事なご身分ゆえ、当藩の殿様がよいと申しても勝手に飯山を離れて修行することはできない決まりなのでございます」
 と教えた。
 「では、どうすればよいのですか?」
 「真田様の許可が必要でございます」
 「では許可が欲しい。どうすればよいのですか?」
 となって、松代へ使者が派遣された。
 ところがこの年の十月晦日(みそか)、前年に次男信政に家督を譲ってついに隠居の身となった信幸が倒れ、おまけに翌明暦三年(一六五七)二月には家督を継いだその信政が死去したものだから、その後継をめぐって真田家は幕府や縁戚の大名を巻き込んで大騒動が勃発してしまった。相続人だった信政の六男幸道がまだ二歳だったことに、長男信吉の血統沼田城主の信利が異議を唱えたのである。そんなところへ信幸庶子が突然現れたらそれこそ油に火を注ぐ。飯山藩の使者は何も言えずにおろおろするしかない。
 最終的に幸道が松代藩第三代藩主となるが、若少を案じて結局信幸が復帰して藩政を執ることになった。この騒動によって信利は沼田藩として独立し、松代藩は十万石となるが、こののち間もない十月十七日、ついに信幸は享年九十二歳でこの世を去ったのだった。
 「母上、私はもう父上にお会いできることはできないのですか?」
 信幸死去の報せを聞いた恵端(え たん)は李雪にそう問うたが、李雪は何も答えてあげることができなかった。恵端が人の生き方≠ニいうものを真剣に考え出したのはこの頃からである。
 十九歳になった恵端は武家の身分を捨て出家を決意する。真田からの束縛を自ら解き、自由への道を選択したのだ。藩主忠倶(ただとも)はこれを尊重し、参勤交代で江戸へ行くのに彼を同行させた。
 その後、江戸で師事した無難禅師(むなんぜんじ)から印可を与えられ道鏡(どうきょう)(あざ)した恵端は、諸国を行脚したのち飯山に帰る。彼の帰郷を喜んだ忠倶は、彼のために正受庵(しょうじゅあん)という修行場を提供したのが寛文六年(一六六六)のことだった。翌年、恵端は再び十年に及ぶ修行に出、再び飯山に帰ったとき母の李雪にこう言った。
 「こうしてお城で余生を過ごすより、剃髪(ていはつ)して正受庵で私と一緒に暮らしましょう」
 李雪はこのとき六十五歳、恵端のいない十年の間に、松代の見樹院が七十九歳でこの世を去った(寛文十三年(一六七三))ことを知り虚しい日々を過ごしていたのだった。
 あの夜の出来事さえなければ、ずっと見樹院様の近くにいられたはずなのに──。
 見樹院様と別れてまでして真田と佐久間の子を授かったというのに、結局その恵端は出家してしまい、なにひとつ恩返しすることができなかったではないか──。
 彼女の(さい)なむ苦しみは、いま立派な禅僧に成長した一人息子に委ねるしかなかった。
 このとき忠倶も恵端の弟子となり、二〇〇石の寺領寄進と大寺建立を申し出たが、恵端は、
 「仏道修行をする者は三衣一鉢(さんえいっぱつ)あれば事足ります。民の富を奪って何の利益がありましょう?」
 と断ったので、気がおさまらない忠倶は、飯山城の茶室の庭にあった(つい)水石(すいせき)の一つとイチイの木を正受庵に贈ってこれにこたえた。これが今も正受庵に残っているが、ちなみに手洗い石≠ニ呼ばれる水石の飯山城に残されたもう片方は、現在個人宅の庭の池にあるそうで、いずれ日の目を見ることを筆者は期待している。
 恵端の元には彼を水戸(みと)に招こうとしてたびたび水戸光圀の使者が訪れたり、特に臨済宗中興(ちゅうこう)の祖と称される白隠(はくいん)が正受庵に訪れた時は、「悟りを開いた」とする慢心を見抜いて、山門から登ってきた白隠を蹴落としその慢心を打ち砕き、やがて彼に正受を認めたのだという。

 貞享二年(一六八五)のことだった。
 長沼藩主佐久間勝豊(さ く ま かつ とよ)が江戸で死去した。家督は養子の勝親(かつ ちか)に継承されたが、それより三年後、将軍綱吉から側小姓(そばこしょう)への登用を命じられたに関わらず即日これを辞退したため将軍の怒りに触れて、長沼佐久間氏は全ての所領を没収され改易された。勝豊の身柄は奥州二本松に預けられ、長沼城は破却され廃城となった──。ここに至って佐久間安政にはじまった佐久間氏は、完全に断絶してしまったのだ。
 このときもまた、行き場を失った長沼佐久間家の家臣たちが松代真田家にその多くが仕官できたのも、生前見樹院が長沼をいつも気にかけていたからだった。
 ある日、李雪は恵端に言った。
 「あなたは仏に仕えた身なれど、その身体(からだ)には紛れもない真田と佐久間の血が流れておるのじゃ。こればかりはいくら修行を積んでも消せるものではあるまいて……。母は今生にやり残したことが一つだけある。これから松代に行き、最後の仕事を尽くしてきたい。行かせておくれ──」
 李雪は老いた身体に(むち)打ち正受庵を出た。
 松代に着き、
 「私は以前、見樹院様の侍女をしておりました李雪と申す者でございます」
 と言って形見分けの鼈甲(べっ こう)(かんざし)を見せた。見樹院は松代藩においては尊敬の対象だったので、昔李雪という名の侍女を伴なっていたこともよく知っていて、
 「存じ上げております」
 という言葉を聞いて、あの日完全に縁を切られたと思っていたのが誤解と知って驚いた。そして見樹院は息を引き取る間際まで「李雪はどうしておるのかの?」と心配していたと聞いたとき、老いて乾いた李雪の両目から滂沱の涙が溢れ出た。
 間もなく家臣の一人にこう伝えた。
 「長沼の一件で松代に仕官された旧佐久間家の家老のお方はおりませんか?」
 「おりますが」と言って姿を現わしたのが岩間氏を名乗る男である。
 「信じていただけぬかもしれませんが、私は長沼藩初代藩主佐久間勝之が末娘にて李雪と申す者でございます。故あってずっと見樹院様の侍女をしておりましたが、今は飯山藩の世話になっております。このたびの長沼藩断絶の噂を耳にし、矢も楯もたまらずこうして参った次第にございます」
 岩間は驚きの表情で初代勝之の娘を名乗る尼僧(に そう)姿の李雪を見つめた。
 そして李雪は、涙ながらにこう訴えた。
 「佐久間の名を途絶えさせてしまうのはあまりに心苦しいのです。どうか、どうか、佐久間の名だけでもお引き継ぎいただき、末長くお守りいただくわけには参りませんでしょうか?」
 「佐久間姓を……? 私に? こんな私でよろしいのですか?」
 「私は出家の身、他にお願いできる者がおりません──何卒(なにとぞ)、何卒──」
 こうして佐久間家は、長い江戸時代を養子縁組をしながらも幕末まで続く事になり、やがて真田藩は稀代の英傑佐久間象山(さ く ま しょう ざん)を産むのである。

 宝永五年(一七〇八)、百歳近くまで生きた李雪はこの世を去り、その十三年後の享保六年(一七二一)十月、恵端も正受庵で八十歳の生涯を閉じる。
 彼の道歌にこんなのがある。

 ()()たる(こと)のみばかり(おも)へ ただかへらぬ昔知らぬ()く末

 人の叡智(えい ち)では過去を変えることも未来を知ることも出来ない。しかし筆者は思う。歴史をつくる時の流れは、もしかしたらその(すべ)てを知っているかも知れないと。

 二〇二一年四月十八日
(2021・03・13/04・14 飯山市在住坂原シモ氏・弥太郎氏より拾集)
 
> 葛之葉(くず の は)
葛之葉(くず の は)
城郭拾集物語H 新潟高田城
シンボルの三重櫓
松平忠輝が造った本丸への極楽橋
本丸のジオラマ



 高田城は全国有数の敷地面積を誇る巨大城郭である。
 その広さは外堀を含めると六〇ヘクタールを優に越えるというから江戸城、大坂城に次ぐ規模である。
 筆者が訪れたのは菜の花の咲く春四月だが、冬は全国でも指折りの豪雪地帯である。なぜ越後の雪深い場所にこれほど巨大な城郭が築かれたのか? 北陸・西東北から江戸へ向かう交通の要衝地であることを知れば、その意図はおのずと想像できる──。
 天下統一を果たしてからも徳川家康にとって金澤の前田家や米沢の上杉家などは不審因子に違いない。この両家は豊臣秀吉の五大老だったことや、関ケ原でも西軍に組した武将との親交も深い。関ケ原以降徳川の配下にはなっていたものの、その存在は家康にとってけっして油断できないものだったろう。特に所領百数十万石を有する前田家は脅威のほか何者でない。その石高は徳川家を除けば日本最大で、家康と逆の立場である時の藩主前田利常(としつね)などは、徳川の目を怖れ、豊臣恩顧の大名達が改易されるとその様子をさぐらせ、常に自分は無能だと思わせる演出に余念がなかったと言う。
 それでも家康は前田家を信用しなかったろうし、また、万が一を考えるのは天下人として当然だ。特に大坂の陣を目前に控えた築城当時は、全国の武将たちの忠誠を見極める必要があった。家康が行なった天下普請には、そんな思惑も働いていたに違いない。
 もともと越後には上杉謙信の春日山城(かすがやまじょう)が存在したが、慶長三年(一五九八)上杉景勝(かげかつ)が会津に転封(てんぽう)されると、替わって入封(にゅうほう)した堀氏は関川を挟んだ東側に福嶋城を築城した(慶長十二年)。関ケ原を経、もはや太平となった世に春日山城のような山城の必要性がなくなったともされるが、北側を日本海、東西を保倉川と関川とに囲まれたその城は、まさに護るにおいては鉄壁と言って良かったかも知れない。
 ところが慶長十五年、堀氏が御家取り潰しとなる。
 そこで家康は、六男松平忠輝(まつだいらただてる)を信州川中島から移して七十五万石の福嶋城主としたわけだが、かの地は毎年雨期になると関川や保倉川が決って氾濫する場所であり、おまけに防備が堅い分攻めるには不利な城だから、例えば前田家が江戸に侵攻した場合、関川が邪魔になってその機能を果たせない。「海の音がうるさくてよく眠れなかった」と言う者もいるが、四年経って城主忠輝は、福嶋城を廃して高田の菩提ケ原(ぼだいがはら)へ新城を築いて移る。福嶋城は築城よりわずか五年ばかり存在した幻の城となった。

 忠輝が築いた平城高田城には二つの特徴がある。
 一つは天守閣が建築されなかった点、二つは石垣がなく全体を土塁(どるい)でめぐらしている点である。その理由として豊臣家との決戦を間近に控え、完成を急ぐ必要があったから≠ニパンフの説明にあるが、「果たしてそれだけか?」と考えてしまう筆者の(へき)は想像力を掻き立てる──。
 驚くのはその築城に要した時間である。
 慶長十九年三月十五日に着工して同じ年の七月上旬には一応の完成を見たというからわずか四ヶ月。築城に名を連ねた武将の名を挙げれば、縄張(なわば)りをはじめ陣頭指揮を執ったのが仙台城主伊達政宗(だてまさむね)、普請奉行に尾張名護屋城でも奉行を務めた滝川忠征(たきがわただゆき)と、伊東政世(いとうまさよ)山城忠久(やましろただひさ)などはあまり聞かない名であるが、そのほか金沢城主前田利長(まえだとしなが)利常(としつね))、奥州盛岡城主南部利直(なんぶとしなお)、若松城主蒲生忠郷(がもうたださと)、出羽山形城主最上家親(もがみいえちか)、米沢城主上杉景勝(うえすぎかげかつ)、秋田城主佐竹義宣(さたけよしのぶ)、信州小諸城主仙石秀久(せんごくひでひさ)、松代城主真田信之(さなだのぶゆき)、松本城主小笠原秀政(おがさわらひでまさ)、甲斐谷村城主鳥居成次(とりいなりつぐ)、越後村上城主村上忠勝(むらかみただつぐ)、新発田城主溝口宣勝(みぞぐちのぶかつ)の大名たちが関わった。気になるのはその殆どが外様大名で、しかも前田利長と上杉景勝などは、城の地理的にも家康に最も牽制される側の者である。
 高田城築城の背景には、一つに『加賀の前田家、出羽の上杉家に対抗するため』、二つに『諸大名に天下普請を命じ経済的圧迫を加えようとした』、三つに『佐渡金山の支配を強化するため』とか言われるが、当然それも含めて家康には別の思惑もあったと見える。それは、豊臣家を滅亡させるための大坂の陣を目前にした彼にとって、関ケ原で生き残った残党の存在が何より怖い──つまり、『不審因子に徒党を組ませる動きをさせないため』、『天下普請を通して不審因子の忠誠を確認するため』、そして『六男松平忠輝(まつだいらただてる)を使って不審因子を押さえ込む』ということだ。
 突貫工事の天下普請はわずかの間に関川(せきがわ)の流れを変え大きな外堀を作ってしまう。その幅は広い場所で約一三〇メートル、さらに内堀の内側を高さ十メートルの土塁で囲み、その全周は一、〇〇〇メートルに及んだと言う。
 そして筆者はこの急ピッチで進められた工事に別の疑問を持つ。
 「高田城は忠誠を示す参加大名の団結の賜物(たまもの)なのか? それとも本当に突貫工事のやっつけ仕事≠セったのか?」
 と。
 エジプトのピラミッドが五千年経た現在なおその形が保たれるのは、絶対権力に服する奴隷(どれい)によるものでなく、自由な農民たちと選ばれた技術者たちの使命感≠ノよるものだとしたら、高田城はそのどちらだろうかと――。
 城を象徴する(らぐら)は築城当初は二重だったそうだ。そして寛文地震のあと三重に建てなおされ、その後時代が流れ明治の火災で本丸御殿を含めて焼失してしまったが、平成五年(一九九三)、多くの市民の要望に応える形で『上越市発足二十周年記念事業』として再建されたのだそうだ。
 往時は、外堀の内側の地形を上空から見ると法螺貝(ほらがい)に似ていたことから螺城(らじょう)とも呼ばれ、旭日が昇るように輝くという意味で高陽城(こうようじょう)と呼ばれることもあるそうだ。
 本丸に入るには内堀に架かる極楽橋を渡り、蹴出門(けだしもん)をくぐって枡形(ますがた)に進む。そこを右に曲がって本城御門をくぐれば左に二条城とも見まごう本丸御殿が現れた。そこに初代城主松平忠輝は住んでいた──。
 ここが今回の物語の舞台である。



 天正二十年(一五九二)一月、江戸城にひとつの産声があがった。
 出産の苦しみに耐えた茶阿局(ちゃあのつぼね)は、美しい両目に涙をためて、
 「まあ、なんて可愛い男の子……」
 と呟いて、泣き叫ぶ赤子を産婆から抱き寄せると、在りし日のことを思って大粒の雫を落した。
 彼女は徳川家康の側室で、もともとは遠江国(とおとうみのくに)にある金谷村の鋳物師(いものし)の後妻で、於八(おはち)という名の幼い娘を持っていた。ところが生まれつきの美貌から、その容姿に惚れた村の代官に夫を殺害されてしまい、幼い娘の手を引いて、命からがら逃れついたのが鷹狩をする家康の前だった。
 「どうした? そんなに血相を変えて」
 「追われております! どうかお助け下さいまし!」
 事情を聞いた家康はすぐさま村の代官を捕えるが、その美貌に今度は家康の目がくらんだ。そのまま浜松城に連れ帰り、以来側室としてしまったのである。
 ところが、生まれたばかりの赤子の顔を見て家康はこう言った。
 「なんと色黒い赤子じゃ。目じりが吊りあがって恐ろしい(そう)をしておる。気味が悪い、捨ててしまえ!」
 茶阿局の身分が低かったためか、あるいは豊臣秀吉も嫡男鶴松が産まれた時に「強い子に育つように」と願いを込めて行なった捨て子の儀式(安育祈願)≠ニ同じことをしたものか、産まれたばかりの子を寺の門前に捨て、側近の本多正信に拾わせた。
 辰年に生まれたので幼名を辰千代(たつちよ)と名付けられたその赤子こそ後の忠輝で、以来家康の六男として生きることになる。こののち下野国(しもつけのくに)の栃木城主だった皆川広照(みながわひろてる)に預けられ養育された。
 ところで家康には十一人の男子がいる。物語のこの時点では忠輝を含めて六人だが、長男信康(のぶやす)は武田氏との内通の疑いをかけられ切腹しており、次男秀康(ひでやす)は豊臣秀吉の養子となっていたので、実質的には四人ということになる。そして三男秀忠(ひでただ)は後に二代将軍になる子であり、四男忠吉(ただよし)は家康の家臣井伊直政の娘婿になるが慶長十二年(一六〇七)には病死し、生来病弱だった五男信吉(のぶよし)も、慶長八年(一六〇三)わずか二十一歳にして夭逝(ようせい)する。
 ところが家康はどういうわけか忠輝に対して冷淡で、翌年茶阿局(ちゃあのつぼね)との間に生まれた七男松千代の方を可愛がり、生後間もないにかかわらず長沢松平家を相続させて深谷一万石の藩主とした。
 忠輝が七歳になったときに家康が言った言葉がこうである。
 「なんとも恐ろしい面魂(つらだましい)じゃ。腹を切った信康の幼い頃にそっくりじゃ……」
 彼の顔に嫡男信康を見い出したのである。ところが、
 「鬼っ子め!」
 と言ったその言葉に忠輝は深く傷ついた。
 しかし家康は、慶長四年(一五九九)に弟の松千代が六歳で早世してしまうと、その後嗣(こうし)に忠輝を選び十一歳で元服させ、慶長八年(一六〇三)二月、十四万石の城主として信濃国川中島の待城(まつしろ)に移封したのだった。
 このとき御附家老(おつきがろう)となったのが幼少より忠輝を養育してきた皆川広照であるが、忠輝の粗暴な性格にとんと手を焼いていた。幼い頃は「お(んま)になれ!」と言っては四つん這いにさせて背中で暴れ、少し成長したかと思えば「剣術の稽古はいやじゃ、鷹狩に参る」、「甘い茶菓子を持って参れ、さもなくば打ち首じゃ」と聞き訳がなかったり()(まま)放題で、広照ら家臣はたびたび諌言(かんげん)するも、最後はいつも「わしは公方様(くぼうさま)御子(おこ)である!」と権力をかざす始末。父に冷たくあしらわれていた分そうした態度に現れたものか、困り果てた広照は家康に相談すると、
 「それほど粗暴か。そちの手に余るなら、お前の他に別の御附家老(おつきがろう)を付けよう。これからも苦労をかけるが、褒美に信濃国飯山城を与える」
 と、思わぬ昇格に広照は喜んだが、その後忠輝の御附家老に就いたのが、家康腹心の大久保長安(おおくぼちょうあん)だった。この男との出会いが忠輝に絶大な影響を及ぼすことになる。

 大久保長安というこの男──
 もともとは猿楽師(さるがくし)の次男で武田信玄に仕えていた。生来経理と人を束ねる才があったようで、武田領においては金山開発や税務なども担っていたようだが、信玄亡き後はその子勝頼に仕え、長篠の戦いで武田氏が滅ぶと三河国に移り住み家康の家臣となった。
 天正十年六月、本能寺で信長が死去すると甲斐は家康の所領となる。そこで甲斐の内政再建を命じられた長安は、釜無川や笛吹川の堤防復旧をはじめ新田開発や金山採掘などにも尽力し、わずか数年で甲斐の再建を見事に果たす。
 その後の功績もあり、関東代官頭に任じられ家康直轄領の経理差配(さはい)の一切を任された長安は、天正十九年(一五九一)には武蔵国八王子に八、〇〇〇石の所領を与えられた。すると八王子宿に陣屋を置き、次いで八王子十八人代官を置いて宿場の建設を進め、さらには浅川の氾濫を防ぐための土手まで築いた。その他にも武蔵の治安維持と国境警備の重要さから旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心≠創設し、これは間もなく八王子千人同心≠ニなって幕末まで続くことになる。いわゆる長安は侠客(きょうきゃく)(かしら)にも似ていた。
 関ヶ原の戦いの後も、大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役と活躍の場を広げ、徳川四奉行の補佐において甲斐奉行、石見奉行、美濃代官と、家康からの信任は非常に篤かった。
 特に忠輝の御附家老に任じられた慶長八年のこの頃は彼にとっても絶頂期で、破格の従五位下石見守に叙任されたほか、佐渡奉行や勘定奉行にも任じられ、幕府老中にも列せられた。この数年後には伊豆奉行にも任じられ──早い話が、家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切の奉行職を兼務していたのである。その権勢は天下の総代官≠ニ称されるほど強大で、八王子の所領に加えて家康直轄領の一五〇万石の実質的な国土交通と財政の支配者と言ってよかった。
 とにかくその性格といったら豪放磊落(ごうほうらいらく)なうえ考えることも雄大豪壮(ゆうだいごうそう)で、そこに側女(そばめ)を七〇人から八〇人も抱える無類の女好きときたからもはや常人でない。そのくせ計算においては恐ろしく精妙巧緻(せいみょうこうち)だから、青少年を手玉にとるくらいわけない話なのだ。
 このとき忠輝十二歳。長安は彼の粗暴な態度を見つけては、
 「もっとやれ、もっとやれ、忠輝様にも次期将軍になる資格があるのでございますから、どうせ暴れるなら、いっそのこと天下をひっくり返す気概(きがい)でやりなされ!」
 と(あお)り立てた。そう言われると、家臣たちの困る顔が楽しみで荒くれたり粗野な態度をとっていた忠輝はつまらない。どうすれば長安を困らせることができるだろうかと、逆に学問に打ち込んでみたり、笛の稽古をしてみたり、家康の兵法指南役だった奥山休賀斎(おくやまきゅうがさい)の奥山神影流道場に通って武術や兵法に傾倒してみたり、本来至極(しごく)真面目で利発な性分が開化した。
 慶長十年(一六〇五)、将軍職が兄秀忠に譲られたとき、
 「おい長安、お前はオレに次期将軍になる資格があると申したが、兄が徳川家当主を継いで征夷大将軍になってしまったではないか! もはやオレなど不要の長物だ」
 と言ったことがある。長安は平然として、
 「なにを仰せになられます。昨日の襤褸(つづれ)今日の(にしき)と申します。合従連衡(がっしょうれんこう)ということもございましょう。明日の事など誰にも分からないのですよ。これはけっして口外無用に願いますが、私の見るところ秀忠様は世をまとめる(うつわ)ではございません。大御所様(家康)もそれをきちんと見抜いておられます」
 「なんと申した? なれば父上がオレにする冷たい仕打ちはいったいどう説明するのか?」
 「大御所様のお考えは私などには計りかねますが、おそらくもっと強くなれ≠ニ言っているのでございます。でなければこの私を御附家老(おつきがろう)になどさせません」
 「な、なんと──」
 言われてみれば、忠輝には父家康の数々の冷たい仕打ちの中に、たまに愛≠フようなものを感じることがあったのだ。長安は続けた。
 「忠輝様には忠輝様の付き合うに相応しい人物というのがございます。ここはひとつ、一人の大物大名をご紹介いたしましょう。きっと大御所様もお喜びになられますぞ」
 紹介≠ニは縁組のことである。とにかく長安は人脈も半端ない。彼の子供たちは石川康長や池田輝政の娘と結婚していたり、長女もまた服部半蔵の次男正重に嫁いでいた。そして長安がこのとき忠輝と引き合わせたのが、石高六十二万石の仙台藩主伊達政宗が、愛姫(めごひめ)との結婚十五年目にして初めて授かった待望の嫡出子(ちゃくしゅつし)五郎八姫(いろはひめ)だった。時に忠輝十五歳、五郎八姫(いろはひめ)は十二歳の冬である。
 「五郎八(ごろはち)とは勇ましい名であるの?」
 化粧をしてませて見せようとしているが、その幼さを隠しきれない美しい姫に忠輝はそう聞いた。
 「父上は男の子が欲しかったようで、生まれた私に男の子の名しか考えてなかったと申します。その名がごろはち≠ナ、私が女と知って慌てて五郎八≠ニ書いていろは≠ニ読ませることにしたのだと聞いております」
 「せっかちな父であるな」
 「わたくしに似て……」
 五郎八姫(いろはひめ)はポッと頬を赤らめた。
 愛らしい丸みのある輪郭に、整った両目はいつも穏やかな笑みを浮かべ、小さな鼻立ちの下に桜を思わせるような唇──夢心地の若い忠輝は、一生この娘と添い遂げようと決意を新たにしたのであった。



 忠輝の実母茶阿局(ちゃあのつぼね)の実兄は石田三成の家臣である。
 その息子の山田隼人正勝(やまだはやとのかみかつしげ)は三成の長女を妻にしており、関ヶ原の後生き延びて、哀れに感じた茶阿局はこの甥っ子を忠輝の家老に取り立てていた。あわせて前亡夫との二人の息子も忠輝の小姓として召し出し、娘婿となっていた花井吉成(はないよしなり)までも家老に取り立てたのだが、その存在を嫌った古参の山田勝重という家臣が同僚の松平清直を味方につけ、さらには皆川広照を担いで忠輝を引き合いに出して陥れようと結託した。わざわざ家康のいる駿府(すんぷ)にまで赴き、
 「忠輝様の素行が一向に改まりません」
 と訴えた。家康が、
 「伊達政宗の娘を(めと)ってから心を入れ替えたように品行方正になったと聞くが、どういうことか?」
 と聞き返すと、山田勝重は「実は──」と言ってから、茶阿局(ちゃあのつぼね)の娘婿花井吉成が家老になってからというもの、忠輝を思い通りにそそのかして家中を乱しているとまことしやかに口述した。その話を静かに聞き終えた家康は「真相を確かめて処分を決める」と言って川中島から忠輝を呼び寄せ真意を(ただ)した。すると忠輝は、
 「妄言を申しているの山田らの方でございます。私もまだまだ未熟ゆえ、相変わらず粗暴な振る舞いをしてしまうことがあったかも知れませんが、それが原因で家中が乱れているようなことは決してございません。母上の娘婿もよく尽くしております。もしかような疑いがかけられているとしたら、それは山田らが思い通りにならない不満、政務を牛耳(ぎゅうじ)っている証拠ではありませんか」
 家康は忠輝をじっと見つめ、何も言わずに目線を皆川広照に移してこう言った。
 「お前は幼少より忠輝を見て来て一体なにを授けた? 御付家老失格じゃ!」
 そう怒鳴ると改易を言い渡し、真偽も確かめずに山田の口車に乗せられた格好の松平清直には減封を、そして全ての首謀者と断じられた山田勝重には切腹という厳しい処分を言い渡したのだった。

 こんな事件を経て間もなくの慶長十五年(一六一〇)(うるう)二月、突然忠輝に越後国福嶋藩(高田藩)への移封(い ほう)が命じられた。実に川中島十四万石と合わせ三十万石の加増である。忠輝は改易された堀忠俊(ほりただとし)の福嶋城へと移り、川中島領は花井吉成が待城(まつしろ)城代となって、先の事件で減封された松平清直は五千石で復帰した。
 忠輝と五郎八姫(いろはひめ)は新天地の北に広がる春の海を見ていた。
 山桜が咲き始めているというのにその風は冷たく、岸辺に群れるカモメを見つめて五郎八姫はぽつんと呟いた。
 「なぜだろう? お江戸で見た海はどこか温かく感じたのに、ここの海は春だというのに冷たく見える」
 「波が荒いせいだろう。北から吹く風は大陸の寒気を運んでくるから冷たいのだ」
 忠輝がそう応えると、そこへ、どこからともなく白い子狐(こぎつね)が現れて、カモメを狙って身をかがめているのをみつけた。その様子に五郎八姫は何か思い出したように別の話をしはじめた。
 「幼き日、まだ私が京都にいたころ、摂津国(せっつのくに)に伝わる信太妻(しのだづま)のお話を母から語り聞いたことがございます。悲しい白狐(しろぎつね)のお話でございました──」
 それは平安時代、村上天皇治政の世──
 摂津国に安倍保名(あべのやすな)という一人の男がいた。ある日、信太(しのだ)の森に入った際、野狐の生き肝を得ようとする狩人に追われた白狐を助けたが、その代償に大怪我をしてしまう。すると傷で苦しむ保名のもとへ葛之葉(くずのは)≠ニ名乗る若い女がやってきて、甲斐々々(かいがい)しく手当をして保名を家まで送りとどけると、そのまま介抱するうちにいつしか恋仲となり、やがて二人の間に童子丸(どうじまる)という子が生まれ、三人の家族は幸せな日々を過ごすのであった。
 六年目のある秋の日のことである。
 葛之葉(くずのは)は、庭に咲く美しい菊にすっかり心を奪われていた。すると自分が狐であることを忘れ、うっかり尻尾を出してしまっていたのだ。それを見てしまったのが童子丸。正体を知られた葛之葉(くずのは)は、「ともに暮らすのもこれまで」と、次の一首を残して信太の森へと立ち去った──。
 その歌を、冷たい海を見ながら五郎八姫は悲しそうに口ずさむ。
 「恋しくば、尋ね来て見よ和泉なる、信太の森のうらみ葛の葉……」
 ──保名と童子丸は母を求めて信太の森を彷徨(さまよ)った。そして森の奥深く来たとき、ようやく二人を見つめる一匹の白狐が涙をこぼしているのを見たのである。
 「葛之葉かい? その姿では童子丸が怖がるよ。もとの姿になっておくれ」
 と保名が言った。すると白狐は傍らの池に自分の姿を映したと思うと、たちまち葛之葉に姿を変じた。
 「わたしはこの森に住む白狐です、命を助けられた恩に報いるため、今までお仕えさせていただきましたが、ひとたび狐と知られた以上、もはや人間の世界にはもどれません……」
 そう言いながらとりすがる童子丸を諭して、形見にはくめん∞はくじゃ∞はくじゃく∞ききん≠ニいう三千世界を見、鳥畜類の言葉を聞き、人の病気の原因を知り、世上の運気を知る不思議な四品を残して再び狐の姿となって森の奥へと消えていった。
 この童子丸こそ、やがて陰陽道の始祖となる安倍晴明(あべのせいめい)だということである──。
 「おいで……」
 五郎八姫はしゃがんで白い子狐を手招いた。すると子狐は、逃げる様子もなくいそいそと彼女の近くに寄ってきて、その手に抱かれたのである。
 「まあ、なんてかわいい子狐でしょう!」
 忠輝は狐を見てぎょっと驚いた。右目が白濁して見開いたままだったのだ。失明しているに相違あるまい。ところが五郎八姫は「父上とおんなじ!」と怖がる様子もなく、むしろ「父上の化身じゃ!」と喜んで、葛之葉(くずのは)≠ニいう名前を付けてしまうと、福嶋城に連れて帰ってすっかり友達にしてしまった。
 思えば妻の義理の父親である伊達政宗とは、祝言の時に会って以来一度もゆっくり話をしたことがないと忠輝は思った。
 あの頃の政宗は、諸大名との交際しきりで様々な情報収集に忙しい。付き合いのための贈答品に心を砕き、ド派手な酒宴、歌会、茶会、能見物を催して世間を「あっ!」と驚かせたり、豪華∞絢爛(けんらん)∞見栄∞(いき)≠ネどを意味する伊達≠ニいう言葉が使われ出したのもこの頃からで、死に装束で秀吉に面会したという話も有名だった。(ちまた)では、すざまじい意気をもって周囲を圧倒する事を伊達をする≠ニか伊達る≠ニ言っては持てはやしているのだ。
 「父は右目が見えない分だけ、人の心が見えるのだと申しておりました」
 あるとき五郎八姫(いろはひめ)がこう言った。
 「なるほど!」と忠輝は思う。障害を持つ人間というのは、不自由なその部分を補おうとして、生きるために超越した別の機能を異常なほど発達させるものか。ひょっとしたら見えない右目で世間の民衆感情というものを敏感に読み取り、すべき行動を的確に判断しているのかも知れない。
 この頃の政宗は世界≠ニいうものに目覚めていた。
 慶長十四年(一六〇九)九月、上総国岩和田村沖でスペイン船サン・フランシスコ号が難破し村人はその救援に努めたが、それから二年後の慶長十六年六月、スペイン国王からの返礼と日本埋蔵の金銀の調査を兼ねて浦賀にやってきたのがセバスティアン・ビスカイノという男である。彼は家康と謁見し日本沿岸の測量の許可を得た後、十一月には仙台に来て政宗と会う。そして他の地域の測量を終え帰国しようとするのだが、暴風雨が襲い、大破した船は航海不能となって再び浦賀に戻ったのだった。ピスカイノは幕府に船の建造を申し入れるが受け入れられることはなく、このとき名乗りを挙げたのが伊達政宗というわけだった。
 二人の間でどのような会話がなされたかは知らぬが、政宗の視野が日本から世界に広がったことは間違いないだろう。仙台藩はビスカイノのためにサン・ファン・バウティスタ号≠造船し、海外貿易を名目に家康から承認を得ると、慶長十八年(一六一三)九月、家臣支倉常長(はせくらつねなが)ら一八〇余名をヨーロッパへと派遣する。いわゆるこれが慶長遣欧使節団である。
 「伊達政宗という人間ともう一度会って、ゆっくり話がしてみたい──」
 忠輝は、美しい五郎八姫の姿からは想像できない巨大な政宗像を想い描いては、一日も早く会ってみたいと胸を膨らませた。
 ところが、その政宗と引き合わせてくれた大久保長安は、最近すこぶる体調が悪い。
 医者に言わせれば中風(ちゅうぶ)と言うが、家康などは心配して自ら調合したという烏犀円(うさいえん)という薬を飲んではいるが、その病状は悪化するばかり。そのうち身体を動かすこともできなくなって、あれほど多く抱えていた代官職も次々と罷免されていく。人の栄華とは崩れる時は、浜辺の砂の城のように儚く消えゆくものか。このころは全国で採掘されていた金銀の量も激減しており、長安がこのときもっとも愛していた妻も若くしてこの世を去った。
 そして慶長十八年(一六一三)四月二十五日、大久保長安は六十九歳で没する。その遺言は、
 「わしの遺体は黄金の(ひつぎ)に入れ、葬儀は華麗に行なえ」
 だった。その派手好きさは政宗にも似て、二人は非常に気が合ったと思ゆ。
 しかし長安が死んで間もなく、生前の不正貯蓄が大問題となった。長安の子たちは幕府の調査を拒否したために、同年、嫡男、次男、そして三男から七男までの息子たちには切腹の沙汰が下され、縁戚関係にある諸大名もまた改易されるなどの厳しい処分を与えられたのである。
 秀忠に家督が譲られてより、世の政治は二元体制のもと行なわれていた。もちろん家康の権限は何より強いものではあったが、基本的には秀忠は徳川家直轄領と譜代大名を統治し、家康の方は主に外様大名との折衝を担当していた。だから長安の親族たちの処分は秀忠が下したもので、
 「なんとも兄は身内に厳しいのぉ……」
 と、忠輝はぼやいた。



 慶長十九年(一六一四)初め、幕府より忠輝に高田城築城の命が下った。そして新しい城の縄張りを決めるのに選任されたのが五郎八姫の父伊達政宗である。
 「父上が来られるのですか!」
 白狐の葛之葉を抱いて、五郎八姫は小躍りして喜んだ。こうして春三月、政宗は越後に入る。ちょうど昨年の秋、仙台から慶長遣欧使節団の航海を見送って間もなくのことである。

 家康はなにより豊臣秀頼の存在を怖れていた。
 少し前までは豊臣家との融和を図っていたが、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の即位に際して上洛した際、将軍秀忠の娘である千姫を輿入れさせた秀頼と初めて会った時、その神々しいまでの容姿に目を奪われたのだ。このとき秀頼十七歳、
 「まさに天下を治むるに相応しい資質を備えておる──これほどの威光が我が息子の一人にでもあったなら……」
 家康の羨望(せんぼう)は恐怖へと変わった。
 その会見の後、浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、前田利長といった豊臣家恩顧の武将たちは次々とこの世を去り、豊臣家は一層孤立を深めていたが、家康はそこで安心するのでなく、豊臣家を滅亡させる好機と捉えた。戦国最後の戦を起こす機会を虎視眈々と狙っていたのだ。
 その一方では天下普請の大義名分のもと、全国の築城計画は着々と進められている。東海道の押さえとした膳所城(ぜぜじょう)を皮切りに、伏見城、二条城、彦根城、篠山城、亀山城、北ノ庄城、そして名古屋城の再建、造営や江戸城、駿府城、姫路城、上野城などの大改修と、全国の諸大名を動員させて盤石な国造りを目指す。忠輝の高田城もその一つである。
 ところが高田城と同時期に工事が進められた名古屋城普請において、家康は豊臣家にも動員を命じたが、秀頼の母淀殿(よどどの)はこれに応じなかった。そして家康の豊臣攻めを決定的なものにしたのは、かねてより豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿の完成を間近に控え、この年の四月に鋳造された梵鐘(ぼんしょう)が設置され、あとは家康の承認を得て開眼供養の日を待つだけだったところ、梵鐘に刻まれた『国()()』『君()()楽』という文字に対して家康が、
 「家康の名を切り、豊臣は君として(この)むとはけしからん!」
 と言い出した。目的達成のためにはこんな些細なことまで口実にする家康なのである。
 高田城の築城工事は、まさに徳川家と豊臣家が見えない水面下でそんな激しい攻防を繰り広げていた最中に行なわれている。
 建築予定地の高田の菩提ケ原(ぼだいがはら)に立って政宗(まさむね)は忠輝に言った。
 「なあんにもないところであるなぁ……。婿殿(むこどの)には何が見えますかな?」
 「私にはきらびやかにそびえ立つ天守が見えます」
 「ほう、しかしそれは、たかだか数万石の大名の台詞(せりふ)だな。越後国高田は七十五万石を有するのだから、もっと大きなものが見えはせぬか?」
 「では義父上(ちちうえ)には何がお見えになるというのです?」
 政宗はニッと笑んで、
 「海の向こうのエスパーニャが見える──」
 と言って続けた。
 「エスパーニャには江戸城の何倍もあるとんがり帽子の建物がいくつも建ち並んでいると言うわい。その国の人間はわしの国の三郡から切り出してもまだ足らぬ木材で(こしら)えた大きな船で、大海原を自由に行き来しておるのだ。世界にはわしの知らない国がまだまだあるらしい。仙台じゃ高田じゃと言ってる場合でないぞ。どうも宣教師どもの住む国は、この国より文明が進んでいるようじゃ。わしは世界の富を手に入れたい。空言(そらごと)と思うかい?」
 「いいえ、左様な国があるなら私もぜひ行きたいものです」
 政宗は「あはは」と笑い出した。
 「わしくらいの年になると、もう天下などどうでもよくなってしまったわい。この国のことは若いもんに任せて世界と貿易がしたいのだ」
 「貿易ですか……」
 「どうも大御所様(おおごしょさま)は宣教師の連中を嫌っているようだが、やつらから奪い取れるものは山ほどあるぞ。どうじゃ、将軍になってそういう国を創ってみぬか?」
 「えっ?」と漏らして忠輝は黙り込んだ。政宗はさらに続ける。
 「どうも秀忠様はケツの穴が小さくて困る。細々(こまごま)と自国の事ばかりにご執心の様子でまるで全体が見えておらぬ。しかしそういう人間ほど権力を握ると手がつけられん。いずれ身内だろうと腹心の友だろうと容赦なく粛清(しゅくせい)をはじめるぞ。油断するな──そうなれば、婿殿が大久保長安殿のご子息を護れなかったように、わしとてどうしようもできんからな」
 このとき二十三歳の忠輝にはその本意がよく解らなかった。

 三月十五日から着工された高田城の縄張りは伊達政宗の担当である。天然の地形と川の流れを利用しながら関川、青田川、儀明川(ぎみょうがわ)の流路を変え、東北、北陸、信濃などから集められた十三名の大名たちに従えられた一万人にも及ぶ人足で大工事は急ピッチで進められた。たまに疲れを癒すために戻る福嶋城ではいつも五郎八姫が待っていて、日本海で猟れた海の幸で盛大にもてなすのである。
 「婿殿とは仲良うしておるようじゃな?」
 世界を語る政宗も、こと自分の娘のこととなると、その幸せは重大問題のようである。
 「はい。少し気の荒いところもございますが、わたくしにはとても優しく接して下さいます。わたくしの事より父上の方はどうなのですか? 母上(愛姫(めごひめ))は息災でしょうか?」
 あのあどけなかった五郎八姫が、父の心配をするほどまでに成長したかと思うと、政宗は急に笑い出した。
 「(めご)はずっと江戸じゃ。手紙でも書いて慰めねばならんな──それよりその(きつね)は何じゃ?」
 政宗は娘に抱かれた白狐を珍しそうに手に抱いた。
 「飼っているのでございます。葛之葉(くずのは)と申します」
 政宗は左目でじっと白狐の同じ左目を見つめて「片目が潰れておるのぉ」と呟いた。そして次に首に吊り下げられたネックレスに目を移し、
 「これは(めご)から譲り受けた十字架ではないか?」
 と聞いた。
 「はい。大御所様がキリシタン禁教令を出したと殿(忠輝)から聞きました。へんに疑われるのも不本意ですので葛之葉の首につけております」
 「賢明だな。前田家に(かくま)われていた高山右近(たかやまうこん)も家族と共に金沢を発ち、亡命の旅に出たそうじゃ。大御所様はキリシタンを目の敵にしているようだから、くれぐれも気を付けるのじゃ」
 高山右近といえばキリシタン大名の筆頭に挙げられる人物である。豊臣秀吉からの信頼も厚く一時は播磨国(はりまのくに)高槻(たかつき)に六万石を与えられたこともあったが、秀吉からバテレン追放令が出されると、領地と財産のすべてを捨て信仰の道を選んだほどの男で、この年の二月まで前田家に匿われていた。権力者にとっては信仰に生きる人間ほど恐ろしいものはない。この時期の家康にはこうした不審因子を完全に排除する必要があったのだろう。
 さて、築城に関わる大名たちは、家康に違背の意志がないのを示すため総力を挙げ、また競うようにして作業に取り組む。城郭の西側には土木職人や大工職人が住む町が形成され、内堀を本丸へ渡す太鼓橋(たいこばし)も造られ、城を象徴する二重櫓が完成し、その作業がほぼ完了したのは同じ年の七月五日のことである。その間わずか四ケ月、まさに電光石火の早業であった。
 家康はその完成を待っていたかのように、方広寺の鐘銘(しょうめい)をめぐる問題で豊臣秀頼の断罪を決定した。そして全国の大名に大坂への出陣の命令を下す。その意味から高田城築城は、家康が打った戦国最後の布石と言える。
 「大御所様からの出陣命令じゃわい。ろくな石垣もないしまだ天守もないが、福嶋の城下町をそのままこちらに持って来て、佐渡の金銀輸送のための北陸街道と、信濃へ通じる北国街道を整備すれば立派な城下町の完成だ! ここまでできていればあとはなんとかなるだろう──五郎八姫をよろしく頼むよ」
 政宗は忠輝にそう言うと、慌ただしく高田を去って行った。



 慶長十九年(一六一四)秋──風雲は急を告げていた。
 家康の言いがかりとも言える秀頼征伐の決定に、豊臣家は秀吉が遺した莫大な金銀を使って旧恩のある全国の大名や浪人衆を集めて召し抱えたが、その援軍要請に応える者は数えるほどしかなかった。それでも明石全登(あかしたけのり)や後藤又兵衛、真田幸村や長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、毛利勝永のほか塙直之(ばんなおゆき)や大谷吉治などが集まって、およそ十万の陣容を整えた。彼らの中には豊臣家の再興を願い、討ち死に覚悟で忠義を尽くそうとする者もあったが、そのほとんどは関ヶ原の後に御家取り潰しなどの()き目にあい徳川への復讐を考える者や、戦乱に乗じて一旗上げようとする者たちによる寄せ集めの烏合(うごう)集団に違いない。士気だけは異常なほど高いがその分統制がとれず、急な陣立てに混乱していた。
 これに対して家康は十月十一日、自ら軍の指揮を執って駿府を出た。幕府側の動員兵力は約二十万、大坂冬の陣は数の上では敗けるはずのない戦だったのである。
 このとき福島正則や黒田長政、加藤嘉明などは江戸城に留め置きとされ、家康は端から豊臣恩顧の大名を信用していない。そして忠輝もまた江戸の留守居を命じられるが、これは江戸で不穏な動きが生じるのを監視するためと考えられる。しかし高田を天下の城下町にするためにやらねばならない事は山積みだった。
 城を東に配置して、西に家臣団の屋敷を構え、北は奥州道、南は信州街道、そして西は加賀街道を引きこんで、町は南北に走る北国街道に沿って作り、西の端には寺町を形成する。さらに町の街路はT字、L字、鍵型(かぎがた)、食い違い十字路などを駆使し、見通しのきかない屈曲した作りは敵の侵入と城の防御には最適である。その中心部はほとんどが福嶋城下にあった小町、紺屋町、田端町、春日町、直江町、善光寺町、長門町、中屋敷町を移す予定で、寄大工町や大鋸町(おおがまち)は城下町建設当初から、諸国から集められた大工職人などが移り住んだ場所である。
 そんなこんなで時間を割かれ、結局忠輝の出発はかなり遅れてしまうのだった──。

 十一月十九日、陣を張った家康は攻撃を開始し、三十日には徳川二十万の軍勢が大坂城を完全に包囲した。もはや秀頼の命運も尽きていたが、そこで奇跡を起こしたのが真田幸村である。世に知られる真田丸の戦い≠ヘ、徳川方二万近くの兵を相手に幸村五、〇〇〇ばかりの兵が完全勝利した伝説となった合戦だ。この戦いで徳川方は一万以上の兵を失ったと伝えられる。
 まさかの番狂わせに家康は焦った。総攻撃を提案する秀忠に、
 「侮ってはならん! 戦わずして勝つ事を考えよ!」
 と叱責して、降伏を促しつつときたま(とき)の声を挙げたり鉄砲を放っては威嚇を続け、やがて和議交渉が暗礁に乗り上げると、一斉砲撃を開始した。このとき使われた大砲というのが西洋より取り寄せたばかりの世界最先端のものも含まれていたから、その弾丸の飛距離は想像を越えていた。武装した三、四人の女房を従え兵達の鼓舞に奔走していた淀殿だったが、そのうちの一発が大坂城の天守を貫くと、その威力に恐れおののいた。
 「和議じゃ! 和議じゃ!」
 こうして、豊臣側は「本丸を残し二の丸、三の丸を破壊。惣構(そうがまえ)の南堀、西堀、東堀を埋めること。」「淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田長益(おだながます)より人質を出すこと。」を条件とし、徳川側は「秀頼の身の安全と本領の安堵。」「城中の諸士については不問とする。」ことを条件として和議が成立する。
 この戦における伊達政宗は、一八、〇〇〇の兵を率いて大和口に布陣したが、特に戦功を挙げることはなく、和議のあとの堀を埋める工事に従事しただけだった。
 家康と秀忠は大坂を離れた──。
 ところが徳川軍が去った直後から、大坂方は二の丸や三の丸の堀を再び掘り起こし、城門や櫓の修復をはじめたものだから、和睦条件の違約に対し、家康は秀頼に「浪人の解雇」か「豊臣家の大和または伊勢への移封」を要求するが、豊臣家はこれを二つとも拒否したために、ついに最終決戦が勃発する。これが世に言う『大坂夏の陣』である。
 この戦いには忠輝も参陣することになった。
 四月二十二日、京都の二条城に終結した徳川方は、約十五万の兵を京都から京街道を南下する河内方面軍と、奈良から西進する大和方面軍との二手に分けて攻撃することを決めた。伊達政宗は一万五、〇〇〇の兵を率いて大和方面軍四番手として、また松平忠輝は大和方面軍総大将として政宗の後方に布陣することになる。
 これに対して本丸の堀しか残されていない大坂勢は野戦で迎え撃つしか手がない。もはや勝ち目のない戦況に武器を投げ出し大坂城を去る者や、和議による解雇もあって、豊臣方の戦力は七万程度しか残っていなかった。
 将軍徳川秀忠は、この戦でなんとか戦功を挙げ、父家康に認めてもらおうといきりたっていた。というのは冬の陣の際に大失態を演じていたからである。『関ヶ原』での遅参の悪夢は彼を追い詰めていた。
 「今回は絶対に遅刻できない!」
 という強い思いは逆に進軍を急がせた。ところが彼の率いる兵の数は六万にもおよぶ大軍、急ぐあまりに兵士たちが付いて行けず、家康のところに到着した時には兵達が疲弊しきって、おまけに武器、弾薬も置き去りだったのだ。
 「ばっかもん! お前ひとり来てなんとする! 兵が疲れ切っていたら(いくさ)にもならん!」
 と家康の大激怒を買ったのだ。
 話はそこで終らない。今回も急いで大坂に向かうわけだが、中に主君秀忠に遅れをとった旗本長坂信時という男が、急ぐあまりに近江守山あたりで忠輝の軍列を追い越した。当時の軍法では乗り打ち(馬などに乗ったまま大名などの前を通り過ぎること)は下乗(げじょう)の礼≠欠いたとして切り捨て御免なのだ。
 「おい、待て!」
 忠輝は男の行く手を遮ってさし止めた。
 「急いでおります! お許し下さいませ!」
 「いや、ならん──」
 忠輝も元来気が短い。「無礼討ちじゃ!」とその場で斬り捨てたのだった。
 そんなことがあったものだから秀忠はますます機嫌が悪い。二条城での軍議の最中も終始イライラしてその鬱憤(うっぷん)が家臣の者たちにも降りかかる。たまたま外にいた忠輝の家臣が世間話のつもりで秀忠の家臣に、
 「どのような布陣になりますかな?」
 と話しかけた時、
 「こたびは忠輝の出る幕などない。お前らはその辺で川遊びでもしておれ」
 と横柄(おうへい)な態度で応えたものだから、忠輝の家臣はかっと頭に血をのぼらせた。もともと短気な忠輝を主君としている上に、戦の前とあってはただでさえ血の気も多い。
 「愚弄(ぐろう)するか! 曲がりなりにも大御所様のお子である忠輝様に、川遊びでもしておれとは聞き捨てならん!」
 いきなり腰の刀を引き抜いて、ばさりと秀忠の家臣を斬り捨ててしまった。二条城は大騒ぎ。それを聞きつけた家康は「内輪喧嘩(うちわげんか)もたいがいにせい! 沙汰は戦が終ったら言い渡す」と言って、そのときはこれで終った話である。
 ところがそれを聞いて伊達政宗も笑いながら忠輝に同じような事を言った。
 「この戦は戦う前からすでに決着がついておる。婿殿は川遊びでもしていればよろしい。なんならわしの手柄を半分婿殿に差し上げてもいいわい」
 と哄笑するものだから、忠輝はすっかり戦意を失った。
 そして決戦の火ぶたが切って落された五月六日早朝──。
 まず、徳川方の河内方面軍に対して豊臣方の後藤又兵衛が攻撃を開始して討ち死にする。豊臣勢はいったん誉田(ほんだ)まで兵を退くが、その後方を衝こうとした伊達政宗は一番いやな相手真田幸村と激突した。幸村五千の兵に政宗一万五千の兵はじりじり押され、ついには道明寺まで押し戻された。
 このとき疾風の如く忠輝の軍勢が現われ──れば良かったのだが、戦意喪失の当の本人は言われた通りに近くの河原で水遊びをしていた。
 「殿っお! たいへんでございます、伊達勢(だてぜい)が押されております!」
 「なんだとぉ!」
 慌てて具足を身に着け出陣するも、すでに戦いは終っていて、
 「いやあ、面目ない!」
 と政宗は頭を掻いて笑って言ったが、忠輝は遅参の将≠ニいう拭えない汚名を背負うことになってしまった。
 この日は豊臣方の木村重成も戦死、長宗我部盛親も敗退し、豊臣勢は大坂城近郊に追い詰めらた状態のまま徳川優勢で日が暮れた。真田幸村は茶臼山に本陣を布き、決着の五月七日を迎える──その戦いは様々に語り継がれているところなのでここではあえて触れない。
 勝利した家康はこの年の七月、『応仁の乱』以来一五〇年近くにわたって続いた戦国の世に終止符を打ち、名実ともに天下平定の元和偃武(げんなえんぶ)≠打ち立てた。



 大坂の陣が終ると忠輝はそそくさと国許に帰った。遅参≠ニいう汚名に後ろ指を指されることにも屈辱を感じていたし、なにより高田城下ではやらねばならないことが山ほどあった。ところが朝廷に戦勝報告をする家康は、忠輝を共に参内(さんだい)させようと言い出した。この時彼は既に大坂にいない。居残りの家臣が早馬で報せに来ると蒼白になって、
 「病気で動けんと伝えよ!」
 と急ぎ返すが、秀忠の家臣斬り捨て≠ノ戦場遅参=Aさらには参内命令辞退≠ニ三拍子揃っては家康が激怒するのも無理はなかった。
 「以後二度と会わん!」
 勘当(かんどう)とも言える厳しい処分を言い渡されて、忠輝は愕然と肩を落す。
 しかし高田城下に響く槌音(つちおと)は俄かに彼を元気づけ、五郎八(いろは)の手を取っては城を飛び出した。そこには健気に生きる庶民たちの息づかいがあり、
 「この者たちが城を支えてくれているのだ──」
 と思うと忠輝の目頭は熱くなる。
 ある日のことである。大手門を出た馬出しの辻に大勢の人だかりを見つけた。
 「なにごとか?」
 と顔を見合わせた忠輝と五郎八がそろりそろりと近づけば、群衆の視線の先では数人の瞽女(ごぜ)が三味線を奏で、楽しそうな瞽女唄(ごぜうた)を唄っているではないか。
 「面白そう! 見て行きましょうよ!」
 と五郎八が言うので、二人は腰を下ろしてすっかりその芸に見入ってしまったのだった。

♪なんぼ狐の子じゃとても 腹は十月(とつき)の仮の宿
 御身(おんみ)保名(やすな)の種じゃもの あとの仕入れは(はは)さんと
 皆人々に褒められなば 母は陰にて喜ぶぞえ
 必ず必ず別れても 母はそなたの影身に添い 行く末長く守るぞえ
 とは言うものの振り捨てて これがなんと帰らりょう
 名残り惜しいや可愛やな 離れがたないこち寄れと
 膝に抱き上げ抱きしめ 顔つくづくと打ちながめ
 これのう可愛や童子丸(どうじまる) これ今生(こんじょう)暇乞(いとまご)い……

 「これ知ってる……」
 と五郎八(いろは)が言った。聞けば信太妻(しのだづま)の物語≠セと教える。忠輝は五郎八が飼う片目の白狐葛之葉(くずのは)≠思い出す。
 瞽女(ごぜ)は女の盲人芸能者のことで盲御前(めくらごぜん)≠ニも言った。一方男のそれは座頭(ざとう)≠ニ呼ばれ、江戸時代は一つの立派な職業として幕府から公認されており、彼女らは全国を巡る旅芸人として生計を立てる。どういうわけか越後の瞽女(ごぜ)は昭和中期まで継承されたほど盛んで、それほど越後には盲人女性が多かったものか。降り積もる雪の強い光が眼から光を奪うのだとも言われるが、このとき忠輝が目にした瞽女(ごぜ)たちは、高田城下の形成に伴なって移り住んできたものと思われた。
 盲人芸能といえば『平家物語』の琵琶法師(びわほうし)≠ェ有名だが、古くは平安時代仁明天皇(にんみょうてんのう)(在位期間天長十年(八三三)〜嘉祥三年(八五〇))の頃にまでさかのぼる。その第四皇子である人康親王(さねやすしんのう)は若くして失明し、そのため出家して隠遁(いんとん)生活を送った。その際同じ盲人たちを集め琵琶や管絃(かんげん)、詩歌を教えたと言う。その死後、側に仕えていた盲人に検校(けんぎょう)と呼ばれる盲人の役職が与えられ、これが後に盲官の最高位として定着した。琵琶法師は検校≠ニか別当(べっとう)≠ニか勾当(こうとう)≠ニか座頭(ざとう)≠ニか呼ばれるが、これらはみな役職の名で、鎌倉の頃から当道座(とうどうざ)≠ニ言われる自治的な互助組織が作られるようになり、それは江戸時代に入ると寺社奉行の管轄下で引き継がれる。つまり座頭(ざとう)≠フ『座』もいわゆる職能組合のことで、江戸幕府は障害者を保護するため排他的で独占的な職種を容認することでその経済的自立を図ろうとしたのである。女性の盲人においては瞽女(ごぜ)座≠ェ存在し、彼ら彼女らの仕事は旅芸人や演奏家などにとどまらず、按摩(あんま)鍼灸(しんきゅう)などにも職種を広げることになる。
 演奏が終ると忠輝は手を叩いて称嘆(しょうたん)した。そして城から鍋などを持って来させると、煮物を作って囲んで談笑したばかりか、彼女たちが旅先で知った情報を提供してもらうかわりに屋敷を与え、高田城下に住まわせるのだった。

 大坂の陣より半年ばかり過ぎた頃、徳川家康は体調を崩して倒れた。人生五十年と言われていた当時、御年数えで七十五と言えば大層な長生きである。
 高田城にその報せが届くと、まだ雪が残る北国街道を忠輝は馬を走らせ駿府へ向かった。ところがそこにはすでに秀忠がいて、
 「何しに来た。大御所様はお前とは会わん、帰れ!」
 とけんもほろろに、面会謝絶を(こうむ)るのだった。
 「私は兄上に会いに来たのではない。父上にお会いしに来たのだ! 通せ!」
 と食い下がったが、大坂夏の陣での出来事は予てからの兄弟間の確執を深め、その感情は怨恨へと変わっていた。ついに対面が叶わなかった忠輝は、仕方なく駿府城下の禅寺に寓居して、父家康の快復を祈りつつ、これまでの至らなかった行動を反省するうちに、ついに家康は薨去(こうきょ)する。時に元和二年(一六一六)四月十七日巳の刻(午前十時ごろ)のことである。
 寺で座禅を組んでいた忠輝のもとに母茶阿局(ちゃあのつぼね)が来てそのことを伝えた。そして懐に(いだ)いていた風呂敷包みから一節切(ひとよぎり)の縦笛を大切そうに取り出すと、
 「大御所様からでございます……形見にせよと……」
 と言って涙と一緒に手渡した。
 「父上から──?」
 それは乃可勢(のかぜ)の笛で、かつては織田信長が愛し、後に豊臣秀吉の手に渡り、そして家康の手へと伝わった『天下人の笛』と称される名器である。

 野に出てひとたびその笛を吹けば、大地から十万の鎧武者(よろいむしゃ)が湧き()ずる──

 そう伝わる戦国三英傑の秘宝だった。
 「なぜ私に?」
 「それはわたくしにも分かりません……ご自分でお考え下さい──」
 父には生まれた時から軽くあしらわれて来たと思い込んでいた忠輝は、このとき初めて父の大きな愛に触れた気がして、男泣きに涙をこぼした。そして家康の本当の心を探りながら悲し気な音色を響かせるのである。

 将軍秀忠を支えよ──
 お前は外から徳川幕府を監視せよ──
 それでも万一秀忠が偃武(えんぶ)の世を乱す時は、野に出てこの笛を吹くがよい──

 茶阿局(ちゃあのつぼね)はその笛の音に見送られ、やがて静かに禅寺を後にした。こののち髪を下ろし、朝覚院と号す。
 ところがどこで漏れたかその噂が、伊達政宗と結託した松平忠輝の幕府転覆の陰謀話となって、東海道を通って江戸にまで伝わった。それは当時来日していたイギリスの貿易商人リチャード・コックスの日記にも記されるほどで、世の風評というものは、真実を隠して桜前線のように、瞬く間に民の間に面白可笑(おもしろおかし)しく広がるものか。その風聞を耳にした秀忠は、いみじくも十万のキリシタン大名の蜂起(ほうき)を連想して震え上がった。
 忠輝が高田城に戻って七月六日のことである。江戸の将軍秀忠より一つの沙汰が下された。

 改易──伊勢国朝熊(あさま)へ配流──

 忠輝は目を疑った。
 その表向きの理由は、大坂夏の陣において総大将を務めながらも遅参したうえに戦功を挙げなかった事と、朝廷に戦勝の奏上をする際病気を理由に参内しなかった事、そして将軍秀忠の旗本斬殺の責任を負うものであるが、忠輝には秀忠が自分を陥れようとする訳が次から次へと浮かんだ。
 一つは妻の五郎八(いろは)がキリシタンであると疑っていること、一つは大坂の陣での怠戦は豊臣方にキリシタンが多かったための同情心だと誤解されていること、一つは舅の伊達政宗の勢力を怖れていること、一つは幕府内で大きな影響力を持った大久保長安と近しい関係であったこと、一つはその長安の血筋の者と婚姻関係を結んでいること、一つは幕府転覆の噂に警戒していること、一つは乃可勢(のかぜ)の笛を家康から授かったことへの嫉妬……少し考えただけで幕府の基盤を揺るがしかねない不安材料ばかりなのだ。
 忠輝は懐の乃可勢(のかぜ)の笛を握りしめて、
 「甘んじて受け入れるしかあるまい──」
 と眼を閉じた。
 華やかな扇面図(せんめんず)が描かれた襖絵(ふすまえ)に囲まれた薄暗い空間で、五郎八(いろは)は一人泣いていた。淡い紫に赤や黄色をあしらった色艶やかな着物をまとい、もう二十歳を過ぎているというのにその顔はまだ子供のようにあどけなく、膝に抱えた葛之葉の白い毛並みを右手で()でながら、こぼれる涙で濡らした。
 「五郎八(いろは)、入るぞ……」
 開いた襖の間から忠輝が寂しげな顔をのぞかせると、五郎八は慌てて左手で涙を拭い、その手に握られた誰かからの書状をよれよれと濡らす。
 「泣いているのか……?」
 忠輝は自分の悲しみを隠すように優しく聞いた。
 「父上が仙台に戻れと申します。けれど私は殿と離れ離れになるのは嫌でございます……」
 五郎八は忠輝の懐に抱かれた。
 「わしとて不本意じゃ……」
 「いっそ二人で死にましょう──」
 その言葉の中に忠輝は、彼女の死ぬ≠ニいう覚悟の向こう側にあるはずの永遠の楽園の光を見た気がした。しかし、
 「それはできぬ──」
 と小さく言った。
 「わしには父上から託された、どうしても護らねばならぬ約束があるのだからね……」
 そしてすすり泣く彼女のか弱い身体を、一層強く抱きしめた。
 「広間に瞽女(ごぜ)さんを呼んでおる。ほうれ、以前馬出しで見てより気に入っていただろう? 最後の別れの盃を交わそう」
 そうして広間に場所を移せば、部屋の中央に二人分の(ぜん)が用意され、深い森を描いたきらびやかな屏風の前には、老婆とまだ年端もいかない十くらいの二人の瞽女(ごぜ)が、まだ新しい畳に額を押し付けていた。忠輝と五郎八(いろは)はまるで祝言でも挙げるように、やがてゆっくりと膳の前に正座した。
 「始めてくれ──」
 すると老婆の瞽女(ごぜ)は三味線の弦をバチで「ビンッ」と奏で、自己紹介を即興の歌にして唄い始めた。
 「♪今宵(こよい)お城に召し(いだ)されるは、身に余りたる光栄なれど、ただいま一座は全国を旅する巡業なれば、留守居の老婆とこれにおわす見習いのおさと(○○○)がお相手仕ります。三味を弾きたるこの老婆は、今は梅干し婆さんなれど、右大臣織田さま(織田信長)がお隠れになった頃は、鬼もほころぶとは私の事で、旅回りのお宿お宿で蝶よ花よと持てはやされたものでございます。ところが生まれながらにわたしゃ目が見えぬ。だから(おの)が姿をただの一度も見たことがございませぬ──」
 五郎八(いろは)は「ふっ」と吹き出した。忠輝は紅色した蓬菜(ほうらい)(さかずき)を彼女に持たせ、酒を注いで二人で天井を仰いだ。
 「♪さて婆さんの話はこれくらいにして、隣にましますこのおさと(○○○)、生まれは和泉国(いずみのくに)信太村(しのだむら)、五つの時の病にて、光を失ってよりずっと国で(ほう)けておりました──」
 すると、おさと(○○○)と紹介された童女の瞽女(ごぜ)は、抱えた三味線を「ビ、ビンっ」と鳴らし、老婆の唄に加わった。
 「♪我が身を深い闇に置き、六つにして世の無常を悟りなば、いっそ生きてもしょうなしと、父より授かりし小柄(こづか)にて、身を裂いて何度死のうと思ったか──」
 おさと(○○○)は三味の手を休めると、懐から「これがその小柄(こづか)でございます」と言わんばかりにかざして見せて、やがて膝元に静かに置いた。
 「♪そのときどこからか三味の(おと)、その()に誘われ出てみれば、辻にて三味弾く越後瞽女(ごぜ)、見えぬ目よりか涙がぼろぼろこぼれます。それにて私は国を捨て、今は高田の一座に身をやつし、弟子見習いの身分であれど、次の春より巡業のお供をする所存──」
 「♪今宵この二人にて披露させていただきます演目は、おさと(○○○)が国は和泉に伝わる信太妻(しのだづま)=B最後までごゆるりお聞きくださいませ──」
 忠輝と五郎八(いろは)は顔を見合わせた。そして五郎八は膝に抱いた葛之葉の白い毛並みを撫でながら「お前のお話よ」と囁いた。

 「♪さればに、アーよりてはこれにまた
 古き文句に候えど ものの哀れを尋ねれば
 むかし信太の森の白狐 変化(へんげ)に葛の葉子別れを
 事細やかには読めねども あらあら読み上げ奉る──」

 忠輝と五郎八は拍手を送ると、(さかずき)の酒を口に含みながら膳に箸をつけて耳を傾けた。

♪母は信太のくれ狐 身の置きどころがないわいの
 どうしょうぞえの童子やと嘆き給えば童子丸(どうじまる)
 たんだ五つの幼子は母の言うこと聞き分けて
 申し上げます母様へ あなたは狐と言わしゃんすが
 狐の腹から生まれたなら 童子も狐でござんしょの
 お前の行かんす信太とやらへ 私も一緒に行きたいと
 言う子の顔が見納めか これがこの世の別れかと
 思い廻せば廻すほど これが泣かずにおらりょうか……

 その物語はどこか忠輝と五郎八(いろは)の境遇と重なった。白狐が変じた妻葛の葉姫は五郎八姫、夫の保名(やすな)と童子丸は忠輝で、いま今生のお別れに、涙をこらえて見つめ合う。思えば二人に子はなかったが、福嶋城の海で拾った葛之葉が、五郎八にとっては我が子のようだった。
 瞽女(ごぜ)の物語が次の段に入ろうとしたときだった──。

♪たちまち千年(こう)ったる白狐と現れて
 天(にわ)かにかき曇り 狐火四方へぱっとあげ……

 五郎八(いろは)の膝に抱えられた葛之葉(くずのは)が、突然七、八尺ほどの高さに飛び跳ねて、五郎八の膝の前の畳に着地したかと思うと、両耳と長い尻尾をピンと立て、おさと(○○○)の方をジッと見つめたまま石になったように動かくなった。そのとき同時に三味線の音も止まり、おさと(○○○)はその気配を感じた五郎八(いろは)の方を見つめて、
 「きれい……」
 と呟いた。忠輝は不思議に思って、
 「おぬし、目が見えぬのではないのか? 五郎八(いろは)の姿が見えるのか?」
 「はい、神々しいまでの御姫様の姿が見えまする。お近くに寄ってもかまいませぬか?」
 五郎八は少し恥ずかしそうに忠輝を見つめ、やがて「かまわぬ。こっちへ来い」と言った。
 おさとは静かに立ちあがると、暗闇で辺りの障害物を探りながら注意深く前へ進むときのように、両手を前にかざして五郎八の方へと歩み寄った。
 「その眩しい胸の十字の首飾りは何でございましょう?」
 おさと(○○○)の言葉に五郎八(いろは)は首を傾げた。十字架のネックレスは今は自分の首になく、葛之葉(くずのは)の首にかかっているのだ。
 すると突然老婆が悲鳴に似たしゃがれ声で、
 「おさと、行ってはならぬキツネじゃ!」
 叫んだと思うと、手探りで彼女が座っていた座布団の前に置かれた小柄(こづか)を掴むと、まるで獲物を狙うムササビの如く五郎八の方に駆け寄ると、そのまま葛之葉の左目を突き刺した。
 飛び散る血しぶきに葛之葉(くずのは)は「ぎゃあ!」という悲鳴をあげて、哀れ完全に光を失った白狐は、部屋を逃げ回り、身体を何度も壁にぶつけながら、やがて騒ぎに驚いた家臣が開けた襖の隙間から外に飛び出して、そのまま二度と帰ることはなかった。
 「何をするか!」
 五郎八(いろは)は気が狂ったように激怒した。しかし老婆はむしろ良い事をしたのだと言うように、
 「あれは和泉国は信太が森に棲む千年生きる白狐、その身野干(やかん)にして冥途(めいど)の遣いじゃ。たびたび人の世に現じて幸いをむさぼり喰うと言う。よもや同郷のおさと(○○○)の匂いを嗅いで、また再び人を騙そうと美しき姫の姿に変化(へんげ)したものに相違ない──」
 「たわごとを申すな!」
 五郎八は「わん」と声をあげ部屋を飛び出した。自分の境遇を受け入れている忠輝は、いまさら怒る気力もなくて、
 「最後の別れが台無しじゃ……」
 口惜しそうにつぶやいて、盃の酒を飲み干した。
 「我ら(めしい)は光を見ることは出来ませんが、その分闇の声を聴くことができるのでございます。今宵の事はお殿様を思ってした事にございますが、もし無礼に値するものであったなら、どうぞこの老婆をお斬り捨て下さいませ。しかしおさと(○○○)は未来ある童女。この老婆の命に免じて、どうか、どうか、命だけはお助け下さいまし──」
 「もうよい、帰れ……」
 こうして何日かの後、五郎八は江戸伊達藩邸より(まか)り越した駕籠(かご)に乗って高田城を去り、忠輝もまた、信濃より護送に来た真田信之と千石忠政のお縄に繋がれ伊勢国は朝熊に送られる。
 その後忠輝は、流罪の身のまま飛騨国高山に預けられ、最後は信濃国諏訪の高島城に幽閉されて、天和三年(一六八三)七月、家康から授かった乃可勢(のかぜ)の笛と五郎八姫と最後の盃を交わした蓬菜(ほうらい)(さかずき)を抱きしめて、九十二年の生涯の幕を閉じた。一方五郎八姫は、離縁させられてから母愛姫の住む江戸に送られるが、その後政宗の仙台城に移り住み、生涯再婚することはなかったと伝わる。



 新潟後家(にいがたごけ) 新発田(しばた)かぼちゃに弥彦山(やひこやま) 小千谷(おぢや)ちぢみに牛蒡三条(ごぼうさんじょう)

 越後名物の歌に誘われて、『水戸黄門記』に描かれた水戸光圀が高田城に訪れた頃、高田はその歴史において最大の繁栄期を迎えていた。城主は忠輝から酒井家次(いえつぐ)忠勝(ただかつ)父子の二代を経、松平忠昌(ただまさ)が二十五万九千石で入った後は、徳川四家と称される家格を持った松平光長が入城し、寛永元年(一六二四)から延宝九年(一六八一)までの五十七年間という長きに亘ってこの城を治めたのである。巷では、

 アーラみごとや高田のお城 城は白壁八ッ棟(やつむね)造り おおきはしらにほうき橋

 と手鞠歌(てまりうた)にも唄われ、その繁栄は江戸さながらだった。
 ところが光長の嫡子が病死したのをきっかけに『越後騒動』と呼ばれるお家騒動が勃発した。これに対して五代将軍徳川綱吉は、高田藩主松平光長を改易する。さらには本丸、二の丸、三の丸をそれぞれ別の藩主に託すのだが、この城の明け渡しにおける松平光長との戦争騒ぎは世間を大きく騒がした。
 結局高田は幕府直轄領となるが、その後再び高田藩が立藩されてからは、先の騒動の最悪のイメージが定着していて、貞享二年(一六八五) 稲葉正通(いなばまさみち)の移封理由は、親戚の若年寄が大老を暗殺した事件の連座であるし、寛保元年(一七四一)の榊原政永(さかきばらまさなが)の時などは、幕府の質素倹約令を無視した父榊原政岑(まさみね)の吉原での豪遊、そして吉原の大夫(たゆう)を身請けしてド派手な行列と祝宴を催したのを咎められたのが原因である。つまり江戸中期以降の高田城は、不始末を犯した大名の左遷先という位置付けのまま幕末を迎える。
 そんな時代の移り変わりを知ってか知らずか、()き手に引かれて褄折笠(つまおりがさ)が峠を越える──。

♪今日は水内(みのち)か明日は安曇(あずみ)か、旅の行く先きゃお宿の主人。
 どうぞ馬屋でも物置でも泊めておくんなさい。
 わしら目が見えぬから気にゃならぬ。
 唄だけ歌えば長居はせぬし、冬は高田へ帰らにゃならぬ。
 コンコン、コンコン……鳴く声は、
 アリャ葛之葉(めしい)の白狐。
 わしらと帰ろか高田のお城へ……。

 二〇二一年四月二十八日
(2021・04・20 高田城『上越市立歴史博物館』にて拾集)
 
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ブル()サマ
城郭拾集物語I 北海道五稜郭
五稜郭
函館奉行所
土方歳三



 五稜郭(ごりょうかく)と言えば真っ先に星形五角形の堡塁(ほうるい)を思い浮かべる人も多いのだろう。
 そしてなんといっても幕末戊辰戦争(ぼしんせんそう)終焉を象徴する城である。
 この珍しい形状は全国的にも非常に珍しく、もともとは十六世紀のヨーロッパで考え出されたそうだが、西洋の城塞都市(じょうさいとし)の形がなぜ日本にあるのか? 五稜郭が完成したのは元治元年(一八六四)だが、建設が幕府に認められたのは安政元年(一八五五)末である。ペリーが来航して日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)が締結(嘉永七年(一八五四)三月)され下田と箱館(函館)が外国に開かれたとはいえ、鎖国が終わってまだ一年くらいしか経っていない。情報の流入がそれほど早かったとは考えづらいし、でなければ城を設計した武田斐三郎(あやさぶろう)にその知識があったものか? 彼は蘭学者である。
 否、そうでない──。
 安政二年(一八五五)六月頃からフランス軍艦が箱館湾にたびたび入港しては、箱館奉行に対して病人の上陸と養生(ようじょう)許可を要請していた。このときはまだフランスとの国交はなかったが、箱館奉行は人道的見地から幕府の了承を得ることなくこれを許可し、実行寺に病人と医師や看病人などを受け入れていたと言う。箱館は、国籍を問わず負傷兵を受け入れ手当てを施した赤十字精神発祥の地でもある。
 このときのフランス軍艦というのはシビル号、ウィルジニー号、コンスタンチーヌ号の三艘だが、特にコンスタンチーヌ号の時は六十五日間に及ぶ期間に渡り停泊し、その間、武田斐三郎は同艦の副艦長からパリ郊外にある城塞都市の絵図を示されたのだと言う。それが星型をした西洋の城塞都市だった──なるほど星形の尖った部分に鉄砲や大砲を配備すれば、どこを攻めても隙のない鉄壁の守りが出来る発想は当時の日本にはなかっただろう。
 その中心部に建つのが箱館奉行所である。
 開港当時の奉行所は箱館山の麓にあった。現在は山頂の展望台から見る夜景が有名な山である。そこは見晴らしが良く箱館の港と町が一望できた。ところが外国船の出入りが頻繁になると、見晴らしの良さは返って防衛上の欠点になり、しかも箱館港から五里四方を外国人の遊歩地としたため箱館山の背後から攻撃される心配も生じていた。そこで現在五稜郭がある地点へ移転されたというわけである。そこは港から約三キロメートルほど離れていたので海からの大砲の攻撃も避けられ、市中からそれほど離れてもいない。そして移転と同時に海岸防備として弁天岬台場(べんてんみさきだいば)もつくられた。
 筆者が五稜郭に行ったのは十一月も終り頃、北海道ではすでに雪が積もっていた。
 五稜郭タワーに登って雪に覆われたその白い五芒星(ごぼうせい)を上空から眺めていると、ふと、脇から何やら強い存在感を感じた。威圧にも似たその方向に目を移してみれば、そこにはブロンズ像となった土方歳三(ひじかたとしぞう)が椅子に座っているではないか! そしてほのかに笑みを浮かべて筆者にこう語り掛けるのである。
 「敗けると判っていながら、オレが最果ての蝦夷(えぞ)にまで追い詰められてなお、新政府の連中と戦った理由(わけ)が解かるかい? 男気とか意地とか近藤さんのこととか──そんな単純な事ばかりじゃないよ。まあ、解かってくれとは言わねえが、おめえさんに書けるもんなら書いてみな……」
 今回の物語は、そのとき土方さんから託された一つの約束である。



 慶応二年(一八六七)十二月八日、シャルル・シャノワーヌを団長としたフランス軍事顧問団の中にジュール・ブリュネという男がいた。船が横浜港に着岸したとき、彼は出迎えた在日フランス公使レオン・ロッシュと握手を交わすと、
 「自由の精神は我がフランスからその光を放つ──フランスに栄光あれ」
 と、遠くフランスのある方角に最敬礼して言った。
 文久元年(一八六二)に徳川幕府が派遣した遣欧使節団がフランのナポレオン三世と謁見して以来、幕府とフランスは急速に関係を縮める。幕府は優秀なフランス人技術者を日本に招き、横須賀や横浜に造船所や製鉄所の建設を開始し、フランス語伝習所を設けてその関係を深めていた。
 ところがこの頃の幕府というのは第二次長州征討に失敗し、軍隊の近代化は急務であった。そこで幕府はフランスから七〇〇万ドルに及ぶ資金融資と武器を購入し、砲兵、歩兵、騎兵の陸軍軍事養成を依頼すると、皇帝ナポレオン三世は開国したばかりの日本との関係を更に強めるためにフランスでも指折りの十五名の軍人で構成した対日軍事顧問団の派遣を決定した。ブリュネはその副団長を務めるのである。
 彼は一八三八年、フランス東部のアルザス地方、オー=ラン県ベルフォールで生まれた。父は、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン一世)失脚後の復古王政の下で働く、騎兵連隊付きの獣医であった。
 当時のフランスはナポレオン一世による第一帝政が崩壊し、一八三〇年の七月革命によって革命以前の王政が再び布かれていた。政治を安定させるため七月王政が利用したのは、かつてのナポレオン時代を追慕する民衆感情である。ナポレオンが着工したまま未完成だったエトワール広場の凱旋門を完成させ、ナポレオンの遺骸をセント・ヘレナ島からパリに帰還させたのもそのためだった。こうして民衆の間にボナパルティズム≠ニいう信仰とも言うべきものが定着し最高潮に達する。やがてボナパルティズム≠ヘフランスのみならずヨーロッパ全土へと広がり、ドイツのハイネやゲーテ、イギリスのカーライルなどにも大きな影響を与える。
 ところが産業革命期とも重なるこの時代のフランスは、資本主義の土台が築かれ経済を発展させた反面、著しい貧富の格差を生み、多くの民衆は貧困に喘ぐ悲惨な生活を余儀なくされていた。そのため社会は犯罪にまみれ、民衆の不満はナポレオンの帝政時代への憧憬(しょうけい)と、プロレタリアートによる社会主義への期待を目覚めさせ、やがて蜂起した民衆は一八四八年二月、国王ルイ・フィリップをロンドンへ追放してしまう。この二月革命が勃発したのがブリュネが十歳のときだった。
 その後しばらくの間フランスは第二共和政を()くが、同年六月に行なわれた憲法制定国民議会の補欠選挙に四県から選出されたのがルイ・ナポレオン・ボナパルトであった。後のナポレオン三世である。ところが当時ルイはロンドンに亡命中で、フランスに対して野心を持っていないことをアピールするため当選を辞退した。その行為がボナパルト家に同情を集める結果を招き、追放令が解除されるに到ると、九月に行なわれた補欠選挙に再度立候補し、またもや議員に選出された。今度はこれを受諾したルイはパリに帰還し、十一月に制定された第二共和政憲法の下で、十二月に大統領選挙が行なわれることになった。
 ルイ・ナポレオンはこの大統領選挙に立候補する。それはフランスにおける共和制と、自由と、民主主義国家の定着を意味するはずだった。ところが選挙に圧勝したルイ・ナポレオンは、大統領の再選を禁じている憲法をクーデターにより改正し、あろうことか独裁政権を樹立してナポレオン三世を名乗ったのだった。その有り様は、良いか悪いかは別にして、ナポレオン一世が皇帝に就任した時と重なりフランス国民は熱狂した。まさに共和制と帝政とは紙一重であり、ひとつ間違えば民衆を苦しめる強権政権にもなり得たはずだった。かの文豪ビクトル・ユゴーなどは、
 「農民よ、皇帝といえども二人いるのだ。偉大な皇帝と卑小な皇帝、光輝な皇帝と破廉恥な皇帝、大ナポレオンと小ナポレオンとがね!」
 「この甥は偉そうに伯父である皇帝の真似をしているだけなのに。ああ、なんということだ。あの広大無辺なナポレオンの光輝を消し去るには、甥のやったようなひどい汚辱の行為が必要だったのだ!」
 と痛烈に批判する。
 ともあれ、民衆の目にはナポレオン三世の出現はナポレオン一世の再来と映った。現にルイ・ナポレオン自身も伯父の跡を継いだという自覚と共に、その理想を実現しようとしていたのである。あらゆる党派をまとめ、その利益を平等たらしめようともしたし、国民一致による政治的統合を実現し、経済と社会の発展と国際関係の安定をはかろうと試みた。彼にとっては自らがボナパルティズム≠フ真の体現者であり、伯父をも凌駕しようとする野心もあったに相違ない。
 そして、ナポレオン一世がフランス革命の自由主義思想を広めた英雄としてヨーロッパ諸国に定着していた頃の、この第二帝政時代のフランスこそ、当時の幕府が頼りとしていた国だった。
 ブリュネの青年期は、この第二帝政時代とともにある。彼は理工科学を修めた後、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を卒業し、第三砲兵連隊の陸軍砲兵少尉となってメキシコに出征して功績をおさめると、国からレジオンドヌール勲章を授与され近衛砲兵連隊砲兵中尉に栄転した軍人エリートなのである。そしてブリュネの精神的支柱となっていたのもまたボナパルティズム≠ナあった。幕府はこのブリュネ大尉に対し三五〇ドルの給料を支給することを約束した(ちなみに団長のシャノワーヌは五〇〇ドル)。
 来日したブリュネらフランス軍事顧問団は、横浜の丘陵地帯に居留することになり、さっそく翌日から大田村伝習所で幕府が急ごしらえで作った伝習隊に軍事訓練を開始する。



 ちょうどその頃、オランダ留学を終え、幕府が発注した軍艦『開陽丸』に乗船して帰途の大海原に揺られる男がいた。名を榎本武揚(えのもとたけあき)と言う。
 天保七年(一八三六)、江戸下谷(したや)(現台東区)の御徒町(おかちまち)で生まれ、父は十七歳のとき江戸に出て伊能忠敬の弟子となり九州の測量にも同行した人物と伝わる。
 榎本武揚十五歳の時、神田湯島(かんだゆしま)昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に入学するもその成績は振るわず、その後は箱館奉行堀利熙(ほりとしひろ)の従者となって蝦夷地(えぞち)の箱館へ赴任し国境設定の調査で樺太(からふと)巡回にも同行した。二十一歳で昌平坂学問所に再入学した彼は、時の大目付役のコネ(○○)に預かって長崎海軍伝習所に入学するが、そのとき出会ったのが勝海舟である。そして伝習所から江戸に戻り、新しく開設された築地軍艦操練所の教授に抜擢されたのが安政五年(一八五八)のことだった。
 文久元年(一八六一)、幕府はオランダに軍艦建造を依頼するが、その監督を兼ねた留学生を派遣することになった。それに選抜されたのが榎本で、翌年六月、オランダ船に乗って品川沖から長崎経由でオランダへ向けて出府した。時に二十七歳の彼が、このときに体験した出来事は、彼にとって大きな転機となったであろう。
 風もなく波静かな船旅に、榎本の意気は天を衝くばかりに前途洋々としていた。ところがインド洋にかかって、ジャワ海の北東にさしかかった時である。船が暴風雨に襲われたちまち海中の暗礁に乗り上げた。嵐はますます激しくなり、山のような怒涛で今にも転覆する恐怖にとらわれていた暗夜、ふと見れば、オランダ人の船長が乗組員と共にボートで本船から逃げ去っていくという信じられない光景を見たのである。榎本ら留学生一行は、船長のない難波船に取り残されて、もはや海底に葬られるのを待つばかりだった。
 喉の渇きと飢えの苦しみに耐え、やがて地獄に垂れ下がってきた細い一本の蜘蛛の糸のように、遠くに一隻の船影を見たのは三日後の事だった。彼らは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)として白布を振って救援を求めた。それはイギリスの商船で、先方も難波船と知って近づいてきたから「助かった!」と留学生一行は抱き合って喜ぶが、近くまで来たイギリス船は遭難者が白人でないのを見て取ると、そのまま船首を返して去ってしまったのである。その落胆といったらいかばかりか。
 しかしその翌日、再び留学生一行を襲って来たのは嵐でなく今度は黒人の海賊船だった。生き延びるに必死の榎本は、咄嗟に日本刀を振りかざして海賊船に斬り込んだ。
 「命が惜しくば我らを島に送り届けよ!」
 逆に脅迫して付近の小島に上陸したのだった。
 そこはプロレパルという無人島。炎熱の太陽と毒虫に苦しめられて四日間、ようやく黒人の先導でジャワ島のバタビヤへ辿り着く。滞在中は、見たこともないパイナップルやバナナ、マンゴーなどの珍しい果実をたらふく食べたものだから、全員腹をこわしてひどい下痢になり、一行が列を作って頻繁に便所へ通う様子にホテルのオランダ婦人たちは窓から顔を出して笑い転げた。
 「何が可笑しい、べらんめえ!」
 榎本は日本語で大喝して拳を突き出したと言う。
 それから間もなく一行は、オランダ政府の好意によって便船を得てヨーロッパへと向かう。そうしてアフリカの南端喜望峰(きぼうほう)をめぐり、セントヘレナ島へ上陸してナポレオン一世の墓に詣でる機会を得た。
 このとき榎本の中で何かが目覚めた。その蓋世(がいせい)の英雄の墓の前から容易に立ちあがらずに、むくむくと込み上げる感慨のまま、次の漢詩を詠んだ。

 長林(ちょうりん)烟雨(えんう)鎖孤栖(こせいをとざす) 末路(まつろの)英雄意(えいゆうのい)伝迷(つたえまよう)
 今日(こんにち)弔来人(ちょうらいのひとを)不見(みず) 覇王(はおう)樹畔(じゅはん)列王鳴(れつおうめいす)

 セントヘレナ島は別名をロングウッド島と言うらしい。榎本はそれを長林≠ニ訳した。つまり、
 「セントヘレナは霧のような雨が降り、孤独の住処を鎖で繋いでいる。英雄の真実の心はいったい何なのか? 今となっては弔来する者もなく、覇王の樹や畔に列王の涙の声が聞こえるようだ」
 彼はあふれ出しそうな涙をおさえてナポレオン≠ニいう人物の存在を深く偲んだのである。このとき、彼の心にもボナパルティズム≠ェ芽吹いたものか。ナポレオンの勇姿は榎本にとって理想となり、目指すべき到達点として焼き付いた。偉大なものとの出会いは、小人を偉大へと導く。偉大な人が偉大な仕事をするのでなく、偉大な目標を持つから人は偉大になれるのだ!
 このあと榎本ら一行は目的地のオランダの首府アムステルダムにようやく到着するが、留学中の彼はオランダ語をはじめ機関学の研究に没頭し、そのほか船舶運用術、砲術、化学、国際法など学びながら、ときおり建造中の開陽丸の進捗を見に行ったり、デンマークとオーストリアとが戦争をしていると聞けば自ら望んで弾丸雨飛の戦線を馳駆(ちく)したり、見聞きする西洋文明の全てを吸収しようと力を尽くす。そのあいまを見つけてはナポレオンの哲学を学ぶのだった。
 こうしてオランダに留まること足掛け六年、開陽丸の竣成と共に、これに乗って帰国する。
 彼が江戸に戻ったのは慶応三年(一八六七)五月。以降、開陽丸艦長に任ぜられ、そして軍艦頭取、軍艦奉行と累進し、ついには従五位下の和泉守(いずみのかみ)へと叙任される。



 さて、榎本が日本に帰った頃、京都の西本願寺にいる土方歳三は新選組の屯所のことで頭を痛めていた。
 というのは元治元年(一八六四)七月の池田屋事件以来、新選組の評判がうなぎ登りに上がり、当時四十名程度だった隊士の数が二百名を越えるほどの大所帯となり、昨年(元治二年)五月に屯所を壬生(みぶ)の私邸から西本願寺に移したものの、その境内で行なわれる軍事演習で寺や周辺住民のことなどおかまいなしに二門の大砲を派手にぶっ放していたものだから、あるときその轟音で本堂の屋根瓦が崩れ落ちた。日頃から何かと血生臭い物騒な話も絶えなかったし、組織内の抗争も頻繁だった。つい最近も伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の新選組離党をめぐって、ひと騒動あったばかりなのだ。加えて、厳しい仏道修行を積む僧侶らの横目には隊士たちの勇ましい振る舞いがあまりに粗暴で、おまけに精進料理中心の寺の境内でぞんざいに肉を食われた日には、さすがの寺側も黙っていなかった。
 「いい加減にしてください! 訓練もよろしいが、どこか別の場所でやってくれませんか!」
 ついに寺の住職に退去を迫られ、
 「はて、どうしたものか……?」
 と、今年初めの長州征討に失敗した幕府と、それに連なる新選組の行く末を案じながら、鬼の副長≠ニ言われる彼に似合わぬため息を落とすのである。
 彼自らが中心となって定めた『新選組軍中法度』の中にも、「昼夜に限らず急変これ有候とも決して騒動致すべからず心静かに……云々」とある。この中の「騒動致すべからず」の言葉がひっかかる。もともと隊士の統率を図るための『局中法度』や『軍中法度』だが、この隊規は土方を表現するに最も正確にして的確と思うので記しておく。

『局中法度』
一、士道ニ背キ間敷事(まじきこと)
一、局ヲ脱スルヲ不許(ゆるさず)
一、勝手ニ金策致不可(いたすべからず)
一、勝手ニ訴訟取扱不可(とりあつかうべからず)
一、私ノ闘争ヲ不許(ゆるさず)

『軍中法度』
一、役所を堅く相守り、式法を乱すべからず、進退組頭の下知に従うべき事
一、敵味方強弱の批判、一切停止の事
一、昼夜に限らず急変これ有候(ありそうらえ)とも、決して騒動致すべからず心静かに身を堅め下知を待つべき事
一、組頭討死に及び候時、その組衆その場に於いて戦死を遂ぐべし。もし臆病を構えその虎口逃来る輩これ有るにおいては斬罪微罪その品に随ってこれを申渡すべく候、予て覚悟未練の働きこれ無き様、相たしなむべき事
一、烈しき虎口に於いて、組頭の外、死骸引退く事をなさず、終始その場を逃げず忠義を(ぬき)んずべき事

 この一字一句に対して土方歳三自身ものすごくストイックなのだ。自分に厳しい分隊士に対しても容赦しなかった。現にそのために粛清された隊士も大勢いるのだ。
 『決して騒動致すべからず──』
 だからと言って軍事演習を取り止めるわけにいかないし、かといって京都守護職会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)の耳に苦情があがって迷惑をかけるわけには絶対いかない。
 「住職、そうは申せ私らも幕府のお役目を担っているのだ。いったいどうすればよろしいか?」
 「うーん」と唸りながら土方は住職に言った。すると渋々住職は、
 「場所だけでも見つけていただけませんか? さすれば建物、引っ越しにかかる費用は一切西本願寺で持たせていただきますから……」
 と答えた。長年御仏(みほとけ)に仕える住職は、表面上はけっして弱味を見せない鬼の土方≠フ険しい表情の中に、人間味通う温かさをすっかり見抜いているのだった。
 「さようか!」
 こうして新選組は慶応三年(一八六七)六月、西本願寺からほど近い不動堂村に新たな屯所を建て移転していく。
 そしてちょうど同じ頃、文久三年以来の京都における新選組の働きが幕府に認められ、松平容保(まつだいらかたもり)の申し立てにより隊士一統は幕府直参に取り立てられた。このとき与えられた土方歳三の御役名は見廻組肝煎格(みまわりぐみきもいりかく)≠ナある。局長の近藤勇(こんどういさみ)は見廻組支配頭格(しはいがしらかく)≠ナ、旗本の御目見(おめみえ)以上≠フ格も授かり、将軍拝謁を許される身分となった。
 新しい屯所の広さは一町四方あまり。四方を高塀で囲み、表門、玄関、長屋に使者の間から長廊下まで、近藤や土方ら幹部の居間はもちろん、平隊士の部屋や客間や馬屋があって、物見櫓や中間小者部屋まであり、大風呂には三十人が一度に入れたと言う。それは大名屋敷にも匹敵する構えで、隊士の出入りは町をたいそう賑わせた。
 朝から始まる調練に、大砲の音が鳴り響けば近所から見物にやって来る者もある。幕府が軍制をフランス式に統一したのを受けて、新選組もオランダ式からフランス式の調練を行なうことになったのである。そんなもの珍しさも相まって、物見の町人たちの好奇心を煽ったのであろう。
 隊士たちの中には、調練が終わると町に繰り出す者もいた。そしてうろうろするうちに親しくなった家に寄っては茶や食事を馳走になる。おまけに花街島原も歩いてすぐのところなので、古参の隊士にしてみれば馴染みの芸妓のところに通ったり、最初に屯所が置かれた壬生に帰ったも同然だった。あるいはこの頃の新選組が、結成以来もっとも華やかな日々を謳歌していたかも知れない。
 しかしこの新居での生活は、僅か半年くらいしか続かなかった。
 この年の十月に『大政奉還』が成されたと思うと、十二月九日には『王政復古』の政変が起こり、新選組は京都から伏見へと追い出されていくことになる。



 榎本がオランダから江戸に着いた頃、ブリュネはシャノワーヌ団長と共にフランス公使団に伴なって大坂にいた将軍徳川慶喜を表敬訪問した。
 そこでフランス軍事使節団の日本における軍事組織計画の合意を見ると、いったん彼は横浜に戻り、六月に入って騎兵教育担当のオーギュスタン・デシャルム中尉を伴なって江戸に移った。砲兵隊と騎兵隊の訓練をするには横浜より江戸の方が有利な訓練場があって都合よく、九月には横浜の残りの伝習隊も江戸に合流させ、更にその組織を歩兵一、五〇〇人、騎兵三〇〇人、砲兵二五〇人に拡大し、最終的には軍全体として一万二、〇〇〇人の兵と五〇〇人の将校の規模で構成させる計画なのである。
 ブリュネが江戸に移ってすぐの慶応三年(一八六七)六月五日には、同じく江戸に移された部隊、つまり歩兵大隊と二門の大砲、そして騎兵隊による江戸城の周りを行進するパレードが盛大に執り行われた。先頭を務める軍服姿の三人の男はラッパを高らかに吹き鳴らし、その後を笠をかぶった二人の士官が馬に乗り、その身なりは筒袖(つつそで)段袋(だんぶくろ)、足にはブーツを履いて、上にレキション羽織を羽織って刀を高くかざして続く。さらに駄馬(だば)を引く歩兵が延々続き、沿道は驚愕を隠せない市井の人だかりができていた。
 その光景をサラサラと、洋画紙にスケッチする青い目の男が人混みに紛れていた──彼こそブリュネで、まだ写真が一般的でない当時、顧問団の中では優れた画才を活かして記録係的な役割も担っているというわけだった。
 実はブリュネは来日して間もなくの頃より江戸に入って、市中の探索を兼ねて城や周辺の地形、あるいは町の庶民の生活の様子や文化などを気ままにスケッチして回っていたのである。幕府は大手門にほど近いところの屋敷を彼らに提供したので、そこを拠点に彼らの生活は至って快適だった。だからブリュネは好きな時に屋敷を出ては、見たこともない異国情緒に支配された摩訶不思議な大江戸の町の息づかいを肌で感じていたのである。そして瞬く間に日本≠ニいう国の魅力に取りつかれ、我を忘れてスケッチに没頭するのであった。
 「もし──ブルネさま……?」
 彼のスケッチの手を止めたのは一人の町娘だった。
 「オトミ、サン!」
 思わずブリュネはたどたどしい日本語の声を上げた。
 それは前回江戸に来ていた十二月の寒い日だった。外に出れば吐く息は白く、それでも町の様子を探索しようとぶらぶら街中を歩いていると、瀬戸物を扱う商人の店の前だったか一人の町娘が店番をしているのを見かけた。ブリュネはたちまちその娘が身にまとっていた艶やかな着物の美しさに目を奪われ、
 「チョット、イイデスカ?」
 そう言って娘の手を引き近くにあった大きな石の上に座らせると、カバンの中から水彩絵の具を取り出して、かじかむ手をさすりながらサラサラとスケッチを始めた。そうして小一時間ばかりフランス語と日本語のちぐはぐな会話を繰り返しながら『江戸の商人の娘』と題する一枚の絵を描き上げた──。
 ブリュネに話し掛けてきた娘は、そのとき名をトミ≠ニ名乗った女性に違いない。
 「まあ、お上手!」
 この日以来、二人はたびたび会うようになり、ブリュネは異国での孤独の寂しさを埋めるように、またトミは異邦人への憧れを追い求めるように、やがて二人は恋に落ち、ついには一緒に暮らす関係になったのである。
 ところが二人の幸せな生活は長くは続かなかった──二百五十年近く続いた泰平の世に、突然政変が巻き起こったのだ。
 慶応三年十月十五日、徳川慶喜が突如として政権を天皇に返上(『大政奉還』)したかと思うと、十二月九日には『大政復古の大号令』によって天皇の名のもと慶喜が政治の舞台から排除されたのだ。京都を追われ大阪城に入った慶喜は十二日、黒書院にフランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロイセン、オランダの各国公使を集め、
 「諸外国との外交権限は、引き続き朝廷ではなく私が掌握する」
 と宣言し、外国勢力の介入を視野に入れた防衛策を講じるのであった。
 ところが江戸では、慶喜失脚を待っていたかのように、薩摩藩浪士が強盗、放火などのいわゆる御用盗(ごようとう)事件(テロ)を連日のように引き起こし、江戸市民の不安を煽り立てた。ついに幕府は十二月二十五日、薩摩藩邸の焼き討ちを決定するのである。
 いよいよブリュネ達が一年以上に渡って育成してきた伝習隊をはじめとしたフランス式幕府兵出陣の時を迎えたわけである。ブリュネはその陣頭指揮を執って見事江戸の薩摩藩を壊滅せしめたのだが、この際逃亡をはかった薩摩藩士が同国藩船『翔凰丸』に飛び乗ったのを見て、ブリュネも榎本武揚が艦長を務める『開陽丸』に乗り込むと、
 「アノ船ヲ追跡シロ!」
 と、そのまま大坂までやって来た。まさか別れの言葉もないままそんな事態になっていようとは知る由もないトミは、哀れそのまま江戸に取り残されたわけだった。
 大坂湾に入った開陽丸は、そのまま兵庫港に停泊中の富士山丸、蟠竜丸、翔鶴丸、順動丸などの幕府艦と共に大坂警備に就くが、年が明けて一月二日、港を出港する薩摩艦『平運丸』に空砲で停船を命じたところ、平運丸はこれに応じなかったものだから実弾砲撃を開始した。ところがその翌日、薩摩藩が猛烈に抗議したので、それに対して、
 「国際法に則った正当な砲撃である!」
 と突っぱねたのは榎本ではなくブリュネであった。皮肉にもこの出来事が直接的な引き金となって鳥羽・伏見の戦いが勃発したのだった。しかし蒸気機関四〇〇馬力、射程距離が三、九〇〇メートルとも言われる当時最先端のクルップ砲を十八門も装備した開陽丸の強いのなんの──阿波沖では薩摩藩の軍艦を次々砲撃して海では幕府が圧倒的な勝利を得たのである。ところが陸の方では鳥羽と伏見で衝突した幕府軍はあえなく敗れ、その報を知ったブリュネと榎本は慶喜に会うため開陽丸を降り大坂城へ向かうが、既にそこに慶喜の姿はなく、
 「公方様は江戸へ向かわれた──」
 という信じられない現実を伝えられたのである。二人が港へ取って返した時には開陽丸は夢幻の如く消えていて、あろうことか慶喜が副艦長澤太郎左衛門に命じて大坂を出航したことは後で知らされた。いずれにせよブリュネと榎本は置き去りにされたわけである。
 仕方なく、大坂城に残された金十八万両と、書類や重要什器、刀剣類などを富士山丸に積み込んだ二人は、慶喜が江戸に到着した一月十二日に大坂を出航する。
 ようやく江戸に戻ったブリュネにトミは言った。
 「ブルネさま……いったいどこに行ってたのよ!」
 髭もそらず何日も風呂にも入っていない彼の身体に彼女は抱きついて涙を流した。しかしこのとき虚ろなブリュネの視線は、どこか遠くの方を漠然と見つめていた。



 江戸に戻った徳川慶喜は、それからすぐにフランス軍事顧問団のシャノワーヌ団長とブリュネ大尉、そしてデシャルム中尉とデュ・ブスケ中尉を江戸城に呼び助言を求めた。つまり彼らは慶喜と直接接触できた最初の外国人なのである。ちょうど時を同じくしてフランス公使レオン・ロッシュも、次々と江戸に入港するアメリカ、プロイセン、イタリア、オランダに対して幕府を支援するよう様々な政策を講じていたが、結局慶喜は、天皇を抱え込んだ反乱軍を新政府軍と容認するしかなく、慶応四年一月二十五日に上野の寛永寺に謹慎してしまうと、英米蘭伊普仏の六ケ国は戊辰戦争に対する局外中立を宣言した。それを受けてレオン・ロッシュは辞任を表明し、間もなく日本を後にした。慶喜を失ったこの時点で、フランス軍事顧問団のミッションは継続不能となり、全員横浜に引き揚げたのだった。
 四月十一日、幕府は江戸城を新政府軍に引き渡し、このとき徳川幕府は完全に消え去った──。
 しかし滅びゆく者の側に立つ者の感情というのはそれを許すはずがない。歴史は常に、新しい時代を切り開く者と滅びゆく者との対局する思念が激しくぶつかり合うところに作られるものなのだ。つまり歴史とは、その時を生きる人間の不可解な感情によって織りなす壮大なドラマである。
 このとき海軍副総裁だった榎本は、事実上の幕府海軍のトップであったが、勝海舟が執った無条件降伏という判断に納得いかなかった。しかし勝は榎本より更に上の役職であるため、それを口にすることができなかったが、殊、江戸城明け渡しと同時に、降伏条件の一つとして勝海舟が、
 「今すぐに、幕府軍艦の全てを朝廷に引き渡しなさい」
 と言った言葉に榎本は思わず喰いついた。
 「勝先生、何をおっしゃいます! これらの船は全部徳川家が買ったものです。天皇の衣を着た狐どもに引き渡たさねばならん道理がどこにあるのですか!」
 「戦争に敗けたからさ。言う通りにしなよ」
 「お言葉ですが、今日は波風が強いので、引き渡しは明日に延期されたい」
 そう言い放って、榎本はその夜、艦隊を卒いて館山港に逃れた。しかしその翌日も、
 「徳川家の領地禄高が決まるまで、軍艦の引き渡しは延期されたい」
 という意味の嘆願書を海軍に提出したので、狼狽した旧幕府側は勝海舟を遣わして大久保利通との斡旋を試みた。結果、旧幕府艦八隻の内、富士山丸以下四艦は朝廷に納め、開陽丸、回天丸、蟠竜丸、陽春丸の四艦はそのまま徳川氏に保有させることとして一応の落着を見たのだった。榎本は江戸に戻って勝と会った。
 「おいおい榎本、あんまり駄々をこねてわしを困らせるな」
 「勝先生は本当にこの国を新政府の手に渡して良いとお思いですか? あんな奴らに政治を行なわせたら、もはやこの世に道義というものが消え失せます!」
 「無理が通れば道理も義も引っ込んじまうのさ。儒学に染まったお前たちに分かりやすく言うなら、それが天命というものさ」
 「天命がなんだと言うのです! ヨーロッパ全土を統一しようとしたかのナポレオンは、自由と平等と友愛の名の下にフランスを世界有数の国家にしたではありませんか!」
 「ナポレオン……? おお、そうか、君はフランスかぶれだったね。なら聞くが、お前さんならいったいどうすると言うのかね?」
 榎本は言葉を詰まらせた。しかし暫く考えてこう答えた。
 「亀之助様をお連れし、箱館に行こうかと……。そして蝦夷に、徳川家による真に民主的な新しい徳川国を建国してはと思います」
 亀之助(後の徳川家達)とは、慶喜が上野の寛永寺に謹慎中、次期徳川宗家の跡継ぎに決められ、新政府から承認も得ていた男である。男といってもこのときはまだ五歳の童子で、勝は腹を抱えて笑い出した。
 「まあ、言うのはただ(○○)だが、新政府に知れたら即打ち首だな。ここだけの話にしておいてやるから、悪いことは言わねえ、お前さんは館山に屯集している者を鎮撫して、常陸の多賀へ脱走している者らも降参させるよう尽力せい」
 「おそらく館山の彼らも、そして江戸に留まっている彰義隊の連中もけっして降伏することはないと思われます。これは天命でなく徳川の血なのです。もう誰にも止めることはできないでしょうね」
 榎本は脅迫めいた言葉を残して勝のもとを去った。案の定、それから一月も経たないうちに彰義隊が蜂起し、上野戦争(慶応四年五月十五日)が勃発する。しかし新政府軍はそれをたちどころに鎮圧した。
 するとその残党たちは、次々と榎本の開陽丸に助けを求めて逃れ隠れた。巷では榎本が仙台藩や米沢藩とも内通しているとの噂も立って、近日中に開陽丸で駿府に送られる予定の田安亀之助輸送のこともあり、「脱走するのではないか? 官軍に知れたら大変だ」と、旧幕府内では中老に説得に行ってもらおうという話まで持ちあがっていた。そして間もなく亀之助の出発の日取りも決まった時、いやな予感を拭えない勝は、榎本に対し、
 「その後の進退はいかがか? 妙な気を起こすんじゃないよ。軽挙してはならん。お前さんがしなければならない仕事を忠実に尽力せよ」
 との使いを送った。それに対して彼から届いた書状には、なんとも穏やかな文面が綴られていたので、勝は盛んに噂されている脱走の意志がないのを知って胸を撫でおろしたものだった。それでも念を押して「くれぐれも田安殿を無事に駿府まで送り届けるように」と、再三言い渡すのであった。
 こうして八月九日、田安亀之助は開陽丸に乗って江戸から駿府へ出発した。

 さて、横浜に引き揚げたフランス軍事顧問団である。
 ちょうどこの頃団長のシャノワーヌ大尉は別の任務で日本を離れ、顧問団は副団長だったブリュネに一任されていた。その間給金の支払いは途絶え、新政府も「直ちに日本から立ち去れ」と、もはや彼らの必要性を望んではいなかった。そしてロッシュに替わって赴任したマキシミリアン・ウートレーフランス公使は、ついに彼らの解任を決定する。顧問団のメンバーは順次本国へと帰されることになった。
 ブリュネは榎本の同朋松平正親に次のような手紙を送った。
 『我が祖国皇帝ナポレオン三世は、ヨーロッパの科学や文明を日本に広めるために私たちを派遣しました。しかし新政府は若者の育成において、もはや私達フランス将校に期待していません。しかし私は私たちの義務の遂行が適切に果たされることを望んでいます』
 このときブリュネの心には、敗北の将徳川慶喜に誓った軍隊支援の計画に対する忠誠とも言うべき感情が成熟していた。慶喜に初めて大坂で謁見した際、彼はその将軍の姿をスケッチに残し、意図はよく知れなかったが一振りの日本刀を与えられたのだ。そのズシリとした重みの感触がいまだ手に残るブリュネは、ウートレー公使にその思いのたけをぶつけた。
 「私は何のために日本に送られて来たのですか! ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(ナポレオン一世)だったらきっとこう言うに違いありません。進め!≠ニ──」
 「何が言いたい? 今の皇帝陛下様が何をお考えだったかは知らぬが、蛮人の住む蛮国に我らフランスの誇りを植え付ける必要などない。お前は全権大使のわしの命令に従うのみだ、本国に帰れ」
 ブリュネは何を訴えても理解してもらえることはないと判断して意を決した。
 その夜、横浜のイタリア公使館の新築祝いで催された仮装舞踏会に招かれていたブリュネは、これまで苦楽を共にしてきたアンドレ・カズヌーヴ伍長と申し合わせ、日本武士の扮装をして参加した。二人は何気ない顔で、披露された芝居を鑑賞していたが、そのあとりワルツを踊る次第になって、参加者入り乱れるどさくさに紛れ、密かに公使館を脱走したのである。
 二人は旧幕府軍艦『神速丸』に飛び乗り品川沖へ──そこで待っていたのは旧幕府艦隊と、開陽丸に乗って彼らを待ち受けていた榎本武揚だった。
 榎本は、彰義隊の残党に頼られ、また奥羽越列藩同盟が官軍に抗して立ったのを知ると、もはや意を決するしかなかった。密かにブリュネと密通を交わし、安田亀之助を駿府に送り届けた後、こうして品川沖で落ち合う約束を交わしていたのだった。
 ブリュネとカズヌーヴは開陽丸に移動した。そしてブリュネは船室にこもってシャノワーヌ団長へ訣別の手紙を書くためペンを握った。
 『相談もせずにすみません。しかし辞任のご報告をさせていただくことを光栄に思います。私はフランス将校としてでなく、私自身の名で奥羽越列藩同盟と命運を共にいたします。責任はすべて私が負います。あなたにだけ告白しますが、イギリスに対する祖国フランスの政策は間違っていたのでしょうか? そして私達の軍事派遣は無意味だったのでしょうか? いいえ、私はそうは思いません。将軍慶喜公とその友人である伝習隊は私のアドバイスを必要とし、私に賭けると言ってくれました。私は日本人の一人としてこの国の友のために働きたい。決意は変わりません。彼らとこの国で死ぬか、さもなくばフランスの大義に奉仕することを誓います。カズヌーヴを連れて行くことをお許し下さい。』
 そしてフランス皇帝ナポレオン三世から賜った十字架を握りしめ、机に新しい便箋を広げた。
 『私は陛下の命により日本へ派遣され、陛下の政策の正当性を証明するため尽力して参りました。しかし革命により軍事顧問団は帰国せざるを得ない状況となりましたが、私一人だけは日本に残り、日本で唯一の親仏派である奥羽越列藩同盟に参加して、これまで作り上げてきた成果を示したいと考えます。教え子である約一、〇〇〇人の同志がいれば、奥羽越列藩同盟軍合わせて五万もの兵を指揮することが可能です。反勢力軍との戦いは苦戦を強いられることになるでしょう。陛下の大切な顧問団の皆を巻き込むわけにはいきません。私は辞表を残して立ち去るべきなのです。
 いまアメリカやイギリスは、反勢力に力を貸していることを陛下にお伝えしなければなりません。私は皇帝陛下より授かったこの十字架に誓い、これまで同様フランスの思想を広めるため、私に残された時間の全てをこの国に費やそうと思います。ご理解ください。
 陛下の下僕たる忠臣ジュール・ブリュネ砲兵大尉より』
 それはどうしてもナポレオン三世に伝えたかった彼なりの祖国への絶対的な忠誠の証しだった。
 ブリュネは榎本の手を握りしめてこう言った。
 「蝦夷に行き、あなたが日本のナポレオン・ボナパルトになるのです! 私が支えます」
 榎本は、その憧れの名前の響きに武者震いを覚えた。このとき既に榎本のもとに結集していた反新政府勢力は、若年寄だった永井尚志や陸軍奉行並だった松平正親をはじめ、彰義隊の残党や遊撃隊の面々、その数二千余名にまで膨らんでいた。旗艦は榎本の乗る戦艦『開陽丸』、以下『回天丸』、『蟠竜丸』、『千代田形丸』の軍艦三隻を従えて、更に『咸臨丸』、『長鯨丸』、『神速丸』、『美賀保丸』は兵を乗せる運送船だが、合計八隻の艦隊は紛れもない榎本艦隊≠セったのである。
 そして慶応四年(一八六八)八月十九日の深夜、榎本艦隊は箱館を目指して江戸を離れた。
 ところが途中暴風雨が艦隊を襲い、美賀保丸と咸臨丸の二隻を失う。開陽丸も損傷し、八月末に何とか仙台港に到着して修理を行うが、そこに一隻の英国商船が追い付いた。甲板から手を振るのはアルテュール・フォルタン軍曹、ジャン・マルラン軍曹、フランソワ・ブッフィエ軍曹の三人で、
 「水臭いぞ、ブリュネ大尉!」
 彼らは皆フランス軍事顧問団で同じ釜の飯を食ったブリュネの友で、彼の脱走を知り、申し合わせてイタリア商人ジャーコモ・ファルファラに頼んで英国商船ガウチョ号をチャーターして追いかけて来たのであった。ブリュネと命運を共にしようというわけだ。
 「お前らも相当なバカだな!」
 ブリュネが言った。
 「なあに、お前ほどじゃないさ!」
 こうしてカズヌーヴも含めて五人のフランス人は、榎本と共に新政府軍に対抗するため立ちあがった。



 元号が明治≠ノ改元されたのは一八六八年十月二十三日(旧暦では九月八日)のことである。この小説では旧暦のまま物語を進める。
 江戸城が無血開城した後、旧幕府軍と新政府軍の戦いはどんどん北上していった。そして新政府軍は白河城と二本松城を落として会津へと向かい、会津藩は鶴ケ城(若松城)に籠城して世に言う会津戦争を繰り広げたが、九月二十二日にはついに降参して、会津藩をはじめとした奥羽越列藩同盟の残党兵は、陸続と仙台にいた榎本武揚のもとへと結集してきた。その数およそ二、五〇〇、中に新選組(甲陽鎮撫隊)の長土方歳三の顔もあった。
 新選組は鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、甲斐国に向かって甲州勝沼の戦いでも敗れた。流山で再起を図る最中、土方とは生まれ故郷を同じくし、京都においても行動を共にし、これまでずっと一緒に戦って来た近藤勇は捕縛され、土方は江戸へ向かって勝海舟らに必死に助命を嘆願するも叶わず、竹馬の友であり、同じ夢を語り、志を同じくし、同じ誇りを抱いた盟友は斬首された。鬼の頬に涙が伝ったのは、後にも先にもこの時ただ一度きりだった。
 何のための戦いか──?
 京都で晒し首にされた近藤のことを思うと、胸が切り裂かれる苦しみに苛まれたが、彼にはもう進むしか道は残されていなかった。
 失意のまま、その後、大鳥圭介率いる幕府軍と合流し、江戸無血開城が成立すると、新選組を含む旧幕府軍の参謀に選任された彼は、がむしゃらに「進め!進め!」と兵を鼓舞して宇都宮城を陥落させた。もとより命などないものと信じて戦ってはいたが、次の壬生の戦いに敗れ、宇都宮の再戦の際、小銃弾で足の指を負傷した時、(いのち)の向こう側にある魂の解放を見た気がした。
 治療のため会津に護送され、療養生活を送りながら鶴ケ城近くの天寧寺に近藤の墓を建立した。手を合わせた時、彼の中に不可思議な境地が開けたのだった。
 誰のためでもない──。オレはこの命の果てにある自由を手に入れたいなのか──。
 それまで抱えていた重い荷物が、このときすうっと全部消えた感じがして、なんだか無性に嬉しくなったのだった。
 怖いものなど何もなくなった──それは京都で新選組を率いていたときも同じだったが、あのときのそれとは明らかに何かが違っていた。
 もはや旧幕府軍が勝とうと新政府が勝とうと彼には関係のない事だった。

 自分自身に生き切ればいい──。

 それは近藤が土方に託した最後の望みかも知れない。
 会津戦争が壮絶を極めた頃、土方は援軍を求めて単身出羽国は庄内藩に向かう。しかし庄内藩とて新政府軍との攻防で援軍どころでない。それからひと月ほど続いた会津戦争は会津藩の降伏で終結し、続いて庄内藩も米沢藩もそれに準じた。行き場を失った土方が、敗戦兵の歩みにつられて進んだ場所が仙台だった。そこに榎本武揚がいたというわけである。
 同じく仙台に逃れてきた桑名藩主松平定敬と大鳥圭介らも乗せた榎本艦隊は、旧幕府が仙台藩に貸与していた『太江丸』と『鳳凰丸』を加え蝦夷地へと向かう。その途中、海賊に奪われていた元幕府船『千秋丸』まで拿捕したから、奥羽越列藩同盟が崩壊したとはいえ、大艦隊に成長した榎本艦隊は旧幕府軍にとって希望の光彩を放っていた。
 明治元年(一八六八)十月二十日、榎本艦隊は箱館から北に十里ほどに位置する鷲ノ木に到着した。
 蝦夷は吹雪である。このとき既に五稜郭は新政府のものになっている。上陸した旧幕府軍は隊を分け、一つを箱館方面に進軍させ五稜郭を目指した。
 鷲ノ木に到着して最初に行なったことは、箱館在留の各国領事に声明書を提出することだった。そのLes Kerais exiles de Toukugawa(徳川脱藩家臣)≠ニ署名された文章はブリュネが書いたもので、そこには、
 「蝦夷は徳川の新たな領地となるでしょう。そして必ずミカドはそれをお認めになるでしょう。我々は祖国で生きる権利があり、その権利を武器に我々は蝦夷地を守る覚悟のある公戦団体です。もしここで戦争が起こっても、あなた方ヨーロッパ代表者と我々は、十ケ月前に大坂で交わされた中立条約を保つでしょう。」
 とある。榎本たちの目的は、あくまで『蝦夷地(えぞち)徳川家永久御預(おあずかり)』だった。
 五稜郭を目指した部隊は、途中、箱館府軍や松前藩軍と交戦するが、いずれも戦い慣れている旧幕府軍の敵ではなく、恐れをなした箱館府知事は青森へと逃げ去り、護る者が誰もない五稜郭を容易に占拠してしまう。次いでその翌日には、土方歳三を指揮官にした七〇〇人あまりの兵で松前城へ侵攻し、海と陸からの攻撃で城を落し、ほぼ同時に江差も制圧して、瞬く間に蝦夷地全域を手中に治めてしまったのである。
 ところがその夜、江差港にあった開陽丸が激しい風波に遭って座礁し、おまけに救援に駆け付けた神速丸も荒波に引き込まれ、当時日本で最強だった戦艦開陽丸は、かくもあっけなく海の藻屑と消えてしまった。その落胆は想像するに難くない。
 しかし彼らに落ち込んでいる暇などなかった。

 五稜郭から南西へ約六キロのところに弁天台場がある。五稜郭が建てられたとき、海の防衛として箱館港を睨む目的で造られた海の砦だが、そこの入口のアーチ型の門といえば、よく本土から兵達の家族などが陣中見舞いに来た際の待ち合わせ場所にもなっていた。当時のことだから観光に来る者など皆無だから、本土から箱館港に降り立つ民間人といえば、ほとんどが外国商船に便乗する商業関係者であるが、その日は珍しく一人の町人姿の人間を連れて来た。しかもまだ二十歳を少し越えたくらいの女で、その顔色は何か大きな心配事を抱えているように青く険しく、女は桟橋に降りると、道を訊ねているのだろう何人かの働く男たちに声をかけながら、やがて弁天台場のアーチ門のところまでやってきた。
 「ブルネ大尉はどこですか? 会わせてください……」
 女は門を守衛する一人の兵にそう言った。兵は旧幕府軍を取りまとめているブリュネの名を知る変哲もない町娘に驚きながら「何の用か?」と聞き返した。
 「妻でございます──」
 兵は態度を翻して敬礼すると、彼女を馬に乗せて五稜郭へと導いた。女はブリュネが江戸に残したトミに相違ない。
 五稜郭の御役所内は、蝦夷における新政府構築についての論議の真っ最中で、数日後に行なう予定の宣言式典をどうするかで白熱した言い合いが建物の外にまで聞こえていた。徳川家から蝦夷地開拓の許可がおりたので、一日も早く行政体制を整える必要があったのだ。トミを連れた兵も中の緊迫感を肌で感じると、さすがに扉を叩きづらい様子で、
 「もうじき休憩時間になると思います。それまでここでお待ち下さい」
 と、近くの待ち合いにトミを案内すると、自分は任務へと戻ってしまった。中から声が響いた。
 「ですから、今回の宣言は建国宣言なのです! 入札(いれふだ)によって我々の大統領を選出するわけですから、れっきとした共和国なのです!」
 熱弁を奮うのはブリュネで、二年も日本にいればすっかり日本語も板についたものだった──そう、彼らが来日してもうちょうど二年になるのだ。
 「大尉の言うフランス式の政治も分からないでないが、我らの目的はしっかりとした政治組織をつくり、いずれ徳川様をお迎えすることなのです。大尉のおっしゃる大統領というのは徳川様でなければならない」
 と異を唱えるのは松平正親。どうも政治体制の根幹に関わるところで西洋思想と日本思想がぶつかっているようだった。ブリュネは続けた。
 「どうか私たちを信じて下さい。共和制というのは我が祖国フランスが、幾千幾万の名もない民衆が革命の末ようやく手に入れた人類の英知なのです! 政治とか国というのは、自由と平等と友愛の上に成立させるべきものなのです。ナポレオン一世がそれを証明し、フランスに自由をもたらしました。君主制はすでに世界の潮流が求めていません!」
 バンっ!
 ブリュネの演説を遮って、机を叩いて立ちあがったのは土方歳三だった。シンと静まり返った会場の視線が一斉に彼に集中した。
 「ちょっと一服──」
 そう言い残すと、土方は参集者の目も(はばから)らず会議室を出た。
 そうして外に出た土方は、大きな背伸びをして待ち合いの舎に入った。そこにいたのがトミで、二人は目を合わせると、小さくお辞儀をし合った。
 「ひょっとして江戸からか?」
 トミの容姿が江戸の薫りを運んでいる。箱館ではとんと見かけぬ都会の色が漂っていた。
 「へえ……」
 土方は久しぶりに聞く江戸訛りの返事に笑みを漏らした。
 「誰に会いに来たのだ?」
 「ブルネさまでございます……」
 その意外な人物の名を挙げる青ざめた応えに、土方はただ事でない事情をすぐに察した。
 「やつなら会議中だ。あの調子だといつまで待っても終わらんぞ」
 そう言って湯呑みに茶を注いで煙管(きせる)を吸い出す。
 「どうやって箱館まで来たのだ?」
 「オロシアの船に乗って参りました──」
 世間話をするうちに、彼女がここにいる理由がおぼろげながら見えてきた。名をトミと名乗るこの女は、江戸でブリュネと出会い同棲生活をしていたようだ。ところが突然愛する男が姿を消し、探し求めて横浜は大田村の旧幕府軍事伝習所に辿り着いたと言う。しかしブリュネは既に箱館へ向かった後で、そこで知り合ったフランス商人ファーブルという男の斡旋を得て、ようやく箱館行きのロシア船を見つけてはるばるやって来たのだと話した。
 「まったく国家を論ずる男が一人の女の面倒すら見れないなんて笑止千万、ついて来い──」
 土方は女の手をとると、荒い足取りで御役所に入り会議中の扉を勢いよく開いた。
 「ブリュネ大尉、客人だぜ」
 ブリュネはトミに気付くと、急に弁舌の言葉を止めて、
 「少し休憩しましょう」
 と言って会議を中断すると、つかつかと彼女に寄って来て、そのまま彼にあてがわれた個室に入って堅く扉を閉めてしまった。二人の関係がどうも気になる土方は、扉に耳をそばだてて、すっかり中の会話を聞いてしまう。
 「何しに来たのか?」
 「久しぶりにお会いできたというのに、何しに≠ヘないでしょ──」
 「こっちは忙しいのだ。悪いがこうしてオトミさんと話をしている時間さえ惜しいのだ。訪ねてきた要件を言いなさい」
 トミは暫く悲しそうに俯いていたが、やがて意を決したように、
 「赤ちゃんが生まれたの……」
 と小さく言った。ところが次にブリュネの口から出た言葉は、彼女にとってあまりに冷淡で残酷だった。
 「それで?」
 トミは耳を疑った。それでも続けて何か言ってくれるだろうと暫く待ったが、結局彼からは子どもに対する言葉は何もなく、
 「落ちついたら手紙を書くから、オトミさんは横浜で待っていなさい」
 そう告げて立ちあがった。
 「待って!」とトミはブリュネの腕を掴んだ。
 「聞き分けのないことを言わないでおくれ。今は君と話している時間がないんだ」
 「お金がないの──子どもが生まれる少し前におとっつぁんが死んでしまって──」
 「それで困って私のところへ来たわけか。よく船に乗れたね?」
 「伝習所にいたファーブルさんが貸してくれました」
 「子どもはどうした?」
 「おかっつぁんに見てもらっています──」
 ブリュネは机から便箋を取り出し、万年筆でフランス語の文章をサラサラ書き終えると、最後に朱印を押して、
 「あいにく今は私も金がない。入ったら百両ばかり送るから、子どもとお母さんと横浜で待っていなさい。この書面をアメリカ領事でもイギリス領事にでも持って行って見せるといい。君を横浜まで届けてくれるだろうから」
 そう言って扉を開けて部屋を出ようとした。そこには土方が立っていて、目のやり場に困った様子で「いろいろありますなァ……」と誤魔化した。
 「会議を再開します。会議室に戻ってください」
 「はるばる江戸からやって来たというのにあまりにぞんざいじゃないですか? これが友愛の国フランスの礼儀ですかい? 会議に出たって難しい話はオレには解からないから、せめておトミさんを港まで送り届けますよ」
 「自由にしてください」
 ブリュネはそう言って会議室へ戻っていった。
 港までの道すがら、終始トミは無口である。部隊の規律や戦場での戦いぶりにおいてはどこまでも厳格で鬼≠ニ呼ばれた土方は、その外見も男前だから京都ではずいぶんたくさんの女と付き合ってきたものだった。けれど泣かせたことは一度もなく、それが男の甲斐性だとも思っていた。だからブリュネのトミに対する態度には腹も立ち、そんな男が論ずる国家論など例え真実であっても信じたくなかった。
 「やつから金を取ろうったって無駄だぜ。オレもそうだが今はやつも文無しさ」
 歩きながら土方は一人で話し続けた。
 「結局、軍人でございと威張っていたって、市民から税金を取らなきゃやっていけないのだからね。なんでも新しく創る国では農民、町人はもちろん、寺社の縁日祭礼の物売りや見世物の売上から、それに賭博まで管理して、あげくは女郎からも法外な金をふんだくろうってんだから聞いて呆れらぁ。共和国だかなんだか知らねえが、そんな市民の血涙を絞るようなことまでして金をまきあげようとする国が長く続くとは思えねえ。なあ、おトミさんよ、言っちゃ悪いがあちらさんはお前さんなどあまり気にかけてない様子だ。生まれた赤ん坊は可哀相だが、悪いこたあ言わねえ、別れた方が身のためだと思うぜ」
 トミは一度静かに笑んだきり、やがて箱館を離れて行った。

 蝦夷に誕生した政府は、結局、徳川家血胤者(けついんしゃ)の派遣を見るまでの措置として、選挙による仮国家を建国することになった。 明治元年十二月十五日、入札(いれふだ)(選挙)によって総裁に榎本武揚が当選、副総裁に松平正親、以下諸役が票数に従って決定した。ここに事実上の蝦夷全島の占有が宣言され、『蝦夷共和国』とも言える独立行政が誕生したのである。
 蝦夷共和国(えぞきょうわこく)──。
 この言葉には歴史学的見地では否定的な見方の方が多いようだが、ブリュネたちフランス人にしてみれば日本史上における確かな共和国≠ナあることに違いはなかった。その理由は、君主制日本において初めて選挙という形をとって作られた政権であり、かつてのフランスが多くの血を流した革命を経て手にした政治体制にも似て、当時日本を取り巻く諸外国もこの言葉を否定しなかったからである。そもそも日本には共和制≠ニいう発想すらなく、この概念自体西洋由来のものである以上、日本にはそれを否定する権利はないのである。双方の言い分はあるにせよ、当時の日本においては画期的な出来事に違いなく、君主制要素と共和制要素とが入り混じった特殊な政治形態であったということだろう。
 ちなみにこの選挙における得票数は、榎本武揚一五六票、松平正親一二〇票、大鳥圭介八六票、土方歳三は七三票だった。



 蝦夷共和国宣言式のあとブリュネは直ちに軍の建て直しにかかった。軍制はフランス式に統一しその再編成を始めたのである。このとき箱館に停泊していたフランス軍艦ミネルバ号から脱走して来たニコルやコラシュらを得てフランス人は全員で十名人になっていた。
 広大な蝦夷地の防備を固めるのは至難の業である。しかも蝦夷共和国の総人数は兵三、〇〇〇人、残りは全て行政に関わる役人で彼らは農民の取り締まりをしていた。三、〇〇〇の兵のうち半分はフランス軍事顧問団が江戸で直接指導した伝習隊だが、残りの半分はオランダ式だったりイギリス式だったりとまちまちで、そこは伝習隊の指導によって統一を図ることにした。特に軍律は不可欠だったので、軍事裁判法典の写しからフランス式軍律の要点を日本語に翻訳し、その写しを四〇〇名で構成した八つの大隊に回覧させ頭に叩き込ませた。
 八つの大隊の指導は、それぞれカズヌーヴ、マルラン、フォルタン、ブッフィエらフランス人が統制し、全軍の軍事指導と任務の改善がすみやかにかつ適切に行われるよう訓練指導用の掲示板を設置した。また、主な訓練場は五稜郭で、マルランが海軍士官だったコラッシュの補佐のもと取り締まった。
 これではまるでフランスの傀儡軍であるが、陸軍全体の総司令官は大鳥圭介で、彼はフランス人から“日本奉行”とからかわれては、いつも、
 「オレにはそんな変な称号は必要ない!」
 と言い返しては「頑固なところはブリュネにそっくりだ」と笑われ、両者の関係は冗談も言い合えるほどの信頼で結ばれていた。
 四つの旅団はそれぞれ八〇〇人で構成され、これはヨーロッパの軍隊に比べれば小規模だったが、ブリュネが見たところ新政府軍と比較すれば大軍隊なので充分戦えると踏んでいた。それぞれの旅団はおよそ次の通りである。

フォルタン旅団(連隊長…欠) 第一大隊長…滝川充太郎、第二大隊長…伊庭八郎
マルラン旅団(連隊長…本田幸七郎) 第一大隊長…大川正次郎、第二大隊長…松岡四郎次郎
カズヌーヴ旅団(連隊長…欠) 第一大隊長…春日左衛門、第二大隊長…星恂太郎
ブッフィエ旅団(連隊長…古屋佐久左衛門) 第一大隊長…永井蠖伸斎、第二大隊長…天野新太郎

 そして総司令長官は土方歳三が務めることになった。
 さらに防衛の配置としては、敵が数ケ所から同時に上陸してきたケースや、一ケ所に集中して上陸してきたケースなど様々に考慮する必要があった。その上でブリュネが最も用心したのは、箱館港と松前港と館浜港と江差港と鷲ノ木港と室蘭港の六つの港である。そこで五稜郭と並んで重要な防衛拠点である箱館港に据えた二〇〇人にはプラディエを指揮官に据えた。そしてマルラン旅団は六〇〇人の兵と共に箱館と有川と大野の境界線を防衛し、フォルタン旅団は四〇〇人の兵と共に鷲ノ木と鹿部と磯谷と川汲を防衛し、カズヌーヴ旅団は六〇〇人の兵と共に松前と福島を防衛し、最後にブッフィエ旅団は四〇〇人の兵と共に江刺とその周辺の防衛担当とした。
 海軍士官コラッシュは五稜郭でブリュネの補佐も務め、ド・ニコールは回天丸に乗船したので、その副官クラトーは他の船に乗船させ、総計二、〇〇〇人の兵は、駐屯地とその周辺の要塞や沿岸地帯、山中の峡谷などに配備することとした。
 五稜郭も当初に比べ強固に修繕されたので護るには二〇〇人もいらない要塞になったので、残りの八〇〇人は大鳥圭介とブリュネがそれぞれ四〇〇人の機動部隊として指揮を務めることにした。
 さらにブリュネは五稜郭周辺に、西の備えとして三稜郭、北の備えとして四稜郭、東の備えとして七稜郭などの砦建設に着手し、その身体は休む間もない。



 アメリカはそれまでずっと中立の立場を守って日本の政治情勢の動向を見守っていたが、明治元年の年の瀬も迫ったころ、突如として局外中立を解除し新政府を支持し始めた。
 すると、戊辰戦争が始まる以前に幕府がアメリカに発注していた戦艦『甲鉄丸(こうてつまる)』を新政府軍に引き渡してしまったのだった。
 実はこの船、アメリカ南北戦争当時に南軍がフランスに発注したもので、体当たりを想定して造船された暴れ戦艦だった。船体自体は木造だが重要箇所は五・六インチのぶ厚い鉄板で装甲されている上、船首の水中部分にラム≠ニ呼ばれる長さ六メートルの衝角(しょうかく)を持っていたから、木造船など当てられればひとたまりもない。さらに十三インチのアームストロング砲や、一分間に一八〇発も撃てるガットリング機関砲も装備していたというから、先の嵐で開陽丸を失った榎本にとっては脅威以外のなにものでない。
 その甲鉄丸が箱館に向かったと聞いた日には、すぐにでも対処しなければならない事情が生まれた。
 開陽丸の損失で海戦において劣勢に立った蝦夷共和国軍は、甲鉄丸を奪取する作戦を立てた。これがフランス海軍のニコール少尉発案のアボルダージュ作戦≠ナある。
 回天丸、蟠龍丸、高雄丸の三艦に外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始と同時に日章旗に掲げ直して甲鉄丸に接触させ、船がつながったところで一斉に陸兵が斬り込み舵と機関を占拠するという海賊まがいの作戦である。ことき旗艦の回天丸の艦長は甲賀源吾で、そこには土方歳三も乗っていた。
 ところが──、
 またしても暴風が襲って幡竜丸はあえなく離脱、高雄丸も機関が故障して戦闘不能、回天丸一隻だけが残ったのだ。ここで作戦を立て直すことはできただろうか? 否、作戦の不履行は幕府艦隊に何の手も加えず箱館が不利になるのを指をくわえて傍観するのと同じ行為なのだ。一か八かの賭けに出るしか道は残されていなかった。
 榎本武揚という男は、よほど嵐を呼び寄せる不運の星の下に生まれたと見える。もし彼が晴れ男≠ニ呼ばれる部類の人間であったら、ひょっとしたら歴史はまた別の物語をつづったかも知れない。
 回天丸は単艦突入して甲鉄丸に接舷したが、回天丸は船体の側面に水車が飛び出た外輪船なので横づけできない。艦長甲賀源吾の操船でなんとか甲鉄丸に乗り上げるも、鉄板で装甲された船体が重く喫水線上が舷側一・五メートル程度しかない甲鉄丸の甲板へは、回天丸の甲板からの高低差が大きく非常に移乗しにくかった。陸兵達が戸惑っているうちに甲鉄丸のガットリング機関砲が火を吹いて、乗り移ろうとする者は次々銃弾の餌食となり、甲賀源吾も頭を撃たれて即死した。回天丸は離脱を余儀なくされ、高雄丸も拿捕された。この『宮古湾海戦(みやこわんかいせん)』で蝦夷共和国軍は完全に制海権を失った。そしてニコールも負傷し、同船していたコラッシュも捕虜として江戸に送られた。
 こうなっては共和国軍は総崩れ。明治二年四月六日、新政府軍一万五、〇〇〇の兵が青森を出航すると、三日後には乙部に上陸、その後、新政府艦隊は江差に砲撃を加えてあっという間に占領してしまうと、新政府陸軍の本隊に加わって、海岸沿いの松前口、山越えの木古内口、乙部から大野への二股口、乙部から落部への安野呂口の四つのルートから箱館へ向けて陸路進軍を開始した。四月十七日には松前城からも撤退するしかなくなって、更にその三日後には木古内も占拠された。
 土方歳三は二股口で奮戦するが力及ばず、大鳥圭介と榎本武揚の部隊も有川にて敗走した。
 もはや蝦夷共和国軍の敗北は時間の問題だった。このときブリュネの片腕だったカズヌーヴも負傷して病院に入院していたのだ。
 敗色濃厚となった五月二日──、
 榎本らはこれまで共に戦ったブリュネをはじめとしたフランス兵を集めてこう言った。
 「もはやこれまででしょう。私達は最後まで戦いますが、あなた方は軍事顧問団としてこの国に派遣されて来ただけで、もともとこの国の住人ではありません。これ以上私達のために尽くして命を落すようなことになったら、私達は地獄に落されてなお弁明の余地がありません。どうか、どうか、これが国際的な軍律と思って、祖国フランスへお帰り下さい。今まで、本当にありがとうございました!」
 榎本とそれに連なる兵士たちは、一糸乱れず、ブリュネたちから真っ先に教わった敬礼をして涙を落した。それに応えてブリュネたちもまた、何も言わずに貫禄のある敬礼を返し、教え子たちの潤む目や目をじっと見つめて、やがて陥落寸前の五稜郭を去ることになった。
 黄昏(たそがれ)て、一日の戦いの疲れを癒すこともしないまま、土方歳三は箱館港に突き出した弁天台場に立って、海から吹き寄せる静かな潮風を浴びていた。不思議なもので、昼間はあれほど激しい銃弾の雨の中を駆け回っていたというのに、この時間になると、あのやかましいほどの破裂音は、穏やかな波の音に吸い込まれてしまったように、今は心さえ落ちついてるのだ。
 港を出入りする外国商船は異国情緒を漂わせ、たまに聞こえる汽笛の音は、死と隣り合わせの戦争の現実を忘れさせ、どこか別の世界へと誘った。
 しかし、この戦争ももうじき終わってしまうのだろうかと思うと、土方は少し寂しくもあり、その後の身の振り方など考えることもなく、漠然と近藤勇のことを思って俄かに笑みを浮かべるのだった。
 「何を見ているんだい?」
 後から声をかけたのはブリュネで、どうやら弁天台場に忘れ物を取りに来たところ、海を見つめる彼を見つけたようだった。
 「なあにも見ちゃいませんよ。潮風が懐かしかっただけです」
 土方は、近藤と一緒に生まれ故郷の武蔵国を離れ、浪士隊として京都へ向かう途中の東海道沿いの浜辺で、将来を語り合った遠い昔のことを思い浮かべていたのだ。
 「フランスへ帰るそうですね?」
 「ええ……私の力が及びませんでした。ゴメンナサイ──」
 「謝られたってねぇ──正直言って、オレだって国のことなんざどうだっていいんですよ」
 ブリュネは不思議な顔をして、
 「どういう意味ですか?」
 と聞いた。
 「あんただって言ってたじゃないですか? 共和国だ、自由だ、平等だって。でもこうなっちまったらそんなもんクソの役にも立たねえってことですよ。途方もない夢物語を追いかけるより、今日生きるための金や、赤ん坊の命の方が大事だとは思いませんか? 横浜に戻ったら──おトミさんだったかな? 大事にしてやらねえと、あんたが言ったことが全部ウソになっちまうぜ。必ず会ってやんなよ」
 ブリュネは苦笑いを浮かべた。
 「私はただ、皆さん方を日本という閉鎖的な国から解放してあげたかっただけです。トクガワとかミカドとかシンセイフとか、そんなところで争っていても日本は何も変わりません。自由を求めて何がいけませんか?」
 「自由──?」
 土方は「ふっ」と微笑んだ。
 「オレはもともと自由だぜ。自由なんてもんは手を伸ばして獲得するもんじゃないよ。もともとここにあるもんなんだ」
 土方は自分の胸に手を当てた。
 「この胸の、ずっと奥底にあるんだよ。規律に厳格で、鬼の土方って呼ばれてきたが、オレは他人にも厳しくしてきたが、己に対してはもっと厳しくしてきたつもりさ。だから自由なんて己を律することができないぼんくら≠フたわ言だと思っていたが、最近なんだかその真の正体が見えた気がするんだ。魂の解放の果てにある景色がね。近藤さんも見たのかなァ? その景色を……。まあ、もうじきオレにもはっきり見えるはずさ。そのときは近藤さんに会う時ですがね。ああ、早く逢いてえなあ……」
 土方は再び暗い海を眺めた。ブリュネは何も言わずに立ち去り、やがてフランス艦コエトロゴン号に乗って箱館を脱出して行った──。

 その後、新政府軍は五稜郭への総攻撃を開始した。箱館山から箱館市街を瞬く間に制圧してしまうと、市街を奪還するため、一隊を率いて馬にまたがった土方歳三が閃光のごとく敵陣に斬り込んだ。しかし、次の瞬間放たれた一発の銃弾は、彼の腹部を貫通し、彼は落馬して絶命した。享年三十五歳の初夏だった。
 こうして明治二年五月十八日、五稜郭は開城、武装解除し、幕末最後の戊辰戦争は幕を閉じた。
 その後榎本武揚ら蝦夷共和国首脳陣は、東京辰の口にある軍務官糾問所に投獄される。
 一方、ブリュネもフランスに帰国し厳しい取り調べを受けることになるが、彼がナポレオン三世に送った手紙が新聞に掲載されると、皮肉にもフランス国民からの絶大な支持を受けることになり、その後軍人としての名を挙げて七十三歳まで生きたという。
 その間、戊辰戦争終結よりわずか一年の後、第二帝政時代を築いたナポレオン三世は失脚し、フランスはまた新たな共和制国家が誕生した。
 そしてトミは横浜にいて、もう届くはずもないブリュネへの手紙を、必死で覚えたカタカナで書いているのであった。

 『ブル()サマ……
 アナタ ホント ウソツキアリマス ウソテガミバカリ
 ワタシ ハコタテマテ アリマシタ
 コドモアリマストキニ ナンニモ ワタクシ ハナスアリマセン
 ()チブ シンジョモ アリマセン……』

 二〇二一年五月六日
(2013・11・29 『五稜郭タワー』土方歳三ブロンズ像前にて拾集)