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金貨のエンゲージ
城郭拾集物語@ 愛媛松山城


  



 愛媛の松山城は実に二十六年という歳月をかけ、戦国大名加藤嘉明によって築城された。彼は賤ケ岳七本槍にも数えられる猛将だが、ついにはその完成を見ることなく会津へ転封になった。その後、蒲生忠知から松平定行へと城主を替え、やがて幕末を経て第二次世界大戦をも越えて、幸運にも戦禍にまみえることなく現在にその姿を残す。
 層塔型の天守に登れば遠く四方を眺望でき、東に道後温泉、西は天気が良ければ瀬戸内海まで見えると言う。そして南側下方に目を移せば二の丸があり、そこに水をたたえた池が見える。話によれば池ではなくそれは大きな井戸なのだそうで、日露戦争というから今からおよそ一世紀前、城郭としての役目を終えた松山城を望むその場所に、戦場から搬送されたロシア兵を収容するいくつものバラックがあった。いわゆる捕虜収容所であるが、多い時には六、〇〇〇人もの捕虜兵がいたと言い、バラックのそれは病舎を兼ねて、傷を負ったロシア兵を幽閉しながらその治療を施していた。
 今回は、そこで拾集した一組のロシア兵と日本看護婦の物語をつづってみよう。



 ミハイル=コステンコはロシアで生まれ、今年二十四歳の青年である。
 生来絵を描くのを好み、病室の花瓶に生けられた桔梗や夾竹桃、紫陽花や露草や百合など、看護婦の配慮か日ごと替わる花卉を水彩で描くことが、負傷して歩けぬ体と行く末知れぬ身の上の憂いから逃れる唯一の慰みであった。
 ロシアと日本との戦争が始まってからというもの、日本兵に捕らわれたロシア兵達は、ここ松山の収容所に次々と送られて来ており、ついに公会堂や周辺寺社だけでは収容しきれなくなった当局は、松山城の二の丸北側にあった千百余坪の練兵場内にバラックの捕虜収容施設を新設した。バラックとはいえまだ真新しい病舎の第一病室でミハイルは、外に咲いているのであろう花瓶に生けられた名も知らない野花を、いつものように絵筆を動かしながら憂鬱な気持ちを紛らわせている。
 東部シベリア狙撃第三砲兵旅団付中尉──これはミハイルの別称だ。ついこの間まで旅順にいたはずなのに、得利寺付近で勃発した日本兵との激しい戦闘の中で、鉄砲玉で右足を貫かれ、腹部にも大きな傷を負い、気づけば日本の捕虜輸送船の暗い船底で、どこ知れぬ日本の松山捕虜収容所に輸送されたのだった。
 もともと彼は軍人でない。しかし遼東半島をめぐるロシアと日本との不調和から日露戦争が勃発した時、若さは彼の「世界を知りたい」思いを駆り立てた。今年(一九〇四・明治三十七)の二月のことだ。
 比較的裕福な家で育ち、厳格な父親は「何事も経験してみるがよい」と軍隊へ送り出してくれたが、その心は、世界に名だたる大帝国ロシアがまさか発展途上の日本という小国になぞ負ける訳がないといった過信があった。そのうえ上流家系といえば学もあったから、軍に入ってもおのずと少尉だとか中尉などの軍位が与えられ、最前線で戦うこともなかろうと達観していた。
 「何か美味しいものでも食べなさい──」
 家を出るとき母がそっと手渡してくれたのは直径二・二センチほどの一枚の十ルーブル金貨である。一八九九年製、表面にはロシア皇帝ニコライ2世の肖像が刻まれており、日露戦争当初の旅順では、一ルーブルで卵が一個、肉なら約四五〇グラム買えた時代。ミハイルはその金貨をお守り替わりに軍服の襟の裏に縫い込んだ。母の眼から雫がこぼれていた。
 それと同じものがミハイルの目にも滲み、ぐるぐる巻きにされた動かない右足の包帯が霞んで見える。なんと情けないことだろうか、若気の至りで家を飛び出してみれば、今にも死んでしまいそうな大怪我を負い、遠い異国の地で捕虜となって、唯一健康な両腕で花卉の絵ばかり描いているのだから。
 ミハイルは立て板と白布で仕切られた十人ほどの負傷兵が横たわる病室を見まわした。
 この城北練兵場バラック捕虜病院に輸送される捕虜たちは特に重傷を負った者ばかりで、健常者や退院した者は公会堂とか法龍寺や勧善社といった周辺の寺社に収容される。病室は第一号から第七号まであって、ロシア軍の兵役の階級を重んじ、第一号室は将校専用とされ、東と西とに分かれた四人一部屋のミハイルは東側にいる。西室の入口には(ナースステーションと云えば聞こえがいいが)篤志看護婦詰所があり、今も数名の看護婦が忙しそうに出入りしていた。二号室は重傷者の病室で、重傷者といっても衛戍病院に運ばれる者に比べたらまだまだ軽いわけだが、そこは一人ずつ板塀で仕切られ白布はない。三号室以下は下士官と兵卒の軽傷者室にあてがわれ、中央通路の両側に藁蒲団を敷いて寝ているロシア兵には仕切りもなく、その間を看護婦たちがせわしく働いている。それもそのはず、戦闘著しい遼東半島付近から、二陣三陣、四陣五陣と次々に捕虜が送られて来て、このとき既に新設バラックだけで三〇〇人以上の負傷兵が収容されているのだ。
 ふつう捕虜と云えば、敵国に収容され有無を言わさぬ強制労働を強いられるイメージがあるが、ここ松山に送られたロシア兵達は極めて自由な時間が与えられていた。捕虜を人道的に扱うことを定めた『ハーグ条約』を順守したとはいえ、時の捕虜取扱委員長内野少佐の方針か、あるいは愛媛松山人の気質か、「捕虜はできるだけ丁寧親切に取り扱ってやりたい」とは松山捕虜収容所の気風であり、またある将校は、「名誉の戦闘でやむなく捕虜となったのだから敵ながらあっぱれ。されば充分な待遇をしてやりたい」と言った。しかし捕虜に与えられる食費は一人一日十五銭と定められており、月に換算しても約四円五〇銭だから(ちなみに時の通訳の月俸が八十円前後)とても十分といえないながらも、松山の市井に呼びかければ茶碗や歯磨きなどの日用品やトランプなどの遊戯具などはすぐに集まった。これこそおもてなしの国¥シ山の淵源と言えるだろう。そのうえ週に三日ほどの外出が認められていたから、健常者は捕虜として稼いだ僅かな賃金で町に繰り出し、煙草や土産物や異国の珍しい民芸品を買い、時に道後温泉や海水浴にも連れて行ってもらえる。こと看護婦たちの献身的な親切さにおいては、彼らにとって松山は死と隣り合わせの戦地とはかけ離れた別天地であった。そんな様子がロシアの新聞でも報じられたものだから、戦場にいるロシア兵たちは皆「マツヤマ、マツヤマ」と云い合って、愛国心の薄い者の中には志願して捕虜になった者までいた。

 「なにを描いているのですか?」
 ミハイルの手元を覗き込んだのは、見慣れない一人の看護卒だった。赤十字の白い看護帽をかぶり、白い夏用の看護服を着たその十七、八の乙女は、ミハイルの手元の紫陽花の絵を少し見てから、視線を彼に移してニコリと笑んだ。おそらくその時だったろう、真っ暗闇な彼の心に淡い生気が宿ったのは。ミハイルは顔を赤く染めて描きかけの絵をおもむろに隠した。
 「お加減はいかがですか?」と、その乙女はためらいもなく、彼の首筋にその柔らかな手を当ててきたので、ミハイルはドキリと緊張して胸の鼓動が高鳴るのを覚えた。「大丈夫そうですね」とまた笑んだその二、三の日本語は全く解からなかったが、優し気な表情から自分を労わっていることはすぐに知れた。
 収容所の病舎には軍医、看護長のほか医員通訳、篤志看護婦なるものがある。篤志看護婦というのは民間の志願者による看護婦人会から派遣された女性で、赤十字社の下、歩兵隊で四ヶ月間の軍事教育を受けたいわゆる看護婦のことを指す。ミハイルのいる第一病室は松山の日本赤十字社第八〇救護班が担当していたので、その乙女はおそらくそこの所属で、本日付で松山衛戍病院から新しく派遣されて来たのに違いない。
 元来、一救護班では百名の患者を救護するのが普通なのだが、この収容所の病舎ときたら一日一度の包帯の巻き替えだけでも容易でなく、ほとんど二班を必要とする患者を一個班で引き受けているものだから忙しいのも無理はない。その新人の看護卒は枕もとの用紙に何か記録すると、シーツの皺を直して隣の将兵のところへ移動し同じことをした。
 地獄の淵に佇んでいたミハイルは、この日、天に光り輝く天使を見たのだった。



 いつもなら一人で絵を描いているミハイルのベッドに、今日は隣のバラックに収容されているポーランド人のザイオンチコーフスキー大尉が見舞いに来ていた。
 年の頃なら四十前後、祖国に父母と妻、それに愛娘を残していると言い、家族は音信の途絶えた父は戦死したものと落胆していたところ、新聞で日本の捕虜となっていることを知り、狂喜して手紙を送ってよこしたのだと笑った。実は見舞いとは口実で、ミハイルに自分の肖像画を描いてもらって、その絵を添えて返事を書きたいらしい。ついでに家族が心配している同郷のロッゲ少尉はミハイルと同室で、彼のも頼むと、今は治療のため動けない彼の横顔を見ながら自分との関係を説明した。今やミハイルの名は絵画中尉”としてバラック収容所のちょっとした有名人だ。
 それにしても松山の夏は暑い。
 およそ瀬戸内海から蒸発する湿気を伴っているためか、それにしても熱すぎる。
 ミハイルらが護送されて来た六月下旬には、すでに蚊が大量発生していて、傷の痛みと蚊との格闘には閉口したものである。今もベッドの仕切りと仕切りの間に蚊帳を吊るしてはいるが、それがまた風を阻んで蚊帳の中はサウナのようだ。それでもミハイルは汗をダラダラ流して絵筆を走らせていたが、大尉の方はたまらず「看護婦さん!風を送ってくれ!」と叫んだ。ところがロシア語では理解されるはずもなく、通訳が来てようやく意味が伝わると、団扇を仰ぎにやって来たのが若い二人の看護卒、その一人はミハイルが天使と見まごうあの乙女であった。
 この時季の晩餐時間といえば、事務所北向かいの将校室で晩飯が始まるが、一号室と二号室には二人の看護婦が食事にかかる捕虜将校に団扇をあおいで涼を送る。その様は父母に対する孝行娘のようで、それが蚊帳をつり下げたその中でまでなお仰ぐ姿は、捕虜に対しての親切と云うより行き過ぎた贅沢である。それをザイオンチコーフスキー大尉の妻は手紙の中で、ジョークか本音か知らないが、「あなた様はどうせ日本でよき女子をこしらえて楽んでおいででしょう」と知りもしない日本での生活を想像して嫉妬しているのだと、椅子に腰かけモデルをする大尉は、
 「どうじゃ心安からぬ話だろう? そこでそんな不埒なことは絶対ないと、早速手紙をしたためる決心をしたわけじゃ。負傷した我々のために日本の看護婦さんにどれほど世話になっているか。そのお蔭でこうして手紙も書けるというのになぁ」
 と、献身的な二人の看護卒に目をやりながら、さぞ面白そうに呵々大笑するのであった。
 ところが当のミハイルは、看護卒が蚊帳に入って団扇を仰ぎだしてからというもの、ますます汗をかきだした。絵筆の先は鈍り、ときたま一人の乙女の方をチラリチラリと見つめては顔を赤らめ、大尉の肖像画など遅々として進まない。不審に思った大尉は、
 「お前さん、ひょっとしてこの看護婦の令嬢に惚れておるな?」
 と冷やかした。
 それには肝を冷やしたミハイルは、慌てふためき動く腕だけをバタバタさせたが、幸いロシア語だったので乙女にその意味は伝わらなかった。しかしそれらの様子から、彼女はミハイルに好意的に思われていることを薄々感じたかも知れない。
 ようやく肖像画が描きあがり、二人の看護卒も病室を出て行くと、ミハイルは大尉に「日本語を教えてほしい」と願い出た。得利寺付近で捕虜となり、護送される船の中やバラックに来てからも、日本人と接する機会は沢山あったはずなのに、恥ずかしながら心を閉ざしていたミハイルは、言葉を覚えるどころか話そうともしなかった──というより気力すら失せていた。その彼が日本語を覚えたいと言い出したのは、紛れもなくあの乙女の出現によるものに相違ない。
 ところが大尉も英語は少しばかり話せるが、日本語は「ありがとう」と「おはよう」くらいしか知らないと頭を掻いて、とりあえずミハイルが最初に覚えた日本語はその二つであった。
 大尉はそんなに日本語を覚えたいならと、ここに来てから盛んに同国語の勉強をしている何人かのロシア兵の名前を挙げた。たまに外出許可が下りた際、健常者が収容されている公会堂へ顔を出しており、そこにドルスブルーという背の高い十八歳の軍曹がいると教えた。彼は士族の身分でなかなか頭が良く、最近は日本の尋常小学読本第一を手に入れて学んでいると言う。今では毛筆で五十音まで書けるようになったとかで日本の衛兵を驚かせているそうだ。そしてもう一人、同じく公会堂にいるダブリューム=ミシンという背の低い男のことを教えた。松山収容所ができてほどなく送られて来た曹長で、収容所内でも軍の階級を明確にして扱って欲しいと訴えたのも彼だそうで、その進言があったればこそバラック収容所も第一病室は将校専用とされたのだ。彼は今ではすっかり収容所のドンとなっており、日本衛兵に対する愛嬌も良く、北清事変の戦功で賜わったという二個の勲章を胸にちらつかせながら、今では縫工靴工場の監督を任されているそうだ。彼もまた時間を見つけては熱心に日本語を研究しており、簡単な単語くらいは話せるから通訳官も大いに重宝しているらしい。
 そんな話を聞くうちに、足の負傷で歩けないミハイルは悲しくなった。今はベッドから離れることすらできない。それを察したザイオンチコーフスキー大尉は、絵を描いてくれたお礼だと言って『ロシヤ・ジヤパン対照会話』というポケット辞典を彼に与えた。そこにはロシア単語に該当する日本単語がカタカナで記されていて、以来ミハイルは独学で猛勉強を積むことになる。



 住めば都で収容所暮らしも悪くない──次第にミハイルはそう思う様になっていた。
 相変わらず歩けはしないが、バラック第一号室のミハイル=コステンコ中尉の所へ行けば絵を描いてもらえるという噂が広がり、今では彼の周りに捕虜たちが集まるようになっているし、朝から夜に至る間に何度か彼の天使は彼の様子を伺いに来てくれるし、彼女に対して少し前から、朝は「おはよう」、それと、何かしてくれるたびに「ありがとう」の日本語を言えるようになった。
 そのたび彼女も優しく微笑んで言葉を返してくれ、その意味もおぼろげながら理解できるようになり、ジェスチャーを交えれば意思の疎通まで可能になって、たまに二人で笑い合う時などこの上ない幸福感を覚えるのだ。
 ところがいまだに名が知れない。
 足さえ動けば調べる行動を起こすに雑作もないだろうが、彼の所に寄って来る者に聞くのもおこがましいし、それ以前に恥ずかしい。目下ミハイルの目標は「あなたの名前は何といいますか?」という日本語を探し、彼女自身に直接問うことである。
 それにしてもなんと充実した日々であるか──
 心が変われば世界が変わることを最近ほど強く実感したことはない。

 「脱走事件があったようだよ」
 と、今日の話し相手は同室のベログール中佐だった。
 金州南山の戦いで騎馬に乗って部隊の指揮を執っていたところ、すさまじい轟音とともに巨大な砲弾が頭上を掠めた。アッと思う間もなく落馬して気を失い、目が覚めると左足の甲から大量の血が噴き出していた。苦痛に耐えながら自ら包帯を巻いていたところ、日本兵に取り囲まれ松山に連れて来られた。
 祖国に妻子を残し、年は四〇半ばとミハイルとは二〇ほども離れているが、なんともフレンドリーに接してくれる兄のような中佐なのだ。
 その話によれば、公会堂に収容されているミルスキー大尉が、夜中に五人の部下を引き連れ囲いを飛び越え逃走したそうだ。脱走事件はこれまでもなかったわけでない。ひと月ほど前には雲祥寺の捕虜兵が夜中に逃亡を図って地元の学生に見つかり、わけなく衛兵に捕らえられたという事件があったが、これはどうやら助平根性を起こして一夜の春を買うために収容所を出たようで、また少し前には同所の二人の捕虜が竹垣を破って逃げ出そうとしたが、これまた理由を正せば花町付近で年頃の女に煙草をあげるからと手招きされたのにつられ、竹垣の下をメリメリいわせて出ようとしたところを衛兵に捕まったということだ。つい先日も法龍寺の捕虜が夜抜けしようとしたが、付近の住民に通報されて難なく捕われた。しかしこれも逃走が目的でなく、酒に酔った勢いで月見でもしようと無断で散歩に出たものらしい。
 そんな捕虜たちの性格を収容所勤務の衛兵に尋ねれば、みな口をそろえて「酒が好きトランプが好き昼寝が好き女が好きの上にまた小供が大層好き」と答えるくらいだから、酔うた∞助平≠ヘ仕方のない事として、こたびの脱走はどうやら本気のようだった。
 脱走したミルスキー大尉というのは一風変った男で、左手に戦場で受けた古傷があって自由がきかず、本来なら現役を辞してもおかしくない年齢だが、今回の日露戦争にも喜んで従軍した兵である。恐るべきはその健脚で、山を走れば猿のよう。松山に入檻してからも、誘っても温泉へも海水浴へも行かず、一向に外出しようとはしなかった。彼の持ち物を調べたところ、至極精細な英語の日本地図が見つかり、投げ縄を携帯していたところを見ると、どうやら虎視眈々と脱走の時を狙っていたとは当局の調べだ。四日間の逃走の末捕らえられ、盛んにその否を諭されているようだが、ミルスキー大尉は懲りずに、
 「きっと逃げてやる!オレは国を出る時誓ったことがあるから、捕虜になったからといって決して思いとどまりはしない。この体内に一滴でも生き血のある限り、敵対行為を止めぬからそう思っていてもらいたい!」
 とキッパリ言い切っているそうだ。
 「みあげたものじゃないか。戦争が終わって本国へ帰った暁に、我は捕虜となってもかくの如く勇敢だったのだと賞辞に預りたいのさ。君はどう思う?」
 とベログール中佐は聞いた。ミハイルとて足さえ負傷していなければ、あるいは脱走も考えたかも知れない。しかし今は──
 そう考えたとき、あの天使が病室にやって来た。二人は話すのをやめた。
 「お加減はいかがですか?」
 いつものようにその言葉をかけた天使は、優しく温かい掌でミハイルの首筋を触って体温を確かめた。何か話しかけたいところであるが、近くにベログールがいたのでそれもできず、「ありがとう」とだけ言って見送った。するとベログールは天使を訝し気に目で追いながら小声で言った。
 「君の足の具合はどうなのだい? いいかげん包帯が取れても良さそうな頃なのに、一向にそうする気配がないじゃないかい──」
 と、つい先日行われたフレルヘイ=ユクリセレンフという兵卒の右足切断手術の話をし出した。
 彼は右大腿軟部貫通銃傷というミハイルと同じような傷でバラックに収容されているが、既に二度も血管が破裂して大量出血したものだから、衰弱しきってついに切断しかないと診断された。祖国には父母も妻子もない独り身だが、もし手術が失敗すれば命は無いと覚悟して、看護婦や朋輩等に別れを告げて手術に臨んだそうである。そのとき手術の立ち合いに志願したのが、今ここに来たあの新卒の看護婦なのだと彼の眼は軽蔑の色を示した。ベログール曰く、
 「執刀医が腕利きの菊池軍医監で、助手に医師を二名つけるほどの大手術だったそうだが、あの新卒看護婦はその名医に足が切られる様を見たかったに違いない。可愛い顔をして残酷な女もいたものだ」
 ミハイルは俄かに腹立たしさを覚えた。
 「あなたは僕の足も切断されればいいと思っているのか? 僕は、彼女は後学のためにあえてその場に居合わそうとした優秀な看護婦だと思うがね! 彼女に切られるなら本望だ!」
 態度の急変にベログールは目を丸くしたが、それきりミハイルは口をつぐんでしまった。
 レルヘイ=ユクリセレンフの手術は無事に終わり、右足三分の一を残して切断されてしまったが、術後の経過は極めて良好とのことである。足に限らずこのバラックにいれば、片手を切断したとか片目を失ったなどの話は日常茶飯事、生きていれさえすれば儲けもので、それはそのまま戦場のすさまじさを物語っている。
 明日は我が身のミハイルは、天使の顔を思い浮かべた。



 ここにいるとなにやら慰問者がよく訪れる。
 どこぞの牧師やら僧侶やら、役人のお偉方やら代議士やら新聞社やら銀行員やらと、たまに英国陸軍軍医とか仏国武官とかいうのもあるが、元来病室の慰問は毎週月曜と金曜の午後一時から四時までと定められているのに、慰問面会者はそんなことは関係なしに出かけて来る。およそ慰問というより見世物小屋で、見られる捕虜にとってはあまり心地よいものでない。それでも音楽生とか女学生とか美術学生とかのそれは、純粋な心が伝わって来て心和ますものがある。また、慰問ではないが金銭や物品の寄付贈与にあっては、物には罪はないのでむしろありがたい。
 ミハイル絵画中尉”のところにも噂を聞きつけて、先だって松山に来ているある代議士がやって来たから、花卉の水彩画を一葉記念に渡して帰ってもらったが、過日も何々医員長と名乗る者がやって来たので、これまた桔梗の絵を渡して丁重に帰した。
 「まるで流行りの画家さんですね」
 足の包帯を巻き直しに来た天使は、ミハイルの枕もとに置かれた向日葵の絵を見て尊敬の笑みを浮かべた。包帯を巻き直す時ばかりは、いつもより少し長めに一緒にいられる特別な時間なのだ。
 「ナンデスカ?」
 すると天使はザイオンチコーフスキー大尉の『ロシヤ・ジヤパン対照会話』を手にすると人気≠ニいうロシア語と画家≠ニいうロシア語を探して指さした。ミハイルは少し照れくさそうに先ほど描き終えたばかりの向日葵の絵を、「ドウゾ」と言って天使に渡した。
 「くださるのですか? まあ、うれしい!」
 無邪気に喜ぶ天使はまだ幼さを残してはいるが、もうすっかり乙女なのだ。ミハイルは予ねてよりの目標を達成せんと、胸をドキドキさせながら呟くように問うた。
 「アナタ、ナマエ、ナニ?」
 天使は少し驚いた顔をして、「私の名前?」と聞き返すと、
 「立場なか……」
 と小さく答えた。
 ミハイルはまるで神の名でも思い出したように「タチバ=ナカ」を二、三度──四、五度繰り返し、やがて「ウツクシイ、ナマエ」と言った。そして自分の名前も伝えようと、「ワタシ、ナマエ──」と言った次の瞬間、
 「知ってます。ミハイル=コステンコさん」
 ミハイルは驚愕したが、なんのことはない、毎日問診する患者の名前くらい看護卒なら知っていて当然なのだ。しかし彼にとっては、初恋の人にでも再会した時のような驚きと感動の衝撃をもたらした。
 彼女が自分の名前を知っていた──
 そう思うだけで歓喜があふれ、天にも昇る幸福感を得た。その日はそれだけで充分過ぎた。

 眠りに就く前、ポケット辞典から「タ」「チ」「バ」「ナ」「カ」というカタカナを一文字ずつ拾い集め、いつもなら水彩絵の具の色を落とす真っ白な洋紙に、鉛筆を握ってその文字を何度も何度も書いてみた。やがて紙いっぱいに「タ・チ・バ・ナ・カ」が溢れると、鉛筆の黒い文字は七色に彩られ、ミハイルの心に楽園の花園を創り出した。が、それも束の間、次第に胸が切なく、苦しくなるのを覚えるのだった。
 明日は何を話そうか──
 あれこれ考えているうちに、やがてナカの事を悪く言ったベログール中佐のベッドから、彼がトイレに立つのが目に入った。彼は小さな明かりの点いているミハイルの方に目をやると、「まだ起きていたのかい」と言って病室を出た。
 彼とて人の子、そのうえ子を持つ父親であることを考えると、別に悪気があって言ったわけではないと、彼を許してやろうと思い直したミハイルの脳裏に、先日彼を訪ねて来た一人の日本婦人がいたことを思い出した。
 その婦人の名は沢田女史。松山の裁縫学校の校長をしていると言っていた。
 彼女には息子がおり、次男は第五師団の歩兵少尉をしていて、この度の戦争に出征しているそうだ。人の縁の不思議を感じるのは、その息子とベログール中佐が戦地で会ったということである。その話を聞きつけた母が、早速に礼を尽くしに面会に来たというわけだった。
 「あなたはどこで息子に会ったのですか?」と、通訳が彼女の言葉を訳して伝えた。
 「自分は捕虜となり、金州から十九里ほど離れた日本軍の屯所で、二、三日滞在いたしました。そのときお世話になったのが沢田少尉です」
 沢田女史は歓喜の動揺を隠しきれない様子で「息子はどのような様子でしたか? 達者でしたか?」と続けた。ベログールは屯所を去る際に沢田少尉から託された言葉を、「少佐はこう申されました」と前置きしてから、できるだけ忠実に伝えたのだった。
 『あなたが内地へ護送されたら、伊予の松山という処へ送られるでしょう。そこは小生の故郷で、母がおります。しかしなにぶん忙しく、手紙ひとつ書いている暇がなく、おそらく母はひどく心配しているに違いありません。松山に着いたらどうか、どうか母に伝えて欲しいのです、私は健在でいるから心配しないで下さいと──』
 感慨余って女史の両目に溢れんばかりの涙が光っていた。ベログールはようやく次の言葉を見つけて、
 「あなたには子が何人ありますか?」
 と聞いた。
 「三人おります」
 「実は私にも三人の子がありますが、明けても暮れてもその子ども達の事が頭から離れません。国は東西と違っていますが、子を思う親心に変わりはないのですなぁ。戦争など早く終わらせて、愛しい我が子に早く逢いたいものです」
 二人は心の傷を労わり合うようにいつまでも見つめ合っていた。

 翌朝、いつものように「お加減はいかがですか?」とやって来たナカに、ミハイルは照れくさそうに「オハヨウ」とほほ笑んだ。
 ナカはいつものように体温を調べると、枕もとのノートに記帳しながら、
 「そういえば軍医の先生が言っていましたよ。もうじき包帯が取れるって」
 と伝えた。ミハイルが首を傾げたので、意味が伝わっていないことに気づいたナカは、
 「Doctor sayed,take bandage soon」
 と、つたない英語でも一度言った。英語ならばミハイルも多少理解できる。
 「そしたらお祝いしましょうね。Celebrate」
 「Celebrate? トテモトテモ、ウレシイ!」
 幸せというのは突然にしてまとまって訪れるものなのだろうか。ミハイルは天にも昇る気持ちで、次に彼女が来た時には何を話そうかと胸をときめかせながら、『ロシヤ・ジヤパン対照会話』をむさぼり読んだ。



 前述した逃亡者の動機もそうだが、女を見なければ夜も寝られない動物≠ニまで評されていたロシア兵捕虜たちの女好きときたら、松山市井でも有名だった。しかしそれと同じくらい子どもも好きといった具合だから一概に憎めないところもあるが、ある者などは美女が描かれた絵団扇をもらって大喜び。常日頃から女といったら影法師でも嬉しく思っていたというから、団扇に頬を撫で擦りしているうち、ついに絵に接吻したところが美女が涎で滲んで台無しになって、その男は泣くほど口惜しんだ笑い話や、寺の縁日で観音堂に参詣した時などは、詣でる婦女の多さに大喜びして、押し合いへし合い争って、彼女たちの顔を覗き見してだらしなく涎を垂らしていたとか、外出許可の下りた散歩で町に出れば、写真屋の前でみな足を止める。何を見ているかと思えば、店頭に飾られた女の写真に釘付けで、「ヤレ口が大きい」やら「小さい」だのと、他人の顔を好き勝手に批評して大はしゃぎ。中でも気に入った梅子という芸妓の写真を見つけた日には「ぜひ一枚買いたい」と騒ぎ出し、付き添いの委員がようやく止めたという騒動もある。また健常者は用もないのにとにかく病院に入りたがる。そして入ったら最後、なかなか出ようとはしなかった。なぜかといえば看護婦の顔を見て口説くのを無上の喜びとしているとかで、道後温泉に行けば、風呂に入るより茶番の婦人を見ながら、酒をあおって飯など喰うのが唯一の楽しみだとか。
 そんなロシア兵捕虜たちの女好きの噂はナカの耳にも聞こえているはずで、先輩看護婦や上官からよほど「気を付けなさい」と忠告を受けているに相違ない。それとは知らず、その日の午後に問診に訪れたナカに、ミハイルはこう言った。
 「包帯、取レタラ、差シ上ゲタイ、モノ、アリマス」
 ナカは警戒したような表情を作った。確かに「お祝いしよう」とは言ったが、患者から物品をもらうなど考えてもないようだ。
 「何かしら?」
 「ソレ、云エナイ、ヒミツ」
 「香水とかハンカチーフならご遠慮ください。このあいだも温泉で、あなたのお仲間が何か問題を起こしたようですから」
 それは道後温泉に入浴に行くたび捕虜たちが、茶番の女にチップをやってナンパしようとする話の顛末だ。規則で禁じられているらしく女はチップを受け取ろうとしないので、考えた捕虜たちは、やがて香水やハンカチーフのような物品を土産に持って行くようになった。その様子を見ていた捕虜の監督係員は、もし間違いでもあったら一大事と、彼らの入浴の際に限り、女を休憩所へ近づけてくれるなと温泉側に注意を促したという話である。今日は捕虜の希望者が道後温泉に行く日なので、朝礼でそんな話が出たものだろう。
 「once more」
 ナカは「いいです」と言って掃除をし始めた。
 寝たきりのロッゲ少尉と歩けないミハイルを残して、他の者はみな温泉に出かけてしまっており、病室内はクマゼミの声が聞こえるだけ。閑散とする中、ナカは雑巾をかけたりベッドのシーツを敷き直したりしながら世間話をしはじめた。どうやらミハイルが多少なりとも日本語が話せることを知って、話し相手になってやろうとしたのだろう。
 「ミハイルさんも早く歩けるようになるといいですね。道後温泉は日本有数の温泉地なのですよ」
 ドウゴオンセン≠フことは仲間から聞いていたので、その言葉がなんとなく理解できた彼は、「歩キタイ。オンセン行キタイ」と返した。
 「包帯がとれればお酒も飲めるし、毎晩二号室でやっているトランプだって歩いて行ってできますね。ミハイルさんも子供がお好きなのですか?」
 ナカは気を遣ってあえてロシア兵の女好き≠セけ省いて聞いたと思うのだが、そんな気遣いに気付くはずもないミハイルは、ナカと二人だけで話ができる嬉しさで「子ドモ、大スキ!」と声を挙げた。
 「国にお子さんがいらっしゃるのでしょ? いまおいくつ?」
 クニ∞コドモ≠ニ聞いて誤解を招いては一大事とばかり、ミハイルは更に大きな声で「イナイヨォ!」と叫んだ。
 「チチ、ハハ、イマス。ワタシ、ヒトリ」
 「そうなのですか? ハンサムだからもう結婚なさっているのかと思いました」
 と、ナカは一通りの掃除を終えると、「マッコール嬢みたいな素敵なお嫁さんが見つかるといいですね」と言い残して病室を出ようとした。マッコール嬢とはイギリス皇后の名代として現在来日中で、つい先日、松山収容所のロシア捕虜兵慰問のため、この施設を訪れたばかりだった。城北の新設バラックでも各病室を回って見舞い、その気品ある姿と言動に誰もが瞠目して、このところ毎日のように話題にのぼっていたところなのだ。ミハイルはナカを呼び止めた。
 「ミス・マッコールヨリ、ナカサン、ウツクシイ」
 ミハイルは午前中に覚えたばかりの日本語の比較表現を初めて言葉にした。ナカは少し照れくさそうに、
 「ご冗談ばかり。ロシアの兵隊さんのうまい言葉は半分に聞いておけって、軍医の先生も申しておりました」
 ナカはニッコリ微笑んで隣の病室へ行ってしまった。



 包帯が取れたのはそれから数日後のことである。恋の力というのは恐ろしいもので、その間のミハイルの日本語の上達ぶりといったら目を見張るものがある。
 治療の方はというと、痛々しい腹部と右足の傷口は残ってしまったが、包帯も添え木も取れた体は非常にすがすがしく、軍医は「これで大丈夫!」と言って治りたての患部を叩いた。しかし傷が治ったのはいいがすっかり筋肉が衰えてしまっており、歩くことができない。
 「しばらくは少しずつ歩行練習をして養生することだ」と軍医はリハビリを勧め、「立場君、君、ミハイル君と気が合いそうだからお願いね」と、あっさりリハビリ担当を彼女に託すと、そのまま病室を出て行った。
 その日の一日の業務が終わり、お祝いだと言って二、三の看護卒に囲まれて渡されたのは、彼女たちがお金を出し合って買ったという新品の革靴で、収容所の工場で作られたものを安くしてもらったのだと笑った。夕食も野菜スープとビーフコロッケに、彼だけ特別ナカが炊いて来たのだという赤飯を食べた。
 「早くこの靴をはいて歩けるようになりましょうね」
 ナカの先輩看護卒が言ったが、ミハイルが約束した差し上げたい物”とは、ナカの分しか用意してなかったので心苦しく思いつつ、やがて彼女たちは散会して帰って行った。
 「ナカさん」
 出際に彼女を呼び止めたミハイルは、枕の下から一葉の、女性が描かれた水彩画を差し出した。それは美しい緑と黄色を基調にして佇むナカを描いたものである。包帯が取れるまでの間、いやそれ以前から、彼が密かに彼女が働く姿を何十枚も描き溜めたものの中から、一番良く描けたものを選んだ一枚だった。
 「まあ、キレイ! これ私なの? いただけるの?」
 感嘆の声を挙げた彼女に、ミハイルは静かに頷いた。
 それからというもの、リハビリ担当となったナカと一緒に過ごせる時間が格段に増えた。ミハイルにとっては好い事づくめの捕虜生活となり、松葉杖をつきながら、愛しい女性の肩を貸してもらい、歩く練習を重ねていろいろな身の上話をしたのであった。
 彼女は宇和島で生まれた。
 幕末の宇和島藩のお殿様はとても先進的で、どこよりも早くイギリスと交流を始めたから、町にはそんな開けた気風があるのだと言った。少しばかり英語が話せるのもそのためで、女学校を卒業して篤志看護婦を志望して松山に来たが、ちょうどロシア兵の捕虜を受け入れている最中と重なり、ここに回されて来たのだと教えた。また、兵卒の足の切断手術に立ち合ったのは、後学のためもあるが、彼女を育てた父の「ひとたび家を出て看護婦になるのなら、イギリスのナイチンゲールのようになりなさい」との言葉を思い出し、勇気を奮い起こして志願したとのことだった。それに詰所には、ロシアの軍医さんや看護婦さんも来て協力してくれるし、松山にいながら国際的な友情を結べることが何より楽しいと言った。戦地では、勝利すれば敵国の人間はことごとく捕虜として日本本土に護送されるが、医者や看護婦、あるいは商人や学生などの非戦闘員は、身元が証明されれば間もなく本国に送還される。ところが医師や看護婦の中には、人道的な立場から捕虜施設の病院に残り、日本の医師等と協力して負傷者の治療看護に当たることを希望する者もいるのだ。
 そんなナカの人間性を少しずつ理解しながら、彼女の好きな色、好きな花、好きな景色、好きな食べ物──あらゆる情報を聞き得たミハイルは、このままずっと二人でいたいと思った。

 足の力が回復してくると、やがて二人はバラック屋内の歩行練習から、晴れた日は外に出るようになるが、その仲睦まじい姿はまるで互いを労わる恋人同士だった。
 最近のロシア捕虜兵たちの関心事といえば、旅順が日本に攻撃されたとかされないとかの噂を受け、表向きは呑気にしているように見えて、内心は戦況のことが気になって仕方ない。旅順の港と大要塞は、ロシアの陸海軍が立て籠もっており、補給路を確保したい日本の陸海軍にとっても最大の要衝地なのだ。折しも日本では戦勝の提灯行列が盛んで、「提灯屋の製造が間に合わないから、日本軍も提灯が出来るまで旅順は落とさんだろう」という風刺まで囁かれていたから、ロシア兵たちにとっては気が気でない。収容所当局に言わせれば、仮に今陥落したとしても、現在の規模ではとても捕虜たちを収容しきれないから、バラックの増築・増設を急ぐとの算段である。
 「旅順はどうした? 遼陽方面の消息を聞かせろ」
 と、捕虜兵たちは通訳官を捕まえてはしつこく尋ねていたが、通訳も忙しいのでいちいち対応できない。するとこの頃になっては一日数回配達される新聞の号外を読む者が出てきて、誰からともなく戦報を知り得、「常陸と佐渡がやられた」とか「我らの軍艦が元山を襲った」とか、誰からともなく互いに情報交換するようになって、今ではいまだ旅順が陥落していないことを知ると、
 「いかに日本軍がジタバタしたって、旅順は到底落ちないわい。いつかは陥落するにせよ、そうやすやす日本人の思うようにはいくまい。骨折り損のくたびれ儲けじゃい!」
 「旅順は決して落ちぬ。もし落ちたら俺様の掌に毛をはやしておめにかけるわい!」
 と鼻高々。
 ところが収容所にいるのはロシア人ばかりでなく、ポーランド人や韃靼人、ユダヤ人やドイツ人もいる。収容部屋は人種毎に割り振られているが、数の少ないユダヤ人などはロシア人と同室の者もいた。するとそこでいじめが起こり、人知れず涙をこぼすユダヤ人もいたという。考えてみればポーランド人とかユダヤ人等は自国の戦争に参加しているわけでなく、ほとんど奴隷同然にロシアに連れて来られたから、長年の怨恨を抱いている者もおり、今回の戦争も好きでロシアに従っているわけでなく、彼らは嫌々にして日本に弓を引いている。そんな者たちの言い分は、
 「そうは云うが、決して楽観してはおられぬぞ。冷静になって考えてみれば、とどのつまりは旅順とて陥落するに決まっている」
 と、意見が割れて論戦になるが、やはり少数派のポーランド人とかユダヤ人等は、多勢に無勢で言い負かされてしまう。
 そんな中を歩行練習のミハイルとナカが通りかかれば、途端に議論をやめて冷やかしの声や指笛を鳴らして見守る昨今である。これでは二人ができているとの噂が立つのも当然だったろう。しかもこの当時の新聞報道といったら、現代と比較すればプライバシーの意識の差に天と地ほどのひらきがある。その二人の様子は地元新聞紙に小さく報道された。



 最近のリハビリは松山城二の丸、城北練兵場敷地内にある井戸の周辺だった。
 井戸といっても東西十八メートル、南北十三メートルもある日本屈指の巨大なものだ。江戸時代の頃はこの井戸の上に建物があり、炊事場として、あるいは火災時の消火システムの機能を担っていたようだが、陸軍訓練場となってからは建物は取り壊され、今は水が無駄に溜まった長方形の池と化していた。その周辺には、今の季節は芙蓉や桔梗や鬼百合などが咲いている。
 「ナカさん、コンド絵ノモデル、シテモラエマセンカ?」
 「えッ? そんな、恥ずかしいです……」
 ナカは小さく俯いた。
 「アナタノ絵ガ描キタイ、ダメデスカ?」
 「こんなにたくさん綺麗な花が咲いているではありませんか。花卉の絵は描かないのですか?」
 「ボクニトッテハ、ナカさんガ花デス」
 ナカは、またいつものロシア人の戯れ言と思っただろう、
 「……ロシアの男性は女性を口説くのがお上手ですね」
 と聞き流した様子だったが、ついにミハイルに押し切られ、モデルを務めることになったのである。
 こうしてリハビリにかこつけて、ミハイルは井戸の周辺でナカをモデルに絵を描くようになった。
 ところが彼女は思いのほか忙しく、たびたび「高浜港に収容兵が到着した」との報が入ると、その場を立って急患者の看護業務に戻らなければならなかった。捕虜の中でも負傷していない者は公会堂や法隆寺、勧善社や雲祥寺などの収容所へ送られるが、負傷兵はすべからくバラックに運ばれて来るのだ。第一回から計算すればかれこれ三十数回の捕虜着松≠フ報を数えており、増設されたバラックの収容人数は既に五〇〇名近くにのぼり、松山全体においては一千数百名を越えていた。そのうえ戦争終結の目途は全くたっておらず、先行き不透明な不安感は、捕虜兵ならずもそこにいる全ての人間の心を汚染していた。
 一人残されたミハイルは、先日菊池軍医監の夫人から寄贈された綺麗な絵が描かれた団扇を仰ぎながら、湿った大気で霞む空を眺めた。このまま怪我が治癒したら、バラックを退院して他の収容施設に移らなければならない。「そんなのはいやだ!」と、彼はある決意を余儀なくされていた。

 その日は京都美術学校の学生を名乗る青年がミハイルを慰問に訪れた。二人は偶然廊下ですれ違い、青年が寄贈したいと持ってきた一葉の洋紙に描かれた自作の花卉の絵を見て、「ジョウズデスネ」とすっかり意気投合してしまったのだ。ミハイルは彼を自分の病室に招き、ある将軍が騎馬にまたがったその傍らに犬を描き、馬と犬とが競走している自作の絵を見せると、「この将軍はあなたですか?」とたちまち画談に花が咲く。
 「アナタハ、ドンナ絵描キさんガ好キデスカ?」
 「私はフィンセント・ファン・ゴッホという画家の絵が好きです。オランダの画家でまだ無名ですが、彼の絵は、いずれ世界的に評価されると思います」
 と言って古びたカバンから『メルキュール・ド・フランス』というフランス語で書かれた画集のような雑誌を取り出すと、その中からゴッホの絵を見せて、「彼は生前一枚しか絵が売れなかった不遇の画家ですが、この絵から放たれる力強さは類を見ません。自分もこんな絵が描きたい。ぜひ本物を見てみたいものです」と興奮気味に語った。
 「中尉は誰がお好きですか?」
 「当テテミテクダサイ」
 「う〜ん、この絵から察すると印象派ですね。さしずめクロード・モネといったところでしょうか?」
 この頃、印象派の画風はフランス画壇でもてはやされ、特にクロード・モネの『印象・日の出』に始まった印象派グループのそれは一躍脚光を浴びていた。ミハイルの描く淡い色使いの絵は、なるほどその類いに分類されよう。
 「サスガ、ビジュツダイガクセイデス。当タリデス」
 そんな談笑をしているうちに、彼らの周りに各病室の捕虜将校たちが集まってきて談議に耳を傾けた。すると一人の将校がハンカチーフを取り出して美大生に揮毫を求めた。ミハイルは、
 「ココノ暮ラシハ、スルコトガナク、ケッコウ退屈デス。ドウカ何カ、描イテアゲテクダサイ」
 とお願いすると、美大生はカバンから書道具を取り出して、絵も言われぬ早さで『三保の富士』を描き上げた。それには将校も大喜びで、やがて学生は満足そうに帰って行った。

 その晩、ミハイルは悩んだ。ナカとのことである。
 この調子でいけば半月もすれば退院の勧告を受けるだろう。そうでなくとも病室は絶えず一杯なのに、そうなればバラックを去らなければならない。移転先は公会堂になるか周辺の寺社になるかは知れないが、いずれにせよ厳しい監視のもと外出するのもままならないだろう。そうなる前に自分の気持ちを伝えなければならない。少なくとも彼女の気持ちを確かめたかった。
 どうやって伝えようか──
 考えあぐねているうちに、家を出るとき母から餞別にもらった十ルーブル金貨の事を思い出した。お守り替わりとして軍服の襟の裏に縫い込んだままだが、今、あの激しい戦火を潜り抜け生き得たのも、また、ナカに出合えたことも、全部その金貨が守ってくれたのだと思えた。ここに来てからは怪我のため、就労もできずに無一文であるが(ちなみに『捕虜労役規則』では官衛で働く場合、下士官相当の者は一日七銭、兵卒は一日四銭支払われた)、先進諸国に比べると日本はまだまだ物価が低く、両替すれば一、二カ月は生活できるくらいの価値があるはずだった。今の彼の唯一の財産といえばその一枚の金貨で、それはあまりに高価な、最後の生きる手段であり希望でもあった。
 ミハイルはベッドの下にしまってある血で汚れたボロボロの軍服を布団の上に広げると、襟の裏からその金貨を取り出し握りしめた。そして俄かに立ち上がり、松葉杖をついてこっそりと病室を抜け出した。従来バラックの負傷捕虜は、夜間は病室から出る事を許されていなかったが、幸いこの頃は夜も猛暑続きで耐え難く、同構内に限って自由に散歩してよいことになっていた。
 暗い病舎の中を、便所や湯飲室、浴場などをくまなく回り、目的の物がないと知るや次には汚物焼却室や消毒室、ついには霊安室まで回ってやっと見つけたのが、長さ三センチほどの一本の釘だった。収容所内には刃物や先端の尖った金物類等は、捕虜の目にとまる場所には一切置いてない。たったその一本を見つけるために二、三時間も費やした。そして庭に転がっている程良いざらつきをした石ころを見つけると、ベッドに戻って小さな明かりを灯す。次にやり出した怪しい行動は、見つけた釘の先端を、拾った石で研ぎ始めた事である。それは間もなく満足のいく形状に仕上がったようで、研ぎ澄まされた釘の先端を見つめてミハイルは生唾を飲み込んだ。
 次に鉛筆で、金貨の国章『双頭の鷲』が刻まれている面に、淵の平らかな部分に添って『М Костенко』というロシア語の自分の名前を下書きした。釘の先端で名を刻もうというのであった。刻み終わるとその右側に、今度は、天使の名を初めて知ったあの日、洋紙いっぱいに書き連ねた『タチバナカ』の文字を下書きし、同じように釘の先端でできるだけ丁寧にその名を彫り込む。この金貨を婚約の証しとして彼女に渡そうと考えているのだ。コインのもう片面に刻まれた『ミハイル2世』の面に刻めば、平らかな部分がより広いので適していたが、『双頭の鷲』の面の方に刻んだのは、もし婚約が成立して、以後日本に住むようなことになったら、祖国を裏切ってしまうようで気が引けたからだった。ところがそこまで刻んでしまって考えた。自分の名前はロシア語綴りで、ナカの方はカタカナ綴りなのは変だ──そこで彼女の名を刻んだ対象方向に、自分の名を同じカタカナで刻んでみた。多少いびつな文字になってしまったが、今のミハイルにとっては精一杯の誠意だった。
 気付けばもう東の空が白らみはじめ、新しい朝が空けようとしている。彼は完成したばかりのエンゲージコインを大切そうにポケットにしまい込み、その長い夜の仕事を終えて眠りに就いた。



 翌朝、いつものように「お加減はいかがですか?」というナカの声に起こされたミハイルは、眠い目をこすって上半身を起こした。
 「あら? ずいぶんと眠そうですね。昨日は遅くまで起きていたのですか?」
 「チョット……」とミハイルは言葉を濁した。
 「ナカさん、今日ノ歩行練習ハ何時コロニナリソウデスカ?」
 「そうですね……」と彼女は少し困った顔をした。
 「実ハ、大事ナ、オ話シガアリマス」
 「ごめんなさい。今日は昨日収容された人たちの看護が忙しくて、時間がとれないかもしれません。明日ではだめですか?」
 ミハイルは「ワカリマシタ」と答え、その翌日の夕方頃になってついにその時が来た。
 陽が沈みかけた大井戸のほとりで、ミハイルは何から話そうかと言葉を詰まらせた。
 「大事なお話しって何ですか?」
 ミハイルはポケットをゴソゴソやって一昨日の晩に作った金貨を握りしめた。
 「ソノォ……ボクハ、イツ退院スルノデスカ?」
 ナカは「なんだ、そんなことか」といった表情で、
 「今月の二十日頃には退院できるのではないかと、軍医の先生は言っていますよ」
 「ハツカ……」と、ミハイルは悲しい目をして「退院シタクアリマセン」と呟いた。
 「でも、決まりですから……」
 「退院シタラ、ドコニ、送ラレマスカ?」
 「多分、公会堂収容所になると思います」
 「ソコニ行ッテモ、ナカさん、アナタト、会エマスカ?」
 ナカは何も応えなかった。ミハイルは胸の内をそっと伝えた。
 「ボクハ、アナタト、一緒ニ居タイ──」
 ナカの瞳が悲しみを帯びたものに変化するのが見てとれた。
 ミハイルは先ほどから握りしめていた金貨を彼女に差し出すと、「コレヲ、受ケ取ッテ下サイ」と言って手に握らせた。
 「何ですの? ロシアのお金?」
 ナカは珍しそうにその金貨を見つめると、今度は彼女の方がポケットに手を忍ばせ、中から十銭銀貨を取り出し「では、これをどうぞ」と言って彼に渡した。おそらくその金貨をお別れの記念だと解釈し、十ルーブルの『一〇』を見て、同等の価値があると考えた十銭を取り出し、交換してお互いの想い出にしようと思ったに相違ない。ミハイルはその勘違いに気付きながら十銭銀貨を受け取った。
 「ソノオ金ニ、アナタトボクノ名前ヲ、書キマシタ。ボクト、結婚、シテ下サイ」
 「えっ……?」
 と言ったまま、ナカは次の言葉を見いだせずに俯いた。真っ赤に染まった顔色は、あるいは夕陽が反射していたものかも知れない。しかしミハイルは、彼女の心にも自分が棲んでいることを確信し、黙ったままの彼女に対してどうしていいやら分からなくなって、やがて無意識に松葉杖を落とすと、目の前の美しい天使をそっと抱きしめた。ナカは拒むでもなく抱き返すでもなく、目を開けたまま、二人の呼吸は互いの体を確かめあって、その時間が永遠に続くのではないかと思われた。
 「そんなこと言わないで──あなたを愛してしまうじゃない……」
 吐く息とも思われた小さな声は、ミハイルの思考を蘇えらせた。
 「愛シテ、イイデス……愛シテ下サイ──」
 「でも……」
 と言って、彼女は静かに彼の身体から離れた。
 「あなたの国と私の国は戦争をしています。結婚なんて……できるはず、ないでしょ──?」
 「逃ゲマショウ」
 「脱走するつもりですか?」
 「逃ゲテ、遠クノ山奥ヘ逃ゲテ、畑ヲ耕シナガラ、アナタト静カニ暮ラシタイ……」
 「でも、そんなことしたら──」
 ナカは泣きそうな目をしてミハイルの真剣な眼を見つめ返した。
 「驚カセテ、ゴメンナサイ。返事ハ、イマデナクテイイデス。デモ、退院スル前ニ、教エテ下サイ」
 ミハイルは再び彼女を抱き寄せて、その小さく開かれた唇に口づけた。

 そんなことがあってから、ナカはどことなし余所々々しく、二人の間には見えない壁ができたようだった。あの日の出来事を切り出すのは、どこか腫れ物に触れるようでなかなか言い出すことができず、結局バラック内で見聞きした出来事や事件を持ち出して、たわいのない世間話に終始する。
 ミハイルは、先日バラックに送られて来た収容兵は、日本の貨客船『常陸丸』を魚雷で撃沈させた装甲巡洋艦『リューリク号』の乗組員だったという話題を持ち出した。彼らは様々な国に上陸するのでいろいろな国の言葉を話せる。水兵ですら簡単な日本語ができ、ある捕虜海兵は日本の記者に煙草の火を貸してもらったとき「おおきに」と言ったらしいが、それは日本のどこの言葉かと笑ってみたり、またある海兵は、喉が渇いて「アナタみーずみーず」と叫んだら、意味が通じて飲料水をもらえたという話をすれば、ナカはナカで、ナゾローフさんは気に入らない事があるとすぐに私たち看護婦を殴るので、みな怖がって接したがらないが、今回送られて来た人たち(リューリク号の乗組員)は、みな規律正しく、本来私たちがしなければならない病室の掃除も、「かよわい婦女にやらせるのは気の毒だ、我々は常に艦内の掃除をして慣れているから引き受けた」と言っていつもお部屋を清潔にしてくれている。同じロシアの人でも随分と違うものだと苦笑した。そして話題につまれば捕虜兵たちの病状を尋ねてみたり、言う事を聞いてくれない将校に対する愚痴を聞いてあげたり、そうこうしているうちに日々は光陰のように流れ、ミハイルは松場杖なしで歩けるようになり、ついに翌日退院しなければならない日を迎えた。時に明治三十七年(一九〇四)九月十九日のことである。
 ナカの返答次第では、即日にでも決行できる綿密な脱走計画も練っていたし、一生彼女を守り抜く覚悟も決まっていた。ところがなかなか切り出せないまま、最後のチャンスであるこの日を迎えてしまったのだった。そのように躊躇していたところを、
 「ミハイルさん、今晩お時間いただけますか?」
 と、声をかけたのはナカの方だった。二人は今宵八時に、例の井戸の近くで会うことを約した。



 大井戸の水面におぼろ月が映っていた。
 散歩を装って一人外に出たミハイルは、少し早かったかなと後悔しながら約束の場所に来てみると、既に彼女はそこに立っていて、「こんばんは」とどことなし作ったような笑顔で迎えた。不安と緊張が潜む表情を無理やり笑顔に変えた彼は、暫く無言で彼女の正面に立ち尽くしたが、やがて「オ仕事、ゴ苦労サマ」と言ってその悲し気な瞳を見た。
 「いよいよ明日、退院ですね。おめでとうございます」
 皮肉なものである。本来ならめでたい話が、この時ほど恨めしく思えたことはない。
 「アリガトウ──」
 初めて覚えたその日本語は、もしかして彼女に伝える最後の「ありがとう」になるかも知れないと心のどこかで思った。すると彼女は白衣のポケットに手を入れると、求婚をした際渡された十ルーブル金貨をおもむろに取り出した。
 「これ、お返しします──」
 「э」
 思わず漏れた小さな驚きの息は、彼がロシア人であることを物語った。
 「ごめんなさい、私、このお金がそんなに高価だなんて知らなくて……」
 おそらく十ルーブル貨幣の話題を同僚か誰かに持ち出して、その価値を知ったものに相違ない。しかし金貨を返す理由が求婚の断りでなく、価値の大きさによるものであることに胸を撫でおろしたミハイルだったが、ひょっとしたら自分を傷つけまいとした彼女なりの優しさかも知れないとも思えて、動揺は隠すことはできない。いずれにせよ、一度あげた物を再び受け取ることはできない彼は、拒む理由を考えた。
 「返サナクテイイデス。コノコイン、アナタニアゲマシタ、アナタノ物」
 「いけません。受け取れません……」
 「必要ナケレバ、ナニカ美味シイモノ、食ベテ下サイ」
 それは家を出るとき母から告げられた言葉と同じであった。人は窮地に立たされると、より深く刻まれた経験に伴う言葉が、無意識のうちに出て来るものか。
 「ダメです。やっぱり受け取れません──ごめんなさい……」
 ナカは彼の右掌に金貨を置いて握らせると、その上から両手でギュッと握りしめた。
 「ナゼ?」
 とミハイルが言った時、ナカの瞳から大粒の涙が音をたてて落ちた。
 「明日、あなたを見送った後、来月には宇和島に帰らなければいけなくなりました」
 「ドウシテ、デスカ?」
 「父が縁談を決めたのです。宇和島に帰ってお見合いをしなければなりません。少し前に決っていたのですが、どうしてもあなたに言えなくて、黙っていました」
 「断レナイノデスカ?」
 ナカは言いにくそうに厳格な父の話を伝えた。読者にだけは実情を伝えておくと、少し前に地元新聞で報道された二人の様子を綴った記事が彼女の父親の知るところとなり、「敵国ロシアの男と恋仲になるなど言語道断」と激怒した父親は、大慌てで縁談の相手を見つけたといった次第。しかしその実情を話すには、彼女にはどこか罪悪感があり、とうてい伝える勇気は湧かなかった。
 「相手ハ、ドンナ男性デスカ?」
 「知りません。ただ、関東の方だと聞きました」
 「ボクハ、ソンナノハ嫌デス! ナカさんハ、ソレデイイデスカ?」
 「あなたと一緒に逃げようとも考えました──でも、どうしても決心がつきませんでした。私は日本人です、そしてその日本帝国の女だから……私にはどうしても、父にもお国にも逆らうことができません」
 突然その瞳から、先ほどから溜まっていた涙がポロポロとあふれ出した。彼に、脱走してまで一緒になりたいと打ち明けられてから、彼女なりに考えてはみたものの、そうしたところでミルスキー大尉のように捕まって、厳しい尋問を受けた末、独り倉庫に留置されるミハイルを見るのはあまりに忍びない。日本の包囲網を破ることなど不可能で、仮に逃れられたとしても外部との接触はできない。常に不安にさらされながら、見つかったら最後、彼女とて国賊と蔑まれるのだ。そんな屈辱には到底耐えられないことを彼女は知っている。愛さえあれば”とは言うが、愛は感情の一種であり、感情は時々刻々と縁に触れて変化するものなのだ。ナカにはいくら楽観的に考えても、二人で幸福に生きている将来が見いだせない。こんな残酷な出会いをいったい誰が与えたかと、彼女の言葉はそんな心の叫びを象徴していた。
 「ミハイルさんのことは好きです。できることなら生涯あなたを支え一緒に生きたい。それが女性の道だとしたら、きっと私はダメな女ですね」
 ミハイルは何も言えなかった。ナカという名の天使に出合ってから、盲目となってひたすら彼女と自分の事だけしか見ずにいたミハイルは、突然押し潰されそうな現実に目覚めて愕然とした。
 自分は捕虜なのだ!
 何の罪も犯した覚えはないが、収容所に入れられているのは事実なのだ。
 さすれば罪を犯しているのは国ではないか! 悪いのは戦争を生み出す自然の摂理の方ではないか、人心ではないか!
 同じ地球という星に住み、千載一遇の出会いを成し遂げたというのに、彼が乗り越えなければならない山は、あまりに高く険しく越えがたい。今の自分に、本当に彼女を幸せにすることが出来るだろうか──その答えは、ナカが見ている未来と同じに違いなかった。
 闇、闇、闇──キョロキョロと周囲を見ても真っ暗な空間。その闇は、一寸先が行き止まりなのかそれとも果てなく続いているのかも教えてくれない。彼はその暗黒の世界にぽつねんと佇んでいた。
 「あなたと出合うのが早すぎた……」
 ナカはぽつんと呟いた。それはいつまで続くか知れないこの戦争が終わり、平和な時代が到来してから出会えたら良かったという意味にとらえたミハイルは、この不条理な世界で自分が光になってやろうと思った。
 「デモボクハ、戦争ガ終ワルノヲ待チマス。ソシテ、必ズ、アナタヲ迎エニ来マス」
 天使が何も答えなかったのは、彼女の最後の優しさであり厳しさだったかも知れない。ナカはミハイルに一礼すると、いたたまれないといった様子で小走りに立ち去った。
 残されたミハイルは、この時に、この場所で、彼女を愛した証しを永遠に留めようと、握りしめた金貨を静かに井戸の中へ落としたのだった。
 そんな小さな恋の軌跡を、松山城は静かに見守っていた。



 翌一九〇五年(明治三十八年)九月五日、アメリカ合衆国仲介の下、両国はポーツマス条約により講和した。このとき日本におけるロシアの捕虜兵総数は、日本全土で七万二千四百十四名と云い、うち松山だけで二千百九十九名あったと云う。やがて捕虜たちは少しずつ本土に帰還していき、松山は以前の静けさを取り戻す。
 ──それから何年経った頃だろうか。
 ミハイルは再び日本を訪れた。しかしそこで彼が目にしたのは、かの天使が乳飲み子を抱き、その乳を与える母の姿であったそうだ。

 二〇一七年八月七日
(2017・07・29 ここは松山ですが私は杉山ですと申せし面白き松山城GB(ガイドボランティア)杉山氏より拾集)
 
> 卯月の涙雨
卯月の涙雨
城郭拾集物語A 福井丸岡城
 



 筆者が丸岡城へ訪れたのは二〇一二年の四月三十日のことである。
 四月のことを『卯月』と言うが、もっともこれは旧暦で云うところの四月であるから、現代人の感覚と江戸以前のそれとはちょっと違う。旧暦で計算してみるとこの日は(平成二十四年)三月十日ということになり、この物語の卯月はこれより一ケ月ほど後の初夏の候である。
 時は丸岡城築城の折というからには天正四年(一五七六)は戦国の世。この頃まだ天守閣は建っておらず、ふつう城といえば土塁などを積み上げた防御や攻撃を目的とした軍事拠点を云うから、それが例え粗末であっても普請が完了した時点が築城年となる。
 丸岡のそれは、天正二年(一五七四)に起こった越前一向一揆を制圧した織田信長から、その功績として越前国四万五千石、北ノ庄を与えられた柴田勝家が、くすぶり続ける一揆の備えとして、甥の柴田伊賀守勝豊に命じて築かせたものである。
 そこから四キロほど離れた豊原という地籍はその昔、豊原寺の門前町として栄え、一揆衆の最後の拠点となった場所である。勝豊は、その場所から当時『椀子岡』と呼ばれた現在の地に、豊原三千坊とまで言われた宿坊の多くや鍛冶職人や具足職人を移住させ、「谷町」「石城戸町」「別所町」などの地名も合わせて持って来て、新しい城下町を作り上げた。
 築城当初は一揆の残党が襲って来ることもしばしばあったが、そのたび井戸より大蛇が現れかすみ≠かけて城を守ったという。丸岡城が別名『霞ヶ城』と呼ばれる所以であるが、事実春先など、すっぽり霞に覆われたその姿を見ることができるそうだ。
 卯月の時季になると春雨が降り、城の堀は水を満々とたたえたという。それが夏の日差しと相まって、水面には一面に藻が茂る。その藻を除去する『藻狩り』は、毎年恒例の行事であった。
 ところがその日は決まって雨が降る──しとしとゝゝゝゝ降り続く。

 ほりの藻刈りに降る雨は いとしお静の血の涙

 これは地域に伝わる俗謡で、今回は福井丸岡城に伝わる『お静伝説』を取り扱ってみよう。



 そのころ城下に一人の女がいた。
 年の頃なら二十歳過ぎ、くすんだ色の小袖はすり切れ、長い黒髪は左目を隠して肩から後ろに伸びていて、気の毒なほどやつれた容姿はむしろ美しくさえ見える。その女の名を静といった。
 傍らに二人の子があった。今年三つになる双子で、一人は男子で名を長夜叉といい、もう一人は女子で徳子といった。長夜叉というのは以前この地を治めていた朝倉義景の幼名で、徳子というのはその母高徳院の一字をとって命名したものだった。二人の子は、ほころびた着物の縫い物をする痩せた母の周りで、貧しさを気にする様子もなく元気に飛び跳ねて遊んでいた。
 静が左目を隠しているのには理由がある。彼女には左目がない。
 少し遡って話をしよう──。

 加賀の一向一揆よりおよそ九十年、本願寺門徒が統治する前代未聞の『百姓の持ちたる国』は、織田信長の出現により終焉を迎えようとしていた。
 加賀の隣国越前を治めていた朝倉氏も、信長の侵攻により最後の当主朝倉義景が自刃すると、その覇権をめぐって収拾がつかないほどの大混乱に見舞われた。世にいう越前一向一揆の勃発である。信長は比叡山を焼き討ちした時の如く、越前に住む一向宗勢力を薙ぎ払い、瞬く間に統治を果たすことになるが、一揆衆にとって最後の砦は豊原寺で、静はその一つの宿坊に身を潜めていた。
 朝倉義景の老臣で福岡三郎右衛門尉義清という男がいる。
 彼は弘治元年(一五五五)の加賀『菅生口の合戦』以前から朝倉義景に仕える忠臣で、もともとは朝倉氏傘下の鞍谷の出であった。義景が没し散り々々になった朝倉家臣団の中で、彼は無念を晴らすべく密かに主君の結縁者を匿った。義景には側室を含めて四人ほどの妻があったが、特に三人目の『小宰相の局』は、彼の出生地である鞍谷家の娘だったのだ。
 三郎右衛門尉の主君朝倉義景は、天文十七年(一五四八)三月、父孝景の死去により家督を継ぐ。元服してまだ間もない頃で、同年、細川晴元の娘と婚姻を結んで一人の女児(松)をもうけるが、出産後まもなく最初の正室を若くして亡くす。その継室として迎えたのが京都の上級公卿である近衛稙家の娘近衛殿≠アとひ文字姫≠ナ、彼女は、
 『容色無双にして妖桃の春の園にほころびる装いを深め、垂れ柳の風を含める御形』
 と評されるほどの美貌の持ち主だった。ちなみにひ文字姫≠ニいうのは、何か署名をする際に「ひ」の字しか記さないことからそう呼ばれるようになったが、待てど暮らせど子ができない。そこで義景は日頃から懇意にしていた母高徳院に仕える侍女、小宰相の局を側室に迎え入れたのだった。
 小宰相の局は朝倉氏の要職にあった鞍谷刑部大輔副知の娘であるが、朝倉家滅亡後、父鞍谷副知は信長の家臣佐々成政に出仕したようである。
 小宰相の局は間もなく二人の女児を産む。そのひとりが静であり、姉を四葩といった。更に永禄四年(一五六一)、ついに待望の男子を出産するに至り、阿君丸と命名されたその世嗣を義景はたいそう可愛がった。
 ところがそれを面白く思わないのが継室の近衛殿(ひ文字姫)である。ひどく嫉妬して呪いを呪し、ついには小宰相の局を館から追放してしまう事件が起こる。そのさい静と四葩とともに小宰相の局を預かったのが同郷の福岡三郎右衛門尉義清であった。
 当時静は物心がつき始めた五、六歳、
 「太郎はなぜヒゲを生やしておるのじゃ?」
 「髭があった方が強そうでございましょう」
 「だが強そうでは仕方あるまい。太郎は相撲で静に一度も勝ったことがないではないか」
 たまに戯れあいで相撲を取った。すると静はいつも必死でかかり、暫く互角に組み合ってから、必ず三郎右衛門尉を負かしてしまう。もちろん子ども相手に本気でとる大人もなかろうが、静はそれを己の実力だと思っていて、投げ飛ばした三郎右衛門尉を誇らしげに上から見下ろし、屈託のない満面の笑顔を浮かべた。その表情が無上に可愛らしく、陰につけ陽につけいつも面倒を見、遊んでくれる彼は、静にとって年の離れた兄のような存在だった──。
 近衛殿の過ぎた嫉妬に見かねた義景は、激怒して彼女を実家に帰してしまうが、上級公卿の姫と離縁するなど栄華をみすみす手放すのと同じである。思えばこの頃から朝倉家の衰亡が始まっていたのかも知れない。義景は小宰相の局のために新たに館を建てて寵愛するが、当の彼女は精神を病み、間もなく逝去してしまう。静にとってはあまりに突然の母の死だった。
 小宰相の局を亡くした義景は、更にそのあと斎藤兵部少輔の娘小少将を側室に迎えるが、永禄十一年(一五六八)六月、彼に悲劇が襲う。あろうことか唯一の世嗣であった阿君丸を失うのだ──享年数えで八歳。それからというもの義景は、居城一乗谷に引きこもって酒池肉林に溺れるようになった。
 『小少将は若々しい血色のよい顔をして、黒々とした艶のある髪を頭の上に載せ、人の目を迷わすだけでなく、その巧言令色は人心を悦ばせ、義景の寵愛はますます深まっている。昼夜にわたって宴をなし、横笛、太鼓、舞をなりわいとして、夜もあっという間に過ぎてしまう。まるで秦の始皇帝や唐の玄宗の驕りを見ているようだ』
 とは『朝倉始末記』に残された記録である。朝倉家の滅亡はこの時すでに決まっていたと言っても過言でない。
 この小少将との間には二男一女をもうけるが、お家滅亡の後、長男愛王丸は殺害され、次男信景は難を逃れて僧侶となり、一人の娘は上杉景勝の養女となった。ちなみに最初の正妻の娘松は、縁者を頼って越中勝興寺に引き取られ、後に同寺の僧顕幸の妻になる。静の姉四葩も、信長を敵にした朝倉家と本願寺との同盟を強固なものにするため、元亀二年(一五七一)に本願寺の教如と婚姻を結んでいたから、実質、朝倉義景の正統な血を引く者は、もはや静ひとりしか残されていなかった。
 天正二年(一五七四)、この混乱期の越前国の情勢は、一揆集団と織田信長軍と朝倉残党家臣団との三つ巴の様相を呈していた。三郎右衛門尉義清はこの動乱の中、静を密かに豊原寺の宿坊に隠れさせた。そして自らは渦中に打って出、板倉(丸岡)で瀕死の重傷を負いながらも、それでも血まみれになって静のもとへ戻った──その最初の言葉が、
 「この三郎右衛門尉、朝倉家を再興するまでは死ねませぬ!」
 だった。
 しかしその翌年──
 残忍極まりない信長の大軍が豊原に押し寄せたとき、まだ癒えない傷のまま宿坊を飛び出して行った三郎右衛門尉の後ろ姿までは記憶にあるが、静はそのあとのことはよく覚えていない。
 史実によれば九月二日、信長の軍勢はあらゆる略奪と暴行の限りを尽くし、総てを焼き払って嵐のように立ち去った。そのさい静は、宿坊に乱入して来た鎧も身に着けていないような足軽風情に見つかり襲われ、激しく抵抗したものの、小刀で左目を突き刺され、おとなしくなったところを何人もの男に強姦されたのだった。
 ボロボロにされた燃える宿坊炎の中で、つい先日も同じことを言った三郎右衛門尉の叫びが耳朶から離れなかった。
 「諦めてはいけません!ともに朝倉家を再興いたしましょう!」
 このとき静の胎内に、二つの生命が宿った。



 一連の戦いで功績を挙げ、所領四万五千石を得て越前を治めることになった柴田勝家の甥に当たる柴田伊賀守勝豊が、焦土と化した豊原寺跡に入ったのはそれから間もなくである。この時、豊原寺は再興を許されるが、その翌年、丸岡に城ができたのを機に町全体が移され、静も大きくなったお腹を抱え、城下の新しく建った宿坊の敷地内に、粗末な掘っ立て小屋を建て、棲んだ。そして双子の子を産んだ。
 新しい町は城を中心に、北側と東側に武家屋敷が建てられ、町人屋敷と寺社は南側に配置された軍需が盛んな町に成長していく。悪運強く、先の戦でも生き残った三郎右衛門尉は、鎧や刀を売って静のために生活の糧を作ったが、それも尽きてしまうと町に数いる職人の下働きなどしては、僅かな食い扶持を稼いで彼女に届けた。
 「お静さま、申し訳ございませんが今日の稼ぎはこれだけです」
 ひと握りの米を渡してすぐに稼ぎに出てしまう三郎右衛門尉に、
 「私も働きに出ましょうか?」
 と、何度か申し出たこともあるが、そのたび「二人の子の面倒は誰が見るのですか」と戒められる。確かに理由の一つに違いないが、片目になった女心を誰より気に病んでいるのもまた彼だった。
 静はそうした僅かな稼ぎを二人の子に与え、自らはどれほども口にせずに残りを貯えにまわした。いずれ長夜叉が元服の時を迎えたら、再び武士になるために、太刀の一本も買ってやろうと思う親心である。しかしお家再興≠フ夢は彼女の中にも燃えていたが、織田信長に敵対した朝倉”を名乗ることは、今は口が裂けても言えない。

 ちょうどそのころ丸岡城では、いよいよ城のシンボル天守閣を建てることになって、土台となる石垣づくりがはじまった。織田信長が岐阜城に天守を作って以来、大名の間では城といえば天守閣を建てるのがいわばステータスなのだ。運よくその人足として職を得た三郎右衛門尉はある職人の下で働くが、数カ月かけてようやく完成しようとした時、次の翌朝せっかく積み上げた石垣が崩壊しているではないか。
 普請に携わっていた家老の大鐘藤八郎貞綱は、その無残な様を見て、
 「いったい誰のいたずらか、石工の棟梁を呼べ!」
 と愕然と言ったが、呼ばれた棟梁も唖然とするばかり。仕方がないのでまた一から組み上げていったが、できあがる直前になると同じように崩れて、天守閣建設の計画は遅々として進まなかった。呆れた大鐘貞綱はその棟梁を首にして、別の石垣作りの名手を連れて来てやらせたが、三度同じく崩れ落ち、
 「いたずらにしては過ぎるし、しっかり組み上げた大きな石を、崩すのだって容易でないはずだ」
 と、頭を悩ませた彼は、信長から越前国北ノ庄を拝領した際、自ら北ノ庄城の縄張りを行った柴田家の大殿、つまり柴田勝家に相談を持ち掛けた。ちなみに勝家の妻は信長の妹お市の方で、柴田と織田のつながりは尋常でない。すると、
 「そんなものは積み方が悪いのじゃ!」
 と一蹴されたが、近江国で城の石垣を多く手掛けているという穴太積みの有能な石工を一人紹介してもらったのだった。
 やって来たのは四角く厳つい顔をした四十前後の弥四郎と名乗る無精髭を生やしたヤサ男で、崩れた石の山をじいっと見つめて、
 「穴太積みの極意は石の声を聞く≠アとじゃ。石というのは一つひとつが収まるべき所に収まるものじゃ」
 と呟いてから、石の形状を見ながら何人もの人夫を指揮して、四度目の石垣積みを開始した。貞綱も今度こそはと安心してその作業の様子を見守っていたが、ようやく完成したと思われたその翌朝、やはり石垣は崩れていたのであった。
 「こりゃ一体どういうわけじゃ?」
 と、さすがの穴太積み石工弥四郎も首を傾げ、また最初から積み上げ始めたが、そんなことをしているうちに一年という歳月は瞬く間に流れていった。
 五度目の挑戦をしながら弥四郎が監視の貞常に呟いたことは、
 「人柱が必要かも知れませんな。今度失敗したら用意できますかな?」
 「人柱……?」
 貞綱は首を傾げた。
 人柱といったら人身御供のことである。架橋や築堤、築城の際、柱を強化するため生きた人間を水底や土中に埋めることで、人の持つ霊力が柱に乗り移って神の怒りを鎮めるという考え方から来ている。
 案の定、五度目の失敗を見た貞綱は、主君勝豊に相談して御前会議を開くことになった。
 石工弥四郎が言うには、
 「人柱には百万一心≠フ功徳力があると聞く。安芸国の毛利元就公が山城を築くとき、やはり石垣が崩れてうまくいかなかったそうじゃ。そこで二十歳過ぎの女を人柱にしたところ、普請は無事に終わり、堅固な城ができたという話じゃ」
 実はこれ、実際はちと違う。元就が幼少のころ厳島神社を参拝した折、母が築城の人柱にされたと泣く童女と出会い連れ帰る。十五、六年の後、山城の城主となった元就は、本丸の石垣が何度築いても崩落するので手を焼くが、そのとき人柱が必要だという声が挙がり、普請奉行はその娘を人柱にすることを提案した。娘も助けてもらったお礼と願い出るが、元就は人命を重んじ、替わりに『百万一心』と彫り込んだ石を埋めて無事に石垣を積み上げたというエピソードだ。『百万一心』とは、人が力を合わせれば、何事も成就するという意で、元就はあえて「百」の字を「一日」、「万」の字を「一力」と読めるように書き、『一日一力一心』とも読める書体で記したと伝わる。
 どこで聞いたかその美談をうろ覚えの弥四郎は、さも自慢げに話した。すると家老徳永権之助寿昌が、「私も何かの本で読んだことがございます」と言って『日本書紀』に記された茨田堤の人柱の話をし始めた。
 仁徳天皇の時代、大坂の淀川は暴れ川として人々を苦しめた。そこで広い低湿地帯であった茨田に堤を築き、淀川の流れを抑える治水事業を開始するが、どうしてもうまくいかない。すると仁徳天皇の夢枕にある神が現れてこう告げる。
 「武蔵国の強頸と河内の茨田連衫子の二人を、川の神に人柱として祭れば成就するだろう」
 さっそく二人を捕えようとするが、衫子は逃れたが強頸は捕えられ、泣き悲しみながら人柱として水に沈められ、ついに堤は完成したという話だ。
 すると更に野村勝次郎という家臣が越後国の猿供養寺の話を始めた。
 鎌倉時代、越後国の猿供養寺を訪れた僧が、地元住民が地すべり被害が絶えないことで困っているのを見、自ら人柱となって災禍を止めたという話である。
 それらを聞いて伊賀守勝豊は、
 「なるほど、人柱とは自然の脅威を鎮めるものであるのだな?」
 と頷いた。すると別の家老木下半右衛門利久が、
 「拙者も聞いたことがござる。唐の古書『魏志倭人伝』なるものには、その昔、魏の使者が我が国に参ったとき、倭の者が船で海を渡る時は『持衰』という者が選ばれると記してあった」
 と言った。『持衰』とは、普段から人と接せず、虱が湧いてもそのまま、服は汚れ放題着っぱなし、肉は食さず船が出たらじっとその帰りを待っている役目で、無事に船が帰れば褒美を貰えるが、もし船が災難に見舞われ難破でもしようものなら、海に沈められ殺されるといういわゆる人柱の話である。続けて家老で馬頭を務める関盛吉が、「これも安芸国の話しだが」と言って、池を作るとき工事が難航し、お糸という村娘を人柱として埋めたという伝説を話した。
 「その人柱というのは女の方がよいのか?」
 と勝豊が言った。
 「決まりはございませんが、若い女の方がいいに決まっています」
 と、また知ったかぶりの弥四郎が言うと、貞綱も、
 「古来から神に仕える巫女はみな女でございます。また陰陽五行道においては女は土の性質を持ちます。おそらく堅固な石垣が造れましょう」
 と付け加えたものだから、勝豊は喜んで、
 「ならば城のために人柱になってくれる女はないか探せ」
 と命じた。こうして城下町の各所に、

  触
 城の石垣普請につき人柱を願う者申しつけ候
 但し三十路に至らぬ女人に限るべし
  奉行

 の御触書の立札が設置されたのだった。



 このころ静の双子の子は五、六歳ほどに成長している。男子の長夜叉は三郎右衛門尉を師と仰ぎ、彼がどこぞで仕入れて来る四書五経を片手に、ときおり近くの寺に顔を出しては読み書きの手習いをするようになっていた。石垣工事の中断につき働き先が途絶えた三郎右衛門尉を相手に、たまに木の枝を木剣がわりにして剣術の稽古をし、一方、女子の徳子は静から歌や生け花や書を習って、二人とも身なりこそみすぼらしいが武家の習いを少しずつ身に付け、その資質はみるみる磨かれていった。
 「母上はなぜ片目がないのですか?」
 近頃、長夜叉はこんなことを聞く。
 「長夜叉はこんな母を不憫と思うか?」
 「不憫とは思いませんが、さぞ辛かろうと思います」
 「うむ──しかし母にはそなたと徳子がおるから幸せじゃ。母の父上はとても偉い侍であった。しかし訳あってお家は断絶、母だけが生き残ってそなたは生まれたのじゃ。ゆえに貧しくとも長夜叉と徳子には武家の血が流れておる、わかるか?」
 長夜叉はコクリと頷く。
 「母の夢は、そなたが侍となってお家を再興することじゃ。母は片目だが、そなたが立派な武士に成長して再び領土を得、民のために働く姿が見える。だから今は辛くとも辛くはない」
 そんなことを話して聞かせるのだった。

 城下町は天守の石垣の人柱を募集しているという話題で持ち切りである。しかしすでに触れが出されて半年になるというのに志願する者など皆無だった。いくら城のためとはいえ、好んで自ら命を捨てる者などいるはずもない。
 静は片目の事を気にしてほとんど外へは出なかったから、唯一町の様子を知ることができるのは、三郎右衛門尉が話す世間話から得る情報だった。石垣の工事が中断されて再び定職を失った彼は、以前のように駕籠引きや宛行扶持の手当てをもらえるようなところを探して、その日暮らしの生活を送るしかなかったが、働き場所が見つからない時などは昼といえば静の暮らす粗末な掘っ立て小屋に戻って、日がな一日、長夜叉に剣術の稽古をつけたり、畑を耕したり、家周りの整備などして時間をつぶした。静が彼から人柱の話を聞いたのは、久しぶりに三郎右衛門尉が家に戻り、わずかな米に庭に生えていた蓬や大葉子で量増しした粥を炊いていた夕食時だった。
 「私も現場に居合わせていたのですが、いくら石を積んでも崩れてしまうのです。あれは何かに呪われているとしか思えませんなぁ」
 三郎右衛門尉は巷で騒がれている人柱の話を冗談ぽく話したが、三十歳未満の女に限る≠ニいう部分は伏せていた。このところ静は一段と塞ぎ込みがちで、それを知ったら万が一にも長夜叉を士分にするのを条件に、自ら名乗りを挙げてしまうのではないかと心配したからだった。それにしてもあの一件があってきり彼女は一度も笑わない。幼い日の無邪気な笑顔を思い起こす時、彼の心はえぐられるような苦しみを覚えた。
 一方、すでに五十路を越える彼の身体を心配するのは静も同じであった。老いた体に鞭打ち、生活のため必死に働いてくれてはいるが、戦の時に負った右腕の刀傷があまりに痛々しい。いつも努めて明るく振る舞ってはいるが、彼とて年々老いていく──そんな二人の間の主従関係は、互いに労わり合いながらも、為す術を知らない現実に翻弄されていた。こんな生活がいつまで続くのかと考えると、静の心はまた暗く沈んだ。
 その悲し気な俯きがちな彼女の右目を見ると、いつも三郎右衛門尉は、
 「ご心配なさるな。お家再建の時は必ず来る!拙者が死ぬ前には実現してご覧にいれましょう!」
 と大きく笑う。大言壮語に聞こえる言葉とその明るさに、静は幾度救われたことか。

 さて丸岡城天守閣の普請事業は、石垣造りのところでピタリと止まったまま、ついに人柱に志願する者も現れずに数年の歳月が流れ去った。人々は「このまま天守を作らずにいるのだろう」と噂し合い、ついにはその話し自体が風化してしまった頃、柴田勝家から城主伊賀守勝豊に、
 「信長殿の御馬揃えの儀にわしと共に上洛せよ」
 という命が下った。御馬揃え”とは天下布武を目指す織田信長が、京都で行った大規模な軍事パレードのことで、周辺大名を牽制し、自らの力を天下に知らしめる意図があったとされる。時に天正九年(一五八一)一月のことで、その前年、柴田勝家は信長より筆頭家老に任じられている。
 パレードは京都内裏の東において、二月から三月にかけて二度行われたが、その隙を突いて勝家の自国でのっぴきならない事態が起こった。加賀の一揆集団の残党が蜂起し二曲城が襲撃され、勝家の臣下三〇〇人がことごとく討たれたのだ。京都に早馬が飛んで来て、
 「二曲城が襲撃され、吉原次郎兵衛殿、毛利九郎兵衛殿、徳山少左衛門殿ともに討ち死に!」
 の報がもたらされた時、勝家は血の気を失った。幸いにも北陸の留守居をしていた佐久間盛政が間もなく駆け付け鎮圧したが、その騒動を受け、
 「勝豊、丸岡城の方はどうなっておる?城の整備は進んでおるのか?」
 と勝家が聞いた。城の整備とは天守のことである。勝豊は言葉を失った。まさか「人柱が見つからず工事が止まったままだ」とは言えない。そうでなくとも最近の当主勝家の関心は、今年十二になった実子勝里に向いている。継嗣が誕生する以前は養子となって、よもや自分が世継ぎかと思われた勝豊にとっては、これ以上彼を失望させるわけにはいかない。
 「ただいま建設中にございます」
 と、目途の立たない石垣づくりに頭を痛めながら、そう答えるしかなかった。
 御馬揃えを終えて丸岡城へ戻った勝豊は、「人柱はまだ見つからぬのか!」と、人が変わったように周囲に当たり散らし、
 「人柱を務める者にはどんな望みでも叶えてやるから、早急に見つけ出せ!」
 と家臣たちをあおりたてた。
 「何があったのだ?あの殿のご様子は尋常でないな」と家臣たちは顔を見合わせた。そして城下各所に立てた『触』の立札の文末に、
 『かの者に望みの褒美を与えるもの也』
 の一文を付け加えて書いて回り、各々人柱にふさわしい者はいないか町人たちに聞き込みを始めたものだから、その噂はたちまち城下に広まった。
 「おい、聞いたかい?人柱が見つからねえもんで、今度はどんな望みでも叶えてやるときたもんだ」
 「何でも”ってことは、黄金で十貫文でもくれるってことかい?」
 「お前さん、ケチなこと言っちゃぁいけないよ。何でも”ってのは一国一城の主を望めばそれになれるってもんだい」
 「一国一城の主ねぇ……だが待てよ、人柱ってことは生き埋めにされるってことだろ?てめえが死んじまったんじゃ元も子もねえじゃないかい」
 道行く人はそんな笑い話をして歩いた。
 じめじめとした春雨の降る卯月のことだ──。
 その話を三郎右衛門尉は一言も口にしないが、掘っ立て小屋の垣根の隅で、雨のためなかなか乾かない洗濯を、今日は小屋の屋内に干そうかと考えていた静の耳に入ったのだった。するとその晩、二人の子を寝かしつけると、今晩は三郎右衛門尉が帰らぬのを見て、暗い夜道を傘をさし、こっそり『触』の立札のある場所を探して歩いた。ようやく一つの辻でそれを見つけた彼女は、提灯の明かりをそっとかざして右目で文面を読んでみた。そのとき、
 「お前が名乗り出るのだ──」
 と、立札がそう言った気がした。それは三十路に至らぬ女人≠ニ書いてあるのを読んだとき、真っ先に思い浮かんだのが自分だったからだろう。
 「名乗り出て、長夜叉に士分を願い出よ」
 続けて立札がそう言った。
 それは静自身の念でもあったが、母小宰相の局が言っているようにも聞こえた。
 思い返せば片目を失ってより、外も歩けず掘っ立て小屋の暗い囲いの中で、お家再興の思いを抱きながらも何一つとして成せる事がない自分に気が付いた。ただただ子の成長を見守りながら、ずっとこのまま孤独に耐えて生きていかねばならないのか。そして、誰かに影響を与えるでもない自分という生き物は、ほんの少しの価値もなく、生きる意味さえあるのだろうかと暗澹となった。
 ならば──
 せめてこの命を子どものために使いたいと思う。
 「そうだ──子どものことは三郎右衛門尉に託して、私は私のできることを為せばいい。この命と引き換えに、長夜叉が侍になれるのであれば、そこには子どもたちの未来ばかりでなく、お家も私も記憶の中で、永遠に生き続けることができるのだから……」
 ならば私は、喜んで人柱になろう──
 静は決心した。



 翌早朝、いつものように三郎右衛門尉は一握りの米を持って帰って来た。そして言うには、
 「お静さま、拙者しばらく戻れません。京へ行く行商人の護衛を頼まれましてな。今度は少しばかり手当てが良いので、次に帰る時はもっと豪勢な食いもんを買って来れそうですわい」
 これまでも二日三日は帰れないことはあっても、ひと月も帰れないことはなかった。
 「いつも有難く思います。して、その行商人とはどのようなお方でございます?」
 このときなぜか三郎右衛門尉の脳裏に、彼女に誤解を抱かせてはいけないという妙な感情が湧いて出た。その行商人が若い女と誤解されはしないかという一抹の動揺は、彼に次の言葉を咄嗟に言わせた。
 「なあに薬売りの婆さんです。京にお得意さんがいるとかで、それまで一緒に行っていたドラ息子が怪我をしたのだと、たまたま通りかかった拙者に白羽の矢が立ったというわけです」
 「そうですか──どうかお気を付けて行って下さいまし」
 そういつものように見送ろうとしたが、彼がいないうちに奉行に申し出ようとしていた彼女は、不意に名残惜しさから今にも涙が出そうで、「それでは行って参ります」と旅立とうとした三郎右衛門尉の後ろ姿に向かって、
 「しばらく会えないのですね?」
 と思わず声を挙げた。そして、振り返った三郎右衛門尉は、いつにも増して悲しそうな右目を見たのだった。
 「行く前に、久しぶりに相撲をとりませんか?」
 「相撲──?」
 二人の間に楽しかった遠い昔の同じ思い出がよみがえる。しかし三郎右衛門尉は、静の本意には気付かなかった。
 「毎日くすぶってばかりでたまに身体を動かしとうなります。しばらく三郎に合えないと思ったら、なんだか無性に相撲をとりたくなりました」
 「いやいや、拙者は一向にかまいませんが、さすがにお静様には無理でございましょう」
 「無理かどうかはやってみなければ分かりません。いつもお前が長夜叉に申し付けている言葉です」
 三郎右衛門尉は困ったが、その悲しそうな右目に押し切られ、
 「一番だけですぞ。華奢な身体で怪我でもされたらそれこそ義景様に顔向けができませんからな」
 と、二人は庭に出て地面に大きな円を描き、中央で四股を踏んで見張った。
 「手を抜いてはなりません!」
 静はそう言うと「八卦よい残った!」と叫んで、二人の身体はぶつかり合った。
 あの時もそうだった──まだ五、六歳だった彼女は、小さな身体を思い切りぶつけて来て、手加減なしにいろいろな技をかけてきた。三郎右衛門尉にとってはどうということはないが、その真剣な取り組みをしているうちに、負けそうになると今にも泣き出しそうになる静の表情を見て、可哀想になってついつい負けてやってしまうのだ。
 このときも三郎右衛門尉の大きな身体が先に後方に倒れ、仰向けになったその上に、静の華奢な身体が覆いかぶさるように倒れた。勝負は静の勝ちだが、二人はそのままの姿勢で暫く動かなかった。三郎右衛門尉は細くもその柔らかな肉体を感じながら、子どもだったあの静が、いつの間にか女になっていることに初めて気づいたのだった。もしもこのとき三郎右衛門尉が勝ったとしたら、あるいは彼女は奉行所へ行くことを思いとどまったかも知れない……。
 「相変わらず三郎は弱いのぉ──」
 静は着物についた埃を払って立ち上がると、何年振りかで見せるそれはそれは美しい笑顔を作った。その笑い顔は三郎右衛門尉をこの上なく悦ばせ、その心に深く刻印された。やがて外の楽し気な様子に誘われて、長夜叉と徳子が眠そうな目をこすりながら起きて来た。
 「何をしていたのですか?」
 「相撲じゃ」と静が答えると、「おらもやりたい」と言って長夜叉は三郎右衛門尉に飛びついた。「私も!」と徳子も飛びついて、三郎右衛門尉は二人を相手にしながら、この四人での生活がいつまでも続くことを願った。

 三郎右衛門尉が出て行って、朝餉の片づけを終えた静は、長夜叉と徳子を正面に正座させ、恍惚とした右目で二人を見つめた。これが今生の別れと思うと、下っ腹の奥からとめどない悲しみがあふれ出たが、母としての最期の姿を、我が子の両目に焼き付けておきたいと願った。
 「長夜叉と徳子よ、お前たちはいくつになるか?」
 「今年で七つにございます」と長夜叉が答えた。静は静かに頷いた。
 「元服にはまだ早いが、お前たちはもう物事の判別が付く立派な大人じゃ」
 静は粗末な小物入れから、生前母小宰相の局からもらい受け、肌身離さず持っていた漆塗りの高価な櫛を取り出した。それで長夜叉の乱れた髪を整え、そこにボロでこさえた烏帽子をかぶせ、続けて徳子のおかっぱ頭もとかして後ろで束ね、すいた髪に手にしていた櫛をそっと刺し、最後に墨を歯に塗りお歯黒を施した。二人はいつもと違う母の様子に動揺した表情を浮かべた。
 「よいか、よく聞くのじゃ。母は長夜叉を侍にするため、そして徳子を侍の家の娘にするため、これから遠い場所へ行かねばならなくなりました」
 「遠い場所とはどこでございますか?」
 「それは教えられません。教えられぬが、きっとそこは花の咲き乱れる美しい場所じゃ。お前たちはまだ逢ったことはないが、そこには母の母君もおわすし、立派な侍である母の父君もおわす。母はそこへ行かねばなりません」
 「長夜叉も一緒に参ります」
 「わたしも!」
 死んだはずの静の左目から涙がこぼれた。
 「母もそうしたいがそれはできません。お前たちに士分を与えるのと引き換えに母は行くのですから。母のことは探してはなりません。そしてこれからは三郎のおじちゃんを頼るがよい」
 「ならば長夜叉は侍にならずともかまいません」
 「何を申す!」
 静の大声に長夜叉と徳子はビクリと体を跳ねらせ、やがて小さな瞳に涙を滲ませた。
 「お前が侍になることは、母の命に代えても惜しくない悲願なのです。二度とそのようなことを申すでない」
 長夜叉は涙が混じった小さな声で「はい」と答えた。
 「それから」と言って、静は同じ小物入れから小さく折りたたんだ一枚の半紙を取り出した。広げるとそれは系譜であった。
 「これはお前の血筋を記した系図じゃ。お前の御先祖は足利氏に仕えた朝倉広景公から始まる歴とした侍なのじゃ。かつては越前国の守護代を務め、一乗谷に城を構えてきた。母の父の名は朝倉義景、今はお家が途絶えているが、長夜叉、時が来たらお前は第十二代当主朝倉長景を名乗るがよい──。そのために今、お前はどうしても士分を得ておかねばならぬのじゃ。母の申していることが分かるか?」
 長夜叉はコクリと頷き、「時とはいつにございますか?」と聞いた。
 「母の父義景公は、近江の織田と戦って命を落としました。この城下はその織田の家来柴田の城です。だから今は時ではありません。しかし織田とていずれ誰かに滅ぼされましょう。時とはその時です。それまでにお前は仲間を見つけ、誰にも負けない力をつけ、母のような惨めな女を生まぬ泰平の国を作らなければなりません。その時が来るまでじっと耐え忍ぶのです」
 「相わかりました」
 そして静はそれまで三郎右衛門尉の稼ぎから少しずつ貯めて来た貯金を「これからは徳子がお金の使い方を考えなさい」と言って彼女に手渡すと、母子は抱き合って涙に崩れた。

 北伊勢の豪族の家に生まれた山路正国は、柴田家に忠節心厚いこのとき三〇半ばの男で、気性が荒いことから仲間からは将監≠ニあだ名される伊賀守勝豊の家老の一人であり、このとき奉行所に詰めていた。そして未だ現れない人柱のことを考えながら、降る長雨を眺めながら「じめじめした厭な季節だ」と一人ごちた。そのとき、
 「山路様、人柱になってもよいという女が来てございます。いかがしましょう?」
 と奉行所の役人が山路がいる部屋に来て言った。
 「なんと申した?どうするもない、いますぐ会う!」
 と小躍りした山路は、直ちに女を伊賀守勝豊の面前に通したのである。
 静は丸岡城の館の広間に通され殿様の前で平伏し、やがて勝豊は歓喜を隠せない様子で話し出した。
 「人柱に願い出た女というのは其の方か?苦しゅうない面を挙げよ」
 勝豊は女の左眼前に垂れる黒髪の奥に沈む、黒い目の影を見てギョッとした。
 「目をどうした?」
 「先の戦に巻き込まれ、失いました」
 「そうか、気の毒なことをした。して年はいくつじゃ?」
 「二十六にございます」
 「人柱とはどういうものか知っておるな?」
 静は「はい」と静かに頷いた。勝豊は続けた。
 「なぜ人柱になってよいと願い出た?」
 静は暫く考えたが、やがて、
 「ご覧のとおり着る物も満足にない貧乏暮らし。おまけに左目がありませんので人様に気味悪がられ、働き口もなく、この先いかように生きてよいやら光が見えません。しかし私には二人の子があります。その子らの将来を考えますと不憫でならず、この命と引き換えに、なにとぞ子らを士分にお取り立ていただきたく、申し出ました次第にございます。なにとぞ、なにとぞ、お聞き入れ下さいませ!」
 「正直なやつよのう」と勝豊は笑んだ。
 「容易い願いじゃ。天守が完成した暁に、必ず其の方の望み、叶えて進ぜよう」
 と必ず”を付けて約したので、静は安心して「有難き幸せにございます」と再び平伏したのだった。
 かくして彼女は生ゴミでも埋められるように、その日のうちに天守閣の中柱が立つ予定の土の下に生き埋めにされ、中断していた石垣積みの工事は再開される。
 降り続く長雨は、もしかしたら彼女の別れの涙かもしれなかった。



 京から丸岡城下に戻った三郎右衛門尉は、中断されていたはずの天守の建設が進められていることに首を傾げながらも、「今日は旨いものを食わせてやろう」と魚屋で鯛を買い込み、静の掘っ立て小屋にいそいそと戻った。ところがそこに静はなく、かわりに暗い殺風景な土間には、肩を寄せ合い泣いている長夜叉と徳子の姿があった。
 「母上はどうした?」と問えば、
 「母は長夜叉がお侍になるために、遠い場所へ行かれました」
 と答える。俄かに三郎右衛門尉の脳裏に人柱のことが思い浮かび、「しまった!」と蒼白になって小屋を飛び出そうとしたところ、長夜叉がその太い腕を掴んで言った。
 「母は三郎おじちゃんを頼れと申しました。そして母のことは探してはならぬと申しました──」
 と、母から渡された系図と銭の束を見せた。三郎右衛門尉はその銭の多さに目を丸め、自分は食べる物も食べずに密かにお金を貯めていた静の健気さに涙を飲んだ。
 「母上はいつ出て行かれたのじゃ?」
 「三郎おじちゃんと相撲をとったその日です」
 三郎右衛門尉はあの相撲が分かれの挨拶だったことを悟って愕然とした。「なぜ気付かなかったか!」と激しく後悔したが後の祭りで、もはや彼女は帰って来ない。整った書体で書かれた系図を見れば、血筋の過去を子ども達に伝え、お家再興の夢を託して出て行ったのは明らかだ。長夜叉は、
 「時が来たら朝倉長景を名乗れと申しました」
 とまた泣いた。
 「長夜叉は母上のために、立派なお侍になりとうございます!」
 「うむ、うむ、そうか、そうか……長夜叉と徳子は本当に聞き分けの良い利発な子であるな。この三郎右衛門尉が立派な武士にしてくれるから、泣くでない──」
 三郎右衛門尉はあの最後に見た静の笑顔を思い描きながら、二人を抱きしめてゴオッ!と泣いた。

 それから啼く蝉の声を聞き、赤く染まった蔦の葉を見、子ども達と雪だるまを作り、除夜の鐘を数えて翌年の卯月が訪れたとき、丸岡城天守閣はついに完成を見た。どうやら石垣も崩れることなく無事に工事が進んだようで、その日もあの日と同じ雨が降っていた。
 ところが静の掘っ立て小屋には、城からの士分取り立ての沙汰どころか、なんの連絡もない。ついにしびれを切らせた三郎右衛門尉は、奉行を問い正しに小屋を出た。
 その対応をしたのが山路正国で、彼は他人事のように、
 「ただいま殿は天守完成の報告のため大殿様の所へ出向いておられる。出直して参れ」
 と鼻も引っ掛けない態度で応じた。さすがに腹を立てた三郎右衛門尉は、
 「誰のお陰で天守が建ったと思うのだ!それが恩人の身内に対する態度か!」
 と激情したが、山路は涼しい顔で「そう申されても殿がおらんのでどうにもならん」と取り合わない。
 「お静様の子を士分にする約束は交わされているはず。せめて念書だけでもお書き願えませんか!」
 と詰め寄ったが、
 「ええい、うるさい。殿は不在と申しておる。帰れ!」
 仕方なくその日は引き返し、暫くして「殿様はまだ戻らぬか」と再び三郎右衛門尉は奉行所にやって来た。ところが今度は忙しいと言って山路正国は顔を出さず、
 「納得のいく返事が頂けるまで帰らん!」
 と、奉行所の前で座り込みを決め込んだものだから、梃子でも動かない彼の様子に手をこまねいた役人たちは、山路に状況を告げ、
 「またあいつか。言う事が聞けぬなら斬り捨ててしまえ」
 と、山路は太刀をひっさげようやく三郎右衛門尉の前に出て来た。
 「殿はまだ戻らん。何度来ても同じだ」
 そこで同じような問答を繰り返したが、腹を立てた山路が刀を引き抜いたので、三郎右衛門尉はその日もやむなく引き返したのだった。

 柴田伊賀守勝豊が丸岡城に戻ったのは、皐月(五月)に入って下旬の事だった。目下彼の義父柴田勝家は、上杉景勝との戦いのため越中国は魚津城周辺に駐屯していて、勝豊はそこまで足を運んでいた。しかしどうも面白くないことがあったらしく、「殿は不機嫌なご様子、あまり近づかぬ方が身のためだ」とは、専ら家臣たちの噂だった。その事情とはこうである。
 柴田勝家にははじめ子がなく、姉婿吉田次兵衛の子であった勝豊を養子に迎え、一時はいずれ彼を当主にと考えていた。ところが皮肉にも勝里が生まれ、その実子は元服間もなく、丸岡城天守完成の報を持って行った勝豊に対して、嫌味たらしくそんな話ばかりしたのだった。おまけに先般信長の御馬揃えの際に起こった二曲城襲撃事件において大活躍した勝豊の従兄にあたる佐久間盛政が、こたびの魚津攻めにおいても無類の活躍をしているとその武勇をしきりに褒めたたえた挙句、「たかだか天守ひとつ建てるのにどれだけ時間をかけているのだ」と呆れた物言いをしたものだから、勝豊は不愉快千万。それを中国は毛利攻めで忙しい羽柴秀吉に愚痴った。
 信長臣下の羽柴秀吉は当時長浜城主で姓を木下から羽柴に改めていたが、柴≠フ字は柴田勝家からもらい受けたというほど柴田家とは近しい存在だった。ところが天正五年(一五七七)の柴田勝家と上杉謙信との手取川の戦いにおいて、戦略の違いから腹を立て秀吉は兵を撤収してしまう。結果、勝家は謙信に敗れ、それからというもの両者はぎくしゃくした関係を続けていた。ところがその後の秀吉の活躍といったら破竹の勢いで、播磨国、但馬国、備前国、美作国と次々と攻略せしめ、その力をますます強めている途上であった。
 「まあまあお気を鎮められよ。勝家殿とてそなたが憎くてそのような態度をとっておられるのではなかろう。我が子の成長が嬉しくて仕方ないのだ」
 と秀吉は勝豊をなだめたが、義理の親子の仲がうまくいっていないことを強かに見つめていただろう。
 三郎右衛門尉が丸岡城にやって来たのはそんな折だった。
 「殿様がお帰りになったのは存じ上げている。よもや人柱の一件、忘れてはおるまいな。天守が建ったのはお静様のおかげであるぞ!」
 と喚き立てた。あまりに騒がしいので伊賀守勝豊自ら会って、
 「忘れているわけでない。早々に士分に取り立てるゆえ、明日にでもその長夜叉と申す子を連れて参れ」
 と三郎右衛門尉を納得させて帰したところが、歴史を揺るがす大事件が勃発した。本能寺の変である。
 このとき柴田勝家は魚津城の戦いの収拾に追われている真っ最中で動きがとれず、丸岡城の勝豊に、
 「織田信長が明智光秀に討たれた。直ちに京へ向かって光秀を討て」
 との命令を下す。勝豊は三郎右衛門尉との約束などぶっとんで、兵を集めて直ちに出陣した。彼が中国大返しの秀吉による山崎の戦いに間に合ったかは知れないが、明智光秀は三日天下と言われる有名な言葉を残して討たれ、信長亡き後の始末をどうするかが織田臣下の諸大名にとって大問題となったのだった。
 それとは知らず、長夜叉を連れて城に来た三郎右衛門尉は、またしても城主が不在なことに憤然とし、門前で「忘恩の徒」だの「人非人」だの「恥を知れ」など喚いたものだから、やがて留守居を仰せつかっていた大鐘藤八郎貞綱が出て来て、
 「殿が戻られたら必ず約束は果たす故もうしばらく待たれよ。ここに来て一カ月や二カ月先になろうと、待てぬ話ではあるまい」
 と穏やかに収めて、またしても三郎右衛門尉は引き返すより仕方なかった。

 羽柴秀吉の台頭を恐れた柴田勝家は、信長所縁の尾張清洲城に重臣たちを招集し、世にいう『清須会議』を開いた。その目的は、信長の後継者選びと平和的な領土の配分である。信長が没してからわずかひと月にも満たない六月二十七日のことだった。
 会議は山崎の戦いで一気に主導権を握った秀吉の主張が通り、彼が親しかった織田信忠の嫡子、まだ当時二歳の三法師が家督を継承するくだりであるが、領地については、秀吉は播磨、山城、河内、丹波を配分され、勝家は越前に加え、それまで秀吉の拠点であった近江長浜が配分された。
 実はそこに秀吉の恐ろしいほどの思惑がある。
 「わしの大事な長浜城を勝家殿にお引き渡しするからには、たった一つ願いをお聞き届け下さらんか?」
 秀吉は不敵に勝家に言った。
 「なにかな?」
 「城主に伊賀守勝豊殿を据えて欲しいのです。伊賀守殿とは旧知の間柄、わしも安心して次の領地に鞍替えできるというものだ」
 「ごもっともである。ちょうど私もそう考えていたところでござる」
 と、表面上は何のこともない話だが、秀吉は勝豊が勝家に不信を抱いていることを知っており、密かに通じていたのである。
 かくして伊賀守勝豊は丸岡城から長浜城へと転封され、静の人柱における褒美の話は引き継がれないまま、その後丸岡城に入ったのは勝家の家臣で安井家清という男であった。そうなってしまえば静の願いも藪の中、「伊賀守はどこへ行った!」と三郎右衛門尉は激怒したが、あまりの剣幕に危険視された彼は、新しい役人たちに捕らわれて、あえなく打ち首にされてしまった。哀れ福岡右衛門尉義清は、静の二人の子を残して帰らぬ人となる。



 さて、長浜城へ移った伊賀守勝豊は、最近なにやら元気がない。目は生気を失い、おかしな行動をとるようになっていた。あるときは厠へ行くと言ってそのまま城を出てしまったと思えば琵琶湖のほとりでぼんやり水面を眺めていたり、またあるときは蠅が入っていると膳をひっくり返し、見れば蠅でなく黒豆だったり、鷹狩りに出て道中見た柳の枝をひどく恐れて抜刀して暴れまわったり、挙動不審な行動が目立つようになった。
 側近に言わせれば、「佐久間盛政殿や同じ養子の柴田勝政殿とうまくいっておらぬようで、大殿様からもお叱りを受けているので気を病んでおられるのだ」とのことだが、強大な力を付けてきた秀吉の存在で、柴田家が複雑な状況に追い込まれているのも確かなことだった。家臣たちの中には「早いところ大殿様と縁を切って、羽柴秀吉に寝返った方が良いのではないか?」という声もちらほらと聞こえはじめ──
 否──そんなことでない。
 「最近どうも殿の夢枕に、もののけが現れるようなのじゃ」
 と家老徳永権之助寿昌が言った。
 勝豊がうつろな目で曰く、
 「あの女、どこかで会うた気がする……あの片目の女はいったい誰であったかのう──?」
 と。著しい情勢変化のゴタゴタの中で、勝豊の記憶に人柱のことなど消えてしまっていたが、心のどこかに刻まれていた罪悪感がその幻影を生んだか、あるいは本当に静の怨霊が姿を現したものか、ある夜などは突然跳ね起き、枕もとに置いた太刀を引き抜き、我武者羅に闇を斬りつけるのに驚いた家臣たちに押さえつけられたこともある。
 「あの女とは一体たれじゃ?」と家臣たちも首を傾げたが、丸岡城の人柱になったみすぼらしい片目の女のことなどもはや思い出す者はなかった。ついに勝豊は病んで寝込んでしまう。
 そこへ秀吉の馬廻りをする大谷吉継が、備中高松城の戦いで秀吉と毛利氏との交渉に尽力した恵瓊という僧を従えてやって来た。恵瓊はもともと毛利家の外交僧だが、この頃より秀吉の側近として仕えている。そして吉継は勝豊の足元を見透かしながら、
 「近いうちに秀吉様は長浜城を攻めるであろう。もともとこの城は秀吉様のものですから、城の弱点から何から熟知しておられる。到底伊賀守様に勝ち目はないと思われますが、いかがしましょう?共にこれからの世を作らぬか?と秀吉様は申しております。義父に盾突くのは心苦しいとは存じますが、こうも申しておりました。伊賀守殿は勝家公より優れていると──。城を明け渡していただければ寛大な待遇で迎え入れたいと思いますが、いかが?」
 秀吉がついにその牙を剥いたのだった。ところが伊賀守勝豊はうつろな目で、
 「すべて秀吉殿にお任せいたす」
 とまるで気のない様子。恵瓊が「いかがなされましたか?ひどくお加減が優れぬように見えますが」と心配すると、秀吉派の家老の一人が「どうももののけに取りつかれたようで、私どもも困っております」と口を滑らせ最近の主君の様子を話してしまった。すかさず恵瓊は、
 「それはご心配でありましょう。ならば長浜城のことは我らに任せて、京の東福寺でお祓いがてら養生するとよいでしょう」
 と丸めこんでしまった。彼は東福寺の僧でもあるから、そこは臨済宗の寺で境内も広く、四季折々の美しさに囲まれた素晴らしい寺だと説明し、最後に「ぜひ一度お出かけください」と勧めたので、よどんだ勝豊の目に光が戻って、「かような場所があるなら今すぐにでも行きたい」と、長浜城をあっけなく家老の徳永昌家に任せ、自らは京都は東山東福寺へと旅立つのであった──。
 そうして間もなく天正十一年(一五八三)、柴田勝家と羽柴秀吉とによる『賤ヶ岳の戦い』の幕が切って落とされる。伊賀守勝豊はこの戦いに参加することなく、代わりに家臣の山路正国、木下半右衛門、大鐘藤八郎らが秀吉軍に参陣する。そして戦いが秀吉優勢で決着を見ようとする頃、東福寺ではぼんやりとした夕暮れに包まれた病床に、すっかり衰弱しきった勝豊が、遠のく意識の中で何を見たのかハッと目を見開いた。
 「そうじゃ思い出した……あの片目の女──丸岡城の人柱となったお静と名乗る女ではなかったか──。そういえば、我が子に士分を与えてほしいと願っておったなぁ……すまぬことをしたなぁ……」
 そう呟いて静かに息を引き取った。それから八日の後、秀吉に追い詰められた柴田勝家もまた、妻のお市の方を道連れに北ノ庄城の炎の中に消えた。
 奇しくもしとしとゝゝゝゝと、春雨の降り続く卯月のことであった。

 二〇一七年八月十五日
(2012・04・30 GP(ガイドプレート)より拾集)
 
> アンネと駿太
アンネと駿太
城郭拾集物語B 東京八王子城



 東京は八王子に城があったことは、姫路城や熊本城、あるいは松本城などのように広く一般的に知られているわけでない。もっともそれは天守閣もない山城で、唯一御主殿と呼ばれる建造物も、長い歴史の中にずっと埋もれていたから、歴史好きでも特に豊臣秀吉による後北条氏征伐に関心のない者は、おそらく素通りしてしまうほどマイナーな城であろう。
 しかしひとたびこの城に目を向ければ、落城にまつわるかくも悲惨な事実があったものかと足を止めずにいられない。この場所が、地元では有名な心霊スポットとしてあるその歴史は、あまたの人の情念の鎮魂によってよみがえるものか──。
 今回は、八王子城落城時に残った伝説のひとつ、安寧姫と狭間駿太の恋物語をつづってみよう。

 八王子城は天正十五年(一五八七)、北条氏照によって滝山城から移転、築城された。氏照は後北条氏第三代当主氏康の三男に当たり、その移築の動機は、武田信玄による小田原攻めの際、落城寸前まで追い込まれた滝山城の限界を知り、より強固な拠点を築くためだったと言われる。
 この城が『関東の安土城』と云われるのは、虎口へ通じる石段と石垣の全体の形状や構造が安土城のそれと酷似しているからだそうで、築城より七年ほど前、氏照の家臣間宮若狭守綱信が織田信長のもとへ派遣された際、安土城の作りを持ち帰ったのではないかと推測される。生活の拠点でもあった御主殿曲輪の敷地面積は、これまでに発掘が終わっている場所だけでも五〇〇坪以上、更に奥には大奥などあったと予想されてはいるが、国有地のため発掘ができないのだそうだ。
 ちなみに間宮若狭守というのは、後の江戸は文化・文政・天保年間に活躍し、樺太が島である事を発見した幕臣間宮林蔵の先祖なのだそうだ。
 そこから深沢山の尾根伝いにいくつもの曲輪があり、山城は山頂の本丸まで延びている。

 物語の主人公安寧姫は美しい女性で、城主氏照はその娘をたいそう可愛がり、城下の月夜峰で催される宴にはいつもそばに置いていたと伝説は語る。
 宴という華やいだ場所で、見劣りせず一層華やいだ光を放つほどの美しい女性といえば相当である。この一文を読んだ時「ハーフではないか?」と愚鈍な筆者の直感が働いた。安寧≠ニはアンネ≠ナ、後の人が漢字を当てたものではないかと考えたら、この物語を書かずにおくものかと物書きの血が騒いだのだ。
 もちろんこの時代わが国においては、宣教師やポルトガル商人など西洋との交流が盛んに始まったわけだが、それは西日本が中心で、天正年間、北条有する小田原では、文献や証拠品による交流の事実は皆無である。八王子城址ではベネチア産のレースガラス器が見つかってはいるものの、それは間宮若狭守が信長より賜ったものではないかとは予測の範疇で、到底小田原と西洋との直接的な接点は今のところ考えられない。
 しかし安寧≠ニいえば日本の第三代天皇の名でもあり、中国由来の言葉とはいえ、戦いに暮れる戦国時代の一介の武士が、己の娘にそのような平和的かつ穏やかな名を付けるとは、よほど偉い坊様か学者でなければ考えにくいと決め込んだ。
 無論伝説であるのは承知の上で、物語は奇想である方が面白そうだ。



 物語に入る前に、もう少し安寧≠ェアンネ≠ナあることの可能性を探っておきたい。
 この当時、世界的に見るならばいわゆる大航海時代の真っ最中。一四九二年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見や、一四九八年のヴァスコ・ダ・ガマによる世界一周に象徴されるように、スペインとポルトガルの地球的規模の航海による植民地争奪戦は白熱化していた。
 やがてその争いを避けるために一四九四年、トルデシリャス条約が締結される。これにより、ヨーロッパを除く地域においては西経四六度三七分を境に東側の新領土をポルトガル領に、西側をスペイン領に属することが定められたわけだが、一五二二年にマゼラン艦隊が西回りで世界一周を果たし地球が球体であることが実証されると、一五二九年、対象方向の東経一四四度三〇分の子午線を第二の境界と定めるサラゴサ条約が締結された。
 この条約により日本は東西に分断された。つまり西日本がポルトガル、東日本がスペインに領有権があるという奇妙な構図である。
 この時代の小説など読むと、西日本、特に九州にポルトガル商人の出入りが目立つのはそのためだと思うが、太平洋を渡って東日本にスペイン人がやって来るのは慶長年間に入ってからで、間もなく徳川幕府は鎖国に突入するため、東日本とスペインとの関わりがそれほど深くならなかったのはそのためだったろう。もっとも豊臣秀吉が、例外的にスペイン領だったフィリピン(ルソン島)へ朝貢を促す使者を送り、その返書を持ってルソンからの使者が日本に来たには来たが、これはおそらく宣教師を介して行われたものだろうから、寄港場所としては大坂は堺あたりが妥当だろうか。
 しかしその間、スペイン人が東日本に訪れたことが全くなかったかといえば可能性としてはけっしてゼロではないはずだ。二十余年ほど遅れるが、慶長十四年(一六〇九)にはスペインの船が遭難し、乗組員たちが上総国岩和田村(現御宿町)に漂着した事実もある。
 なぜスペインかポルトガルかにこだわるかといえば、アンネ≠ニいう女性の名はスペインにおいて一般的であるからで、東日本とスペインとの関係を明確にしておきたいからだ。
 ──それ以前に、そもそも航海する船舶に女性乗組員はいたかという話である。
 この問題は深くジェンダー論にまで達するが、結論から言えばいた≠ニするのが妥当と考える。いわゆる女海賊『アン・ボニー』や『メアリー・リード』がカリブ海で活躍するのは十七世紀に入ってからだが、日本においては瀬戸内海の制海権を握っていた村上海賊の『鶴姫伝説』などは十六世紀前半の話である。これひとつとっても、当時、女性が船に乗っていた記録が皆無だからといってその可能性をゼロとするには無理があろう。
 ジェンダー研究の石田依子氏によれば、
 「実際、最近の研究は、海事の歴史の中で驚くほど多くの女性たちが海に出て行ったことを明らかにしている。」
 と言う。もっともそれらは十七世紀以降の文献に基づくものだが、それ以前からあったことを示唆しているという観点は筆者も全く同感だ。その目的として、一つは、父親や夫に同行して乗船するケース、二つ目は、自立した船乗りとして自らの意志で乗船するケース、そして三つ目が(これはジェンダーの立場からは冷ややかな目にならざるを得ないだろうが)、いわゆる慰安婦として乗船したケースを挙げる。
 いずれにせよ戦国時代、ジパングを目指すスペインの船に、何らかの理由で一人の女性が乗っていた──。



 この物語より少し前の関東甲信越地方は、甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川、越後の上杉の拮抗した勢力争いの中で、さまざまな形をもって同盟を締結したり破綻したりを繰り返していた。武田と北条の甲相同盟が破綻し、北条と上杉が越相同盟を締結した時その事件は起こった。武田信玄が小田原に向かって侵攻を開始したのは永禄十二年(一五六九)の秋のことである。
 信玄は二万の軍勢を率い、碓氷峠を越えて北条領内に入ると支城を攻撃しながら南下し、北条氏照が守る滝山城の北に陣を敷いた。そして十月一日、廿里の戦いにおいて多くの犠牲者を出した氏照は、篠村左近之助という家臣を呼びつけてこう言った。
 「小机城の三郎に援軍を要請せよ。急げ!」
 滝山城の北東を流れる多摩川を下れば小机城まではそう遠くない。そこには氏照の弟三郎がいた。時に十五歳の彼はこれより間もなく上杉謙信の養子となり上杉景虎を名乗るが、小机城主として小机衆と呼ばれる家臣団を率い、江戸城の武蔵遠山氏とも懇意にしていたので大きな加勢が期待できたのだ。
 ところが左近之助が氏照の要請を伝え、急いで出陣の準備を始めた最中、
 「信玄は滝山城を攻めきれず、放棄して本城(小田原城)へ向かった。氏照様はそれを追ってご出陣なされた」
 との急報が届く。小机城は本来相模の東側の防備としてある城である。信玄の動きに乗じて謀反を起こす輩があるとも限らない城主北条三郎は、動くことが出来ずにそのまま出陣態勢を解いたが、一人取り残された形となった左近之助は、急いで馬を借り走らせ、鎌倉を経て、由比ヶ浜の海岸沿いを小田原方面へと向かったのだった。
 八松ヶ原(茅ヶ崎付近)のあたりに来たときである。
 砂浜に転がっている白い動物のような物体を見つけた。近寄ってみれば見たこともない服を身に纏った、白肌にブロンズ色の長い髪の女が倒れているではないか。南蛮人の噂は聞いたことがあったが、まさかこれがそうとも俄かには思いつかず、天の羽衣を纏った天女が舞い降りてきたのかと生唾を飲み込んだ。
 「どうなされた?」
 女は息も絶え絶えで身動きひとつしなかったので、左近之助は彼女を馬に乗せ、いったん滝山に引き返すことにした。
 篠村左近之助は氏照の家臣団横山党の一員で、滝山城より滝山街道を南へおよそ一里ほど離れた熊野神社近くの雑木林の中に小さな屋敷を構えていた。屋敷といっても土間に囲炉裏を据えただけの粗末なもので、床の間らしき場所には今は亡き母が手習いで奏でていた建物には不釣り合いな大層立派な筝の琴が置かれていた。
 まだ独り身の彼はすり切れた煎餅布団に女を寝かすと、粥を作ってその口に含ませた。
 「小田原城はどうなったか?」
 とひどく気をもんだが、今にも死にそうな彼女をほったらかしにして飛び出すことはできなかった。
 暫くして、三増峠での戦いを終えた氏照の家臣たちは陸続と滝山城に戻って来た。そして激戦の様子を口々に話すによれば、
 「結局信玄め、小田原城を落とすことができずに引き上げようとしただろう?」
 「そこへ我が殿氏照様の追撃で追い詰めたんだがな──」
 「信玄め、どさくさに紛れてまんまと逃げおったわい!」
 と、北条優勢で戦が終わったと興奮ぎみだが、実際は武田方の勝利だったようである。
 「それよりお前はなぜ来なかったか?」
 戻る兵達に左近之助は問われたが、
 「殿の援軍要請を小机城に伝えた後、戻ってみれば城はもぬけの殻。はては小田原へ向かったなと思ってはみたが、城はすごい剣幕の荒れ放題、留守にするわけにもいかんので残っていたのだ」
 とお茶を濁した。

 ブロンズ色の髪を持つ白色の女は、やがて一命をとりとめて目を覚ます。その瞳が青いことに左近之助は驚愕した。
 「そなた、目をどうした?」
 と話しかけるが、異国の言葉では意味の分からないちぐはぐな会話を繰り返すだけで、女はいつまでも泣き続けるのだった。その様子から、
 「この女は天女でなく南蛮娘に相違なかろう。およそ南蛮船が遭難し、船から投げ出され、あの浜に流れ着いたのだろう」
 と、おおよそのことは想像できた。
 数か月経つほどに、次第に体力を回復した女とは身振り手振りで会話もできるようになってくると、やがて二人は意思の疎通までできるようになった。そのぎこちないジェスチャーによる話を要約すれば、
 「私はエスパニア国のテルデに住む船長の娘で、西回りでジパングを目指す船に同行しました。ところが目的地を目前にして嵐に襲われ、船は沈没して父も乗組員もことごとく海に呑まれてしまいました。目が覚めたら私はここにいたのですが、ここはジパングですか? 父はどこにいるのでしょう?」
 と涙に暮れる。
 彼女をテルデと名付けた左近之助は、彼女を労わり看病をするうちすっかり青い瞳の虜になった。遭難で海に流された影響から彼女は病弱で、テルデにとっても孤独の寂しさから逃れるためだろう──やがて二人に純粋な愛が芽生えた。
 こうして一年が過ぎた頃、テルデは子を宿す。大きくなったお腹をさすりながら、しきりに「アンネ、アンネ」と囁くのである。
 「アンネとは誰か?」
 テルデは遠くを見つめて「私の母の名だ」と教えた。そして、
 「この子がもし女の子だったら、アンネと名付けたい」
 と青い目を細めた。



 北条氏照は笛の名手でもある。
 彼が大石家の養子となった時から養育係として笛の指南を担当してきたのが浅尾彦兵衛清範という家臣であった。通称笛の彦兵衛≠ニあだ名されるその名人を氏照はたいそう気に入り、いつもそばに置いていた。
 滝山城から八王子城に移ってから、
 「どこかに月がよく見える場所はないか」
 と見つけた月夜峰という名勝地がある。満月の夜といえば氏照は、その地で宴を催し笛を奏で、戦いに明け暮れる傷心を慰めるのであった。そして、
 「あの娘の笛の音が聞きたいものだ……」
 と、傍らに置いた名笛『狐丸』を彦兵衛に渡して、
 「吹いてみよ」
 と言った。氏照は「娘に会いたい」でなく「娘の笛が聞きたい」と言ったのは、純粋にその娘が奏でる笛の音色を聞きたいだけだった。ところが笛彦兵衛が吹き出すと、
 「お前は確かに上手いが何かが違う」
 と言って『狐丸』を取り上げた。
 「またあの娘のことをお思いですか?」
 「お前の笛は洗練されているが、あの娘のような儚げな美しさがない」
 それは笛彦兵衛自身知っていた。
 「衰年の壮漢に生娘の音色を奏でろと仰せられても、土台無理な話でございます」
 氏照は「未熟者め」とでも言いたげに笑うと、
 「それにしても女の嫉妬というのは恐ろしいものじゃ」
 と、懐から己の愛笛『雲丸』を取り出して自ら吹き始めるのである。
 それは永禄六年(一五六三)のこと──。
 多摩川上流に大きな勢力を持っていた三田綱秀の辛垣城を攻め落とした時である。
 氏照に攻められ身が危うくなった城主綱秀は、息女孫子を逃がして秋川近くの山里に隠れ潜ました。間もなく三田氏は氏照に滅ぼされるが、その際、
 「時を待って氏照を討て!」
 と、密かに家宝の名笛『狐丸』を孫娘の笛姫に託したのだった。
 一命をとりとめた笛姫は、それからというもの形見の笛を心の支えとして日々を過ごした。
 何年か経ってある日のこと、氏照が鷹狩りを楽しんだ帰路、どこからともなく悲し気な笛の音が聞こえてきて、馬を止めてしばらくその音色に聞き惚れた。
 「いったい誰が吹いておる? 見つけて滝山城の館に連れて参れ」
 と、やがて城に姿を見せたのは、まだ二十歳にも満たないみすぼらしい身なりをした娘であった。
 「其の方、名を何と申す?」
 「笛と申します」
 「先日、鷹狩りの帰り、其の方の吹く笛を聞いた。実に見事であった。ひとつ二、三曲、ここで吹いてはもらえぬか?」
 笛は慇懃に頭を下げると、所望のまま笛を吹き始めた。
 その音色の見事なこと──、やがて氏照はうっとり目を閉じて聞き入った。
 ところが吹き終えた時である。なかなか次の曲が始まらないことに薄目を開けた氏照に、突然懐刀を引き抜いて斬りかかったその娘の腕を、氏照は咄嗟に掴んだ。
 「何の真似じゃ!」
 「辛垣城の恨みをどうして忘れることができましょうや! 私は三田綱秀の孫娘です!」
 その瞳は、先ほどまであの美しい音色を奏でていたとは信じられない夜叉の光をたたえ、驚いた氏照は短剣を奪うように取り上げて、暫く考えてこう言った。
 「そうであったか、許せ。しかしそなたの祖父が憎くてやったわけでない。乱世の習いに従ったまで。わしがなぜ笛が好きか教えてやろう。笛はそうした世の喧騒を忘れさせてくれる。どうじゃ? お気を鎮めて一緒に笛を吹かぬか?」
 氏照はおもむろに懐から自分の『雲丸』を取り出し吹き始めた。そしてせめてもの償いと思って彼女を召し抱えることにしたのだった。
 隙あらば家の仇を討とうと考えていた笛姫は、これ幸いとばかりに城中深く潜り込むことに成功した。ところが、酒に酔っても笛の練習に夢中になっている時でも氏照には寸分の隙もない。いつしか笛の友として過ごすうち、音色を通して想思の仲となっていくのだった。
 その様子を見た正室の比佐は嫉妬に狂った。
 密かに刺客を雇い、氏照の館から出る笛姫を待ち伏せ、一突きに殺害してしまったのだ。
 嘆き悲しんだ氏照は、滝山城の北方多摩川を隔てた丘陵の一角に、彼女を手厚く葬った。
 笛彦兵衛は氏照の笛の音を聞くと、そんな主君の悲しい過去を思い起こす。

 月夜峰の宴はすっかり八王子城恒例の行事である。
 今日はこの村、次回はあの村と、招かれるのは順番が回ってきた村の家臣とその家族数十名で、その時ばかりは着飾った女房や娘たちも主君に面会できるチャンスを得、おのおの楽器を持ち寄り手前を披露し、城下で有名な美女たちも招かれて、酒を酌み交わし踊りや芸事が披露され、それはそれは華やかな一大イベントに成長していた。
 そんな女性たちの中に日本人離れした目鼻立ちの整った美しすぎるほどの乙女が一人──。
 彼女は唄を歌うわけでなく、踊りが上手なわけでもなく、ひとつだけたしなんでいるものがあるとすれば筝の琴で、それも名のある師に就くでもなしに、昔から家にあったそれを幼少より玩具代わりに遊んでいた程度であるが、月夜峰の宴といえば必ず氏照の横に雛人形のように座っているのだった。
 その乙女の名はアンネ──
 そう、篠村左近之助とテルデの娘で、あれからもう十七、八年の歳月が流れていた。
 生まれた頃のアンネは、母の髪や瞳の色が周囲の人間たちと違うことに少しの疑問も抱かなかったが、成長するにつれ近所の子ども達と遊ぶようになると、彼らの両親の目鼻立ちが明らかに自分の母親と違っていることに気付き始めた。物心がつき自分の顔を鏡に映してみれば、髪は赤毛で目の色も青みがかって、自分の容姿が特別であることに悩むようになった。
 「なぜわたしの目は青いの? 髪は赤いの?」
 と、しきりに両親に尋ねたこともあるが、そのたび左近之助は、
 「お前は天女の化身だから」
 と、いつも優しく微笑んだ。
 母テルデが天女とはどういう意味か分からなかったが、優しい母は日本語が上手に話せず、いつもアンネに対してはエスパニア語を用い、いつも人目を気にして外に出ようとしない様子を見て、きっと母が育った国は天に近いところにあるのだろうと思っていた。
 ところが成長するにつれ、彼女にとっての大きなコンプレックスは、周囲の男たちにとっては大きな魅力となって、もはやその美しさを抛ってはおかない。
 ある月夜峰の宴の日、左近之助が所属する横山党家臣団が招待されることになった。
 左近之助はテルデを誘ったが、彼女は強く拒んだので替わりにアンネを同伴したのだった。それが氏照の目にとまり、その容姿をひどく気に入った氏照は、以来宴といえば決まってアンネを招くようになったのだった。
 「これほど美しい娘を傍らに置いておけば、わしの威光も増すわい」
 と、氏照の目的はごく単純だった。



 笛彦兵衛の一番弟子に精悍な顔立ちの青年がいた。城下町の東にある狭間の郷出身だったので姓を狭間といい、名を駿太といった。
 この頃、北条領内では伝馬制度が確立しており、駿太はその名の如く馬を乗りこなす伝馬役の百姓の倅である。非常に真面目な働き者だが、ひときわ人の目を引いたのは馬術の方でなく、祭や宴で獅子舞などが演じられるたびに奏でる笛の巧みさだった。その素質に惚れこんだ笛彦兵衛が、
 「弟子にならぬか?」
 と入門させた。
 あるとき月夜峰の宴に出席できなくなった笛彦兵衛は、
 「私の代わりに殿の御前で吹いてくれ」
 と、宴のトリの演奏に駿太を推挙した。駿太は、
 「一介の百姓出がおおそれたことを」
 と拒んだが、師の頼みとあっては断ることもできず、やむなく承諾して氏照の御前で笛を披露することになった。すると、その音色に深く感心した氏照はすっかり気に入り、以来宴といえば必ず狭間駿太にも声がかかるようになったのだった。
 最初のうちは緊張のあまり周りの様子がまるで見えずに夢中で笛を奏でる駿太だったが、回を重ねるごとに次第に心に余裕が生まれ、あるとき氏照に目をやった際、その隣に座る一人の乙女の美しさに瞠目した。やがてその視線に気付いた乙女も頬を赤らめ、以来宴といえば、二人の間で二人にしか分からない合図を送り合うようになった。その二人の様子には氏照も薄々勘づいていた。
 宴が終わったある日のこと、駿太はいつものように馬に乗って帰ろうとすると、木戸のところで迎えを待つその乙女と鉢合わせた。二人がこのようにして会うのは必然だったろう、駿太は顔を赤らめて馬を止めた。
 「いつも殿の隣に座っておられるが、よろしければ名を教えていただけませんか?」
 「安寧と申します。あなたは?」
 「狭間駿太です」
 それきり二人は何も語らなかったが、以来二人は、宴が終わるとこうして木戸のところで待ち合わせするのが暗黙の決まりとなって、やがて少しずつ互いの身の上を話すようになった。
 とはいえ惹かれ合う二人には越えがたい障害があった。それは身分の違いで、アンネが士族の娘であるのに対し、駿太は城下町はずれの貧しい農民の子である。けして結ばれることのない苦悩に苛まれながら、あるとき運命の糸に導かれるようにアンネが言った。
 「こんどは熊野神社で会いませんか……」
 熊野神社は八王子城の南およそ一里ほど離れた昔からある神社である。アンネは「私の家の近くだ」と教えた。以来、そこが若い二人の秘密の逢引の場所になった。
 「これを見て?」
 アンネが足元の小さな小石を拾って駿太に見せた。
 「石……これがどうしたの?」
 「ただの石ではないわ、小さいでしょ? 小さな石──」
 「小石か?」
 「小石ではないわ、恋しい……」
 「なるほど──」と駿太は呟き、同じような石を拾って笑ってみせた。するとアンネは駿太の石を手に取り、髪を結っていた紐をほどいて二つの小石を堅く結び付けた。そして嬉しそうに駆け出したので、その後を追いかけて行けば、アンネは境内に繁る樫の神木の前で立ち止まる。
 「この神社はね、そのむかし、諸国を旅した仲の良い夫婦が最後にやっとたどり着いて、紀州の熊野大社を祀ったところ」
 そう言って先ほど結びつけた二つの小石を根元に奉納して、二人は手を合わせた。
 それから間もなく、氏照から二人に思わぬ沙汰が下る。
 「次の月夜峰の宴で、笛と和琴の共演を披露せよ」
 アンネと駿太はさっそく神様の功徳が顕われたと喜ぶが、二人が恋仲であることを悟った氏照が粋な計らいを施したのだった。
 二人で殿を悦ばせようと、駿太の笛に合わせて必死に琴を練習するアンネの成長はめざましい。その音色は生娘だけが奏でることができるガラス細工のような儚くも美しい妙なる音である。駿太もその音色に溶け込む心地がして、二人が奏でる演奏は、音なのか魂なのか、はたまた楽器なのか人なのか、区別がつかない一体感となって周囲と同化してしまう。そうして迎えた月夜峰の宴、二人は八王子城の重臣達の前で見事な演奏をやってのけたのだった。
 満面に笑みを浮かべた氏照は、
 「今の共演を聴いて勘づいた者もいるかと思うが、この二人はどうも好き合っている!」
 会場から微笑ましい笑いが起こった。
 「しかし笛吹きの駿太は農民出、士分の娘と一緒になることはできん。残念だがあきらめてもらわねばならん」
 駿太は肩を落とし、アンネは唇をかみしめた。
 「と思ったが、今日の演奏を聞いて考えが変わった。どうじゃ皆の衆、ここはわしに免じて二人の婚姻を認めてほしい。駿太に士分を与えたいと思うが、左近之助どうじゃ?」
 もとよりアンネの父左近之助も南蛮妻を娶るほどの大変な変わり者である。おまけに妻から影響を受けたキリシタンでもあり、主の下では男も女も平等という概念は、当時の武士にはない開けた考えの持ち主なのだ。
 「仰せのままに」
 宴は大いに盛り上がり、間もなくアンネと駿太は結ばれた──。



 天正十八年(一五九〇)春──。
 武田信玄が死に、織田信長が死に、世の中が大きく変わろうとしていた。
 九州を平定した豊臣秀吉が天下統一の最終段階として小田原征伐を開始したのである。
 その動きを警戒して数年前から小田原城の拡大や周辺の支城の改修や築城など、八王子城もその一環というわけで、防備固めに周到していた北条家だったが、二十万という大軍が攻め寄せて来たとあらば腹をくくるしかない。
 北条家家臣は小田原城に終結し、六万の兵で籠城戦に持ち込む策を取る。
 この頃の北条家当主は北条氏直であるが、実質の権力者はその父である北条氏政で、氏照はその弟であり、二人は北条家三代氏康の子として、過去の栄光に支えられ、その武光を信じている。
 若い勇将や猛将達がみな小田原に入ったため、各地の支城には老兵や農民、女子供が残された。よって各支城は最低限の防衛手段しかない状況が生まれたが、豊臣軍の兵力を分散させる意味においては、長期戦に追い込めば補給が難しくなる大軍遠征の弱点をつくことになり、北条家にまったく勝算がないわけでない。
 ところが豊臣軍の勢いは圧倒的で、箱根の山中城が早々に陥落してしまうと、秀吉は四月には小田原城下に到達し、数による力攻めで次々と支城を陥落させていくのだった。
 石田三成と直江兼続などが率いる軍も周辺支城を次々と攻め落とし、前田利家と上杉景勝が率いる北から攻め入る軍は東山道を碓氷峠から関東に入り、松井田城・箕輪城・岩槻城・鉢形城と次々陥落せしめ、次はいよいよ八王子城を目前にした。
 とはいえやはり難攻不落と謳われた小田原城は堅固で、秀吉は石垣山城を築城して小田原を包囲したのである。このとき八王子城守護を老臣横地吉信らに任せた北条氏照は、八王子勢一万の精鋭を率いて小田原城にいる。秀吉から「北条一の弓取り」と恐れられた彼には降参する気など毛頭ない。
 「いまこそ坂東武者の恐ろしさを秀吉に見せつけよ!」
 城内の弱腰を吹き払って降伏するどころか意気軒高だった。
 そんな折、八王子城下横川村に入った前田利家は、使者を遣わし城の明け渡しを要求するが、八王子側はその使者を殺してしまう。北から進軍する戦況報告が秀吉の耳に届いたのはその時で、
 「なにをもたもたしておる! 皆殺しにせい!」
 との命が下されたのだった──。
 通説では八王子城の合戦は豊臣方が先に仕掛けたことになっている。
 八王子方にしてみれば百に一つの勝ち目もない戦であるから当然の発想ではあるが、筆者はふと首を傾げた。豊臣方が先に仕掛けたとすれば不自然な点がいくつもあるからだ。
 一点目は戦が始まった時間と状況である。記録によれば前田利家が攻撃を開始したのは六月二十三日深夜、午前二時から三時とするものや午前一時から三時とするものがあり、しかもそのとき夜霧が立ち込めていた。豊臣は数万の兵である。仮に武力行使の決定がなされていたにしても、領民を含めた僅か数千の敵を相手に、わざわざそのような攻めにくい時間を選ぶだろうか? これは明らかに奇襲する側に利のある時間と状況である。
 二点目は戦が開始された直後は、八王子方が優勢だった点である。豊臣方が先に仕掛けたとすれば、記録にあるような無残な押され方はしないはずであり、これは明らかに八王子方が念入りな罠を仕掛けていたことを意味するのではないだろうか?
 三点目は利家が最初に開城勧告の使者を送ったとき、城代横地監物はその使者を殺したとする点である。これは明らかに抗戦の構えである。
 四点目に、豊臣勢が鉢形城を落としてから八王子城攻めまでの日数が短いのではないかと思う点である。鉢形城陥落が六月十四日で八王子城攻めが六月二十二日深夜だからその間八日。数万の兵がおよそ一〇〇キロの道のりを移動するのに最低でも一日二日はかかるとして残り六日間、大将の利家が秀吉に謁見していたとしたら更に一日減ることになり、鉢形城でその威力を発揮した石火矢の運搬と設置の時間を考えればおそらくこの六月二十二日というのは最短だったとも言えるだろうが、鉢形を落とすのに一ケ月以上かかっている上に、八王子城も山の地形を利用した天然の要害であり、前身とも言える滝山城はかの武田信玄をして落とせず、それより強固な山城攻略にかくも安易に攻め込むものか?
 五点目に、これまで前田利家率いる北国軍は、さして大きな戦火を交えることなく開城勧告を主に支城を落城せしめて来た。それが秀吉の激昂を買ったからといって短絡的に行動に移すとは少し考えづらく、攻めるにしてももっと盤石な備えをしてからだろうと筆者は思う。
 対して八王子方にしてみれば、氏照が精鋭部隊を小田原城へ引き連れて行ってしまった時点で、城主が本城で戦う覚悟を読み取っていただろうし、戻って来ないことは予測の範疇で、城主が戦う以上開城など考えていなかったとするのが忠臣の覚悟であり判断だろう。何より六点目に、小田原城を守る氏政をはじめ、八王子城の氏照、そして鉢形城の氏邦はことごとく主戦派であり、彼らはみな「一代のうち数度の合戦に負けたことがない」とされる第三代当主北条氏康の子である。北条早雲以来、着実に成長、発展してきた北条家の“名門の誇り”があったに違いない。
 人間とは利害で価値を測るのでなく、崇高な精神的価値に生きる動物であろうとする姿勢は、坂東武者たる彼らにとっては命より大切な誇りだったはずである。彼らには、籠城であれ野戦であれ、最後まで戦うしか道は残されていなかったに違いない。
 その背景にある奇蹟の夜襲を成功させた北条家三代氏康の魂が、自分たちに味方すると考えていたとしてもなんら不思議はないからだ──。



 士族に抜擢された駿太は八王子場内に小さな館を構え、馬を管理する仕事を与えられた。
 日が暮れて館に帰れば、そこには毎日美しいアンネが夕餉をこさえて待っており、その日も川で採れた魚と野菜を塩茹でした南蛮風の料理が膳にもられ、アンネは「お母さんから教わったカタルーニャ」だと言った。
 味はともかくそんなささやかな生活が、二人に最高に幸せな時間を与えていた。
 「戦が始まるって本当?」
 できるだけその話題には触れないようにしていた駿太だが、最近城内が異常に騒がしくなっていることくらいアンネでも分かる。城下の町民はもとより周辺農家の女性や子供、年寄りたちが城内に集まってきて食料の確保や城の整備に余念がない。おかげで御主殿の周辺は小さな子どもたちの遊び場と化し、毎日賑やかな笑い声が飛び交っているのだ。
 「心配ないよ。氏照様がきっと守って下さる」
 「そうね」とアンネはクルス紋が飾られた神棚に手を合わせた。
 「今日御主殿の庭にね、大きな法螺貝を担いだ男が現れて、吹いてみろって子供達が大はしゃぎ」
 「そいつは“お祓い四郎兵”に違いない」
 と二人は笑った。城中公認の陣貝吹きなのだが、いつも自慢話ばかりしており、不意にお祓いの真似事をする変人だったので皆からそう呼ばれ、あることないことをでっちあげるような大法螺を吹くので周囲の者達は誰も相手にしないが、子供たちからは絶大な人気を博しているのだ。老中の一人中山勘解由家範などは、
 「よいではないか。陣貝吹きだけに法螺も吹くさ」
 と呆れているということだ。
 「それにしたって近藤綱秀様の末の布衣姫様はとっても働き者──」とアンネの話は尽きない。美しくも気丈な布衣姫は、鬼もほころぶ十七、八の、城内の男たちに一番人気のアイドルなのだ。
 「今日も薙刀のお稽古を終えたと思ったら、村の人たちの水汲みの仕事を手伝っていたわ。とても感心、私にはできない……」
 「近藤様はご自分のお館にいろいろ手を加えておられるようだ。敵が攻めて来た時の用心に様々な罠を仕掛けていると言う。僕の仕事も毎日その資材運びさ」
 近藤綱秀の館は本丸と御主殿に至る道の交差地点にあり城を守る要でもあった。そこは近藤曲輪と呼ばれ、綱秀はそこの参謀である。
 山城の曲輪というのは本丸までの急峻な細道に作られた人の立ち入れる平坦な部分を言い、土塁で高く盛られた上などにも設けられ、屋敷が建つ曲輪もあれば櫓や倉庫が置かれた曲輪もある。そして攻撃に最適な場所として各曲輪には責任者が置かれ、戦に備えて石弓などの罠を仕込んだり射場を作ったり、その作業が急ピッチで進められているのだ。
 「ふうん……」とアンネは不安な表情を作った。そして、
 「できたみたい……」
 と唐突に、とても小さな声で言った。
 最初その意味が分からなかった駿太だが、恥ずかしそうに俯くアンネの両手がお腹をさすっているのを見て「赤ん坊か?」と察知した。次の瞬間得体の知れない歓喜が湧いてきて、
 「そうか!」
 と思わずアンネを抱き寄せた。
 「痛い……赤ちゃんに障る……」
 「すまん」と離れた駿太はおもむろに笛を取り出した。
 「今日、彦兵衛様から教わったのだ」
 その覚えたての新しい曲は、幸せなアンネの身体に染み入り、小さな館の外へ流れていった。



 八王子城の布陣は、深沢山山頂の本丸に氏照正室の比佐と側室豊が産んだ嫡子藤菊丸を隠し、城代横地監物と大石照基の守りで固められた。そしてその下の「小宮曲輪」と「中の曲輪」と「松木曲輪」は、優将中山勘解由と狩野一庵らが守り、そこから山城の麓に向かって「金子曲輪」「山下曲輪」「近藤曲輪」は、それぞれ勇猛果敢で名のある近藤綱秀、金子家重らが鉄壁の守りを整えた。
 城山川を挟んだ山の尾根伝いで見張りの役割を担う「太鼓曲輪」には平山綱景が付き、堅塁八王子城は万端の準備を整え終えていた。
 大手門から太鼓曲輪の山裾を城山川に沿って進めば、右手前方に川を渡す曳き橋がある。
 その下は城山川を堰き止めて作った天然の水堀で、橋を渡れば御主殿の敷地内に通じるものだが、曳き橋さえ落としてしまえば敵は御主殿内には入って来れない落とし橋の作りになっていた。しかしそれは、逆に言えば完全なる孤立を意味し、まさに背水の陣の構えである。
 「曳き橋より火の手が挙がったら戦闘開始の合図だ!」
 城中の男たちはそう申し合わせると、おのおの持ち場に散って行った──時に天正十八年(一五九〇)六月二十二日の事である。
 夕刻になると、御主殿の曳き橋を守護する数人の兵は、篝火を炊き、橋にべっとりと油を塗る作業を進めた。一人の兵が柄杓で油を撒きながら、
 「なんだか霧が出てきたぞ」
 と周囲を見渡す。
 「視界が悪ければ悪いほど我らには有利に働くはずさ。なんせわしらは目をつむっていたって城内を歩けるからなあ。きっと八王子権現様が微笑んでくれているのさ」
 そのとき、どこからともなく悲し気な笛の音が聞こえてきて、兵達は顔を見合わせて微笑み合った。
 「笛彦兵衛と弟子の駿太だ……戦の前に師弟の共演とは、粋なことをしてくれるねぇ」
 するとそこに楼閣から漏れる和琴の音が重なって、音楽が華やいだものに変わった。
 「安寧姫が加わったぞ。いや、今は駿太の嫁だから奥か……」
 その音は太鼓曲輪にまで届き、控えていた陣太鼓打ちまで軽快なリズムを刻み始めたものだから、八王子城内は祭りさながらの愉快な空気に包まれた。
 太鼓曲輪に詰めていた陣貝吹きのお祓い四郎兵の奇癖も目覚め、根っから陽気な彼は上半身裸になって、賑やかな祭囃子に乗せられ北条家加護の宝生座が演じる能楽『羽衣』を見よう見真似で踊り始めたから、そこにいた者達は緊張を忘れて腹を抱えて大笑い。太鼓曲輪を任された平山綱景も、
 「これで豊臣兵も大きな油断をするに違いない」
 と笑いながら眺めた。
 ところが調子に乗ったお祓い四郎兵は、突然手にした陣貝を吹こうとしたので、綱景は慌てて差し止めた。
 「ばかもの! 陣貝など吹いたら、戦が始まったと勘違いするではないか!」
 四郎兵はなんの悪びれもなく「へえっ」と頭を掻くと、
 「では次は『花月』をご覧いただきやしょう!」
 と、再びへたくそな舞を踊り始めた。
 その笛と琴と太鼓の音は、これから起こる悲劇をまるで知らないように、いつまでも黄昏の金色の中に溶け込んでいくのであった。



 ──夜の帳が降りて、果たして曳き橋に火が放たれた。八王子側の奇襲作戦の開始である。
 その途端、城の入り口近藤曲輪は大騒然となった。
 祭囃子にすっかり油断していた豊臣兵が、些細な挑発に乗せられ曲輪に引き込まれたと思えば、瞬く間に幾人かの勇将を失った。
 近藤曲輪には百名近くの守り手が鉄砲を握って待ち構えていた。
 そこに侵入した猪突猛進の豊臣兵をことごとく討ち取ったのだ。
 闇夜の中にばったばったと豊臣兵が倒れていくが、曲輪には篝火ひとつ炊いてなく、少し遠くで燃える曳き橋の炎の明かりだけが城の存在を教えているだけ。進撃する豊臣兵達が握る松明は、皮肉にも敵に自分の居場所を示すだけの目印となり、その上、霧が立ち込め足元も見えないために、倒れた兵に躓く者は、後から押し寄せる兵達の障害となって転倒の連鎖反応を導けば、櫓の上からその塊めがけて弓矢が夕立のように降って来た。
 これには豊臣方もたまらない。
 「引けっ!」
 と退却命令が飛び交うと、今度は細い道では退く兵と進撃する兵とがぶつかり合って、右往左往するところを上から容赦なく石弓や熱湯が降りそそぐ。この攻撃で豊臣方の先鋒は数百人もの兵をあっと言う間に失うことになる。
 「下手に飛び出せばやられるぞ!」
 と、そこからしばらく鉄砲の打ち合いが始まった。すると山下曲輪の櫓の上に松明を持った一人の男が姿を現わし、
 「我こそは北条氏照様が家臣、近藤出羽守綱秀である! 見事この首とって関白秀吉にご覧ぜあられよ!」
 と叫ぶ。
 これまた挑発に乗った豊臣兵は、遠くて当たるはずのない鉄砲をバンバン撃ち込み、無駄に弾数を使うだけだった。
 しかし多勢に無勢の戦いは、豊臣方の執拗な攻撃によって徐々に陰りを見せていく。兵数も少なければ武器弾薬も底をつき始めた近藤綱秀は、弾が切れると自ら槍を握って櫓を飛び出した。それを合図に両陣営入り乱れの接近戦となったが、決死の奮闘虚しく綱秀は山下曲輪の土と消えた。
 近藤曲輪が落ちると豊臣軍は堰を切ったように城内になだれ込んだ。その兵の流れは、本丸がある山の方面へ向かう者と御主殿へと向かう者とに二分された。
 「ただいま近藤曲輪が落ち、敵が金子曲輪に侵入してきました!」
 という報が狩野一庵の耳に飛び込み、その上の曲輪を守る彼の闘志に一層大きな火が点いた。「中の曲輪」と「松木曲輪」の兵達を「小宮曲輪」に集中させて、茂みの中の細い獣道に向かって一斉射撃をしたものだから、行き場のない豊臣兵達は山の斜面を転げ落ちていった。
 一方、御主殿へ向かった兵たちは焼け落ちた曳き橋の袂で躊躇するものの、後ろから暴風雨の水路の激流の如く押し寄せる兵が破裂した水道管のように列を乱せば、清らかな城山川を堰き止めて作られた淵を泳いで渡り切る者が出て来た。水堀さえ渡ってしまえばもう御主殿はすぐそこだが、高く積み上げられた土塁を登るには何人もの兵が協力し合わなければならなかった。土塁を転げ落ちながら、それでも数が数だけに、やがて一人二人と這い上がる。
 もう一方、月夜峰から出羽山の尾根を進撃して来た豊臣兵は、上ノ山から太鼓曲輪に押し寄せた。
 太鼓曲輪は城山川南側に盛られた土塁の尾根伝いに細長く伸びた曲輪で、敵の侵入を防ぐために五メートルから十メートルの堀切があった。守備をするのは平山綱景だが、もともと見張り専用の曲輪だから少人数の上に腕利きの武将もない。堀切などは時間稼ぎの役割を果たすだけで、やはりそこも数の力で押され雑作もなく壊滅させられ、そのまま豊臣兵達は御主殿のある方へと嵐のように進軍を続けた。
 闇夜、太鼓曲輪の残り火の中に、夜風にさらされた幾人もの死体が残る。
 その中の一人、指がピクリと動いて息を吹き返した男はお祓い四郎兵だった。
 血だらけの彼はボロボロになった衣服の泥を払いもせず、ヨロヨロと立ち上がり、己の使命を思い出したかのように命尽きるまで陣貝を吹き続けた──。

 御主殿最後の砦、虎口門が打ち壊された。
 そして冠木門も破られると、そこから二人、三人、ついには怒涛のように豊臣兵が侵入して来て、弓兵は館めがけて容赦なく火矢を放つ。
 「させるな!」
 八王子兵がどっと豊臣兵に攻め入れば、たちまち御主殿の周辺は竜騰虎闘の大混乱に陥った。ところが御主殿を守る侍は僅かなもので、あとは鍬や鎌を刀や槍に持ち替えた農民の男たち。中には何人かの女たちも混ざっている。
 あちこちでうなり響いた陣貝の音が一つ二つと消えていく──。
 近藤綱秀の末娘布衣姫も、御主殿を守り抜こうと襷、鉢巻を撒いて薙刀を抱え、既に命を落とした父のことも知らされぬまま髪を振り乱し、おびえる女子供たちを鼓舞して回っていたが、ついに力尽きて館の片隅に座り込んで天を仰いだ。そこで彼女が見たものは、
 「きれい……」
 満点の星空とも見まごうオレンジ色の無数の火の粉であった。
 彼女は最後の力をふり絞ってヨロヨロと立ち上がると、おぼつかない足取りで父を探しに前線を離脱した。
 どこをどう歩いて来たのか分からない──
 布衣姫がたどり着いたのは、御霊谷と呼ばれる地区を流れる川のほとりだった。
 近藤曲輪にたどり着いたところまでは覚えていたが、既に戦いが終わり死体が風に吹かれる静けさを見た時、記憶が途切れた。どうやら朦朧とした意識のまま夢遊病者のように、彼女の姿を横目に見る戦いに乗り遅れた豊臣兵がたむろする大手門前広場を横切り、太鼓曲輪の尾根を越えてここまで来たものらしい。
 布衣は急に喉の渇きを覚えた。そして川の水をすくおうと手を伸ばしたとき、淀みに映る己の顔を見て言葉を失った。城下を歩けば男たちが振り返るその美しい顔が、焼きただれて見るも無残に膨れあがっているではないか。はだけた肩も胸も真っ赤に焼けただれ、ふためと見れぬ醜い姿となっていた。
 涙に暮れた布衣姫は、やがてその川に身を投じた。



 阿鼻叫喚の地獄とはまさにこのことを言うのだろう。
 楼閣に身を潜めていた女たちは恐怖におののき、身を寄せ合い身体をブルブルと震わせ、小さな子を持つ母などは、子を強く抱きしめたまま題目や念仏を唱えはじめた。
 やがて火の手も迫ってきて、室内の急速に温度も上昇した。
 そんな中、ふと鳴り出したのは美しい和琴の音色だった。アンネが皆を勇気づけようと、その張り詰めた空気に弦をはじいたのだ。
 「子らよ、怖くはないぞ、泣くでない。私の腹にも子があるが、泣いてはおらぬぞ、我を見よ」
 アンネは母性の笑みを湛えて、ひたぶるに弾き続けた──。
 衆は寡に敵せず、みるみる数を減らしてついに八王子兵が皆無となったことに気付いた御主殿広間や会所に立て籠っていた女子供、年寄りどもは、みな我先にと逃げ出して、ついに建物の障子に火が燃え移れば、大奥の楼閣の者たちも悲鳴を挙げて飛び出した。
 それでもアンネの琴はやむことがなく、その音は深い手傷を負って息も絶え絶えの駿太の耳にも届いていた。その音は駿太の希望なのだ。
 「アンネ……いま行くよ……」
 駿太は身体を動かすたびに血液が滝のように吹き出る傷口を押えながら、音の出どこを目指して這い進んだ。
 周辺では逃げ惑う女子供を豊臣兵は手心なく斬りつけている。唯一の逃げ道である御主殿の滝に通じる狭い門前は、熱湯に追いやられたアリの巣のように前古未曾有のパニック状態。女子供は門を出た急な細い坂道を転げ落ちては、次々に滝壺の中に身を投じて水を真っ赤に染めた。
 駿太は逃げ惑う者達とは反対の方向へ、それでも琴の音のする方向へと這って進んだ。
 燃える楼閣、炎の中に、たった一人残って琴を弾き続けるアンネの姿が見えた。
 やがて壁が音をたてて崩れ、弦もプツリと切れた時、彼女の瞳は背に矢が突き刺さった血まみれの駿太の姿をとらえたのだった。
 「駿太!」
 アンネはその弱々しい身体にしがみつき、ドクドクと流れ出る血を口で押さえたが、もはや愛する夫は虫の息──駿太はアンネの手を力なく握りしめ、
 「逃げよう……」
 かすれる声でかすかに笑った。
 次の瞬間楼閣の屋根は崩れ落ち、二人は炎の中に消えた。

 そのころ、本丸を目指して激しい銃撃戦の末金子曲輪を破った豊臣軍先鋒隊は、狩野一庵の曲輪に津波のように押し寄せていた。こうなったらひとたまりもない、あえなく一庵の命も潰えた。
 本丸、山頂曲輪の城代横地監物が比佐に言った。
 「もはや再起の時を待つより仕方ございません。ここは私が食い止めますので、その間に檜原城へお逃げ下さい!」
 檜原城は北条家に重く用いられた土豪平山氏重の居城で、秀吉の北条攻めにおいても最後まで抵抗した城の一つである。しかし比佐は目を閉じてこう答えた。
 「氏照の城が落ちて細君が生き延びたとあらば、末代までの笑い者となりましょう。かくなる上は自害するよりほかありません。介錯をお願いします」
 世に言う坂東武者とは、こうした女性の潔い性質に支えられていたのかも知れない。
 比佐と藤菊丸は八王子城の本丸で果て、やがて八王子城は落ちた。
 東の空がうっすらと白らみはじめた朝靄の中に、悲しげな笛の音が聞こえていたのは気のせいだろうか。
 その後まもなく小田原も落ちる。

 二〇一九年二月十二日
(2017・05・04 GB鈴木氏より拾集・『雷神の門』より抜粋・改稿)
 
> 春妃秋天
春妃秋天
城郭拾集物語C 中国戦国時代 楚の国 呉城
 中国戦国時代は中国という広い国土を舞台に、七つの大国とその他の中小国が約二〇〇年間に渡って戦いを繰り広げた紀元前の興亡絵巻である。
 それは秦の始皇帝によって中国の歴史上初めての統一国家を果たす直前、日本で言えば戦国時代から徳川時代への流れとも相似する混乱期であり、数々の故事や諸子百家をはじめとした優れた儒学者や思想家を数多く輩出させた。
 そこに存在した七つの大国とはすなわち秦・斉・楚・魏・趙・韓・燕で、今回はその中でも『楚』を舞台とした愛と獣欲の物語に光を当ててみよう。

 楚の考烈王の宰相に春申君という男がいた。
 考烈王に仕えて二十余年、彼の食客(舎人)が三、〇〇〇人いたというから、このとき油の乗り切った凄腕の壮年諸侯といったところか。
 彼には考烈王を擁立し、弱小化する楚を立て直したという大きな功績があった──。
 秦が韓と魏を従えて楚を攻めようとしていた時、楚の前王頃襄王の命により秦へ使いに出された彼は秦王にこう言いはなった。
 「秦と楚が争っても互いに傷つくだけである。韓と魏がその隙に乗じてくるだけだ」
 秦の王はその道理に納得し、楚との和平の証しとして頃襄王の後継たる太子(後の考烈王)を人質にとり、春申君も侍従として秦に入った。紀元前二七四年のことである。
 それから十年──、楚の頃襄王が病に倒れた。
 「このままでは他の公子が楚の王になってしまう──」
 そう考えた春申君は、秦王に「太子を帰国させてほしい」と願い出た。すると、
 「ならばまずお前が見舞いとして帰国し楚の様子を見て参れ。その報告によって取り計らうことにしよう」
 と秦王が言った。
 そこで一計を案じた春申君は、自らが太子の身代わりとなって秦に残り、自分に変装させた太子を楚に帰そうと企てた。
 果たしてその計画がうまくいき、秦の追手が太子に追いつけなくなる頃合いを見計らって自ら王にこう申し出た。
 「楚の太子は帰国いたしました。逃がした罪は死に値しましょう。どうか私に死罪を賜りください」
 秦王は怒り狂って春申君に自害を命じようとすると、
 「それは得策ではございません」
 と、とりなす宰相がいた。彼が言うには、
 「この者は主君に殉じて一身を投げ出しております。もし太子が王となれば、必ずやこの者を重用するでしょう。ここは罰せず帰国させ、楚と親しむのが上策かと」
 暫く考えた秦王は、この意見を受け入れた。
 こうして春申君は楚に帰り、その三ヶ月後に頃襄王が崩御して、太子が楚の王となって考烈王を名乗った。そして春申君は宰相に任じられ、かつて呉という国があった江東への封地を許され、呉城を築いて城下町をつくった。
 その後の春申君の活躍にもめざましいものがある。
 秦が趙を攻め首都邯鄲を包囲したとき、趙の使者が楚に援軍を求めて来た。その要請に応えて兵を出した春申君は、見事邯鄲の包囲を解いて秦を撤退させた他、宰相となって八年目には北伐して魯国を滅ぼし、楚の力をますます強大なものへと導いたのだった。
 彼の名声はあまたへと響き、飛ぶ鳥をも落とす勢いの春申君の周囲には、三千とも言われる食客が続々と集まり、位の高い者などは全て珠で飾った履を履くほどに、中には『性悪説』や『青は藍より出て藍より青し』という言葉で知られる荀子といった博識者もおり、彼は春申君によって県の長官にまで任命された。
 そんな噂が噂を呼んで、江東呉城の城下町は多くの人で賑わった。
 ところが春申君にはたった一つだけ悩みがあった。それは、考烈王に子がなかったことである。このことを心配し、子を産みそうな女性を探してはしきりに王に勧めていたが、ついにその兆しを見出すことはできないでいた。



 趙の国に李園という荒くれ者の片割れがいた。
 下級役人の家柄だから別段裕福というわけでなくある程度の暮らしを送る風来坊だが、腕っぷしが強いわけでなく、ひとつ才を認めるとしたら、天下を又にかけるような大風呂敷を広げては、少しばかりの知恵をひけらかす策師であったことである。そのため仲間内では一目置かれる存在で、悪漢達とつるんで繁華街に出かけては、騙す手口で金目の物を奪うようなことをして、夜の市井では巾をきかせていたものである。
 その李園には、趙の国随一の美貌と囁かれる李春という一人の妹がいた。
 家柄としてはさほど裕福でないながら、彼女のもとには国中の名だたる名士や上級役人の男たちから毎日のように艶やかな着物やきらびやかな装飾品が届けられ、それらをとっかえひっかえ身にまとう美しさといったら、王族の妃と見まごうほどである。
 兄の李園は小賢しい男だが、そんな妹の将来に対しては至極心配していた。たった一人の肉親ということもあっただろうが、それより妹の美貌を頼みとし、己が立身出世の道を開きたいという野心もあったことは否めない。そのくせ李春のもとに届いた高価な物品を売りさばいては金に換え、湯水の如く遊蕩に使っていたから、おのずと同類の輩が集まって、下積みの生活からいっこうに抜け出せないでいる。
 李春は、男のくせに大志も抱かず、その日暮らしの軟弱な兄が大嫌いだった。
 人というのはない物ねだり──、李春は兄の姿を通して、
 「こんな男には絶対にひっかかるまい」
 と心に決めていた。彼女の好みの男といえば、兄とは全く正反対の、とにかく強い男”なのである。
 ″強い”といってもいろいろあるが、それは荒武者のような剛力な男でもいいし、国土を又にかけて商売をしているような大金持ちでもいい。あるいは独裁者のような強権の持ち主でもよかった。それらのうち二つ揃っていればなお良いが、そんな雰囲気を醸し出す男が目の前に現れた日には、頬を真っ赤に染め上げて、その身の全てを捧げても良いと密かに思っていた。
 ところがそんな都合のよい男などそうそういるはずもなく、毎日その桜のような口許からため息ばかり落としているのだ。
 「おい李春、そんなに落ち込むことはない。この兄が、きっとお前に相応しい男を見つけてやるさ」
 大口をたたく割にいっこうに冴えない兄の言葉など信用しないが、ほかに心の内を話せる者もない李春は、
 「何百何千とあまたの男が私の噂を聞きつけて、毎日貢物を持って会いに来るけれど、いまだに理想の男が現れません。このまま年老いてしまったらどうしましょう?」
 と呟いた。
 「ならば楚の王などどうだ? あの王にはまだ子がない。妾となって子をつくってしまえばお前は王后になるだろう。こんなつまらぬ生活とはおさらばじゃい」
 「楚の王……?」
 李春はけらけらと笑い出す。またいつもの大法螺を吹いていると言うのである。
 「楚の王には種がないのです。弱々しい男は嫌い。それにもし嫁いで、そのまま子宝を授からなかったら、長い年月の間に寵愛を失い捨てられましょう。兄上は私が不幸になるのをお望みですか?」
 李園は「そんなに強い男が好きなのか……」と呆れて、もうその話をするのはやめた。

 ある日のこと、李園の仲間の一人に「楚の国へ行き、宰相春申君の舎人になろう」と言い出す者がいた。聞けば、
 「春申君は楚の宰相の中でも数千人の食客を抱える超大物で、楚王からの信望も厚く、挙げた功績は数知れず、かの舎人になればこんなうだつの上がらない生活から逃れることができる」
 と、李園はその話にほだされて、一路楚へと旅立ったのだった。
 そして楚の国は江東呉城──果たして噂の春申君に面会してみれば、
 「お前の特技は何じゃ?」
 と問う。李園の仲間たちはおのおのに「武道だ」「怪力だ」「話術だ」と答えたが、いずれも春申君の眼鏡にかなった者はなく、やがて、
 「特技のない者など雇うに足らん!」
 と呆れかえって笑い出した。そのとき李園が前に進み出て、
 「私の妹は趙の李春と申します。そりゃ天下に二人とない別嬪で、よろしければ君のお側に置いていただいてかまいません」
 とのたまった。
 趙の李春”といえば楚にまで聞こえる美貌の女。春申君は「そうか!」と手を叩いて、李園だけを食客に迎え、あとの者は全員国許へ還してしまった。
 城下の一角に宿舎を与えられた李園は、間もなく城中に呼ばれ、
 「さて李園や、早速だがお前に休暇を取らそう」
 と春申君が言った。
 「それは異なこと。舎人となってどれくらいも経っていないのに、一体どのようなご了見でしょう?」
 李園の言葉に春申君は笑って、
 「趙に帰り妹を連れて参れ」
 と言ったので、李園は「そういうことか」と合点した。
 「連れて来るのはかまいませんが、趙までの道のり、恥ずかしながら金がございません」
 春申君はまた笑うと法外な金を与え、
 「馬でもなんでも使って三月のうちに戻れ。その路銀は妹の仕度金でもあるぞ」
 と命じて、李園は言われたままに呉城を出た。

 趙に到着した李園はさっそく話を李春に伝えた。すると、
 「春申君とはいかなる方ですか?」
 最初李春は「またいつもの根拠のない話」と思って取り合おうともしなかったが、兄があまり熱心に春申君の事を語るものだから、ついに「お会いするだけなら」と承諾したのである。
 ところがすぐに戻ればいいのに、春申君から「路銀に」と言って渡された金がまだまだたんまり残っていたので、少し遊んでから戻ろうと邪心が出た。そしてすっかり使い果たすのに一年かかり、その間趙に留まった李園は、ようやく妹を連れて楚へと向かうのだった。



 約束の三月経っても一向に帰ってこない李園を待って、春申君はいじいじしていた。
 そして一年以上経ってようやく戻った彼を呉城に呼び寄せ、
 「いったい何をしておったか!」
 と語気を荒げた。
 「実は──」
 と李園は悪びれもせず、帰路の道中考えた言い訳をひけらかす。
 「斉の王が使者をよこして、私の妹を求めましたので、その使者と酒を飲んでいて、遅れてしまったのでございます」
 斉の王”と聞いて春申君の表情が一瞬よどんだ。天下一の美貌とあらばさもあろう。
 「なに、斉の王だと? それでまさか、結納を済ませてしまったと言うのではあるまいな?」
 「いいえ、まだでございます。どのようにお断りすればよいか散々迷いましたが、結局、君との事情を正直にお話しし、なんとかお引き取りいただいた次第。説得するのにも随分と手間取りました」
 「そういうことであったか……」と、春申君は安堵の色を浮かべた。
 「で、妹は連れて来たのか?」
 「はい。ただいま私の宿舎にて休ませております」
 「なればすぐにでも一見したい。連れてこい」
 「差支えございません」
 こうして李園は妹に、眩しいばかりの派手々々しい衣装を着せて、これまで各地から妹に贈られてきたきらびやかな装飾品で着飾り、城下町一の輿に乗せて、「どうだ!」とばかりに李春を主君春申君に引き合わせたのだった。
 神々しいまでの容姿を見た春申君はその美しさに絶句し、思わず生唾を飲み込んだ。恥ずかしそうに俯く李春は頬を真っ赤に染め、堂々とした春申君の勇姿と力強さに、
 「この男性だ……」
 と直感し、ひと目見た瞬間「この方の妻になろう」と決めたのだった。
 「年はいくつか?」
 「十七にございます……」
 李春は照れながら小さな声で応えた。
 このとき春申君はすでに五十近い年齢である。妾も何人も持っているのに、柄になく顔を赤くして「実によいな……」とひとりごちた。誰もが君の新しい側室の誕生だと思ったとき、
 「では郢に参ろうか」
 と、やや畏まった口調で春申君が言った。郢とは楚の都の名で、この時は河南の東に位置する陳と呼ばれるところにある。楚の国は幾度か都を遷都するが、そのたび名を『郢』と改める。呉城からは遠い都の名を聞いて、
 「郢に……? 参るとはいったいどうしてでしょう?」
 李春は妙な展開におどけて聞いた。
 「決っておろう。楚王、考烈様に謁見するのじゃ。お気に召せばよいが……」
 混乱した李春は言葉を失うが、自分が楚王のところへ連れて行かれ、王の妾にされようとしていることにようやく気付き、慌てて、
 「お待ちください! 話が違います」
 叫んだ。
 「私は春申君様のところへ来たのです。楚王のところなどとは少しも聞いておりません」
 「話を違えてなどおらぬぞ。わしは最初からお前を楚王の妾にと考えていた。考烈王には子がおらぬ。そなたならきっとこの大役を果たしてくれようぞ。さあ参ろう」
 「いやでございます! 私はたったいま春申君様のお側に置いていただこうと決心したのです! もしそれでも強引に王のところへ連れて行こうとするなら、私にはもう夢も希望もございません。この場で舌を噛み切って死にましょう!」
 李春は腰が砕けたように倒れ込んでほろほろと泣き出した。
 それには春申君もうろたえて、仕方なく李春を側に置くことにした。
 絶世の美女を前にして春申君には拒む理由などない。こうして李春は君の寵愛を受けることとなり、予ねてからの強い男”の条件を三つとも揃えた男の妻となって、春申君もまた、天下一の美貌の女を深く愛し、二人の仲睦まじさは国中の評判となっていく。



 紀元前二四一年──。
 中国戦国時代における天下分け目の決戦とも言うべき、中国戦国時代最後の大戦争『函谷関の戦い』が勃発した。
 函谷関は秦が東方の防衛のために設けた関門で、現在の河南省北西部にある。その三層の楼閣を二つ持つ要害堅固な巨大建造物は、もともとは前漢の武帝のときに造られたもので、黄土高原を走る道があたかも函中を行くのに似ていたためその名が付けられたとされる。
 鶏鳴とともに開門し、日没に閉門するのが決まりで、中国の戦国時代に活躍した戦国四君の一人、斉の孟嘗君(田文)が秦から脱出を図る際、この門を開くため、鶏の鳴き真似が上手い家臣に一番鶏の鳴き真似をさせ、関門を開かせた『鶏鳴狗盗』 の故事が生まれた場所でもある。ちなみにこの物語の主人公春申君もその四人の中の一人に数えられる。
 もともとこの地は東から秦に入る交通の要衝で、そこを押さえることは天下趨勢の大きな要であった。
 当時もっとも強大な力を持っていたのは秦である。そこでこの函谷関を陥落させようと、楚、趙、魏、韓、燕の五ヶ国が連合し、一斉攻撃を仕掛けたのだった。
 その五ヶ国連合軍の総督に任命されたのが春申君である。
 兵力の上では五ヶ国連合軍側一〇〇万に対し秦国側は八六四万、実に八倍以上の差があった。その壮絶な戦いは何年も続き、結果的に連合軍側は七十万人という膨大な死傷者を出して敗北する。
 この戦いにより、秦は秦朝設立への大きな足掛かりをつくることになる。
 一方、敗北の将となった春申君は、秦からの圧力に対抗するため、楚の都を寿春へ遷都することを楚王に進言し、「寿春」を「郢」と改めた。
 勝てば英雄、負ければ奸雄──それからというもの、考烈王からの強い責めを受け、疎んじられるようになってしまった。連勝続きの栄光にも陰りが見え始め、やりどころのない無念を晴らすため、春申君は一段と李春を愛した。するとほどなく彼女の胎内に、新しい生命が宿ったのだった。
 李春が言った。
 「そんなに気を落とすことはありません。貴方が楚の宰相を務められて二十余年になりますが、その間ずっと楚王の尊寵を受けてきたではありませんか。きっと今の責めは一時的なものでしょう」
 春申君は希望の光明を見出すように美しい李春の顔を見つめた。
 「それより心配なのは、王に子供がないことです。万一いま王が崩御すれば、王の兄弟が立たれましょうが、そうなれば従来新王の親しんでいた者が重用されることになるり、貴方の立場はなくなります。そしてその隙を見計らい、きっと秦が攻めてきましょう」
 「いかにも……」
 「それだけではありません。貴方は長い間政権を握ってきましたが、楚王の兄弟はそれをあまりよく思っておりません。もし本当に兄弟の誰かが王位に就いたら、きっと貴方の身に禍いが及びます。どうして宰相の印綬や、江東呉城の繁栄を保持できましょうや」
 李春の瞳に涙が浮かび、奥の瞳孔に映る春申君の表情は暗く沈んでいる。
 「どうすればよい?」
 李春は意を決して言葉を次いだ。
 「いま私はみごもりましたが、まだこのことは誰も知りません。世間は私が貴方の寵愛を受けていると思っておりましょうが、貴方ははじめ私を楚王にお勧めしようと考えてございました。あれから間もなく貴方は数年の間戦争に行かれておりましたので、その間の出来事は、貴方が私を宮廷作法を習得させるための教育をしていたことにいたしましょう。私は貴方の養女になっていたことにするのです」
 「何を言うか? お前はわしの女だ」
 「最後まで聞いてくださいまし──貴方は明日にでも楚王にお目通り願い、そのお口から私を楚王にお勧めください。王は必ず私を寵愛されましょう」
 「それでどうするつもりじゃ?」
 「私が天の助けによって幸いに男子を生めば、とりもなおさず貴方のお子が王となるわけでございます。楚の国はことごとく貴方のものとなるのです。いまこそご決断ください、不測の禍いに陥るのと、どちらが幸いでしょうか?」
 春申君は李春をぐっと抱き寄せた。
 「李春よ、そなたはわしのためにそこまで考えてくれるのか……。相分かった。今よりお前はわしの娘となり、春妃と名乗って宮中に入るがよい」
 こうして春申君は春妃を呉城から出し、丁重に別の館舎に置いてから、考烈王に言上して妃として宮殿へ送ったのだった。
 考烈王は彼女を召し入れひどく寵愛し、やがて春妃は春申君の男子を産んだ。子が誕生したことに大いに喜んだ考烈王は、その男子を立てて太子とし、春妃を王后として離さなかった。
 その真実を知る者は、春申君と春妃の他は、李園と春申君の側近である朱英をはじめとした数人の者たちだけだった。



 春妃が王后となったとき、考烈王が聞いた。
 「春妃よ、お前には親族はおるか?」
 「李園という兄が一人ございます」
 「ならばその者をさっそく重く用いよう」
 そうして李園は王宮に呼び出され、政務を司る役職に即刻大抜擢された。
 ところが人間とは、そうした権力を手に入れた途端、権力欲に溺れてしまうのは世の常か──。春申君の口からあの秘密がもれ、ますます彼が驕り高ぶる様子を思い浮かべると、空恐ろしくなって夜も眠れぬ不安に襲われるようになった李園は、春妃の館に時折やってきては面会を求め、その心配を吐露するようになった。
 「俺は最近気がかりでならん。太子の秘密を知っているのは俺とお前とあいつだけだが、もしこの秘密が露見してみよ。楚王の権威は失墜し、かわりに春申君の力が強大になるだろう。今のうちに口封じの手段を講じておかねばならぬと思うが、何かよい手立てはないものか……」
 「あの方は函谷関で敗れ、もう強い男でなくなりました。日に日に老いも募ります。いま私は楚の王の后となり、王の力を借りて楚の全てを手に入れることができました。王はあの方よりずっと強い権力というものを持っていました。私はあの方より強いお方を見つけてしまったのです。そしていま、私の子が太子となり、いずれ王位を継承するでしょう。さすればあの子がこの国で一番強い男になるのです。それ以上望むものなどありましょうや? そして私は、兄上にも力を与えたのです。今の兄上なら、あの方の口を封じるくらい雑作もないことと思います──例えば刺客……」
 春妃は言葉をつぐんだ。
 王后の心を知った李園は、ひそかに刺客を養成し、春申君を殺してしまおうと考えた。秘密というのはいったいどこから漏れるものか? やがて国人の中には、太子の秘密を知る者が少しずつ現れて、李園の心配はますます募る。

 春申君が宰相となって二十五年──、考烈王が病に倒れた。
 側近の朱英は春申君にこう諭した。
 「世間には思いがけない幸い”があり、また思いがけない禍い”があります。いま君は、禍福無常の思いがけない世”に処して、寵愛たのみがたい思いがけない主君”に仕えておられます。なのに災厄を免れさせる思いがけない人”がいなくてよいものでしょうか?」
 「お前は何を思いがけない幸い”と言うのか?」
 「君は楚の宰相を務められること二十余年、その位は楚の宰相ですが実は楚の王と同じ力を持ってございます。ところがいま楚王は病み、その命は旦夕に迫っております。ですので君は幼少の太子を援け、代りに国政を執ることができます。そして太子の成長を待って政権を還すか、さもなくば自ら孤と名乗って楚をわが物とされるでしょう。これが思いがけない幸い”であります」
 「では思いがけない禍い”とは何か?」
 「李園は国を治めず君の仇をなし、将兵をおさめないで刺客を養成しております。もし楚王が亡くなれば、李園は必ず宮中に入って権力を掌握し、君を殺して口をふさぎましょう。これが思いがけない禍い”です」
 「それでは何を思いがけない人”と言うのか?」
 「君はこの私めを宮中の官職におかれるがよろしい。楚王が亡くなれば李園は必ず宮中に入りましょう。そのとき私は君のため李園を殺します。これが思いがけない人”であります」
 春申君は俄かに笑い出した。
 「思いがけない事”と申せば人生すべてが思いがけないことばかりじゃ。思いがけない事”に思い”を巡らせても、思いがけない事”なら思いがけずに起こるものじゃ。そんないらぬ心配をするよりも、自分が成してきた事を、自分が育て愛してきた者を信じて、今を懸命に生きる方がわしは好きじゃ」
 「李園を信じてはなりません!」
 「李園は李春の兄であるし、そんなことをするなどけっしてあるまい。第一わしはあいつを可愛がってきたし、今は官職に就こうとも、もともとはたいした才のある人間でない。お前はその考えを改めた方がよいぞ」
 「王后様とて分かりませぬぞ」
 「口を慎め!」
 朱英は忠言が用いられないことを知ると、自分の身に禍いが及ぶことを恐れて呉城から逃亡してしまった。
 それから十七日が経過して、季節はすっかり秋へと移り変わった。
 淮河の南岸に位置する寿春あたりは、比較的四季がはっきりしている。農にいそしむ者は収穫の準備をはじめ、詩を謳う者は色づく山の景色を口ずさみ、子を持つ母は綿で衣服を結い始めた。
 そして、楚の考烈王は死んだ──。
 すると朱英が忠言した通り、李園は真っ先に宮中に入って、養成した刺客を門の内側に伏せさせた。
 予ねてからの李春との約束で、考烈王が死んだら太子の実の父親であることを白日の下に告白しようと思い極めていた春申君が、心待ちにしていた李春との再会に胸おどらせながら門をくぐった時である──
 いきなり刺客が飛び出して、春申君を挟み打ちにして刺し殺してしまった。正に一瞬の出来事だった。
 李園は狂気の笑い声を挙げながら、春申君の首を門の外に投げ捨てた。首は澄み切った秋の空へ吸い込まれていった。
 そしてすかさず李園は、役人に命じて春申君の一族をことごとく滅ぼしたということである。
 楚の国は、春申君に寵愛されて李妃が産んだ子を王位に就かせ、これが楚の幽王となったという話である。

 二〇一九年二月十五日
(司馬遷『史記』春申君列伝第十八より拾集)
 
> 真田石と尼ヶ淵(あま が ふち)
真田石と尼ヶ淵(あま が ふち)
城郭拾集物語D 長野上田城
上田城
真田石
尼ヶ淵



 上田城はかつて尼ヶ淵城とも呼ばれた。
 当時、城の南側には日本一長い川として知られる千曲川が流れており、河岸段丘の深い淵になっていた。ゆえに南からの敵の侵入を阻み、北は標高一、一六四メートルの太郎山、西に矢出沢川を引き込んでしまえば、唯一攻め口となるのが東側で、ところが東にも蛭沢川が流れていたりぬかるみの湿地帯が広がっていたりで、この地の利を活かした築城地選びは、戦国一の策略師といって過言でない真田昌幸にして難攻不落と言ってよいだろう。現にたった数千の兵力で、一万という徳川軍を相手に一度ならずも二度までも撃退せしめた史実は、その堅固さを如実に物語る。
 上田城が築城されたのは天正十一年(一五八三)──。
 かつては武田信玄の重臣だった真田昌幸も、武田家が滅亡してからというもの、越後の上杉、相模の北条、三河の徳川といった三強に睨まれながら、いっときは西から勢力を伸ばしてきた織田信長の臣下滝川一益に従って真田家存続の道を模索する。ところが本能寺で信長が死ぬと、その苦悶は一層深まった。わずか数万石足らずの大名が、激しい戦国の世を生き抜くのは至難のわざでない。
 最初昌幸は、滝川一益を破った北条氏につき、かつての所領だった上野国の沼田城や岩櫃城を取り戻すが、徳川家康の誘いに応じて北条を裏切ると、激怒した北条氏政は真田領を侵攻しようと動き出す。もとを正せば沼田城も岩櫃城も、武田家の家臣だった昌幸が、北条氏との戦いに勝利して獲得した紛れもない自領なのだ。
 昌幸は家康に言った。
 「私めは我が領地が惜しくて言っているのではありません。東の北条、北の上杉──、いま徳川様にとって重要なのは、信濃国の攻防にありと思いまするがいかに? いわんや小県を抑えておくことが今後の戦局に大きく左右すると心得ます。ところがあの辺りは細かな豪族が小さな勢力争いを繰り返す土地柄。ここはひとつ上田あたりに城を築き、この私めに小県一帯の統治をお任せ下さい。さすればこの安房守昌幸、身命を賭して家康様のお役に立ちましょう!」
 真田家も元は小県の豪族の一つに違いなく、徳川もこの時は北条や上杉の勢力を押えるほどの力は持っていない。徳川にとっても悪い話ではなく、家康は策士として名の通る昌幸の顔を、疑いの目でじっと見つめた。
 「小賢しい奴め。裏切ったらどうなるか分かっておろうな?」
 「無論。つきましてはひとつご相談がございます。城の普請費用を工面してもらえませぬか?」
 家康は俄かに笑い出した。取るに足らない小国大名のくせに、ズケズケと物申す態度を小気味よく思ったのだ。
 「念を押して申しておくが、もし徳川を裏切ったら、我が兵の全てを差し向け、真田など殲滅するに一日もいらぬぞ」
 「承知してございます」
 こうして昌幸は、上田城建設にかかる費用を、家康から引き出すことに成功したのであった。
 ──近年の研究では、上田城はもともと徳川の城としてこの地にあり、後に昌幸に下賜されたとする説も浮上してきたようだが、上杉景勝の書状に「真田が築城……云々」とあることや、様々な伝承が示すとおり、本編は通説に基づくことにする。



 果たして天正十一年(一五八三)春、上田城の建設が始まった。
 ところが昌幸には家康に従う気など端からない。そもそも徳川とは武田家滅亡の引き金ともなった長篠の合戦以来の宿敵なのだ。武田信玄の忠臣だった彼の信濃武士たる血潮がそれを許すわけがない。なれば家康と一戦交えて戦場の土になることもできたが、それでは亡き信玄の威信を継承する者がなくなってしまう。かといって上杉に味方するかといえば、それもまた川中島の合戦以来の宿敵で、彼に残された道があるとすれば、どのような手段を使おうとも自らが割拠し、信玄の無念を抱いて生きていくより仕方ない。表裏比興の者≠ニいうレッテルを貼られてしまうのも、ある意味仕方のないことだった。
 それにしたって戦国時代を生き抜くに彼の兵力は少なすぎた。それを埋め合わすためには、持って生まれた策略の才をめぐらし、忍びの者を駆使してせいぜい勢力争いの荒波をかわしていくのが精一杯。しかし彼には諦めきれない亡き信玄の夢がある。
 「時は必ずめぐってくる。そしてその時こそ天下を狙う時なのだ」
 そう信ずるのであった。
 とまれ今はまず、小県周辺の小さな豪族たちを取りまとめ、上田城を完成させることが先決なのだ。
 千曲川の深淵、伊勢山を利用して築こうとしている城の追手門は、上杉からの攻撃を想定して北側にせよとは徳川との内約である。ところが昌幸は、
 「東側にせよ」
 と、対徳川との戦闘意思をあらわにした。言い訳は簡単である──「北には太郎山があり、追手門を北に向けても意味がない」であった。そもそもこの上田の地理自体、対徳川戦に有利な地形をしていたとも言える。
 昌幸は城の西側の守りを堅固にするため、矢出沢川の水を引く治水工事に取り掛かると、同時に石垣を作り始めた。
 使用する石は、太郎山より採掘した緑色凝灰岩。英語でグリーンタフと呼ばれるこの石は、石材としては比較的やわらかくて軽いことから、風化されやすく細かい細工には向いていないが、石垣に使うには申し分ない。昌幸は、家康から調達した資金を惜しげもなくばらまいて、周辺村々の男たちを雇い、どんどん石を運ばせた。
 更に、周辺の郷士たちを従わせるためには、とにかく追手門の石垣に巨大な石を用いる必要があった。当時、石垣の巨石は権威の印でもあったからである。
 「皆の者、よく聞け! 城というのは絶対に落ちてはならん。信玄公は人は城、人は石垣、人は堀≠カゃと申しておった。故にわしを助ける者たちは、まさにわしにとって城であり、石垣であり、堀である。この心の結束が崩れたとき、わしもお前たちも生きる道を失うだろう。真田の紋は三途の川の渡し銭。死ぬときは共に死のうと言う者だけこの城の普請を手伝うがよい」
 最初は金に釣られて集められた土地の男たちも、昌幸のほとばしる覇気に触れて大きな雄叫びを挙げた。
 「そして──」
 と昌幸は続ける。
 「城の土台はなんといっても石垣じゃ。難攻不落の城を築くには絶対に崩れぬ石垣を作らねばならぬ。そして石垣には要となる柱石が必要じゃ。幾万人の力をもってしても動かない巨石を太郎山より切り出して、そいつを柱石に据えようと考えておる。今日よりは村々で競い合い、一番大きな石を城に運び込んだ者には褒美をとらせるから心してかかれ!」
 再び男たちは雄叫びを挙げた。
 石垣運搬の指示を出した昌幸は、次に深い井戸掘りに着手した。それも普通の井戸でなく、いわゆる掘抜き井戸≠ニいうものである。通常の浅い井戸はつるべなどを用いて水を汲み上げるが、掘抜き井戸というのは地下水を通さない不透水層下まで深く掘り下げ、滞水層に達した穴は、水圧と水量の関係で自噴する原理を用いた方式の井戸である。この当時にしては非常に珍しく、後にこの井戸は真田井戸≠ニ呼ばれる。
 そればかりでない。昌幸の智略は井戸をただの井戸だけで終わらせない。万一、城が敵に包囲された用心に、外に通ずる穴を掘るのだ。それは太郎山の麓にある虚空蔵や、牛伏、矢島、花古屋、荒城といった砦に通じ、それらと自由に交通ができる秘密の抜け道である。
 真田昌幸という男の恐ろしさは、大局の掌握から細部に至るまで、抜け目のない洞察力で、更には状況をとりまく人の関係性や感情といった機微も含めて、想定し得るあらゆる事象を研究し尽くし、どこまでも綿密に練られたその計画性と実行力にこそある。後にその全てを継承した真田幸村は、かの徳川家康にして日ノ本一の兵≠ニまで言わしめる武将へと成長していく。
 そんな戦略的な機能を持たせたかと思えば、城の周りに桜を植えて、領民に対する配慮も忘れない。春になれば満開と花が咲きほこり、そこは庶民の憩いの場となる。

 御門の脇の御桜、黄金花が咲いたとなァ
 まわりまわり三つの廓を遅くまわりて、出場に迷うな。
 まわり来て、これのお庭を詠むれば、黄金小草が足にからまる。
 まわり来て、これのお庭を詠むれば、いつも絶えせぬ槍が五万本。
 科木かつげ、いつまでかつがに、いざやおろせ小ざさら。
 五万本の五万本の槍をかつがせおすなば、安房や上総はこれの御知行。
 追手の追手の四つの柱はしろがねで、中は黄金で町が輝く。

 普請事業はまるでお祭り騒ぎ。地固めの祝いだと言って、常田衆が笛や太鼓や鉦を打ち鳴らして獅子舞踊りを披露すれば、負けじと房山衆がしゃしゃり出て、

 御門の傍の御桜、黄金花が咲いたよな。
 玉のすだれを巻きあげし、参りささらをお目にかけましょ。
 参り来て、これのお庭を眺むれば、黄金小草が足にからまる。
 参り来て、これの御門を眺むれば、御門扉のせみやからかね。
 しいなげ(科木)かつげよ。
 いつまでかつがに、いざやおろせよ。
 参り来て、これの御厩眺むれば、いつも絶えせぬ駒が千疋。
 ながむれば、雨が降るげで雲が立つ、お暇申して戻れ小ざさら。

 と房山獅子を踊り出す。これは上田獅子踊の発祥で、これより以降四百年以上続く伝承芸能となっていく。



 太郎山でついに巨大な石が出た。
 その大きさ畳八畳──。
 「こいつを城に運べば褒美がもらえるぞ!」
 と村々の人夫たちは意気込むが、見つけたはいいがまったく動かず、ほとほと困り果ててしまった。
 その報告を受けた昌幸は歓喜の声を挙げ、
 「なんとしても城まで運び込み、石垣の柱石にせよ」
 と聞かない。
 数日経って「まだ動きませぬ」と家臣が告げると、昌幸は俄かにこう言った。
 「この小県で一番の美女を見つけ出せ」
 「一番の美女……? どうするおつもりで?」
 「その巨石の上に乗せて運ばせるのだ。女を見ながら運搬すれば人夫どもの志気も挙がり、力も発揮できるというものじゃ」
 「なるほど──」
 昌幸の智略は更に重なり、
 「運び入れた者には褒美をとらそう。指揮した人夫にその娘を嫁にやると触れを出せ。男どもは血眼になるに相違あるまい」
 と小さくほくそ笑む。
 こうして家臣たちは、小県で一番美しい娘を探すことになった。

 上田城の東、神科に、山口村という小さな村があった。
 そこの郷士に手塚という家があり、唐糸という名のそれはそれは美しい乙女があった。
 髪は烏の濡れ羽色、その楚々とした容姿は羞月閉花、いずれ菖蒲か杜若と、村の男たちを虜にする怪しいほどの美しさを持っていた。
 その弟に治助というまだ少年がおり、唐糸はたいそう可愛がった。
 「お前はきっとこの村周辺をまとめる優れた武士になる」
 と、治助を膝に乗せ、源満仲や義経の武勇伝を語って聞かせていたものだ。
 そんな唐糸に人一倍思いを寄せる男は、幼馴染みの名を太郎と言って、家が近所であったため、生まれてからの顔見知りであるが、村の小さな農家を手伝う作男の長男だったので身分の違いは歴然としていて、貧乏暮らしが染みついた身なりの上、幼い頃はいつも鼻を垂らしてそれを「うめえ」と言いながら舐めていたから、同じ年頃の仲間たちから「きたない、きたない」と忌み嫌われる存在だった。その気持ちは唐糸も同様だったが、太郎の方は彼女にいたく執心で、それが叶わぬ思いと知りつつも、その気を引こうと辺りに落ちている木材で、不器用な手つきで簪や櫛を作っては贈っていたが、いずれも唐糸にとっては汚いガラクタなので、見えない所で捨てていた。それでもそんなつたない贈り物の中でも、翌檜の枝で作られた簪は、見れば見るほど仏様の姿に見えてきて、そればかりはどうしても捨てられずに、お守りとして懐にしまい持つようになった。
 そんな太郎も今はがたいも優れ、土木工事の仕事に駆り出されては、自慢の怪力で周囲を驚かす働きをするような青年に成長していた。

 昌幸が築城を始める一年ほど前のある日のこと──。
 唐糸の家に一人の凛々しい若者がやって来た。
 松代の豪農の家に奉公する三郎太という名の気の良い男で、昨年採れた米を大旦那の親戚だった手塚家に届けるため、言いつけにより埴科の松代から小県の山口村まで荷車を引いて歩いて来たというわけだった。
 「せっかく松代からこんなところにまで来たのだから、今晩は泊まっていきなさい。さしてもてなしもできないが」
 と、その言葉に甘えることにした三郎太は、その晩出された夕餉の席で、目を見張るような輝きを放つ唐糸と出会ったのである。三郎太は一目で恋に落ちた。
 豪農の奉公人といっても、松代では少しは名の知れた屋号を持つ農家だったから、その身なりはキリリとし、その顔には前途洋々とした希望が宿っていた。無論そんな凛々しい男は山口村にいるはずもなく、唐糸もポッと頬を赤らめ俯いた。
 その晩はそれだけだったが、翌日になり、三郎太があてがわれた部屋で帰り仕度をしていると、襖が開いて唐糸が入って小さな包みを手渡した。
 「おむすびを作りました。道中お召し上がりください」
 「かたじけない」と受け取った手と手が触れて、二人は照れくさそうに互いの手を引っ込めた。はにかむ唐糸は、聞こうか聞くまいか迷った末に、聞かなかった時の後悔を思って、
 「松代は遠いのでしょ?」
 と、その言葉をやっと口にした。
 「重い荷も下ろしましたし、空の荷車を引いて帰るだけですから、日暮れ時には着きましょう」
 「次はいつ来られますか?」
 「さて? こればかりは私の大旦那様と唐糸さんのお父上様とのご相談ですので……」
 「もうお会いできないなんて言わないで下さい。もしそうなら、私、明日にでも松代へ参ります」
 唐糸の心に灯った恋の炎は、このときめらめらと燃え上がったのだった。三郎太は閉口しながら、照れた顔を真っ赤にして笑い出す。
 「ここからですと、北国街道を北に矢代から松代街道へ進んで七、八里、女の足で行くにはさすがに無理でございましょう」
 釣れない言葉に悲しげな表情を浮かべた唐糸は、幼少より野山を駆け巡って遊んだ体力と健脚には多少の自信があった。
 「山々の嶺を伝って行けば、松代はもっと近いはずでございます。三郎太さんの大旦那様は松代のどこにお屋敷を構えておいでです? きっと伺いましょう」
 三郎太は冗談に受け取めて、
 「海津のお城の近くですが……あまりご無理をなさらないで下さいね」
 それきり唐糸と別れて帰って行った。



 恋の情念とはいったいどこから湧いて出るものか?
 唐糸の三郎太への思いは日に日に募り、寝ても覚めても彼の凛々しい姿ばかりが脳裏に浮かぶ。そして、あの日別れた時から七つ目の夕陽を数えたとき、夕餉の米で突然おむすびを握りはじめた彼女は、矢も楯もたまらずついに家を飛び出した。
 「これ唐糸、どこへいく!」
 母の驚いた声に見送られ向かった先は太郎山。その頂き目指して駆け上がった彼女は、そのまま尾根を伝って大峯山へと向かい、次いで五里ヶ峯、鏡台山、妻女山と、ふた刻あまりでようやく松代にたどり着いたのだった。
 夜の帳が下りた松代の町は閑散としていたが、それまで山中を駆けて来た心細さに比べたらどうということもない。ときおり響く犬の声には驚くが、海津城近くの豪農の家といえば見つけるのに雑作もなく、たどりつけば蔵の中へ俵を運び終えたばかりの愛しい男の姿を見つけた。
 「三郎太さん!」
 声に振りむいた三郎太は、突然現れた唐糸の姿に驚き、信じられない表情を浮かべたまま近寄って、山中を走って飛んだのであろう白い頬に付いた黒い泥を、腰の手拭いで拭き取ってやった。
 「こんな夜更けに、いったいどうしたわけですか?」
 「言ったでしょ? 松代へ参りますと……」
 「それにしたって──」
 俄かに三郎太にも彼女と同じ恋心がときめき、いっそう美しく煌めいた唐糸の表情を見つめて、思わぬ恋愛の情の目覚めに戸惑った。
 「はい、これ──お土産……」
 と手渡したのは、唐糸が家を飛び出す際に拵えたおむすびで、受け取ったそれはまだ温かく、口に含めば米というより餅に近い御馳走だった。
 それからというもの、唐糸は毎晩のように山々の峰を越えて、三郎太の許へ通うようになった。そしていつでも「お土産に」と言って、米だか餅だか分からない温かなおむすびを渡すのである。
 すっかり相思の仲となり、恋に酔いしれ夜のわずかな時間を過ごす二人だったが、ある日三郎太は、人里に現われ男を騙す女狐の話を耳にした。
 「小県の方へ行ったとき聞いたのだが、最近、それはそれはものすごい別嬪に姿を変えた女狐が出るらしい。一目見た男はいちころさ。やがて所帯を持とうと言い出すわけだが、その娘を嫁にとった男は、山に入ったまま二度と再び生きて戻ることはないということだ」
 そんな根も葉もない噂を流したのは誰あろう太郎だった。彼は、毎晩のように家を飛び出し、松代の男の所へ通う唐糸の事を誰よりも心配し、また、三郎太という男に激しい嫉妬の炎を燃やしていたのだ。
 そんな企みを気のいい三郎太は知る由もなく、噂を聞いたその脳裏に、唐糸の美しい姿がよぎったのは必然だった。
 思えば、三郎太にとって唐糸の出現はあまりに唐突すぎる。
 「上田から松代までの遠い道のりを、暗い山中峰を越え、しかも毎晩のように、どうして女の足で来れようものか? それに会うたびに渡される餅米のおむすびは、いつも作ってまだ間もないように温かい。彼女は家を出る時つくるのだと言うが、それならば向かう道中にすっかり冷めてしまうのが当然だろう。いったいあの餅のおむすびは、どこから求めて来るのだろう──?」
 そう考えたら、ひょっとしたら唐糸は女狐ではないかと疑うようになった。
 三郎太は、唐糸にその仔細を尋ねたが、彼女は恥ずかしげにこう答えるのだった。
 「あなたに会いたいと思う私の一念を、怖ろしいと思うのも無理はありません。でも、毎晩あなたに差し上げるこのおむすびは、決して他人が拵えたものではありませんよ。私が家を出る前に、両手に白米を掴んだのを一生懸命握って来ますから、温かいのは私の身体の熱でございます。それに通って来る間にいつのまにか餅になっているのです」
 うまい言い訳もあったものだと思ったが、不審に感じ出したら三郎太の疑心は深まるばかり。第一、豪農の一奉公人にすぎないただ若いだけの自分に、これほど美しい郷士の娘が心を寄せる道理がない。その言葉は返って巧みな騙し文句と変じ、唐糸に対して抱いた不気味さは、彼女を女狐だと決めつけた。
 とはいえ、一方ではそうではないと思いたい自分もいて、ある夜、ついに三郎太は、山中通う彼女を待って、その正体を突き止めてやることにした。もし本当に女狐であったなら断崖絶壁の上から突き落としてしまおうと、太郎山から大峯へと通ずる難所、刀刃と呼ばれる場所に身を潜め、唐糸が来るのを待ち伏せた。
 そうとは知らない唐糸が、いつものように胸をときめかせて刀刃に通りかかった時である。うっそうとした木々の茂みから三郎太が飛び出した。
 「やい女狐め! その正体を顕わしやがれ!」
 突然の出来事に驚いた唐糸は、信じられない三郎太の科白に愕然と肩を落とした。
 「私が女狐とはいったいどういうことでしょう?」
 「隠しても無駄だ! お前は私を婿にとり、殺してしまおうと考えているのだろう?」
 「なんてこと……」
 「だいたいお前のような美しい女が、この世の中に一人といるはずもない。その化けの皮をはがしてやる!」
 三郎太は唐糸に飛びつき、狐の尻尾を切ってやろうと身ぐるみはがして探してみたが、そんな尻尾などどこにもなく、やがて全裸の唐糸はその場に泣き崩れた。
 「おまえ……本当に人間なのか……?」
 自分のしたことが怖ろしくなった三郎太は、唐糸を置き去りにして逃げ出した。
 千仭の谷底に、女の慟哭がいつまでも聞こえた。
 戦国時代の女の恋は、命賭けの戦である──。
 たった一度でも破れた女は、生涯涙に暮れて過ごすか、比丘尼になるより仕方ない。
 唐糸は剃髪して仏門に入った。




 奈良の時代に建てられた上田の国分寺はもともと天台の寺である。
 国土安穏、万民豊楽を願い、文化興隆の拠点にするため、国府の置かれた上田に天平十三年(七四一)、聖武天皇の詔によって、釈迦が説いた大乗経典『金光明経』や『法華経』を安置し、かつては僧寺とならんで尼寺があった、当時全国的に創建された大事業の一つである。
 東側の金光明四天王護国之寺とする僧寺跡は、一〇〇間(約一七八メートル)四方の敷地に、南大門、中門、金堂、講堂、回廊、塔、僧房などの建物があったと推定され、その西側には法華減罪之寺とする国分尼寺があり、八〇間(約一四八メートル)四方の敷地には、僧寺と同様、南大門、中門、金堂、講堂、回廊と、そのほか経蔵、鐘楼、尼房、北門などがあった。
 ところが関東の平将門が勢力をのばしてくると、承平八年(九三九)の天慶の乱(平将門の乱)に巻き込まれ、上田の地を舞台とした戦で信濃国分寺は焼失した。以来、土地の庶民の手によって一段上の平地に現在残る寺が建てられ、その伝統を細々と受け継いでいたようだが、本格的な再建を見るのは鎌倉時代に入って源頼朝の登場を待ってからである。
 その際本尊も、釈迦から薬師如来へと変遷し、毎月八日に金光明最勝王経の読経が行なわれたことから『八日堂』とも呼ばれるようになった。
 徳川による第二次上田合戦の直前、西軍に組した真田昌幸と、東軍に従軍した真田信幸と本多忠政が、会見を果たしたのもこの場所での出来事である。
 筆者がなぜ天台の尼寺の話題を取り上げるかといえば、日本において、いったいいつから尼寺ができ、女性はいつから僧侶になれたかという問題に言及したいからだ。
 尼寺に関して言えば、日本最初の尼と言われる善信尼が住んだ桜井寺が日本最初のそれとされているが、これは寺でなく住居と言った方がよい。実質寺≠ニ呼べるのは、聖徳太子や行基が創建したとされるものがその最初であり、文献上はっきりしているのは、奈良時代に入って聖武天皇が建立した国分尼寺の法華寺を総本山としたところから始まる。つまり上田の国分寺もそのひとつである。
 この法華寺という名が問題で、なぜ最初の尼寺が法華≠ネのかという点を強調しておきたい。
 この問題を解くには、釈迦の説いた八万法蔵というおびただしい経典にまで遡らなければならない。そのあまりの膨大さのため、衆生を幸福へと導くための経典が、返って著しい混乱を招き、何が真実で何が方便なのか、後世の人々には理解できず、猫も杓子も釈迦の教え≠セと言って尊んできたところに現代の無明がある。
 ところがそれを学術的にはっきり立て分けたのが天台大師である。彼は中国の天台宗の開祖であり、日本の天台宗の開祖伝教大師(最澄)に多大な影響を与えた。
 その教義の一つに、釈迦の経典で救える衆生の数を、大きな船と小さな船に例え、『小乗経典』と『大乗経典』とに立て分けたことが挙げられる。そして『大乗経典』の中でも『法華経』こそが最高の経典であると位置づけた。というのは、八万法蔵の経典の中で、即身成仏≠竍悪人成仏≠ェ説かれているのは法華経だけであり、特に女性に関して言えば女人成仏≠ェ初めて説き明かされた画期的な経だったからである。確かに法華経が説かれる以前の経文では、あの釈迦にして女性は仏になれない存在と決定している。
 この、女性を救う唯一の経文である法華経を裏付けとして尼寺が誕生し、聖徳太子の飛鳥時代には、中国から渡った天台宗が隆盛を極め、やがて法華寺の命名にも所以してくる。更にこれよりわずか後、中国に渡った伝教大師(最澄)が帰国し、日本の天台宗は全国に広がり定着するのだ。
 ところがこの法華経自体、現実的にはありえない内容が記されるとして、その難信、難解、難入さから真意がとらえにくく、鎌倉時代に至って南無妙法蓮華経≠フ題目が生まれて、初めて民衆への広がりを見せることになるが、飛鳥時代当時はまだまだ機根が整っておらず、戒壇における女性の授戒を禁じていたために、女性は尼になることさえ許されず、せっかくできた国分尼寺をはじめとした尼寺も、徐々に衰退していくことになる。やがて時代が下って日本独自の律宗や禅宗が成立してくると、もともと仏教とはあまり関係のない彼らも、法華経に説かれた女人成仏≠自派の戒壇に取り入れて、女性の授戒を許すようになり、尼は再び公認のものとなっていく。
 とにかく日本における宗教というのは、そんなくそみそ一緒のでたらめな本尊、でたらめな教義に基づいて発展してきたという実態がある。

 「みつけましてございます!」
 昌幸の老臣春原惣左衛門がくぐもり声を挙げてやってきた。彼は最初、上田のある小県あたりの豪士海野棟綱に仕えていたが、天文十年(一五四一)の海野平の戦いで武田信虎らに敗れた後は、昌幸の父幸隆の代から真田家に仕える旧臣であり、上田あたりには知人も多く、情報を吸い上げるのにさほどの時間を必要としなかった。
 「見つけたって、なにを?」
 昌幸は大工の棟梁らと上田城内の細かな設計に忙しい。
 「美女でございます! ほれ、小県一の美女を見つけよと申されたではありませんか」
 「おお、その話か。美女といってもいろいろあるが、いったいどれほどの美女か?」
 惣左衛門は武田信玄の埋蔵金を見つけたような剣幕で続けた。
 「そりゃもう小県どころではありません。信長公の妹君お市の方様も相当の美女と聞いてございますが、それもおよばぬ日ノ本一の美女にございます」
 「そうか! ならばすぐに連れて参れ」
 「それが……」
 と、惣左衛門は言葉を詰まらせた。
 「どうした、申せ」
 「山口村の唐糸という女性なのですが、今は国分寺の尼となり、糸尼と名乗って仏門に入ってございます」
 「還俗させよ」
 「そうなのですが──剃髪して髪がございません。てっかてかのつんつるてん……でございます」
 黒髪は女の命というほどに、惣左衛門が禿げた自分の頭をおどけて撫でて見せたものだから、昌幸もそれに合わせて頭を撫でた。
 「ばっかもん! そんなもんかつらでもなんでも被せて連れて来い!」
 「はっ!」と惣左衛門は立ち上がり、そのまま八日堂国分寺へと馬を走らせた。

 こうして昌幸の前に姿を現した唐糸は、すっかり色気の抜けた素肌におしろいを塗られ、頬に紅さし眉を引き、剃髪した頭に花魁のようなかつらを被せて金銀色とりどりの笄をさし、十二単のような艶やかな着物を着せられ、最後に口に真っ赤な紅を乗せた御姿で、まるで小野小町の再来かと見まごうほどの美しさ。さすがの昌幸も唖然と見とれて、しばらくは最初の言葉がみつからない。やっとみつけて名を問えば、
 「糸尼と申します。とつぜん連れて来られて、いきなりかような格好をさせられ、上田にお城を築くお方とはいえ、これはいったいどうした了見でございましょう?」
 糸尼は憤慨を露わに喰いついた。その怒った顔もまた一興。
 「無礼を許せ。しかしてのっぴきならない事情があって、その方の力を是が非にもお貸し願いたい」
 昌幸は何のてらいもなく頭を下げる。そう下手に出られては、糸尼も怒りを抑えるしかなくなって、新たな城主となる人の願いならばと、聞くだけ聞いてやろうと耳を傾けた。
 昌幸は上田城の石垣に柱石となる巨大な石が欲しいこと、そして太郎山でその柱石に相応しい巨石が見つかったこと、更にその石が重くてどうにも動かせないことを伝えた後、
 「そなたのような美しい女に石の上に乗ってもらい、人夫たちの力を最大限に引き出したいのだ」
 と語った。
 「そのような事で石が動くのでしょうか?」
 「動く!」
 と、昌幸は声を張り上げた。人には未知の力が秘められており、普段は本来持っている力の数割しか出ていないというのが彼の確信だった。その火事場のくそ力を引き出すきっかけとなるのが、日常とかけ離れた状況を作り出すことで、汗にまみれた男くさい現場に、糸尼みたいな仏のような美女が現れることで非日常を生み出し、その姿を見た男たちは、自らも知らぬ本来の力を引き出すことができるのだと昌幸は言う。
 「怖れながら──、私は御仏に仕える身。この身は女のようであるけれど女でありません。しかもそのような男の煩悩を利用するような真似はできません」
 糸尼は丁重に断った。
 「何を言う。お前は女じゃ。どこからどう見ても女でないか。その女の身を離れて仏に仕えるなどまやかしじゃ。人はこの身が全てで、この身から離れたとき生きる意味を失うとわしゃ思う。わしゃ覚悟をもってこの上田に来た。そしてこの上田城はわしの生涯を懸けた難攻不落の城なのじゃ。例え何万何十万という敵が攻めて来ても、わしゃこの小県の民を守ってみせるぞ。ここから離れはせぬぞ!」
 昌幸の覚悟を見た糸尼は、自分がいかに甘いかを思い知らされた。仏が求めたのは一切衆生の幸福である。その御仏に仕える自分は、他人どころかたった一人の自分自身をも救えない。それに比べてこれから城主になろうとするこの男は、少なくとも小県の民を守ろうとしているのだ。
 「どうじゃ、このわしの言葉を信じて協力してもらえんかの?」
 「石の上に乗っているだけでよいのですね?」
 「そうじゃ。たまにニコリと笑ってくれればなおよいが」
 「わかりました──」
 こうして糸尼は、早速太郎山から出た巨石の上に、お雛様のように乗せられることになったのだった。
 糸尼が去ったあと、春原惣左衛門が心配そうに耳打ちをした。
 「城に運び入れた後、指揮した者の嫁になることをお話ししませんでしたが、よろしいのですか?」
 昌幸の答えは簡単だった。
 「今≠ェ大事だ。そのとき考えよう」
 惣左衛門は「そういうものか」と頷いた。



 小県の村々の男たちがざわめいた──。
 石の上に乗る姫のお披露目式が行われるということで、太郎山の巨石の周りに村の男たちの代表が集まっている。滋野村、大石村、縣村、田中村、海野町、上川村、国分町、赤坂町、神科村、上野村、山口村、塩尻村、高梨村、小牧村、青木村、沓掛村、盥田村、手塚村、前山村、別所村、下之郷、四阿村……これら村の名は定かでないが、集まった男たちは皆働き盛りの土木人夫で、将来自分の嫁になるかも知れない美しい姫の登場を待ち受けた。
 やがて昌幸が巨石の上に乗って声をはりあげた。
 「皆の者よく聞け! 小県一の、否、日ノ本一の美女を見つけて参った。梃子でも何でもどんな手を使ってもよいから、今日より村ごと相談して一致団結し、見事この石を城へ運び込んでみよ! この安房守昌幸には卑怯という言葉はない、どんな手でも使え。村対抗の運搬合戦じゃい! 決め事はただ一つ、毎日各村かわりばんこに同じ時間を与えるから、その間に少しでも石が動かなければ次の村に交代じゃ。順番を待つ村の者は、引き続き石垣の石運びを続けよ。その大きさや数も審査のうちだから、心してかかれ!」
 「おうっ!」
 と鬨の声が挙がった。
 「それでは姫を紹介しよう。糸姫じゃ!」
 昌幸の家臣たちに導かれ、巨石の上に姿を現した糸姫と紹介された女は、東天からの陽光に照らされて、観音様か吉祥天かとも思われるほどの神々しい光を放射しているように見えた。男たちの感嘆のどよめきが大地から湧き起こる。
 そのとき、山口村の男衆の中から「唐糸じゃないか?」という声がした。見れば、それは唐糸の幼馴染みの太郎で、尼になったはずの彼女の突然の登場に、かねてより抱いていた恋心が、そして自分の妻にできる絶好の機会到来に、夫婦となるのが使命にも似た確信となって紅蓮の炎と燃え上がった。
 その日、各村に戻った男たちは、早速談合を開いて巨石を動かす善後策を練る。太郎のいる山口村も例外でなく、
 「ぜひ俺に指揮を執らせてくれ!」
 と太郎が願い出たが、彼の彼女への思いを昔から知っている者たちは、自分のチャンスが奪われることを怖れて、
 「唐糸はもともとわが村の娘だ。この村におさまるのが道理であろう。他の村に嫁に取られるなどこの村の男にとっての屈辱だ。ここは独身の男たち全員に平等の機会を与えるため、唐糸の弟である治助に指揮を執ってもらい、彼女を郷士手塚家に取り戻そうではないか」
 という山口村人夫衆の長である男の提案に従うことになった。

 さて、翌日から各村々が順番に、巨石を動かす作業に取り掛かった。改めて見ると、それは巨石というより山の一部をなす岩である。その岩の上部に二枚の畳を敷き、更に直射日光を避ける日傘が立てられると、やがて艶やかな衣装に身を包んだ糸姫が、名匠が作った人形のように座った。
 村々の男たちはその美しさに生唾を飲み、女を己の妻にしようと、順番どおりに、村の男たちは何十人もの数で巨石を取り囲んで一斉に持ち上げようとしたり、あるいは別の村は大きな丸太を何本も持って来て梃子の原理で動かそうとしてみたり、中には呪術師を呼んで来て念力で動かそうとする村もあったが、いずれも巨石はピクリとも動かない。そのうち山口村の番がやって来た。
 指揮する治助は石の上に飛び乗り、
 「姉さん。お元気そうで……」
 と久しぶりの再会を喜んだ。
 「治助か? しばらく見ないうちに凛々しゅうなったなあ」
 「村に帰って来なよ。父も母も、みんな心待ちにしているよ」
 「すまぬが治助、唐糸はもう死んだのじゃ。それにこの石は動かぬ」
 唐糸の心には、俗世に対する僅かばかりの未練が残っていたのかも知れない。その言葉の裏には、心のどこかで、石が動くのを期待していることを教えていた。
 「そんなこと、やってみなきゃ分からないよ。僕がきっと動かしてみせる」
 唐糸は、立派に成長した治助に手柄を立てさせてやりたいと思った。
 「村の衆! 満腔に力を込めよ! せーのっ!」
 治助の掛け声にあわせて、石の周りにたむろった五、六十人の男たちの声が一斉に挙がった。上半身裸の太郎の全身からも、筋肉の収縮に絞り出される如くに汗が吹き出した。
 「いま一度! せーのぉ!」
 そのとき、巨大な岩がほんの僅かばかり動いた気がした。
 「いけるぞ! せーのぉぉ!」
 ……しかしそれきり、石は微動だにすることなく、山口村の持ち時間も終わってしまった。
 次に順番が回ってきたのは十日ほど後のことである。
 前回同様、治助が指揮を執って動かそうとしたが、やはり石は大地という皮膚にできた硬いできもので、例えば巨大な釈迦の体に、いくらこすったり引っ張ったりしても、その神通力を使ってさえ取れないイボの如くに、石は男たちの熱気をあざ笑うかのように、涼しげな風に吹かれているのだった。
 「こりゃダメだ……。あきらめるしかない……」
 誰もがそう思った時、
 「治助、替われ」
 岩の上にひらりと飛び乗り、采配を奪い取ったのは太郎だった。太郎は唐糸に目をやると、
 「わしじゃ、太郎じゃ、覚えておろう。尼などやめて村に帰って来い。そしてわしの妻になれ」
 唐糸はチラリと彼に目を移しただけだったが、大きく息を吸い込んだ太郎は、天にまで響く雄叫びを挙げた。
 「せーぃのぉぉぉぉ!」
 すると、
 …………ゴゴゴゴゴッ!
 あろうことか、巨大な岩が音を立てたと思うと、大地からうなり声をとどろかせ、一寸、二寸、三寸と、少しずつ、ほんの少しずつずっていき、ついに大爆発を起こしたような音を挙げて、ズドン! と転げて、うまい具合に修羅≠フ上に乗ったのだった。修羅≠ニいうのは、木々を組んで造ったソリのようなものである。
 そのときの不気味な轟音は、遥か一里近く離れた上田城にまで聞こえ、昌幸は、「ついに動いたか?」と立ち上がった。
 勢いに振り落とされそうになった唐糸の体を抱いて、太郎は地面に飛び降りた。
 暫くは呆然と見守っていた観衆たちから、やがて拍手喝采のエールが湧いた。
 修羅の上にさえ乗ってしまえば、あとは岩の周りに綱を巻き、ありったけの男たちの力で引っ張れば、下に敷いた丸太が車輪代わりとなって、巨石が城に運ばれるのも、もはや時間の問題となった。
 再び石の上に乗せられた糸姫の隣で、総指揮官となった太郎は、子供の頃より愛した女を嫁にできる悦びに満ち、天にも舞い上がる気持ちで采配を振っている。
 太郎は小県の英雄になった。



 本丸の東虎口櫓門の右手側に、柱石を据えて作られた石垣の完成を祝って、昌幸は盛大な宴を催した。
 その席に呼ばれた太郎は、昌幸の隣に座る唐糸の姿を、夢見心地の心境で惚れ惚れと見とれていた。今これより城主昌幸の口から、糸姫の夫となる男の紹介がされると思うと、鼓動は高鳴り、あふれる歓びが脳裏を支配して、その興奮は、あれほど恋焦がれて夢にまで見た唐糸との甘い生活さえ、深い霧に包んで全く想像できない。
 やがて昌幸から労いの詞が発せられ、柱石を『真田石』と命名する旨が発表されると、同席の者達に酒が振る舞われた。そして昌幸は「太郎よ」と呼びかけ、
 「こたびの真田石運搬は、お前の手柄である」
 と最大に讃えた。惜しみない拍手に包まれて、宴の花となった太郎だが、いつまで経っても唐糸と夫婦になる話が公表されない。やがて、しびれを切らせて、
 「ちとお尋ねしたき儀がござる!」
 酔いに任せて立ちあがった。
 「先ほどから殿のお隣には眩いばかりの姫が座ってございますが、彼女はもとを正せば山口村の唐糸と申す郷士の娘で、私とは幼き頃よりの馴染みでございます。確か殿は申されました。石を運んだ者にこの姫を下さると。お触れも出ました。この女は、わたくし太郎のものだ≠ニ、いったいいつまでもったいぶって言わずにいるおつもりですか」
 「おお、そのことか」
 昌幸は思い出したように言った。
 「実は糸姫が拒んでおるのじゃ」
 太郎はカチンと頭に血をのぼらせた。
 「城主ともあろうお方がお約束を違えるのでございますか!」
 「口を慎め!」と、家臣たちが立ちあがり、太郎は唐糸の顔をじっと睨んだ。
 「唐糸……、俺の嫁になるのがイヤか?」
 唐糸は何も言わずに俯いた。
 「そんなに俺が嫌いか?」
 「そうではありません……」
 彼女の瞳はどこか虚ろで、太郎の怒りをことごとく吸い込んでしまうような悲しい夜空の天の川の色をしていた。
 「ではなんじゃ? 俺が納得するように答えてみろ」
 唐糸は暫く考えてこう言った。
 「太郎さんも知っているでしょうが、私は仏門に入りました。今は御仏に仕える身です。あなたと夫婦になることはできません」
 「なれば何故こたびの話を受けたのだ?」
 「お殿様の、小県の民を守ろうとするお心に触れたからです。私もそのお役に立ちたいと思いました」
 「そのお役目は、石を運んだ者の妻になることだぞ」
 唐糸は黙って昌幸の横顔を見た。
 「まあそう糸姫を責めるでない。嫁にするという話はわしが最初から伏せていたのじゃ。断られると思ったからなあ」
 と昌幸は「駆け引きだ」と言わんばかりに笑った。
 「謀ったな!」
 今にも昌幸に飛びつきそうな太郎を家臣たちが取り押さえた。昌幸は糸姫にむかって静かに言った。
 「のう糸姫よ、太郎は短気だが秘めた力のある悪い男でない。還俗して嫁になったらどうか?」
 「もし今のお言葉が城主様のものならば、私にはもはやこの土地で生きる住処はありません。御仏の許へ参ります──」
 糸姫は被っていた結髪のかつらをおもむろにはずした。すると、それまで華やかだった宴の席が、またたくまに法事の席へと一転してしまった。
 唐糸はゆっくり立ち上がり部屋を出た。
 「どこへゆくのだ?」
 昌幸は、太郎を家臣たちの手から解き放って後を追わせた。

 上田城内の館を出た唐糸は、夜風に吹かれながら川の流れの音のする方へと歩いて行った。その後ろを同じ速度で太郎が歩く。城の南側は絶壁になっており、下を流れる千曲川の大きな支流は、視界の利かない夜は深さもわからぬ闇の谷底──。
 崖の際に立った唐糸は振り向いて、懐から一本の汚らしい簪を取り出し太郎にかざして見せた。雲間から十五夜の月が顔を出し、降り注ぐ月明かりが闇の中に二人の姿を浮かびあがらせた。
 「これ、覚えてる?」
 それは、いつだったか太郎が唐糸のためにと翌檜の木で拵えた簪である。
 「私、あなたからいろいろな物をもらったけれど、全部捨てていたのよ。でもこれだけは捨てれなかった──、この形がなんだか仏様に見えたから……お守りにしていたの。でももう必要なくなったので川に投げてしまおうと思うのですが、もし、あなたが欲しいと言うのならお返しします」
 太郎は唐糸の簪を手に取って、いつ作った物だか思い出そうとしたが、幼い頃の遠い記憶がよみがえることはなかった。
 「いらないよ──」
 「そっ?」
 唐糸は再び簪を手に取って、そのまま川に落とした。太郎には、それが彼女との永遠の別れになってしまったように思えて、「いらない」と言った自分に早くも後悔した。
 そして唐糸は微笑んだ。
 その神々しいまでの美しい表情は、坊主頭に淡く反射する月の光のせいだったかも知れない。もしこの世に仏が存在するならば、ひょっとしたらこんな顔をしているのかもしれないと太郎は思った。
 唐糸は続けた。
 「数年前──一人の殿方をお慕いし、身も心も捧げようと決めました。ところがその方は、私のことを女狐と言いました。そのとき私は思ったのです。ああ、人の心とはなんとうつろいやすく無常なものかと。思えばあの時も私の眼前にはここと同じ断崖絶壁がありました。私はこの身をその深い淵に沈めてしまおうと思いましたが、足が震えてできませんでした。私は俗世間と離れ、仏門に入り、御仏の救いを求めました。ところがどうでしょう? 気付いてみれば今もまたこうして、あの時と同じ深い淵が、私の足元にあるではありませんか……」
 「俺はお前を女狐などとは決して言わないよ」
 唐糸は太郎の目を見つめ返して優しく笑むと、何も言わずに淵の中へと身を投げた。
 太郎は膝を落として泣き崩れた。

 翌日、唐糸の死体が千曲川の下流の方でみつかった。
 その報を聞いた昌幸は、彼女が身を投げたという城の南側の崖の上に立って思った。
 「なにも仏の許へゆくと言って命を捨てることなどないのだ……。仏など、所詮わが胸中におわすのに……」
 死ぬことさえ決め込まなければ、嫁がいやなら仮にでも昌幸の側室となって太郎を諦めさせるとか、それがいやなら太郎に士分を与えて諦めさせるとか、別の嫁を見つけるとか、どこか遠くの尼寺を紹介するとか、生きる手段など考えれば一〇〇通りだってあったのだ。
 昌幸は、その一人の尼の死を悼んで、この淵を尼ヶ淵≠ニ呼ぶようになったということである。



 その後、上田城は、いくつかの戦禍を経た後、関ヶ原の戦いに敗れた西軍についた昌幸は次男真田幸村と共に紀伊国九度山に流されると、徳川軍に破却され堀も埋められた。そして江戸時代に入り仙石氏の居城となって再建され、更に松平氏の手に渡って幕末を迎える。
 元和八年(一六二二)九月、松代へ転封となった昌幸の長男真田信幸は、松代へ移る際、この真田石だけは父の形見として持ち去ろうとしたが、幾万人の人夫を懸けても、全く根でも生えたように少しも動くことはなかったと伝わる。
 結局信幸は諦めて、今更のように父昌幸の智略の深かったことに驚いたということだ。

 二〇一九年二月二十六日
(2019・02・18 上田城下ホテル『祥園』女将・くノ一美奈子氏より拾集)

 口伝による伝承が途絶えるのを怖れ、以下に拾集した話を記す。
 真田石は上田城が築城された時からある巨大な石である。真田昌幸は領民に慕われており、石垣の石は太郎山から切り出したものを皆で引いて運んだ。その際、大きな石を運ぶため町ごとに競争させた。そして石の上に町一番の美女を乗せて、一番大きな石を運んだ者にはその美女を嫁にとらすと触れた。そのとき運ばれたのが真田石である。
 ところが石に乗せられた美女というのは尼僧だった。
 「私は仏に仕える身、男に嫁ぐことはできません」
 思い悩んだ尼は、当時上田城の脇に流れていた千曲川へ身を投げて死んでしまった。
 その場所が「尼ヶ淵」と呼ばれるようになったということである。
 その後、真田信幸が松代へ移封するとき、父の形見としてその石を運ぼうとしたが、石はまったく動かなかった。

 また別の話として──、
 上田城を設計した大工は設計図が徳川の手に渡るのを怖れていた。いよいよ自分の命に危険が迫っていることを知った大工は、設計図を生島足島神社(武田神社?)の池に破いて捨ててしまった。なので上田城の設計図はみな池の鯉が食べてしまったということである。
 
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二十六夜待ちの月光
城郭拾集物語E 長野松本城
松本城
太鼓門
歴代城主



 松本城の魅力は、なんといってもその天守の姿の美しさだろう。
 このたび筆者が訪れた際も、平日にも関わらず、外国人──こと西洋人の多さには目を見張る。およそ美に対する感性というものは、洋の東西の垣根を超えるものか。
 城の周囲を巡って歩けば、角度によって異なる景色の中に、趣を変えて空にそびえる天守の荘厳さ。訪れたのは梅が咲き始めた初春の候であるが、夏には夏の、秋には秋の、そして冬には冬の、それぞれの表情を思い浮かべるだけで胸がわくわくする。
 筆者は長野県に住んでいることから、この城には過去に何度か訪れたことがあるが、以前は、単に国宝≠ニいう冠に釣られて来ただけで、本音を言えば、その魅力を感じるようになったのはごく最近のことである。というのは、歴史が古いことも北アルプスに抱かれた名勝であることも理解できたが、あまりに有名であるに関わらず、その実、歴史の表舞台に立ったことがなく、城主も入れ替わり立ち替わり交代していることなど、その歴史的存在の価値が、いまひとつ解せずにのめり込むことができなかったのだ。
 現存する天守閣は、文禄二年(一五九三)に石川数正と石川康長父子が建設に着手し、完成したのはその翌年とされており、総堀、三の丸、外堀、二の丸、内堀の、その中心にある本丸に、天守閣は大天守と乾小天守を渡櫓で連結し、辰巳附櫓を複合した平城で、月見櫓は江戸時代に入ってからの建築であるが、本来は秀吉派の大名が、江戸の家康を監視するための城として、甲府城、高島城、上田城、小諸城、沼田城と共に配置された江戸包囲網の一つとも言われている。
 松本城≠ニ名付けられたのは天守建設より十数年さかのぼる城主が小笠原貞慶の時だった。そもそも城の起こりを探れば、これより更に一世紀近く遡り、永正元年(一五〇四)に小笠原氏の支族であった島立右近貞永が、この地に深志城を築いたのが最初と伝えられる。
 その後、戦国時代に入り、武田信玄が深志城を落として北信濃支配の拠点としてから、織田信長が勢力を強めると、木曾義昌が支配したり、信長が没するとその混乱に乗じて小笠原貞慶が城主となったり、更に豊臣秀吉の世になれば、秀吉は小笠原秀政を下総国へ移して石川数正を八万石の城主として松本に封じた。
 ここまでの城主の移り変わりを知っただけでも、島立貞永(小笠原氏系)から、武田信玄、木曾義昌、小笠原氏(貞慶・秀政)、石川数正・康長親子と、めまぐるしいほどの交代を繰り返している。
 城主となった石川数正・康長親子は、文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵(文禄の役)で九州へ出陣するが、数正が陣中で没した後は、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の合戦で東軍に属した石川康長は、上田城を攻めて大敗を喫する。そして慶長十八年(一六一三)、石川康長は大久保長安事件に連座した疑いがかけられ改易させられてしまうと、城主は再び小笠原氏の手に戻るが、元和元年(一六一五)大阪夏の陣で小笠原秀政、忠脩父子が戦死してしまうと、一旦は小笠原秀政の次男忠真が家督を継ぐものの、間もなく元和三年(一六一七)、忠真は明石へ移封され、代って戸田松平康長が上野国高崎より入封する。
 なるほど綴っていても混乱するのだから、予備知識もなく松本城へ行ったなら、家に帰ってから整理しようと諦めて、ひとまずはお城の情緒に浸るのを優先してしまうに違いない。しかし今回は、この戸田康長にまつわる物語だから、ここまでの流れは忘れてしまって一向にかまわない──。
 松本に入封した当時、戸田松平康長は五十五歳。徳川家康のお膝元三河国は渥美半島一帯を支配した、十五代続く戸田氏の出である。


 
 戸田康長は幼名を虎千代と言い、戸田家十五代当主重貞の弟、忠重の長男として、永禄五年(一五六二)にこの世に生を受けた。二歳のとき、徳川家康が三河平定をする一連の戦いのひとつ吉田城の戦いで、当主重貞が戦死し、当主には子がなかったため、戸田家は継承者を失う形になっていた。
 虎千代が六歳になったときのことである。
 「どうも困った……」
 徳川家康が岡崎城に大勢の家臣を集めて言うには、
 「わしには五つになる妹があるが、顔に大きな痣があり、見るに堪えない醜さで気の毒でならぬ。これでは嫁のもらい手もおらぬと、行く末が心配でならぬのじゃ……」
 五歳の家康の妹というのは、彼の実母於大の方が産んだ異父の女子のことで、名を松姫と言った。於大の方は、最初松平広忠に嫁いだが、天文十一年(一五四二)に岡崎城で家康を出産した後、時の政情の犠牲となって離婚させられ、久松俊勝と再婚して三男三女を儲けたが、松姫はそのうちの一人で、家康の養妹というわけである。
 「これ松姫や、わざわざ皆が集まってくれているのだから、恥ずかしがらずに姿を見せよ」
 家康は松姫を家臣たちに紹介しようと名を呼ぶが、
 「ヤじゃ!」
 広間の襖の向こうで無邪気な幼子の声がするだけで、姫は一向に姿を見せない。
 「痣を気にして人前に出るのが嫌なのだな……」
 家康はそう独りごちると立ちあがり、襖を開けて乳母に抱かれる松姫の小さな身体を軽々と持ち上げて、家臣たちの前に居直らせた。ところがわんと泣き叫んだ松姫は、着物の袖で顔を覆い隠したまま、涙をこぼして顔を見せようとはしなかった。
 「困った姫じゃ。こんな妹だが、誰か嫁にもらってくれる者はおらぬか? もし男子を授かった暁には、十万石を下賜しようじゃないか」
 ところが集まった家臣たちはみな壮年で、若くても二十歳を過ぎた者が数名いるばかり。さすがに主君の頼みでも、顔の痣はどうあれ僅か五歳の童女を突然嫁にどうかと聞かれても、子を産める年齢に達するまでの歳月を考えれば、例え十万石という餌を吊るされても、俄かには承諾する者はなかった。
 家康は「さもあろうなあ」という顔をして、広間をくまなく見渡した。すると、後の方に大人に交じって小さな子供がいることに気が付いた。父に言われるまま家康のもとに参じた虎千代であった。
 虎千代は、周囲の大人たちの大きな体で視界を遮られ、正面の娘を一目見ようとちょこんと頭を上げた。その些細な様子を見逃すはずがない家康は、その子どもが、顔を伏せる松姫の姿をとらえてにこっと笑んだのを見た。そして、
 「そこの小僧、名を申せ」
 と問いかけた。
 幼い割に、主従の関係をきちんと理解し、その振る舞いをすっかり身に付けている虎千代は、
 「恐れながら──戸田重貞の名代として馳せ参じました戸田虎千代と申します」
 まだ六歳の、その立派な受け答えに、周囲の家臣たちは感嘆の声をもらした。
 戸田≠ニ聞いて家康は、吉田城の戦いで命を落とした家臣の血筋であることはすぐ知った。本来ならば招集された際は亡き重貞の弟である忠重が参ずるべきところ、まだ年端もいかない童を使わせるとは、戸田家はこの小僧を主君に目通りさせ、戸田家の後継にさせたい意図を示していることを察した。
 「虎千代、いま松姫を見て笑ったのはなぜか?」
 「みめよいおなごと思ったからにございます」
 「顔も見せない姫を、何故みめよいと思ったか?」
 不思議に思った家康はそう聞いた。すると虎千代も不思議そうな顔をして、
 「殿の妹君におわせられる姫でございます。殿は何ゆえ醜いと申すのでしょう?」
 まだ小童のくせに、その小気味よい返答に家康は声を挙げて笑い出した。
 「ならばそのほう、この松姫を嫁にもらってくれるか?」
 「仰せのままに──」
 虎千代は、まるでそうするのが当たり前のように答えたので、それまで涙に伏せっていた松姫は、思わず泣き止みきょとんとした顔を挙げた。その小さな顔の、右目から頬にかけてある大きな痣は、家康の言うとおり女性にとっては致命的な欠陥で、その苦悩を背負って生きなければならないまだ幼い姫には、あまりに重い宿命に違いない。
 ところが虎千代は、そんなことは歯牙にもかけない様子で、
 「やはりみめよいお姫様でございます。この虎千代は、天下の果報者にございます」
 と言った。心からそう思ったのか、あるいは主君の望みに無条件に応えることが武士の道だという教育でも受けていたのか、はたまた結婚の意味が分かっていないのか、いずれにせよ家康は、松姫の顔の大きな痣と虎千代の顔を交互に見つめて再び笑った。
 「近こう寄って松姫の隣に座れ」
 「はっ!」と虎千代は立ちあがり、はばかりながら前に進み出て、言われる通りに松姫の隣にちょこんと座る。家康は喜んで、
 「皆も聞いたであろう。今日よりこの二人は許嫁じゃ。虎千代が元服したら、早々に松姫を嫁がせようと思うが、戸田家の当主は先の吉田城の戦いで戦死して不在じゃ。そこでこの虎千代に家督を継がせようと思うがどうか」
 こうして戸田家の存続が認められ、虎千代と松姫は夫婦になることが決まった。



 戸田家の居城は三河国は渥美郡にある二連木城である。
 もとより戸田宗家の祖である戸田宗光が築いた城であるが、今川氏と他の勢力争いの間で取ったり取られたりを繰り返してきた。
 永禄三年(一五六〇)、今川義元が織田信長に討たれると、今川の人質にとられていた家康は岡崎城で独立して三河平定に乗り出した。そのころ二連木の城主だったのが虎千代の叔父である戸田重貞だが、彼は吉田城に母親を人質に取られていたこともあり今川方に属していた。徳川の家臣になったのは、永禄七年(一五六四)、家康が吉田城を攻め始めた際、城内にいた重貞が相手を油断させた隙に母親を長持に隠して救い出し、城に火を放った功績を挙げた時からで、その後重貞は戦火の犠牲となるが、二連木城はそのまま虎千代が継いだというわけである。
 虎千代が十二歳になったとき、
 「そろそろ元服してはどうか?」
 と、家康からお声がかかった。元服とはすなわち松姫との結婚を意味する。
 「元服の儀はわしが直々見届ける故、浜松に来い。ついでに松姫との婚儀を執り行う」
 このとき家康は浜松城にある。虎千代は二連木城に姫を迎える準備を進めさせると、自分は家臣を引き連れ浜松へと向かう。時に天正二年(一五七四)のことである。
 そうして虎千代と再会した松姫は、このとき十歳の年になっていて、あれほど大きく気になった痣も、目を凝らしても分からないほど小さくなっており、これが五歳の時に痣を気にして泣いていた子とは、まるで別人と見まごう可愛いらしい女の子に成長していた。虎千代は「これがわが妻になる女子か」と、瞠目して見とれたのも無理はなかった。
 家康が言った。
 「松姫と夫婦になるからには松平≠名乗ることを許す。加えて元服の祝いに、家康≠フ康≠フ字を授けよう。今日よりお前は松平康重≠カゃ!」
 虎千代は恐縮して平伏したが、戸田≠松平≠ニ改めるからには、自分が戸田松平家≠フ始祖となるわけだ。そう考えると、前当主の重貞と父忠重の重≠フ字を系字とするよりも、康≠ノは別の新たな字を添えたいと思った。
 「怖れながら──名は康重でなく康長≠名乗りとうございます」
 家康は、彼がまだ六歳だったあの時と同じ不思議そうな顔をつくった。
 「その心は?」
 「家康様のもとで末長くお仕えする所存にございます」
 康長の決意を小気味よく思った家康は、松姫に「どうか?」と聞いた。すると松姫は、少し照れながらこう答えた。
 「虎千代様は、顔の痣を気にして卑下する幼いわたくしをみめよい≠ニ言って下さいました。あの時わたくしは思ったのです。ああ、この方は、けっして人を見た目だけでは判断しない真の目を持つお方なのだ≠ニ。わたくしは虎千代様のお嫁さんにしていただきたいと思いました。顔は女子の命でございます──以来私は顔の痣を消そうと、お月様にお願いし、鳩麦が良いと聞けば探して塗り、菊の花が良いと聞けば育てて塗り、蜂蜜が良いと聞けば蜜蜂を飼って痣に塗りました。そのおかげか、今ではこんなに痣が目立たなくなりました。虎千代様が松平であろうとなかろうと、康重様だろうと康長様だろうと、わたくしには問題ではないのです」
 祝言の席で、家康は似合いのカップルの誕生に寿いだ。松姫は夫となった男の将来を思って、二人が出会ったときに言った家康の言葉に念を押した。
 「兄上様は、よもやお忘れではございませんか?」
 「はて、なんじゃったかな?」
 「もし男子を授かったら、虎千代様に十万石を下さるというお約束です」
 「おお、よく覚えておったな。無論、約束は守ろう」
 こうして松姫は、戸田松平康長の妻として二連木城に迎えられた。



 二人が初めての正月を迎え、その月の二十六日目を数えた日、
 「今日は三石三斗三升三合三勺のお米を炊かなければいけませんね」
 と松姫が言った。康長が首を傾げて「なぜか?」と尋ねると、
 「今晩は二十六夜ではありませんか?」
 と、松姫はさも不思議そうな顔をして答える。
 これは月待信仰の一つで、松姫の育った家では、毎年正月二十六日は三石三斗三升三合三勺の米を炊き、夜中の丑四つ時(午前三時ころ)に昇る二十六夜の細い上弦の月を待ち、炊いた米や餅を供えて無病息災、福徳円満を祈るのだそうだ。これを「二十六夜待ち」と言って、本来なら、海の水平線から顔を出した二十六夜の月の姿は、まるで金色に輝く椀の舟のようで、ほんの一瞬だけ、その舟の上に観音菩薩と勢至菩薩を脇侍に従えた如来の姿が見えるのだと松姫は教えた。、康長にとっては知らなかったことで、
 「それを拝むと幸運を導くのです。わたくしは痣を消したくて毎年お祈りいたしました」
 と、戸田松平家では以来松姫によって毎年行う行事となった。
 そんな健気な祈りの甲斐あってか、松姫の顔の痣は年を重ねるごとにすっかり消えて、やがて仲睦まじい二人は第一子を授かった。それは玉のような男の子、名を虎松≠ニ命名した康長十八歳、松姫十七歳の、天正八年(一五八〇)のことである。
 「さっそく兄上様に報告してお約束を果たしていただきましょう」
 と松姫は言ったが、
 「人には身の程に合った領分というものがある。私なぞまだまだ十万石など恐れ多いことだ。それに何一つ手柄を立てておらぬではないか。いきなり十万石など賜れば、やっかみも多いし嫉妬も買おう。家康様とてそれくらいのことはお考えになられているに相違あるまい。慌てずとも、年相応に増やしていただこうではないか」
 この頃は一万石はおろか、米数百石たらずのわずかな知行で、
 「まあ、なんてお人の好いこと……」
 松姫は夫の無欲なのに呆れたが、そんなところを愛する自分もいたのである。
 その年が明けて間もなく、家康から康長に出陣命令が下された。「遠江国の高天神城に兵を出せ」と言うのだ。これが彼にとっての初陣となった。
 武運を祈りながらも心配を隠せない松姫は、いざというときのために錦の巾着袋に三合三勺の米を入れて康長に手渡した。
 「これは?」
 「お米です。もし万が一、敵に追われ食べるものがなくなった時、これで命をつないでください──」
 康長は妻の心が嬉しくも、この袋を開ける時は、自分の命が尽きる時だと覚悟して、懐にしまって二連木城を出て行った。
 当時高天神城は武田勝頼の手中にあった。
 ところが城の争奪戦をめぐって前年十月、家康は五千の軍勢で城を囲んで兵糧攻めを行った。城を守っていた武田軍の将は今川義元の旧臣岡部元信で、武田勝頼の援軍を待ち望んで堪えていたが、ついに勝頼出陣の噂が流れると、これに応じて織田信長の子信忠が尾張国の清洲城に入ったのだった。
 信長は、勝頼が救援に来ないのを見越して、家康に「高天神城の降伏を許すな」と命じた。
 結局勝頼の援軍は来ず、家康に包囲された高天神城は餓死者が続出し、三月の末、ついに城から討って出た武田軍は、待ち受けていた徳川軍に惨敗する。
 この戦いで初陣の康長もいくつかの手柄を挙げ、以降、武田勝頼は衰亡の道をたどることになる。
 この二年後、翌天正十年(一五八二)に織田信長が没すると、豊臣秀吉は天下取りに動き出した。
 三法師を擁立した秀吉に対し、家康は織田家中の実権を握ろうとした織田信雄に味方して、天正十二年(一五八四)、小牧・長久手の戦いが勃発した。康長は徳川四天王の一人酒井忠次に従軍することになり、この時も松姫は、錦の巾着袋に三合三勺の米を入れて康長に手渡した。
 「初陣の際はこの袋の米を食べずに済んだ。これはお前の祈りの詰まったお守り袋だと思っておる。こたびもこの米は食べずに戻るさ」
 「ご武運をお祈りしております」
 松姫は康長の手を握りしめて見送った。
 小牧・長久手の戦いは、織田軍に与するはずの織田譜代の家臣池田恒興が、突如、秀吉に寝返って犬山城を占拠したことに始まる。ちょうどその日(三月十三日)清洲城に入った家康は、これに対抗するため一万四千の兵を率いて小牧山城に駆けつけた。小牧山城は織田信雄にとっての要所であったからだ。
 十六日、鬼武蔵≠フ異名を取つ森長可が池田恒興と協同して、小牧山城を落とそうと城の西方に陣を敷くと、その動きを察知した家康は、酒井忠次と松平家忠ら五千の兵を羽黒へ向け、翌早朝、森長可に奇襲攻撃を仕掛けた。
 酒井忠次の先鋒隊は、押し寄せる森長可勢に苦戦するも、側面からの松平家忠鉄砲隊の加勢によって盛り返し、その敵が後退する様子を見て康長が叫んだ。
 「今じゃ! 行け!」
 その号令に酒井勢二千が一斉に押し寄せたものだから、慌てふためいた敵の中には敗走と勘違いする者が続出し、森長可の軍勢を大混乱に陥れた。敵将には逃げられたが大勝利の初戦であった。
 その報告を大坂で聞いた秀吉は、同月二十一日に三万の兵を率いて大坂城を出立し、二十七日には犬山に着陣して暫くは双方にらみ合いの膠着状態が続くが、四月六日になって池田恒興、森長可らの秀吉軍の四将が、家康の本拠地岡崎城を攻める作戦に出る。そして岡崎城に至る長久手城で、世に言う長久手の戦いが起こった。
 徳川勢四千五百に対して豊臣勢八千──、最初は一進一退でどちらが勝つとも知れぬ接戦を繰り広げたが、森長可が井伊直政の鉄砲隊に討たれると、戦局は一気に徳川優勢へと傾いた。その後、池田恒興も討死し、戦いは家康の大勝利で終わる。直接衝突はなかったものの、この戦いで失った兵の数は、豊臣勢約二千五百、織田・徳川勢約五百九十とされ、合戦では家康に勝てないことを悟った秀吉は、所領安堵≠条件に織田信雄と講和したため、大義名分を失った家康は兵を引き上げた。
 ところが、その後家康は、豊臣政権を樹立した秀吉に従うことになるのであった。
 小牧・長久手の戦いが行われていた頃、二連木城の松姫は重い病に倒れた。
 戦いから戻った康長は驚いて、「いま戻ったよ」と白い手を握りしめると、戦場での自分の働きを誇らしげに伝え、「わしも元気に働いたのだ。お前も早く良くなれ」と励ました。
 ところが松姫は布団に身体を横たえたまま、小さく笑うのがやっとのようで、
 「それはよろしきことにございます。今わたくしに話して下さったご武功を、そのまま兄上様にお話し下さい。兄上もさぞお歓びになるでしょう」
 コンコンと咳をしながら力なく言う。康長はいつもの自分を見せて元気づけようと、
 「いや、まだまだじゃ。武功というのは人が申すものだ。自らが吹聴するのは甚だ見苦しい」
 「またそんなことを──。どうやらわたくしが在命のうちは、十万石の殿のお姿を見ることはできないようですね……」
 「何を申す! 共に白髪の生えるまで生き、同じ景色を見ようではないか」
 松姫は何も言わずに、やがて息を引き取った。
 涙にむせぶ康長は、その棺の中に、三合三勺の米を入れた錦の巾着袋を置いて葬った。



 天正十八年(一五九〇)、小田原征伐に動き出した秀吉に家康も従軍すると、康長は徳川軍に従って武蔵方面へ進撃した。軍は相模国玉縄城や江戸城などの北条支城を次々に陥落させると二手に分かれ、康長は同じ徳川家臣の内藤家長らと共に下総国方面に向かった。そして五月、
 「松平康長殿は臼井城を落としてくれたまえ」
 と、一千の兵を預かり、その重要任務を受けたのである。
 臼井城といえば、その生涯でたった二度しか負けたことがないと言われる上杉謙信が、その二度のうちの一つを勝ち取っている城である。もっとも時の城主は千葉氏から原氏に代わっていたが、前城主原胤栄はこの直前に死去しており、嫡男胤義は北条氏の人質となっていたため、城代として城にいたのは原邦房であった。
 最初康長は、小田原城を包囲する総力二十万とも言われる豊臣勢力の威のままに、一斉攻撃を仕掛けて陥落させようとも思ったが、臼井城に立て籠る城兵にも愛する妻や子がいることを思うと、死んだ松姫の顔が脳裏に浮かび、不憫でならなかった。そこで武力による制圧を思い留まり、開城交渉をすることにした。
 五月十日、自らが使者となって単身城内に乗り込むと、城代原邦房は悲愴な顔をして、
 「兄は小田原にいますが、当方も北条に付きたくて付いているわけではありません」
 と言った。康長は、今はすでに豊臣の世であることや、この戦も兵数からいって北条には全く勝ち目がないこと、そして無駄な血は見たくないことを丁寧に語り、
 「実は私には妻がおりましたが、数年前に病で死にました。ところが私は戦に明け暮れ、ろくに相手もしてやれなかったことを悔いております。私が望むのは戦のない天下泰平の世です。世が平和であるなら、君主様は豊臣秀吉様であろうとかまわないと思っています。もし御同意いただけるのなら、お城を開城して降伏していただけませんか?」
 こうして臼井城は難なく落ちた。
 戦において城を落としたとあらば、それ相応の褒美が与えられるのが常であるが、北条征伐における徳川家臣団の働きはあまりにめざましかった。秀吉は敵の不甲斐なさに呆れて、
 「房総諸城の攻略は戦功として認めない」
 と触れたほどで、間もなく同年七月、小田原城は落ち、北条氏は壊滅する。
 家康は、城を落としながら褒美が与えられない康長を可哀想に思い、徳川の関八州への移封に彼を従わせ、武蔵国東方城に一万石を与えた。康長は松姫との思い出が残る二連木城を後にした。
 家臣たちはたびたび「家康様にもっと恩賞を催促したらどうか」と求めたが、
 「自ら恩賞を求めるのは見苦しい。領分は後からついてくる」
 と、康長の答えはいつも同じで取り合おうともしない。家康はそれをきちんと分かっていて、康長と松姫の間に生まれた虎松が、康長が元服した年と同じ十二歳になった文禄元年(一五九二)、二人を江戸城に呼び寄せ虎松を元服させると、
 「母の分まで永く強く生きよ」
 と、永兼≠フ名と越中国則重の刀≠贈った。
 康長はそれだけで満足だったが、一つだけ危惧することがあるとすれば、母に似たのか永兼も病弱なことだった。そんなことも見透かしていたのか、家康は続けた。
 「松姫のことを思い続けてくれるのは嬉しいが、そろそろ喪に服すのは終わりにして、新しい室を迎え入れてはどうか?」
 「それは異なこと──私の妻は生涯松姫様ただお一人でございます。ご心配はありがたきことですが、どうかご勘弁を……」
 「それでは松姫を嫁にとらせたわしの方が申し訳なく思う。正室でなくとも側室を迎えよ」
 こうして康長は二人目の妻を側室に迎え、次男をもうけた。後に二代将軍となる徳川秀忠に初見して忠長と称し、更にのち忠光と名を改め、戸田松平氏の血統をつなぐ子の父となる人物である。
 その後の康長の活躍も目覚ましかった。
 慶長五年(一六〇〇)には関ヶ原の戦いで、水野勝成らと共に大垣城を攻略し、翌年その功で上野国白井城に封じられ、慶長七年(一六〇二)には下総国古河城へ移封された。更に慶長十年(一六〇五)には従五位下丹波守に叙任され、慶長十四年(一六〇九)に京都の伏見城の守衛に当たったあとは、慶長十七年(一六一二)に常陸国笠間城へ移封され、大坂の陣では二度に渡って家康に従軍すると、その功で元和二年(一六一六)、上野国高崎城五万石の領地へ入封する。以前康長自身が松姫に語った年相応の領分≠フ言葉通り、彼女が夢見た十万石へ、あと半分までの大名に成長していく。
 ところがこの年の四月、家康は駿府城においてその生涯を閉じるのだった。
 顧みれば、高崎城に来たとき康長齢五十四歳。その大らかで温厚な人柄は、家康はもとより新将軍となった秀忠からも、また、後に将軍となる家光からも厚い信頼を得て、陸奥国の伊達政宗とも懇意に付き合い、わざわざ夜分に迎え入れては酒食でもてなし、
 「必ず胡坐にて打ちくつろぎ、包み隠す事なくお話の相手をした」
 と伝えられる。
 その一方で、松姫と死に別れてからの三十年という歳月は、次第にその恋慕の情を薄れさせた。
 康長はこの高崎城で若い三人目の妻をとり、三男庸直をもうけたのであった。



 元和三年(一六一七)、高崎に来て一年しか経たないというのに、将軍秀忠が新たな下知を下した。
 「信濃国の松本城へゆけ。石高は七万石に加増する」
 松本城は、豊臣の世にあっては江戸を包囲するための役割だったのが、徳川の世にあっては、北と西の勢力に睨みをきかせる江戸を守るための拠点にかわった。大坂の陣で豊臣を滅ぼしたとはいえ、徳川に反骨心を抱く因子が残っているとも限らないからだ。松本を徳川守護の国として完全に統治し、確たる制度を整えよと秀忠は言う。
 松本に移った康長は、さっそく藩政改革に乗り出した。
 最初に行ったことは、二万石の加増分に見合う家臣団の再編成だった。新たに土着の者を家臣に召し抱え、城下町の建設と合わせて徒士や足軽たちの屋敷を建てて集住させ、藩内を十五の組に分けて新しい行政区画を決めた。また、在地の豪族が多い土地柄から、それまで独自の税収法を用いていたのを廃止して、全て蔵米制に移行して、兵農分離を推進するなど、その改革のスピードにはみな戸惑うばかり。おかげで松本の城下は活気にあふれた。
 新しく持筒頭になった男に川井八郎三郎という男がいた。もともとは佐竹氏の家臣だったが、武田信玄がこの辺りを支配した際に松本に住み着いた士族である。体格がよく力も強かったから、病弱だった嫡子永兼の近習を兼ねて雇ったものだった。
 永兼と八郎三郎はよく気が合い、あるとき八郎三郎は永兼に聞いた。
 「永兼様の母君とはどういうお人だったのでございますか?」
 すると、
 「私が五つの時に亡くなったので、その面影しか覚えていません。父上からは公方様の父君、東照宮(家康)様の妹君であったと聞いていますが、正直申しますと、いまひとつ思い至らないのです。ただその優しい手の温かさだけはよく覚えております」
 と答えた。そして、
 「そうだ、一つだけ母と約束した事がございました」
 「お約束──?」
 「もし父上のご在命中に十万石の主になれなければ、私が代わりに成しなさいと。なんでも父と母がご結婚する際、東照宮様がお約束されたのだそうです。もし男子が生まれたら、父上に十万石を下さると。つまり私がその男子というわけですが、ご存知のとおり父上は無欲な方で、領分はその働きについてくるものだと言って聞きません。いわば私は十万石の引換札というわけですが、肝心の東照宮様はもうこの世にはおりません。おまけに長い歳月の中で、父上は、母上の事をお忘れになってしまったようですから……」
 永兼は少し寂しそうに答えた。
 「あと三万石ですか……なあに、殿の事ですから時間の問題でございましょう」
 「私がもっと丈夫な体で生まれればよかったのですが……。私の持病は母上と同じだそうです。皮肉ですが、病がこの胸を蝕むたびに、私は母上を身近に感じるのです」
 「母君のお名前は?」
 「松姫と申します……」
 八郎三郎は目に涙をためて同情した。



 康長が松本城に入って初めての新年を過ごした元和四年(一六一八)の正月二十六日のことだった。
 その夜、本丸御殿の警備当番だった八郎三郎は、城内の者たちが寝静まった夜中、廊下を伝って一部屋ずつ見回ると、玄関を出て提灯を片手に黒門から内堀に沿って本丸を一周し、異状がなければ持筒番所に戻って仮眠をとるといった巡回をする。そしてふた時ばかり経つとまた起き上がり、警備の晩はそんなことを幾度と繰り返す。
 丑四つ時を過ぎた頃、本丸の外回りを終えた彼は、番所に戻ろうと本丸御殿の玄関に戻って提灯の火を消した。南東の太鼓門に目をやれば、屋根の上にやせ細った上弦の月が昇りはじめており、淡い光は冬の寒気を運んできた。
 「さすがに松本の夜は冷えるのぉ……」
 凍える手に白い息を吹きかけ、身体をぶるるとふるわせたとき──、
 誰かが彼の名を呼ぶのが聞こえた。不審に思って振り向くと、そこに緋色の袴を身につけた美しい女性が立っているではないか。
 思わず八郎三郎はその場に立ち尽くし、白い息を吐くのも忘れて見とれた。
 するとその女性が言った。
 「どうか、これを康長にお渡しください」
 殿の名を呼び捨てにするとは、「これは、もしや松姫様ではないか?」と思った八郎三郎は、呆然と女性が差し出す錦の巾着袋を受け取った。そして女性は続けた。
 「しかし、その袋の口は決して開けてはなりません。康長にもそうお伝えください」
 「いったい何が入っているのでございます?」
 「康長に渡せばわかります。それと──」
 仄かな月明かりの中で、金色に輝いて見えた女性の身体がみるみる薄れていく。そして消えゆく御姿と同じようにその透きとおった声も小さくなりながら、彼女は最後の言葉を残した。
 「三石三斗三升三合三勺のお米を炊いて、二十六夜様を祀って祝いなさい。そうすれば松本城はずっと栄えることでしょう。ただしその袋の口だけは──」
 女性は夜の静寂を作って消えた。
 夢か、あるいは幻か──八郎三郎は自分の眼を疑って、何度も目をこすってみたが、受け取った錦の巾着袋は厳然と掌の中にあり、夢心地の気分のままその日は持筒番所に戻ったのだった。
 さて翌日、昨晩の不思議な出来事をさっそく康長に伝えると、康長は驚いたように錦の巾着袋を八郎三郎から受け取った。
 「こ、これは……本当にその女がお前に渡したのか?」
 康長は中身を確認しようと袋の口を開けようとしたので、
 「開けてはなりません──! そう申しておりました」
 血相を変えた八郎三郎に康長は笑い出した。
 「開けたらわしの命が尽きるとでもその女は申したか?」
 このとき康長の脳裏によみがえったのは、初陣のとき以来、出陣といえば「いざという時のために」と松姫が持たせてくれた、これと同じ錦の巾着袋のことである。康長にとってはお守り袋で、だとすれば、いま手にしている袋の中身は三合三勺の米に決っていた。そういえば、この袋の口を開ける時は命が尽きる時だと、いつも自分に言い聞かせていたのを昨日のことのように思い出した。
 「ほかに何か申しておったか?」
 「はい。三石三斗三升三合三勺の米を炊き、二十六夜を祀って祝えと。さすれば松本城はずっと栄えると──」
 「二十六夜を祀れだと?」
 俄かには信じがたいが、昨晩八郎三郎が見たという女は松姫に相違ない。でなければ、彼女と一緒に過ごした毎年正月二十六日の、宵闇の中で語り明かした十万石の大名になる夢を、彼女も家康もいない今、自分の他にいったい誰が知っていると言うのだろう。昨夜はまさにその正月二十六日だったではないか。
 「達者でいたか? その女はどんな様子であったか?」
 「巫女のような緋色の袴を着ておりました。それはそれは神々しいお姿で、あれはやはり松姫様なのでございましょうか?」
 康長は何も言わなかったが、彼女が死んでからの何十年もの歳月の中で、すっかり忘れていた彼女の願いを思い出していた。
 齢五十も半ばを過ぎ、いまや七万石の松本城主にはなったが、十万石にはまだ三万石足りていない。三石三斗三升三合三勺の三≠フ意味は、その足りない三万石の三≠ナはないかと康長は思った。そして、老いによって気力の衰えているのを案じ、松姫が戒めてくれたのだと感じた。
 昔の自分の満々と充ちた気力を思い出した彼は、今の自分を大いに恥じ、八郎三郎が女から聞いた言葉どおりに、翌月の二十六日から毎月、城の天守閣の最上階の梁の上に、餅と錦の巾着袋を供えて二十六夜を祀るようになった。



 康長には松姫の後妻として迎えた妻と、高崎城で迎えた二人の側室がいる。次男忠光は前者との間で生まれ、三男庸直は後者との間で生まれた子で、後者は高崎城で迎えられた女だったので、家臣たちは城の別称をとって和田の方様と呼んでいた。
 ところがこの和田の方、庸直を授かった時からわが子を当主に据えようと、心に密かな野心を抱いているのであった。このとき松姫と康長の間に生まれた長男で嫡子の永兼は三十九歳、次男忠光は二十一歳、そして庸直はまだ二歳であったが、彼女にとっては上の二人が目の上の瘤で、質の悪いのは、異常なほどの嫉妬心の持ち主であることだった。
 あれから一年ほど過ぎた元和五年(一六一九)──。
 正月二十六日の二十六夜の祀りが終わり、二月、三月、四月、五月と定例の二十六夜の祝いも済んで、六月に入って九日の夜、康長の夜伽の相手をする和田の方は、さりげなくすりよりこう言った。
 「わたくしは淋しゅうございます……」
 「急にどうした? 申してみよ」
 「殿は高崎城にてわたくしを妻に迎え入れてくれましたが、庸直という男子を授かったのに、わたくしを一向に正室としてお認めになろうとされません。それが口惜しゅうてならぬのです……」
 思えば和田の方はまだ二十歳そこそこの若い女である。そう思うのも無理はなかろうと康長は思う。
 「正室になりたいのか?」
 「そうは申しません。ただ、御殿様がいつも懐に大切にしまわれている錦の巾着袋──。それは御殿様が愛した最初の奥様から授かった物なのでしょう?」
 康長は俄かに笑い出す。和田の方が、死んだ松姫に嫉妬していると思ったのだ。
 「左様じゃ。そなたには申し訳なく思うが、松姫は生涯わしの正室じゃ。それは今は亡き徳川家康様に誓ったことなのだ。許せ」
 和田の方は悲しそうな目をつくった。
 「袋の中には何が入っているのでございます?」
 和田の方は庸直の懐にそっと手を伸ばし、彼がいつも大事にしている巾着袋を掴んで言った。それを拒んだ康長は、少し怒ったように、
 「そなたは知らなくてよい」
 和田の方はふくれると、ぷいと背を向けた。
 「仕方ございません。なら正室は諦めますが、あまりわたくしを一人にしないで下さいまし。御殿様は少し働き過ぎでございます。いっそ御隠居なさってずっとわたくしのそばにいて下さいませ。永兼様ももう四十でございましょ? そろそろ家督を譲ってあげないと返って可哀想な気がいたします」
 「ううむ、しかし永兼は病弱だからなあ……心配じゃ」
 「では家督は忠光様に譲ろうとお考えですか?」
 「これ、過ぎたことを申すでない。まるでわしに早く死ねと言っているようではないか」
 「め、滅相もございませぬ」
 和田の方は心中を読まれるのを怖れ言葉を止めた。
 康長は懐の巾着袋を握りしめ、俄かに笑いながら和田の方を抱き寄せた。
 「まあ、それも悪くないかもなあ。人生五十年というほどに、わしは少し長く生きすぎているのかもしれぬ」
 袋の口を開けたら自分の命が途絶えると思い込んでいる彼は、「まだまだやるべき事がある」と思う反面、最近とみに「巾着袋の口を開ければ自分はいつでも死ねるのだ」という老いとの葛藤に苛まれる時がある。康長は和田の方の耳元で、
 「わしを邪魔に思ったら、この巾着袋の口を開けるがよい」
 半分は冗談のつもりで口を滑らせた。
 旧暦の六月は新暦でいえば七月の夏である。ようやく涼しくなった夜風が寝間にも流れ入ると、和田の方は団扇をあおぐ手を止め、康長がすっかり寝息を立てているのを確認すると、自分も横になろうと行燈の灯を吹き消そうとした──その時だった。ふと、康長の枕元に錦の巾着袋が置かれているのが目に飛び込んだ。
 袋の中にはいったい何が入っているのだろう……?
 「絶対に口を開けてはならぬ」と言われると、開けたくなるのは人の心理というもので、和田の方はそっと袋に手を伸ばし、口の紐をほどいて恐る々々中を覗き込んだ。
 すると、暗い行燈の光に照らされて見えたのは、無数の黒い粒のようなもので、興味本位に掌の上にこぼしてみれば、それは真っ黒に炭化した米粒に違いなかった。
 「なあんだ……炭になった米ではないか」
 という表情を作って袋に戻すと、もとのように口を紐でしばって主人の枕もとに戻し、やがていつものように眠りについた。
 ところが翌朝──、
 「和田姫や、いったいその顔はどうしたのじゃ?」
 康長の声に起こされた和田の方は、鏡に映る自分の顔を見て驚いた。右目から頬にかけて、黒い大きな痣ができていたのである。
 「ひゃっ!」と思わず声を挙げて寝間を飛び出した彼女は、台所の甕に溜めてある井戸水で、ひと夜のうちにできた黒い痣を洗い落そうとしたが、その痣はもう二度と消えることがなかった。
 続けざまに三郎八郎が蒼白になって康長のところに駆けつけて言うには、
 「永兼様が目を覚ましません!」
 驚愕した康長は、着る物もろくに羽織らず急いで永兼の寝所に走って行けば、すでに脈を計っていた侍医が神妙な顔付で、
 「亡くなっております」
 と静かに言った。
 呆然自失の康長は、まるで何かに取りつかれたように寝間に戻って膝を落とせば、目に入った錦の巾着袋の結び目が、以前と違う結び方になっているのに気がついた。
 「さては和田姫め、袋の口を開けたな……」
 康長は、死の報いが自分に顕われず、松姫との子である永兼に顕われたことに納得がいかないまま、それから暫くは何もする気が起こらず、人が変わってしまったように月日を過ごした。
 そして戸田松平家の嫡子は次男忠光になった。



 永兼が死んで四年──人の感情を置き去りにして時は流れる。
 将軍徳川秀忠が十九歳の嫡男家光に将軍職を譲ったのは元和九年(一六二三)のことで、康長はその守役となって江戸に呼ばれ、嫡子忠光も、家光参内の折には守衛として京都へ随行し、戸田松平家に対する徳川家からの信頼は変わらず続いた。
 将軍家と関わる中で、ようやく生きる気力を取り戻した康長は、寛永三年(一六二六)に松本に戻ると、再び藩政改革に乗り出した。領地内の検地を実施し、それに伴い、これまでの郷を廃して小さな行政村をつくりあげるなどの実績を積みはじめたが、あろうことか寛永六年(一六二九)、嫡子だった忠光が三十二歳で非業の死を遂げたのである。
 永兼に続いて忠光まで──巾着袋の口を開けてしまった報いは、この自分の死によって償われるものではなかったのか?
 と康長は思った。すると心に様々な感情が浮かんでは消えた。
 松姫はいったい何を望んでいるのか?
 なぜ不幸を導く巾着袋をわしに渡したのか?
 今わしが受くる苦しみや悲しみは、死ぬそれよりも深いのか?
 ひょっとしたら松姫は、同じそれを知りながら死んで逝ったのか?
 わしに知ってほしくて──?
 失意のまま、寛永九年(一六三二)一月には、今度は君主徳川秀忠が逝去した。
 「人の命とはなんと無常なものか──」
 そして、間もなく康長自らも病床に就く。
 将軍家光はこれを心配し、幕府の侍医を松本まで遣わすが、この年の十二月、康長は松本城で帰らぬ人となる。享年七〇歳──その相は、億劫の辛労を凝縮したようでいて、爽やかで、かつ、何一つ悔いの残さない仏様のような表情だった。それは生涯愛し続けた松姫と、同じ境地に至った満足感だったかもしれない。

 その後、戸田松平家の家督を継いだのは、十六歳の三男庸直だった。
 本来ならば一番喜ぶはずの和田の方は、あの日以来、顔の痣を気にして部屋にずっと引きこもったままで、この頃から戸田松平家では様々な不幸が立て続けに起こるようになった。
 寛永十年(一六三三)四月には、康直は松本から追い出されるように播磨国明石城への移封となり、松本城は越前国大野城より入封してきた松平直政が城主となった。
 明石城に移った康直は、何かに呪われたように間もなく謎の死を遂げた。家督は康長の次男、故忠光の子で、まだ十二歳の光重が継いだが、戸田松平家に降りかかる災難は終わらなかった。城内の奥御殿に夜な夜な妖怪が現れるといった騒動や、婦女が病気にかかり次々に死んでしまったり、さすがに気持ちが悪い家老たちは、巫女を呼んで占わせてみると、
 「家督を継ぐべき者が継いでおらぬ……」
 と、まだ幼さを残す光重の顔をじろりと見て言う。
 「もっと高貴な者がいたはずじゃ」
 家臣たちは「永兼様のことではないか?」と囁き合うと、憑依でもしたかのような巫女が「見えた!」とばかりに語り始めた事は、
 「その者がこう申しておる──我が母は東照宮様の妹君である。かの徳川宗家の門流であるにも関わらず、他の霊と同じ寺に祀るのはなぜか? 我のために祠を建て、別に祀ってもらいたい。されば松平戸田家は末長く栄えよう──」
 これまでの不幸が永兼の祟りだと知った家老たちは、戸田松平氏の祈願所だった明石城内の弥勒院に永兼を祀る社を建立し新宮と名づけると、やがて不幸な出来事は途絶えたと言う。



 康長を始祖とする戸田松平家六代目当主戸田光慈が、志摩国鳥羽城から松本城に入封したのは享保十一年(一七二六)のことだった。
 これは戸田松平家にとっては実に九十三年振りの里帰りとも言うべき慶賀で、光慈は暘谷霊社と名をかえた永兼を祀る社を、明石から松本城の北側に移した。
 翌年一月、本丸御殿が火事で焼失した際も天守が焼けなかったのは、康長の時から始まった二十六夜待ちの習慣が続いていたことと、暘谷霊社で祭った松姫と永兼様のおかげだと言った。以来政庁は二の丸御殿に場を移すが、戸田松平家はその後明治以降まで続いていくことになる。
 今は暘谷霊社も松本神社と名を変え、五社の一つとして存在しているが、松本城では、月々二十六夜の上弦の月が綺麗に昇る夜には、椀型の月舟の上に、松姫と永兼を脇侍に従えた康長の御姿が、ほんの一瞬だけ見える時があるということだ。

 二〇一九年四月九日
(2019・03・27 松本城より拾集)