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南天の血
城郭拾集物語G 長野飯山城
飯山城址
飯山城門
正受庵 李雪の墓



 『飯山城は上杉謙信の築城である。(岩井備中守信能公之碑より)』

 小高い丘の上にあるこの城は、もともと常盤牧(ときわのまき)の泉氏の居城だったが、あの川中島の合戦の際は上杉謙信の属城として、当初、信濃出陣のための重要拠点としての機能を果たした。しかし越後と信濃を阻む冬の豪雪期を狙った武田信玄の侵攻(第三次合戦)以降の永禄七年(一五六四)ごろからは、謙信自らの創意による縄張(なわ ば)りで春日山(かすがやま)防衛の(とりで)としての機能を備え、さらには上杉景勝(かげ かつ)の修築も加わって、飯山城は二重(やぐら)を天守に見立てたいわゆる本格的な戦国城郭としての完成を見た。
 東を流れる日本一長い千曲川、西は関田(せき だ)斑尾(まだらお)などの山地が囲み、なるほど越後と信濃を結ぶ軍事的交通の要衝地であることは間違いない。
 独立丘陵を削りならして構築されたこの平山城は、梯郭(てい かく)式に本丸、二ノ丸、三ノ丸が南北に連なり、その西側は帯郭(おびぐるわ)西郭(にしのくるわ)外郭(そとぐるわ)に区画され、四周は一重の濠をめぐらす。本丸の南面は特に防備が固く、その濠は広く、かつ土塁は高く急傾斜で、東北西の三方向には直立に切り立った石垣が築かれている。そして本丸と二ノ丸と三ノ丸には城主の居館や政庁や城櫓があり、西郭は重臣たちの屋敷が置かれ、濠外(ほりそと)は家中屋敷や公共施設、その外側は現在も寺の町≠ニして知られる城下町が発達してきた。
 筆者がこの城に寄ったのは秋も終ろうとする十一月。本丸あたりに立った時だろうか、辺りに漂うどこかで()いだことのある異様な薫りに、懐かしくも温かくもある気分に包まれた。すでにほとんどの木は葉を散らした後だったので、その匂いの正体が何であるかなど全く分らなかったが、それがイチョウに実る銀杏(ぎんなん)の香りだったことは後で知る。飯山市には樹齢およそ五〇〇年とも言われる『神戸(ごう ど)の大イチョウ』という長野県の天然記念物に指定されている大木があるが、その気根は乳房のように垂れ下がって見えることから、地元では、母親がお乳の出を祈願する風習が残っているそうだ。ひょっとしたら飯山城のイチョウも、そんな母の密かな願いを込めて植樹されたのかも知れない。

 謙信の築城より四百五十余年──。
 慶長三年(一五九八)に上杉氏が会津へ移封された後は、関氏、皆川氏、堀氏、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏、本多氏とめまぐるしく城主を替えてきたが、川中島の合戦をはじめとして幕末期には戊辰戦争(うち飯山戦争)等の大事件にも巻き込まれてきた。
 今回扱う話は戦国でも幕末でもない、時を尋ねれば戦国が終って江戸の初期、城主で言ったら佐久間氏から桜井松平氏へと移った頃が舞台。そこに生き抜いた二人の女性の物語だ。
 とはいえ、話は戦国の頃より始めなければなるまい──。



 天正十五年(一五八七)三月、真田昌幸と徳川家康の会見により、昌幸の長男信幸(のぶゆき)と家康の家臣本多忠勝の娘小松姫(こまつひめ)との婚姻が成立した。
 信幸は四男二女をもうけたが、小松姫との間に生まれたのはそのうちの二男二女で、長男信吉(のぶ よし)は伯父真田信綱(のぶ つな)の娘清音院殿(せい いん いん でん)との子であり、四男もまた別の側室との子であるとされている。
 文禄二年(一五九四)、小松姫との間に生まれた次女は名を(まさ)≠ニ名付けられ、それはそれは信幸の可愛いがりようといったら大層なものだった。目に入れても痛くないとはこのことで、(やかた)にいる時などは片時も離さず膝の上に置き、真田氏が歩むお家大事の事情を空言(そらごと)のように話して聞かせた。
 ちなみにこの(まさ)≠ニいうのは父昌幸≠フ一字を取ったものだが、時は関ケ原直後、東軍に付いた信幸の置かれた立場というのが微妙だった。西軍に付いた父昌幸と弟幸村は、そうでなくとも上田合戦で、一度ならずも二度までも徳川の大軍を相手に打ち負かしていたから、信幸は徳川配下の中でも非常に肩身が狭かったのである。それでも父と弟の助命嘆願をするのだが、結縁の決別を表すためには父から授かった信()≠ゥら信()≠ノ名を改めなければならなかった。
 義父本多忠勝の働きかけもあり、昌幸と幸村は辛くも斬首を免れ紀州九度山(くどやま)へ流罪されるが、昌幸が亡くなった際(慶長十六年)はその葬儀さえ執り行うことが許されなかった。上田城は取り壊され、信幸は上田領を引き継いだものの三の丸跡地に粗末な居館を構えて住むより仕方ない。そんな背景から次女(まさ)於千世(お ち せ)≠ニ名を改めたとも考えられるが、この小説では信幸∞昌≠ニ表記していこうと思う。

 大坂の陣で豊臣家が滅亡して間もなく、二十歳の(まさ)に縁談が持ちあがった。
 相手は佐久間勝宗(さ く ま かつ むね)という男で、大坂夏の陣では徳川方として参戦し、家康本陣一番手左の備えとして父安政(やす まさ)やその弟勝之(かつ ゆき)とともに天王寺表で戦功を挙げたこのとき二十七歳の美青年、佐久間家継嗣(けい し)である。
 もともと父佐久間安政は織田信長や柴田勝家の家臣だったが、戦国勢力の変遷の荒波の中で、紀州保田氏、北条氏、蒲生(がもう)氏と主君を転々と替えていたが、秀吉直臣となってからは信濃槇島城(まきしまじょう)を賜り、その死後は徳川家康の傘下に入り関ヶ原で戦功を挙げて近江高嶋を加増され、更に常陸(ひたち)小田を加増されたときは合計二万石の諸侯に列する大名だった。紆余曲折の辛酸を舐めてきた意味では真田氏ともよく似ている。
 昌が嫁ぐ日、信幸は彼女の目をじっと見つめて不思議な事を言った。
 「真田の血と佐久間の血が交われば、日ノ本を一変させる英傑(えいけつ)が生まれるやも知れぬ……。どんなに辛いことがあっても絶え忍ぶのだよ」
 その言葉の意味など知る由もなかったが、昌は心の奥にしまい込んで、父の顔を見つめ返し涙を落した。
 そして元和元年(一六一五)秋、昌は勝宗のいる近江高嶋へと嫁ぐ──。
 その祝言の際、昌の花嫁姿に瞠目(どうもく)する一人の童女があった。年の頃なら三、四歳。そのつぶらな瞳は、まるで昌を京の都の公家のお姫様でも見るような驚きようをして、何も言わずにじっと彼女を見つめるのだった。
 「どうした? 私の顔に何かついておるか?」
 すると童女は顔を真っ赤に染めて、やがてはにかんで逃げていくかと思えば、依然その場に立ち尽くしたまま昌を見つめることをやめない。
 「李雪(り せつ)さま、そんなにじっと見つめては花嫁さんもさぞお恥ずかしいでしょうから、仕度が済むまで姉様たちと遊んでらっしゃい」
 花嫁衣装の準備を手伝う侍女の一人がそう言ったが、李雪≠ニ呼ばれた童女は姿を消すどころかそろりそろりとだんだん近くに寄って来て、やがて、
 「キレイじゃ……」
 と呟き、すっかり昌になついてしまった。こうして花嫁の周囲で(じゃ)れているうちに、嫁入り道具の鼈甲(べっ こう)(かんざし)を踏みつけて割ってしまった。蒼白になった李雪に昌は優しくこう言った。
 「おお、ものの見事きれいに割れたな。片方は其方にあげよう。形見分(かた み わ)けじゃ」
 以来その鼈甲(べっ こう)(かんざし)は二人の(きずな)の証しとなって、たまに見せ合って元の形に戻しては笑うのである。
 この童女は当主安政の十三才はなれた弟勝之の末娘である。だから昌から見て義理の従妹(じゅう まい)に当たる。夫勝宗とは二十一才年上の勝之は今年四十七歳の壮年で、彼には三人の男子に加えて十人もの娘がいた。つまり行く末も安泰と思われた佐久間の家は、安政、勝之、勝宗の絆によって戦国乱世を勝ち越え生き抜いてきたというわけだった。祖父昌幸が流罪地で死に、先の大坂の陣では叔父幸村を失った昌にとっては、一父二子で戦国を乗り越えようとした真田の家ともどことなし重なって、妙な親近感を覚えたものである。
 「私は佐久間の家の女となり、この家の繁栄を築いてみせる──」
 昌の心には密かな決意がみなぎった。
 そしてもう一人、安政(やす まさ)には李雪と同じ年に生まれた安長(やすなが)という息子がいる。つまり勝宗とは二十二歳はなれた弟であるが、李雪と兄妹同然に育つ彼に対しても、昌は「守らなければ」という母性にも似た感情が芽生えるのであった。
 館の近くには「これが海か」と思うほどの琵琶湖(びわこ)が広がっていた。
 山育ちの昌にとってはそれが何より珍しく、李雪と安長を伴なっては波打ち際を歩いて遊んだ。そして湖に反射する太陽の光を見つめては、遠く離れた信州上田の父信幸の顔を思い出す。
 「昌さま……また、とと様のことを考えているの……?」
 新天地で誰一人身寄りのない昌にとって、李雪は唯一の年の離れた親友だった。どこへ行くにも何をするにもいつも一緒で、その仲の良さに呆れた佐久間家の者達は「きっと前世は姉妹か母娘だったに違いない」と言い合った。特に李雪の父勝之などは、
 「そんなにお昌さんが好きなら侍女(じ じょ)になってしまえ! 娘十人のうちの一人くらい勝宗にくれてやるわい!」
 と、本気とも冗談ともとれる言葉を口癖のように言って笑っていたから、いつしか本人たちもその気になって、二人の間には主従とも友だちとも言えない不思議な関係が成立していた。

 (まさ)が嫁いで初めての年の暮れを迎えようとしていたある日のことである。
 「昌っ、喜べ! 領地替えじゃ!」
 と、息せき切って勝宗(かつむね)がそう伝えた。
 「りょ、領地替えでございますか?」
 「大坂の陣での功績が認められた! 一万石の加増で佐久間家は三万石じゃ!」
 大坂の陣では信幸の弟である幸村が戦死している。昌にはやや複雑な心境もあるが、
 「で、どちらへ?」
 「信濃の飯山(いいやま)じゃ! 叔父上(おじうえ)(勝之)も信濃の長沼城(ながぬまじょう)を賜り一万八、〇〇〇石の(あるじ)となった! さっそく移封の準備をせにゃならんぞ!」
 勝宗はまるで天下でも取ったような喜びようで昌の手を握りしめたのだった。
 ところが──
 年が明けて飯山移封を直前に控えた三月四日、勝宗は突然この世を去る。享年二十八歳──。まさに絵に画いたような幸せを目前にして、昌は奈落(な らく)の底に突き落とされたのである。
 涙に暮れる昌に佐久間家の者たちはこう言った。
 「夫を亡くした今となっては、そなたはもうこの家にいる意味もない。佐久間家のことは気にせず、上田へ帰ってもいいのだぞ──」
 それは正論に違いなかった。もし李雪の涙ながらに訴えた次の言葉がなかったら、あるいはそうしていたかも知れない。
 「昌さま……とと様のところへ行っちゃうの?」
 昌は李雪の小さな身体を抱きしめて、鼈甲(べっこう)(かんざし)を懐から取り出した。
 「行きはせぬ。私は佐久間家の人間じゃ。ずっと李雪と一緒だよ……」
 こうして昌は佐久間安政に随行して近江高嶋を離れる。
 信濃は飯山へ向かう一行を、琵琶湖に映る朝日が見送っていた。



 元和(げんな)二年(一六一六)は当主佐久間安政(さ く ま やす まさ)が飯山城に入った年である。そして四月、豊臣家を完全に滅亡させ元和偃武(げん な えん ぶ)を打ち立てた徳川家康が死去した年でもある。
 飯山城から富倉峠(とみくらとうげ)を隔てた越後に高田城(たかだじょう)があり、松平忠輝(まつだいらただてる)はその城の城主である。
 彼は家康の六男だが庶子(しょ し)で、その生母の身分が低かったことや、その生まれた時の容貌が(みにく)かったこと、またその性格が剛毅(ごう き)だったためか、家康は彼の存在を生涯好まなかった。その妻は伊達政宗の長女五郎八姫(いろはひめ)であるが、大坂冬の陣では江戸の留守居を命じられ出陣することはなく、夏の陣でも出陣はしたものの戦に遅れた上に義父政宗の指示にも従わず軍功を挙げることはなかった。その背景には妻五郎八姫がキリシタンで、大坂にはキリシタンが多くいたためだとも言われる。さらに、大坂の陣の戦勝を朝廷に奏上する家康が共に参内(さんだい)するよう命じたにも関わらず、忠輝は病気と称して行かなかったばかりか、そのとき川で舟遊びをしていたというから家康の気持ちも分からないでない。家康は以後自分との面会を禁じ、今際(いま わ)(きわ)にも寄せ付けることはなかった。
 これらを理由に二代将軍となった秀忠(ひでただ)は、この年の七月六日に忠輝に改易(かいえき)を命じて伊勢へ流罪することを決定した。
 その領地没収のため越後高田へ向かったのが真田信幸(さなだのぶゆき)と当時小諸(こもろ)城主の仙石忠政(せんごくただまさ)だった。
 道中、信幸は娘との再会を果たすため、当然のように飯山城に立ち寄った。このとき信幸五十歳、城主安政(やすまさ)は六十一歳の初対面。開口一番、信幸は長子勝宗(かつむね)死去に対する哀悼(あいとう)の意を伝えるとともに、娘(まさ)が世話になっていることに対する御礼を述べた。
 「なあに、まったくよくできた娘で、当方こそ世話になっているところじゃ」
 と言った安政の言葉には阿諛(あ ゆ)追従(つい しょう)もなく、それより移封してきたばかりの飯山の地をいかに治めていくかで頭が一杯の様子だった。
 「信濃国の事情は伊豆守(いずのかみ)(信幸)殿の方が詳しかろうて、ひとつお知恵を拝借できんだろうか?」
 と、年に似合わぬ謙虚さで、小柄な身体でお辞儀した。
 「はてさてこれは困った……。我が真田家も佐久間家も、共に戦国の世をかろうじて生き延びて来た家同志。こたび婚姻関係を結んだからには何かしらのお役に立ちたいものですが、元和偃武の世となったいま、真田の戦国生き残り術など甚だ怪しきものです。しかし、もしかしたらご参考になることもあるかもしれませんので、一つだけ教示させていただきましょう」
 安政は「ありがたい!」と言った様子で微笑んだ。
 「信濃の国はもともと細かな豪族の寄せ集めで成り立ってきた国です。ですので分裂させることは容易ですが、結束させるのは至難の技なのです。そこで重要なのが情報です。どこで誰が何を考え、何を言ったか? それさえつかめばあとはそれらの情報をうまい具合につなぐだけ。要はいかに正確な情報を吸い上げるかです」
 「ほう、どうすればよい?」
 「結論から申しますと、真田は寺社を建てました」
 「寺社を……? 寺社を建てて何とする?」
 「寺社を建てれば修験者(しゅげんじゃ)や僧侶らが盛んに往来します。彼らは全国を巡りますから北は陸奥(むつ)国から西は筑前、薩州まで、日ノ本全土の情報を集めることが可能になるのです」
 「なるほど、寺社か! さすが天下に名を(とどろ)かせた真田のすることは壮大じゃ!」
 安政は声を挙げて笑ったが、「しかし真田の家で生き残ったのは伊豆守殿だけではないか」と痛いところを突く。
 「時の流れのいたずらです……」
 信幸はそこまで言うと、これに関する事にはもう口を開かなかった。
 時の流れの悪戯(いた ずら)≠ニいう言葉の裏には、徳川家康に対する謀反(む ほん)と取られても仕方ない意味も含んでいたからである。即ち信幸の中では真田≠フ辿(たど)ってきた道のりの中でターニングポイントと言える大きな出来事が二度あった。一つは元亀(げん き)四年(一五七三)四月の武田信玄の死と、一つは今年(元和二年)四月の徳川家康の死である。前者はあまりに突然で早過ぎて、後者はあまりに漸次(ぜん じ)で遅すぎた。せめて父昌幸が生きていたあと五年早く時がめぐっていたら、片方の真田の家もきっと生き残ったに違いないと考えている。
 それを察してか、安政もただ「寺社の町か……」と呟いたきり、それ以上はもう何も聞かなかった。
 そのあと信幸は昌との再会を果たす。会って最初に、
 「勝宗は優しいまっすぐな男であったろう。惜しい人間というのはいつの世も早死にするものか?」
 と、彼女を包み込むように励ましたが、すぐに、
 「もうここにいる必要はないのだぞ。上田に戻って来い──」
 と促した。ところが昌は、隣にちょこんと座る李雪(り せつ)を抱き寄せひとつ笑んだきり、やがて静かにこう言うのだった。
 「私がちょうどこの子くらいの年でしたか、父上は私を膝に抱いてこう申したのを覚えております。女子(おな ご)は嫁いだ家の人間になるのだ≠ニ。そして母上の姿を通して、私もそうなるのだと思ったものです。夫は亡くなりましたが佐久間家がなくなったわけではありません。であるならば、私はこの家の人間として生きなければならないのだと──」
 信幸は暫く考えて、
 「そうか……」
 と言ったきり、今度は彼の方が黙ってしまった。
 「このおじちゃん、昌さまのとと様?」
 脇から李雪が口を挟んだ。
 「そうよ、私のとと様よ」
 「ふ〜ん」
 信幸は、ようやく今気付いたとばかりに李雪に目を向けた。
 「その()は?」
 「義父(ち ち)の弟君の末娘です」
 「安政殿の弟と申せば勝之(かつゆき)殿か。長沼城を(たまわ)ったと聞いたが、帰りに挨拶に寄らねばならんなあ。しかして、どうしてその娘がここにおる?」
 「すっかり私になついてしまいまして、父母の近くより私の方が良いと申します。それで私の侍女という建て前でこうして近くに置いているのでございます。実は私にしてみればそれも名目で、本当はたった一人の親友なのですよ」
 「昌さま付きの侍女じゃ」
 と李雪はお道化(どけ)てみせた。
 「おお、賢い()じゃ。どうれ、こっちに来てみよ」
 李雪は遠慮する様子もなく、つつつと信幸の方へ寄って行くと、その膝の上にちょこんと座った。
 「なぜそんなに昌のことが好きなのか?」
 「だって、キレイなんだもん。私も昌さまみたいになりたいの!」
 「そうかそうか、昌は小松姫によう似ておるからなあ」
 「小松姫……?」
 「そうだよ、おじちゃんの奥様じゃ」
 「ナ〜んだ……」
 「ナーんだとはなんだ!」と言って、信幸が李雪の身体をくすぐったものだから、李雪は「キャッキャ、キャッキャ」と大騒ぎ。やがて信幸の手を逃れて昌の背中の後に逃げ込んだ。
 「佳き友もできたようなので少しは安心したわい。でも、本当にいつでも戻ってきてよいのだぞ。わしにとっては佐久間の家より真田のお家の方が大事なのだから。どんな辛酸を舐めさせられようと、どんな屈辱を浴びせられようと、わしは真田の家を守り通さねばならぬのだから。それが父昌幸から託された遺言なのだからね……」
 そうなのである。
 世に言う犬伏(いぬぶし)の別れ≠ヘ関ヶ原の前、会津征伐を発した家康に従った昌幸、信幸、幸村の真田親子三人の逸話である。
 下野(しもつけ)の宇都宮城を目指す三人が犬伏に着いたとき、大坂からの密使が石田三成からの書状を届け『大谷吉継(おおたによしつぐ)らと、家康を討つため兵を挙げた』と伝えた。ここに三成の西軍につくか、はたまた家康の東軍につくかの、真田家にとって命運を分ける決断の時を迎えたのである。
 長男信幸の正室は本多忠勝の娘(徳川家康の養女)、対して次男幸村の正室は大谷吉継の娘である。加えて昌幸の妻と三成の妻が姉妹とあってはその選択はすでに決っていたと言ってよい。昌幸は理屈では簡単な心情的には難しい真田家生き残りの道を決断するしかなかった。
 「わしと幸村は三成に付くしかあるまいし、信幸は家康に付くしかあるまい。しかしこたびの決戦でどちらかが滅びるだろう。であるならば、生き残ったどちらかが真田の血を守り抜くしかあるまいて。信幸(のぶゆき)、お前にそれができるか?」
 それは結果的に昌幸の信幸に対する遺言となった。こうして信幸は父昌幸と(たもと)を分けたのだ。
 昌幸と幸村は会津征伐を中止して、信幸を残し上田に引き返す。その途中、事の仔細を小松姫に伝え、今生の別れに孫の顔をひと目みようと、城主不在の沼田城に立ち寄った。
 ところが小松姫は昌幸と会おうとはせず、侍女を遣わし城下の旅宿で丁重にもてなした。その一方で、城中の家臣に命じて、弓や鉄砲を城の狭間(さ ま)に配備させたのだ。
 暫くして、小松姫の使者が昌幸に次の言葉を伝えた。
 『かような夜中に、会津に向かった父君が上田にとって返すとは不審を抱いても仕方のないことと存じます。この城は徳川様の城にて、私は主人不在の間を預かっているものなれば、例え御父子の間柄とはいえ、(にわ)かに城中に入れることはできません。お引き取りを──』
 「孫にも会わせぬ気か!」
 激怒した昌幸は幸村を連れて、単身沼田城に乗り込んだ。
 間もなく門が開くと、そこにいたのは甲冑(かっちゅう)を身にまとい、旗を取って床几椅子(しょうぎいす)に腰掛ける小松姫の姿だった。その脇にはこれまた子供用の甲冑をつけた長女のまん(○○)と幼い(まさ)を従えて、更にはこのとき五歳の長男信吉と、二男信政はこのとき三才、生まれたばかりの信重は侍女に抱かせて、城中留守居(るすい)の家人やそのほか諸士の妻女に至るまで、ことごとく甲冑を(あらわ)し、あるいは長刀(なぎなた)を持ち、あるいは弓槍(ゆみやり)を握って居並んでいるではないか!
 小松姫が叫んだ。
 「ただいま殿は、家康様の御供にて御出陣あそばされており申す! その御留守(ごるす)を伺って、父君の名を偽り来るは曲者(くせもの)じゃ! みな打ち向かってあの者らを討ち捕えるのじゃ!」
 全身に冷や汗を流した昌幸だったが、襲う気配のない様子にやがて哄笑しながらこう言った。
 「見よ! あれが日本一の本多忠勝が娘じゃい! 武士の妻はかくあらねばならんのお!」
 昌幸は遠くの孫たちの姿を目に焼き付けて、やがて、
 「ゆこう……」
 と幸村に言った。



 信幸(のぶゆき)が飯山城に立ち寄った翌年、飯山城主佐久間安政(さ く ま やす まさ)は江戸に登って二代将軍徳川秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)に任ぜられるも、それから十年後の寛永四年(一六二七)四月二十五日、江戸において死去した。享年七十二。安政亡きあとの佐久間家は、安政の二男で亡き勝宗の弟安長(やすなが)が二代目当主となった。このとき(まさ)は三十三歳、李雪(り せつ)は十六歳になっていた。
 その間信幸は、元和八年(一六二二)十月、信濃松代に加増移封され、沼田三万石を加えて十三万石の大名へと成長した。そしてこれより先、そのうちの三万石を長男信吉(のぶよし)に、一万七〇〇〇石を二男信政(のぶまさ)に分け与えた。そしてその翌年、徳川家光が第三代将軍に就任する。
 飯山にも花菖蒲(はなしょうぶ)が咲き始める季節である。
 西郭(にしのくるわ)に建つ館の縁側で、初夏の陽ざしを浴びながら、昌は庭の池に咲くその花をぼーっと見つめていた。
 「昌さま、お殿様がお替わりになりましたね。これからどうなさるおつもりですか?」
 隣で同じようにしていた李雪が聞いた。あのときはまだ幼すぎた彼女も、今ではすっかり若かりし日の昌のように、女性の色香を感じさせる乙女に成長している。
 「どうするとは……?」
 昌は李雪の方に振り向いて、静かに言った。
 「松代のお殿様のところへお帰りになるのかな……? って」
 「李雪はどうしたい?」
 「私はここ飯山が大好き──冬は雪遊びができるし、待ち遠しい春が訪れればきれいなお花がたくさん咲くもの! 食べ物だって美味しいわ! それになにより町の人たちも皆やさしいから」
 昌は、彼女が「松代へ行きたくないのだな」とすぐに悟った。というのは、李雪には思いを寄せる一人の男がいることを密かに知っていたからである。
 城の(うまや)で馬の世話をする青年は、城下で伝馬業を営む家の一人息子で名を伝介(でんすけ)といった。年は李雪と同じくらいで元来真面目な性分なのだろう、毎日々々せっせと厩に足を運んでは、小屋を掃除し堆肥(たい ひ)を集め馬にエサを与え、馬具の整備はもちろん馬を馬場に連れ出してはメンテナンスを怠らず、暇さえあれば(たま)を磨くように馬の毛並みを手拭いで()でていたから城の馬はいつもサラブレッドのように光り輝いていた。その様子が昌と李雪のいる館の奥座敷からよく見えた。
 厩には(さる)が一匹飼われている。武家の厩では猿は馬の病気を治すと信じられていたからである。
 ある日伝介はその猿と(たわむ)れて遊んでいた。それはまるで猿回しをするような滑稽(こっけい)さで、何となしに遠くから見ていた李雪は「ぷっ」と吹き出した。
 二人の目と目が合ったとき、李雪は顔を赤らめて、思わず障子の陰に身を隠したが、以来二人の間に特別な感情が芽生えた。
 言葉にせずとも昌はそれを知っていた。そして、
 「私も飯山が好きよ……」
 と言いながら、少し寂しそうな目をするのだが、
 「昌さまがお帰りになると言うのなら、私もお供いたします」
 李雪は鼈甲(べっこう)(かんざし)を取り出して、静かにそう応えるのであった。
 「帰りはせぬ。佐久間家を盛り立てるのは私の役目だからのぉ……」
 思えば勝宗と死に別れてから十一年の歳月が通り過ぎたのだ。嫁いで夫と過ごした時間は僅かに半年ばかり、その顔を思い出そうにも輪郭すら浮かばない。家臣の中には新当主安長(やすなが)様の正室に昌様はどうかとの話も挙がったようだが、このとき安長は李雪と同じ十六歳。彼女と夫婦になるならまだしも十七も離れた姉さん女房など当の安長自身許さないだろう。それにすでに「井上正就の娘はどうか?」との縁談話も持ちあがっていて、三十路(みそじ)を過ぎた女など佐久間家にとってはもはやお払い箱のようにも思えた。案の定、それから間もなく安長は井上正就の娘を正室に迎える。
 それでも、
 「飯山はほんに良いところであるのぉ……」
 李雪を気遣っているのか己自身を慰めているのか、昌の(まなこ)はいつまでも紫の花菖蒲を見つめているのだった。

 このころより家光による参勤交代が制度化されつつある。参勤交代は家康の頃より行なわれていたが、それはあくまで各大名の自発的行為によるもので、秀忠の時代に至っても武家諸法度で従者の人数を定めたくらいで制度と呼べるものではない。しかし各地の大名の江戸行きは次第に定例化されていき、安長も例外にもれず江戸に登った。
 寛永九年(一六三二)の参勤の際は、飯山を出るとき身体の不調をうったえながらも無理して江戸へ登った甲斐あって、将軍家光の日光東照宮御成(お なり)の随行という栄誉に預かるが、突然高熱を出して倒れ込んだと思うと、顔から生じた白色の隆起物がみるみる全身に広がった。天然痘(てんねんとう)に違いない。やがて安長は呼吸困難を引き起こし、四月十二日にあっけなく急死するのである。享年二十二歳。
 飯山の佐久間家は大わらわ。まさかまだ若い安長が突然この世を去るなど思ってもない。しかし幸いだったのは、安長と井上正就の娘の間には四歳になる長子安次(やすつぐ)がいたことで、彼に家督を継がせることでこの窮地を凌ぐ。
 それを他人事のように李雪は(うまや)を眺めていた。
 そこではいつものように伝介が仕事をしていて、相変わらず二人は言葉さえ交わすことはなかったが、見つめ合う眼の間には、いつか結ばれることを疑いもしない希望という名の確信に満ちていたのである。
 そんな彼女に昌は何も言えない。
 あの日一緒に見つめた池の同じ花菖蒲を、このときは一人で見つめていた。

 運命とはかくも残酷なものか──。
 いな、その残酷さゆえに運命から逃れられる者があったとしたら、運命とはあるいは人を活かす希望とも言える。
 若干四歳にして家督を継いだ安次が、わずか九歳にしてこの世を去ったのは寛永十五年(一六三八)のことだった。病死と伝わる。
 もはや飯山佐久間家に家督を継ぐ者はなく、徳川幕府は無情にも無嗣絶家(む し だん ぜつ)を言い渡す。昌が命に替えて守ろうとした佐久間家は、もはやこの世に存在しない──。
 しかし佐久間の家が完全に滅びたわけではない。安政(やす まさ)の弟勝之(かつゆき)が初代当主となった長沼の佐久間がある。四年ほど前だったか、勝之は死去したが、その後を次男勝友(かつとも)が家督を継いだという話を耳にしていた。
 「しかし、私の使命は終った──」
 と、昌は思った。
 「昌さま、これからどうなさるおつもりですか?」
 李雪がいつか聞いた同じ質問をしたとき、昌は李雪を見つめて「佐久間の血はこの娘にも流れているではないか──」とふと心で思ってみた。しかし彼女の境遇を思うとき、その思いは誠に自分勝手で彼女を不幸にしてしまうと思いなおした。彼女には想い人があり、その男と一緒にさせてあげることが、李雪の幸せになる唯一の道ではなかろうか? と。
 「そうさなあ……。もうここに私がいる意味が完全に消えてしまいました。松代へ行こうか……。いずれこの城には、私とは縁もゆかりもない見知らぬ方が御城主として入られるだろうから……」
 「松代に参られますか……」
 李雪は飯山を離れる悲しみを断ち切るようにそう言った。
 「名残り惜しければ李雪はここに残ってよいのだぞ。いいや、残りなさい。残って伝介と一緒になれ」
 「昌さま……」
 李雪は涙を落して昌を見つめた。
 「いいえ、昌さまと一緒に参ります……」
 幼少より仕えてきた昌は、彼女にとって主人なのだ。それより鼈甲(べっこう)(かんざし)の誓いをこの純真な乙女は裏切ることはできない。それにもとは佐久間勝之の末娘、武士の娘は一介の町人の(せがれ)などとはしょせん一緒になれないことを端から承知している。
 昌四十四歳、李雪は二十七歳──二人は運命に導かれながら、やがて飯山の地を後にした。このとき佐久間家に仕えていた家臣たちもまた、昌と共に松代へ移り住み、その多くが真田信幸に仕官したという。
 その後、飯山城に入ったのは松平忠倶(ただ とも)という男である。それまで遠江(とおとうみ)掛川城(かけがわじょう)にいたが、寛永十六年(一六三九)に父の死去にともなって家督を継いで、その直後に飯山への移封を命じられた。



 昌が松代に着いたころ、真田家はちょうど沼田領をめぐってちょっとした問題でもめていた。沼田城は信幸の長男信吉が卒してから、その嫡男(ちゃくなん)熊之助が後を継いでいたのだが、いくほどなくしてこの熊之助も卒したため、信幸は二男信政を沼田城主としようとしたのだが、その際、沼田領三万石の配分をめぐって内輪喧嘩(うち わ げん か)が始まったというわけだ。
 「外部に敵がなくなると、こうして内部で争いが起こるものか? まったく戦国の世が懐かしいわい……」
 信幸はそうぼやきながらも、三万石のうち二万五〇〇〇石を信政に、残りの五〇〇〇石を熊之助の弟兵吉信利に、そしてこれまで信政が領していたところの一万七〇〇〇石をさらにその弟の隼人信重に分け与える沙汰(さた)を下して、ようやく信政を沼田城主におさめたのだった。そんなゴタゴタ騒ぎの最中に帰った昌を前に、
 「ようやく帰って来てくれたというのに、まったく見苦しいところを見せてしまったなあ……」
 信幸は頭を搔きながら久しぶりの愛娘(まな むすめ)との対面に顔をほころばせた。このとき小松姫はすでにこの世の人でない。
 信幸は昌の顔に残る小松姫の面影を見てとって、妻と出会った時の事を思い出していた──。
 あれは小松姫が家康の養女となって、その婿(むこ)選びをするときの逸話である。若い武将達が集められ、家康が小松姫にこう言った。
 「この中から好きな男を選ぶがよい」
 集められた男たちは委縮(い しゅく)してみな平伏した。元来男勝りの小松姫はスクっと立ちあがると、一人一人の男の前に立ち、その(もとどり)をグイっと(つか)んで(おもて)を上げさせ吟味(ぎん み)をしはじめた。
 「妙な顔をしておるのぉ。道化(どう け)にでもなるのか?」
 「この髭面(ひげづら)はなんじゃ? 虫が湧いてきそうじゃ」
 「(もとどり)が短くて掴めんわ!」
 「顔の(あざ)をどうした? 疱瘡(ほう そう)か?」
 男たちの顔を見ていちいち文句を垂れながら、そうして平伏する信幸に順番が回ってきた時である。髻を掴まれた信幸は手にした扇子(せん す)で小松姫の(ひたい)をピシリと打った。その音が部屋に響いた瞬間、家康はじめそこにいた者たちは全員凍りついた。
 「何をするか! 書紀に矢を(もとどり)に隠し、刀を(ふところ)に帯びる≠ニ申す。男に近づく時はそれ相応の覚悟をもって触れよ! とうてい武士の妻になる者の行為(こう い)とは思えん!」
 この気概(き がい)()れて小松姫は信幸を選んだのだった。
 その最后(さい ご)は病気療養のため江戸から草津温泉へと向かう道中。草津への湯治を決めたのは、まだ春が遠く感じられた冬のはじめ、日に日に病が悪化する妻の身体を案じて、
 「春になったら草津へ湯治に参るがよい」
 と、信幸が勧めたのである。
 江戸の真田邸の奥の間は、床の間に南天の赤い実が生けられて、小松姫の瞳から目じりを伝った清い(しずく)は、その赤を映して真っ赤に燃えているように見えた。それが信幸が見た最初で最後の妻の涙である。
 元和六年(一六二〇)春、小松姫は道中武蔵(むさし)鴻巣(こうのす)で四十八歳の生涯を閉じる。その菩提(ぼだい)は、一つは沼田の正覚寺、一つは上田の芳泉寺、そしてもう一つは彼女が生前帰依していた武蔵の勝願寺、(まさ)はその寺に墓石を建立する。
 自分の容姿を通してそんな事を考えているとも知らず、昌は、
 「父上、ただいま戻りましてございます」
 と、少し無念を残した表情で言った。
 「うむ、長い間、ご苦労であった。これよりはここ松代が其方の故郷じゃ。心ゆくまでゆるりと暮らすがよいぞ」
 「私の力が及ばなかったものか、佐久間のお家が絶えてしまいました──」
 「気にするな、お前のせいではない。長い人生、こういうこともあるさ。本来ならば佐久間の血と真田の血は交わるはずだったのに、残念じゃが仕方がない」
 信幸は彼女の心情を気遣いながらもそう言った。
 「確か私が嫁ぐ日、父上は同じ事を申しました。ずっと心にしまっておりましたが、いったいそれはどういう意味なのでございましょう?」
 「なあに、単なる(かん)じゃ」
 と信幸は笑って見せた。
 「ほうれ、わしの父昌幸も、弟の幸村も(いくさ)の天才じゃった。これは誰にも話したことはないが、わしは密かにあの才の少しでもわしに備わっていればとずっと(うらや)んでおったのじゃ。しかし今から思えば例えいくら戦の才があっても敗けて死んでしまえばお終いじゃ。ところがどうじゃ、わしはこの年七十三になってもまだ生きておる。どうやらわしは父にも弟にもない特殊な才を持って生まれてきたらしい。乱世を生き延びる人読(ひと よ)み≠フ才じゃ。佐久間の家にも、わしと同じ星を感じたのじゃ。しかしいくら人読みの才があっても、出会う人間に己を生かす縁に恵まれなければ、佐久間のように滅びてしまうのだな。まことこの世は不思議でできておる」
 現に信幸が上田から松代に移封させられたのも、当初は「左遷(さ せん)か?」と思っていたが、今となっては北陸と江戸を結ぶ重要な要所であった事を知る。それはお家の面目であり、何も言うことがないほど光栄≠ネことだった。そのほか、すでに高齢になったので何度も隠居願いを出したが、いずれも幕府はそれを認めなかった。おかげで戦国を知る数少ない大名として生き残り、やがては天下の(しょく)∞武士の(かがみ)≠ニまで称賛されるほど諸大名からの尊敬を集めるようにもなった。家康、秀忠、そして今は家光の時代だが、ついには四代将軍家綱の時代に至るまで命をつなぐことになる彼は、若干十一歳で将軍となった家綱の御伽衆(お とぎ しゅう)となり、家綱は彼の戦国話を聞くのが大好きだったと伝わる。
 信幸にしてみれば、これらは意図したことではないが、結果的に全てが真田家にとって利をもたらしているのを知るにつけ、それを人読み≠ニ表現したのである。
 信幸は先ほどから昌の後で平伏している李雪(り せつ)に目を向けた。
 「その者は誰じゃ?」
 昌は李雪を一瞥すると急に笑い出した。
 「李雪にございます。以前に一度、父上は飯山城で会っておりますよ」
 「はて……?」と信幸は首をひねったが、やがて身体をくすぐりキャッキャと暴れる童女のことを思い出し、
 「おお、あの小さな昌の侍女か! 佐久間勝之殿の末娘と申したな? 年端もゆかぬ童がずいぶん美しく成長したものじゃ。いくつになった?」
 「二十八にございます」
 その穢れのない澄んだ瞳を見て「佐久間の血はここにもあるではないか──」と、信幸は満足したように微笑んだ。
 「長沼へは戻らぬのか?」
 「姉たちは全て嫁いでおり、兄の藩主勝友(かつ とも)ともずいぶん年が離れて話し相手にもなりません。もともと幼き頃より昌さまのお供をし飯山の佐久間の家に入った者ですので、いまさら帰ろうなどとは考えておりません。私は昌さまとずっと一緒にいたいのでございます」
 「そうか、ならば仕方あるまい。これからも昌をよろしく頼むよ」
 そして「そうじゃ!」と呟いて、玉川秀政という一人の重臣を呼び寄せたこう言った。
 「その方、まえから娘が欲しいと申しておったな? そこの娘を養女にどうじゃ? 李雪とて縁もゆかりもない土地でこれから生きていくのも何かと心苦しかろう」
 そう言い残すと、やがて信幸は部屋を出た。
 これ以降、昌は見樹院(けん じゅ いん)を名乗ることになる。

 江戸初期の諸大名は、江戸の天下普請(てんかぶしん)で忙しい。
 特に家光などは、秀忠が天下泰平の象徴としてせっかく建て替えた江戸城天守閣をわずか十五年足らずで解体し、家康から数えると三度目になる別の天守に建て替えたばかり。石垣づくりやら(ほり)さらいやら地ならしなどのいわば大江戸の街づくりに関わる天下普請は、偃武(えん ぶ)が宣言されて二十年以上経った今なお続く徳川幕府の一大事業なのだ。少しでも将軍に気に入られようとする各地の諸大名たちは、競うようにして江戸に出て喜んで街づくりに参加した。
 信幸とて同じで、老体を(いと)わず暇さえ見つければ江戸に登り、その陣頭指揮を執るのである。将軍の近くに身を置いていれば、幕府から打ち出される細かな指示や要求にいち早く対応できるというわけだった。だから松代にいるより江戸の桜田真田之邸にいることの方が多い。
 ある日、そんな信幸のところに桜井松平家の家老を名乗る男がやってきた。桜井松平といえば飯山佐久間家断絶の後、飯山藩に入領した家である。
 「藩主忠倶(ただ とも)若干六歳にて仕置家老(しおきがろう)をしている」
 と言うその男は、飯山城下に寺院の多いことに疑問を持ち、その理由を領民の聞き取りから調査するうちに、前藩主の佐久間氏が寺社の守護に力を入れていたことや、そのきっかけとなったのが「どうも松代藩の真田氏の助言らしい」という話を聞き付け、
 「その仔細を訊ねに参った」
 と言った。
 確かに飯山領は小さい割に寺が多い。上杉謙信の時代、飯山城代を任された上杉家臣岩井信能(いわいのぶよし)が城下町を作り始めた当初、城内にあった飯笠山(いいかさやま)八幡神社を移転させる際社領を寄進したのを初めとして、すでに町には英岩寺や大聖寺なども存在していた。また、関長門守一政が飯山に国替えになった際も、信濃長沼にあった忠恩寺を移転させてきたり、愛宕権現(あたごごんげん)や別当大輪院を創建した。その後も堀直寄(ほりなおより)が伊勢社を再興したりと、もともと飯山には寺の町たり得る資質があったかも知れない。
 信幸が助言したかどうかは別にして、次に入封した佐久間安政は、真宗寺、大聖寺、英岩寺、光蓮寺、常福寺、慶宗寺などの寺領を安堵し、新たに移転してきた称念寺、西敬寺、蓮証寺にそれぞれ屋敷地まで与えたほか、修験寺院の庇護(ひ ご)にも精力的だったのである。
 桜井松平家の家老からそんな話を聞いて、信幸はにんまり微笑んだ。
 「安政殿に問われ、寺社の町にしたらどうかと言ったかも知れぬが、寺が多いと何か問題でも? ひょっとしてそなたはキリシタンか?」
 「め、滅相(めっそう)もございません……!」
 キリスト教は幕府による完全なる御法度(ほはっと)だ。家老は血相を変えて否定した。
 「では、なにゆえわしに左様な事を聞く?」
 「はあ、当藩飯山国替えに伴ない掛川より桜井松平家菩提所の西念寺を移築させたのですが、どうも飯山には寺が多すぎます。もし伊豆守様が寺の町にと助言されたのでしたら、その(こころ)を知りたく存じまして。いやなに、深い意図はございません。飯山藩はこのまま寺社の国として発展させていってよいものか、またそうした場合、どれほど藩に利があるものかと不肖(ふ しょう)の身では判断しかねまして、こうして助言者にまた助言を求めに来た次第……」
 家老は恐れ多いといった口調でそう言った。なるほどわずか六歳の藩主にお伺いをたてるわけにもいかないし、国の行く末を担うには、家老の立場では少し荷が重いのだろう。いまや幕府の重鎮ともいえる信幸に、こうした相談事を持ちかける者が最近けっこう多いのだ。
 「わしはただ、佐久間安政殿には、真田は寺社を大切にしてきたと申しただけじゃ。そなたが違うと思うなら寺を減らせばよい話。わざわざわしに聞く事でもないだろう。だが一つ言えることは、寺社は民の心を育てるぞ。国を一つにまとめようと思うなら寺社を大切にすることじゃ」
 「なるほど、そのような意味が……」と、家老の表情がぱっと晴れた。
 「これで私の腹も決ってございます。願わくば、伊豆守様のお心を知る者をお一人、飯山藩に置いていただけませんか? 丁重にお迎えいたします」
 「わかった、考えておこう」
 と、この時はこれで終った話である。



 見樹院(けんじゅいん)は江戸から届いた父からの便りを読んでいた。
 まったく信幸は娘のことが余程心配らしく、飯山にいた時も身の回りの些細な出来事をこうしてたびたび文にしたためてよこすのだ。そんなまめなところが彼の人読み術≠ノ活かされているのかも知れない。手紙には飯山藩の仕置家老が尋ねてきて「わしの心を知る者を飯山藩に貸してくれと申しておった」と、歯牙(しが)にもかけない様子で記されていたが、これもまた、飯山の民の様子を誰よりも知る見樹院から、なにかしらの情報を引き出そうとする意図を含むものだろう。
 「父上からの(ふみ)じゃ。飯山のことが書かれておるぞ」
 見樹院は近くにいた李雪(り せつ)に声をかけたが、松代に来てからというもの彼女の表情は目に余って暗い。
 松代に来てすぐ、信幸の提案で藩士玉川秀政の養女になってはいたが、片時も見樹院のそばにいたのでは友だちはおろか知り合いもできず、いつも遠くをボーっ眺めていては、ちょっと話しかけただけで鉄砲にでも撃たれたように驚くのだ。
 「また伝介のことを思っているのか?」
 「そんなんではございません……」
 「顔に画いてあるぞ。気晴らしに双六(すごろく)でもしようか?」
 「実は──」
 と、李雪は昨晩の出来事を打ち明けた。
 「義父(ち ち)から、お殿様の御寵愛(ごちょうあい)(たまわ)って、子をつくってはどうかと言われました……」
 見樹院は「ぶっ!」と吹き出した。なぜ男というのは、荒唐無稽な非現実的なことを思いつくものか。
 「李雪、そなた父がいくつだか知っておるのか? 七十五であるぞ! ご公儀の仕事で気張っておるからずいぶん若く見えるが、世間で言えばよれよれ(じい)さんじゃ。子など作れるはずがなかろう!」
 「それが、義父(ち ち)が申しますには、真田の血と佐久間の血が交わることは、お殿様のかねてよりの念願であると──見樹院さまの婚姻が決まった時などは、それはそれは浴びるほどのお酒をお飲みになりお喜びになられたと申します。それはそのまま見樹院さまのお望みでもあるのでしょ? 見樹院さまのためなら……」
 「やめよやめよ、父上と李雪が交わりを結ぶなど、考えただけで具合が悪くなる。その話はもう(しま)いじゃ。飯山での思い出話をしよう……伝介は相変わらず猿回しに励んでおるかのう──?」
 李雪はやはり寂しそうな目をして、その瞳から一粒の涙を落した。

 ぽつん──

 乾いた(たたみ)の上に落ちたその一滴(ひと しずく)の音は、身寄りのない李雪の心情のように、あるいは奈落(な らく)の底へ通じる扉を叩いた音にも似て、見樹院は「はっ!」と口をつぐんだ。高嶋へ嫁いだ日より片時も離れることのなかった李雪という女性の存在が急に愛おしく思え、近くにいることが当たり前すぎて彼女の事を全く考えていなかった自分にはじめて気付いたのだ。
 李雪は、本当はもっと違う生き方を望んでいたのではないか──?
 そう考えると、やり切れない思いは見樹院を苦しめた。
 「あれ? なんで涙がこぼれたんだろう──?」
 本人さえ気付かないその涙の意味を、見樹院は知ってしまった気がした。

 信幸が江戸から帰ったのは寛永十八年の松代に初雪が降る少し前のことだった。
 「江戸も寒くなってきたが、やはりこちらはもっと寒いのお……」
 と言いながら「土産(みやげ)じゃ」と持ってきたのは花鳥が描かれた綺麗な絵で、「幕府御用絵師(ご よう え し)狩野探幽(か のう たん ゆう)の弟子が画いたものだ」と言いながら、その一枚を見樹院に、もう一枚を仏間に置かれた小松姫の位牌の前に置くと、最後の一枚は見樹院の隣に端座する李雪に与えた。
 「もったいのうございます! 私に下さるなら他のお方にお与え下さい」
 李雪は遠慮して返そうとしたが、
 「まあよい。昌がいつも世話になっている礼だ。この場にいた其方の福運じゃて」
 見樹院は「受け取っておきなさい」と目で合図を送り、
 「母上もきっとお喜びでしょう」
 と位牌の方を見つめた。
 床の間の唐様(からよう)の大きな(つぼ)には誰が生けたか赤い南天の実が飾られていた。それに視線を写した見樹院は、
 「南天の実を見ると母上を思い出します。難を転じて福となす≠ニよく申しておりました」
 と言った。
 「さようであったなあ……」
 父娘して同じ南天を見つめていると、
 「ひょっとして母上が恋しくなったのではありませんか?」
 見樹院は父を茶化(ちゃか)すようにつぶやいた。
 「バカ申せ! もうそんな年ではないわい!」
 二人は声を挙げて笑った。暫くそうして小松姫との思い出話をしていたときだった──水滴が畳の上にぽたん、ぽたんと落ちる音に、ふと李雪の方へ目を移せば、彼女の瞳から涙がぼろぼろとこぼれているのに気が付いた。見樹院は慌てて、
 「おお、どうした? すまぬすまぬ、李雪に気遣わずすっかり母上との昔話をしてしまった。許せ──」
 そう言いつつ、彼女があのことを打ち明けた日のことを思い出し、そのとき落した涙と同じであるのをその(しずく)の中に見たのだった。不意にいやな予感にとらわれて、父に視線を移してみたが、信幸は変わらぬ笑顔を浮かべながら、
 「きっと両親のことを思い出したのであろう?」
 と李雪に言ったが、李雪はそれを否定して、
 「違います……私もなぜだか分からないのです。ですが涙が自然とぽろぽろ(あふ)れて来るのです。どうかお許しくださいまし──」
 と応えて、とめどなくこぼれる涙の雫を着物の(そで)で拭うのだった。
 信幸はしわだらけの眼を見開いた。李雪が流すその涙の色に見覚えがあったからである。
 真っ赤に燃える南天の赤──。
 最後に見たあの日の妻の涙の色と同じ色のそれを、いま目の前の娘が流していたのだ。次の瞬間、李雪が確かに小松姫に見えた。
 豊臣秀吉が関白から太閤(たいこう)になり聚楽第(じゅらくだい)を秀次に明け渡し、自らは隠居場所として京都郊外に伏見城を築こうとしていた時だった。父昌幸と弟幸村は朝鮮出兵で肥前国の名護屋城に駆り出され、それを免れた信幸は大坂城下の屋敷で(つか)の間の小松姫との時間を謳歌していた。
 庭に実った真っ赤な南天の実を摘みながら、「難を転ずる実だ」と言いながら二人で口に含んだ。そのときできた子が昌なのだ。
 そう思ったとき、信幸の全身に若かったあの頃の気力がみなぎった。
 「昌、すまぬが、はずせ──」
 「えっ?」
 と、見樹院は自分の耳を疑った。信幸の表情には、ついいましがた見えた笑顔など微塵もなく、恍惚(こうこつ)とした目線は李雪の身体を見つめている。すると突然、父の気配と李雪の想いが得体の知れない大きな鬼に変じて襲い掛かって来るのを感じた。その勢いに呑まれるままに、ここにいてはいけない恐怖に囚われ、見樹院は逃げるように部屋から飛び出した。
 閉じた襖の(たもと)で高鳴る鼓動を感じながら、
 いまの鬼はいったい何なのか──?
 これから部屋の中で何が行なわれるのか?
 そう考えた刹那(せつ な)、見樹院は尊敬する父親が親友の身体をもてあそぶ光景が思い浮かんで俄かに吐き気をもよおした。
 いまならまだ間に合う──。
 と咄嗟(とっ さ)に思った。
 いま部屋に飛び込めば、少なくともこの極度の嫌悪感から逃れられるのだ!
 しかし彼女はそうすることをしなかった。
 激しい憎悪の大地の中に、ぽつんと芽吹いた真理の光が、誰知るともない真田家が進むべき淡いもう一本の道筋を指し示していた。道の先にあるものが何であるかなど知る由もないが、その(おぼろ)げに光る到達点には、父信幸が見続けてきた夢と、李雪が望む未来が隠されているように感じた。もしそれが母小松姫も望んでいるものだとしたら、甘んじて受け入れなければならない使命感にも似た覚悟だった。そして同時に、どうしても手に入れなければならない、見樹院自身が望んでいた一つの命の灯火(ともしび)に違いなかった。
 見樹院は胃のあたりから込み上げる嘔吐(おう と)を押さえながら、おろおろとよろけながら部屋に戻った──。

 それから数か月して、李雪は信幸の子を宿す。
 そして信幸は、跡目争いを防ぐという理由で李雪を飯山城へと預けたのだった。



 寛永十九年(一六四二)十月二十二日、飯山城内で李雪が産んだ男の子は名を恵端(え たん)と名付けられた。
 この年、長沼藩主佐久間勝友(さ く ま かつ とも)が江戸で没し、その長男である勝豊(かつ とよ)が若干八歳で家督を継いだことを李雪はここ飯山の地で知った。
 信幸に抱かれたあの夜以来、 見樹院との関係は修復不可能なまでに壊れてしまい、もはや李雪は完全に帰る場所を失った。しかし飯山の藩士たちは恵端を真田信幸が庶子(しょ し)と敬い、その母である李雪に対してもけっして粗末に扱わなかったので、その身は飯山城内西郭に置きながら、李雪は我が子の成長のみを生きがいとして生きている。
 「李雪様、猿回しの伝介がおりますよ」
 飯山城に来てより彼女の世話をしている侍女が伝えた。かつて李雪が想いを寄せていた伝介は、今も(うまや)の馬の世話をしていて、あるとき彼が厩の猿を相手に芸を仕込む様子を見つけた恵端は、若かりし李雪と同じように面白がって猿回しの伝介≠ニ言っては来るのを楽しみにしているのである。しかし昔と違っていたのは、伝介の脇には恵端より少し年上の男の子をいつも伴なっていたことで、聞き伝てによれば城下の町娘と結婚したとのことだった。
 恵端が十三になった年、飯山城に一人の禅僧が訪れた。藩主松平忠倶(まつだいらただとも)はこのとき二十歳になっており、その講義を一緒に聞いた恵端は、館に帰ると李雪にこんなことを訊ねた。
 「母上、今日和尚(おしょう)さまが()()観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)あり≠ニ申しておりましたが、これはどういう意味でございますか?」
 李雪は一度聞いた禅語をすっかり覚えて帰って来た恵端の利発さに驚いた。
 「はて……それは難しくて母にもわかりません」
 すると恵端はその翌日から飯山城下の寺々を片端から回り、その意味を探求するのに夢中になった。ところが城下には満足のいく答えを返す僧侶を見い出せず、ついには、
 「江戸に行きとうございます」
 と言い出した。
 「江戸に出てなんとする?」
 「佳き師を見つけとうございます」
 「恵端や、お前の探求しているものは飯山のお寺の和尚様でも答えられないたいへん難しい問題です。江戸に出たからといって佳き師匠が見つかるとは限りませんよ。もし江戸にいなかったらどうするのですか?」
 「京都に参ります。京都はお寺発祥の地と聞きました。行けば必ず私が求めている師がいるはずです。どうか私を行かせて下さい」
 困った李雪はここに来た当初から世話になっている仕置家老に相談した。すると、
 「恵端様は真田様よりお預かりしている大事なご身分ゆえ、当藩の殿様がよいと申しても勝手に飯山を離れて修行することはできない決まりなのでございます」
 と教えた。
 「では、どうすればよいのですか?」
 「真田様の許可が必要でございます」
 「では許可が欲しい。どうすればよいのですか?」
 となって、松代へ使者が派遣された。
 ところがこの年の十月晦日(みそか)、前年に次男信政に家督を譲ってついに隠居の身となった信幸が倒れ、おまけに翌明暦三年(一六五七)二月には家督を継いだその信政が死去したものだから、その後継をめぐって真田家は幕府や縁戚の大名を巻き込んで大騒動が勃発してしまった。相続人だった信政の六男幸道がまだ二歳だったことに、長男信吉の血統沼田城主の信利が異議を唱えたのである。そんなところへ信幸庶子が突然現れたらそれこそ油に火を注ぐ。飯山藩の使者は何も言えずにおろおろするしかない。
 最終的に幸道が松代藩第三代藩主となるが、若少を案じて結局信幸が復帰して藩政を執ることになった。この騒動によって信利は沼田藩として独立し、松代藩は十万石となるが、こののち間もない十月十七日、ついに信幸は享年九十二歳でこの世を去ったのだった。
 「母上、私はもう父上にお会いできることはできないのですか?」
 信幸死去の報せを聞いた恵端(え たん)は李雪にそう問うたが、李雪は何も答えてあげることができなかった。恵端が人の生き方≠ニいうものを真剣に考え出したのはこの頃からである。
 十九歳になった恵端は武家の身分を捨て出家を決意する。真田からの束縛を自ら解き、自由への道を選択したのだ。藩主忠倶(ただとも)はこれを尊重し、参勤交代で江戸へ行くのに彼を同行させた。
 その後、江戸で師事した無難禅師(むなんぜんじ)から印可を与えられ道鏡(どうきょう)(あざ)した恵端は、諸国を行脚したのち飯山に帰る。彼の帰郷を喜んだ忠倶は、彼のために正受庵(しょうじゅあん)という修行場を提供したのが寛文六年(一六六六)のことだった。翌年、恵端は再び十年に及ぶ修行に出、再び飯山に帰ったとき母の李雪にこう言った。
 「こうしてお城で余生を過ごすより、剃髪(ていはつ)して正受庵で私と一緒に暮らしましょう」
 李雪はこのとき六十五歳、恵端のいない十年の間に、松代の見樹院が七十九歳でこの世を去った(寛文十三年(一六七三))ことを知り虚しい日々を過ごしていたのだった。
 あの夜の出来事さえなければ、ずっと見樹院様の近くにいられたはずなのに──。
 見樹院様と別れてまでして真田と佐久間の子を授かったというのに、結局その恵端は出家してしまい、なにひとつ恩返しすることができなかったではないか──。
 彼女の(さい)なむ苦しみは、いま立派な禅僧に成長した一人息子に委ねるしかなかった。
 このとき忠倶も恵端の弟子となり、二〇〇石の寺領寄進と大寺建立を申し出たが、恵端は、
 「仏道修行をする者は三衣一鉢(さんえいっぱつ)あれば事足ります。民の富を奪って何の利益がありましょう?」
 と断ったので、気がおさまらない忠倶は、飯山城の茶室の庭にあった(つい)水石(すいせき)の一つとイチイの木を正受庵に贈ってこれにこたえた。これが今も正受庵に残っているが、ちなみに手洗い石≠ニ呼ばれる水石の飯山城に残されたもう片方は、現在個人宅の庭の池にあるそうで、いずれ日の目を見ることを筆者は期待している。
 恵端の元には彼を水戸(みと)に招こうとしてたびたび水戸光圀の使者が訪れたり、特に臨済宗中興(ちゅうこう)の祖と称される白隠(はくいん)が正受庵に訪れた時は、「悟りを開いた」とする慢心を見抜いて、山門から登ってきた白隠を蹴落としその慢心を打ち砕き、やがて彼に正受を認めたのだという。

 貞享二年(一六八五)のことだった。
 長沼藩主佐久間勝豊(さ く ま かつ とよ)が江戸で死去した。家督は養子の勝親(かつ ちか)に継承されたが、それより三年後、将軍綱吉から側小姓(そばこしょう)への登用を命じられたに関わらず即日これを辞退したため将軍の怒りに触れて、長沼佐久間氏は全ての所領を没収され改易された。勝豊の身柄は奥州二本松に預けられ、長沼城は破却され廃城となった──。ここに至って佐久間安政にはじまった佐久間氏は、完全に断絶してしまったのだ。
 このときもまた、行き場を失った長沼佐久間家の家臣たちが松代真田家にその多くが仕官できたのも、生前見樹院が長沼をいつも気にかけていたからだった。
 ある日、李雪は恵端に言った。
 「あなたは仏に仕えた身なれど、その身体(からだ)には紛れもない真田と佐久間の血が流れておるのじゃ。こればかりはいくら修行を積んでも消せるものではあるまいて……。母は今生にやり残したことが一つだけある。これから松代に行き、最後の仕事を尽くしてきたい。行かせておくれ──」
 李雪は老いた身体に(むち)打ち正受庵を出た。
 松代に着き、
 「私は以前、見樹院様の侍女をしておりました李雪と申す者でございます」
 と言って形見分けの鼈甲(べっ こう)(かんざし)を見せた。見樹院は松代藩においては尊敬の対象だったので、昔李雪という名の侍女を伴なっていたこともよく知っていて、
 「存じ上げております」
 という言葉を聞いて、あの日完全に縁を切られたと思っていたのが誤解と知って驚いた。そして見樹院は息を引き取る間際まで「李雪はどうしておるのかの?」と心配していたと聞いたとき、老いて乾いた李雪の両目から滂沱の涙が溢れ出た。
 間もなく家臣の一人にこう伝えた。
 「長沼の一件で松代に仕官された旧佐久間家の家老のお方はおりませんか?」
 「おりますが」と言って姿を現わしたのが岩間氏を名乗る男である。
 「信じていただけぬかもしれませんが、私は長沼藩初代藩主佐久間勝之が末娘にて李雪と申す者でございます。故あってずっと見樹院様の侍女をしておりましたが、今は飯山藩の世話になっております。このたびの長沼藩断絶の噂を耳にし、矢も楯もたまらずこうして参った次第にございます」
 岩間は驚きの表情で初代勝之の娘を名乗る尼僧(に そう)姿の李雪を見つめた。
 そして李雪は、涙ながらにこう訴えた。
 「佐久間の名を途絶えさせてしまうのはあまりに心苦しいのです。どうか、どうか、佐久間の名だけでもお引き継ぎいただき、末長くお守りいただくわけには参りませんでしょうか?」
 「佐久間姓を……? 私に? こんな私でよろしいのですか?」
 「私は出家の身、他にお願いできる者がおりません──何卒(なにとぞ)、何卒──」
 こうして佐久間家は、長い江戸時代を養子縁組をしながらも幕末まで続く事になり、やがて真田藩は稀代の英傑佐久間象山(さ く ま しょう ざん)を産むのである。

 宝永五年(一七〇八)、百歳近くまで生きた李雪はこの世を去り、その十三年後の享保六年(一七二一)十月、恵端も正受庵で八十歳の生涯を閉じる。
 彼の道歌にこんなのがある。

 ()()たる(こと)のみばかり(おも)へ ただかへらぬ昔知らぬ()く末

 人の叡智(えい ち)では過去を変えることも未来を知ることも出来ない。しかし筆者は思う。歴史をつくる時の流れは、もしかしたらその(すべ)てを知っているかも知れないと。

 二〇二一年四月十八日
(2021・03・13/04・14 飯山市在住坂原シモ氏・弥太郎氏より拾集)