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 高田城は全国有数の敷地面積を誇る巨大城郭である。
 その広さは外堀を含めると六〇ヘクタールを優に越えるというから江戸城、大坂城に次ぐ規模である。
 筆者が訪れたのは菜の花の咲く春四月だが、冬は全国でも指折りの豪雪地帯である。なぜ越後の雪深い場所にこれほど巨大な城郭が築かれたのか? 北陸・西東北から江戸へ向かう交通の要衝地であることを知れば、その意図はおのずと想像できる──。
 天下統一を果たしてからも徳川家康にとって金澤の前田家や米沢の上杉家などは不審因子に違いない。この両家は豊臣秀吉の五大老だったことや、関ケ原でも西軍に組した武将との親交も深い。関ケ原以降徳川の配下にはなっていたものの、その存在は家康にとってけっして油断できないものだったろう。特に所領百数十万石を有する前田家は脅威のほか何者でない。その石高は徳川家を除けば日本最大で、家康と逆の立場である時の藩主前田利常(としつね)などは、徳川の目を怖れ、豊臣恩顧の大名達が改易されるとその様子をさぐらせ、常に自分は無能だと思わせる演出に余念がなかったと言う。
 それでも家康は前田家を信用しなかったろうし、また、万が一を考えるのは天下人として当然だ。特に大坂の陣を目前に控えた築城当時は、全国の武将たちの忠誠を見極める必要があった。家康が行なった天下普請には、そんな思惑も働いていたに違いない。
 もともと越後には上杉謙信の春日山城(かすがやまじょう)が存在したが、慶長三年(一五九八)上杉景勝(かげかつ)が会津に転封(てんぽう)されると、替わって入封(にゅうほう)した堀氏は関川を挟んだ東側に福嶋城を築城した(慶長十二年)。関ケ原を経、もはや太平となった世に春日山城のような山城の必要性がなくなったともされるが、北側を日本海、東西を保倉川と関川とに囲まれたその城は、まさに護るにおいては鉄壁と言って良かったかも知れない。
 ところが慶長十五年、堀氏が御家取り潰しとなる。
 そこで家康は、六男松平忠輝(まつだいらただてる)を信州川中島から移して七十五万石の福嶋城主としたわけだが、かの地は毎年雨期になると関川や保倉川が決って氾濫する場所であり、おまけに防備が堅い分攻めるには不利な城だから、例えば前田家が江戸に侵攻した場合、関川が邪魔になってその機能を果たせない。「海の音がうるさくてよく眠れなかった」と言う者もいるが、四年経って城主忠輝は、福嶋城を廃して高田の菩提ケ原(ぼだいがはら)へ新城を築いて移る。福嶋城は築城よりわずか五年ばかり存在した幻の城となった。

 忠輝が築いた平城高田城には二つの特徴がある。
 一つは天守閣が建築されなかった点、二つは石垣がなく全体を土塁(どるい)でめぐらしている点である。その理由として豊臣家との決戦を間近に控え、完成を急ぐ必要があったから≠ニパンフの説明にあるが、「果たしてそれだけか?」と考えてしまう筆者の(へき)は想像力を掻き立てる──。
 驚くのはその築城に要した時間である。
 慶長十九年三月十五日に着工して同じ年の七月上旬には一応の完成を見たというからわずか四ヶ月。築城に名を連ねた武将の名を挙げれば、縄張(なわば)りをはじめ陣頭指揮を執ったのが仙台城主伊達政宗(だてまさむね)、普請奉行に尾張名護屋城でも奉行を務めた滝川忠征(たきがわただゆき)と、伊東政世(いとうまさよ)山城忠久(やましろただひさ)などはあまり聞かない名であるが、そのほか金沢城主前田利長(まえだとしなが)利常(としつね))、奥州盛岡城主南部利直(なんぶとしなお)、若松城主蒲生忠郷(がもうたださと)、出羽山形城主最上家親(もがみいえちか)、米沢城主上杉景勝(うえすぎかげかつ)、秋田城主佐竹義宣(さたけよしのぶ)、信州小諸城主仙石秀久(せんごくひでひさ)、松代城主真田信之(さなだのぶゆき)、松本城主小笠原秀政(おがさわらひでまさ)、甲斐谷村城主鳥居成次(とりいなりつぐ)、越後村上城主村上忠勝(むらかみただつぐ)、新発田城主溝口宣勝(みぞぐちのぶかつ)の大名たちが関わった。気になるのはその殆どが外様大名で、しかも前田利長と上杉景勝などは、城の地理的にも家康に最も牽制される側の者である。
 高田城築城の背景には、一つに『加賀の前田家、出羽の上杉家に対抗するため』、二つに『諸大名に天下普請を命じ経済的圧迫を加えようとした』、三つに『佐渡金山の支配を強化するため』とか言われるが、当然それも含めて家康には別の思惑もあったと見える。それは、豊臣家を滅亡させるための大坂の陣を目前にした彼にとって、関ケ原で生き残った残党の存在が何より怖い──つまり、『不審因子に徒党を組ませる動きをさせないため』、『天下普請を通して不審因子の忠誠を確認するため』、そして『六男松平忠輝(まつだいらただてる)を使って不審因子を押さえ込む』ということだ。
 突貫工事の天下普請はわずかの間に関川(せきがわ)の流れを変え大きな外堀を作ってしまう。その幅は広い場所で約一三〇メートル、さらに内堀の内側を高さ十メートルの土塁で囲み、その全周は一、〇〇〇メートルに及んだと言う。
 そして筆者はこの急ピッチで進められた工事に別の疑問を持つ。
 「高田城は忠誠を示す参加大名の団結の賜物(たまもの)なのか? それとも本当に突貫工事のやっつけ仕事≠セったのか?」
 と。
 エジプトのピラミッドが五千年経た現在なおその形が保たれるのは、絶対権力に服する奴隷(どれい)によるものでなく、自由な農民たちと選ばれた技術者たちの使命感≠ノよるものだとしたら、高田城はそのどちらだろうかと――。
 城を象徴する(らぐら)は築城当初は二重だったそうだ。そして寛文地震のあと三重に建てなおされ、その後時代が流れ明治の火災で本丸御殿を含めて焼失してしまったが、平成五年(一九九三)、多くの市民の要望に応える形で『上越市発足二十周年記念事業』として再建されたのだそうだ。
 往時は、外堀の内側の地形を上空から見ると法螺貝(ほらがい)に似ていたことから螺城(らじょう)とも呼ばれ、旭日が昇るように輝くという意味で高陽城(こうようじょう)と呼ばれることもあるそうだ。
 本丸に入るには内堀に架かる極楽橋を渡り、蹴出門(けだしもん)をくぐって枡形(ますがた)に進む。そこを右に曲がって本城御門をくぐれば左に二条城とも見まごう本丸御殿が現れた。そこに初代城主松平忠輝は住んでいた──。
 ここが今回の物語の舞台である。



 天正二十年(一五九二)一月、江戸城にひとつの産声があがった。
 出産の苦しみに耐えた茶阿局(ちゃあのつぼね)は、美しい両目に涙をためて、
 「まあ、なんて可愛い男の子……」
 と呟いて、泣き叫ぶ赤子を産婆から抱き寄せると、在りし日のことを思って大粒の雫を落した。
 彼女は徳川家康の側室で、もともとは遠江国(とおとうみのくに)にある金谷村の鋳物師(いものし)の後妻で、於八(おはち)という名の幼い娘を持っていた。ところが生まれつきの美貌から、その容姿に惚れた村の代官に夫を殺害されてしまい、幼い娘の手を引いて、命からがら逃れついたのが鷹狩をする家康の前だった。
 「どうした? そんなに血相を変えて」
 「追われております! どうかお助け下さいまし!」
 事情を聞いた家康はすぐさま村の代官を捕えるが、その美貌に今度は家康の目がくらんだ。そのまま浜松城に連れ帰り、以来側室としてしまったのである。
 ところが、生まれたばかりの赤子の顔を見て家康はこう言った。
 「なんと色黒い赤子じゃ。目じりが吊りあがって恐ろしい(そう)をしておる。気味が悪い、捨ててしまえ!」
 茶阿局の身分が低かったためか、あるいは豊臣秀吉も嫡男鶴松が産まれた時に「強い子に育つように」と願いを込めて行なった捨て子の儀式(安育祈願)≠ニ同じことをしたものか、産まれたばかりの子を寺の門前に捨て、側近の本多正信に拾わせた。
 辰年に生まれたので幼名を辰千代(たつちよ)と名付けられたその赤子こそ後の忠輝で、以来家康の六男として生きることになる。こののち下野国(しもつけのくに)の栃木城主だった皆川広照(みながわひろてる)に預けられ養育された。
 ところで家康には十一人の男子がいる。物語のこの時点では忠輝を含めて六人だが、長男信康(のぶやす)は武田氏との内通の疑いをかけられ切腹しており、次男秀康(ひでやす)は豊臣秀吉の養子となっていたので、実質的には四人ということになる。そして三男秀忠(ひでただ)は後に二代将軍になる子であり、四男忠吉(ただよし)は家康の家臣井伊直政の娘婿になるが慶長十二年(一六〇七)には病死し、生来病弱だった五男信吉(のぶよし)も、慶長八年(一六〇三)わずか二十一歳にして夭逝(ようせい)する。
 ところが家康はどういうわけか忠輝に対して冷淡で、翌年茶阿局(ちゃあのつぼね)との間に生まれた七男松千代の方を可愛がり、生後間もないにかかわらず長沢松平家を相続させて深谷一万石の藩主とした。
 忠輝が七歳になったときに家康が言った言葉がこうである。
 「なんとも恐ろしい面魂(つらだましい)じゃ。腹を切った信康の幼い頃にそっくりじゃ……」
 彼の顔に嫡男信康を見い出したのである。ところが、
 「鬼っ子め!」
 と言ったその言葉に忠輝は深く傷ついた。
 しかし家康は、慶長四年(一五九九)に弟の松千代が六歳で早世してしまうと、その後嗣(こうし)に忠輝を選び十一歳で元服させ、慶長八年(一六〇三)二月、十四万石の城主として信濃国川中島の待城(まつしろ)に移封したのだった。
 このとき御附家老(おつきがろう)となったのが幼少より忠輝を養育してきた皆川広照であるが、忠輝の粗暴な性格にとんと手を焼いていた。幼い頃は「お(んま)になれ!」と言っては四つん這いにさせて背中で暴れ、少し成長したかと思えば「剣術の稽古はいやじゃ、鷹狩に参る」、「甘い茶菓子を持って参れ、さもなくば打ち首じゃ」と聞き訳がなかったり()(まま)放題で、広照ら家臣はたびたび諌言(かんげん)するも、最後はいつも「わしは公方様(くぼうさま)御子(おこ)である!」と権力をかざす始末。父に冷たくあしらわれていた分そうした態度に現れたものか、困り果てた広照は家康に相談すると、
 「それほど粗暴か。そちの手に余るなら、お前の他に別の御附家老(おつきがろう)を付けよう。これからも苦労をかけるが、褒美に信濃国飯山城を与える」
 と、思わぬ昇格に広照は喜んだが、その後忠輝の御附家老に就いたのが、家康腹心の大久保長安(おおくぼちょうあん)だった。この男との出会いが忠輝に絶大な影響を及ぼすことになる。

 大久保長安というこの男──
 もともとは猿楽師(さるがくし)の次男で武田信玄に仕えていた。生来経理と人を束ねる才があったようで、武田領においては金山開発や税務なども担っていたようだが、信玄亡き後はその子勝頼に仕え、長篠の戦いで武田氏が滅ぶと三河国に移り住み家康の家臣となった。
 天正十年六月、本能寺で信長が死去すると甲斐は家康の所領となる。そこで甲斐の内政再建を命じられた長安は、釜無川や笛吹川の堤防復旧をはじめ新田開発や金山採掘などにも尽力し、わずか数年で甲斐の再建を見事に果たす。
 その後の功績もあり、関東代官頭に任じられ家康直轄領の経理差配(さはい)の一切を任された長安は、天正十九年(一五九一)には武蔵国八王子に八、〇〇〇石の所領を与えられた。すると八王子宿に陣屋を置き、次いで八王子十八人代官を置いて宿場の建設を進め、さらには浅川の氾濫を防ぐための土手まで築いた。その他にも武蔵の治安維持と国境警備の重要さから旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心≠創設し、これは間もなく八王子千人同心≠ニなって幕末まで続くことになる。いわゆる長安は侠客(きょうきゃく)(かしら)にも似ていた。
 関ヶ原の戦いの後も、大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役と活躍の場を広げ、徳川四奉行の補佐において甲斐奉行、石見奉行、美濃代官と、家康からの信任は非常に篤かった。
 特に忠輝の御附家老に任じられた慶長八年のこの頃は彼にとっても絶頂期で、破格の従五位下石見守に叙任されたほか、佐渡奉行や勘定奉行にも任じられ、幕府老中にも列せられた。この数年後には伊豆奉行にも任じられ──早い話が、家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切の奉行職を兼務していたのである。その権勢は天下の総代官≠ニ称されるほど強大で、八王子の所領に加えて家康直轄領の一五〇万石の実質的な国土交通と財政の支配者と言ってよかった。
 とにかくその性格といったら豪放磊落(ごうほうらいらく)なうえ考えることも雄大豪壮(ゆうだいごうそう)で、そこに側女(そばめ)を七〇人から八〇人も抱える無類の女好きときたからもはや常人でない。そのくせ計算においては恐ろしく精妙巧緻(せいみょうこうち)だから、青少年を手玉にとるくらいわけない話なのだ。
 このとき忠輝十二歳。長安は彼の粗暴な態度を見つけては、
 「もっとやれ、もっとやれ、忠輝様にも次期将軍になる資格があるのでございますから、どうせ暴れるなら、いっそのこと天下をひっくり返す気概(きがい)でやりなされ!」
 と(あお)り立てた。そう言われると、家臣たちの困る顔が楽しみで荒くれたり粗野な態度をとっていた忠輝はつまらない。どうすれば長安を困らせることができるだろうかと、逆に学問に打ち込んでみたり、笛の稽古をしてみたり、家康の兵法指南役だった奥山休賀斎(おくやまきゅうがさい)の奥山神影流道場に通って武術や兵法に傾倒してみたり、本来至極(しごく)真面目で利発な性分が開化した。
 慶長十年(一六〇五)、将軍職が兄秀忠に譲られたとき、
 「おい長安、お前はオレに次期将軍になる資格があると申したが、兄が徳川家当主を継いで征夷大将軍になってしまったではないか! もはやオレなど不要の長物だ」
 と言ったことがある。長安は平然として、
 「なにを仰せになられます。昨日の襤褸(つづれ)今日の(にしき)と申します。合従連衡(がっしょうれんこう)ということもございましょう。明日の事など誰にも分からないのですよ。これはけっして口外無用に願いますが、私の見るところ秀忠様は世をまとめる(うつわ)ではございません。大御所様(家康)もそれをきちんと見抜いておられます」
 「なんと申した? なれば父上がオレにする冷たい仕打ちはいったいどう説明するのか?」
 「大御所様のお考えは私などには計りかねますが、おそらくもっと強くなれ≠ニ言っているのでございます。でなければこの私を御附家老(おつきがろう)になどさせません」
 「な、なんと──」
 言われてみれば、忠輝には父家康の数々の冷たい仕打ちの中に、たまに愛≠フようなものを感じることがあったのだ。長安は続けた。
 「忠輝様には忠輝様の付き合うに相応しい人物というのがございます。ここはひとつ、一人の大物大名をご紹介いたしましょう。きっと大御所様もお喜びになられますぞ」
 紹介≠ニは縁組のことである。とにかく長安は人脈も半端ない。彼の子供たちは石川康長や池田輝政の娘と結婚していたり、長女もまた服部半蔵の次男正重に嫁いでいた。そして長安がこのとき忠輝と引き合わせたのが、石高六十二万石の仙台藩主伊達政宗が、愛姫(めごひめ)との結婚十五年目にして初めて授かった待望の嫡出子(ちゃくしゅつし)五郎八姫(いろはひめ)だった。時に忠輝十五歳、五郎八姫(いろはひめ)は十二歳の冬である。
 「五郎八(ごろはち)とは勇ましい名であるの?」
 化粧をしてませて見せようとしているが、その幼さを隠しきれない美しい姫に忠輝はそう聞いた。
 「父上は男の子が欲しかったようで、生まれた私に男の子の名しか考えてなかったと申します。その名がごろはち≠ナ、私が女と知って慌てて五郎八≠ニ書いていろは≠ニ読ませることにしたのだと聞いております」
 「せっかちな父であるな」
 「わたくしに似て……」
 五郎八姫(いろはひめ)はポッと頬を赤らめた。
 愛らしい丸みのある輪郭に、整った両目はいつも穏やかな笑みを浮かべ、小さな鼻立ちの下に桜を思わせるような唇──夢心地の若い忠輝は、一生この娘と添い遂げようと決意を新たにしたのであった。



 忠輝の実母茶阿局(ちゃあのつぼね)の実兄は石田三成の家臣である。
 その息子の山田隼人正勝(やまだはやとのかみかつしげ)は三成の長女を妻にしており、関ヶ原の後生き延びて、哀れに感じた茶阿局はこの甥っ子を忠輝の家老に取り立てていた。あわせて前亡夫との二人の息子も忠輝の小姓として召し出し、娘婿となっていた花井吉成(はないよしなり)までも家老に取り立てたのだが、その存在を嫌った古参の山田勝重という家臣が同僚の松平清直を味方につけ、さらには皆川広照を担いで忠輝を引き合いに出して陥れようと結託した。わざわざ家康のいる駿府(すんぷ)にまで赴き、
 「忠輝様の素行が一向に改まりません」
 と訴えた。家康が、
 「伊達政宗の娘を(めと)ってから心を入れ替えたように品行方正になったと聞くが、どういうことか?」
 と聞き返すと、山田勝重は「実は──」と言ってから、茶阿局(ちゃあのつぼね)の娘婿花井吉成が家老になってからというもの、忠輝を思い通りにそそのかして家中を乱しているとまことしやかに口述した。その話を静かに聞き終えた家康は「真相を確かめて処分を決める」と言って川中島から忠輝を呼び寄せ真意を(ただ)した。すると忠輝は、
 「妄言を申しているの山田らの方でございます。私もまだまだ未熟ゆえ、相変わらず粗暴な振る舞いをしてしまうことがあったかも知れませんが、それが原因で家中が乱れているようなことは決してございません。母上の娘婿もよく尽くしております。もしかような疑いがかけられているとしたら、それは山田らが思い通りにならない不満、政務を牛耳(ぎゅうじ)っている証拠ではありませんか」
 家康は忠輝をじっと見つめ、何も言わずに目線を皆川広照に移してこう言った。
 「お前は幼少より忠輝を見て来て一体なにを授けた? 御付家老失格じゃ!」
 そう怒鳴ると改易を言い渡し、真偽も確かめずに山田の口車に乗せられた格好の松平清直には減封を、そして全ての首謀者と断じられた山田勝重には切腹という厳しい処分を言い渡したのだった。

 こんな事件を経て間もなくの慶長十五年(一六一〇)(うるう)二月、突然忠輝に越後国福嶋藩(高田藩)への移封(い ほう)が命じられた。実に川中島十四万石と合わせ三十万石の加増である。忠輝は改易された堀忠俊(ほりただとし)の福嶋城へと移り、川中島領は花井吉成が待城(まつしろ)城代となって、先の事件で減封された松平清直は五千石で復帰した。
 忠輝と五郎八姫(いろはひめ)は新天地の北に広がる春の海を見ていた。
 山桜が咲き始めているというのにその風は冷たく、岸辺に群れるカモメを見つめて五郎八姫はぽつんと呟いた。
 「なぜだろう? お江戸で見た海はどこか温かく感じたのに、ここの海は春だというのに冷たく見える」
 「波が荒いせいだろう。北から吹く風は大陸の寒気を運んでくるから冷たいのだ」
 忠輝がそう応えると、そこへ、どこからともなく白い子狐(こぎつね)が現れて、カモメを狙って身をかがめているのをみつけた。その様子に五郎八姫は何か思い出したように別の話をしはじめた。
 「幼き日、まだ私が京都にいたころ、摂津国(せっつのくに)に伝わる信太妻(しのだづま)のお話を母から語り聞いたことがございます。悲しい白狐(しろぎつね)のお話でございました──」
 それは平安時代、村上天皇治政の世──
 摂津国に安倍保名(あべのやすな)という一人の男がいた。ある日、信太(しのだ)の森に入った際、野狐の生き肝を得ようとする狩人に追われた白狐を助けたが、その代償に大怪我をしてしまう。すると傷で苦しむ保名のもとへ葛之葉(くずのは)≠ニ名乗る若い女がやってきて、甲斐々々(かいがい)しく手当をして保名を家まで送りとどけると、そのまま介抱するうちにいつしか恋仲となり、やがて二人の間に童子丸(どうじまる)という子が生まれ、三人の家族は幸せな日々を過ごすのであった。
 六年目のある秋の日のことである。
 葛之葉(くずのは)は、庭に咲く美しい菊にすっかり心を奪われていた。すると自分が狐であることを忘れ、うっかり尻尾を出してしまっていたのだ。それを見てしまったのが童子丸。正体を知られた葛之葉(くずのは)は、「ともに暮らすのもこれまで」と、次の一首を残して信太の森へと立ち去った──。
 その歌を、冷たい海を見ながら五郎八姫は悲しそうに口ずさむ。
 「恋しくば、尋ね来て見よ和泉なる、信太の森のうらみ葛の葉……」
 ──保名と童子丸は母を求めて信太の森を彷徨(さまよ)った。そして森の奥深く来たとき、ようやく二人を見つめる一匹の白狐が涙をこぼしているのを見たのである。
 「葛之葉かい? その姿では童子丸が怖がるよ。もとの姿になっておくれ」
 と保名が言った。すると白狐は傍らの池に自分の姿を映したと思うと、たちまち葛之葉に姿を変じた。
 「わたしはこの森に住む白狐です、命を助けられた恩に報いるため、今までお仕えさせていただきましたが、ひとたび狐と知られた以上、もはや人間の世界にはもどれません……」
 そう言いながらとりすがる童子丸を諭して、形見にはくめん∞はくじゃ∞はくじゃく∞ききん≠ニいう三千世界を見、鳥畜類の言葉を聞き、人の病気の原因を知り、世上の運気を知る不思議な四品を残して再び狐の姿となって森の奥へと消えていった。
 この童子丸こそ、やがて陰陽道の始祖となる安倍晴明(あべのせいめい)だということである──。
 「おいで……」
 五郎八姫はしゃがんで白い子狐を手招いた。すると子狐は、逃げる様子もなくいそいそと彼女の近くに寄ってきて、その手に抱かれたのである。
 「まあ、なんてかわいい子狐でしょう!」
 忠輝は狐を見てぎょっと驚いた。右目が白濁して見開いたままだったのだ。失明しているに相違あるまい。ところが五郎八姫は「父上とおんなじ!」と怖がる様子もなく、むしろ「父上の化身じゃ!」と喜んで、葛之葉(くずのは)≠ニいう名前を付けてしまうと、福嶋城に連れて帰ってすっかり友達にしてしまった。
 思えば妻の義理の父親である伊達政宗とは、祝言の時に会って以来一度もゆっくり話をしたことがないと忠輝は思った。
 あの頃の政宗は、諸大名との交際しきりで様々な情報収集に忙しい。付き合いのための贈答品に心を砕き、ド派手な酒宴、歌会、茶会、能見物を催して世間を「あっ!」と驚かせたり、豪華∞絢爛(けんらん)∞見栄∞(いき)≠ネどを意味する伊達≠ニいう言葉が使われ出したのもこの頃からで、死に装束で秀吉に面会したという話も有名だった。(ちまた)では、すざまじい意気をもって周囲を圧倒する事を伊達をする≠ニか伊達る≠ニ言っては持てはやしているのだ。
 「父は右目が見えない分だけ、人の心が見えるのだと申しておりました」
 あるとき五郎八姫(いろはひめ)がこう言った。
 「なるほど!」と忠輝は思う。障害を持つ人間というのは、不自由なその部分を補おうとして、生きるために超越した別の機能を異常なほど発達させるものか。ひょっとしたら見えない右目で世間の民衆感情というものを敏感に読み取り、すべき行動を的確に判断しているのかも知れない。
 この頃の政宗は世界≠ニいうものに目覚めていた。
 慶長十四年(一六〇九)九月、上総国岩和田村沖でスペイン船サン・フランシスコ号が難破し村人はその救援に努めたが、それから二年後の慶長十六年六月、スペイン国王からの返礼と日本埋蔵の金銀の調査を兼ねて浦賀にやってきたのがセバスティアン・ビスカイノという男である。彼は家康と謁見し日本沿岸の測量の許可を得た後、十一月には仙台に来て政宗と会う。そして他の地域の測量を終え帰国しようとするのだが、暴風雨が襲い、大破した船は航海不能となって再び浦賀に戻ったのだった。ピスカイノは幕府に船の建造を申し入れるが受け入れられることはなく、このとき名乗りを挙げたのが伊達政宗というわけだった。
 二人の間でどのような会話がなされたかは知らぬが、政宗の視野が日本から世界に広がったことは間違いないだろう。仙台藩はビスカイノのためにサン・ファン・バウティスタ号≠造船し、海外貿易を名目に家康から承認を得ると、慶長十八年(一六一三)九月、家臣支倉常長(はせくらつねなが)ら一八〇余名をヨーロッパへと派遣する。いわゆるこれが慶長遣欧使節団である。
 「伊達政宗という人間ともう一度会って、ゆっくり話がしてみたい──」
 忠輝は、美しい五郎八姫の姿からは想像できない巨大な政宗像を想い描いては、一日も早く会ってみたいと胸を膨らませた。
 ところが、その政宗と引き合わせてくれた大久保長安は、最近すこぶる体調が悪い。
 医者に言わせれば中風(ちゅうぶ)と言うが、家康などは心配して自ら調合したという烏犀円(うさいえん)という薬を飲んではいるが、その病状は悪化するばかり。そのうち身体を動かすこともできなくなって、あれほど多く抱えていた代官職も次々と罷免されていく。人の栄華とは崩れる時は、浜辺の砂の城のように儚く消えゆくものか。このころは全国で採掘されていた金銀の量も激減しており、長安がこのときもっとも愛していた妻も若くしてこの世を去った。
 そして慶長十八年(一六一三)四月二十五日、大久保長安は六十九歳で没する。その遺言は、
 「わしの遺体は黄金の(ひつぎ)に入れ、葬儀は華麗に行なえ」
 だった。その派手好きさは政宗にも似て、二人は非常に気が合ったと思ゆ。
 しかし長安が死んで間もなく、生前の不正貯蓄が大問題となった。長安の子たちは幕府の調査を拒否したために、同年、嫡男、次男、そして三男から七男までの息子たちには切腹の沙汰が下され、縁戚関係にある諸大名もまた改易されるなどの厳しい処分を与えられたのである。
 秀忠に家督が譲られてより、世の政治は二元体制のもと行なわれていた。もちろん家康の権限は何より強いものではあったが、基本的には秀忠は徳川家直轄領と譜代大名を統治し、家康の方は主に外様大名との折衝を担当していた。だから長安の親族たちの処分は秀忠が下したもので、
 「なんとも兄は身内に厳しいのぉ……」
 と、忠輝はぼやいた。



 慶長十九年(一六一四)初め、幕府より忠輝に高田城築城の命が下った。そして新しい城の縄張りを決めるのに選任されたのが五郎八姫の父伊達政宗である。
 「父上が来られるのですか!」
 白狐の葛之葉を抱いて、五郎八姫は小躍りして喜んだ。こうして春三月、政宗は越後に入る。ちょうど昨年の秋、仙台から慶長遣欧使節団の航海を見送って間もなくのことである。

 家康はなにより豊臣秀頼の存在を怖れていた。
 少し前までは豊臣家との融和を図っていたが、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の即位に際して上洛した際、将軍秀忠の娘である千姫を輿入れさせた秀頼と初めて会った時、その神々しいまでの容姿に目を奪われたのだ。このとき秀頼十七歳、
 「まさに天下を治むるに相応しい資質を備えておる──これほどの威光が我が息子の一人にでもあったなら……」
 家康の羨望(せんぼう)は恐怖へと変わった。
 その会見の後、浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、前田利長といった豊臣家恩顧の武将たちは次々とこの世を去り、豊臣家は一層孤立を深めていたが、家康はそこで安心するのでなく、豊臣家を滅亡させる好機と捉えた。戦国最後の戦を起こす機会を虎視眈々と狙っていたのだ。
 その一方では天下普請の大義名分のもと、全国の築城計画は着々と進められている。東海道の押さえとした膳所城(ぜぜじょう)を皮切りに、伏見城、二条城、彦根城、篠山城、亀山城、北ノ庄城、そして名古屋城の再建、造営や江戸城、駿府城、姫路城、上野城などの大改修と、全国の諸大名を動員させて盤石な国造りを目指す。忠輝の高田城もその一つである。
 ところが高田城と同時期に工事が進められた名古屋城普請において、家康は豊臣家にも動員を命じたが、秀頼の母淀殿(よどどの)はこれに応じなかった。そして家康の豊臣攻めを決定的なものにしたのは、かねてより豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿の完成を間近に控え、この年の四月に鋳造された梵鐘(ぼんしょう)が設置され、あとは家康の承認を得て開眼供養の日を待つだけだったところ、梵鐘に刻まれた『国()()』『君()()楽』という文字に対して家康が、
 「家康の名を切り、豊臣は君として(この)むとはけしからん!」
 と言い出した。目的達成のためにはこんな些細なことまで口実にする家康なのである。
 高田城の築城工事は、まさに徳川家と豊臣家が見えない水面下でそんな激しい攻防を繰り広げていた最中に行なわれている。
 建築予定地の高田の菩提ケ原(ぼだいがはら)に立って政宗(まさむね)は忠輝に言った。
 「なあんにもないところであるなぁ……。婿殿(むこどの)には何が見えますかな?」
 「私にはきらびやかにそびえ立つ天守が見えます」
 「ほう、しかしそれは、たかだか数万石の大名の台詞(せりふ)だな。越後国高田は七十五万石を有するのだから、もっと大きなものが見えはせぬか?」
 「では義父上(ちちうえ)には何がお見えになるというのです?」
 政宗はニッと笑んで、
 「海の向こうのエスパーニャが見える──」
 と言って続けた。
 「エスパーニャには江戸城の何倍もあるとんがり帽子の建物がいくつも建ち並んでいると言うわい。その国の人間はわしの国の三郡から切り出してもまだ足らぬ木材で(こしら)えた大きな船で、大海原を自由に行き来しておるのだ。世界にはわしの知らない国がまだまだあるらしい。仙台じゃ高田じゃと言ってる場合でないぞ。どうも宣教師どもの住む国は、この国より文明が進んでいるようじゃ。わしは世界の富を手に入れたい。空言(そらごと)と思うかい?」
 「いいえ、左様な国があるなら私もぜひ行きたいものです」
 政宗は「あはは」と笑い出した。
 「わしくらいの年になると、もう天下などどうでもよくなってしまったわい。この国のことは若いもんに任せて世界と貿易がしたいのだ」
 「貿易ですか……」
 「どうも大御所様(おおごしょさま)は宣教師の連中を嫌っているようだが、やつらから奪い取れるものは山ほどあるぞ。どうじゃ、将軍になってそういう国を創ってみぬか?」
 「えっ?」と漏らして忠輝は黙り込んだ。政宗はさらに続ける。
 「どうも秀忠様はケツの穴が小さくて困る。細々(こまごま)と自国の事ばかりにご執心の様子でまるで全体が見えておらぬ。しかしそういう人間ほど権力を握ると手がつけられん。いずれ身内だろうと腹心の友だろうと容赦なく粛清(しゅくせい)をはじめるぞ。油断するな──そうなれば、婿殿が大久保長安殿のご子息を護れなかったように、わしとてどうしようもできんからな」
 このとき二十三歳の忠輝にはその本意がよく解らなかった。

 三月十五日から着工された高田城の縄張りは伊達政宗の担当である。天然の地形と川の流れを利用しながら関川、青田川、儀明川(ぎみょうがわ)の流路を変え、東北、北陸、信濃などから集められた十三名の大名たちに従えられた一万人にも及ぶ人足で大工事は急ピッチで進められた。たまに疲れを癒すために戻る福嶋城ではいつも五郎八姫が待っていて、日本海で猟れた海の幸で盛大にもてなすのである。
 「婿殿とは仲良うしておるようじゃな?」
 世界を語る政宗も、こと自分の娘のこととなると、その幸せは重大問題のようである。
 「はい。少し気の荒いところもございますが、わたくしにはとても優しく接して下さいます。わたくしの事より父上の方はどうなのですか? 母上(愛姫(めごひめ))は息災でしょうか?」
 あのあどけなかった五郎八姫が、父の心配をするほどまでに成長したかと思うと、政宗は急に笑い出した。
 「(めご)はずっと江戸じゃ。手紙でも書いて慰めねばならんな──それよりその(きつね)は何じゃ?」
 政宗は娘に抱かれた白狐を珍しそうに手に抱いた。
 「飼っているのでございます。葛之葉(くずのは)と申します」
 政宗は左目でじっと白狐の同じ左目を見つめて「片目が潰れておるのぉ」と呟いた。そして次に首に吊り下げられたネックレスに目を移し、
 「これは(めご)から譲り受けた十字架ではないか?」
 と聞いた。
 「はい。大御所様がキリシタン禁教令を出したと殿(忠輝)から聞きました。へんに疑われるのも不本意ですので葛之葉の首につけております」
 「賢明だな。前田家に(かくま)われていた高山右近(たかやまうこん)も家族と共に金沢を発ち、亡命の旅に出たそうじゃ。大御所様はキリシタンを目の敵にしているようだから、くれぐれも気を付けるのじゃ」
 高山右近といえばキリシタン大名の筆頭に挙げられる人物である。豊臣秀吉からの信頼も厚く一時は播磨国(はりまのくに)高槻(たかつき)に六万石を与えられたこともあったが、秀吉からバテレン追放令が出されると、領地と財産のすべてを捨て信仰の道を選んだほどの男で、この年の二月まで前田家に匿われていた。権力者にとっては信仰に生きる人間ほど恐ろしいものはない。この時期の家康にはこうした不審因子を完全に排除する必要があったのだろう。
 さて、築城に関わる大名たちは、家康に違背の意志がないのを示すため総力を挙げ、また競うようにして作業に取り組む。城郭の西側には土木職人や大工職人が住む町が形成され、内堀を本丸へ渡す太鼓橋(たいこばし)も造られ、城を象徴する二重櫓が完成し、その作業がほぼ完了したのは同じ年の七月五日のことである。その間わずか四ケ月、まさに電光石火の早業であった。
 家康はその完成を待っていたかのように、方広寺の鐘銘(しょうめい)をめぐる問題で豊臣秀頼の断罪を決定した。そして全国の大名に大坂への出陣の命令を下す。その意味から高田城築城は、家康が打った戦国最後の布石と言える。
 「大御所様からの出陣命令じゃわい。ろくな石垣もないしまだ天守もないが、福嶋の城下町をそのままこちらに持って来て、佐渡の金銀輸送のための北陸街道と、信濃へ通じる北国街道を整備すれば立派な城下町の完成だ! ここまでできていればあとはなんとかなるだろう──五郎八姫をよろしく頼むよ」
 政宗は忠輝にそう言うと、慌ただしく高田を去って行った。



 慶長十九年(一六一四)秋──風雲は急を告げていた。
 家康の言いがかりとも言える秀頼征伐の決定に、豊臣家は秀吉が遺した莫大な金銀を使って旧恩のある全国の大名や浪人衆を集めて召し抱えたが、その援軍要請に応える者は数えるほどしかなかった。それでも明石全登(あかしたけのり)や後藤又兵衛、真田幸村や長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、毛利勝永のほか塙直之(ばんなおゆき)や大谷吉治などが集まって、およそ十万の陣容を整えた。彼らの中には豊臣家の再興を願い、討ち死に覚悟で忠義を尽くそうとする者もあったが、そのほとんどは関ヶ原の後に御家取り潰しなどの()き目にあい徳川への復讐を考える者や、戦乱に乗じて一旗上げようとする者たちによる寄せ集めの烏合(うごう)集団に違いない。士気だけは異常なほど高いがその分統制がとれず、急な陣立てに混乱していた。
 これに対して家康は十月十一日、自ら軍の指揮を執って駿府を出た。幕府側の動員兵力は約二十万、大坂冬の陣は数の上では敗けるはずのない戦だったのである。
 このとき福島正則や黒田長政、加藤嘉明などは江戸城に留め置きとされ、家康は端から豊臣恩顧の大名を信用していない。そして忠輝もまた江戸の留守居を命じられるが、これは江戸で不穏な動きが生じるのを監視するためと考えられる。しかし高田を天下の城下町にするためにやらねばならない事は山積みだった。
 城を東に配置して、西に家臣団の屋敷を構え、北は奥州道、南は信州街道、そして西は加賀街道を引きこんで、町は南北に走る北国街道に沿って作り、西の端には寺町を形成する。さらに町の街路はT字、L字、鍵型(かぎがた)、食い違い十字路などを駆使し、見通しのきかない屈曲した作りは敵の侵入と城の防御には最適である。その中心部はほとんどが福嶋城下にあった小町、紺屋町、田端町、春日町、直江町、善光寺町、長門町、中屋敷町を移す予定で、寄大工町や大鋸町(おおがまち)は城下町建設当初から、諸国から集められた大工職人などが移り住んだ場所である。
 そんなこんなで時間を割かれ、結局忠輝の出発はかなり遅れてしまうのだった──。

 十一月十九日、陣を張った家康は攻撃を開始し、三十日には徳川二十万の軍勢が大坂城を完全に包囲した。もはや秀頼の命運も尽きていたが、そこで奇跡を起こしたのが真田幸村である。世に知られる真田丸の戦い≠ヘ、徳川方二万近くの兵を相手に幸村五、〇〇〇ばかりの兵が完全勝利した伝説となった合戦だ。この戦いで徳川方は一万以上の兵を失ったと伝えられる。
 まさかの番狂わせに家康は焦った。総攻撃を提案する秀忠に、
 「侮ってはならん! 戦わずして勝つ事を考えよ!」
 と叱責して、降伏を促しつつときたま(とき)の声を挙げたり鉄砲を放っては威嚇を続け、やがて和議交渉が暗礁に乗り上げると、一斉砲撃を開始した。このとき使われた大砲というのが西洋より取り寄せたばかりの世界最先端のものも含まれていたから、その弾丸の飛距離は想像を越えていた。武装した三、四人の女房を従え兵達の鼓舞に奔走していた淀殿だったが、そのうちの一発が大坂城の天守を貫くと、その威力に恐れおののいた。
 「和議じゃ! 和議じゃ!」
 こうして、豊臣側は「本丸を残し二の丸、三の丸を破壊。惣構(そうがまえ)の南堀、西堀、東堀を埋めること。」「淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田長益(おだながます)より人質を出すこと。」を条件とし、徳川側は「秀頼の身の安全と本領の安堵。」「城中の諸士については不問とする。」ことを条件として和議が成立する。
 この戦における伊達政宗は、一八、〇〇〇の兵を率いて大和口に布陣したが、特に戦功を挙げることはなく、和議のあとの堀を埋める工事に従事しただけだった。
 家康と秀忠は大坂を離れた──。
 ところが徳川軍が去った直後から、大坂方は二の丸や三の丸の堀を再び掘り起こし、城門や櫓の修復をはじめたものだから、和睦条件の違約に対し、家康は秀頼に「浪人の解雇」か「豊臣家の大和または伊勢への移封」を要求するが、豊臣家はこれを二つとも拒否したために、ついに最終決戦が勃発する。これが世に言う『大坂夏の陣』である。
 この戦いには忠輝も参陣することになった。
 四月二十二日、京都の二条城に終結した徳川方は、約十五万の兵を京都から京街道を南下する河内方面軍と、奈良から西進する大和方面軍との二手に分けて攻撃することを決めた。伊達政宗は一万五、〇〇〇の兵を率いて大和方面軍四番手として、また松平忠輝は大和方面軍総大将として政宗の後方に布陣することになる。
 これに対して本丸の堀しか残されていない大坂勢は野戦で迎え撃つしか手がない。もはや勝ち目のない戦況に武器を投げ出し大坂城を去る者や、和議による解雇もあって、豊臣方の戦力は七万程度しか残っていなかった。
 将軍徳川秀忠は、この戦でなんとか戦功を挙げ、父家康に認めてもらおうといきりたっていた。というのは冬の陣の際に大失態を演じていたからである。『関ヶ原』での遅参の悪夢は彼を追い詰めていた。
 「今回は絶対に遅刻できない!」
 という強い思いは逆に進軍を急がせた。ところが彼の率いる兵の数は六万にもおよぶ大軍、急ぐあまりに兵士たちが付いて行けず、家康のところに到着した時には兵達が疲弊しきって、おまけに武器、弾薬も置き去りだったのだ。
 「ばっかもん! お前ひとり来てなんとする! 兵が疲れ切っていたら(いくさ)にもならん!」
 と家康の大激怒を買ったのだ。
 話はそこで終らない。今回も急いで大坂に向かうわけだが、中に主君秀忠に遅れをとった旗本長坂信時という男が、急ぐあまりに近江守山あたりで忠輝の軍列を追い越した。当時の軍法では乗り打ち(馬などに乗ったまま大名などの前を通り過ぎること)は下乗(げじょう)の礼≠欠いたとして切り捨て御免なのだ。
 「おい、待て!」
 忠輝は男の行く手を遮ってさし止めた。
 「急いでおります! お許し下さいませ!」
 「いや、ならん──」
 忠輝も元来気が短い。「無礼討ちじゃ!」とその場で斬り捨てたのだった。
 そんなことがあったものだから秀忠はますます機嫌が悪い。二条城での軍議の最中も終始イライラしてその鬱憤(うっぷん)が家臣の者たちにも降りかかる。たまたま外にいた忠輝の家臣が世間話のつもりで秀忠の家臣に、
 「どのような布陣になりますかな?」
 と話しかけた時、
 「こたびは忠輝の出る幕などない。お前らはその辺で川遊びでもしておれ」
 と横柄(おうへい)な態度で応えたものだから、忠輝の家臣はかっと頭に血をのぼらせた。もともと短気な忠輝を主君としている上に、戦の前とあってはただでさえ血の気も多い。
 「愚弄(ぐろう)するか! 曲がりなりにも大御所様のお子である忠輝様に、川遊びでもしておれとは聞き捨てならん!」
 いきなり腰の刀を引き抜いて、ばさりと秀忠の家臣を斬り捨ててしまった。二条城は大騒ぎ。それを聞きつけた家康は「内輪喧嘩(うちわげんか)もたいがいにせい! 沙汰は戦が終ったら言い渡す」と言って、そのときはこれで終った話である。
 ところがそれを聞いて伊達政宗も笑いながら忠輝に同じような事を言った。
 「この戦は戦う前からすでに決着がついておる。婿殿は川遊びでもしていればよろしい。なんならわしの手柄を半分婿殿に差し上げてもいいわい」
 と哄笑するものだから、忠輝はすっかり戦意を失った。
 そして決戦の火ぶたが切って落された五月六日早朝──。
 まず、徳川方の河内方面軍に対して豊臣方の後藤又兵衛が攻撃を開始して討ち死にする。豊臣勢はいったん誉田(ほんだ)まで兵を退くが、その後方を衝こうとした伊達政宗は一番いやな相手真田幸村と激突した。幸村五千の兵に政宗一万五千の兵はじりじり押され、ついには道明寺まで押し戻された。
 このとき疾風の如く忠輝の軍勢が現われ──れば良かったのだが、戦意喪失の当の本人は言われた通りに近くの河原で水遊びをしていた。
 「殿っお! たいへんでございます、伊達勢(だてぜい)が押されております!」
 「なんだとぉ!」
 慌てて具足を身に着け出陣するも、すでに戦いは終っていて、
 「いやあ、面目ない!」
 と政宗は頭を掻いて笑って言ったが、忠輝は遅参の将≠ニいう拭えない汚名を背負うことになってしまった。
 この日は豊臣方の木村重成も戦死、長宗我部盛親も敗退し、豊臣勢は大坂城近郊に追い詰めらた状態のまま徳川優勢で日が暮れた。真田幸村は茶臼山に本陣を布き、決着の五月七日を迎える──その戦いは様々に語り継がれているところなのでここではあえて触れない。
 勝利した家康はこの年の七月、『応仁の乱』以来一五〇年近くにわたって続いた戦国の世に終止符を打ち、名実ともに天下平定の元和偃武(げんなえんぶ)≠打ち立てた。



 大坂の陣が終ると忠輝はそそくさと国許に帰った。遅参≠ニいう汚名に後ろ指を指されることにも屈辱を感じていたし、なにより高田城下ではやらねばならないことが山ほどあった。ところが朝廷に戦勝報告をする家康は、忠輝を共に参内(さんだい)させようと言い出した。この時彼は既に大坂にいない。居残りの家臣が早馬で報せに来ると蒼白になって、
 「病気で動けんと伝えよ!」
 と急ぎ返すが、秀忠の家臣斬り捨て≠ノ戦場遅参=Aさらには参内命令辞退≠ニ三拍子揃っては家康が激怒するのも無理はなかった。
 「以後二度と会わん!」
 勘当(かんどう)とも言える厳しい処分を言い渡されて、忠輝は愕然と肩を落す。
 しかし高田城下に響く槌音(つちおと)は俄かに彼を元気づけ、五郎八(いろは)の手を取っては城を飛び出した。そこには健気に生きる庶民たちの息づかいがあり、
 「この者たちが城を支えてくれているのだ──」
 と思うと忠輝の目頭は熱くなる。
 ある日のことである。大手門を出た馬出しの辻に大勢の人だかりを見つけた。
 「なにごとか?」
 と顔を見合わせた忠輝と五郎八がそろりそろりと近づけば、群衆の視線の先では数人の瞽女(ごぜ)が三味線を奏で、楽しそうな瞽女唄(ごぜうた)を唄っているではないか。
 「面白そう! 見て行きましょうよ!」
 と五郎八が言うので、二人は腰を下ろしてすっかりその芸に見入ってしまったのだった。

♪なんぼ狐の子じゃとても 腹は十月(とつき)の仮の宿
 御身(おんみ)保名(やすな)の種じゃもの あとの仕入れは(はは)さんと
 皆人々に褒められなば 母は陰にて喜ぶぞえ
 必ず必ず別れても 母はそなたの影身に添い 行く末長く守るぞえ
 とは言うものの振り捨てて これがなんと帰らりょう
 名残り惜しいや可愛やな 離れがたないこち寄れと
 膝に抱き上げ抱きしめ 顔つくづくと打ちながめ
 これのう可愛や童子丸(どうじまる) これ今生(こんじょう)暇乞(いとまご)い……

 「これ知ってる……」
 と五郎八(いろは)が言った。聞けば信太妻(しのだづま)の物語≠セと教える。忠輝は五郎八が飼う片目の白狐葛之葉(くずのは)≠思い出す。
 瞽女(ごぜ)は女の盲人芸能者のことで盲御前(めくらごぜん)≠ニも言った。一方男のそれは座頭(ざとう)≠ニ呼ばれ、江戸時代は一つの立派な職業として幕府から公認されており、彼女らは全国を巡る旅芸人として生計を立てる。どういうわけか越後の瞽女(ごぜ)は昭和中期まで継承されたほど盛んで、それほど越後には盲人女性が多かったものか。降り積もる雪の強い光が眼から光を奪うのだとも言われるが、このとき忠輝が目にした瞽女(ごぜ)たちは、高田城下の形成に伴なって移り住んできたものと思われた。
 盲人芸能といえば『平家物語』の琵琶法師(びわほうし)≠ェ有名だが、古くは平安時代仁明天皇(にんみょうてんのう)(在位期間天長十年(八三三)〜嘉祥三年(八五〇))の頃にまでさかのぼる。その第四皇子である人康親王(さねやすしんのう)は若くして失明し、そのため出家して隠遁(いんとん)生活を送った。その際同じ盲人たちを集め琵琶や管絃(かんげん)、詩歌を教えたと言う。その死後、側に仕えていた盲人に検校(けんぎょう)と呼ばれる盲人の役職が与えられ、これが後に盲官の最高位として定着した。琵琶法師は検校≠ニか別当(べっとう)≠ニか勾当(こうとう)≠ニか座頭(ざとう)≠ニか呼ばれるが、これらはみな役職の名で、鎌倉の頃から当道座(とうどうざ)≠ニ言われる自治的な互助組織が作られるようになり、それは江戸時代に入ると寺社奉行の管轄下で引き継がれる。つまり座頭(ざとう)≠フ『座』もいわゆる職能組合のことで、江戸幕府は障害者を保護するため排他的で独占的な職種を容認することでその経済的自立を図ろうとしたのである。女性の盲人においては瞽女(ごぜ)座≠ェ存在し、彼ら彼女らの仕事は旅芸人や演奏家などにとどまらず、按摩(あんま)鍼灸(しんきゅう)などにも職種を広げることになる。
 演奏が終ると忠輝は手を叩いて称嘆(しょうたん)した。そして城から鍋などを持って来させると、煮物を作って囲んで談笑したばかりか、彼女たちが旅先で知った情報を提供してもらうかわりに屋敷を与え、高田城下に住まわせるのだった。

 大坂の陣より半年ばかり過ぎた頃、徳川家康は体調を崩して倒れた。人生五十年と言われていた当時、御年数えで七十五と言えば大層な長生きである。
 高田城にその報せが届くと、まだ雪が残る北国街道を忠輝は馬を走らせ駿府へ向かった。ところがそこにはすでに秀忠がいて、
 「何しに来た。大御所様はお前とは会わん、帰れ!」
 とけんもほろろに、面会謝絶を(こうむ)るのだった。
 「私は兄上に会いに来たのではない。父上にお会いしに来たのだ! 通せ!」
 と食い下がったが、大坂夏の陣での出来事は予てからの兄弟間の確執を深め、その感情は怨恨へと変わっていた。ついに対面が叶わなかった忠輝は、仕方なく駿府城下の禅寺に寓居して、父家康の快復を祈りつつ、これまでの至らなかった行動を反省するうちに、ついに家康は薨去(こうきょ)する。時に元和二年(一六一六)四月十七日巳の刻(午前十時ごろ)のことである。
 寺で座禅を組んでいた忠輝のもとに母茶阿局(ちゃあのつぼね)が来てそのことを伝えた。そして懐に(いだ)いていた風呂敷包みから一節切(ひとよぎり)の縦笛を大切そうに取り出すと、
 「大御所様からでございます……形見にせよと……」
 と言って涙と一緒に手渡した。
 「父上から──?」
 それは乃可勢(のかぜ)の笛で、かつては織田信長が愛し、後に豊臣秀吉の手に渡り、そして家康の手へと伝わった『天下人の笛』と称される名器である。

 野に出てひとたびその笛を吹けば、大地から十万の鎧武者(よろいむしゃ)が湧き()ずる──

 そう伝わる戦国三英傑の秘宝だった。
 「なぜ私に?」
 「それはわたくしにも分かりません……ご自分でお考え下さい──」
 父には生まれた時から軽くあしらわれて来たと思い込んでいた忠輝は、このとき初めて父の大きな愛に触れた気がして、男泣きに涙をこぼした。そして家康の本当の心を探りながら悲し気な音色を響かせるのである。

 将軍秀忠を支えよ──
 お前は外から徳川幕府を監視せよ──
 それでも万一秀忠が偃武(えんぶ)の世を乱す時は、野に出てこの笛を吹くがよい──

 茶阿局(ちゃあのつぼね)はその笛の音に見送られ、やがて静かに禅寺を後にした。こののち髪を下ろし、朝覚院と号す。
 ところがどこで漏れたかその噂が、伊達政宗と結託した松平忠輝の幕府転覆の陰謀話となって、東海道を通って江戸にまで伝わった。それは当時来日していたイギリスの貿易商人リチャード・コックスの日記にも記されるほどで、世の風評というものは、真実を隠して桜前線のように、瞬く間に民の間に面白可笑(おもしろおかし)しく広がるものか。その風聞を耳にした秀忠は、いみじくも十万のキリシタン大名の蜂起(ほうき)を連想して震え上がった。
 忠輝が高田城に戻って七月六日のことである。江戸の将軍秀忠より一つの沙汰が下された。

 改易──伊勢国朝熊(あさま)へ配流──

 忠輝は目を疑った。
 その表向きの理由は、大坂夏の陣において総大将を務めながらも遅参したうえに戦功を挙げなかった事と、朝廷に戦勝の奏上をする際病気を理由に参内しなかった事、そして将軍秀忠の旗本斬殺の責任を負うものであるが、忠輝には秀忠が自分を陥れようとする訳が次から次へと浮かんだ。
 一つは妻の五郎八(いろは)がキリシタンであると疑っていること、一つは大坂の陣での怠戦は豊臣方にキリシタンが多かったための同情心だと誤解されていること、一つは舅の伊達政宗の勢力を怖れていること、一つは幕府内で大きな影響力を持った大久保長安と近しい関係であったこと、一つはその長安の血筋の者と婚姻関係を結んでいること、一つは幕府転覆の噂に警戒していること、一つは乃可勢(のかぜ)の笛を家康から授かったことへの嫉妬……少し考えただけで幕府の基盤を揺るがしかねない不安材料ばかりなのだ。
 忠輝は懐の乃可勢(のかぜ)の笛を握りしめて、
 「甘んじて受け入れるしかあるまい──」
 と眼を閉じた。
 華やかな扇面図(せんめんず)が描かれた襖絵(ふすまえ)に囲まれた薄暗い空間で、五郎八(いろは)は一人泣いていた。淡い紫に赤や黄色をあしらった色艶やかな着物をまとい、もう二十歳を過ぎているというのにその顔はまだ子供のようにあどけなく、膝に抱えた葛之葉の白い毛並みを右手で()でながら、こぼれる涙で濡らした。
 「五郎八(いろは)、入るぞ……」
 開いた襖の間から忠輝が寂しげな顔をのぞかせると、五郎八は慌てて左手で涙を拭い、その手に握られた誰かからの書状をよれよれと濡らす。
 「泣いているのか……?」
 忠輝は自分の悲しみを隠すように優しく聞いた。
 「父上が仙台に戻れと申します。けれど私は殿と離れ離れになるのは嫌でございます……」
 五郎八は忠輝の懐に抱かれた。
 「わしとて不本意じゃ……」
 「いっそ二人で死にましょう──」
 その言葉の中に忠輝は、彼女の死ぬ≠ニいう覚悟の向こう側にあるはずの永遠の楽園の光を見た気がした。しかし、
 「それはできぬ──」
 と小さく言った。
 「わしには父上から託された、どうしても護らねばならぬ約束があるのだからね……」
 そしてすすり泣く彼女のか弱い身体を、一層強く抱きしめた。
 「広間に瞽女(ごぜ)さんを呼んでおる。ほうれ、以前馬出しで見てより気に入っていただろう? 最後の別れの盃を交わそう」
 そうして広間に場所を移せば、部屋の中央に二人分の(ぜん)が用意され、深い森を描いたきらびやかな屏風の前には、老婆とまだ年端もいかない十くらいの二人の瞽女(ごぜ)が、まだ新しい畳に額を押し付けていた。忠輝と五郎八(いろは)はまるで祝言でも挙げるように、やがてゆっくりと膳の前に正座した。
 「始めてくれ──」
 すると老婆の瞽女(ごぜ)は三味線の弦をバチで「ビンッ」と奏で、自己紹介を即興の歌にして唄い始めた。
 「♪今宵(こよい)お城に召し(いだ)されるは、身に余りたる光栄なれど、ただいま一座は全国を旅する巡業なれば、留守居の老婆とこれにおわす見習いのおさと(○○○)がお相手仕ります。三味を弾きたるこの老婆は、今は梅干し婆さんなれど、右大臣織田さま(織田信長)がお隠れになった頃は、鬼もほころぶとは私の事で、旅回りのお宿お宿で蝶よ花よと持てはやされたものでございます。ところが生まれながらにわたしゃ目が見えぬ。だから(おの)が姿をただの一度も見たことがございませぬ──」
 五郎八(いろは)は「ふっ」と吹き出した。忠輝は紅色した蓬菜(ほうらい)(さかずき)を彼女に持たせ、酒を注いで二人で天井を仰いだ。
 「♪さて婆さんの話はこれくらいにして、隣にましますこのおさと(○○○)、生まれは和泉国(いずみのくに)信太村(しのだむら)、五つの時の病にて、光を失ってよりずっと国で(ほう)けておりました──」
 すると、おさと(○○○)と紹介された童女の瞽女(ごぜ)は、抱えた三味線を「ビ、ビンっ」と鳴らし、老婆の唄に加わった。
 「♪我が身を深い闇に置き、六つにして世の無常を悟りなば、いっそ生きてもしょうなしと、父より授かりし小柄(こづか)にて、身を裂いて何度死のうと思ったか──」
 おさと(○○○)は三味の手を休めると、懐から「これがその小柄(こづか)でございます」と言わんばかりにかざして見せて、やがて膝元に静かに置いた。
 「♪そのときどこからか三味の(おと)、その()に誘われ出てみれば、辻にて三味弾く越後瞽女(ごぜ)、見えぬ目よりか涙がぼろぼろこぼれます。それにて私は国を捨て、今は高田の一座に身をやつし、弟子見習いの身分であれど、次の春より巡業のお供をする所存──」
 「♪今宵この二人にて披露させていただきます演目は、おさと(○○○)が国は和泉に伝わる信太妻(しのだづま)=B最後までごゆるりお聞きくださいませ──」
 忠輝と五郎八(いろは)は顔を見合わせた。そして五郎八は膝に抱いた葛之葉の白い毛並みを撫でながら「お前のお話よ」と囁いた。

 「♪さればに、アーよりてはこれにまた
 古き文句に候えど ものの哀れを尋ねれば
 むかし信太の森の白狐 変化(へんげ)に葛の葉子別れを
 事細やかには読めねども あらあら読み上げ奉る──」

 忠輝と五郎八は拍手を送ると、(さかずき)の酒を口に含みながら膳に箸をつけて耳を傾けた。

♪母は信太のくれ狐 身の置きどころがないわいの
 どうしょうぞえの童子やと嘆き給えば童子丸(どうじまる)
 たんだ五つの幼子は母の言うこと聞き分けて
 申し上げます母様へ あなたは狐と言わしゃんすが
 狐の腹から生まれたなら 童子も狐でござんしょの
 お前の行かんす信太とやらへ 私も一緒に行きたいと
 言う子の顔が見納めか これがこの世の別れかと
 思い廻せば廻すほど これが泣かずにおらりょうか……

 その物語はどこか忠輝と五郎八(いろは)の境遇と重なった。白狐が変じた妻葛の葉姫は五郎八姫、夫の保名(やすな)と童子丸は忠輝で、いま今生のお別れに、涙をこらえて見つめ合う。思えば二人に子はなかったが、福嶋城の海で拾った葛之葉が、五郎八にとっては我が子のようだった。
 瞽女(ごぜ)の物語が次の段に入ろうとしたときだった──。

♪たちまち千年(こう)ったる白狐と現れて
 天(にわ)かにかき曇り 狐火四方へぱっとあげ……

 五郎八(いろは)の膝に抱えられた葛之葉(くずのは)が、突然七、八尺ほどの高さに飛び跳ねて、五郎八の膝の前の畳に着地したかと思うと、両耳と長い尻尾をピンと立て、おさと(○○○)の方をジッと見つめたまま石になったように動かくなった。そのとき同時に三味線の音も止まり、おさと(○○○)はその気配を感じた五郎八(いろは)の方を見つめて、
 「きれい……」
 と呟いた。忠輝は不思議に思って、
 「おぬし、目が見えぬのではないのか? 五郎八(いろは)の姿が見えるのか?」
 「はい、神々しいまでの御姫様の姿が見えまする。お近くに寄ってもかまいませぬか?」
 五郎八は少し恥ずかしそうに忠輝を見つめ、やがて「かまわぬ。こっちへ来い」と言った。
 おさとは静かに立ちあがると、暗闇で辺りの障害物を探りながら注意深く前へ進むときのように、両手を前にかざして五郎八の方へと歩み寄った。
 「その眩しい胸の十字の首飾りは何でございましょう?」
 おさと(○○○)の言葉に五郎八(いろは)は首を傾げた。十字架のネックレスは今は自分の首になく、葛之葉(くずのは)の首にかかっているのだ。
 すると突然老婆が悲鳴に似たしゃがれ声で、
 「おさと、行ってはならぬキツネじゃ!」
 叫んだと思うと、手探りで彼女が座っていた座布団の前に置かれた小柄(こづか)を掴むと、まるで獲物を狙うムササビの如く五郎八の方に駆け寄ると、そのまま葛之葉の左目を突き刺した。
 飛び散る血しぶきに葛之葉(くずのは)は「ぎゃあ!」という悲鳴をあげて、哀れ完全に光を失った白狐は、部屋を逃げ回り、身体を何度も壁にぶつけながら、やがて騒ぎに驚いた家臣が開けた襖の隙間から外に飛び出して、そのまま二度と帰ることはなかった。
 「何をするか!」
 五郎八(いろは)は気が狂ったように激怒した。しかし老婆はむしろ良い事をしたのだと言うように、
 「あれは和泉国は信太が森に棲む千年生きる白狐、その身野干(やかん)にして冥途(めいど)の遣いじゃ。たびたび人の世に現じて幸いをむさぼり喰うと言う。よもや同郷のおさと(○○○)の匂いを嗅いで、また再び人を騙そうと美しき姫の姿に変化(へんげ)したものに相違ない──」
 「たわごとを申すな!」
 五郎八は「わん」と声をあげ部屋を飛び出した。自分の境遇を受け入れている忠輝は、いまさら怒る気力もなくて、
 「最後の別れが台無しじゃ……」
 口惜しそうにつぶやいて、盃の酒を飲み干した。
 「我ら(めしい)は光を見ることは出来ませんが、その分闇の声を聴くことができるのでございます。今宵の事はお殿様を思ってした事にございますが、もし無礼に値するものであったなら、どうぞこの老婆をお斬り捨て下さいませ。しかしおさと(○○○)は未来ある童女。この老婆の命に免じて、どうか、どうか、命だけはお助け下さいまし──」
 「もうよい、帰れ……」
 こうして何日かの後、五郎八は江戸伊達藩邸より(まか)り越した駕籠(かご)に乗って高田城を去り、忠輝もまた、信濃より護送に来た真田信之と千石忠政のお縄に繋がれ伊勢国は朝熊に送られる。
 その後忠輝は、流罪の身のまま飛騨国高山に預けられ、最後は信濃国諏訪の高島城に幽閉されて、天和三年(一六八三)七月、家康から授かった乃可勢(のかぜ)の笛と五郎八姫と最後の盃を交わした蓬菜(ほうらい)(さかずき)を抱きしめて、九十二年の生涯の幕を閉じた。一方五郎八姫は、離縁させられてから母愛姫の住む江戸に送られるが、その後政宗の仙台城に移り住み、生涯再婚することはなかったと伝わる。



 新潟後家(にいがたごけ) 新発田(しばた)かぼちゃに弥彦山(やひこやま) 小千谷(おぢや)ちぢみに牛蒡三条(ごぼうさんじょう)

 越後名物の歌に誘われて、『水戸黄門記』に描かれた水戸光圀が高田城に訪れた頃、高田はその歴史において最大の繁栄期を迎えていた。城主は忠輝から酒井家次(いえつぐ)忠勝(ただかつ)父子の二代を経、松平忠昌(ただまさ)が二十五万九千石で入った後は、徳川四家と称される家格を持った松平光長が入城し、寛永元年(一六二四)から延宝九年(一六八一)までの五十七年間という長きに亘ってこの城を治めたのである。巷では、

 アーラみごとや高田のお城 城は白壁八ッ棟(やつむね)造り おおきはしらにほうき橋

 と手鞠歌(てまりうた)にも唄われ、その繁栄は江戸さながらだった。
 ところが光長の嫡子が病死したのをきっかけに『越後騒動』と呼ばれるお家騒動が勃発した。これに対して五代将軍徳川綱吉は、高田藩主松平光長を改易する。さらには本丸、二の丸、三の丸をそれぞれ別の藩主に託すのだが、この城の明け渡しにおける松平光長との戦争騒ぎは世間を大きく騒がした。
 結局高田は幕府直轄領となるが、その後再び高田藩が立藩されてからは、先の騒動の最悪のイメージが定着していて、貞享二年(一六八五) 稲葉正通(いなばまさみち)の移封理由は、親戚の若年寄が大老を暗殺した事件の連座であるし、寛保元年(一七四一)の榊原政永(さかきばらまさなが)の時などは、幕府の質素倹約令を無視した父榊原政岑(まさみね)の吉原での豪遊、そして吉原の大夫(たゆう)を身請けしてド派手な行列と祝宴を催したのを咎められたのが原因である。つまり江戸中期以降の高田城は、不始末を犯した大名の左遷先という位置付けのまま幕末を迎える。
 そんな時代の移り変わりを知ってか知らずか、()き手に引かれて褄折笠(つまおりがさ)が峠を越える──。

♪今日は水内(みのち)か明日は安曇(あずみ)か、旅の行く先きゃお宿の主人。
 どうぞ馬屋でも物置でも泊めておくんなさい。
 わしら目が見えぬから気にゃならぬ。
 唄だけ歌えば長居はせぬし、冬は高田へ帰らにゃならぬ。
 コンコン、コンコン……鳴く声は、
 アリャ葛之葉(めしい)の白狐。
 わしらと帰ろか高田のお城へ……。

 二〇二一年四月二十八日
(2021・04・20 高田城『上越市立歴史博物館』にて拾集)
 
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ブル()サマ
城郭拾集物語I 北海道五稜郭
五稜郭
函館奉行所
土方歳三

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 五稜郭(ごりょうかく)と言えば真っ先に星形五角形の堡塁(ほうるい)を思い浮かべる人も多いのだろう。
 そしてなんといっても幕末戊辰戦争(ぼしんせんそう)終焉を象徴する城である。
 この珍しい形状は全国的にも非常に珍しく、もともとは十六世紀のヨーロッパで考え出されたそうだが、西洋の城塞都市(じょうさいとし)の形がなぜ日本にあるのか? 五稜郭が完成したのは元治元年(一八六四)だが、建設が幕府に認められたのは安政元年(一八五五)末である。ペリーが来航して日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)が締結(嘉永七年(一八五四)三月)され下田と箱館(函館)が外国に開かれたとはいえ、鎖国が終わってまだ一年くらいしか経っていない。情報の流入がそれほど早かったとは考えづらいし、でなければ城を設計した武田斐三郎(あやさぶろう)にその知識があったものか? 彼は蘭学者である。
 否、そうでない──。
 安政二年(一八五五)六月頃からフランス軍艦が箱館湾にたびたび入港しては、箱館奉行に対して病人の上陸と養生(ようじょう)許可を要請していた。このときはまだフランスとの国交はなかったが、箱館奉行は人道的見地から幕府の了承を得ることなくこれを許可し、実行寺に病人と医師や看病人などを受け入れていたと言う。箱館は、国籍を問わず負傷兵を受け入れ手当てを施した赤十字精神発祥の地でもある。
 このときのフランス軍艦というのはシビル号、ウィルジニー号、コンスタンチーヌ号の三艘だが、特にコンスタンチーヌ号の時は六十五日間に及ぶ期間に渡り停泊し、その間、武田斐三郎は同艦の副艦長からパリ郊外にある城塞都市の絵図を示されたのだと言う。それが星型をした西洋の城塞都市だった──なるほど星形の尖った部分に鉄砲や大砲を配備すれば、どこを攻めても隙のない鉄壁の守りが出来る発想は当時の日本にはなかっただろう。
 その中心部に建つのが箱館奉行所である。
 開港当時の奉行所は箱館山の麓にあった。現在は山頂の展望台から見る夜景が有名な山である。そこは見晴らしが良く箱館の港と町が一望できた。ところが外国船の出入りが頻繁になると、見晴らしの良さは返って防衛上の欠点になり、しかも箱館港から五里四方を外国人の遊歩地としたため箱館山の背後から攻撃される心配も生じていた。そこで現在五稜郭がある地点へ移転されたというわけである。そこは港から約三キロメートルほど離れていたので海からの大砲の攻撃も避けられ、市中からそれほど離れてもいない。そして移転と同時に海岸防備として弁天岬台場(べんてんみさきだいば)もつくられた。
 筆者が五稜郭に行ったのは十一月も終り頃、北海道ではすでに雪が積もっていた。
 五稜郭タワーに登って雪に覆われたその白い五芒星(ごぼうせい)を上空から眺めていると、ふと、脇から何やら強い存在感を感じた。威圧にも似たその方向に目を移してみれば、そこにはブロンズ像となった土方歳三(ひじかたとしぞう)が椅子に座っているではないか! そしてほのかに笑みを浮かべて筆者にこう語り掛けるのである。
 「敗けると判っていながら、オレが最果ての蝦夷(えぞ)にまで追い詰められてなお、新政府の連中と戦った理由(わけ)が解かるかい? 男気とか意地とか近藤さんのこととか──そんな単純な事ばかりじゃないよ。まあ、解かってくれとは言わねえが、おめえさんに書けるもんなら書いてみな……」
 今回の物語は、そのとき土方さんから託された一つの約束である。



 慶応二年(一八六七)十二月八日、シャルル・シャノワーヌを団長としたフランス軍事顧問団の中にジュール・ブリュネという男がいた。船が横浜港に着岸したとき、彼は出迎えた在日フランス公使レオン・ロッシュと握手を交わすと、
 「自由の精神は我がフランスからその光を放つ──フランスに栄光あれ」
 と、遠くフランスのある方角に最敬礼して言った。
 文久元年(一八六二)に徳川幕府が派遣した遣欧使節団がフランのナポレオン三世と謁見して以来、幕府とフランスは急速に関係を縮める。幕府は優秀なフランス人技術者を日本に招き、横須賀や横浜に造船所や製鉄所の建設を開始し、フランス語伝習所を設けてその関係を深めていた。
 ところがこの頃の幕府というのは第二次長州征討に失敗し、軍隊の近代化は急務であった。そこで幕府はフランスから七〇〇万ドルに及ぶ資金融資と武器を購入し、砲兵、歩兵、騎兵の陸軍軍事養成を依頼すると、皇帝ナポレオン三世は開国したばかりの日本との関係を更に強めるためにフランスでも指折りの十五名の軍人で構成した対日軍事顧問団の派遣を決定した。ブリュネはその副団長を務めるのである。
 彼は一八三八年、フランス東部のアルザス地方、オー=ラン県ベルフォールで生まれた。父は、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン一世)失脚後の復古王政の下で働く、騎兵連隊付きの獣医であった。
 当時のフランスはナポレオン一世による第一帝政が崩壊し、一八三〇年の七月革命によって革命以前の王政が再び布かれていた。政治を安定させるため七月王政が利用したのは、かつてのナポレオン時代を追慕する民衆感情である。ナポレオンが着工したまま未完成だったエトワール広場の凱旋門を完成させ、ナポレオンの遺骸をセント・ヘレナ島からパリに帰還させたのもそのためだった。こうして民衆の間にボナパルティズム≠ニいう信仰とも言うべきものが定着し最高潮に達する。やがてボナパルティズム≠ヘフランスのみならずヨーロッパ全土へと広がり、ドイツのハイネやゲーテ、イギリスのカーライルなどにも大きな影響を与える。
 ところが産業革命期とも重なるこの時代のフランスは、資本主義の土台が築かれ経済を発展させた反面、著しい貧富の格差を生み、多くの民衆は貧困に喘ぐ悲惨な生活を余儀なくされていた。そのため社会は犯罪にまみれ、民衆の不満はナポレオンの帝政時代への憧憬(しょうけい)と、プロレタリアートによる社会主義への期待を目覚めさせ、やがて蜂起した民衆は一八四八年二月、国王ルイ・フィリップをロンドンへ追放してしまう。この二月革命が勃発したのがブリュネが十歳のときだった。
 その後しばらくの間フランスは第二共和政を()くが、同年六月に行なわれた憲法制定国民議会の補欠選挙に四県から選出されたのがルイ・ナポレオン・ボナパルトであった。後のナポレオン三世である。ところが当時ルイはロンドンに亡命中で、フランスに対して野心を持っていないことをアピールするため当選を辞退した。その行為がボナパルト家に同情を集める結果を招き、追放令が解除されるに到ると、九月に行なわれた補欠選挙に再度立候補し、またもや議員に選出された。今度はこれを受諾したルイはパリに帰還し、十一月に制定された第二共和政憲法の下で、十二月に大統領選挙が行なわれることになった。
 ルイ・ナポレオンはこの大統領選挙に立候補する。それはフランスにおける共和制と、自由と、民主主義国家の定着を意味するはずだった。ところが選挙に圧勝したルイ・ナポレオンは、大統領の再選を禁じている憲法をクーデターにより改正し、あろうことか独裁政権を樹立してナポレオン三世を名乗ったのだった。その有り様は、良いか悪いかは別にして、ナポレオン一世が皇帝に就任した時と重なりフランス国民は熱狂した。まさに共和制と帝政とは紙一重であり、ひとつ間違えば民衆を苦しめる強権政権にもなり得たはずだった。かの文豪ビクトル・ユゴーなどは、
 「農民よ、皇帝といえども二人いるのだ。偉大な皇帝と卑小な皇帝、光輝な皇帝と破廉恥な皇帝、大ナポレオンと小ナポレオンとがね!」
 「この甥は偉そうに伯父である皇帝の真似をしているだけなのに。ああ、なんということだ。あの広大無辺なナポレオンの光輝を消し去るには、甥のやったようなひどい汚辱の行為が必要だったのだ!」
 と痛烈に批判する。
 ともあれ、民衆の目にはナポレオン三世の出現はナポレオン一世の再来と映った。現にルイ・ナポレオン自身も伯父の跡を継いだという自覚と共に、その理想を実現しようとしていたのである。あらゆる党派をまとめ、その利益を平等たらしめようともしたし、国民一致による政治的統合を実現し、経済と社会の発展と国際関係の安定をはかろうと試みた。彼にとっては自らがボナパルティズム≠フ真の体現者であり、伯父をも凌駕しようとする野心もあったに相違ない。
 そして、ナポレオン一世がフランス革命の自由主義思想を広めた英雄としてヨーロッパ諸国に定着していた頃の、この第二帝政時代のフランスこそ、当時の幕府が頼りとしていた国だった。
 ブリュネの青年期は、この第二帝政時代とともにある。彼は理工科学を修めた後、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を卒業し、第三砲兵連隊の陸軍砲兵少尉となってメキシコに出征して功績をおさめると、国からレジオンドヌール勲章を授与され近衛砲兵連隊砲兵中尉に栄転した軍人エリートなのである。そしてブリュネの精神的支柱となっていたのもまたボナパルティズム≠ナあった。幕府はこのブリュネ大尉に対し三五〇ドルの給料を支給することを約束した(ちなみに団長のシャノワーヌは五〇〇ドル)。
 来日したブリュネらフランス軍事顧問団は、横浜の丘陵地帯に居留することになり、さっそく翌日から大田村伝習所で幕府が急ごしらえで作った伝習隊に軍事訓練を開始する。



 ちょうどその頃、オランダ留学を終え、幕府が発注した軍艦『開陽丸』に乗船して帰途の大海原に揺られる男がいた。名を榎本武揚(えのもとたけあき)と言う。
 天保七年(一八三六)、江戸下谷(したや)(現台東区)の御徒町(おかちまち)で生まれ、父は十七歳のとき江戸に出て伊能忠敬の弟子となり九州の測量にも同行した人物と伝わる。
 榎本武揚十五歳の時、神田湯島(かんだゆしま)昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に入学するもその成績は振るわず、その後は箱館奉行堀利熙(ほりとしひろ)の従者となって蝦夷地(えぞち)の箱館へ赴任し国境設定の調査で樺太(からふと)巡回にも同行した。二十一歳で昌平坂学問所に再入学した彼は、時の大目付役のコネ(○○)に預かって長崎海軍伝習所に入学するが、そのとき出会ったのが勝海舟である。そして伝習所から江戸に戻り、新しく開設された築地軍艦操練所の教授に抜擢されたのが安政五年(一八五八)のことだった。
 文久元年(一八六一)、幕府はオランダに軍艦建造を依頼するが、その監督を兼ねた留学生を派遣することになった。それに選抜されたのが榎本で、翌年六月、オランダ船に乗って品川沖から長崎経由でオランダへ向けて出府した。時に二十七歳の彼が、このときに体験した出来事は、彼にとって大きな転機となったであろう。
 風もなく波静かな船旅に、榎本の意気は天を衝くばかりに前途洋々としていた。ところがインド洋にかかって、ジャワ海の北東にさしかかった時である。船が暴風雨に襲われたちまち海中の暗礁に乗り上げた。嵐はますます激しくなり、山のような怒涛で今にも転覆する恐怖にとらわれていた暗夜、ふと見れば、オランダ人の船長が乗組員と共にボートで本船から逃げ去っていくという信じられない光景を見たのである。榎本ら留学生一行は、船長のない難波船に取り残されて、もはや海底に葬られるのを待つばかりだった。
 喉の渇きと飢えの苦しみに耐え、やがて地獄に垂れ下がってきた細い一本の蜘蛛の糸のように、遠くに一隻の船影を見たのは三日後の事だった。彼らは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)として白布を振って救援を求めた。それはイギリスの商船で、先方も難波船と知って近づいてきたから「助かった!」と留学生一行は抱き合って喜ぶが、近くまで来たイギリス船は遭難者が白人でないのを見て取ると、そのまま船首を返して去ってしまったのである。その落胆といったらいかばかりか。
 しかしその翌日、再び留学生一行を襲って来たのは嵐でなく今度は黒人の海賊船だった。生き延びるに必死の榎本は、咄嗟に日本刀を振りかざして海賊船に斬り込んだ。
 「命が惜しくば我らを島に送り届けよ!」
 逆に脅迫して付近の小島に上陸したのだった。
 そこはプロレパルという無人島。炎熱の太陽と毒虫に苦しめられて四日間、ようやく黒人の先導でジャワ島のバタビヤへ辿り着く。滞在中は、見たこともないパイナップルやバナナ、マンゴーなどの珍しい果実をたらふく食べたものだから、全員腹をこわしてひどい下痢になり、一行が列を作って頻繁に便所へ通う様子にホテルのオランダ婦人たちは窓から顔を出して笑い転げた。
 「何が可笑しい、べらんめえ!」
 榎本は日本語で大喝して拳を突き出したと言う。
 それから間もなく一行は、オランダ政府の好意によって便船を得てヨーロッパへと向かう。そうしてアフリカの南端喜望峰(きぼうほう)をめぐり、セントヘレナ島へ上陸してナポレオン一世の墓に詣でる機会を得た。
 このとき榎本の中で何かが目覚めた。その蓋世(がいせい)の英雄の墓の前から容易に立ちあがらずに、むくむくと込み上げる感慨のまま、次の漢詩を詠んだ。

 長林(ちょうりん)烟雨(えんう)鎖孤栖(こせいをとざす) 末路(まつろの)英雄意(えいゆうのい)伝迷(つたえまよう)
 今日(こんにち)弔来人(ちょうらいのひとを)不見(みず) 覇王(はおう)樹畔(じゅはん)列王鳴(れつおうめいす)

 セントヘレナ島は別名をロングウッド島と言うらしい。榎本はそれを長林≠ニ訳した。つまり、
 「セントヘレナは霧のような雨が降り、孤独の住処を鎖で繋いでいる。英雄の真実の心はいったい何なのか? 今となっては弔来する者もなく、覇王の樹や畔に列王の涙の声が聞こえるようだ」
 彼はあふれ出しそうな涙をおさえてナポレオン≠ニいう人物の存在を深く偲んだのである。このとき、彼の心にもボナパルティズム≠ェ芽吹いたものか。ナポレオンの勇姿は榎本にとって理想となり、目指すべき到達点として焼き付いた。偉大なものとの出会いは、小人を偉大へと導く。偉大な人が偉大な仕事をするのでなく、偉大な目標を持つから人は偉大になれるのだ!
 このあと榎本ら一行は目的地のオランダの首府アムステルダムにようやく到着するが、留学中の彼はオランダ語をはじめ機関学の研究に没頭し、そのほか船舶運用術、砲術、化学、国際法など学びながら、ときおり建造中の開陽丸の進捗を見に行ったり、デンマークとオーストリアとが戦争をしていると聞けば自ら望んで弾丸雨飛の戦線を馳駆(ちく)したり、見聞きする西洋文明の全てを吸収しようと力を尽くす。そのあいまを見つけてはナポレオンの哲学を学ぶのだった。
 こうしてオランダに留まること足掛け六年、開陽丸の竣成と共に、これに乗って帰国する。
 彼が江戸に戻ったのは慶応三年(一八六七)五月。以降、開陽丸艦長に任ぜられ、そして軍艦頭取、軍艦奉行と累進し、ついには従五位下の和泉守(いずみのかみ)へと叙任される。



 さて、榎本が日本に帰った頃、京都の西本願寺にいる土方歳三は新選組の屯所のことで頭を痛めていた。
 というのは元治元年(一八六四)七月の池田屋事件以来、新選組の評判がうなぎ登りに上がり、当時四十名程度だった隊士の数が二百名を越えるほどの大所帯となり、昨年(元治二年)五月に屯所を壬生(みぶ)の私邸から西本願寺に移したものの、その境内で行なわれる軍事演習で寺や周辺住民のことなどおかまいなしに二門の大砲を派手にぶっ放していたものだから、あるときその轟音で本堂の屋根瓦が崩れ落ちた。日頃から何かと血生臭い物騒な話も絶えなかったし、組織内の抗争も頻繁だった。つい最近も伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の新選組離党をめぐって、ひと騒動あったばかりなのだ。加えて、厳しい仏道修行を積む僧侶らの横目には隊士たちの勇ましい振る舞いがあまりに粗暴で、おまけに精進料理中心の寺の境内でぞんざいに肉を食われた日には、さすがの寺側も黙っていなかった。
 「いい加減にしてください! 訓練もよろしいが、どこか別の場所でやってくれませんか!」
 ついに寺の住職に退去を迫られ、
 「はて、どうしたものか……?」
 と、今年初めの長州征討に失敗した幕府と、それに連なる新選組の行く末を案じながら、鬼の副長≠ニ言われる彼に似合わぬため息を落とすのである。
 彼自らが中心となって定めた『新選組軍中法度』の中にも、「昼夜に限らず急変これ有候とも決して騒動致すべからず心静かに……云々」とある。この中の「騒動致すべからず」の言葉がひっかかる。もともと隊士の統率を図るための『局中法度』や『軍中法度』だが、この隊規は土方を表現するに最も正確にして的確と思うので記しておく。

『局中法度』
一、士道ニ背キ間敷事(まじきこと)
一、局ヲ脱スルヲ不許(ゆるさず)
一、勝手ニ金策致不可(いたすべからず)
一、勝手ニ訴訟取扱不可(とりあつかうべからず)
一、私ノ闘争ヲ不許(ゆるさず)

『軍中法度』
一、役所を堅く相守り、式法を乱すべからず、進退組頭の下知に従うべき事
一、敵味方強弱の批判、一切停止の事
一、昼夜に限らず急変これ有候(ありそうらえ)とも、決して騒動致すべからず心静かに身を堅め下知を待つべき事
一、組頭討死に及び候時、その組衆その場に於いて戦死を遂ぐべし。もし臆病を構えその虎口逃来る輩これ有るにおいては斬罪微罪その品に随ってこれを申渡すべく候、予て覚悟未練の働きこれ無き様、相たしなむべき事
一、烈しき虎口に於いて、組頭の外、死骸引退く事をなさず、終始その場を逃げず忠義を(ぬき)んずべき事

 この一字一句に対して土方歳三自身ものすごくストイックなのだ。自分に厳しい分隊士に対しても容赦しなかった。現にそのために粛清された隊士も大勢いるのだ。
 『決して騒動致すべからず──』
 だからと言って軍事演習を取り止めるわけにいかないし、かといって京都守護職会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)の耳に苦情があがって迷惑をかけるわけには絶対いかない。
 「住職、そうは申せ私らも幕府のお役目を担っているのだ。いったいどうすればよろしいか?」
 「うーん」と唸りながら土方は住職に言った。すると渋々住職は、
 「場所だけでも見つけていただけませんか? さすれば建物、引っ越しにかかる費用は一切西本願寺で持たせていただきますから……」
 と答えた。長年御仏(みほとけ)に仕える住職は、表面上はけっして弱味を見せない鬼の土方≠フ険しい表情の中に、人間味通う温かさをすっかり見抜いているのだった。
 「さようか!」
 こうして新選組は慶応三年(一八六七)六月、西本願寺からほど近い不動堂村に新たな屯所を建て移転していく。
 そしてちょうど同じ頃、文久三年以来の京都における新選組の働きが幕府に認められ、松平容保(まつだいらかたもり)の申し立てにより隊士一統は幕府直参に取り立てられた。このとき与えられた土方歳三の御役名は見廻組肝煎格(みまわりぐみきもいりかく)≠ナある。局長の近藤勇(こんどういさみ)は見廻組支配頭格(しはいがしらかく)≠ナ、旗本の御目見(おめみえ)以上≠フ格も授かり、将軍拝謁を許される身分となった。
 新しい屯所の広さは一町四方あまり。四方を高塀で囲み、表門、玄関、長屋に使者の間から長廊下まで、近藤や土方ら幹部の居間はもちろん、平隊士の部屋や客間や馬屋があって、物見櫓や中間小者部屋まであり、大風呂には三十人が一度に入れたと言う。それは大名屋敷にも匹敵する構えで、隊士の出入りは町をたいそう賑わせた。
 朝から始まる調練に、大砲の音が鳴り響けば近所から見物にやって来る者もある。幕府が軍制をフランス式に統一したのを受けて、新選組もオランダ式からフランス式の調練を行なうことになったのである。そんなもの珍しさも相まって、物見の町人たちの好奇心を煽ったのであろう。
 隊士たちの中には、調練が終わると町に繰り出す者もいた。そしてうろうろするうちに親しくなった家に寄っては茶や食事を馳走になる。おまけに花街島原も歩いてすぐのところなので、古参の隊士にしてみれば馴染みの芸妓のところに通ったり、最初に屯所が置かれた壬生に帰ったも同然だった。あるいはこの頃の新選組が、結成以来もっとも華やかな日々を謳歌していたかも知れない。
 しかしこの新居での生活は、僅か半年くらいしか続かなかった。
 この年の十月に『大政奉還』が成されたと思うと、十二月九日には『王政復古』の政変が起こり、新選組は京都から伏見へと追い出されていくことになる。



 榎本がオランダから江戸に着いた頃、ブリュネはシャノワーヌ団長と共にフランス公使団に伴なって大坂にいた将軍徳川慶喜を表敬訪問した。
 そこでフランス軍事使節団の日本における軍事組織計画の合意を見ると、いったん彼は横浜に戻り、六月に入って騎兵教育担当のオーギュスタン・デシャルム中尉を伴なって江戸に移った。砲兵隊と騎兵隊の訓練をするには横浜より江戸の方が有利な訓練場があって都合よく、九月には横浜の残りの伝習隊も江戸に合流させ、更にその組織を歩兵一、五〇〇人、騎兵三〇〇人、砲兵二五〇人に拡大し、最終的には軍全体として一万二、〇〇〇人の兵と五〇〇人の将校の規模で構成させる計画なのである。
 ブリュネが江戸に移ってすぐの慶応三年(一八六七)六月五日には、同じく江戸に移された部隊、つまり歩兵大隊と二門の大砲、そして騎兵隊による江戸城の周りを行進するパレードが盛大に執り行われた。先頭を務める軍服姿の三人の男はラッパを高らかに吹き鳴らし、その後を笠をかぶった二人の士官が馬に乗り、その身なりは筒袖(つつそで)段袋(だんぶくろ)、足にはブーツを履いて、上にレキション羽織を羽織って刀を高くかざして続く。さらに駄馬(だば)を引く歩兵が延々続き、沿道は驚愕を隠せない市井の人だかりができていた。
 その光景をサラサラと、洋画紙にスケッチする青い目の男が人混みに紛れていた──彼こそブリュネで、まだ写真が一般的でない当時、顧問団の中では優れた画才を活かして記録係的な役割も担っているというわけだった。
 実はブリュネは来日して間もなくの頃より江戸に入って、市中の探索を兼ねて城や周辺の地形、あるいは町の庶民の生活の様子や文化などを気ままにスケッチして回っていたのである。幕府は大手門にほど近いところの屋敷を彼らに提供したので、そこを拠点に彼らの生活は至って快適だった。だからブリュネは好きな時に屋敷を出ては、見たこともない異国情緒に支配された摩訶不思議な大江戸の町の息づかいを肌で感じていたのである。そして瞬く間に日本≠ニいう国の魅力に取りつかれ、我を忘れてスケッチに没頭するのであった。
 「もし──ブルネさま……?」
 彼のスケッチの手を止めたのは一人の町娘だった。
 「オトミ、サン!」
 思わずブリュネはたどたどしい日本語の声を上げた。
 それは前回江戸に来ていた十二月の寒い日だった。外に出れば吐く息は白く、それでも町の様子を探索しようとぶらぶら街中を歩いていると、瀬戸物を扱う商人の店の前だったか一人の町娘が店番をしているのを見かけた。ブリュネはたちまちその娘が身にまとっていた艶やかな着物の美しさに目を奪われ、
 「チョット、イイデスカ?」
 そう言って娘の手を引き近くにあった大きな石の上に座らせると、カバンの中から水彩絵の具を取り出して、かじかむ手をさすりながらサラサラとスケッチを始めた。そうして小一時間ばかりフランス語と日本語のちぐはぐな会話を繰り返しながら『江戸の商人の娘』と題する一枚の絵を描き上げた──。
 ブリュネに話し掛けてきた娘は、そのとき名をトミ≠ニ名乗った女性に違いない。
 「まあ、お上手!」
 この日以来、二人はたびたび会うようになり、ブリュネは異国での孤独の寂しさを埋めるように、またトミは異邦人への憧れを追い求めるように、やがて二人は恋に落ち、ついには一緒に暮らす関係になったのである。
 ところが二人の幸せな生活は長くは続かなかった──二百五十年近く続いた泰平の世に、突然政変が巻き起こったのだ。
 慶応三年十月十五日、徳川慶喜が突如として政権を天皇に返上(『大政奉還』)したかと思うと、十二月九日には『大政復古の大号令』によって天皇の名のもと慶喜が政治の舞台から排除されたのだ。京都を追われ大阪城に入った慶喜は十二日、黒書院にフランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロイセン、オランダの各国公使を集め、
 「諸外国との外交権限は、引き続き朝廷ではなく私が掌握する」
 と宣言し、外国勢力の介入を視野に入れた防衛策を講じるのであった。
 ところが江戸では、慶喜失脚を待っていたかのように、薩摩藩浪士が強盗、放火などのいわゆる御用盗(ごようとう)事件(テロ)を連日のように引き起こし、江戸市民の不安を煽り立てた。ついに幕府は十二月二十五日、薩摩藩邸の焼き討ちを決定するのである。
 いよいよブリュネ達が一年以上に渡って育成してきた伝習隊をはじめとしたフランス式幕府兵出陣の時を迎えたわけである。ブリュネはその陣頭指揮を執って見事江戸の薩摩藩を壊滅せしめたのだが、この際逃亡をはかった薩摩藩士が同国藩船『翔凰丸』に飛び乗ったのを見て、ブリュネも榎本武揚が艦長を務める『開陽丸』に乗り込むと、
 「アノ船ヲ追跡シロ!」
 と、そのまま大坂までやって来た。まさか別れの言葉もないままそんな事態になっていようとは知る由もないトミは、哀れそのまま江戸に取り残されたわけだった。
 大坂湾に入った開陽丸は、そのまま兵庫港に停泊中の富士山丸、蟠竜丸、翔鶴丸、順動丸などの幕府艦と共に大坂警備に就くが、年が明けて一月二日、港を出港する薩摩艦『平運丸』に空砲で停船を命じたところ、平運丸はこれに応じなかったものだから実弾砲撃を開始した。ところがその翌日、薩摩藩が猛烈に抗議したので、それに対して、
 「国際法に則った正当な砲撃である!」
 と突っぱねたのは榎本ではなくブリュネであった。皮肉にもこの出来事が直接的な引き金となって鳥羽・伏見の戦いが勃発したのだった。しかし蒸気機関四〇〇馬力、射程距離が三、九〇〇メートルとも言われる当時最先端のクルップ砲を十八門も装備した開陽丸の強いのなんの──阿波沖では薩摩藩の軍艦を次々砲撃して海では幕府が圧倒的な勝利を得たのである。ところが陸の方では鳥羽と伏見で衝突した幕府軍はあえなく敗れ、その報を知ったブリュネと榎本は慶喜に会うため開陽丸を降り大坂城へ向かうが、既にそこに慶喜の姿はなく、
 「公方様は江戸へ向かわれた──」
 という信じられない現実を伝えられたのである。二人が港へ取って返した時には開陽丸は夢幻の如く消えていて、あろうことか慶喜が副艦長澤太郎左衛門に命じて大坂を出航したことは後で知らされた。いずれにせよブリュネと榎本は置き去りにされたわけである。
 仕方なく、大坂城に残された金十八万両と、書類や重要什器、刀剣類などを富士山丸に積み込んだ二人は、慶喜が江戸に到着した一月十二日に大坂を出航する。
 ようやく江戸に戻ったブリュネにトミは言った。
 「ブルネさま……いったいどこに行ってたのよ!」
 髭もそらず何日も風呂にも入っていない彼の身体に彼女は抱きついて涙を流した。しかしこのとき虚ろなブリュネの視線は、どこか遠くの方を漠然と見つめていた。



 江戸に戻った徳川慶喜は、それからすぐにフランス軍事顧問団のシャノワーヌ団長とブリュネ大尉、そしてデシャルム中尉とデュ・ブスケ中尉を江戸城に呼び助言を求めた。つまり彼らは慶喜と直接接触できた最初の外国人なのである。ちょうど時を同じくしてフランス公使レオン・ロッシュも、次々と江戸に入港するアメリカ、プロイセン、イタリア、オランダに対して幕府を支援するよう様々な政策を講じていたが、結局慶喜は、天皇を抱え込んだ反乱軍を新政府軍と容認するしかなく、慶応四年一月二十五日に上野の寛永寺に謹慎してしまうと、英米蘭伊普仏の六ケ国は戊辰戦争に対する局外中立を宣言した。それを受けてレオン・ロッシュは辞任を表明し、間もなく日本を後にした。慶喜を失ったこの時点で、フランス軍事顧問団のミッションは継続不能となり、全員横浜に引き揚げたのだった。
 四月十一日、幕府は江戸城を新政府軍に引き渡し、このとき徳川幕府は完全に消え去った──。
 しかし滅びゆく者の側に立つ者の感情というのはそれを許すはずがない。歴史は常に、新しい時代を切り開く者と滅びゆく者との対局する思念が激しくぶつかり合うところに作られるものなのだ。つまり歴史とは、その時を生きる人間の不可解な感情によって織りなす壮大なドラマである。
 このとき海軍副総裁だった榎本は、事実上の幕府海軍のトップであったが、勝海舟が執った無条件降伏という判断に納得いかなかった。しかし勝は榎本より更に上の役職であるため、それを口にすることができなかったが、殊、江戸城明け渡しと同時に、降伏条件の一つとして勝海舟が、
 「今すぐに、幕府軍艦の全てを朝廷に引き渡しなさい」
 と言った言葉に榎本は思わず喰いついた。
 「勝先生、何をおっしゃいます! これらの船は全部徳川家が買ったものです。天皇の衣を着た狐どもに引き渡たさねばならん道理がどこにあるのですか!」
 「戦争に敗けたからさ。言う通りにしなよ」
 「お言葉ですが、今日は波風が強いので、引き渡しは明日に延期されたい」
 そう言い放って、榎本はその夜、艦隊を卒いて館山港に逃れた。しかしその翌日も、
 「徳川家の領地禄高が決まるまで、軍艦の引き渡しは延期されたい」
 という意味の嘆願書を海軍に提出したので、狼狽した旧幕府側は勝海舟を遣わして大久保利通との斡旋を試みた。結果、旧幕府艦八隻の内、富士山丸以下四艦は朝廷に納め、開陽丸、回天丸、蟠竜丸、陽春丸の四艦はそのまま徳川氏に保有させることとして一応の落着を見たのだった。榎本は江戸に戻って勝と会った。
 「おいおい榎本、あんまり駄々をこねてわしを困らせるな」
 「勝先生は本当にこの国を新政府の手に渡して良いとお思いですか? あんな奴らに政治を行なわせたら、もはやこの世に道義というものが消え失せます!」
 「無理が通れば道理も義も引っ込んじまうのさ。儒学に染まったお前たちに分かりやすく言うなら、それが天命というものさ」
 「天命がなんだと言うのです! ヨーロッパ全土を統一しようとしたかのナポレオンは、自由と平等と友愛の名の下にフランスを世界有数の国家にしたではありませんか!」
 「ナポレオン……? おお、そうか、君はフランスかぶれだったね。なら聞くが、お前さんならいったいどうすると言うのかね?」
 榎本は言葉を詰まらせた。しかし暫く考えてこう答えた。
 「亀之助様をお連れし、箱館に行こうかと……。そして蝦夷に、徳川家による真に民主的な新しい徳川国を建国してはと思います」
 亀之助(後の徳川家達)とは、慶喜が上野の寛永寺に謹慎中、次期徳川宗家の跡継ぎに決められ、新政府から承認も得ていた男である。男といってもこのときはまだ五歳の童子で、勝は腹を抱えて笑い出した。
 「まあ、言うのはただ(○○)だが、新政府に知れたら即打ち首だな。ここだけの話にしておいてやるから、悪いことは言わねえ、お前さんは館山に屯集している者を鎮撫して、常陸の多賀へ脱走している者らも降参させるよう尽力せい」
 「おそらく館山の彼らも、そして江戸に留まっている彰義隊の連中もけっして降伏することはないと思われます。これは天命でなく徳川の血なのです。もう誰にも止めることはできないでしょうね」
 榎本は脅迫めいた言葉を残して勝のもとを去った。案の定、それから一月も経たないうちに彰義隊が蜂起し、上野戦争(慶応四年五月十五日)が勃発する。しかし新政府軍はそれをたちどころに鎮圧した。
 するとその残党たちは、次々と榎本の開陽丸に助けを求めて逃れ隠れた。巷では榎本が仙台藩や米沢藩とも内通しているとの噂も立って、近日中に開陽丸で駿府に送られる予定の田安亀之助輸送のこともあり、「脱走するのではないか? 官軍に知れたら大変だ」と、旧幕府内では中老に説得に行ってもらおうという話まで持ちあがっていた。そして間もなく亀之助の出発の日取りも決まった時、いやな予感を拭えない勝は、榎本に対し、
 「その後の進退はいかがか? 妙な気を起こすんじゃないよ。軽挙してはならん。お前さんがしなければならない仕事を忠実に尽力せよ」
 との使いを送った。それに対して彼から届いた書状には、なんとも穏やかな文面が綴られていたので、勝は盛んに噂されている脱走の意志がないのを知って胸を撫でおろしたものだった。それでも念を押して「くれぐれも田安殿を無事に駿府まで送り届けるように」と、再三言い渡すのであった。
 こうして八月九日、田安亀之助は開陽丸に乗って江戸から駿府へ出発した。

 さて、横浜に引き揚げたフランス軍事顧問団である。
 ちょうどこの頃団長のシャノワーヌ大尉は別の任務で日本を離れ、顧問団は副団長だったブリュネに一任されていた。その間給金の支払いは途絶え、新政府も「直ちに日本から立ち去れ」と、もはや彼らの必要性を望んではいなかった。そしてロッシュに替わって赴任したマキシミリアン・ウートレーフランス公使は、ついに彼らの解任を決定する。顧問団のメンバーは順次本国へと帰されることになった。
 ブリュネは榎本の同朋松平正親に次のような手紙を送った。
 『我が祖国皇帝ナポレオン三世は、ヨーロッパの科学や文明を日本に広めるために私たちを派遣しました。しかし新政府は若者の育成において、もはや私達フランス将校に期待していません。しかし私は私たちの義務の遂行が適切に果たされることを望んでいます』
 このときブリュネの心には、敗北の将徳川慶喜に誓った軍隊支援の計画に対する忠誠とも言うべき感情が成熟していた。慶喜に初めて大坂で謁見した際、彼はその将軍の姿をスケッチに残し、意図はよく知れなかったが一振りの日本刀を与えられたのだ。そのズシリとした重みの感触がいまだ手に残るブリュネは、ウートレー公使にその思いのたけをぶつけた。
 「私は何のために日本に送られて来たのですか! ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(ナポレオン一世)だったらきっとこう言うに違いありません。進め!≠ニ──」
 「何が言いたい? 今の皇帝陛下様が何をお考えだったかは知らぬが、蛮人の住む蛮国に我らフランスの誇りを植え付ける必要などない。お前は全権大使のわしの命令に従うのみだ、本国に帰れ」
 ブリュネは何を訴えても理解してもらえることはないと判断して意を決した。
 その夜、横浜のイタリア公使館の新築祝いで催された仮装舞踏会に招かれていたブリュネは、これまで苦楽を共にしてきたアンドレ・カズヌーヴ伍長と申し合わせ、日本武士の扮装をして参加した。二人は何気ない顔で、披露された芝居を鑑賞していたが、そのあとりワルツを踊る次第になって、参加者入り乱れるどさくさに紛れ、密かに公使館を脱走したのである。
 二人は旧幕府軍艦『神速丸』に飛び乗り品川沖へ──そこで待っていたのは旧幕府艦隊と、開陽丸に乗って彼らを待ち受けていた榎本武揚だった。
 榎本は、彰義隊の残党に頼られ、また奥羽越列藩同盟が官軍に抗して立ったのを知ると、もはや意を決するしかなかった。密かにブリュネと密通を交わし、安田亀之助を駿府に送り届けた後、こうして品川沖で落ち合う約束を交わしていたのだった。
 ブリュネとカズヌーヴは開陽丸に移動した。そしてブリュネは船室にこもってシャノワーヌ団長へ訣別の手紙を書くためペンを握った。
 『相談もせずにすみません。しかし辞任のご報告をさせていただくことを光栄に思います。私はフランス将校としてでなく、私自身の名で奥羽越列藩同盟と命運を共にいたします。責任はすべて私が負います。あなたにだけ告白しますが、イギリスに対する祖国フランスの政策は間違っていたのでしょうか? そして私達の軍事派遣は無意味だったのでしょうか? いいえ、私はそうは思いません。将軍慶喜公とその友人である伝習隊は私のアドバイスを必要とし、私に賭けると言ってくれました。私は日本人の一人としてこの国の友のために働きたい。決意は変わりません。彼らとこの国で死ぬか、さもなくばフランスの大義に奉仕することを誓います。カズヌーヴを連れて行くことをお許し下さい。』
 そしてフランス皇帝ナポレオン三世から賜った十字架を握りしめ、机に新しい便箋を広げた。
 『私は陛下の命により日本へ派遣され、陛下の政策の正当性を証明するため尽力して参りました。しかし革命により軍事顧問団は帰国せざるを得ない状況となりましたが、私一人だけは日本に残り、日本で唯一の親仏派である奥羽越列藩同盟に参加して、これまで作り上げてきた成果を示したいと考えます。教え子である約一、〇〇〇人の同志がいれば、奥羽越列藩同盟軍合わせて五万もの兵を指揮することが可能です。反勢力軍との戦いは苦戦を強いられることになるでしょう。陛下の大切な顧問団の皆を巻き込むわけにはいきません。私は辞表を残して立ち去るべきなのです。
 いまアメリカやイギリスは、反勢力に力を貸していることを陛下にお伝えしなければなりません。私は皇帝陛下より授かったこの十字架に誓い、これまで同様フランスの思想を広めるため、私に残された時間の全てをこの国に費やそうと思います。ご理解ください。
 陛下の下僕たる忠臣ジュール・ブリュネ砲兵大尉より』
 それはどうしてもナポレオン三世に伝えたかった彼なりの祖国への絶対的な忠誠の証しだった。
 ブリュネは榎本の手を握りしめてこう言った。
 「蝦夷に行き、あなたが日本のナポレオン・ボナパルトになるのです! 私が支えます」
 榎本は、その憧れの名前の響きに武者震いを覚えた。このとき既に榎本のもとに結集していた反新政府勢力は、若年寄だった永井尚志や陸軍奉行並だった松平正親をはじめ、彰義隊の残党や遊撃隊の面々、その数二千余名にまで膨らんでいた。旗艦は榎本の乗る戦艦『開陽丸』、以下『回天丸』、『蟠竜丸』、『千代田形丸』の軍艦三隻を従えて、更に『咸臨丸』、『長鯨丸』、『神速丸』、『美賀保丸』は兵を乗せる運送船だが、合計八隻の艦隊は紛れもない榎本艦隊≠セったのである。
 そして慶応四年(一八六八)八月十九日の深夜、榎本艦隊は箱館を目指して江戸を離れた。
 ところが途中暴風雨が艦隊を襲い、美賀保丸と咸臨丸の二隻を失う。開陽丸も損傷し、八月末に何とか仙台港に到着して修理を行うが、そこに一隻の英国商船が追い付いた。甲板から手を振るのはアルテュール・フォルタン軍曹、ジャン・マルラン軍曹、フランソワ・ブッフィエ軍曹の三人で、
 「水臭いぞ、ブリュネ大尉!」
 彼らは皆フランス軍事顧問団で同じ釜の飯を食ったブリュネの友で、彼の脱走を知り、申し合わせてイタリア商人ジャーコモ・ファルファラに頼んで英国商船ガウチョ号をチャーターして追いかけて来たのであった。ブリュネと命運を共にしようというわけだ。
 「お前らも相当なバカだな!」
 ブリュネが言った。
 「なあに、お前ほどじゃないさ!」
 こうしてカズヌーヴも含めて五人のフランス人は、榎本と共に新政府軍に対抗するため立ちあがった。



 元号が明治≠ノ改元されたのは一八六八年十月二十三日(旧暦では九月八日)のことである。この小説では旧暦のまま物語を進める。
 江戸城が無血開城した後、旧幕府軍と新政府軍の戦いはどんどん北上していった。そして新政府軍は白河城と二本松城を落として会津へと向かい、会津藩は鶴ケ城(若松城)に籠城して世に言う会津戦争を繰り広げたが、九月二十二日にはついに降参して、会津藩をはじめとした奥羽越列藩同盟の残党兵は、陸続と仙台にいた榎本武揚のもとへと結集してきた。その数およそ二、五〇〇、中に新選組(甲陽鎮撫隊)の長土方歳三の顔もあった。
 新選組は鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、甲斐国に向かって甲州勝沼の戦いでも敗れた。流山で再起を図る最中、土方とは生まれ故郷を同じくし、京都においても行動を共にし、これまでずっと一緒に戦って来た近藤勇は捕縛され、土方は江戸へ向かって勝海舟らに必死に助命を嘆願するも叶わず、竹馬の友であり、同じ夢を語り、志を同じくし、同じ誇りを抱いた盟友は斬首された。鬼の頬に涙が伝ったのは、後にも先にもこの時ただ一度きりだった。
 何のための戦いか──?
 京都で晒し首にされた近藤のことを思うと、胸が切り裂かれる苦しみに苛まれたが、彼にはもう進むしか道は残されていなかった。
 失意のまま、その後、大鳥圭介率いる幕府軍と合流し、江戸無血開城が成立すると、新選組を含む旧幕府軍の参謀に選任された彼は、がむしゃらに「進め!進め!」と兵を鼓舞して宇都宮城を陥落させた。もとより命などないものと信じて戦ってはいたが、次の壬生の戦いに敗れ、宇都宮の再戦の際、小銃弾で足の指を負傷した時、(いのち)の向こう側にある魂の解放を見た気がした。
 治療のため会津に護送され、療養生活を送りながら鶴ケ城近くの天寧寺に近藤の墓を建立した。手を合わせた時、彼の中に不可思議な境地が開けたのだった。
 誰のためでもない──。オレはこの命の果てにある自由を手に入れたいなのか──。
 それまで抱えていた重い荷物が、このときすうっと全部消えた感じがして、なんだか無性に嬉しくなったのだった。
 怖いものなど何もなくなった──それは京都で新選組を率いていたときも同じだったが、あのときのそれとは明らかに何かが違っていた。
 もはや旧幕府軍が勝とうと新政府が勝とうと彼には関係のない事だった。

 自分自身に生き切ればいい──。

 それは近藤が土方に託した最後の望みかも知れない。
 会津戦争が壮絶を極めた頃、土方は援軍を求めて単身出羽国は庄内藩に向かう。しかし庄内藩とて新政府軍との攻防で援軍どころでない。それからひと月ほど続いた会津戦争は会津藩の降伏で終結し、続いて庄内藩も米沢藩もそれに準じた。行き場を失った土方が、敗戦兵の歩みにつられて進んだ場所が仙台だった。そこに榎本武揚がいたというわけである。
 同じく仙台に逃れてきた桑名藩主松平定敬と大鳥圭介らも乗せた榎本艦隊は、旧幕府が仙台藩に貸与していた『太江丸』と『鳳凰丸』を加え蝦夷地へと向かう。その途中、海賊に奪われていた元幕府船『千秋丸』まで拿捕したから、奥羽越列藩同盟が崩壊したとはいえ、大艦隊に成長した榎本艦隊は旧幕府軍にとって希望の光彩を放っていた。
 明治元年(一八六八)十月二十日、榎本艦隊は箱館から北に十里ほどに位置する鷲ノ木に到着した。
 蝦夷は吹雪である。このとき既に五稜郭は新政府のものになっている。上陸した旧幕府軍は隊を分け、一つを箱館方面に進軍させ五稜郭を目指した。
 鷲ノ木に到着して最初に行なったことは、箱館在留の各国領事に声明書を提出することだった。そのLes Kerais exiles de Toukugawa(徳川脱藩家臣)≠ニ署名された文章はブリュネが書いたもので、そこには、
 「蝦夷は徳川の新たな領地となるでしょう。そして必ずミカドはそれをお認めになるでしょう。我々は祖国で生きる権利があり、その権利を武器に我々は蝦夷地を守る覚悟のある公戦団体です。もしここで戦争が起こっても、あなた方ヨーロッパ代表者と我々は、十ケ月前に大坂で交わされた中立条約を保つでしょう。」
 とある。榎本たちの目的は、あくまで『蝦夷地(えぞち)徳川家永久御預(おあずかり)』だった。
 五稜郭を目指した部隊は、途中、箱館府軍や松前藩軍と交戦するが、いずれも戦い慣れている旧幕府軍の敵ではなく、恐れをなした箱館府知事は青森へと逃げ去り、護る者が誰もない五稜郭を容易に占拠してしまう。次いでその翌日には、土方歳三を指揮官にした七〇〇人あまりの兵で松前城へ侵攻し、海と陸からの攻撃で城を落し、ほぼ同時に江差も制圧して、瞬く間に蝦夷地全域を手中に治めてしまったのである。
 ところがその夜、江差港にあった開陽丸が激しい風波に遭って座礁し、おまけに救援に駆け付けた神速丸も荒波に引き込まれ、当時日本で最強だった戦艦開陽丸は、かくもあっけなく海の藻屑と消えてしまった。その落胆は想像するに難くない。
 しかし彼らに落ち込んでいる暇などなかった。

 五稜郭から南西へ約六キロのところに弁天台場がある。五稜郭が建てられたとき、海の防衛として箱館港を睨む目的で造られた海の砦だが、そこの入口のアーチ型の門といえば、よく本土から兵達の家族などが陣中見舞いに来た際の待ち合わせ場所にもなっていた。当時のことだから観光に来る者など皆無だから、本土から箱館港に降り立つ民間人といえば、ほとんどが外国商船に便乗する商業関係者であるが、その日は珍しく一人の町人姿の人間を連れて来た。しかもまだ二十歳を少し越えたくらいの女で、その顔色は何か大きな心配事を抱えているように青く険しく、女は桟橋に降りると、道を訊ねているのだろう何人かの働く男たちに声をかけながら、やがて弁天台場のアーチ門のところまでやってきた。
 「ブルネ大尉はどこですか? 会わせてください……」
 女は門を守衛する一人の兵にそう言った。兵は旧幕府軍を取りまとめているブリュネの名を知る変哲もない町娘に驚きながら「何の用か?」と聞き返した。
 「妻でございます──」
 兵は態度を翻して敬礼すると、彼女を馬に乗せて五稜郭へと導いた。女はブリュネが江戸に残したトミに相違ない。
 五稜郭の御役所内は、蝦夷における新政府構築についての論議の真っ最中で、数日後に行なう予定の宣言式典をどうするかで白熱した言い合いが建物の外にまで聞こえていた。徳川家から蝦夷地開拓の許可がおりたので、一日も早く行政体制を整える必要があったのだ。トミを連れた兵も中の緊迫感を肌で感じると、さすがに扉を叩きづらい様子で、
 「もうじき休憩時間になると思います。それまでここでお待ち下さい」
 と、近くの待ち合いにトミを案内すると、自分は任務へと戻ってしまった。中から声が響いた。
 「ですから、今回の宣言は建国宣言なのです! 入札(いれふだ)によって我々の大統領を選出するわけですから、れっきとした共和国なのです!」
 熱弁を奮うのはブリュネで、二年も日本にいればすっかり日本語も板についたものだった──そう、彼らが来日してもうちょうど二年になるのだ。
 「大尉の言うフランス式の政治も分からないでないが、我らの目的はしっかりとした政治組織をつくり、いずれ徳川様をお迎えすることなのです。大尉のおっしゃる大統領というのは徳川様でなければならない」
 と異を唱えるのは松平正親。どうも政治体制の根幹に関わるところで西洋思想と日本思想がぶつかっているようだった。ブリュネは続けた。
 「どうか私たちを信じて下さい。共和制というのは我が祖国フランスが、幾千幾万の名もない民衆が革命の末ようやく手に入れた人類の英知なのです! 政治とか国というのは、自由と平等と友愛の上に成立させるべきものなのです。ナポレオン一世がそれを証明し、フランスに自由をもたらしました。君主制はすでに世界の潮流が求めていません!」
 バンっ!
 ブリュネの演説を遮って、机を叩いて立ちあがったのは土方歳三だった。シンと静まり返った会場の視線が一斉に彼に集中した。
 「ちょっと一服──」
 そう言い残すと、土方は参集者の目も(はばから)らず会議室を出た。
 そうして外に出た土方は、大きな背伸びをして待ち合いの舎に入った。そこにいたのがトミで、二人は目を合わせると、小さくお辞儀をし合った。
 「ひょっとして江戸からか?」
 トミの容姿が江戸の薫りを運んでいる。箱館ではとんと見かけぬ都会の色が漂っていた。
 「へえ……」
 土方は久しぶりに聞く江戸訛りの返事に笑みを漏らした。
 「誰に会いに来たのだ?」
 「ブルネさまでございます……」
 その意外な人物の名を挙げる青ざめた応えに、土方はただ事でない事情をすぐに察した。
 「やつなら会議中だ。あの調子だといつまで待っても終わらんぞ」
 そう言って湯呑みに茶を注いで煙管(きせる)を吸い出す。
 「どうやって箱館まで来たのだ?」
 「オロシアの船に乗って参りました──」
 世間話をするうちに、彼女がここにいる理由がおぼろげながら見えてきた。名をトミと名乗るこの女は、江戸でブリュネと出会い同棲生活をしていたようだ。ところが突然愛する男が姿を消し、探し求めて横浜は大田村の旧幕府軍事伝習所に辿り着いたと言う。しかしブリュネは既に箱館へ向かった後で、そこで知り合ったフランス商人ファーブルという男の斡旋を得て、ようやく箱館行きのロシア船を見つけてはるばるやって来たのだと話した。
 「まったく国家を論ずる男が一人の女の面倒すら見れないなんて笑止千万、ついて来い──」
 土方は女の手をとると、荒い足取りで御役所に入り会議中の扉を勢いよく開いた。
 「ブリュネ大尉、客人だぜ」
 ブリュネはトミに気付くと、急に弁舌の言葉を止めて、
 「少し休憩しましょう」
 と言って会議を中断すると、つかつかと彼女に寄って来て、そのまま彼にあてがわれた個室に入って堅く扉を閉めてしまった。二人の関係がどうも気になる土方は、扉に耳をそばだてて、すっかり中の会話を聞いてしまう。
 「何しに来たのか?」
 「久しぶりにお会いできたというのに、何しに≠ヘないでしょ──」
 「こっちは忙しいのだ。悪いがこうしてオトミさんと話をしている時間さえ惜しいのだ。訪ねてきた要件を言いなさい」
 トミは暫く悲しそうに俯いていたが、やがて意を決したように、
 「赤ちゃんが生まれたの……」
 と小さく言った。ところが次にブリュネの口から出た言葉は、彼女にとってあまりに冷淡で残酷だった。
 「それで?」
 トミは耳を疑った。それでも続けて何か言ってくれるだろうと暫く待ったが、結局彼からは子どもに対する言葉は何もなく、
 「落ちついたら手紙を書くから、オトミさんは横浜で待っていなさい」
 そう告げて立ちあがった。
 「待って!」とトミはブリュネの腕を掴んだ。
 「聞き分けのないことを言わないでおくれ。今は君と話している時間がないんだ」
 「お金がないの──子どもが生まれる少し前におとっつぁんが死んでしまって──」
 「それで困って私のところへ来たわけか。よく船に乗れたね?」
 「伝習所にいたファーブルさんが貸してくれました」
 「子どもはどうした?」
 「おかっつぁんに見てもらっています──」
 ブリュネは机から便箋を取り出し、万年筆でフランス語の文章をサラサラ書き終えると、最後に朱印を押して、
 「あいにく今は私も金がない。入ったら百両ばかり送るから、子どもとお母さんと横浜で待っていなさい。この書面をアメリカ領事でもイギリス領事にでも持って行って見せるといい。君を横浜まで届けてくれるだろうから」
 そう言って扉を開けて部屋を出ようとした。そこには土方が立っていて、目のやり場に困った様子で「いろいろありますなァ……」と誤魔化した。
 「会議を再開します。会議室に戻ってください」
 「はるばる江戸からやって来たというのにあまりにぞんざいじゃないですか? これが友愛の国フランスの礼儀ですかい? 会議に出たって難しい話はオレには解からないから、せめておトミさんを港まで送り届けますよ」
 「自由にしてください」
 ブリュネはそう言って会議室へ戻っていった。
 港までの道すがら、終始トミは無口である。部隊の規律や戦場での戦いぶりにおいてはどこまでも厳格で鬼≠ニ呼ばれた土方は、その外見も男前だから京都ではずいぶんたくさんの女と付き合ってきたものだった。けれど泣かせたことは一度もなく、それが男の甲斐性だとも思っていた。だからブリュネのトミに対する態度には腹も立ち、そんな男が論ずる国家論など例え真実であっても信じたくなかった。
 「やつから金を取ろうったって無駄だぜ。オレもそうだが今はやつも文無しさ」
 歩きながら土方は一人で話し続けた。
 「結局、軍人でございと威張っていたって、市民から税金を取らなきゃやっていけないのだからね。なんでも新しく創る国では農民、町人はもちろん、寺社の縁日祭礼の物売りや見世物の売上から、それに賭博まで管理して、あげくは女郎からも法外な金をふんだくろうってんだから聞いて呆れらぁ。共和国だかなんだか知らねえが、そんな市民の血涙を絞るようなことまでして金をまきあげようとする国が長く続くとは思えねえ。なあ、おトミさんよ、言っちゃ悪いがあちらさんはお前さんなどあまり気にかけてない様子だ。生まれた赤ん坊は可哀相だが、悪いこたあ言わねえ、別れた方が身のためだと思うぜ」
 トミは一度静かに笑んだきり、やがて箱館を離れて行った。

 蝦夷に誕生した政府は、結局、徳川家血胤者(けついんしゃ)の派遣を見るまでの措置として、選挙による仮国家を建国することになった。 明治元年十二月十五日、入札(いれふだ)(選挙)によって総裁に榎本武揚が当選、副総裁に松平正親、以下諸役が票数に従って決定した。ここに事実上の蝦夷全島の占有が宣言され、『蝦夷共和国』とも言える独立行政が誕生したのである。
 蝦夷共和国(えぞきょうわこく)──。
 この言葉には歴史学的見地では否定的な見方の方が多いようだが、ブリュネたちフランス人にしてみれば日本史上における確かな共和国≠ナあることに違いはなかった。その理由は、君主制日本において初めて選挙という形をとって作られた政権であり、かつてのフランスが多くの血を流した革命を経て手にした政治体制にも似て、当時日本を取り巻く諸外国もこの言葉を否定しなかったからである。そもそも日本には共和制≠ニいう発想すらなく、この概念自体西洋由来のものである以上、日本にはそれを否定する権利はないのである。双方の言い分はあるにせよ、当時の日本においては画期的な出来事に違いなく、君主制要素と共和制要素とが入り混じった特殊な政治形態であったということだろう。
 ちなみにこの選挙における得票数は、榎本武揚一五六票、松平正親一二〇票、大鳥圭介八六票、土方歳三は七三票だった。



 蝦夷共和国宣言式のあとブリュネは直ちに軍の建て直しにかかった。軍制はフランス式に統一しその再編成を始めたのである。このとき箱館に停泊していたフランス軍艦ミネルバ号から脱走して来たニコルやコラシュらを得てフランス人は全員で十名人になっていた。
 広大な蝦夷地の防備を固めるのは至難の業である。しかも蝦夷共和国の総人数は兵三、〇〇〇人、残りは全て行政に関わる役人で彼らは農民の取り締まりをしていた。三、〇〇〇の兵のうち半分はフランス軍事顧問団が江戸で直接指導した伝習隊だが、残りの半分はオランダ式だったりイギリス式だったりとまちまちで、そこは伝習隊の指導によって統一を図ることにした。特に軍律は不可欠だったので、軍事裁判法典の写しからフランス式軍律の要点を日本語に翻訳し、その写しを四〇〇名で構成した八つの大隊に回覧させ頭に叩き込ませた。
 八つの大隊の指導は、それぞれカズヌーヴ、マルラン、フォルタン、ブッフィエらフランス人が統制し、全軍の軍事指導と任務の改善がすみやかにかつ適切に行われるよう訓練指導用の掲示板を設置した。また、主な訓練場は五稜郭で、マルランが海軍士官だったコラッシュの補佐のもと取り締まった。
 これではまるでフランスの傀儡軍であるが、陸軍全体の総司令官は大鳥圭介で、彼はフランス人から“日本奉行”とからかわれては、いつも、
 「オレにはそんな変な称号は必要ない!」
 と言い返しては「頑固なところはブリュネにそっくりだ」と笑われ、両者の関係は冗談も言い合えるほどの信頼で結ばれていた。
 四つの旅団はそれぞれ八〇〇人で構成され、これはヨーロッパの軍隊に比べれば小規模だったが、ブリュネが見たところ新政府軍と比較すれば大軍隊なので充分戦えると踏んでいた。それぞれの旅団はおよそ次の通りである。

フォルタン旅団(連隊長…欠) 第一大隊長…滝川充太郎、第二大隊長…伊庭八郎
マルラン旅団(連隊長…本田幸七郎) 第一大隊長…大川正次郎、第二大隊長…松岡四郎次郎
カズヌーヴ旅団(連隊長…欠) 第一大隊長…春日左衛門、第二大隊長…星恂太郎
ブッフィエ旅団(連隊長…古屋佐久左衛門) 第一大隊長…永井蠖伸斎、第二大隊長…天野新太郎

 そして総司令長官は土方歳三が務めることになった。
 さらに防衛の配置としては、敵が数ケ所から同時に上陸してきたケースや、一ケ所に集中して上陸してきたケースなど様々に考慮する必要があった。その上でブリュネが最も用心したのは、箱館港と松前港と館浜港と江差港と鷲ノ木港と室蘭港の六つの港である。そこで五稜郭と並んで重要な防衛拠点である箱館港に据えた二〇〇人にはプラディエを指揮官に据えた。そしてマルラン旅団は六〇〇人の兵と共に箱館と有川と大野の境界線を防衛し、フォルタン旅団は四〇〇人の兵と共に鷲ノ木と鹿部と磯谷と川汲を防衛し、カズヌーヴ旅団は六〇〇人の兵と共に松前と福島を防衛し、最後にブッフィエ旅団は四〇〇人の兵と共に江刺とその周辺の防衛担当とした。
 海軍士官コラッシュは五稜郭でブリュネの補佐も務め、ド・ニコールは回天丸に乗船したので、その副官クラトーは他の船に乗船させ、総計二、〇〇〇人の兵は、駐屯地とその周辺の要塞や沿岸地帯、山中の峡谷などに配備することとした。
 五稜郭も当初に比べ強固に修繕されたので護るには二〇〇人もいらない要塞になったので、残りの八〇〇人は大鳥圭介とブリュネがそれぞれ四〇〇人の機動部隊として指揮を務めることにした。
 さらにブリュネは五稜郭周辺に、西の備えとして三稜郭、北の備えとして四稜郭、東の備えとして七稜郭などの砦建設に着手し、その身体は休む間もない。



 アメリカはそれまでずっと中立の立場を守って日本の政治情勢の動向を見守っていたが、明治元年の年の瀬も迫ったころ、突如として局外中立を解除し新政府を支持し始めた。
 すると、戊辰戦争が始まる以前に幕府がアメリカに発注していた戦艦『甲鉄丸(こうてつまる)』を新政府軍に引き渡してしまったのだった。
 実はこの船、アメリカ南北戦争当時に南軍がフランスに発注したもので、体当たりを想定して造船された暴れ戦艦だった。船体自体は木造だが重要箇所は五・六インチのぶ厚い鉄板で装甲されている上、船首の水中部分にラム≠ニ呼ばれる長さ六メートルの衝角(しょうかく)を持っていたから、木造船など当てられればひとたまりもない。さらに十三インチのアームストロング砲や、一分間に一八〇発も撃てるガットリング機関砲も装備していたというから、先の嵐で開陽丸を失った榎本にとっては脅威以外のなにものでない。
 その甲鉄丸が箱館に向かったと聞いた日には、すぐにでも対処しなければならない事情が生まれた。
 開陽丸の損失で海戦において劣勢に立った蝦夷共和国軍は、甲鉄丸を奪取する作戦を立てた。これがフランス海軍のニコール少尉発案のアボルダージュ作戦≠ナある。
 回天丸、蟠龍丸、高雄丸の三艦に外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始と同時に日章旗に掲げ直して甲鉄丸に接触させ、船がつながったところで一斉に陸兵が斬り込み舵と機関を占拠するという海賊まがいの作戦である。ことき旗艦の回天丸の艦長は甲賀源吾で、そこには土方歳三も乗っていた。
 ところが──、
 またしても暴風が襲って幡竜丸はあえなく離脱、高雄丸も機関が故障して戦闘不能、回天丸一隻だけが残ったのだ。ここで作戦を立て直すことはできただろうか? 否、作戦の不履行は幕府艦隊に何の手も加えず箱館が不利になるのを指をくわえて傍観するのと同じ行為なのだ。一か八かの賭けに出るしか道は残されていなかった。
 榎本武揚という男は、よほど嵐を呼び寄せる不運の星の下に生まれたと見える。もし彼が晴れ男≠ニ呼ばれる部類の人間であったら、ひょっとしたら歴史はまた別の物語をつづったかも知れない。
 回天丸は単艦突入して甲鉄丸に接舷したが、回天丸は船体の側面に水車が飛び出た外輪船なので横づけできない。艦長甲賀源吾の操船でなんとか甲鉄丸に乗り上げるも、鉄板で装甲された船体が重く喫水線上が舷側一・五メートル程度しかない甲鉄丸の甲板へは、回天丸の甲板からの高低差が大きく非常に移乗しにくかった。陸兵達が戸惑っているうちに甲鉄丸のガットリング機関砲が火を吹いて、乗り移ろうとする者は次々銃弾の餌食となり、甲賀源吾も頭を撃たれて即死した。回天丸は離脱を余儀なくされ、高雄丸も拿捕された。この『宮古湾海戦(みやこわんかいせん)』で蝦夷共和国軍は完全に制海権を失った。そしてニコールも負傷し、同船していたコラッシュも捕虜として江戸に送られた。
 こうなっては共和国軍は総崩れ。明治二年四月六日、新政府軍一万五、〇〇〇の兵が青森を出航すると、三日後には乙部に上陸、その後、新政府艦隊は江差に砲撃を加えてあっという間に占領してしまうと、新政府陸軍の本隊に加わって、海岸沿いの松前口、山越えの木古内口、乙部から大野への二股口、乙部から落部への安野呂口の四つのルートから箱館へ向けて陸路進軍を開始した。四月十七日には松前城からも撤退するしかなくなって、更にその三日後には木古内も占拠された。
 土方歳三は二股口で奮戦するが力及ばず、大鳥圭介と榎本武揚の部隊も有川にて敗走した。
 もはや蝦夷共和国軍の敗北は時間の問題だった。このときブリュネの片腕だったカズヌーヴも負傷して病院に入院していたのだ。
 敗色濃厚となった五月二日──、
 榎本らはこれまで共に戦ったブリュネをはじめとしたフランス兵を集めてこう言った。
 「もはやこれまででしょう。私達は最後まで戦いますが、あなた方は軍事顧問団としてこの国に派遣されて来ただけで、もともとこの国の住人ではありません。これ以上私達のために尽くして命を落すようなことになったら、私達は地獄に落されてなお弁明の余地がありません。どうか、どうか、これが国際的な軍律と思って、祖国フランスへお帰り下さい。今まで、本当にありがとうございました!」
 榎本とそれに連なる兵士たちは、一糸乱れず、ブリュネたちから真っ先に教わった敬礼をして涙を落した。それに応えてブリュネたちもまた、何も言わずに貫禄のある敬礼を返し、教え子たちの潤む目や目をじっと見つめて、やがて陥落寸前の五稜郭を去ることになった。
 黄昏(たそがれ)て、一日の戦いの疲れを癒すこともしないまま、土方歳三は箱館港に突き出した弁天台場に立って、海から吹き寄せる静かな潮風を浴びていた。不思議なもので、昼間はあれほど激しい銃弾の雨の中を駆け回っていたというのに、この時間になると、あのやかましいほどの破裂音は、穏やかな波の音に吸い込まれてしまったように、今は心さえ落ちついてるのだ。
 港を出入りする外国商船は異国情緒を漂わせ、たまに聞こえる汽笛の音は、死と隣り合わせの戦争の現実を忘れさせ、どこか別の世界へと誘った。
 しかし、この戦争ももうじき終わってしまうのだろうかと思うと、土方は少し寂しくもあり、その後の身の振り方など考えることもなく、漠然と近藤勇のことを思って俄かに笑みを浮かべるのだった。
 「何を見ているんだい?」
 後から声をかけたのはブリュネで、どうやら弁天台場に忘れ物を取りに来たところ、海を見つめる彼を見つけたようだった。
 「なあにも見ちゃいませんよ。潮風が懐かしかっただけです」
 土方は、近藤と一緒に生まれ故郷の武蔵国を離れ、浪士隊として京都へ向かう途中の東海道沿いの浜辺で、将来を語り合った遠い昔のことを思い浮かべていたのだ。
 「フランスへ帰るそうですね?」
 「ええ……私の力が及びませんでした。ゴメンナサイ──」
 「謝られたってねぇ──正直言って、オレだって国のことなんざどうだっていいんですよ」
 ブリュネは不思議な顔をして、
 「どういう意味ですか?」
 と聞いた。
 「あんただって言ってたじゃないですか? 共和国だ、自由だ、平等だって。でもこうなっちまったらそんなもんクソの役にも立たねえってことですよ。途方もない夢物語を追いかけるより、今日生きるための金や、赤ん坊の命の方が大事だとは思いませんか? 横浜に戻ったら──おトミさんだったかな? 大事にしてやらねえと、あんたが言ったことが全部ウソになっちまうぜ。必ず会ってやんなよ」
 ブリュネは苦笑いを浮かべた。
 「私はただ、皆さん方を日本という閉鎖的な国から解放してあげたかっただけです。トクガワとかミカドとかシンセイフとか、そんなところで争っていても日本は何も変わりません。自由を求めて何がいけませんか?」
 「自由──?」
 土方は「ふっ」と微笑んだ。
 「オレはもともと自由だぜ。自由なんてもんは手を伸ばして獲得するもんじゃないよ。もともとここにあるもんなんだ」
 土方は自分の胸に手を当てた。
 「この胸の、ずっと奥底にあるんだよ。規律に厳格で、鬼の土方って呼ばれてきたが、オレは他人にも厳しくしてきたが、己に対してはもっと厳しくしてきたつもりさ。だから自由なんて己を律することができないぼんくら≠フたわ言だと思っていたが、最近なんだかその真の正体が見えた気がするんだ。魂の解放の果てにある景色がね。近藤さんも見たのかなァ? その景色を……。まあ、もうじきオレにもはっきり見えるはずさ。そのときは近藤さんに会う時ですがね。ああ、早く逢いてえなあ……」
 土方は再び暗い海を眺めた。ブリュネは何も言わずに立ち去り、やがてフランス艦コエトロゴン号に乗って箱館を脱出して行った──。

 その後、新政府軍は五稜郭への総攻撃を開始した。箱館山から箱館市街を瞬く間に制圧してしまうと、市街を奪還するため、一隊を率いて馬にまたがった土方歳三が閃光のごとく敵陣に斬り込んだ。しかし、次の瞬間放たれた一発の銃弾は、彼の腹部を貫通し、彼は落馬して絶命した。享年三十五歳の初夏だった。
 こうして明治二年五月十八日、五稜郭は開城、武装解除し、幕末最後の戊辰戦争は幕を閉じた。
 その後榎本武揚ら蝦夷共和国首脳陣は、東京辰の口にある軍務官糾問所に投獄される。
 一方、ブリュネもフランスに帰国し厳しい取り調べを受けることになるが、彼がナポレオン三世に送った手紙が新聞に掲載されると、皮肉にもフランス国民からの絶大な支持を受けることになり、その後軍人としての名を挙げて七十三歳まで生きたという。
 その間、戊辰戦争終結よりわずか一年の後、第二帝政時代を築いたナポレオン三世は失脚し、フランスはまた新たな共和制国家が誕生した。
 そしてトミは横浜にいて、もう届くはずもないブリュネへの手紙を、必死で覚えたカタカナで書いているのであった。

 『ブル()サマ……
 アナタ ホント ウソツキアリマス ウソテガミバカリ
 ワタシ ハコタテマテ アリマシタ
 コドモアリマストキニ ナンニモ ワタクシ ハナスアリマセン
 ()チブ シンジョモ アリマセン……』

 二〇二一年五月六日
(2013・11・29 『五稜郭タワー』土方歳三ブロンズ像前にて拾集)
 
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文禄(ぶん ろく)渦潮(うず しお)
城郭拾集物語J 瀬戸内海(愛媛)能島城
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 筆者が今治市『村上水軍博物館』脇の潮流体験船乗り場に着いた時、すでにその日の営業時間は終わっていて、泣く々々手を伸ばせば届きそうな霞む大気に浮かぶ能島を眺めたのである。
 伊予国は連日耐えがたい猛暑であった。真夏の陽ざしは瀬戸内の海を熱し、その水蒸気によって湿度を異常なほど上げているものか? 信州の山育ちにはずいぶん身体にこたえる環境である。
 能島城は、 周囲わずか一キロにも及ばない地図で探すのも困難な小さな能島と、それに隣接する鯛崎島(たいさきじま)とで構成される。南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海を支配した村上水軍のこの城は、干満時に生じる激しい潮流で敵の接近を防ぐ。激しい渦潮に護られた堅固な拠点は海の関所として、瀬戸内海を行き来する船の海道の要衝であり、そこに住む民は、海上の水先案内や安全保障を担いながら生計を立てていたと言う。特に南北朝時代には瀬戸内海の制海権を独占し、荘園からの年貢などを輸送する船舶の警護や駄別料(課税)を取り立てその利を得ていた。
 言うなれば日本の海賊──
 ひとたび戦が起こった時などは、例え敵であってもその船に乗る女・子供はけっして殺さず、島に連れ帰って養子にしたり、あるいは妻に迎えたりしたのは、掠奪とか乱暴でなく、海賊としての慈悲に似た誇りであろうか。海に生きる種族の特質とも言うべきある種の士道とも言えようか。
 現在その名を轟かせる村上水軍は、伊予の能島(の しま)来島(くる しま)、そして備後の因島(いんのしま)に主筋の三家があったが、中でも能島村上水軍の本拠地が今回の物語の起点である。

 戦国時代の能島城主は村上武吉──、彼がまだ若い時が村上水軍最盛期の頃である。
 ところが戦国の世における村上三家は、周囲の複雑な力関係の中で生きていかねばならなかった。毛利家の所領に近い因島村上家は毛利元就に臣従し、伊予に近い来島村上家は伊予湯築城主河野家に臣従し、位置的にその中間地点にある能島村上家は、伊予国(愛媛県)の河野家との友好関係を保ちつつ独立という立場をとっていた。
 しかし毛利元就の勢力が強大になるにつれ河野家が衰退すると、能島村上家は毛利水軍の一翼を担うこととなり、一五七六年の織田信長傘下の九鬼義隆との第一次木津川口の戦いでは、毛利家に加担して戦国の騒乱に巻き込まれていく。
 そして能島城は瀬戸内海における城としての終焉を迎える。
 天正十三年(一五八五)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が四国攻めを行なおうとした際、能島城主村上武吉は秀吉に従うことはなく、そのため小早川隆景の激しい攻撃を受けることとなった。
 海と渦潮に守られた難攻不落の能島城を小早川隆景はいかにして落したか?
 それは瀬戸内の強風を利用した放火作戦──麦藁を積み込んだ何百という舟を潮流に乗せて火を放ったのだ。わずか周囲一キロほどの小さな島である。その炎はまたたくまに建物に燃え広がり、島全体が火に飲み込まれて能島城は陥落したと言われる。
 その後、豊臣秀吉が天下を統一すると、村上武吉はいったん豊臣水軍に加わる形となるが、一五八八年に秀吉が発した海賊廃止令に伴い収入源を断たれ、島を離れた以後能島城は廃城となった。その遺構は手つかずのまま現在に残される。
 今回取り上げるのは村上武吉の次男村上景親(かげ ちか)という男である。
 というのも、筆者が『村上水軍博物館』で目にした『朝鮮貴族姉妹像』に描かれた大陸の衣装を身にまとった二人の娘が、屈託のない表情で筆者に微笑みかけていたからである。
 そこにあった説明を読めば、
 『村上景親が慶長の役で出陣した際、李王朝からもらった姫の一人と伝わる肖像画』
 と記されていたが、世にいう豊臣秀吉の朝鮮出兵で大陸から連れ帰ったのは、その殆どが拉致同然に捕えた捕虜のはずが、その微笑みに怨恨のような感情は感じられない。第一、捕虜ともあろう人間の絵が残っていること自体不思議である。
 説明には更にこうあった。
 『上の娘は景親の側室に、下の娘は家臣水沼の妻となったと伝わっている』
 と──。
 日本が犯した朝鮮蹂躙(じゅう りん)の中に咲いた二つの可憐な花。そう信じることがせめてもの救いにはならぬだろうかと思うのだ。



 村上三郎兵衛景親(かげちか)は永禄元年(一五五八)、能島城主村上武吉の次男としてこの世に生を受けた。村上水軍最盛期の頃であったことは前述した。
 小さな島の周りには三〇〇とも四〇〇とも思われるおびただしい数の舟が係留され、能島は国内有数の大漁港のようにも見えた。これらの舟は当然漁にも使われるが、その多くは瀬戸内海を行き来する船舶の水先案内や警護を頼まれたり、通行の駄別料を徴収するために用いられている。山に山賊が出るように、無法地帯の海上にも海賊が出るのも必然で、不法者が出没するたび能島に通報が来ては、海上保安の役割を担って出動するというわけだ。
 そんな海の男たちの中で景親は育った。
 その気性は渦潮のように激しく、心の奥は(なぎ)の如く穏やかで、波が複雑な紋を作りつつも自然の摂理にどこまでも従順なように、その性格は人が人たる不道徳を嫌った。瀬戸内海が人格を(あらわ)したとしたら、景親はまさにそれだった。
 戦国の様相が深まるにつれ、彼に初陣の時が訪れたのは二十歳の時。それは毛利輝元と織田方の尼子勝久との間で行われた播磨の上月城の戦い≠ナある。景親は兄の元吉と共に毛利方の水軍として戦うが、このとき父から授かった横笛は、なにか事あるごとに吹いては心の(けが)れを洗ったものである。
 織田信長が死ぬと毛利と秀吉は和睦(わ ぼく)する。
 このときはどっちつかずの態度を保っていた村上武吉だったが、秀吉が四国征伐に乗り出すとそれに反発して追討されそうになるも、その後は毛利支配の元で秀吉に従う形となる。このころ宣教師ガスパール・コエリョの要請を受けて瀬戸内海上交通の安全保障を請け負っていたのを見ると、まだまだ海上での勢力は健在だった。
 秀吉が九州出兵を起こすと、村上武吉は毛利元就の三男小早川隆景に従い従軍した。それに伴なって景親もまた安芸の竹原に赴く。この際、村上家の家督は嫡男元吉に譲られた。
 天正十五年(一五八七)、景親は小早川家の家老に抜擢され筑前と筑後に六〇〇〇石を与えられ、同じ年、河野家の家臣平岡通倚(ひら おか みち より)の妹と結婚する。時に景親二十九歳のことである。
 「当家とは古い付き合いだが、まあ、よろしく頼む」
 「海のことはよく知りませんが、港港にあまりお妾などおつくり遊ばすな」
 「心配か?」
 「そうではありませんが、面倒な話は嫌いでございます」
 景親はニッと笑んで、
 「そのときは其方にも会わせよう」
 と、これが祝言で交わした言葉であった。
 ところがその翌年、村上家は突如として海運の業を断たれた。兵農分離を推し進める秀吉が刀狩り令≠ニ同時に海賊停止令≠発令したのである。これは農民同様、海民に対しても武装解除を強いた秀吉の農海民に対する警戒と恐れとも言えるが、これによって村上家は職を失った。
 しかし南北朝以来、ずっと瀬戸内海を支配してきた村上家としては唯々諾々(い い だく だく)と従うわけにもいかず、暫くはこれを無視していたが、それを知った秀吉は、
 「謀反だ! すぐさま大坂に呼び寄せよ!」
 と騒ぎ立てた。慌てた村上元吉は上洛して弁明するが、これ以降、武吉と元吉は、景親のいる筑前へと追いやられる形となった。
 九州を平定した秀吉天下統一の勢いはもはや誰にも止めることはできなかった。秀吉が最後の標的として小田原攻めに乗り出すと、かつての村上水軍もまた毛利水軍の一翼として兵員や兵糧の輸送を担いつつ、北条との戦闘に加わるより仕方ない。
 このときすでに秀吉の野望は拡大している──北条氏を制圧して矢継ぎ早に目を向けたのは海を渡ったところの(みん)国である。
 その背景には宣教師を世界中に派遣している神聖ローマ帝国や、スペイン、ポルトガルといったヨーロッパ諸国が世界を凌駕(りょう が)していた脅威があったかも知れない。世界史の時代の潮流は大航海の()最中(さ なか)なのである。
 「次は唐入(から い)り≠カゃ!」
 と秀吉は叫んだ。
 年が明けて(天正十九年)一月に入ると俄かに遠征準備を開始する。朝鮮へ出兵し、明国へ通ずる道の確保、つまり朝鮮半島を掌握しようとしたのである。そして瞬く間にその拠点として肥前国に巨大な名護屋城を築きあげると、翌天正二十年(一五九二)一月には、 総勢三十万とも言われる錚々(そう そう)たる日本の武将たちを召集したのである。
 村上景親は兄の元吉と共に毛利輝元が加わる六番隊に組み込まれ、毛利家臣吉川広家(きっ かわ ひろ いえ)に従って朝鮮に渡海することになった。広家は後に碧蹄館(へき てい かん)の戦い≠ノおいて戦功を挙げ日本槍柱七本(に ほん そう ちゅう しち ほん)≠フ一人に数えられる人物である。



 天正二十年(一五九二)四月、その戦いの火ぶたは切って落とされた。
 宇喜多秀家を総大将とする秀吉軍の朝鮮侵攻はまさに電光石火、十二日に一番隊として釜山(プ サン)に上陸した宗義智(そう よし とし)小西行長(こ にし ゆき なが)(またた)く間に釜山(プ サン)周辺を鎮圧すると、十五日にはその北側数キロの地点にあった東萊城(トン ネ)を落す。すると十七日に釜山(プ サン)に上陸した加藤清正(か とう きよ まさ)筆頭の二番隊と黒田長政(くろ だ なが まさ)筆頭の三番隊、そして森吉成(もり よし なり)筆頭の四番隊が加わって、首都漢城府(ハン ソン ブ)を目指して北上しながら次々と城を落し、たちまち慶尚道(キョン サン どう)を制圧してしまった。
 朝鮮側の犠牲者はその数を知らず、その勢いに恐れをなした時の李氏朝鮮王『宣祖(ソン ジョ)』は、血相を変えて漢城府(ハン ソン ブ)を捨てて逃げ出した。
 こうなっては秀吉軍の独擅場(どく せん じょう)である。
 小西行長は忠清道(チュン チョン ド)を突っ切り首都のある京畿道(キョン ギ ド)に突入した勢いのまま、王のいない漢城府を占領する。日付を聞けば五月二日、釜山(プ サン)上陸からわずか二十一日足らずで李氏朝鮮の首都を陥落させてしまったのである。
 この朝鮮側の弱さを一言で言うなら「戦う意思がなかった」と言うべきだろう。
 朝鮮は実にこれまで数百年の間、戦争というものを経験しない平和な国であり、「まさか戦争など起こるはずがない」と信じ切っていた。対して日本は戦国動乱の真っ最中、しかも戦いに明け暮れた末に国家を統一した最強の武将豊臣秀吉が指揮を執ったのである。朝鮮にとってはまさに不意打ちであり、逆に日本にとっては赤子を相手にするようなものだった。そのうえ儒教の国である朝鮮は身分の差が著しく、上層階級に対する下級層の民の不満も甚だしかった。その日頃の鬱憤(うっ ぷん)はある意味日本軍を助ける働きをし、ルイス・フロイスなどは、
 『朝鮮の民は恐怖も不安もなく、自ら進んで日本の兵士らに食物を配布し、手招きで必要な物資はないかと訊ねる有様で、逆に日本人の方が面食らっていた』
 と記すほどだった。その証拠に宣祖(ソン ジョ)が逃避した際などは、民は国を見捨てた王を悲しみ、中には王に向かって石を投げつける者や、王に対する礼法を守らないばかりか、王のいなくなった漢城府(ハン ソン ブ)ではあちこちで火の手が上がり、京城を荒らして金品財宝を掠奪する者や、王室が飼育している家畜を盗む者もあったと言うから、ある意味秀吉の朝鮮侵攻の序盤は、朝鮮の下級庶民達の日頃の鬱憤の代償だったとも言える。
 村上景親が従軍する六番隊は、六月に入って釜山(プ サン)東萊(トン ネ)近辺に集結中だった。
 もとより船の扱いに長けた景親と元吉に与えられた任務は、戦においては最も重要と言うべき最前線への食料、物資の運搬である。毛利輝元は二人を呼び寄せると、
 「これよりわしは星州(ソン ジュ)に布陣することになったから食料、物資を運んでおけ。その後、開寧(ケン ニョン)に進んで五番隊と合流する」
 と言った。
 「星州(ソン ジュ)……?」
 景親と元吉は顔を見合わせた。初めて足を踏み入れた異国の地で、大雑把(おお ざっ ぱ)に記された地図はあるものの右も左も分からないのである。
 「東萊(トン ネ)より西に進めば落東江(ナッ ドン ガン)という河があるらしい。その河を上流に進めば着くということだ。とにかくゆけ」
 輝元の情報には距離に関する何もない。釜山(プ サン)から星州(ソン ジュ)まで直線距離にして一〇〇キロはあるだろうか。曲がりくねった川づたいに進めば一五〇キロ近くあったことだろう。二人はとにかく現地の案内人を連れて出発する。
 亀浦(クポ)の船着き場から荷を乗せた何百もの船を率いて落東江(ナッ ドン ガン)を上って行くと、三日目にして茂渓(マウ シー)という場所に着いた。すると案内の者が、
 「ここから星州(ソン ジュ)までは歩きだ。荷を下ろせ」
 と言う。
 「歩いてあとどれくらいか?」と元吉が聞けば、
 「一日だ」と案内人は淡々と答えた。
 「ひとまずここに資材を保管する倉と砦を作りましょう」
 と景親が言った。
 およそ歩いて一日程度の距離の所に城を置くというのは異国で戦う際の鉄則なのだ。既に漢陽(ハ ニャン)に至っている小西行長は、釜山(プ サン)から茂渓(マウ シー)までの間に東萊(トン ネ)梁山(ヤン サン)鵲院(タャゴン)密陽(ミ リャン)玄風(ヒョン ブン)に旅館を築いており、朝鮮に渡った際の本営として城砦の建設を進めていた。さらに茂渓(マウ シー)から漢陽(ハ ニャン)までの区間にもいくつものそれを置いて兵を常駐させており、それは別ルートを進む加藤清正も同じであった。しかも秀吉は、城に常駐する者を都隊長とし、彼らには妻妾を持つことを許してその婦女にも扶持米を与えてよいという特権を与えた。つまり彼らをそこに永住させようという思惑だ。
 それと同じ役割を果たす建物が茂渓(マウ シー)にもあったが、まだまだ城や砦と呼ぶにはあまりにお粗末で、加えて資材、食料を貯蔵する倉がなければ到底輸送の拠点には使えない。
 「ところで今日は何日か?」
 暦もなければ心の余裕もない異国では月日の流れなど分かるはずもないだろうと言いたげに、川のほとりに生い茂る背の低い草の周辺をうるさく飛び回る蚊の多いことに閉口しながら元吉が聞いた。
 「釜山(プ サン)を出たのが五月の下旬ですから、すでに六月に入ったのではないでしょうか?」
 景親は腕に喰いつく一匹の蚊をパチンと潰して答えた。
 秀吉軍にとって最大の問題は兵糧の供給である。戦が長引けば長引くほど不利になるのは必然で、景親の指揮のもと、落東江(ナッ ドン ガン)の河のほとりにその建設は急ピッチで進められる。
 このとき先鋒隊が京城を制圧して既にひと月が経っていたことになる。
 小西行長と加藤清正は、逃げた宣祖(ソン ジョ)を追って更に北上しているに相違ない。
 ところがこのひと月の間で、朝鮮の民の心に大きな異変が生じていたのを知る者はなかった。誰もが一刻も早く征討を終え、一日も早く帰国できるのを信じていたのだ。
 ところが、当初は朝廷への不満から日本人に協力的だった朝鮮の民らだったが、次第に兵糧が尽き現地調達しなければならなくなった日本兵達が、無法地帯同然に各地の現地住民たちの食料を強奪し、婦女暴行などを平気でするようになっていたから堪忍袋(かん にん ぶくろ)()が切れた。
 「自分達の国は自分達の手で守ろう!」
 と、倭兵(わ へい)(日本兵)のいる各所で義勇兵が立ちあがったのである。
 このころ季節はもう夏である。
 「それにしても暑いな……」
 次第に砦らしくなってきた建物を見つめながら吹き出る汗をぬぐう景親を、遠くから見つめる黒い人影があった。
 実は豊臣軍が朝鮮半島の侵攻を開始し、最初に制圧した慶尚道(キョン サン どう)防御の任に当たった男に田見龍(ジョン ヒョン リョン)がいた。彼は陜川(ハプ チョン)の郡守をしていたが、もともと性格が卑しいうえに人望も薄く、また公事も統率できない男だった。自堕落で貪欲な彼を民は嫌い、倭軍(わ ぐん)(朝鮮側の日本軍の呼び名)が攻め寄せた時も彼に協力する民はなく、戦うこともせずに逃げ出した。
 田見龍(ジョン ヒョン リョン)が去った郡の民は一時的には喜ぶが、次第に日本軍の横暴が目に余るようになると、ついに義兵を募って対抗しようと考えた。このとき義兵の将軍に担がれたのが鄭仁弘(ジョン イン ホン)と言う当時五十六歳の陜川(ハプ チョン)出身の壮年である。
 倭軍が侵入する以前の国王宣祖(ソン ジョ)の政治は、東人(トン イン)派と西人(ソ イン)派の二つの派閥勢力が争っていたが、鄭仁弘(ジョン イン ホン)東人(トン イン)派に属していた。ところが政権逃走に敗れて一度は失脚して都落ちする憂き目を見るが、西人(ソ イン)派に属していた鄭汝立(てい じょ りつ)(文人官僚)が東人(トン イン)派に加担した問題をきっかけに東人(トン イン)派が南人(ナ ミン)派と北人(プ ギン)派に分裂した際、北人(プ ギン)派の領首として政治に返り咲いていた。彼は田見龍(ジョン ヒョン リョン)の逃亡を知ると急いで陜川(ハプ チョン)に入って民の声に耳を傾け、倭軍打倒の義兵軍を起こしたのである。
 これを知ってもう一人立ちあがった男がいた。名を孫仁甲(ソン イン ガプ)と言う。
 彼は科挙(か きょ)に合格してから僉正(チョム ジョン)という官職に就き、このときは密陽(ミ リャン)に赴任していた。郡守だった田見龍(ジョン ヒョン リョン)が逃走したことを受けて臨時の陜川(ハプ チョン)郡守を務めるが、そこで倭軍の横暴を目の当たりにして激怒した。そこで鄭仁弘(ジョン イン ホン)の決起に自ら参加し、実質的な義勇軍の指揮を執ることになったのだった。景親を見つめる黒い人影とはまさにこの孫仁甲(ソン イン ガプ)に違いない。
 孫仁甲(ソン イン ガプ)は陣営に戻って、
 「倭軍は茂渓(マウ シー)に食料資材の貯蔵施設を作っています」
 と、その動きをつぶさに報告した。鄭仁弘(ジョン イン ホン)は、
 「完成を(はば)んで早急に潰さなければならん。しかしあの周辺は(すべか)らく沼地である。下手に攻め込めば逃げ場を失って逆にこちらがやられる。どうするか?」
 と頭を抱えた。
 「奇襲を仕掛けましょう!」
 孫仁甲(ソン イン ガプ)の作戦に鄭仁弘(ジョン イン ホン)は静かに頷いた。そして彼に三〇〇の義兵を与えたのであった。
 
 時を尋ねれば天正二十年(一五九二)六月五日と伝わる。
 茂渓(マウ シー)を流れる落東江(ナッ ドン ガン)の船着き場で建設が進められている村上景親(かげちか)が護る砦は、昼間の作業で疲れ切った兵たちが所々に燈す焚き火を囲んでささやかな晩餐の最中である。見上げれば満天の星空が男たちを包み込んでいた。
 中でも特に盛り上がって笑い声を挙げる部隊があった。建設資材調達班だが、彼らは周辺に生い茂る木材を集めるために茂渓(マウ シー)周辺の集落を行き来している。その輪の中に一人の生娘を膝に抱える男が上機嫌にこう言った。
 「見てみろい、これが今日の俺様の獲物だ。めったにお目にかかれない上ものだろ?」
 見れば女は縄で縛られ、口には布を巻かれ、逃げようとして暴れると男はより強い力で女の身体を締め付けた。その服装から想像するに地元の両班(ヤン バン)(上層階級)の娘に相違ない。
 「羨ましいねえ。終わったらひとつ俺に回してくださいよ」
 と別の一人がイヤらしい目付きで言った。
 「バカ言え! これは国に持ち帰って(めかけ)にするのだ。お前は白い服の泥のついた女(下賎の女)で我慢しとけ」
 どっと大きな笑い声が挙がったが次の瞬間ピタリと止むと、輪の中のまた別の一人が後の方を指さした。女を抱えた男が振り向いたところに立っていたのは景親(かげちか)である。
 「どこからさらってきた? 放してやれ」
 「それはないですよ景親(かげちか)さま。こんなことは皆やってますぜ」
 景親(かげちか)は男を殴り飛ばして女の縄を解き始めた。
 「我々はこの国と戦争をしているが、略奪に来たのではない。勘違いするな!」
 縄を解かれた女は兎のように逃げ去った。
 このとき落東江(ナッ ドン ガン)の上流から孫仁甲(ソン イン ガプ)が率いるいくつもの義兵の舟が川を下っている。そして闇に紛れて砦を取り囲むと、
 「矢を放て!」
 という異国の言葉が轟き、白い鳥のような三〇〇本の矢が一斉に砦周辺に(たむろ)する日本兵に降り注いだ。次の瞬間五〇余りのエリート兵が砦を襲撃し、景親(かげちか)の兵は大混乱に陥った。孫仁甲(ソン イン ガプ)の奇襲攻撃である。
 まさに不意を狙われた日本兵は、一瞬のうちに一〇〇人もの兵を失う。
 「敵襲だ! 篝火を挙げて迎え撃て!」
 具足など身に着けている暇はない。景親(かげちか)は刀を引き抜くと闇に紛れる義兵に向かって突進した。それを合図に日本兵は雄叫びを挙げた。
 戦慣れしている日本兵の反撃は凄まじい。
 鉄砲隊の銃声が鳴り響けば孫仁甲(ソン イン ガプ)の義兵部隊はたちまち散り散りになり、あれよあれよと戦況が逆転した。このころの朝鮮にはまだ火縄銃が存在していないのである。
 景親(かげちか)は逃げ惑う義兵の中にひときわ目立つ鎧を身に付けた武将を見つけた。それが孫仁甲(ソン イン ガプ)であったことは言うまでもない。すかさず討ち取ろうと駆け寄ったところが、敵が放った一本の矢が彼の足に突き刺さった。
 「景親(かげちか)様!」
 「わしはいいから奴を討て!」
 ところが義兵の退却も早かった──。
 この夜、孫仁甲(ソン イン ガプ)こそ取り逃がしたものの、景親(かげちか)は数百名の義兵を討ち取る武功を挙げた。
 これまでさほどの犠牲を払うことなく進軍を進めていた日本軍にとっては、朝鮮側の義兵の出現は驚きだった。その報せを受けた毛利輝元はすぐさま景親(かげちか)に見舞いの書状と銀子五枚の恩賞を与えて労うとともにその負傷を心配し、穂井田元清(ほ い だ もと きよ)(毛利元就の四男)も書状で負傷を心配するとともに、彼の陣替えを訴え養生できるよう輝元に願い出た。
 ところが景親(かげちか)孫仁甲(ソン イン ガプ)の存在を警戒し、前線から身を引くことはなかった。
 この後、朝鮮側の義勇兵たちの蜂起は同時多発的に各地へと波及し、豊臣軍を苦しめることになる。
 
 六番隊に属していた毛利輝元は、十日になって東萊(トン ネ)から玄風(ヒョン ブン)に進んで十八日には星州(ソン ジュ)城に入った。この後、七番隊に再編成されて星州(ソン ジュ)城を拠点に慶尚道(キョン サン どう)支配を命じられ、道内に次々と陣を張り巡らせ日本軍の連絡線構築と守備の強化に尽力していく。この段階で日本軍は、釜山から漢城府の街道を全ておさえた。それに伴なって食料の経由地点である茂渓(マウ シー)はますます重要になっていた。
 ところが孫仁甲(ソン イン ガプ)はたった一度の襲撃で終わる男でない。その後もたびたび落東江(ナッ ドン ガン)に舟で出没しては、荷を運ぶ倭船を襲撃して日本側に大きな打撃を与えたのである。
 それにつけてもその舟と馬を使った巧みな戦術は敵ながらあっぱれと言う他ない。瀬戸内で船による戦闘術を身に付けた景親(かげちか)にして地団駄(じ だん だ)踏むほどなのだ。
 景親(かげちか)はかつて神武天皇東征以前、新羅から日本に渡った馬津(マー ジン)族の話を思い出している。彼らは舟による水運と馬による陸運とを巧みに使いこなし、馬津という取り次ぎ港を設置して道なき道や沼地を難なく荷を運搬する技術を持っていたことを。
 「もしや奴はその末裔か? 舟には舟で対抗できるが、馬を使われたら(すべ)がない……否、この周辺は沼地だらけだ。むしろ馬を使わせて沼に引き込み動きを封じる手もあるな……」
 景親(かげちか)の策が熟した頃はすでに六月の末だった。彼は前回の襲撃で負った手傷の治りが遅いのを気にしながら、
 「孫仁甲(ソン イン ガプ)め、次こそお前を葬ってやる」
 とほくそ笑む。
 その決戦の日は間もなく訪れた。落東江(ナッ ドン ガン)を航海中の日本の船団が急襲を受けたとの報告が飛び込んだのだ。
 「かかったな!」
 景親(かげちか)は片足を引きずって陣屋を飛び出し舟に飛び乗った。果たして襲撃現場に到着すれば、日本の輸送船はことごとく燃やされ、あるいは撃沈せられ、唯一免れた数隻の舟を追跡する朝鮮の舟をとらえたのである。
 「これは朝鮮船団と村上船団の戦いじゃ! 孫仁甲(ソン イン ガプ)め、覚悟せい!」
 逃げる倭船を操るのは景親(かげちか)の片腕とも言える家臣の水沼権平(ごん べい)という男である。幼い頃より瀬戸内の渦潮の中で航海術を競い合った佳きライバルでもあった。それは景親(かげちか)が仕掛けた罠であり、輸送船はおとりで荷は積んでいない。孫仁甲(ソン イン ガプ)にわざと襲撃させて、逃げる素振りの水沼権平(ごん べい)を追撃させ、その反対側から挟み撃ちしようという作戦である。
 いち早くこれに気付いた孫仁甲(ソン イン ガプ)は、慌てて近くの馬を置いた対岸へと舟を寄せたが、手綱を握った時には上流側の景親(かげちか)と下流側の水沼とに挟まれた。案の定逃げ場を失い、河を背にして馬を走らせたが、そこは果てしない沼地で、馬は足をとられて動きを封じられた。
 景親(かげちか)孫仁甲(ソン イン ガプ)に詰め寄った。
 「残念だったな! しかしなかなかの舟使いであった、褒めてやるわ!」
 すると孫仁甲(ソン イン ガプ)は異国の言葉で、
 「お前たちの目的は何だ? 何故に我が国を侵略するか?」
 と言ったが、無論意味は通じない。
 「その遺言、すまぬが意味がわからない。このままあの世に送ってやるが悪く思うな」
 孫仁甲(ソン イン ガプ)はさらに続けた。
 「お前たちの統領に伝えよ、この国の民はけっしてお前たちを許さないとな……」
 「御免!」
 振り上げた景親(かげちか)の刀が彼の首を落した。
 孫仁甲(ソン イン ガプ)はけっしてその地にゆかりが深かったわけでないが、その死は義兵たちに憤りの衝撃を与えた。鄭仁弘(ジョン イン ホン)にとってもその死は大きな痛手であったはずだが、朝鮮側にとっては引く事のできない戦いなのだ。戦争はいつも必ず蹂躙する側が一〇〇パーセント悪なのである。鄭仁弘(ジョン イン ホン)は彼に換わる人材を求め、ついに郭再祐(クァク ジェ ウ)金命元(キム ミョン ウォン)といった後の戦いで猛烈な奮戦を遂げる武将を得る。
 そして鄭仁弘(ジョン イン ホン)のもとに数千という義勇兵が陸続と集まっていく。



 星州(ソン ジュ)城の毛利輝元は不満だった。
 各方面での戦勝報告が伝えられるたび、その表情は暗くなるようにも見えた。
 彼が支配する慶尚道(キョン サン どう)だけでも先に記した茂渓(マウ シー)の戦い≠フほか、同じころ毛利家臣の吉川広家(きっ かわ ひろ いえ)も戦闘を経験していたし、八月には同じ慶尚道(キョン サン どう)を護る細川忠興(ほそ かわ ただ おき)ら一万二〇〇〇の兵が善山(コプ チャン)仁同(ジン ドウ)で義兵と衝突した。いずれも日本軍優勢あるいは勝利の戦いではあったが、輝元は朝鮮出兵自体に悲観していた。
 このところ景親(かげちか)は、星州(ソン ジュ)城近くの両班(ヤン バン)韓屋(ハ ノク)(家)に身を置いて、足の外傷を癒す休養を取っている。茂渓(マウ シー)で射られた足の傷口が()み、もはや杖を突かなければ歩けないほど悪化していたのだ。輝元はそんな彼を呼び寄せては愚痴を吐くのであった。
 「足の具合はどうか?」
 「両班(ヤン バン)の家の女がいたく従順で、おかげで少しずつですが歩けるようになってきました」
 日本兵の進軍で都市に住んでいた中には逃げ出す者もいたが、多くは行く宛もなくそのまま家に留まっている。景親(かげちか)が身を置く韓屋(ハ ノク)もそうしたうちの一つで、家の女を捕虜として捕えようとしたところ、女は痛々しい足の傷を哀れみの目で見て、一室を療養にと提供してくれたのだ。その女の名を()宝春(プウ チン)と言った。
 「いい女か? すでに手をつけたのであろうな?」
 「冗談はおやめ下さい、落ちぶれたとはいえ海賊の誇りは捨てておりません! それにあの女は二人の子持ちですぞ。()如芬(ヨー ファン)と申す上の子はまだ三、四歳で、下の子などはよちよち歩きの赤ん坊です。おまけに()如芬(ヨー ファン)の方はひどく私に(なつ)いて、おかげで朝鮮語も少しばかり話せるようになりましたわい」
 「まあ夫の方はどうせ義軍に参加していることだろうし、いつ本性を見せるか知れん。気を付けるに越したことはない」
 「それがどうもそうとは言い切れんのです。この国の仕組みがよく理解できませんが、この国では女は男の奴隷の如き仕打ちを受けているようでございます。我が国の天照大御神(あま てらす おお み かみ)は女の神なのだとか、神功皇后(じん ぐう こう ごう)は女の身でありながら海を渡り新羅(しらぎ)言向(こと む)けたのだとか、巴御前(ともえ ご ぜん)の武勇の話などしましたら目を輝かせてそんな国があるのか。行ってみたい≠ニまんざらでないのです」
 輝元は鼻で笑って別の話を持ち出した。
 「ところで太閤(たい こう)(豊臣秀吉)様はどうもわしらをこの国に永住させようとしているようじゃ」
 景親(かげちか)は小さく「はあ」と答えた。
 「太閤様はこの国に今の十倍の領地をくれると言う。中には魅力を感じる者もおるようだが、この国はだだっ広いだけで土地は痩せ、そんなもん頂戴したところで統治するのも難しかろう。お前ならどうする?」
 輝元はため息混じりに顔の周りを飛び回るハエを払った。
 「もともと私は能島を離れるつもりはありませんでしたが、筑前と筑後に六〇〇〇石ばかりの領地をいただき、今はそれでもなんとかやっております。人間、住めば都とはよく言ったものですな」
 「ならばもらった土地はお前にやってもいいから、わしの替わりに住むとよい」
 「そ、それはちょっと……」
 「ほれみろ。第一、言葉も通じんではないか。ちょっとした伝令を頼むにもいちいち通訳が必要ではかなわん。この上唐入(から い)り≠果たしたらどうだ? (みん)は朝鮮よりはるかに広い。いよいよ国の統治はおぼつかん」
 輝元はまたハエを払って「ええい!」と言った。
 「しかし朝鮮人は弱い。明はもっと弱いと聞いております。案外言う事を聞くかも知れませんぞ」
 「十万の朝鮮兵など五十人いれば討ち取れる。しかし面倒なことに奴らはすぐ山に逃げ込む。そして少人数でいるところを弓で狙って来るからなかなか厄介(やっ かい)な相手であるぞ。このうえ今建設中の無数の城を防御しなければならないとなると、この戦、長期化すると見てよいな」
 「さようでございますなあ、敵もバカではありませんから。中には孫仁甲(ソン イン ガプ)のようにあっぱれな武将もおります。あなどったらいけません。それに心配なのは兵糧(ひょう ろう)です。各地に侵入した兵が現地から食を奪って朝鮮人の間で飢餓(き が)が広がっていると聞きます。そんなことをしていたらいずれ農民一揆が起こるのも必然。それだけは食い止めなければなりますまい」
 輝元はまた鼻の頭にとまろうとするハエを払って、
 「それにしてもこの国はハエが多くて困る。水はけも悪いうえに、やたらと牛が多い。こんな劣悪な環境ではわしの健康もじきに害されるわい」
 とひとつ咳をして、今度は酒の肴にたかるハエを払ってまた不機嫌な声を挙げた。
 「ところで朝鮮水軍の話は聞いたか?」
 と続ける。
 陸軍の快進撃の報が入る一方で、水軍の戦報はいまひとつ奮わないことに一抹の不安を感じているのだ。現に五月だけでも玉浦(オク ポ)赤珍浦(チョッ チン ポ)泗川(サ チョン)≠ナの海戦で豊臣船団は敗北を喫していたし、六月に入って唐浦(タン ポ)唐項浦(タン ハン ポ)栗浦(ユイ ポ)≠ナも敗北、更には七月頭には閑山島(ハン サン ド)海戦≠ノおいて楼船七隻、大船二十八隻、中船十七隻、小船七隻が破壊あるいは拿捕(だ ほ)され、指揮を執った脇坂安治などはわずか十隻を率いて辛うじて逃げ延びたという報が入ったばかりだった。
 「船についてはそちに聞くのが一番。これをどう見る?」
 と輝元は聞く。
 「もともと日本の船は補給が主な目的で海戦は想定していません。加えて暗礁(あん しょう)や波の性質など海域の利を全くもって知りません。これだけ取っても朝鮮側に有利なのは明らかです。それに──」
 景親(かげちか)は言葉を止めた。
 「それに……どうした? 申してみよ」
 「どうもただならぬ海戦上手の武将の匂いがします」
 その武将は李舜臣(イ スン シン)に相違あるまい。日本船団との海戦で幾たびもの勝利を挙げた朝鮮の英雄である。現に先の海戦で豊臣水軍をまったく寄せ付けない指揮を執っていたのも彼だった。しかしこの時はまだ日本側はその存在を知らない。
 「ほう……、いよいよそちの出番かな?」
 「私などとてもとても。瀬戸内の海ならともかく、こちらの海の(くせ)など知る由もありません。戦う前から敗けですな」
 「制海権を握れんでは日本に勝ち目はないではないか。補給路が確保できんでは日本軍は飢えて死ぬより仕方あるまい」
 「時間の問題かと思われます……」
 二人は顔を見合わせて大きなため息を落した。
 そうこうしているうちに二番隊加藤清正が咸鏡道(ハム ギョン ド)会寧(フェ リョン)宣祖(ソン ジョ)の二人の王子を捕縛したという報が届く。すでに一番隊小西行長は宣祖(ソン ジョ)のいた平壌(ピョン ヤン)を占拠しており、宣祖(ソン ジョ)の援軍要請を受けて動いた明軍を撃退したのもこの頃である。
 陸における日本軍の快進撃は続いているように見えたが、この頃に至っていよいよ勢いが薄れはじめた。兵糧不足に陥った加藤清正は撤退を決め、これ以降は内政に力を注ぐことになり、平壌(ピョン ヤン)の小西行長は明との講和交渉に乗り出す。いずれも長期戦は不利と判断した表われだった。
 
 景親(かげちか)の療養する韓屋(ハ ノク)の建物の幅といったら九十九間(約一八〇メートル)あった。これは王族でない限り一〇〇間以上の建物を造ることを禁じていた朝鮮王朝の、上層階級者が造ることのできる制限いっぱいの幅であり、両班(ヤン バン)として建設可能な最大邸宅である。
 星州(ソン ジュ)には星州李氏(ソン ジョ イー シー)≠ニ呼ばれる一族が実権を握っていた。始祖の李純由(イ スン ギョン)は李氏朝鮮が成立する以前の新羅(しら ぎ)の宰相だったというからその歴史は古く、十二代目の李長庚(イ チャン ビョン)は高麗時代に生き、有能な五人の息子の功績により時の忠烈王(ちゅう れつ おう)(高麗王)から星州(ソン ジュ)を与えられてよりこの地に住むようになった。つまり景親の世話をする宝春(プウ チン)は、両班(ヤン バン)の中でも最上位に当たる星州李氏(ソン ジョ イー シー)≠フ奥方というわけらしい。ちなみに壬辰倭乱(じん しん わ らん)(秀吉の朝鮮出兵の朝鮮での言い方)の碧蹄館(ビョク ジェ グァン)の戦い(明との平壌(ピョン チャン)争奪戦)≠ナ大活躍する明の将軍李如松(イ ヨ ソン)は、中国に帰化した星州李氏(ソン ジョ イー シー)の末裔である。
 それはともあれ、立派な家柄の奥方の割に宝春(プウ チン)の生活ぶりはあまりに質素だった。豪華な作りの建物からは想像できないほどの質素な母屋で生活し、景親(かげちか)には留守中の夫が使う豪勢な部屋をあてがったのである。
 そこは女子供がやたらに入れない風習があるようだったが、物珍しそうに部屋を覗きに来る小さな如芬(ヨー ファン)があまり可愛かったので、景親(かげちか)は手招きで中に引き入れ一緒にユンノリ(双六)などして遊んだり、横笛を吹いてやったりしているうち、すっかり友だちになってしまった。
 「おじさんは悪い人なの?」
 あるとき如芬(ヨー ファン)がそう聞いた。何カ月もその国に身を置けば、簡単な言葉くらい話せるようになるものだ。
 「どうしてだい?」
 「だってママがそう言ってるもん。倭国の人はみんな悪者だってさ」
 「如芬(ヨー ファン)はどう思う? おじさんが悪者に見えるかい?」
 「わかんない。でもぜんぜん怖くない!」
 景親(かげちか)は高笑した。如芬(ヨー ファン)は興味深そうにまた聞く。
 「私たちを倭の国へさらって行くの? だってみんな言ってるよ」
 何の含みもない純粋な質問に、景親(かげちか)は急に悲しくなった。
 確かに日本兵の中には朝鮮の女子どもや陶芸などの様々な技術を持った職人たちを拉致(ら ち)し、本国に連れ還る者も多くいた。戦は国家間の問題であるに関わらず、それを私物化し、戦況が優位であるのに乗じてどさくさ紛れに人の道を平気で犯す見苦しい行為を人間の(さが)≠セと言って納得することもできなかった。全てが豊臣秀吉という一人の人間から始まった蹂躙(じゅう りん)の欲望だとするなら、それに(あらが)うことができない己の力のなさを嘆くのである。
 「おじさんはそんなことはしないよ……」
 その言葉は弱々しくあったが景親(かげちか)の本心だった。
 「よかった!」
 如芬(ヨー ファン)は彼に抱きついてはしゃいだ。
 
 星州(ソン ジュ)城は最初小西行長が陥落させてより日本軍が占領し、その後毛利輝元が入って漢城府(ハン ソン ブ)への経由地として、また慶尚道(キョン サン ド)一帯の一大拠点として、あるいは主要な補給路だった大邱(テグ)を防御するための地点であり、このときすでに二万を越す兵が駐屯する要衝だった。朝鮮軍にしてみれば、星州(ソン ジュ)城の奪還こそが日本軍の物資輸送を断つための至上命令であり、そのためには輝元を孤立させる必要があると考えた。
 景親(かげちか)の足の怪我も治りかけた八月の中旬を過ぎた頃である。俄かに朝鮮の義勇兵が蜂起した。
 このとき輝元は小早川隆景との談合のため開寧(ケ ニョン)にいる。星州(ソン ジュ)城は毛利家臣桂元綱(かつら もと つな)が城代を務めており、義兵は城主不在のこの隙を突こうと企てたのである。
 金命元(キム ミョン ウォン)を得た鄭仁弘(ジョン イン ホン)のもとには二万もの義兵が結集していた。それは星州(ソン ジュ)城の日本兵と互角に戦える数である。義兵が城を包囲しようとしていることを知った桂元綱(かつら もと つな)は、慌てて輝元のいる開寧(ケ ニョン)へ援軍要請の遣いを走らせた。
 ところが怪我の療養中の景親(かげちか)はニヤリと笑んで、
 「鄭仁弘(ジョン イン ホン)め、ついに来たか!」
 と余裕綽々の声を挙げたのだった。
 その名は彼にとってはある意味宿敵だった。先の茂渓(マウ シー)の戦い≠ナ直接対決した孫仁甲(ソン イン ガプ)を指揮していた人物こそ鄭仁弘(ジョン イン ホン)だったからである。そして、
 「奴らの戦い方は既にお見通しだ。二万の義兵と言ったところで所詮は戦の経験のない医者とか文人などの民の寄せ集めだ、恐れるに足りん。どうせ奇襲しか能のない奴らだ。ならば先にこちらから奇襲を仕掛けてしまえ」
 そう言うと、送られた援軍を率いた桂元綱(かつら もと つな)を、包囲網の形成を準備する鄭仁弘(ジョン イン ホン)の義兵の駐屯地に向かわせ、その後方から奇襲攻撃を開始した。
 計画をあっけなく打ち砕かれた義兵軍はいとも容易く総崩れ。何の抵抗もできずに後退したが、鄭仁弘(ジョン イン ホン)金命元(キム ミョン ウォン)はそれ如きで諦める男ではなかった。九月に入って再び星州(ソン ジュ)城包囲を試みる。
 ところが毛利軍はこの計画もまた準備中のうちに撃退し、しかもこのときは星州(ソン ジュ)城の西に位置する知礼(チ レ)城まで落としたのである。
 一度ならずも二度までも、星州(ソン ジュ)城攻略に失敗した鄭仁弘(ジョン イン ホン)の怒髪は天を突いた。次の戦いに全てを懸ける決意で作戦を練り始める。
 

 
 朝鮮半島は日本とほぼ同じ緯度にある。
 だから四季もはっきりしており、旧暦の十二月と言えば雪も降ったし飲み水も凍った。
 毎朝の釜戸の火おこしは世話になる景親(かげちか)のせめてもの感謝のしるしで、その都度拒む宝春(プウ チン)に「よいよい、拙者がやる」と言っては高笑いしたものだった。
 足の傷もすっかり癒え、もう走ることもできるようになった彼は、訛った身体をならすために毎日家の回りを何周も走って体力の増強に忙しい。すると、
 「おじちゃん、投壺(とう こ)やろ!」
 無邪気な如芬(ヨー ファン)が呼び止めた。投壺(とう こ)≠ニは壺に細長い棒を投げ入れる投げ矢遊びである。
 「よかろう! でも敗けて泣くなよ」
 「泣かないもん!」
 第二次星州(ソン ジュ)城合戦≠フ騒ぎから三カ月が過ぎようとしていた韓屋(ハ ノク)は、戦闘状態が嘘のような穏やかな時間が流れていた。
 そのとき、
 「景親(かげちか)殿! 至急城に参られよ!」
 星州(ソン ジュ)城からの使者が壺に向かって棒を投げようとしていた景親(かげちか)の動作を止めた。
 「義兵の奴らが城の周りを包囲しようと続々と集結している!」
 「なんだと? で数は?」
 「数千? いやそれ以上と思われる。すぐさま戦闘準備じゃ!」
 「諦めの悪い奴らじゃ」と思いながら景親(かげちか)は、如芬(ヨー ファン)の「どこ行くの?」という言葉を背にして走り出した。
 この第三次星州(ソン ジュ)城の戦い≠ヘ、一次、二次と比べて状況が少し違っていた。毛利輝元が開寧(ケ ニョン)から戻っていない点では同じだが、慶尚道(キョン サン ド)の西隣全羅道(チョル ラ ド)の東側にいた義兵が鄭仁弘(ジョン イン ホン)のもとに集結した朝鮮兵の数が、輝元軍に勝っていたのである。つまり輝元軍は慶尚道(キョン サン ド)全羅道(チョル ラ ド)の連合軍を相手に戦うという構図が出来あがっていた。戦闘意識においても連勝続きの油断が露骨に出ていた輝元軍は弱化し、逆に朝鮮義兵軍側は強化していた。特に全羅道(チョル ラ ド)に派遣された明の武将張潤(チョウ ジュン)は志気が高く、義兵全軍を鼓舞して日本を殲滅させんと躍起になっていた。
 元号が天正≠ゥら文禄≠ノ改元されるのとほぼ時を同じくした十二月七日、第三次星州(ソン ジュ)城の戦い≠フ火ぶたが切って落とされた。
 ところが朝鮮側はなかなか攻撃を仕掛けてこない。むやみに攻め込んでも火縄銃の犠牲になるのは明白だったし、ならば城への供給を断って飢餓状態に追い込もうという魂胆だった。
 季節は冬──。
 輝元軍にとって籠城戦は明らかに不利である。
 「このままでは(らち)があかんぞ」
 小競り合いの攻防戦による到着状態が四、五日も続くと、桂元綱(かつら もと つな)がしびれを切らした様子でそう言った。
 「これ以上動きを封じられていたら、朝鮮全土への兵糧供給に影響が出るぞ」
 と村上元吉も穂井田元清(ほ い だ もと きよ)も言う。それは日本軍にとっての急所とも言えた。
 「ならば討って出るしかなかろう!」
 この景親(かげちか)の提案は道理であろう。こうして十三日、野戦に切り替えた輝元軍は一斉に城を飛び出したのだ。
 ひとたび覚悟を決めた日本軍ははやり強かった──。
 行く手を塞ぐ義兵の塊に弓矢と火縄銃を撃ち放ち、守りが薄くなったところを騎馬兵が突っ込み蹴散らし、そこへ歩兵が飛び込み鎗や刀を振り回す戦法は、数で勝った朝鮮兵たちを次々に斬り捨てた。
 そんなことを繰り返しながら、騎馬に乗った景親(かげちか)も自ら敵陣に飛び込んで声を張り上げているうちに、ついに朝鮮義兵たちは持ちこたえられず、次第に退散してその数を減らした。
 「あまり深追いするな! (わな)が仕掛けられているかも知れん。一旦引くぞ!」
 景親(かげちか)がそう伝令を挙げた時だった。どこからともなく飛んで来た矢が彼の馬に突き刺さり、跳ね上がった(くら)から地面に転げ落ちた。しかも運悪く、下に転がる(しかばね)が握っていた剣が腕に突き刺さり、そこから大量の血が吹き出した。
 「村上様、大丈夫ですか!」
 一人の歩兵が手を差し伸べた。
 「よい、早く引け! 自力で戻れる!」
 血を滴らせながら城へと走る彼の脳裏に、ふと如芬(ヨー ファン)のことが思い浮かんだ。騒ぎに乗じて朝鮮兵に連れて行かれるのではないかという不安に捕らわれ、帰りがけの韓屋(ハ ノク)に寄ったのである。
 それは妙な感情だった。理性では「もともと朝鮮の国の人間なのだからその方が幸せだろう」と言っているのに、その奥では「奪われてたまるか!」という本能が早足にするのだ。それは、このときまだ子のなかった彼にして如芬(ヨー ファン)は我が娘のように思っていたことと、怪我の治療に献身的な宝春(プウ チン)に対する密かな恋心だったかも知れない。とにかく彼は走った。
 韓屋(ハ ノク)の門が目に飛び込んだ時、そこにいたのは一人の騎馬にまたがった武将と、それを護衛する数人の朝鮮義兵の姿だった。ところが門に出ていた宝春(プウ チン)は、その武将となにやら口争いをしている様子で、すかさず景親(かげちか)は刀を引き抜き近づいた。
 「何をしておる?」
 彼に気付いた数人の義兵が景親(かげちか)に襲い掛かったが、景親(かげちか)はそれを一人二人と難なく斬り捨て、やがて最後に残った騎馬の武将に(やおば)を向け、
 「名を申せ」
 と静かに言った。騎馬にまたがった武将も必死だったであろう。突然現れた倭の鎧姿に怯んだ様子で、
 「オレは星州(ソン ジュ)李氏(イ シ)の惣領李正日(イ ジョン イル)だ。ここはオレの家だ。そしてこれはオレの女だ。土足で上がり込みやがって! 倭賊の奴らは決して許さん!」
 李正日(イ ジョン イル)と名乗った男はそう叫んだと思うと馬上から剣を振り下ろした。
 「やめて!」
 と叫んだ宝春(プウ チン)の奇声は、景親(かげちか)の日本刀と正日(ジョン イル)の朝鮮刀とがかち合った金属音でかき消された。しかし正日(ジョン イル)の刀の方は(もろ)くも折れて、
 「御免!」
 と叫んだ景親(かげちか)は、馬上から彼を引きずり下ろしてそのまま刀を喉元に突き刺した。
 宝春(プウ チン)は夫に駆け寄って、憎しみの目で景親(かげちか)を睨みつけた。やがて外の異変に気付いた如芬(ヨー ファン)が姿を現したときは、景親(かげちか)は城へ向かって歩いていた。次の瞬間、鎧の背中を襲う如芬(ヨー ファン)の泣きじゃくった声が響いた。
 「ばかばかばか! 死んじゃえ!」
 景親(かげちか)は振り向くこともできずにそのまま前へと歩を進めた。
 こうして三度に及んだ星州(ソン ジュ)城の戦い≠セが、最後の第三次の戦いは輝元軍が辛くも勝利をおさめた形である。しかし日本側が被った被害も朝鮮側に匹敵するほど甚大で、この後、朝鮮義兵は次なる戦いの舞台となる碧蹄館(ビョク ジェ グァン)≠ヨと移っていく──。
 韓屋(ハ ノク)に戻った景親(かげちか)如芬(ヨー ファン)が迎えたが、父が死んで泣き腫らした目は痛々しく、景親(かげちか)は思わず目をそらした。父を殺した張本人が彼であることを彼女は知らない。宝春(プウ チン)はその事実をまだ話していないのだろう、(さげす)んだ瞳のまま景親(かげちか)の腕の刀傷に気付き、
 「また怪我をしたのですか、見せて」
 と着物を脱がすと、何も言わずに薬を塗って傷口を布で巻いたのである。そして、
 「すまぬ……」
 と言った景親(かげちか)に何も答えず、そのまま母屋の中に入ってしまった。
 如芬(ヨー ファン)は小さな声で、
 「あのね、お父さんが死んじゃったの……」
 と言った。
 その無邪気な言葉は景親(かげちか)を苦しめた。韓屋(ハ ノク)に戻ればこんなことになるのは分かっていたはずだった。しかし苦しみのその天罰を受けるのは覚悟の上で戻ったのだ。そして異国の地で初めて得た心の友でもある如芬(ヨー ファン)から罵声を浴びせられ、憎まれようとして再びやって来たのだ。
 如芬(ヨー ファン)は泣きながら、
 「お父さんは知らない倭国の人に殺されたの……」
 と言った。しかし、
 「おじさんが()ったんだ──」
 という真実は、けっして口から出ることはなかった。否、言えなかったのだ。
 景親(かげちか)は、
 「ごめんな……」
 と言って小さな身体を抱きしめるのが精一杯だった。
 以来、景親(かげちか)が吹く心の慰みの横笛の音は、どことなく物悲しさが漂っていた。
 

 
 星州(ソン ジュ)城の日本兵は最低限を残してみな平壌へと向かう。明の勇将李如松(り じょ しょう)が総勢四万三千の兵を率いて小西行長が占拠する平壌奪還に動き出したのだ。
 「わしも行く!」
 と景親(かげちか)は名乗りをあげたが、
 「その怪我でどうやって戦うのだ。足手まといだ」
 と一蹴(いっ しゅう)されて、泣く泣く例の韓屋(ハ ノク)で治療に専念することになったのだった。
 年が明けて一月──。
 平壌を占拠するの小西行長の軍勢は李如松(イ ヨ ソン)の急襲を受けて落城寸前に追い込まれた。ついに撤退を余儀なくされた行長は平壌城を明け渡して退却する。
 敗走する行長軍を李如松(イ ヨ ソン)は追撃したが、漢城への途中の碧蹄館(ビョク ジェ グァン)≠ナ小早川隆景と立花宗茂らの軍と衝突し、敗れた李如松(イ ヨ ソン)は平壌に撤退した。これが朝鮮出兵における大戦碧蹄館の戦い≠ナあるが、このとき長引く戦の兵糧不足で両軍はともに疲れ切っていた。
 泥沼化した戦争はやがて日本と明との間で講和が持ち出された。その結果、四月に入って「日本軍は朝鮮王子とその従者を返還する」「日本軍は釜山まで後退する」「明軍は開城まで後退する」「明から日本に使節を派遣する」の条件をもって合意がなされ、全羅道(チョル ラ ド)の一部地域を除いて朝鮮にいた諸大名達は次々と日本に引き揚げを開始した。
 結果的に毛利輝元も星州(ソン ジュ)城を放棄せざるを得なくなるのだが、このときの彼の判断は早かった。
 「この戦、どうも勝ち目が薄い。こんな所にいつまでもいられん。星州(ソン ジュ)城から撤退するぞ!」
 と言ったのが碧蹄館(ビョク ジェ グァン)の戦い≠ェ始まるより数日前の正月十五日のこと──というより慣れない異国生活で体調を崩し、彼は一刻も早く日本に帰りたかった。
 輝元が星州(ソン ジュ)城から撤退したことにより、朝鮮側は慶尚道(キョン サン ド)落東江(ナッ ドン ガン)西側地域を取り戻すことになる。つまりそれは日本軍の主要路が遮断されたも同然だった。この意味において星州(ソン ジュ)城の戦い≠ヘ、秀吉の文禄の役≠フ行方を決めた重大な戦だったと言える。
 これに伴なって景親(かげちか)如芬(ヨー ファン)との別れの時を迎えなければならなかった──。
 先の戦いで負傷した腕は、献身的な宝春(プウ チン)の看病のおかげですっかり癒えた。
 「もう会う事はないだろうが世話になった……これを──」
 景親(かげちか)は日頃から心の慰みに吹いていた横笛を宝春(プウ チン)に手渡したのだった。
 「これは……?」
 「わしが初陣の際、父から授かった日本の横笛だ。何の礼もできんが、これで勘弁してくれ」
 すると傍らにいた如芬(ヨー ファン)が泣きそうな目をして、
 「おじちゃん、倭の国へ行っちゃうの?」
 と聞いた。朝鮮を去るのに何が最も悲しいかと問えば、我が娘とも思える彼女との訣別なのだ。
 「戦争とはいえ、日本はこの国に許されない無礼を働いてしまった……」
 景親(かげちか)は小さな如芬(ヨー ファン)の身体を抱き上げて、
 「許しておくれ……」
 と呟いた。それは彼女の父親を殺した償いの言葉であった。
 「やだ、おじちゃん、行かないで。ここで一緒に暮らそう?」

 「本当にごめんな……」
 景親(かげちか)如芬(ヨー ファン)を下ろし、荷物をまとめた風呂敷を持ち上げた。その時だった。
 「お待ち下さい!」
 彼を引き止めた宝春(プウ チン)が、手にした横笛を景親(かげちか)に返してこう言ったのは──。
 「どれだけ大事な笛か知りませんが、私と二人のこの娘は、あなた方が破壊したこの国でこれからも生きて行かねばならないのです。こんな物で誤魔化さないで下さい。女手一つでこの国で生きていく辛さを知っていますか? しかもその夫はあなたが!──」
 ここまで言って宝春(プウ チン)は言葉を止め如芬(ヨー ファン)に視線を送った。それは景親(かげちか)如芬(ヨー ファン)にもっとも知られたくない真実であり、同時にもっとも恐れていた己に向けられた刃であった。
 しかし彼女はその真実を明かさないまま話を続けた。
 「私はもともとこの家で水汲みをしていた雇われ奴婢(ぬ ひ)でした。運よく夫に見初められその妻になりましたが、実際の生活は奴婢よりましというだけでけっして幸せとは言えませんでした。この国では母親の身分が賤しいと、夫の身分がいくら高くても子は賤しい身分のままなのです。それは王の妻になっても同じなのです。夫を失ったこの私に、この国でどうやって生きろというのでしょう?」
 景親は言葉を失った。そして久しく眠っていた海賊の血がよみがえってくるのを覚えた。
 「いっそ私を倭の国にさらって下さい。あの巴御前や神功皇后の住むと言う……」
 景親(かげちか)は何も言わずに宝春(プウ チン)の身体をひょいと担ぎ上げ肩に抱えると、如芬(ヨー ファン)と下の娘の手を引いて日本へと引き揚げる船に乗り込んだ。
 

 
 秀吉の唐入(から い)り≠フ野望は消えていない。
 明との和平交渉が決裂すると、慶長二年(一五九七)になって再び朝鮮への派兵を開始する。
 その間、景親(かげちか)の文禄の役≠ナの功績を高く評価した細川忠興(ほそ かわ ただ おき)は、
 「豊前(ぶ ぜん)に一万五千石を与える」
 と言って家臣に誘い、池田輝政(いけ だ てる まさ)もまた、
 「三万石でどうじゃ?」
 と誘ったが、景親はいずれも、
 「私は毛利元就公以来、毛利家には懇意にしてもらっているでなあ」
 と言って辞退した。
 もともと小早川家の家臣として筑前と筑後に領地を持っていたが、小早川隆景の隠居後は小早川秀秋に仕え、慶長二年(一八九七)に隆景が没すると、自ら辞して屋代島(や しろ じま)周防大島(すおうおおしま))に移り住んだ。その地で再び毛利輝元に招かれ毛利家の家臣に戻ったという経緯がある。
 このころ朝鮮から連れ帰った如芬(ヨー ファン)は十を数える少女に成長し、妹の方も今でいえば小学校の低学年くらいの童女になっている。そして母親の宝春(プウ チン)はといえば、父の村上武吉(たけ よし)がその容姿をすっかり気に入り、いつの間にか(めかけ)として抱え込んでしまっていた。
 「まったく父上にも呆れたものだ……」
 とぼやきながら、彼は正妻平岡通倚(ひら おか みち より)の妹との間に嫡子(ちゃく し)八助をもうけていた。さらにその下に五人の女の子をもうけるが、如芬(ヨー ファン)と妹はそれらの子の面倒をよく見、実の姉さながらの生活を送っている。
 二度目の朝鮮出兵(慶長の役)にあたり、当初は出兵を免れていたものの、再びの出動が命じられたのは慶長三年四月のことだった。
 「小早川家の四番隊として、八月から十二月まで朝鮮の西生浦(ソ セン ポ)で在番警備をせよ」
 と言う。
 「おい如芬(ヨー ファン)、わしはまた朝鮮へ行くことになったが、お前も行くか?」
 出発を間近に控えたある日、景親は冗談交じりに如芬(ヨー ファン)にそう聞いた。
 「そうやっておじ様はまた意地悪をおっしゃいます。戦争は嫌いでございます。どうぞおじ様だけで」
 すっかり日本語も上達した彼女の表情には、どことなし女性の色香が漂いはじめている。
 「お前の生まれ故郷ではないか。帰りたくないのかい?」
 如芬(ヨー ファン)は即座に「帰りたくないわ」と笑った。
 ところが──
 それから間もなく、あの日本が生んだ怪物豊臣秀吉が死んだ──。時に慶長二年八月十八日のことである。ここにおいて五年間にわたって繰り広げられてきた朝鮮の悲劇はようやく終焉を迎える。
 秀吉の没後、景親(かげちか)の兄村上元吉(もと よし)は毛利輝元から四千七百石を与えられ父の武吉(たけ よし)を伴なって安芸国の竹原へと移って行く。また景親(かげちか)も安芸国の蒲刈(かま がり)島に千石の地を賜った。
 関ケ原の戦いでは兄弟ともに毛利水軍を率いて蜂須賀氏の所領阿波国の猪山城を降伏せしめたが、兄元吉はその戦いの中で戦死した。そして西軍が敗れると毛利家は防長二ケ国への移封となり、その後景親(かげちか)は毛利家の船手頭となって屋代島で父とひっそり暮らす。そして輝元が剃髪(てい はつ)すると、景親(かげちか)もまた剃髪して『如真』を名乗った。
 このとき父武吉(たけ よし)(よわい)六十七だった。
 かつての海賊の風貌はすっかり失われ、身体も萎えた。
 その老体を労わるように、よく面倒を見たのが宝春(プウ チン)である。それはかつて景親(かげちか)が朝鮮で怪我をしたときとなんら変わらぬ献身ぶりで、武吉は「お宝様、お宝様」と言っては寵愛(ちょう あい)したのである。そんな武吉(たけ よし)も慶長九年(一六〇四)にこの世を去る。七十二年の生涯だった。
 景親(かげちか)はすっかり乙女に成長した如芬(ヨー ファン)を伴なって瀬戸内の海を見つめていた。沖から吹き付ける潮風は、にじみ出る汗を気化させ二人を心地よい清涼感で包み込む。
 やがて景親(かげちか)はどこか遠くを見ながら静かに言った。
 「兄も死に父も死んでしまった。今から思えばあの朝鮮での出来事は一体なんだったのだろう? 結局死ぬのであれば、あのとき死んでも同じことだったのではなかろうか……?」
 如芬(ヨー ファン)はぷっと吹き出すと、景親(かげちか)に視線を移した。
 「いまさらのお言葉です。人は置かれた状況の中でもがいて生きるより仕方ありません。でもそのおかげで私はおじ様と会えました。日本に来て良かったと思っていますよ」
 景親(かげちか)は彼女を見つめ返した。
 「本当にそう思うのかい?」
 如芬(ヨー ファン)はこくりと頷いた。
 「わしが例え悪魔だったとしてもかい?」
 すると如芬(ヨー ファン)は海の遠くの方を見つめて暫く何も答えなかったが、やがてこう呟いた。
 「この世は理不尽で出来ています。でも人は、理不尽と思いつつもその世界で生きるより仕方ないのでございましょ? 誰もがその荒波に(おぼ)れまいとして必死に生きている矛盾だらけの世でございます。でもおじ様は、瀬戸内の渦潮のような複雑怪奇な波に乗るのがとてもお上手なようでございます。今度私にも渦潮の上を上手に乗る舟の漕ぎ方を教えて下さいな。私もきっと、おじ様のように器用に生きてご覧にいれましょう」
 このとき如芬(ヨー ファン)は既に女になっていた。景親(かげちか)は彼女の身体をそっと抱き寄せた。
 

 
 二人の間に子が生まれたのは慶長十三年(一六〇八)のことである。
 幼名を竹松と名付けられた赤子は後に源八郎と改めた。ところがこの二年後の慶長十五年(一六一〇)二月九日、村上景親(かげちか)は五十三年の生涯を閉じる。このとき家督は嫡男の八助に譲られたが、彼はその三年後に早世してしまう。
 村上家のことを心配した毛利輝元は、景親(かげちか)の領土を安堵し、景親(かげちか)如芬(ヨー ファン)との間に生まれた源八郎に、自らの元≠フ字を与えて『村上元信』と名乗らせた。このとき元信はまだ六歳の少年である。
 この後、如芬(ヨー ファン)の妹の方は景親(かげちか)の家臣水沼氏に嫁ぎ、朝鮮から連れて来られた二人の女性は肖像画として今に残る。
 周防大島の和田に、景親(かげちか)の墓を挟むようにして正室平岡通倚(ひら おか みち より)の妹と如芬(ヨー ファン)の墓石が並んでいる。その視線の先にはいったい何が見えているのだろうか。
 
 二〇二二年五月三日
(2017・07・29 『今治市村上水軍博物館』にて拾集)
 
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羅刹(ら せつ)と天女
城郭拾集物語K 出羽国(山形)米沢城
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 慶長三年(一五九八)、越後から会津へと移封された上杉景勝もこの道を通っただろうかと思いを馳せながら、ゴールデンウィークだと言うのにやけに車通りの少ない峠道を米沢城へと向かう筆者は、関ケ原で敗れたことにより僅か三〇万石に減封されたにかかわらず、家臣をリストラしなかったという美談を残す米沢藩のことを考えていた。
 時の米沢城主は直江兼続(なお え かね つぐ)──。
 一二〇万石が三〇万石だから給料が七十五パーセントカットされたことになる。現代の常識で考えれば人員を削減しない限りこの会社は確実に倒産であろう。上杉家は名将謙信以来、家臣たちとは様々な苦難を乗り越えた水魚の交わりだったことを思えば、命が尽きるまでお家と命運を共にしようとする気持ちは分からないでないが、主君も主君なら家臣も家臣である。
 おかげで米沢藩はその後二〇〇年もの間、財政困窮状態に陥った──。
 そもそも米沢城が最初に築かれたのは鎌倉時代のことである。
 室町時代に入り伊達氏がこの地を治めると米沢は城下町として成立していき、やがて戦国に入って伊達政宗もこの城と深く関わり、蒲生氏郷、上杉景勝へと支配者を替え、明治維新まで米沢藩上杉氏の居城として続く。その間、寛文四年(一六六四)には三代上杉綱勝の急死で末期養子として迎えられた綱憲(つな のり)により藩は存続するが、石高はさらに十五万石へと減封される。このときもまた藩士の解雇は行わず財政はますます逼迫するも、下級藩士に半農生活をさせるなどして困窮をしのいできた。
 ──堀をめぐらせたその縄張りはほぼ真四角。石垣が少なく土塁を多用した質素な城は財政逼迫の証しとも言われるが、もともと上杉氏の本拠地として伝統的な造りだとも言う。現在は城と言うより神社になっており、松が岬神社を背に堀を渡した正面参道を進めば左側に上杉謙信の祠堂(し どう)跡、やがて上杉鷹山(うえ すぎ よう ざん)の立像が迎えてくれる。

 なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり

 これはあまりに有名な鷹山(よう ざん)の言葉である。数え三十五歳で隠居した際、子の顕孝に贈った歌とされ、ほかにも、
 『受けつぎて國のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母』
 は、明和四年(一七六七)四月、十七歳にして藩主となった日に詠んだとされる。
 いずれも彼の不屈の信念が伝わってくる名言であるが、かつてアメリカのケネディ大統領が、
 「あなたが最も尊敬する日本人は誰か?」
 と問われたとき、迷わずに、
 「上杉鷹山である」
 と答えた逸話はその魅力を伝えるに十分すぎる。
 上杉鷹山が藩主になる前の八代重定のとき、米沢藩は領地を幕府に返上しようと真剣に考えるほどの危機的財政難に陥っていた。加えて、天明二年からおよそ六年にわたって発生した『天明の大飢饉』は、東北地方を中心にあまたの餓死者を出し、もはや慢性化した財政難を脱するのは不可能に思われた。
 このとき登場したのが上杉鷹山だった。
 彼は困窮した藩の財政を単に再建したばかりでなく、徹底した倹約を勧めて自らも世子の時のまま生涯その仕切料(藩主報酬)を上げることはなかった。そして『籍田(せき でん)の礼』を実施し、農を重んじ自らが(くわ)を取って田畑を耕し、雨が降らなければ山に登って雨請いもした。
 また、経済再建のために商人に学び、養蚕、製糸、織物、製塩、製陶などの産業の開発に取り組み、あるいは『興譲館(こう じょう かん)』を創設して人材育成に尽力したほか、貧しい家には出生手当金やおむつを支給したり、十五歳以下の子どもが五人以上いる家に養育手当金を支給したり、毎年九十歳以上の老人を城に招いて敬老会を開く。
 今でこそ当たり前のように言う福祉政策を、江戸時代にして次々と実現していくのである。
 もっともその成果が目に見えて顕われるようになったのは彼が晩年になってからのことだが、彼の行なった数々の政策は江戸時代においてひときわ眩しい光彩を放つ。
 この世に菩薩≠ニいうものが本当に存在するのなら、上杉鷹山はきっとそれであろうと思えてしまう。我が身のことなど顧みず、目の前で苦しむ他人をけっして見過ごすことのできない性格と言うべきか気質と言うべきか──いずれにせよ彼の振る舞いは彼の周りにいる者たちを感化せずにはいられなかったろう。そしてその影響力は、彼のもっとも近くにいた者にもっとも強く働いたに違いないと考えた筆者は、一人の女性に焦点を当てることにした。
 今回はこの上杉鷹山を支えた側室於(こと)の方((とよ)の方・浄鏡院(じょう きょう いん))の物語である。



 上杉鷹山(うえ すぎ よう ざん)の実父は日向国(ひ むかの くに)高鍋藩主秋月種美(あき づき たね みつ)と言う。
 彼は筑前国秋月藩主黒田長貞(くろ だ なが さだ)の娘春姫との間に生まれた次男坊で、文武を好み、藩士や子弟の遊学を奨励して人材を求め、軍備や民政においてその才を発揮した人物である。
 「国家の至宝は人材にあり」
 という信条のもと、特に人事に力を入れた政治を行なう姿を、鷹山は十六歳まで間近で見ていた。
 一方、実母は春姫と言う。
 彼女の母(鷹山の祖母で名を豊姫(瑞耀院(ずい よう いん)))は米沢藩四代藩主上杉綱憲(うえ すぎ つな のり)の娘だったこともあり、当時男子のなかった米沢藩八代藩主上杉重定(しげ さだ)を心配して、その娘の幸姫(よし ひめ)と鷹山との縁組を勧め、米沢藩の養嗣子として鷹山を江戸の米沢藩桜田藩邸に移して世子にさせた。ちなみに米沢藩の上屋敷が桜田屋敷と呼ばれたのは、江戸城桜田門の近くにあったためである。このとき鷹山十歳、幸姫(よし ひめ)はまだ八才の童女であった。
 鷹山十三のときに師事した細井平洲(ほそ い へい しゅう)は尾張の折衷学者であるが、この生涯の師との出会いが彼の人格を決定づけたと言って良い。平洲の説いた折衷学とは、つまり古学、朱子学、陽明学などの長所を集約した学問であるが、農民育ちの師が唱える説はどこまでいっても弱者の味方であった──。
 世子だった頃の鷹山の人間性を表わすこんなエピソードが残っている。
 ある日、江戸の桜田屋敷で馬を乗りならしていると、初めて米沢から江戸に登った何某(なに がし)という下級藩士が、勝手が分からず敷地内を迷っているうち馬見所近くに紛れ込んでしまった。
 「きさま、ここをどこだと思っておる! 世子鷹山様の御前であるぞ!」
 驚いた藩士は慌てて向かいの小屋の垣に身を潜めたが、そのうち尿意をもよおしどうしても我慢できなくなった。やむなく垣の陰でこっそり用を足すのだが、それを見つけた別の藩士が、
 「何をしやるか!」
 と怒鳴って彼を捕まえた。不始末を知った鷹山はその藩士をかえりみるが、このとき言った言葉が、
 「その者が何をした? 乗馬に夢中で小便をする姿など見る暇もなかったわい」
 だった。
 結局罰する理由があいまいになって、不始末を犯した藩士の名も聞かないまま事は終わった。
 藩主となって初めて米沢入りした時もそうだった。通常ならば米沢城に入る際は一里手前の関根から馬に乗るのが慣例だったが、その日はあいにく吹雪いていた。すると、
 「駕籠かきもさぞ寒かろう」
 と労わって、駕籠を使わず手前の大沢の宿から馬に乗り、吹雪きに打たれて颯爽と入城したという逸話である。
 また、ある家臣が鷹山に精進の朝餉を勧めた時の話。
 椀の中の芋に一片の魚の(うろこ)がついていた。殿様に対する粗相は厳罰の対象であるのは江戸時代の常だが、鱗に気付かなかった家臣は勧めた後で青ざめた。ところが鷹山はこっそり芋を裏返して鱗を隠し、何事もなかったように朝餉を食べ終えた。
 またある時は法会(ほう え)の際、ある家臣が誤って法会に使う炭とは違う炭を出してしまった。それを見た側近が厳しく不敬を責めたが、当の鷹山は、
 「この炭はどこの家で作られたものか? どんな火で作られたものか?」
 と話をはぐらかし、あえて罪を(とが)めようとはしなかった──。
 家臣のミスに対してどこまでも寛容な鷹山であり、その根幹には、
 「自分のして欲しいことを、先に他人に対してすべきである」
 とした師細井平洲(ほそ い へい しゅう)の『先施の心』があったに違いない。
 その一方で、鷹山が米沢藩主になるとき細井平洲(ほそ い へい しゅう)はこう教えた。
 「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」
 つまり、何を成すにも『勇気』が必要であると──社会的弱者を救い守るには、時に権力を有した特権階級を厳しく弾劾しなければならないと言うのであった。
 こうして鷹山は、明和四年(一七六七)四月二十一日、上杉家の家督を継ぎ米沢藩の藩主となる。



 莅戸九郎兵衛善政(のぞ き く ろ べ え よし まさ)という腹心の家臣がいる。
 彼は二〇〇石取りの中級家臣だが、鷹山が家督を継いだ時に小姓に抜擢され、明和六年(一七六九)に町奉行に昇進した。時に三十四歳。
 徹骨(てっ こつ)(ひん)≠ニは彼のための言葉で、生来不正を嫌い、その気質は鷹山からも厚い信頼を寄せられていた。
 町奉行に昇進したとき鮮魚を送られた彼は、それを門前の木に吊るして人目にさらしたと言う。賄賂(わい ろ)が公然と行われていた悪習を正そうと贈られた物品について誰がいつ、何を贈ったかを克明に記載し、それ以降、賄賂をなくすことに成功した。
 これは晩年の逸話だが、知人が彼の家に訪れて話が弾んだ。陽も傾いて夕飯時になったとき、家人が、
 「米がない」
 と目で知らせたのを受け、次の狂歌を詠んだ。
 『米びつを覗き(莅戸(のぞき))てみれば米はなし明日から何を()らうべ(九郎兵衛(く ろ べ え))かな』
 そう笑って着ていた羽織を脱いで米塩(べい えん)()に換えた。
 その困窮ぶりは目に余り、床のない家の土間で寝ているという話を聞いた鷹山(よう ざん)は、病気が悪化するのを心配して家に床を拵えさせたという逸話が残っている。
 もう一人、竹俣当綱(たけの また まさ つな)美作(みまさか)という家臣も鷹山が藩主になった時に江戸家老となった。
 彼は一、〇〇〇石取りの上士階級で、民政家であり産業にも明るかったため、莅戸(のぞき)九郎兵衛,黒崎恭右衛門、木村丈八らと共に重役に抜擢されたが、ややナルシストな一面を持っていた。
 もとは前藩主の上杉重定の信任を得て藩の実権を握るようになったのだが、上役をも容赦しない専制的な政治を行なっていた森平右衛門利真と激しく対立し、ついには密謀を企て森を刺殺するという経歴を持っていた。
 ともあれ若干十七歳の鷹山の藩主としての船出は、旧臣を一掃したまったく新しい顔ぶれだったのである。
 鷹山(よう ざん)は矢継ぎ早に改革を打ち出した。その決意は、
 『受けつぎて国のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母』
 の歌の中に見て取れる。四月に藩主となり八月には上杉家の祖神である春日明神に、

 文武の道を怠らぬこと
 民の父母の和歌に託した心構えを第一にすること
 質素倹約を忘れぬこと

 など、自らを律する誓詞を奉納したかと思えば、九月には米沢の鏡守社である白子明神に、
 「連年、国家が衰弱し、民人は皆うろたえております。よって大倹約を行い、米沢の繫栄を復興いたします! どうか私に力を!」
 と誓詞を奉納した。そして江戸在勤の家臣を集めてこう宣言するのである。
 「このまま滅ぶのを待つより、君臣が身を粉にして大倹約を執り行うならば、もしもにも中興あるやもと思い立った。さすれば今日の難儀を乗り越え、当家が末永く続くと心得て、各人心を一つにして心力を尽くそうではありませんか!」
 これが大倹約令発布の言葉であった。
 当然、戸惑いもあれば賛同の声も出た。どちらかと言えば前者の方が多かったに相違ない。ところが鷹山は、自ら率先して倹約を実行する。それまで一、五〇〇両と定められていた年間の仕切料(藩主報酬)を約七分の一の二〇九両と決め、衣服や食事、交際費の一切をこれで賄い、日常は一汁一菜、衣服は農民同様の木綿、さらには奥女中の数も五〇人から一挙に九人に減らす人件費の削減を実行した。
 案の定と言うべきか、これに対して大反発が巻き起こる。どこの馬の骨かも判らない突然現れた若僧が、中堅家臣をいきなり重役に登用したり、士風(し ふう)刷新や農政改革、あるいは開墾の奨励や文教政策などの全く新しい徹底した倹約・改革令を打ち出したものだから、これが国許に伝わると古いしきたりを重んじる古参の老臣たちの不満が爆発した。
 鷹山が米沢に初入部を果たした時にその事件は勃発する。
 藩主の初入部に際しては豪華な宴を催して祝うのが通例だったのを、鷹山はそれを拒んで赤飯と酒だけの倹約を徹底させた。そればかりでない──竹俣当綱(たけの また まさ つな)莅戸(のぞき)九郎兵衛らに大倹約令を強行し、細井平洲を米沢に招いて推し進めたから、古参の重臣たちは藩の体制を根底から覆す政策に大反発。安永二年(一七七三)六月二十七日、奉行の千坂高敦と色部照長、江戸家老須田満主、更には侍頭の長尾景明と清野祐秀と芋川正令と平林正在ら重臣七名が米沢城に乗り込んで前代未聞の藩主に対する直談判騒動が起こった。
 「殿は他家から家督を相続してまだ間もない。あまりに筋違いな事が多く賞罰が明確でありません!」
 「左様(さ よう)! 一汁一菜、綿衣着用おおいに結構! しかしそんなことは小事に過ぎません!」
 「いま米沢の政治は奉行の竹俣当綱(たけの また まさ つな)の独壇場、改革政治と言っても竹俣一派が独占しています。これは、かつての森平右衛門の側近政治の二の舞に過ぎない!」
 「左様! 大倹令、大検令と声を張り上げているだけで、何の成果も挙げてないではないですか!」
 「細井平洲を米沢に招脾するなど、それこそ意味のない無駄な出費。改革政治などただ藩政の混乱を招くだけだ!」
 「そのとおり! 昔からの質素律儀な越後風の旧法に戻すのが急務でござる!」
 そして一同声を揃えて、
 「即刻改革の中心人物、竹俣当綱を罷免し一味(いち み)を除くべきでございます!」
 と叫んだ。困り果てた鷹山は、
 「このような大事は大殿様(前藩主重定)にもよくよく相談して決めたい」
 と返答したが、七人は即刻の下知(げ ち)を迫ってその場に座り込み梃子(て こ)でも動こうとしない。
 次間(つぎのま)でその様子を見ていた近習の佐藤文四郎は、遂に見兼ねて隠居の前藩主重定を呼んできて、
 「なんたる騒ぎ! 養子とはいえ我が子に無礼であるぞ! 恥を知れ!」
 重定の一喝でようやく七名の重臣たちは帰っていった。
 この事態に対する米沢藩の対応は厳しかった。鷹山はじめ重定も加わり二日にわたる協議の末、徒党を組んで騒ぎを起こしたことや、藩主に対して暴言を吐いた点が重く問題視され、須田満主と芋川正令は切腹、他の五名は隠居のうえ閉門に処されることになる。このとき鷹山は、直訴した者たちを必死に擁護しようとしただろうが、重定がそれを許さなかったに違いない。
 さらにこの後、儒学者藁科立沢という男が黒幕として浮かび上がり、彼もまた斬首に処された。
 ともあれあの寛容な上杉鷹山にして鬼のように容赦のない断罪は後にも先にもこの一度きりである。
 健全な社会を構築するには厳格な裁きも必要であるということもあるだろうが、むしろこの一件があったからこそ後の政策が容易に進められたと言ってよい。
 しかしどこまでも慎み深い鷹山は、これより後も、裁許で死刑が執行される日はもちろん、それが軽い刑罰であっても刑が執行される日は、ご飯を食べるのを控え、菜物もわざとまずい物を食し、しかも少しずつ口に運んで食べたと言う。
 これがいわゆる『七家騒動』と言われる米沢藩のお家騒動であるが、そんな騒ぎを横目にすました表情でお茶をたてる一人の女があった。鷹山の側室於琴(お こと)の方≠ナある。



 於琴(お こと)の方(お豊)は明和七年(一七七〇)六月十四日に鷹山の側室に迎えられた。
 彼女は第四代米沢藩主上杉綱憲の六男、上杉勝延の三女で、鷹山より十歳年上のいわゆる(あね)さん女房である。れっきとした上杉家の血を引く女性だから正室に迎えられてもけっしておかしくなかったが、その理由は後述するにつれて理解できるだろう。
 勝延には男子がなく、於琴は三人姉妹の末っ子である。
 名門上杉家の家系に生まれたからには元来歌道をたしなみ書もよくし、その名のとおり(そう)の琴も弾いたので、どこの武家に嫁いでもけっして恥ずかしくない教育は受けていた。そのため気位も人一倍強い。
 ところが窮乏する米沢藩のことを思う時、心のどこかで「嫁になどゆけないだろう」と深窓にむなしく過ごすうち、娘盛りは()うに過ぎ、
 「鷹山公の御部屋へ下し参らせ」
 と年寄衆が勧めてきたとき三十路(みそじ)を目前にひかえていた。
 「お部屋……?」
 於琴は首を傾げた。
 このとき既に江戸で正妻を迎えていた鷹山の、彼女の家柄からして側室になれとも妾として仕えよとも言えない年寄衆は、御部屋≠ニいう言葉で本意を(にご)したのである。
 「実はその……」
 と言いにくそうに年寄が話すには、江戸はともかく米沢に鷹山公がいる時は、殿の世話をする者がない。御奥へ入って身の周りの面倒を見て欲しいのだと言う。つまりそれは、藩主が米沢に帰藩中の間だけの妻にどうか? という勧めであった。
 このとき於琴の脳裏に渦巻いたのは、歴代米沢藩主の妻となった女たちの不運とも言える境遇だった。
 思えば上杉家の家祖である上杉謙信からして生涯妻帯しなかった。彼は二十代の頃に上野国の敵将平井城主千葉采女の娘伊勢姫と一度恋に落ちたが、家臣の猛烈な反対にあって二人は引き裂かれ、そののち伊勢姫は出家してほどなく自害したという逸話が伝わる。
 米沢初代藩主上杉景勝は謙信の養子である。
 その正室は武田信玄の娘菊姫だが、子がないまま病死してしまい、景勝が米沢に移ってから側室として迎えた四辻公遠の娘桂岩院(けいがんいん)は、二代藩主となる定勝をもうけるが、出産後三ヶ月あまりでこの世を去った。
 第二代藩主上杉定勝の正妻は鍋島勝茂の娘市姫であるが、男子がなく、三代藩主上杉綱勝(つなかつ)の実母は側室(近衛家家司斉藤本盛娘生善院)との間に生まれた庶子(しょ し)(側室の子)である。
 綱勝(つなかつ)は幕府の斡旋で保科正之の長女媛姫を正室に迎えた。ところが媛姫は十九の若さで死去してしまい、続いて四辻公理娘富姫を継室に迎えたが、嗣子がないうちに、綱勝はあろうことか世嗣(せい し)の指名をしないまま二十六の若さで急死した。
 謙信以来、世嗣の指名をせずに当主を失うのは上杉家の宿業か──?
 本来ならば無嗣子断絶となるところだが、綱勝の妹富子が嫁いでいた高家の吉良三之助が末期養子として認められ、辛くも家名断絶を免れた。それが四代藩主上杉綱憲(つなのり)であり、於琴の祖父である。
 このとき米沢藩の知行は三十万石から十五万石に減らされた。これによりただでさえ逼迫していた財政難に拍車がかかったのである。
 綱憲(つなのり)は紀州藩徳川光貞(徳川吉宗の実父)の娘栄姫(えいひめ)を正室にしたが、結局五代藩主(吉憲(よしのり))になったのは側室茨木氏(清寿院)であり、於琴の実父上杉勝延もまた、樫田氏娘於磯との間に生まれた庶子なのだ。
 そればかりでない──、
 六代藩主上杉宗憲(むねのり)、七代藩主上杉宗房(むねふさ)、八代藩主上杉重定(しげさだ)と、みなことごとく吉憲(よしのり)の庶子であり、しかもいずれも短命あるいは隠居して、今は鷹山へと引き継がれたのである。
 これらの事実は於琴の婚姻を躊躇させ、婚期を遅らせてきた大きな理由付けの一つであり、
 「上杉家は呪われている──」
 というのが於琴の不安だった。しかしその一方では、
 「代々上杉家は庶子によって繋がれてきた。あるいはこれは側室としての使命やもしれぬ……」
 との思いもあって、
 「承知しました──」
 於琴は御部屋≠フ勧めに承諾したのである。
 しかしそれは、半分虚ろな世界の一つの現象にも過ぎなかった。本心を言えば、
 どうでもよい──
 のである。いまさら婚姻など滑稽千万でもあった。子も持たず、残りの人生をこのまま奥の部屋で大人しく過ごす道もあったが、駕籠の中の鳥として老いるより少しでも別の世界に身を投じる方がましだとも思った。お家≠ニか殿様≠ニか体裁≠ニか、そんなものは全部立て前で、今の無気力な生活から抜け出せるなら、例え相手が第六天の魔王だろうと承諾したかも知れない。相手など問題でない。
 そう、すべて自分のためなのだ──。
 そう考えると果てしなく自分が賤しく思え、この心は羅刹(ら せつ)と同じではないかとも思えた。
 羅刹(ら せつ)──
 それは全身が真っ黒、髪の毛は真っ赤な地獄の怪物。仏教では人をたぶらかし、人の血肉を喰らうと言う。そしてその悪鬼に捕らわれた男は醜悪で、女はきわめて美麗だとされる──。
 そうだ、私は羅刹(ら せつ)になって、僅かばかりの自由を手に入れるのだ──。
 於琴はその表情を怪しいほどに美しく輝かせた。



 鷹山が、江戸は米沢藩桜田屋敷で幸姫(よしひめ)を正妻に迎え入れたのは明和六年(一七六九)八月のことである。
 このとき鷹山十九歳、妻となった幸姫は鬼もほころぶ十七歳で、その光景は誰が見ても幸福そうな、お似合いの夫婦の誕生──のように見えた。
 前述したが幸姫(よし ひめ)は前藩主重定(しげ さだ)の二女で、生母は正室豊姫(徳川宗勝の娘)であった。
 最初祖母からその縁談を聞かされたとき、鷹山は、
 「断われないな」
 と直感した。というのも祖母瑞耀院(ずい よう いん)は米沢第四代藩主上杉綱憲(うえ すぎ つな のり)の長女であり、米沢の当主となるからにはその縁は断ち切れない。彼の覚悟はいや増して硬く決めたに相違ない。
 ところが白無垢姿の幸姫(よし ひめ)は、十七というのに思いのほか小柄で、その身の丈は七、八歳の童女のようで、
 「米沢藩当主、上杉鷹山と申します。末長く仲(むつ)まじゅう過ごしたいと思います」
 と挨拶した時も、あらぬ方向へ視線を向けて「あじゃ!」と奇声を発したかと思えば、次に膳の上に乗せられた鯛の姿焼きに目を移し、
 「おさかな!」
 と天真爛漫な無邪気さで笑った。
 この時はお付きの数人の女中が慌てて幸姫(よし ひめ)を制したが、彼女が生来虚弱で心身未発達の障害者であるのを鷹山は婚礼で初めて知ったのである。
 「大殿様(重定)もひどい仕打ちをしたものだ。実の娘とはいえ、発育不全の童女同然では子をお作りになるどころの話ではございませんぞ」
 とは、竹俣(たけのまた)をはじめとした鷹山側近の家臣たちの率直な思いであり、
 「大殿様はこのことをご存じなのか?」
 といつも不平を口にした。
 ところが重定の方は幸姫(よし ひめ)がそんなこととは露ほども知らない。大名の生活がいかなるものかなど現代の一般人には知る由もないが、同じ屋敷内にあっても、あるいは上屋敷と下屋敷とで夫婦別々に暮らしていたのかも知れないが、父親と言っても娘と会うことなどほとんどなく、幸姫十五の時に重定は隠居して米沢に帰ってしまった。無論、婚礼に参列することもなく、何不自由なくすくすくと成長した幸姫(よし ひめ)は、鷹山に大切にされ幸せな日々を送っていると信じている。
 それを知ってか知らずか当の鷹山は、暇な時間を見つけては幸姫(よし ひめ)を相手に、「今日は雛人形じゃ」「明日はでんでん太鼓じゃ」と、まるで赤子をあやすように一緒に遊び、小さな身体を抱き上げては「高い、高い」と天井に腕を伸ばし、顔をつねられては「痛たたた!」と言って笑い合い、
 「御坊はおん馬でござる。姫様、背中にお乗りください」
 と言ってはお馬ごっこをしてはしゃぎあった。
 そんな様子を見ていると、周りは一層切なくなるもので、幸姫(よし ひめ)の側付きの女中たちや彼女専属の御用人山吉四郎左衛門という男などは密かに隠れて涙していたが、見兼ねた莅戸(のぞき)九郎兵衛(く ろ べ え)はあるとき意を決してこう進言した。
 「大殿様に苦言の一言も伝えるべきではないでしょうか? 殿ができぬと(おっしゃ)るのであれば、拙者が替わりに米沢へ行き申し上げて参りましょう! 切腹になり申しても本望にございます!」
 すると鷹山はいつにない厳しい目付きに変えて、
 「いらぬことはせんでよい」
 と低い声で言った。
 「し、しかし……」
 「しかしもへったくれもないわい。わしがせんでよいと申しておるのだ。余計な事はするな」
 またあるときは竹俣当綱(たけの また まさ つな)が、
 「せめて御側室をお迎え下さい」
 と進言した。
 家臣が心配するのも当然だった。万が一にも藩主が嗣子を定めずに急死すれば藩は取り潰しになる幕府の制度。上杉家はその苦い危機を経験していたし、そうでなくとも当時の大名はみな何人かの側室を置くのが普通なのである。
 ところが鷹山は、これまた「必要ない!」と不機嫌を露わにして、
 「論語に(けん)(けん)として(いろ)()えよ≠ニ言うではないか」
 と諭す。
 これは孔子の弟子である子夏の言葉で、このあと『事父母能竭其力、事君能致其身、与朋友交言而有信、雖曰未学、吾必謂之学矣』と続く。つまり、賢い人とは、愛する人と同じように、父母には力を尽くし、主君には身を尽くし、朋友には誠を尽くすものであり、例え未学であってもそれができる人は万事を学んだと同じであると。つまり逆を言えば、一人の人を愛することが賢さだと言いたい。
 しかしそう言いながらも、鷹山は心で「違う──」と自分に反問した。
 「そうでない──」
 そうしている間にも、幸姫(よし ひめ)は玩具と戯れ、「あそぼ」と言っては鷹山の手を取った。
 「幸姫(よし ひめ)のこの澄んだ(まなこ)を見てみよ。この喧騒の世にあって何の穢れも知らぬ美しい目をしておる。救われているのはわしの方で真の賢人は幸姫(よし ひめ)の方じゃ」
 と呟いた。
 少なくともその姫は、鷹山に対して微塵の疑惑を抱くことなく、寸分の隙もない信頼の温情を寄せているのだ。
 確かに幸姫(よし ひめ)は正室だ。その役割をまっとうすることができないのも誰の目にも明らかだ。それは日本の近世の概念においては致命的な欠陥であり、どんな理由をつけても見過ごすわけにいかない現実でもあった。鷹山はそれを知りつつも江戸屋敷にけっして側室を置こうとはしなかった。もしそれをしたならば、幸姫(よし ひめ)に対するぬぐえない裏切りであり、天から与えられた贈り物を汚すような気がしていた。
 それ以前に彼女に対して男が女に抱くような恋愛感情など涌くはずがなかった。
 否そうでない。
 鷹山は彼女を人間として深く尊敬していたのである。
 己が一国を治める力のない主君ならば、彼女は菩薩であり仏に見えた。彼女の微笑みは先が見えない藩の行く末を指し示す唯一の希望だったのだ。
 「殿! 米沢の未来をお考え下さい!」
 当綱(まさ つな)の怒声に驚いた幸姫(よし ひめ)は、まるで雷にでも撃たれたような顔をしてワンと泣き出した。
 「これ当綱(まさ つな)、いきなりでかい声を出すでない! 姫が驚いてしまわれたではないか」
 鷹山は幸姫(よし ひめ)を抱き寄せて「よしよし」と頭を撫でてあやしつけた。
 「どこにこれほどまで純粋な娘がおると言うか! 幸姫(よし ひめ)はわしの前に舞い降りた天女なのじゃ……」
 呆れ果てて部屋を出ようとした当綱(まさ つな)を鷹山は呼び止めた。
 「ちと待て。わしがこれから言うことをよくよく肝に命じよ──幸姫(よし ひめ)のことは絶対に他言無用だ。大殿様にも米沢の者たちにもじゃ!」
 当綱(まさ つな)は怪訝そうに「はい」と答えた。



 婚儀からわずか二ケ月後、そんな幸姫(よし ひめ)を江戸に置いて鷹山が米沢に初入部を果たしたときに、幸姫(よし ひめ)の障害のことは知らずとも、やはり同じことを心配する国許の年寄が、彼の許に送り込んだのが於琴というわけである。もとより側室を持つ気など毛頭ない鷹山だが、目を合わせるたびにことごとく同じ事を、しかも何度も重ねた挙句に、最後は、
 「なにも御側室にと申しているのではありません。単に殿の御部屋の世話係ですから、どうぞお気遣いなく」
 と本意を濁されてしまえば、もはや断わる理由もなくなった。
 こうして彼の部屋に姿を現わした於琴と名乗る年上の女性は、どことなし虚ろな目をして、言葉少なに淡々と身の周りの世話をするようになったのである。
 それにしても着物に焚き込ませた香のにおいが鼻につく。
 しかもその身のこなしが妖艶で、たまに流し見る視線には魔性の美しさが隠れていた。加えて、その表情に僅かでも微笑みを浮かべようものなら、例え浮世之介(うき よ の すけ)(『井原西鶴『好色一代男』の主人公』)でなくとものろけてしまうに違いない──その魅力は、言うなれば幸姫(よし ひめ)と真逆と言えた。
 鷹山とて男である。ついにたまりかねて、
 「於琴さん、たいへんに申し訳ないが、そのお香のにおいはなんとかなりませんかな?」
 と言いにくそうに聞いた。
 「お嫌いでございますか? それとも倹約でございますか?」
 倹約と言えば、彼女が御部屋≠ニしてここに輿入れする際も、鷹山は奥御殿の普請(ふ しん)をやめさせた。その年は日照り続きで作物の不作が心配され、苦しむ百姓のために寺院で雨乞祭を行なう等して手を尽くしたが、雨が降る兆候がまったく見られなかったからだ。
 「かような時に、どうして奥向(おく むかい)の普請などできようか」
 鷹山にとっては民心を思っての言葉が、於琴にとっては冷たすぎた。
 「どうせ私など、お江戸の姫様の補欠にすぎないのだ」
 そう思った途端、急に僅かばかり抱いた異性への情熱も冷め、単なるお手伝いに徹しようと決め込んだ。
 美しい於琴の問いに鷹山はうろたえた。江戸の桜田屋敷にいる時は幸姫(よし ひめ)のお守りに明け暮れていたと言えば語弊があるが、少なくも女≠ニいう生き物に対して免疫がつくはずもなかった。
 「いや、そういうわけでないが、多少においがきつくて気が散ってならぬ……。それから食事であるが、朝は粥二膳と香の物が少しばかりあればよい。昼と夕は一汁一菜に干し魚があればよいから、殿だからと特別な気を使う必要はない。そういたせ」
 「かしこまりました──」
 於琴は別段気を悪くする様子もなく無表情のまま返事をすると、次の日からは言い付け通りに従った。
 それにしても米沢に入ってからというもの鷹山はことのほか忙しい。(よい)はともかく日昼といえば城にいることなどほとんどなく、
 「民の苦労を知らねばならぬ」
 と言っては農家の耕作の様子を見に出掛けたり、家臣に鉄砲を持たせて鳥打ちや野遊と称しては度々野に出、狩りに興じているかと思えば近くの民家に入り込み、休憩を装って農民から様々な話を聞くのが常だった。こと日照りや雨が続けばますますじっとしておられず、
 「おい、田畑の視察にゆくぞ」
 と取り付く島もない。
 こんなこともあった。あるとき城の北門に一人の老婆がやって来て「台所はどこですか?」と聞く。理由を問えば、
 「お約束した刈納餅(かりあげもち)(稲刈りの祝の餅)をこさえたので献上したいのです」
 としゃがれた声で答えた。そこで台所の場所を教え、老婆は各御門を(とどこお)りなく通って御台所に出たのだが、福田餅(ふく で もち)刈納餅(かりあげもち)を丸めたもの)一つと大豆の粉一包みを添えて差し出すと、そこでも理由を聞かれたので、
 「かくかくしかじか……」
 と各御門で答えたことと同じ説明を繰り返した。対応した家臣は怪しいと思って鷹山に伝えると、
 「さては殊勝(しゅ しょう)である。急いでそれを持って来い」
 と命令し、届いた刈納餅(かりあげもち)を手に取って、その老婆に飯や酒に加えて金子まで渡して厚く謝礼して帰した。不思議に思った家臣が「なぜそこまでするのか?」と理由を尋ねると、
 「先日、野に出ていた時、もう陽が沈むというのに老婆が忙しく稲の取入れをしているから、わしは家中の諸士の振りをして稲を運び、取り入れを手伝ったのだ。この稲は何の米か?≠ニ聞くともち米だ≠ニ答えたので、こんなに手伝いをしたからにはさぞや刈上げ餅も貰えるだろうな≠ニ冗談を言ったのじゃ」
 と答えて笑った。
 そのほかにも、あちこちの村の老姫が、自分で紡いで娘に織らせ、あるいは嫁に織らせたと言っては木綿の布を献上したり、代官所を通じて献上された品は記録が追いつけない程で、そのたび「老婆の真心がこもっていて嬉しい」と言っては、自分の召し物にするよう言い付けるのだった。
 またあるときは、
 「長寿にあやからせ給え」
 と言って、養父重定へ献じられる事もあった。
 そんなことで忙しく、於琴とはろくに話もしない。さもしい朝餉を食べたと思えばいなくなり、疲れ切って帰ったと思えば足についた泥を自分でぬぐい、一匹のメザシの付いた夕餉を食せば、あとは行灯の油がなくなるまで書物に読みふけっていた。
 それが当たり前になったある日のこと──、
 鷹山が出先から持ち帰ったのは小さな一つの泥人形だった。見れば色鮮やかに着色され、その顔といったらなんともユーモラスで可愛げのある表情をした雛人形である。
 「まあ、きれい! どこで手に入れたのでございますか?」
 思わず於琴は嬉しそうに声を挙げた。
 「これか? これは清左衛門が(こし)えた人形じゃ」
 家臣の一人相良清左衛門厚忠は、(かま)を築いて自邸裏でとれる粘土を使って食器や人形造りに余念がない。彼の邸宅にふらりと立ち寄った際、ふとした拍子に見つけた物らしい。
 「床の間に飾っておきましょう!」
 殿の御部屋≠ニなってより、暫く忘れていた笑顔を浮かべた於琴が、その雛人形を鷹山の手から取ろうとしたとき、
 「そりゃダメだ。これは幸姫(よし ひめ)への土産(みやげ)じゃ」
 そう言った鷹山は、大切そうに風呂敷に包み込んでしまった。
 不意に鈍器で頭を叩かれた衝撃の火花が、彼女の心に眠っていた何かに飛び火した。このときである──嫉妬の炎がめらめらと燃え上がったのは。
 「幸姫(よし ひめ)──」
 まだ一度も見たことのない光り輝く美貌を放つ美女の幻影に、於琴は翻弄した。
 そうこうしているうちに参勤の時を迎え、つつがなく鷹山を城から送り出した彼女のところに、縁談を強く勧めた年寄が寄ってきて、
 「どうかな? お子はできそうかな?」
 と澄まして聞いた。
 すると感情というものを表に出さない於琴にしては珍しく、むっ≠ニした表情を一つ残して何も言わずに奥御殿へと歩き出した。
 「お待ち下さい。御部屋勤めを勧めた者としてひどく気になるところでございます。米沢藩の将来にも関わります。予兆があるやなしや、この(じい)にだけこっそりお教えください」
 於琴は立ち止まり、振り向きもせずに吐き捨てるようにこう呟いた。
 「殿はお江戸の姫君が余程お好きなようでございます。この私とは夜伽(よ とぎ)を過ごすどころか、指一本触れようとはなさいませんでした……」
 年寄は愕然として言葉を失った。



 それにしても暇である。
 江戸での生活はなにかと金がかかる。ちょいと出歩いただけで一両、二両の金など羽根が生えたように飛んでいくし、屋敷内でじっとしていながら和漢の本でも読んでいたほうが余程利口である。
 江戸にいるときの鷹山は、用のない時は書物を読みふけっているほかは、桜田藩邸の御座の間に入っては幸姫(よし ひめ)と遊んでいるのが常だった。彼女の気を引くために折り紙で鶴の折り方を覚えたり、裁縫まで習って布で人形を作ったりして、笑う彼女は買い与える高価な調度品や玩具より鷹山の手作りをひどく好んだ。
 その日は雛人形と戯れる幸姫(よし ひめ)に温かな眼差しを送っていたが、頭の中では米沢の天候が気がかりで仕方ない。単に農作物の事だけでない。藩の財政はもちろん、社会制度の構築や、差し当たっては人材の育成のため藩校の設置の必要性も考えながら、すぐにでも手をつけなければならない事が山ほどあった。なのに江戸にいてはそれらが遅々として進まない。
 「はよ米沢に戻らねば……」
 そんな思いとは裏腹に、
 「殿、たまには鷹狩りなどいかがでしょうか? 毎日お部屋に籠りきりではお身体に障りましょう」
 そう声を掛けたのは莅戸(のぞき)九郎兵衛で、幸姫(よし ひめ)とにらめっこをしている鷹山を、見ない素振りで江戸の名所の賑わいぶりを伝えた。
 「わしはよいからお前たちだけで行って参れ。平六や容助など久しく外出届けも聞かない。時節をはずしてはもったいない。今日は天気もよいのでさぞ楽しかろう、行って参れ、行って参れ」
 「そうはおっしゃいますが、殿がかようでは仕える家臣も遠慮するのが道理。殿が御屋敷にいらっしゃるのに、家臣だけあちこち遊び歩いては分別がないと人様に笑われます」
 「そんなことは気にするな。そういえば明日、米沢から何人か来ると申したな。酒迎えに重箱を遣わすから楽しむがよい」
 と、このような有様で、「皆が帰ってからの話を聞く方が見るより面白い」と言って聞かない。
 ついに気の毒に思った年寄衆は、「人情に貴賎は関係ない」と入れ込んで、
 「やれ養生のため」
 「やれ野遊に出かけますように」
 「やれ、ここの花、かしこの月……」
 と勧めたが、当の鷹山は、
 「年寄共の申すことは正しい、なるほどその通りだ、よくぞ申した!」
 と言うばかりで、やはり一向に出かける気配を示さない。中には「幸姫(よし ひめ)様をひとり屋敷に残してご自分だけ出掛けることに気が引けているのだろう」と言う者もいたが、よくよく理由を問い詰めれば、けっこうお喋り好きな殿様で、
 「わしが出歩けば股旅(またたび)三度笠(さん ど がさ)というわけにはいくまい。二本道具に何十人もの供を行列させることになる。お忍びという手もあるが、何かあったら申し訳が立たん。かといって近習ばかりを召し連れて行けば先立ちの者が許さないし、刀を持たないわけにもいかないだろう。さて、仮に現地に着いたとしよう。花を見、月を眺めて楽しくないことはなかろうが、嘆かわしいことにわしなど酒が飲めないのでお前たちの酒盛りを眺めているだけだ。弁当の後は、近くには茶屋もないし、早く帰りたいと思っても、九郎兵衛などは盃を抱えて酒もたけなわ、帰ろうにも帰れない。わしがそろそろ≠ニ申してもまだ食事が済んでいない者がある≠ニかまだ酒が行き渡っていない≠ニか言われれば、ただ柱に寄り掛かって煙草を飲むより仕方ない。実を申せば退屈も少しあるのだ」
 進言した莅戸(のぞき)九郎兵衛は自分を出汁に使われてたじたじである。さらには、
 「養生とは言うが、往復二、三里の歩きは養生になる者もいるだろうが、歩き慣れないわしなど疲れしか残らない。野遊は供廻りの大きな負担になるし、遊んでばかりいるようだと名を汚してもつまらない」
 と、もっともな理由を整然と語った。
 「ならば木太刀(き だ ち)を取ったり、馬に乗るなどしてお体を使えば、そのような気遣いはないでしょう?」
 と、せめて外に出ることを勧めれば、
 「それはよい考えじゃ!」
 と鷹山は手を打った。
 「皆がそれほどに申すのを全く聞き入れないというのもいかがかと思う」
 と前置きして一つの願いを伝えた。
 それは、乗馬自体は度々楽しんでいたが、なんせ小さい方の馬場は狭く、広い方の馬場はいろいろな細かな規則が定められていて藩主であってもなかなか使うことができなかった。そこで板塀を立てかけ一方を内庭のようにし、周りからも見えないようにして欲しいと言う。そうすれば近習たちの負担も省け、朝でも晩でも乗りたい時に馬に乗れると言うのであった。
 「これは楽しみじゃ。よい運動にもなるしのぉ……」
 鷹山の願いを聞いた九郎兵衛は勇んで年寄衆に伝えた。大喜びの年寄衆もすぐに作事奉行へ指示したが、数日もしないうちに鷹山に呼ばれた九郎兵衛が聞いた言葉は、
 「いろいろ考えたが板塀を立てるのは誤りだ。どれほどの費用がかかるか?」
 だった。
 「板を立てるだけですので三、四両もあれば足りましょう。ついでに砂も敷き渡そうと考えております」
 と答えると、
 「やはりこの考えは誤りだ。むかし文帝は、百金の出費は中人十家の収穫に当ると言って止めたという故事があるがどう思うか? いわんや年来、家中では知行の半分を藩が取り上げる状況である。三、四両もの金をわしの(なぐさ)(ごと)には費やすことがあってはならない」
 と、結局この計画も取りやめになった。
 いくら財政危機とはいえ、なんともケチな殿様にも見えるが、前藩主が隠居した時などはその隠居所として重定の意のまま贅を尽くして奇器珍宝を取り揃えた荘厳な『南山館』を建設したり、隠居後も華美な生活を続ける重定に対してそれを認め孝養を尽くしたり、後に南山館が焼失した際も二万両もの再建費を捻出したりと、使うべきところには金を惜しまない一面も持っている。その一つに、
 「おい、行列を整えよ」
 と突然言った時は、
 「さすがの殿もいよいよ重い腰をあげて外出のご決意をされた」
 と家臣一同喜んだものだが、米沢藩の威信を掛けたような本行列を組んで出掛けた先は、師の細井平洲が住むみすぼらしい寓居(ぐう きょ)であった。近くの長屋に住む者たちは「何事が起こったか!」と驚嘆して、暫くは野次馬の人だかりが消えなかったほどである。
 実は天候不良による国許の農作物や制度秩序の不備などの心配から、幕府に暇をもらい米沢に帰ることにした鷹山は、以前より藩校設立の必要性について細井平洲に相談を持ちかけていたこともあり、
 「なにとぞ先生に米沢へ御足労(ご そく ろう)いただき、御指導いただけませんか?」
 と、深々と頭を下げて懇願したのである。
 その熱い情熱に平洲は感激し、快く米沢行きを承諾したのであった。



 細井平洲が初めて米沢に招聘(しょう へい)されたのは明和八年(一七七一)の五月のことである。
 その目的は、藩校設立についての具体的な相談にあり、彼が滞在する間、鷹山は暇さえあれば師の寝居を訪れ教えを乞い、白子馬場御殿の松桜館(興譲館の前身)に招いては講義を願い、その中で何人もの家臣を門弟に送ることもできた。
 そして「教えていただくばかりでは申し訳ない」と、あるときは領内の大平滝へ連れていき数十丈の滝の下で泳いだり、網でマスを採ったりして清遊させ、またあるときは日本海側の名勝松島まで旅行させたりと、鷹山自身休む暇もないほど忙しく動いていたのである。
 その一方では予想どおりの旱魃(かん ばつ)が深刻で、梅雨(つ ゆ)だというのに全く雨が降らない。
 「このままでは米沢が干上(ひ あが)がってしまうわい」
 と、脇で掃除や炊事に余念なく働く於琴に気を掛ける様子もなく独りでぼやく。
 自分に寸分の気がないと知りながら、その様子があまりに不憫(ふ びん)な於琴は、
 「それほどご心配なら雨乞(あま ご)いでもされてはいかがですか?」
 と提案した。困った時は神にでも仏にでもすがるより仕方ない。
 「それじゃ! 良いことを申した!」
 鷹山は嬉しそうに手を叩いた。
 こうしてこの年の六月五日の早朝、竹俣当綱(たけの また まさ つな)色部照長(いろ べ てる なが)を引き連れ、愛宕山(あたごやま)の林泉寺の上杉謙信を祀る御堂へと雨乞い祈願に向かった。
 「お待ち下さい、何も食べずに祈願なさるおつもりですか? これを──」
 と於琴が持たせてくれたのは彼より早く起きて(こしら)えたむすびである。こうして御堂の前に座り込んだ鷹山は、「南無釈迦牟尼仏(な む しゃ か む に ぶつ)」と念じた後、一心不乱に『般若経(はん にゃ きょう)』やら『大悲心陀羅尼(だい ひ しん だ ら に)』やら『普勧坐禅義(ふ かん ざ ぜん ぎ)』やら『法華経(ほ け きょう)』やらを読みだした。するとどうだろう? 昼までにはまだ間がある頃になって、空から恵みの雨が降り出した。人の一念は天気くらい変えれるものだ。
 その雨は一晩降り続いたと言うが、これにより枯れ死寸での農作物は生き返り、農民たちは大喜びしたと伝わる。とはいえ、その年が豊作だったとはとても言えない──。
 鷹山の改革は立て続けに行なわれた。
 まず、地方に郷村頭取(ごう そん とう どり)と郡奉行を設置し藩の奉行と兼任させ、郷村には教導出役(きょう どう しゅつ やく)を設置し領民の生活と農業の指導に当たらせたり、世襲制(せ しゅう せい)による大官職を廃止し原則一代限りとする大胆なものである。そのほかにも家臣を江戸屋敷に派遣して農業技術を伝えたり、自らは領内の開拓地を回り、精蝋所(せい ろう じょ)青苧蔵(あお そ ぐら)(うるし)苗畑(なえ はた)などを視察して見聞を広めるのであった。
 彼の改革政治の第一は農政の確立にある。
 安永元年(一七七二)三月、農耕が政治の根本であることを示すため『籍田(せき でん)の礼』を執り行う。これは藩主自らが(すき)(くわ)を持って田畑を耕す農耕儀式で、もともとは中国の周や漢の時代に行なわれた天子親耕(てん し しん こう)の制度に習ったとされる。藩主の姿を見た家臣らは大いに感動し、やがて労働奉仕の意欲を奮い立たせる契機となる。その様子を目にした細井平洲は、
 「もったいなくも汚泥に足をけがし、鋤鍬を取ったそのお心を察するに余りある。稀代(き だい)の美事であり六十余州の手本となるべし」
 と絶賛した。
 ところがこれより少し前、江戸から大火の報せが届いた。上屋敷桜田藩邸と麻布の下屋敷がことごとく類焼したというのである。その近辺に居を構えていた平洲は自宅の安否を気遣かって、『籍田の礼』を見届けたあと急きょ江戸へと帰って行った。
 米沢藩も苦しい財政の中で江戸の両藩邸を再建しなければと身分に関係なく手伝いに加わり、(みの)を着、笠をかぶり深い山中に入って良木を伐り出し江戸へ運ぶ。それだけでなく、城内外にわたる普請や本丸、二の丸、三の丸の堀の()を取ったり、あるいは新田をおこし、荒地を開き、(つつみ)を築き、橋を架け、川を除いて道を作ったり、米沢は活気に充ちた。その働きを(かたじけな)く思う鷹山は、折々にその作業現場に足を運んでは感謝と激励の言葉を伝えて作業者を労わり、酒を振る舞ったりしたものだった。
 そんな矢継ぎ早に行なわれる改革の中で勃発(ぼっ ぱつ)したのが『七家騒動』である。これについては先に述べてあるので改めて書くことはしないが、その一件が解決した後も手を休めることはしなかった。
 財政政策として、勝手掛(かっ て ががり)と用掛を設置し、さらには財政状況を記録した『会計一円帳』を家臣たちに開示した。無論財政難続きの米沢藩だから帳簿など真っ赤な赤字であるが、毎月の初めにはその月の予算と決算を割り振り、高額な出費については総会を開き、あるときは家臣たちを集め、
 「とりあえず二千両欲しい」
 と投げかけた。するとそれについての議論が始まり、家臣たち自らが藩の財政について考え、協議する習慣を身につけさせようとした。つまり鷹山流の人材育成である。
 そんなこんなで気付けば数年が過ぎ去った。
 毎日こんな調子だから一日が終わって屋敷に戻れば、どうっと疲れが襲ってきてすぐに眠りに落ちてしまう。相変わらず於琴とはろくに話もしないのだ。
 そんな日々が続けば於琴の方もただの女中に入ったのだと諦めて、「こういうものだ」と今は江戸の幸姫(よし ひめ)の存在も気にならないが、翌安永三年(一七七四)三月の終わり、参勤で江戸へ向かうなにやら嬉しそうに微笑む鷹山を前にしたとき、再び江戸の姫に対する嫉妬がむらむらと込み上げた。
 鷹山が去ったあと、縁談を勧めた年寄が意味深(い み しん)な笑顔を浮かべて、
 「お子はできそうかな?」
 とまた同じことを聞いた。勧めた手前、気になって仕方ないのだ。
 於琴はまたむっ≠ニした表情を作って、
 「いまだ指一本触れられておりません」
 「指一本……?」
 年寄は肩を落してため息を吐いた。

 江戸に行っても鷹山の頭の中は莫大な借金の返済と、凶作による飢餓の心配ばかり。二十万両とも言われる借金を返済する目処など立つはずがなかった。
 その間、幸姫(よし ひめ)の相手をして遊ぶほかは、細井平洲を訪ねたり、商人三谷家の父子を桜田邸に招いて借金の相談をしたりと、悶々(もん もん)とした気持ちは晴れることがない。飢餓を(うれ)いてお金を借り入れ、米沢の北寺町に五棟の備籾蔵(そなえ もみ ぐら)を建てさせたが、身体は江戸に置きながら心は常に米沢にあった。
 参勤後退の期日を迎えるとすぐに米沢に戻り、休む間もなく再び領内の改革に没頭するのだ。
 「江戸の暮しはいかがでございましたか?」
 於琴の言葉の裏側には幸姫(よし ひめ)がいる。しかしそんな事は少しも気付かない鷹山である。
 そして──
 夏も過ぎ、十五夜の月が夜空に浮かぶ涼しげな宵だった。
 床の間に飾り付けた秋の七草にも気付かずいつものように静かに夕餉を食べていた鷹山が、一汁一菜のこだわりから申し訳なさそうに作られた小さな団子を口に運んだ時、
 「(そう)(こと)でも(そう)じましょうか?」
 と於琴が言った。
 鷹山は怪訝(け げん)そうに彼女の顔を見つめた。
 「今宵は中秋の名月でございます。そのくらいの贅沢は許されるのではございませんか?」
 「そうか──どうりで縁側の戸が開いて、外が妙に明るいわけだ」
 そう言って丸い月を眺めた鷹山は少し恥ずかしそうに続けた。
 「どうも忙しすぎて心に余裕がなくて困る。実はな、最近あちこち顔を出す度に、誰もが口を揃えたように子はまだか? まだか?≠ニ問うのでそのことを考えていたのだ。けっして悪気はないのだろうが、子がないのが途方もなくいけないことのように思えてしまう。一国の主というのは、子を拵えなければならないものか? 於琴さんはどう思いますかな?」
 突然の問いに於琴はうろたえた。
 「さて、どうでございましょう……」
 「於琴さんはここに来てからというもの非常によく働いてくれますから何も申すことなどないのですが、御部屋、御部屋≠ニ呼ばれて久しいが、御部屋≠ニはいったい何です?」
 「それは──」
 と於琴は言葉を詰まらせた。
 最初に期待していた側室として子を生むという夢というか使命感も、彼の幸姫(よし ひめ)への思いを知ったあの日に嫉妬と憎悪に変わったものの、今は心通わずもこうして毎日幸姫(よし ひめ)よりずっと近い場所で彼の世話をしている事実を思う時、いつしか別にこだわる必要もないし、正妻は正室として居てよいではないかと思えてしまう。しかし改めて考えるとまた、いまだ自分を女として見てくれない不満が湧いてきて、いつもその葛藤にさいなまれるのだ。それは女の(さが)であり、思えばもう三十路(み そ じ)も半ばなのだ。
 「子とはどのようにしたらできるのか?」
 鷹山の口から漏れたその科白(セリフ)は、あるいは月天子の悪戯(いた ずら)だったかも知れない。しかし何も知らない少年のようなひどく真面目な顔だった。
 「御戯れを……わたくしとて存じませぬ」
 いきなり鷹山は於琴の身体を押し倒した。
 「おやめください……江戸ではお若い姫様のお肌に触れておいでのくせに……」
 咄嗟の出来事に身体は拒んだものの、心の底ではまだ経験したことのない期待が目覚めた。
 「幸姫(よし ひめ)か……。あれは天女じゃ」
 「天女……? では、わたくしは──?」
 口にふさがれ、それはもう言葉にはならなかった。
 夜だというのに庭に咲く撫子(なでし こ)女郎花(おみなえし)桔梗(き きょう)の花に、妙に明るい光が注いでいた。涼やかな宵風に虫の()がやけに騒がしく、蟋蟀(こおろぎ)だろうか鈴虫(すずむし)だろうか螽斯(きりぎりす)だろうか、永遠の時を刻んでいるように鳴いていた。そして、池の水面に映る真ん丸な月が、急に飛び跳ねた鯉の水しぶきにボチャッと音をたてて波紋を作った時、於琴の胎内に熱い液体が飛び散った。その瞬間、
 「江戸の姫に追い付いた──、私は殿に認められたのだ──」
 そんな妙な感情が、彼女を果てしない幸福感で包み込んだ。

 その晩から間もなくのこと、鷹山は(うるし)(くわ)(こうぞ)を植えて米沢の特産物とすることを発表し、また、領内で産出された火打ち石を江戸に送って扇子(せん す)(ふで)(すみ)(すずり)などを製造して、さらには紙漉(かみ す)きの生産を始め、殖産興業(しょく さん こう ぎょう)の発展に乗り出した。しかもその構想が半端でない。植樹はそれぞれ一〇〇万本というから苗木や植え立て等にかかる費用も膨大である。かねてより人脈を結んできた江戸の御用商人三谷家からお金を借り受け、とりわけ中でも米沢産の青苧(あお そ)を使った縮織(ちぢみ おり)(米沢織)の生産は、越後の縮織(ちぢみ おり)師と職工を米沢に招いての新規事業である。
 於琴は、幸姫(よし ひめ)との差をつけるのは今! とばかりに、農民の妻女で(かいこ)の飼育に巧みな者を探し、お付き女中として雇って養蚕の指南を受け始めた。自らが家中の女子の絹織物の師匠となって軌道に乗せ、鷹山に気に入られようと躍起(やっ き)だった。
 「於琴さん、養蚕を学び始めたそうですね。大いに結構、どんどんお励みください」
 鷹山の激励に於琴は頬を染めた。
 身体に経験したことのない違和感を感じたのはこのころである。急に吐き気をもよおし、それがつわり≠ニいうものであることを知る。



 鷹山は休まない。次なる改革は予てから細井平洲に相談していた藩校の設置である。
 米沢藩には直江兼続が城代の頃より禅林寺に膨大な蔵書が納められ、そこは学問修行の道場になっていて、元禄年間には四代藩主綱憲により学問所が設置されていた。ところが財政が厳しくなるにつれて廃頽(はい たい)し、鷹山が藩主になった頃には実質的に廃絶していた。武芸も重んじる鷹山は、昨年の十月には二の丸長屋を改修して武芸稽古所に改めたが、二月に入ると、莅戸(のぞき)九郎兵衛と吉江輔長(よし え すけ なが)に命じて学問所の具体的な立案と計画に乗り出した。そのような経緯から、この学問所は新設≠ナなく再興≠ニ位置づけたのである。
 これと並行して(にわ)かに浮上したのが継嗣問題だった。
 このとき於琴の胎内には鷹山の子が宿っていたが、争点は前藩主重定の長男勝煕(かつひろ)が継ぐか次男安之助が継ぐかだった。勝煕は庶子の上、すでに鷹山が重定の養子となり藩主になることが決まった後に生まれた子なのでその権限は一度失っており、安之助は同母の庶子ではあったが、幼少より鷹山の側近木村丈八高広が教育(がかり)を務めていた。結果、安之助の方が世子となって喜平次(後の上杉治広(はるひろ))と名を改め、御用兼勤に莅戸(のぞき)九郎兵衛が任命された。安永五年(一七七六)四月十六日のことである。中には於琴が懐妊していることを取り沙汰する者もいたが、鷹山はまだ生まれてもない子を引き合いに出すのもはばかり、それ以上に養父への孝が先んじて、
 「国は私物ではない」
 と言って退けた。於琴もそれに同調するふうを見せたが、内心お人好し過ぎる鷹山のその性格には半分納得していない。
 ともあれ学問所となる建物の落成を見た後すぐに、五月四日、世子喜平次を引き連れその年の参勤交代で鷹山は江戸へ出府した。
 当初から藩校設立の構想を聞き、一度は米沢まで行って相談に乗ったり指導をしてきた細井平洲は、鷹山から学問所が完成したという話を聞いて矢も楯も居られない。
 「名称はすでに考えている、『興譲館(こう じょう かん)』だ!」
 と、鷹山の帰藩を待たずに江戸を飛び出し米沢に向かった。興譲≠ニは「恭遜(きょう そん)の道を繁昌(はん じょう)させる」意であり、儒教の四書の一つ『大学』の一説「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲」から引用されたと言う。
 二度目の平洲を迎えた米沢は学制を制定し、藩校『興譲館』を実質的にスタートさせた。更には百姓、町人に至るまで平洲による講和を実施し、翌年二月までの滞在中で米沢藩内の教育レベルを富に押しあげたのである。
 藩主不在のその一方で、新しい命が誕生した。
 そう、於琴が待望の第一子を産んだのは七月二日のことだった。
 「オギャー!」と産声を挙げた赤子を抱きしめたとき、於琴の心に不埒な優越感があった。
 「これで幸姫(よし ひめ)に勝った──」
 という。それは誰知ることのない側室としての嫉妬が生んだものだった。
 幸姫(よし ひめ)がどれほど美しい女か知らないが、正室が果たせない子を生んだ事実はもはや誰も否定できないのだ。そして、このまま幸姫(よし ひめ)が子を産まなければ、私こそが実質的な上杉家の正妻なのだ──。
 この子どもの誕生により、二人の夫婦仲は琴瑟(きん ひつ)()するが如しとの評判もたち、夫の愛を独り占めしている境遇に、もはや誰人も立ち入ることはできないだろうという自負を抱いた。
 於琴は、顕孝(あき たか)と命名された赤子を於琴は目に入れても痛くないほど可愛がる。
 それにしても毎年のように領内を襲う天候不良や自然災害による被害は、鷹山の叡智を持ってして防ぎ難い。
 米沢に帰った安永六年(一七七七)の六月には、大雨により河川が氾濫し、藩主自ら陣頭指揮を執って現地に赴くほどだった。
 歴史上において彼ほど民の心に寄り添う指導者を筆者は聞いたことがない。領民に施しをするため義倉を建設したり、士分、庶民を問わず九十歳以上の老人を城に迎えて接待したりと、民は彼を菩薩か仏のように敬うのだ。
 そして翌安永七年(一七七八)四月には、第二子となる寛之助が誕生した。
 この年の参勤は、生まれたばかりの赤子の顔を見てから出立するような子煩悩な一面も持つ鷹山であるが、その道中、伊勢参りの帰途に病で苦しむ米沢の領民と出会えば、足軽と夫方(おっと かた)に看病を命じ近くの医師を呼んで治療させるといった、苦しむ領民一人さえけっして見過ごさない彼の振る舞いは変わらない。
 さて──、
 江戸は桜田屋敷に到着した鷹山は、さっそく幸姫(よし ひめ)に顔を見せようと奥の部屋に入った。すると、いつもなら「殿じゃ!」と歓声を上げて飛びついてくるのに、このときは少し様子が違う。座敷の中央にちょこんと正座して、
 「よし≠ヘおこころ≠痛めておる!」
 と大きな声で言う。彼女を正妻に迎えてより九年、鷹山と接することで少しずつではあるがまともな言葉が話せるようになっている幸姫(よし ひめ)の突然の発言に驚いた。
 「御心を痛めているとはどういうことですかな?」
 「縁あって殿に嫁いだが……」
 そこまで言って少し考えて、
 「いまだまくら≠共にすることも叶わない」
 とあどけなく続けた。およそ誰かに「そう言えば殿が喜ぶ」とでも言い含められたのだろう、さらに続けて、
 「どうかそくしつ≠置いてほしい」
 とようやく言い終え、天子のようにニコリと笑った。
 憤激した鷹山は、幸姫(よし ひめ)付き御用人 山吉四郎左衛門をすぐに呼びつけ、
 「姫になんたる事を言わせるのだ!」
 と叱り付けた。四郎左衛門とて他の家臣と話し合い「よかれ」と思ってしたことだろうが、鷹山はけっして許さない。
 「側室なら既に国許におる! いらぬ心配をする暇があるなら論語の一つも覚えよ! それとも江戸詰めで誰か妻同伴で奥に勤めたいと申す者でもいるのか? ならば連れて来い! かような真似を今度したら打ち首じゃ!」
 打ち首は言い過ぎだろうが、四郎左衛門はしどろもどろになって恐縮するばかりだった。
 それにしても──
 「江戸は暇だ……」
 心はいつも米沢の心配事で葛藤しているくせに、江戸ではできることも限られ、その身は平穏過ぎて時間ばかり無駄に過ぎていく。
 やがて(うるう)七月になった。この年は閏月があった。
 「殿あそぼ」と膝にまたがる幸姫(よし ひめ)の最近のお気に入りは(つづみ)を叩いて遊ぶことで、小さな掌でそれを叩けばポン、ポン、ポ、ポーンと心地よい音がした。無垢な心はその音まで清らかにするものか、鷹山は「お上手ですなぁ」と笑いながら、広い庭に咲く(はぎ)の群生を眺めている。
 江戸上屋敷桜田邸では毎年この季節、萩の花の盛りには『萩見の宴』が催された。
 そこには家老から足軽、屋敷に出入りする町人に至るまで、庭のあちこちに茣蓙(ご ざ)を敷き、酒や(さかな)あるいは煙草(たばこ)の火を置いて日頃の苦労をねぎらった。貴賤を問わない催しなので、集まる者はてんでに詩や歌を詠み、発句して楽しむ者や、酔って舞う者、花を摘んでちょんまげにかざしたり、耳を引いて酒を勧める者など、それはそれは賑やかなのだ。今はその準備に家臣たちも忙しい。
 花見の宴の際は障子を押し開げてその様子を眺め、機嫌の良い時は庭に敷かれた茣蓙にまで出て自作の詩歌などを詠む鷹山だが、この日は時々障子を細く開けて眺めるだけで、
 「こんなにのどかであってよいのであろうか?」
 心そこに無しの様子で目を細め、自分だけ楽し気な時間を過ごしていることに引け目を感じたのか、江戸で名高い能役者金剛三郎の熟練の芸を目にしたとき、能の大好きな養父重定がご覧になればさぞかし喜ぶだろうと考えて、二、三人の門弟と共に三郎を米沢に送って気休めとした。
 鷹山の祖母瑞耀院が卒去したのは十一月二十六日のことである。
 彼女がいなければ全く違う人生になっただろう。米沢藩の世子として来たことも、幸姫(よし ひめ)との縁を結んでくれたのも彼女であったことを考えると感謝してもしきれない。
 人の命というものを考えながら、それとは無関係の世界に住む幸姫(よし ひめ)が羨ましくもあり、愛おしくて仕方ない。
 「切れた!」
 と言って持って来たのは叩き過ぎて赤い紐がちぎれてしまった鼓である。己は毎日藩の財政のことや国許の民のことが頭から離れない苦しみの世界でもがいているというのに、彼女は娑婆世界を超越した仏国土に常住しているのではないかと思う。いつかはそのような境地に至りたいと思いながら、
 「殿がなおして進ぜましょう」
 と、日がな一日彼女と遊ぶ。

 そんな幸姫(よし ひめ)のことを於琴は露ほども知らない──。
 参勤が明けて米沢に戻った鷹山は、子どもの養育にも熱心だった。第一子顕孝は数えで四歳になっており、第二子の寛之助もよちよち歩きができるようになっていた。
 「江戸のお暮しはいかがでございましたか?」
 二人の子どもとの再会を喜ぶ鷹山を横目に、彼が江戸から持って来た長持(ながもち)を開けた途端に於琴の顔色が曇った。目に飛び込んできたのは雅な鼓で、そんな物を興じる夫の姿などただの一度も見たことがない彼女は、すぐに江戸の姫の持ち物だと察した。紐が切れているから、およそ修理に持ち帰ったのだろうと理解して、
 「まあ、立派な鼓でございますこと。いつからお習いですか?」
 とうそぶいた。
 「ああ、それか……?」
 鷹山は言葉を濁して寛之助を抱き上げた。
 その光景を恨めしく見つめながら、於琴の脳裏には、正妻の打つ鼓のリズムに合わせて楽し気に舞を踊る夫の姿が鮮明に思い出されていた。



 十月も終わろうとする秋だった。
 相も変わらず領内に出て屋敷に不在の鷹山のために、子守りをしながら夕餉の仕度をしていた時である。釜戸の鍋から煮汁が吹きこぼれたことにとらわれて、寛之助からちょっと目を離したのだ。鍋の蓋を開けて具材をかき混ぜていると、背中でポン≠ニいう甲高い音がした。振り向けば、長持(ながもち)の中から切れた紐がすっかり元通りに直された鼓を見つけた顕孝(あきたか)が、物珍しそうにして叩いて遊び出したのだ。
 於琴はその音が果てしなく不快に感じた。思わず、
 「触るでない! 汚らわしい!」
 と叫んだとき、その声に驚いたか、寛之助が土間と板敷の段差から落ちて、置いてある石段に頭をぶつけて「ギャーッ!」と泣き叫んだ。
 蒼白になった於琴はすぐに寛之助を抱き上げたが、頭から血を出してすでに虫の息。必死の看病に当たったものの寛之助は間もなく息を引き取った。わずか一年と半年ばかりの夭折(よう せつ)だった。
 自責の念に駆られながら、
 「なぜこうなった?」
 と考えた。ところがそのうち、
 「私のせいではない! 幸姫(よし ひめ)だ!」
 と思った。
 あのとき顕孝(あきたか)があの鼓さえ叩かなければこんなことにはならなかったのだ!
 あの女の私への恨みと嫉妬が鼓に宿っていたのだ!
 私でない。あの女が成した悪行だ!
 あの女は夫をたぼらかし、挙句に愛する寛之助の命を奪ったのだ!
 なにが天女だ、修羅ではないか!
 こうして私を苦しめて、今に私をも呪い殺すに相違ない──。
 自分を正当化するための筋違いな勝手な解釈が、彼女の心におぞましいばかりの怨念を産み出した。しかし憎悪を隠した於琴は、何も言わずに大粒の涙を落すばかり──。
 一方、人の命の儚さを目の当たりにした鷹山は、奥歯を噛みしめて涙を飲み込む。それから暫くは、
 「わしが子守りをしていれば……」
 と、何も手がつかない様子だったが、やがて、同じように家族の看病などで休みたくても休めない家臣がいるのではないかと心配して、それまで看病休みの例がなかった事に気付き、家にいる父母妻子が病の時は心置きなく看病ができるとした『家族看病の令』を打ち出した。
 「幸姫(よし ひめ)ならばこんなとき、何も問わずに無垢な眼をしてわしと無邪気に遊ぶだろうか……」
 とぽつんと呟いた鷹山の言葉に、於琴はひどく責められた気がした。
 「やはり上杉家は呪われている……」
 於琴は我が子の死をけっして自分の過失と考えることができない。
 「こちらがやられる前に、私があの女を呪い殺してやろう!」
 於琴は羅刹に魂を奪われた。



 天明二年(一七八二)三月、この年参勤のため出府しようとしていた鷹山のもとに、驚くべき訃報が江戸よりもたらされた。幸姫(よし ひめ)が急死したと言うのである。
 「そんなことはない。昨年、江戸を出る時は寂しそうではあったが、元気にわしを送り出してくれたのだぞ。こんなに突然死ぬはずなどないではないか」
 と、最初は信じようとはしなかったが、江戸詰めの幸姫(よし ひめ)ゆかりの家臣が次々と悲愴な顔で状況を伝えに来たり、形見の品が送られて来たりすれば、現実として受け入れるしかなかった。幸姫(よし ひめ)享年三十歳。
 鷹山は滂沱の涙を落し、大倹約の継続中に関わらず、悲しみのなか慇懃に葬儀を執り行うよう命じたのであった。
 かたみとして幸姫の着物が彼女の実父である重定の許に送られて来た時、重定はわが目を疑い愕然としたと言う。着物の身の丈が七、八歳の幼女が着るほどの小さなものだったからだ。それまでずっと年月を経ているにも関わらず子宝が出来ないのは、あるいは鷹山に嫌われているのかと心密かに恨めしく思っていたが、このとき初めて我が娘が発育不全であったことを知り、夫婦生活など思いも寄らないことだったと自分の認識を甚だしく恥じたのである。
 幸姫(よし ひめ)が発育不全で障害を持っていたと知って愕然としたのは於琴も同じであった。否、それはむしろ重定以上だったかも知れない。
 いったいこれはどういうことか?
 最初、その幸姫(よし ひめ)の形見として送られてきた小さな着物を見た時、殿と姫の間には娘が生まれていて、死んだのは幸姫(よし ひめ)でなくその娘ではないかと思ったほどだ。ところが鷹山の口から、
 「幸姫(よし ひめ)は障害を持っていたのじゃ……」
 と聞いたとき、地獄の底に突き落とされた心地がした。
 それまで抱いていた美しいはずの幸姫(よし ひめ)はその全てが幻であり、その幻に向けて嫉妬の炎を燃やしていたのだ。於琴は醜い自分の心に衝撃を受け、幸姫(よし ひめ)の名誉を傷つけまいとして最初から家の者にさえ堅く口を閉ざしていた夫の優しさに顔向けができなかった。
 失意の中、鷹山が、
 「そろそろ隠居しようか……」
 と考え始めたのはこの頃からである。幸姫(よし ひめ)のいない江戸に未練はないし、藩主を続けていれば参勤交代で江戸と米沢を行ったり来たりしなければならない。しかも江戸に行くたび米沢の改革は遅れてしまうのだ。いっそのこと藩主を譲ってずっと米沢に住み、ここに骨を埋めたい。
 それからひと月ほど過ぎた四月十六日、鷹山は江戸に出府した。
 そして間もなく世子喜平次を養子にしようと幕府へ願い出、白金(しろ がね)に彼の邸宅を造営しはじめた。次いで七月一日には喜平次を江戸城に登らせて、九月十九日、時の将軍徳川家治と謁見させて元服式を執り行った。このとき『治』の一字を拝領して喜平次は治広と改名する。
 この後、白金の邸宅が落成すると、十一月二十三日、新藩主上杉治広は尾張藩九代藩主徳川宗睦(むねちか)の養女純姫を迎え正室としたのである。
 これと合わせて鷹山と於琴の第一子顕孝は治広の養子に定められ、まだ六歳だったに関わらず、翌年三月には土佐藩山内豊雍の娘采姫と婚約した。
 ちょうどそんな折り、鷹山の改革推進に大打撃を与える事件が起こる。彼の片腕として大きな働きをしてきた竹俣当綱(たけの また まさ つな)美作(みまさか)が弾劾され隠居させられたのだ。
 話を聞けばその醜態も甚だしい。
 最初は鷹山の忠臣として身を粉にして改革を推進していた者が、権力を握るとこうも人を堕落させてしまうものか。彼の驕奢(きょう しゃ)は日一日と甚だしく、日夜宴遊に耽り、傍若無人な所業が目に余るようになった。ついには村々の巡回に際して醜行(しゅう ぎょう)を極め、旅館に娼妓を連れ込み長夜の宴を張って翌朝になり陽が昇っても窓をふさいで「まだ夜だ!」と言って燭を点して妓女に裸踊りをさせて興じたり、嘘か本当か知らないが、人の妻を奪ってその夫を殺したとの噂が立ってしまえば、いかに功ある重臣といえども許されるわけがなかった。
 竹俣ばかりでない、その連座の責任を追って全く非のない莅戸(のぞき)九郎兵衛までもが自主的に政治の場から退いてしまったのだ。
 おまけに天明の大飢饉で東北地方は大凶作。餓死者が多発する甚大な被害を被ると、さすがの鷹山もどうすることもできなかった。それでも米沢においては凶作に備えた『備籾蔵』や『義倉』を備えていたので被害を最小限で食い止めることができたはずだが、幸姫(よし ひめ)の死を堺に、これまで構築してきたものが音をたてて崩れていくような感覚にとらわれた。
 天明四年六月は霧雨止まず、再びの凶饉(きょう きん)に逢えばもはや米沢も終わりであろう。
 「ただこの上は神明の加護に頼るほかない──」
 鷹山は二夜三日の断食を決意して米沢城内の卸堂に入る。このとき、
 「殿──」
 と声を挙げたのは於琴であった。
 「わたくしもご一緒に……」
 鷹山は静かに頷いた。
 『不識庵』とも呼ばれる卸堂には神格化された藩祖上杉謙信の遺骸そのものが奉安され、そこは、家中の者はみな畏敬を持って恐れている場所である。その脇侍(きょう じ)には左に謙信の守護神毘沙門天(び しゃ もん てん)、右に善光寺如来が祀られる。
 毘沙門天の方は、出陣に際し何日間も読経し続けた上杉謙信があるとき護摩壇(ご ま だん)から足跡が伸びているのを見、その足跡の主が毘沙門天であり戦いに加勢したと言われており、上杉家では特に泥足毘沙門天≠ニ尊称されているものである。また善光寺如来は、五五二年の仏教伝来の際、百済から欽明天皇に献じられた日本最古の仏像とされ、その後信濃国の善光寺に祀られるが、天文二十年(一五五一)の川中島の合戦のとき、戦火を避けるため謙信に奉じられたと伝わっている。
 中央に置かれた謙信の遺骨を正面に、鷹山の祈りは続いた。その後ろでは、於琴がじっと彼の背中を見つめていた。
 鷹山の五穀豊穣の祈りに対して於琴の祈りは少し違っていた。それは、鷹山に向けられた尊敬であり、幸姫(よし ひめ)に疑いを抱いていたことへの懺悔(ざん げ)であり、自分に向けられた卑下(ひ げ)である。
 ところが、羅刹と化した氷のような心が、鷹山の温かな陽光に触れて、少しずつ溶けていくのを感じていた。
 否、ちがう──。
 夫は幸姫(よし ひめ)の名誉を傷つけまいとしてその真実を隠していたわけでなく、本当に、幸姫(よし ひめ)という童のように純心無垢なその人間性を、心の底から尊敬していたのだ。
 隠そうとしていたわけでも、言わなかったわけでもない。
 ただその純然たる人間の本性に触れて、自分もそれになろうとしていただけなのだ。
 そう気付いたとき、於琴の瞳からきれいな一閃の涙がこぼれ落ちた。
 およそ羅刹といえば神通力を持って人を惑わし人を喰う悪鬼とされる。それが後に仏法と出会い、転じて衆生の守護神へと劇的な変化を遂げた諸天善神(しょてんぜんじん)である。法華経(ほ け きょう)陀羅尼品(だ ら に ぼん)には十二天の一つとなり、毘沙門天の眷属(けん ぞく)として仏法守護の役目を担い、手にした利剣で煩悩を断つ。
 私は羅刹──。
 於琴はそう思った。いま鷹山の後で昼夜静座し、わずかながらも米沢のために主君に力を添えているのだ。天地が動き、鬼神が退散しないことなどない。
 すると陰雨はたちまち収まり、少しずつ陽の光が差し初め、この年の秋には稲が実り木も熟したことはなんとも不思議なことであった。



 この翌年の天明五年(一七八五)二月六日、鷹山は家督を治広に譲り、隠居する決意をした。時に三十五歳、まだまだ働き盛りの年である。
 その真意は「自身が進めてきた改革の抵抗勢力による反発と疲労困憊」とも「参勤交代など幕府への普請からの回避」とも、あるいは「重定存命中に先代の実子へ継承するため」とも解釈されるが、やはりもっともなのは、「米沢と共に生き、改革を成就させるため」ではなかったか。
 鷹山は治広に藩主としての心構えを次の三ヶ条の訓戒(『伝国の辞』)を(はなむけ)として贈った。

一、国は先祖から子孫へ伝えられるものであり私物でない。
一、領民は国に属し私物でない。
一、国家人民のための君主であり、君主のための国家人民でない。

 そして米沢城三の丸に隠居所となる『餐霞館(さん か かん)』を建て、藩政の相談役として民を見守りながら余生を送ろうと於琴と共に移り住んだ。なさねばならぬ≠アとはまだまだ山ほど残っている。
 移り行く季節の中で、二人は畳縁に座って庭に植えられた松を眺めていた。すると鷹山は於琴の肩を抱き、静かに次の歌を詠んだ。

 色かへぬ松に契りてけふよりは(なお)幾千代の老がゆくすえ

 それを聞くと於琴は笑んで、

 色かへぬ常磐(ろきわ)の松もかぎりなし君もろともに幾世しげらん

 と歌い返した。その心には、もはや一点の曇りもない。
 思えば改革はまだ半ばにも達していない。しかもこの後、彼に降りかかる試練はまだまだ続く。
 それでも鷹山は前を向く。

 二〇二二年八月七日
(2022・05・06『米沢城(上杉神社)稽照殿(けい しょう でん)』にて拾集)