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(1)稲妻と太陽

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 太陽は何色だ!
 「赤だ!」
 太陽を隠す雲は何色だ!
 「白だ!」

 長い夏休みが明けた。季節はこれから秋へと一気に加速する。赤と白の帽子をかぶった子どもたちが、グランドという名の悠久の大地に居並ぶと、小学校では十月に行われる年内最大のイベント『運動会』に向けて、いま練習が始まったところ───。
 六年生の赤組応援団長の女の子が声をあげた。
 「身体を流れる血は何色だ!」
 それに呼応して一年生から六年生までの赤の帽子をかぶった集団が、
 「赤だ!」
 と、叫んだ。続いて白組の応援団長がちょっと自信なさそうに、
 「栄養満点の牛乳は何色だ!」
 「白だ!」
 白い帽子をかぶった白組が、赤組に負けじと大声をはりあげた。こうして応援合戦は続く。
 「燃える炎は何色だ!」 「赤だ!」
 「炎を消す水は何色だ!」 「白だ!」
 「長野のリンゴは何色だ!」 「赤だ!」
 「リンゴの皮を剥いたら何色だ!」 「白だ!」
 と、ここで朗らかで軽快な音楽が流れ始める。橋本祥路氏作詞作曲(作詞花岡恵は同人物)の『ゴーゴーゴー』という運動会の歌である。

 ♪フレー! フレー! 赤組!
  フレッ、フレッ、赤組、ゴーゴーゴー!
  ぼくらは輝く 太陽のように
  燃え上がる希望
  力いっぱいがんばろう!
  赤、赤、赤、ゴー、ゴー、ゴー
  赤、赤、赤、ゴー、ゴー、ゴー
  燃えろよ燃えろ! 赤組!

 ♪フレー! フレー! 白組!
  フレッ、フレッ、白組、ゴーゴーゴー!
  ぼくらは白い稲妻だ
  突き進む光の矢、雷の音轟かせ
  元気いっぱいがんばろう!
  ゴー、ゴー、ゴー、白、白、白
  ゴー、ゴー、ゴー、白、白、白
  地球を回る稲妻だ! 白組!

 実はこの歌、三番は赤組と白組が同時に歌う。微妙に違う旋律が、時にハーモニーを奏で、時に輪唱となって、赤、白が見事に混在した美しくも勇ましい曲に仕上がるのである。毎年、恒例のように歌われるこの応援歌は、観戦する父兄達の心を幾度となく鼓舞してきた。
 子どもたちの正面の体操台に立って、譜面台の楽譜を見ながら大きく手を振り音楽指導をするのは、音楽科専任の持田房子教諭。教師としてはベテランの独身アラフォー女性である。子どもたちが歌い終わったところで、すかさず、
 「違う!違う!」
 とダメ出しを始めた。
 「歌い始めは“mezzo forte”!そしてゴーゴーゴーのところから“forte”になるの!そして全体のテンポは4分音符が112から120だから、このくらい……」
 と手を打って速さを示し、
 「はつらつと歌う!楽譜にそう書いてあるので、その通りに!では、もう一回!」
 持田はそう言うと、両手を振り上げ「さん、はい!」と指揮をはじめた。が、歌い始めた途端、
 「ダメダメダメ!違います!」
 と両手をパンパンと叩いて歌を止めた。
 「出だしは“mezzo forte”と言ったでしょ。田中さん、どういう意味?」
 持田は吹奏楽部で部長を務める児童の名前を呼んだ。
 「……はい、『やや 強く』です」
 田中と呼ばれた6年生は少し照れながら答えた。
 「そう。そしてこの曲は弱起の曲だから歌い始めが肝心なの!こう歌うんです!」
 持田はそう言ったかと思うと、声楽家特有の澄んだ太い声で『ゴーゴーゴー』を歌い出した。上手いといえばその通りで、市内の音楽教師で彼女ほどの美声を持つ者はまずいない。毎年行われるサイトウ記念フェスティバルには、なにはさておき必ず第九を歌いに松本まで出かける熱心さなのだ。しかし、運動会で歌うには“非常に”がつくほど上手すぎて、これが体育館だったらまるでオペラ観賞をしているかのようだ。彼女は自分の声に酔いしれているふうに、楽譜通りの几帳面さを歌声に乗せていた。その様子を見守る他の先生達は、顔を見合わせて苦笑した。

 長野県須坂市の北に位置する場所に蛍ヶ丘という町がある。大通りを挟んで北と南とに別れた、町としては比較的新しい新興住宅街で、町が興った当初は若い世帯が密集する元気な町だったが、今となっては当時からある市営住宅や県営住宅に住みついた者は老い、その二世、三世が町政を支える老若男女が混在する地域になっている。全体で2千世帯はあろうか、この町に創立四〇周年を迎えた蛍ヶ丘小学校があった。全校児童数六〇〇名程度の中規模な小学校。そこに四十名ほどの教職員が勤めていた。
 その日の職員会は、運動会を控えた赤組と白組の団長を決めるのに多少の時間を割いていた。そして赤組の団長には六学年の学年主任を務める城田兵悟先生が、白組の団長には四年敬組担任の新任教師、桜田愛先生が選出された。その名前が挙がったとき、
 「えっ?私……?でも、私、運動会ははじめてですし……」
 桜田は躊躇して白組団長を拒んだ。
 「桜田先生、なんでも経験ですよ!」
 同じ四年生、愛組担任の佐藤清美先生が背中を押した。続いて赤組団長に選出された城田も「そうですよ、運動会はみんなで作り上げていくものですし、団長なんてあくまで形式なんですから」と、軽く決意を促した。烏山校長も、
 「桜田先生、ここは若いパワーで受けてみてはいかがでしょう?」
 と言ったものだから、桜田は曖昧に「はあ」と答えて、そのまま団長選出の議題は終わってしまった。
 「ところで今日の全体練習ですがね……」
 声を挙げたのは一年信組担任の山崎将雄先生だった。彼は既に定年を迎え、根っからの子ども好きが祟ってついには管理職の道を選ばなかった。一学期いっぱいで産休に入った先生の換わりに臨時で勤めはじめた超ベテランの臨時講師である。
 「あの応援歌はないんじゃありませんか?」
 誰もが思っていたことではあるが、あえて口に出そうとはしない、それはそれぞれの教師が持っているはずの、各人固有の教育理念に関わる領域だった。それには音楽主任の持田が閉口した。
 「どういう意味でしょうか?」
 「相手は子どもですよ、音楽会じゃないんだし。運動会なんだから、のびのびと元気に歌えたらそれでいいと思いますが……」
 山崎は、少なくとも昔はこういった自分の教育に対する考え方を主張し議論しあう気風が学校内にあったと言わんばかりに語り始めたが、途中に来て「いまは違うの?」と急に自信をなくして、「と、思いまして……」と付け加え、尻切れトンボのように声を小さくした。
 「山崎先生、それは聞き捨てなりませんわ。“子どもだから”とはどういうことでしょう。運動会とはいえこれは音楽教育の一環です。『音楽活動の基礎的な能力を培い、豊かな情操を養う』ことは指導要領の目標にもなっています。“子どもだから”こそ、その実現のために基礎知識と基礎能力を身につけなければならないのです。今の言葉を撤回してください!」
 「まあ、まあ、持田先生……」
 険悪なムードを抑えるように烏山校長が口を挟んだ。そして続けて、
 「山崎先生、音楽のことは持田先生にお任せしようじゃありませんか?」
 山崎は話し合いを荒立ててしまったことに反省しながら、小さな声で「はい」と答えた。
 こうして職員会が終わり、先生達はおのおの翌日の授業の準備や、ノートパソコンを開いて書類の作成等に没頭しはじめた。桜田も夏休みの日記帳を添削しようと教室に向かうため職員室を出た。
 「桜田先生!」
 呼び止めたのは城田だった。
 「お互い団長頑張りましょうね!赤組は負けませんよ!」
 「あら、さっきは団長は形式だって言ったばかりじゃありませんか?」
 「立て前ですよ。勝負は勝負です。やるからには本気で戦わないと」
 体育系の大学を卒業している城田は、根っからの体育界系男子であった。男子といっても四十を越えた独身で、「昔はラグビーで花園に行った」とは、飲んだ時の彼の自慢話である。
 「ところで桜田先生のクラスに紅矢希さんって子がいるでしょ?背の小さい」
 「紅矢さん?彼女がなにか……?」
 「もしかしたらご協力いただくことになるかも知れません」
 「協力って、なにを?」
 「それはまだ言えませんが、今年の運動会は大いに盛り上がりますよ!いや、一緒に盛り上げていきましょう!」
 城田はそう言うと、なんだか妙に嬉しそうな素振りで先に歩いて行ってしまった。

 
> (2)蛍ヶ丘の人々
(2)蛍ヶ丘の人々

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 蛍ヶ丘の大通りを挟んでほぼ真向かいに、二件の飲食店があった。道の南側にあるのが日の出食堂、北側にあるのが夕焼け弁当「クック・モット」という名の県下に点在するチェーン店のひとつである。
 日の出食堂の方は、蛍ヶ丘ができた当初から区民の腹を満たしてきたいわゆる大衆食堂で、出前もやっている。以前は景気もすこぶる良かったようだが、今は二代目の原田友則が妻の良美と一緒に切り盛りをしており、六年生に萌という女の子と、四年生に輝という男の子の二人がいた。
 一方、夕焼け弁当「クック・モット」の方は、紅矢春子という未亡人が店長をしており、女手ひとつで育てている娘の希は現在4年生、桜田愛のクラスであった。事情は知らないが、数年前に日の出食堂の営業を邪魔するかのように突然越して来た。日の出食堂の景気が大きく傾いたのもその頃で、以来、両店はあいさつもろくにしない犬猿の仲である。
 いきさつを話せば長くなるのでかいつまむと、日の出食堂の原田とチェーン店夕焼け弁当クック・モットのオーナー(社長)は昔同級生だった。名を水島友作といって北蛍ケ丘に住むが、彼らが小学校6年生の時、水島が原田にファミコンのゲームソフト(確か「アイスクライマー」だったか?)を貸したのが事の発端だった。中学に進学して二人は別々のクラスになり話すこともなくなるが、卒業を控えて久しぶりに合ったとき、水島が「あのファミコンソフト、返してくれないか?」と言った。ところが原田の方は「何のことだっけ?」ととぼけた。実はなくしてしまっていたのだ。怒ったのは水島である。当時なけなしの小遣いをはたいて死ぬ思いで買ったソフトで、しかも四十八面中四十七面までクリアしたところで原田に強くせがまれて嫌々貸したものだったからだ。激しい口論となったが、なくしたものは出てくることはなく、その後二人は絶交したまま成人し、一方は親の後を継ぎ食堂の店主となり、一方は弁当のチェーン店を経営する実業家となって同じ町に住んでいた。しかし水島の方はずっと根に持っていた。「いつか日の出食堂をつぶしてやる!」という怨念に変わって、いやがらせにチェーン店の一つを蛍ケ丘にある唯一の食堂の真ん前に店舗を作ってやったのだ。折り合いが悪い事は重なるもので、水島の息子友太と原田の娘萌とは城田が学級担任の同じクラスであった。
 そんないきさつがあるとはつゆ知らず、紅矢春子は貧乏くじを引いた。もちろん「どうして食堂の真ん前に弁当屋を作るのだろう?」と疑問を抱くことは何度もあるが、まさかオーナーと向かいの食堂の店長の因縁など知る由もない。来る日も来る日も大通りを挟んで顔を合わせながらも、陰険な眼差しに悩まされた。売り上げも両店で客を分けていたので一向に良くならないし、こちらが唐揚げ一個プラスセールを行えば向かいは唐揚げ無料サービスを行い、こちらが期間限定三〇〇円弁当を出せば向かいは二九〇円の仕出しセットを始めるなど、熾烈なサービス競争と価格競争は両者の経済的体力をそぎ、果てしなく続けられていた。

 ところで今年度の蛍ケ丘小学校のPTA会長は、6年生に太一という子がある音無宗司という男である。南蛍ケ丘に一軒家を構え、以前は大手電機メーカーに勤めるサラリーマンだった。妻は公子といって、子供が保育園の頃から保護者会長や、小学校になってからも学級会長や町の役員など積極的に受けてきたハリキリママさんで、そんなところから音無のところにPTA会長の話が回ってきた。入学式の時などはたいそう立派な挨拶を述べ、保護者や先生の間でもけっこう評判になったが、6月に入ってリストラで職を失った。以来、意気消沈してPTA行事にも足が遠のき、毎日酒を飲んでうっぷんを晴らす始末。そんなところに電話が鳴った。
 「あなた、学校からよ。いま2学期のPTA活動についての打ち合わせをやってるんだって。行かなくていいの?」
 「やだ!行きたくない!」と、宗司は駄々っ子のようにコップの酒を飲み干した。公子は呆れて「すぐ行きます!」と電話を切って、そのまま代わりに学校へ走って行った。残された宗司と6年の太一は、少し気まずい雰囲気をつくりながらテレビを見ていた。
 「太一、学校の方はどうだ?」
 「どおって?」
 「面白いか?」
 「まあまあ」
 「もうじき運動会だな、何かやるのか?」
 「白組の応援団長」
 「ほお!すごいじゃないか!」
 「ぼくはヤダって断ったんだけどおまえの父ちゃんPTA会長なんだからやれ≠チて言われて、仕方なくやることになった」
 宗司は申し訳なさそうにコップに酒を注いだ。
 「紅組の応援団長は誰なの?」
 「萌ちゃん」
 「日の出食堂のあの元気いいお姉ちゃんか。いいか、女になんか敗けんなよ!」
 父親の心無い発言に、太一は怒ったように立ち上がると、自分の部屋へ入ってしまった。

 ちょうど時を同じくして北蛍ヶ丘の公会堂の玄関先では、何かもめごとがあったらしく静かな口論になっていた。見ればいかつい顔をした五、六十代の男が数人と、大きな手提げ袋を抱えた中年女性集団と、さらにはヨボヨボのお年寄りが七、八人、みな口々にああでもない、こうでもないと自分たちの主張をしているようである。
 「だいたい今日は区の三役会があるから他の団体は公会堂を使わないようにと回覧しておいたでしょ?」
 と区長らしき男(実際区長だが)が主張する。
 「なに言ってんの!紙っぺら一枚回覧しただけで全員に伝わっているとでも思っているの?そんな大事な会合をやるんだったら、前もって婦人会長に菓子折りのひとつでも持って挨拶に来なさいよ。こっちは半年も前から予約して、こうしてお料理教室で使う材料まで買ってきちゃったんだから」
 と婦人会の料理教室主宰の女性が言い返す。どうやら公共施設の使用権をめぐっての争いのようだ。
 「我々も予約をしたけど婦人会の予約なんか入っていなかったよ」
 と今度は区の会計らしき男が言う。予約といっても公会堂の入り口に置かれた大学ノートに、月ごとのページに日付と団体名を記入するだけの簡素なものである。そこへ「わしらだって」と八〇くらいの老人が口をはさむ。区長はむっと睨んで、「老人会は辺りが暗くて危ないから、寄り合いは昼間にやってください」と問答無用で聞き捨てた。
 やがてこのままでは埒があかないと、『予約ノート』を確認しようということになったが、肝心のノートが見当たらない。公民館長が持っているんじゃないかと連絡したところ、おずおずとやって来たのが今年度の公民館長鈴木逸美という男と、クック・モットの社長水島友作だった。鈴木は三期十二年間市会議員を務め、須坂市長の五木雅雄氏とはツーカーの仲で町でも一目置かれる存在であり、議員を辞してからは地域に貢献したいと、今年度は公民館長を任されていた。たまたま水島とは区内に建設予定の多目的センターの資金繰りについての打ち合わせの最中だったので伴って来たようで、「いっちゃん、なんとかしてよ」と、選挙の際にいろいろ世話になった旧知の老人会メンバーに迎えられた。
 「これが予約ノートだけどナ……」
 と鈴木がカバンから出すが早いか区長が奪い取るように広げると、8月の今日の日付の夜の欄にははっきり『区三役会』と書かれてあった。「ほれみろ!」と言わんばかりの区長からノートを奪い取った婦人会メンバーは、ひとつページをめくり、9月の今日の日付の欄に『婦人会料理教室』の文字をみつけた。
 「あらやだっ!わたしったら日にちを間違えて書いちゃったみたい!」
 と、さっきまで機関銃のようにあくたれを述べていた婦人は赤面したまま黙ってしまった。
 「それでは今日のところは私たちに軍配があがったようなのでお引き取りください」
 と勝ち誇った区長が言った時、「ちょっと待った!」と老人会の一人が叫んだ。
 「そのノート、昨年のじゃないかいの?」
 と、見れば確かに表紙には昨年の西暦とともに年号が記してある。
 「いっちゃん、今年のノートと間違えて置いたんじゃないか?別に今年のノートがあるはずだよ」
 案の定、鈴木のカバンの中から今年度のノートが出てきて、今日の日付に記されていたのは『老人会お茶のみ会』の文字だった。
 「あ〜、ごめん、ごめん、間違って置いていたみたい。悪かったねエ〜」
 と公民館長は高笑いしてごまかした。「間違いは誰にでもありますからね」と、水島社長も助け船を出したものだから、区長は「予約ノートは持ち出し禁止です。ちゃんと公民館に保管願いますよ!」とだけ言い残し、婦人会メンバーと一緒に何も言わずに引き下がっていった。およそ金持ちと権力者には弱い輩なのだ。
 こうして老人会の無言の「お茶のみ会」が行われている頃、蛍ケ丘小学校の煌々と電気が光る理科室の、一人の男が扉を叩いた。PTAの役員会は校長室で行われていたはずなので、それとは違う目的で訪れた者に違いない。

 
> (3)ガリ先生
(3)ガリ先生

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 「ガリ先生、ちょっといいですか?」
 男の正体は城田兵悟先生だった。一方、理科室にいたのは通称「ガリ先生」と呼ばれる理科の専任教師で、翌日の理科の授業で行う実験の準備中だった。皆が口をそろえて「ガリ先生」と言うものだから、本名を思い出すのに時間がかかる。「ガリ」とは「ガリレオ」の略で、本人もいたく気に入っているようなのであえて本名で彼を呼ぶ者はいなかった。その名の通り物理学の傾倒者で、多感な二〇代のくせに物理以外に興味を示すものはなく、その堅物さは一見近寄りがたい印象を与えるが、話してみれば案外穏やかで、笑いもすれば怒りもした。ただものの考え方がいちいち理論的で、まともに話していると非常に疲れる。通常彼は、いつも一人でいることが多かったので、突然の理科室への訪問者が嬉しかったらしく、
 「城田先生。明日は振り子の実験でその準備なんです。こんな時間にどうなさいました?」
 と珍しい客を笑顔で迎え入れた。
 「ちょっと折り入ってご相談がありまして……」
 城田はそう言うと、ガリ先生の脇に椅子を引き出してゆっくり座った。そして暫く何も言わないでガリ先生の準備の様子を眺めていたが、いくつかの振り子の玉が同調して同じ動きになったとき、
 「相談というのは物理のことでして……」
 城田の言葉にガリ先生の目つきが変わった。
 「5、6年生の運動会種目なんですが、すっかり分らなくなってしまいまして」
 「運動会?物理のお話じゃないんですか?」
 「それが物理と非常に関係がありまして、組体操なんですが……」
 「そういえば今年の運動会の日は、皆既日食が見られますね!」と言葉をさえぎって、ガリ先生は興奮して言った。
 「皆既日食?今年、見られるってニュースでやってましたが、運動会の日なんですか?」
 「そうですよ!楽しみだなあ。そうだ、黒メガネを配布して、運動会を中断してみんなで観察するのもいいですね!」
 「そりゃいい。で、組体操のことなんですが……」
 城田にしてみれば皆既日食などどうでもよい。
 「組体操?ああ、いろいろな体位がありますが、物理的に可能かというお話ですね」と、物わかりの早いガリ先生は準備の手を休めて城田の正面に腰かけ、「で、何をなさるお考えなんですか?」と、城田の顔を興味深そうにみつめた。
 「実はですね……」
 城田は少し躊躇したあと、生唾を呑み込んでこう言った。
 「十段円塔を建てたいなあ……なんて、思いまして……ね……」
 「十段円塔……?ピラミッドじゃなくて、円塔ですか?」
 ガリ先生は別段驚いた様子も見せず、淡々と「円塔」という言葉を繰り返した。
 「十段ピラミッドじゃダメなんですか?最近どこかの学校でも成功させたようですが」
 「ダメなんです。ピラミッドには仏は住まない。仏はやっぱり塔≠ネんです!物理的に可能でしょうか?」
 普通の人間ならば何故ここで仏≠ェ出てくるかの方に意識がいくはずだったが、ガリ先生の関心は既に可能かどうかの方にあり、しばらくは首を傾げたまま右手を頬に当てて動かなかった。城田は続けた。
 「過去に日本でも六段円塔を成功させたという話は聞いたことがあるんです。ただいくらものの本を調べても、四段円塔の作り方までしか載ってない。でもスペインのカルターニャ地方では人間の塔≠ニいう十段の塔を作り上げる技があると聞きました。もし十段円塔が可能ならば、今回の運動会でなにがなんでも成功させたいんです!」
 「理論的には可能ですよ」
 ガリ先生は涼しげな口調で答えた。「そうですか!」と思わず城田は声を上げそうになったが、
 「ただし、小学5、6年生にそれだけの筋力と体力、それに高度に優れたバランス力があればの話です。失敗のリスクを考えたらやらない方が利口だと思います。怪我人が何人も出ますよ」
 「怪我人は絶対出しません!」
 強い口調は城田の決意だった。ところがガリ先生はそんな感情などには全く興味がないらしく、突然立ち上がるとチョークを握り、黒板にいくつもの棒人間を描きはじめた。
 「知りたいのは、成功させるに何人必要か?ということなんです」
 城田の言葉をよそに、すっかり自分の世界に入り込んでいる様子のガリ先生は、
 「仮に一人の体重が四十キログラムだとします。頂点の1人を支えるのに最低3人必要ですからここで160キログラム、更にその下は6人で、倍、倍となっていきますから5段目は24人、ここまでの総重量が1840キログラムになりますね。これを十段まで作り上げるわけですから全部で1534人必要で、一番下の人達は768人で30640キログラム、つまり約30トンの重さを支えなければならないことになります」
 とそこまで言って、「う〜ん」とうなったまま止まってしまった。
 「それじゃ全校児童を総動員してもぜんぜん足りませんね……」
 「問題はそこではありません。この塔全体の重心の問題です。唯一成功の条件は、この塔の重心が常に一段目の円の中心にあることなのです。仮にこの千五百人あまりのうちの誰か一人がバランスを崩したとします。すると一番下のこの人一人にかかる総重量は30トン。一人でその重さに耐えられるでしょうか?」
 「崩れますね……」
 「即死ですよ!」と、ガリ先生は他人事のように哄笑した。
 「失敬々々、もっと現実的に考えましょう。現在5、6年生は何人いましたっけ?」
 「6年生が3クラス合わせて98名で、5年生が88名ですので全員で186名です」
 「へえ……、それは神の思し召しですね」
 「と、いいますと?」
 「最上段の九段目十段目の4名の人員は四年生から選抜しましょう。その条件は一番軽い子です。以下八段目から四段目に必要な人員が186名ですから5、6年生の数とピッタリです。しかし数の上では7段円塔にしかならない」
 「あと何人必要ですか?」
 「三段目に192人、二段目に394人、一番下がさきほど言ったように768人で、合計すると1354人です。……これはどうも実現できそうにありませんね」
 ガリ先生はそこまで考えて、ようやく実現不能という結論を導き出した。
 「PTAの父兄にお願いしましょう!」
 「PTA?それはちょっと難しいでしょう。この前の人権講演会では十人くらいしかいませんでしたよ。閑古鳥が鳴いてました」と、またガリ先生は哄笑した。
 「名簿上は四〇〇世帯くらいあるんですから、本気でやれば200人くらい集められるでしょう」
 「それでも千人以上足りません」
 「じゃあ地元の地域にもお願いしましょう。区長さんに頼んで!」
 城田はそこまで言うと何かを思い出したように理科室を飛び出した。残されたガリ先生は、
 「無理だと思うけどナ」
 と、ぽつんとつぶやいた。

 城田は職員室に戻って荷物をまとめ、入口の出欠の名札を裏返すと、そのまま急いだ様子で学校を飛び出した。そしてかなり走り込んだシルバーの車のエンジンをかけると、蛍ケ丘の大通りに出、通り沿いの夕焼け弁当クック・モットの前で車を止めた。
 「唐揚げ弁当ひとつください」
 「城田先生……、いまお帰りですか?お疲れ様です」
 やつれた印象を受ける店長の紅矢春子は、城田のことをよく知っている様子で、作り笑顔でそう言った。
 「希ちゃんは?」
 希とは4年生で彼女の一人娘である。
 「2階で宿題でもやってんじゃないかしら?お味噌汁はどうします?」
 「付けてください」
 「まいど……」
 「でも驚いたなあ、4月に蛍ケ丘に転任になって、ふと立ち寄った弁当屋に春子先生がいるんだもの。またどうしてこんなところで弁当屋なんか?」
 「いろいろあるわよ。はい、おつり……」
 「来月の運動会、必ず来てくださいね!すごいものをお見せしますから!」
 「もうそんな季節なのね。でもお店があるから」
 「5、6年生の恒例演目で組体操をやるんです。希ちゃんにも……」
 「運動会の話はやめにしましょ?もうお店、閉める時間ですから、ごめんなさい」
 城田は春子に追い出されるように弁当屋を出た。そして車の中から、店の戸締りをする彼女の姿を見つめながら大きなため息を落とし、やがてにぶいエンジン音を鳴らしながら車を発車させた。
 看板のクック・モットの電気が消えたのは間もなくのことだった。
 「のぞみ〜!お仏壇にご飯のお供えしてくれた?」
 「まだ〜!」と、1階の厨房から話しかける春子に、2階から女の子の声がする。
 「お母さん、まだ洗い物が残っているからやってくれる?」
 「わかった〜!」
 春子は厨房の流しで最後の片づけを終え、レジを開いて本日の売り上げを数えながら頭に手を当てた。出納帳を開いて過去にさかのぼってみても、売り上げは増えはしない。分り切っていることだが体が勝手に動いてしまう。
 「今月もきびしいの……?」
 脇にいたのは希だった。春子ははねあがって驚いた。
 「だいじょうぶ、だいじょうぶ!あんたは心配しなさんな。それより急に驚くじゃない」
 「ごめん、お父さんのご飯をとりに来たの。お店の余り」
 「今日は少し多めに残っているから山盛りにしておやり。お父さん、喜ぶから」
 「わかった」と、希は小さな腕で茶碗にご飯をよそうと、そのまま2階へあがった。
 「ちゃんと手を合わせるのよ」
 「はーい」
 仏壇の前にちょこんと座った希の目線には、父親であろう眼鏡をしたスーツ姿の遺影があった。希は日課のように鈴を鳴らすと、手を合わせてお辞儀をし、その後やりかけの宿題を終わらせようと机に向かって鉛筆を握った。

 
> (4)女性新米教師
(4)女性新米教師

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 昼休みの職員室といえば、様々な業者の人間たちが、大きなカバンを持って入れ替わり立ち代わり訪れる。そのピークは先生たちが児童と一緒に給食を食べ終えた正午の四十五分ごろで、今日も真っ先に訪れたのはヤクルトのおばさんだった。
 次いでやって来たのは町内で文具専門店を営む林みつをというセールスマン。かれこれ学校創立当初から通いつめているもういい年の欲深い男で、小学校の歴史や過去の出来事から、あるいは先生方の異動の情報などは学校長の烏山周一よりはるかに詳しい。いつも黒いアタッシュケースをひっさげて、中から学力テスト用の教材や学習ドリル、あるいは理科の実験用のおもちゃや図工で使う資材など、まるで玉手箱のように取り出しては、少しでも学級費を引き出そうとうまい話を持ちかける。恐ろしいのは各学級、各学年の貯金額を正確に掌握していることで、何学期にどういう単元の何の授業が行われ、どこで情報を入手するのか、各クラスの授業の進み具合や遅れ具合まで熟知している。だから、その巧みな手口を知っているベテランの先生たちは、必要な時にしか彼を呼び止めないし、彼もまた声を掛けようとはしなかったが、桜田愛のような右も左もわからない新任教師は、林にとってうってつけの標的だった。
 「桜田先生、いいのがあるんですよ。大きな声じゃ言えませんが、昨日入ったばかりのなかなか手に入らないモノなんです。これです『太陽光でゴー!』。いままでは手づくりでモーターを作ったり、電池でいろんなものを動かしていたのが、これは太陽光で動くんですよ!しかも太陽電池の仕組まで分ってしまう!これからの子供達はね、自然エネルギーを積極的に取り入れなければいけない必然性に追い込まれていますでしょ?今度の電気の単元でぜひいかがですか?」
 そんな会話を横目に、愛組の佐藤清美先生が笑いながら通り過ぎた。
 「おいくらなの?」
 「ちょっと値がはります。ひとつ税抜き二千円。でも桜田先生のクラスですから特別に千五百円に負けときまひょ」
 「高いわね。この間、数学の教材を買ったばかりで、うちのクラス、いま余裕がないんです」
 「ではこちらはいかがです?『寝ても覚めてもシリーズ』。これはね―――」

 桜田が林につかまっている頃、視聴覚室には5、6年の担任の先生たちはが集まっていた。そして、城田を中心に運動会の組体操についての打ち合わせをしていたが、その付き合わせた表情はどれもひどく神妙だった。
 「いくらなんでも十段円塔なんて無理でしょう?」
 驚いたようにそう言ったのは5年信組の本木弘先生だった。
 「そうよ、怪我人が出たら取り返しがつかないわ」と、5年愛組の安岡花子先生が付け加える。
 「ですので周囲に厚手のマットを敷き詰めて、下は我々が万全を期して守るんです」と城田は強い口調で言うが、
 「だいたい十段円塔を立てるのに、いったい何人の人数がいるんです?」と6年敬組の高橋一郎先生。
 「昨日、ガリ先生に計算してもらいました。全員で1534人必要だそうです」
 城田の言葉に一瞬間をおいてから、一同あきれたように苦笑いをつくった。
 「ぜんぜん人数が足りませんね」とは6年信組の八木先生、続けて安岡が「実際は下に補助が必要だからそんなんじゃすまないわ」と補足する。
 「人足はPTAや区長に頼んで僕が責任を持って集めます。皆さんは成功の事だけを考えて、子ども達に指導をお願いしたいんです」
 そう言う城田の言葉には説得力がなかった。
 「校長先生には相談したのですか?」
 と、5年敬組の新田先生。三十代の慎重な性格の持ち主だ。
 「いや、まだです。どうせ反対されるに決まっていますから。まずは皆さんの賛同を得たいんです!」
 「賛同ったって……ねえ……?」と八木。続けて安岡が不思議そうに、
 「どうして円塔なの?ピラミッドならまだしも……」
 確かに疑問を持つところで、皆は城田の顔をまじまじ見つめた。その視線に困惑した城田は、
 「6年生にとっては小学校最後の運動会なんです。なにものにも代えがたい黄金の思い出を作ってあげたいんです。彼らがやがて大人になって、大きな壁に突き当たったとき、このことを思い出して勇気を出してほしいなあと……」
 と、ありきたりの返答をしたが、それを受けた高橋の言葉は厳しい。いつ教頭になってもおかしくない、五十代のベテラン教諭で、今は教務主任をやっている。
 「思いは分かりますが、教育はきれいごとだけではすみませんよ。最悪のことを想定したら、黄金の思い出どころか、開かずの部屋に押し込めておかなければならない悪夢になることだってあるからね」
 次いで女性の感性で城田の言葉に不審を抱いた安岡が、
 「それだけ?別に理由があるんじゃない?よかったら本当の気持ちを話していただけないかしら?そこまで十段円筒をやらなければならない事情を……」
 さすが女性だと城田は感心したが、
 「それは……」
 と言ったきり、口をつむんで下を向いてしまった。そして、
 「言えません……」
 と呟いた。その姿に、腫れものを触るみたいで会話が途切れた。やがてそんな無言の空気を破ったのは、少しお調子者の気を持つ本木だった。
 「ならばこうしませんか?運動会のひと月前までに、十段円塔に必要な人数を集められなかったら、申し訳ありませんが城田先生にはお諦めいただいて、十段のピラミッドの方に挑戦ということで。練習時間が取れなければどうにもなりませんから。しかしピラミッドでも難しいぞ」
 その言葉の裏には、「千五百人以上の人数を集めるなんてできっこない」という、最初から不可能だという確信があった。事実、内心誰もがそう思っていたことでる。城田に諦めさせる流れを変えまいと、すかさず「そうね、それがいいわ」と安岡が相槌を打った。本木は更に追い打ちをかけるように、
 「ひと月前といったらあと2週間しかありませんよ。これはたいへんだ」
 と皮肉を付け加えた。そんな言葉の裏の感情は、体育界系で単純な城田にもよく分かった。しかし彼は至って本気なのだ。
 「わかりました。そのかわりにひとつお願いがあります。集まる集まらないは別にして、それまでの間、体育の授業は円塔を作るという前提で練習をはじめてほしいのです」
 と真剣に訴えた。
 誰もがそんな人数は絶対集まらないと信じていた。でも真剣な城田の表情に、それを口に出すことはできなかった。こうして5、6年生の担任を説得した城田は、すかさず4年生の担任にも協力を得るため職員室へ向かった。

 文具専門店の林が職員室を出る時、出合い頭に、これまた町内のスポーツ用品専門店「島村スポーツ商会」の社長とばったり合って、立ち話をするはめになっていた。
 「林さん、景気はどうっすか?」と島村社長はご機嫌だ。彼もこの小学校の卒業生なのだ。
 「だめだめ。なかなか先生方の財布の紐も固いよ。こっちの懐が冷え切っているってことは、学級費を納めるご家庭の経済も冷え切ってるってことさ。なんとかならんものかね。で、今日は誰んとこへ?」
 「桜田先生です。なんでも運動会で白組の団長をやるそうなんで」
 途端、林の目つきが変わった。桜田は林に限らず、どうやら学校を訪問するセールスマン達の手頃なカモ≠轤オい。
 「おい、その情報、どこで仕入れた?」
 「どこでもいいじゃないすか」
 「いいこと教えてあげようか。桜田先生、まだ学級費の使い方がからっきし分ってねえ。一学期に全部使い込んでしまったようで、4年敬組はいま赤字状態だぜ。こりゃ臨時徴収しないと回っていかねえな」
 「ほんとうっすか!」
 「別の先生に当たった方がいいよ。ところで赤組の団長は誰なんだい?」
 「城田先生だって話です」
 と、そこへ城田がやってきて4年生の担任教師を集めはじめた。ひょんなことから職員室の入り口に集まる形になって、こそこそ話が文具屋とスポーツ屋の耳にも入ることとなったのだ。
 集まったのは4年敬組の桜田愛先生はじめ愛組の佐藤清美先生、それと信組の田原真彦先生と城田の四人で、城田は熱っぽく先ほどと同じ話をした。ところが4年生の方はあまり深く考える者はなく、むしろ賛同する素振りで、頂点の4人の人選を、4学年の体重の軽い者とするといった話にすぐ名が挙がり、すんなり協力体制が整った。もっとも冷静に考えれば頂点の高さは十数メートルになるはずで、そんなことを知ったらOKするはずもなかっただろうが、次の授業の時間が迫っていることもあり、みな急ぎはじめた様子で塔の高さまでは頭がまわっていなかった。
 ちなみに体重から自動的に選出されたメンバーは、頂点が4年愛組の紅矢希、その下の3人は、同じく愛組の周防瑠璃と、敬組からは木村省吾、あと信組の和田成美という顔ぶれである。大きな波乱を呼ぶことなど考えてもない桜田愛は、あのとき城田先生が「紅矢希に協力してもらうかも知れない」と言ったのはこの事だったのかと納得しながら、5時間目の学活の時間にいそいそと向かった。
 「城田先生……」
 と話しかけたのは耳をダンボにしていた文具店の林だった。既に5時間目始業のチャイムが鳴りだした。
 「十段円塔って……、来月の運動会の話ですか?」
 「やだな、聞いていたんですか?まだ校長とかには話していないからおおっぴらにはできないんですが、組体操で学校のグランドの真ん中に、デーンと十段円塔を打ち立てようって思っているんです」
 「そりゃいい!」
 と林が叫んだのは、直感的にそこに大きなお金が動く匂いがしたからだ。
 「そう思います?」と、城田は初めて現れた心からの賛同者に興奮気味である。
 「思います、思います。絶対やってください!私たちも及ばずながら何でもご協力させていただきますから!なっ!」と林は隣にいた島村の肩を叩いた。城田は感激のあまり二人の手を握り、
 「それじゃ早速だけどお願いしたいことがあるんです」と涙をためた。「どうぞどうぞ、なんなりと!」とは言ったものの、その激しい情熱のようなものに後ずさりする林と島村だった。
 「実は2週間以内に千五百人の協力者を集めなくてはなりません。皆さんの人脈で、できるだけたくさんの、できれば二、三十代の若い人を集めてもらえませんか?」
 「せ、千五百人……って……?」
 「十段円塔を組み上げるのに必要な人数です。私は授業がありますんで!」
 と城田は強力な賛同者を得た喜びを隠せない様子で、そのまま教室へ向かってしまった。

 
> (5)人足集め
(5)人足集め

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 4年敬組の5時間目は学活で、桜田は黒板の前に後ろ手を組んで立つと、いつものように日直の号令を合図に、子ども達の大きな挨拶の声が響いて授業が始まった。桜田はそんな子どもの声が大好きだった。三十三人の児童の瞳はどれもキラキラ輝いて、少しくらい気分が滅入っている時も、その美しさにいつも救われている。今日は運動会の役決めや、諸々の小道具を作らなければならない。体育委員が中心となり、各委員会ごとの役割分担や、学年ダンス種目で使うぼんぼんとか薄色紙で花を作ったり、選抜リレーの選出も選ばなければならない。桜田は礼が済むと「体育委員会さんお願い」と進行を任せ、教員に与えられているデスクに腰をおろした。
 この子らが3年生の時の担任が、よほど教育技術が優れていたと見え、四月に新任として初めて教壇に立った桜田ではあったが、これまで特に大きな問題もなく、すこぶる順調な学級経営ができていた。彼女がひとこと声を発しただけで、察しの早い彼らは瞬く間に教師のやろうとしている心を読んで、自らの力で話し合いができるほどの力を持っていた。桜田は自分が4年生だった頃を思い出し、今の出来すぎたクラスに空恐ろしさすら覚える。
 そのクラスのまとまりの中心となっていたのが、周防瑠璃という名の女優バリに可愛い顔をした女子だった。はじめてこの子らと対面したとき一人ずつ将来の夢を聞いたが、その際ハキハキと「女優です!」と答えたのが彼女である。両親は離婚して母子家庭であるが、なるほど母親の仕事は県のローカルテレビ局のアナウンサーで、周防美沙江といえばニュースの時間帯にチャンネルを変えれば必ず見ると、校内で知らない者はない。その娘はこの年で既にモデルなどの仕事もやっているようで、たまにその撮影とかで学校を休むこともあるが、とても明るい、クラスには欠かせないムードメーカーなのである。
 授業は順調に進んで終盤にさしかかった。4名のリレー選手と補欠選手も決まり、桜田にバトンタッチした体育委員のメンバーも席に戻った。桜田は授業前の城田先生の言葉を思い出してこう言った。
 「毎年、5、6年生が運動会で取り組んでいることがありますが、それは何でしょう?」
 「組体操!」
 数人が手を挙げると同時にそう発言した。
 「そう。皆さんも来年やることになりますが、実は今年、6年愛組の城田先生のご提案で、とっても大きな塔≠立てることになりました。だけども人数が少し足りなくて、4年生から一番てっぺんの4名を出してほしいと言われました」
 「ぼくがやる!」「わたしがやる!」と、数人の手が挙がったが、「でも、一番てっぺんだから、クラスの中でも一番体重が軽い人ということになりました」と桜田は立候補の言葉をさえぎった。
 「ですので、このクラスからは、一番上が一番体重の軽い希さんにやってもらい、その下を次に体重が軽い瑠璃さんと、敬組と信組からそれぞれ一人ずつ出て、3人で希さんを支えることになりました」
 終始消極的でおとなしい希が赤面して「ええっ?」と言いたそうな困り顔で下を向いてしまった。皆の視線が希に集まる。ところがその時、名前を呼ばれたもう一人の瑠璃の瞳に、嫉妬の情念が宿ったことには誰も気づかなかった。
 「二人とも、いいかなあ?」
 桜田の言葉に希は何も答えなかったが、瑠璃の方は立ち上がってつつつと希の席の脇に立つと、
 「希ちゃん、おめでとう!一緒にがんばろうねっ!」
 と明るい握手の手を差し伸べた。ところが希はなかなか手を出そうとしなかったので、瑠璃は強引に希の右手を引っ張り出して、力いっぱいに握った。「いたいっ!」と思った希だが、それをけっして口には出さなかった。桜田は、ここでも瑠璃の前向きな性格にすごく感心し、どうすればこういう立派な子に育つのだろう?―――と彼女に優しい笑みを贈っていた。

 さて、4年敬組と同じ時間に体育の授業を行っていたのが、昼休みに城田の提案を受けたばかりの5年信組、本木弘先生のクラスである。彼もまた、「ひと月前までは円塔の練習をする」と約束した手前、子供達に円塔≠フ話をしなければならなかった。もともと彼自身が乗り気でなかったこともあり、適当に話しておこうと決めていたが、そこで思わぬ展開を見ることになる。
 「十段円塔というのは、まだ日本でも成功させたことのない大技で、できなければ先生はそれでいいと思っている。なにも円塔でなくても十段ピラミッドでも大変なことなんだから。無理をして怪我をしても損だし、今から2週間練習してみて、無理だと判断したらピラミッドに切り替えようと思うんだ。でも最初から無理と言ってしまうのは良くないので、できるところまででいいので十段円塔に挑戦したいと思う」
 この時である。
 「先生、日本で成功したことがないって本当?」
 一人の男子がそう言った。
 「本当だよ。日本どころか世界でもやったことがないんじゃないかな?」
 クラスの中に「え〜っ?」と、どよめきが起こった。当然本木は「やめようよ」という意見が大半を占めるだろうと予想していたところが、
 「先生、やりたい!」
 と、今度は女子の中から声があがった。そのうち「やりたいよナ!」とか「やろうぜ!」とか「ギネスに乗ろうぜ」とか「みんなに自慢しよう!」とか、ことごとく前向きな方向に動き出し、言い出しっぺの本木の方が収拾をつけられずに困ってしまった。
 「ほんとにやりたいのか?」と疑心暗鬼に改めて聞くと、即座に「やりたーい!」という全員の返答が返ってきた。「なんだこの現象は……?」と本木は未体験の子供達の熱いパワーに、驚きと共に嬉しさを感じずにはいられなかった。「これこそ本来の子供の姿じゃないか?」と、生まれてはじめて本物の子供に出会ったような感動に打ち震えていた。
 それと同じ体験をしたのは本木だけではなかった。5学年の新田先生のクラスも、安岡花子先生のクラスも、6学年の高橋一郎先生のクラスも八木先生のクラスも、それと似たような現象が起こったと言うのである。顔を合わせた5、6年の担任教師達は、その日、仕事を終えて帰るまでの間、そんな話題でもちきりだった。
 「いまの子供達は本当の冒険を知らないからじゃないかしら?なんでもかんでも大人や社会が子供達の行動範囲を決めてしまっているでしょ?とうていできない事でも、どこかで挑戦したいという本然的な思いがあるのかも……」
 「それを解放してあげることが成長というものですかね?とすれば現代は、大人が子供の成長を抑え込んでしまっているということになりますね」
 安岡先生も本木と同様、子供達の喘ぎに似た「みんなで何かしたい!」という欲求を強く感じたようだった。それには慎重で几帳面な新田も、自分も子供の頃にやらなければならなかった何か大切な事をやり残して成長してしまったような気になって、急に教師という仕事に自信をなくした。そんな中、
 「例えそうだとしても、そんな危険なことを子供達にさせるわけには絶対いかない!」と、最後まで言い張ったのは教務主任の高橋先生である。
 「誰が何と言おうとこれが正論であり、事故が起こってからでは遅いのです!」と譲らない。城田はそれらの話を全て聞いた上で、PTA会長の音無宗司の家へ向かうことにした。

 次男の音無太一は城田のクラスの構成員だったので、お宅には家庭訪問で行ったことがあり、PTA会長の宗司とも一学期最初の懇親会などで顔見知り、その時はきさくで人なつっこい印象を受けたが、彼がリストラで職を失ったと聞いてからは会っておらず、内心心配をしていたところだった。
 彼の勤めていた王手電機メーカーというのは、栄枯盛衰を絵に描いたような企業で、バブル経済の時など飛ぶ鳥を落とすほどの勢いで大発展し、頻繁なテレビコマーシャルに、市街を歩けばまるでわがもの顔で肩で風を切る従業員たちの姿も多く見かけたものだ。当然定年まで勤めるつもりでいた音無だったから、異常な好景気が続くまだ子が生まれる前、迷うことなく南蛍ケ丘に立派な家を買った。が、バブル崩壊後、会社の業績はすっかり右肩下がりで、ついにはリーマンショックのあおりで大規模なリストラを行ったのだった。今では地元出身の従業員など皆無で、本社のある川崎から優秀な社員だけを送り込んでひっそりと業務を続けている。音無は石にかじりつく思いで何年間は会社にしがみついていたが、ついにこの6月、大きな家のローンを残したまま、返済の目途もたたずにリストラされた。しかもこの大不況の世の中では次の職といってもとんと見つからない。いわば彼は時代社会の犠牲者だった。
 せめてそれがPTA会長を受ける前ならまだ良かったが、会長になって調子に乗って、入学式でビル・ゲイツなど引用して「みなさんもおおいに勉強して、大金持ちになりましょう!」などと偉そうに挨拶したものだから、余計世間に顔向けができなくなった。今では引きこもりで出歩くこともなく、夫婦喧嘩が絶えない喧騒とした家庭生活を送っていた。
 城田が玄関のインターホンのボタンを押そうとしたとき、家の中から妻公子の大きなどなり声が聞こえた。
 「いいかげん仕事を見つけてきたらどうなの!お酒ばっかり飲んで!」と次に皿が割れるような音が響いた。城田はびっくりしたが、かまわずボタンを押すと、インターホンの公子はまるで別人で、貴婦人のような声で「はーい、どちら様でございますか?」と花が咲いたように言った。
 「蛍ケ丘小学校の城田です」
 「まあ城田先生?ちょっとお待ちください」と、身だしなみを整える時間を待って、ようやく玄関の扉が開く。城田はPTA会長に話があると簡潔に事情を説明すると難なく応接間に通されたが、姿を現したPTA会長は額から血を出していた。
 「ああ城田先生、どうなさいました?」
 と明るさを装ってはいたが、額の出血が気になって仕方がない。おまけにかなり酔っている。「実は」と、城田は運動会の組体操の話を熱っぽく語ったが、当の音無は聞いているのやら別のことを考えているのやら、生返事をくり返すばかりで目も虚ろ。実のところ、今月支払いの住宅ローンのことで頭がいっぱいだった。
 「で、PTA会長のお力でご協力いただける人足を、できるだけ沢山集めてほしいのですが」
 と城田は結論を述べたが、「もう一度、最初からお願いできますか?」と頼りない。同じ内容の話を同じテンションで話すことなどとうていできなかったが、「要するに保護者の皆さんに協力を呼びかければいいわけですね」とようやく趣旨が伝わったようだった。
 「で、何日までに何人集めればいいでしょう?」
 「運動会の一ケ月前には練習を始めたいので、それまでに出来る限りたくさんお願いしたいのです」
 「わかりました。さっそく通知を出します。なあに心配には及びません。ひと声かければ二、三百人くらいはすぐ集まるでしょう。それにしても千五百人はたいへんですね」
 「地域の方々の協力も得ようと思います。これから区長さんのところへ行って話してみます」
 「先生もたいへんですナ」と、他人事のような発言が気にはなったが、二、三百人≠ニいう力強い言葉を聞いて安心した城田は、PTA会長の家を出て区長に電話をかけた。

 
> (6)痴情のもつれ
(6)痴情のもつれ

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 さて区長の方は、先日行うことができなかった区の三役会をやっているということで、城田はその足で公民館へ向かった。町の一大イベントである夏の盆踊り大会を終え、これが元気な町なら秋の町内大運動会の準備をはじめるところだが、蛍ケ丘の町では高齢化とともに年々参加者が減り続け、数年前に行われた運動会ではついに三人の高齢者が熱中症で倒れて救急車で運ばれた。以来その教訓をいかして運動会のようなハードな行事は一切取りやめになっていた。だからこの時季、三役が集まって打ち合わせることといえば、秋の交通安全週間の取り組みや郡市主催の会合参加の確認程度で、他にやることがあるとすれば各クラブ活動の公民館の使用状況などをチェックするくらいだった。早々に打ち合わせが終わった区長はじめ副区長、会計の三名は、公民館据え付けの小さな台所の棚から、盆踊り大会に振る舞われた一升瓶の酒の余りを出し、湯呑で一杯やりだすのが通例なのだ。「こんな役得でもなけりゃ役員なんかやってられねえよ!」とは代々の役員達の口癖であるが、なるほどやりたくもない仕事をボランティア同然で責任だけ押し付けられるのだから彼らの気持ちも分らないでない。酒さえ出てしまえば、あとは区内の世間話や愚痴の言い合いで気分よく酔っぱらうわけだが、城田が公民館に姿を見せたのは、ちょうどそんな酒飲みが始まったところだった。
 突然の来訪者に区長が「あんたも一杯やってくかい?」と言った。
 「いいえ、僕は……。実は私、蛍ケ丘小学校6学年、学年主任をやっております城田といいますが、実は折りいって皆さんにお願いがあって参りました」
 「学校の先生?はて、どんなご用件で?」と、区長は余った座布団を裏返して彼を招き入れた。
 「実は小学校の運動会のことなんですが―――」と、城田はここでも熱っぽく語り出した。何回も話していると話も分りやすく、説得力も増してくるものだ。区の三役たちは、そんな彼の情熱にほだされながら、徐々に胸を熱くしていった。
 「先生、そりゃ面白れえ!さっそくSTB(信州・テレビ・ブロードキャスティング)に連絡して、取材をしてもらいなよ!ほら、うちの美人アナ、周防さんに頼んでさア」と区長は早くも乗り気だ。
 「いいですね、それは!この寂れかけた蛍ケ丘に、スポットを当ててもらいましょうよ!」と副区長も心躍らせた様子で手を叩いた。
 「でも、肝心の子供達はどうなんだい?やる気になってんのかい?」と高鳴る心を少し抑えて区長。
 「それはもちろん!先生方よりむしろ子供達の方がやる気です!ギネスブックに載ろうなんて言う子もいまして!」
 「そうかい!町のかわいい子供達がやろうって言ってんじゃ、大人たちが反対する理由なんてなかろう。気持ちよく協力させていただきやしょう」と、区長は頼もしい男気のある科白を口にした。
 「で、十段円塔っていったら、区の方ではいったい何人集めればいいんだい?」と副区長。
 「PTAの方で二、三百人確保できそうなので、町からは残りの千数百人ほど」
 「せ、先生、ちょっと待ってくんない」
 区長に呼応するように「そうですよ」と、そこへはじめて会計が口をはさんだ。会計が言うには、この町の世帯数が約三千、そのうちの約3割が一人暮らしの老人というのが実態で、内、若い世帯はPTAとも重複しているのでそれをはぶいたらとても千人なんて集まらないと言うのである。言われてみればその通りで、城田は希望を失った。場の空気はすっかり冷静になってしまい、千五百人もの人足集めはとても無理と判断した区長は、
 「だいたい先生、学校のお願いを区にもちかけるのに、校長先生は何してんだい?ふつう校長が頭を下げに来るのが筋じゃないかい?」と、先ほど賛同した時とは正反対の態度で城田を攻めた。
 「校長にはまだ話してないもんで……」
 「そりゃあんた、出直して来た方がイイナ」
 区長は高笑いして「まあ、せっかく来たんだ、一杯飲んでいきない」と湯呑の酒を勧めたが、城田は肩を落としてそのまま公会堂を後にした。

 「あと千二百人か……」
 城田は途方もない数字に頭を抱えながら、すっかり暗くなった夜道を歩いた。その足取りは重く、公会堂から住宅街を網目のように交差する小路を使えば学校へはすぐのところを、気が付けば町の中央を横断する大通りに出ていた。そこではじめて道を間違えたことに気づき左に曲がる。すると、大通りをてくてく学校へ向かう城田の視線に、明るい「ホット・モット」の看板の光があった。腹が減っていることにようやく気付いた彼は、夕飯はまた弁当で済まそうと考えて、その光に吸い込まれるように店の入り口をくぐった。そしていつもの如く、
 「唐揚げ弁当ひとつ」
 と厨房で作業をする春子に言った。
 するとどうしたことか、城田の姿をとらえた春子は、ひどくうろたえたように注文レジの窓口に小走りに駆けよると、
 「城田先生、今日あなた、希に何を言ったの?」
 と喰いつくような強い口調で問いかけた。
 「え?何も言ってませんが」
 春子は2階の気配を気にしながら、
 「今日、希、円塔のてっぺんをやらなきゃいけなくなったって、ひどく落ち込んで学校から帰って来たの!いったい何を言ったの?」
 と、同じ言葉を繰り返した。
 「ああ、桜田先生が話してくれたんですね」
 城田は今日の自分の提案が、順調に進んでいることにほっとしたが、それとは真逆に春子は鬼のように憤った様子であった。加えて、
 「いったいどういうこと!」
 と、泣きそうな目で城田の腕を掴んで何度も揺すった。その揺すり方が尋常でない。死人を目覚めさせようとしているかのように、あるいは恋人の浮気相手を白状させるかのように、あるいは悪事を働いた我が子を戒めるかのように、激しくテーブルの上に相手の腕を叩きつけているかのようだ。そして、
 「まさか、十段円塔をやるつもりなの?」
 春子は観念したようにつぶやいた。
 「そうですよ」と、城田の声は果てしなく涼やかだった。
 「バカッ!」とでも言いたげな春子は、話し声が2階の希に聞かれてはまずいと思ったのか、突然そのまま城田の腕を引っ張って、店外の2階の窓から死角になる暗がりに連れ出して、
 「お願いだから、希を巻き込むのはやめて頂戴!」
 と小さな叫び声をあげた。その目にあふれんばかりの涙がたまっていた。これはいったいどうしたことか?その勢いに押されて、
 「春子先生……」と、城田は一瞬たじろいだが、一転、
 「やめませんよ」
 と自分を取り戻してキッパリそう答えた。春子は諦めが悪い駄々っ子のように、「お願いだから」と何度もすがっていたが、突然、城田が稲妻のように叫んだ。
 「貴方はいつまで立ち止まっているの!」
 その口調は厳しくもあり、慈愛に満ちてもいた。春子はワンと泣き出した。
 「兵悟先生に私の気持ちなんか分らないじゃない!」
 苗字でなく確かに彼女は下の名を呼んだ。そして春子は店の中に駆け込んだ。「もう二度と店に来ないで!」と言い残して。

 その一部始終を覗き見する悪意があった。クック・モットの向かい、日の出食堂の原田夫妻である。ライバル店の客の出入りがいつも気になって、こうしてたまに立地調査でもするかのように出入りの客を観察しているのだ。だからたまに城田先生が弁当を買って帰ることも知っていたし、ここ数日は毎日のようにクック・モットに入っていくのを目撃していたのである。今日も店の二階のカーテンの隙間から、原田夫妻はじっと二人の行動を見ていたが、もちろん会話の内容までは聞こえない。
 「あの二人、ひょっとしてできてんじゃねえか?」と、電気を消した部屋の中で店主の友則が言った。
 「まさかア―――城田先生に限って」と妻の良美は懐疑的だ。夫妻の視線の先に目を移せば、城田と春子は建物の陰に身をひそめて話をしているようだが、日の出食堂の2階からは丸見えなのだ。友則は言葉を続けた。
 「だってよ、城田先生うちの萌の担任だろ?それが毎日のように紅矢んとこで弁当を買って帰るなんて不自然じゃねえか。ふつう教え子の親が店やってんだから、十回に一回くらいは義理でもうちでめし食うってもんだろ。ありゃ絶対あやしい!」
 「いわれてみれば城田先生独身だしねエ。向かいの紅矢さんも一人身だものね?」
 「そうだろ―――?」
 と言っているうちに、闇の中の二人の動きが急展開する。
 「……ほれ、見ろよ。ありゃチューするぞ……、よしっ、いけっ、いけっ―――あれっ?―――あちゃあ!城田先生、紅矢を泣かしちまったぜ。―――あれは完全に痴情のもつれだナ」
 二人は面白がって、春子が店に飛び込み、城田が淋しそうに立ち去るところまでをくまなく見つめた。そして、
 「こりゃ校長の耳に入れておいた方がいいかもなあ」と友則が呟くと、
 「やめておきなよ。男女の関係なんだからほっとけば」と、良美はママさん仲間の会話を盛り上げるとっておきのイイ情報を得たことに満足していた。

 
> (7)ハプニング
(7)ハプニング

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 小学校6年ともなれば異性に関心を持つもので、城田のクラス6年愛組でも、誰々が誰さんを好きだとか、誰さんが誰々を嫌いだとか、休み時間といえば特に女子の間でそんな話題に花が咲く。ちょうど給食の時間だった。当番の原田萌が、音無太一の器にだけ人一倍多くのカレーを盛りつけた。カレーはみんなの大好物なのだ。それに気付いた水島友太は、
 「お前、太一のことが好きなんだろ!」
 と茶化したのがきっかけで、赤組の応援団長を務めるほどだから、かなり気の強い萌はカッと怒って「バッカじゃないの!」と怒鳴った。改めて記しておくと、萌は日の出食堂原田の長女、友太はチェーン店クック・モットのオーナー水島の長男、いわば因縁のこの二人に、音無太一はPTA会長の次男であるから、何かしらの問題を持つ親の子が、城田のクラスに顔をそろえているわけだ。
 「音無君はカレーが好きだからたくさん盛ってあげたんじゃない!いけないの!」
 萌は父親が客にサービスする姿を小さい頃から見ていたので、配膳の際、クラスメイトの好物を多目に盛るのは当然のことのように考えていた。それにしても今日は盛りすぎた。友太に盛り付けられた量と比較しても優に3倍以上の差があった。友太はそれが気に入らなかったようで、「いけない〜!」と言った後、萌をまつりあげて「たーいーち、たーいーち!」と手を叩いて拍子をとって、他の男子を巻き込み太一コール≠フ大合唱を引き起こした。もともと友太は大金持ちの息子とあって、陰ではドラえもんのスネ夫≠ニ言われながらも、クラスの中では一目置かれた存在だったから、彼に逆らう男子などない。一方、萌に味方する女子達は悲鳴のような「やめなさいよ!」を繰り返し、その間、当の音無太一は自分の席で小さくなって顔を真っ赤に染めていた。
 「もう!あったまきた!ちょっと廊下に出なさいよ!」
 ついに萌がキレて友太を廊下に連れ出した。二人を取り巻いて愛組児童は拍手喝采の大騒ぎ。そんな場面でこっそり抜け出して、職員室の担任に報告に行く者が必ずいるもので、それはたいてい小柄な女子と、メガネをかけていそうな女子の仲良し二人組だった。殴り合いの喧嘩になる寸でのところで、
 「お前たち!なにやってんだ!」
 と担任城田が現れて、ようやく事態は収まった。こんなふうに悪い子たちではないのだが、この学級にはちょっとガサツな面があり、教師は子ども達の最大の教育環境である≠ニはよく言ったもので、逆に言えば6年愛組は城田の人格の投影だった。
 もともと萌と友太とは低学年の頃から馬が合わないという話を、今年この学校6年目になる保健の先生から聞かされていた城田は、毎年学年主任を務める担任のクラスから選出することになっていた運動会の赤組、白組の応援団長を決める際も、そのあたりを配慮したつもりなのである。つまり、赤組の応援団長に原田萌が決まり、その後、白組の応援団長選出の際すごい勢いで友太が立候補したのを見て、「こりゃ運動会が修羅場になる」と判断した城田は、比較的おとなしい音無太一に光を当てる意味も含めて、「太一君のお父さんはPTA会長をやっているから、いいところを見せてあげたらどうか?」と教師の権威を行使して決めたものだった。そうして友太は白組の副応援団長に納まるが、応援合戦の練習など見ていると、白組の方は団長よりも副応援団長の方が声が大きく、まるで「赤組応援団長は引っ込め!」と言わんばかりの激しい怒鳴り声をあげるのだ。一方赤組の萌も負けじと叫ぶが、その恨みに似た感情の矛先は、白組というより友太に向けたものであることは内情を知る者には一目瞭然だった。勇ましさだけを見るならまさに満点のパフォーマンスだが、それは教育の領域から大きく逸していた。城田はクラスが抱えるそんな問題にも頭を悩ませながら、お昼休みになると体育館へ向かった。
 実はこの日から4年生の組体操出場メンバーの四人を集めて、昼休みに練習することになっていた。城田は先日の春子の形相を思い起こしながら、「希ちゃんは来てくれるだろうか?」と心配だったが、いざ体育館に来てみれば、運動着に着替えた四人は、瑠璃を中心に桜田先生も交えて、とても良い雰囲気を作ってくれていた。城田は桜田に一礼すると、希に向かって、
 「お母さんから何か言われなかった?」
 と聞いた。すると希は不思議そうな顔をして、「いいえ、別に。何も言ってませんでした」と答えた。どうやら春子は城田に当たっただけで、娘には何も話していないようだった。それもまた不思議なことで、普通の親なら学校に来て「やめさせるように」と直談判してもおかしくないところだ。とりあえず城田は、ほっと胸をなでおろした。

 ちょうどその頃、6年敬組の高橋一郎先生が校長室の扉をノックした。
 「はい、どうぞ」と中の烏山周一校長はいつも上機嫌である。「ああ高橋先生、どうなさいました?」と、接客用のソファに招いて、コーヒーに目のない自分は、校長机の上の熱いキリマンジャロをズズッとすすって、「いやあ、実にこのキリマンジャロコーヒーというのはいいですね。アフリカの雄大なキリマンジャロの山麓に群れる、キリンやシマウマ、そしてフラミンゴたちのシルエットが目に浮かんでくるようです。あなたもいかがですか?」と、給食後の一杯のコーヒーがなによりの楽しみなのだ。
 「実は城田先生のことなんですが……」
 「城田先生がどうかしましたか?」と校長はコーヒーカップにメーカーの苦いコーヒーを注いで高橋の前に差し出すと、その向かいに「よいしょ」と腰をおろした。高橋は話を続けた。
 「運動会で取り組む5、6年種目の組体操で、十段円塔をやろうなどと言い出しまして、実は非常に困っておりまして……」
 「十段円塔……?そりゃまた大層な挑戦ですねエ」
 「いや校長、笑いごとではありません。その挑戦にどれほどの危険が伴うかお考えください。まともに立ったとしたらその高さは十数メートルに及びます。万が一落ちたりでもしたら、城田先生ひとりが責任を負うだけでは済まされません。学校の責任問題はもちろん、教育長や市にも迷惑をかけることになるでしょう。ここは校長の方から諦めるよう申していただかないと……」
 「本当に十段円塔なんてできるのですか?城田先生はともかく子ども達は何て言ってるのでしょうか?」
 「……それが、困ったことにやりたいと……」
 「ほう!」と、校長はさも嬉しそうだった。
 「でも、人数が足りないんじゃありませんか?」
 「おっしゃるとおりなんですが、なんでも城田先生は、PTAや地域の区長まで巻き込んで人数を集めると言っておりまして、もし集まりでもしたらえらいことになります」
 「いったい何人集めようとしているのですか?」
 「確か千五百数十人とか……」
 校長は愉快そうに高笑いしながら、「集まるわけがないじゃありませんか!だいたい毎年の運動会のギャラリーを見たってせいぜい二、三百人くらいじゃないですか」と言った後、「高橋先生は集まるとでもお思いですか?」と聞いた。
 「いやあ、それは……」
 実は高橋も無理だと考えている。しかし万一のことを想定した上での今日の相談なのである。校長の話は続いた。
 「ならば暫く様子を見ようじゃありませんか。せっかくその気になった子供たちのやる気≠、頭ごなしに挫くのはどうかと思います。私はね、こう思うんです。理想も大事ですが現実も大事。人生には夢が必要ですが挫折することの方が多い。それを学ぶことも教育ではないかと。でもね、何かに夢中になるってことは素晴らしいじゃありませんか!本気になって取り組んで、現実の壁にぶつかって挫折して……。大切なのはそうなったとき、どうするか?ではないですか?それを学び学ばせるのが教育≠カゃありませんかネ?生きる力≠ニはまさにそのことですよ!」
 高橋は納得しかねたが、校長にそう言われては何も答えることができなかった。

 一方、体育館の四人の4年生は、十段円塔の一番てっぺん、九段目、十段目の二段の円塔づくりの練習である。こうして代表の四人を並べてみると、明らかに希の身長が一番低く体重も軽そうで、後の三人は似たりよったりだが、瑠璃がわずかに一回り大きく見えた。事実、希の体格は早生まれということもあるのだろうが、全国の小学2年生の平均に近く、頂上の一人を演じるにはうってつけだったろう。
 城田はまず、ボール遊びに夢中の児童たちを端の方で遊ぶよう移動させると、体育館の中央に厚手のマットを二枚重ねで広げた。そして、マットの上に三人を肩を組んでしゃがみ込ませ、呼吸を合わせてそのままの態勢でゆっくり立ち上がるという練習を始めた。マットの弾力で足元が不安定な様子だったが、何回かやるうちに次第に慣れて、城田は脇で見ている希に、「いいかい?三人の肩の上に乗っかり、三人が完全に立った後、バランスをとりながらゆっくり立ち上がるんだ」という概要を説明すると、
 「じゃあ、ちょっとやってみようか?」ということになり、城田は希を抱き上げて、三人の肩の上にしゃがませた。マットの脇では桜田先生が、何度も「ガンバッテ!」と言っていた。少し不安定ではあったが、「ようし!そのままゆっくり立ってみろ」と、城田は下の三人を立ち上がらせようとした―――その時、
 案の定バランスを崩して希がマットの上に転げ落ちた。ところが、
 「いたい!」
 と言ったのは希ではなかった。気付くと瑠璃が顔をおえてうずくまっているではないか。
 「瑠璃ちゃん!だいじょうぶ!」
 と駆け寄ったのは桜田で、彼女のおさえる右手をゆっくりのけると、頬にかすかな血が滲んでいる。どうやら落ちるとき、希の裸足の足の爪が瑠璃の頬をかすったものらしい。ビックリしたのは希の方で、「瑠璃ちゃん、ごめんね!」と何度も言いながら、罪悪感から涙を流してしまった。
 こんなことがありこの日の練習は中断されて、瑠璃は保健室に連れられた。
 
> (8)ローカル局の美人アナウンサー
(8)ローカル局の美人アナウンサー

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 「ほら見い、言わんこっちゃない!」
 とは同じ6学年担任の高橋先生。口には出さないが、心配そうな憐みの表情で城田を攻めていた。6学年の担任がデスクを並べる窓際、信組の八木先生も「大丈夫でしたか?」と、心配そうに聞いてきた。
 「ご心配をおかけしましたが、ただの擦り傷です。二、三日もすれば治るでしょう」と、城田はさほど気にする様子もなく、子供達の国語の漢字ノートに目を通していた。
 「一応、校長には十段円塔の件は話しておきましたから」と高橋が言った。城田は驚いたように、
 「で、校長先生はなんて?」
 「暫く様子を見ましょう―――ですと」と、高橋はあきれ顔で言った。校長も高橋先生と同じ考えを示すと思っていた城田は、ほっと胸をなでおろした。
 「まあ、ピラミッドに切り替えるのでしたら、できるだけ早い判断をお願いしますよ。子供達を説得するにも時間がかかりそうですから」
 と、やがて高橋は席を立ってしまうが、そんな険悪感の残る雰囲気を感じたのが昨日、子供が帰った後の職員室での出来事だった。
 そんな空気を引き継いだまま朝を迎えたが、朝の職員会の最中、突然職員室の入り口の扉がガラリと開いたかと思うと、いかにもファッションセンスの優れた、三〇代くらいの美しい女性が姿を現した。皆、どこかで見たことがある人だな?と思っていると、
 「桜田先生はいらっしゃるかしら?」
 と、これまた高飛車な口調で、まるでパリコレのモデルのような足取りで、打ち合わせ中の職員室内に入り込んできた。ある者はすぐに分かった。彼女が『信州テレビ放送(STB)』の女性アナウンサーであることが。呼ばれた桜田愛先生はスクッと立ち上がり、
 「瑠璃ちゃんのお母さん―――」
 と口走った。そう、彼女こそ地元蛍ケ丘が生んだ唯一の有名人、周防美沙江その人だった。
 「ちょっとお話があるんですけど、よろしいかしら?」
 と、刺々しい口調で桜田の正面に寄って立つと、ガムをくちゃくちゃやりながら、桜田の頭のてっぺんからつま先までゆっくり目線を流してからじろりと両目を見つめた。桜田は蛇に睨まれた蛙のように怯えた。四月の家庭訪問の時に受けた印象とはまるで別人だったからだ。驚いたのは桜田だけでない。テレビで見かけるニュースキャスターとしての彼女は、明るく爽やかでなおかつ美しく、あわよくば天使の印象さえ与えていたからだ。職員室の空気はテレビの彼女を知る女性教諭たちの驚愕と、男性教諭たちの失望で一変していた。
 「これはこれは、どこの美人が訪れたかと思えば周防瑠璃さんのお母さん!ようこそ学校へ!」
 と、立ち上がったのはさすが烏山校長だった。
 「申し訳ありませんが今は朝の職員会議の最中ですので、十分ほど校長室でお待ちいただけませんか?終りましたらすぐに桜田先生と一緒に参りますので」
 と、赤子をあやすようにあしらうと、事務の女性職員に接待を任せて、職員会の続きを始めた。

 「いやあ、申し訳ありませんでした。朝は何かとゴタゴタしておりまして」と、桜田と一緒に校長室に戻った烏山は、ソファで足を組み、挽きたてのコーヒーを優雅に飲んでいる周防美沙江の姿をとらえた。相変わらず高慢な態度の美沙江は、
 「こちらこそ突然おしかけて申し訳ございませんでした」と社交事例のように言ったと思うと、「私も忙しくてあまり時間がありませんの」と付け加えた。
 「さて、お話とはどのようなことでしょう?」
 美沙江の向かいのソファに腰を下ろしながら、烏山は隣に桜田を座らせた。
 「桜田先生、いったいどういうことでしょう?」
 美沙江はいきなりこう言うと、まるで桜田を仇のような目で睨んだ。昨日の怪我の事だなと既に察しがついていた桜田は、
 「申し訳ございません!組体操の練習中に、瑠璃さんに怪我をさせてしまいました」と、その時の状況を詳しく説明しはじめたが、
 「それは娘から聞きました。そんなことを聞いているんじゃありませんの。どうしてくれるのか?と聞いているんですの!」
 桜田は何も答えられず黙ってしまった。
 「明日、瑠璃、雑誌の写真撮影が入っておりますの。なのにあんな顔じゃ撮影どころじゃありませんわ。仕事に穴を開けるわけにもいきませんし、かといってあんな白いガーゼをつけて撮るわけにもいきません。いいですか?モデルは顔が命なんです!」
 「それじゃお母さん、絆創膏を貼って撮影されたらいかがですか?いかにも元気な女の子らしくて、キュートでとても可愛らしいじゃありませんか」
 様々な場面で機智にとんだ機転を利かす烏山校長だが、たまに口を滑らせるのが玉に傷なのだ。
 「校長先生まで御冗談を……。いまの発言、問題にしてよろしいでしょうか?」
 途端、校長も咳払いをして黙ってしまった。
 そこへ、トントンと校長室の扉が鳴って、「失礼します!」と城田が入ってきた。
 「どなた?」と、美沙江は不審そうに見つめた。
 「私、6年愛組担任の城田兵悟といいます。実は運動会の組体操に4年生から助っ人を借りようと言ったのは私でして、瑠璃さんに怪我をさせてしまったのも僕なんです。桜田先生はただ見ていただけで、ですので代わりにお話を聞こうと……。なあに心配いりませんよ、あんな傷。ツバでもつけておけば二、三日で治りますから」
 「ツバ?まあ下品ですこと!まさか、瑠璃が怪我したとき、そんな非衛生的な処置をとったんじゃないでしょうね!」
 と、この二人、根本的な価値観が違う。
 「ちょうど良かったわ、先生にもお願いがありましてよ」
 城田は神妙な顔つきで近くのパイプイスを広げて桜田の隣に座った。
 「なんでも十段円塔に挑戦なさるそうですね」
 城田はその形相から「うちの子にそんな危険な真似をさせるわけにはいきません!」という断りの言葉を覚悟した。美沙江は話を続けた。
 「それで同じ桜田先生のクラスの紅矢希さん?彼女が一番上をやるとかで。間違いございませんか?」
 「はい、おっしゃる通りです」
 その言葉を確認すると、美沙江は少しためらった後、
 「どうしてうちの娘が一番上ではないんでしょう?」
 と言った。城田はじめ桜田も烏山も、一瞬耳を疑った。
 「ど、どうしてと申しますと……?」
 「うちの娘、何でも一番が好きなんです。二段目じゃやりたくないと申しておりまして。親バカと思われるかも知れませんが、一番上は、やはり一番カワイイ子がやった方がいいと私も思いますのよ。いや別に紅矢希さん?が可愛くないと言っているわけではありませんの。うちの娘は東京の方のいろんな雑誌にも載っておりますし、華がある子の方が相応しいんじゃないかって。で、娘にも話したのですが、もし、一番上を任せていただけるなら、STBのプロデューサーに相談して特番を組んでもらおうかって。瑠璃が申しますには、それで怪我のことも水に流すと言っておりますの。いかがでしょう?」
 そう言われてもすぐに返答などできなかった。美沙江にとってはSTBという後ろ盾が切り札で、蛍ケ丘小学校のテレビ報道ができれば、学校や町にとってもプラスのイメージを印象づけることができると考えていた。なによりテレビ放映は、娘の売り込みをするには最高の手段なのである。ところが学校サイドというのは、そういった商業感覚にはまったく無頓着でピンときていない。校長にしてみれば千五百人もの人を集めること自体無理だと思っていたし、桜田にしてみれば希の意見も聞かずに勝手に決めるわけにいかなかったし、また城田にしてみれば身体の小さい希が下で支えるなどできないと直感していた。ここでも根本的な価値観のズレがあったが、両者はそんなことには気づいていない。
 「お母さん、その返答はもう少し待っていただけませんか?」と校長が笑みを込めて言った。
 「なぜですの?」
 「実はまだ、十段円塔をやると決まったわけではないのです」と、校長の口調はとても穏やかだった。
 「はあア?では、うちの娘は、まだやるとも決まっていない組体操の練習をやって、怪我をしたということですか?」
 「十段円塔はやります!ただ、まだ人数が集まっていないだけで」と、すかさず城田がカバーした。
 「ただ、5、6年生だけでは人数が足りません。今、PTAや地元自治体に協力を要請しているところで、それに、技術的にも円塔の力のバランスや位置関係の問題もあります。ですのでその件はもう少し考えさせてください」と、城田は彼自身が抱えている現状をそのまま伝えた。
 「つまりまずは人数ですね」と、美沙江はようやく納得したようにコーヒーを飲んだ。
 「わかりました。私もこんな仕事をしておりますから、けっこうファンも多いんです。知り合いを当たって人数集めにご協力させていただきます」と、和解の方向が見えた。彼女が動けば千人などすぐに集まりそうに思えた。慌てた校長が「ちょっと待って……」と言うより早く、「ありがとうございます!」と城田が叫んでいた。こうして今日のところは、ひとまずモンスターは去って行く。
 烏山校長は、だんだん後へ引けなくなる不安と共に、最近すっかり忘れていた妙な好奇心を同時に覚えながら、周防美沙江の後姿を見送った。
 「城田先生、あのですね……」と彼を捕まえて何か言おうとした烏山だったが、その瞳にその昔、自分が持っていたものと同じ光を見出したとき、結局何も言えずに笑顔をつくることしかできなかった。
 「二人とも、さあ授業ですよ!」
 烏山はそう言うと、校長室から城田と桜田を送り出した。

 
> (9)教え子
(9)教え子
 
> (10)親友
(10)親友
 
> (11)世直し同盟『悶巣蛇亜』
(11)世直し同盟『悶巣蛇亜』
 
> (12)蛍の文
(12)蛍の文
 
> (13)ガラス細工の関係
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> (14)不思議な老人
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> (15)小さな思い
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> (16)事件というべき事故
(16)事件というべき事故
 
> (17)時間切れ
(17)時間切れ

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 いよいよ約束の期日が訪れた。
 城田は授業に身が入らず、一日中ずっと頭を抱え込んでいた。昨日までの計算ではPTAの34名を加えても不足人数は153人。彼の人脈で協力が得られた友人も8人足らずで、どう計算してもあと145名足りない。区長の方はもう少し待ってくれと言うし、音無PTA会長との連絡もとれずじまいだった。
 放課後に行われた6年の学年会はとっくに終わっていたが、視聴覚室で行われている5年生の学年会は二日後の研究集会の打ち合わせで長引いていた。きっと研究授業におけるあらゆる場面を想定して準備を進めていると思われるが、終了後は短時間で組体操の件について、5、6年の合同学年会を行う予定だった。いわばかろうじて城田の首は皮一枚でつながっているといった状況で、それでも苦し紛れに電話をかけまくっていた。
 「城田先生、もう9時を回りましたよ。合同学年会は明日にしませんか?」
 6年敬組担任で教務主任の高橋一郎先生が他人事のように言った。隣に座る6年信組の八木先生も背伸びをしながら生欠伸をくり返す。ところが、
 「十二時までにはまだ時間がありますから!」
 と、なんとも負けず嫌いの城田なのだ。
 五年生の先生方が職員室に戻ってきたのは夜の十時を回っていた。皆疲れ切った表情で城田の周りに集まったが、「早く終わりにしてくださいね」と、安岡花子先生が心ここになしといった表情でぼやいた。
 「大丈夫ですよ、すぐに終わりますから」
 と、端から十段円塔反対の高橋先生は、協議の主導権を握ろうとそそくさと話を始めた。
 「城田先生は約束の本日までに、十段円塔の土台となる1段目、2段目、3段目を構成する目標人員1354名を集めることができなかったそうです。残念ですが時間切れとさせていただきます。というわけで、今回の十段円塔の話はなかったことになりました。これにて解散、みなさんご苦労さまでした」
 あまりにそっけない高橋先生の議事進行に、
 「ちょっと待ってください!」
 と城田が立ちあがった―――ちょうどそのとき、彼のケータイがブルルッと鳴った。
 見れば見慣れない番号で、不審に思いながらボタンを押せば、『悶巣蛇亜』坂上文一郎のドスの利いた鼻息の荒い声である。
 『師匠!やりましたぜ!この蛍の文=Aたったいま、信州中信地方一帯を治めていた松本連合の奴らを制圧いたしました!これにより我が世直し同盟須高地区『悶巣蛇亜』は、長野県の半分を統治したことになります!これもみな師匠である城田兵悟先生のおかげ。この蛍の文、頭を平にして御礼申し上げます!』
 喧嘩っ早くて気性が荒い割に、そういうところは律儀な男なのだ。
 「そりゃおめでとう」と苦笑いを浮かべながら、ふと、城田は閃いた。
 「ところで坂上君、昨日送ったメールだけど、読んでくれたかなあ?」
 『ああ十段円塔の件ですか? ご心配は無用にございます!』
 「で、その松本連合って、いったい何人くらいいるの?」
 『ざっと見て100人はおります!ああ、なるほど!こいつらにも協力させろというわけですな。了解です師匠!運動会当日はこの蛍の文、首根っこを引っ捕まえてでも連れて参りますのでお任せください!』
 なんとも話の早い男でもある。
 「あてにしていいんだね?」
 『もちろんでございます師匠!』
 城田は飛び上がりたい気持ちを抑えて「あと50人」と言いながら電話を切った。ところがその勢いを挫くように高橋先生が口調を荒げた。
 「どっちにしろ足りないのでしょう? タイムオーバーですよ。城田先生、往生際が悪いなあ」
 とそこへ今度は学校の電話がピロロロロッと鳴った。受話器を取ったのは6年信組の八木先生。
 「もしもし蛍ヶ丘小学校ですが……、はい、はい、はい? え? もう一度お願いします―――はい、はい?城田先生―――?」
 八木先生は受話器の会話口の方を押さえて「なんかお年寄りみたいなんですが、何を言っているのかよくわかりません。城田先生にご用のようですが……」と言って受話器を城田に渡す。
 「はい、お電話替わりました城田です」
 『おお、城田先生。老人会の池田伸兵衛じゃ』
 と、その嗄れ声は、先日区長の家で知り合ったあの老人だった。
 『こないだの十段円塔のことじゃが、302名集めましたぞ』
 城田は耳を疑った。「まさかあの老いぼれた老人にそんな力があるはずがない。仮に集めてくれたとしてもよぼよぼな老人集団では人数の足しとはいえ足手まといになるだけだ」と、軽くあしらって電話を切ろうとした。ところが詳しく聞けば、
 『わしゃ昔、教員をやっとったんじゃ』
 と言う。その時の教え子が何十人もおり、教え子の中には教員になった者が大勢いて、更にその教え子もいるので、協力が得られそうな者をピックアップして連絡を取ったところ、「先生たってのお願いなら」と302名が名乗りを挙げたのだと自慢げに話す。その伸兵衛さんを頂点とした会の名称を『伸兵衛会』というらしいが、今年も年1回の同窓会を開いてくれるのだとしゃがれた声で笑う。
 「ほ、本当ですか……」と城田はまさかの加勢に、緊張から解放されてガクリと椅子に腰を下ろした。そして「ありがとうございます」と電話に向かって深々と頭を下げると、起死回生の火の鳥のように叫んだ。
 「ご報告申し上げます! ご心配をおかけしております十段円塔にご協力いただく1354名についてですが、現在のところその内訳は次のようになっております!」
 城田はひとつ咳払いをした後、順に発表していった。
 STB周防アナウンサーからのご紹介……1037名
 島村スポーツ島村社長さんの早起き野球仲間から……50名
 PTAから……34名
 蛍ヶ丘小学校卒業生とその仲間たち(悶巣蛇亜のことだが)……180名
 そしてたった今連絡が入りました蛍ヶ丘老人会長池田伸兵衛様の教え子とそのまた教え子が協力して頂くことになりまして、その合計が……302名
 そして私の友人……8名
 「締めて……」と、城田は電卓を叩いた。
 「1619名!」
 城田は独りで拍手をして大喜び。
 「ここには区の方からの人員もまだ上がってきておりませんので、合わせましたら1700名近くになると思われます! 従いましてお約束どおり、十段円塔は継続して取り組むことになりましたのでよろしくお願いします!」
 「ちょっと待ちたまえ!」
 と高橋先生が意義を申し立てようとしたが、研究授業の打ち合わせですっかり疲れ切り、頭がウニのようになっていた5学年の先生達は、「決まったのなら仕方がないわ」と、あまり深く考えもせず帰り支度を始めてしまった。彼らにしてみれば研究集会のことで頭がいっぱいで、まだ先の運動会のことなど考えている余裕などまったくないのだ。高橋先生は憤って校長室の扉を叩いたが、すでに校長は帰宅した後で、「えらいことになってしまった」と鼻息を荒げたが、もうなすすべはなかった。

 翌朝、高橋先生は出勤早々校長室の扉を叩いた。
 「あら、校長先生でしたら今日は県の校長会で夕方まで戻られませんよ」
 と、事務の山際という若い女性職員が出勤の名札を裏返しながら教えた。高橋先生は愛想笑いで会釈をしたが、なんともおさまりがつかない。午後になり、予定より少し早く帰ってきた烏山校長を早々に捕まえて、その怒りを爆発させた。
 「校長、たいへんなことになってしまいました!城田先生が人数の頭数を揃えてしまいまして、やることになってしまったのですよ、十段円塔を!ここは校長権限で一言、厳重にやめるように言ってもらえないでしょうか?」
 烏山校長は、校長会での疲れを癒すようにソファに腰を下ろして、うまそうにコーヒーを飲んでいた。
 「高橋先生、いきなりなんですか―――ビックリするじゃありませんか」
 「ですので城田先生が1300人集めてしまったのです!」
 「ほお、城田先生もなかなかやりますねぇ。まあ、そんなに目くじらを立てないで、高橋先生もどうですか?コーヒーを一杯……」
 「校長!コーヒーなんか飲んでいる場合ではございません!十段円塔がどれだけ危険を孕んでいるかはご存知のはずです。そもそもあんなもの物理的に不可能なのです。世界でも、歴史的に見ても成功した例など一つもないのですから!このまま続ければ子ども達に怪我を負わせることは火を見るより明らかなのです。即刻やめさせて下さい!」
 その言葉は非常に荒っぽくはあったが、裏を返せば高橋先生の子ども達に対する愛情でもあった。烏山校長は、コーヒーをまた一口飲むと、
 「分かりました。放課後、私からやめるように彼に話しましょう。しかし、何て言えば良いでしょうかねぇ……、城田先生も子ども達も納得させることができる魔法の言葉―――高橋先生、何か知りませんか?」
 「理由など有無を言わさず危険だ≠フ一言で十分ではありませんか。学校は、親御さん達から大切な子どもをお預かりしているのです。危険なことが分かっていてやらせるなど、もはや教育の領域を逸しています。それ以外の言葉などありません!」
 「そうでしょうかねぇ……?」
 「どうかくれぐれもよろしくお願いしますヨ!」
 高橋先生は念を押し、少し安心した心持ちで校長室を出たが、それでもまだ心配だった。
 烏山校長はコーヒーカップを持ったまま立ち上がると、窓際から校庭でリズムダンスの練習をしている2年生の様子を眺めながら「ほれ、がんばれ、がんばれ」と、優しく微笑みながら呟いた。

 五、六年生の6時間目の授業は体育で、体育館での組体操の合同練習だった。
 これまで4段目の98人の肩の上に5段目の48人が乗って2段を作る練習と、6段目の24人の上に7段目の12人、その上に8段目の6人が乗って3段を作る練習とを分けて行い、なんとか目標を達成できるようになっていた。なので第二段階として、新しく5段目の48人の上に6段目の24人が乗って2段を作る練習を始めることにした。ところがそこで問題が起こった。
 「おい、グラグラすんなよ!立てねえよ!」
 と、5年生の男の子がマットの上に転落して、6年生に向って怒鳴った。と次の瞬間、
 「水島君がいけないのよ!そんなにくっつかないでよ、キモイから!」
 「なに言ってんだ!くっつかなくちゃ上の足場が作れねえじゃねえか!」
 と、原田萌と水島友太の例の二人の喧嘩がはじまった。
 「おい、なにやってんだ!」と城田が止めに入って訳を聞けば、萌と友太の呼吸が全く合わず、上に立つ5年生の足場がグラグラして立てないのだと言う。すると別の女の子が、
 「先生、水島君と音無君を入れ換えたらいいと思います」
 と提案した。
 「どうしてだ?」と聞くと、
 「原田さんは音無君とならうまくやれると思うからです」と答える。
 城田は「なるほど子どもにしか見えない人間関係もあるだろう」と思い、ひとまず換えてみることにした。ところが肩を組んで並べてみると、音無のところで段差が際立ってしまう。その上に6段目を立たせてみたが、立つには立つが、やはり萌と音無の部分に当たった5年生はアンバランスになって立ちにくそうだ。これではとても更にその上に人を立たせるのは危険でできないと思った。
 「やっぱり危ないや、元に戻そう」
 城田は嫌がる萌を説き伏せて、練習を続けさせた。
 今は単純に背丈の順に並べているだけだが、男子と女子の力の差や、バランス能力にも差があるので、少しずつ並び順の微調整が必要だなと感じながら練習を続けるしかなかった。
 
> (18)一髪逆転
(18)一髪逆転

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 清掃の時間の後、帰りの会が終わって子ども達と「さようなら」をした城田は、本日行った国語の単元テストの採点を終えてから職員室に戻った。するとそれを待ち構えていたように菅原政子教頭が、
 「ああ城田先生、校長先生がお呼びです。校長室へどうぞ」
 と言った。城田は首を傾げたが、言われるまま校長室の扉を叩いた。
 「ああ城田先生どうぞどうそ」と、いつものようにニコニコ顔の烏山校長は、手招きで彼をソファに座らせた。
 「コーヒーでいいですか?もっともコーヒーしかありませんが」
 校長は自らカップにコーヒーを注ぐと城田の前に置き、その対面に腰をおろした。
 「実はさきほど高橋先生が私のところに来ましてね、あなた、十段円塔の1300人の協力者を集めたそうですね。いやぁ、たいしたものです、なかなかできるもんじゃありません」
 校長の言葉に、城田は「やはりそのことか」と、嫌な予感を感じながら烏山を見つめた。
 「その情熱は高く評価しますが、人数を集めたからといって成功する保障などありません。どうでしょう、今日は城田先生がそこまで十段円塔にこだわる理由を、ひとつ教えてはもらえませんか?なぜそんなに十段円塔を立てたいのかを?」
 城田は少し考えた後、校長から目をそらして、
 「そこに山があるからです」
 と、ぼそっと答えた。
 「子ども達は登山家ではありませんよ」
 「でも挑戦者です」
 「その挑戦はあなたがふっかけたものではありませんか?」
 「私が縁となったかもしれませんが、子ども達は自分たちの意思で、すでに頂上めざして山を登り始めました―――」
 そのとき校長室のドアがコンコンとノックされると、心配そうな表情で「同席してもよろしいですか?」と、高橋先生が姿を現した。烏山は「どうぞ」と言って自分の横に座らせた。よほど気になっているとみえる。校長はかまわず続けた。
 「子ども達のことは分かりました。でもそれは、あなたの本心ではありませんね?」
 城田は校長に秘め事は通用しないと観念し、先日夢で見たあの悪夢の出来事を話しはじめた。
 「十一年前、私には友人がおりました。大悟という名の、同じ教育に携わっていた無二の親友です―――」
 そして彼との出会い、教師となってからの再会、一緒に教育を語り合った日々、そして彼が十段円塔に挑戦したこと、そして今はもういないこと―――、話すうちに城田の両目からとめどなく涙がこぼれ出した。
 「確か十年くらい前でしたね。県内の小学校で―――組体操の練習中、大きな事故が起きたことは私も知っています。でもそれが十段円塔を立てようとしてた時の事故だったなんて知りませんでした。そうでしたか―――その指導をしていたのが城田先生のお友達だったのですね……」
 烏山は同情の涙を潤ませて、つぶやくようにそう言った。城田は続けた。
 「あの事故は、私にも大きな責任があるのです。危険と分かっていながら彼をとめられなかった―――」
 「それならなぜ? しかも今になって急に―――?」
 今度は高橋先生が口を挟んだ。
 「ぼくにも分かりません……」
 と、城田は嘘をついた。そこに春子との再会があったことはどうしても言えなかった。
 「要するに弔い合戦というわけですね―――」
 高橋先生は納得したようにソファに背を横たえた。しばらくは無言の時間が経過したが、やがて烏山校長は意を決して校長判断を下した。
 「城田先生、思いはよく分かりました。しかし失敗のリスクの方が高い危険なことを、学校として認めるわけにはいきません。わかって頂けますね?」
 「失敗はしません!」
 城田は怒声を発して膝を叩いた。
 「なぜそんなことが言えるのですか!」
 いい加減堪忍袋の緒が切れた高橋先生も怒鳴り返した。話の内容から烏山校長も、城田が自分の我≠フために教育の現場を利用していると判断するしかなかった。
 「城田先生!あなたがそこまで言う、十段円塔を成功させる自信の根拠はいったい何ですか?」
 そんなものはあるはずがなかった。しかし城田は、
 「空で大悟が見守っているからです!」
 と、それは間髪を入れぬ即答だった。
 烏山校長は「はっ!」として、目の前のコーヒーが冷めていくのを見るともなしに見つめた。長年教育の現場に従事し、培ってきた己の教育理念の根幹に、何か大切なものを忘れていたことを気付かされた気がしたのである。彼は教育技術も身に着け要領も覚え、あらゆる場面でどう対処すれば良いかも知っていた。しかしそれは、体験から得た知恵と、溢れる情報から抽出した知識と、人類が信じてやまない科学絶対思想と人類が経験から学んだ規範の上に成り立つ社会の常識をベースにしていた。しかしかつて人間は、目に見えない超自然的なものと常に隣り合わせにいたはずなのだ。ところが目に見えない超自然的なものは、これまで教育を論ずる上であまり対象にされてこなかった現実が確かにあると思った。もちろん目に見えないものの中には道徳とか心といったものもあるが、それはあくまで人間関係における領域で、その人間自体を取り巻いている見えないもの、そう、宗教的なるもの≠ヨの畏敬と畏怖の念の欠落こそ、今の教育に最も欠けていることではないか―――と、烏山は思った。宗教的なるもの≠捨てた現代の日本人は傲慢になり過ぎた。そのあげく、自然を破壊し、戦争をくり返し、災害を生んできたのだ。城田が「死んだ人間が見守っている」と言ったその心は、宗教的なるものへの畏敬であり、まさに教育者として不可欠な資質ではないか―――と気付いたのだった。
 だが烏山はすぐに自分の考えを撤回した。ならばなにも十段円塔をもって実現しようとしなくとも、他の教育単元でも様々に方法はあるはずだ。烏山がそれを口にする前に、高橋先生が厳しい口調でつっぱねた。
 「君もわからない人だねえ!死んだ人間がどうやって守ってくれるというのだい?要は怪我人が出た時の責任の問題なんだよ。君が教師を辞めたくらいじゃおさまりがつかないのだよ!」
 「だから失敗はしません!」
 「まあまあ、お二人とも―――。すっかりコーヒーが冷めてしまいましたよ……」
 校長は立ち上がってコーヒーを入れ直した。
 「城田先生、あなたもご存知と思いますが、今の学校は様々な制限に縛られてがんじがらめです。文部科学省からはああしなさい、こうしなさいと通達が来るし、県や郡市からは様々な要請や調査依頼や注意事項が舞い込む。先生方はそれらをこなすだけでめいっぱいでしょ?そのうえ親御さんたちからはうちの子がああだこうだと文句を言われ、それでいて、ひとたび問題が起こったが最後、マスコミが寄ってたかって騒ぎ立てる。教育現場は逃げ場のないまるで地獄です。悲しい話ですが、私達教師の理想なんてそれらの前にはまるで無力だとは思いませんか。それが現実です―――」
 「が、しかし―――!」と言った城田を押さえ込んで、烏山は大声を挙げた。
 「しかしもかしこもありません!これは校長命令です!」
 そんな激しい言葉を発した校長は、かつて誰も見たことがない。城田は悔し涙をこらえて奥歯を噛んだ。
 無言の校長室に、グランドで遊ぶ子ども達の声が聞こえる。やがて、
 「話しは終わりましたね。私はこれで……」
 と高橋先生は校長室を出て行った。しかし城田は、まるで銅像にでもなってしまったかのように全く動かなかった。
 「まっ、そんなに気を落とさないで―――コーヒーでも飲んで……」
 烏山はソファを立つとデスクに座り、自分の業務を始めた。城田はずっと動かなかった。
 しばらくして、
 「ああ、もう始まっていますね」
 と、烏山校長は独り言のように言って校長室のテレビをつけた。
 「STBニュース―――うちの美人アナウンサーが登場しますよ。時間が空いた時たまに見るのです。実は私ねえ、周防さんの隠れファンなんですよ。一緒に彼女を説得する言葉でも考えましょう―――」
 と言った時である。
 『では次のニュースです』
 周防アナの美声と同時に、まるでフリーズでもしてしまったかのように校長の動きが止まった。
 『いよいよ運動会シーズンですね。須坂市の蛍ヶ丘小学校では、五、六年生の児童が中心となって組体操の練習が始まりました』
 『組体操ですか。私も小学生の頃、一生懸命取り組んだ思い出があります』と男性アナウンサー。
 『そうですね。組体操といえば倒立やV字バランス、あるいは何段かのピラミッドを思い出す方も多いと思いますが、今年この蛍ヶ丘小学校で挑戦するのがなんと十段円塔なんです!』
 『十段円塔!? いったいどれくらいの高さになるのでしょうか?』
 『気になりますね。取材に行って来ましたのでご覧ください』
 テレビ画面には蛍ヶ丘小学校の校門が映し出された。そして画面は体育館内で練習する4年生の映像に変わった。そこへ周防アナが出て来て『円塔の頂点に立つ女の子にお話を聞いてみたいと思います』と言って瑠璃にマイクが向けられた。
 『練習はどうですか?』
 『とても楽しいです。グランドに立つ十段円塔のことを思い浮かべると胸がワクワクします』
 『てっぺんは怖くないの?』
 『まだ立ったことがないので分かりませんが、周りが見渡せてとっても気持ちがいいと思います』
 『意気込みを聞かせてください』
 『十段円塔はわたし一人ではできません。みんなが力を合わせて心を一つにしなければいけません。そのために私達は毎日練習しています。一生懸命がんばりますので、応援よろしくお願いします!』
 『先生にもお話を聞いてみましょう。まだ世界でも成功例がないと言われる十段円塔ですが、子ども達の様子はどうですか?』
 城田が画面に映し出され、下に6学年学年主任城田兵悟教諭≠ニいうテロップが出た。
 『子ども達はやる気満々です。むしろ指導する私達の方が引っ張られています。とにかく結束しかありません!』
 烏山校長は開いた口がふさがらない。そしてこの次にあったはずの桜田のインタビューはカットされていたが、画面はスタジオに戻って『本当に楽しみですね』と周防アナが繋いだ。
 『心がひとつになるといいですね。怪我のないように頑張ってくださーい』と男性アナ。
 そして極めつけが次の周防アナの言葉だった。
 『STBではこの取り組みの様子を特別番組で放送する予定です―――では次のニュースです』
 「し、城田先生……、こ、これはいったいどういうことでしょう?」
 「さぁ……っ?」
 と、次の瞬間から学校の電話がひっきりなしに鳴りだした。その内容はすべて今のテレビ放送に関する問い合わせと応援のメッセージで、
 「城田先生、お電話です!」
 と替わってみれば蛍ヶ丘区長からである。
 「先生、テレビ見ましたよ!今うちにもじゃんじゃん電話がかかって来ましてね、ぜひ協力させてくれって既に50人以上集まりましたよ。まだまだ集まりますよ!期待して待っていてください!」
 すかさずケータイにも音無PTA会長から電話があった。
 「城田先生スゴイじゃないですか!テレビ見ましたよ!いまシラセンジャーの出欠を確認したら、ほとんどが出席になってました!夫婦二人で協力してもいいかという問い合わせもありましてね、この調子でいけば、学校はじまって以来の快挙、PTA全員参加の大運動会ですよ!」
 その他の電話もことごとく住民からの期待の声である。こうなった以上、校長も後に引くことができなくなった。かといって危険を冒すこともできない。烏山は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
 「城田先生、私はあなたの教育理念が間違っているとは思いません。むしろ正しいと思いました。でもひとつだけ聞かせてください。あなたはこの挑戦に、命を捨てる覚悟があるのですか?」
 城田はきっぱり答えた。
 「無論、最初からそのつもりです!」
 「あなたって人は……どうやら生まれてくる時代を間違えたみたいですね―――あなたみたいな人は、幕末にでも生まれて吉田松陰の弟子にでもなれば良かったのですよ」
 それは烏山校長の精一杯の皮肉だったが、彼は密かに辞表をしたためる覚悟を決めた。
 「わかりました、もうお好きになさい!」
 城田は大声で「はい!」と答えた。
 「ただし、できるところまでですよ!無理は絶対にいけません!」
 「肝に銘じます」
 「あ〜ぁ、定年まで校長を務めるつもりでしたが、あなたのおかげで人生計画が狂ってしまいましたよ」
 「そんなことにはなりません!必ず成功しますから!」
 ため息をつく校長をしり目に、城田は、もはや諦めなければならない状況が一瞬にして一転してしまった事実に、
 大悟がやれと言っている―――あいつが動いたのだ―――
 と、目に見えない友の存在を強く感じた。
 
> (19)いけない恋愛
(19)いけない恋愛

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 一方桜田愛は、仕事を終えて自宅アパートに帰り、最近は唯一の楽しみとなっている缶ビールの栓を開け、最初のひと口に至福の時間を覚える日々を送っていたが、今日はいつもより早く帰って来れたので、何をしようかとルンルン鼻歌を歌いながらテレビをつけたところが大わらわ。慌てて周防美沙江に電話をかけるが、生放送中の彼女が電話に出るわけもない。気をもみながらようやく連絡がとれたのが番組が終わって二十分後のことだった。
 「いったいどういうことですか?」
 『あ〜ら桜田先生。番組、見ていただけました?』
 愛の食ってかかるような声に対して美沙江の声は至って涼しげだ。
 「そうじゃなくて!」
 『ああ、先生のインタビューがカットされたこと?ごめんなさい、時間の都合で入らなかったのよ』
 「そうじゃなくて!」と、愛は呆れてため息を吐いた。
 「あの時の取材は素材集めだって言ってたじゃないですか!学校の許可も得てないものを、どうしてニュースにしてしまったんですか!校長先生になんて説明したらよいか―――」
 愛は勝手な取材をニュースに取り上げたこともそうだが、それより瑠璃が円塔の頂点に立つことを前提にした内容に腹を立てていた。それは城田が人数集めのために美沙江と勝手に決めたことで、愛はどうしても納得できない。しかもそのことを希に伝えられずに悶々としていた時なので、いきなりのテレビ放送を受けて、それを知った希の気持ちを考えるといたたまれないのだ。
 『ネタがなかったのよ。それに特番の宣伝にもなるでしょ』
 「テレビ局ってとこはネタがなければ何でもニュースにするんですか?」
 『そりゃそうよ。スポンサーからお金をいただいているんだから、何もやらないわけにはいかないでしょ。それより桜田先生が何に腹を立てていらっしゃるのか私には意味不明ですの。特番の依頼文書なら取材の後すぐに郵送しましたし、確かにアポなしの取材は申し訳ありませんでしたが、学校にとってはプラスじゃありませんの?』
 愛はよほど希のことを話そうかと思ったが、ついには言えず、やがて美沙江の口車に巻かれて「忙しいから」と一方的に電話を切られた。愛はやりどころのない怒りで「城田のバカ!」と口ずさむと、飲みかけのビールを口にした。

 校長の承諾を得て上機嫌の城田は無性に春子に会いたくなった。
 学校に車を置いて、希のこともあるし徒歩で考えながら行こうとホット・モットの前まで来たものの、春子には来ないでと言われているし、希にも何て話せば良いか思いつかず、入ろうか入るまいか躊躇したまま店の前をうろうろしていた。すると、
 「城田先生じゃないですか!」
 と、道路の反対側から声をかける者がいた。
 声の主は日の出食堂の店主原田友則で、萌の家庭訪問の際会っているので二人は顔見知りだった。
 「先生、弁当ばっかり食ってねえで、たまにはうちで食べていきない!」
 いきない≠ニはこの辺の方言で、いってください≠フ意味である。ほかにもせず∞やらず≠ヘする≠フ意味だったり、使い方や表現方法は様々あるが、否定しているのに肯定の意味を持つ独特な方言は、この地域の天邪鬼的な性質のあらわれかも知れない。
 原田は車が来ないのを確認すると道路を渡ってきて、「サービスするからさ!」と言って城田の手をとり、そのまま再び道路を渡って向かいの店舗に引き込んだ。
 日の出食堂の引き戸を開けると萌と弟の輝が食事中で、萌は突然の担任の訪問にびっくりした様子で、
 「あっ、カトちゃん先生……」
 と言って奥に引っ込んでしまった。どうやら担任とはいえ煙たい存在らしい。
 「なんだいカトちゃん先生って。萌、城田先生だぞ、挨拶くらいしたらどうなんだ!」
 父に言われて萌は再び姿を現すと、「こんばんは」とおどけた様子で頭を下げた。
 原田は「早く晩飯くっちまえ。宿題終わったのか?」といつもの口癖を吐くと、
 「城田先生、何にします?」
 と、ガラス扉の冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、「はい、これサービスね」と言って、城田が座ったテーブルの上にトンと置いて栓を抜いた。
 「ああ、お酒は結構です。明日研究集会があるんで……」
 「なに言ってんだい、もう栓ぬいちまったよ。一杯くらいいいじゃないですか」
 と、コップに並々と注いだ。注がれてしまったら断るわけにもいかず、幸い車も学校に置いてきたので「じゃ、一杯だけ―――」と飲んだが最後、「遠慮しないでガンガンいってくんない」と、再び原田はビールを足した。
 「じゃあ焼きそばを頂こうかな?」
 「へい!焼きそば一丁!」
 そこへ姿を現したのが妻の良美、
 「あら、城田先生、珍しいですわねぇ。今日は向かいのお弁当は召し上がらないの?」
 と意味深な笑みを浮かべて厨房に入った。少し前、二階の窓から、暗闇の中で城田と春子が痴情で言い争いをしていたことを思い出している。店主の原田は、
 「紅矢の前をうろうろしてたんで俺が連れ込んだんだよ、なっ、先生!」
 と言った。意外にもその言葉に反応したのは娘の萌だった。
 「えっ? 先生、希ちゃんに会いに行ったの?」
 思わず城田は「おい、原田!」と声を挙げた。
 「希ちゃんって、紅矢さんとこの娘さんでしょ?4年生の?」
 良美が言った。お喋りな萌は話し出したらもう止まらない。
 「こないだ城田先生ね、体育館の外で希ちゃんのこと抱きしめていたのよ―――ぎゅうって!」
 暫くは意味が飲みこめなかった原田夫妻だが、突然二人そろって「ええっ!」と声を挙げると、目をまん丸くして城田を罪人のように見つめた。思ったことは二人とも同じである。
 せ、先生……母娘二人に手を出していたのか―――
 店内に立ち込めた異様な空気を掻き消そうと城田は、「なに言ってんだ原田、あれは違うんだ―――」
 「違わないもん。だって由美ちゃんもアッちゃんも実優ちゃんも見たもん!あれは絶対怪しい!先生、希ちゃんのこと好きなんでしょ」
 「おい、原田!いい加減にしないと先生怒るぞ!」
 「カトちゃん先生が怒った!」
 萌は逃げるように「ごちそうさま!」と言って奥に行ってしまった。
 原田夫妻は場を繕う言葉がまったく見つからず、何も聞かなかったかのように無言で焼きそばを作り始めた。
 「あれは違うんです。萌さんのやつ完全に勘違いしているんです……」
 と城田はコップのビールを一気に飲みほした。店主の原田はようやく言葉が見つかったとばかりに、再びコップにビールを注ぎながら、
 「きっとあいつなりの腹癒せですよ。組体操でほら、水島さんちの友太君の隣になったってんで、家で毎日のように愚痴ってますから。先生に言っても場所を換えてもらえないって―――、どうも気が合わないみたいなんですよね、あの二人」
 「親もでしょ」と言いながら良美がお通しを持って来た。
 「なんだかあのお宅とは深〜い因縁があるみたいですよ。私もよく知りませんけど」
 良美はそう言い残して厨房に戻っていった。
 「先生、私からもお願いします。どうか場所を換えてやってもらえませんか?」
 「お話はしかと伺いました。いまちょうど全体のバランスや力の関係を考慮しながら、並び順の微調整をしているところです。ですので、結論はもう少し待っていただけますか?」
 「お願いしますよ、先生!」と言いながら原田は再びビールを注ぎ、冷蔵庫から二本目を取り出した。
 そこへ、
 「よう則ちゃん、景気はどうだい?」
 と食堂に入って来たのが、島村スポーツ社長の島村孝道と文房具店経営で商店会長を務める林みつをの二人であった。二人は城田を見つけると、「こりゃまた城田先生!」と同じテーブルに陣取ってラーメンを注文した。話題はさっそく夕方のSTBニュースで放送された十段円塔で、「早起き野球の連中も大喜びで、もっと人数が増えそうだ」と、島村社長も林商店会長も上機嫌、「救助用のマットが必要だろう」と、早くも売り言葉を並べはじめた。価格を聞けば「数百万かなあ?」としゃあしゃあと答えて「城田先生のポケットマネーで」と下品に笑う。それでも必要なのは確かなことで、「レンタルだったらいくらかかるか調べておいてほしい」と依頼した。気付けばテーブルの上には頼んでもない料理が並び、ビールも日本酒に変わって城田は酔いが回りはじめた。
 「先生、大丈夫かい?」と林が心配すると、呂律が回らない口調で「明日は研究集会だ」と言いながらも、周りの雰囲気に飲まれてハイテンション。さすがに心配した林は、「おいタクシーを呼べ」と声をかけたが、城田が「今日は学校の宿直室で寝る!」と日本酒をコップに移して飲み始めたものだから、島村社長も調子に乗って、
 「よし、飲もう、飲もう!」と城田をあおった。
 「どうせ家に帰ったって、おいらを待ってくれる女性なんかいないんだ!」
 と、そのノリに合わせてうっかり原田が口を滑らせた。
 「なに言ってんだい城田先生、いるくせに―――」
 途端、島村も林も「誰だい?」と、ほぼ同時に原田に目を向けた。城田自身も「だあれ?」と気になって、問い詰めたところが、
 「クック・モットも紅矢春子だよ」
 と告白した。図星の城田は勢いよく立ち上がって、
 「き、君ねえ!なんてことを言うんだい!春子先生はなあ、春子先生はなあ―――おいらのマドンナなんだ……」
 と言ったと思うと、ぐたりとテーブルに頭をうなだれて、そのまま鼾をかいて眠ってしまった。
 「おい、どうするんだよ」と城田の始末に困った三人は、相談して学校まで背負って運ぶことにした。幸い明日の研究授業の最後の打ち合わせで残業をする先生方も大勢おり、城田はそっと宿直室に運ばれて寝かされた―――。

 「春子先生―――」
 城田は浅い眠りの中で夢を見ていた。いや、夢というより内容のリアリティーさからいえば回想に違いない。それは十数年前の冬、城田の住むアパートで、大悟と春子の三人で炬燵を囲み、学級経営について現状を話しながらみかんを食べていた時のこと―――。
 誰が言い出したかふと、恋愛についての話題になった。そのときすかさず春子が、
 「二人は結婚しないの?」
 と言った。
 三人の中でその話題はある意味禁句だったので、突然そんなことを言い出す春子は、もしかしたら自分の思いをはっきり伝えておこうと誘導したのかも知れない。
 「結婚かあ……まだ考えてないなあ」と大悟が言った。
 「そういうのは縁だからね……」と城田が続く。
 「好きな人はいないの?」
 更に詰め寄る春子を不思議に思いながら、「そりゃ、なあ……」と城田と大悟は顔を見合わせ苦笑した。既にそのとき三人の感情は、何も言わなくても分かり合っていた。ところが更に春子は、会話にとどめを刺すようにこう言ったのだ。
 「二人とも、私のことが好きなんでしょう?」
 城田と大悟はすっかり慌てた。どうして彼女が突然そんなことを言い出すのか、皆目見当がつかない。そしてついに大悟は、
 「そりゃ結婚するなら春子先生みたいな女性がいいなあ」
 と口走った。すかさず城田も、
 「俺だって結婚するなら春子先生がいいよ」
 と言ってしまった。すると春子はクスクスと笑い出し、
 「二人とも私が好きってことね。悪い気はしないわ」
 と、しばらくの間ずっと笑っていた。そして、
 「私だって、兵ちゃんも大ちゃんも好きよ」
 当時春子は、学校以外の場所では二人のことを兵ちゃん=国蛯ソゃん≠ニ呼んでいた。
 「ホントよ、大好き! 教師としても、男性としても―――」
 しかしそこまで話すと、急に真顔に戻ってこう言うのだった。
 「でも結婚はできない、しない方がいいと思うの―――」
 城田と大悟の二人は、言っている意味がよく解らないといったふうに春子を見つめていた。
 「だって私がどちらかと結婚したら、2人の友情は絶対崩れるから。だから私達は、それぞれ別の人を見つけて結婚するのよ。いい?約束ね―――」
 春子は悲しそうな目をしながらも、笑っていた。
 「いまの、私が生まれてはじめての告白だったのよ……」
 春子はみかんを頬張りながら「ああ、嘘だと思ってるでしょ!ホントよ」と、自分が作った空気を取り繕うように言った。そして、
 「どうして同時に出会っちゃったのかしら?」
 とぽつんとつぶやいた。城田と大悟はなんだか振られたような心境になって、なにも言わずにみかんを口に運んだ。そして彼女は最後にこう言った。
 「私達は三人のままがいい―――」
 思えばあのとき春子は、城田と大悟の2人よりずっと大人だった。
 
> (20)過去を知る者との再会
(20)過去を知る者との再会

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 目を覚ますと、いつもと違う様子の室内に驚いて、城田はガバッと飛び起きた。そして暫くは自分が今いる状況を考えて、昨日の晩、原田の日の出食堂で飲んでいたことを思い出した。ところが島村社長と文房具の林さんが入ってきて、救助マットの話をしたところまでは覚えているが、その後は、何の話をしてどうやってここまでたどり着いたのかまるで覚えがない。時計を見ればまだ朝の五時半で、今日は郡市の教育研究集会であることを思い出し、車を近くのコンビニまで走らせ、洗面用具一式を買い込んで身づくろいをした。
 この日は郡市内の他の学校は全て休みで、それに合わせて給食センターも休みなので、子ども達は給食なしの半日授業である。九時ころから郡市内の先生方が蛍ヶ丘小学校へ集まって来て、研究授業に直接関わらない先生方は、臨時駐車場となる校庭に出て、来校する車の誘導役員をすることになっており、2時間目から通常授業を行って子ども達を帰えす。一方、研究授業対象の学級は、3、4時間目に研究授業が行われ、その授業の様子を参観した郡市の先生方は、お昼休みを挟んで午後に、分科会に分かれて意見交換を行い、その後全体会に出席して散会する流れである。もちろん午後からは研究授業に関わらなかった先生方も本会に合流する。
 城田は研究授業にはからんでいなかったので、五年愛組の安岡先生などに比べたらまったく気が楽だったが、校長、教頭はじめ研究授業を行う先生やその学年の学年主任の先生などは、話しかけるのも気が引けるほど神経をピリピリさせていたので、学校全体は凛とした緊張感に包まれる。しかも市長と教育長が来校するというからその緊張に輪をかけた。
 朝の職員会では、まっぱつ校長の烏山から、昨日のSTBニュースの話題が出された。
 「明るい話題を本校から発信できることは非常に喜ばしいことですが、この取り組みには危険も多いし反対の声もあります」と、高橋先生や城田と話し合いをしたことや、自分の考えを述べながら、基本的な考え方と学校方針を打ち出した。
 「とにかく絶対に無理はしない!いいですか絶対≠ナすよ。そして、十段はあくまで目標であるということ!」
 そう強調して、STBの特別番組で学校に取材が入ることを伝えた。
 続いて教務主任の高橋先生からは、教育研究集会の一日の流れが説明された。強行に反対した十段円塔を取り組むことになったためだろう、朝から城田とは目を合わせようともしない。席が隣同士なのに「おはようございます」の挨拶すらかわそうとしなかった。

 一時間目―――。
 桜田愛の四年敬組は、彼女が駐車場整理役員を免れたため通常授業だった。教室の扉を開けた瞬間、瑠璃の周りに集まっていたのだろう、女子の多くが慌てて席に着き、希に目をやれば、朝の読書の本を開きもせず、俯いて小さなため息をついているのが判った。
 完全にバレてる―――
 愛はそう思ったが、かける言葉も見つからず、「当番の人、お願いします」と、朝の挨拶をして授業に入ったのだった。そして、一学期には終わっていなければいけないはずの算数の1桁で割る割り算の単元にあった文章題を、黒板に書いて読み上げた。
 「1円玉20枚を積み上げると、高さは3cmになります。高さ9mの校舎の高さまで1円玉を積み上げるには、何枚の1円玉が必要でしょう?」
 よりによって円≠ェたくさん出てくるなと思いながら、希が円塔≠連想しないだろうかと気をもんだ。気になり出すと矢も楯もたまらない。一時間中円≠ニいう言葉が出て来るたびに、希の顔色をうかがって何て説明しようか悩み続けた。そうして長い一時限が終わって、ついに腹を決めて希を呼び寄せたのだった。
 「ちょっと希さん、来てちょうだい―――」
 希はつつつと愛のところに近寄ると、つぶらな瞳で、
 「なんですか?」
 と小さな声で言った。愛が言葉に詰まっていると、
 「大丈夫です。ぜんぜん気にしてませんから」
 と、十段円塔≠フ十≠フ字も出さないうち希が淡々と答えた。
 めちゃくちゃ気にしてるじゃん!―――
 愛は『お父さんに手がとどくかな』と言った希が気の毒で、泣きそうになりながら「ごめんね……」とだけ言って、逃げるように教室を飛び出した。そして「なんで私が言わなきゃいけないの!城田のばか、ばか、ばか!」と心で繰り返しながら職員室に戻った。
 城田ら男性職員は駐車場の整理役員でグランドに出てしまっており、接待を任された養護の鶴田美由紀先生と事務の山際先生は何だか忙しそうに厨房で話をしていて、職員室は閑散としていた。そろそろ集まり始めた郡市の先生方は体育館に集められ、二時間目の始業に合わせて開会式が行われ、三時間目から授業の参観をする予定なのだ。職員室の廊下が急に騒然としたと思うと、外で役員についていた男性陣が戻ってきたようで、愛は噛みつくように城田に食ってかかった。
 「城田先生!希ちゃんにバレちゃいましたよ!どうするんですか、彼女、気にしてないとは言ってますが、そうとう無理してますよ、あれは!」
 「ああ……、もうじき二時間目が始まってしまいますので、後でゆっくり話しましょう」
 まるで取り付く島も与えない応対に、愛はますます彼が憎たらしくなった。

 開会式で挨拶をした市長の五木雅雄と教育長の井ノ原弥生を連れて、校内を案内して回るのは烏山校長だった。そして大勢の教師陣が参観する研究授業が行われている二年敬組、三年信組、安岡先生の五年愛組、そしてガリ先生の授業が行われている理科室を順次視察すると、やがて穏やかな笑い声を挙げながら校長室に入った。そして接待用のソファに腰かけた市長と教育長の前に、鶴田先生が厳かにやって来て熱いお茶を置いた。
 「本当は午後も出席したかったのですが、別の要務がありましてね」
 と、五木市長がお茶をすすりながら、「運動会では何かすごい事をお考えらしいですね、見ましたよテレビ」と愉快そうに笑った。
 「十段円塔なんていったら、いったいどれほどの高さになるのでしょう?」
 その至って穏やかな口調に、
 「一段1メートルとしても十メートルです。ひょっとしてこの校舎より高くなるんじゃないかしら」
 と、今度は井ノ原教育長が言った。この辺では珍しい女性の教育長である。そして、
 「城田先生、相変わらず頑張っているようですわね」
 と付け加えた。
 「おや井ノ原先生、城田先生をご存知ですか?」
 烏山が驚いたように言った。
 「ええ、もう十年以上前になるかしら?私がまだ教頭をしている時、同じ小学校におりましたから」
 十年前と聞いて、烏山は一層驚いて口走った。
 「では、あの事故をご存知なのですか?」
 市長は「事故?」と言って怪訝な顔をした。
 「もちろんです、目の前で目撃しましたから。当時、城田先生と仲の良い先生が二人おりまして、アテネの三羽鴉なんて言われておりましたのよ―――」と、井ノ原教育長は当時の話を懐かしそうにし始めた。
 城田と春子がその小学校に赴任した翌年、井ノ原は教頭として二校目になるその学校にやってきた。当時から城田先生と紅矢(大悟)先生と静谷(春子)先生はとても仲が良く、非常に熱心に教育に取り組む姿を見て、ソクラテスとプラトンとアリストテレスに例えて彼らを「アテネの三羽烏」と命名したのは私なのだと笑う。ところがあの年、十段円塔に失敗し、校長と紅矢先生が停職になってしまい、自分は校長代理として職務の一切を担うことになったのだと、当時の大変さを笑い話に変えながら話した。と、
 「そろそろ私は役所に戻らなければなりません」
 五木市長が立ち上がった。
 「井ノ原さんはどうします?」
 「せっかく来たので城田先生にお会いしてから戻ろうと思います」
 市長は「ではお先に」と会釈して、最後に、
 「STB特番を楽しみにしています。須坂市が注目されて嬉しい。怪我のないようにお願いしますよ」
 と言い残して笑顔で帰って行った。それを玄関まで見送った烏山は、再び校長室に戻って、井ノ原に先ほどの続きを聞くことになる―――。
 およそ半年の停職処分を受けた紅矢先生はひどく落ち込んだようだが、城田先生と静谷先生は心配して毎日のように彼のアパートに激励に行っていたようだった。そして二学期が過ぎ、年が明けて、三学期も終わり、卒業式の後の離任式で、紅矢先生の転任と静谷先生の退職が発表されたのだと言う。もちろん公私に渡って様々に相談した挙句の結論だったわけだが、新学期を迎えて間もなく、紅矢先生と静谷先生の結婚披露宴の招待状が送られてきた。それに出席したきり二人には会っていないが、その翌年、紅矢先生が交通事故で亡くなったという話を城田先生に聞いたのだと語った。
 「では、その静谷先生というのは、結婚して紅矢と姓が変わったわけですね?」
 烏山は納得したというふうに「う〜ん」と深くうなった。
 「どうなさいました?」
 「その紅矢と同じ姓の子が、いまうちの学校の4年生にいるのです」
 「それはきっと紅矢先生と静谷先生の子どもに違いないです。紅矢なんて苗字、滅多にありませんから」
 「そういうことだったのですね―――」
 烏山は先日城田の話にはなかった、彼が十段円塔に執着するもう一つの大きな理由を知った気がした。

 四時間目が終わり子ども達が帰って、教育研究集会もお昼休憩となった。そして城田が職員室に戻ってきたとき、烏山校長が、
 「ちょっと校長室へいらっしゃい。あなたにとって懐かしい人がお見えですから」
 と校長室へ呼び入れた。入ると、
 「城田先生お久しぶり!」
 笑顔で握手を求めてきたのは井ノ原教育長で、城田はどぎまぎしながらその手を握り返した。実は彼女が須坂市の教育長を務めていることは知っていたが、あの当時の事を知っている人には、どちらかといえばあまり会いたくなかったのだ。社交事例のように、
 「お元気そうで何よりです。ご活躍はよく存じております」
 と頭を下げると、「挨拶なんか抜き」とでも言いたげな井ノ原は、
 「十段円塔に再挑戦なさるそうですね。頑張ってください、心から応援しています!」
 と笑う。城田は不思議に思って彼女を見つめた。あの時、もっとも大きな尻拭いをさせられた者こそ彼女だったはずだからだ。
 「あの失敗のあと、私もずいぶんひどい目に合いました。でも、あの時の経験があったからこそ、私は大きく成長することができ、今では教育長です。城田先生も思う存分やってくださいネ!」
 城田は急に嬉しくなって「はい!」と答えた。
 「でもね―――今日は会ってひとつだけ言っておきたいことがあったの」と、彼女は声のトーンを落とした。
 「あのときなぜ円塔が崩れたかお解かり?」
 彼女の目は、女性にはあるまじきライオンのような光を発していた。
 「獅子身中の虫よ―――。どんなに頑丈な建物も、どれだけ強固な組織でも、崩壊するのは内部分子からなのよ。獅子身中の虫がどこにいるか見極めて対処なさい。それがどこにいるかはわからない。子ども達の中かも知れないし、協力者の中かも知れない。もしかしたら、あなた自身の中にいるかも知れないわよ……」
 井ノ原はそう言い残して帰って行った。「やり手ですね〜!」と、烏山はすっかり感心した様子で呟くが、午後の分科会が始まり、校長室に一本の電話が入る。
 『市長の五木ですが、烏山先生ですか?』と、その声は市長だった。烏山はてっきりお礼かねぎらいの言葉をかけられるのかと思ったところが、
 『実は県の教育委員会から連絡がありまして、先ほど話題になった運動会の十段円塔ですが、危険だから中止せよとのことです』
 ときまり悪そうに言う。
 「市長、ちょっとお待ちください。つい先ほどは喜んでくださっていたではありませんか……」
 烏山は急な展開に驚きながら言い返した。
 『私も面白いと思うのですよ……しかし県教委からのお達しなもので、どうにもなりません』
 危険なことは烏山も百も承知である。しかしつい昨日、城田の話に共感し、自分もやる≠ニ決めたばかりなのだ。市長に『中止せよ』と言われて「はいそうですか」と簡単に撤回するほど安い男でない。しかも大切な後輩教諭の更なる熱い思いを知った以上、梃子でも動かない烏山だった。次代を担う教育者の防波堤となって城田を擁護しなければならない責任を咄嗟に感じた。
 『ではよろしくお願いしますよ―――』
 「ちょっとお待ちを!」
 電話は無情に切れた。烏山は予想より早く辞表を提出しなければならない事態を予感しながら、深い覚悟のため息を落とす。 
 
> (21)物理で女心を研究する男
(21)物理で女心を研究する男

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 研究集会が無事に終了し、学校内は俄かに安堵感に包まれた。五学年の先生方は、反省を兼ねて打ち上げをしようと早々に学校を出てしまったが、そうでない先生方は、いつもと変わらない残業をこなしていた。しかし城田の頭の中は相変わらず円塔のことでいっぱいで、次は何をすればよいか考えあぐね、ガリ先生に相談してみようと理科室に向かった。思えばガリ先生も研究授業の対象者だったので、さすがに今日は早々に帰宅してしまったかなと思いながら理科研究準備室の扉を開ければ、彼はパソコンの前に座って何かに没頭している様子。
 城田は「研究授業ご苦労さまでした。好評だったようですね」とその背中に向って言うと、ガリ先生はキーボードを打つ手を休めて「ああ城田先生、おかげさまで」と振り返った。
 「熱心ですね、研究授業の次は何の研究ですか?」
 城田はそう言ってパソコンの画面を覗けば、カラフルな色を記載した何かの表欄で、何気なく縦軸に目をやると、蛍ヶ丘小学校に勤務する独身の女性教諭の名が連ねてあるではないか。不審に思った城田はガリ先生の顔をいぶかしげに見つめた。
 「ああ、これ?」
 ガリ先生は慌てた様子でPCの画面を切り替えると、「何のご用でしょう?」と話題をそらすように言った。しかし一度見てしまった城田は気が気でない。教師として何か由々しきことをしているのではないかと心配して「今の……は?」と問い詰めた。
 「まいったなあ……やはり気になりますか?別にストーカー行為をやっているわけではありませんから」
 ガリ先生は観念した笑みを浮かべて、隠した表計算の画面を再び表示した。そして何の脈絡もなく、
 「城田先生はこの世で最も不可思議なものって何だとお考えです?」
 突然そんな質問を投げかけた。城田はしばらく考え込むが、
 「僕は女心≠セと思っているんです」
 と、ガリ先生は少しの悪びれもなく、研究に没頭する科学者特有の淡々とした口調で言った。言われてみれば人の心ほど不可思議なものはなく、男の立場でいえば、移ろいやすい女心ほど不可解なものはないと城田は思った。ガリ先生は続けた。
 「僕は物理学の力で、その女心というものを解明できないかと研究しているのです」
 「物理で女心を……?」
 興味深い話に、城田はすっかり心奪われた。
 「そうです。まあ僕の研究は精神物理学の分野に入りますが、つまり外からの刺激とそれに対応する女性の感覚を測定し、その関係性を明らかにしたいのです。人は視覚や聴覚などの五感を駆使して自分が置かれている環境を認識していますが、要するに人の心はその人を取り巻く環境や出来事と非常に密接な関係にある。つまりそれらを物理的に検証すれば、環境や事象は女性感情のブラックボックスとも言えるのですよ」
 解かったような判らないような説明だが、ガリ先生の考えそうなことだと思いながら、城田は相談のことなど忘れてその話に惹きこまれていった。彼は更に続ける。
 「そこで僕は考えた。この学校の女の先生方に協力していただき、データを集めさせていただこうと」
 「データ?―――何の?」
 「心の状態です。もっとも心なんて見えませんから色で表してもらうことにしました。しかし作為や意図が入ってしまったら研究になりませんから、無意識で色を選ばせるよう、二十四色入の色鉛筆を彼女たちに与えまして、年間の子ども達の物理的な学習環境を調べたいから≠ニ言って、毎日一時間目の開始時の、彼女たちのいる教室における室温と湿度を測定するようお願いしたのです。一つだけ条件をつけて―――」
 「条件……?」
 「そう、その日の朝の気分の色を、色鉛筆から選んでこの紙に記入するという―――」
 ガリ先生は、教室名と室温と湿度を記入するだけの簡単な自作の用紙を城田に見せた。
 「学校では一日にいろいろなことが起こりますから、あまり外的影響を受けていない一時間目の開始時が一番いい。子どもの学習環境と教師の気分と何の関係があるか≠ニ最初は不審な顔をされましたが、何人かの先生方は僕の要望を受け入れてくれました」
 ここまで話すと、「ああ、この事は他の先生方には内緒にしてください。特に男の先生にはお願いしてないものですから」と、ガリ先生は珍しく感情的になって城田を牽制した。
 「ところで、何かお話があったのではないですか?」
 ガリ先生は急に話を打ち切ろうとしたが、既に興味津々の城田は「それで?」と目を輝かせた。
 「そんなに聞きたいですか?」
 城田は何度もうなずいた。
 「いいですか、これはあくまで、物理で女心を解明しようとする観察実験であり研究です。しかしここから先は、個人情報なんかよりもっと深い次元で彼女たちの事を知ることになります。もしこの研究が犯罪と言われたとしたら、城田先生も共犯者ということになりますが……それでも聞きたいですか?」
 城田は生唾を飲みこんだ。
 「わかりました」とガリ先生は平常心を装うが、内心研究の途中経過を人に話したくて仕方がないのだ。
 「室内の温度と湿度を、僕の要望通りにその日の気分の色を使ってデータを提供してくれたのはこの6名です」
 ガリ先生は先ほどまでキーボードを打ち込んでいた画面を指さした。表欄の縦軸に名前があった先生とは、一年敬組の相田まゆみ先生、二年信組の木村志乃先生、三年愛組の小林紗羅先生、四年敬組の桜田愛先生、保健室の鶴田美由紀先生、事務室の山際聡美先生という顔ぶれでみな独身の6人である。
 「ここに名前のない先生方は、ボールペンや普通の鉛筆で記入してきたり、記録するのを忘れていたりでデータになりませんでしたので除外しました。でも記録として別のファイルに保存してあります。そしてこの表の見方ですが、横軸は日付で、物理的環境となるのが日付の下、一時間目開始8時50分時の天候と気圧、そして先生方が測定してくれた温度と湿度、加えて月も影響していると考え、その日の月齢を記録しています。そして各先生方の覧のこの色ですが、その日に彼女たちが選んだ色鉛筆の色を表わしています」
 城田はじっと表を眺めて、
 「ここから何が分かるのですか?」
 と言った。ガリ先生はニヤリと笑むと、
 「好きな色の傾向が判ります」
 と答えた。ところが城田にはいまひとつ理解できない。
 「好きな色というのはその人の性格を表わす場合が多い。近年注目されている色彩心理学という分野になりますが、例えばうちの先生で一番顕著なのが桜田先生。彼女の記録は、ほら、ほとんどピンク系の色鉛筆で書かれていました。彼女の身の周りの持ち物を知っていますか?好きな色というのは、スマホとか財布、マグカップなどに出やすいのですが、彼女のそれらの持ち物は全てピンクです」
 城田は「そうだったかな?」と、目線を左斜め上に向けて思い出そうと努力した。
 「ピンクが好きな女性というのはロマンチストが多い。愛情深くて世話好きな反面、デリケートで傷つきやすく、常に愛し愛されることを望む傾向があります。一見、穏やかに見えますが実は芯は強くて嫉妬深いのも特徴で、ですから、ああいう女性とは誠実に付き合わないと痛い目をみますよ」
 なるほど言われれば当たっているかもしれないと城田は思った。
 「僕の研究は色彩心理ではありませんので話を進めますが、この表から読み取れるその先生固有の好きな色、それを僕は固有基本色≠ニ名付けましたが、見て気づきませんか?どの女性もひと月に一度、同じ周期で固有基本色とは違う傾向の色を使っている、こことかここ―――どうしてだか判ります?」
 ガリ先生は声のトーンを落として、
 「生理ですよ」
 と言った。そして「そういう日は気分も落ち込みイライラしてますから近寄らない方がいい」と付け加えた。たまたま城田が見ていた桜田先生の今日の色は、数日前からピンクとは真逆の緑色で、恐い目付きで希のことで話があると言ってきたことを思い出し、今日は話さなくて正解だったと胸を撫で下ろした。
 「問題はそこではなく、毎日の色が違っていることです。大きな違いもあれば三、四日続けて同じ色の時もある。なぜか?僕は特に気圧と月齢との関係に注目しています。例えば養護の鶴田先生、彼女の固有基本色は紫です。紫は美意識が高く繊細な感受性を持っていますが、裏返せばうぬぼれが強い。ところが、満月の日は茶系統の色になるんです。そしてもう一か所茶色になっているのが気圧が1015ヘクトパスカル以上の日。茶色は高級感のあるものに憧れながらも保守的で温厚を示しますから、ある意味紫とは逆の性格になっているのです。つまりこれが女心というわけです。いつもは気位が高そうな鶴田先生の場合、高気圧の満月の日に、ちょっとお洒落なスーツを着て高級レストランに誘ったとしたら―――」
 ガリ先生は急に言葉を止めて咳払いをした。城田はすかさず、
 「ひょっとして鶴田先生を口説こうとしてます?」
 ガリ先生は柄にもなく顔を赤くして、「冗談を言わないで下さい!僕はただ女心の謎を解きたいだけです」と、慌てて画面の表欄を閉じてしまった。
 「それより城田先生、なにか僕に話があって来たのではないですか?研究途中の精神物理の話はこれくらいにして先生の話を伺いますよ」
 城田は思い出したとばかりに話し出した。
 「実は十段円塔のことなのです。運動会まであとひと月を切りました。子ども達の方は毎日練習していますからあまり心配はしてないのですが、問題は協力していただく大人達です。人数を集めたまではいいのですが、どのように当日まで持っていけばよいか……。一番最初に相談に乗っていただいたのがガリ先生ですし、他に相談に乗ってくれそうな先生もいないもので―――」
 「なんだ、そんなことですか」と、まだ二十代後半のガリ先生は、かなり先輩の城田に向かって得意げに話し出した。
 「逆算するしかありませんよ。当日ぶっつけというわけにはいきませんし、練習日は2回くらい確保しなければならないでしょう。しかし親御さんや働いている大人達に学校まで来てもらうわけですから平日というわけにはいきません。とすると土曜は仕事の人も多いから日曜日に設定するしかない。運動会まで日曜が四回ありますから、一週間前の日曜とその前の日曜の2回を全体練習に当てると、残り2回の使い方が問題になります」
 「若いのになかなかしっかりしている」と、城田はすっかり感心してしまった。
 「まず説明会が必要でしょう。参加者に来ていただき、十段円塔とはどういうものかから始まって、肩の組み方や力の入れ方、いかに団結が必要かを説かなければいけません。そうだ、明日の土曜日はPTA作業の資源回収ですよね。終了後に開催してはいかがでしょう? もっとも今日の明日では人数が集まるとは思えません―――やはり改めて日程を設定し、説明会を開くしかありませんね。そこに出席できない人には説明会の内容を知らせる通知を出さなければなりませんし、それまでにこちらでは最も強固な並び順を割り出し、打ち出す必要があります。そうだ、身長と体重、性別と過去のスポーツ経験や、力に自信がある・なし等のアンケート用紙を早急に作って配布しましょう。そしてできるだけ早く回収し、並び順の名簿を作っておけば練習もスムーズに進めることができる。もちろん名簿には所属組織と連絡先も入れた方がいい。千人以上いるわけですからそれだけでも大変な作業ですよ―――。それと、必要な備品をピックアップし、集めなければいけませんねえ―――」
 ガリ先生はここまで一気に話したが、途中で「こりゃとても無理ですね」と言わんばかりに苦笑いをつくった。しかし城田はお構いなしで、
 「とすると、まず最初に私がやらなければならないことは何ですか?」
 その真剣なまなざしに、ガリ先生は「本当にやるつもりですか?」と呆れたふうに、
 「まずはアンケートづくり。そして全体説明会の開催通知と、説明会に出席できない人のための十段円塔の手引き書。その後に名簿作りといったところでしょうか? 備品の一覧表も必要でしょう。早めに手配しないと間に合わない物品もあるでしょうから。あと配置図とか……」
 と思い付きの案を並べた。
 城田は突然山積みにされたやるべき内容を頭の中で整理すると、慌てて職員室に戻ってパソコンとにらめっこを開始した。
 
> (22)精神感応
(22)精神感応
 
> (23)三人の関係
(23)三人の関係
 
> (24)菩薩の微笑み
(24)菩薩の微笑み
 
> (25)児童会長の健気な願い
(25)児童会長の健気な願い
 
> (26)犬と猿の大喧嘩
(26)犬と猿の大喧嘩

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 不足人員266名の当てが全くないまま日曜の午前中、三週間後に迫る運動会当日に向けて、城田は『十段円塔全体説明会』を行った。会場となった蛍ヶ丘小学校体育館には、児童を省いた全体の四分の一程度の協力参加者が集まったが、ほとんどがPTAの保護者が中心で、あとは区の三役と老人会の伸兵衛さん、数人の悶巣蛇亜の面々で、STBのテレビカメラは入っていない。
 職員の先生方に参加強請はできなかったが、ご都合が良ければ出席して下さいと声をかけたところ、六年信組の八木先生と五学年の担任三名、そこに理科のガリ先生と養護の鶴田美由紀先生が出席してくれた。もちろん桜田先生は今や城田と並んで十段円塔の重要な推進メンバーとなっていたから当然として、学校を代表して校長の顔も見えた。
 入り口には立トレを置き、受付を任された愛は一人一人の参加者のチェックと、城田が作成した『十段円塔の手引き』書を渡していたが、そのうち一人では手が足りなくなって、安岡先生と鶴田先生も手伝ってくれた。城田は続々と集合しつつある体育館内の様子をながめながら、やがて伸兵衛さんが入場するのを確認すると、パイプ椅子を持っていき深々と頭を下げた。
 それにしても一部に明らかに場違いな、頭髪は金髪もしくはモヒカン、アフロ、顔は眉毛をそり落とし一人はサングラスをかけ、凄味のある服を着て浮きまくっている顔ぶれがある。城田には悶巣蛇亜の連中であることはすぐに知れた。リーダーの蛍の文こと坂上文一郎と副リーダーのアゲハのヤッシャン、そして金髪の中村光也の三人が来てくれたのだ。坂上は体育館に入場するや、大きな図体で城田のところにのっそりやってくると、
 「師匠!本日はお招きいただき、ありがとうございます!」
 と、そのまま城田を護衛するように横に立ち尽くした。さすがにそうなると「どこのヤクザ者か?」と城田に近づく人がなくなったので、
 「坂上君、申し訳ないが会場の方に座っていてくれないか?」と言うと、「はい、師匠!」と素直に体育館の中央にでんと腰を下ろしたものだから、彼を中心にドーナッツ状に空席ができてしまった。
 次にガリ先生が城田のところにやってきて、
 「あの連中はいったい何者ですか?」
 と、受付を指さして聞いてきた。見れば鶴田美由紀先生を囲んで、金髪の中村とアゲハのタトゥをしたヤッシャンが、なにやら楽しげに話をしている。おそらく下手な台詞で彼女を口説いているのだろう。城田は、
 「この学校の卒業生ですよ」
 と、深い詮索を警戒しながら答えた。ガリ先生は、
 「卒業生……?」
 と呟いたかと思うと、いつの間にかそこから姿を消した。
 さて、説明会は桜田愛先生の進行で、はじめに烏山校長から御礼と挨拶が述べられ、続いて音無PTA会長の挨拶のあと、城田の説明へと続いた。城田が話す内容は全員に配布した『十段円塔の手引き』にもまとめられていたのでスムーズに進んだが、質疑応答に移った時、あらぬ方向から質問が飛び出した。挙手をしたのは日の出食堂の原田友則である。
 「先生、ちょっと小耳にはさんだのですが、当日の参加者に配られる弁当、これすべて夕焼け弁当クック・モットに依頼したというのは本当ですか?」
 城田はどこでそんな話が漏れたのかと首を傾げたが、やがて言葉に詰まりながら「弁当については現在検討中でして、決まったわけではありません」と答えた。
 「検討中ということでしたら、うちも仕出し弁当を扱っておりますので、ひとつ候補に加えていただき、プレゼンテーションの場を要求します。学校行事とはいえ地域もこれだけ深く関わっているんだ、うちだって地元業者なんだから平等に扱ってもらいてえなあ!」
 と声を荒げて言った。
 「わかりました」と城田が答えるより早く、今度はクック・モット社長の水島友作が立ち上がって、
 「そんな必要はありません。たかが弁当の注文を受けるのに、いちいちプレゼンなんてやってられませんよ!」
 と発言した。原田はカッとなって、
 「たかが≠ニはなんだ! こっちはそれで生計を立ててるんだ。一日に何十万って金が動くんだぞ。それを独り占めにするつもりか! 学校は公共の施設じゃないか!」
 と叫んだ。水島も負けていない、
 「では聞くが、あなたの食堂で一日に1300食以上の弁当を作る設備と技術があるのですか? 言っちゃあ悪いが、あんな個人経営の今にもつぶれそうな店では、せいぜい一日200から300食が限度でしょう。背伸びをしちゃいかんよ」
 「なんだと!」と原田は今にも飛びつきそうな剣幕である。
 「まあまあ、ちょっと落ち着いてください」
 壇上でマイクを通して城田が言ったのがいけなかった。押され気味の原田は、怒りの矛先を城田に向けてまくしたてた。
 「城田先生あんたねえ、学校の人間でありながら個人的な感情で動くのはどうかと思うよ? あんたなんだい、クック・モットの紅矢春子に惚れてるって話じゃないかい!」
 それには烏山校長も桜田愛もびっくりして壇上の城田に目をやったが、張の本人は顔を真っ赤にしたままぐうの音も出なくなっている。水島は助け舟を出すように、
 「城田先生の判断は賢明です。現実的に考えたら対応可能なのはうちの方です」
 と引き下がらない。
 「黙れ! 成り上がり者!」
 「なにを! ドロボー猫!」
 と、もはや会場は収拾のつけようがない大混乱―――。
 そのとき、アフロヘアをした坂上文一郎の巨体がのっそり立ち上がった。会場はどんなおぞましい光景を見るのだろうかと、一瞬のうちにシンと静まり返る。すると文一郎は背伸びして大きな欠伸をしたかと思うと、再び静かに腰を下ろした。すかさず烏山校長が城田のマイクを取って、
 「運動会当日の昼食について、学校側の考えをお伝えします」
 と言った。さすが校長、会場の視線は全て烏山に集まった。
 「運動会は年間行事の中でも一大イベントです。昔は子どもの応援に親戚中が集まって、お昼ともなれば木陰にマットを敷き、風呂敷を広げて重箱に詰めた手作りのお弁当を囲んで、家族団らんの昼食をとったものです。隣のお宅のおかずが気になったりしてね、取り替えっこをしたり、親が応援に来れなかった家の子どもも余所の家の団らんの中に加わって、そりゃ和やかな楽しい時間でした。私は思うのです。ああいった人の触れ合いの中で子どもというのは成長しなくてはいけないと。ですのでPTAの保護者の皆様にはたいへん申し訳ないのですが、昼食については例年通り手弁当でお願いしたい。それ以外の皆様には、先ほど城田先生からありましたように、現在検討中でございますので、今日のところはどうかご容赦願いたい―――」
 そうして全体説明会は、問題がくすぶりつつも終了したのであった。

 金髪の中村とアゲハのヤッシャンは、終了後も暫く鶴田先生と歓談をしていたが、人が全員いなくなって、ようやく体育館を出た。ところが出たところで一人の白衣を来た男が立っている。
 「ちょっと君たち」
 と声をかけたのはガリ先生で、金髪とアゲハはひょろりとした白衣の男を取り囲んだと思うと、「なんだい、あんた?」と挑発するようなドスの利いた声でアゲハが言った。
 「私はこの蛍ヶ丘小学校で理科の教師をしております土狩辰美と申します。皆は私をガリ先生と呼んでいますのでそう呼んでください」
 と、ガリ先生は動揺も見せずに淡々と言った。
 「理科の先公だ? その先公が俺たちに何の用だい?」
 アゲハはインテリぶった人間が大嫌いなのだ。
 「君たち、ここに来てからずっと鶴田先生と話をしていたようですが、悪い事は言わない、あまり彼女とは関わらない方がいい」
 ガリ先生の言葉に今度は金髪が食ってかかった。
 「それはどういうことですか? 僕は小学校の時から美由紀先生にはお世話になっている教え子なんです。先生を悪く言ったら僕が許さない!」
 ガリ先生は「なるほどそういうことか」と思った。勘繰りのいいアゲハはすかさず、
 「ははーん、ひょっとしてあんたも鶴田先生に惚れてるな?」
 と言った。図星のガリ先生は激しい動揺を隠して「何を言うかと思ったら」と、大きな声で笑って誤魔化し、「彼女は魔性の女ですよ」と続けて、
 「過去に何人の男が彼女に弄ばれたか……実は私も危うく彼女の罠に落ちるところだった―――」
 と、いつもの学者口調で言った。その話にたちまち興味を示した金髪とアゲハは次の言葉を待った。
 「悪い事は言いません。早いところ彼女から身を引いた方が身のためだ。泣かずにすみます」
 金髪とアゲハは顔を見合わせた。ところが二人はもとより身の程知らずなので、
 「鶴田先生になら騙されたってかまわない!」
 と言うから、ニヤリと笑んだガリ先生は「そこまで言うなら仕方がありません」と、ポケットから2本の小さな角瓶を取り出して二人に1本ずつ手渡した。
 「それは鶴田先生が大好きな香水です、シャネルの5番。その中に含まれるムスクの香りに、どうも彼女は弱いらしい。そいつをつければたちまち彼女は君たちの虜になるでしょう。次回はその香水をたっぷり体にふりかけて会うとよろしい」
 「ほんとうか?」
 と、二人は香水のフタを開けてその匂いを嗅いでみた。なんとも言えない良い香りであることは二人の顔を見ていればすぐに分かる。
 「しかし、どうしてあんたがこんなことをするのだ?」
 と、はやりアゲハは不審感をぬぐえない。
 「ははははっ、君たちもバカだなあ」とガリ先生は一笑に伏して、
 「君たちのようなチンピラが、鶴田先生の相手をしていてくれれば、その間、何人の善良な男たちが泣かずに済むだろうか。ちょうどいま、三学年の若い先生が狙われているのです。いわばこれは世のためなのです。君たちにとってもいい話だと思ったのですが?」
 ガリ先生は二人の顔色をうかがってから「いらないのならお返しください」と、シャネルのナンバー5を取り返そうとした。すると、「いや、ちょっと待て」というように二人はその手をはねのけた。鶴田先生と仲よくなれるのなら、これほどいい話もない。やがて、
 「それじゃ遠慮なくいただくよ!」
 と言って、金髪とアゲハは嬉しそうに帰って行った。

 さて、どうっと疲れを覚えた城田は職員室に戻ると、デスクの椅子に座り、背もたれに身体を倒して天井を仰いだ。まさかあれほど多くの人がいる面前で、ずっと心にしまっていた春子に対する感情を暴露されるとは思ってもない。あの一言で彼に集まった信頼も、いっぺんに崩れてしまっただろう。
 「城田先生、ちょっといいですか?」
 話して来たのは桜田先生で、愛は今日はいない高橋先生の椅子に座って隣に近寄ると、
 「さっきの話ですけど……」
 と言いにくそうに、春子のことを聞き出そうとするのだった。
 彼女にしてみれば尋常ならぬ事だった。紅矢春子≠ニいうのは受け持ちの児童である希の母親であるし、なにより視聴覚室における彼と希の不可思議な会話が、頭からずっと離れなかったからだ。城田と紅矢の間にある見えない何かが気がかりで、もう矢も楯もたまらないのだ。
 「希さんのお母さんと城田先生って、どういう関係なのですか?」
 愛は単刀直入に聞いた。
 「その話ですか……」
 と城田は、何も話したくなさそうに体を起こした。
 「なんでもありませんよ。きっと原田さんは何か誤解されてるのでしょう」
 そう言って立ち上がって時計を見て、
 「もうお昼ですね。そうだクック・モットのお弁当を買ってきてあげますよ。あそこのから揚げ弁当、うまいんだから! まだ学校にいるでしょ? 今日は僕のおごりです」
 城田は逃げるように出て行った。愛の心はなぜか激しく乱れた。
 
> (27)決闘
(27)決闘

 ネット小説ランキング>一般・現代文学 コミカル>大運動会 ←励みになります!  => 十段円塔配置図
 次の日曜はいよいよ一回目の全体練習を控えた週が明けた。
 その朝、城田は不足人員が発生した事実を、烏山にだけは知らせておこうと思って校長室の扉を叩いた。烏山はいつものご機嫌な様子で「どうぞ」と言って彼を招き入れソファに座らせると、「今日はブルーマウンテンです」とティーカップに注いだ。
 「実は手違いがあり、人数が足りなくなりました」
 城田はそれだけ伝えて戻るつもりでいたが、
 「また十段円塔の話ですね。で、何人足りないのですか?」
 と校長が聞くので、「132人です」と答えた。
 「それは困りましたねえ……」
 烏山は別に困った素振りも見せずにコーヒーをうまそうに飲んだ。
 「とりあえず校長先生にだけはお伝えしておこうと思いまして……」
 城田はそう言うとソファから立ち上がった。と、
 「ちょっとお待ちなさい―――」
 烏山は引きとめて「せっかく淹れたのですから一杯くらい飲んでいきなさい」と再び座らせ、
 「紅矢春子さん―――でしたね」
 と、何か言いたげに城田の顔を見つめた。
 「この間教育長が来たとき、あなたの昔話を聞いたのですよ、アテネの三羽ガラスの話を。あなたのお友達の名が紅矢と聞いて私はピンときました」
 城田は照れ隠しをするようにコーヒーを飲んだ。
 「なにがあったか知りませんが、とやかく言うつもりはありません。男女の関係というのは誰にも分かりませんよ。おそらくどれだけ科学が進歩しても解明できないんじゃないですか?」
 城田は十段円塔に係わる話に発展するのではないかと心配し、先日の説明会で原田が言ったことに対して何か非難されるのではないかヒヤヒヤしながら再びコーヒーを飲む。
 「私達現代人は科学が万能のように勘違いしていますが、実は社会を動かしているのは、恋愛感情のように目に見えない力によるところが大きいのではとは思いませんか?」
 城田は「はあ……」と頷いた。
 「まあ、お好きになさい。城田先生のことですから、私は心配していませんよ」
 城田は烏山の目を見てその懐の深さを観じて、安堵の気持ちと一緒にまたコーヒーを口に運んだ。そして全部飲み干すと「では失礼します」と言って立ち上がった。
 「ああそれで十段円塔の件ですがね、私も心当たりを当たってみます。しかし、それでも集まらなかったら九段円塔でもいいじゃありませんか。けっして無理をしないというのが最初の約束です。きっとあなたの思いは、子ども達に伝わっていますよ!」
 城田はみるみる元気を取り戻し、深々と頭を下げて校長室を出たのだった。
 ところがその翌日、校長室に一本の電話が入る。相手は市長の五木で、烏山はそのまま市役所へ呼び出された。市長室に入って開口一番、
 「烏山先生、困るんだよ。十段円塔は中止と言ったはずじゃないか」
 と、五木市長がいかにも迷惑そうな口調で言ってきた。
 「先週から市内の企業から『須坂市では特定の学校のために動員要請をかけるのか』と、苦情の電話が相次いで対応に困ってるんだよ。『間違いだ』と何度も説明しているのだが、こないだの日曜日に説明会を行ったそうじゃないか。いったいどうなっているんだい?」
 市長は半分呆れたようだった。すると早くも烏山は覚悟して、
 「十段円塔はやめません!」
 毅然と言い放った。市長はびっくりした表情で烏山を見つめて、
 「君ねえ、何を言ってるか分かっているのかね?」
 と、目を細めた。烏山は権力を傘にした言い方が気に入らない。
 「校務におけるすべての責任は校長の私にあります。ここはひとつ、私に一任していただけませんか?」
 「ダメと言ってるじゃないか!」
 普段は穏やかな風体をしているが、いったんこうと決めこんだら梃子でも動かないのは五木も同じで、そこへきて癇癪持ちときているから烏山より達が悪い。その怒声にあおられて烏山も言い返した。
 「そもそも学校は教育委員会の管轄です。市長が口を挟む話ではありません!」
 「阿呆、教育委員会は市長の管轄だ!」
 と、五木は苛立ちを隠せない様子で、教育長の井ノ原弥生先生を呼びつけた。そして、「井ノ原先生からも言ってやってください」と促したところが、
 「いいじゃありませんか。やらせてあげましょうよ」
 という涼しい声が返ってきた。五木は「君まで何を言い出すか?」といった表情で、すでに話し尽されていることをくどくどと説き始め、そして最後にとどめとばかり、
 「これは県の教育委員会からの命令なんだ!」
 と叫んだ。すると井ノ原教育長はフッと笑って、
 「私が知りたいのは県の方針ではなくて市長のお考えです」
 とこれまた涼しい顔で言うものだから、市長はふと考え込んでしまった。確かに最初に十段円塔の話を聞いた時は面白そうで須坂市のPRにもなると思ったのだ。ところが県教委からの中止命令を受けて、深く考えもせず烏山に中止勧告を与えたのも事実だった。そこへきて、なるほど教育長の言うとおり自分の意思はどうかと問われてみれば、単純に責任逃れをしているだけで自分の考えなど微塵もない。五木とて人口5、6万人の市の代表者であり、馬鹿でないから、そこは冷静になって考え直してみた。しかしいきつくところは同じで、
 「万一、事故が起こったら取り返しがつかない」
 ということだった。しかし井ノ原教育長は、
 「城田先生なら必ず成功させますよ」
 と言う。その確信はどこから来るのか、五木市長には勿論、烏山にも理解しかねたが、話し合いは平行線をたどるばかり、時間だけが無駄に過ぎていった。
 ―――市長は知っていた。話し合いでどちらも折れず、平行線をたどる時の究極の判断方法を。こういったことは議会でもよくあることなのだ。議会の場合、たいてい最終決断は市長に委ねられるが、議論もし尽し、あらゆることも試し尽して結論が出ないものを、神でない市長が判断できるわけがない。そうした時、五木は鉛筆を転がす。つまり命運を天に委ねるのだ。それはコインでも良かったのだが、議会の狭い市長席においては鉛筆の方が都合良かった。
 スポーツの世界でも引き分けで決着がつかない時はジャンケンという子どもの遊びで勝敗を決めたり、政治の世界でさえ選挙で得票数が同じであった場合は運という極めてあいまいなくじ引きという方法で当落を決めたりするではないか。PTAや町の役員決めの時も、しぶしぶ顔を合わせた者達で、あみだくじやジャンケンをして一喜一憂するのだ。学校や町という大事な現場運営を預かる役職であるにも関わらずにだ。もしそういうことせず平行線をたどり続けたとしたら、例えば国際関係であったなら、交渉決裂で戦争にまで発展させてしまうのが人間の宿業なのだ。更に歴史を見るならば、古代では政治において占いが当然のように用いられていたし、中世では決闘とか果し合いとかで重要な局面を決定してきたこともある。最終決着を付ける場面において、いまだ人類はこうした原始的な決め方に頼るしかないというのが五木の持論で、結局それが人類の限界だと思っている。非文明的かつ非科学的なことをくり返して人類の歴史はできているのだとの達観だ。
 五木市長は烏山校長をキッと睨んだ。
 「確か烏山先生は、むかし柔道をやっておられましたね?」
 烏山は突然なにを言い出すかと五木を見つめ返した。
 「実は私も学生時代やってましてね……。どうでしょう、このまま口論を続けても結論など出るはずもありません。私も忙しい身でして……ここはひとつ柔道で決着をつけませんか? 私が勝ったら烏山先生はきっぱり十段円塔を諦める。烏山先生が勝ったら私は十段円塔を認めましょう。原始的かもしれませんが、決闘で決着をつけてお互いスッキリしませんか?」
 実は五木、今でも時間が空けばごくたまに、市内の柔道場に通って稽古をする有段者なのだ。一方、烏山も柔道には自信があった。学生時代にはインターハイ出場実績を持っていたから、二人ともゆめゆめ自分が負けるとは思っていない。
 「いいでしょう!」
 と、烏山もいきりたっていたので、明後日早朝、教育長を立会人として、須坂市の柔道場において果し合いを約束し、その日二人は別れたのであった。
 そして―――
 決闘の日がやってきた。
 柔道場のカギを開け、さっそく道着に着替えた五木と烏山は、互いを威嚇しつつ準備体操を始めたが、そこへ眠い目をこすって現われたのが市のスポーツ柔道協会に所属する役員の面々だった。みな普段着を着たただのおじさんだが、市長直々に審判を頼まれたとあっては断ることもできなかったと見える。二人は彼らを相手に打ち込みをし、昔の勘を取り戻そうと身体を慣らしていると、やがて立会人の井ノ原教育長が姿を現し間もなく試合開始となった。
 「時間無制限一本勝負!」
 と、主審を務める協会長は言ったが、「本当にいいのですね?」と念を押し、既に老年の域に入らんとしている華奢な二人の体を眺めて、何度も市長に確認した。
 「無論!」
 と市長は叫び、二人は道場の中央に進み出て向き合い、烈しい睨み合いの火花を散らす。烏山周一三段、五木雅雄四段、市長と学校長との前代未聞の対決である。二人はお互い礼をして一歩前へ踏み出した。一見、烏山の方が体格は良かった。しかし体格で劣っている市長には身長があり、年に似合わない身軽さでぴょんぴょん跳ねている。烏山は「そんなに跳ねていたら足をすくわれるぞ」と内心ほくそ笑み、五木の方は「開始早々得意の内股で決めてやる!」と自信満々だった。
 「はじめ!」
 同時に二人の金切り声が飛び交ったと思うと、互いの襟元めがけて掴み合った。が、烏山が右組手に対して五木は左、いきなり喧嘩四つの襟と袖の取り合いで、互いになかなかいい所を掴ませてくれない。と、身長の差で高みから奥襟を掴んだ五木は、得意の内股を繰り出した。まさに一瞬である。烏山の身体は宙を舞い、そのまま畳に叩きつけられた。
 「技あり!」
 審判の右手が横に伸びた。やや引き手が甘かったかと、五木は悔しそうに最初の立ち位置に戻った。一方烏山は今の投げ技で額から血が滲み出た。そして「侮れぬ!」と市長を睨み付け、勝算の算段を始めた。学生時代と比べて動きがかなり鈍っており、昔の勘を取り戻すには時間が必要だと思った。しかし勘を取り戻すまで今の体力では持たないだろうとも思った。「さて、どうしたものか?」と、乱れた道着を整えながら最初の立ち位置に戻ると、
 「はじめ!」
 試合再開の審判の声。烏山は細かい足技を繋いでしばらく様子を見ることにした。五木は身長が高いから背負い投げや一本背負いは仕掛けてこれないはずである。大方投げ技を警戒するなら先ほどの内股、あるいは払い腰あたりであろう、他にどんな技を持っているのだ?―――と思ったところへ、五木は体落としを仕掛けた。すかさずそれをかわした烏山は小外刈りで五木の身体を崩す。
 「有効!」
 とそのまま寝技に入ろうとしたが、寝技は体力の消耗が著しい。攻めあぐねている振りをしていると「待て!」の審判の合図が入る。
 一方五木は、「早い段階で勝負を付けなければ不利になる」と思っている。自分の体力を熟知していたし、五分も戦えばヘトヘトに疲れ切ってしまうことを知っていた。それは烏山も同じであったが、最初の内股が技あり止まりだったことに、次の打つ手に躊躇した。「やはり一瞬を狙って内股を放つしかない!」、そう思い極めて再び喧嘩四つに組み合った。
 試合開始から二分もしないうちに、二人は肩で息をし始めた。年寄りの冷や水とでも言おうか、柔道で時間無制限の決闘など土台無茶なのだ。ところが二人は喧嘩する野良猫のように持ちうる技を出し合った。道場の端では井ノ原教育長が「ガンバレー」と他人事のように観戦している。
 やがて体力の限界を察知した五木が最後の賭けに出ようとしたとき―――烏山は喧嘩四つの組手を相四つに切り換えた。五木は「いまだ!」と、必殺の内股を放とうと相手を引き寄せた瞬間、それより一瞬早く五木の釣り手がグイッと持ち上がったかと思うと、烏山の腰が五木の重心の乗った右足の付け根にピタリとひっついた。
 「あっ!」と思う間もなくフワリと五木の身体が宙に浮かんだ。
 まずい! 袖つり込み腰だ!
 思った時は既に体の自由は利かない。五木の脳裏は真っ白になった。
 ところが袖つり込み腰の最大の弱点は、投げを打ったとき、肝心の引き手がないことである。いくらタイミング良く入ったところできれいに決まることは滅多にない。しかしその技を最終兵器としていた烏山は、釣り手の左手を素早く相手の右袖に移動し、しかもがっちり掴むことができたものだから、五木の身体はそのまま空中できれいに一回転して、そのままズシンと大きな音をたてて畳の上に落ちたのだった。
 「一本! それまで!」
 文句なし―――五木は悔しさを噛みしめながら、柔道の習いに従って「お互い礼」をすると、
 「参った……」
 と言った。そこはやはり男であった。あれほど見事に決められては返って気持ちがいいものなのだ。決着の結果に対してくどくど文句は言わず、むしろ戦国時代ならば首を斬られたくらいに思っている。しかし悔しさからでなくこう言った。
 「烏山先生、負けて言うのもなんだが、十段円塔をやるにつけ一つだけ条件を付けさせてくれないか?」
 「条件?」
 「せめて一番上の子から3段目までの子ども達くらいには、命綱を付けてやってくれ」
 それは市民を守ろうとする市長の心だった。烏山にはその気持ちが理解できた。「分かりました」と素直にその条件を受け入れると、今度は烏山の方から、
 「そのかわりと言っては何ですが、私からもお願いがあります」
 と言った。市長は首を傾げた。
 「実はここにきて十段円塔の土台となる人足が、132名ほど足りなくなりました。市長の顔で、その不足分を集めてはもらえないでしょか?」
 果し合いを終えた瞬間、二人は思いを分かち合う同志になっていた。五木は烏山のおでこの傷を見ながら大きく笑い、「なんだかキツネにでもつままれたようだが、分かったよ」と言った。
 こうして市長承認のもと、十段円塔実現への大きな障害は消えた。烏山校長は、「命綱ってことは、クレーン車が必要だなあ」と次なる課題に頭を抱えながら、一日が始まる小学校へと向かった。そして額に大きなガーゼを貼って、今朝の出来事は誰に言うことなく朝の職員会に臨む。
 
> (28)伝えられない気持ち
(28)伝えられない気持ち

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 朝の職員会議が終わり、烏山校長は城田を校長室に呼び入れた。痛々しい額のガーゼが気になる城田は、「どうされました?」と心配そうに聞いたが、校長は、
 「いやね、猫にやられましてねぇ」
 と笑っただけで、はて?「校長は猫なんて飼っていたかなあ?」と城田は首を傾げた。
 「実は今朝、市長から連絡がありまして、十段円塔続行を認めてもらいましたよ!」
 城田は思い出したように「そうですか!」と叫んだ。実は説明会やら人員不足の件やら弁当調達の件やらで頭がいっぱいで、市長からストップがかかっていたことはすっかり頭から飛んでいたのだった。
 「しかし県教委からの指示だったのでは?」 
 「市長のことですからなんとかしてくれるでしょう。それに不足人員132名も、市長の顔で集めてもらうことになりました!」
 「そうですか!」と城田は小躍りして喜んだ。
 「しかし一つ、条件を出されました。10段目、9段目、8段目の子ども達に命綱をつけよと」
 「命綱ですか……?」
 「私もグッドアイデアだと思いましてね、了解の返事をしておきましたよ」と笑った。
 城田は命綱など必要ないと思っている。しかし市長も校長も心配するのは当然で、そこは波風を立てずに「わかりました」と返事をした。
 「しかしグランドでやるわけですから、命綱を釣るクレーン車が必要だと思うのですが、城田先生、どなたか重機を動かせる人で心当たりはありませんか?」
 そう言われてもすぐに心当たりなど浮かばない。そこで次の日曜日に行われる全体練習の際、保護者にそういう人がいないか聞くことにした。次の練習では子ども達も集める予定でいるが、全体の配置や動きの確認をしたり、マットなど備品の置く位置や、円塔も部分的に練習して感覚を掴むことに焦点を置いたもので、実際十段を立てるのは更にその次の日曜日の計画だったから、それまでに間に合えばいいわけだ。しかし重機を動かせる人は見つかったとしても、肝心のクレーン車がなければいけないので、今のうちにレンタルできるところを探しておくということで話はまとまった。
 そうして城田は一時間目の授業に向かった。
 この頃になると、運動会当日のプログラムも決まり、その内容は、定番の各学年のかけっこあるいは短距離走はもとより、競技種目では低学年の玉入れ、中学年の五人六脚大玉ころがし、高学年女子の竹引き合戦、高学年男子の騎馬戦、表現種目では低学年のリズムダンス、中学年の信濃の国音頭、そして高学年の組体操と、更には一学年から三学年と、四学年から六学年それぞれに行われる綱引きや、選抜対抗リレーや委員会対抗借り物競争、あとは全体競技として大玉送りも企画され、これらをこなさなければならない子ども達も大変である。その他、PTA種目の風船割りゲームや地域の各種団体参加種目のお楽しみゲーム、来年度入学児童種目では旗拾いなど盛りだくさんである。
 児童会による運動会スローガンも決定され、今年は『蛍ヶ丘の光よ一つになれ!』に決定した。これは全校児童の公募により集められた言葉の中から、児童会長の成沢輝羅々が中心になって考えたもののようで、そこには彼女の思いが詰まっている。今日行われた児童集会で発表され、
 「わたしたち一人ひとりは小さな光かもしれませんが、みんなが一つになれば、太陽のように輝く大きな光になるに違いありません。力を合わせ、運動会を大成功させましょう」
 と、輝羅々は明るい声で訴えたのだった。これらの内容がプリントされたものが、近々各家庭に配布される予定だ。
 そんな思いとは裏腹に、原田家と水島家の親同士と子ども同士の諍いを中心に、城田先生と高橋先生の不調和や、細かいところに目を向ければ、団結を崩す因子が無数にあった。今日もまた原田萌と水島友太は花壇の水くれ当番をさぼったさぼらないで大喧嘩をしたところなのだ。城田は思い余って二人を呼びつけ、
 「お前たち、いい加減にしろよ。寄ると触ると喧嘩ばかりして。いったい何がそんなに気にいらないんだ?」と問えば、
 「顔!」と、友太が憎たらしそうな口調で答える。一方萌も、
 「あんただって人のこと言えた義理? スネ夫みたいな顔してさ! 今日はドラえもんの収録はないんですか? 嫌われ者にはお声がかからないのね!」と、一言われれば十倍にも二十倍にもして言い返す。
 「なんだと!」と、そこでまた喧嘩が始まる。
 城田は十段円塔でのこの二人の隣同士は無理かな?と思い始めている。しかし一方では、この問題は成功させる過程においてどうしても乗り越えなければならない壁だとも思っており、二人を団結させない限り塔は立たないとも感じていた。また二人の親同士の弁当をめぐる争いにも頭を痛めていて、なんとか両家を仲良くさせる手立てはないものかと悩んだ。城田は放課後、友太を職員室に呼びつけた。
 「お前ナぁ、女の子に向って顔が気に入らないなんて言っちゃ駄目じゃないか。先生、男として忠告しておくが、女の子は男が思っている以上に容姿を気にしているんだぞ。原田の顔を良く見てみろ、案外可愛らしい顔付をしているじゃないか。先生は好きだなあ……」
 と言うと、どういうわけか友太の瞳に涙がたまり出し、
 「ぼくだってそう思うよ!」
 声を詰まらせ言ったと思うと、いきなりわんと泣き出した。城田は呆気にとられて、周囲の職員の視線を気にして、友太の手を引き慌てて職員室を飛び出した。そして近くの会議室に入り込み、「なぜ泣く?よかったら訳を話してみろ?」と聞いた。友太はしばらくグズっていたが、やがて気持ちが落ち着いてくると、
 「パパがね、萌のお父さんはドロボーだから、萌とは仲良くしちゃいけないって言うんだ……」
 と、涙で言葉を詰まらせながら答えた。
 「泥棒ってどういうことだい?」
 「ぼくだって分からないよ!」と、友太は再び泣き出した。
 「しかし泣くほどの事ではないじゃないか?」と言おうとした時、城田はふと閃いた。友太は萌のことが好きなのだと。好きな女の子に思いを伝えられないもどかしさの上に、父親からは仲良くしてはいけないと言われている葛藤の中で、どうしていいか分からない感情が萌に対するちょっかいとなって表れているのだと思ったのである。しかし教え子の恋愛相談など、教師としてはできれば一番関わりたくない問題だった。恐る恐る、
 「ひょっとしてお前、原田のことが好きなのか?」
 と聞けば、顔を真っ赤にして「悪いか!」と声を張り上げた。そして、
 「先生、どうしたらいいと思う? ぼく、あいつの前に行くと、思っていることと逆のことを言っちゃうんだ……」
 六年生とはいえまだまだ子どもである。城田は無性に友太が可愛くなったが、かといって自分の恋愛体験を語って聞かせるほど経験豊富でない。それどころか、いままさに春子というその女性関係で悩んでいる真っ最中なのだ。どう言葉をかけてあげればいいか分からないまま、「泣くな、泣くな」と友太を抱きしめてあげることしかできず、また一つ悩みが増えたことにため息を落とした。
 そんな矢先、翌日の五、六年生合同の体育の時間、恐れていた事故が起こった。もっとも腕を擦りむいた程度で大事には至らなかったが、怪我をした児童というのが城田のクラスの萌だった。その原因は案の条萌と友太の諍いで、萌の左足を友太の右足が邪魔をして、バランスを崩した萌がマットの上に転落したのだ。幸い足場の4段目はしゃがんでいたのでたいした落差はなかったのだが、萌の腕から血がにじみ出ていた。もちろん友太も転げ落ちたが怪我はなく、萌は流れ出る血を気にして、そのまま保健係に連れられて行った。
 そのとき友太は蒼白になった。冗談で邪魔をしたつもりが怪我をさせてしまったことに、普段なら「お前が悪い」「ふざけんな」の口論になるところだが、彼女が血を出して保健室に運ばれたとあって、初めて事の重大さに気がついたのだった。暫くは呆然としたまま声も出ない様子でいたが、城田に、
 「保健室に行って様子を見てきなさい」
 と言われたものだから、我を忘れて体育館を飛び出した。そして「自分のせい」との自責の念に駆られて保健室の扉を開けると、笑いながら鶴田先生の治療を受けている萌がいた。友太に気付いた鶴田は、
 「水島君じゃない? どうしたの?」
 と言って友太を中に招き入れたが、途端萌はそっぽを向いてだんまりを決め込んだ。脇には保健係のアッちゃんもいる。
 「城田先生に言われて来た」
 友太はぶっきらぼうに答えた。
 「大丈夫よ。骨が折れたりしてないから。ちょっと擦りむいただけ」
 鶴田は萌の腕に包帯を巻きながら言ったが、擦りむいただけとはいえ、包帯の白さがいかにも痛々しく、友太は一層自責の念を強めた。
 「水島君、原田さんの足を蹴ったそうじゃない? どうしてそんなことしたの?」
 鶴田は続けて言った。その言葉に友太は目に涙をためて、
 「ゴメン……」
 と一言だけ言って、保健室から逃げるように出て行った。萌は、友太が謝ったことが信じられないという顔をして彼を見送った。
 萌はその日の放送当番だった。放送当番は放送委員会の仕事で、四年生以上の各クラス数名の人選で構成されており、城田のクラスからはPTA会長の息子音無太一もメンバーの一人で、校内放送は朝の始業放送とお昼の放送と放課後の下校放送の三回、日替わりで担当グループが決まっている。太一も萌と同じグループだったので、放課後になって放送室に入ると、下校のテーマ音楽を流し、大きなガラス窓で隔たれた防音室のマイクの前に座る萌にキューサインを出した。
 「下校時刻になりました。教室や廊下の戸じまりはできていますか?学校に残る必要のない人は早めに下校してください。明日も元気に登校しましょう」
 一日の放送当番を終えて、放送室から教室に戻るとき、萌は気さくに「音無君、帰ろっ」と誘うのが常だった。もちろん萌にとってはごく普通の振る舞いだったが、太一にとっては照れくさく、いつしか彼女に好意を寄せるようになっていた。並んで廊下を歩きながら、萌の腕の包帯を気にして、太一は顔を赤らめ思い切って、
 「腕、だいじょうぶ? 痛くない?」
 と小さな声で聞いた。萌は心配してくれていることに対して、嬉しそうに、
 「ぜんぜん平気、ちょっと擦りむいただけ」
 と答えたが、太一は恥ずかしくてそれ以上のことは聞けなかった。二人が六年愛組の教室に戻ると、ひとり水島友太だけが残っていて、後ろの棚の上にある図工の時間の作りかけのマグカップ作品を眺めていた。友太は萌に謝りたくて、彼女が来るのを待っていたのだった。それに気付いた萌は、ムキが悪そうに何も言わずランドセルを背負って、そのまま教室を出ようとした。
 「ちょっと待てよ、萌!」
 友作はそう言うと、萌の後を追いかけ腕を掴んだ。
 「さわらないで!」
 萌の怒声に、喉まで出かかっていた「ごめんな」の言葉が、友太は言えなくなってしまった。萌はそのまま走り去り、独りぽつんとたたずむ友太の脇を、太一が静かに通り過ぎようとしたとき、
 「原田さんは優しい人が好きだと思うよ……」
 と太一は友太に小さな声で言った。
 「わかったようなこと言うな!」
 友太は太一の頭を叩くと、そのまま走り去った。
 そのころ職員室では、早くも市長から不足分にあてがわれる人員名簿がFAXで届いた。名簿を見れば、市のスポーツ少年団役員や市内の消防団、あるいは市役所の職員などの名が連なり、「さすが市長!」と城田は感心しながら彼らに連絡を取るところだった。
 
> (29)高所恐怖症
(29)高所恐怖症

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 さて、全体練習の日曜日が訪れた。
 大人の参加者は全員というわけにはいかなかったが、およそ半数くらいが集まって、更にSTBの取材も入った。今回の取材は事前に申し入れがあった上での来校で、「十段円塔の途中経過をカメラに収めたい。内容によっては二日後のSTBニュースで放映したい」と言うので、烏山校長も快く許可を出したわけだ。
 参加者が集まりはじめた校庭には、案の条悶巣蛇亜のアゲハのヤッシャンと金髪の中村光也の姿も見えて、二人は盛んに周囲をキョロキョロ見回し誰かを探している様子で、やがて城田のところにやって来ると、
 「鶴田先生は今日は来ないのですか?」
 と聞いてきた。城田は二人の体からプンプン匂ってくる香水の薫りに顔をしかめて、
 「そのうち来ると思いますよ」
 と答えると、二人は嬉しそうに集団の中へ戻って行ったが、その芳しい薫りに誘われて、彼らの周囲には早くも四、五十代の婦人たちが色目を使って集まり出し、「あなたたち、何の香水しているの?」と、たちまち熟女たちの人気を集めた。その様子を遠くで見ていたガリ先生は眼鏡の奥で笑っている。
 体操台の前に不規則に整列した集団は、やがて台の上に立った城田の説明を聞き、グループ毎に分かれて練習を開始した。まずは一段目の土台を構成する五人一組の肩の組み方から始め、その上に三人一組のグループが立ち、更にその上に一人が立つという、全体の一、二、三段目を構成する個別の三段円塔までいければ今日のところは目標達成の計画だった。もちろん人数がそろっていないので部分的にはなってしまうが、九人一組それぞれのグループ毎に相談してもらい、もっとも強固な立ち位置を模索してもらいながら、実際に身体で体験してもらうことも大きな目的である。一方子ども達は、四年生を交えて七、八、九、十段目の四段円塔を成功させることを目標にしていた。そしてその練習の様子をSTBのカメラが追っている。
 城田は大人たちの練習は大人達に任せて、四段円塔の指導についていた。お昼休みの練習では、4年生の四人はすでに三人の上に一人が立つ二段円塔ができるようになっていたから、頂点に立つ瑠璃も意気揚々として、母親の周防アナウンサーと一緒にその意気込みを笑顔に乗せてテレビカメラにおさまった。
 「いよいよ今日は四段円塔の練習と聞いていますが、調子はどうですか?」
 と、周防アナ。
 「調子はいいです。今までは4年生だけで二段円塔の練習をしてきましたが、今日は5、6年生と一緒に初めて四段に挑戦するので、とても緊張しています。でもがんばります!」
 「とても力強い言葉ですね。では怪我のないように頑張ってください!」
 「はい!」
 瑠璃はいかにもカメラ馴れした笑顔で集団の中へ入って行った。
 城田は裸足の子ども達を整列させると「ピッ!」と大きな音で笛を吹いた。七段目の十人が校庭の中央に進み出て円陣を組んでしゃがみ、次の合図で八段目の五人が進み出てその上に登って肩を組み、更に次の合図で九段目の4年生の三人がよじ登ってしゃがんで肩を組んだ。まったく統制のとれた小気味よい動きである。
 そして次の笛の合図で、いよいよ一番てっぺんの瑠璃がカメラの前でにっこりと笑ってVサインを作ると、円陣の周囲で補助を務める先生方の心配をよそに、威勢よく塔のてっぺん目がけて登り始めた。そして全員がしゃがんだ状態で四段円塔ができあがったのである。STBのテレビカメラが回り、あとは下の方から一段ずつ立ち上がっていくのである。
 城田が「七段目立ち上がれ」の合図の笛を吹いた。すると最下段の子ども達がゆっくり立ち上がった。周囲で練習している大人たちの視線も、おのずと子ども達の演技に集まり、最下段が立ち上がっただけで俄かに緊張が走り、まばらな拍手が起こった。その時である、
 「キャ〜〜ッ! ムリ、ムリ、ムリッ!」
 と声がした。最初、どこから聞こえてくるのか分からなかったが、出何処を探すと、四段円塔のてっぺん、しゃがみこんだままの瑠璃が、猫のように背を丸めて大声で叫んでいるではないか。
 「瑠璃ちゃん! どうしたの?」
 下で補助についていた桜田先生が聞いた。
 「ムリ、ムリ! おろしてッ!」
 城田は何が起こったかと焦りながら、
 「七段目、笛を合図にゆっくりしゃがめ! もう一度言う! 七段目、笛を合図にゆっくりしゃがめ!」
 と叫んでから笛を吹いた。最下段の子ども達がゆっくりしゃがむと、瑠璃は転げ落ちるようにして下に降りて来て、桜田の太腿にしがみついた。そこへ「瑠璃、いったいどうしたの?」と周防アナが駆け寄ると、瑠璃は半分泣きべそをかきながら、
 「ママ、怖い―――」
 と言った。周防は「大丈夫、大丈夫」と言いながら瑠璃を抱きしめたが、ふと、ある事を思い出したように呆然と立ち上がった。
 「瑠璃ちゃんのお母さん、どうしました?」
 桜田が不審に思って聞くと、
 「どうしましょ、私、すっかり忘れていましたわ……。瑠璃、高所恐怖症でしたの……」
 よく晴れた上空を、一羽のスズメが通り過ぎた。城田と桜田は衝撃の一言の意味を理解できず、暫くは思考能力が麻痺してしまったかのように周防を見つめたままだった。
 「こ、高所恐怖症って、どういうことでしょうか?」
 ようやく我に返った城田が言った。
 「言葉のとおりですわ。瑠璃が幼稚園の頃だったかしら、遊園地に行って観覧車に乗ったのですが、瑠璃ったら少し上に上がっただけで『怖い』と言って大泣きしてしまいまして、私の膝に顔をうずめて一周する間中ずっと泣いておりましたの。それから2年生の時にスカイツリーに行ったのですが、展望台にあがった途端、恐怖からか足が動かなくなりましてね、結局景色を見ることなく、私、抱っこしたまま降りて来ましたのよ。そうでした、瑠璃ったら高い所がダメだったんです。忘れてましたわ―――」
 周防アナはおちゃめな笑みを浮かべて舌を出した。
 「ちょっと待ってください……では十段円塔で一番上をやるというのは……」
 「瑠璃には無理かもしれませんネ。なんせこの子、高い所が苦手ですから、ホホホ……」
 「ホホホじゃありません!」と喉まで出かかったが、城田は怒りを抑えて「では、どうしましょう?」とできるだけ穏やかに言った。周防と瑠璃はしばらく何か話し合っていたが、やがて、
 「仕方がありませんので、子どもレポーターということで、私と一緒に十段円塔の実況をすることにしますわ」
 周防が性懲りもなく言った。呆れて開いた口がふさがらない城田と桜田は相談し、瑠璃の替わりに別の4年生を選出して、一番てっぺんは当所の予定どおり紅矢希にやってもらうしかないということで話がまとまった。それにつけても周防美沙江という女には振り回されっぱなしの城田は、気付かれないように彼女を横目で睨みつけた。
 ともあれ瑠璃の辞退で予定の四段円塔の練習はできなくなり、体育の時間と同様の四段目から八段目の練習に終始することになる。
 大人たちの方もなからコツを掴んだ様子で、区長やPTA会長などはSTBのマイクを向けられ、それぞれ意気込みを話していたようだが、やがてその日の練習は無事終了し、城田はなけなしのポケットマネーで買ったホームランバーを配って、体操台に立ってマイクで講評を述べた。
 「本日はたいへんにお疲れ様でした。今日はそれぞれのグループ毎に三段の円塔を作っていただきましたが、実際は更にその上に子ども達が乗ることになります。計算しますと、一人当たりおよそ五〇キログラムの重さを支えていただくことになります。重さも去ることながらそれにも増して重要なのは全体のバランスです。どうか重心を常に円塔のセンターへと心がけていただき、心を一つにしたいと思います。今日は全体の半数くらい集まっていただきましたが、来週の日曜日は全体でできる最後の練習となります。そして、いよいよ十段円塔を立ててみようと思っています。どうかご協力お願いします」
 みなホームランバーをしゃぶりながら、「成功させよう」という拍手が起こり、城田は確かな手ごたえを感じたのだった。
 「それと―――」
 と城田は話を続けた。校長から言われた命綱を使用するにあたり、クレーン車を扱える人員を探そうとしたのだ。すると、
 「クレーン車ならうちの旦那が運転できますけど」
 と手が挙がった。見れば5年信組の牧航貴の母親で、彼女の家は牧建設株式会社という建設会社の経営をしており、重機は日常的に使っているのだと言う彼女は社長夫人というわけで、
 「当日仕事が入ってなければ、旦那と一緒にクレーン車も貸してあげるわ」
 と笑った。すかさず携帯電話で連絡を取ってもらうと、「任しとけ!」と快い返事が返ってきて、命綱の件は鮮やかに片付いたのだった。
 全体練習は昼前には解散となり、城田と桜田はその散会する様子を見送った。するとにやけ顔のヤッシャンと中村が近寄ってきて、隣にいた鶴田先生に話しかけた。
 「鶴田先生! 会いたかったです」
 と、どうした訳か美由紀先生は一瞬顔をしかめると、
 「ごめんなさい、今日はちょっと忙しいのよ」
 と、逃げるように去って行った。それを追いかけようとしたヤッシャンと中村の腕を掴んだのはガリ先生である。
 「君たち、野暮はよしたまえ」
 「なんだよ、手を離せ!」
 「きっと君たちの香水の香りにうっとりして、混乱してしまったのだ。女心というものをよく理解してあげて、また来週出直したまえ」
 ヤッシャンと中村は「さもあろうか」と納得した様子で鶴田の後姿を見送った。それにしても二人の体から匂う香水の香りは強烈で、そこにいた桜田と城田は怪訝そうに二人を見つめた。
 
> (30)恩師
(30)恩師

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 その二日後の夕方、STBニュースで全体練習の様子が放送された。瑠璃の子どもキャスターへの転身ぶりも見事なもので、周防アナと一緒にテレビに映っており、また、区長とPTA会長もインタビューに答え、地域の期待もますます高まったようである。
 一方、瑠璃が抜けたことで再び頂点を努めることになった希だが、情況をよく理解していて愚痴ひとつ言うことなく快諾したのだった。そして瑠璃の替わりとして白羽の矢が立ったのは、桜田のクラス4年敬組の原田輝という男子児童。彼は『日の出食堂』の息子であり、6年の萌の弟でもある。城田は『夕焼け弁当クック・モット』の娘である希との関係を危惧しながらも、体重順で考えれば彼が適任であることに納得するしかなかった。
 残業の先生方は、普段は見ることもない職員室のテレビをつけて、そのニュースに釘付けになっていたが、教務主任の高橋一郎先生だけは、然有らぬ体を装って何かの書類をまとめる業務に専念していた。そして放送が終了して半時も経たずして校長室の電話が鳴った。烏山校長の電話口の向こうは五木市長で、
 「烏山先生、いやはや困ったことになったよ。そっちには県教委から何の連絡もないかね?」
 と話し始めた。
 「こちらには何の連絡もありませんが……」
 「そうですか、きっと井ノ原教育長のところで止めているのでしょう」と言ったあと、
 「さっきのSTBのニュースが終わった直後、県教委から『中止したはずなのにどうなっているのだ!』とお叱りの電話があってね、わたしゃあれこれ言い訳を言って電話を切ったんだが、そしたらたったいま国会議員から電話でね、『県教委の命令に従わなければ文部科学省に訴えるぞ』だとさ。いよいよ私の首も危うくなったぞ」
 「国会議員? 誰です?」
 「ほら長野一区から出ている友愛党の国立是清衆議院議員だよ。国立議員っていったら今の文部科学大臣とツーカーの仲だっていうじゃないか。こりゃそのうち内閣総理大臣が出てくるぞ」
 五木は冗談を言いながら力のない笑い声をあげ続けた。
 「決闘に負けたとき、この件に関して既に私は烏山先生の従僕だ。烏山先生が十段円塔は中止だと言ってくれれば、私も君も辞職は免れる。どうだい? 考え直すわけにはいかないのかね?」
 烏山校長は言葉を詰まらせた。自分ひとりが校長を辞する覚悟ならすでにできていたが、そのために市長まで巻き添えをくわすことは本意でない。申し訳なさで胸をいっぱいにして返答に窮していると、
 「一蓮托生というわけだね」
 ぽつんと市長が言った。そのあっけらかんとした一言で烏山は次の言葉を見つけた。
 「いま一度、城田先生と話をしてみます。折り返しご連絡しますので、少しだけ考える時間をください」
 校長は受話器を置くと、城田先生を校長室に呼ぶよう事務の山際聡美先生に言いつけた。
 丁度そのとき城田も電話中で、彼の相手はクック・モット社長の水島友作だった。「運動会まで2週間を切ったというのに、弁当の発注はまだか?」という問い合わせであるが、先ほどのテレビ放送に気持ちが高揚しているのだろう、「今週中に注文をもらえないと仕入れが間に合わない」とひどく急かした。安易に返事をしてしまったら、日の出食堂の原田の腹の虫もおさまらないだろう。城田もまた頭を抱えながら受話器を置いたとき、
 「城田先生、校長先生がお呼びですよ」
 と事務の山際先生の声が聞こえた。そのとき職員室に、一人のキリッとした初老の女性が現われて、職員室の空気がぱっと明るくなった。
 「わたくし、六年敬組の成沢輝羅々の祖母でございます」
 女性は入り口でハリのある声でそう言うと、「一郎ちゃん、ちゃんとお仕事やってる?」と、まるで母親が子供に向って心配するようなセリフを言いながら、高橋一郎先生のデスクに向って一直線に歩み寄った。
 「こりゃまた森口先生! 突然学校へいらっしゃるなんて、一体どうされました?」
 高橋はその女性に気付くと直立不動で立ち上がった。″森口≠ニいうのは彼女の旧姓であり、彼女は彼の小学校時代の恩師なのだ。結婚して姓を成沢と改め、教師を退職してからは婦人会などを足場にして広く社会活動に取り組むいわば地元の女性名士である。隣のデスクの城田は自分の椅子を彼女に勧め、そのまま校長室へ向かおうとすると、
 「あなたが城田先生ですね」
 成沢タケ先生は愛嬌のある明るい声で城田を呼び止めた。
 「輝羅々がいつも申しておりますの。今日の十段円塔の練習で、城田先生がこんなことを言った、あんな事を言ったと。よほど楽しいのでしょう、毎日の夕食の話題はそればかり。それでね、今日運動会のプログラムが配布されましたでしょ、『蛍ヶ丘の光よ、ひとつになれ!』って。このテーマは自分が中心になって決めたんだって、あの子ったら自慢げに言いますのよ―――。そしたら夕方のニュースで運動会のことが取り上げられているじゃありませんか。わたくし、体がうずいてしまって矢も楯もたまらず学校に来てしまいましたわ!」
 成沢は話し出したら止まらない女性特有のおしゃべりを続けた。全日本婦人連合会理事長という肩書を持つだけあって、彼女のおしゃべりには箔があり、かつ説得力があった。城田は校長室に行くタイミングを見つけていたが、なかなかその隙を与えてくれない成沢は、ようやく「今日は城田先生にお話があって参りましたの」と本題に入ったのである。続けざまに「まあ城田先生もお座りになって」と、6年信組の八木先生の椅子を持って来て座らせたものだから、ついに席を立つ機を失った。
 「これは若いお母さん方の噂ですのよ」と前置きして、成沢タケが話し始めた内容を要約すると、現在小学校に通う子を持つ母親の間で、ある噂話がまことしやかに囁かれているという。それは城田先生とクック・モットの女店長が、あやしい男女の関係であるというもので、これから二人はどうなるかと、まるで芸能人のスキャンダルを話すような調子で二人がまつりあげられているらしい。城田は立つ瀬を失い顔を真っ赤にして聞いていたが、
 「まあ城田先生も独身だし、相手の女性も未亡人といいますから、私に言わせれば勝手にやってちょうだいって感じですけど」
 と成沢は一笑に伏した。「で、これも噂で私の耳に入ってきたのですが」と話は次の展開へと移っていく。それは、クック・モットと日の出食堂は以前から犬猿の仲だという話は町内でも有名だが、運動会の弁当の受注をめぐってその争いが激化し、いまや喧々囂々として両店舗には区民も近寄りがたくなっているという内容で、
 「いったい城田先生はどちらにお決めになるおつもりですか?」
 と、まるで当事者でもあるかのように詰め寄った。
 「実はまだ決めかねておりまして……」
 城田が言うと、すかさず「そこでご相談なのよ!」と成沢が言った。
 話を聞きながら自分には無関係と思い始めた高橋は、「私は関係ないようなので席をはずします」と言って立ち上がると、
 「なに言ってるの一郎ちゃん。みんなで一つのことを成し遂げようとしているのに、あなただけ席をはずすなんて許されません。座りなさい!」
 「はい……」と高橋はシュンとなって再び腰を下ろした。
 「で、ご相談というのは?」
 城田が言った。成沢はフッと笑むと、
 「その運動会当日の昼食なんですが、婦人会に任せていただけません?」
 「と言いますと……?」
 「炊き出しをさせていただきたいんですよ!」
 「炊き出し……?」
 「そうです! おむすびと、あとは豚汁でもすいとんでも何でも作ります。最近はそうした婦人会の出番がめっきり少なくなって人数も減る一方。顔を合わせても愚痴ばかりでしょ。組織というのは外に敵がいなくなると内部分裂が始まってしまうものです。これは婦人会にとっても大きなチャンスととらえてご協力させて下さいませんか。ああ、もちろん食材費は学校持ちということで……」
 城田の表情がみるみる変わった。
 「そりゃイイ! 願ってもない申し入れです! ぜひお願いします!」
 と、トントン拍子に話が決まり、城田と成沢は握手を交わした。それを横目で見ていた高橋は、馬鹿にしたように鼻で笑ったのを成沢は見逃さなかった。
 「一郎ちゃん、さっきから何か変ね。腑に落ちないことでもあるの?」
 さすが元担任である。教え子の一瞬の仕草で、心に潜むわだかまりを見ぬいてしまった。
 「一郎ちゃんはね、自分に不都合なことがあると、眉毛をヒクヒクさせるのよ。小学生の時のままね」
 成沢はケラケラと笑った。
 「森口先生、その一郎ちゃん≠ニ呼ぶのはやめてもらえませんでしょうか!」
 城田を前にして自分の過去が暴かれていくのがよほど屈辱なのだろう、高橋は不愉快な口調で言った。
 「いいじゃない。私にとってはいくつになっても一郎ちゃん≠諱v
 高橋は観念したように自分の思いを語り始めた。
 「私は最初から反対なのです、十段円塔なんて! 失敗でもしたらそれこそ取り返しがつかない。しかも失敗の可能性の方が大きいのです。そんな危険な事を子ども達にやらせることなどできません!」
 「あら? おかしいわね……?」と成沢は首を傾げた。
 「輝羅々が言ってましたよ。『全員が一つになれる思い出づくりをしたい』と高橋先生に相談したら、先生は『なにができるか先生も考えてみるね』と言ってくれたと、とても喜んでいたのに……。一郎ちゃん、子どもには自分の気持ちとは反対の事を言ったというの?」
 「仕方がなかったのです。子どもがやる気になっているのを、無下に『ダメだ』とは言えないでしょう」
 成沢の高橋を見つめる双眸が、慈愛に変わったのを城田は見た。
 「偉いわ、一郎ちゃん。私は定年まで教師を務めたけど、現職の時は忙しくて自分の仕事について考えている余裕もなかったけど、辞める最後の最後にこう思ったのよ……。教師とは、けっして夢とか希望を捨てない仕事なのだと。そして、嫌いな人であってもとことん人と関わり合いを持って行く仕事なのだと。教師は子どもを守るのが使命。広い意味でね。そして関わった子どもは生涯見守っていかなきゃいけない。目の前の出来事がその子の人生にどんな影響を与えるかなんて神様じゃないから分からない。でも、その時に、精一杯その子を愛することならできるでしょ? 私はそれでいいと思うのよ」
 「森口先生……」
 高橋は師から教えを乞う弟子のような眼で成沢を見つめ返した。
 「一郎ちゃんが小学4年生の時でした―――」
 成沢は懐かしそうに昔話をしはじめた。それは今から四十年以上前、成沢つまり当時は森口タケ先生が教員となり、はじめて担任を受け持ったクラスの中に、まだ十歳のイガグリ頭をした高橋一郎先生がいた遠い昔の話である。
 ―――「今日はみんなの将来の夢を聞きたいと思います」
 そこにいたのは、戦争を知らない世代に生まれた親たちが産んだ、新しい価値観が芽生え始めた時代に生きる子ども達だった。森口タケは今の子ども達が自分の将来の夢に対してどのような事を考えているのか興味津々で、何になりたいのか? またどうしてそう思ったのか? を手元のノートに書き留めながら、窓際の前列から順に聞いていったのだ。
 当時多かったのは、男子ではプロ野球選手や医者、科学者とかマンガ家、父親の跡継ぎとか警察官や消防士、中には総理大臣と言う者もいて、女子では小学校・幼稚園の先生や看護婦、歌手とかお花屋さんやケーキ屋さん、またお母さんという答えも多く、それは時代を反映した職業に違いなかった。
 そしてイガグリ頭の高橋に順番が回ってきたとき、すくっと立ち上がった彼は、ぶっきらぼうに、
 「鳥!」
 と答えたのだった。途端クラスに爆笑がわき起こった。その理由を聞けば「自由に空を飛びたいから」と言い、次の瞬間、「そんなのムリだよ!」「人間が鳥になれるわけがないと思う」「羽がないのにどうやって飛ぶんだよ」とか「鳥ってスズメ? ツバメ? ヒヨドリ?」とか、一斉に高橋を責めるブーイングの嵐が吹き荒れた。森口タケは鎮めようとしたが、集中砲火を浴びせられた高橋は頭に血が上っていた。
 「飛べるさ! 見せてやる!」
 言ったと思うと二階の窓から両手を広げてそのまま空に舞い上がったのだ。タケは悲鳴を上げた。一郎の体は地球の引力に逆らうことなく地面に落ちた。
 「救急車! 早く救急車を!」と、一時学校は騒然となったが、幸い一郎は足を骨折した程度で済み、以来彼の夢は旅客機のパイロットに変わったのだと成沢はまたケラケラ笑った。
 「高橋先生も案外やんちゃだったんですね」
 と、城田が言った。
 「やんちゃもやんちゃ、ある時なんか隣町の女の子に石をぶつけて、私、一緒に謝りに行ったのよ」
 「あれは、たまたま投げた石の先に立っていたのがいけないのです」
 「でも怪我をさせたのは一郎ちゃんでしょ? まだあるのよ」
 「もうやめませんか。僕はぜんぜん面白くありません!」
 まだまだ話したげな成沢は、これ以上昔話を暴露すれば高橋の癇癪が破裂することを知っている。
 「そうね、今では蛍ヶ丘小学校の教務主任様ですものね」
 急に真面目な顔に戻って、「この年になって最近思うのよ……」と、持論の教育観を述べ始めた。
 「子どもはちょっと無茶をさせた方が良いと思うの。一番いけないのは、大人が最初から『駄目だ』『無理だ』と決めつけてしまうことじゃないかって。ほら、子どもって失敗と成功の体験から様々なことを学ぶでしょ。その無茶な体験をさせない今の教育体質こそ、現代教育の欠点じゃないかってね……」
 そのとき三人の背後で手を叩く音がした。振り向けばそこに烏山校長が立っており、
 「まったく同感です!成沢先生の教え子にして高橋先生あり≠ナすね。感動しました! ああ私? 学校長の烏山です。いやあ、いくら待っても城田先生が来ないもので、こちらから来てしまいました。成沢先生、ご活躍は常々伺っております」
 烏山と成沢は旧知の同志のように挨拶を交わした。城田は校長室に行けなかった事情を告げると、
 「城田先生、実はまた問題発生です。そうだ、これも何かの縁でしょうから成沢先生にもご相談に乗っていただきましょう。高橋先生もね」
 烏山に連れられた三人は、やや神妙な顔付で校長室に入った。
 
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(31)権力者と獅子

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 校長室の接待用のソファに城田と高橋と成沢の三人が座わり、前のテーブルにメキシコ産のコーヒーを並べた烏山校長は、余った席に静かに腰を下ろした。そして香りを楽しんでから一口飲むと三人にも勧め、やがてゆっくり話し出した。それは五木市長の十段円塔中止勧告から、決闘を通して彼が協力者になった経緯、そして、いまさっきの文部科学省を盾にした国立国会議員からの脅しに似た中止勧告に至る内容である。自分が知らないところで骨を折ってくれていた烏山校長の姿勢に胸を打たれた城田は言葉を失い、高橋は「さもあろう」といった表情で聞いていたが、「さて、どうしたものか?」と烏山が言おうとしたところを成沢が言葉をはさんだ。
 「こんな片田舎の学校行事に、わざわざ国会議員が出て来て口出しするなんてどうかしら? なにか悪意に似た作為を感じますが……」
 烏山は現状を分析しながら説明をはじめた。
 「危険な十段円塔に取り組むことを知っていながら事故でも起こされたら、それこそ県教委は監督不行き届きで世間のバッシングを浴びるのは火を見るより明らかです。なんとか中止させるように須坂市に忠告したところが、肝心の市教委も市長も我々に賛同の立場をとりました。そこで議員を使って圧力をかけてきたのでしょう。ほら、国立議員といえば選挙のたびに長野県教育友愛会に支援要請をしてくるでしょう。県教委には教育友愛会に所属するメンバーも多い。大切な支持団体の依頼を断れるはずがありませんからね」
 「筋違いだわ!」と成沢が声を荒げた。「なぜ教育の畑に政治家が入ってくるの?」と、その怒りは尋常でない。というのも彼女は男女共同参画運動にも深く関わってきており、過去に問題となった国立議員の女性蔑視発言を根に持っていたのである。それはマスコミにおいて、ある教育問題が取沙汰されていた頃、一人の女性教育家のするどい意見に対し、
 『女は子どもを産んでいればいい』
 と公の場で発言した問題で、当時女性社会活動家の大反発を買って大騒ぎしたものである。成沢などはその陣頭指揮を執って激しい抗議運動をし、一応は国立議員の謝罪会見という形で終止符を打ったに見えたが、その後も事あるたびにセクハラまがいの言葉を口走ったり、女性をないがしろにした発言を幾度となくくり返していた。成沢に言わせれば国立議員は人権感覚をどこかに忘れて来た政治家≠ナ、その言動を日々注意深く監視しており、最近は人権を理解していない政治家が多すぎる!=高サんな政治家が国民のために働けると思いますか!≠ニ、講演会などでは常々口にしていた。
 「教育の問題は教育で解決しなければいけません!」
 突然成沢が机を叩いて立ち上がった。それには烏山校長も城田も高橋も目を丸くして彼女を見つめた。
 「向こうが筋違いなことをするなら、こちらも遠慮はいりません! 向こうが権威権力で夢に挑戦する子どもの願いを潰そうというのであれば、こちらは民衆勢力で対抗するまでよ! 女の力を思い知らせてやるわ!」
 成沢はその勢いのまま「校長先生、城田先生、それに一郎ちゃん!」と叫ぶと、三人は「はい!」と獅子の雄叫びに身震いするインパラのように立ち上がった。
 「国立議員は私が全力で押さえます。ですので学校はこれまで通り練習を続けてください! 一緒に子ども達の希望を護りましょう!」
 成沢はそう言い放つと校長室を出て行ったが、ホッとした三人がソファに腰をおろしたとき、再び姿を現して、「城田先生、炊き出しの件はよろしくお願いしますね」と言い忘れた言葉を伝えて帰って行った。
 すっかり冷めたコーヒーを飲みながら、
 「民衆勢力で対抗するとか言ってましたが、いったい何をする気でしょう?」
 と烏山校長が心配そうに言うと、それについて薄々勘付いている高橋は、小学校の担任だった時の森口先生のある事件を思い出した。それは彼女の同僚だった坂口という女性教師の結婚が決まった時、坂口先生が校長から言われたこんな言葉がきっかけだった。
 「坂口先生ご結婚おめでとうございます。どうせ女なのですから家庭に入るのが一番幸せでしょう。なあに、子ども達のことは心配いりません。既に後任の先生を見つけましたから、男のね……」
 ところが坂口先生には教師を辞める意思などなかった。泣かれながらその相談を受けた森口先生は、「どうせ女だから≠ニはどういう意味!」と激怒して、学校内の女性教師達と結束し、更には彼女たちが受け持つクラスの子ども達を引き連れて校長室の前で座り込み、坂口先生辞職撤回の抗議運動を展開したのである。その中にイガグリ頭の高橋一郎少年もいた。もちろん彼にしてみれば当時は何のためにそのような事をしているのか理解し兼ねたが、後の同窓会で当時先生だった彼女達と再会した際、その真意を知ることになる。そして「森口先生ってスゲエ!」と、女性に対する畏怖と尊敬を同時に抱いたのであった。高橋にはその思い出と今回の出来事がリンクした。
 「おそらく各種女性団体を率いて抗議運動でもするのではないでしょうか? 森口先生は全国の婦人連合会の重職を担っていると聞いています。森口先生が一声かければ、全国から千や二千の女性達が集結すると思われます。まずは署名運動、それで国立議員が折れなければ、長野駅前あたりでデモ行進でも企てる気でしょう。なにやら近年は社会に対して庶民たちが大人しすぎると、うずうずしている様子でしたから……」
 烏山校長は、話がますます大きくなっていくことに、苦笑いを作るしかない。
 「市長にはなんて説明すればよいでしょう……」
 と困った様子で城田と高橋に意見を求めた。
 「とりあえず成沢さんが議員を押さえると言ってましたから、結論を待つしかないと思いますが……」
 城田が言った。高橋は何も答えない。
 「もし成沢先生が失敗したとしたら?」と校長の心配はそれであるが、言ったところで同じ議論をくり返すことになるのは目に見えていた。そこへ高橋がポツンとつぶやくように言った。
 「森口先生は必ず成功させると思います」
 「なぜそう思うのです?」
 校長の問いに高橋は毅然と答えた。
 「森口先生は何に対しても命がけだからです。保身の権力者より命がけの獅子の方が強い!」
 烏山校長はニッコリ微笑んだ。
 「城田先生は十段円塔は必ず成功させると言い、高橋先生は成沢先生が必ず国立議員を押さえることができると言う。長の私がお二人の言葉を信じられなくて何としましょう。分かりました、市長にはそう返答しておきます」
 話が済んで城田と高橋は校長室を出た。お互い話すこともなく職員室の6学年の隣同士の席に座ると、互いにやりかけていた残業の続きを始めたが、ふいに高橋はズボンのポケットをゴソゴソやりだし、黒い愛用の財布を取り出した。
 「城田先生―――」
 残業の手を休めて目をむけた城田の目の前に、無表情の高橋の右手に二枚の一万円札があった。
 「これは?」
 「今度の全体練習の時に配るホームランバーの足しにしてください」
 どこで心境の変化がおこったものか、高橋は城田の手にその二万円を握らせた。
 「ええ? 助かります! いいんですか?」
 全く金策にも頭を痛めていた城田は、高橋の好意を遠慮なしに受け取った。
 「それと、当日必要な経費で足りない分は相談してください」
 そう言うと、高橋は再びパソコンで制作中の書類作成に目をむけてしまった。しかしその表情は心なしか明るく見えた。

 
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(34)自殺論と嫉妬
 
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(35)疑問

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 城田は遺書のことが気になって、その日桜田と九時ころまで残業すると、別れてそのままクック・モットへ向かった。車で乗り込めば、また向かいの日の出食堂の原田に目撃されるのではないかと恐れて、公民館の駐車場に車を置き、警戒しながら徒歩で向かった。周囲をキョロキョロしながら、いかにも怪しげにクック・モットの店内に入り込んだ城田であったが、やはりその不審な光景を、原田夫妻は明かりを消した二階の窓から覗いていた。夜九時過ぎとはいえ、よほど店が暇なのだ。
 「おい、城田先生がまた紅矢んとこへ来たぞ」と店主の友則。
 「しばらく姿を見せなかったのにねえ」と妻の良美が応えた。
 「きっと俺たちのことを警戒しているのさ。運動会の仕出し弁当一、〇〇〇食の予定が、ジャガイモ3箱、タマネギ2箱、ニンジン1箱に変わっちまったんだ。こっちは大損だよ。このままじゃすまねえぞ」
 「よしなよ。注文もらえただけでもヨシとしなくちゃ。それより今日はどんな展開があるのかな?」
 と、二人は楽しみにしているテレビドラマの続きでも見るようなはしゃぎようだった―――。
 「いらっしゃいませ! あら城田先生、先ほどはどうもありがとうございました」
 と、城田を迎え入れた春子は、どことなし明るく見えた。以前は店内に入った途端、睨むような陰険な空気を作り出していたのに、胸につかえていた大悟の死の真相を打ち明けることができたことによってか、重くのしかかっていた苦悩が少し軽くなったのであろう。
 「どうしたの? 夜なのにサングラスなんかしちゃって?」
 城田は「別に」と言いながらサングラスをはずすと、いつものから揚げ弁当を注文した。
 「春子先生、このお店はテイク・インできないの?」
 「なにそれ?」
 「テイク・アウトの逆さ。ここで食べていきたいんだけど……」
 春子は兵悟らしいつまらないジョークに笑いながら、
 「うちは食堂ではありません。お向かいさんに行ったら? 教え子の店でしょ」
 と返した。
 「実は話しがあるんだ……」
 城田の真面目な目付きから、大悟の事だと察した春子は、少し考えて、
 「じゃあ二階で食べて行ったら? もうじきお店閉めようと思ってたとこだから」
 と言って希を呼びつけると、「城田先生にお茶出してあげてちょうだい。大事な話があるんだって」と言いつけた。希はちょっと嬉しそうに、「城田先生、どうぞ」と言って彼を二階へ連れて行った。
 間もなくクック・モットの店の電気が消えたのを見て、原田夫妻は顔を見合わせた。
 「おい、電気が消えたぞ! 城田先生、まだ中にいるよな?」
 「ちょっと〜どうすんのよ〜!」と妻の良美は興奮気味である。
 「こりゃ、きっと、やっちゃうな……」
 友則の言葉に、暗がりの中でエッチな想像をした二人は、互いの目を見つめ合った。そしてゆっくり手を握り合い、新婚当初を思い出すように顔を近づけていった。
 「ねえ、なにしてるの〜?」
 驚愕仰天して声のする方を見れば、襖を開けた4年生の輝が、眠そうな目をこすりながら不思議そうに見ていた。
 「なんだおまえ! まだ起きてたのか、早く寝なさい!」
 二人ははじけるように離れて、冷や汗をぬぐった。

 希に連れられて二階にあがった城田は、整理整頓の行き届いた居間の中央に置かれた座卓の前に胡坐をかいた。希の躾もよくできていて、「先生、これを使って下さい」と座布団を持ってきたり、「オレンジジュースもありますが、お茶でいいですか?」と聞いてから小さなキッチンに入って、その小さな手で、湯呑茶碗を出し、茶筒のフタを開けて急須に茶葉を投入し、魔法瓶のお湯を注ぎ、その気配からも生真面目で健気な性格がよく伝わってきた。
 その間、城田はふと小さな仏壇に目をやると、写真立ての中、眼鏡にスーツ姿で笑う大悟を見つけた。城田は「大悟……」と呟いた。
 「希ちゃん、先生もお線香あげさせてもらっていいかな?」
 「どうぞ」
 城田は仏壇の前に正座して手を合わせた。間もなく希はお盆の上に、お茶の入った一碗の湯呑を茶卓の上に置くと、そのまま仏壇の前に座る城田の右側にちょこんと座った。
 「先生、お父さんの話を聞かせてください」
 希は城田が家に来ることを待ち望んでいたかのように、つぶらな瞳を輝かせた。思えば彼女は、父親といっても写真に写る平面の父親しか知らないのだ。城田は優しい微笑みを浮かべると、自分の知っている大悟について、自らが思い出すように語り始めた。
 「ほらお父さん、黒縁の眼鏡をしてるだろ? これはね、大学時代に買ったものなんだ。先生とお父さんは一緒にラグビーをやっていて、お父さん、試合の最中に落としてしまったんだ。そしたら相手の選手が踏んずけてもうたいへん! フレームがこんなふうに曲がってしまってね」
 城田は身振り手振りのジェスチャーを加えて顔までゆがめたものだから、希はケラケラ笑い出した。
 「買ったばかりの眼鏡だったからお父さんもう泣きそうになってね、こんな顔して……。諦めがつかなかったのだろうね、友達で溶接をやっている人がいてさ、その人の道具を借りて必死に直していたよ。でも本当にもとどおりに修理してしまったんだ」
 「だからここが膨らんでいるんだ!」
 希は写真に写る大悟の眼鏡の一部がちょっとおかしいことに気付いていて、そこを指さして言った。
 「よく気がついたね! この眼鏡に愛着があってずっとしてたんだね。とっても器用で、とっても物を大切にする人だったよ」
 「へえ〜、ほかには?」
 「ほら、このネクタイ、お酒を飲んで酔っ払うと頭に巻くんだ。そして何すると思う? モーツァルトを歌うんだ。『魔笛』とか『フィガロの結婚』。先生はぜんぜん分からなかったけど、それがけっこう上手でね。音楽会の時なんかお母さんたちのPTAコーラスに入って、お父さんは決まってテノールをやるんだけど、すっごく目立っていたなあ……」
 「それから、それから?」
 「そうだなあ……、お母さんも知らない秘密の話をしようか?」
 希は目をランランと輝かせた。
 「実はお父さん、『おニャン子クラブ』の大ファンだったんだ」
 「知ってる! 『AKB』とか『SKE』とかのずっと昔に流行ったのでしょ?」
 「そう。その中で『河合その子』というアイドルが大好きでね、レコードを買ってきては先生に聞かせるんだ」
 「へえ……、お母さんに似てる?」
 「そうだなあ、ちょっと似てるかな? 目のあたりとか口もととか……」
 二人はそんな話をしながら大笑いしているところへ、
 「ずいぶん楽しそうね、何の話? お母さんも入れてもらおうかしら」
 と、仕事を終えた春子が部屋に入ってきた。
 「お母さんはダメっ、だってひみつの話だもん―――」と、希は「もっと話して」とせがんだ。
 「希、宿題は終わったの? あまり城田先生を困らせちゃだめよ」
 「困らせてないもん!」
 春子は持って来た城田が注文したから揚げ弁当を座卓の上に置き、「こちらへどうぞ、ここで食べるんでしょ?」と促すと、城田は仏壇の前から移動して、希が入れてくれたお茶で喉を潤した。
 「お母さん、これから城田先生と大事な話があるから、希はそっちの部屋に行っててくれる?」
 「ええっ、やだ〜っ」と希は駄々をこねたが、それでも春子が「お願いっ」と頼むものだから、仕方なく「つまんないの」と言いながら自分の部屋へ入って行った。城田は春子に目をやって、昔に比べてずいぶんせっかちになったなあと思いながら、それだけ生活に追われているのだろうと、そのやつれた表情を見つめた。
 「ごめんなさいね、希の相手してもらっちゃって。でも珍しいのよ、あの子が駄々をこねるなんて……」
 春子はクック・モットの調理服を脱いでたたみながら、
 「なあに? 話しって?」
 と、せっかちに話を進めた。
 「ちょっと大悟のことで気になることがあってさ」と、城田は目の前の弁当を気にしながら話し始めた。
 その内容は、昼間春子が城田に語ったものとほぼ同じで、違うのはその都度の大悟の様子を改めて念入りに確認していることだった。途中まで話して「何が言いたいの?」と春子が言うので、城田は先に結論を伝えた。
 「遺書はあったの?」
 「遺書?」
 春子は不思議な顔をして「遺書と言えるか分からないけど、書き置きがあったわ」と、仏壇の大悟の写真立てを手にすると、裏側の板を外して、写真の裏側にしまってあった四つに折りたたんだ古い紙切れを取り出した。
 「これよ……」
 広げてみれば、懐かしい大悟の、きれいとは言えない鉛筆の文字があった。そこには、
 『春子さんゴメン 希をヨロシク』
 とだけ書かれていた。
 城田は思わず「これだけ?」と聞き返した。春子は静かに頷いた。
 「あんなに責任感の強いあいつが、死ぬ前にこれだけっておかしかないかい? 両親に宛てたものとか?」
 「私だっておかしいと思ったわ。でも家中を探しても何もないし、遺品を整理しても何も出てこなかった。あんなに狭いアパートだもの、あるなら絶対見つかるはず。私、大ちゃんが使ってたパソコンのデータも全部見たのよ。でも結局これだけ」
 「あいつが社会科の授業で使おうとした最後に撮った写真て?」
 春子は押入れにしまったアルバムを取り出して開いた。当時はまだデジカメは一般的でなく、「私が現像したの」と言って数枚の写真を指さした。
 「ここはどこかな?」
 「多分、川中島の古戦場。ほら、ここに武田信玄と上杉謙信の像があるでしょ?」
 城田は首を傾げた。
 「社会科の教材に使う写真にしては数が少ないね。それに写真を撮りに家を出たのが午前中でしょ? 帰って来たのが夜中って、同じ長野市内の写真を撮るのに、そんな時間かからないでしょ」
 「思いつめていたのよ……。きっと時間が過ぎるのも忘れて、公園内をさまよっていたんだわ」
 確かに大悟にはそんな一面もあったと城田は納得した。そして一番聞きずらいことを聞かなければならなかった。
 「春子先生にとっては一番思い出したくないことかも知れないけど、最後に一つだけ教えて?」
 城田はそう前置きして、
 「血まみれになって倒れてたって言ったけど、大悟は一体どうやって自殺したの?」
 途端、春子の両目に涙がたまったかと思うと、次の瞬間ボロボロと滝のようにあふれ出した。
 「包丁でお腹を刺して死んでた。出血多量だって……。私がもっと早く気付いていれば……大ちゃん、助かっていたかも知れないのに―――」
 春子はそのまま泣き崩れてしまった。
 お腹を刺して死んだと知って、城田は蒼白になった。いわゆる日本古来の『切腹』ではないかと直感したのだ。自殺について議論し合ったあの晩、ピストルが持てない日本においては、出刃包丁か何かで腹を切るのが、一番苦しみが少なく簡単に死ねる方法だと大悟に教えたのは自分ではなかったか。しかも、それがサムライらしくて一番カッコイイとまで付け加えてしまったのだ。そのとき春子はコンビニに行っていなかったから、会話の内容は、今となっては城田しか知らないのだ。
 春子は「私のせい……」と言って泣いたままだった。その姿を見て、城田の胸は締め付けられた。思えば大悟が知らなかった春子との秘密とは、春子に大悟と結婚するようお願いし、春子がその提案を受け入れたことである。もちろんあの時は、落ち込んだ大悟をなんとかして救うため≠ノした最後の決断だったわけだが、結果的に彼を殺すという結末を招いてしまったのだ。いま目の前で泣く春子の苦悩の全ての因が、自分の浅はかな決断がもとになっていたことに気付いた城田は愕然とした。
 「春子先生、泣かないで……全部ぼくがいけないんだから……」
 しかしそれを春子に納得させて説明するには、もう少しゆるやかな時間の流れと、彼自身の心の整理が必要だった。
 
> (36)勝てない綱引き
(36)勝てない綱引き

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 その翌日、初めて知った大悟の死の真相に、あまりにショックが大きかった城田は一日中元気がなく、授業もろくに手が付かなかった。運動会の打ち合わせも、いつもなら真っ先に発言して皆を納得させてしまうのに、この日は口数も少なく、周囲の先生方は皆心配した。前日、春子のみならず城田にまで「桜田先生には関係ない」と言われてずっと気分を害していた愛もさすがに気になって、
 「どうしたんですか? 元気がありませんね」
 と声をかけたが、城田は生返事を返すだけ。彼に元気がないと自分まで落ち込んでしまいそうな彼女は景気づけに、
 「明日の午後は4年生から6年生の合同練習がありますね! 綱引き、今度こそ絶対負けませんよ!」
 と挑発をしてみた。4、5、6年生の綱引きでは、赤組団長の城田が赤組大将の一番大きな旗を持ち、白組団長の愛が白組大将の同じ大きさの旗を持って、それぞれのチームを引き連れ指揮を執る。ところがベテランの城田は綱引きの要領をすっかりわきまえており、新任教師の愛は運動会すら初めての経験で、白組全体の呼吸を合わせるどころか引き連れて走ることもままならず、これまでの練習での成績は3戦3敗の完敗だった。それを「絶対負けない!」と宣言したものだから、負けず嫌いの城田の闘志に火をつけた。
 「桜田先生、そりゃ無理だ。僕に勝つなんて十年早いよ」
 「へえ、元気がないのに大層な自信ですね。じゃあ約束してくれませんか?」
 「約束? どんな?」
 「明日の練習と運動会当日も含めて、もし私が1勝でも挙げることができたら、城田先生と紅矢春子さんの関係を包み隠さず教えてくださいな」
 「おもしろそうだ―――」と、城田は不敵な笑みを浮かべた。
 「いいでしょう。もし桜田先生が僕に1勝でもできたら教えてやるよ。でもこれだけは覚えておくといい、綱引きは意気込みや気合だけでは勝てないよ」
 愛は彼が落ち込んでいるのをいいことに、そんな約束をさせてしまった。
 果たして翌日の五時間目の体育は、4年生から6年生競技の合同練習が行われた。種目は綱引き、当日まではこれが最後の実践練習となる。グランドの南側と北側に分かれた赤組と白組は、本番さながらの闘志を燃やし、特に赤組などは城田の掛け声に合わせて雄叫びを挙げていた。その様子を見ていた白組の副団長を務める5年信組の本木弘先生は、
 「桜田先生、こちらも負けずに声を挙げましょう」
 と言ったが、そういうことはとんと不慣れな愛は、「でも私、やったことありませんし……」と躊躇していると、「こうやるんですよ!」と本木は子ども達に「先生に続けて声を出せ〜!」と叫んだかと思うと、
 「エイ、エイ、オー! エイ、エイ、オー!」
 と勝鬨を挙げた。「さあ、桜田先生もやってみてください」と言うから、愛は恥ずかしそうに「エイ、エイ、オー」と言ったが、本木は「ダメっ! もっと大きな声で!」と叫ぶから、つられて少し大きな声で繰り返し、そんなことを二、三度やってから本木は最後に、
 「ゆけっ! 蛍ヶ丘のジャンヌ・ダルクよ!」
 と乗せるものだから、すっかりその気になった単純な愛は、負ける気がしなくなっていた。そしてグランド中央に立つ審判の高橋先生が「両チーム入場!」のホイッスルを鳴り響びかせると、愛と城田を先頭に、両側から赤、白の帽子をかぶった両軍が駆け足で入場を始め、大綱の両側に一列に並んだ。そして両軍の睨み合いが始まると、すかさず城田は「さあ! ゆくぞ!」と大将の赤い旗を高くかざした。すると続けざまに赤組の子ども達の「オーッ!」という声が天高く響く。その声に押された愛は一瞬尻込みしたが、ここで負けるわけにはいかないと「白組もガンバルゾー!」と叫んだ。しかし、それに反応して声を挙げたのは半分くらいの児童だけ。
 そんな光景を、校長室の窓から微笑ましそうに眺めている烏山校長がいた。
 「ちょっと赤の方が優勢ですかね……?」
 と独り言を呟くと、「白もガンバレ、赤もガンバレ」と胸をワクワクさせている様子である。
 高橋先生が「綱を持て!」と言った。それに合わせて両チームが綱を握って脇に抱え込んだ。
 「用意!―――」
 パンッ! というスターターピストルの破裂音とともに、両チーム一斉に大綱の引き合いを開始した。最初は両チーム互角のように思われたが、暫くもしないうちに愛の白組はジリジリと引きずられ、ある瞬間を境に総崩れを起こしてあっという間に「終了」のピストル音が鳴った。愛は一人で大きな掛け声を挙げていたつもりだったが、そのあっけなさに城田を睨んだ。すると城田は涼しい顔で笑い返して、愛は悔しさのあまり地面を蹴った。
 「第2回戦を行います! 両チームは場所を移動します!」と、高橋先生は「移動開始!」のホイッスルを吹いた。ところが第2回戦も同様、愛が率いる白組は、城田の赤組にまったく歯が立たずに惨敗したのだった。これまでの結果5戦5連敗。愛は地団駄を踏んで副団長の本木に泣きついた。
 「本木先生! どうして勝てないのですか? 私、城田先生にはゼッタイ負けたくないんです!」
 と涙目で訴えかけるから、可哀想になった本木は「放課後、作戦会議を開きましょう」と約して5時間目は終わった。
 ちょうどその時、校長室に一本の電話が入った。電話を受けた烏山は最初神妙な顔つきで「はい、はい」と返事をしていたが、そのうちみるみる表情が明るくなっていくのが判った。そして最後に、
 「そうですか! ありがとうございます!」
 と言って電話を切ってからは、やけにご機嫌な様子でコーヒーを淹れなおして鼻歌など口ずさむと、事務の山際先生を呼びつけ、「いま何時間目でしたかね?」と時間を確認し、「授業が終わったら、城田先生に校長室に来るよう伝えてください」と満面の笑みを浮かべた。
 午後の清掃が終わり、反省会をして子ども達が帰ると、愛はさっそく本木先生のところにやってきた。本木は過去に取り組んだ経験から「綱引きは気合いだ!」と精神論ばかり主張して、五時間目の練習の彼女の掛け声や声の大きさのことばかり指摘するので、
 「城田先生は、綱引きは意気込みや気合いでは勝てないって言ってましたよ」
 愛がさも不満そうに言い返すと、「ならば、力学のことならガリ先生に聞いてみよう」ということになって、二人は理科準備室へと向かうのだった。
 果たして理科準備室の扉を開けると、そこにはガリ先生と楽しそうに話す養護教諭の鶴田先生がいた。愛は冗談で「お邪魔でしたか?」と言うと、それが案外図星だったようで、ガリ先生は慌てた様子で立ち上がると、「何を言うのですか! 私は運動会当日について、鶴田先生にご相談申し上げていたのです!」と顔を赤くした。ガリ先生のように担任を持っていない教師は、PTA種目とか来入児種目などの準備担当で、ガリ先生は委員会種目を担当している。ちなみに鶴田先生は毎年救護班の担当なので、保健委員会の児童と一緒に本部席に張り付いていなければならない。愛と本木はきっとその事だろうと思った。
 「それじゃガリ先生、また来ます」
 と、鶴田はそそくさと準備室を出て行ってしまったが、それを見送ったガリ先生は、愛たちに目を向け、つまらなそうに「なんでしょう?」と聞いた。
 「実は綱引きについて教えて欲しいのです」と本木が言った。すると、
 「僕は赤組でも白組でもないので、どちらかに加担するようなことはできない」と、冷たくあしらわれた愛は、これまで城田に負け続けていることや、いずれもあっけなく負けてしまって子ども達が可哀想だなどと、いろいろな口実を並べた。しかしいっこうに平等の立場を崩さないガリ先生を見て、本木が彼の自尊心をあおった。
 「いくらガリ先生でも綱引きの必勝法なんて知りっこないですよ。職員室へ戻りましょう」
 すると、
 「ちょっと待ちたまえ」と態度を翻したガリ先生だった。
 「仕方がないなあ。でも僕がアドバイスしたなんて他の先生に言ってはダメですよ」と、綱引きの原理と必勝法についてとくとくと話し始めた。
 それによれば―――、一番効率的なのは、いかに綱にかかる力を分散させないかが肝要で、綱は先頭から最後尾まで一直線にさせるのが理想だと言う。そのためには身長順に背の高い者を先頭に並ばせるのが良く、しかしそれだと後方に体重の軽い小柄な子がついてしまうため、今回のケースでは、前方に6年生を背の高い順に並べ、次に4年生を背の高い順に、そして後方に5年生を背の低い順に並べるのが最も効率的だと教えた。そして並び順の次に大事なのが間隔で、力のばらつきをなくすため等間隔に、できれば男女を交互にするのが理想的だと言った。
 「次に縄を引く時の一人一人の体勢、つまりフォームです。重要なのは体を正面に向けること」
 と、これが指導する上で一番のポイントだとガリ先生は目を細める。愛は盛んにメモの鉛筆を走らせた。
 「よくありがちな形は、上体が起きてしまったり、背中が丸まったりした上に、左右の肩と足の位置が綱に対して平行になってしまうフォームで、これでは力学的にも力が出ません」
 彼によると理想的なフォームとは、左右の肩と左右の足の位置を綱に対して垂直になるよう、つまり正面を向いたまま仰向けに寝るようにして空を見て引くことが最大のポイントで、加えてその際力を集結させるための掛け声について、『せーの』でも『そーれ』でも何でも良いが、語尾のところでタイミングを合わせて一斉に引けば、その力は最大限に発揮されるだろうと自慢げに笑った。
 「そこで大将の役割が重要になってくる」
 とガリ先生は愛をみつめた。
 「大将は、子どもが位置についたら、まず等間隔に並んでいるか確認し、引き合いがはじまったら今言った基本フォームを常に修正しなければいけません。『せーの、せーの』と全体の呼吸を合わせながら、たえず『上を見ろ』と言っていることが大事です。そうすれば勝てますよ」
 嘘か本当かは判らなかったが、愛と本木はガリ先生を信じるしかないと、その後更に作戦会議を続けたが、綱引きの練習は今日が最後だったので後はぶっつけ本番。並び順については赤組同様4年生の小さい順から並んで練習をしてきたので、今更変更するわけにもいかなかったし、本番直前にフォームを俄か指導したところで子ども達が対応できるとは思えない。もう少し早くガリ先生に相談すればよかったと後悔したが、なんとか勝とうと知恵をしぼったところが、その日の愛は冴えていた。
 「掛け声よ! 掛け声の台詞にガリ先生に教えてもらったフォームのポイントを入れればいいのよ!」
 と閃いた。その作戦とは―――、つまり掛け声をかける旗持ちの教師が愛と本木の他に3人いるが、その全5人が「そーれ! そーれ!」のタイミングでフォームのポイントを入れた掛け声を同時に叫ぶというものだ。その掛け声とは、
 『体は正面、足肩揃え、腰は曲げずに空を見ろ!』
 つまり、『ソーレ、ソーレ、ソーレ……』の替わりに『カラハ、ショーン、アシタ、ソロー、コシー、マゲニ、ソラミローッ』と、圏点の部分に引くタイミングを合わせれば、フォームを指導しつつ呼吸も合せられると、我ながらgoodな閃きに小躍りして喜んだ。
 「そりゃいい! まさに一石二鳥だ!」
 と本木も賛成し、早速他の3人の先生にも協力のお願いをして回ったのだった。
 一方校長室では城田を呼んだ烏山校長が、にこやかな表情で話しをしていた。
 「先ほど県教委から電話がありまして、十段円塔をやってもよいという許可が下りました」
 「どういうことでしょうか?」
 城田は首を傾げた。国会議員を使ってまでして阻止しようとしていたものが、僅か二、三日のうちに一八〇度態度を翻すなど考えられない。
 「成沢先生ですよ! 県教委からの電話の後、彼女に連絡を取ってみたのです。そしたら、県内の女性団体の長達を集めて、国立議員の自宅へ押しかけたそうなのです。もちろん運動会の事以外にも女性として言いたいことがあったらしいのですが、そしたら事を荒立てたくなかったのでしょう、国立議員が県教委にかけあってくれたのだそうです。まったく不思議なことがあるものです」
 以前の城田なら飛び上がって喜ぶところだが、大悟の死の真相を知って以来悶々としている心の状態では、「そうですか」と答えるだけでいっぱいだった。いっそのこと自分を首にしてでも中止してくれた方が気が楽だったかも知れない。校長は続けた。
 「でも一つだけ条件を付けられました」
 「条件……?」と、城田はまた厄介な事だったらどうしようかと息を飲んだ。
 「四段目より上の子ども達すべてに、命綱を付ける―――まあ私も県教委の心配も分からないじゃありませんからね、承諾しておきましたよ」
 城田は「はあっ?」と心で反発した。四段目以上といえば一五九人の児童すべてである。その一人一人に命綱など付けたら塔≠ニ言うより兼六園の雪吊り≠ナはないか! さもなければ飾りつけのないクリスマスツリーだ!
 「四段目以上といえば何本の命綱が必要になりますか? 明後日の全体練習に間に合いますかね?」
 烏山は綱の手配の心配をしたが、城田に元気がないことを気にして「どうかしましたか?」と聞いた。
 「なんでもありません―――」
 城田は無理やり笑顔を浮かべた。
 
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(37)クレーン車と命綱

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 全体練習の日曜日がやってきた。
 グランド脇の道路には、何か巨大な建物でも建設するのかというように、5年生の牧航貴の父親が運転するクレーン車が置かれ、車両の四サイドから出した固定足(アウトリガ)でしっかり支えられた本体からは、重機の音とともに太いアーム(ブーム)が空に伸びていった。小学校のすぐ脇の道路は通学路であり、指定時間内は許可車両しか走れない制限区間なので、それ以外の車両は事前に警察への申請許可が必要で、今日と来週の運動会当日のみクレーン車を置くという申請をしたのは愛だった。そのアームの先端からは一五九本の命綱が垂れ下がり、
 「先生、もっと早く言って下さいヨ。これだけのロープを集めるのにえれえ苦労しちゃいましたよ」
 と、クレーン車の持ち主の牧社長が苦笑いした。命綱といっても、長野の北信では冬場の雪深い飯山とか栄村の屋根の雪下ろしの安全のために使う、直径十ミリほどのポリエステル製のロープである。城田は「急なお願いをしてすみませんでした」と詫びながら、愛と一緒に無数にある命綱を眺めながら、どのように腰に巻いたらよいかとか、段毎にしっかり数を分けて長さも調節する必要があるなとか、綱を最短時間で効率的にセットするための様々な扱い方や配置の相談などをしているうちに、やがて大人達と子ども達がグランドに集まってきた。
 「こういうことはガリ先生にお願いしよう」
 ということになって、愛は今日も出勤しているはずのガリ先生を理科準備室に呼びに走り、城田は集まって来た児童と大人達に今日一日の流れの事前説明をするため、彼等をグランドに整列させようと体操台のマイクを握った。
 気候は暑くもなく寒くもなく、過ごしやすい曇り空だった。今日はSTBのテレビカメラは入っていないが、先週より人数も多く、音無PTA会長率いるPTAの面々はもちろん、区長の元に集まった蛍ヶ丘区民達や、野球ユニフォーム姿の島村スポーツ商会社長の早起き野球仲間、伸兵衛老人の周りに集まるのは伸兵衛会の顔ぶれだろう、また、いかつい髪形や服装をした若者集団はアフロヘア蛍の文が引き連れて来た悶巣蛇亜の面々に違いない。遠くは松本、大町方面から来る者もいると聞いている。その他真面目そうなジャージ姿の見慣れない者達は、おそらく五木市長の顔で集めてくれた市役所職員や消防関係者、あるいは各種スポーツ団体の役員達だろう。ざっと見渡してもゆうに千人は越えている。その脇には、成沢先生はじめ地域の婦人会メンバーや、休みを返上して出勤してきた校長、教頭はじめ先生方の姿もある。よくこれだけの人数が集まったものだと、自分ながら感心する反面、城田の心では大悟の死に対するモヤモヤが、「失敗したら」という不安と恐怖をあおっていたのも事実だった。
 集合時間の九時になると、城田はマイクを通して一日のスケジュールを述べ始めた。今日は運動会当日までの最後の十段円塔全体練習のチャンスなのだ。その出来によっては、断念という決断も視野に入れて行わなければならない。
 説明する城田の背後で、クレーン車から吊るされる何本もの命綱を見ながら、愛とガリ先生、そして鶴田先生と牧社長が相談を始めていた。今日の星は、十段円塔を成功させることはもちろんだが、その前に、一五九本もの命綱をどのように配置しておき、いかに短時間で子ども達の腰に巻かせ、安全を確保しながら円塔を組み上げていくかにあった。綱を付けるということは、崩れた時の安全を保障する代わりに、子ども達の動きを鈍くさせるということで、ロープに足や腕をからめて返って失敗の確立を高めることを意味する。県教育委員会の指導とはいえ、「子ども達全員に命綱を」との決定が一昨日の夕方とあっては、グランドの場ミリなどの準備をするのに精いっぱいで、人数分の命綱の手配はおろか、その使い方や進め方にまでとても頭が回らなかった城田と愛なのだ。ところがそこはさすがにガリ先生だった。
 「まず子ども達に″もやい結び≠フやり方を教えないといけませんね」
 と涼しい顔で言った。″もやい結び≠ニいうのは命綱と体を結ぶ一つの方法で、引っぱっても体が締め付けられない安全な結び方として、雪下ろしの時など一般的に用いられる。
 「それなら俺も知ってるぜ!」と牧社長が得意げに言うので、ガリ先生は「このあと子ども達に教えますので一緒に指導して下さい」とお願いしたものだから、社長は一層得意そうに「合点でい!」と嬉しそうだった。ガリ先生は続けた。
 「問題はロープの長さですね……」と呟き、腕組みをしたかと思うと、「まずこのロープを八〇本、四〇本、二〇本、一〇本、五本、三本、一本に分けましょう」と言った。愛と鶴田は言われた通りにロープを数え、それぞれの本数の束を作った。一方、城田の方は、それぞれ腕が当たらない間隔に広がって、準備体操やストレッチを始めたところ。
 ガリ先生はポケットから黒マジックを二本取り出すと、愛と鶴田に渡して、
 「では八〇本の束のロープ一本一本の同じ位置にこのマジックで印を付けて下さい」と言ったと思うと、牧社長には「クレーン車のブームを6メートルばかり縮めてもらえますか?」と指示をした。と、矢継ぎ早に愛と鶴田には「八〇本が終わったら次に四〇本の束のロープに、今より八〇センチほど短くした位置に、同じように印をつけて下さい」と言って、ポケットから今度は小さなメジャーを取り出した。愛と鶴田は「ガリ先生のポケットはまるでドラえもんの四次元ポケットね」と笑いながら、そうして、それぞれの段のロープに八〇センチずつ短くなる位置に印を付け終えたガリ先生は、クレーン車の牧社長を呼んで神妙な顔つきでこう言った。
 「非常に重要な任務を与えたいと思いますが、あなたにできますか?」
 社長は一瞬ひるんで「な、なんですかい?」と顔をしかめた。
 「なあにクレーンの操作ですよ。こればかりはあなたにしかできない。しかし高度に繊細な技術を必要とします。あなたにその技術があるかどうか……」
 「なあんだクレーンのことかい? そんな怖い顔で言うからビックリすんじゃねえかい。任しておくんない! クレーンの操作なら上空三〇メートルに吊るした生卵だって割ってみせるよ!」
 「それを聞いて安心しました」
 と、ガリ先生はクレーンの先端の動きについて説明し始めた。それは、一五九本のロープをつないであるクレーンの先端を、円塔の中心地点上空に置き、子ども達が一段ずつ立ち上がるのに合わせて、中心点をずらさずに八〇センチずつ上へ上げていくというものだった。
 「それなら中心を固定したままフックだけ上げればいいよ」と牧社長。フックとはクレーンの先端についている釣鐘状の器具である。
 「なるほど、さすが専門家ですね」とガリ先生が感心すると、「腕が鳴るぜ!」と笑う牧社長は、職人気質の気のいい親父であった。
 ガリ先生のおかげで鮮やかに命綱の準備も整い、全体の準備体操を終えた大人達は、事前に決めておいた一段目五人、二段目三人、三段目一人の合計九人一チームに分かれ、それぞれ個別で三段円塔を作る練習を開始した。もちろん全員裸足である。人数が足りないチームには先生方も加わり、前回参加できなかったメンバーも参加したメンバーから要領を教えられながら、約四十五分程練習の時間を設けた。グランドのあちこちで練習するチームの数を数えてみたら全部で一〇四チーム。十段円塔に必要な数が揃っていることに城田はほっと胸を撫で下ろす。
 さて気になっていた命綱の準備に向かった城田は、すっかり段取りを終えている様子に目を丸くした。
 「ガリ先生のお蔭です!」と愛はガリ先生を称えて嬉しそうに言ったが、ガリ先生は相変わらず学者肌の顔付で、
 「城田先生、子ども達をここへ集めて下さい。″もやい結び≠フやり方を教えます」
 と、なんとも無感情な態度で言った。こうして命綱のところに集められた子ども達は、先ほど愛と鶴田が付けた黒のマジックの印のところを握り、そこを基準にガリ先生と牧社長から″もやい結び≠教わり、結んだり解いたりを何度も繰り返し、完全に覚えるまで三十分もかからなかった。
 当日本部席になる所にはすでにいくつかのテントが立てられており、そこには烏山校長や成沢先生と婦人会メンバー、伸兵衛老人らが歓談しながら様子を見守っている。やがて十五分間の休憩をはさみ、いよいよ城田は十段円塔を組み上げることにした。
 まずは入退場の練習である。子ども達の演技は、最初、V字バランスや補助倒立、サボテンや扇などの比較的簡単な技を披露した後、本部席を前に縦横一列に並び″エグザエル回転≠竅鵠g≠演じる。その間、大人達が入場して場ミリのしてあるところに一チームずつ付き、配置が完了した時点で四段目の子ども達から演技をやめて、命綱のあるところへ駆けて行く。子ども達が腰にロープを結んでいる間に「一段目を組め」のホイッスルを鳴らし、次に「二段目を作れ」のホイッスルに続いて「三段目を作れ」の合図を鳴らす。そして命綱を結び終えた四段目の子ども達が更に続くという流れである。そこでは大人達が入場にかかる時間と、子ども達がロープを結ぶのに何分かかるかが課題だったが、それさえクリアしてしまえば、退場は大人と子どもは反対方向に走ってはけるだけなので問題ない。
 「それでは実際にやってみましょう!」
 ということで、十段円塔を組み上げるのは一番最後に置いておき、入退場だけの練習を何度か繰り返し、やがてスムーズに流れるようになっていった。
 時計を見れば十一時を回っていた。午前中には解散すると伝えていたので、そこでもう一回休憩をはさんだ城田は、いよいよ最後に残された最大の課題である十段円塔にチャレンジすることにした。
 体操台に立った城田はマイクを握った。手からは脂汗が滲み出ていた。
 「それでは、実際に十段円塔を組み上げて、最初から最後まで通しでやってみたいと思います! 成功しても、失敗しても、本番まではこれが最後の練習になります。どうか心を一つにして、必ず成功させましょう! では最初の位置についてください!」
 城田は天を仰いだ。大悟よ! 力を貸してくれ! ―――と。
 グランドのフェンス沿い、子ども達が命綱を結ぶ場所には愛がいた。彼女も胸の前で両手を強く握りしめ、祈るような気持ちで体操台の城田の姿を見つめていた。ふと背後に、それよりも強い″念≠感じて振り向けば、道路に置かれたクレーン車の陰から、隠れるようにしてグランドの様子をうかがう一人の女性が立っている。
 「希さんのお母さん―――否、春子さん……」
 愛は話しかけようとしたがしなかった。否、できなかったのである。春子の視線はグランドの中央を凝視したまま、微動だにしない。悪くいえば何かにとり付かれでもしたような、その目は血走っているようにも思えた。よく見ればその細い身体は小刻みに震えている。愛は自分でも気づかない心の奥で、激しい嫉妬の炎に苦しめられていた。少なくとも十段円塔を成功させるために、城田先生とは春子などより自分の方が、ずっと長い時間一緒にいたはずなのだ。それなのに、この強い一念はいったいどこから出て来るのだろうか? 愛は思わず奥歯を噛みしめていた。そして、
 「この女性にはかなわない……」
 という果てしない敗北感に涙が出て来た。
 そこへ、怒涛のように四段目の子ども達が走ってきた。
 「桜田先生! ロープが一本足りません!」
 はっ≠ニ我に返った愛は、慌てて涙を拭き取って、子どもと一緒にロープを探したが、その一本のロープは先ほどからずっと自分が握りしめていたことに気が付いた。
 「ごめーん! 先生が持ってた……」
 「なにやってんだよ! 先生、ダメじゃないか!」
 子どもに叱られながら、愛はもやい結びを手伝うと、四段目の子ども達はあっという間に走り去り、続いて五段目の子ども達がカラスの大群のように押し寄せロープを結んで走り去った。こうして六段目以降の子ども達もロープを結び終え、グランド中央に目を移せば、すでに八段目の五人の子ども達が全員がしゃがんだままの塔をよじ登り始めたところだった。
 「希! しっかり!」
 出動を待つ希に震える声をかけたのは、クレーン車の脇に立ち細い指でフェンスを握る春子であった。希はその声に振り向いて、母の姿を認めるとひとつニコリと微笑んだ。そして「九段目登れ!」の掛け声とホイッスルを合図に、希はまだ沈む巨大な塔の脇へと走って行った。
 城田は「十段目、登れ!」と叫んでホイッスルを鳴らした。
 希は小さな体全体を使いながら、塔を構成する人間たちの肩や背中に足を掛け、腕を掴んでグイグイとてっぺん目指して登りはじめた。途中、誰かの命綱に足をひっかけて、ヒヤリとする場面もあったが、そこに、全員しゃがんだ十段円塔ができあがったのである。
 城田はクレーンのフックが円塔の中心上空にあるのを確認すると、「それではこれから一段ずつ立ち上がっていきますので、クレーン車の牧さん、お願いします!」と叫んだ。「合点でい!」という返事が返ってきた。
 「ではホイッスルに合わせて、一段目から同時に、ゆっくり、立ち上がっていきます! 呼吸を合わせて下さい! ではいきます!」
 『ピーーッ!』という音が天空に響いた。すると、グラリとよろけながら、一段目六四〇人の男性を中心に構成した大人たちは、「せーのっ!」という太い大きな掛け声と共に立ち上がった。思わず本部席テントの校長や成沢も立ち上がり、拍手をせずにはいられない。
 「では二段目、いきます! 呼吸を合わせて下さい!」
 『ピーーッ!』という合図で、二段目三二一人の女性を中心に構成した大人たちは、少し甲高い「せーのっ!」という掛け声を挙げながら立ち上がった。今のところ、まだ不安定な個所は見当たらない。クレーン車のブームも、高さに合わせて調節してくれている。フックは細いワイヤーで吊り下げられているため、あまり長く伸ばすとそれだけ不安定になってしまうのだ。その辺りはさすが職人の勘だった。
 「では三段目、いきます! 呼吸を合わせて!」
 『ピーーッ!』
 三段目は比較的体重の軽そうな大人たちで構成した一六〇人が、「せーのっ!」と言いながら立ち上がった。ここまではほぼ予想通りだった。一段目には力のある男性陣を中心に配置し、二段目は女性陣中心、三段目は体重の軽い陣営で構成したことが功を奏しているようだ。後はバランスと持久力の問題だった。四段目からは体育の授業でも練習を重ねてきた子ども達の番である。城田はその持久力を気にしながら、
 「四段目、立て!」と叫んでホイッスルを鳴らした。
 四段目の子ども達は、不安定な足場にも関わらず、練習通り見事に立ち上がった。続いて一番心配している萌と友太がいる五段目も立ち上がり、更に六段目、七段目と続き、ついに八段目の五年生五人も見事に立ち上がった。いよいよ一番軽い四年生の番である。
 「九段目、立て!」
 ホイッスルの音と共に、てっぺんに希を乗せた三人の四年生が、ヨロヨロとしたぎこちない体勢で立ち上がった。そのはずである。足場は不安定な上に、塔全体が心なしか傾いでいる。高さもすでに一〇メートルを越えんとし、上空は地上とは違う強い風が吹いているはずなのだ。
 「ガンバレー!」
 どこからともなく声援が飛び交った。何の騒ぎかとグランドに集まってきた地域住民達の声だった。
 「がんばれ!」「頑張れ!」「ガンバレ!」
 ついに城田は「十段目立て!」の声を挙げた。
 希が身体をガクガクさせながら、ゆっくり立ち上がろうとしたその時である。
 ――――――城田の双眸にフラッシュバックしたのは、十数年前に見たあれと、全く同じ光景だった。
 塔の中段だったか、下段だったか、一部がポロリとバランスを崩したかと見えた瞬間、巨大な塔が雪崩のように崩れ落ちたのだった。
 「あっ!」という声を挙げる間もなく、そこには命綱によって宙ぶらりんになっている子ども達の阿鼻叫喚の声がこだましていた。城田は呆然とその光景を見つめる以外なかった。
 
> (38)不埒な心
(38)不埒な心

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 城田は愕然と膝を落として放心状態になった。そして誰かが「救急車!」と声を挙げようとした時、聞き違いだろうか、宙ぶらりんの子ども達の中から、大きな笑い声が挙がったのである。城田が阿鼻叫喚の声と聞き違えたのは、あろうことか恐怖感から思わず湧いて出た子ども達の笑い声だった。
 「おっかねかった〜!」
 「死ぬかと思った!」
 中には宙ぶらりんになっているのをいいことに、
 「牧君のお父さん! ちょっとクレーンを揺らしてみてよ!」
 悪ふざけの牧社長はクレーン車の操作席から「よっしゃあ!」と大声を挙げると、小刻みにクレーンの先端を揺らし始めた。すると命綱にぶらさがったままの百五十九人の子ども達は大はしゃぎ。キャッキャ、キャッキャと、まるで大きな遊園地にあるメリーゴーランドにでも揺られているような雄叫びを挙げて大喜びしているではないか。奇しくも城田は、その子ども達の満面の笑顔に救われたのだった。
 幸い怪我をした者は一人もない。しかし大きな課題を残して、その日の全体練習は終わったのである。

 全身に虚脱感を残したままの城田は、よろけるように愛のところにやってきて、
 「教師生命が終わったかと思いましたよ……」
 と、苦笑いを作ってその場に崩れ落ちるように腰をおろした。
 「大げさですね。命綱をしてるんだから大丈夫ですよ!」
 愛は元気づけようとしてそう言ったが、内心、塔が崩れたのは自分のせいではないかと思っている。というのは、塔を組む際、全員の心を一つにしなければならないところを、城田と一緒に中心的な立場で推進してきた自分であるにも関わらず、フェンス越しから同じ光景を見つめる紅矢春子の存在が気になって、希がてっぺんで立ち上がろうとした瞬間、ほんの一瞬ではあったが、けっして考えてはならない事をイメージしてしまった自分がいたことに気付いていたからである。塔が崩れたのはまさにその直後だったのだ。愛は、その恐ろしい心の中の悪魔的自分を隠すように、
 「そういえば春子さんが来てますよ」
 と、クレーン車の方を指さした。
 「え? 春子先生が?」
 虚脱感でくすんだ城田の両目に光が宿ったのを感じた愛だったが、春子の姿は既になく、急に城田が憎らしくなった愛は、
 「あれ? さっきまでいたのに。会いに行ったらどうですか?」
 と、つっけんどんな態度で冷たくあしらった。
 そこへ、「いや〜! 惜しかったなあ! あと少しで成功したのに!」と、陽気な声で近づいて来る二人の男がいた。金髪の中村とアゲハのヤッシャンである。体中から例の香水の匂いをプンプンさせながら、城田と愛の脇で立ち話をしている鶴田先生とガリ先生の間に割り込んで、
 「美由紀先生、会いたかったです!」
 と、ガリ先生を突き飛ばして鶴田先生の正面に立った。その香水の甘い香りは、愛や城田のところにまで漂ってきた。途端、美由紀先生は頭を押さえ、
 「ご、ごめんなさい……、急に具合が悪くなってきた……」
 と言ったと思うと、そのまま校舎に向かって歩き出した。
 「ちょっと待って下さい、美由紀先生! ゆっくりお話ししましょうよ〜!」
 「そうですよ! 一週間ぶりに会えたんだから、これからお昼、ご一緒しません?」
 二人は彼女の後を追いながらあれこれと口説き始めたが、美由紀は一瞬立ち止まり、
 「ほ、ほんと、ごめんなさい……。私、ちょっとムリ……」
 と言って逃げるように駆け出してしまった。そこへタイミングよくやって来たのはガリ先生。
 「君たち、今日のところは諦めたまえ。きっと十段円塔の失敗で、想像以上の気力を使い果たしてしまったのだよ。なにせ彼女は養護教諭だからね。怪我人が出たらどうしようとか、薬や包帯は足りるだろうかとか、我々が考える以上に心配していたに違いない。君たちは男だろう? 男だったら愛する女性のことを気づかって、ゆっくり休ませてあげるのが優しさじゃないのかね?」
 「でも、先週も話ができなかったし……」
 「でもじゃない! また来週という機会があるじゃないか。君たちの思いは必ず通じる! その香水をつけていれば必ず彼女は振り向いてくれる! だから来週もその香水をたっぷり体に染み込ませて来るのだよ」
 中村とヤッシャンは言いくるめられて、そのまま帰るしかなくなった。腑に落ちないその二人の後姿を見送りながら、ガリ先生は眼鏡の奥で笑っていた。
 「それにしても、とってもいい香りですね……」
 愛が寄って来てそう言うと、「強烈すぎだろ」と城田が付け加えた。
 「シャネルの5番ですよ。悪い虫は早めにおっぱらっておかないとね……」
 ガリ先生は無表情でポツンとつぶやくと、そのまま美由紀先生を追いかけるように、校舎に向かって歩いて行ってしまった。
 「どういう意味?」
 愛は首を傾げたが、城田の脳裏には今年度当初に行われた新任職員の歓迎会の席で、鶴田美由紀先生が語っていたある事柄が思い出された。それは、歓迎される側の席に座っていた城田のところに、美由紀先生がお酌に回って来た時のこと。
 「城田先生はお酒、お強そうですね」
 愛嬌のある美しい笑顔で酒を注ぐ美由紀先生が自己紹介を始めると、それを邪魔するようにほろ酔いのガリ先生が加わって来て、城田に酒を注ぎながら、
 「私、理科専任の土狩辰美と申します。以後お見知りおきを。学生時代からガリ、ガリと呼ばれておりまして、トガリだからガリなのか、ガリ勉だったからガリなのかよく分かりませんが、私は勝手にガリレオのガリだと解釈しています。ですのでガリ先生と呼んでください」
 と一方的な自己紹介を済ませたかと思うと、
 「あれ? 鶴田先生、今日は上品な香水をお召しですね〜」
 と、美由紀先生に酒を勧めてからは、城田のことなどおかまいなしで、二人で香水談議を始めてしまったのだった。「何という香水か?」と問われた美由紀先生は、
 「クロエのオードパルファム。ほのかなアンバーグリスとシダーウッドの香りが好きなの。なんか蜂蜜っていうか、高級石鹸みたいな香りがするでしょ? っま、男の人に言っても分かんないか」
 「そんなことありません」とガリ先生は知識をひけらかすように、
 「アンバーグリスってマッコウクジラの腸内にできる結石のことでしょ? 日本や中国では龍涎香とも呼ばれる香料ですが、もともとの発祥はアラビアなんですよ。知ってました?」
 城田が話に割り込む隙を与えず、次はシダーウッドについて語り出す。こうしてあれこれ二人で話しているうちに、やがて嫌いな匂いについての話題になった。城田は「ラグビーの部室と、蒸れた膝サポーターほど臭いものはない!」と言って笑いを取ろうとしたが、ラグビーを知らない二人にスルーされてしまってからは、あとは作り笑顔で聞いていただけだった。その美由紀先生が大嫌いという香水がシャネルの5番≠セった。
 そのときの話によると、数年前に彼女の母親が病気で亡くなったそうなのだが、母の遺体を前にして美由紀は涙に暮れたのだと言う。そしてお通夜に親戚中が集まって来たわけだが、その中の一人、東京からやってきた伯母さんの体から漂っていた匂いがそれだった。微かに香るくらいなら気にもならなかったのだろうが、その匂いはあまりに強烈過ぎた。線香の匂いとシャネルの5番が持つムスクの匂いが混ざり合い、悲しみに堪えながらしくしくと泣く美由紀の嗅覚と涙腺を容赦なく襲った。その晩、伯母さんは美由紀の家に泊まり、お風呂に入ってあがったと思えばまた化粧水のようにシャネルの5番を体中に塗りたくる。その伯母さんとは納棺、出棺、火葬、告別式、お斎の席までずっと一緒にいなければならなかった。
 「ホントに耐えられなかったのよ〜」
 と、今となっては笑い話だがと可笑しそうにしていたが、結果的に、母の死についての感情が、悲しいものだったのか臭いものだったのかも分からなくなり、以来、その体験がいわゆるトラウマとなってしまい、シャネルの5番の匂いを少しでも嗅いだだけで、あの時の複雑な感情がよみがえり、胸が辛く切なくなる上に、頭痛までもよおすようになってしまったのだと話した。
 城田の脳裏にはそれと同時に、学校内の独身女性に対して、毎日の室温をその日の気分の色鉛筆を使って書いてもらい、そのデータをもとに女心を研究していると言っていたガリ先生のことも思い出した。
 あのとき気圧と月齢に注目していたガリ先生は、美由紀先生の女心をこんなふうに洞察していた。つまり彼女の固有基本色は紫だが、満月の日と気圧が1015ヘクトパスカル以上の日には茶系統の色鉛筆で室温を書き込んで来ることから、普段は気位が高いが、高気圧で満月の日は真逆の性格になる。つまりその日にお洒落なスーツを着こんで高級レストランなどに彼女を誘えば、気位の高い彼女の心は容易に動くだろうというような話をしていたことである。城田が勘ぐって「ひょっとして口説こうとしているのか?」と冗談で言ったつもりの言葉が、ガリ先生の慌てようといったら尋常でなかった。
 「なるほどね〜」
 城田はほくそ笑んで、彼の白衣の後姿を見送りながら納得した。
 「なるほどって、なにがです?」
 愛が知りたげな顔で聞いたが、「いえ、なんでもありません」と、ガリ先生の美由紀先生に対する感情について話すことはしなかった。城田にはそんなことより、先ほどの十段円塔がなぜ崩壊したのかの方が重大だった。
 「どうして崩れたんだろう……」
 彼はつい先ほど正に立たんとしていた巨大な塔があったグランドの中央に目を移し、小さな落胆のため息を落とした。その消沈した声に、愛は心のわだかまりを隠しておくことができなくなって、たまらず、
 「私のせいかもしれません」
 と口走った。城田は不思議そうに、「どうしてそうなるの?」と聞き返したが、愛は返答に窮したまま何も答えることができなかった。
 言えるはずがない。あのとき城田の愛する紅矢春子に気を奪われていて、心を合わせることができなかったなど、彼に対する愛の告白をするようなものだ。咄嗟に、
 「希さんが立ち上がろうとしたとき、私、関係のないことを考えてしまっていたの……」
 と、言葉を替えてすまなそうに告げた。
 「なんだ、桜田先生もか……」と、城田の言葉は意外だった。
 「―――桜田先生にはまだ話していませんでしたね」
 城田は遠くをみつめてやがて話し出した。
 「実は僕には同じ教師をしていた親友がいたのですが、最初に十段円塔をやると言い出したのは彼だったのです。名を大悟といいました。ところが十一年前、その練習中に塔が崩れて大惨事です。まるで今日のように……。たまたま今回は命綱をしていたから良かったものの、あの時は大勢の怪我人が出ました。そして今日希ちゃんがまさに立とうとしたとき、僕はあの十一年前、大悟が十段円塔を成功させようとしたまさにその瞬間、ほんの、ホントにほんの一瞬でしたが、『大悟のやつ、失敗すればいいな』と思ってしまった自分がいたことを思い出してしまったのです。そんなふうに思うなんて本当に恐ろしいことだ。それまで一心一体になって絶対成功させようと苦楽を共にした親友に対してですよ! 僕は僕の中にそんな悪魔のような心があったなんて信じられなかったし許せなかった。結局誰にも打ち明けられず、やがて大悟は死んでしまいました。僕は時間の力を借りてその記憶を葬り去ったのですが、今日、希ちゃんが立とうとした瞬間、あの十一年前の記憶が再び鮮明によみがえり、僕は成功させることを忘れて、大悟のことばかり考えていました―――なぜあんな不埒な心が湧いたのかと、申し訳なかったと、大悟を陥れたのは僕ではなかったかと―――」
 城田の目には涙がたまっていた。なぜあのとき、心にもないはずの『失敗すればいい』などと思ってしまったのか? 彼は彼なりに何度も何度も考え、考え抜いた。もしかしたらそれは、自分より大きな事を成し遂げようとする親友に対するライバル心から出たものだったかも知れないし、成功した暁には、春子の気持ちが大悟へと大きく傾くかも知れないという独占欲とか嫉妬から出たものかも知れないとも考えた。しかしそれは断じてない! と自分に言い聞かせたものだった。当時の兵悟と大悟と春子三人のつながりは、そんなに薄っぺらで脆いものではないと信じて疑わなかったからである。
 「もしかしたら九段目と十段目の間には、人の心を喰い尽す、目には見えない巨大な魔物が棲んでいるのかも知れない……」
 城田は愛を見つめてポツンとつぶやいた。
 「いずれにしても、十段円塔の中心者が二人ともこれじゃあ成功するはずがないね……」
 と、やがて城田は力なく笑った。
 
> (39)仲たがい
(39)仲たがい

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 片づけを終え、クレーン車を出してくれた牧社長に、来週の本番当日のお願いをして見送った城田と愛は、少々疲れた様子で休日の職員室に戻った。するとそこでは菅原政子教頭をはじめ五、六人の先生方が、先ほどホームビデオで撮影したばかりの十段円塔崩壊の様子を、テレビに映して熱心に見ているところだった。
 「あれ? 教頭先生、ビデオに撮ってくれていたんですか!」
 忙しさの中で練習のビデオ撮影など考えも及ばなかった城田は喜びの声を挙げたが、刹那「ここよ、ここ!」という教頭の声にかき消され、そこにいた者達の視線は、スローモーションで映し出されるテレビ画面に釘付けになった。まさに崩れ落ち始めた瞬間をとらえた映像である。
 「五段目のあたりね……ほら、この子! なんだか肩をゆすっているようにも見えるわ」
 一緒に見ていた5年愛組の安岡花子先生が指を指して言った。映像では、その子の肩の上に立っていた子の足元から崩壊が始まっているようだった。
 「本当ね。誰かしら? 小さくてよく見えないわ……。城田先生、この子、誰だか判る?」
 菅原教頭が城田を手招きで呼んだ。画面を見た瞬間、彼にはすぐに判った。
 「うちのクラスの原田萌さんだ―――」
 「原田さんて、日の出食堂の?」
 5年信組の本木弘先生に続いて、6年信組の八木先生が、
 「それじゃこの隣は水島友太君ってわけか。二人の間に何かあったのかな?」
 と首を傾げて言った。城田にしてみれば何かあった≠ヌころの話でない。この計画を始めた当初からの懸案だったのだ。それを知っているのは彼からその悩みを密かに打ち明けられていた愛だけで、彼女は他人事のように「どうするのよ!」という冷ややかな横目線で城田を牽制し続けた。すると、慎重型で普段からあまり発言などしない性格の5年敬組の新田先生が、「ちょっといいですか?」と口を挟んで、映像を崩壊する少し前まで戻すよう要求した。菅原教頭は言われるままに「あら、最近は巻き戻し≠チて言わないのね」とつぶやきながら、リモコンの早戻し<{タンを押して、やがて再生された映像を見ながら、
 「ストップ!」
 と、新田先生は小さな声で叫んだ。
 「ちょっと見えずらいんですけど、ここをよく見て下さい。一段目のここです。ほら、この二人、足を蹴り合っていませんか?」
 全員、画面を凝視した。なるほど判かりずらくはあるが、一段目の別チームの隣り合う男性の足が、互いのふくらはぎを蹴り合っているように見える。
 「いったい誰と誰?」
 これは由々しき事態だとばかりに安岡先生が追及しはじめた。
 「一人は真っ赤な運動靴を履いてるなあ」と、八木先生が気が付くと、
 「クック・モットの水島社長! 水島友太君のお父さんよ!」
 と、愛が思い出したように言ったので、全員の視線が彼女に向けられた。
 「休憩中に水島さんを見かけたものだから、私挨拶に行ったんです。ほら、当日のお弁当の話がなくなっちゃったから謝らなきゃいけないと思って。本人は『気にしないで』って言ってくれたんだけど、なんだか目が怒っていたから私、頭を下げたんです。そしたら派手な靴が目に入って、思わず『ステキな靴ですね』って言ったの。そしたら『運動会のためにネットで2万円で買った』んですって、ナイキの真っ赤なシューズ!」
 「金持ちはイイねぇ〜」と本木が羨ましそうに言った。
 「じゃあ、もう一人は誰なの?」と安岡の追及は止まらない。ふと、「この男性の隣にいるの、本木先生じゃないかしら?」と指を指した。他人事でなくなった本木はテレビ画面に食い入って、
 「た、確かに俺だ……」
 とつぶやくと、周りから「先生と同じチームにいた誰かよ! 思い出して!」と急かされながら、間もなく本木は「はっ!」としたように手を叩いた。
 「原田さんだ! 日の出食堂の!」
 城田は頭を抱えた。子ども同士の関係ばかりでなく、親同士までもが犬猿の間柄を露骨に現して、十段円塔崩壊の重大な原因を招いていたとは、もはや弁明の余地など皆無だ。両店舗の仲の悪さを知っている先生方も、「あの二人ならばやりかねない」とか「きっと当日の弁当がなくなった腹癒せに互いの憂さを晴らしているのだ」と口々に言い出して、たまらず愛は城田の腕を引っ張って廊下に連れ出した。
 「どうするんですか? 今の体勢じゃみんな納得しませんよ!」
 「分かっていますよ、そんなこと!」
 「なら、やっぱり萌さんと友太君の位置をずらしましょう。私、ずっと前から忠告していたはずですよねェ! それに一段目だってチームの位置をずらせば済むことじゃないですか。まだ一週間ありますし、なんとかなりますよ!」
 「それでは根本的な解決にならないじゃないか。今の一人一人の持ち場を導き出すのに、アンケートで身長や体重、過去のスポーツ経験などを聞き出して、どれだけ考え抜いて組み合わせた位置か桜田先生だって知ってるじゃないか。下手に動かしたらそれこそ力のバランスが偏って、今より失敗のリスクが大きくなるんだよ!」
 愛はぷいっと怒って「城田先生のわからずや!」と叫んだ。
 「どっちが分からず屋さ!」
 「もういいっ!」
 愛は理由も分からず涙が込み上げて、職員室に入ろうと足を向けた。ところが城田はそれとは逆の方向へ歩き出したものだから、
 「どこ行くんですか? こんな大事な話をしてる時に」
 愛の質問に城田は何も答えない。
 「どうせ春子さんのところでしょ? お昼だし、あそこの唐揚げ美味しいですものね! せいぜい楽しんで来ればっ!」
 愛にも分からなかった。まさかそんな乱暴な言葉が自分の口から飛び出すとは。しかし憤りだか嫉妬だか悲しみだか何だか解からない感情が爆発して、思わず出た言葉がそれだった。本人に解からない感情など城田にも判るはずがない。
 「何をそんなに怒っているの?」
 「知らないっ!」と投げ台詞を言い放ち、続けて出た「勝手にしろよ……」という声は小さくて、城田の耳には届かなかった。

 城田は学校を飛び出して日の出食堂へ向かった。
 全体練習を終えて帰って、さっそく午後の営業を開始していた店主の原田は、威勢の良い声で「いらっしゃい!」と彼を迎え、
 「こりゃ城田先生、さっきは残念でしたねェ、もう少しだったのに!」
 と、店内に数人いる客の注文の調理の手を動かしながら言った。城田はカウンター席に座るとラーメンを注文し、そういえばお金はあったかと、まだ一、二枚の千円札が入っているはずの財布の中身を確認した。
 「今日はお向かいさんの弁当でなくていいんですかい?」
 厨房の原田は中華鍋に野菜を投入しながら嫌味な笑みを浮かべたが、「あんた、やめなよぉ」と妻の良美は「すいませんねぇ」と笑顔で謝りながら、サラリーマン風の男に頼まれたお冷を運んで行った。
 城田は何から切り出そうかと店内のテレビを見るともなしに眺めていたが、やがて、
 「はい、一丁あがり! チャーシュー少しサービスね」
 と、目の前に置かれたラーメンをすすり始める。もうとっくにお昼時間を過ぎた店内は、城田を残して最後の客を送り出し、店主の原田は椅子に腰かけ暇そうに新聞を読み始めた。
 「あのお、今日の全体練習のことなんですけど……」
 城田は器のスープを飲み干してから、ようやく言った。
 「あと少しだったのにね。本番は成功させやしょう!」と、即答の原田に何の悪びれも見られない。
 「そのお……、水島さんと何かあったのですか?」
 すると原田は新聞を読むのをやめ、「なんでそんなことを聞くのか?」と言いたそうな表情で城田を見つめた。
 「いやいや、深い意味はないんです。ただ、今日なにか二人の様子が変でしたので……」
 「なんだい、見られてたんですかい? 先生にゃかなわないなぁ」
 原田は観念して蹴り合いの経緯を話した。
 「いやなに、たまたま隣に水島の奴がいたもんでね、『景気はどうか?』と尋ねたんだ。そしたらいきなり俺の足を踏みつけやがったんだ。頭にきたから蹴り返してやっただけのことだよ。いや、申し訳ない!本番は絶対しねえからよ。今回は許してくんない!」
 どうやら円塔が崩れた原因が自分にもあったことに気付いているようで、原田は素直に謝った。
 「でもどうして景気を聞いただけで足を踏むのでしょう?」と城田。
 「そんなこたあ奴に聞いてくんねえ。小学校の頃は仲良かったんだけどなあ」
 「えっ? 同級生だったんですか?」
 「そうだよ。二人とも蛍ヶ丘小学校の卒業生さ。でも中学校にあがってからかな? 馬が合わなくなったのは。まあ、別々のクラスになったということもあるんだが―――まあ心配しなさんな、本番は必勝鉢巻≠巻いて臨みますから!」
 愛想のいい原田はそんなことをぼやいた。
 「本番は本当にお願いしますよ。一部の呼吸の乱れが全体の失敗につながりますので」
 城田はそれ以上のことは聞き出せず、勘定を支払って続けて水島の家に向かった。
 「やあ、城田先生! 今日はあと少しでしたのに、残念でした」
 妻の美樹に呼ばれて玄関先に出て来た水島の声は明るかった。彼もまた少しの悪びれもなく原田と同じようなことを言って詫びたが、結局原田と水島の二人の間にある怨念に似たわだかまりの根源を究明することはできなかった。
 城田は頭を抱えたまま学校へ戻った。
 
> (40)いやな夢
(40)いやな夢
 
> (41)ソクラテスの毒杯
(41)ソクラテスの毒杯
 
> (42)タイムカプセル
(42)タイムカプセル
 
> (43)時間の忘れ物
(43)時間の忘れ物
 
> (44)結ばれた糸
(44)結ばれた糸
 
> (45)こども教師と大人女の子
(45)こども教師と大人女の子
 
> (46)大悟の手紙
(46)大悟の手紙

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 義仲木曽小学校に到着した城田と春子は、懐かしい正門の前に立って暫く感慨に耽った。今日は土曜日なので学校は休みで、校舎の中には人気もなく、だだっ広いグランドの方から遊びに興じる数人の子ども達の声が聞こえてくるだけだった。
 やがて「少し歩こうか」と校舎の周りを散策しはじめた二人は、ロータリーに植えられた桜の木の下で花見をしたことや、国旗掲揚塔に鯉幟を飾って教頭にひどく怒られたことや、学級菜園にアンデス原産のペピーノという果物を栽培しようとして失敗したことや、鳥小屋を見れば大量に孵化した数百匹のウズラの世話にてんてこまいだったことなど思い出しながら、顔を見合わせ大笑いした。しかしもう一人いるべき男がそこにはいない。やがて二人は玄関横の二宮金次郎が立っている場所に辿りつく。
 「僕らのタイムカプセルを埋めたのは、確かここだったよね」
 「覚えてる。大ちゃんは黒のジャージ姿で、兵ちゃんは白いワイシャツ着てた―――でも、ホントにここに大ちゃんの遺書があるの?」
 「多分……」
 城田は車から小さなスコップを持って来ると、おもむろに台座の横の土を掘り起こした。すると思惑どおり中からビニールにくるまれた土とは異質の物体が二つ姿を現した。一つはあの日に埋めた三人のタイムカプセルに違いない。そしてもう一つの方が―――それも同じく何重ものビニールにくるまれており、それを除くと中から透明なプラスチックケースが姿を現した。更にその中にあった木の箱からは、クリアファイルに挟まれた二つの封筒が出てきたのである。長年土の中に埋もっていたため湿った上に薄くぺちゃんこになってすぐにでも破けそうだったが、表書きには、一つは『兵悟君へ』、もう一つには『春子さんへ』と書かれているのを確認した。それは間違いなく懐かしい大悟の筆跡だった―――。

 兵悟君へ
 君がこの手紙を読んでいるということは、僕が死のうとしている本当の意味を理解しようとしてくれたのだね。こんなふうにこの手紙を君からできるだけ遠ざけた場所に隠したのは、春子さんを君から奪ってしまったという意味において、僕は君に顔向けができないからです。しかし心のどこかで、僕が死ぬ本当の理由を理解してほしいと願っているからだと思います。
 僕は今晩、腹を切ろうとしています。以前から君が力説していた切腹というものを、まさか自分が体現することになるとは夢にも思いませんでしたが、君に真実を理解してもらうためには、この方法が一番良いと思いました。どうやら僕の中にも日本武士たる純血が流れているものらしい。
 僕が死ぬのは誰のせいでもありません。僕自身が考え、決断したことですから、春子さんにも君にも全く咎はありません。
 実はあの十段円塔を失敗した時から考えていたことなのです。失敗して、子ども達や校長先生はじめ周りの先生方に多大な迷惑をかけた責任をとるにはどうしたら良いかと。でもあのときの僕には決断ができなかった。死ぬことが怖かったし、その代償に教師を辞めることも考えましたが、それでは筋が違っているように思えたのです。君はそんな僕のために、君の最愛の女性である春子さんと結婚しろと言ってくれました。思えばあのとき実行していれば良かったと後悔するのですが、やはりあの時の僕にはできませんでした。春子さんを愛していたからです。
 そのおかげで僕は過去の過ちを忘れ、春子さんとの新しい生活の中で、自分が打ちこむ教育の現場で新たな使命を見つけようとしました。そして長女が生まれ、僕は担任を持たせてもらえることになったのです。それは短い間でしたが本当に幸せな日々でした。君と同じ時間を過ごせなかったことを除いて。
 僕は君と春子さんと切磋琢磨し、築き上げてきた自分の教育論や教育方針は絶対に間違っていないと確信しています。信じてくれないかもしれませんが、いずれ三人で力を合わせ、日本に新たな教育理論を、共著で編纂したいと考えていたほどです。
 しかし一度犯した罪は、どこまでも僕を追いかけて来たのです。ある保護者から「根拠のない自分のやり方を子どもに押し付けるような教師に大切な子どもは任せられない」と言われました。それはとてもショックなことでした。根拠ならありました。君と春子さんです。僕は君と春子さんを侮辱するその保護者が許せませんでした。
 その保護者は周囲と結束し、更に僕に追い打ちをかけてきました。過去の責任を償うために、僕に「教師を辞めろ」と言うのです。つまり僕が教師を辞めることが、僕が犯した過ちを償うことだと。それを力づくでなく、僕自身に進退を決めさせるよう仕向けたのです。ソクラテスではありませんが、いわば僕は″辞職の毒杯≠突き付けられたわけです。
 もし僕がその毒杯を拒めば、彼等の言い分の上では、僕は過ちを償わないことになり、過ちを償わないということは不道徳であり、不道徳者の為す行いは全て偽りです。つまり僕がこれまで情熱を傾け、正しいと信じた教育実践の全てを、自分自身で否定したことになってしまうのです。それは君と春子さんを否定することでもあり、僕にとって最大の屈辱です。僕は不道徳者ではありませんし、僕の教育は断じて間違っていません! 確かに安易であったことは否めませんが、なぜ十段円塔に挑戦することが間違いだったと言い切れるでしょうか? 僕は甘んじて毒杯を仰ぐしかありませんでした。
 しかし教師を辞めたところで、僕にできる仕事など他にありません。教育が僕の全てであり、それを奪われてしまったら僕には何も残らないのです。教育こそ僕と兵悟が決めた道なのだから。
 皮肉なものですが、君の好きだった吉田松陰先生の言葉が、今の僕なら解かる気がしています。
 死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし―――
 僕の死が、僕の教育の正しさが証明できる唯一の方法であるなら、僕はいつでも死ぬことをためらいはしません。この言葉はそういう意味だったのですね。
 先立つ不孝を許してくださいとは春子さんにも言いません。それは自殺者が言う言葉だからです。僕は僕自身が犯した責任のけじめをつけなければなりません。けじめをつけない限り、僕の魂は生き続けることができないのです。言うなれば、僕は生きるがために死ぬのですから、返ってそれは不幸ではなく幸せなことです。
 この手紙が君に読まれる日はいつになるか分かりませんが、ひょっとしたらその時は君にも家族ができているかも知れませんね。一つだけ僕の最後のわがままを聞いてください。たまに春子さんと希のことを気にかけてやってください。春子さんのことをよろしく頼みます。
 この手紙と一緒に埋めた春子さん宛の手紙を彼女に渡してください。
 紅矢 大悟

 春子さんへ
 春子さん、貴方がこの手紙を目にする頃は、希はいくつになっているのだろうかと、僕のいない未来を想い描きながら、最期の言葉を残します。
 僕は、一人の女性としての貴方を倖せにすることができませんでした。しかしそれはけっして貴方を愛していなかったわけでなく、また、家族を捨てようとしたわけでもありません。僕の体がもう一つあるならば、もう一人の僕に家族の一切を任せて、僕は心置きなく教育に殉じることができたのですが、それは叶わぬ願いです。
 僕がなぜ死なねばならないかは、兵悟君への手紙に記しました。僕はただ、春子さんに謝ることしかできないのです。そして貴方に対して、強く生きなさいとも、幸せになって下さいとも言えません。それほどこれからしようとしていることは、家族に対して、貴方に対して、無責任極まりないことだと自覚しているからです。
 あるいは教育を捨て、生きる屍となって春子さんを経済的に守ることはできたかも知れません。しかし、もしそれができたとしても、教育を捨てた僕は僕ではありません。僕は貴方の前では永遠に教育者でいたいのです。
 いつだったか春子さんが言った言葉が昨日のことのように思い出されます。あれは兵悟のアパートだったと思います。炬燵を囲みミカンを食べながら貴方は確かに言いました。「私は兵ちゃんも大ちゃんも好きだが結婚はできない、しない方がいい」と。今から思えばそれが正論で、三人が幸せになれる道だったのかも知れません。ところが兵悟と貴方は妙な企みをして、僕から教育者である春子さんを奪ってしまった。もっともあの時の僕にとってはそれが唯一の救いだったわけですが……。それを思う時、男とはなんと浅はかな生き物かと笑ってしまいます。しかし人の運命とはそういうものなのかも知れません。
 おそらく僕が死ぬことで「家族を残して」と僕を非難する人もいるでしょう。ひょっとしたら貴方の心にも芽生える感情かも知れません。当然と思います。それについては謝る言葉も見つかりません。
 でもこれだけは信じてください。僕は死んで空から君と希を見守っているということを。いつだって僕は、貴方や希の前に現れることができるということを。
 春子さんはとても強い女性ですので、きっと力強く生きていくことでしょう。ですから希のことも心配しないことにしました。もしこの手紙を読んだなら、希にこう伝えて欲しいのです。「君の父親は教育のために信念を貫き通した男だった」と。そして「人間だった」と。これだけは僕が胸を張って言えることなのです。
 さようなら、春子さん。僕は人として教育に殉じます。
 春子さんを愛する夫より

 帰りの車の中で城田と春子の二人は、助手席の春子が運転する城田に読んで聞かせる形でその手紙を何度も何度も読み返した。初めて知る死の直前の大悟の心境に、春子は驚き、城田は深く納得したのだった。
 「でも、なぜあそこに埋めたのかしら? せめて私のだけでも家に置いていてくれれば、こんな長い間苦しまなくて済んだかもしれないのに……」
 春子は大悟が最後に取った行動が腑に落ちないといった顔つきで、恨めしそうに呟いた。
 「春子先生はきっと僕に嘘を付く。大悟はそれを見越してた。現に交通事故で死んだって嘘をついたでしょ? もし春子先生への遺書だけが手元にあったとしたら、僕は大悟の死に疑問を抱くことはなかった。大悟は自分がなぜ死ぬのか、その理由をどうしても僕に知って欲しかったのさ」
 「なーんだ、私は出汁に使われたのか……」
 春子はやるせない様子で呟いたが、そこに怨嫉のようなものは感じられなかった。
 「そんなこともないさ。そのおかげで僕は春子先生と再会して、また昔のような関係に戻れたのだからね」
 それにしても大悟が死んでからの十年は長すぎた。それについて城田は「一蓮托生さ」と言った。つまり大悟が挑戦した十段円塔の失敗は彼一人だけの問題でなく、その責任は関わった我々三人で負うべきものだったと。ところが大悟は一人で背負い込んで死んでしまい、本来兵悟と春子が負わねばならない苦しみを全て持って行ってしまった。「でも僕らが負わねばならない負担があったのさ」と。
 「それは、僕は女性としての春子先生を失った苦しみに、春子先生は希ちゃんを育てながら一人で生きなければならない苦しみに、それぞれ耐えなければならなかったこと。それが大悟から分け与えられた僕らの十年という歳月だったんじゃないかな?」
 「兵ちゃんって、三人のことは何でも知ってるのね」
 春子は遠くを見つめた。
 「それにしたって大ちゃんの好きだったソクラテスって紀元前のギリシャの人でしょ? それに兵ちゃんが好きな吉田松陰は日本の幕末の人よ。その二人が究極ではつながってたってこと? なんだか不思議」
 春子がそんな哲学的な話題を持ち出すのは、おそらく三人が一緒に過ごしていたあの頃以来のことだった。城田はごく自然な懐かしさを感じながら、「国や時代を超えて、人間の魂の究極は同じなのかも知れないね」と笑んだ。
 「大悟はその究極の精神を覚知したんじゃないかな? いわば僕らの共通の友は、ソクラテスや吉田松陰に連なる偉大な先達者だってことさ。これは僕らが誇るべきことだよ! ほら、いつだったか大悟の奴、ソクラテスの毒杯の話を熱っぽく語ったことがあったじゃないか。僕らも感化されて、春子先生なんか論文にまとめようとメモとっちゃったりしてさあ」
 城田は懐かしそうに笑い出した。すると、「ちょっと待って? 私そのメモ帳、持ってるかも知れない」と、急に春子はそわそわ仕出した。
 「きっとあるんじゃない? 家に帰ったら探してみたら」
 「そうじゃなくて今……」と、春子は膝の上に置いたバックの中身をしきりにいじり始め、いきなり、
 「あった! ほらこれ!」
 と大声を挙げた。実は昨晩、今日の服装を決めるために箪笥の中をあさっていたところ、十年以上前に使っていたバックが出て来て、懐かしくなってたまたま今日はそれを持って来たと言うわけだった。
 城田は「うそだろ!」と叫んで慌てて車を路肩に止めた。そして二人でそのメモ帳を開いてみると、正にあの時に書いた『ソクラテスの毒杯についての考察』と記された春子の筆跡が残っていたのである。二人はこんな偶然があるのかと驚愕した顔で見つめ合った。
 「大悟がいる―――」と突然真顔で城田が言った。
 「えっ? どこどこ」と春子は慌てて後部座席を見回した。しかしそこには誰もなく、車の周りにも周囲の木々や岩の物陰にも何の姿も確認できず、ただ穏やかな風が吹いているだけだった。
 「いるわけないじゃん! 幽霊とかだったら逆に怖いんですけど」
 「でも春子先生への遺書に書いてあるじゃない。″僕は死んで空から君と希を見守っている≠チて。目には見えないけれど、案外、大悟はいつも僕らを見守っているのかも知れないよ」
 城田は穏やかな気持ちで車を発進させた。
 
> (47)ドタバタ開会式
(47)ドタバタ開会式

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 果てしなく透き通った秋空にまばゆい閃光がはじけ、少し遅れて大きな破裂音が連続的に鳴り渡った。
 今日は蛍ヶ丘小学校の校庭大運動会当日。朝早くから家庭科室には婦人会のおばちゃん達が集まり、お米を磨いだり、馬鈴薯や人参や玉葱を切ったり、慌ただしくも世間話をしながら楽しそうに一日が動き出していた。
 「今日一日、どうかよろしくお願いします!」
 挨拶に訪れた城田と愛は、中心者の成沢先生に深々と頭を下げて、「任しといて頂戴!」という頼もしい返事を聞いた。
 やがて登校して来た子ども達は、それぞれ教室内の自分の椅子を、校庭西側の本部席の北側と、トラックを挟んだ東側に学年・クラスごとに整然と並べ、また、各委員会に所属する児童達は、それぞれ与えられた役割の準備に余念がない。その中、保健委員会の子ども達は、本部席南側に設けられた救急本部に集まり、鶴田美由紀先生の話を聞きながらいくつか置かれた救急箱の中身の最終チェックや、万一に備えてタンカやAEDなどの備品を整えていたが、子ども達はそこにいる見慣れない顔の白衣の中年女性を気にしていた。
 「今日一日救護班と一緒に、皆さんのお手伝いをしてくれる方を紹介します」
 美由紀はその女性を紹介した。
 「須坂市立須高病院の看護師長をされている児玉詩織さんです。児玉さんは病院の現場で実際の患者さんを相手に仕事をされている看護のエキスパートですから、皆さんにとっても、とてもいい勉強になると思います。どうか一日、仲良くしてあげてくださいね」
 すかさず「今ご紹介に預かりました児玉詩織と申します。今日一日……」と話し始めた看護師のその女性は、根っからの子ども好きのようで、瞬く間に救護班の子ども達と仲良くなって、美由紀はそこからはじかれる形となった。そもそも十段円塔で万一のことがあっては大変と、五木市長が気を回して手配してくれたものだが、毎年運動会といえば救護の城を守って来た美由紀にとってはあまり歓迎すべき人物でなく、また、市からの派遣とあっては断ることもできなかった。
 「なんか今日一日、超暇になりそう……」
 と、美由紀はため息交じりにつぶやいた。
 そんな彼女のところに、「美由紀先生、おはようございま〜す!」と、超ご機嫌な様子の二人組の男が近寄ってきた。言わずと知れた金髪中村とアゲハのヤッシャンである。先週にも増して強烈な香水の匂いをプンプンさせる二人に、思わず美由紀は反射的に逃げ出した。ところが、
 「先生、逃げなくたっていいじゃないですか!」
 と、いきなりアゲハに腕を掴まれて、すっかり逃げ場を失って、中村とアゲハは久し振りに話ができる喜びから矢継ぎ早に質問を投げかけるのだった。
 「いい天気ですね?」 「ご機嫌いかがです?」 「お加減はどうですか?」 「先週は体調を崩されたようですが大丈夫?」 「先生に会えなくて淋しかった」 「そのジャージ姿お似合いですね」 「お昼一緒に食べましょう」 「ついでに夜の食事もご一緒しません?」 「お酒も一緒に飲みましょう?」 「いい飲み屋があるんです」…………
 そうしているうちに急に頭痛がしてきた美由紀は左手で頭を押さえ、右手で二人の言葉を遮りながら、
 「わかった、わかったから! ちょっと待って、ホント……、ああダメ、具合悪くなってきた……」
 と言ったと思うと、突然吐き気をもよおし、だんだん意識が遠くなり、その場にしゃがみ込んで遂には倒れてしまった。
 びっくりしたのは中村とアゲハである。何が起こったのか訳も分からずおろおろしていると、そこに「鶴田先生、大丈夫ですか!」という保健委員長の女の子の悲鳴に似た声が挙がった。
 「あなたたち、何やったの!」
 二人を叱りつけたのは児玉看護師長だった。二人から漂う強烈な香水の匂いに顔をしかめると、救護班の子ども達に向かって「タンカ! 早くタンカを持って来て!」と叫んだ。慌てた子ども達はたった今準備したばかりのタンカを広げると、美由紀を乗せて保健室へ駈け出した。
 「い、一体、何がどうなっちゃったの?」
 腑に落ちない中村が責任を感じて呟いた。
 「多分そのニオイ、嗅覚過敏症。あなたたち、周りに迷惑だからすぐにその服、着替えて来なさい!」
 そう叱りつけると児玉は子ども達の後を追いかけて行った。

 朝のゴタゴタにあたふたしながら、いよいよ開会式が始まった。
 さわやかな風と空気に包まれて、赤と白に分かれた全校児童はきれいにグランドの中央に居並ぶと、「はじめの言葉」に続いて児童会長成沢輝羅々の「開会宣言」を待った。来賓席には五木市長はじめ井ノ原教育長の姿や地域の市議会議員、区長・副区長はじめ地域の民生委員や交番の警察官、公民館長や児童館長、あとはPTA役員はもちろん、各種ボランティア団体の代表とか地域老人会のお年寄り達が並び、池田伸兵衛さんの姿もそこに見えた。
 その様子を追うSTBのテレビカメラの前では、美人アナウンサーの周防美沙江が実況をしており、隣には娘の瑠璃がマイクを持って、子どもアナウンサーとしてアシスタントを務めている。
 「さあ、雲一つない快晴の下、いよいよ須坂市立蛍ヶ丘小学校の校庭大運動会の開会式が始まろうとしています。今日一日、実況を担当するのはこちらの子どもアナウンサー」
 「周防瑠璃です! 元気いっぱいやりますので、どうぞよろしくお願いします!」
 「そして私、周防美沙江でお送りして参ります。さて、瑠璃ちゃんはここ蛍ヶ丘小学校の4年生ということですが、今日まで練習はどうでしたか?」
 「はい、ちょっときついこともありましたが、みんな一生懸命に取り組んでいたと思います。午前中は綱引きや男子の騎馬戦や女子の竹引き合戦が見どころです。そして午後に行われる5、6年生の組体操は特に注目して欲しいです。そこで披露する予定の十段円塔は、世界でもまだ誰も成功したことがないと言われています。実はまだ練習でも一回も成功したことがありません」
 「さて、練習でも一回も成功したことがないというその十段円塔ですが、私達STBはその挑戦の模様をずっと追ってきました。果たして今日は成功するのでしょうか? ゼッタイ見逃せませんネ!」
 「は〜い、OKで〜す!」と都会気取りのサングラスをしたプロディーサーがカメラを止めて、何度か映像を確認したり撮り直しをすると、瑠璃は既に開会式が始まっている4年敬組の列へと戻って行った。
 進行は輝羅々の開会宣言に続いて烏山校長の挨拶、次に五木市長の挨拶と続き、最後にPTA会長音無宗司の番となっていた。白いジャージ姿の音無は、緊張した面持ちで体操台のマイクの前に立つと、ひとつ咳払いをし「えぇ〜っ」と言ってから、「おはようございます! 今日は待ちに待った運動会です!」と話し始めた。
 「昨日テレビを見ていましたら、今日、ここ蛍ヶ丘でも、皆既日食が観測できるそうです。理科の時間で勉強した人もいると思いますが、皆既日食というのは太陽が月に隠されて、夜のように暗くなる現象です。そして、ここ蛍ヶ丘で次に見れるのは、三六〇年後といいますから、その時は多分、私も皆さんもこの世にはいないでしょう」
 子ども達の間でクスリと笑い声が起こり、息子の太一は「また余計なこと言って」というような真っ赤な顔で俯いた。
 「今回の運動会のテーマは″蛍ヶ丘の光りよ一つになれ!≠ニ聞きました。三六〇年に一度きりのこの時に、皆さん一人一人の元気を集め、大きな『元気玉』にして宇宙へ投げ飛ばそうではありませんか! どうか怪我のないように、精一杯自他の花を咲かせて下さい」
 なんだか解かったか解からないような内容であったが、そんな独特な雰囲気が彼の良さであり、短所でもあった。一応役目を終えた音無は、一礼をして壇上を下りる。
 そして選手宣誓に続いて、全員で赤白対抗の運動会の歌『ゴーゴーゴー』を歌い、その後は体操のできる間隔に広がって準備体操をしてから競技開始となった。
 そのとき城田にとってひとつの心配事が発生していた。
 「牧建設のクレーン車が到着していない」
 と言うのである。予定では開会式前には車両をグランド横の道路に付けて、命綱の準備を終えていなければならないところだが、牧社長の息子がいる5年生の牧航貴の母親に事情を聞けば、
 「実は三日前に群馬県の建設会社にクレーン車を貸し出したのだが、建設工事が長引き、昨日返却される予定の車両がまだ返って来ない。昨晩遅く、主人が取りに行ったから、午前中には間に合うと思う」ということだった。組体操は午後だから、お昼休みに準備をすれば問題ないだろうと、その時はそれで済んだ話である。
 さて、校庭東側のギャラリーには、例年とは比較にならないほど大勢の人達が観覧していた。その多くはSTB放送を見て期待を募らせた地域住民や、午後の組体操に駆り出された面々であるが、まだ来ていない人達も大勢いたのでお昼頃には満席になり、収容できない人も出ることが予想された。駐車場も区の方にお願いし、町内の公会堂やスーパーや薬局やコスモス園という老人介護施設、その他空き地や路上等、スペースというスペースは駐車できるように手配してもらったのでなんとかなりそうだったが、実際には想定外の対応に追われることも考えられた。
 そのころ保健室に運ばれた美由紀を取り囲むように、数人の救護班の子ども達と児玉看護師長が楽しげな会話をしていた。グランドの方からは軽快なBGMやスターターピストルの音が聞こえ始めていた。
 「鶴田先生、ほんとうに大丈夫ですか?」
 一人の子どもの質問に、「たぶんね」と笑顔で児玉は応えた。
 「病気?」
 「嗅覚過敏だと思う。嗅覚障害の一種で、ほら、女性が妊娠した時のつわりと同じようなものよ」
 「弟が生まれる時、私のお母さんもつわりがひどいって言ってた!」
 「そう、つわりの場合、吐きけや嘔吐などの症状が出て、好きな食べ物が変わったりするの。でも一時的なものだから病気ではないと言われているわ。でも鶴田先生の場合、妊娠じゃないからねぇ。匂いと人の情動には大きな関係があるの。ほら、いい香りを嗅ぐと気持ち良くなるじゃない、アロマセラピーなんかはこうした香りの特性を活かした治療法なのよ。逆に嫌な臭いをかぐと人は気分が悪くなる。鶴田先生はきっとあの匂いが大嫌いだったのね」
 「そういえば、あの男の人達、へんなニオイしてた!」
 児玉は目をキラキラさせて話を聞く子ども達の尊敬を鷲掴みにしていた。ちょうどそこで美由紀が「ここどこ?」と言いながら目を覚ます。
 「鶴田先生が気が付かれましたよ。もう心配いらないから、皆は運動会の方へ戻りなさい」
 「はーい」と、子ども達を帰した児玉は、ベテラン看護師の口調で「運動会当日に養護教諭が倒れるなんて語り草ね」と笑った。美由紀は舌を出して自分の頭をコツンと叩いた。
 「でも子どもってカワイイのね。なんだか鶴田先生がとっても羨ましい。こんな素敵な経験をさせてもらってすごく感謝しているの。今日一日救護班の子ども達は私に任せて、鶴田先生は無理をしないで、ゆっくり運動会観戦をしていてかまいませんよ」
 こう言い残して児玉は保健室を出て行った。彼女にとって今日の経験が非常に貴重なことだと知った美由紀は、自分が戻って返って邪魔をすることになっても申し訳ないと思い、救急本部には緊急時だけ駆けつけることにして、遠慮なくその言葉に甘えることにした。
 
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> (50)喰い尽された光
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> (51)立ち上がれ!
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> (52)己心の魔物
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