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会津若松あねちゃ隊
城郭拾集物語L 陸奥国(福島)鶴ヶ城(若松城)
鶴ヶ城
北出丸
鉄門

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 赤瓦葺(かわら ぶき)の天守の屋根が美しく映える鶴ヶ城に筆者は立った。
 かつての戊辰戦争の中でも特に激しい戦争だったと伝わる会津戦争≠フ舞台である。
 そこは城下町の南端に位置し、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置された梯郭式(ていかくしき)の平山城──そのはじまりは南北朝時代にまで(さかのぼ)ると言う。なお正式名称は『鶴ヶ城』でなく『若松城』であると現地のボランティアガイドさんから教わった。
 古くは黒川城(くろ かわ じょう)または小高木城とも呼ばれ、戦国時代に入ると伊達政宗が入城したこともあるが、豊臣秀吉が政権を握ってからは蒲生氏郷(がも う うじ さと)の居城となった。
 城下町を整備した氏郷は、町の名前を黒川から『若松』へと改め、一五九三年(文禄二年)には何段にも重なる望楼型(ぼう ろう がた)の天守閣を建設した。名を『鶴ヶ城』としたのはこのときである。
 その後、氏郷の子秀行が下野国宇都宮に移封となり、越後国より上杉景勝(うえすぎかげかつ)が一二〇万石で入封した。ところが関ヶ原の戦いで西軍に加担した(とが)を受け、三十万石に減封された景勝は出羽国米沢へと移って行く。
 ここで再び蒲生氏が入城するも継嗣(けい し)問題で伊予国松山へ移封されると、続いて伊予松山より加藤嘉明が入ったが、一六四三年(寛永二〇)に改易されると、出羽国山形より三代将軍徳川家光の庶弟保科正之が入封して、保科氏は松平へと改名する──これが明治維新まで続く会津松平家である。
 話は変わるが二〇二二年二月──。
 ロシアによるウクライナへの軍事行動が突然報道された。
 寝耳に水のニュースに、日本ばかりでなく世界中がその動向に関心を寄せ、非難し、あるいは激怒し、関係のない市民を巻き込む現実に哀れみを抱き、嘆息し、これまで培ってきた人類の叡智(えい ち)をもって食い止めようとはしているが、事態はキューバ危機∴ネ来の核兵器の不安に飲み込まれている。
 一九九〇年には湾岸戦争もあったが、第二次世界大戦後、三度目の世界大戦はけっして起こしてはならないと固く決意した日本国の住人は、まさか二十一世紀に入って尚このような馬鹿げた事態が起こったことに驚愕し、言葉を失った者も多いのではなかろうか?
 これをロシアは『正当防衛』と主張する。
 NATO(北大西洋条約機構)加盟を目指すウクライナに対し、ウクライナ東部の住民が(おびや)かされているからロシアはこれを守ると言うのだ。NATOは欧州、北米の三十カ国が加盟する軍事同盟である。
 地理的にロシアとヨーロッパとに挟まれているウクライナは旧ソ連時代からの兄弟国でもあるが、このウクライナの姿勢に時の大統領は我慢ならない。欧米寄りのウクライナを排除し、ロシアに従わせようとする狙いがあるらしい。
 ところがウクライナ側の激しい抵抗と、国際社会の強い反発によりロシアは経済制裁を受け大打撃を(こうむ)り世界から孤立した。もっとも一九一七年にウクライナ人民共和国が成立してより、この二国間には今日に至るまで複雑な経緯もあるが、何より悲しいことは、この戦争に巻き込まれた市民たちの嘆きと悲劇が厳然と存在していることであろう。
 敵が攻めて来れば、母国を守るために武装し、武器を持って応戦するより仕方ない。
 万人が、あの非暴力を貫いたガンジーになれる日は、いったいいつになるのだろうか? おそらく今の地球人の機根(き こん)では不可能だろう。
 さらに驚くべきことは、ウクライナ軍に参戦する市民の中には女性もいることである。しかも三万人もいるという報道もある。中には銃を持って戦う者さえいると言う。
 祖国愛もあるだろう──
 自己防衛本能もあるだろう──
 理不尽(り ふじ ん)さを許せない感情もあるだろう──
 しかし、いくらジェンダーが世界で叫ばれているとはいえ、人類の生命を育む地球上にかけがえのない女性が、つまらない為政者が巻き起こす戦闘で命を落すことがあってはならないのだ! それが例え志願によるものであってもだ。
 もはや戦争は人類には防ぐことのできない宿業(しゅく ごう)なのだろうか?
 いくたびの戦争を経験したに関わらず、過去の教訓に学べない人類とはどこまで愚かな生き物か?
 思えば、幕末の日本においても戦争に巻き込まれたあまたの庶民がいた。
 その最たる事件が会津戦争であったとも言える。
 京都・大坂から進軍する新政府軍は、江戸を無血開城するとそのまま東上し、激しく抵抗する会津藩と衝突した。
 その激動に呑み込まれ、命を落した特に女性の戦いを知る時、涙がとめどなくこぼれてくるのである。
 新島八重の奮闘も有名だが、今回は、その会津において命を賭して、否、命を捨てて自分の国を護ろうとした『会津婦女薙刀(なぎなた)隊』に焦点を当てようと思う。──なおこの小説では、会津弁や東北地方で『婦女』を敬称で『あねちゃ』とも言うことから『会津若松あねちゃ隊』と記すことにした。



 文久三年(一八六三)、徳川幕府から京都守護職を命じられた会津藩主松平容保(かたもり)がこの年の一月に参内し、著しく治安が悪化する京都の警備を厳しくしたころ、竹子は大坂にいた。
 この年、それまで鎖国政策を()いていた日本に諸外国の船が次々と来航し、開国か攘夷(じょう い)かをめぐって朝廷に相談を仰ぐため、徳川家光以来、実に二二九年振りとなる将軍上洛(じょう らく)という異例の事態に陥っていた。更には天皇の攘夷命令に従い、外国を相手に長州藩と薩摩藩が戦争を引き起こし、八月十八日には公武合体を目指すゴタゴタの中で長州藩が京都から一掃される大事件が勃発した。いわゆる後に幕末と言われる大混乱の様相を呈し始めたのである。
 松平容保(かたもり)に随従して京都にやってきた会津藩士は数知らず、その中には後の『会津若松あねちゃ隊』の一人に数えられる菊子の義兄依田源治という男もいた。
 日に日に悪化する京都の不穏な動きに大きな不安を抱きながら、大坂に住む竹子は自分の属する会津藩のことをずっと考えている──。
 もともと彼女は江戸常詰(じょう づめ)の会津藩士中野平内の長女で、嘉永三年(一八五〇)三月、江戸和田倉の会津藩邸で生を得た。母は下野国(しもつけのくに)足利(あしかが)の領主戸田七之助忠行(と だ しち の すけ ただ ゆき)の家臣生沼喜内(いく ぬま き ない)の娘で名を孝子(こう こ)と言う後の『会津若松あねちゃ隊』を束ねることになる気丈な女性である。
 江戸で過ごす竹子が七、八歳のとき、ペリーが浦賀に来航した。このとき江戸の町が大騒ぎになったのを肌で感じた竹子は、以来、子どもながらに日本の先行きに不安を覚え、小さな身体を震わせていた。
 しかし、そんなことなど歯牙(し が)にもかけていない様子の母孝子(こう こ)の姿を見て、
 「母様、わたし、剣術を習いたい」
 と言った。ごく単純に「強くならなければいけない!」と思ったのだ。
 母の孝子は武家の娘として幼少の頃より武道を身に付けており、薙刀(なぎなた)を持たせたら師範も驚くほどの腕前だった。会津藩士の嫁に来てからは、そのお家の家風に忠実に従いながら女の分別というものもよく弁えていた。娘のその言葉を聞いたとき、
 「よき心掛けです」
 言葉少なに、会津藩士で江戸に道場を開いていた赤岡忠良(あかおかただよし)の門に通わせ、剣術や書道を習わせることにしたのであった。
 このころ竹子には一、二歳になる優子という名の妹がいた。
 その妹の子守りも愚痴ひとつこぼさない竹子は男勝りで、お正月でなくても妹の手を引いて、よく江戸城のお堀端(ほり ばた)に行っては(たこ)揚げに興じたものだった。そして空に浮かぶ凧を不思議そうに見つめる優子に向かって、
 「凧はね、上空のものすごく強い風を全身で受けながら空を飛ぶの。風が弱ければ飛ばないし、人も同じよ、強くなるには強い風を受けないと偉くなれないわ!」
 もっともこれは母の受け売りだが、「ふ〜ん……」とあっけらかんに頷く優子に、
 「でもね、いま優子が指先でつかんでいるこの細い糸が切れたら、どこか遠くへ吹き飛ばされて、誰も知らない所に落ちてしまうのよ。この糸はなんだかわかる?」
 と謎かけをする。これは受け売りでなく竹子の持論で、
 「なあに?」と聞かれると嬉しそうに、
 「気持ちヨ! 人の心──」
 と自慢げに答えた。
 「じゃあ、切れないようにしないとね!」
 優子の言葉など聞こえない様子で、いつまでも青い空を泳ぐ凧の軌跡を目で追っていた。
 母に似て、妹思いの竹子は人も羨む美しい乙女へと成長していく。
 容姿もさることながら男勝りだが器量よし、武芸の方も人並はずれ、読み書きもよく出来きた上に和歌にも達していたので、藩中はもちろん他藩へもその名の聞えた評判の乙女になった。だから、師の赤岡忠良も彼女をたいへん気に入って、彼が御蔵奉行(お くら ぶ ぎょう)として大坂への赴任が決ったとき、
 「竹子さんを一緒に大坂へ連れて行きたい。ぜひにも私の養女にくださいませんか?」
 と懇願した。
 もとより道場を開き信望も篤く、母の孝子も恩義のあった赤岡だから、その熱い情熱に父平内も承諾し、以来竹子は師と一緒に大坂に移り住んで、剣術の腕を磨いていたというわけである。
 ところが著しく変動する世の中にあって、このまま(とつ)いでつつがなく生きることが何か途方もなくいけないことのように思え、特に会津のお殿様が病身でありながら京都市中の暴徒の警戒を行っていると聞いた時には、なんだか申し訳ない気持ちで一杯になった。このころの京都では、五百人もの過激な攘夷派(じょう い は)浪士が夜闇に紛れて暗躍し、一日に何人も暗殺しているといった恐ろしい噂が連日のように聞こえてきたのである。
 そのうちに生麦事件や英国公使館焼き討ち事件などの風聞が関東の方から流れてきて、七月に入る頃、
 「松平容保が天皇の(めい)で江戸へ下る」
 と聞いた時には矢も楯もたまらなくなった。
 「私も江戸へ参り、会津のお殿様のお近くでお守りしとう存じます」
 竹子は赤岡に心の内を伝えた。
 「いずれわしの(おい)の嫁にと思っていたが、すでにお前はわしの持つ全てを吸収したようだ……。もう決めたのかい──?」
 「はい……申し訳ございません……」
 口惜しく思いながらも会津藩のためというその心を赤岡も深く理解していた。
 こうして竹子は、生まれた中野家に復籍し、江戸に戻ってその後は、備中松山藩主板倉勝静の姫君(勝静には女子がないので、あるいは上野国安中藩主板倉勝殷(かつまさ)か? 花子・種子の二女がいる)の祐筆(ゆうひつ)として奥勤めをすることになったのだった。
 皮肉なのは、松平容保の江戸行きは単なる噂で、会津藩を京都から遠ざけるための過激派による画策であったことは後で知った。



 松平容保(かたもり)義姉(ぎし)照姫(てるひめ)がいる。
 彼女は上総国(かずさのくに)飯野藩(いい の はん)(しゅ)保科正丕(ほ しな まさ もと)の三女で、天保十四年(一八四三)十歳のとき、当時跡継ぎのなかった会津藩第八代藩主松平容敬(かたたか)の養女となり、いずれ婿(むこ)を迎えて会津藩を継ぐはずだった。ところが同年、容敬(かたたか)が側室との間に敏姫をもうけたために、その婿養子として迎えられたのが美濃国高須藩主松平義建(よしたつ)の六男(庶子)容保(かたもり)である。このとき照姫は、会津藩でのその使命を終えたように見えた。
 元来容姿端麗(よう し たん れい)な照姫は、礼法にはじまり書や茶道に通じ、特に和歌が巧みで二歳年下の容保(かたもり)もその手ほどきを受けていたが、敏姫が成人して容保と夫婦(めおと)になると、嘉永三年(一八五〇)、豊前中津藩主奥平昌服(おく だいら まさ もと)に嫁いだ。
 奥平家は徳川譜代の名門だが、黒船が来航すると昌服(まさ もと)は開国論者となって、
 「外国との通信交易は当然であり時代遅れの鎖国は廃止すべし」
 とした明確な論を持つようになる。これが原因かは不明だが、当時藩政の実権を握っていた祖父昌高とはそりがあわず激しく対立するのだった。
 そんな家中の重い空気に耐えかねたか、あるいは昌高に追い出されるような形になったか、それとも昌服(まさ もと)が彼女を気遣ったためか、いずれにせよ結婚してよりわずか四年後の安政元年(一八五四)、照姫は離縁して江戸の会津藩邸に戻る。二十三歳のときである。この間、養父松平容敬が死去し、会津藩は照姫の義弟容保(かたもり)が藩主となっていた。
 余談だが、この後昌服(まさ もと)は長州征討にも加わる佐幕派だったが、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、新政府軍に味方して会津へ出兵することになる。歴史とはなんとも皮肉である。
 照姫が会津に戻って七年目のことだった。
 容保(かたもり)の正室敏姫が十九歳の若さで他界した。もとより病弱だったとは言われるが、この後会津藩の奥向きは、家中で最も身分の高い女性として照姫が取り仕切ることになる。
 生麦事件が起こると、その賠償問題をめぐってイギリス艦隊は江戸へ砲口を向けて幕府を威嚇した。西洋兵器の脅威に恐れおののく江戸市中の民は一時騒然とするが、
 「照姫様、会津へ避難いたしましょう!」
 と、照姫が初めて会津入りしたのはこの時である。もっとも彼女自身はあまり気乗りしなかったようだが、迎え入れた会津の喜びようといったら欣喜雀躍(きん き じゃく やく)歓天喜地(かん てん き ち)、特に女衆の歓び様といったら、
 「弁財天とも見紛(み まご)うようなお美しい御姿……」
 「お美しいばかりでなく、その動作の勇壮なるは男子も及ばない」
 「どうぞこの会津にてごゆるりとお過ごしくださいませ」
 「不肖ながら、この先なにがあろうと身を(てい)してお守り申し上げます!」
 と、お祭り騒ぎの賑わい。その上、会津の女性というのは信に厚く義に従順、そのうえ情に深いときているから照姫も無下にできない。
 会津藩の『(じゅう)(おきて)』の一つに「戸外で婦人と言葉を交わしてはならない」、また家訓(か きん)十五ケ条においては「婦女の言は一切聞かないこと」という儒学の教えを色濃く映す訓があるが、これは特に士分男子に求められたもので、婦女においてはそれを暗に受け入れつつ、陰で男子を支えるような気風を備えてきたのである。
 照姫は純朴な彼女たちを信頼し、やがて江戸へと帰っていった。
 容保(かたもり)が京都守護職として京都にいる際、孝明天皇に贈られた純緋(じゅん ひ)の布で仕立てた陣羽織を着、その姿を写真に撮って江戸の照姫に送ったという話がある。敏姫亡き後の容保は、密かに彼女に思いを寄せていたとも伝えるものもあるが、結局彼は継室を設けることはなく、二人の婚姻は実現していない。
 そのような背景を形作って、幕末の動乱はやがてクライマックスへと突入する。



 慶応四年(一八六八)一月三日の日没頃、京都の鳥羽街道で鳴り響いた銃声を合図に、幕府と新政府による激しい戦闘が開始された。『鳥羽・伏見の戦い』である。
 この戦いに敗れた大坂城にいた将軍徳川慶喜は、敵前逃亡を図って江戸に逃れた。このとき松平容保(かたもり)も行動を共にするが、これは幕府のためなら命を賭して戦うだろう会津藩士から容保(かたもり)を引き離すための策とも言われ、
 「会津兵と共に戦う!」
 と言った容保(かたもり)に、
 「命令だ、従え!」
 と慶喜は言った。
 ところが江戸城に入った慶喜は、抗戦姿勢を恭順へと掌を翻し、江戸城開城への道筋を作ってしまった。二月に入って容保(かたもり)は、大坂逃亡の責任を負って藩主を辞任し、養子の喜徳(慶喜の実弟)に家督を譲ると会津藩の藩兵全てを和田倉藩邸に集めてこう言った。
 「鳥羽伏見での奮戦、誠にご苦労であった! しかし、公方(く ぼう)様の御命令とはいえ、皆を置いて大坂城を出てしまったこと、恥じ入るばかりで顔向けもできぬ、このとおり!」
 頭を深々と垂れる容保(かたもり)に、会津藩兵一同むせび泣いた。
 「殿! (おもて)をお挙げ下さい!」
 あちこちからそんな声が飛び交うと、やがて目に涙をためた容保(かたもり)は頭を挙げた。そして一同の(かんばせ)を見渡したと思うと、
 「かくなる上は、会津一丸となってこの屈辱を果たさんと思う!」
 そう豪語したのである。
 普段はいかに切迫していようとも、けっして喜怒の感情を表に出さない彼の言葉は、その場にいた男たちの闘志を燃え(たぎ)らせた。そればかりでない。細面で貴公子のようなその風貌は、京都の宮中に参内した時など女官たちをそわそわさせた程だったので、会津の婦女たちの同情も怒髪が天を突いたのである。このとき会津藩は火の玉となった。
 この翌日、新政府に服さない会津藩と桑名藩を朝敵とする勅命が下り、容保は慶喜から江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡される。堅い決意を胸に閉じ込めた容保(かたもり)は、江戸を発って会津へと向かった。
 これに合わせて江戸詰めの藩士や婦女子たちも、そのほとんどが江戸を後にするが、当然その中には竹子とその家族、つまり父中野平内と母孝子、そして妹の優子の顔もあった。



 戦争はもはや避けられない状況である。
 五月に入って東北の諸藩からなる『奥羽越列藩同盟』を成立させたものの、新政府軍は次第に会津に迫りくる。
 このころ竹子の中野家は長い江戸詰めで屋敷がなく、親戚の好意で借り受けた鶴ヶ城西側、藩校『日新館』に隣接する田母神金吾という男の屋敷の書院に住んでいた。そして、竹子の師である赤岡忠良もまた、江戸から帰って若松から西へ三里ばかりの坂下(ばん げ)という地籍で道場を開き、日に日に高まる危機感の高揚から集まる何十人もの門弟に剣術や薙刀の指南を始めていた。竹子も連日妹の優子を引き連れそこへ行き、剣術稽古に明け暮れていたのである。
 優子はこのとき鬼もほころぶ十六の乙女。中野家の家系は母もそうだったが姉妹そろって噂になるほどの美人なのだ。手入れの怠らない大切な長い黒髪で結われた島田髷(しま だ まげ)が自慢の優子の美しさにほだされて、男子の握る甲高い木剣の音が夜遅くまで響いた。会津でなくとも士分男子は、否、士分でなくとも、可愛い女子が近くにいるだけで命をも平気で捨てる単純な生き物なのだ。
 破竹の勢いと言ったらこのときの新政府軍がそうだった──兵の数から言っても会津藩に勝つ見込みなど微塵もない。けれど会津藩士を支えていたのは、主君に対する忠義と、士族としての誇りと、理不尽に対する怒りと、そして郷土への深い愛着だった。
 「ならぬものはならぬ!」
 との家訓は平時はいざ知らず、有事の時はもはや狂気と化すものか。人はこの境地に至ると、己の命など惜しくもないと見ゆる。
 会津軍はまず白河口をおさえようと西郷頼母(さい ごう たの も)を総督として兵を送った。
 白河藩領は当時幕府直轄領だったので難なく白河城を占拠するが、これに対して新政府軍が攻撃を開始して、五月一日にはあっというまに城を陥落させた。会津軍はこれを奪回しようと試みるも、七月、ついに兵を引くよりなくなる。
 次に戦いの舞台となったのは二本松だった。
 六月二十四日、会津兵の大半が白河口に出向いている隙を突かれ棚倉城が落城すると、次いで七月十六日には二本松城が攻撃された。城は耐え切れず落城し、頼みの二本松藩主丹羽長国(たん ば なが くに)は米沢へと逃れた。
 勢いに乗る新政府軍の矛先は鶴ヶ城に向けられるが、このときその攻撃目標が二つに割れたと言う。会津攻撃を主張する板垣退助と伊地知正治(い じ ち まさ はる)に対し、大村益次郎は仙台、米沢への攻撃を主張した。結局、軍議の結果、前者が採用されるが、この選択がもう一方であったら歴史はまた違うものになっていただろう。
 二本松から鶴ヶ城までのルートは幾つかあるが、新政府軍は手薄な脇街道を使う母成峠(ぼ なり とうげ)を通る道を選んだ。そして母成峠の戦いで勝利した政府軍は、そこから四十キロメートル余りを急進し、来たる八月二十二日という日を迎える。
 この日、容保自らが滝沢本陣にて宿陣すると、戸ノ口原の守備を固めるため『白虎隊(びゃっ こ たい)』士中二番隊を出陣させた。他の部隊はみんな周辺の戦地へ出払って、城下にはもうまだ年端のいかない若い青少年兵しか残っていなかったのだ。
 竹子が田母神金吾邸の書院に帰宅したのは八月二十三日の未明だった。
 実は昨日は、刻一刻と迫り来る恐怖と戦いながら、「もう帰ろうよ」と急かす優子の言葉も聞こえない様子で剣を振り下ろして気を紛らわせていたのだ。そうしているうち日も落ちて、赤岡が出してくれた夕餉を食べ終えたあとは、うたたねの優子の背中を優しく叩くうち、すっかり夜も明けようとする刻限まで寝過ごしてしまったというわけだった。
 この日、鶴ヶ城の北東、猪苗代湖(い なわ しろ こ)に注ぎ込む日橋川を渡す十六橋の防備が破れ(戸ノ口原の戦い)、新政府軍は城下へと侵入してきた。
 入城を知らせる割場(わり ば)(北出丸西側の広場)の鐘がけたたましく鳴り響いた時、母の孝子(こう こ)は見たことのない厳しい目付きで、
 「お城へ行くわよ! 髪を切りなさい!」
 と竹子と優子に告げた。そして自身の髪の毛をバッサリ断ち落とすと、大急ぎで定紋(じょう もん)のついた鼠色(ねずみ いろ)(まさ)った黒い(あわせ)に大口の(はかま)を身に着け、柳腰に帯刀し、白羽二重(しろ は ぶた え)鉢巻(はち まき)に、(たすき)を十文字に(あや)なして──その早さといったら電光石火。そして薙刀(なぎ なた)を小脇に(たずさ)えると、まだ準備の整わない優子を見て、
 「急ぎなさい!」
 と叱った。
 「えっ? 髪を切るの……?」
 と優子が言う。ずっと切らずに伸ばしてきた黒髪は、彼女にとっては命と同じくらい大切な宝物なのだ。
 「やだよ……」
 「優子、言う通りになさい」
 竹子は自分の髪を無造作に切り落としてから優子になだめ聞かせていたが、孝子(こう こ)は苛立ちのあまり声を張り上げた。
 「早くなさい!! なにモタモタしてるの!」
 尋常でない母の叱咤に優子はわんと泣き出した。
 「切るよ……?」
 竹子は優子の返事も聞かないまま彼女の髪を切り落とし、家に仕える中間(ちゅう げん)にその三人の髪を庭先に埋めるよう託すと、孝子を先頭に田母神(た も がみ)邸を飛び出した。
 この時には既にあちこちで銃声や砲声が轟き渡り、城の南西にある十八蔵が炎上するのが見え、(さむらい)屋敷にも火の手が広がりつつある中、三人は間もなく西出丸の濠端(ほり ばた)まで辿りついた。
 「照姫様はいかがされていますか? 御無事でしょうね?」
 会津藩士が容保(かたもり)を守護するのが使命なら、会津の婦女はその義姉である照姫を護るのが使命と言えた。孝子が近くにいた男にその安否を問うと、
 「姫様は早くから坂下(ばん げ)に立ち退かれたご様子だ」
 と、会津家訓(か きん)十五ケ条「婦女の言は一切聞かないこと」に忠実なその男はぶっきらぼうに答えた。
 「なんですって!」
 驚いた孝子は続けて戦況を問うた。
 「敵は既に北追手門に押し寄せ、いま必死で防戦しているが危険に(ひん)しておる」
 と言う。いま盛んに鳴り響く銃声は、その攻防戦によるものかも知れなかった。
 「母様、早くお城へ入りましょう!」
 竹子は一刻も早く入城して応戦しようと考えたが、そのとき西出丸の追手門は早くも閉ざされてしまっており、やむなく三人は引き返して河原町口の郭門から坂下(ばん げ)に向かおうと走り出した。
 このとき、三人と同じように城内に入れなかった義理の姉妹がいた。
 その出で立ちは竹子らと同じく頭髪は斬髪(ざんぎり)に鉢巻を巻いた男姿、白羽二重の(たすき)(そで)をからげ、細い兵児帯(へ こ おび)(そで)をくくった義経袴(よし つね ばかま)脚絆(きゃ はん)草履(ぞう り)(ひも)()め、大小の刀を手挟(た ばさ)薙刀(なぎ なた)を持った二人の名をまき子と菊子と言った。
 浅黄がかった絲織(し おり)の着物を着た姉のまき子の方は三十路(みそじ)も半ば、竪縞(たて じま)の入った小豆色(あずきいろ)縮緬(ちり めん)を着た義妹(ぎ まい)の菊子は二十二歳の竹子と同い年である。先の伏見の戦いで命を落した依田源治は、まき子の夫であり菊子の義兄だった。だから新政府軍への恨みも人一倍深く、仇討ちの機会を伺いながら、藩中で薙刀の名人と謳われる門奈夫人(もん な ふ じん)に教えを乞うて竹子同様その腕を磨いていた。
 「お菊のあねちゃだ!」
 優子の言葉が二人を迎えた。彼女たちはこの日に備えて鍛錬を積んでいた武芸の友なのだ。
 菊子は江戸風の青みがかったお洒落(しゃ れ)縮緬(ちり めん)を着た田舎ではとんと見かけない風流な風貌の竹子を羨ましそうに、やがて自分と同じ斬髪(ざんぎり)頭を見て、
 「男勝りの竹子にはその方がお似合いですわ」
 と笑った。
 「菊子だってなかなかのものよ!」
 言い返した竹子の脇では先ほど無理やり切られた髪のことを思い出した優子がグスンと泣き出した。十六とはいえ中身はまだ子どもなのだ。
 「この子ったら、さっきまで髪を切られて大泣きしてたのよ」
 「あら、そうなの?」と言った菊子は「髪なんてすぐに伸びるわよ」と言って優子をなだめた。
 二人は、城の割場の鐘を聞いたので慌てて入城の仕度にかかったのだと言う。このとき(よわい)六十歳の気丈な母八重子もまた老体に(むち)打ち、
 「かねての覚悟なり!」
 と言って出陣の支度を始めたが、二人はこれをようやく説き伏せ、女中に頼んで農家に避難させてから大急ぎで家を出たのだと言った。そのとき既に滝沢坂の守備が破れ、鉄砲玉も飛んで来て、たちまち火の手があがって城の際にあった彼女たちの家にも飛び火した。二人が城門に辿り着いた時には既に(とざ)されて城に入ることもできず、また同志の人達を訪う暇もなく、弾丸の中を潜ってあてもなく西へと走っていたところだと言った。
 実はまき子の方は、伏見の戦いが起こるまでは夫に連れ添って京都に住んでいた。ところが味方の敗戦によって夫の生死も不明のまま会津に送り返され、まき子が孝子に語るには、
 「片側は槍先(やり さき)、片側は鉄砲の筒先(つつ さき)を斜めに向けた兵がズッと並んで、身体がわずかに通れるくらいのその隙間を通って会津に戻って来たのです。夫の死を知ったのはそれから少し後のことでした……」
 と、(きも)の座ったまき子と孝子は、鉄砲の音が鳴り響く中、道端で出会った婦人の世間話でもするように、生きた心地のしなかったその時の体験を話すのだった。
 「母様、立ち話はあとで、早く参りましょう」
 竹子が急かしたところに来たのは岡村すま子だった。世の中の酸いも甘いも知る三十路(み そ じ)の女性であり、仲間と鉢合わせできたほっとした顔をして、ふと優子の斬髪(ざんぎり)頭を見て、
 「あらやだ優子ちゃん、どうしたのその頭? きれいなお顔が台無し」
 と言って頭を撫でた。
 「すま子様、それは言わないであげて」
 と、また泣きそうな優子を竹子はかばった。彼女の大切な髪を切った張本人として、ずっと申し訳ない気持ちでいるのだ。
 すま子もまた鼠がかった着物を着、
 「照の姫様はすでに坂下(ばん げ)に立ち退かれたそうです」
 と慌ただしげに言った。
 「私たちもそれを聞いて向かおうとしていたのです。立ち話は後にして、早く参りましょう」
 婦人の立ち話ほど無駄なものはない。竹子の言葉で六人は小走りに走り出した。
 ほどなくすると、
 「あ、お雪のあねちゃ……」
 と、優子が指さす先にいたのは二十三歳の若奥様神保雪子だった。
 もともと彼女は七〇〇石取りの会津藩軍学者井上丘隅(いのうえおかずみ)の次女で、このとき軍事奉行添役を勤めた神保修理長輝(じん ぼ しゅ り なが てる)の妻となっていた。勤めた≠ニここで過去形を使ったのには理由がある。
 夫の神保長輝は家禄千石の会津藩家老神保内蔵助(くらのすけ)利孝(としたか)の長子として天保五年(一八三四)に生まれ、幼少の頃は藩校『日新館』で学び、周囲から秀才と謳われた逸材だった。やがて軍事奉行添役となって雪子と結婚し、容保(かたもり)に随行して京都へも行くが、世界の中に置かれた日本の現状を知るにつけ、
 「異国の情勢にもっと目を向け、日本は国内の小事より国をひとつにして諸外国に対抗すべきだ」
 という持論で藩内でも大きな影響力を持った。鳥羽・伏見の戦いの直前、高まる主戦論に対して、
 「戦うべきでない! 恭順(きょう じゅん)すべきだ!」
 と真っ先に進言したのは彼である。このとき慶喜に「江戸に帰って善後策を練るべき」と強く説いたことにより、会津藩内の主戦派と激しく対立することになったのである。
 彼の進言もむなしく鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、長輝は軍事奉行添役として出陣したものの幕府軍は崩壊、
 「公方様と容保(かたもり)様が戦線を離脱したのは、お主が恭順を進言したことにはじまる!」
 と、会津藩内で長輝を非難する風潮が一気に高まった。ついには敗戦を招いた張本人≠ニいう烙印(らくいん)まで押され、悲しいかな江戸の会津藩和田倉上屋敷に幽閉される。
 彼の悲劇はそこで終わらない。長輝を処断すべしとする有志らにより、容保との謁見も弁明も許されないまま切腹を命じられる。それが藩主容保(かたもり)の下した沙汰でないと知りながら、
 「これに従うのが(まこと)(しん)である」
 と言って、故郷の母や妻のことを思いつつ潔く自刃して果てたのであった。
 そんな訳で雪子は集まったこの中でも微妙な立ち位置にあった。
 それはともあれ集まり来る婦女たちを見る度、優子が「あねちゃ、あねちゃ」と言うものだから、
 「さしずめあねちゃ隊≠ヒ」
 と竹子が笑い、ここに『会津若松あねちゃ隊』が結成したのである。
 この時、追手門の方から騎馬に乗った藩士が、
 「敵は滝沢街道から甲賀町口に押し寄せている! 一之丁(いち の ちょう)を西へ逃げよ!」
 と叫びながら近づいて来た。
 「早く照姫様の許へ駈けつけ、御身をお守り申し上げましょう!」
 最年長の孝子(こう こ)はおのずと『あねちゃ隊』の隊長である。こうして俄かに結成された『会津若松あねちゃ隊』の七名は、河原町口の郭門を出て坂下(ばん げ)へと向かう。
 この日、各所で苦戦を強いられ飯盛山に逃れた武家の少年男子で結成された『白虎隊』は、城下に燃え上がる炎を見て、
 「城に戻って敵に捕まるは武士の恥」
 と覚悟を決めて、全員自刃の道を選択した悲劇は後世までの語り草になった。また、西郷頼母の屋敷では篭城戦の足手まといになるのを苦にした母や妻子など一族二十一名が自刃し、そのほか婦女子の自刃は一三九名にものぼったという。
 わずか一日で鶴ヶ城は完全に包囲され、城内には士族、平民問わず、また老若男女を問わない三万ないし四万人もの人が籠城し、一〇〇門ばかりの大砲と限られた数の銃で応戦するしかなかったのである。



 坂下(ばん げ)は鶴ヶ城から西へ三里ばかりのところにある。
 北東へ流れる阿賀川(あ が がわ)と西側を流れる只見川(ただ み がわ)に挟まれた盆地で、会津と上野国(こうずけのくに)沼田を結ぶ沼田街道が通っていたり、越後から阿賀川を使って運ばれる海産物の荷揚げ場があったり、奥会津の銀山から掘り出される銀の集積地があったりで、毎月十四日には(いち)が立つ古くからの交通の要所として栄えた。
 照姫の許へ駆け付けようと城下を出たあねちゃ隊が坂下(ばん げ)に到着したのは陽も傾きかけた頃で、果たして代官所に辿り着いて姫の所在を聞いてみれば、
 「照姫様……? そんなお方がこんな場所に来るはずがないではないか」
 と、何の間違いか照姫はそこにはいない。仕方なくその夜は坂下の法界寺で一夜を過ごすことにしたのである。
 法堂内に使いかけの行灯(あん どん)に灯を点し、明かりを取り囲んで板の間に腰を下ろした彼女たちは、「明日はどうしようか?」と話し合った。会津藩の習いでは、およそ女子たる者が戦いに参加するなど許しておらず、「このまま戦陣に加わっても足手まといになるだけではないか?」とすま子は言った。そして、
 「もともと照の姫様のところに来ようとしたわけだから、戦陣に加わるのは筋違いでは?」
 と続けた。
 「でもお城に入れないのだから戦うしかないんじゃないかしら?」
 竹子は戦闘やむなしの考えである。
 「戦うって言ったって鉄砲や大砲を相手にどう戦うの?」
 すま子はどうにかして入城する手を探っている。
 「ならばすま子様は、会津がやられるのを指を加えて見てろと言うの?」
 夫を伏見の戦いで亡くした義姉まき子の深い悲しみを知る菊子は、すま子の言葉が不満だった。
 「そんな事を言ってるんじゃないの。お城に入れば婦女には婦女のやるべき役割があると思うの」
 「ではすま子様だけお城に入ればいいんだわ! これまで豆を潰して血で染まった手で、それでも薙刀の技を鍛えたのは何のため? 体力をつけようと日の暮れた暗い城下を、足を血だらけにしていくつもの草履を潰したのは何のため? 私なんか月のものも止まってしまったんだから!」
 「菊子、落ちついて……」
 苛立ちを隠せない菊子の肩を竹子が優しく叩いた。その隣ではすっかり疲れ切った優子がコクリ、コクリと、そのうち静かな寝息をたてはじめた。
 「ここで話していても(らち)があかないわ……」
 そう言ったすま子は、年嵩(としかさ)孝子(こう こ)に結論を出してもらおうと視線を送った。
 「明日は高瀬村に()られる萱野(かや の)様(家老)の所へ行って、前線に加えて欲しいとお願いしてみましょう。きっと萱野(かや の)様もお城に入ろうとしているはず。兵は一人でも多い方がいいに決っているわ。私たちの思いを伝えれば、ひょっとしたらその戦陣に加えていただけるやも知れません。今宵は明日に備えてもう寝ましょう」
 その話し合いの間、神保雪子は何も言わずに虚ろな目を向けていただけだった──。
 夜も更け、草木も寝静まった真夜中である。夏の蚊帳もない法堂は飛ぶ蚊の音も気になって、夜風が吹き込むこともないからじわりと汗がにじみ出て寝苦しい。床に直接寝ころんだ身体は痛く、それでもたまに寝返りをうてば床の冷たさが気持ちよい。
 ──ふと、
 菊子は背中から聞こえるひそひそ話で目が覚めた。なにやら竹子と母の孝子が深刻な相談をしているようで、菊子はそっと耳をそばだてたのである。
 「優子を一緒に連れていくのはいかがなものでしょう?」
 竹子のささやく言葉に、孝子は「そうね……」と寂しげな相槌(あい づち)を打った。
 このとき菊子はすぐにピンときた。
 ──もともと中野家のこの三人は、三人とも世に(すぐ)れて美しい女性なのである。特に十六歳の優子は、若いうえに一層美しい(まれ)な顔立ちをしていたので、
 「もし敵に捕えられて(なぐさ)(もの)にでもされたら恥辱(ぢ じょく)だ」
 と竹子は言うのだ。ならば──、
 「いっそ今夜のうちに優子を殺してしまおう──」
 そういう相談なのである。
 何も知らない優子は、竹子の膝の許で小さな寝息をたてたままである。
 驚いた菊子は飛び起きた。しかしそれより早く、
 「なりません!」
 と身体を起こしたのは義姉のまき子の方だった。
 「恐ろしい事を考えるものではありませんよ! 身内の死がいかに悲しいものか。血のつながらない夫の死でさえこれほど辛いものなのです! 今にこの戦争が終わって御覧なさい。必ずあのとき……≠ニ後悔するに決っています!」
 「しかし!」
 と竹子はかみついた。
 「この可愛い優子が、敵の男の手にかかって(けが)されるのを知ってて、どうして耐えられますか? いっそのこと……」
 竹子の次の言葉を菊子は口を押さえてさえぎった。そして、
 「まだそうなると決ったわけではないわ……。殺さないでも、どうにかなるだろうから……」
 こうしてようやく思い留まらせたのだった。
 ──さて、その翌日、日を尋ねれば八月二十四日である。
 昨晩の申し合わせの通り『あねちゃ隊』の七人は、阿賀川を渡った高瀬村の代官所に駐屯していた家老萱野(かや の)権兵衛(ごん べ え)を訪ねて、
 「会津藩存続の危機に当たりこうして推参した! どうか戦陣に加えて欲しい!」
 と懇願した。萱野(かや の)は彼女たちの面痩(おも や)せてなめらかなつや肌を見て、
 「女か?」
 と呆れたように呟いた。
 「いまやわたくしどもは髪を切り落とし男子同然である。なにとぞ曲げて──」
 痛々しい斬髪(ざんぎり)頭は彼女たちの覚悟である。その健気な心意気に心動かされながらも萱野(かや の)は、
 「古来戦争に婦人を引き連れることは敗戦の基である」
 と説諭して相手にしなかった。竹子は、
 「あなどらないでほしい! 婦女とて男に勝る戦功を挙げてご覧にいれます!」
 と喰いついた。
 「だめだ、だめだ! 女子供は城から離れた村に避難しておれ」
 「照姫様をお護りしたいのだ!」
 続けて菊子もまき子もすま子も口々に思いの丈をぶつければ、女の口数にはいかなる男も(かな)わない。さすがの権兵衛も耳を(ふさ)いで「もうよい、帰りなさい!」と一喝(いっ かつ)した。ところがその低い男の声にも勝るドスの利いた声を発したのは孝子(こう こ)で、
 「分かり申した! かくなる上はわたくし共一同この場にて自刃(じ じん)つかまつる!」
 と、腰の刀を引き抜いて腹に突き刺そうとしたものだから、慌てた萱野は寸でのところでそれを制したのだった。
 「わかった、わかった──明日、古屋佐久左衛門(ふる や さ く ざ え もん)が率いる衝鋒隊(しょう ほう たい)が若松へ向かって進撃することになっているから、それに加わって思う存分働くがよい……」
 『あねちゃ隊』は少女のような奇声を挙げて喜び合った。
 「ただし敵を見てもけっして深追いはするな! 危険を察したらすぐに引くのだぞ!」
 こうして翌日の戦闘に加わることになったのである。
 『衝鋒隊(しょう ほう たい)』は幕府陸軍の歩兵部隊のこの時の名である。鳥羽・伏見の戦いで敗れて後、江戸開城を不服として脱走した歩兵が結成した軍隊だった。ところが東進を続ける新政府軍と衝突を繰り返すうち、一度は兵の三分の一を失い壊滅状態に陥るも、生き残った者達で再結集して北越戦争をかろうじて勝ってきた。つまり幕府軍残兵の寄せ集め集団である。逆に言えば(あきら)めの悪い意固地(い こ じ)とも言うべき強者(つわ もの)ぞろいの集団だった。
 しかしかつての徳川幕府の繁栄を知る会津のこの若い乙女たちは、幕府軍≠ニ聞いただけで勇気が湧き出で、一同は昨晩泊った法界寺に引き揚げると、来たるべき明日≠ニいう日に、男でなくとも武者震いをして気持ちを高揚させた。



 明けていよいよ会津若松あねちゃ隊の初陣(うい じん)二十五日──。
 朝早く法界寺を出発したあねちゃ隊は、戦いは夜に入ってからと心得ていたので、途中、百姓の家などに立ち寄って飯をご馳走になったり、道草を食べたりしながら衝鋒隊(しょう ほう たい)の屯所へ向かった。
 戦に向かおうとする男たちは、みな死を覚悟した恍惚(こう こつ)とした顔をして、あねちゃ隊の美しいはずの女たちを見ても心捕らわれる様子もなく、手にした武器の手入れに余念ない。そのはずである。竹子をはじめとした彼女らは、具足すら身につけてないものの、頭は斬髪(ざんぎり)、手に手に薙刀や太刀を携えた義経(よし つね)が如き風貌で覚悟の気を張っていたのだ。
 「おい、そこの者、どこの村の出か知らぬが太刀や薙刀で戦うつもりか?」
 衝鋒隊に加わった会津藩の農民足軽だろうか、気を使って忠告したのだろうが、バカにした口調が(かん)に障る。
 「鉄砲など習う暇がなかったのだ! そのかわりに丸太を断ち切るほど剣術の腕を磨いてきた!」
 言い返した竹子の高揚した言葉を、進み出た衝鋒隊(しょう ほう たい)を率いる古屋佐久左衛門が差し止めた。
 「この者たちは昨日志願してきた婦女隊≠セ。兵のしきたりも戦い方も知らん。あまりいじめてやるな」
 「女だぁ?」
 足軽らしき男は鼻で笑い、
 「会津は困って女まで出したと言われては末代までの恥辱だ! 立ち去れ!」
 といきり立つ。
 「萱野(かや の)様のご判断だ、文句を言うな。この者達には邪魔にならぬよう後方でおとなしくしていてもらう」
 古屋の言葉でその場は鎮まったが、衝鋒隊(しょう ほう たい)兵は一触即発の苛立ちを隠せない。古屋はどんよりとした空を見上げて、
 「雨になりそうだな?」
 とひとりごちた。
 やがて出陣の時を迎えた。
 竹子たちは後に従って城下へと続く越後街道を歩き出す──。
 若松郊外に迫った頃はもう夕刻である。目前には湯川に架かる橋が見えた。
 この橋は、付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったことから柳橋と言われた。二〇〇メートルほど下流の薬師河原には処刑場があって、特に寛永十二年にはキリシタン弾圧によって宣教師と会津キリシタン六十余名が処刑された場所でもある。そこに設けられた休憩小屋では刑場に引かれる罪人が井戸の水で水盃(みず さかずき)を交わして家族との別れを惜しんだ事から、別名『涙橋』とも呼ばれた。この橋を渡ればそこはもう城下町なのだ。
 橋から少し離れた草むらや物陰に身をひそめる衝鋒隊(しょう ほう たい)の目的は、敵陣突破して鶴ヶ城に入城することだった。とはいえ城下に陣する新政府軍はその数知らず、衝突は避けられない決死の作戦である。橋の向こう側は外部からの侵入を防ぐため、すでに長州と美濃と大垣藩の連合部隊が陣を張っている。小さな部隊が大きな軍を相手に戦うには奇襲しかない。
 日も暮れ辺りはすっかり闇に包まれた。すると、ぽつりぽつりと雨が降り出した。
 そのとき一発の大砲が火を吹いた。「時だ!」と判断した古屋佐久左衛門が、衝鋒隊(しょう ほう たい)に「攻撃開始!」の命令を下したのだ!
 これを合図にいきなり激しい銃撃戦が始まった。
 「突撃だ!」
 暗闇の中、援護射撃を背に衝鋒隊(しょう ほう たい)の一部隊が敵陣に突っ込むと、敵の部隊も飛び出し辺りはたちまち大混乱に陥った。爆竹が破裂するような音の中で銃に撃たれて倒れ込む者、けたたましく剣と剣がぶつかる音や、あちらで男の居合の声が耳に入れば、こちらでは絶命のうめき声が聞こえた。
 衝鋒隊(しょう ほう たい)の陣列の後方にあねちゃ隊はいた。
 銃声や大砲の音に恐れおののく優子は、恐くて竹子の陰に隠れて怯えていた。
 一方、はじめて戦の現場に身を置く竹子は、言いようのない興奮に暫く呆然と立ちすくんでいたが、
 「行くよ!」
 という掛け声で自らを奮い立たせると、俄かに腰の太刀を引き抜いた。
 ところが彼女たちの従軍は、もともと男たちが最初から大反対したくらいだから、近くの兵達が「出てはならぬ! 出てはならぬ!」となかなか前へ出してくれない。それでも一人、二人と刀を振り上げ味方の守りを突破してくる敵兵もいて、近づく敵を孝子は薙刀で薙ぎ払い、菊子とまき子も亡き身内の仇討(あだ う)ちとばかりに短い髪を振り乱して奮戦していたのである。
 そうでなくても敵兵たちは女がいると知って、
 「討たずに生け捕れ!」
 と狂気の声を挙げ、次々とあねちゃ隊めがけて群がり出した。
  「生け捕られるな! 恥辱を受くるな!」
 孝子(こう こ)(げき)に互いを呼び合いながら、必死に薙刀や刀を振り回す。
 「優子! 戦えないから手を離してよ!」
 「いやだ! いやだ!」
 恐怖のあまりに腰にしがみつく優子の手を、竹子が奮い払おうとした時である。音もなく飛んできた一発の銃弾が竹子の頭を貫いた。
 急に力をなくして眼前に崩れ落ちた姉の身体に、優子は何が起こったのか全く理解できなかった。
 「あねちゃ……?」
 竹子は倒れ込んだまま何も言わない。
 「ねえ、あねちゃ? どうしたの……?」
 優子は姉の頭から吹き出す赤い血を見て「あねちゃ!」だか「ギャーッ」だか分からない悲鳴をあげて後に退いた。
 即死だった──。
 優子は身体をガタガタ震わせて恐る恐る姉の亡き骸に近づいた。
 「ねえ、あねちゃ……、お竹あねちゃったらしっかりして!」
 そのとき、
 「優子、御首級(おしるし)を!」
 という母孝子(こう こ)の声がした。見れば母は敵兵と戦いながら、しきりに「早くしなさい!」と血眼(ち まなこ)な目で訴えている。優子はその言葉の意味を知っていた。ここに来る前、母は娘らにこう言い聞かせていたのである。
 「いいかい、よくお聞き。もし戦場で(たお)れることがあったなら、生き残った者はその首を介錯(かい しゃく)して必ず持ち帰るのです。戦野に中野家の人間の(しかばね)をさらしておくわけにはいきません。これは絶対です! 首だけでも持ち帰って丁重に葬ってやるのが、残された者のご先祖に報いる供養なのです。いいですね」
 「いやよ! そんなことできない!」
 優子は竹子の身体ごと持ち上げようとしたが、十六の女の力ではかなわないことだった。
 そんなことをしているうちに敵兵の数はどんどん増えてくる。左側で奮戦していた菊子が見かねて、
 「優子ちゃん、何してるの! 早く!」
 と叫んだ。
 「できないもん!」
 優子はわんと泣き出した。
 幼い頃から自分を玉のように可愛がってくれた姉の首を切り落とすなど、例え首級(しゅ きゅう)だとはいえ、鬼になってもできない相談だった。優子が身に着けた紫縮緬(むらさ ちり めん)の着物はそぼ降る雨でびっしょりに濡れ、夜だったせいもあるがその身体は真っ黒に見えた。
 刹那──、
 「優子、何してるの? 早く介錯(かい しゃく)お願い──」
 姉の優しい声が聞こえた。
 ところが竹子の顔を覗けば血の気はすでに引き、頭蓋骨からおびただしい血液が漏れているだけで口など開こうはずもない。
 雨がジクジクと降り続く中、優子は雨水だか涙だか分からない雫を瞳からボロボロ落しながら腰の刀を引き抜くと、姉の首に(やいば)を押し付けたのである。
 ところが女のする事なので頭髪の毛が引っかかって御首級(おしるし)が容易に取れない。そこへやって来た一人の兵が手伝って、ようやく竹子の体からその首を落したのだ。
 優子は鉢巻きにしていた白羽二重をほどき、竹子の御首級(しるし)を包み込んだ。
 敵に押されて古屋佐久左衛門は、ついに退却命令を下した──。
 この戦闘は時間にしてわずか四半時ほどであったらしいが、流れた血で湯川の水を真っ赤に染めたと言う。
 あねちゃ隊は失意の悲しみに(ふけ)りながら、竹子の首を坂下(ばん げ)の法界寺に葬った。

 『武士の猛き心に比ぶれば数にも入らぬ我が身ながらも』

 これは竹子の辞世である。おそらく戦いの前日泊まった坂下の法界寺で詠んだのだろう。竹子はこの歌を刀に結び付けて戦っていた。明日は死ぬる身であることをすでに承知していたのかも知れない。
 その深い悲しみにとらわれて、あねちゃ隊のメンバーの一人が足りないことには誰も気付かなかった。次々とこぼれ落ちる涙が、彼女たちの視界を完全に奪っていたのである。
 神保雪子の姿がない──。
 退却の際、逃げ遅れた雪子は大垣藩に捕えられていたのである。
 大垣藩の陣営は、城下の西名子屋町の長命寺にあった。
 この夜、長命寺の陣営は篝火(かがり び)が燃やされ白昼のように明るかったと言う。そこへ訪れたのは土佐藩士の吉松速之助(よし まつ はや の すけ)久時衛(ひさし とき もり)だった。二人は陣内に若い女が縛られていたことに顔を見合わせ、
 「この女は一体どうしたのですか?」
 と、彼女を見張る大垣藩士にそう聞いた。
 「なかなか若くて美しい女でございましょ? なあに、先ほどそこの川ばたで捕まえて来たのですが、何を聞いても会津の姫君を守護するため城に入る≠ニしか答えないので、これから首をはねるところです。しかしオレも女の首なぞ斬ったことがないから、どうしようかと考えていたのです」
 吉松速之助は雪子を不憫(ふ びん)と思い、
 「女を殺しても無益でしょう? 命は助けてつかわしたらいかがですか?」
 と言った。
 「いやいや、そういう訳にも参りません。賊を捕えたら殺すのが軍法。他藩の口出しは御無用でござる」
 藩には藩それぞれに独自の思想や哲学があるものだ。そう言われては吉松も何も返せない。
 「で、ご要件は?」
 と見張りの大垣藩士が言った。
 「拙者、土佐藩八番隊長、吉松速之助と申す」
 「同じく十九番隊長、久時衛でござる」
 「長命寺陣営の責任者にお話があって参った。面会願いたい」
 大垣藩士は「こちらへ」と言って長命寺の建物の方へ歩き出した。このとき、
 「お待ちください」
 雪子の言葉が吉松の足を止めた。
 「お願いがございます。あなた様は(なさ)けをお持ちの武の心を(わきま)えたお方とお見受けいたしました。わたくしは会津藩軍事奉行神保修理長輝(じん ぼ しゅ り なが てる)の妻で雪子と申します。こうして敵に捕らわれたからには自らの手で切腹して果てたいと存じます。どうか武士のお情け、今生の願いをお聞き入れいただけませんでしょうか?」
 吉松は暫く雪子の目を見て、
 「左様か──」
 と言ったと思うと、脇差を引き抜き、縛られた縄を切って雪子を解き放った。
 「さっ……()されよ──」
 そうして手にした刀を彼女に渡したのである──。

 翌朝、
 「これからどうするつもりだ? お前たちは本当に城に入りたいか?」
 家老萱野(かや の)権兵衛(ごん べ)孝子(こう こ)に聞いた。
 気丈な彼女にして長女の死は心に暗い陰を落し、このまま戦陣に加わっていても、柳橋の戦い同様兵達の足手まといになるのは明らかだし、再び竹子のような犠牲を出すことだけは何としても避けなければならないと考えていた。戦う前は腹を切っても戦陣に加わろうとした剛毅な彼女の決意も、婦女≠ニいう(さが)の前にはその限界を思い知るより仕方ない。孝子は奥歯を噛みしめて涙を飲んだ。
 「孝子(こう こ)様、私たち姉妹は死ぬのはもとより覚悟の上でございます。どうか私たちだけでも戦陣に!」
 菊子がまき子と見つめ合ってそう言った。孝子は返答に窮したままだったが、その様子を見た萱野は、
 「このあとの衝鋒隊(しょう ほう たい)の動きはまだ未定だ。いつまでこうして城内に入れずにいるかもわからない──」
 こう前置きしてから、
 「昨日の戦いで分かっただろう? 今後、出陣したところで鉄砲玉で死ぬのはもう定っておる。竹子殿のことは首を持ち帰ることができただけでも幸運と思わなければいけない──」
 そう言いながら何かをじっと考えていた。
 実は城に入る事は全く不可能ではなかったのである。現に忍びの者のような役割を担う者がおり、城内と密かなやり取りをしている。ただし、それはあくまで極秘の単独行動が常であるから、一度に何人もを城内へ連れ込むなど考えられないのだった。しかし昨日の彼女たちの戦いぶりを見て、萱野(かや の)は心を動かした。
 「本当に照姫様をお護りしたいか?」
 「言うに及びません」
 「なれば一つだけ方法がある。失敗したら命はないぞ」
 「もとより覚悟の上でございます」
 こうして萱野(かや の)はある意味奇襲より危険なあねちゃ隊入城計画≠立案するのである。
 二日間の休息の間、優子は食べ物も喉を通らず、一人法堂の隅にうずくまったまま話しかけても一言も言葉を発しようとはしない。見かねた菊子が隣に座って優しく背中をたたいても、その身体は空気でできた人形のように手から伝わる小さな衝撃を受け止めるだけだった。



 八月二十八日の夜──萱野(かや の)の計画は実行された。
 敵に見つかれば即死≠フ賭けでもあった。
 会津藩お抱えの忍びの者が誘導し、ライフル銃を持った数名の足軽に護衛されたあねちゃ隊は、裏通りを駆け抜け、息をひそめて物陰から物陰へ移動し、新政府軍の包囲網を巧みにすり抜けて、大町通りより割場を抜け、なんとか鶴ヶ城北出丸の棟門に近づいた。そして門の外側から護衛の一人が、
 「山」
 と言えば、城の中から、
 「川」
 と返事が返って、間もなく門が開かれた。
 ここに至って彼女らは無事に入城を果たしたのである。
 中であねちゃ隊を出迎えたのは豊子という名の女性で、彼女は白虎隊士山川健次郎の叔母で、城の用人として勤めていた永井民祢の妻だった。
 「豊子様!」
 と声を挙げたのは、かねてより懇意の間柄だった菊子である。菊子は彼女の近くに駆け寄ると、仏か神様にでもすがるように、これまであった戦闘の様子や経験した事を口早に伝えた。するとその苦労話に豊子の表情はみるみる雲って、
 「たいへんでしたね……。それならばお殿様に御目にかけなくちゃ!」
 と言って、すぐにあねちゃ隊を鉄門(くろがね もん)へと誘ったのである。
 そこは本丸へ通ずる正面玄関である。もう深夜ではあったがそのまま本丸御殿に連れられて入った部屋は、いくつもの明るい行灯に照らされた見たこともない厳かな空間で、部屋の一番奥、一段高い座敷に胡坐(あぐら)をかいていたのは、きらびやかな陣羽織をまとった第九代会津藩藩主松平容保(かたもり)その人に違いない。
 あねちゃ隊の面々は、恐縮して慌てて畳に頭をすりつけた。
 やがて容保は静かに口を開いた。
 「話は聞いた。(おもて)をあげよ──」
 その声は獅子王にも似て彼女たちの全身を貫いた。そして容保(かたもり)は、
 「よくお前達、女子(おな ご)でも働いてくれた──ちこう寄れ、褒美をつかわす」
 と言って彼女たちを近くに呼び寄せると、(そば)に高く盛り上げてあった(わたり)二、三寸もあろうと思われる立派な菓子を手に取って一人ずつに手渡していった。
 ところが優子に順番が回ってきたとき、
 「いりません!」
 優子は手を差し出すこともしないでそれを拒んだ。一瞬容保の目が曇ったが、
 「左様か──」
 と言ったきり、そのあとは何も言わなかったので事なきを得たが、その間、孝子は娘の言動に顔を蒼白にして生きた心地もしなかった。
 優子は心の中でこう思っていたのである。
 「お竹あねちゃの命は、これっぱかしのお菓子と同じというの?」
 と。その言葉は喉まで出かかったが、ついに言うことはできなかった。
 このあと奥御殿にも連れていかれ、彼女たちの憧れでもある照姫との面会も(かな)う。
 ところが姿を現わした照姫は、傍に沢山の女中を付き添え、その容貌は聞きしに勝る美しさではあったが、ペットにしている(ちん)を連れていて、普段から大変に可愛がっている様子で、この時も肩の上などに狆を乗せ、その()れ合う様子に周りの女中たちの中には小さな笑い声を挙げる者もいた。
 照姫は、(いくさ)帰りの血で染まったあねちゃ隊の着物を気の毒そうに見つめ、
 「たいへんなのはこの城も同じです。その者たちには傷病兵の看護、炊事、弾薬の製造や運搬などの作業に加わってもらおうと思う」
 と言ったきり、すぐに奥の部屋へと戻ってしまった。
 このとき優子は確かに見た気がした。目の奥の「この者たちがどのような功を挙げたのか?」というような冷たい気配を。母からも周りからも「立派な姫だ」と聞かされて来たその幻滅は、口に出さずも、
 「これが母をはじめ会津の婦女が慕うお姫様なのか? お竹あねちゃは死んで、私たちも生死の堺をくぐりぬけてきたというのに、小犬を連れて面会するとはどうした了見か──?」
 と、なにもかもがばかげた事のように思え、殿様も照姫も会津藩の者たちも全部信じられなくなって、この戦いの会津藩の正当性にも疑問を抱き、何のための戦争なのか分からなくなった。
 もっとも照姫も連日忙しい身であり、束の間の僅かな自分に与えられた時間の中でペットに癒しを求めていたかも知れないし、その時間をぬって面会したのかも知れないが、母も菊子もまき子もすま子も先の戦闘のことなどすっかり忘れた様子で口を揃えて「なんて素晴らしいお方!」と喜ぶ姿を見てしまえば、その懐疑心はとても口にすることなどできない。
 照姫との面会を終えて、部屋を出たところですれ違ったのが新島八重子(にい じま や ゑ こ)である。豊子は「八重子さん」と呼び止めてあねちゃ隊のメンバーを紹介し、
 「鉄砲の名手よ」
 と彼女たちに八重子を紹介した。
 なんでも新政府軍の攻撃を受けた初日(八月二十二日)、会津兵は各所に出払って城の防備が手薄だった時、わずかな手勢で北出丸を守っていた八重子の撃った銃弾が、敵の砲兵隊長に命中して大手柄を挙げたと言う。もとは砲術師範山本権八の娘で、銃の扱いには人並外れた資質を持っていると聞いた時、
 「私にも銃の撃ち方を教えて下さい!」
 と、すかさず菊子が名乗りを挙げた。
 「いいわよ、明日から猛特訓よ!」
 八重子の言葉に喜ぶ菊子を、優子は冷ややかな目で見つめた。
 この日よりあねちゃ隊は城内の婦女たちと共に、負傷兵の世話や看護、水汲みはもちろん炊事や汚れ物の洗濯、食事運びに弾薬の製造に運搬にと、ありとあらゆる雑用に従事することになる。
 ところが一人優子だけ、納戸に置かれた雑具の隙間に小さな自分の居場所を見つけて縮こまり、以降、城内の者達とは一言も口を聞かない。

 籠城戦は続く──。
 誤解を招くといけないので、城内の照姫の働きも記しておこう。
 照姫は奥御殿の女中らに命じて、およそ六〇〇人の藩士の婦女子を指揮したと言われている。その中にはあねちゃ隊のメンバーもいるわけだが、炊事にはじまり負傷兵の看護のほか、新政府軍による攻撃で城の各所で発生した火災の鎮火やその処理、また弾薬の製造なども行なわせた。
 その活動は片時も休むことなく、照姫自身よく婦女子らを監督して内助に勉めた。そのため彼女の住む後殿(こう でん)は常に平静を保っていたと言うからにはおよそ徳のある女性だったと言えるだろう。
 婦女子は皆、照姫の誠意に対して門閥の婦人に至るまで、黒紋付(くろ もん つき)白無垢(しろ む く)を重ね、(たすき)を掛けて、裾を高くあげ、両刀を帯びて従事し、その動作の勇壮なる姿は男子に劣らなかったというのがこの籠城戦の鶴ヶ城内の様子である。
 その中でもあねちゃ隊の孝子(こう こ)の働きはひときわ輝いていた。
 それはまるで竹子の死を忘れようとするかのようでもあり、食事は玄米の握り飯に味噌を付けただけの物だったが、ある手負いの兵の手当をしていたときは、腹が空いて来たので握り飯をとった彼女の手は(うみ)だらけで、それを見た菊子が驚き、
 「ひどい(うみ)ではありませんか。手をお洗いになってから召しあがってはいかがですか?」
 と言った。ところが孝子は、
 「(うみ)など何ともない」
 と答えて、そのままの手で平気で握り飯を食べたものだった。
 またあるときは、手負いの兵たちの膿がベタベタに付いた着物をせっせと洗濯していた所へ、新政府軍が打ち込んだ焼砲弾が飛んで来た。それが彼女のすぐ傍らに落ちたのを驚きもせず、素早く(たらい)の水を打ち()けて火事になるのを防いだり、あるいは、やはり(うみ)の付いた負傷兵の着物を(ざる)に入れて廊下を歩いていた時も、口火のついた焼弾が落ちてきてまさに破裂しようとしていたところを、笊の中の衣類でこれを包み、安全な場所へ投げ込んだため大事に至らずに済んだこともあった。おそらく普通の人なら逃げ出して、多くの犠牲を出したことだろう。
 こうした彼女の落ち着いた行動や機敏な働きは城中での称賛の的である。
 噂が容保(かた もり)の耳に届き、再び御前に召し出され、賞辞を賜わった上に、
 「その方は酒を(たしな)むと聞いたが、ひとつどうか?」
 と、大杯に容保直々に酒を賜わったこともあった。すると孝子は有難くお礼を言ったと思うと、なみなみと注がれた酒を一息に飲み干して、固唾をのんで見守っていた周りから、
 「女ながらも天晴(あっ ぱ)れ!」
 と称賛の拍手が湧いたこともあった。
 優子はそうした母の行動がまったくもって理解できない。納戸に引きこもったきり、まるで(おうし)のように誰とも口を聞かない──。
 九月に入って頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩が相次いで降伏すると、九月十四日からは一日に二、〇〇〇発以上もの砲弾が撃ち込まれるという新政府軍の総攻撃が始まった。彼らの標的は天守閣と、そしてもう一つが割場の鐘だったと言う。どれほど戦いが新政府軍に有利だったとはいえ、城の健在を伝え士気を鼓舞するこの鐘の音は、何より耳障りだったようである。
 日に日に増える天守の壁の弾痕は著しく、城内の食料も尽き欠けて、もう決して会津に勝目がないと誰もが分かっていながらも、
 「子どもたちに(たこ)を上げさせなさい」
 と、照姫は女中に命じた。
 「た、凧でございますか?」
 「そうだ凧じゃ。この程度の攻撃でこの城が落ちると思ったら大まちがいじゃ。会津っ子の負けじ魂を見せてやりなさい」
 すると凧を作って城内にいた子どもたちを集め一斉に凧あげを始めた。ときどきその凧をめがけて銃声が鳴り響いたが、すでに鉄砲の音にも慣れた子ども達は大はしゃぎ。その様子を小さな窓から優子は眺めていた。
 「あなたもやってきたら?」
 と納戸に入ってきた孝子が言った。すると後から菊子も、
 「行きましょ!」
 と誘って優子の手を強引に引っ張り一緒に外へ飛び出した。
 天高く揚がる凧を見ながら、優子は幼少のころ一緒によく凧あげをして遊んだ姉の竹子のことを思い出した。
 「凧はね、上空のものすごく強い冷たい風を、逃げずに全身で受けとめているから天高く飛ぶことができるんだよ──」
 ふと、空に竹子の顔が浮かんだように見えた優子は、
 「あねちゃ……」
 と小さく呟いた。
 「敗けないで──」
 優子の瞳から涙が落ちた。しかしそれは、竹子が死んだ時に流した涙とは確かに違う色をしていた。

 そして──
 およそ一ケ月間続いた新政府軍の砲撃を耐え続けた鶴ヶ城は遂に落城する。九月二十二日のことである。
 このとき城に籠城していた人数は、兵士約三、二〇〇人、婦女子六三九人、老人幼児二四八人、傷病者五三〇人、そのほか他藩の者四五六人、合わせて約五千二百余名ほどだったと言う。
 それから暫くして新政府軍が戦争の首謀者の出頭を求めた時、家老の萱野権兵衛は自ら名乗り出た。そして、
 「戦争を指導したのは、田中土佐と神保内蔵助、そして(それがし)の三家老である。しかし田中と神保はすでに切腹しておるゆえ(それがし)が一切の裁きをお受け申す!」
 ときっぱりと言いはなった。彼は命を賭して前藩主容保とその子に累が及ぶのを防いだと伝わる。
 この後、松平容保は三十名ほどの従者を伴なって鶴ヶ城の北東三キロの地点にある妙国寺に蟄居(ちっ きょ)し、十月十九日、東京へと護送される。そして照姫もまた、その後を追うように妙国寺に入り、髪を切って照桂院と名を改めると、その翌年、お預かりの身となって東京は青山の紀州藩邸に移送された。



 あれから何年の月日が過ぎたことだろう──。
 この故郷で戦争があったことなどまるで嘘か幻だったように(せみ)がけたたましく()いていた。ただ、少し(いびつ)にゆがんだ鶴ヶ城の、壁の痛ましい弾痕だけが当時の記憶をとどめている。
 優子の髪もすっかり伸びて、いまは以前のように島田髷(しま だ まげ)が結えるようになった。
 日傘をさして遣いに出た彼女の表情は、どことなし晴れやかで、以前に増してその美しさも眩しい日の光に輝いていた。
 寺の前を通りがかった時である。
 境内で喧嘩をしている七、八歳くらいの二人の男子を見かけた。兄弟だろうか? ただの口喧嘩程度であったなら見過ごして通り過ぎたかもしれないが、取っ組み合いの激しい叩き合いをしていたからそうもいかない優子は、
 「おやめなさい!」
 と二人の少年のところへ駆け寄った。
 「みっともない。いったいどうしたというの?」
 すると一人の方の少年が、
 「先にお前の方が手を出したんだからな!」
 と真っ赤な顔で言った。するともう一人の少年が、
 「お前が母ちゃんのことを悪く言うからいけないんだ!」
 ともっと大きな声で返した。すると返された方の少年が「お前だってオレの父ちゃんの悪口言ったじゃないか!」「言ってないもん!」「言った!」「言ってないもん!」
 と、これを何度も言い合って、再び互いの襟元を掴んで取っ組み合いが始まった。
 「おやめなさい!」
 と再びの優子の怒鳴り声が境内に響き、地面に押し倒された子に馬乗りになった子が、
 「おばさんは関係ないだろ!」
 と叫ぶと、下で鼻血を出していた方の子も、
 「そうだよ、ほっといてくれよ!」
 と涙目で訴える。優子は目を鬼にした。
 「喧嘩(けん か)はダメ! ならぬものはならぬのです!」
 二人の少年はその気迫に驚いたような顔をしてしゅんと縮こまった。
 「お尻を出しなさい!」
 優子は有無を言わさず少年の着物の(すそ)をめくりあげ、ふんどしをした二つのお尻を並べた。
 「なにをするんだ!」
 「喧嘩両成敗(けん か りょう せい ばい)だよ!」
 ピシリッ! ピシリッ!
 そのかわいいお尻を叩く音に驚いて一匹の(かわず)が池に飛び込む。
 二人の男子は大声で泣き出した。

 二〇二二年八月十五日(七十七回目の終戦記念日に)
(2022・05・07 若松城GB(ガイドボランティア)斉藤貞治氏より拾集)