> 望月(もちづき)(こま)生駒姫(い こま ひめ)
望月(もちづき)(こま)生駒姫(い こま ひめ)
城郭拾集物語M 信濃国(長野)望月城
 うららかな春の陽気に誘われて、ふらりと訪れたのは長野県は佐久市にある望月城(もち づき じょう)である。
 菅平(すが だいら)(とうげ)を越え真田(さな だ)(ごう)を通り、左手に祢津(ね づ)地域を見ながら小諸(こ もろ)に入る手前で海野宿(うん の じゅく)方面へ右に折れ、旧中山道に乗ればそのまま自然と望月宿(もち づき じゅく)に入る。筆者が車を走らせて来たこの辺り一帯は、そのむかし滋野氏(しげ の し)一族の所領であり、望月城はその名の通り滋野三家のひとつ望月氏の居城である。
 今は昔、廃墟(はい きょ)と化した人っ子一人ない城跡(しろ あと)に向かう途中、満開と咲く一本のハナミズキの木が迎えてくれた。車を停めて陽の当たる閑散とした山城(やま じろ)に登れば、ふと、古びた白い立て札が目にとまる。そこには旧望月町教育委員会による『望月城址(もち づき じょう し)』の概要が記されていた。
 「ここから南方の総合体育館裏山までの約二千Mの間が望月城址であり、望月氏の居城である。本地が本城で、主郭(しゅ かく)から三の(くるわ)までが構築され、南方の支城には五の(くるわ)までが確認できる。雄大にして堅固な山城で、腰曲輪(こしくるわ)帯曲輪(おびくるわ)空堀(から ぼ)り等整然(せい ぜん)と構築され保存状態も良好である。望月氏は鎌倉時代に眼下に見下ろす天神城(てん じん じょう)を築城し落城後室町時代に望月城を築城したとされており、戦国時代(天正十年)に落城している。」
 文面では築城は室町時代だが、そもそも望月氏の始まりはいつなのだろう?
 真田好きの筆者の認識では、真田氏は、滋野三家(しげ の さん け)海野(うん の)氏・祢津(ね づ)氏・望月(もち づき)氏)の(うち)、戦国時代、武田信玄に追いやられ宗家が滅亡した海野(うん の)氏の系統と言われるが、望月(もち づき)氏もまた、滋野氏が三家に分生した時に生じた望月三郎が初代とされる。三家に別れた際、滋野(しげ の)≠フ名が残っていないのは、これより二代前の当主滋野恒信(しげ の つね のぶ)海野(うん の)幸俊(ゆき とし)≠ニ改名したためである。きっかけは、天歴四年(九五〇)二月に彼が信濃国は望月の牧監(ぼく かん)となって下向したことによるが、当時この辺り一帯は海野郷(うん の ごう)と呼ばれていたことからこの地名を姓とした。地名を名にする習いは珍しいことでなく、むしろ当時にしてみればごく自然なことである。牧監(ぼく かん)とは牧馬を司る官名であり、つまりそのころ既に望月は朝廷にとって重要な馬の産地だった。
 この後海野(うん の)氏%代目当主幸恒(ゆき つね)(幸経)は、天延(てんえん)元年(九七三)九月に海野荘の下司(げ し)となり、三人の息子がそれぞれ海野小太郎幸明(うん の こ た ろう ゆき あき)祢津小次郎直家(ね づ こ じ ろう なお いえ)望月三郎重俊(もち づき さぶ ろう しげ とし)を名乗り、一族を構成して朝廷支配の律令社会から武家社会への大きな変遷の荒波に挑んでゆくわけである。
 ではそれ以前はどうか?
 滋野氏の発生を探ってみると、古いもので西暦八〇〇年代前半の歴史書等の記述に滋野朝臣貞主(しげ の あそ ん さだ ぬし)≠フ名が見える。とにかく優秀な文官だったらしく、更にその先祖を辿っていくと天道根命(あまの みち ねの みこと)≠ニいう神に行きつき、更には神結命(かみ むすびの みこと)にたどり着くというから筆者はもう付いていけない。そのくせ滋野(しげ の)を名乗った理由が奈良の平城京から京都の平安京へ遷都した際(延暦十三年・794(鳴くよ)(うぐいす)平安京)、住み着いた地籍の地名を取ったというから神の末裔(まつ えい)にしては平凡だ。
 滋野貞主(しげ の さだ ぬし)には二人の娘がいた。
 長女の縄子は第五十四代仁明天皇(にん みょう てん のう)女御(にょう ご)(きさき))となって本康親王(もと やす しん のう)を産み、次女の奥子も第五十五代文徳天皇(もん とく てん のう)中宮(ちゅう ぐう)皇后(こう ごう))として惟彦親王(これ ひこ しん のう)を産んだというから天皇の義理の父親ということになる。その権勢は相当なものだったに相違ない。そして彼の弟貞雄(さだ かつ)滋野朝臣(しげのあそん)を称して国司(こく し)を歴任し、その娘のュ子もまた文徳天皇(もん とく てん のう)の妃となり二皇子二皇女を生んだとされる。つまりこの時期の滋野氏は、天皇近親の在原(あり わら)氏や藤原(ふじ わら)氏、(たちばな)氏あるいは菅原(すが わら)氏などと並ぶ天皇の外戚(がい せき)として名門中の名門の家柄だったわけである。
 滋野氏の始まりはこの兄弟の父滋野宿祢(すくね)家訳(いえおさ)という人物であるが、家訳(いえおさ)貞主(さだ ぬし)貞雄(さだ かつ)と続いた次の当主が滋野恒蔭(しげ の つね かげ)で、彼は貞観十年(八六八)正月十六日に信濃(しなのの)(すけ)に任命され、ここから滋野氏と信濃国とのつながりができたと考えられる。そしてこの二年後の貞観十二年(八七〇)に彼の弟滋野善根(しげ の よし ね)信濃守(しなののかみ)となり、一族が信濃に下向したことにより信濃滋野氏の祖となった。一方この後、平安京に残った滋野氏族の家系は、代々信濃からの貢馬(こう ば)駒牽(こま ひき)(つかさど)る役人となったと考えられる。
 ──ここまでは突き詰めて調べてみたが、望月≠フ名がどこから来たのかわからない。勘の良い人はすでに望月(もち づき)(こま)≠思い浮かべているのだろうが、その前にもう少し述べたい事がある。
 筆者が興味深く思うのは『佐久市立望月歴史民俗資料館』に展示されていた佐久地方(旧望月町周辺)の歴史を記した年表が、今から三万二千年前の日本列島における人類の登場から始まっていた点である。
 同施設がアピールするように、望月周辺──特に古くから馬が放牧されていた御牧ケ原(み まき が はら)≠ナは、いくつもの遺跡が発見されており、それは、日本神話の古代から原始と呼ばれる時代──具体的には縄文時代より、人々の生活が厳然と(いとな)まれていた物的証拠である。だからといってそれほど昔から盛んに馬が飼われていたかといえばそうではなく、奈良の東大寺の正倉院(しょう そう いん)に残されているこの地方からの貢物(こう もつ)は馬でなく爪工部(はた くみ べ)≠ニ呼ばれる職人の手によって作られた品だと云う。正倉院といえば天平年間(てん ぴょう ねん かん)(七二七〜七四一)だから滋野氏が歴史に登場する一世紀前のこと。そのころ小県(ちいさがた)の海野郷には衣笠(きぬ がさ)(さしば)などを造る高度な技術職人たちが住む集落が存在していた。つまり滋野氏が登場するまでの百年ほどの間に、御牧ケ原(み まき が はら)が馬の一大産地となる劇的な変化があったということである。滋野一族はそこに深く関わっていたということだ。
 そもそも馬は日本在来のものはなく、当初は戦闘用として大陸から渡って来たらしい。『古事記』には第十五代応神天皇の治世に、
 『百濟國主照古王以牡馬壹疋牝馬壹疋付阿知吉師以貢上(百済国王(くだ らの こく おう)照古王(しょうこおう)は、牡馬(おす うま)一匹、雌馬(めす うま)一匹を阿知吉師(あちきし)につけて貢上(こう じょう)した)』
 とあり、これは『日本書紀』によれば応神天皇(おうじんてんのう)十五年秋八月の事で、西暦で言えば二八四年のことらしい。館内を案内して頂いた上松(うえ まつ)氏によれば、
 「おそらくモンゴルの馬が海を渡ってまず九州に入り、そこから大和政権に渡って全国へ広がったのではないか?」
 と教えてくれた。奇しくも御牧ケ原(み まき が はら)≠ヘ、全国有数の馬の放牧に最適な土地だったわけである。
 馬伝来の後、第四十二代文武天皇(もん む てん のう)(在位六九七〜七〇七)の飛鳥時代の大宝年間に完成した大宝律令で勅旨牧(ちょく し まき)御牧(み まき))が始まった。『延喜式(えん ぎ しき)』によれば東国地方の御牧(み まき)甲斐国(かいのくに)三ケ所、武蔵国(むさしのくに)四ケ所、信濃国(しなののくに)十六ケ所、上野国(こうずけのくに)に九ケ所あり、中でも信濃国(しなののくに)が最も多く、その数は他国の実に二倍であった。毎年八月には、朝廷に献上された貢馬(こう ば)を天皇がご覧になる駒牽(こま ひき)≠ニいう宮中行事が盛大に行なわれたが、このとき数の上でも品質の上でも最も注目されたのが信濃十六御牧(み まき)の中でも御牧ケ原(み まき が はら)で飼育された馬だった。
 ここで、せっかく信濃国(しなののくに)の十六の御牧の場所を調べたので記載しておこう。
 1、山鹿牧(茅野市豊平)2、塩原牧(茅野市中大塩)3、岡屋牧(岡谷市)4、平井手牧(上伊那郡辰野町平出)5、埴原牧(松本市中山埴原)6、高位牧(上高井郡高山村高井)7、高所牧(上伊那郡辰野町宮所)8、大野牧(下伊那郡阿智村智里大野)9、笠原牧(伊那市美篶笠原)10、新治牧(小県郡東部町新張)11、大室牧(長野市松代町大室)12、荻倉牧(諏訪郡下諏訪町萩倉)13、猪鹿牧(佐久市志賀)14、塩野牧(北佐久郡御代田町塩野)15、望月牧(佐久市望月)16、長倉牧(北佐久郡軽井沢町長倉)の以上十六箇所である。
 宮中行事の一つ駒牽(こま ひき)は、例年八月二十九日に行われていた。
 ところが第五十六代清和天皇(せい わ てん のう)の時、貞観(じょう がん )七年(八六五)からは満月の日──つまり旧暦の八月十五日に改められた。そしてこの日、全国の御牧(み まき)の中でも筆頭とされる信濃(しなの)御牧(み まき)より献上された馬を、()(つき)(満月)≠ノ(ちな)んで望月(もち づき)≠フ駒と言われるようになった。奇しくもこの時期より朝廷の馬寮(め りょう)と深く関わる役柄にあったのが信濃御牧の牧監となった滋野氏であり、やがて望月(もち づき)(こま)≠継承する一族として望月(もち づき)≠フ(せい)が与えられたと言う。つまり天歴四年(九五〇)に滋野恒信(じ の つね のぶ)海野(うん の)幸俊(ゆき とし)に改名する以前から、望月(もち づき)姓は存在していたわけである。
 一言で牧(牧場)≠ニ言っても望月の牧≠ヘ広い。
 北西を流れる千曲川(ち くま がわ)と東を流れる馬曲川(ま ぐせ がわ)、そして南から千曲川に合流する布施川(ふ せ がわ)に囲まれた敷地の規模は、面積にして約二、一〇〇ヘクタール──江戸城が四、五個すっぽり入ってしまう広さであり、周囲は断崖などの障壁がある箇所を除いた所には(みぞ)を掘り、手前に野馬除(の ま よけ)≠ニ呼ばれる(さく)(こしら)えて馬が逃げるのを防いだ。その長さを繋げれば実に全長三十八キロメートルに及ぶと言う。
 さて、筆者の立つ望月城主郭(しゅ かく)下の曲輪(くる わ)に設置された展望台から眼下を望めば、遠くに蓼科山(たて しな やま)、手前に中山道は望月宿の街並みが一望できる。当時都に通じる街道は、四世紀から五世紀に大和政権(やまとせいけん)が東国に勢力を伸ばすために開いた古東山道(こ とう さん どう)≠ナこの望月を経由していた。つまり御牧ケ原(み まき が はら)の広大な敷地の、都に馬を送るのに一番近い南端の東寄りにこの望月(もち づき)の集落は発展してきたのである。
 望月城から御牧ケ原(み まき が はら)までは車でおよそ七、八分、当時でも馬を走らせて十分もかからなかっただろう。そこは(けわ)しくもなく平坦(へい たん)過ぎず、適度に凹凸(おう とつ)の入り組んだ見晴らしの良い所謂(いわ ゆる)原っぱが広がっていた。乗り物としての馬を育てるには正に最適な地形だろうか。全盛期でなくともそこには常時六〇〇〜七〇〇(ぴき)が飼育・放牧されていたともされ、当然それに従事する望月氏支配の農民世帯も千人規模で生活していたと考えられる。そして良馬と人の動員力は、後に発達する武士団にとっては最大の魅力であり、現に源義仲(みなもとの よし なか)は、望月氏を含める滋野三家を従え、騎馬をもって平家軍を電光石火の如く討ち破り、そのまま京都に上って旭将軍(あさひ しょう ぐん)と恐れられるのである。
 それにしても望月(もち づき)(こま)≠歌った歌人のなんと多い事か!
 平安時代前期の歌人で『古今和歌集(こ きん わ か しゅう)』の撰者(せん じゃ)でもある紀貫之(きの つら ゆき)は、『歴史民俗資料館』内に紹介されているものだけで三首、そのうちの一首を記しておけば、
 『逢坂(あふ さか)(せき)清水(し みず)影見(かげ み)えていまや引くらん望月の駒』
 また鎌倉時代に『新古今和歌集』を編纂したことでも知られる後鳥羽上皇(ご と ば じょう こう)は、
 『あふ(さか)山立出(やま たて いで)(くも)の上に影さしのぼるもちづきの駒』
 と詠み、また平安時代末期から鎌倉時代初期に武士として生まれながら出家し、さすらいの歌人となった西行法師(さい ぎょう ほう し)も、
 『望月のみ(まき)の駒は寒からじ布引山(ぬの びき やま)を北と思へば』
 と詠み、探せば枚挙(まい きょ)(いとま)がない。
 当時の人々にとって望月(もち づき)(こま)≠ヘ(あこが)れの(まと)であり、馬を現代の車に例えるならば望月(もち づき)氏≠ヘフェラーリとかポルシェの最高責任者であり、全国に轟いたその名声は不動にして、この時一族は全盛期の真っただ中にあった。
 

 
 滋野恒蔭(しげ の つね かげ)信濃介(しなののすけ)になってからというもの、都の者たちは彼のことを(もっぱ)望月(もち づき)様≠ニ(はや)し立てる。
 季節も秋を迎え、今月(こん げつ)十五夜(じゅう ご や)には宮中で駒牽(こま ひき)の儀式が行なわれるとあっては尚更(なお さら)で、このところ訪れる者たちは、口を揃えて「今年の駒の仕上がりはいかがか?」と聞く。無論駒≠ニは信濃御牧(しなのみまき)望月(もち づき)(こま)≠フことである。
 信濃介(しなののすけ)とは介≠フ字の意味の通り国元との仲立ちが主な仕事であるが、何か余程大きな問題がない限り信濃のような辺鄙(へん ぴ)な田舎へ足を運ぶことなどない恒蔭(つね かげ)は、その都度あいまいな笑みを浮かべる。いま現地に住まうのは、今年信濃守(しなののかみ)に任命されたばかりの弟滋野善根(しげ の よし ね)であり、その補佐として息子の恒成(つね なり)と、御牧(み まき)から都への馬曳(うま ひ)き役として三男の三郎(さぶ ろう)を送っていた。年を考えればそれも道理で、朝廷に献上する何十頭もの馬を引き連れて、信濃から平安京まで何日かかるか知れない気苦労をするより、悠々自適(ゆう ゆう じ てき)に都で暮らしていた方が余程いい。だから御牧(み まき)の駒の様子など聞かれても答えようもなく、
 「もうじきお目にかけますわい。近年ますます良い馬が育ちますので惟仁(これひと)(おおきみ)様(清和天皇(せいわてんのう))もお喜びになるでしょう」
 と油を(にご)すのだった。
 その日、彼の所に訪れたのは藤原清経(ふじわらのきよつね)という男──。このとき官位は従五位下の左衛門大尉(さえもんのだいじょう)という武官で、彼の姉は清和天皇の女御(にょう ご)で後に皇太后(こう たい ごう)となる藤原高子(ふじ わらの こう し)である。また兄は、今年大納言(だい な ごん)となった藤原基経(ふじわらのもとつね)である。
 清経は恒蔭(つね かげ)の対面に座って、
 「駒迎(こま むかえ)≠ナお忙しいでしょうな?」
 と上機嫌な口調で言った。駒迎(こま むかえ)≠ニは、献上される馬を関所のある逢坂山(おう さか やま)まで出迎えに行くことであり、このころすっかり平安京の秋の風物詩になっている儀式である。恒蔭(つねかげ)は顔をしかめて、
 「なあに、駒迎(こま むかえ)は三男坊の三郎(さぶ ろう)に任せております。こんな事でもさせにゃぁいつまでも子供の気分が抜けずに困ります」
 と、心ここになしといったふうに笑った。
 この頃の宮中の政治はけっして安定していたわけではない。全国各地では自然災害が発生しており、都では貞観(じょうがん)八年(八六六)に御所の応天門放火事件(応天門(おうてんもん)(へん))が起こった。この門はもともと大伴(おお とも)氏の造営だが、時の大納言にあった伴善男(ともの よし お)大伴(おお とも)氏)が不仲(ふ なか)だった左大臣源信(みなもとの まこと)謀反(む ほん)だと告発して彼を(おとし)めようと目論んだ。ところがこのとき参議だった清経(きよ つね)の兄藤原基経(ふじわらのもとつね)は、この企みを叔父である太政大臣藤原良房(よしふさ)に告げ、清和天皇に奏上して源信(みなもとの まこと)を弁護した。その結果、源信(みなもとの まこと)は無実となり、彼を失脚させようとした伴善男(ともの よし お)讒言(ざん げん)が発覚し、朝廷は伴善男(ともの よし お)らを放火犯と断罪して流罪に処す。この事件を契機に清和天皇の摂政となった藤原氏の勢力は拡大し、藤原基経(ふじわらのもとつね)も従三位に叙して中納言に出世した。
 一方、事件に連座した古来からの名門大伴氏らは衰退の途を辿ることになるが、大伴(おお とも)氏といえば信濃の海野郷(うん の ごう)と全く無縁でない。
 日本最古の説話集『日本霊異記(りょういき)』には奈良時代末の宝亀五年(七七四)に、(おうな)の里(海野郷)≠フ法華寺川(金原川下流)に大伴連(おおとものむらじ)忍勝(おしかつ)なる人物が居を構え、館近くに氏寺を建立していたという記述がある。このことから信濃の海野郷は当時から中央の影響を受けていた。
 それはさておき──恒蔭(つねかげ)にとっては駒牽(こま ひき)よりも重大な事があった。
 彼には三人の息子の他にまだごく幼い(きく)という名の娘があったが、清和天皇と藤原高子(ふじ わらの こう し)との間にもうじき子が生まれそうだという噂を耳にしてより、密かに生まれてくる子に娘を嫁がせることができないかと考えていたのだ。
 それとはなしに、
 「ところで高子(こう し)様のご容体はいかがか?」
 と、恒蔭(つねかげ)は庭の方を眺めながら尋ねた。
 現在清和天皇には三人の皇子(み こ)がいる。第一皇子(おう じ)貞明親王(さだあきらしんのう)(後の陽成天皇(ようぜいてんのう))、第二皇子に貞固親王(さだかたしんのう)(母は橘休蔭(ちばなのよしかげ)の娘)、第三皇子に貞元親王(ていげんしんのう)(母は藤原仲統(ふじわらのなかむね)の娘)である。特に藤原高子(ふじ わらの こう し)を母とする第一皇子貞明親王(さだあきらしんのう)は、一昨年前の十二月、生誕してわずか三か月足らずで立太子(りっ たい し)(皇子の跡継ぎ)となった子であり清和天皇の寵愛(ちょう あい)も深く、間もなく生まれて来る子も「あわよくば天皇に」という期待が自ずとかかるのである。恒陰の思惑を薄々(さっ)している清経(きよつね)は、
 「姉はすこぶる達者なご様子。先日も見舞いに顔を出しましたら、蜜柑(み かん)()いたいと申していたところを見ると、ひょっとして男子かな? おそらく来月にはお生まれになるでしょう」
 と物欲(もの ほ)しそうな顔付で笑った。
 「そうですか! なれば何かと物入りでしょう? 例えば……お生まれになるお子のお身の周りの世話をする者とか──あるいは、お(きさき)とか……入用(いり よう)ならば何なりお申しつけ下さい。きっとお役にたちますぞ」
 「こりゃまた随分とお気がお早いですな」と清経は笑う。
 「しかし身の周りの世話をする者といっても、望月(もち づき)殿のお子は確か今は信濃では?」
 「馬の世話なぞ小次郎(次男)にでも三郎にでもやらせるわいな。そういう事情ならばすぐにでも恒成(つね なり)を呼び戻しますわい。それに娘の菊も、親の私が言うのも(なん)だがめっぽう気立てがよい」
 と言ったと思うと、恒蔭(つね かげ)は手をパン、パンと二、三度叩いた。すると奥から姿を現わしたのはまだ四、五歳の童女で、小さな身体には大きすぎる程の黒い広蓋(ひろぶた)を抱え、慇懃(いん ぎん)に正座して何も言わずに清経(きよつね)の前へさし出した。見れば黒盆(くろ ぼん)の上には今年鋳造(ちゅう ぞう)されて都に出回り始めたばかりの『貞観永宝(じょうがんえいほう)』の束が置かれており、
 「さっ、遠慮なく」
 と、恒蔭(つね かげ)は目だけで笑いながら、
 「菊と申す──」
 と自慢げに娘を紹介した。
 「いやはや、こりゃぁ参りましたなあ!」
 清経(きよつね)はそう言いながら銅銭の束をジャラジャラいわせながら(そで)の中に隠し入れた。現代では露見すれば大問題だろうが、過去の歴史においてはそんな事は日常茶飯事で、恒蔭(つね かげ)の所にやって来る貴族などは大抵これがお目当てなのである。
 「なにぶん、くれぐれも高子(こう し)様によろしくお伝え下さい──」
 と、こうして翌月誕生した御子(み こ)は、六歳になるとすぐに親王宣下(しん のう せん げ)を受けて第四皇子(おう じ)貞保親王(さだやすしんのう)となった。このときの(そで)(した)≠ェ物を言ったかどうかは知らないが、恒蔭(つね かげ)の第一子望月恒成(つね なり)は都に呼び戻されて貞保親王(さだやすしんのう)家司(いえのつかさ)となり、娘の菊もまだ幼い皇子(おう じ)に嫁ぐ。およそ大富豪というのは、今も昔もさほどの労力を使わずとも思い通りのものを手にするものか──。
 とはいえ、恒蔭(つね かげ)と清経がこの会話をしている時、息子の恒成(つね なり)はまだ信濃国にいる。
 

 
 宮中で行なわれる駒牽(こま ひき)のため、馬を引く望月三郎(もち づき さぶ ろう)は、東山道は都に入る手前の近江国(おうみのくに)甲賀郡伴中山(ばんなかやま)に到着した。引き連れた数十頭の馬は望月の御牧の中でも特に優れた良馬で、この地で一旦骨休めをし、毛並みを整え、派手な装飾で飾り付けてから都に入るという寸法である。これはもう何年も続く望月の駒牽の習いであり、滋野氏と近江甲賀とのつながりを探れば実にこの頃までさかのぼる。
 長旅の疲れなど微塵も感じさせない三郎は、逢坂山(おう さか やま)に訪れる駒迎(こま むかえ)の見物人たちを今年も「あっ」と言わせてやろうと意気込んで、年に一度の一大行事に、大伴(おお とも)氏の館に借り受けた(うまや)の管理に従事する望月の者たちも、みな一様に上機嫌であった。
 「おい三郎、この駒はまた一段と毛並みが美しいな」
 そう言ったのは馬寮(め りょう)役人を親に持つ佐吉(さ きち)という男で、中でも栗色(くり いろ)が映える一頭の馬の(たてがみ)()でながら羨望(せん ぼう)(まなこ)で見つめた。
 「そうでございましょう! こいつは五十年に一(ぴき)出るか出ないかの逸品(いっ ぴん)です。佐吉(さ きち)兄さんはお目が高い」
 「今年信濃に行ったばかりのくせに、ずいぶん知ったような口ぶりだな」
 「二、三ヶ月も馬の世話をしていればボクにだって分かります。五十年ずっと馬を育てている御牧爺(み まき じい)さんがそう申しておりました。こいつが種馬(たね うま)となり、これまた五十年に一(ぴき)出るか出ないかの望月一の肌馬(はだ うま)に種付けした仔馬がもうじき産まれるんです! きっとこいつよりも一等優れた駿馬(しゅん め)が出るに違いありません!」
 「そいつは楽しみだ」
 「馬の出産も楽しみですが、それより兄上のお子がもうじき生まれます」
 「なに? 恒成(つね なり)殿にお子が? それは馬ではなく人だろうな? 恒成(つね なり)殿も片田舎で余程することがないと見える」
 「イイエ、兄も信濃に行ったのは今年に入ってからですので、都で姉上に種付けした子どもです」
 「下品な言いようだなぁ」と佐吉(さ きち)は笑い、そして「(ゆき)様も何もない田舎で心細かろう……」とまた笑った。(ゆき)様≠ニいうのは恒成(つね なり)の妻の名である。
 「先ほどから田舎、田舎と申しますが、住めば都と申しまして海野郷もなかなか良い所でございます。都寄りの小高い山の上に(やかた)も完成しましたし、(ゆき)姉さんもまんざらでありませんよ。きっと安心してお子をお産みになるでしょう」
 「ならばよいが……滋野善根(しげ の よし ね)殿の方はどこに住まわれているのだ?」
 「叔父(お じ)さんは上田の国分寺におります。信濃国全体を見なければなりませんので、駒の方は専ら兄上と私がやっています──」
 「まあ、元気そうで何よりだ」
 入京直前の慌ただしさに追われながら、駒に(くつわ)をはめ換え緋色(ひ いろ)と金の面繁(おも がい)手綱(た づな)を付けて、きらびやかな(くら)(あぶみ)胸繁(むな がい)を掛け厚総(あつ ふさ)を垂らし、(あで)やかな尻繁(しり がい)を飾って荘厳な姿へと仕上げていく。その逢坂(おう さか)(せき)を通る神々しいまでの駒の行列の光景は、後に紀貫之(きの つら ゆき)が、
 『望月の駒ひき越ゆる山見(やま み)れば覚束(おぼ つか)なくも()かずぞありける』
 と歌ったほどに、駒迎(こま むかえ)の人々を熱狂させて、この年の駒牽(こま ひき)の儀式は(とどこお)りなく行なわれる。
 
 その夜は満月、時を同じくしてここは信濃国は望月の(やかた)──
 (あるじ)の望月恒成(つね なり)がいつになく落ち着きのない様子で真新しい広間の床の上をそわそわ歩き回っていた。そのはずである、奥の(へや)では今まさに、妻の(ゆき)が彼にとって第一子となる子を産もうと、地獄(ぢ ごく)閻魔(えん ま)(むち)打たれるような苦しみの悲鳴をあげているのである。
 「お(やかた)様、もう少し落ち付かれては如何です?」
 と他人事のように声をかけるのは側付(そば づ)きの平五郎という男。年恰好は(あるじ)恒成(つね なり)に似ているも、泥で汚れた(きぬ)や乱れた平緒(ひら お)()れは、働き者ではあるが粗忽(そ こつ)な性格を表わしていた。
 「ええい(やかま)しい、これが落ち付いていられるか!」
 そう怒鳴り声を挙げた時、突然大きな産声(うぶ ごえ)(とどろ)いた。
 「生まれたか!」
 恒成がそう叫んだと同時に息せききって館に飛び込んで来たのは一人の馬丁(ば てい)(馬の世話や口取りをする者)。これまた喜びの血相で、
 「う、産まれました!」
 と館に入るなり大声を挙げた。
 「産まれたか!」
 と同じ様に叫んだのは平五郎。時を同じくして館の曲輪(くるわ)に建てた(うまや)でも一疋の駒が産声を挙げたらしい。恒成(つね なり)と平五郎は顔を見合わせた。
 すると、奥の室からお産の手伝いをしていた下女が飛び出して来て、
 「おめでとうございます! 姫にございます!」
 と主に伝えた。馬丁(ば てい)の男は不思議そうな顔をして、
 「いいえ産まれたのは(おす)でごぜえます……」
 と呟いた。
 奇しくもこの夜、満月の光の中、館の者たちは主の娘と一疋の望月の牡駒が同時に生まれたことを知る。その玉の赤子の産声は満々とした生命力を讃え、その牡馬(おす うま)は数百年に一疋とも思われる美しい月毛を月の光で輝かせていた。
 恒成(つね なり)は、
 「同じ()(づき)の日に姫と駒が同時に生まれるとは何と目出度(め で た)い事だろう! この姫を生駒(い こま)姫≠ニ名付けようぞ!」
 と叫んで赤子を抱き上げ月光にかざした。
 それから間もなくして清和天皇の第四皇子(おう じ)貞保親王(さだやすしんのう)が誕生する。都の恒蔭(つね かげ)は、息子恒成(つね なり)をその家司(いえの つかさ)にするため都に呼び戻し、恒成(つね なり)は愛しい妻と娘を望月に残して単身平安京へと旅立った。
 

 
 馬飼(うま か)いはこの当時の花形職(はな がた しょく)である。
 たいてい上級貴族であれば、朝廷から与えられる(こま)を一(ぴき)は所有したものだが、下級貴族などはそうもゆかず、必要な時は朝廷が管理する馬寮(ま りょう)から借りて乗るのが普通であった。増して農民などの平民にとっては高嶺(たか ね)の花で、駒に乗るなど一生に一度あるかないかの特別な事なのだ。ところが馬を育てる彼らは駒に乗らなければ仕事にならない。だから自分の駒とはいかないまでも、ほとんどの馬飼いは駒にも乗れて、それが(まき)(うまや)を管理する上役ならば大抵自分専用の駒を所有していた。これが役得(やく とく)というものである。
 とはいえ、その仕事内容はなかなか忙しく大変だ。
 山野で放し飼いするには、馬が敷地内から逃げないように、溝を掘ったり柵を作ったりする野馬除(の ま よけ)≠フ整備は不可欠である。これは馬によって農耕地を荒らされないようにするためでもあり、逆に鹿(しか)(いのしし)が牧に入り込んで野荒しを防ぐためでもある。と言って年がら年中放しっぱなしかと言えばそうでなく、秋が深まり寒くなる十一月上旬といえば森林内に分散して越冬させ、春四月上旬になると牧の火入れを行なって再び馬を放つ。
 牧に放した仔馬は二才になると左の股に官≠フ字の焼き印がつけられ、その際毛の色と歯才(し さい)(歯の断面の文様)を記録して朝廷と太政官(だいじょうかん)に報告する義務を負った。余談だが馬は牡馬と牝馬で歯の本数が違い、牡馬には犬歯があって全部で四十本、牝馬には犬歯がなくて全部で三十六本なのだそうだ。ともあれこの作業は牧が広ければ広いほど手間がかかり、牧子(まき こ)だけでは手不足だった。そこで近隣農民の手を借りるわけだが、これは毎年九月の年中行事で、なぜ時期が決っていたかといえば、冬期は馬があちこちの森林に分散しているため、放牧されている夏期の間に馬を追い集めて捕える方が手間が省けるというわけである。
 (うまや)で飼われる馬の管理にも決まりがあった。良馬一(ぴき)馬丁(ば てい)一人、宿継(しゅくつ)ぎ馬二疋に馬丁一人、足の遅いのろまな馬三疋にも馬丁一人が世話するよう定められており、馬毎に穫丁(かく ちょう)≠ニ呼ばれる草刈り人夫を一人あてがわなければならない。そのほか牧飼いの場合は馬百疋毎に牧子二人、そのほか一つの牧には責任者一人と書記を置かなければならず、望月の御牧ほどの規模になるとその運営管理だけでかなり大規模なものになる。
 そればかりでない、馬の盗難にも気を配らなければならなかった。絶えず見張りが付く厩飼いならさほどでないが、牧飼いとなれば自ずと目の届かない死角が生じる。馬は高値で取り引きされており、盗めば当然厳しく罰せられるが、牧場内をくまなく見回るのも大層な労力を必要とした。
 さて──、
 大きな病気もせずにすくすくと育つ生駒姫(いこまひめ)は、そんな様々な仕事を自然のうちに覚え、あれからもう(なな)つの年月を数える頃にはすっかり一人前の馬飼いに成長していた。こと(あるじ)の一人娘ということもあり、幼いながらもその権威は絶大で、少しくらい悪い事をしても注意する者など誰もない。わがまま放題に育つのも道理だろう。いま恒成(つね なり)のいない望月の牧を実質的に取り仕切っているのは三郎だが、その彼でさえ兄の娘に対しては遠慮(えん りょ)もあって、手も付けられない程のお転婆(てん ば)なじゃじゃ馬娘に育ってしまった。反面、乱暴な立ち居振る舞いとは裏腹に、容姿の美しさと言ったら信濃国全土に聞こえるほどで、
 「これでものを言わなければ白百合(しら ゆ り)吉祥天(きっしょうてん)だ」
 と揶揄(や ゆ)されながら、そんな陰口を聞くたび、
 「それは何じゃ? 上野国(こうずけのくに)の駒の名か?」
 と、本人には自らが美しいなどという意識は微塵もない。
 そんな姫が最も大切にしていたのは、自分と(おな)()(おな)(とき)に生まれたあの月毛(つき げ)の駒で、月毛丸(つき げ まる)≠ニ名付けたその駒は、毛並みの美しさは去ることながら、望月のどの馬よりも早く走り、そして馬力もあった。その月毛丸(つき げ まる)を自分専用にして、暇さえあれば牧場(まき ば)を駆け抜け野山を走り、行く先々で鳥や虫たちと気儘(き まま)に遊ぶ。その光景は馬を乗り回して遊ぶというより、どこか恋人同士の戯れにも似ていた。
 あるとき見兼ねた三郎が、
 「月毛丸(つき げ まる)はいずれ天子(てん し)様へさし出さねばならないお(うま)ですから、あまり仲良くなさらない方がよろしい。別れが一層(つろ)うなります」
 と言ったことがある。すると即座に、
 「何を申すか、コノ三郎やい! 月毛丸(つき げ まる)≠ヘ誰にもやらぬ、ずっと(わらわ)と一緒じゃ!」
 そう言ってかの馬の背に乗り駆け出してしまった。追いかけようにもまぁ速い速い、速いのなんの──生駒姫(いこまひめ)身体(からだ)が小さく軽い所為(せ い)もあるだろうが、その駆ける姿は疾風(しっ ぷう)稲妻(いな づま)の如くに、もはや全国筆頭(ひっとう)の望月の御牧(みまき)にさえ月毛丸(つき げ まる)に勝る駒など一疋もないから日本一(にっぽんいち)駿馬(しゅんめ)に違いない。それきり三郎も目を(つぶ)っているより仕方ない。
 それにしても不思議なのは、生駒姫(いこまひめ)月毛丸(つき げ まる)は会話ができた──。
 人と馬が話をするとはやや現実離れした特異さを覚えるかも知れないが、(おな)()(おな)(とき)に生まれた(よしみ)に天が授けた能力か、生駒姫(いこまひめ)が「遊ぼ」と言えば月毛丸(つき げ まる)は耳を回して「ヒヒン」と応え、「今日は寒いのぉ?」と問えば口を動かし「ブルル」と答え、「さあ、仕事に参ろう」と言えば耳をピンと立て前足を挙げて、それはそれは嬉しそうに跳ねたものだった。その様子があたかも会話をしているように見えるのだが、姫に言わせれば月毛丸(つき げ まる)が何を言ったかその人の言葉がすっかり理解できるらしい。長い時間馬と過ごしていれば、例え相手が畜生(ちくしょう)だとしても、ある程度は互いの気持ちが解かり合えるものか。物心がつく以前からいつも一緒で、何かあってもなくても絶えず寝食を共にしてきたためか、生駒姫(いこまひめ)月毛丸(つき げ まる)の間には第三者には入り込めない意識の領域があるらしい。それは何十年も一緒に生活する夫婦以上に甚深(じんしん)繊細(せん さい)なものだった。
 
 このころ都では突然清和天皇が譲位した。そして第一皇子(おう じ)貞明親王(さだあきらしんのう)が皇位に()いた。
 ここに第五十七代陽成天皇(ようぜいてんのう)が誕生したわけだが、このとき陽成(ようぜい)は僅か九歳──、その摂政に就いたのが藤原基経(ふじわらのもとつね)だった。これと同時に第四皇子(おう じ)貞保親王(さだやすしんのう)の即位の可能性はなくなり、恒蔭(つね かげ)の野望もついえた。
 後述もするが、九歳で皇位に就いて僅か十五歳で退位した陽成天皇には奇妙な(へき)があった。(かわず)(へび)などを好んで見つけては捕え、また犬と猿を喧嘩させては大喜びで観戦したと言う。またある時は近くにいた人を高い木に登らせて、
 「そこから飛び降りて見せよ」
 と命じて墜落死させたりと、後の記録には暴君として描かれる。
 いずれにせよ、貞保親王が皇位に就くことはないだろうとは誰もが予測できたことではあるが、その時≠ェあまりに早かった。これ以降貞保親王(さだやすしんのう)は、天皇を支えるための学問を磨き、笛や琵琶、和琴や尺八などにのめり込んで衆芸(しゅう げい)の道を極めていくことになる。
 その貞保親王(さだやすしんのう)に娘を()し、息子を彼の屋敷に送った恒蔭(つね かげ)は、このところ毎日ひどく不機嫌だった。諦めの悪い彼は息子の恒成(つね なり)を屋敷に呼びつけ、
 「お前の娘は幾つになったか?」
 と(やぶ)から(ぼう)に聞いた。
 「生駒(い こま)にございますか? 七つにございます──」
 駒牽(こまひき)のたびに望月に帰る恒成(つね なり)は、我が娘の成長ぶりをよく知っている。
 すかさず「どうか……?」と恒蔭(つね かげ)が聞いた。
 「どうかと申しますと……?」
 「陽成(ようぜい)大君(おおきみ)の后にじゃ──年も近いし似合いではないか?」
 この時代の男女は共に早熟である。全てとは言わないが、男子は十二といえば元服して添臥(そい ぶし)したし、女子も月の物が始まれば子を産んだ。だから九歳、七歳で結婚といってもけっして異常でなく、むしろ政権を虎視眈々と睨む者にとっては当然の発想なのだ。
 「生駒(い こま)はどうもいけません。暴れ馬に似て気性が荒く、あれでは宮中に向きません」
 「そんな事など聞いておらん。御所に住まえば自然と宮中の女になるわな」
 「し、しかし……生駒(い こま)は何と申すか……?」
 「阿呆、天皇の后だぞ、()いも(いや)もない。今度の駒牽(こまひき)に連れて参れ。大君(おおきみ)に目通りさせよう」
 そんな事を一方的に言われても生駒(い こま)姫にも()≠ニいうものがあろう。そう言い返そうとした恒成(つね なり)を尻目に、恒蔭(つね かげ)は息を荒げて席を立った。
 仕方なく、望月に帰って開口一番、
 「父と共に都へ参ろう。大君(おおきみ)様の后にしてやろうと祖父君(そ ふ ぎみ)が仰せだ」
 と伝えれば、生駒姫は最初きょとんとした顔をして、
 「それはどういう事ですか?」
 と問い返した。
 「いま日ノ本で一番偉いのは陽成(ようぜい)天皇様だ。年もお前と同じくらいで祖父君(そ ふ ぎみ)もお似合いだと仰る。けっして悪い話でない、父と共に都へ参ろう──」
 「それは望月を離れよということですか?」
 「左様(さ よう)」と言うが早いか生駒姫は、
 「父君など大嫌いじゃ!」
 と言い捨て、館を飛び出したと思うとそのまま厩の月毛丸(つき げ まる)に飛び乗った。「まてっ!」と後を追いかけるも月毛丸の背に乗った生駒姫の姿は瞬く間に霧の中へと消えてしまった。
 「いつもあの調子なのです……」
 と三郎が困り顔で言う。そして続けて、
 「姫は望月を離れるのが嫌なのではありません。月毛丸(つき げ まる)と別れるのが嫌なのです」
 「あの月毛の駒か……。そろそろあの駒も献上せねばならんだろう。今度の駒牽になんとか連れて参りたい。お前からも説得してくれ……」
 「こりゃ難儀──」
 と相談し合っていることなど()うに承知の生駒姫。跳び出したきり駒牽の一行が望月を出発する時を迎えてもどこかに身をくらませたまま遂に戻ることはなかった。
 万が一にも宮中での駒牽行事に間に合わなかったではただで済まされない恒成(つね なり)は、結局この時は諦めて都に戻り、恒蔭(つね かげ)に大目玉を喰らう。
 そうこうしているうちに陽成天皇は乳母(めのと)紀全子(きの また こ)という女を殊の外寵愛するようになってしまった。恒蔭(つね かげ)の苛立ちはますます増して、最近では近くに寄り付く者もない。
 

 
 数年が過ぎ、生駒姫はますます美しい乙女へと成長を遂げた。
 その噂は信濃国だけに留まらず、ついには都にまで伝わった。気性の荒い彼女を知らない都の男たちは、勝手な妄想に胸を膨らませ、
 「影さやけ月毛の(こま)の背に咲くる香る山百合(やま ゆ り)望月の月」
 といった歌を流行らせては遠く離れた信濃国に思いを馳せた。
 そんな事など露ほども知らない生駒姫は、今日も月毛丸(つき げ まる)の背に乗り牧野を駆け巡って遊んでいる。野馬除(の ま よけ)を軽々飛び越え牧の外へ駆け出せば、そこは流れる雲に浅間が迫り、二人を邪魔する何もない自由な世界が広がっていた。
 ところがどうしたことか、その日の生駒姫(い こま ひめ)はどうも気が乗らない。そればかりか急に腹痛を覚えると、間もなく腰まで痛くなってきた。思えば朝から体も重く、どこか憂鬱(ゆう うつ)な心持ちが続いていたのだ。
 たどり着いた清らかな川は鹿曲川(か くま がわ)だろう。流れのほとりで、
 「少し休もう──」
 と駒から降りた彼女は、ひどい眩暈(めまい)倦怠感(けんたいかん)で身体をうずくめた。心配した月毛丸(つき げ まる)は、
 「姫、どうなさいましたか?」
 と、生駒姫(い こま ひめ)にしか聞こえない特殊な声で言ったが、
 「うるさい! 静かにしていろ!」
 いつにない荒い言葉に月毛は驚いた。
 「具合が悪いのですか?」
 「少し眩暈(めまい)がしただけだ……すまんが落ち着くまで黙っていておくれ……」
 月毛はつぶらな瞳で心配そうに生駒を見つめた。
 突然陰部(ほと)のあたりにぬめりを感じた生駒(い こま)は「なんだろう?」と思って手を当てた。そしてべっとりと手に付着した黒い血の(かたまり)を見て蒼白(そうはく)になった。咄嗟(とっさ)に悟られまいと月毛を見れば、心配そうにじっと見つめて、
 「どうなさいました……?」
 「なんでもない──」
 生駒(い こま)は自分の身体に何か途方もない異変が起こった事を悟り、暫くは頭の中を真っ白にしていたが、やがてドロリとした真っ赤な血に我を取り戻し、気付かれないように洗い流してしまおうと川に飛び込み下半身を水に浸した。
 気が気でない月毛はそっと近寄り、大きなおでこを小さな彼女の(ひたい)に当てて、
 「熱があるではありませんか? すぐに館に戻りましょう──」
 「ええい、(ほお)っておけ、大丈夫(だいじょうぶ)だ!」
 生駒(い こま)は慌てて馬の頭を振り払ったが、振り払われた月毛の目がとらえたのは、生駒(い こま)太腿(ふともも)の内側のつけ根から川にさらわれる一筋(ひとすじ)の血液だった。
 「血……? 血ではありませんか! 姫、それは一体……!?」
 後になってみれば笑い話だが、このとき二人は二人とも、女性の身体に起こる月経(げっけい)というものを知らない。それは生駒(い こま)初潮(しょ ちょう)だったのだ。次の月にも同じ事が起こり、生駒(い こま)姫は(うち)の者に悟られまいと必死に努めるが、(また)の辺りを血で汚した(きぬ)を見た(さち)が、少し笑いながら、
 「おめでとう!」
 と嬉しそうに言ったのを聞いて首を傾げた。
 「それは月物(けがれ)と言って女の人なら月に一遍(いっぺん)誰にでもあることよ。赤ちゃんを産む身体になった証拠──」
 と教えてくれた。このとき命が救われたと安堵(あん ど)するが、あどけなさを残す彼女はまだそれを知らない。
 「月毛丸(つき げ まる)、この事は母君にも三郎にも絶対に言うな! つまらぬ事で心配させたくない……」
 「し、しかし、姫!」
 「いいから(わらわ)の言うとおりにせぇ!」
 「そういうわけにいきません! 傷口をお見せ下さい」
 月毛は血相を変えて生駒(い こま)(えり)(くわ)えて河原に引きずりあげると、(すぞ)をめくって血の出る部分を優しく()め始めた。
 「やめろ、こしょばい──」
 「動かないで下さい……」
 人と馬との越えられない(はず)(しゅ)(さが)を超越したのは、きっとこの時だったろう。
 
 さて、このころ都では──
 貞保親王(さだやすしんのう)望月恒蔭(もちづきつねかげ)の娘との間に生まれた子は、親王妃の名である(きく)の住む館で生まれたことから菊宮(きくのみや)≠ニ呼ばれた。史料によっては同父母の子に(みなもとの)基淵(もと ぶち)という人物もいるが、これは菊宮(きくのみや)と同一人物としておこう。この子は貞保親王が元服する前に儲けた子であるが、陽成天皇が元服する際、同母藤原高子(ふじ わらの こう し)はまだ元服を済ませていない貞保親王を(おもんぱか)り、同じ時に二人一緒にその儀式を執り行った。そして貞保親王は三品(さんぼん)に叙せられ上野太守(こうずけのたいしゅ)に任ぜられる。時に元慶(がん ぎょう)六年(八八二)の事である。
 このときくすぶっていた望月恒蔭(つね かげ)の野望が再び燃え上がり、
 「菊宮(きくのみや)の妃に生駒姫を()そう!」
 とまた言い出した。それも前回の失敗を受けて今度ばかりは引っ込めそうもない。父に強く迫られた恒成(つね なり)は、望月に戻って再び生駒姫にその話を伝えることになる。
 このとき生駒姫十三歳──、
 その美貌は父でさえ目を見張るほどで、初潮の時より彼女の中の女性の(さが)が目覚めたものか、あるいは人というものは成長とともに社会の(あらが)えない現実を否が応にも受け入れるものか、以前のお転婆ぶりはすっかり陰を潜め、しとやかさが備わった分いっそう美しく見えたのだった。
 新月の晩のことである。なかなか首を縦に振らない生駒姫にしびれを切らした恒成(つね なり)は、
 「頼む、父の願いじゃ! けっして悪い話でない。この牧を更に栄えさせるために()ってはくれぬか!」
 と頭を下げた。その時の大きな声は、館のすぐ脇の(うまや)で飼われる月毛丸(つき げ まる)の耳にもはっきり聞こえ、瞬間耳がピンと立ったのは、言葉の意味を深く理解したからである。ほどなく「わっ」と涙を流した生駒姫が厩の中に飛び入って、月毛丸(つき げ まる)をぎゅっと抱きしめた。
 「都にゆくのですか?」
 と月毛が悲しそうに言った。
 「どうしてよいか分からぬのじゃ……」
 「ゆかないで下さい!」
 月毛は鼻面(はな づら)を姫の頬にすりつけたが、涙に暮れる生駒は何も答えることができなかった。仮に月毛が人の姿をしていれば、別れ行く運命に打ちひしがれる恋人同志にも見えただろうが、第三者の目には単なる動物との別れを悲しむ童女にしか見えない二人には、このとき既に人知れぬ同じ感情が芽生えていた。それは、口にしたところでとうてい人には理解できない恋愛感情であることを知っていた。
 次の日から月毛丸(つき げ まる)はすっかり食欲をなくし、その様子に三郎は頭を抱え込んだ。
 「おい、どうしたのだ? このところ何も食べぬではないか──姫様も元気をなくし、お前に乗ることもめっきり減った。このままでは朝廷に献上するどころか、体力が落ちて死んでしまうぞ……」
 しかし月毛は身体を伏したまま悲しそうな眼を浮かべるだけで、
 「参りましたなぁ……。姫様は(ふさ)ぎ込み、望月一の駒も病とは──」
 と、困り顔で恒成(つね なり)に訴えた。
 「生駒の事はともかくも、望月一のあの月毛の駒を死なせるわけにはいかん。なんとかせい!」
 「そう申されましても……このところ全く()()を食わんのです」
 三郎は一等上等な食べ物を与えたり、あの手この手と様々に手を尽くしたが、隆々としていた筋肉は衰える一方で、毛並の色もくすんでいくばかり。いくら考えても原因が分からない三郎は、ついに浅間山に住む行者(あんじゃ)に占ってもらうことにした。すると行者は、
 「この馬は生駒姫に恋をしている──」
 と笑いながら言った。驚愕したのは言うまでもないが、生駒姫までもが同じ感情を抱いていることを知った恒成(つね なり)は激怒して、
 「親王様の御子に召そうとする姫に思いを寄せるとはけしからん!」
 と叫んだと思うと、荒い足取りで月毛丸(つき げ まる)の厩に駆け入って、
 「きさま、馬の分際で! 身の程を知れ! 汚らわしい!」
 近くにあった(むち)で何度も何度も力の限りに打ちつけた。痛々しい悲鳴を挙げる月毛を見兼ねた生駒姫が鞭と月毛の間に飛び込んで、
 「やめて下さい!」
 と、父を睨みつけた。
 「そこ退()け! 勘弁ならん!」
 「いいえ、どきません! (わらわ)月毛丸(つき げ まる)とともにこの望月で暮らしとうございます!」
 「バカを申すな! 馬と夫婦(め おと)になるとでも申すか!」
 「はい!」
 呆れ果てた恒成(つね なり)と三郎は、何とか二人を諦めさせる手立てはないかと考えた。そして恒成(つね なり)牽駒(ひきごま)を連れて都へ発つ前日になって、
 「日の入りを合図に、今宵九ツ(夜中の十二時)までに、月毛丸(つき げ まる)が望月の御牧を三(たび)めぐり終えることができたなら、お前たちの好きにするがよい──」
 と突然提案した。
 望月の御牧と一言で言ってもその周囲は五、六十キロはあるだろうか? しかも夜中──足許もおぼつかない隘路(あい ろ)を走り続けるなど、いくら望月一の駿馬といえども無謀に思えた。ところがその言葉を聞いた月毛丸の瞳は精気を取り戻し、「ブルル」と言いながら痩せ細った身体をむくりと起こしたのだった。
 その大きな身体を支えながら、
 「誠にございますか?」
 と生駒が言った。
 夏場だから日の入りは遅い。それは恒成(つね なり)が生駒姫に最後の決断の機会を与えた形だった。
 「二言はない。ただし、走るのはこの月毛だけだ。お前はここで待つのだ」
 と恒成(つね なり)が言った。
 生駒は月毛を心配そうに見つめたが、体力が落ちているとはいえ、領内を三(たび)めぐることなど月毛丸(つき げ まる)にとっては雑作もない事のように思えた。しかも望月の御牧は庭同然なのだ。どこに何があり、どこが危険かなど熟知し切っている。二人はしたり顔で頷き合った。
 「もう一度申すが、九ツまでに望月の御牧を三周じゃ。間に合わなければお前もきっぱり諦めて都へ行くのだ。よいな」
 「わかりました──」
 こうして月毛丸(つき げ まる)は勇み立ち、日暮れと共に風のように走り出した──。
 
 ところがそこに三郎の姿がないのを生駒も月毛も気付かなかった。
 このとき彼は、望月御牧の南側に位置する集落とは反対側の険しい地形をした崖の縁に立っていた。そこには獣道にも似た一本の細い道が走り、御牧を一周するには必ず通らなければならない望月領最北端の危険な小路であった。
 「急げ! 日暮れと共に馬が城を出る。走り出したら半時もせぬうちにここに来るだろう。急げ!」
 数人の馬丁(ば てい)を従えた三郎は、脇にある大きな岩の上に這い上がって、重そうな無数の石を積みあげる男たちにそう言った。
 「本当にやるんですかい? あのような駿馬は、この後何年待ったって出てきませんぞ」
 陽が沈みゆく中、伴をする平五郎が口惜しそうにそう言った。
 「生駒姫様に諦めて頂くためだ、仕方ない。望月家の将来がかかっている……」
 三郎はもともと人道に外れた事が大嫌いな男であった。だから生駒姫の気持ちも大切にしたいと思っていた。しかしそれに増して忠誠心の強い男であった。例え主君の判断が人道に反していたとしても、それに従う事は彼にとって正義であった。そのうえ運動神経も並外れ、暗闇でも目が利いた。さらにその場その場における瞬時の適応能力は抜群で、仮にこの時代に忍者というものが存在していたとしたら彼は正にそれであり、おそらく全国で彼の右に出る者はないだろう。
 このときも馬が駆けて来る音に真っ先に気付いたのは彼だった。
 「もう来たか。あれほど弱っていたのに随分と早いじゃないか──身を潜めよ」
 積み上げた大きな石を見て「まだ足りん」と首を傾げて三郎が言った。数人の馬丁たちは言われた通りに近くの草陰や太い木の幹に身を隠すと、間もなく月毛丸が疾風の如く駆け去った。
 「月毛のやつめ──暗闇だというのに目が見えるのか? さあ急げ! 領内を三周してしまったら姫があの駒の嫁になってしまうぞ」
 獣のように物陰から姿を現わした馬丁たちは、再び石を積み上げる作業を開始した。
 月毛丸(つき げ まる)は身体をよろつかせながらも領内を走り抜ける。
 その姿は以前のような力強さこそないものの、吐く息は乱れず、その目には確かな光が宿っていた。それは行きつく果てにある愛する女性との幸せな生活であり、
 「姫はもう誰にも渡さない!」
 という堅い決意の顕われだった。希望とは、全ての生きとし生ける者に無限の力を与えるものだ。土を蹴り草花を散らし砂を巻き上げ、川を走れば水しぶきをあげて、まずは順調に一周を回り終えて館の前を通り過ぎた。空を見上げれば上弦の月が浮かんでいた。
 あれよあれよという間に、三郎の耳は二周目の月毛の走り来る音を捉えた。
 「どうします? やりましょうか?」
 三郎は積み上げた石の量を見て、
 「待て……失敗は許されぬ。もっと積み上げて次に確実に仕留めよう。あっちの手筈はどうだ?」
 何か別の画策を隠しているようで、
 「大丈夫です。合図を送れば直ぐに火矢を放って知らせます」
 と、平五郎はそう答えて月毛が通り過ぎるのを待った。
 まだ九ツには間があった。二周目を回り終えて館の前を通り過ぎた時、生駒姫と月毛丸は自分達の勝利を確信した。
 ところが三周目に入り、三郎たちが待ち構える崖の手前まで来た時、闇夜の中に小さなオレンジ色の光がサアっと走ったのを見たと思うと、どこからともなく遠い場所から、まだ鳴るはずのない九ツの鐘の音が響き渡った。
 「まさかっ!」
 月毛丸は蒼白になって、俄かに走る速度が鈍った次の瞬間──
 雷の鳴るような音をたてて、頭上から大きな石の塊が雪崩(なだれ)のように転げ落ちて来たのである。
 月毛は、全てが恒成(つね なり)と三郎の画策だった事を悟りつつ、生駒姫の美しい姿を思い浮かべながら、胸が張り裂けそうな悲しみを抱いて真っ逆さまに谷底へと落ちていった。
 「やった! この高さではとうてい助かるまい。さあ、帰ろうか……」
 三郎は真っ黒な谷の底を見つめて呟いた。
 一方、館で月毛が戻るのを待っていた生駒姫は、九ツを知らせる鐘の音に大きな疑問を抱いて恒成(つね なり)に飛びついた。
 「どうして? 何故九ツの鐘が鳴るの? 月はまだ上空にあるじゃない!」
 「はて……? 寺社の和尚が鐘を打つ刻限を間違えたか?」
 恒成(つね なり)はうそぶき、
 「残念だったなあ、月毛は戻って来ぬようじゃ」
 と冷たく言った。
 その人を(あざむ)欺瞞(ぎ まん)の目付きに生駒姫は父の(はかりごと)だと咄嗟に悟った。刹那(せつ な)、怒りに任せて父の腰の刀をスルリと抜き取り、美しい自分の黒髪を根元からバサリと断ち切った。
 「バカもん、何をするか!」
 「父上が私たちを騙した以上、この約束は破綻(は たん)です。私は都へは参りません!」
 「だ、騙してなどおらぬぞ。そんなことより髪を切るとはなんと浅はかな!」
 髪のない生駒の無残な姿を見て、恒成(つね なり)は愕然として歎いた。
 そんな父娘(おや こ)喧嘩(げん か)の最中に戻って来た三郎が、
 「ひ、姫様……そ、その頭はいったい……?」
 と驚愕の声を挙げた。今度は三郎に飛びついた生駒、
 「月毛はどうした!」
 「はて? まだ戻って来ませんか?」
 父と同じ色の目を確認した生駒は、その場に「わっ!」と泣き崩れると、やがてゆっくり立ち上がり、そのまま走って月毛を探しに闇の中へと消えて行った。
 後を追いかけようとした三郎の腕を掴んだ恒成(つね なり)は、
 「あんななりでは菊宮(きくのみや)様に会わせるどころか、都へ連れて行くこともできん……」
 と情けなさそうに呟いた。
 

 
 陽成天皇から光孝天皇(こうこうてんのう)の治世に移ったのは元慶(がん ぎょう)八年(八八四)二月のことである。
 後に暴君との烙印(らくいん)を押される陽成天皇の最大の過失は、この前年十一月に起きたある事件であった。彼が深く寵愛した乳母(めのと)紀全子(きの また こ)には源蔭(みなもとのしげる)という(れっき)とした夫がいたが、その子である源益(みなもとのまさる)が突然殿上で何者かによって殴殺(ぼく さつ)されたのである。内裏(だいり)内の事件だったことから外に漏れることはなかったが、宮中では嫉妬(しっ と)した陽成天皇の仕業(し わざ)だと噂した。
 更にこの事件の直後にもまたある問題を起こす。
 元来馬好きの陽成天皇は宮中に内緒で(うまや)を作り馬を飼っていた。かつて猫や犬なら飼われていたが、馬というのはちと大きすぎたことに加えてちと臭い。いけなかったのは宮中に出入りの許されていない者を勝手に入れて密かに世話をさせていたことで、この事実が明るみに出た時に関白だったのが藤原基経(ふじわらのもとつね)だった。陽成天皇は彼の妹藤原高子(ふじわらのこうし)の実子なのだから穏便に済ませればよいものを、もともと基経と高子の兄妹(きょうだい)は陽成が元服した頃からの犬猿の仲だった。基経は「これ幸い」と言うが如くに天皇の取り巻きと馬の全てを追放してしまう。そしてこれを機に陽成天皇の退位を迫った。まだ年少で孤立した陽成に抗する術はなく、仁明天皇の第三皇子である時康親王(ときやすしんのう)(光孝天皇)が即位したという経緯がある。時に光孝天皇五五歳の即位だった。
 更に三年後の仁和(にん な)三年(八八七)八月には宇多天皇(う だ てん のう)が即位した。
 わずか数年で天皇が換わったのは、前の光孝天皇が病によって崩御(ほう ぎょ)したためで、このとき清和天皇第四皇子で藤原高子を母とする貞保親王(さだやすしんのう)が皇位に就く可能性もあったが、高子の兄で関白の藤原基経(ふじわらのもとつね)はそれを嫌った──。
 再び皇位から遠のいた貞保親王(さだやすしんのう)は、このところ専ら琵琶や笛などの衆芸に夢中である。
 滋野恒蔭(しげ の つね かげ)の娘との間にもうけた菊宮(きくのみや)(こと)(ほか)可愛がり、その様子と言ったら、まだ物心つく前から音楽に親しむようにと片時も膝の上から放さず、自ら奏でる琵琶の演奏を聞かせるのである。否、それは可愛がるという言葉に名を借りた衆芸の英才教育と言った方がよいかも知れない。
 もともと貞保親王の琵琶の腕前は父清和天皇からの手習いで修得したもので、笛については名手古部春近(ふる べ はる ちか)という男に習い、今では管絃長者≠ニか天下無比(む ひ)の名手≠ニまで称されるほどだった。勅命による笛の伝授や琵琶秘手の伝授も行い、自ら作曲もすれば途絶えて幻となっていた曲も復活させるというようなこともしていた。この時代、衆芸においては彼に肩を並べる者はなく、加えて容姿も優れていたから、その子菊宮(きくのみや)の成長も何かと宮中の話題にのぼる。その菊宮(きくのみや)も今はもう十歳に成長していた。
 ある日のことだった。
 いつものように天皇のおわす清涼殿(せい りょう でん)において、貞保親王は菊宮を膝の上に置き、皇族たちを相手に琵琶を弾いて聴かせていた。そのとき一羽の(つばめ)が清涼殿に舞い込んで貞保親王の頭上を二、三回旋回したかと思うと、それに目を奪われた菊宮が喜んで膝から離れて燕を追いまわした。親王は琵琶に夢中で気にする様子もなかったが、見ていた皇族たちはその光景を微笑ましく眺めていたのである。ところがこのとき燕が(ふん)を落とし、それが運悪く菊宮(きくのみや)の目の中に入ってしまった。
 突然菊宮は大声をあげて泣き出したが、貞保親王は別段驚きもしないで琵琶の演奏を続けた。これが原因で菊宮は失明する。
 失明どころか激しい目の痛みを訴えるのを心配した宇多天皇は、
 「菊宮の目を治すために何かよい方法はないか?」
 と宮中の者たちに尋ねると、中に、
 「鹿沢(か ざわ)の湯が眼病に利くそうでございます」
 と教える者があった。詳しく聞けば、それは、
 「信濃国にある」
 と言う。
 かつて日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征の際、山中で一頭の白鹿を見つけ、これをめがけて放った矢で負傷した白鹿は、その湯に浸かって傷を癒したと云い、また、孝徳天皇(こうとくてんのう)年間(白薙(はく ち)元年・六五〇)には、山峯から()す光明を怪しんだ里人が、漂い来る湯煙に誘われて近づいてみると、地より熱湯が湧き出ているのを見つけ不思議な声を聞いた。
 「我は東方薬師如来(やく し にょ らい)である。されば一切衆生(いっ さい しゅ じょう)に生・老・病・死≠フ四苦あり。その苦しみをたすけ、寿命長穏(じゅ みょう ちょう おん)の薬を与え、現世の身心を安らかにせしめ、困苦を救うために薬師の号を得た」
 と。そこでその場所に薬師如来≠祀り、『諸病を治する名湯』として鹿沢(か ざわ)の湯≠フ名が宮中にまで届いていると語った。
 「して、その湯のある場所は誰の知行(ち ぎょう)か?」と天皇が問うと、
 「海野荘(うん のの しょう)望月御牧(もち づきの み まき)のある所で滋野(しげ の)氏にございます」とその者は答えた。
 ──鹿沢温泉(鹿沢(か ざわ)の湯)は現在の群馬県にある。地理的に言えば県の最西端に位置し、県境の浅間山西側の地蔵峠(じ ぞう とうげ)を十キロばかり行けばそのまま東御市(とう み し)に入る。つまり、当時そこは滋野氏の領であった。
 こうして滋野恒蔭(しげ の つね かげ)が宮中に呼び出された。
 ところが老齢になったこともあり、()うに野心が消え失せた彼にもう権力への執着はなかった。軽くあしらって三男の三郎にその任の全てを任せたというわけである。
 三郎は、菊宮を連れて鹿沢(か ざわ)の湯にやって来た。そして昼夜に渡って菊宮を湯に入れていると、たちまち目の痛みが消えて平癒(へい ゆ)した。しかし視力は二度と快復することはなく、この後菊宮は目宮王(めみやのおう)()見えぬ王)≠ニ呼ばれて信濃国で生涯を過ごすことになる。
 

 
 さて、月毛丸(つき げ まる)を失った失意の生駒姫(い こま ひめ)である──あれから十年という歳月が流れ去っていた。
 その間の朝廷での出来事を述べておけば、権勢をふるっていた藤原基経が世を去り、宇多天皇は自ら法皇となって醍醐(だい ご)天皇へ譲位しようとしていた時分に当たる。彼の行なった『寛平(かん ぴょう)()』により政治は比較的安定してはいたが、都の時の流れとは明らかに違う軌道に乗って、生駒姫の穏やかな暮らしはうつろいゆく季節を感じるだけである。気付けば(よわい)も二十七になろうとしていた。
 月毛が滑落した谷の近くに小さな(ほこら)を建てて、剃髪(てい はつ)して尼になった彼女は、近くの粗末な(いおり)を借りて侘びしく住んでいた。そこは海野荘の東に位置する深井何某(なに がし)と名乗る土豪の土地であり、彼女の父恒成(つね なり)は、その身を案じて密かに生活を見守るよう深井氏に命じていたが、あの出来事以来すっかり心を閉ざした生駒は父との関係を断絶し、決して滋野望月の家の者とは会おうとしない──。
 そんな彼女のところへ、ある日突然目宮王(めみやのおう)の手を引いてひょこり顔を出したのは三郎である。時を尋ねれば寛平八年(八九六)の十五夜も近づく秋だろう、もう日が沈みかけていた時分である。
 彼の顔を見た途端、生駒は庵の扉を堅く閉ざして二人を外に(ほう)り置いたままにしていたが、
 「まだ根に持っていらっしゃいますのか? わしはともかくお連れした目宮王(めみやのおう)様には関係ないこと。皇族のお方なのだが目がご不自由じゃ。鹿沢(か ざわ)の湯に湯治(とう じ)に参った帰りなのだが、目宮王(めみやのおう)様だけでも中に入れてくれんか?」
 と三郎が言った。
 暫くすると、ソロリソロリと扉が開き、隙間からすっかり尼に姿を変えた生駒が顔を覗かせた。
 「皇族のお方のみ入られよ」
 すると目宮王が、
 「過去に何があったか存ぜぬが、この三郎は目の見えぬ私の手を引いて遥々(はる ばる)都からここまで連れて来てくれた恩人じゃ。お陰で目の痛みが癒えたのだ。私だけ入るわけに参らぬ。三郎を中に入れぬと申すなら私も入らぬ。しかし、もし私を入れてくれるのであれば、どうかこの私に免じて三郎も入れてやってはくれまいか?」
 見ればこのとき十五の目宮王は、光を失った薄鼠色(うす ねずみ いろ)の瞳孔を光らせながらも、夜叉(や しゃ)でさえうっとりするような凛々(り り)しい顔付で、田舎ではとんと見られぬ高貴な身なりに、天から降ってくるような美声でそう言った。その神々しさに生駒は返す言葉も見つからず、思わず「どうぞ」と応えて二人を庵の中へ招き入れたのだった。
 「ずいぶん質素な暮らしぶりですなぁ……」
 庵の中を見回しながら三郎がぼやいたが、生駒は何も聞こえぬ素振りで(かまど)に湯を沸かし始めた。すると目宮王が「おかまいなく」と言いながら、
 「滋野望月恒成(つね なり)殿のご息女と聞いたが、突然の訪問をお許し下さい」
 と頭を下げた。およそここに来る道すがら、彼女の事を根掘り葉掘り三郎から聞いたのだろうが、高貴さと威厳を合わせ持った貴族とは思えない慇懃(いん ぎん)な態度に驚くのであった。
 「いいえ、私は望月とは(えん)所縁(ゆかり)もございません。私は深井の娘でございます。訳あって出家いたしました。お気遣いは御無用……」
 生駒は淡々と応えて祠のある方角に端座して法華経を読誦しはじめた。
 「実は頼みがあって参った」と三郎が言う。
 「目宮王(めみやのおう)様の給仕(きゅう じ)をお願いしたいのだ。今月は駒牽(こま ひき)だというのにここ暫く御牧に顔を出しておらん。実に心配でならん。すぐにでも行って様子を見たいが、目宮王(めみやのおう)様には鹿沢(か ざわ)の湯に入って欲しい。何か良い手立てはないかと考えていたところ姫の事を思い出した。ここからなら馬を走らせれば鹿沢の湯は目と鼻の先じゃ。暫くの間、(きみ)のお世話をしてくれまいか?」
 生駒は読誦をやめて目宮王に視線を向けた。すると彼はあらぬ方向に鼠色の目を向けて静かに、そして上品に笑っている。
 「皇族と申されましたが、どのような筋でございますか? その目はいつから?」
 生駒の立て続けの質問に対し、目宮王は、清和天皇第四皇子貞保親王(さだやすしんのう)の子で母は滋野恒蔭の娘であることや、燕の糞が目に入って失明したことなど、歯に衣着せぬ屈託(くっ たく)のない口調で語り始めた。その語彙(ご い)は一見陽気そうに見えたが、言葉の奥には深い闇というか、人生に対する諦観(てい かん)の念がこもっているようにも聴こえるのだった。その計り知れない悲しみの闇は、どこか生駒の心にわだかまる大きなしこりにも似て、同類の共感を抱かずにいられない。
 「給仕だけならかまいませんが、目が見えぬのに駒にお乗りでございますか? 誰の手も借りずにお一人で鹿沢(か ざわ)の湯へ参ることなどできるのですか?」
 「そりゃ無理じゃ。だからこうして姫様のお力をお借りできぬかと──」と脇から三郎が口を挟む。最初からそんな魂胆であることは直ぐに知れたが、
 「相変わらず小賢しい男だ」
 と言わんばかりに生駒は三郎を睨んだ。
 「目宮王様と申しましたか──貴方様お一人ならばここをご自由にお使い頂いて構いません。しかし、お見受けしたところまだお若い。私は出家したとはいえこの身は女でございます。既に盛りは過ぎたと申せ間違いが起きるとも限りません。けっして私に手を出さぬとお約束くださるならば──」
 だしぬけにはっきり物言う性格は昔のままだ。目宮王は俄かに笑い出した。
 「私が其方に手を出すと疑いか? 安心なさい、私は尼に興味はありません。それに目が見えぬ。ひどい醜女(しこめ)が宮使いをしているとでも思っておりましょう。それに万一私が左様な事をしたらどこへでも逃げればよろしい。私は見えんので追いまわすこともできません。それ以前に女御(にょうご)を持つなどとっくに諦めておりますわい。それより其方の方が妙な気を起こすのではないかと心配です。なにせ父貞保の若い頃の美貌は宮中でも評判で、中には袖に蛍を包んで燃える思いを伝えた者もいたと聞きますから、子の私の容姿もまんざらではありますまい? ──なんなら念書をしたためますぞ」
 こうして目宮王は生駒の庵に身を置くこととなり、その日三郎は慌ただしそうに御牧へと向かった。
 ──その晩、生駒は不思議な夢を見た。
 普段彼女が見る夢は、決まって月毛丸が崖から落ちる光景だった。そのたびうなされ真夜中に目を覚ますのだが、この夜夢枕に出て来た月毛丸は、谷底から竜のように崖を駆けあがって来たのである。そして生駒の前に屹然(きつ ぜん)と立ったと思うと、俄かに人の姿に変じてにっこり笑った。その顔まではよく覚えてないが、真夜中に目を覚ました生駒は、部屋の隅で静かな寝息をたてる目宮王の顔を静かに覗き込んだ。
 
 翌日から生駒の生活スタイルは多少変わった。
 早朝に目を覚まして朝餉(あさ げ)を作るのは同じだが、その分量は二人分。食事を済ませた後は目宮王を馬に乗せ、鹿沢(か ざわ)の湯へ連れて行くのが日課になった。そして目宮王は日がな一日湯に浸かって治療に専念するが、生駒は一旦庵に戻って月毛丸のために経を読み、そのあとは深井の集落へ出掛けて食糧や生活用品を調達したり、寺で雑用など足していれば直ぐに陽は傾いた。普段なら庵に帰って夕餉の仕度を始めるが、この日からは迎えの仕事が一つ増えた。大根を雑に輪切りにして(かなえ)にぶっこみ、水を加えて竈の火にかけると、そのまま三郎が置いていった駒にまたがり鹿沢温泉へと向かうのだ。
 そんな生活にも慣れた頃には、目宮王とも親し気に会話をするようになった。飾らない気さくな性格もあってか次第に心惹かれる自分を感じるようにもなっていた。
 「相すまぬ……」
 朝、目宮王に手を貸して馬にまたがせると、自らは後に乗って馬を走らせる。湯までは四半時もかからず到着するが、その間馬上で、
 「其方はどこで馬乗りを習った?」
 「望月の御牧で育ちましたので、物心ついた時には既に駒に乗っておりました」
 「どうりで──めっぽう上手い」
 というような話もする。そして今晩が十五夜なのを思い出した生駒は、
 「今宵は満月でございます。何かご所望はございますか?」
 と聞いた。
 「おお、気が利くな。私の食べたい物を用意してくれるか?」
 「なんなりと」
 「そうじゃのぉ……月見とあらばやはり団子かのぉ? しかし私は月見は好まぬ。せっかく夜空に真ん丸なお月様が微笑んでおるというに、私にはその姿が見えぬのだから……」
 生駒はまずい事を聞いてしまったと反省しながら、
 「振り落とされないようしっかりつかまっていて下さい!」
 と話をはぐらかせて馬に(むち)を打った。
 そうしてこの日も送り届けると、帰ってから早速団子づくりに取りかかる。心はいつになくとても愉快で、子供のころ月毛丸と一緒に野山を駆け巡っていた遠い昔を思い出していた。
 どうせ団子を作るなら、一世一代の見事なものを作ってやろうと、いろいろ食材を工夫してみたり、器などにもこだわっているうち、団子を丸める段になって時間が過ぎるのを忘れていたことにハタと気付いた。天を見上げればもう陽が沈み、西の空が真っ赤に染まっているではないか。
 「いかん! お迎えの時間がとっくに過ぎているではないか!」
 慌てて馬に飛び乗って、鹿沢の湯に到着した時にはすっかり夜の(とばり)が下りていた。
 「申し訳ございません! 団子づくりに夢中になって、時間をすっかり忘れておりました──」
 そう言いながら、湯煙が濛々(もう もう)と立ち込める中を、湯帷子(ゆ かた びら)姿で湯に浸かる目宮王に駈け寄れば、
 「おお、もうそんな刻限か──」
 と、別段気を悪くした様子もなく、目宮王は掌に湯をすくって両目に押しあてた。
 そうなのだ──この男の住む世界には光がない。昼も夜もなく、彼は永遠に闇の中で生き続けるしかないのだ──。
 そう思うと、ふいに生駒の口から、
 「お背中をお流ししましょうか?」
 という声が漏れた。
 そんな言葉を言うつもりなど全くなかったが、それは無意識といえば無意識の仕業だった。そして果てしない静寂な空間の中に涌いたその小さな感情は、本人の知らないところで勝手に膨張し、その言葉が漏れてしまった途端に不意に我に返って、何かとてつもなくいけない事を言ってしまったような罪悪感にとらわれた。
 「おお有り難い──」
 目宮王は両足を湯に浸したままゆっくりと湯の(へり)に腰掛けると、
 「では、頼む──」
 と、彼女の存在を気にする様子もなくため息を漏らすように言った。
 背中にそっと近づいた生駒は、若々しく美しいだろう筋肉を隠している湯帷子(ゆ かた びら)襟元(えり もと)に手をかけると、「失礼します」と言ってから、うなじからそっと衣を脱がせていった。
 その瞬間──
 両目が「はっ!」と見開かれ、身体が硬直したまま全ての時の流れが止まった。
 どれほどの時間が流れたろう? 暫くして、
 「どうした?」
 と、目宮王が聞いた。
 「こ、この背中は一体……?」
 「何かついておるか?」
 「い、いえ……」
 生駒が目にしたのは、うなじから腰にかけて背骨(せ ぼね)に沿って(たくま)しく生える月毛色の毛並であった。それはまるで動物の(たてがみ)のようであり、今宵、満月の光に照らされてキラキラと輝いているのである。
 「何をそんなに驚いておる? 私は十の時より己の顔さえ見たことがないのだ。まして自分の背中など見えようはずもない。私の背中に何がある? 詳しく説明してみせよ」
 「い、いえ──なんでもございません……」
 生駒はそう云いながら、その立派な月毛の(たてがみ)に顔をうずめた。
 

 
 この後、目宮王と生駒との間に生まれた子は善淵王(よしぶちおう)≠ニ名付けられた。
 そして延喜(えん ぎ)五年(九〇五)には醍醐天皇(だい ご てん のう)より滋野(しげ の)姓を(たまわ)って滋野善淵(しげ の よし ぶち)と名乗る──。
 これが即ち真田家総領となる滋野家の先祖となった──とは、この小説だけの逸話にしておこう。
 更にこののち善淵王は、自らを新皇(しん のう)と名乗って乱を起こした平将門(たいらのまさかど)の討伐軍を率いた平貞盛(たいらのさだもり)と共に信濃を舞台にして戦った。これがいわゆる天慶(てん ぎょう)二年(九三九)に起こった『平将門の乱』である。
 かつて平貞盛は、京都で左馬允(さ まの じょう)の職にあったとき、信濃御牧の牧監滋野氏と懇意だったと言われている。そしてこの戦いの一つの舞台となったのが上田の国分寺であり、このとき勝利を逃がした将門は、
 「千たび首を()きて(むな)しく堵邑(と ゆう)(かえ)りぬ」
 と歌を残して東国へと引き揚げた。
 将門は天皇に歯向かった汚名を残すが、逆に善淵王は、この功績によって朝廷より州浜(す はま)の紋≠フ入った御幡(み はた)を賜り、これが滋野氏の家紋の淵源である。
 目宮王と生駒姫が通った鹿沢の湯までの地蔵峠には、今も一番観音から百体観音が祀られ、鎌倉時代には源頼朝も桟敷(さ じき)を作って湯に入ったと伝わる。そして『王湯』とも称されたその温泉は、難病・重病に利くと全国にその名を轟かせ、江戸期はもちろん大正期に至るまで多くの湯治客で賑わった。
 今は昔の望月城──
 遠い昔に思いを馳せながら。
 
 二〇二三年七月三日
(2023・03・29 望月城および佐久市立望月歴史民俗資料館 上松氏より拾集)