> -1
-1
 
> 金貨のエンゲージ
金貨のエンゲージ
 
> 卯月の涙雨
卯月の涙雨
 
> アンネと駿太
アンネと駿太
 
> 春妃秋天
春妃秋天
 
> 真田石と尼ヶ淵(あま が ふち)
真田石と尼ヶ淵(あま が ふち)
 
> 二十六夜待ちの月光
二十六夜待ちの月光
 
> 於北のまつ
於北のまつ
城郭拾集物語F 長野真田屋敷と真田氏本城
 信州信濃は戦国以前より細かな国人衆(こく にん しゅう)割拠(かっ きょ)の国である。
 室町前期には足利将軍から信濃国守護に任命された小笠原長秀による統治が始まるかに思えたが、その就任直後、反発した村上氏を中心とした中北信(ちゅう ほく しん)(地理的に信州の中央部と北側に位置する地元の呼び名)の細かな国人衆が決起した。その中に小県(ちいさがた)の真田氏も実田≠フ名で見える。そして応永七年(一四〇〇)の大塔合戦(おお とう がっ せん)に大敗した長秀は京都に逃げ帰ったという経緯がある。
 後世において鮮烈なほどの名を残す真田三代の異彩も、このときはまだ長野県と群馬県の県境に位置する四阿山(あず まや さん)の麓に、わずか一つばかりの集落を領する程度の小さな土豪に過ぎなかった。その名が厳然と歴史に浮上するのは戦国時代、かの武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の合戦∴ネ降である。
 川中島の合戦は一言で言ってしまえば国人衆が割拠する北信濃地方の奪い合いと言ってよい。善光寺平に広がる領土は十万石の価値があるとされ、山々に囲まれた甲斐国だけでは石高にしてせいぜい二十五万石、武田氏が勢力を奮いはじめた当時でも四十万石程度と言われる信玄にとっては非常に魅力的な土地だった。ちなみに武田氏の領地配分は貫高制(かん だか せい)で行なわれるが、そのやり方は真田氏にも受け継がれている。一方、越後国の上杉謙信にとっての北信濃は自領に隣接した安全保障の重要地であり、一人でも多くの国人衆を傘下におさめておきたいという構図があった。
 そもそも真田の血筋は真田郷(さな だの ごう)近隣の豪族海野氏の血を引いているとされ、さらに遡れば古くより東信濃を支配していた滋野三家(じ の さん け)に結びつくと言う。
 滋野三家──すなわち海野氏の血を引く真田家と、鷹を操り呪術や加持祈祷を行ってきた禰津家、そして三つ目の望月家は信濃望月家と吾妻望月家の二つあり、甲賀流忍者の家元である甲賀望月家と深く結びつく。戦国の過程の中で海野氏と信濃望月氏は滅亡するが、この滋野三家こそ戦国を彩る真田忍者#ュ祥と関わりがないとはいったい誰が言えるだろうか。
 真田家初代幸隆の名が歴史の舞台に登場するのは天文十年(一五四一)五月に起こった海野平(うんのたいら)の戦いである。甲斐を統一した信玄の父武田信虎が、信濃の豪族村上義清や諏訪頼重などと結んで小県へ侵攻したのだ。この戦いで大敗を喫した幸隆は、真田郷を村上氏に奪われた上、上野国の箕輪城主長野業正のもとへと逃げ延びた。一緒に戦った海野氏宗家は滅亡し、禰津氏(元直)と矢沢氏(幸隆の弟矢沢頼網)は降伏して武田家傘下となり辛くも本領に復帰した。
 ところが信虎が帰国した途端、信玄は父親を駿河へ追放してしまうと家督を継承し、すかさず関東管領上杉憲政(うえ すぎ のり まさ)と和睦して諏訪頼重を滅ぼしてしまった。そこから信玄による本格的な佐久・小県侵攻が開始される。
 幸隆が武田家に召し抱えられたのはこの頃で、一説には、信玄の側室で武田勝頼の母となる諏訪御料人は禰津元直の娘であり、『甲陽軍鑑』にかく(隠)れなきびじん(美人)≠ニ記されるほどの美貌の持ち主で、信玄はその美しさに目がくらんだものか? 幸綱が武田家臣団に加わることができたのは禰津氏の推挙があったからだともされる。ついでに言えば禰津常安の妻は信玄の妹なのだ。いずれにせよここから真田と武田の深い結びつきが始まるわけである。
 今回の物語で焦点を当てる人物は、この真田家初代幸隆の長男であり、海野平(うんのたいら)の戦いよりさかのぼること四年の天文六年(一五三七)にこの世に生を受けた真田信綱である。彼は真田昌幸の兄であり、真田幸村の伯父に当たる人物である。



 禰津神平(ね づ しん ぺい)という男がいた。
 彼は禰津常安(じょう あん)とは双子の弟の方であり、ときたま瓜二つの兄弟そろって幻術の真似ごとをして武田家臣団を驚かせていたので信玄も大のお気に入りで、それは後に兄常安の方は信玄の妹を娶り、弟の神平の方は信玄と諏訪御料人との間に生まれた娘を嫁にするほどだった。二人は真田信綱とは年も近く、幼少の頃よりよく遊んだ竹馬の友だが、常安とは同じ継嗣である自覚が妙な闘争心や見栄を生んで細かなところでかちあっていたから、信綱にすればどちらかと言うと弟の神平の方が何かと馬が合ったものだった。
 武田軍にはこの当時から三ツ者(みつのもの)≠るいはスッパ≠ニ呼ばれる優れた忍者集団が存在していたが、その養成を受けるようになった神平があるとき信綱にこんなことを言った。
 「源太郎(信綱の幼名)よ、今後作るなら城でなく寺社を作るがよいぞ」
 「寺社だと? なぜじゃ?」
 「これからの戦は情報戦じゃ。情報を制した者が天下を取るからだ」
 「いったい寺社と情報と──どんな関係があるのか?」
 「山伏さ。寺社に山伏を住まわせるのさ。山伏たちは全国を巡るから様々な情報を持ち帰る。わが家は昔から呪術や加持祈祷を行ってきたから分かるのだが、彼らの人脈は半端ないぞ。信玄公はその情報を巧みに操り天下を狙っておる。真田の山家(やま が)神社にも多くの山伏たちが訪れるじゃろう? そいつを利用し、寺社を増やして増員するのだ。信玄公の構想はそれだけでない、吾妻の望月家には最近甲賀望月家から千代女(ち よ め)様という巫女(み こ)が嫁いで来たそうじゃ。どうもその女を使い、くノ一の三ツ者集団を養成する修練所を作ろうとしているご様子だ」
 くノ一≠ニは漢字の女≠フ隠語である。武田家の中ではこの言葉は既に存在していた。
 「女スッパか……? そんなものが戦の役に立つか?」
 「だからこれからの戦は頭脳戦じゃと言っておろう。いくらバカ力を持つ巨漢だったとしても、目の前にとてつもない美人が現れてみよ。股間がうずいてイチコロさ。あの信玄公とて伯母上の美貌にメロメロなのじゃ」
 「なるほど、武力でなく調略(ちょう りゃく)で戦況を動かすわけか!」
 現に真田家が行った寺社の建設や再建に視点を置けば、天文十六年(一五四七)の幸隆が『種月庵』という住職のいない小寺を『真田山種月院長谷寺』として創建したのを皮切りに、永禄二年(一五五九)には真田郷に『廣山寺』を創建したり、永禄五年(一五六二)には信綱が『四阿山(あづまやさん)奥宮社殿』を修造したり、その三年後の永禄八年(一五六五)には幸隆が別の場所に『廣山寺』を創立したり、元亀三年(一五七二)には『廣山寺』を『元十輪寺』と号して移転させ、これら寺院の門前町を城下町として作り上げたりする。さらにその三年後の天正三年(一五七五)には信綱が横尾に『大拍山打越寺』の再興をしたり、永禄八年(一五七五)には幸隆の弟矢沢綱頼が『良泉寺』を再興したり、天正十六年(一五八八)には昌幸が父幸隆の菩提のために『長谷寺』に諸堂を完備したり、文禄三年(一五九四)には昌幸が『信綱寺』を建立したりと、真田一族が寺社に掛ける情熱は気なしか至極多いように感じる。この背景に山伏の存在──つまり忍びの者の存在があったとしてもけっして不自然でない。
 禰津神平が信玄より甲陽流忍術の家元を任されるのは二人のこの会話より少し後の話だが、その筋の仕事──つまり忍び働きのノウハウはこのとき既に信綱にも備わっていた。その資質が彼の弟昌幸にもあったのを見ると、父幸隆が息子たちに与えた天性だと言ってもよい。
 加えて信綱には調略の才だけでなく、武勇においても人並み外れた才覚が認められた。
 天文十七年(一五四八)から始まった武田信玄による村上義清攻めでは、幸隆は右の脇備えとして参戦するが、初戦の上田原の合戦においては敗れたものの、翌十八年にはまだ十三歳の信綱が初陣を果たし、小岩嶽城(こ いわ たけ じょう)を攻めた時など一番槍の名を挙げたばかりか、敵将阿保宗左衛門(あ ぼ そう ざ え もん)の首を取るといった武功を挙げ、褒賞として信玄より国俊の太刀を賜った。しかし埴科を領する村上義清は思いのほか強く、更に翌年の天文十九年に再び砥石城の村上義清を攻めるが失敗し、砥石崩れ≠ニ呼ばれるこの戦いで武田勢は千人にも及ぶ将兵を失った。
 ところが──
 更にこの翌年の天文二十年五月に至って、戦闘が行われた気配もなくこの砥石城が突然武田の手に落ちるのである。その背景にあったものこそ真田幸隆による調略で、村上方の埴科(はに しな)国人衆清野氏と寺尾氏を見事寝返らせたのであった。
 これにより真田郷を奪還した真田氏は、村上方の横尾氏と曲尾氏の領地も手中に収め、信玄から諏訪形等の地までも保証される。砥石城は、横尾・曲尾を経て善光寺平に続く絶好の戦略要地であり、ここに川中島に通じる北信濃への道が拓かれたと言ってよい。
 そして真田郷に念願の真田屋敷が建てられる。



 川中島の合戦における幸隆・信綱父子の調略活動は見事と言うよりほかない。ところがあくまで秘密裏に進められる工作のため、その全容と真相が歴史に綴られることはほとんどないと言ってよいだろう。後世に生きる者たちは、その歴史的事象から憶測するより仕方なく、ここに歴史のロマンを知るのだろう。こと忍者の存在こそがその最たるものである。
 天文二十二年(一五五三)から永禄七年(一五六四)までのおよそ十二年に渡って繰り広げられた武田信玄と上杉謙信による戦いは、一般的に第一次から第五次までの五回行なわれたとされているが、最初のその衝突点は、まさに調略により砥石城を追われた村上義清が籠る葛尾(かつ らお)城(現坂城町)が舞台である。
 合戦直前の真田氏を取り巻く信濃の勢力分布は、北を埴科の村上義清の勢力が抑え、西は松本から勢力を伸ばし諏訪にまで侵攻していた信濃国守護の小笠原長時とに挟まれた格好である。それらの勢力に敵対する信玄は、小県の弱小真田を信濃先方衆と位置づけ、佐久と小県両郡へ出兵を開始した。そして塩尻峠の戦いでは小笠原氏の駆逐に成功した信玄は、松本一帯を制圧することに成功していた。
 四月、武田軍は葛尾城に猛攻撃を開始した。ところがさすがの村上義清も、『上田原の合戦』や『砥石崩れ』の時のようにはいかなかった。というのは、葛尾城を戸倉方面から支える屋代氏や雨宮氏や塩崎氏といった国人衆が、ことごとく幸隆の調略によって村上方を離反したからである。背後からも攻撃を受ける形になった葛尾城はあえなく自落。葛尾城を落とした武田軍は、すかさずその支城である『荒砥(あら と)城』にも猛攻を加え陥落させると、村上義清は命からがら上杉謙信を頼って越後へと落ち延びた。これがいわゆる川中島の合戦のきっかけというわけである。
 信玄はそのまま善光寺平へと軍を進めた。ところがそこへ電光石火の如く現れた上杉勢と衝突し、更級八幡の戦い(現千曲市八幡地区)を繰り広げるが、これに敗れた信玄はいったん兵を引く。葛尾城と荒砥城は上杉方が奪取し、再び村上義清が入城することになる。
 ところが七月に入って再び信玄の侵攻が開始され、諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を落とした。義清は再び城を捨て越後へと逃れ、信玄は上田の最北端に位置する塩田城で布陣を固めたものの、それ以上兵を進めることはなかった。ここまでがいわゆる第一次合戦の流れである。
 第二次合戦はこれより二年後の弘治元年(一五五五)に起こるが、この間信玄は今川義元と北条氏康との間で甲相駿三国同盟を結び背後を固めることを忘れない。そして幸隆の更なる功績は、上杉の勢力の強い善光寺平の有力な国人衆の一人、栗田寛安の調略を成功させたことである。そしてこの栗田寛安を籠城させた旭山城こそが、第二次合戦の行方を左右することになる。
 北上した信玄と南下した謙信は、善光寺平を東西に流れる犀川を挟んで睨み合っていた。そして栗田寛安の旭山城は善光寺の西南西、戸隠への玄関口にあたる孤立してそびえる旭山の頂にあり、謙信を背後から睨んでいた。この旭山城こそ謙信にとって脅威だったのである。というのは、栗田氏は代々戸隠神社の別当職を務める家柄だったので、この城への援軍や援助物資は尽きることはなく、もっと疑い深く見つめれば、戸隠神社と武田とは山伏三ツ者を通して深くつながっているはずで、例え防御主体の詰めの小さな山城とはいえ難攻不落と言えたからである。
 謙信は戸隠と旭山城への道を遮断する必要があった。と、すかさず善光寺の東側にある横山城に入り、続いて旭山城を一望できる葛山(かつら やま)城を改修して陣を移動させると、次いで葛山城の後方に大峰(おお みね)城を築いたのだった。これにて旭山城は完全に死に城になってしまったのである。
 これにはさすがの信玄も舌を巻く。あるいは謙信と直接対決しても歯が立たないことを悟ったものか。
 こうして膠着状態を保ったまま二〇〇日という月日が過ぎ去った。そして最終的に第二次合戦は、今川義元の仲介をもって両軍撤退という形で幕を閉じる。



 北信濃の国人衆たちは軒並み上杉寄りだったことは事実である。
 その中にあって、真田幸隆の調略活動はいや増して重要な意味を持っていた。
 調略≠ニいう言葉を聞けば、敵を寝返らせるためには手段を選ばず、利害を背景にして陰謀∞騙し合い∞悪巧み∞横暴∞挑発∞密謀∞企て≠ネどの悪いイメージが連想されるが、真田家の行うそれはけっしてそればかりが全てではない。当然川中島の合戦のような戦闘状態だから、「本家とうまくいっていない」とか「軍役が多い」とか「相続が少ない」とか「当主が気に入らない」といった国人衆の不満につけ込むケースは多かったに違いない。つけ込む≠ニいう言葉はあまりよくないかも知れないが、そうした不満に耳を傾け、同苦して別の道を指し示すところに真田の調略術は大成され、お家芸と言えるほどまでになったのではないかと考える。戦国という特殊な世情であったがゆえに、真田のそれは表裏比興(ひょうりひきょう)の者≠ニ揶揄されたが、これが現代であったなら細かなところにまで手が届くお悩み相談所≠ニして業をなし得たであろう。
 信玄が北信濃を制するためには、どうしても一人でも多くの当地国人衆の調略を実らせなければならなかった。そして可能性のある城の名を挙げて、真田領内ではこんな言葉が合言葉のように囁かれた。
 「一に春山(はる やま)、二に尼巌(あまかざり)、三に春山(はる やま)……」
 これは北信濃で堅固を誇った『一に春山、二に尼巌(あまかざり)、三に鞍骨(くら ほね)』という言葉の三番目をもじったもので、一と三に二回うたわれている春山≠ニいうのは上高井(須坂方面・現長野市綿内)にある綿内井上氏の春山城のことである。尼巌≠ニいうのは松代周辺の東条氏の尼巌城だが、ここに名の挙がっている城というのは、これまでに現地に放たれたスッパと呼ばれる者たちにより、寝返る可能性のあるなにかしらの問題を抱えている国人衆だった。特に春山城の井上左衛門尉(さえもんのじょう)は、隣に領地を構える本家井上氏の当主達満とは犬猿の仲で、調略するに容易い筆頭に挙げられていたのである。
 この城を落とせるかどうかが今後の上杉との合戦においていかに重要であるかを思う時、幸隆は一層慎重になるのであった。
 「春山城を落とすに(調略するのに)、誰が適任か……?」
 可能性が高いとはいえ、これは敵陣に潜入するこの上ない危険な仕事なのである。ひとつ人選を間違えば戦局を左右するどころか信玄を危機に陥れる可能性も孕んでいるのだ。幸隆が考えをめぐらせていると、そこに信綱と昌幸が部屋に入って来てこう言った。
 「わたくしにお任せ下さい!」
 このとき信綱は水も滴る凛々しき二十歳の青年、三男の昌幸はまだ九歳の少年だった。二人の間には昌輝という次男もいたが、彼はこのころ信玄付の小姓に出されて真田屋敷にはいない。
 幸隆は昌幸を一瞥して「お前にはまだ早い」と軽くあしらい笑むと、信綱に目線を移して一段と厳しい口調でこう聞いた。
 「お前は(かたき)を愛せるか?」
 信綱は意外な言葉に表情ひとつ変えずにどう返答したらよいかを考えた。幸隆は続けた。
 「敵がどんなに憎かろうが、恨めしかろうが、その相手に惚れることができるかと聞いておる」
 信綱はまだ何も答えなかった。
 「調略とは仇に惚れることじゃ。そしてその仇に誠実を尽くすことじゃ。お前にできるか?」
 信綱は「なんだ、そんなことか」と言うように、
 「父より、そして母より愛してご覧にいれましょう」
 と答えた。その言葉には、「例え親子の縁を切ったとしても」という意味を含んでいるのを幸隆は感じた。そして幸隆はにんまり笑むと、「行け、お前に任せた」と小さく言った。
 「わたしもお供いたします!」
 喰ってかかるようにそう申し出たのは昌幸である。彼は十もはなれたその兄を、心の底からひどく尊敬している。その真剣な様子に幸隆は渋々承諾したのであった。
 しかし信綱にとっては調略の初仕事、心配を拭えない父は山家神社に修験者を同行させたいと願い出た。武田家にとって修験者とはつまり三ツ者(みつのもの)を指す
 こうして数日後、白装束の山伏姿をした一人の男が真田屋敷にやって来た。
 男は信綱と昌幸の前に居直ると、慇懃に頭を下げて、
 「上州三ツ者吾妻衆(じょう しゅう み つの もの あが つま しゅう)伊与久采女(い よ く うね め)と申します。以後お見知りおきいたします」
 と、山伏には不似合いの長い髪の毛で顔を隠したままかすれるような声で言った。
 「おお、わざわざ上州より四阿山(あずまやさん)を越えて参ったか。ご苦労である。そうかしこまらずともよい、面を見せよ」
 信綱はその得体の知れない修験者を興味深々と見つめた。
 信州と上州にまたがる標高二、三五四メートルの四阿山は、信州側では四阿山≠ニ表記する者が多いが、上州側では吾妻山(あづまやさん)≠ニ表記するのが多かった。おまけに吾嬬≠ニ書かせたり、読みもあづまや≠セったりあずま≠セったりあがつま≠セったり、山≠熈さん≠ニ読ませたりやま≠ニ読ませたりと、同じものをさし示すのに幾通りもの表現の仕方がある。これは意図的なもので、敵を欺いたり攪乱させたりするに都合のよい三ツ者の知恵とも言えた。この意味においては『真田の逆さ言葉』というのがある。人を誘っておきながら「行か」と言ったり「やら」と言って、その本意は「行きましょう」「やりましょう」という意味を持つ否定して肯定する言い方である。これは方言にもなって現在なお信州の東北信地方に残っているが、戦国時代当時は敵を混乱させるために意図的に使われたとする説がある。同様の方言が武田の甲府にもあるそうで、もっと言えば、この敵を欺く方言が北信地方にも色濃く残っている事実を考えると、ひょっとしたら川中島の合戦当時、実際に真田の三ツ者が調略の際、盛んに使用していたのかも知れない。これは筆者の予測ではあるが、真田昌幸・幸村父子が蟄居していた和歌山の九度山周辺や、幸村の大坂の陣で活動した大坂、京都などでもこの『真田の逆さ言葉』が残っている可能性がある。いずれにせよ三ツ者同士でのみ通じる隠語も当時は数多く存在していたことだろう。
 頭を挙げて髪の毛を後ろに払いのけた修験者を見て信綱は驚いた。その顔は男のものとは思えないほど白く美しく、白装束でなく着物を着ていたら女と言っても疑う者はないだろう。しかも礼の仕草や手の動かし方だけ見ても、その動きは女のように柔らかく、その身のこなしは女のように優美だった。
 信綱はしばしその容姿に見とれていたが、やがて、
 「伊与久采女(い よ く うね め)か。采女と申すからには朝廷にお仕えする天子様の身の回りの世話などした女官と何か関係がある家柄か?」
 と聞いた。確かに采女≠ニいえば昔から容姿端麗かつ高い教養を持つ豪族の娘に限られていた。そしてその美貌は天皇のみが手を触れることが許された高貴な存在だった。古くは『日本書紀』にも「采女の面貌端麗、形容温雅」と記されており、『万葉集』にも「采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたずらに吹く」と歌われるほど男の憧れをそそる存在なのだ。年も若いのか老いているのかも想像できないほどの伊与久の美しさは、信綱にそう勘違いさせるに十分だった。
 「いいえ、宗家伊与久弾正(い よ く だん じょう)上野国(こうずけのくに)新田(にっ た)後裔(こう えい)由良(ゆ ら)氏(横瀬氏)に仕えております。天皇に仕える采女≠ニは関係ございません。ただ、舞踊を少々たしなんでおります」
 この男、信濃先方衆の真田の要請に応じて吾妻衆に加わり、出浦昌相や祢津潜龍斎といった武田家三ツ者の下で働き、後の信玄や豊臣秀吉による北条攻めにおいては、名胡桃、沼田、利根、松井田、安中、榛東などの地で諜報活動をする真田家臣として活躍することになる。
 「舞踊であるか? 興味深い。ちと踊って見せよ」
 「お見せするほどのものではございません。当家に伝わる舞踊は舞踊であって舞踊ではありませぬ。その実はたかが透波(すっぱ)躰術(たい じゅつ)の部類にございます
 そうは言え三ツ者の家に伝わる舞踊である。そのたおやかな動きの中には武の精髄が隠されているに相違ない。伊与久家では代々家の女にその兵法が伝承されており、これを手弱女振(たおやめぶり)と呼んでいた。まさにくノ一≠フ技が伝承されていたのであった。
 「いずれお見せすることもございましょう」
 こうして信綱と昌幸はすっかり修験者と同じ服装に着替えると、本物の山伏である伊与久の三人は、小県から春山城のある北信濃は上高井の地を目指す。常人なら北国街道を使うはずが、山歩きがしみついている伊与久にしてみれば菅平の峠を越えるのが常識のようで、彼の後を小走りに追いかける信綱と昌幸は目的の地へと潜入したのであった。



 春山城は千曲川と犀川が合流するところの東南、現在の長野市綿内に存在した綿内井上氏の山城である。そこは江戸時代までは須坂藩領ということになるが、さらに遡った戦国時代の国人衆が支配していた頃は、現須坂市と長野市綿内までの千曲川東部一帯を広く支配する井上氏の所領であった。
 もっと古くは平安時代にまでさかのぼり、清和源氏多田満仲の子源頼信という男が、長元元年(一〇二八)に関東で起こった乱を平定して東国に勢力をのばしたとき、二男の源頼季が信濃に封を得、嫡男満実とともに高井郡井上に来てその地名をもって井上氏の祖となったのが始まりとされる。以後その辺りを統括する米持氏、高梨氏、須田氏といった国人衆は、もとを正せばみな同族であるという。中でも須田氏こそ鎌倉時代に須田郷と大岩郷とに分裂したと伝わるが、川中島の合戦当初はその全てが上杉方であった。
 そして第二次合戦の際、上杉謙信が陣屋として使ったのが春山城なのである。
 山の各所に湧水が湧いていたこともあり、そのうえ春山の地形を上空から見れば蹄鉄(てい てつ)のようにくぼんだ場所は兵を潜めるに都合よく、信玄の旭山城を死に城にするため築いた葛山城と大峰城からは、犀川・千曲川をはさんで対面に位置する地理的条件は作戦の伝令をする狼煙(のろし)を挙げるにも格好の場所だった。
 ところが所詮は田舎の小さな山城、そのせいで春山城は上杉勢の兵でごった返し、その対応力の限界を軽く越えた。綿内郷の村人の女たちが総出で対処するも、村の食料はすぐに底をつき、おまけに物見遊山でもするように異国の土を踏んだ兵達は「風呂だ」「食い物だ」「酒を出せ」とわがもの顔に振る舞ったものだから、困り果てた城主井上左衛門尉は、本家の井上達満に物資供給をしてくれと泣きついた。
 ところがこの井上氏の本家と分家、以前から土地をめぐる問題から確執が激しく、いざこざの絶えない関係が続いていたのだった。分家左衛門尉の若穂綿内の地は本家の井上氏にとっての主要な穀倉地であり、そこを任せた以上なにかと細かな注文をつけては困らせていたのである。達満は「ざまあみろ」とでも言うように、
 「そりゃたいへんだ。その辺に生えてる草でも喰わせ、肥溜めの風呂にでも入れておけ」
 と、冗談にもならない捨て台詞を吐いたものだから、怒り狂った左衛門尉は井上城の門を叩き壊して戻ったのだった。
 そんな日々が続くこと二〇〇日近く、その間左衛門尉が大切にしていた盆栽は兵達に割られるし、土足で屋敷内を歩き回るは、極めつけは娘の北姫に目を付けた一人の兵が、身分もわきまえず彼女に言い寄ったものだから、堪忍袋の緒が切れた左衛門尉は、「もうやってられん!」と上杉軍に著しい憎悪を抱くようになったのだった。そして第二次合戦が終わって上杉の兵達が立ち去ると、「また戦いが始まったらいかんせん。もうあんな目にあうのは御免だ!」と、ついに「隠居する!」と言い出すが、彼の嫡子新左衛門はまだ幼く、「そんなことをしたら綿内の領地を本家に奪われますぞ!」とさんざん家臣たちに反対されて、押すに押せず引くに引けずのどうにも身動きがとれない苦悩に苛まれていたのだった──そんな噂を嗅ぎつけたのが以前からこの辺りの土地に住みつかせていた幸隆の放ったスッパである。
 やがて菅平の峠道を下った信綱ら三人は、栃倉から八町、井上を通って綿内に入り、春山城近くの真言の寺を見つけると、何食わぬ顔で境内に入り込んだ。
 山伏は真言密教との結びつきが深い。それはそのまま忍術とも深く関わっている。伊与久にしてみれば真言の寺はある意味我が家同然で、そこに入れば必ず一人や二人の知り合いがいるものだった。そんなふうにして武田の三ツ者は、全国各地に深いネットワークを築いてきたのである。
 「采女(うねめ)ではないか!」
 寺の中から声を掛けたのは、袈裟を掛けた黒い虚無僧装束の割腹のいい四十くらいの髭面の男で、伊与久は裸足のまま駆け寄って来る彼を「この寺の住職だ」と信綱に紹介した。そして近寄り伊与久の手を握る住職には、
 「真田様の嫡子信綱様と弟君の昌幸様だ」
 と言うと、その凛々しい顔つきの信綱に感心しきりの住職は、そのまま三人を寺の中へと招き入れた。



 さて、調略の算段を終えた信綱と昌幸と伊与久の三人は、住職に連れられすぐ近くの井上左衛門尉の居館へ踏み込んだ。もとより地元の寺の住職が連れて来た者達だから、綿内井上氏の家臣たちに疑う者など一人もない。左衛門尉とて例外でなかった。
 座敷に姿を見せた左衛門尉は、やつれた顔で疲れ果てたように、
 「蓮台寺の住職がいったい何の用じゃ?」
 と言った。
 「今日は面白き者が当寺に参りましたので、ぜひ左衛門尉様にお目にかけようと連れて参りました。お噂では最近とみにお疲れのご様子、ここはひとつ気晴らしになればと思いまして……」
 住職は山伏姿からすっかり大道芸人のような派手な衣装に着替えた伊与久采女(い よ く うね め)を紹介した。
 「面白き者だと? いったい誰じゃ?」
 「当代一の踊り子にございます」
 「住職、当代一は言い過ぎでございます。わたくし、全国をめぐる旅芸人女形(おんながた)采女尉(うねめのじょう)と申します」
 伊与久は住職のいつもの大風呂敷を否定してそう名乗った。
 「ほおっ、女かと思ったら男であったか!」
 左衛門尉はおよそ旅芸人一座が何か楽しい催しを見せてくれるのかと期待して笑った。そして、
 「して、そのほかの二人は? 一座のお仲間か?」
 と少し警戒の色を表して続けた。見れば信綱は腰の刀を左に置いて普段通りの侍姿をしており、昌幸の方は農民の子どものようなボロをまとっていた。旅芸人と侍と農民の子とは何とも妙な組み合わせである。しかしその妙な組み合わせがより楽し気で不可思議な雰囲気を醸し出していた。
 「それは後ほど……」
 住職はそう言うと、すかさず、
 「さっそくこの者の踊りをお目にかけたいのですがお囃子(はや し)が欲しいところでございます。当代一とは申せ、さすがに音楽がないところでは踊りにくいものでございます。左衛門尉様の一人娘の於北姫はお琴を習っておりましたな。嫡男の新左衛門様も確か笛をお吹きになりました。太鼓があればなおよろしい、この昌公(まさ こう)が叩きましょう。是が非にも──」
 昌公≠ニは昌幸のことである。このような場面では士分・僧侶などの身分は関係ない。
 「そいつは面白そうじゃ!」となって、座敷に招き入れられた於北姫はこのとき花もほころぶ十七歳。その美しさに信綱は瞠目(どう もく)した。その目と於北の目が合って、二人の間に二人にしか分からない特別な感情が宿ったことは、例えお釈迦さまでも気づかなかっただろう。
 そして笛を持って入ってきた新左衛門は昌幸とは二、三年上の少年で、用意された鼓を渡された昌幸は二人の横に座って、そこに琴と笛と鼓の即席の囃子方(はや し かた)ができあがった。 
 於北の奏でる優雅な琴の音に、新左衛門の吹く笛が彩りを加え、昌幸の叩く鼓は命の鼓動を与えた。その音楽に乗って踊る伊与久の舞いは、時に激しく時にたおやかに、ある時は一丈ちかく飛び跳ねたと思えば次の瞬間畳に沈んで、それはあたかも天の羽衣(はごろも)をまとった天女が舞い降りたようである。
 「これが手弱女振(たおやめぶり)か──
 唖然とそれを見つめる信綱は、その動きに一切の隙がないことを認めた。仮にいまこの瞬間太刀を握って斬り込んだとしても、その勢いは舞いの流れの波に巻き込まれて、逆に襲った者の首がかき斬られたことだろう。そんな脅威を覚えつつ、彼の視線は琴を奏でる於北の姿をとらえていた。
 「いやぁ、見事、見事! あっぱれじゃ!」
 左衛門尉は手を叩いて大喜び。
 「お礼の印におもてなししたいところであるが、生憎、先般の戦で当方の蔵には何も残っておらぬ。こんなものしかないが勘弁してくれ」
 と、なけなしの金で買った地元の酒を振る舞うのだった。左衛門尉は住職が連れて来た得体の知れない者たちに完全に心を許したのである。そのとき、
 「ときに──」
 突然声を挙げたのは信綱だった。それまでその場にいるだけで、いったい何をしに来たのか分からない存在だった彼が、ここで突然表に踊り出たのである。そんな意表をつきながら、相手の心によもや∞あるいは≠思わせる、これが真田のお家芸とも言えた。
 笑みを浮かべたままの左衛門尉は信綱に目を向けた。
 「昨年の戦の際はたいへんだったそうですねぇ?」
 「そりゃもう。大きな声では言えんが、上杉の奴らめ、うちの所領をさんざん荒らした挙句、礼のひとつも言わんで帰っていきおった」
 「心痛お察し致します。しかし困ったものですなぁ。この戦、いったいいつまで続きましょうや?」
 「あなたもやはり上杉方で?」
 「いやあ、なんと申しましょうか? 実はどちらに付こうか迷っているところでございます。私の知りあいで埴科に領を持つ土豪がおりましてな、以前は村上様に従っていたのですがご存知のとおり武田の軍勢にやられまして、今はすっかり武田の方へ鞍替えしております」
 信綱はにべもない笑みを浮かべた。
 「埴科ですか……あちらはこちらより一層深刻でしょうな。で、その武田へ鞍替えしたお知り合いはなんと申しております?」
 「よかった──と」
 「よかった?」
 左衛門尉は「そんなうまい話があるか」と声を挙げて笑った。
 「あなたも埴科ですか? いっそ武田方についてはいかがかな?」
 「いいえ小県(ちいさがた)です」
 左衛門尉は「小県?」と呟いて言葉を止めた。小県といえば埴科よりなお武田に近いところの所領である。そんな場所でいまなお「どちらにつこうか迷っている」とは、上杉に相当所縁の深い家柄か、さもなくば……、と考える隙を与える間もなく。
 「申し遅れました。実は私、小県は真田幸隆が嫡男、真田信綱と申します。以後お見知りおきを」
 信綱はそう言って左衛門尉の懐に飛び込んだのだった。
 「なにっ? 先ほどどちらにつこうか迷っておる≠ニ申したばかり。真田といえば筋金入りの武田ではないか、拙者を謀ったか!」
 左衛門尉は床の間の太刀に手をかけた。脇にいた於北姫が「父上、おやめください!」という悲鳴に似た声を挙げた。
 「申し訳ございませぬ!」と、信綱は畳に頭を擦り付けて陳謝した。当然このとき、仮に左衛門尉が太刀を引き抜いたとしても、伊与久と住職は信綱を死守する用意はできている。信綱は続けた。
 「実は武田信玄公より左衛門尉様への書状をお預かりしております。いつお渡ししようかと迷い続けておりましたが、さきほど上杉の話になりましたもので、ついつい言いそびれ、あのような嘘を口走ってしまった次第。どうかお許しください」
 信玄直参の真田の嫡男に頭を下げられてしまえば、家柄としてはかなり格下の左衛門尉はたとえ上杉方だったとしても刀を抜くことなどできなかった。それより、まだ二十歳の青年の凛々しい姿と、誤りを誤りと認める誠実さに、彼の上杉に対する憎悪は武田への憧れへと変わっていった。左衛門尉は太刀を床の間に戻し、ため息を落としながら前いた場所に胡坐をかいた。
 「謝るのはこちらの方かも知れぬ。ついつい日頃の苛立ちから取り乱してしもうた。お家の血とは恐ろしいものじゃ。心は上杉を嫌っても、体は武田を嫌うとは……。この過ちでどれだけ歴史が作られてきたことやら……どうれ、信玄公から預かったという書状を見せてみよ」
 「いまのお言葉、大感激にございます。恐れながらこの真田左衛門尉信綱、同じ官途(かん と)を名乗る井上様に心底惚れ申した!」
 信綱は懐からその書状を取り出し差し出した。
 『綿内領の井上左衛門尉清政に対し隠居を許し、三五〇貫文を進ずる 武田信玄』
 左衛門尉はわが目を疑った。彼が密かに隠居を願っていたのを信玄はいったいどこで知り得たものか。そのうえ三五〇貫文という大金を惜しげもなく進呈するとはいったいどういう男なのか?
 左衛門尉の心は大きく揺れた。こうした知行のやり取りは当時から石高で行われるのが普通だが、信玄はそれをお金で支払うというのである。石高はそのまま領地の広さであるが、信玄が提示した金額は、綿内領と匹敵する価値があったのだ。つまり「金を担保に領地を保障する」と言うのである。信綱は言葉を足した。
 「信玄公は井上様が陣列に加わることを強く望んでおられます。もしお心を定めるならば、さらに御嫡男に対して二〇〇貫文の上乗せもやぶさかでないと申しております」
 その言葉はつまり、戦が終わった暁には本家の領土まで与えるということを意味した。
 「こんなうまい話があったものか……」
 左衛門尉は腕を組んで考えた。そして言った。
 「武田が勝つという保証がどこにある?」
 「武田には私がおります!」
 間髪入れない信綱の言葉は左衛門尉に笑いを誘った。
 「さすがは真田の倅、小気味よいわ!」
 完全に心をつかんだ信綱は更に続ける。
 「それに──ここだけの話ですぞ……」
 と、周囲を気にする素振りを見せた後、耳打ちするような小声で仕入れたばかりの上杉方の重要機密を漏らしたのだった。
 「どうやら上杉謙信公は隠居して出家なさるそうです。このところの家臣同士の争いや国許の紛争調停やらでよほどお疲れだったご様子。近々高野山の方へ移るとか移らないとか……」
 左衛門尉は「まさか?」というような表情を見せた。しかし彼は実際の上杉兵の横暴な振る舞いをその目で見ていたので「さもあろう」と疑いはしない。
 「その話、まことか?」
 これは信綱自身たったいまさっき住職から聞いたばかり。越後で情報収集していた三ツ者が、小県に向かう途中に立ち寄った綿内の寺で伝えた最新の情報なのである。実を言うなら、謙信を困らせていた自領のお家騒動や国衆の紛争といったことも、三ツ者がその種を蒔いた張本人なのだ。
 「この話承知いたした! しかしさきほど話した通り現在当方の蔵は空っぽ。しかも上杉寄りの郷土の中で、戦準備をせよと申しても土台無理な話。ここに書かれた三五〇貫文、いったいいつ、どのような方法で拙者が受け取れることになるのかな?」
 「約束の金はすぐにでも支払います。しかしその前に、井上様が武田を裏切らないという証しが必要でございます。そうでなければ私が信玄公に罰せられます」
 「いったいどうすればよい? 当方にはご覧の通り証しとなるほどの財産もござらん。血判書でも書けばよいか?」
 信綱は左衛門尉の隣に座る於北姫を見つめて言った。
 「そちらの姫を私の妻に下さいませ」
 このときの左衛門尉のうろたえ様は、酒を飲みながら後ろで見ていた伊与久も住職も笑いをこらえるのにやっとだった。彼にとって於北姫は目に入れても痛くない一人娘で、上杉兵がこの城にとどまっていたとき彼女に言い寄ったという一人の兵は、彼の憤りに触れて斬り殺されてしまっていたのだ。ところが信綱はひどく真面目な口調で、
 「さきほど私は井上様に惚れたと申しましたが、そこの姫様にはもっと惚れてしまいました。必ずや、幸せにしてご覧にいれましょう!」
 断りの理由が見つからない左衛門尉は、苦し紛れにこう言った。
 「そうは申せ、これは当人の気持ちも聞かなければならんだろう。もしこの()が拒みましたらどうか諦めていただき、他のものをご所望ください」
 「よかろう」
 と信綱は潔い男であった。
 「於北や、御仁はこう申されるがどうする? お断りしようか?」
 このとき於北姫の視線はすでに信綱の熱い視線の虜となっていたのである。頬を赤く染めた於北は迷う様子もなく、
 「おおせのままに」
 と恥ずかしそうに答えたのであった。
 こうして綿内井上の於北姫は、真田の御屋敷へと嫁いだ。



 弘治三年(一五五七)に再開される第三次川中島の合戦までに、真田幸隆は春山城の綿内井上氏の他に、埴科郡方面の鞍骨城の清野氏と、松代北部寺尾城の寺尾氏の調略にも成功した。これによって真田の郷から峠を越えて松代方面に抜けるルートが完成され、千曲川沿いを北上すれば川中島や犀川を通ることなく越後方面への進出が可能となった。
 ところが幸隆の調略術をもってして、どうにも落ちない者がいた。先の歌にもうたわれていた松代の尼巌(あまかざり)城主東条信広である。この城は三方が切り立った崖に囲まれ、攻め口としては尾根伝いの一箇所だけの要害堅固な城だった。幸隆とて多くの犠牲をはらうような武力行使は避けたかったし、できることなら調略によって落としたいところであった。ところが信玄は、第二次合戦の謙信との和睦の盟約を破って、
 「何をしておる! さっさと攻め落とせ!」
 と催促しきり。そう(げき)を飛ばすのには理由があった。謙信が突然隠居を宣言し、本拠地春日山城をはなれ高野山へと出家したのである。信玄に言わせれば「わしは謙信と約したのだ。その謙信が国を放棄し捨てたのだから、約束はなかったのと同じだ」という屁理屈である。「おめおめと逃げずに出て来い!」と言うわけだった。
 信玄にそう言われてしまえば実力行使しかない幸隆は、ただちに放火作戦を実行して瞬く間に尼巌(あまかざり)城を落城させた。
 そして季節は冬──。信玄は雪に阻まれて謙信が信濃へ入って来れないのを知っている。そうなってはもう武田勢のやりたい放題だった。譜代馬場信房を深志城から呼び寄せ、国人衆西条氏の居城に牧野島城を築城して葛山城を猛攻の末落とすと、松代を手中に収めた幸隆・信綱父子は千曲川沿いを北上して島津氏の長沼城、大倉城を立て続けに落とし、調略活動は善光寺北部から越後との国境深くまで容赦なく推し進め、次々と武田方に引き込んでしまうのだった。そして奥信濃の豪族高梨政頼の上杉方の要衝でもある飯山城への攻撃を開始したのが春まじかのことである。
 越後に戻った謙信は激怒した。
 「信玄め、和睦を反故(ほ ご)にしおったな!」
 雪解けを待って直ちに出撃。絵も言われぬ早さで飯山城を救援すると、そのまま島津氏の長沼城を奪い返し、善光寺平の横山城に陣を布くと信玄に奪われた葛山城を再び奪い返した。
 「やつがそのつもりならこちらも反故だ!」
 謙信は第二次の和睦条件で破却した旭山城を再興して本陣を移すと、そこを拠点に電光石火の如く次々と城を奪い返す。ついには海津城を破壊し、松代の香坂城も放火といった手段を用いて城下町ごと焼き払ってしまった。しかしこの謙信にして堅城尼巌(あまかざり)城は落とすことができなかったのである。
 ここまで巻き返した謙信は、やがて飯山城へ兵を撤退させ次の信玄の出方を待つことにした。
 せっかく飯山城を攻め込むところまで駒を進めた信玄だったが、これほどの謙信の強さを目の当たりにしては、さすがに次に打つ手はそうやすやすとは見つからない。迂闊には手を出せない信玄は、深志城から越後に抜ける糸魚(いと い)川ルートを押えて越後の警戒を引き出しつつ、善光寺平を支配する策を模索するより仕方ない。
 ここまでが第三次川中島の合戦の経緯である。



 五度におよぶ川中島合戦の中でも特に信玄と謙信の直接対決を見た永禄四年(一五六一)九月の八幡原の戦いは壮絶を極める。それに先立って両者は城をめぐって緻密な戦術を張り巡らせ、武田軍は先の戦で焼き払われた香坂城の跡地に海津城の築城を急いだ。
 この城を設計したのが武田家直参の軍師山本勘助だと言われる。
 三方を山に囲まれ、北西を流れる千曲川は天然の水堀となり、当時は山側に大きく蛇行していた。その川の向こう側がすぐ川中島である。山々には尼飾城や鞍骨城といった堅城が外郭を成し、裏山から峠を越えれば真田本城と繋がっていた。しかも町全体が適度な広さで、海津城はまさに自然の作り出した要塞だった。この城は後の松代城の前身である。
 ただ、一つだけ欠点があったとすれば、守りが堅い分、大部隊を率いて川中島に打って出るような場面が生じた場合、千曲川を渡らなければならないという点である。これはある意味致命的とも言えた。
 永禄二年(一五五九)は永禄の飢饉が発生し、甲斐国は大規模な水害にみまわれる。それとほぼ時を同じくして信玄は入道(にゅう どう)し、それに伴って幸隆と禰津常安も頭を丸めた。入道≠ニは神仏救済への道に入ることで出家≠ニは若干意味合いが違う。出家≠ヘ読んで字の如く家を出て仏門の寺に入ることだから完全に世俗から離れることを言う。だから謙信の場合は高野山に入ったわけだから出家≠ニいうことになるが、信玄の場合は入道≠ナある。ただし謙信は間もなく還俗(げん ぞく)したから結果的には入道≠ナあろう。
 第三次川中島合戦が終わってからの三年間で、時代は少しずつ変わりはじめていた。
 永禄三年(一五六〇)五月、桶狭間(おけ はざ ま)の戦いで信玄の盟友だった今川義元が織田信長に討たれた。義元の死は駿河、遠江、三河の三カ国の均衡の崩壊を意味した。これによって今川から独立した徳川家康が尾張の信長と同盟を結んだとなれば、信玄とてその動向に無関心でいられるはずがない。そのうえ翌永禄四年(一五六一)(うるう)三月に関東管領(かん とう かん れい)に就任した上杉謙信は関東に出兵し、北条氏康配下の関東諸城を攻略しながら周辺の国人衆を次々と傘下におさめはじめたから信玄にしてみれば気が気でない。謙信の軍勢は十万にも膨らみ、ついには北条討伐の号令を発して相模まで侵入し、氏康の居城小田原を包囲したのである。
 こうなればもはや信玄の侵攻方針は、北から南へと転換せざるを得ない。北条氏康と同盟を結んでいた信玄は、謙信を関東より撤退させるため、越後国境近く奥信濃の割ケ嶽(わり が たけ)城を攻落したのだった。
 「おのれ信玄! 私のおらぬ間に卑怯ではないか!」
 越後に取って返した謙信は、急いで川中島合戦への準備に掛かり、出陣して割ケ嶽城を奪い返すと、そのまま川中島は善光寺方面へと進軍した。
 このとき信玄にとって北信濃は、もはや目的でなく手段と化した。これが世に言う川中島の合戦クライマックスへの道ゆきである。



 川中島へ向かう信玄は、途中小県(ちいさがた)の真田屋敷に立ち寄った。
 四阿山から流れる神川の扇状地、屋敷の四方を囲んだ土塁は周囲五二〇メートル余あり、その北面は大沢川の天然の堀と、他の三方にも堀が巡らされていた。南側の大手門、北側の搦手門(からめてもん)南東には東門があって、北西の(うまや)からは遠く飛騨山脈が眺望できる。土塁の内側は東西に分かれた二段の曲輪(くるわ)になっていて、幸隆と信綱によって造られた屋敷は東の曲輪にある。
 このとき信綱の妻於北姫は於北之方(お きた の かた)と呼ばれ、三、四歳になる与右衛門と、生まれたばかりの信興(のぶ おき)の二人の子どもを抱いていた。
 「玉のように可愛い子であるの。どうれ、こっちによこせ」
 信玄は於北之方から赤子を奪うように抱きとると、赤子はつんざく声で泣き出した。
 「お屋形様のお(ひげ)が痛いのでございます」
 於北之方は信玄から再び赤子を抱き寄せ、瞬く間に泣き止ませてしまった。このとき彼女は信玄の膝元に置かれていた軍配団扇(ぐん ばい うち わ)の、柄の房の紐が切れそうになっているのを見た。すると、
 「お屋形様、軍議でございます」
 呼びに来た信綱に連れられて、信玄は軍配を置き忘れて部屋を出ていった。
 軍議に顔を突き合わせたのは幸隆・信綱父子はもとより、武田信繁、山本勘助をはじめとした後に武田二十四将に数えられる優兵(つわもの)ぞろいの面々、軍師山本勘助が戦略作戦の主導を握っていた。
 「こたびはおそらく海津城の攻防をめぐる戦になるでしょう。お屋形様はそこに陣を布き指揮をお執りください」
 「となると、敵はどこに布陣するか?」と誰かが言った。
 「妻女山(さい じょ さん)でしょう。あそこからですと海津城はもちろん、川中島平全貌を見下ろすことができます。しかし心配はいりません、あの城は絶対に落とせません」
 そんな話を信玄は何も言わずに、目を閉じたままじっと聞いていた。軍議は夜遅くにまで及んだ。
 寝所に戻った信玄は、枕もとに置かれた軍配団扇を手にして首を傾げた。
 「はて? ()(ふさ)が切れそうになっていたはずだが、誰かがなおしてくれたかな?」
 見れば軍配の柄と房をつないでいた紐が、動物の革紐に換わっている。それが於北之方の仕業であったと知るのは、翌日、武田兵が真田屋敷を出る時だった。
 大手門まで見送りに出た於北之方は、信綱に近寄って、
 「御無事で」
 と小さく言った。
 「留守が多くて済まぬが、家の事よろしく頼む」
 「ご心配には及びません。私は信綱様のお帰りを信じて、いつまでもお待ちしております」
 「うむ、待っておれ」
 そこへ信玄が寄って来て、
 「軍配の房をなおしてくれたのはそなたか?」
 と於北之方に聞いた。
 「はい。切れそうになっておりましたので、差し出がましいかとも思いましたが直させていただきました。願掛けをした望月の(こま)革紐(かわ ひも)をきつく結んでおきましたので、きっとご武運が降りかかりましょう」
 「さて相手は謙信じゃ。そう容易く勝たせてはくれまい。そなたの祈りは誠かな?」
 「きっと──」
 信玄は高笑いをすると、信綱に「佳き妻じゃ」と言って騎馬にまたがった。



 川中島の合戦の甲斐と越後の国境は犀川である。
 真田屋敷を発った武田軍は、一路そこを目指して行軍した。
 一方、割ケ嶽城を奪取した謙信は、北国街道筋を進軍して、横山城や旭山城に予備兵を置きながら、長沼城を陥落させて千曲川を渡ると、そのまま峠から松代方面に侵入した。その頃すでに信玄は海津城にあり、謙信は勘助の予想通り海津城の大手門をかすめるように通過すると、妻女山に布陣したのであった。
 武田軍二万に対して上杉軍一万三千、数の上では武田軍が有利とも言えた。ところが想像を越えるほどの上杉の兵数を見て、信綱は「これは籠城戦になるかもしれぬ」と思った。
 両軍は対峙したまま数日が過ぎた。嵐の前の静けさとはこのことだろう、秋晴れの空のした刈り採られ棒掛けの稲には赤トンボが舞い、千曲川と犀川が落ち合う河川敷の周辺ではススキ咲く野に遊ぶ童の声が聞こえ、そして夜は色なき風が星空をかすめていた。苛立ちはじめた武田兵たちは落ちつかないが、信玄は依然黙ったまま。
 そうして九月九日の深夜になって時は動く。
 武田軍は軍勢を二手に分けて、別働隊を謙信のいる妻女山の麓に待機させ、夜明けを待って一斉攻撃を仕掛け、驚いた謙信が山を下ったところを平地に布陣した本隊で殲滅させようというのである。これが世に言う『啄木鳥(きつつき)戦法』──啄木鳥が(くちばし)で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうのに似ていることからそう名付けられた。武田軍別働隊は夜闇に紛れて移動を開始した。
 ところが──
 夜明けとともに別動隊が目にしたものは、すでにもぬけの殻となっていた謙信の陣所であった。軍略の天才謙信は、信玄のこの策を見抜いていたのである。
 この辺りの朝晩の寒暖差は激しく、陽の光が大地に届くころは辺り一面川霧に覆われ、隣にいる人間も見えないほどの悪環境は信玄も謙信も同じであった。
 しかし謙信の方が一枚上手(うわ て)だったのは、武田の別動隊が移動している頃すでに、上杉の本陣は物音ひとつ立てずに妻女山を下り、千曲川を渡って八幡原で待ちかまえる武田本陣の眼前に陣を張ったのだ。三ツ者を抱える信玄にしてそのことには全く気付かなかった。
 夜が明けても立ち込める霧のため一寸先は闇だった。ところが次第に霧が晴れ、ようやく周囲が見えるようになった八幡原(はち まん ぱら)で信玄が見たものは、世にも恐ろしい現実だった。そこにはいるはずのない上杉一万三千の兵が銃口を向けて構えていたのである。
 世に言う謙信の『車懸りの陣』は、敵陣枢軸を強行突破し、総大将を討ち取って逃げる命がけの作戦である。逆に言えば謙信にはこの手しか残されていなかった。ひとつ遅れれば側面から別動隊が襲ってくるはずであったし、ぐずぐずしてはいられない。
 「撃てぃ!」
 上杉軍の鉄砲隊は武田本陣めがけて集中砲火を浴びせ、進路を確保できそうなところで弓矢を放ち、大きく拡張させたら長鑓隊が突き進み、集団を散り々々に分裂させながら本体は前進する。この射撃と移動を繰り返して謙信は信玄との距離を縮めた。
 「ゆけいっ! すすめぃっ! 敵中突破じゃ! 狙うは信玄が首ひとつ!」
 このとき武田勢は鶴が翼を広げたような陣形『鶴翼(かく よく)の陣』で迎え撃ったとされるが、人の塊の中に閃光のような一筋の集団が突っ込んでくるのだから、守りはそのような形にならざるを得なかったのである。
 武田勢は押しまくられ、ついに信玄と謙信は真正面でまみえた。
 「やっと()えたな!」と白覆面の謙信が叫んだ。
 「おう!」と信玄が応えた。
 謙信は馬上から最初の一の太刀を信玄めがけて打ち込んだ。しかし信玄は手にした軍配でそれを難なく払いのけた。このとき二人の表情に、僅かな笑みが浮かんだのは気のせいか?
 謙信は二の太刀を振り下ろしたが、これまた信玄は軍配で払った。
 「なかなかやるではないか」
 「ふん、そんなへなちょこ刀で斬られてたまるか!」
 謙信は三の太刀を振り下ろす──。
 そうして三太刀(み た ち)、七太刀と──、謙信の振り下ろす刀はその都度確実に信玄の首をとらえたはずだったが、蝶の如く舞う信玄の軍配団扇は、その都度鋭く光った刃をはねのけるのだった。
 そこへ血眼の原虎吉という信玄家臣が駆けつけて、「謙信討ち取ったり!」と叫んで鎗を突いた。ところが謙信はそれをさらりとはじきとばし、
 「勝負はお預けじゃ!」
 そう叫ぶと、来た方向とは反対方向へ向かって立ち去った。
 原虎吉は千載一遇のチャンスを逃した悔しさで、近くにあった大きな岩を力任せに貫いた。人の一念とはなんとすざまじいものか。この岩は執念の石≠ニして今も古戦場に残る。
 このときの様子を『甲陽軍鑑(こう よう ぐん かん)』はこう綴る。
 「謙信の切っ先は外れたが三太刀切りつける。信玄は軍配団扇で受け止めた。あとで見たところ団扇に八ヵ所の刀傷があった」と。
 また『甲越信戦録』にはこうある。
 「信玄は軍配団扇ではっしと受け止める。また切りつけるを受け止め、たたみかけて九太刀である。七太刀は軍配団扇で受け止めたが、二太刀は受けはずして肩先に傷を受けた」と。
 いずれにせよ信玄は九死に一生を得た。そして生々しい刀傷のついた軍配を見つめて、於北之方のことを思い出していた。
 この戦いで武田家の主要な武将が何人も討ち死にしたが、山本勘助もその一人である。辛くも生き残った信綱は、帰って於北之方を抱きしめた。



 世に語り継がれる川中島の合戦だが、第五次に至っては単なる睨み合いで終わってしまうためここでは深く触れない。この後の信玄の野望は関東方面へと移り、小田原攻めへと転換していく。
 さしあたって上州侵攻の任を受けた真田氏は、永禄六年(一五六三)の岩櫃城(いわ びつ じょう)攻略を皮切りに、嵩山城(たか やま じょう)箕輪城(みの わ じょう)白井城(しろ い じょう)といった上杉氏や北条氏の息のかかった城を次々と落とし、永禄十二年(一五六九)の『三増峠(み ませ とうげ)の戦い』では、信綱は弟の昌輝とともに参戦し、殿(しんがり)を務めて戦功を挙げた。
 幸隆が隠居して信綱が家督を継いだのはこの頃(永禄十年)、三十一歳の時である。その間信綱の弟昌幸は立派な青年に成長し、長男信幸と次男幸村をもうけた。そして並行するように、富田郷(とみ たの ごう)左ヱ門や来福寺左京(らい ふく じ さ きょう)といった三ツ者らによって、本格的な真田忍者の養成が始まったとされる。禰津神平もそのうちの一人である。
 ある日彼が真田屋敷にやって来て信綱にこう言った。
 「お屋形様より甲陽流(こう よう りゅう)家元を預かったぞ」
 「そりゃめでたい!」
 甲陽流とは、真田郷を中心として甲州、上州の修験者や地侍(ぢ ざむらい)の中で伝えられたいわゆる忍術──と言ってしまえば奇特な感じを受けるかもしれないが、要するに日常的な作法や身のこなし等を体系化したものの総称である。先に登場した伊与久采女(うねめ)などもそうだが、割田氏などの吾妻衆(あが つま しゅう)や、馬場氏、山県氏、曲渕氏、守屋氏といった甲州諸家が後までその継承を守っていくことになる。禰津神平はそれら武田三ツ者の総責任者を任されたのだった。
 「めでたいかどうかは知らんが、お屋形様はいよいよ駿河(する が)から遠江(とおとうみ)三河(み かわ)の方へ進出する腹積もりじゃ。西上作戦じゃ。忙しくなるぞ」
 「あのへんは今川の勢力が強かったところじゃ。松平元康(徳川家康)など怯えて尾張の織田と同盟を結んだそうじゃないか。まあ織田にせよ松平にせよお屋形様の敵ではない。問題は相模(さがみ)の北条じゃ」
 「それがじゃ……」
 と、神平は信綱の耳を口許に引っ張ってきて、「どうも北条氏康(うじ やす)が死んだらしい」と(ささや)いた。
 「なんだと!?」
 そこへ「いらっしゃい、おじさん!」と幼い声で現れたのは、今年七つになる信綱の娘清音(きよ ね)である。後に昌幸の長男信幸の、最初の正室となる娘であるが、信玄がこの屋敷に立ち寄って以来、信光という男子と清音を産んだ於北之方は、今ではもう三男一女の母なのだ。その於北之方が清音を追いかけて現れた。
 「あら神平さん、いったい何の内緒話ですか?」
 「いやいや、於北之方様は最近ますますお美しくなったという話じゃ」
 そんなおべっかを言ったと思うと、
 「じゃあな」
 神平は風のように立ち去った。
 「まあ、なんてお忙しいお方かしら。また戦が始まるのですか?」
 於北之方が心配そうに信綱に聞いた。
 「さて、どうかな……?」
 「あなたはいつもそう言って、私の前を過ぎて行くのね。女はいつも待つばかり……なんて不公平なんでしょう?」
 於北之方は屋敷内曲輪の隅の方に生えている何本かの杉の木を見つめてそう言った。過ぎる夫≠ニ杉≠ェ重なったのである。そして無邪気に遊ぶ清音に視線を移して「あの子も女ね」と呟いた。
 元亀三年、信玄は遠江(静岡県西部)の三方ヶ原の戦いで、松平(徳川)織田の連合軍と戦い圧勝をおさめた。ところが翌年の元亀四年(一五七三)四月、この戦国最強と言われた甲斐の虎武田信玄は、三方ヶ原からの西上作戦の途上、志半ばで突然この世を去ったのだ。享年五十三際の生涯である。遺言により三年間はその死が公表されることはなかったが、武田家の家督は勝頼へと相続されたのだった。
 この年、年号が天正(てん しょう)に改元され、織田信長は室町足利幕府を滅ぼした。そしてさらにこの翌年の五月には、信綱の父幸隆が死去したのである。享年六十二歳、その菩提は真田長谷寺に葬られた。



 時代というものは何の前触れもなく、時折突然大きく動く時がある。このときのそれは、それまで最強を誇った騎馬戦法に対する、新兵器を駆使した鉄砲戦法の挑戦であり、(いくさ)の様相を根底から変える大事件であった。
 信玄の急死によって武田氏の西上作戦が頓挫(とん ざ)したころ、『天下布武(てん か ふ ぶ)』を旗印に掲げた織田信長は、京都を掌握して天下人≠ニしての名乗りを上げた。一方、三河の徳川家康(松平元康)は、駿河(する が)遠江(とおとうみ)からの武田軍の撤兵に乗じて三河・遠江の失地回復に努めると、長篠城に奥平信昌を置き、武田氏の侵入に備えて警戒を深めたのである。
 信玄の後を継いだ勝頼が、遠江と三河を再び掌握すべく反撃を開始したのが天正三年(一五七五)五月、大軍を率いて長篠城を包囲した。ここに勃発したのが世に言う『長篠(なが しの)の戦い』である。この戦いに真田氏は、当主信綱は二〇〇基の騎馬、次男昌輝は五〇基の騎馬が与えられ、三男昌幸は大将勝頼の旗持ち衆として参陣することになった。
 信綱が真田屋敷を出るとき、
 「どうかご無事で。お帰りをお待ちしています」
 於北之方はいつものようにそう言って彼を見送った。その傍らで母の腰に抱きかかるようにしていた清音(きよ ね)は今年で十になるが、
 「父上様、早く帰って来てくださいね」
 と無邪気な表情で付け足すのだった。信綱は優しく笑んで、
 「うむ──」
 あまりに短い、これが夫婦と娘の最後の言葉になってしまうとは──。武田の大軍一万五千に対して、長篠城の守備兵はわずか五〇〇人程度、いったい誰が負けると思っただろう。
 武田の猛攻撃に長篠城はなんとか耐え忍んでいたが、やがて兵糧が尽き、落城必至に追い込まれたのは当然と言えた。すると十四日の夜になって長篠城の奥平信昌は岡崎城の家康へ援軍要請の密使を放つが、実はこの信昌、一度は徳川方から武田方に組したものの、再び徳川方に寝返ったという(いわ)く付きの男である。
 放たれた密使が、武田の厳重な警戒網を突破してたどり着いた岡崎城には、既に信長の援軍三万と、家康の手勢八〇〇〇が用意されており、長篠へ出撃する準備がすっかり整っていたと言う。
 「明日にも援軍を送ろう」
 信長からのこの朗報を聞いた密使は「一刻も早く伝えなければ」と、闇夜の中を取って返す。その途中のことだった。
 「ずいぶん急いでおるな」
 闇の中から現れたのは、傍らに伊与久采女(うねめ)を従えた禰津神平である。武田三ツ者の活躍の場は当時いたるところにある。難なく密使を捕えた禰津神平は、男を勝頼の前へ(ひざまず)かせた。
 「こんな夜中に岡崎方面から何用だ?」
 ところがこの男も腹が座っていた。臆すこともなく、
 「長篠城の使いだ。残念だがじきに織田と徳川の援軍が参る。観念しろ!」
 と、正直に自分の正体を明かしたのだった。その豪胆さに勝頼は「わはは」と声を挙げて感心し、駆け引きを行なうことを思いついた。
 「命は助けてやる。しかし、今すぐお前を城まで連れて行くかわりに、その場で『援軍は来ない。諦めて早く城を明け渡せ』と叫べ。さすればお前が望む所領も与えてやろう」
 と持ちかけた。すると密使は素直に承諾したのだった。
 「神平、手柄じゃのお。幸先(さい さき)がよいわい」
 この様子を近くで見て、禰津の肩を叩いたのは信綱で、一緒にいた伊与久は軽く信綱に目礼した。
 「月直(つき なお)もこたびの戦に参陣しているそうじゃないか」
 月直というのは禰津の嫡子の名である。神平は少し照れくさそうに頭を掻いた。
 ところが──、長篠城の前に引き出された密使が叫んだ言葉は、
 「あと二、三日で数万の援軍が到着する! それまで必ず持ちこたえるのだ!」
 だった。
 驚き逆上した勝頼は、その場で密使を斬首してしまったが、この決死の覚悟の言葉で、落城寸前の長篠城は起死回生の息を吹き返し、ありったけの士気を奮い立たせたのだった。そして援軍が到着するまでの二日間を見事に耐え抜く。
 十八日──、長篠城に到着した信長・家康連合軍は、城の手前設楽原に着陣した。そして三日後の天正三年(一五七五)五月二十一日、織田信長の鉄砲隊は歴史に刻む栄光を残して、それまでの常識を根底から覆したのである。無敵を誇った武田騎馬軍はその鉄砲を前に成す術を知らない。
 赤備えの信綱は右手に青江貞次の太刀を握り、馬場信春や昌輝らとともに総大将部隊の右翼を担い、主力となって前田利家や福島平左衛門尉が守備する織田勢陣営に進み迫まり、連合軍の馬止めの(さく)を次々なぎ倒して奮戦したが、織田鉄砲隊が構える一斉射撃を受けて、敵兵十六人を討ち取ったところで戦場の露と消えた。享年三十九歳だったと伝わる。
 この戦いにおける武田軍の犠牲は一万とも言われ、真田氏の血筋においても当主信綱をはじめ弟の昌輝、生母河原氏の河原宮内助正吉と河原新十郎正忠、さらには幸綱の弟真田隆永の孫にあたる常田図所助永則や、そして滋野一族からは神平の嫡子禰津月直、望月家当主望月信永などが討ち死にした。
 信綱の首は、身に着けていた陣羽織に包まれて、近習の北沢最蔵と白川勘解由の手によって甲斐に持ち帰えられたと言う。その後二人は、主君信綱の後を追って殉死した。
 敗戦の将勝頼は、わずか数百名の手勢に守られながら、命からがら信濃は高遠城にまで後退し、これより後の真田氏の行く末は、信綱の弟真田昌幸に託されることになる。



 「母上様、父上様のお帰りがずいぶんと遅いですね。いったいいつになったら戻られるのですか?」
 年が明けて春、真田屋敷の縁側で、沈みゆく夕陽を眺めながら清音(きよ ね)は母にそう聞いた。
 「そうねぇ……いったいいつになるのでしょうねぇ?」
 「明日? あさって? しあさって?」
 「そうねぇ……」
 於北之方は心ここにあらずの表情で、遠くの方をぼんやり眺めて応えた。
 確か信綱がこの屋敷を出たのは昨年の今頃、それから何の音沙汰もないままいまだ戻らず、長篠での武田の敗戦の噂は聞こえてきたものの、夫の消息は(よう)として知れない。きっと生きているに違いないと信じつつも、過ぎ去っていく月日は女の力で一俵の(たわら)を転がすように重いのだ。
 於北之方は曲輪の隅の方に林立する杉の木を見つけて、ふと思い立ったように清音に言った。
 「そうだ、いいこと考えた! お庭に松を植えましょう!」
 「まつ……?」
 清音は突然なんのことかと首を傾げて母の横顔を見つめた。
 「杉はいつもこの母の前を過ぎていくお父上様に似ているの。そして松は、このお屋敷でいつでもお父上様を待つ母なのじゃ」
 「ふーん……」
 そうして寺の鐘が鳴ったとき、屋敷の大手門から二人の男が入って来るのを認めた。於北之方は、そのうちの一人が昌幸であると知れて目を見開いた。もう一人の方は伊与久采女(うねめ)に違いなく、その女性のような顔つきと華奢な体はなにやら底知れない悲しみを背負っていた。
 「マー坊おじちゃん!」
 清音が嬉しそうに立ちあがり、二人の男の方へ駆けていく。父や母が日頃から昌幸のことをそう呼んでいたのだ。昌幸は清音を抱き上げると、そのまま於北之方の前まで来て膝をついた。そして目に涙を溜めて、手にした風呂敷包みの中から血に染まった陣羽織を取り出したのだった。
 「姉上、兄上様が──」
 「言うな!」
 於北之方は次の言葉を聞くのが怖くて、思わず声を張り上げ差し止めた。
 隣にいた伊与久も一粒の涙を落したまま何も言わない。
 「ねえ、どうしたの?」
 清音が空気の異常を感じてそう聞いた。そして、
 「父上様はどこ?」
 寂しそうな声の中には、少女は少女なりに状況を察したふうの色が混じっていた。
 暫く無言の時が流れ、どこかで啼く鳥のさえずりが聞こえていたが、やがて於北之方は静寂を突き破るようにこう言った。
 「みなで舞いでも舞おうかのう?」
 いまにもあふれ落ちそうな涙は夕焼けの色を映していたが、それを静かに拭き取った彼女は、立ちあがり、縁側の引き戸を全て引き払った。奥は大広間、そこは一瞬にして能舞台のような空間を作った。そして奥の部屋から琴と鼓を持ち出すと、鼓の方を昌幸に渡して、
 「伊与久さん、踊ってくれませんか?」
 と、血染めの陣羽織を彼に着させたのであった。
 黄昏の西の空は東の方から攻めてくる紺に支配されながら、赤や紫や黄色が押しつぶされる苦しみの光を放っていた。そして於北之方は、琴の前に端座して、一本の弦を弾いた。
 彼女の奏でる琴は、永遠の闇の中へと吸い込まれるように、怖ろしいほどの美しい音色を産み、叩くごとに涙が飛び散る昌幸の鼓の鼓動は、明日への命をつないでいるようだった。
 伊与久はその音楽の中で一心不乱に手弱女振(たおやめぶり)舞を踊り始めると、その楽し気な様子に釣られて、清音もまた舞台に躍り出て、思うがままに跳ねたり回ったり手を叩いたりしてケラケラと笑った。
 踊りながら伊与久が清音に聞いた。
 「踊りを習ってみるか?」
 「うん! 習う!」
 空はすっかり闇夜に覆われたが、その宴はいつまでも続いた。

 こののち天正八年(一五八〇)、信綱の正室於北之方は死去したと伝わる。雪の降る冬二月、彼女の植えた松の葉はそれでも青々とした色をたたえる。
 今も真田の御屋敷には、於北之方が植えた一本の松が立っている。杉と一緒に永遠の愛を残して。

 二〇二〇年十一月十一日
(2019・02・18 真田御屋敷公園より拾集)
 
> 南天の血
南天の血
 
> 葛之葉(くず の は)
葛之葉(くず の は)
 
> ブル()サマ
ブル()サマ
 
> 文禄(ぶん ろく)渦潮(うず しお)
文禄(ぶん ろく)渦潮(うず しお)
 
> 羅刹(ら せつ)と天女
羅刹(ら せつ)と天女
 
> 会津若松あねちゃ隊
会津若松あねちゃ隊
城郭拾集物語L 陸奥国(福島)鶴ヶ城(若松城)
鶴ヶ城
北出丸
鉄門

歴史・時代小説 検索エンジン


 赤瓦葺(かわら ぶき)の天守の屋根が美しく映える鶴ヶ城に筆者は立った。
 かつての戊辰戦争の中でも特に激しい戦争だったと伝わる会津戦争≠フ舞台である。
 そこは城下町の南端に位置し、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置された梯郭式(ていかくしき)の平山城──そのはじまりは南北朝時代にまで(さかのぼ)ると言う。なお正式名称は『鶴ヶ城』でなく『若松城』であると現地のボランティアガイドさんから教わった。
 古くは黒川城(くろ かわ じょう)または小高木城とも呼ばれ、戦国時代に入ると伊達政宗が入城したこともあるが、豊臣秀吉が政権を握ってからは蒲生氏郷(がも う うじ さと)の居城となった。
 城下町を整備した氏郷は、町の名前を黒川から『若松』へと改め、一五九三年(文禄二年)には何段にも重なる望楼型(ぼう ろう がた)の天守閣を建設した。名を『鶴ヶ城』としたのはこのときである。
 その後、氏郷の子秀行が下野国宇都宮に移封となり、越後国より上杉景勝(うえすぎかげかつ)が一二〇万石で入封した。ところが関ヶ原の戦いで西軍に加担した(とが)を受け、三十万石に減封された景勝は出羽国米沢へと移って行く。
 ここで再び蒲生氏が入城するも継嗣(けい し)問題で伊予国松山へ移封されると、続いて伊予松山より加藤嘉明が入ったが、一六四三年(寛永二〇)に改易されると、出羽国山形より三代将軍徳川家光の庶弟保科正之が入封して、保科氏は松平へと改名する──これが明治維新まで続く会津松平家である。
 話は変わるが二〇二二年二月──。
 ロシアによるウクライナへの軍事行動が突然報道された。
 寝耳に水のニュースに、日本ばかりでなく世界中がその動向に関心を寄せ、非難し、あるいは激怒し、関係のない市民を巻き込む現実に哀れみを抱き、嘆息し、これまで培ってきた人類の叡智(えい ち)をもって食い止めようとはしているが、事態はキューバ危機∴ネ来の核兵器の不安に飲み込まれている。
 一九九〇年には湾岸戦争もあったが、第二次世界大戦後、三度目の世界大戦はけっして起こしてはならないと固く決意した日本国の住人は、まさか二十一世紀に入って尚このような馬鹿げた事態が起こったことに驚愕し、言葉を失った者も多いのではなかろうか?
 これをロシアは『正当防衛』と主張する。
 NATO(北大西洋条約機構)加盟を目指すウクライナに対し、ウクライナ東部の住民が(おびや)かされているからロシアはこれを守ると言うのだ。NATOは欧州、北米の三十カ国が加盟する軍事同盟である。
 地理的にロシアとヨーロッパとに挟まれているウクライナは旧ソ連時代からの兄弟国でもあるが、このウクライナの姿勢に時の大統領は我慢ならない。欧米寄りのウクライナを排除し、ロシアに従わせようとする狙いがあるらしい。
 ところがウクライナ側の激しい抵抗と、国際社会の強い反発によりロシアは経済制裁を受け大打撃を(こうむ)り世界から孤立した。もっとも一九一七年にウクライナ人民共和国が成立してより、この二国間には今日に至るまで複雑な経緯もあるが、何より悲しいことは、この戦争に巻き込まれた市民たちの嘆きと悲劇が厳然と存在していることであろう。
 敵が攻めて来れば、母国を守るために武装し、武器を持って応戦するより仕方ない。
 万人が、あの非暴力を貫いたガンジーになれる日は、いったいいつになるのだろうか? おそらく今の地球人の機根(き こん)では不可能だろう。
 さらに驚くべきことは、ウクライナ軍に参戦する市民の中には女性もいることである。しかも三万人もいるという報道もある。中には銃を持って戦う者さえいると言う。
 祖国愛もあるだろう──
 自己防衛本能もあるだろう──
 理不尽(り ふじ ん)さを許せない感情もあるだろう──
 しかし、いくらジェンダーが世界で叫ばれているとはいえ、人類の生命を育む地球上にかけがえのない女性が、つまらない為政者が巻き起こす戦闘で命を落すことがあってはならないのだ! それが例え志願によるものであってもだ。
 もはや戦争は人類には防ぐことのできない宿業(しゅく ごう)なのだろうか?
 いくたびの戦争を経験したに関わらず、過去の教訓に学べない人類とはどこまで愚かな生き物か?
 思えば、幕末の日本においても戦争に巻き込まれたあまたの庶民がいた。
 その最たる事件が会津戦争であったとも言える。
 京都・大坂から進軍する新政府軍は、江戸を無血開城するとそのまま東上し、激しく抵抗する会津藩と衝突した。
 その激動に呑み込まれ、命を落した特に女性の戦いを知る時、涙がとめどなくこぼれてくるのである。
 新島八重の奮闘も有名だが、今回は、その会津において命を賭して、否、命を捨てて自分の国を護ろうとした『会津婦女薙刀(なぎなた)隊』に焦点を当てようと思う。──なおこの小説では、会津弁や東北地方で『婦女』を敬称で『あねちゃ』とも言うことから『会津若松あねちゃ隊』と記すことにした。



 文久三年(一八六三)、徳川幕府から京都守護職を命じられた会津藩主松平容保(かたもり)がこの年の一月に参内し、著しく治安が悪化する京都の警備を厳しくしたころ、竹子は大坂にいた。
 この年、それまで鎖国政策を()いていた日本に諸外国の船が次々と来航し、開国か攘夷(じょう い)かをめぐって朝廷に相談を仰ぐため、徳川家光以来、実に二二九年振りとなる将軍上洛(じょう らく)という異例の事態に陥っていた。更には天皇の攘夷命令に従い、外国を相手に長州藩と薩摩藩が戦争を引き起こし、八月十八日には公武合体を目指すゴタゴタの中で長州藩が京都から一掃される大事件が勃発した。いわゆる後に幕末と言われる大混乱の様相を呈し始めたのである。
 松平容保(かたもり)に随従して京都にやってきた会津藩士は数知らず、その中には後の『会津若松あねちゃ隊』の一人に数えられる菊子の義兄依田源治という男もいた。
 日に日に悪化する京都の不穏な動きに大きな不安を抱きながら、大坂に住む竹子は自分の属する会津藩のことをずっと考えている──。
 もともと彼女は江戸常詰(じょう づめ)の会津藩士中野平内の長女で、嘉永三年(一八五〇)三月、江戸和田倉の会津藩邸で生を得た。母は下野国(しもつけのくに)足利(あしかが)の領主戸田七之助忠行(と だ しち の すけ ただ ゆき)の家臣生沼喜内(いく ぬま き ない)の娘で名を孝子(こう こ)と言う後の『会津若松あねちゃ隊』を束ねることになる気丈な女性である。
 江戸で過ごす竹子が七、八歳のとき、ペリーが浦賀に来航した。このとき江戸の町が大騒ぎになったのを肌で感じた竹子は、以来、子どもながらに日本の先行きに不安を覚え、小さな身体を震わせていた。
 しかし、そんなことなど歯牙(し が)にもかけていない様子の母孝子(こう こ)の姿を見て、
 「母様、わたし、剣術を習いたい」
 と言った。ごく単純に「強くならなければいけない!」と思ったのだ。
 母の孝子は武家の娘として幼少の頃より武道を身に付けており、薙刀(なぎなた)を持たせたら師範も驚くほどの腕前だった。会津藩士の嫁に来てからは、そのお家の家風に忠実に従いながら女の分別というものもよく弁えていた。娘のその言葉を聞いたとき、
 「よき心掛けです」
 言葉少なに、会津藩士で江戸に道場を開いていた赤岡忠良(あかおかただよし)の門に通わせ、剣術や書道を習わせることにしたのであった。
 このころ竹子には一、二歳になる優子という名の妹がいた。
 その妹の子守りも愚痴ひとつこぼさない竹子は男勝りで、お正月でなくても妹の手を引いて、よく江戸城のお堀端(ほり ばた)に行っては(たこ)揚げに興じたものだった。そして空に浮かぶ凧を不思議そうに見つめる優子に向かって、
 「凧はね、上空のものすごく強い風を全身で受けながら空を飛ぶの。風が弱ければ飛ばないし、人も同じよ、強くなるには強い風を受けないと偉くなれないわ!」
 もっともこれは母の受け売りだが、「ふ〜ん……」とあっけらかんに頷く優子に、
 「でもね、いま優子が指先でつかんでいるこの細い糸が切れたら、どこか遠くへ吹き飛ばされて、誰も知らない所に落ちてしまうのよ。この糸はなんだかわかる?」
 と謎かけをする。これは受け売りでなく竹子の持論で、
 「なあに?」と聞かれると嬉しそうに、
 「気持ちヨ! 人の心──」
 と自慢げに答えた。
 「じゃあ、切れないようにしないとね!」
 優子の言葉など聞こえない様子で、いつまでも青い空を泳ぐ凧の軌跡を目で追っていた。
 母に似て、妹思いの竹子は人も羨む美しい乙女へと成長していく。
 容姿もさることながら男勝りだが器量よし、武芸の方も人並はずれ、読み書きもよく出来きた上に和歌にも達していたので、藩中はもちろん他藩へもその名の聞えた評判の乙女になった。だから、師の赤岡忠良も彼女をたいへん気に入って、彼が御蔵奉行(お くら ぶ ぎょう)として大坂への赴任が決ったとき、
 「竹子さんを一緒に大坂へ連れて行きたい。ぜひにも私の養女にくださいませんか?」
 と懇願した。
 もとより道場を開き信望も篤く、母の孝子も恩義のあった赤岡だから、その熱い情熱に父平内も承諾し、以来竹子は師と一緒に大坂に移り住んで、剣術の腕を磨いていたというわけである。
 ところが著しく変動する世の中にあって、このまま(とつ)いでつつがなく生きることが何か途方もなくいけないことのように思え、特に会津のお殿様が病身でありながら京都市中の暴徒の警戒を行っていると聞いた時には、なんだか申し訳ない気持ちで一杯になった。このころの京都では、五百人もの過激な攘夷派(じょう い は)浪士が夜闇に紛れて暗躍し、一日に何人も暗殺しているといった恐ろしい噂が連日のように聞こえてきたのである。
 そのうちに生麦事件や英国公使館焼き討ち事件などの風聞が関東の方から流れてきて、七月に入る頃、
 「松平容保が天皇の(めい)で江戸へ下る」
 と聞いた時には矢も楯もたまらなくなった。
 「私も江戸へ参り、会津のお殿様のお近くでお守りしとう存じます」
 竹子は赤岡に心の内を伝えた。
 「いずれわしの(おい)の嫁にと思っていたが、すでにお前はわしの持つ全てを吸収したようだ……。もう決めたのかい──?」
 「はい……申し訳ございません……」
 口惜しく思いながらも会津藩のためというその心を赤岡も深く理解していた。
 こうして竹子は、生まれた中野家に復籍し、江戸に戻ってその後は、備中松山藩主板倉勝静の姫君(勝静には女子がないので、あるいは上野国安中藩主板倉勝殷(かつまさ)か? 花子・種子の二女がいる)の祐筆(ゆうひつ)として奥勤めをすることになったのだった。
 皮肉なのは、松平容保の江戸行きは単なる噂で、会津藩を京都から遠ざけるための過激派による画策であったことは後で知った。



 松平容保(かたもり)義姉(ぎし)照姫(てるひめ)がいる。
 彼女は上総国(かずさのくに)飯野藩(いい の はん)(しゅ)保科正丕(ほ しな まさ もと)の三女で、天保十四年(一八四三)十歳のとき、当時跡継ぎのなかった会津藩第八代藩主松平容敬(かたたか)の養女となり、いずれ婿(むこ)を迎えて会津藩を継ぐはずだった。ところが同年、容敬(かたたか)が側室との間に敏姫をもうけたために、その婿養子として迎えられたのが美濃国高須藩主松平義建(よしたつ)の六男(庶子)容保(かたもり)である。このとき照姫は、会津藩でのその使命を終えたように見えた。
 元来容姿端麗(よう し たん れい)な照姫は、礼法にはじまり書や茶道に通じ、特に和歌が巧みで二歳年下の容保(かたもり)もその手ほどきを受けていたが、敏姫が成人して容保と夫婦(めおと)になると、嘉永三年(一八五〇)、豊前中津藩主奥平昌服(おく だいら まさ もと)に嫁いだ。
 奥平家は徳川譜代の名門だが、黒船が来航すると昌服(まさ もと)は開国論者となって、
 「外国との通信交易は当然であり時代遅れの鎖国は廃止すべし」
 とした明確な論を持つようになる。これが原因かは不明だが、当時藩政の実権を握っていた祖父昌高とはそりがあわず激しく対立するのだった。
 そんな家中の重い空気に耐えかねたか、あるいは昌高に追い出されるような形になったか、それとも昌服(まさ もと)が彼女を気遣ったためか、いずれにせよ結婚してよりわずか四年後の安政元年(一八五四)、照姫は離縁して江戸の会津藩邸に戻る。二十三歳のときである。この間、養父松平容敬が死去し、会津藩は照姫の義弟容保(かたもり)が藩主となっていた。
 余談だが、この後昌服(まさ もと)は長州征討にも加わる佐幕派だったが、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、新政府軍に味方して会津へ出兵することになる。歴史とはなんとも皮肉である。
 照姫が会津に戻って七年目のことだった。
 容保(かたもり)の正室敏姫が十九歳の若さで他界した。もとより病弱だったとは言われるが、この後会津藩の奥向きは、家中で最も身分の高い女性として照姫が取り仕切ることになる。
 生麦事件が起こると、その賠償問題をめぐってイギリス艦隊は江戸へ砲口を向けて幕府を威嚇した。西洋兵器の脅威に恐れおののく江戸市中の民は一時騒然とするが、
 「照姫様、会津へ避難いたしましょう!」
 と、照姫が初めて会津入りしたのはこの時である。もっとも彼女自身はあまり気乗りしなかったようだが、迎え入れた会津の喜びようといったら欣喜雀躍(きん き じゃく やく)歓天喜地(かん てん き ち)、特に女衆の歓び様といったら、
 「弁財天とも見紛(み まご)うようなお美しい御姿……」
 「お美しいばかりでなく、その動作の勇壮なるは男子も及ばない」
 「どうぞこの会津にてごゆるりとお過ごしくださいませ」
 「不肖ながら、この先なにがあろうと身を(てい)してお守り申し上げます!」
 と、お祭り騒ぎの賑わい。その上、会津の女性というのは信に厚く義に従順、そのうえ情に深いときているから照姫も無下にできない。
 会津藩の『(じゅう)(おきて)』の一つに「戸外で婦人と言葉を交わしてはならない」、また家訓(か きん)十五ケ条においては「婦女の言は一切聞かないこと」という儒学の教えを色濃く映す訓があるが、これは特に士分男子に求められたもので、婦女においてはそれを暗に受け入れつつ、陰で男子を支えるような気風を備えてきたのである。
 照姫は純朴な彼女たちを信頼し、やがて江戸へと帰っていった。
 容保(かたもり)が京都守護職として京都にいる際、孝明天皇に贈られた純緋(じゅん ひ)の布で仕立てた陣羽織を着、その姿を写真に撮って江戸の照姫に送ったという話がある。敏姫亡き後の容保は、密かに彼女に思いを寄せていたとも伝えるものもあるが、結局彼は継室を設けることはなく、二人の婚姻は実現していない。
 そのような背景を形作って、幕末の動乱はやがてクライマックスへと突入する。



 慶応四年(一八六八)一月三日の日没頃、京都の鳥羽街道で鳴り響いた銃声を合図に、幕府と新政府による激しい戦闘が開始された。『鳥羽・伏見の戦い』である。
 この戦いに敗れた大坂城にいた将軍徳川慶喜は、敵前逃亡を図って江戸に逃れた。このとき松平容保(かたもり)も行動を共にするが、これは幕府のためなら命を賭して戦うだろう会津藩士から容保(かたもり)を引き離すための策とも言われ、
 「会津兵と共に戦う!」
 と言った容保(かたもり)に、
 「命令だ、従え!」
 と慶喜は言った。
 ところが江戸城に入った慶喜は、抗戦姿勢を恭順へと掌を翻し、江戸城開城への道筋を作ってしまった。二月に入って容保(かたもり)は、大坂逃亡の責任を負って藩主を辞任し、養子の喜徳(慶喜の実弟)に家督を譲ると会津藩の藩兵全てを和田倉藩邸に集めてこう言った。
 「鳥羽伏見での奮戦、誠にご苦労であった! しかし、公方(く ぼう)様の御命令とはいえ、皆を置いて大坂城を出てしまったこと、恥じ入るばかりで顔向けもできぬ、このとおり!」
 頭を深々と垂れる容保(かたもり)に、会津藩兵一同むせび泣いた。
 「殿! (おもて)をお挙げ下さい!」
 あちこちからそんな声が飛び交うと、やがて目に涙をためた容保(かたもり)は頭を挙げた。そして一同の(かんばせ)を見渡したと思うと、
 「かくなる上は、会津一丸となってこの屈辱を果たさんと思う!」
 そう豪語したのである。
 普段はいかに切迫していようとも、けっして喜怒の感情を表に出さない彼の言葉は、その場にいた男たちの闘志を燃え(たぎ)らせた。そればかりでない。細面で貴公子のようなその風貌は、京都の宮中に参内した時など女官たちをそわそわさせた程だったので、会津の婦女たちの同情も怒髪が天を突いたのである。このとき会津藩は火の玉となった。
 この翌日、新政府に服さない会津藩と桑名藩を朝敵とする勅命が下り、容保は慶喜から江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡される。堅い決意を胸に閉じ込めた容保(かたもり)は、江戸を発って会津へと向かった。
 これに合わせて江戸詰めの藩士や婦女子たちも、そのほとんどが江戸を後にするが、当然その中には竹子とその家族、つまり父中野平内と母孝子、そして妹の優子の顔もあった。



 戦争はもはや避けられない状況である。
 五月に入って東北の諸藩からなる『奥羽越列藩同盟』を成立させたものの、新政府軍は次第に会津に迫りくる。
 このころ竹子の中野家は長い江戸詰めで屋敷がなく、親戚の好意で借り受けた鶴ヶ城西側、藩校『日新館』に隣接する田母神金吾という男の屋敷の書院に住んでいた。そして、竹子の師である赤岡忠良もまた、江戸から帰って若松から西へ三里ばかりの坂下(ばん げ)という地籍で道場を開き、日に日に高まる危機感の高揚から集まる何十人もの門弟に剣術や薙刀の指南を始めていた。竹子も連日妹の優子を引き連れそこへ行き、剣術稽古に明け暮れていたのである。
 優子はこのとき鬼もほころぶ十六の乙女。中野家の家系は母もそうだったが姉妹そろって噂になるほどの美人なのだ。手入れの怠らない大切な長い黒髪で結われた島田髷(しま だ まげ)が自慢の優子の美しさにほだされて、男子の握る甲高い木剣の音が夜遅くまで響いた。会津でなくとも士分男子は、否、士分でなくとも、可愛い女子が近くにいるだけで命をも平気で捨てる単純な生き物なのだ。
 破竹の勢いと言ったらこのときの新政府軍がそうだった──兵の数から言っても会津藩に勝つ見込みなど微塵もない。けれど会津藩士を支えていたのは、主君に対する忠義と、士族としての誇りと、理不尽に対する怒りと、そして郷土への深い愛着だった。
 「ならぬものはならぬ!」
 との家訓は平時はいざ知らず、有事の時はもはや狂気と化すものか。人はこの境地に至ると、己の命など惜しくもないと見ゆる。
 会津軍はまず白河口をおさえようと西郷頼母(さい ごう たの も)を総督として兵を送った。
 白河藩領は当時幕府直轄領だったので難なく白河城を占拠するが、これに対して新政府軍が攻撃を開始して、五月一日にはあっというまに城を陥落させた。会津軍はこれを奪回しようと試みるも、七月、ついに兵を引くよりなくなる。
 次に戦いの舞台となったのは二本松だった。
 六月二十四日、会津兵の大半が白河口に出向いている隙を突かれ棚倉城が落城すると、次いで七月十六日には二本松城が攻撃された。城は耐え切れず落城し、頼みの二本松藩主丹羽長国(たん ば なが くに)は米沢へと逃れた。
 勢いに乗る新政府軍の矛先は鶴ヶ城に向けられるが、このときその攻撃目標が二つに割れたと言う。会津攻撃を主張する板垣退助と伊地知正治(い じ ち まさ はる)に対し、大村益次郎は仙台、米沢への攻撃を主張した。結局、軍議の結果、前者が採用されるが、この選択がもう一方であったら歴史はまた違うものになっていただろう。
 二本松から鶴ヶ城までのルートは幾つかあるが、新政府軍は手薄な脇街道を使う母成峠(ぼ なり とうげ)を通る道を選んだ。そして母成峠の戦いで勝利した政府軍は、そこから四十キロメートル余りを急進し、来たる八月二十二日という日を迎える。
 この日、容保自らが滝沢本陣にて宿陣すると、戸ノ口原の守備を固めるため『白虎隊(びゃっ こ たい)』士中二番隊を出陣させた。他の部隊はみんな周辺の戦地へ出払って、城下にはもうまだ年端のいかない若い青少年兵しか残っていなかったのだ。
 竹子が田母神金吾邸の書院に帰宅したのは八月二十三日の未明だった。
 実は昨日は、刻一刻と迫り来る恐怖と戦いながら、「もう帰ろうよ」と急かす優子の言葉も聞こえない様子で剣を振り下ろして気を紛らわせていたのだ。そうしているうち日も落ちて、赤岡が出してくれた夕餉を食べ終えたあとは、うたたねの優子の背中を優しく叩くうち、すっかり夜も明けようとする刻限まで寝過ごしてしまったというわけだった。
 この日、鶴ヶ城の北東、猪苗代湖(い なわ しろ こ)に注ぎ込む日橋川を渡す十六橋の防備が破れ(戸ノ口原の戦い)、新政府軍は城下へと侵入してきた。
 入城を知らせる割場(わり ば)(北出丸西側の広場)の鐘がけたたましく鳴り響いた時、母の孝子(こう こ)は見たことのない厳しい目付きで、
 「お城へ行くわよ! 髪を切りなさい!」
 と竹子と優子に告げた。そして自身の髪の毛をバッサリ断ち落とすと、大急ぎで定紋(じょう もん)のついた鼠色(ねずみ いろ)(まさ)った黒い(あわせ)に大口の(はかま)を身に着け、柳腰に帯刀し、白羽二重(しろ は ぶた え)鉢巻(はち まき)に、(たすき)を十文字に(あや)なして──その早さといったら電光石火。そして薙刀(なぎ なた)を小脇に(たずさ)えると、まだ準備の整わない優子を見て、
 「急ぎなさい!」
 と叱った。
 「えっ? 髪を切るの……?」
 と優子が言う。ずっと切らずに伸ばしてきた黒髪は、彼女にとっては命と同じくらい大切な宝物なのだ。
 「やだよ……」
 「優子、言う通りになさい」
 竹子は自分の髪を無造作に切り落としてから優子になだめ聞かせていたが、孝子(こう こ)は苛立ちのあまり声を張り上げた。
 「早くなさい!! なにモタモタしてるの!」
 尋常でない母の叱咤に優子はわんと泣き出した。
 「切るよ……?」
 竹子は優子の返事も聞かないまま彼女の髪を切り落とし、家に仕える中間(ちゅう げん)にその三人の髪を庭先に埋めるよう託すと、孝子を先頭に田母神(た も がみ)邸を飛び出した。
 この時には既にあちこちで銃声や砲声が轟き渡り、城の南西にある十八蔵が炎上するのが見え、(さむらい)屋敷にも火の手が広がりつつある中、三人は間もなく西出丸の濠端(ほり ばた)まで辿りついた。
 「照姫様はいかがされていますか? 御無事でしょうね?」
 会津藩士が容保(かたもり)を守護するのが使命なら、会津の婦女はその義姉である照姫を護るのが使命と言えた。孝子が近くにいた男にその安否を問うと、
 「姫様は早くから坂下(ばん げ)に立ち退かれたご様子だ」
 と、会津家訓(か きん)十五ケ条「婦女の言は一切聞かないこと」に忠実なその男はぶっきらぼうに答えた。
 「なんですって!」
 驚いた孝子は続けて戦況を問うた。
 「敵は既に北追手門に押し寄せ、いま必死で防戦しているが危険に(ひん)しておる」
 と言う。いま盛んに鳴り響く銃声は、その攻防戦によるものかも知れなかった。
 「母様、早くお城へ入りましょう!」
 竹子は一刻も早く入城して応戦しようと考えたが、そのとき西出丸の追手門は早くも閉ざされてしまっており、やむなく三人は引き返して河原町口の郭門から坂下(ばん げ)に向かおうと走り出した。
 このとき、三人と同じように城内に入れなかった義理の姉妹がいた。
 その出で立ちは竹子らと同じく頭髪は斬髪(ざんぎり)に鉢巻を巻いた男姿、白羽二重の(たすき)(そで)をからげ、細い兵児帯(へ こ おび)(そで)をくくった義経袴(よし つね ばかま)脚絆(きゃ はん)草履(ぞう り)(ひも)()め、大小の刀を手挟(た ばさ)薙刀(なぎ なた)を持った二人の名をまき子と菊子と言った。
 浅黄がかった絲織(し おり)の着物を着た姉のまき子の方は三十路(みそじ)も半ば、竪縞(たて じま)の入った小豆色(あずきいろ)縮緬(ちり めん)を着た義妹(ぎ まい)の菊子は二十二歳の竹子と同い年である。先の伏見の戦いで命を落した依田源治は、まき子の夫であり菊子の義兄だった。だから新政府軍への恨みも人一倍深く、仇討ちの機会を伺いながら、藩中で薙刀の名人と謳われる門奈夫人(もん な ふ じん)に教えを乞うて竹子同様その腕を磨いていた。
 「お菊のあねちゃだ!」
 優子の言葉が二人を迎えた。彼女たちはこの日に備えて鍛錬を積んでいた武芸の友なのだ。
 菊子は江戸風の青みがかったお洒落(しゃ れ)縮緬(ちり めん)を着た田舎ではとんと見かけない風流な風貌の竹子を羨ましそうに、やがて自分と同じ斬髪(ざんぎり)頭を見て、
 「男勝りの竹子にはその方がお似合いですわ」
 と笑った。
 「菊子だってなかなかのものよ!」
 言い返した竹子の脇では先ほど無理やり切られた髪のことを思い出した優子がグスンと泣き出した。十六とはいえ中身はまだ子どもなのだ。
 「この子ったら、さっきまで髪を切られて大泣きしてたのよ」
 「あら、そうなの?」と言った菊子は「髪なんてすぐに伸びるわよ」と言って優子をなだめた。
 二人は、城の割場の鐘を聞いたので慌てて入城の仕度にかかったのだと言う。このとき(よわい)六十歳の気丈な母八重子もまた老体に(むち)打ち、
 「かねての覚悟なり!」
 と言って出陣の支度を始めたが、二人はこれをようやく説き伏せ、女中に頼んで農家に避難させてから大急ぎで家を出たのだと言った。そのとき既に滝沢坂の守備が破れ、鉄砲玉も飛んで来て、たちまち火の手があがって城の際にあった彼女たちの家にも飛び火した。二人が城門に辿り着いた時には既に(とざ)されて城に入ることもできず、また同志の人達を訪う暇もなく、弾丸の中を潜ってあてもなく西へと走っていたところだと言った。
 実はまき子の方は、伏見の戦いが起こるまでは夫に連れ添って京都に住んでいた。ところが味方の敗戦によって夫の生死も不明のまま会津に送り返され、まき子が孝子に語るには、
 「片側は槍先(やり さき)、片側は鉄砲の筒先(つつ さき)を斜めに向けた兵がズッと並んで、身体がわずかに通れるくらいのその隙間を通って会津に戻って来たのです。夫の死を知ったのはそれから少し後のことでした……」
 と、(きも)の座ったまき子と孝子は、鉄砲の音が鳴り響く中、道端で出会った婦人の世間話でもするように、生きた心地のしなかったその時の体験を話すのだった。
 「母様、立ち話はあとで、早く参りましょう」
 竹子が急かしたところに来たのは岡村すま子だった。世の中の酸いも甘いも知る三十路(み そ じ)の女性であり、仲間と鉢合わせできたほっとした顔をして、ふと優子の斬髪(ざんぎり)頭を見て、
 「あらやだ優子ちゃん、どうしたのその頭? きれいなお顔が台無し」
 と言って頭を撫でた。
 「すま子様、それは言わないであげて」
 と、また泣きそうな優子を竹子はかばった。彼女の大切な髪を切った張本人として、ずっと申し訳ない気持ちでいるのだ。
 すま子もまた鼠がかった着物を着、
 「照の姫様はすでに坂下(ばん げ)に立ち退かれたそうです」
 と慌ただしげに言った。
 「私たちもそれを聞いて向かおうとしていたのです。立ち話は後にして、早く参りましょう」
 婦人の立ち話ほど無駄なものはない。竹子の言葉で六人は小走りに走り出した。
 ほどなくすると、
 「あ、お雪のあねちゃ……」
 と、優子が指さす先にいたのは二十三歳の若奥様神保雪子だった。
 もともと彼女は七〇〇石取りの会津藩軍学者井上丘隅(いのうえおかずみ)の次女で、このとき軍事奉行添役を勤めた神保修理長輝(じん ぼ しゅ り なが てる)の妻となっていた。勤めた≠ニここで過去形を使ったのには理由がある。
 夫の神保長輝は家禄千石の会津藩家老神保内蔵助(くらのすけ)利孝(としたか)の長子として天保五年(一八三四)に生まれ、幼少の頃は藩校『日新館』で学び、周囲から秀才と謳われた逸材だった。やがて軍事奉行添役となって雪子と結婚し、容保(かたもり)に随行して京都へも行くが、世界の中に置かれた日本の現状を知るにつけ、
 「異国の情勢にもっと目を向け、日本は国内の小事より国をひとつにして諸外国に対抗すべきだ」
 という持論で藩内でも大きな影響力を持った。鳥羽・伏見の戦いの直前、高まる主戦論に対して、
 「戦うべきでない! 恭順(きょう じゅん)すべきだ!」
 と真っ先に進言したのは彼である。このとき慶喜に「江戸に帰って善後策を練るべき」と強く説いたことにより、会津藩内の主戦派と激しく対立することになったのである。
 彼の進言もむなしく鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、長輝は軍事奉行添役として出陣したものの幕府軍は崩壊、
 「公方様と容保(かたもり)様が戦線を離脱したのは、お主が恭順を進言したことにはじまる!」
 と、会津藩内で長輝を非難する風潮が一気に高まった。ついには敗戦を招いた張本人≠ニいう烙印(らくいん)まで押され、悲しいかな江戸の会津藩和田倉上屋敷に幽閉される。
 彼の悲劇はそこで終わらない。長輝を処断すべしとする有志らにより、容保との謁見も弁明も許されないまま切腹を命じられる。それが藩主容保(かたもり)の下した沙汰でないと知りながら、
 「これに従うのが(まこと)(しん)である」
 と言って、故郷の母や妻のことを思いつつ潔く自刃して果てたのであった。
 そんな訳で雪子は集まったこの中でも微妙な立ち位置にあった。
 それはともあれ集まり来る婦女たちを見る度、優子が「あねちゃ、あねちゃ」と言うものだから、
 「さしずめあねちゃ隊≠ヒ」
 と竹子が笑い、ここに『会津若松あねちゃ隊』が結成したのである。
 この時、追手門の方から騎馬に乗った藩士が、
 「敵は滝沢街道から甲賀町口に押し寄せている! 一之丁(いち の ちょう)を西へ逃げよ!」
 と叫びながら近づいて来た。
 「早く照姫様の許へ駈けつけ、御身をお守り申し上げましょう!」
 最年長の孝子(こう こ)はおのずと『あねちゃ隊』の隊長である。こうして俄かに結成された『会津若松あねちゃ隊』の七名は、河原町口の郭門を出て坂下(ばん げ)へと向かう。
 この日、各所で苦戦を強いられ飯盛山に逃れた武家の少年男子で結成された『白虎隊』は、城下に燃え上がる炎を見て、
 「城に戻って敵に捕まるは武士の恥」
 と覚悟を決めて、全員自刃の道を選択した悲劇は後世までの語り草になった。また、西郷頼母の屋敷では篭城戦の足手まといになるのを苦にした母や妻子など一族二十一名が自刃し、そのほか婦女子の自刃は一三九名にものぼったという。
 わずか一日で鶴ヶ城は完全に包囲され、城内には士族、平民問わず、また老若男女を問わない三万ないし四万人もの人が籠城し、一〇〇門ばかりの大砲と限られた数の銃で応戦するしかなかったのである。



 坂下(ばん げ)は鶴ヶ城から西へ三里ばかりのところにある。
 北東へ流れる阿賀川(あ が がわ)と西側を流れる只見川(ただ み がわ)に挟まれた盆地で、会津と上野国(こうずけのくに)沼田を結ぶ沼田街道が通っていたり、越後から阿賀川を使って運ばれる海産物の荷揚げ場があったり、奥会津の銀山から掘り出される銀の集積地があったりで、毎月十四日には(いち)が立つ古くからの交通の要所として栄えた。
 照姫の許へ駆け付けようと城下を出たあねちゃ隊が坂下(ばん げ)に到着したのは陽も傾きかけた頃で、果たして代官所に辿り着いて姫の所在を聞いてみれば、
 「照姫様……? そんなお方がこんな場所に来るはずがないではないか」
 と、何の間違いか照姫はそこにはいない。仕方なくその夜は坂下の法界寺で一夜を過ごすことにしたのである。
 法堂内に使いかけの行灯(あん どん)に灯を点し、明かりを取り囲んで板の間に腰を下ろした彼女たちは、「明日はどうしようか?」と話し合った。会津藩の習いでは、およそ女子たる者が戦いに参加するなど許しておらず、「このまま戦陣に加わっても足手まといになるだけではないか?」とすま子は言った。そして、
 「もともと照の姫様のところに来ようとしたわけだから、戦陣に加わるのは筋違いでは?」
 と続けた。
 「でもお城に入れないのだから戦うしかないんじゃないかしら?」
 竹子は戦闘やむなしの考えである。
 「戦うって言ったって鉄砲や大砲を相手にどう戦うの?」
 すま子はどうにかして入城する手を探っている。
 「ならばすま子様は、会津がやられるのを指を加えて見てろと言うの?」
 夫を伏見の戦いで亡くした義姉まき子の深い悲しみを知る菊子は、すま子の言葉が不満だった。
 「そんな事を言ってるんじゃないの。お城に入れば婦女には婦女のやるべき役割があると思うの」
 「ではすま子様だけお城に入ればいいんだわ! これまで豆を潰して血で染まった手で、それでも薙刀の技を鍛えたのは何のため? 体力をつけようと日の暮れた暗い城下を、足を血だらけにしていくつもの草履を潰したのは何のため? 私なんか月のものも止まってしまったんだから!」
 「菊子、落ちついて……」
 苛立ちを隠せない菊子の肩を竹子が優しく叩いた。その隣ではすっかり疲れ切った優子がコクリ、コクリと、そのうち静かな寝息をたてはじめた。
 「ここで話していても(らち)があかないわ……」
 そう言ったすま子は、年嵩(としかさ)孝子(こう こ)に結論を出してもらおうと視線を送った。
 「明日は高瀬村に()られる萱野(かや の)様(家老)の所へ行って、前線に加えて欲しいとお願いしてみましょう。きっと萱野(かや の)様もお城に入ろうとしているはず。兵は一人でも多い方がいいに決っているわ。私たちの思いを伝えれば、ひょっとしたらその戦陣に加えていただけるやも知れません。今宵は明日に備えてもう寝ましょう」
 その話し合いの間、神保雪子は何も言わずに虚ろな目を向けていただけだった──。
 夜も更け、草木も寝静まった真夜中である。夏の蚊帳もない法堂は飛ぶ蚊の音も気になって、夜風が吹き込むこともないからじわりと汗がにじみ出て寝苦しい。床に直接寝ころんだ身体は痛く、それでもたまに寝返りをうてば床の冷たさが気持ちよい。
 ──ふと、
 菊子は背中から聞こえるひそひそ話で目が覚めた。なにやら竹子と母の孝子が深刻な相談をしているようで、菊子はそっと耳をそばだてたのである。
 「優子を一緒に連れていくのはいかがなものでしょう?」
 竹子のささやく言葉に、孝子は「そうね……」と寂しげな相槌(あい づち)を打った。
 このとき菊子はすぐにピンときた。
 ──もともと中野家のこの三人は、三人とも世に(すぐ)れて美しい女性なのである。特に十六歳の優子は、若いうえに一層美しい(まれ)な顔立ちをしていたので、
 「もし敵に捕えられて(なぐさ)(もの)にでもされたら恥辱(ぢ じょく)だ」
 と竹子は言うのだ。ならば──、
 「いっそ今夜のうちに優子を殺してしまおう──」
 そういう相談なのである。
 何も知らない優子は、竹子の膝の許で小さな寝息をたてたままである。
 驚いた菊子は飛び起きた。しかしそれより早く、
 「なりません!」
 と身体を起こしたのは義姉のまき子の方だった。
 「恐ろしい事を考えるものではありませんよ! 身内の死がいかに悲しいものか。血のつながらない夫の死でさえこれほど辛いものなのです! 今にこの戦争が終わって御覧なさい。必ずあのとき……≠ニ後悔するに決っています!」
 「しかし!」
 と竹子はかみついた。
 「この可愛い優子が、敵の男の手にかかって(けが)されるのを知ってて、どうして耐えられますか? いっそのこと……」
 竹子の次の言葉を菊子は口を押さえてさえぎった。そして、
 「まだそうなると決ったわけではないわ……。殺さないでも、どうにかなるだろうから……」
 こうしてようやく思い留まらせたのだった。
 ──さて、その翌日、日を尋ねれば八月二十四日である。
 昨晩の申し合わせの通り『あねちゃ隊』の七人は、阿賀川を渡った高瀬村の代官所に駐屯していた家老萱野(かや の)権兵衛(ごん べ え)を訪ねて、
 「会津藩存続の危機に当たりこうして推参した! どうか戦陣に加えて欲しい!」
 と懇願した。萱野(かや の)は彼女たちの面痩(おも や)せてなめらかなつや肌を見て、
 「女か?」
 と呆れたように呟いた。
 「いまやわたくしどもは髪を切り落とし男子同然である。なにとぞ曲げて──」
 痛々しい斬髪(ざんぎり)頭は彼女たちの覚悟である。その健気な心意気に心動かされながらも萱野(かや の)は、
 「古来戦争に婦人を引き連れることは敗戦の基である」
 と説諭して相手にしなかった。竹子は、
 「あなどらないでほしい! 婦女とて男に勝る戦功を挙げてご覧にいれます!」
 と喰いついた。
 「だめだ、だめだ! 女子供は城から離れた村に避難しておれ」
 「照姫様をお護りしたいのだ!」
 続けて菊子もまき子もすま子も口々に思いの丈をぶつければ、女の口数にはいかなる男も(かな)わない。さすがの権兵衛も耳を(ふさ)いで「もうよい、帰りなさい!」と一喝(いっ かつ)した。ところがその低い男の声にも勝るドスの利いた声を発したのは孝子(こう こ)で、
 「分かり申した! かくなる上はわたくし共一同この場にて自刃(じ じん)つかまつる!」
 と、腰の刀を引き抜いて腹に突き刺そうとしたものだから、慌てた萱野は寸でのところでそれを制したのだった。
 「わかった、わかった──明日、古屋佐久左衛門(ふる や さ く ざ え もん)が率いる衝鋒隊(しょう ほう たい)が若松へ向かって進撃することになっているから、それに加わって思う存分働くがよい……」
 『あねちゃ隊』は少女のような奇声を挙げて喜び合った。
 「ただし敵を見てもけっして深追いはするな! 危険を察したらすぐに引くのだぞ!」
 こうして翌日の戦闘に加わることになったのである。
 『衝鋒隊(しょう ほう たい)』は幕府陸軍の歩兵部隊のこの時の名である。鳥羽・伏見の戦いで敗れて後、江戸開城を不服として脱走した歩兵が結成した軍隊だった。ところが東進を続ける新政府軍と衝突を繰り返すうち、一度は兵の三分の一を失い壊滅状態に陥るも、生き残った者達で再結集して北越戦争をかろうじて勝ってきた。つまり幕府軍残兵の寄せ集め集団である。逆に言えば(あきら)めの悪い意固地(い こ じ)とも言うべき強者(つわ もの)ぞろいの集団だった。
 しかしかつての徳川幕府の繁栄を知る会津のこの若い乙女たちは、幕府軍≠ニ聞いただけで勇気が湧き出で、一同は昨晩泊った法界寺に引き揚げると、来たるべき明日≠ニいう日に、男でなくとも武者震いをして気持ちを高揚させた。



 明けていよいよ会津若松あねちゃ隊の初陣(うい じん)二十五日──。
 朝早く法界寺を出発したあねちゃ隊は、戦いは夜に入ってからと心得ていたので、途中、百姓の家などに立ち寄って飯をご馳走になったり、道草を食べたりしながら衝鋒隊(しょう ほう たい)の屯所へ向かった。
 戦に向かおうとする男たちは、みな死を覚悟した恍惚(こう こつ)とした顔をして、あねちゃ隊の美しいはずの女たちを見ても心捕らわれる様子もなく、手にした武器の手入れに余念ない。そのはずである。竹子をはじめとした彼女らは、具足すら身につけてないものの、頭は斬髪(ざんぎり)、手に手に薙刀や太刀を携えた義経(よし つね)が如き風貌で覚悟の気を張っていたのだ。
 「おい、そこの者、どこの村の出か知らぬが太刀や薙刀で戦うつもりか?」
 衝鋒隊に加わった会津藩の農民足軽だろうか、気を使って忠告したのだろうが、バカにした口調が(かん)に障る。
 「鉄砲など習う暇がなかったのだ! そのかわりに丸太を断ち切るほど剣術の腕を磨いてきた!」
 言い返した竹子の高揚した言葉を、進み出た衝鋒隊(しょう ほう たい)を率いる古屋佐久左衛門が差し止めた。
 「この者たちは昨日志願してきた婦女隊≠セ。兵のしきたりも戦い方も知らん。あまりいじめてやるな」
 「女だぁ?」
 足軽らしき男は鼻で笑い、
 「会津は困って女まで出したと言われては末代までの恥辱だ! 立ち去れ!」
 といきり立つ。
 「萱野(かや の)様のご判断だ、文句を言うな。この者達には邪魔にならぬよう後方でおとなしくしていてもらう」
 古屋の言葉でその場は鎮まったが、衝鋒隊(しょう ほう たい)兵は一触即発の苛立ちを隠せない。古屋はどんよりとした空を見上げて、
 「雨になりそうだな?」
 とひとりごちた。
 やがて出陣の時を迎えた。
 竹子たちは後に従って城下へと続く越後街道を歩き出す──。
 若松郊外に迫った頃はもう夕刻である。目前には湯川に架かる橋が見えた。
 この橋は、付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったことから柳橋と言われた。二〇〇メートルほど下流の薬師河原には処刑場があって、特に寛永十二年にはキリシタン弾圧によって宣教師と会津キリシタン六十余名が処刑された場所でもある。そこに設けられた休憩小屋では刑場に引かれる罪人が井戸の水で水盃(みず さかずき)を交わして家族との別れを惜しんだ事から、別名『涙橋』とも呼ばれた。この橋を渡ればそこはもう城下町なのだ。
 橋から少し離れた草むらや物陰に身をひそめる衝鋒隊(しょう ほう たい)の目的は、敵陣突破して鶴ヶ城に入城することだった。とはいえ城下に陣する新政府軍はその数知らず、衝突は避けられない決死の作戦である。橋の向こう側は外部からの侵入を防ぐため、すでに長州と美濃と大垣藩の連合部隊が陣を張っている。小さな部隊が大きな軍を相手に戦うには奇襲しかない。
 日も暮れ辺りはすっかり闇に包まれた。すると、ぽつりぽつりと雨が降り出した。
 そのとき一発の大砲が火を吹いた。「時だ!」と判断した古屋佐久左衛門が、衝鋒隊(しょう ほう たい)に「攻撃開始!」の命令を下したのだ!
 これを合図にいきなり激しい銃撃戦が始まった。
 「突撃だ!」
 暗闇の中、援護射撃を背に衝鋒隊(しょう ほう たい)の一部隊が敵陣に突っ込むと、敵の部隊も飛び出し辺りはたちまち大混乱に陥った。爆竹が破裂するような音の中で銃に撃たれて倒れ込む者、けたたましく剣と剣がぶつかる音や、あちらで男の居合の声が耳に入れば、こちらでは絶命のうめき声が聞こえた。
 衝鋒隊(しょう ほう たい)の陣列の後方にあねちゃ隊はいた。
 銃声や大砲の音に恐れおののく優子は、恐くて竹子の陰に隠れて怯えていた。
 一方、はじめて戦の現場に身を置く竹子は、言いようのない興奮に暫く呆然と立ちすくんでいたが、
 「行くよ!」
 という掛け声で自らを奮い立たせると、俄かに腰の太刀を引き抜いた。
 ところが彼女たちの従軍は、もともと男たちが最初から大反対したくらいだから、近くの兵達が「出てはならぬ! 出てはならぬ!」となかなか前へ出してくれない。それでも一人、二人と刀を振り上げ味方の守りを突破してくる敵兵もいて、近づく敵を孝子は薙刀で薙ぎ払い、菊子とまき子も亡き身内の仇討(あだ う)ちとばかりに短い髪を振り乱して奮戦していたのである。
 そうでなくても敵兵たちは女がいると知って、
 「討たずに生け捕れ!」
 と狂気の声を挙げ、次々とあねちゃ隊めがけて群がり出した。
  「生け捕られるな! 恥辱を受くるな!」
 孝子(こう こ)(げき)に互いを呼び合いながら、必死に薙刀や刀を振り回す。
 「優子! 戦えないから手を離してよ!」
 「いやだ! いやだ!」
 恐怖のあまりに腰にしがみつく優子の手を、竹子が奮い払おうとした時である。音もなく飛んできた一発の銃弾が竹子の頭を貫いた。
 急に力をなくして眼前に崩れ落ちた姉の身体に、優子は何が起こったのか全く理解できなかった。
 「あねちゃ……?」
 竹子は倒れ込んだまま何も言わない。
 「ねえ、あねちゃ? どうしたの……?」
 優子は姉の頭から吹き出す赤い血を見て「あねちゃ!」だか「ギャーッ」だか分からない悲鳴をあげて後に退いた。
 即死だった──。
 優子は身体をガタガタ震わせて恐る恐る姉の亡き骸に近づいた。
 「ねえ、あねちゃ……、お竹あねちゃったらしっかりして!」
 そのとき、
 「優子、御首級(おしるし)を!」
 という母孝子(こう こ)の声がした。見れば母は敵兵と戦いながら、しきりに「早くしなさい!」と血眼(ち まなこ)な目で訴えている。優子はその言葉の意味を知っていた。ここに来る前、母は娘らにこう言い聞かせていたのである。
 「いいかい、よくお聞き。もし戦場で(たお)れることがあったなら、生き残った者はその首を介錯(かい しゃく)して必ず持ち帰るのです。戦野に中野家の人間の(しかばね)をさらしておくわけにはいきません。これは絶対です! 首だけでも持ち帰って丁重に葬ってやるのが、残された者のご先祖に報いる供養なのです。いいですね」
 「いやよ! そんなことできない!」
 優子は竹子の身体ごと持ち上げようとしたが、十六の女の力ではかなわないことだった。
 そんなことをしているうちに敵兵の数はどんどん増えてくる。左側で奮戦していた菊子が見かねて、
 「優子ちゃん、何してるの! 早く!」
 と叫んだ。
 「できないもん!」
 優子はわんと泣き出した。
 幼い頃から自分を玉のように可愛がってくれた姉の首を切り落とすなど、例え首級(しゅ きゅう)だとはいえ、鬼になってもできない相談だった。優子が身に着けた紫縮緬(むらさ ちり めん)の着物はそぼ降る雨でびっしょりに濡れ、夜だったせいもあるがその身体は真っ黒に見えた。
 刹那──、
 「優子、何してるの? 早く介錯(かい しゃく)お願い──」
 姉の優しい声が聞こえた。
 ところが竹子の顔を覗けば血の気はすでに引き、頭蓋骨からおびただしい血液が漏れているだけで口など開こうはずもない。
 雨がジクジクと降り続く中、優子は雨水だか涙だか分からない雫を瞳からボロボロ落しながら腰の刀を引き抜くと、姉の首に(やいば)を押し付けたのである。
 ところが女のする事なので頭髪の毛が引っかかって御首級(おしるし)が容易に取れない。そこへやって来た一人の兵が手伝って、ようやく竹子の体からその首を落したのだ。
 優子は鉢巻きにしていた白羽二重をほどき、竹子の御首級(しるし)を包み込んだ。
 敵に押されて古屋佐久左衛門は、ついに退却命令を下した──。
 この戦闘は時間にしてわずか四半時ほどであったらしいが、流れた血で湯川の水を真っ赤に染めたと言う。
 あねちゃ隊は失意の悲しみに(ふけ)りながら、竹子の首を坂下(ばん げ)の法界寺に葬った。

 『武士の猛き心に比ぶれば数にも入らぬ我が身ながらも』

 これは竹子の辞世である。おそらく戦いの前日泊まった坂下の法界寺で詠んだのだろう。竹子はこの歌を刀に結び付けて戦っていた。明日は死ぬる身であることをすでに承知していたのかも知れない。
 その深い悲しみにとらわれて、あねちゃ隊のメンバーの一人が足りないことには誰も気付かなかった。次々とこぼれ落ちる涙が、彼女たちの視界を完全に奪っていたのである。
 神保雪子の姿がない──。
 退却の際、逃げ遅れた雪子は大垣藩に捕えられていたのである。
 大垣藩の陣営は、城下の西名子屋町の長命寺にあった。
 この夜、長命寺の陣営は篝火(かがり び)が燃やされ白昼のように明るかったと言う。そこへ訪れたのは土佐藩士の吉松速之助(よし まつ はや の すけ)久時衛(ひさし とき もり)だった。二人は陣内に若い女が縛られていたことに顔を見合わせ、
 「この女は一体どうしたのですか?」
 と、彼女を見張る大垣藩士にそう聞いた。
 「なかなか若くて美しい女でございましょ? なあに、先ほどそこの川ばたで捕まえて来たのですが、何を聞いても会津の姫君を守護するため城に入る≠ニしか答えないので、これから首をはねるところです。しかしオレも女の首なぞ斬ったことがないから、どうしようかと考えていたのです」
 吉松速之助は雪子を不憫(ふ びん)と思い、
 「女を殺しても無益でしょう? 命は助けてつかわしたらいかがですか?」
 と言った。
 「いやいや、そういう訳にも参りません。賊を捕えたら殺すのが軍法。他藩の口出しは御無用でござる」
 藩には藩それぞれに独自の思想や哲学があるものだ。そう言われては吉松も何も返せない。
 「で、ご要件は?」
 と見張りの大垣藩士が言った。
 「拙者、土佐藩八番隊長、吉松速之助と申す」
 「同じく十九番隊長、久時衛でござる」
 「長命寺陣営の責任者にお話があって参った。面会願いたい」
 大垣藩士は「こちらへ」と言って長命寺の建物の方へ歩き出した。このとき、
 「お待ちください」
 雪子の言葉が吉松の足を止めた。
 「お願いがございます。あなた様は(なさ)けをお持ちの武の心を(わきま)えたお方とお見受けいたしました。わたくしは会津藩軍事奉行神保修理長輝(じん ぼ しゅ り なが てる)の妻で雪子と申します。こうして敵に捕らわれたからには自らの手で切腹して果てたいと存じます。どうか武士のお情け、今生の願いをお聞き入れいただけませんでしょうか?」
 吉松は暫く雪子の目を見て、
 「左様か──」
 と言ったと思うと、脇差を引き抜き、縛られた縄を切って雪子を解き放った。
 「さっ……()されよ──」
 そうして手にした刀を彼女に渡したのである──。

 翌朝、
 「これからどうするつもりだ? お前たちは本当に城に入りたいか?」
 家老萱野(かや の)権兵衛(ごん べ)孝子(こう こ)に聞いた。
 気丈な彼女にして長女の死は心に暗い陰を落し、このまま戦陣に加わっていても、柳橋の戦い同様兵達の足手まといになるのは明らかだし、再び竹子のような犠牲を出すことだけは何としても避けなければならないと考えていた。戦う前は腹を切っても戦陣に加わろうとした剛毅な彼女の決意も、婦女≠ニいう(さが)の前にはその限界を思い知るより仕方ない。孝子は奥歯を噛みしめて涙を飲んだ。
 「孝子(こう こ)様、私たち姉妹は死ぬのはもとより覚悟の上でございます。どうか私たちだけでも戦陣に!」
 菊子がまき子と見つめ合ってそう言った。孝子は返答に窮したままだったが、その様子を見た萱野は、
 「このあとの衝鋒隊(しょう ほう たい)の動きはまだ未定だ。いつまでこうして城内に入れずにいるかもわからない──」
 こう前置きしてから、
 「昨日の戦いで分かっただろう? 今後、出陣したところで鉄砲玉で死ぬのはもう定っておる。竹子殿のことは首を持ち帰ることができただけでも幸運と思わなければいけない──」
 そう言いながら何かをじっと考えていた。
 実は城に入る事は全く不可能ではなかったのである。現に忍びの者のような役割を担う者がおり、城内と密かなやり取りをしている。ただし、それはあくまで極秘の単独行動が常であるから、一度に何人もを城内へ連れ込むなど考えられないのだった。しかし昨日の彼女たちの戦いぶりを見て、萱野(かや の)は心を動かした。
 「本当に照姫様をお護りしたいか?」
 「言うに及びません」
 「なれば一つだけ方法がある。失敗したら命はないぞ」
 「もとより覚悟の上でございます」
 こうして萱野(かや の)はある意味奇襲より危険なあねちゃ隊入城計画≠立案するのである。
 二日間の休息の間、優子は食べ物も喉を通らず、一人法堂の隅にうずくまったまま話しかけても一言も言葉を発しようとはしない。見かねた菊子が隣に座って優しく背中をたたいても、その身体は空気でできた人形のように手から伝わる小さな衝撃を受け止めるだけだった。



 八月二十八日の夜──萱野(かや の)の計画は実行された。
 敵に見つかれば即死≠フ賭けでもあった。
 会津藩お抱えの忍びの者が誘導し、ライフル銃を持った数名の足軽に護衛されたあねちゃ隊は、裏通りを駆け抜け、息をひそめて物陰から物陰へ移動し、新政府軍の包囲網を巧みにすり抜けて、大町通りより割場を抜け、なんとか鶴ヶ城北出丸の棟門に近づいた。そして門の外側から護衛の一人が、
 「山」
 と言えば、城の中から、
 「川」
 と返事が返って、間もなく門が開かれた。
 ここに至って彼女らは無事に入城を果たしたのである。
 中であねちゃ隊を出迎えたのは豊子という名の女性で、彼女は白虎隊士山川健次郎の叔母で、城の用人として勤めていた永井民祢の妻だった。
 「豊子様!」
 と声を挙げたのは、かねてより懇意の間柄だった菊子である。菊子は彼女の近くに駆け寄ると、仏か神様にでもすがるように、これまであった戦闘の様子や経験した事を口早に伝えた。するとその苦労話に豊子の表情はみるみる雲って、
 「たいへんでしたね……。それならばお殿様に御目にかけなくちゃ!」
 と言って、すぐにあねちゃ隊を鉄門(くろがね もん)へと誘ったのである。
 そこは本丸へ通ずる正面玄関である。もう深夜ではあったがそのまま本丸御殿に連れられて入った部屋は、いくつもの明るい行灯に照らされた見たこともない厳かな空間で、部屋の一番奥、一段高い座敷に胡坐(あぐら)をかいていたのは、きらびやかな陣羽織をまとった第九代会津藩藩主松平容保(かたもり)その人に違いない。
 あねちゃ隊の面々は、恐縮して慌てて畳に頭をすりつけた。
 やがて容保は静かに口を開いた。
 「話は聞いた。(おもて)をあげよ──」
 その声は獅子王にも似て彼女たちの全身を貫いた。そして容保(かたもり)は、
 「よくお前達、女子(おな ご)でも働いてくれた──ちこう寄れ、褒美をつかわす」
 と言って彼女たちを近くに呼び寄せると、(そば)に高く盛り上げてあった(わたり)二、三寸もあろうと思われる立派な菓子を手に取って一人ずつに手渡していった。
 ところが優子に順番が回ってきたとき、
 「いりません!」
 優子は手を差し出すこともしないでそれを拒んだ。一瞬容保の目が曇ったが、
 「左様か──」
 と言ったきり、そのあとは何も言わなかったので事なきを得たが、その間、孝子は娘の言動に顔を蒼白にして生きた心地もしなかった。
 優子は心の中でこう思っていたのである。
 「お竹あねちゃの命は、これっぱかしのお菓子と同じというの?」
 と。その言葉は喉まで出かかったが、ついに言うことはできなかった。
 このあと奥御殿にも連れていかれ、彼女たちの憧れでもある照姫との面会も(かな)う。
 ところが姿を現わした照姫は、傍に沢山の女中を付き添え、その容貌は聞きしに勝る美しさではあったが、ペットにしている(ちん)を連れていて、普段から大変に可愛がっている様子で、この時も肩の上などに狆を乗せ、その()れ合う様子に周りの女中たちの中には小さな笑い声を挙げる者もいた。
 照姫は、(いくさ)帰りの血で染まったあねちゃ隊の着物を気の毒そうに見つめ、
 「たいへんなのはこの城も同じです。その者たちには傷病兵の看護、炊事、弾薬の製造や運搬などの作業に加わってもらおうと思う」
 と言ったきり、すぐに奥の部屋へと戻ってしまった。
 このとき優子は確かに見た気がした。目の奥の「この者たちがどのような功を挙げたのか?」というような冷たい気配を。母からも周りからも「立派な姫だ」と聞かされて来たその幻滅は、口に出さずも、
 「これが母をはじめ会津の婦女が慕うお姫様なのか? お竹あねちゃは死んで、私たちも生死の堺をくぐりぬけてきたというのに、小犬を連れて面会するとはどうした了見か──?」
 と、なにもかもがばかげた事のように思え、殿様も照姫も会津藩の者たちも全部信じられなくなって、この戦いの会津藩の正当性にも疑問を抱き、何のための戦争なのか分からなくなった。
 もっとも照姫も連日忙しい身であり、束の間の僅かな自分に与えられた時間の中でペットに癒しを求めていたかも知れないし、その時間をぬって面会したのかも知れないが、母も菊子もまき子もすま子も先の戦闘のことなどすっかり忘れた様子で口を揃えて「なんて素晴らしいお方!」と喜ぶ姿を見てしまえば、その懐疑心はとても口にすることなどできない。
 照姫との面会を終えて、部屋を出たところですれ違ったのが新島八重子(にい じま や ゑ こ)である。豊子は「八重子さん」と呼び止めてあねちゃ隊のメンバーを紹介し、
 「鉄砲の名手よ」
 と彼女たちに八重子を紹介した。
 なんでも新政府軍の攻撃を受けた初日(八月二十二日)、会津兵は各所に出払って城の防備が手薄だった時、わずかな手勢で北出丸を守っていた八重子の撃った銃弾が、敵の砲兵隊長に命中して大手柄を挙げたと言う。もとは砲術師範山本権八の娘で、銃の扱いには人並外れた資質を持っていると聞いた時、
 「私にも銃の撃ち方を教えて下さい!」
 と、すかさず菊子が名乗りを挙げた。
 「いいわよ、明日から猛特訓よ!」
 八重子の言葉に喜ぶ菊子を、優子は冷ややかな目で見つめた。
 この日よりあねちゃ隊は城内の婦女たちと共に、負傷兵の世話や看護、水汲みはもちろん炊事や汚れ物の洗濯、食事運びに弾薬の製造に運搬にと、ありとあらゆる雑用に従事することになる。
 ところが一人優子だけ、納戸に置かれた雑具の隙間に小さな自分の居場所を見つけて縮こまり、以降、城内の者達とは一言も口を聞かない。

 籠城戦は続く──。
 誤解を招くといけないので、城内の照姫の働きも記しておこう。
 照姫は奥御殿の女中らに命じて、およそ六〇〇人の藩士の婦女子を指揮したと言われている。その中にはあねちゃ隊のメンバーもいるわけだが、炊事にはじまり負傷兵の看護のほか、新政府軍による攻撃で城の各所で発生した火災の鎮火やその処理、また弾薬の製造なども行なわせた。
 その活動は片時も休むことなく、照姫自身よく婦女子らを監督して内助に勉めた。そのため彼女の住む後殿(こう でん)は常に平静を保っていたと言うからにはおよそ徳のある女性だったと言えるだろう。
 婦女子は皆、照姫の誠意に対して門閥の婦人に至るまで、黒紋付(くろ もん つき)白無垢(しろ む く)を重ね、(たすき)を掛けて、裾を高くあげ、両刀を帯びて従事し、その動作の勇壮なる姿は男子に劣らなかったというのがこの籠城戦の鶴ヶ城内の様子である。
 その中でもあねちゃ隊の孝子(こう こ)の働きはひときわ輝いていた。
 それはまるで竹子の死を忘れようとするかのようでもあり、食事は玄米の握り飯に味噌を付けただけの物だったが、ある手負いの兵の手当をしていたときは、腹が空いて来たので握り飯をとった彼女の手は(うみ)だらけで、それを見た菊子が驚き、
 「ひどい(うみ)ではありませんか。手をお洗いになってから召しあがってはいかがですか?」
 と言った。ところが孝子は、
 「(うみ)など何ともない」
 と答えて、そのままの手で平気で握り飯を食べたものだった。
 またあるときは、手負いの兵たちの膿がベタベタに付いた着物をせっせと洗濯していた所へ、新政府軍が打ち込んだ焼砲弾が飛んで来た。それが彼女のすぐ傍らに落ちたのを驚きもせず、素早く(たらい)の水を打ち()けて火事になるのを防いだり、あるいは、やはり(うみ)の付いた負傷兵の着物を(ざる)に入れて廊下を歩いていた時も、口火のついた焼弾が落ちてきてまさに破裂しようとしていたところを、笊の中の衣類でこれを包み、安全な場所へ投げ込んだため大事に至らずに済んだこともあった。おそらく普通の人なら逃げ出して、多くの犠牲を出したことだろう。
 こうした彼女の落ち着いた行動や機敏な働きは城中での称賛の的である。
 噂が容保(かた もり)の耳に届き、再び御前に召し出され、賞辞を賜わった上に、
 「その方は酒を(たしな)むと聞いたが、ひとつどうか?」
 と、大杯に容保直々に酒を賜わったこともあった。すると孝子は有難くお礼を言ったと思うと、なみなみと注がれた酒を一息に飲み干して、固唾をのんで見守っていた周りから、
 「女ながらも天晴(あっ ぱ)れ!」
 と称賛の拍手が湧いたこともあった。
 優子はそうした母の行動がまったくもって理解できない。納戸に引きこもったきり、まるで(おうし)のように誰とも口を聞かない──。
 九月に入って頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩が相次いで降伏すると、九月十四日からは一日に二、〇〇〇発以上もの砲弾が撃ち込まれるという新政府軍の総攻撃が始まった。彼らの標的は天守閣と、そしてもう一つが割場の鐘だったと言う。どれほど戦いが新政府軍に有利だったとはいえ、城の健在を伝え士気を鼓舞するこの鐘の音は、何より耳障りだったようである。
 日に日に増える天守の壁の弾痕は著しく、城内の食料も尽き欠けて、もう決して会津に勝目がないと誰もが分かっていながらも、
 「子どもたちに(たこ)を上げさせなさい」
 と、照姫は女中に命じた。
 「た、凧でございますか?」
 「そうだ凧じゃ。この程度の攻撃でこの城が落ちると思ったら大まちがいじゃ。会津っ子の負けじ魂を見せてやりなさい」
 すると凧を作って城内にいた子どもたちを集め一斉に凧あげを始めた。ときどきその凧をめがけて銃声が鳴り響いたが、すでに鉄砲の音にも慣れた子ども達は大はしゃぎ。その様子を小さな窓から優子は眺めていた。
 「あなたもやってきたら?」
 と納戸に入ってきた孝子が言った。すると後から菊子も、
 「行きましょ!」
 と誘って優子の手を強引に引っ張り一緒に外へ飛び出した。
 天高く揚がる凧を見ながら、優子は幼少のころ一緒によく凧あげをして遊んだ姉の竹子のことを思い出した。
 「凧はね、上空のものすごく強い冷たい風を、逃げずに全身で受けとめているから天高く飛ぶことができるんだよ──」
 ふと、空に竹子の顔が浮かんだように見えた優子は、
 「あねちゃ……」
 と小さく呟いた。
 「敗けないで──」
 優子の瞳から涙が落ちた。しかしそれは、竹子が死んだ時に流した涙とは確かに違う色をしていた。

 そして──
 およそ一ケ月間続いた新政府軍の砲撃を耐え続けた鶴ヶ城は遂に落城する。九月二十二日のことである。
 このとき城に籠城していた人数は、兵士約三、二〇〇人、婦女子六三九人、老人幼児二四八人、傷病者五三〇人、そのほか他藩の者四五六人、合わせて約五千二百余名ほどだったと言う。
 それから暫くして新政府軍が戦争の首謀者の出頭を求めた時、家老の萱野権兵衛は自ら名乗り出た。そして、
 「戦争を指導したのは、田中土佐と神保内蔵助、そして(それがし)の三家老である。しかし田中と神保はすでに切腹しておるゆえ(それがし)が一切の裁きをお受け申す!」
 ときっぱりと言いはなった。彼は命を賭して前藩主容保とその子に累が及ぶのを防いだと伝わる。
 この後、松平容保は三十名ほどの従者を伴なって鶴ヶ城の北東三キロの地点にある妙国寺に蟄居(ちっ きょ)し、十月十九日、東京へと護送される。そして照姫もまた、その後を追うように妙国寺に入り、髪を切って照桂院と名を改めると、その翌年、お預かりの身となって東京は青山の紀州藩邸に移送された。



 あれから何年の月日が過ぎたことだろう──。
 この故郷で戦争があったことなどまるで嘘か幻だったように(せみ)がけたたましく()いていた。ただ、少し(いびつ)にゆがんだ鶴ヶ城の、壁の痛ましい弾痕だけが当時の記憶をとどめている。
 優子の髪もすっかり伸びて、いまは以前のように島田髷(しま だ まげ)が結えるようになった。
 日傘をさして遣いに出た彼女の表情は、どことなし晴れやかで、以前に増してその美しさも眩しい日の光に輝いていた。
 寺の前を通りがかった時である。
 境内で喧嘩をしている七、八歳くらいの二人の男子を見かけた。兄弟だろうか? ただの口喧嘩程度であったなら見過ごして通り過ぎたかもしれないが、取っ組み合いの激しい叩き合いをしていたからそうもいかない優子は、
 「おやめなさい!」
 と二人の少年のところへ駆け寄った。
 「みっともない。いったいどうしたというの?」
 すると一人の方の少年が、
 「先にお前の方が手を出したんだからな!」
 と真っ赤な顔で言った。するともう一人の少年が、
 「お前が母ちゃんのことを悪く言うからいけないんだ!」
 ともっと大きな声で返した。すると返された方の少年が「お前だってオレの父ちゃんの悪口言ったじゃないか!」「言ってないもん!」「言った!」「言ってないもん!」
 と、これを何度も言い合って、再び互いの襟元を掴んで取っ組み合いが始まった。
 「おやめなさい!」
 と再びの優子の怒鳴り声が境内に響き、地面に押し倒された子に馬乗りになった子が、
 「おばさんは関係ないだろ!」
 と叫ぶと、下で鼻血を出していた方の子も、
 「そうだよ、ほっといてくれよ!」
 と涙目で訴える。優子は目を鬼にした。
 「喧嘩(けん か)はダメ! ならぬものはならぬのです!」
 二人の少年はその気迫に驚いたような顔をしてしゅんと縮こまった。
 「お尻を出しなさい!」
 優子は有無を言わさず少年の着物の(すそ)をめくりあげ、ふんどしをした二つのお尻を並べた。
 「なにをするんだ!」
 「喧嘩両成敗(けん か りょう せい ばい)だよ!」
 ピシリッ! ピシリッ!
 そのかわいいお尻を叩く音に驚いて一匹の(かわず)が池に飛び込む。
 二人の男子は大声で泣き出した。

 二〇二二年八月十五日(七十七回目の終戦記念日に)
(2022・05・07 若松城GB(ガイドボランティア)斉藤貞治氏より拾集)
 
> 望月(もちづき)(こま)生駒姫(い こま ひめ)
望月(もちづき)(こま)生駒姫(い こま ひめ)
城郭拾集物語M 信濃国(長野)望月城
 うららかな春の陽気に誘われて、ふらりと訪れたのは長野県は佐久市にある望月城(もち づき じょう)である。
 菅平(すが だいら)(とうげ)を越え真田(さな だ)(ごう)を通り、左手に祢津(ね づ)地域を見ながら小諸(こ もろ)に入る手前で海野宿(うん の じゅく)方面へ右に折れ、旧中山道に乗ればそのまま自然と望月宿(もち づき じゅく)に入る。筆者が車を走らせて来たこの辺り一帯は、そのむかし滋野氏(しげ の し)一族の所領であり、望月城はその名の通り滋野三家のひとつ望月氏の居城である。
 今は昔、廃墟(はい きょ)と化した人っ子一人ない城跡(しろ あと)に向かう途中、満開と咲く一本のハナミズキの木が迎えてくれた。車を停めて陽の当たる閑散とした山城(やま じろ)に登れば、ふと、古びた白い立て札が目にとまる。そこには旧望月町教育委員会による『望月城址(もち づき じょう し)』の概要が記されていた。
 「ここから南方の総合体育館裏山までの約二千Mの間が望月城址であり、望月氏の居城である。本地が本城で、主郭(しゅ かく)から三の(くるわ)までが構築され、南方の支城には五の(くるわ)までが確認できる。雄大にして堅固な山城で、腰曲輪(こしくるわ)帯曲輪(おびくるわ)空堀(から ぼ)り等整然(せい ぜん)と構築され保存状態も良好である。望月氏は鎌倉時代に眼下に見下ろす天神城(てん じん じょう)を築城し落城後室町時代に望月城を築城したとされており、戦国時代(天正十年)に落城している。」
 文面では築城は室町時代だが、そもそも望月氏の始まりはいつなのだろう?
 真田好きの筆者の認識では、真田氏は、滋野三家(しげ の さん け)海野(うん の)氏・祢津(ね づ)氏・望月(もち づき)氏)の(うち)、戦国時代、武田信玄に追いやられ宗家が滅亡した海野(うん の)氏の系統と言われるが、望月(もち づき)氏もまた、滋野氏が三家に分生した時に生じた望月三郎が初代とされる。三家に別れた際、滋野(しげ の)≠フ名が残っていないのは、これより二代前の当主滋野恒信(しげ の つね のぶ)海野(うん の)幸俊(ゆき とし)≠ニ改名したためである。きっかけは、天歴四年(九五〇)二月に彼が信濃国は望月の牧監(ぼく かん)となって下向したことによるが、当時この辺り一帯は海野郷(うん の ごう)と呼ばれていたことからこの地名を姓とした。地名を名にする習いは珍しいことでなく、むしろ当時にしてみればごく自然なことである。牧監(ぼく かん)とは牧馬を司る官名であり、つまりそのころ既に望月は朝廷にとって重要な馬の産地だった。
 この後海野(うん の)氏%代目当主幸恒(ゆき つね)(幸経)は、天延(てんえん)元年(九七三)九月に海野荘の下司(げ し)となり、三人の息子がそれぞれ海野小太郎幸明(うん の こ た ろう ゆき あき)祢津小次郎直家(ね づ こ じ ろう なお いえ)望月三郎重俊(もち づき さぶ ろう しげ とし)を名乗り、一族を構成して朝廷支配の律令社会から武家社会への大きな変遷の荒波に挑んでゆくわけである。
 ではそれ以前はどうか?
 滋野氏の発生を探ってみると、古いもので西暦八〇〇年代前半の歴史書等の記述に滋野朝臣貞主(しげ の あそ ん さだ ぬし)≠フ名が見える。とにかく優秀な文官だったらしく、更にその先祖を辿っていくと天道根命(あまの みち ねの みこと)≠ニいう神に行きつき、更には神結命(かみ むすびの みこと)にたどり着くというから筆者はもう付いていけない。そのくせ滋野(しげ の)を名乗った理由が奈良の平城京から京都の平安京へ遷都した際(延暦十三年・794(鳴くよ)(うぐいす)平安京)、住み着いた地籍の地名を取ったというから神の末裔(まつ えい)にしては平凡だ。
 滋野貞主(しげ の さだ ぬし)には二人の娘がいた。
 長女の縄子は第五十四代仁明天皇(にん みょう てん のう)女御(にょう ご)(きさき))となって本康親王(もと やす しん のう)を産み、次女の奥子も第五十五代文徳天皇(もん とく てん のう)中宮(ちゅう ぐう)皇后(こう ごう))として惟彦親王(これ ひこ しん のう)を産んだというから天皇の義理の父親ということになる。その権勢は相当なものだったに相違ない。そして彼の弟貞雄(さだ かつ)滋野朝臣(しげのあそん)を称して国司(こく し)を歴任し、その娘のュ子もまた文徳天皇(もん とく てん のう)の妃となり二皇子二皇女を生んだとされる。つまりこの時期の滋野氏は、天皇近親の在原(あり わら)氏や藤原(ふじ わら)氏、(たちばな)氏あるいは菅原(すが わら)氏などと並ぶ天皇の外戚(がい せき)として名門中の名門の家柄だったわけである。
 滋野氏の始まりはこの兄弟の父滋野宿祢(すくね)家訳(いえおさ)という人物であるが、家訳(いえおさ)貞主(さだ ぬし)貞雄(さだ かつ)と続いた次の当主が滋野恒蔭(しげ の つね かげ)で、彼は貞観十年(八六八)正月十六日に信濃(しなのの)(すけ)に任命され、ここから滋野氏と信濃国とのつながりができたと考えられる。そしてこの二年後の貞観十二年(八七〇)に彼の弟滋野善根(しげ の よし ね)信濃守(しなののかみ)となり、一族が信濃に下向したことにより信濃滋野氏の祖となった。一方この後、平安京に残った滋野氏族の家系は、代々信濃からの貢馬(こう ば)駒牽(こま ひき)(つかさど)る役人となったと考えられる。
 ──ここまでは突き詰めて調べてみたが、望月≠フ名がどこから来たのかわからない。勘の良い人はすでに望月(もち づき)(こま)≠思い浮かべているのだろうが、その前にもう少し述べたい事がある。
 筆者が興味深く思うのは『佐久市立望月歴史民俗資料館』に展示されていた佐久地方(旧望月町周辺)の歴史を記した年表が、今から三万二千年前の日本列島における人類の登場から始まっていた点である。
 同施設がアピールするように、望月周辺──特に古くから馬が放牧されていた御牧ケ原(み まき が はら)≠ナは、いくつもの遺跡が発見されており、それは、日本神話の古代から原始と呼ばれる時代──具体的には縄文時代より、人々の生活が厳然と(いとな)まれていた物的証拠である。だからといってそれほど昔から盛んに馬が飼われていたかといえばそうではなく、奈良の東大寺の正倉院(しょう そう いん)に残されているこの地方からの貢物(こう もつ)は馬でなく爪工部(はた くみ べ)≠ニ呼ばれる職人の手によって作られた品だと云う。正倉院といえば天平年間(てん ぴょう ねん かん)(七二七〜七四一)だから滋野氏が歴史に登場する一世紀前のこと。そのころ小県(ちいさがた)の海野郷には衣笠(きぬ がさ)(さしば)などを造る高度な技術職人たちが住む集落が存在していた。つまり滋野氏が登場するまでの百年ほどの間に、御牧ケ原(み まき が はら)が馬の一大産地となる劇的な変化があったということである。滋野一族はそこに深く関わっていたということだ。
 そもそも馬は日本在来のものはなく、当初は戦闘用として大陸から渡って来たらしい。『古事記』には第十五代応神天皇の治世に、
 『百濟國主照古王以牡馬壹疋牝馬壹疋付阿知吉師以貢上(百済国王(くだ らの こく おう)照古王(しょうこおう)は、牡馬(おす うま)一匹、雌馬(めす うま)一匹を阿知吉師(あちきし)につけて貢上(こう じょう)した)』
 とあり、これは『日本書紀』によれば応神天皇(おうじんてんのう)十五年秋八月の事で、西暦で言えば二八四年のことらしい。館内を案内して頂いた上松(うえ まつ)氏によれば、
 「おそらくモンゴルの馬が海を渡ってまず九州に入り、そこから大和政権に渡って全国へ広がったのではないか?」
 と教えてくれた。奇しくも御牧ケ原(み まき が はら)≠ヘ、全国有数の馬の放牧に最適な土地だったわけである。
 馬伝来の後、第四十二代文武天皇(もん む てん のう)(在位六九七〜七〇七)の飛鳥時代の大宝年間に完成した大宝律令で勅旨牧(ちょく し まき)御牧(み まき))が始まった。『延喜式(えん ぎ しき)』によれば東国地方の御牧(み まき)甲斐国(かいのくに)三ケ所、武蔵国(むさしのくに)四ケ所、信濃国(しなののくに)十六ケ所、上野国(こうずけのくに)に九ケ所あり、中でも信濃国(しなののくに)が最も多く、その数は他国の実に二倍であった。毎年八月には、朝廷に献上された貢馬(こう ば)を天皇がご覧になる駒牽(こま ひき)≠ニいう宮中行事が盛大に行なわれたが、このとき数の上でも品質の上でも最も注目されたのが信濃十六御牧(み まき)の中でも御牧ケ原(み まき が はら)で飼育された馬だった。
 ここで、せっかく信濃国(しなののくに)の十六の御牧の場所を調べたので記載しておこう。
 1、山鹿牧(茅野市豊平)2、塩原牧(茅野市中大塩)3、岡屋牧(岡谷市)4、平井手牧(上伊那郡辰野町平出)5、埴原牧(松本市中山埴原)6、高位牧(上高井郡高山村高井)7、高所牧(上伊那郡辰野町宮所)8、大野牧(下伊那郡阿智村智里大野)9、笠原牧(伊那市美篶笠原)10、新治牧(小県郡東部町新張)11、大室牧(長野市松代町大室)12、荻倉牧(諏訪郡下諏訪町萩倉)13、猪鹿牧(佐久市志賀)14、塩野牧(北佐久郡御代田町塩野)15、望月牧(佐久市望月)16、長倉牧(北佐久郡軽井沢町長倉)の以上十六箇所である。
 宮中行事の一つ駒牽(こま ひき)は、例年八月二十九日に行われていた。
 ところが第五十六代清和天皇(せい わ てん のう)の時、貞観(じょう がん )七年(八六五)からは満月の日──つまり旧暦の八月十五日に改められた。そしてこの日、全国の御牧(み まき)の中でも筆頭とされる信濃(しなの)御牧(み まき)より献上された馬を、()(つき)(満月)≠ノ(ちな)んで望月(もち づき)≠フ駒と言われるようになった。奇しくもこの時期より朝廷の馬寮(め りょう)と深く関わる役柄にあったのが信濃御牧の牧監となった滋野氏であり、やがて望月(もち づき)(こま)≠継承する一族として望月(もち づき)≠フ(せい)が与えられたと言う。つまり天歴四年(九五〇)に滋野恒信(じ の つね のぶ)海野(うん の)幸俊(ゆき とし)に改名する以前から、望月(もち づき)姓は存在していたわけである。
 一言で牧(牧場)≠ニ言っても望月の牧≠ヘ広い。
 北西を流れる千曲川(ち くま がわ)と東を流れる馬曲川(ま ぐせ がわ)、そして南から千曲川に合流する布施川(ふ せ がわ)に囲まれた敷地の規模は、面積にして約二、一〇〇ヘクタール──江戸城が四、五個すっぽり入ってしまう広さであり、周囲は断崖などの障壁がある箇所を除いた所には(みぞ)を掘り、手前に野馬除(の ま よけ)≠ニ呼ばれる(さく)(こしら)えて馬が逃げるのを防いだ。その長さを繋げれば実に全長三十八キロメートルに及ぶと言う。
 さて、筆者の立つ望月城主郭(しゅ かく)下の曲輪(くる わ)に設置された展望台から眼下を望めば、遠くに蓼科山(たて しな やま)、手前に中山道は望月宿の街並みが一望できる。当時都に通じる街道は、四世紀から五世紀に大和政権(やまとせいけん)が東国に勢力を伸ばすために開いた古東山道(こ とう さん どう)≠ナこの望月を経由していた。つまり御牧ケ原(み まき が はら)の広大な敷地の、都に馬を送るのに一番近い南端の東寄りにこの望月(もち づき)の集落は発展してきたのである。
 望月城から御牧ケ原(み まき が はら)までは車でおよそ七、八分、当時でも馬を走らせて十分もかからなかっただろう。そこは(けわ)しくもなく平坦(へい たん)過ぎず、適度に凹凸(おう とつ)の入り組んだ見晴らしの良い所謂(いわ ゆる)原っぱが広がっていた。乗り物としての馬を育てるには正に最適な地形だろうか。全盛期でなくともそこには常時六〇〇〜七〇〇(ぴき)が飼育・放牧されていたともされ、当然それに従事する望月氏支配の農民世帯も千人規模で生活していたと考えられる。そして良馬と人の動員力は、後に発達する武士団にとっては最大の魅力であり、現に源義仲(みなもとの よし なか)は、望月氏を含める滋野三家を従え、騎馬をもって平家軍を電光石火の如く討ち破り、そのまま京都に上って旭将軍(あさひ しょう ぐん)と恐れられるのである。
 それにしても望月(もち づき)(こま)≠歌った歌人のなんと多い事か!
 平安時代前期の歌人で『古今和歌集(こ きん わ か しゅう)』の撰者(せん じゃ)でもある紀貫之(きの つら ゆき)は、『歴史民俗資料館』内に紹介されているものだけで三首、そのうちの一首を記しておけば、
 『逢坂(あふ さか)(せき)清水(し みず)影見(かげ み)えていまや引くらん望月の駒』
 また鎌倉時代に『新古今和歌集』を編纂したことでも知られる後鳥羽上皇(ご と ば じょう こう)は、
 『あふ(さか)山立出(やま たて いで)(くも)の上に影さしのぼるもちづきの駒』
 と詠み、また平安時代末期から鎌倉時代初期に武士として生まれながら出家し、さすらいの歌人となった西行法師(さい ぎょう ほう し)も、
 『望月のみ(まき)の駒は寒からじ布引山(ぬの びき やま)を北と思へば』
 と詠み、探せば枚挙(まい きょ)(いとま)がない。
 当時の人々にとって望月(もち づき)(こま)≠ヘ(あこが)れの(まと)であり、馬を現代の車に例えるならば望月(もち づき)氏≠ヘフェラーリとかポルシェの最高責任者であり、全国に轟いたその名声は不動にして、この時一族は全盛期の真っただ中にあった。
 

 
 滋野恒蔭(しげ の つね かげ)信濃介(しなののすけ)になってからというもの、都の者たちは彼のことを(もっぱ)望月(もち づき)様≠ニ(はや)し立てる。
 季節も秋を迎え、今月(こん げつ)十五夜(じゅう ご や)には宮中で駒牽(こま ひき)の儀式が行なわれるとあっては尚更(なお さら)で、このところ訪れる者たちは、口を揃えて「今年の駒の仕上がりはいかがか?」と聞く。無論駒≠ニは信濃御牧(しなのみまき)望月(もち づき)(こま)≠フことである。
 信濃介(しなののすけ)とは介≠フ字の意味の通り国元との仲立ちが主な仕事であるが、何か余程大きな問題がない限り信濃のような辺鄙(へん ぴ)な田舎へ足を運ぶことなどない恒蔭(つね かげ)は、その都度あいまいな笑みを浮かべる。いま現地に住まうのは、今年信濃守(しなののかみ)に任命されたばかりの弟滋野善根(しげ の よし ね)であり、その補佐として息子の恒成(つね なり)と、御牧(み まき)から都への馬曳(うま ひ)き役として三男の三郎(さぶ ろう)を送っていた。年を考えればそれも道理で、朝廷に献上する何十頭もの馬を引き連れて、信濃から平安京まで何日かかるか知れない気苦労をするより、悠々自適(ゆう ゆう じ てき)に都で暮らしていた方が余程いい。だから御牧(み まき)の駒の様子など聞かれても答えようもなく、
 「もうじきお目にかけますわい。近年ますます良い馬が育ちますので惟仁(これひと)(おおきみ)様(清和天皇(せいわてんのう))もお喜びになるでしょう」
 と油を(にご)すのだった。
 その日、彼の所に訪れたのは藤原清経(ふじわらのきよつね)という男──。このとき官位は従五位下の左衛門大尉(さえもんのだいじょう)という武官で、彼の姉は清和天皇の女御(にょう ご)で後に皇太后(こう たい ごう)となる藤原高子(ふじ わらの こう し)である。また兄は、今年大納言(だい な ごん)となった藤原基経(ふじわらのもとつね)である。
 清経は恒蔭(つね かげ)の対面に座って、
 「駒迎(こま むかえ)≠ナお忙しいでしょうな?」
 と上機嫌な口調で言った。駒迎(こま むかえ)≠ニは、献上される馬を関所のある逢坂山(おう さか やま)まで出迎えに行くことであり、このころすっかり平安京の秋の風物詩になっている儀式である。恒蔭(つねかげ)は顔をしかめて、
 「なあに、駒迎(こま むかえ)は三男坊の三郎(さぶ ろう)に任せております。こんな事でもさせにゃぁいつまでも子供の気分が抜けずに困ります」
 と、心ここになしといったふうに笑った。
 この頃の宮中の政治はけっして安定していたわけではない。全国各地では自然災害が発生しており、都では貞観(じょうがん)八年(八六六)に御所の応天門放火事件(応天門(おうてんもん)(へん))が起こった。この門はもともと大伴(おお とも)氏の造営だが、時の大納言にあった伴善男(ともの よし お)大伴(おお とも)氏)が不仲(ふ なか)だった左大臣源信(みなもとの まこと)謀反(む ほん)だと告発して彼を(おとし)めようと目論んだ。ところがこのとき参議だった清経(きよ つね)の兄藤原基経(ふじわらのもとつね)は、この企みを叔父である太政大臣藤原良房(よしふさ)に告げ、清和天皇に奏上して源信(みなもとの まこと)を弁護した。その結果、源信(みなもとの まこと)は無実となり、彼を失脚させようとした伴善男(ともの よし お)讒言(ざん げん)が発覚し、朝廷は伴善男(ともの よし お)らを放火犯と断罪して流罪に処す。この事件を契機に清和天皇の摂政となった藤原氏の勢力は拡大し、藤原基経(ふじわらのもとつね)も従三位に叙して中納言に出世した。
 一方、事件に連座した古来からの名門大伴氏らは衰退の途を辿ることになるが、大伴(おお とも)氏といえば信濃の海野郷(うん の ごう)と全く無縁でない。
 日本最古の説話集『日本霊異記(りょういき)』には奈良時代末の宝亀五年(七七四)に、(おうな)の里(海野郷)≠フ法華寺川(金原川下流)に大伴連(おおとものむらじ)忍勝(おしかつ)なる人物が居を構え、館近くに氏寺を建立していたという記述がある。このことから信濃の海野郷は当時から中央の影響を受けていた。
 それはさておき──恒蔭(つねかげ)にとっては駒牽(こま ひき)よりも重大な事があった。
 彼には三人の息子の他にまだごく幼い(きく)という名の娘があったが、清和天皇と藤原高子(ふじ わらの こう し)との間にもうじき子が生まれそうだという噂を耳にしてより、密かに生まれてくる子に娘を嫁がせることができないかと考えていたのだ。
 それとはなしに、
 「ところで高子(こう し)様のご容体はいかがか?」
 と、恒蔭(つねかげ)は庭の方を眺めながら尋ねた。
 現在清和天皇には三人の皇子(み こ)がいる。第一皇子(おう じ)貞明親王(さだあきらしんのう)(後の陽成天皇(ようぜいてんのう))、第二皇子に貞固親王(さだかたしんのう)(母は橘休蔭(ちばなのよしかげ)の娘)、第三皇子に貞元親王(ていげんしんのう)(母は藤原仲統(ふじわらのなかむね)の娘)である。特に藤原高子(ふじ わらの こう し)を母とする第一皇子貞明親王(さだあきらしんのう)は、一昨年前の十二月、生誕してわずか三か月足らずで立太子(りっ たい し)(皇子の跡継ぎ)となった子であり清和天皇の寵愛(ちょう あい)も深く、間もなく生まれて来る子も「あわよくば天皇に」という期待が自ずとかかるのである。恒陰の思惑を薄々(さっ)している清経(きよつね)は、
 「姉はすこぶる達者なご様子。先日も見舞いに顔を出しましたら、蜜柑(み かん)()いたいと申していたところを見ると、ひょっとして男子かな? おそらく来月にはお生まれになるでしょう」
 と物欲(もの ほ)しそうな顔付で笑った。
 「そうですか! なれば何かと物入りでしょう? 例えば……お生まれになるお子のお身の周りの世話をする者とか──あるいは、お(きさき)とか……入用(いり よう)ならば何なりお申しつけ下さい。きっとお役にたちますぞ」
 「こりゃまた随分とお気がお早いですな」と清経は笑う。
 「しかし身の周りの世話をする者といっても、望月(もち づき)殿のお子は確か今は信濃では?」
 「馬の世話なぞ小次郎(次男)にでも三郎にでもやらせるわいな。そういう事情ならばすぐにでも恒成(つね なり)を呼び戻しますわい。それに娘の菊も、親の私が言うのも(なん)だがめっぽう気立てがよい」
 と言ったと思うと、恒蔭(つね かげ)は手をパン、パンと二、三度叩いた。すると奥から姿を現わしたのはまだ四、五歳の童女で、小さな身体には大きすぎる程の黒い広蓋(ひろぶた)を抱え、慇懃(いん ぎん)に正座して何も言わずに清経(きよつね)の前へさし出した。見れば黒盆(くろ ぼん)の上には今年鋳造(ちゅう ぞう)されて都に出回り始めたばかりの『貞観永宝(じょうがんえいほう)』の束が置かれており、
 「さっ、遠慮なく」
 と、恒蔭(つね かげ)は目だけで笑いながら、
 「菊と申す──」
 と自慢げに娘を紹介した。
 「いやはや、こりゃぁ参りましたなあ!」
 清経(きよつね)はそう言いながら銅銭の束をジャラジャラいわせながら(そで)の中に隠し入れた。現代では露見すれば大問題だろうが、過去の歴史においてはそんな事は日常茶飯事で、恒蔭(つね かげ)の所にやって来る貴族などは大抵これがお目当てなのである。
 「なにぶん、くれぐれも高子(こう し)様によろしくお伝え下さい──」
 と、こうして翌月誕生した御子(み こ)は、六歳になるとすぐに親王宣下(しん のう せん げ)を受けて第四皇子(おう じ)貞保親王(さだやすしんのう)となった。このときの(そで)(した)≠ェ物を言ったかどうかは知らないが、恒蔭(つね かげ)の第一子望月恒成(つね なり)は都に呼び戻されて貞保親王(さだやすしんのう)家司(いえのつかさ)となり、娘の菊もまだ幼い皇子(おう じ)に嫁ぐ。およそ大富豪というのは、今も昔もさほどの労力を使わずとも思い通りのものを手にするものか──。
 とはいえ、恒蔭(つね かげ)と清経がこの会話をしている時、息子の恒成(つね なり)はまだ信濃国にいる。
 

 
 宮中で行なわれる駒牽(こま ひき)のため、馬を引く望月三郎(もち づき さぶ ろう)は、東山道は都に入る手前の近江国(おうみのくに)甲賀郡伴中山(ばんなかやま)に到着した。引き連れた数十頭の馬は望月の御牧の中でも特に優れた良馬で、この地で一旦骨休めをし、毛並みを整え、派手な装飾で飾り付けてから都に入るという寸法である。これはもう何年も続く望月の駒牽の習いであり、滋野氏と近江甲賀とのつながりを探れば実にこの頃までさかのぼる。
 長旅の疲れなど微塵も感じさせない三郎は、逢坂山(おう さか やま)に訪れる駒迎(こま むかえ)の見物人たちを今年も「あっ」と言わせてやろうと意気込んで、年に一度の一大行事に、大伴(おお とも)氏の館に借り受けた(うまや)の管理に従事する望月の者たちも、みな一様に上機嫌であった。
 「おい三郎、この駒はまた一段と毛並みが美しいな」
 そう言ったのは馬寮(め りょう)役人を親に持つ佐吉(さ きち)という男で、中でも栗色(くり いろ)が映える一頭の馬の(たてがみ)()でながら羨望(せん ぼう)(まなこ)で見つめた。
 「そうでございましょう! こいつは五十年に一(ぴき)出るか出ないかの逸品(いっ ぴん)です。佐吉(さ きち)兄さんはお目が高い」
 「今年信濃に行ったばかりのくせに、ずいぶん知ったような口ぶりだな」
 「二、三ヶ月も馬の世話をしていればボクにだって分かります。五十年ずっと馬を育てている御牧爺(み まき じい)さんがそう申しておりました。こいつが種馬(たね うま)となり、これまた五十年に一(ぴき)出るか出ないかの望月一の肌馬(はだ うま)に種付けした仔馬がもうじき産まれるんです! きっとこいつよりも一等優れた駿馬(しゅん め)が出るに違いありません!」
 「そいつは楽しみだ」
 「馬の出産も楽しみですが、それより兄上のお子がもうじき生まれます」
 「なに? 恒成(つね なり)殿にお子が? それは馬ではなく人だろうな? 恒成(つね なり)殿も片田舎で余程することがないと見える」
 「イイエ、兄も信濃に行ったのは今年に入ってからですので、都で姉上に種付けした子どもです」
 「下品な言いようだなぁ」と佐吉(さ きち)は笑い、そして「(ゆき)様も何もない田舎で心細かろう……」とまた笑った。(ゆき)様≠ニいうのは恒成(つね なり)の妻の名である。
 「先ほどから田舎、田舎と申しますが、住めば都と申しまして海野郷もなかなか良い所でございます。都寄りの小高い山の上に(やかた)も完成しましたし、(ゆき)姉さんもまんざらでありませんよ。きっと安心してお子をお産みになるでしょう」
 「ならばよいが……滋野善根(しげ の よし ね)殿の方はどこに住まわれているのだ?」
 「叔父(お じ)さんは上田の国分寺におります。信濃国全体を見なければなりませんので、駒の方は専ら兄上と私がやっています──」
 「まあ、元気そうで何よりだ」
 入京直前の慌ただしさに追われながら、駒に(くつわ)をはめ換え緋色(ひ いろ)と金の面繁(おも がい)手綱(た づな)を付けて、きらびやかな(くら)(あぶみ)胸繁(むな がい)を掛け厚総(あつ ふさ)を垂らし、(あで)やかな尻繁(しり がい)を飾って荘厳な姿へと仕上げていく。その逢坂(おう さか)(せき)を通る神々しいまでの駒の行列の光景は、後に紀貫之(きの つら ゆき)が、
 『望月の駒ひき越ゆる山見(やま み)れば覚束(おぼ つか)なくも()かずぞありける』
 と歌ったほどに、駒迎(こま むかえ)の人々を熱狂させて、この年の駒牽(こま ひき)の儀式は(とどこお)りなく行なわれる。
 
 その夜は満月、時を同じくしてここは信濃国は望月の(やかた)──
 (あるじ)の望月恒成(つね なり)がいつになく落ち着きのない様子で真新しい広間の床の上をそわそわ歩き回っていた。そのはずである、奥の(へや)では今まさに、妻の(ゆき)が彼にとって第一子となる子を産もうと、地獄(ぢ ごく)閻魔(えん ま)(むち)打たれるような苦しみの悲鳴をあげているのである。
 「お(やかた)様、もう少し落ち付かれては如何です?」
 と他人事のように声をかけるのは側付(そば づ)きの平五郎という男。年恰好は(あるじ)恒成(つね なり)に似ているも、泥で汚れた(きぬ)や乱れた平緒(ひら お)()れは、働き者ではあるが粗忽(そ こつ)な性格を表わしていた。
 「ええい(やかま)しい、これが落ち付いていられるか!」
 そう怒鳴り声を挙げた時、突然大きな産声(うぶ ごえ)(とどろ)いた。
 「生まれたか!」
 恒成がそう叫んだと同時に息せききって館に飛び込んで来たのは一人の馬丁(ば てい)(馬の世話や口取りをする者)。これまた喜びの血相で、
 「う、産まれました!」
 と館に入るなり大声を挙げた。
 「産まれたか!」
 と同じ様に叫んだのは平五郎。時を同じくして館の曲輪(くるわ)に建てた(うまや)でも一疋の駒が産声を挙げたらしい。恒成(つね なり)と平五郎は顔を見合わせた。
 すると、奥の室からお産の手伝いをしていた下女が飛び出して来て、
 「おめでとうございます! 姫にございます!」
 と主に伝えた。馬丁(ば てい)の男は不思議そうな顔をして、
 「いいえ産まれたのは(おす)でごぜえます……」
 と呟いた。
 奇しくもこの夜、満月の光の中、館の者たちは主の娘と一疋の望月の牡駒が同時に生まれたことを知る。その玉の赤子の産声は満々とした生命力を讃え、その牡馬(おす うま)は数百年に一疋とも思われる美しい月毛を月の光で輝かせていた。
 恒成(つね なり)は、
 「同じ()(づき)の日に姫と駒が同時に生まれるとは何と目出度(め で た)い事だろう! この姫を生駒(い こま)姫≠ニ名付けようぞ!」
 と叫んで赤子を抱き上げ月光にかざした。
 それから間もなくして清和天皇の第四皇子(おう じ)貞保親王(さだやすしんのう)が誕生する。都の恒蔭(つね かげ)は、息子恒成(つね なり)をその家司(いえの つかさ)にするため都に呼び戻し、恒成(つね なり)は愛しい妻と娘を望月に残して単身平安京へと旅立った。
 

 
 馬飼(うま か)いはこの当時の花形職(はな がた しょく)である。
 たいてい上級貴族であれば、朝廷から与えられる(こま)を一(ぴき)は所有したものだが、下級貴族などはそうもゆかず、必要な時は朝廷が管理する馬寮(ま りょう)から借りて乗るのが普通であった。増して農民などの平民にとっては高嶺(たか ね)の花で、駒に乗るなど一生に一度あるかないかの特別な事なのだ。ところが馬を育てる彼らは駒に乗らなければ仕事にならない。だから自分の駒とはいかないまでも、ほとんどの馬飼いは駒にも乗れて、それが(まき)(うまや)を管理する上役ならば大抵自分専用の駒を所有していた。これが役得(やく とく)というものである。
 とはいえ、その仕事内容はなかなか忙しく大変だ。
 山野で放し飼いするには、馬が敷地内から逃げないように、溝を掘ったり柵を作ったりする野馬除(の ま よけ)≠フ整備は不可欠である。これは馬によって農耕地を荒らされないようにするためでもあり、逆に鹿(しか)(いのしし)が牧に入り込んで野荒しを防ぐためでもある。と言って年がら年中放しっぱなしかと言えばそうでなく、秋が深まり寒くなる十一月上旬といえば森林内に分散して越冬させ、春四月上旬になると牧の火入れを行なって再び馬を放つ。
 牧に放した仔馬は二才になると左の股に官≠フ字の焼き印がつけられ、その際毛の色と歯才(し さい)(歯の断面の文様)を記録して朝廷と太政官(だいじょうかん)に報告する義務を負った。余談だが馬は牡馬と牝馬で歯の本数が違い、牡馬には犬歯があって全部で四十本、牝馬には犬歯がなくて全部で三十六本なのだそうだ。ともあれこの作業は牧が広ければ広いほど手間がかかり、牧子(まき こ)だけでは手不足だった。そこで近隣農民の手を借りるわけだが、これは毎年九月の年中行事で、なぜ時期が決っていたかといえば、冬期は馬があちこちの森林に分散しているため、放牧されている夏期の間に馬を追い集めて捕える方が手間が省けるというわけである。
 (うまや)で飼われる馬の管理にも決まりがあった。良馬一(ぴき)馬丁(ば てい)一人、宿継(しゅくつ)ぎ馬二疋に馬丁一人、足の遅いのろまな馬三疋にも馬丁一人が世話するよう定められており、馬毎に穫丁(かく ちょう)≠ニ呼ばれる草刈り人夫を一人あてがわなければならない。そのほか牧飼いの場合は馬百疋毎に牧子二人、そのほか一つの牧には責任者一人と書記を置かなければならず、望月の御牧ほどの規模になるとその運営管理だけでかなり大規模なものになる。
 そればかりでない、馬の盗難にも気を配らなければならなかった。絶えず見張りが付く厩飼いならさほどでないが、牧飼いとなれば自ずと目の届かない死角が生じる。馬は高値で取り引きされており、盗めば当然厳しく罰せられるが、牧場内をくまなく見回るのも大層な労力を必要とした。
 さて──、
 大きな病気もせずにすくすくと育つ生駒姫(いこまひめ)は、そんな様々な仕事を自然のうちに覚え、あれからもう(なな)つの年月を数える頃にはすっかり一人前の馬飼いに成長していた。こと(あるじ)の一人娘ということもあり、幼いながらもその権威は絶大で、少しくらい悪い事をしても注意する者など誰もない。わがまま放題に育つのも道理だろう。いま恒成(つね なり)のいない望月の牧を実質的に取り仕切っているのは三郎だが、その彼でさえ兄の娘に対しては遠慮(えん りょ)もあって、手も付けられない程のお転婆(てん ば)なじゃじゃ馬娘に育ってしまった。反面、乱暴な立ち居振る舞いとは裏腹に、容姿の美しさと言ったら信濃国全土に聞こえるほどで、
 「これでものを言わなければ白百合(しら ゆ り)吉祥天(きっしょうてん)だ」
 と揶揄(や ゆ)されながら、そんな陰口を聞くたび、
 「それは何じゃ? 上野国(こうずけのくに)の駒の名か?」
 と、本人には自らが美しいなどという意識は微塵もない。
 そんな姫が最も大切にしていたのは、自分と(おな)()(おな)(とき)に生まれたあの月毛(つき げ)の駒で、月毛丸(つき げ まる)≠ニ名付けたその駒は、毛並みの美しさは去ることながら、望月のどの馬よりも早く走り、そして馬力もあった。その月毛丸(つき げ まる)を自分専用にして、暇さえあれば牧場(まき ば)を駆け抜け野山を走り、行く先々で鳥や虫たちと気儘(き まま)に遊ぶ。その光景は馬を乗り回して遊ぶというより、どこか恋人同士の戯れにも似ていた。
 あるとき見兼ねた三郎が、
 「月毛丸(つき げ まる)はいずれ天子(てん し)様へさし出さねばならないお(うま)ですから、あまり仲良くなさらない方がよろしい。別れが一層(つろ)うなります」
 と言ったことがある。すると即座に、
 「何を申すか、コノ三郎やい! 月毛丸(つき げ まる)≠ヘ誰にもやらぬ、ずっと(わらわ)と一緒じゃ!」
 そう言ってかの馬の背に乗り駆け出してしまった。追いかけようにもまぁ速い速い、速いのなんの──生駒姫(いこまひめ)身体(からだ)が小さく軽い所為(せ い)もあるだろうが、その駆ける姿は疾風(しっ ぷう)稲妻(いな づま)の如くに、もはや全国筆頭(ひっとう)の望月の御牧(みまき)にさえ月毛丸(つき げ まる)に勝る駒など一疋もないから日本一(にっぽんいち)駿馬(しゅんめ)に違いない。それきり三郎も目を(つぶ)っているより仕方ない。
 それにしても不思議なのは、生駒姫(いこまひめ)月毛丸(つき げ まる)は会話ができた──。
 人と馬が話をするとはやや現実離れした特異さを覚えるかも知れないが、(おな)()(おな)(とき)に生まれた(よしみ)に天が授けた能力か、生駒姫(いこまひめ)が「遊ぼ」と言えば月毛丸(つき げ まる)は耳を回して「ヒヒン」と応え、「今日は寒いのぉ?」と問えば口を動かし「ブルル」と答え、「さあ、仕事に参ろう」と言えば耳をピンと立て前足を挙げて、それはそれは嬉しそうに跳ねたものだった。その様子があたかも会話をしているように見えるのだが、姫に言わせれば月毛丸(つき げ まる)が何を言ったかその人の言葉がすっかり理解できるらしい。長い時間馬と過ごしていれば、例え相手が畜生(ちくしょう)だとしても、ある程度は互いの気持ちが解かり合えるものか。物心がつく以前からいつも一緒で、何かあってもなくても絶えず寝食を共にしてきたためか、生駒姫(いこまひめ)月毛丸(つき げ まる)の間には第三者には入り込めない意識の領域があるらしい。それは何十年も一緒に生活する夫婦以上に甚深(じんしん)繊細(せん さい)なものだった。
 
 このころ都では突然清和天皇が譲位した。そして第一皇子(おう じ)貞明親王(さだあきらしんのう)が皇位に()いた。
 ここに第五十七代陽成天皇(ようぜいてんのう)が誕生したわけだが、このとき陽成(ようぜい)は僅か九歳──、その摂政に就いたのが藤原基経(ふじわらのもとつね)だった。これと同時に第四皇子(おう じ)貞保親王(さだやすしんのう)の即位の可能性はなくなり、恒蔭(つね かげ)の野望もついえた。
 後述もするが、九歳で皇位に就いて僅か十五歳で退位した陽成天皇には奇妙な(へき)があった。(かわず)(へび)などを好んで見つけては捕え、また犬と猿を喧嘩させては大喜びで観戦したと言う。またある時は近くにいた人を高い木に登らせて、
 「そこから飛び降りて見せよ」
 と命じて墜落死させたりと、後の記録には暴君として描かれる。
 いずれにせよ、貞保親王が皇位に就くことはないだろうとは誰もが予測できたことではあるが、その時≠ェあまりに早かった。これ以降貞保親王(さだやすしんのう)は、天皇を支えるための学問を磨き、笛や琵琶、和琴や尺八などにのめり込んで衆芸(しゅう げい)の道を極めていくことになる。
 その貞保親王(さだやすしんのう)に娘を()し、息子を彼の屋敷に送った恒蔭(つね かげ)は、このところ毎日ひどく不機嫌だった。諦めの悪い彼は息子の恒成(つね なり)を屋敷に呼びつけ、
 「お前の娘は幾つになったか?」
 と(やぶ)から(ぼう)に聞いた。
 「生駒(い こま)にございますか? 七つにございます──」
 駒牽(こまひき)のたびに望月に帰る恒成(つね なり)は、我が娘の成長ぶりをよく知っている。
 すかさず「どうか……?」と恒蔭(つね かげ)が聞いた。
 「どうかと申しますと……?」
 「陽成(ようぜい)大君(おおきみ)の后にじゃ──年も近いし似合いではないか?」
 この時代の男女は共に早熟である。全てとは言わないが、男子は十二といえば元服して添臥(そい ぶし)したし、女子も月の物が始まれば子を産んだ。だから九歳、七歳で結婚といってもけっして異常でなく、むしろ政権を虎視眈々と睨む者にとっては当然の発想なのだ。
 「生駒(い こま)はどうもいけません。暴れ馬に似て気性が荒く、あれでは宮中に向きません」
 「そんな事など聞いておらん。御所に住まえば自然と宮中の女になるわな」
 「し、しかし……生駒(い こま)は何と申すか……?」
 「阿呆、天皇の后だぞ、()いも(いや)もない。今度の駒牽(こまひき)に連れて参れ。大君(おおきみ)に目通りさせよう」
 そんな事を一方的に言われても生駒(い こま)姫にも()≠ニいうものがあろう。そう言い返そうとした恒成(つね なり)を尻目に、恒蔭(つね かげ)は息を荒げて席を立った。
 仕方なく、望月に帰って開口一番、
 「父と共に都へ参ろう。大君(おおきみ)様の后にしてやろうと祖父君(そ ふ ぎみ)が仰せだ」
 と伝えれば、生駒姫は最初きょとんとした顔をして、
 「それはどういう事ですか?」
 と問い返した。
 「いま日ノ本で一番偉いのは陽成(ようぜい)天皇様だ。年もお前と同じくらいで祖父君(そ ふ ぎみ)もお似合いだと仰る。けっして悪い話でない、父と共に都へ参ろう──」
 「それは望月を離れよということですか?」
 「左様(さ よう)」と言うが早いか生駒姫は、
 「父君など大嫌いじゃ!」
 と言い捨て、館を飛び出したと思うとそのまま厩の月毛丸(つき げ まる)に飛び乗った。「まてっ!」と後を追いかけるも月毛丸の背に乗った生駒姫の姿は瞬く間に霧の中へと消えてしまった。
 「いつもあの調子なのです……」
 と三郎が困り顔で言う。そして続けて、
 「姫は望月を離れるのが嫌なのではありません。月毛丸(つき げ まる)と別れるのが嫌なのです」
 「あの月毛の駒か……。そろそろあの駒も献上せねばならんだろう。今度の駒牽になんとか連れて参りたい。お前からも説得してくれ……」
 「こりゃ難儀──」
 と相談し合っていることなど()うに承知の生駒姫。跳び出したきり駒牽の一行が望月を出発する時を迎えてもどこかに身をくらませたまま遂に戻ることはなかった。
 万が一にも宮中での駒牽行事に間に合わなかったではただで済まされない恒成(つね なり)は、結局この時は諦めて都に戻り、恒蔭(つね かげ)に大目玉を喰らう。
 そうこうしているうちに陽成天皇は乳母(めのと)紀全子(きの また こ)という女を殊の外寵愛するようになってしまった。恒蔭(つね かげ)の苛立ちはますます増して、最近では近くに寄り付く者もない。
 

 
 数年が過ぎ、生駒姫はますます美しい乙女へと成長を遂げた。
 その噂は信濃国だけに留まらず、ついには都にまで伝わった。気性の荒い彼女を知らない都の男たちは、勝手な妄想に胸を膨らませ、
 「影さやけ月毛の(こま)の背に咲くる香る山百合(やま ゆ り)望月の月」
 といった歌を流行らせては遠く離れた信濃国に思いを馳せた。
 そんな事など露ほども知らない生駒姫は、今日も月毛丸(つき げ まる)の背に乗り牧野を駆け巡って遊んでいる。野馬除(の ま よけ)を軽々飛び越え牧の外へ駆け出せば、そこは流れる雲に浅間が迫り、二人を邪魔する何もない自由な世界が広がっていた。
 ところがどうしたことか、その日の生駒姫(い こま ひめ)はどうも気が乗らない。そればかりか急に腹痛を覚えると、間もなく腰まで痛くなってきた。思えば朝から体も重く、どこか憂鬱(ゆう うつ)な心持ちが続いていたのだ。
 たどり着いた清らかな川は鹿曲川(か くま がわ)だろう。流れのほとりで、
 「少し休もう──」
 と駒から降りた彼女は、ひどい眩暈(めまい)倦怠感(けんたいかん)で身体をうずくめた。心配した月毛丸(つき げ まる)は、
 「姫、どうなさいましたか?」
 と、生駒姫(い こま ひめ)にしか聞こえない特殊な声で言ったが、
 「うるさい! 静かにしていろ!」
 いつにない荒い言葉に月毛は驚いた。
 「具合が悪いのですか?」
 「少し眩暈(めまい)がしただけだ……すまんが落ち着くまで黙っていておくれ……」
 月毛はつぶらな瞳で心配そうに生駒を見つめた。
 突然陰部(ほと)のあたりにぬめりを感じた生駒(い こま)は「なんだろう?」と思って手を当てた。そしてべっとりと手に付着した黒い血の(かたまり)を見て蒼白(そうはく)になった。咄嗟(とっさ)に悟られまいと月毛を見れば、心配そうにじっと見つめて、
 「どうなさいました……?」
 「なんでもない──」
 生駒(い こま)は自分の身体に何か途方もない異変が起こった事を悟り、暫くは頭の中を真っ白にしていたが、やがてドロリとした真っ赤な血に我を取り戻し、気付かれないように洗い流してしまおうと川に飛び込み下半身を水に浸した。
 気が気でない月毛はそっと近寄り、大きなおでこを小さな彼女の(ひたい)に当てて、
 「熱があるではありませんか? すぐに館に戻りましょう──」
 「ええい、(ほお)っておけ、大丈夫(だいじょうぶ)だ!」
 生駒(い こま)は慌てて馬の頭を振り払ったが、振り払われた月毛の目がとらえたのは、生駒(い こま)太腿(ふともも)の内側のつけ根から川にさらわれる一筋(ひとすじ)の血液だった。
 「血……? 血ではありませんか! 姫、それは一体……!?」
 後になってみれば笑い話だが、このとき二人は二人とも、女性の身体に起こる月経(げっけい)というものを知らない。それは生駒(い こま)初潮(しょ ちょう)だったのだ。次の月にも同じ事が起こり、生駒(い こま)姫は(うち)の者に悟られまいと必死に努めるが、(また)の辺りを血で汚した(きぬ)を見た(さち)が、少し笑いながら、
 「おめでとう!」
 と嬉しそうに言ったのを聞いて首を傾げた。
 「それは月物(けがれ)と言って女の人なら月に一遍(いっぺん)誰にでもあることよ。赤ちゃんを産む身体になった証拠──」
 と教えてくれた。このとき命が救われたと安堵(あん ど)するが、あどけなさを残す彼女はまだそれを知らない。
 「月毛丸(つき げ まる)、この事は母君にも三郎にも絶対に言うな! つまらぬ事で心配させたくない……」
 「し、しかし、姫!」
 「いいから(わらわ)の言うとおりにせぇ!」
 「そういうわけにいきません! 傷口をお見せ下さい」
 月毛は血相を変えて生駒(い こま)(えり)(くわ)えて河原に引きずりあげると、(すぞ)をめくって血の出る部分を優しく()め始めた。
 「やめろ、こしょばい──」
 「動かないで下さい……」
 人と馬との越えられない(はず)(しゅ)(さが)を超越したのは、きっとこの時だったろう。
 
 さて、このころ都では──
 貞保親王(さだやすしんのう)望月恒蔭(もちづきつねかげ)の娘との間に生まれた子は、親王妃の名である(きく)の住む館で生まれたことから菊宮(きくのみや)≠ニ呼ばれた。史料によっては同父母の子に(みなもとの)基淵(もと ぶち)という人物もいるが、これは菊宮(きくのみや)と同一人物としておこう。この子は貞保親王が元服する前に儲けた子であるが、陽成天皇が元服する際、同母藤原高子(ふじ わらの こう し)はまだ元服を済ませていない貞保親王を(おもんぱか)り、同じ時に二人一緒にその儀式を執り行った。そして貞保親王は三品(さんぼん)に叙せられ上野太守(こうずけのたいしゅ)に任ぜられる。時に元慶(がん ぎょう)六年(八八二)の事である。
 このときくすぶっていた望月恒蔭(つね かげ)の野望が再び燃え上がり、
 「菊宮(きくのみや)の妃に生駒姫を()そう!」
 とまた言い出した。それも前回の失敗を受けて今度ばかりは引っ込めそうもない。父に強く迫られた恒成(つね なり)は、望月に戻って再び生駒姫にその話を伝えることになる。
 このとき生駒姫十三歳──、
 その美貌は父でさえ目を見張るほどで、初潮の時より彼女の中の女性の(さが)が目覚めたものか、あるいは人というものは成長とともに社会の(あらが)えない現実を否が応にも受け入れるものか、以前のお転婆ぶりはすっかり陰を潜め、しとやかさが備わった分いっそう美しく見えたのだった。
 新月の晩のことである。なかなか首を縦に振らない生駒姫にしびれを切らした恒成(つね なり)は、
 「頼む、父の願いじゃ! けっして悪い話でない。この牧を更に栄えさせるために()ってはくれぬか!」
 と頭を下げた。その時の大きな声は、館のすぐ脇の(うまや)で飼われる月毛丸(つき げ まる)の耳にもはっきり聞こえ、瞬間耳がピンと立ったのは、言葉の意味を深く理解したからである。ほどなく「わっ」と涙を流した生駒姫が厩の中に飛び入って、月毛丸(つき げ まる)をぎゅっと抱きしめた。
 「都にゆくのですか?」
 と月毛が悲しそうに言った。
 「どうしてよいか分からぬのじゃ……」
 「ゆかないで下さい!」
 月毛は鼻面(はな づら)を姫の頬にすりつけたが、涙に暮れる生駒は何も答えることができなかった。仮に月毛が人の姿をしていれば、別れ行く運命に打ちひしがれる恋人同志にも見えただろうが、第三者の目には単なる動物との別れを悲しむ童女にしか見えない二人には、このとき既に人知れぬ同じ感情が芽生えていた。それは、口にしたところでとうてい人には理解できない恋愛感情であることを知っていた。
 次の日から月毛丸(つき げ まる)はすっかり食欲をなくし、その様子に三郎は頭を抱え込んだ。
 「おい、どうしたのだ? このところ何も食べぬではないか──姫様も元気をなくし、お前に乗ることもめっきり減った。このままでは朝廷に献上するどころか、体力が落ちて死んでしまうぞ……」
 しかし月毛は身体を伏したまま悲しそうな眼を浮かべるだけで、
 「参りましたなぁ……。姫様は(ふさ)ぎ込み、望月一の駒も病とは──」
 と、困り顔で恒成(つね なり)に訴えた。
 「生駒の事はともかくも、望月一のあの月毛の駒を死なせるわけにはいかん。なんとかせい!」
 「そう申されましても……このところ全く()()を食わんのです」
 三郎は一等上等な食べ物を与えたり、あの手この手と様々に手を尽くしたが、隆々としていた筋肉は衰える一方で、毛並の色もくすんでいくばかり。いくら考えても原因が分からない三郎は、ついに浅間山に住む行者(あんじゃ)に占ってもらうことにした。すると行者は、
 「この馬は生駒姫に恋をしている──」
 と笑いながら言った。驚愕したのは言うまでもないが、生駒姫までもが同じ感情を抱いていることを知った恒成(つね なり)は激怒して、
 「親王様の御子に召そうとする姫に思いを寄せるとはけしからん!」
 と叫んだと思うと、荒い足取りで月毛丸(つき げ まる)の厩に駆け入って、
 「きさま、馬の分際で! 身の程を知れ! 汚らわしい!」
 近くにあった(むち)で何度も何度も力の限りに打ちつけた。痛々しい悲鳴を挙げる月毛を見兼ねた生駒姫が鞭と月毛の間に飛び込んで、
 「やめて下さい!」
 と、父を睨みつけた。
 「そこ退()け! 勘弁ならん!」
 「いいえ、どきません! (わらわ)月毛丸(つき げ まる)とともにこの望月で暮らしとうございます!」
 「バカを申すな! 馬と夫婦(め おと)になるとでも申すか!」
 「はい!」
 呆れ果てた恒成(つね なり)と三郎は、何とか二人を諦めさせる手立てはないかと考えた。そして恒成(つね なり)牽駒(ひきごま)を連れて都へ発つ前日になって、
 「日の入りを合図に、今宵九ツ(夜中の十二時)までに、月毛丸(つき げ まる)が望月の御牧を三(たび)めぐり終えることができたなら、お前たちの好きにするがよい──」
 と突然提案した。
 望月の御牧と一言で言ってもその周囲は五、六十キロはあるだろうか? しかも夜中──足許もおぼつかない隘路(あい ろ)を走り続けるなど、いくら望月一の駿馬といえども無謀に思えた。ところがその言葉を聞いた月毛丸の瞳は精気を取り戻し、「ブルル」と言いながら痩せ細った身体をむくりと起こしたのだった。
 その大きな身体を支えながら、
 「誠にございますか?」
 と生駒が言った。
 夏場だから日の入りは遅い。それは恒成(つね なり)が生駒姫に最後の決断の機会を与えた形だった。
 「二言はない。ただし、走るのはこの月毛だけだ。お前はここで待つのだ」
 と恒成(つね なり)が言った。
 生駒は月毛を心配そうに見つめたが、体力が落ちているとはいえ、領内を三(たび)めぐることなど月毛丸(つき げ まる)にとっては雑作もない事のように思えた。しかも望月の御牧は庭同然なのだ。どこに何があり、どこが危険かなど熟知し切っている。二人はしたり顔で頷き合った。
 「もう一度申すが、九ツまでに望月の御牧を三周じゃ。間に合わなければお前もきっぱり諦めて都へ行くのだ。よいな」
 「わかりました──」
 こうして月毛丸(つき げ まる)は勇み立ち、日暮れと共に風のように走り出した──。
 
 ところがそこに三郎の姿がないのを生駒も月毛も気付かなかった。
 このとき彼は、望月御牧の南側に位置する集落とは反対側の険しい地形をした崖の縁に立っていた。そこには獣道にも似た一本の細い道が走り、御牧を一周するには必ず通らなければならない望月領最北端の危険な小路であった。
 「急げ! 日暮れと共に馬が城を出る。走り出したら半時もせぬうちにここに来るだろう。急げ!」
 数人の馬丁(ば てい)を従えた三郎は、脇にある大きな岩の上に這い上がって、重そうな無数の石を積みあげる男たちにそう言った。
 「本当にやるんですかい? あのような駿馬は、この後何年待ったって出てきませんぞ」
 陽が沈みゆく中、伴をする平五郎が口惜しそうにそう言った。
 「生駒姫様に諦めて頂くためだ、仕方ない。望月家の将来がかかっている……」
 三郎はもともと人道に外れた事が大嫌いな男であった。だから生駒姫の気持ちも大切にしたいと思っていた。しかしそれに増して忠誠心の強い男であった。例え主君の判断が人道に反していたとしても、それに従う事は彼にとって正義であった。そのうえ運動神経も並外れ、暗闇でも目が利いた。さらにその場その場における瞬時の適応能力は抜群で、仮にこの時代に忍者というものが存在していたとしたら彼は正にそれであり、おそらく全国で彼の右に出る者はないだろう。
 このときも馬が駆けて来る音に真っ先に気付いたのは彼だった。
 「もう来たか。あれほど弱っていたのに随分と早いじゃないか──身を潜めよ」
 積み上げた大きな石を見て「まだ足りん」と首を傾げて三郎が言った。数人の馬丁たちは言われた通りに近くの草陰や太い木の幹に身を隠すと、間もなく月毛丸が疾風の如く駆け去った。
 「月毛のやつめ──暗闇だというのに目が見えるのか? さあ急げ! 領内を三周してしまったら姫があの駒の嫁になってしまうぞ」
 獣のように物陰から姿を現わした馬丁たちは、再び石を積み上げる作業を開始した。
 月毛丸(つき げ まる)は身体をよろつかせながらも領内を走り抜ける。
 その姿は以前のような力強さこそないものの、吐く息は乱れず、その目には確かな光が宿っていた。それは行きつく果てにある愛する女性との幸せな生活であり、
 「姫はもう誰にも渡さない!」
 という堅い決意の顕われだった。希望とは、全ての生きとし生ける者に無限の力を与えるものだ。土を蹴り草花を散らし砂を巻き上げ、川を走れば水しぶきをあげて、まずは順調に一周を回り終えて館の前を通り過ぎた。空を見上げれば上弦の月が浮かんでいた。
 あれよあれよという間に、三郎の耳は二周目の月毛の走り来る音を捉えた。
 「どうします? やりましょうか?」
 三郎は積み上げた石の量を見て、
 「待て……失敗は許されぬ。もっと積み上げて次に確実に仕留めよう。あっちの手筈はどうだ?」
 何か別の画策を隠しているようで、
 「大丈夫です。合図を送れば直ぐに火矢を放って知らせます」
 と、平五郎はそう答えて月毛が通り過ぎるのを待った。
 まだ九ツには間があった。二周目を回り終えて館の前を通り過ぎた時、生駒姫と月毛丸は自分達の勝利を確信した。
 ところが三周目に入り、三郎たちが待ち構える崖の手前まで来た時、闇夜の中に小さなオレンジ色の光がサアっと走ったのを見たと思うと、どこからともなく遠い場所から、まだ鳴るはずのない九ツの鐘の音が響き渡った。
 「まさかっ!」
 月毛丸は蒼白になって、俄かに走る速度が鈍った次の瞬間──
 雷の鳴るような音をたてて、頭上から大きな石の塊が雪崩(なだれ)のように転げ落ちて来たのである。
 月毛は、全てが恒成(つね なり)と三郎の画策だった事を悟りつつ、生駒姫の美しい姿を思い浮かべながら、胸が張り裂けそうな悲しみを抱いて真っ逆さまに谷底へと落ちていった。
 「やった! この高さではとうてい助かるまい。さあ、帰ろうか……」
 三郎は真っ黒な谷の底を見つめて呟いた。
 一方、館で月毛が戻るのを待っていた生駒姫は、九ツを知らせる鐘の音に大きな疑問を抱いて恒成(つね なり)に飛びついた。
 「どうして? 何故九ツの鐘が鳴るの? 月はまだ上空にあるじゃない!」
 「はて……? 寺社の和尚が鐘を打つ刻限を間違えたか?」
 恒成(つね なり)はうそぶき、
 「残念だったなあ、月毛は戻って来ぬようじゃ」
 と冷たく言った。
 その人を(あざむ)欺瞞(ぎ まん)の目付きに生駒姫は父の(はかりごと)だと咄嗟に悟った。刹那(せつ な)、怒りに任せて父の腰の刀をスルリと抜き取り、美しい自分の黒髪を根元からバサリと断ち切った。
 「バカもん、何をするか!」
 「父上が私たちを騙した以上、この約束は破綻(は たん)です。私は都へは参りません!」
 「だ、騙してなどおらぬぞ。そんなことより髪を切るとはなんと浅はかな!」
 髪のない生駒の無残な姿を見て、恒成(つね なり)は愕然として歎いた。
 そんな父娘(おや こ)喧嘩(げん か)の最中に戻って来た三郎が、
 「ひ、姫様……そ、その頭はいったい……?」
 と驚愕の声を挙げた。今度は三郎に飛びついた生駒、
 「月毛はどうした!」
 「はて? まだ戻って来ませんか?」
 父と同じ色の目を確認した生駒は、その場に「わっ!」と泣き崩れると、やがてゆっくり立ち上がり、そのまま走って月毛を探しに闇の中へと消えて行った。
 後を追いかけようとした三郎の腕を掴んだ恒成(つね なり)は、
 「あんななりでは菊宮(きくのみや)様に会わせるどころか、都へ連れて行くこともできん……」
 と情けなさそうに呟いた。
 

 
 陽成天皇から光孝天皇(こうこうてんのう)の治世に移ったのは元慶(がん ぎょう)八年(八八四)二月のことである。
 後に暴君との烙印(らくいん)を押される陽成天皇の最大の過失は、この前年十一月に起きたある事件であった。彼が深く寵愛した乳母(めのと)紀全子(きの また こ)には源蔭(みなもとのしげる)という(れっき)とした夫がいたが、その子である源益(みなもとのまさる)が突然殿上で何者かによって殴殺(ぼく さつ)されたのである。内裏(だいり)内の事件だったことから外に漏れることはなかったが、宮中では嫉妬(しっ と)した陽成天皇の仕業(し わざ)だと噂した。
 更にこの事件の直後にもまたある問題を起こす。
 元来馬好きの陽成天皇は宮中に内緒で(うまや)を作り馬を飼っていた。かつて猫や犬なら飼われていたが、馬というのはちと大きすぎたことに加えてちと臭い。いけなかったのは宮中に出入りの許されていない者を勝手に入れて密かに世話をさせていたことで、この事実が明るみに出た時に関白だったのが藤原基経(ふじわらのもとつね)だった。陽成天皇は彼の妹藤原高子(ふじわらのこうし)の実子なのだから穏便に済ませればよいものを、もともと基経と高子の兄妹(きょうだい)は陽成が元服した頃からの犬猿の仲だった。基経は「これ幸い」と言うが如くに天皇の取り巻きと馬の全てを追放してしまう。そしてこれを機に陽成天皇の退位を迫った。まだ年少で孤立した陽成に抗する術はなく、仁明天皇の第三皇子である時康親王(ときやすしんのう)(光孝天皇)が即位したという経緯がある。時に光孝天皇五五歳の即位だった。
 更に三年後の仁和(にん な)三年(八八七)八月には宇多天皇(う だ てん のう)が即位した。
 わずか数年で天皇が換わったのは、前の光孝天皇が病によって崩御(ほう ぎょ)したためで、このとき清和天皇第四皇子で藤原高子を母とする貞保親王(さだやすしんのう)が皇位に就く可能性もあったが、高子の兄で関白の藤原基経(ふじわらのもとつね)はそれを嫌った──。
 再び皇位から遠のいた貞保親王(さだやすしんのう)は、このところ専ら琵琶や笛などの衆芸に夢中である。
 滋野恒蔭(しげ の つね かげ)の娘との間にもうけた菊宮(きくのみや)(こと)(ほか)可愛がり、その様子と言ったら、まだ物心つく前から音楽に親しむようにと片時も膝の上から放さず、自ら奏でる琵琶の演奏を聞かせるのである。否、それは可愛がるという言葉に名を借りた衆芸の英才教育と言った方がよいかも知れない。
 もともと貞保親王の琵琶の腕前は父清和天皇からの手習いで修得したもので、笛については名手古部春近(ふる べ はる ちか)という男に習い、今では管絃長者≠ニか天下無比(む ひ)の名手≠ニまで称されるほどだった。勅命による笛の伝授や琵琶秘手の伝授も行い、自ら作曲もすれば途絶えて幻となっていた曲も復活させるというようなこともしていた。この時代、衆芸においては彼に肩を並べる者はなく、加えて容姿も優れていたから、その子菊宮(きくのみや)の成長も何かと宮中の話題にのぼる。その菊宮(きくのみや)も今はもう十歳に成長していた。
 ある日のことだった。
 いつものように天皇のおわす清涼殿(せい りょう でん)において、貞保親王は菊宮を膝の上に置き、皇族たちを相手に琵琶を弾いて聴かせていた。そのとき一羽の(つばめ)が清涼殿に舞い込んで貞保親王の頭上を二、三回旋回したかと思うと、それに目を奪われた菊宮が喜んで膝から離れて燕を追いまわした。親王は琵琶に夢中で気にする様子もなかったが、見ていた皇族たちはその光景を微笑ましく眺めていたのである。ところがこのとき燕が(ふん)を落とし、それが運悪く菊宮(きくのみや)の目の中に入ってしまった。
 突然菊宮は大声をあげて泣き出したが、貞保親王は別段驚きもしないで琵琶の演奏を続けた。これが原因で菊宮は失明する。
 失明どころか激しい目の痛みを訴えるのを心配した宇多天皇は、
 「菊宮の目を治すために何かよい方法はないか?」
 と宮中の者たちに尋ねると、中に、
 「鹿沢(か ざわ)の湯が眼病に利くそうでございます」
 と教える者があった。詳しく聞けば、それは、
 「信濃国にある」
 と言う。
 かつて日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征の際、山中で一頭の白鹿を見つけ、これをめがけて放った矢で負傷した白鹿は、その湯に浸かって傷を癒したと云い、また、孝徳天皇(こうとくてんのう)年間(白薙(はく ち)元年・六五〇)には、山峯から()す光明を怪しんだ里人が、漂い来る湯煙に誘われて近づいてみると、地より熱湯が湧き出ているのを見つけ不思議な声を聞いた。
 「我は東方薬師如来(やく し にょ らい)である。されば一切衆生(いっ さい しゅ じょう)に生・老・病・死≠フ四苦あり。その苦しみをたすけ、寿命長穏(じゅ みょう ちょう おん)の薬を与え、現世の身心を安らかにせしめ、困苦を救うために薬師の号を得た」
 と。そこでその場所に薬師如来≠祀り、『諸病を治する名湯』として鹿沢(か ざわ)の湯≠フ名が宮中にまで届いていると語った。
 「して、その湯のある場所は誰の知行(ち ぎょう)か?」と天皇が問うと、
 「海野荘(うん のの しょう)望月御牧(もち づきの み まき)のある所で滋野(しげ の)氏にございます」とその者は答えた。
 ──鹿沢温泉(鹿沢(か ざわ)の湯)は現在の群馬県にある。地理的に言えば県の最西端に位置し、県境の浅間山西側の地蔵峠(じ ぞう とうげ)を十キロばかり行けばそのまま東御市(とう み し)に入る。つまり、当時そこは滋野氏の領であった。
 こうして滋野恒蔭(しげ の つね かげ)が宮中に呼び出された。
 ところが老齢になったこともあり、()うに野心が消え失せた彼にもう権力への執着はなかった。軽くあしらって三男の三郎にその任の全てを任せたというわけである。
 三郎は、菊宮を連れて鹿沢(か ざわ)の湯にやって来た。そして昼夜に渡って菊宮を湯に入れていると、たちまち目の痛みが消えて平癒(へい ゆ)した。しかし視力は二度と快復することはなく、この後菊宮は目宮王(めみやのおう)()見えぬ王)≠ニ呼ばれて信濃国で生涯を過ごすことになる。
 

 
 さて、月毛丸(つき げ まる)を失った失意の生駒姫(い こま ひめ)である──あれから十年という歳月が流れ去っていた。
 その間の朝廷での出来事を述べておけば、権勢をふるっていた藤原基経が世を去り、宇多天皇は自ら法皇となって醍醐(だい ご)天皇へ譲位しようとしていた時分に当たる。彼の行なった『寛平(かん ぴょう)()』により政治は比較的安定してはいたが、都の時の流れとは明らかに違う軌道に乗って、生駒姫の穏やかな暮らしはうつろいゆく季節を感じるだけである。気付けば(よわい)も二十七になろうとしていた。
 月毛が滑落した谷の近くに小さな(ほこら)を建てて、剃髪(てい はつ)して尼になった彼女は、近くの粗末な(いおり)を借りて侘びしく住んでいた。そこは海野荘の東に位置する深井何某(なに がし)と名乗る土豪の土地であり、彼女の父恒成(つね なり)は、その身を案じて密かに生活を見守るよう深井氏に命じていたが、あの出来事以来すっかり心を閉ざした生駒は父との関係を断絶し、決して滋野望月の家の者とは会おうとしない──。
 そんな彼女のところへ、ある日突然目宮王(めみやのおう)の手を引いてひょこり顔を出したのは三郎である。時を尋ねれば寛平八年(八九六)の十五夜も近づく秋だろう、もう日が沈みかけていた時分である。
 彼の顔を見た途端、生駒は庵の扉を堅く閉ざして二人を外に(ほう)り置いたままにしていたが、
 「まだ根に持っていらっしゃいますのか? わしはともかくお連れした目宮王(めみやのおう)様には関係ないこと。皇族のお方なのだが目がご不自由じゃ。鹿沢(か ざわ)の湯に湯治(とう じ)に参った帰りなのだが、目宮王(めみやのおう)様だけでも中に入れてくれんか?」
 と三郎が言った。
 暫くすると、ソロリソロリと扉が開き、隙間からすっかり尼に姿を変えた生駒が顔を覗かせた。
 「皇族のお方のみ入られよ」
 すると目宮王が、
 「過去に何があったか存ぜぬが、この三郎は目の見えぬ私の手を引いて遥々(はる ばる)都からここまで連れて来てくれた恩人じゃ。お陰で目の痛みが癒えたのだ。私だけ入るわけに参らぬ。三郎を中に入れぬと申すなら私も入らぬ。しかし、もし私を入れてくれるのであれば、どうかこの私に免じて三郎も入れてやってはくれまいか?」
 見ればこのとき十五の目宮王は、光を失った薄鼠色(うす ねずみ いろ)の瞳孔を光らせながらも、夜叉(や しゃ)でさえうっとりするような凛々(り り)しい顔付で、田舎ではとんと見られぬ高貴な身なりに、天から降ってくるような美声でそう言った。その神々しさに生駒は返す言葉も見つからず、思わず「どうぞ」と応えて二人を庵の中へ招き入れたのだった。
 「ずいぶん質素な暮らしぶりですなぁ……」
 庵の中を見回しながら三郎がぼやいたが、生駒は何も聞こえぬ素振りで(かまど)に湯を沸かし始めた。すると目宮王が「おかまいなく」と言いながら、
 「滋野望月恒成(つね なり)殿のご息女と聞いたが、突然の訪問をお許し下さい」
 と頭を下げた。およそここに来る道すがら、彼女の事を根掘り葉掘り三郎から聞いたのだろうが、高貴さと威厳を合わせ持った貴族とは思えない慇懃(いん ぎん)な態度に驚くのであった。
 「いいえ、私は望月とは(えん)所縁(ゆかり)もございません。私は深井の娘でございます。訳あって出家いたしました。お気遣いは御無用……」
 生駒は淡々と応えて祠のある方角に端座して法華経を読誦しはじめた。
 「実は頼みがあって参った」と三郎が言う。
 「目宮王(めみやのおう)様の給仕(きゅう じ)をお願いしたいのだ。今月は駒牽(こま ひき)だというのにここ暫く御牧に顔を出しておらん。実に心配でならん。すぐにでも行って様子を見たいが、目宮王(めみやのおう)様には鹿沢(か ざわ)の湯に入って欲しい。何か良い手立てはないかと考えていたところ姫の事を思い出した。ここからなら馬を走らせれば鹿沢の湯は目と鼻の先じゃ。暫くの間、(きみ)のお世話をしてくれまいか?」
 生駒は読誦をやめて目宮王に視線を向けた。すると彼はあらぬ方向に鼠色の目を向けて静かに、そして上品に笑っている。
 「皇族と申されましたが、どのような筋でございますか? その目はいつから?」
 生駒の立て続けの質問に対し、目宮王は、清和天皇第四皇子貞保親王(さだやすしんのう)の子で母は滋野恒蔭の娘であることや、燕の糞が目に入って失明したことなど、歯に衣着せぬ屈託(くっ たく)のない口調で語り始めた。その語彙(ご い)は一見陽気そうに見えたが、言葉の奥には深い闇というか、人生に対する諦観(てい かん)の念がこもっているようにも聴こえるのだった。その計り知れない悲しみの闇は、どこか生駒の心にわだかまる大きなしこりにも似て、同類の共感を抱かずにいられない。
 「給仕だけならかまいませんが、目が見えぬのに駒にお乗りでございますか? 誰の手も借りずにお一人で鹿沢(か ざわ)の湯へ参ることなどできるのですか?」
 「そりゃ無理じゃ。だからこうして姫様のお力をお借りできぬかと──」と脇から三郎が口を挟む。最初からそんな魂胆であることは直ぐに知れたが、
 「相変わらず小賢しい男だ」
 と言わんばかりに生駒は三郎を睨んだ。
 「目宮王様と申しましたか──貴方様お一人ならばここをご自由にお使い頂いて構いません。しかし、お見受けしたところまだお若い。私は出家したとはいえこの身は女でございます。既に盛りは過ぎたと申せ間違いが起きるとも限りません。けっして私に手を出さぬとお約束くださるならば──」
 だしぬけにはっきり物言う性格は昔のままだ。目宮王は俄かに笑い出した。
 「私が其方に手を出すと疑いか? 安心なさい、私は尼に興味はありません。それに目が見えぬ。ひどい醜女(しこめ)が宮使いをしているとでも思っておりましょう。それに万一私が左様な事をしたらどこへでも逃げればよろしい。私は見えんので追いまわすこともできません。それ以前に女御(にょうご)を持つなどとっくに諦めておりますわい。それより其方の方が妙な気を起こすのではないかと心配です。なにせ父貞保の若い頃の美貌は宮中でも評判で、中には袖に蛍を包んで燃える思いを伝えた者もいたと聞きますから、子の私の容姿もまんざらではありますまい? ──なんなら念書をしたためますぞ」
 こうして目宮王は生駒の庵に身を置くこととなり、その日三郎は慌ただしそうに御牧へと向かった。
 ──その晩、生駒は不思議な夢を見た。
 普段彼女が見る夢は、決まって月毛丸が崖から落ちる光景だった。そのたびうなされ真夜中に目を覚ますのだが、この夜夢枕に出て来た月毛丸は、谷底から竜のように崖を駆けあがって来たのである。そして生駒の前に屹然(きつ ぜん)と立ったと思うと、俄かに人の姿に変じてにっこり笑った。その顔まではよく覚えてないが、真夜中に目を覚ました生駒は、部屋の隅で静かな寝息をたてる目宮王の顔を静かに覗き込んだ。
 
 翌日から生駒の生活スタイルは多少変わった。
 早朝に目を覚まして朝餉(あさ げ)を作るのは同じだが、その分量は二人分。食事を済ませた後は目宮王を馬に乗せ、鹿沢(か ざわ)の湯へ連れて行くのが日課になった。そして目宮王は日がな一日湯に浸かって治療に専念するが、生駒は一旦庵に戻って月毛丸のために経を読み、そのあとは深井の集落へ出掛けて食糧や生活用品を調達したり、寺で雑用など足していれば直ぐに陽は傾いた。普段なら庵に帰って夕餉の仕度を始めるが、この日からは迎えの仕事が一つ増えた。大根を雑に輪切りにして(かなえ)にぶっこみ、水を加えて竈の火にかけると、そのまま三郎が置いていった駒にまたがり鹿沢温泉へと向かうのだ。
 そんな生活にも慣れた頃には、目宮王とも親し気に会話をするようになった。飾らない気さくな性格もあってか次第に心惹かれる自分を感じるようにもなっていた。
 「相すまぬ……」
 朝、目宮王に手を貸して馬にまたがせると、自らは後に乗って馬を走らせる。湯までは四半時もかからず到着するが、その間馬上で、
 「其方はどこで馬乗りを習った?」
 「望月の御牧で育ちましたので、物心ついた時には既に駒に乗っておりました」
 「どうりで──めっぽう上手い」
 というような話もする。そして今晩が十五夜なのを思い出した生駒は、
 「今宵は満月でございます。何かご所望はございますか?」
 と聞いた。
 「おお、気が利くな。私の食べたい物を用意してくれるか?」
 「なんなりと」
 「そうじゃのぉ……月見とあらばやはり団子かのぉ? しかし私は月見は好まぬ。せっかく夜空に真ん丸なお月様が微笑んでおるというに、私にはその姿が見えぬのだから……」
 生駒はまずい事を聞いてしまったと反省しながら、
 「振り落とされないようしっかりつかまっていて下さい!」
 と話をはぐらかせて馬に(むち)を打った。
 そうしてこの日も送り届けると、帰ってから早速団子づくりに取りかかる。心はいつになくとても愉快で、子供のころ月毛丸と一緒に野山を駆け巡っていた遠い昔を思い出していた。
 どうせ団子を作るなら、一世一代の見事なものを作ってやろうと、いろいろ食材を工夫してみたり、器などにもこだわっているうち、団子を丸める段になって時間が過ぎるのを忘れていたことにハタと気付いた。天を見上げればもう陽が沈み、西の空が真っ赤に染まっているではないか。
 「いかん! お迎えの時間がとっくに過ぎているではないか!」
 慌てて馬に飛び乗って、鹿沢の湯に到着した時にはすっかり夜の(とばり)が下りていた。
 「申し訳ございません! 団子づくりに夢中になって、時間をすっかり忘れておりました──」
 そう言いながら、湯煙が濛々(もう もう)と立ち込める中を、湯帷子(ゆ かた びら)姿で湯に浸かる目宮王に駈け寄れば、
 「おお、もうそんな刻限か──」
 と、別段気を悪くした様子もなく、目宮王は掌に湯をすくって両目に押しあてた。
 そうなのだ──この男の住む世界には光がない。昼も夜もなく、彼は永遠に闇の中で生き続けるしかないのだ──。
 そう思うと、ふいに生駒の口から、
 「お背中をお流ししましょうか?」
 という声が漏れた。
 そんな言葉を言うつもりなど全くなかったが、それは無意識といえば無意識の仕業だった。そして果てしない静寂な空間の中に涌いたその小さな感情は、本人の知らないところで勝手に膨張し、その言葉が漏れてしまった途端に不意に我に返って、何かとてつもなくいけない事を言ってしまったような罪悪感にとらわれた。
 「おお有り難い──」
 目宮王は両足を湯に浸したままゆっくりと湯の(へり)に腰掛けると、
 「では、頼む──」
 と、彼女の存在を気にする様子もなくため息を漏らすように言った。
 背中にそっと近づいた生駒は、若々しく美しいだろう筋肉を隠している湯帷子(ゆ かた びら)襟元(えり もと)に手をかけると、「失礼します」と言ってから、うなじからそっと衣を脱がせていった。
 その瞬間──
 両目が「はっ!」と見開かれ、身体が硬直したまま全ての時の流れが止まった。
 どれほどの時間が流れたろう? 暫くして、
 「どうした?」
 と、目宮王が聞いた。
 「こ、この背中は一体……?」
 「何かついておるか?」
 「い、いえ……」
 生駒が目にしたのは、うなじから腰にかけて背骨(せ ぼね)に沿って(たくま)しく生える月毛色の毛並であった。それはまるで動物の(たてがみ)のようであり、今宵、満月の光に照らされてキラキラと輝いているのである。
 「何をそんなに驚いておる? 私は十の時より己の顔さえ見たことがないのだ。まして自分の背中など見えようはずもない。私の背中に何がある? 詳しく説明してみせよ」
 「い、いえ──なんでもございません……」
 生駒はそう云いながら、その立派な月毛の(たてがみ)に顔をうずめた。
 

 
 この後、目宮王と生駒との間に生まれた子は善淵王(よしぶちおう)≠ニ名付けられた。
 そして延喜(えん ぎ)五年(九〇五)には醍醐天皇(だい ご てん のう)より滋野(しげ の)姓を(たまわ)って滋野善淵(しげ の よし ぶち)と名乗る──。
 これが即ち真田家総領となる滋野家の先祖となった──とは、この小説だけの逸話にしておこう。
 更にこののち善淵王は、自らを新皇(しん のう)と名乗って乱を起こした平将門(たいらのまさかど)の討伐軍を率いた平貞盛(たいらのさだもり)と共に信濃を舞台にして戦った。これがいわゆる天慶(てん ぎょう)二年(九三九)に起こった『平将門の乱』である。
 かつて平貞盛は、京都で左馬允(さ まの じょう)の職にあったとき、信濃御牧の牧監滋野氏と懇意だったと言われている。そしてこの戦いの一つの舞台となったのが上田の国分寺であり、このとき勝利を逃がした将門は、
 「千たび首を()きて(むな)しく堵邑(と ゆう)(かえ)りぬ」
 と歌を残して東国へと引き揚げた。
 将門は天皇に歯向かった汚名を残すが、逆に善淵王は、この功績によって朝廷より州浜(す はま)の紋≠フ入った御幡(み はた)を賜り、これが滋野氏の家紋の淵源である。
 目宮王と生駒姫が通った鹿沢の湯までの地蔵峠には、今も一番観音から百体観音が祀られ、鎌倉時代には源頼朝も桟敷(さ じき)を作って湯に入ったと伝わる。そして『王湯』とも称されたその温泉は、難病・重病に利くと全国にその名を轟かせ、江戸期はもちろん大正期に至るまで多くの湯治客で賑わった。
 今は昔の望月城──
 遠い昔に思いを馳せながら。
 
 二〇二三年七月三日
(2023・03・29 望月城および佐久市立望月歴史民俗資料館 上松氏より拾集)