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(46)大悟の手紙

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 義仲木曽小学校に到着した城田と春子は、懐かしい正門の前に立って暫く感慨に耽った。今日は土曜日なので学校は休みで、校舎の中には人気もなく、だだっ広いグランドの方から遊びに興じる数人の子ども達の声が聞こえてくるだけだった。
 やがて「少し歩こうか」と校舎の周りを散策しはじめた二人は、ロータリーに植えられた桜の木の下で花見をしたことや、国旗掲揚塔に鯉幟を飾って教頭にひどく怒られたことや、学級菜園にアンデス原産のペピーノという果物を栽培しようとして失敗したことや、鳥小屋を見れば大量に孵化した数百匹のウズラの世話にてんてこまいだったことなど思い出しながら、顔を見合わせ大笑いした。しかしもう一人いるべき男がそこにはいない。やがて二人は玄関横の二宮金次郎が立っている場所に辿りつく。
 「僕らのタイムカプセルを埋めたのは、確かここだったよね」
 「覚えてる。大ちゃんは黒のジャージ姿で、兵ちゃんは白いワイシャツ着てた―――でも、ホントにここに大ちゃんの遺書があるの?」
 「多分……」
 城田は車から小さなスコップを持って来ると、おもむろに台座の横の土を掘り起こした。すると思惑どおり中からビニールにくるまれた土とは異質の物体が二つ姿を現した。一つはあの日に埋めた三人のタイムカプセルに違いない。そしてもう一つの方が―――それも同じく何重ものビニールにくるまれており、それを除くと中から透明なプラスチックケースが姿を現した。更にその中にあった木の箱からは、クリアファイルに挟まれた二つの封筒が出てきたのである。長年土の中に埋もっていたため湿った上に薄くぺちゃんこになってすぐにでも破けそうだったが、表書きには、一つは『兵悟君へ』、もう一つには『春子さんへ』と書かれているのを確認した。それは間違いなく懐かしい大悟の筆跡だった―――。

 兵悟君へ
 君がこの手紙を読んでいるということは、僕が死のうとしている本当の意味を理解しようとしてくれたのだね。こんなふうにこの手紙を君からできるだけ遠ざけた場所に隠したのは、春子さんを君から奪ってしまったという意味において、僕は君に顔向けができないからです。しかし心のどこかで、僕が死ぬ本当の理由を理解してほしいと願っているからだと思います。
 僕は今晩、腹を切ろうとしています。以前から君が力説していた切腹というものを、まさか自分が体現することになるとは夢にも思いませんでしたが、君に真実を理解してもらうためには、この方法が一番良いと思いました。どうやら僕の中にも日本武士たる純血が流れているものらしい。
 僕が死ぬのは誰のせいでもありません。僕自身が考え、決断したことですから、春子さんにも君にも全く咎はありません。
 実はあの十段円塔を失敗した時から考えていたことなのです。失敗して、子ども達や校長先生はじめ周りの先生方に多大な迷惑をかけた責任をとるにはどうしたら良いかと。でもあのときの僕には決断ができなかった。死ぬことが怖かったし、その代償に教師を辞めることも考えましたが、それでは筋が違っているように思えたのです。君はそんな僕のために、君の最愛の女性である春子さんと結婚しろと言ってくれました。思えばあのとき実行していれば良かったと後悔するのですが、やはりあの時の僕にはできませんでした。春子さんを愛していたからです。
 そのおかげで僕は過去の過ちを忘れ、春子さんとの新しい生活の中で、自分が打ちこむ教育の現場で新たな使命を見つけようとしました。そして長女が生まれ、僕は担任を持たせてもらえることになったのです。それは短い間でしたが本当に幸せな日々でした。君と同じ時間を過ごせなかったことを除いて。
 僕は君と春子さんと切磋琢磨し、築き上げてきた自分の教育論や教育方針は絶対に間違っていないと確信しています。信じてくれないかもしれませんが、いずれ三人で力を合わせ、日本に新たな教育理論を、共著で編纂したいと考えていたほどです。
 しかし一度犯した罪は、どこまでも僕を追いかけて来たのです。ある保護者から「根拠のない自分のやり方を子どもに押し付けるような教師に大切な子どもは任せられない」と言われました。それはとてもショックなことでした。根拠ならありました。君と春子さんです。僕は君と春子さんを侮辱するその保護者が許せませんでした。
 その保護者は周囲と結束し、更に僕に追い打ちをかけてきました。過去の責任を償うために、僕に「教師を辞めろ」と言うのです。つまり僕が教師を辞めることが、僕が犯した過ちを償うことだと。それを力づくでなく、僕自身に進退を決めさせるよう仕向けたのです。ソクラテスではありませんが、いわば僕は″辞職の毒杯≠突き付けられたわけです。
 もし僕がその毒杯を拒めば、彼等の言い分の上では、僕は過ちを償わないことになり、過ちを償わないということは不道徳であり、不道徳者の為す行いは全て偽りです。つまり僕がこれまで情熱を傾け、正しいと信じた教育実践の全てを、自分自身で否定したことになってしまうのです。それは君と春子さんを否定することでもあり、僕にとって最大の屈辱です。僕は不道徳者ではありませんし、僕の教育は断じて間違っていません! 確かに安易であったことは否めませんが、なぜ十段円塔に挑戦することが間違いだったと言い切れるでしょうか? 僕は甘んじて毒杯を仰ぐしかありませんでした。
 しかし教師を辞めたところで、僕にできる仕事など他にありません。教育が僕の全てであり、それを奪われてしまったら僕には何も残らないのです。教育こそ僕と兵悟が決めた道なのだから。
 皮肉なものですが、君の好きだった吉田松陰先生の言葉が、今の僕なら解かる気がしています。
 死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし―――
 僕の死が、僕の教育の正しさが証明できる唯一の方法であるなら、僕はいつでも死ぬことをためらいはしません。この言葉はそういう意味だったのですね。
 先立つ不孝を許してくださいとは春子さんにも言いません。それは自殺者が言う言葉だからです。僕は僕自身が犯した責任のけじめをつけなければなりません。けじめをつけない限り、僕の魂は生き続けることができないのです。言うなれば、僕は生きるがために死ぬのですから、返ってそれは不幸ではなく幸せなことです。
 この手紙が君に読まれる日はいつになるか分かりませんが、ひょっとしたらその時は君にも家族ができているかも知れませんね。一つだけ僕の最後のわがままを聞いてください。たまに春子さんと希のことを気にかけてやってください。春子さんのことをよろしく頼みます。
 この手紙と一緒に埋めた春子さん宛の手紙を彼女に渡してください。
 紅矢 大悟

 春子さんへ
 春子さん、貴方がこの手紙を目にする頃は、希はいくつになっているのだろうかと、僕のいない未来を想い描きながら、最期の言葉を残します。
 僕は、一人の女性としての貴方を倖せにすることができませんでした。しかしそれはけっして貴方を愛していなかったわけでなく、また、家族を捨てようとしたわけでもありません。僕の体がもう一つあるならば、もう一人の僕に家族の一切を任せて、僕は心置きなく教育に殉じることができたのですが、それは叶わぬ願いです。
 僕がなぜ死なねばならないかは、兵悟君への手紙に記しました。僕はただ、春子さんに謝ることしかできないのです。そして貴方に対して、強く生きなさいとも、幸せになって下さいとも言えません。それほどこれからしようとしていることは、家族に対して、貴方に対して、無責任極まりないことだと自覚しているからです。
 あるいは教育を捨て、生きる屍となって春子さんを経済的に守ることはできたかも知れません。しかし、もしそれができたとしても、教育を捨てた僕は僕ではありません。僕は貴方の前では永遠に教育者でいたいのです。
 いつだったか春子さんが言った言葉が昨日のことのように思い出されます。あれは兵悟のアパートだったと思います。炬燵を囲みミカンを食べながら貴方は確かに言いました。「私は兵ちゃんも大ちゃんも好きだが結婚はできない、しない方がいい」と。今から思えばそれが正論で、三人が幸せになれる道だったのかも知れません。ところが兵悟と貴方は妙な企みをして、僕から教育者である春子さんを奪ってしまった。もっともあの時の僕にとってはそれが唯一の救いだったわけですが……。それを思う時、男とはなんと浅はかな生き物かと笑ってしまいます。しかし人の運命とはそういうものなのかも知れません。
 おそらく僕が死ぬことで「家族を残して」と僕を非難する人もいるでしょう。ひょっとしたら貴方の心にも芽生える感情かも知れません。当然と思います。それについては謝る言葉も見つかりません。
 でもこれだけは信じてください。僕は死んで空から君と希を見守っているということを。いつだって僕は、貴方や希の前に現れることができるということを。
 春子さんはとても強い女性ですので、きっと力強く生きていくことでしょう。ですから希のことも心配しないことにしました。もしこの手紙を読んだなら、希にこう伝えて欲しいのです。「君の父親は教育のために信念を貫き通した男だった」と。そして「人間だった」と。これだけは僕が胸を張って言えることなのです。
 さようなら、春子さん。僕は人として教育に殉じます。
 春子さんを愛する夫より

 帰りの車の中で城田と春子の二人は、助手席の春子が運転する城田に読んで聞かせる形でその手紙を何度も何度も読み返した。初めて知る死の直前の大悟の心境に、春子は驚き、城田は深く納得したのだった。
 「でも、なぜあそこに埋めたのかしら? せめて私のだけでも家に置いていてくれれば、こんな長い間苦しまなくて済んだかもしれないのに……」
 春子は大悟が最後に取った行動が腑に落ちないといった顔つきで、恨めしそうに呟いた。
 「春子先生はきっと僕に嘘を付く。大悟はそれを見越してた。現に交通事故で死んだって嘘をついたでしょ? もし春子先生への遺書だけが手元にあったとしたら、僕は大悟の死に疑問を抱くことはなかった。大悟は自分がなぜ死ぬのか、その理由をどうしても僕に知って欲しかったのさ」
 「なーんだ、私は出汁に使われたのか……」
 春子はやるせない様子で呟いたが、そこに怨嫉のようなものは感じられなかった。
 「そんなこともないさ。そのおかげで僕は春子先生と再会して、また昔のような関係に戻れたのだからね」
 それにしても大悟が死んでからの十年は長すぎた。それについて城田は「一蓮托生さ」と言った。つまり大悟が挑戦した十段円塔の失敗は彼一人だけの問題でなく、その責任は関わった我々三人で負うべきものだったと。ところが大悟は一人で背負い込んで死んでしまい、本来兵悟と春子が負わねばならない苦しみを全て持って行ってしまった。「でも僕らが負わねばならない負担があったのさ」と。
 「それは、僕は女性としての春子先生を失った苦しみに、春子先生は希ちゃんを育てながら一人で生きなければならない苦しみに、それぞれ耐えなければならなかったこと。それが大悟から分け与えられた僕らの十年という歳月だったんじゃないかな?」
 「兵ちゃんって、三人のことは何でも知ってるのね」
 春子は遠くを見つめた。
 「それにしたって大ちゃんの好きだったソクラテスって紀元前のギリシャの人でしょ? それに兵ちゃんが好きな吉田松陰は日本の幕末の人よ。その二人が究極ではつながってたってこと? なんだか不思議」
 春子がそんな哲学的な話題を持ち出すのは、おそらく三人が一緒に過ごしていたあの頃以来のことだった。城田はごく自然な懐かしさを感じながら、「国や時代を超えて、人間の魂の究極は同じなのかも知れないね」と笑んだ。
 「大悟はその究極の精神を覚知したんじゃないかな? いわば僕らの共通の友は、ソクラテスや吉田松陰に連なる偉大な先達者だってことさ。これは僕らが誇るべきことだよ! ほら、いつだったか大悟の奴、ソクラテスの毒杯の話を熱っぽく語ったことがあったじゃないか。僕らも感化されて、春子先生なんか論文にまとめようとメモとっちゃったりしてさあ」
 城田は懐かしそうに笑い出した。すると、「ちょっと待って? 私そのメモ帳、持ってるかも知れない」と、急に春子はそわそわ仕出した。
 「きっとあるんじゃない? 家に帰ったら探してみたら」
 「そうじゃなくて今……」と、春子は膝の上に置いたバックの中身をしきりにいじり始め、いきなり、
 「あった! ほらこれ!」
 と大声を挙げた。実は昨晩、今日の服装を決めるために箪笥の中をあさっていたところ、十年以上前に使っていたバックが出て来て、懐かしくなってたまたま今日はそれを持って来たと言うわけだった。
 城田は「うそだろ!」と叫んで慌てて車を路肩に止めた。そして二人でそのメモ帳を開いてみると、正にあの時に書いた『ソクラテスの毒杯についての考察』と記された春子の筆跡が残っていたのである。二人はこんな偶然があるのかと驚愕した顔で見つめ合った。
 「大悟がいる―――」と突然真顔で城田が言った。
 「えっ? どこどこ」と春子は慌てて後部座席を見回した。しかしそこには誰もなく、車の周りにも周囲の木々や岩の物陰にも何の姿も確認できず、ただ穏やかな風が吹いているだけだった。
 「いるわけないじゃん! 幽霊とかだったら逆に怖いんですけど」
 「でも春子先生への遺書に書いてあるじゃない。″僕は死んで空から君と希を見守っている≠チて。目には見えないけれど、案外、大悟はいつも僕らを見守っているのかも知れないよ」
 城田は穏やかな気持ちで車を発進させた。