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(37)クレーン車と命綱

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 全体練習の日曜日がやってきた。
 グランド脇の道路には、何か巨大な建物でも建設するのかというように、5年生の牧航貴の父親が運転するクレーン車が置かれ、車両の四サイドから出した固定足(アウトリガ)でしっかり支えられた本体からは、重機の音とともに太いアーム(ブーム)が空に伸びていった。小学校のすぐ脇の道路は通学路であり、指定時間内は許可車両しか走れない制限区間なので、それ以外の車両は事前に警察への申請許可が必要で、今日と来週の運動会当日のみクレーン車を置くという申請をしたのは愛だった。そのアームの先端からは一五九本の命綱が垂れ下がり、
 「先生、もっと早く言って下さいヨ。これだけのロープを集めるのにえれえ苦労しちゃいましたよ」
 と、クレーン車の持ち主の牧社長が苦笑いした。命綱といっても、長野の北信では冬場の雪深い飯山とか栄村の屋根の雪下ろしの安全のために使う、直径十ミリほどのポリエステル製のロープである。城田は「急なお願いをしてすみませんでした」と詫びながら、愛と一緒に無数にある命綱を眺めながら、どのように腰に巻いたらよいかとか、段毎にしっかり数を分けて長さも調節する必要があるなとか、綱を最短時間で効率的にセットするための様々な扱い方や配置の相談などをしているうちに、やがて大人達と子ども達がグランドに集まってきた。
 「こういうことはガリ先生にお願いしよう」
 ということになって、愛は今日も出勤しているはずのガリ先生を理科準備室に呼びに走り、城田は集まって来た児童と大人達に今日一日の流れの事前説明をするため、彼等をグランドに整列させようと体操台のマイクを握った。
 気候は暑くもなく寒くもなく、過ごしやすい曇り空だった。今日はSTBのテレビカメラは入っていないが、先週より人数も多く、音無PTA会長率いるPTAの面々はもちろん、区長の元に集まった蛍ヶ丘区民達や、野球ユニフォーム姿の島村スポーツ商会社長の早起き野球仲間、伸兵衛老人の周りに集まるのは伸兵衛会の顔ぶれだろう、また、いかつい髪形や服装をした若者集団はアフロヘア蛍の文が引き連れて来た悶巣蛇亜の面々に違いない。遠くは松本、大町方面から来る者もいると聞いている。その他真面目そうなジャージ姿の見慣れない者達は、おそらく五木市長の顔で集めてくれた市役所職員や消防関係者、あるいは各種スポーツ団体の役員達だろう。ざっと見渡してもゆうに千人は越えている。その脇には、成沢先生はじめ地域の婦人会メンバーや、休みを返上して出勤してきた校長、教頭はじめ先生方の姿もある。よくこれだけの人数が集まったものだと、自分ながら感心する反面、城田の心では大悟の死に対するモヤモヤが、「失敗したら」という不安と恐怖をあおっていたのも事実だった。
 集合時間の九時になると、城田はマイクを通して一日のスケジュールを述べ始めた。今日は運動会当日までの最後の十段円塔全体練習のチャンスなのだ。その出来によっては、断念という決断も視野に入れて行わなければならない。
 説明する城田の背後で、クレーン車から吊るされる何本もの命綱を見ながら、愛とガリ先生、そして鶴田先生と牧社長が相談を始めていた。今日の星は、十段円塔を成功させることはもちろんだが、その前に、一五九本もの命綱をどのように配置しておき、いかに短時間で子ども達の腰に巻かせ、安全を確保しながら円塔を組み上げていくかにあった。綱を付けるということは、崩れた時の安全を保障する代わりに、子ども達の動きを鈍くさせるということで、ロープに足や腕をからめて返って失敗の確立を高めることを意味する。県教育委員会の指導とはいえ、「子ども達全員に命綱を」との決定が一昨日の夕方とあっては、グランドの場ミリなどの準備をするのに精いっぱいで、人数分の命綱の手配はおろか、その使い方や進め方にまでとても頭が回らなかった城田と愛なのだ。ところがそこはさすがにガリ先生だった。
 「まず子ども達に″もやい結び≠フやり方を教えないといけませんね」
 と涼しい顔で言った。″もやい結び≠ニいうのは命綱と体を結ぶ一つの方法で、引っぱっても体が締め付けられない安全な結び方として、雪下ろしの時など一般的に用いられる。
 「それなら俺も知ってるぜ!」と牧社長が得意げに言うので、ガリ先生は「このあと子ども達に教えますので一緒に指導して下さい」とお願いしたものだから、社長は一層得意そうに「合点でい!」と嬉しそうだった。ガリ先生は続けた。
 「問題はロープの長さですね……」と呟き、腕組みをしたかと思うと、「まずこのロープを八〇本、四〇本、二〇本、一〇本、五本、三本、一本に分けましょう」と言った。愛と鶴田は言われた通りにロープを数え、それぞれの本数の束を作った。一方、城田の方は、それぞれ腕が当たらない間隔に広がって、準備体操やストレッチを始めたところ。
 ガリ先生はポケットから黒マジックを二本取り出すと、愛と鶴田に渡して、
 「では八〇本の束のロープ一本一本の同じ位置にこのマジックで印を付けて下さい」と言ったと思うと、牧社長には「クレーン車のブームを6メートルばかり縮めてもらえますか?」と指示をした。と、矢継ぎ早に愛と鶴田には「八〇本が終わったら次に四〇本の束のロープに、今より八〇センチほど短くした位置に、同じように印をつけて下さい」と言って、ポケットから今度は小さなメジャーを取り出した。愛と鶴田は「ガリ先生のポケットはまるでドラえもんの四次元ポケットね」と笑いながら、そうして、それぞれの段のロープに八〇センチずつ短くなる位置に印を付け終えたガリ先生は、クレーン車の牧社長を呼んで神妙な顔つきでこう言った。
 「非常に重要な任務を与えたいと思いますが、あなたにできますか?」
 社長は一瞬ひるんで「な、なんですかい?」と顔をしかめた。
 「なあにクレーンの操作ですよ。こればかりはあなたにしかできない。しかし高度に繊細な技術を必要とします。あなたにその技術があるかどうか……」
 「なあんだクレーンのことかい? そんな怖い顔で言うからビックリすんじゃねえかい。任しておくんない! クレーンの操作なら上空三〇メートルに吊るした生卵だって割ってみせるよ!」
 「それを聞いて安心しました」
 と、ガリ先生はクレーンの先端の動きについて説明し始めた。それは、一五九本のロープをつないであるクレーンの先端を、円塔の中心地点上空に置き、子ども達が一段ずつ立ち上がるのに合わせて、中心点をずらさずに八〇センチずつ上へ上げていくというものだった。
 「それなら中心を固定したままフックだけ上げればいいよ」と牧社長。フックとはクレーンの先端についている釣鐘状の器具である。
 「なるほど、さすが専門家ですね」とガリ先生が感心すると、「腕が鳴るぜ!」と笑う牧社長は、職人気質の気のいい親父であった。
 ガリ先生のおかげで鮮やかに命綱の準備も整い、全体の準備体操を終えた大人達は、事前に決めておいた一段目五人、二段目三人、三段目一人の合計九人一チームに分かれ、それぞれ個別で三段円塔を作る練習を開始した。もちろん全員裸足である。人数が足りないチームには先生方も加わり、前回参加できなかったメンバーも参加したメンバーから要領を教えられながら、約四十五分程練習の時間を設けた。グランドのあちこちで練習するチームの数を数えてみたら全部で一〇四チーム。十段円塔に必要な数が揃っていることに城田はほっと胸を撫で下ろす。
 さて気になっていた命綱の準備に向かった城田は、すっかり段取りを終えている様子に目を丸くした。
 「ガリ先生のお蔭です!」と愛はガリ先生を称えて嬉しそうに言ったが、ガリ先生は相変わらず学者肌の顔付で、
 「城田先生、子ども達をここへ集めて下さい。″もやい結び≠フやり方を教えます」
 と、なんとも無感情な態度で言った。こうして命綱のところに集められた子ども達は、先ほど愛と鶴田が付けた黒のマジックの印のところを握り、そこを基準にガリ先生と牧社長から″もやい結び≠教わり、結んだり解いたりを何度も繰り返し、完全に覚えるまで三十分もかからなかった。
 当日本部席になる所にはすでにいくつかのテントが立てられており、そこには烏山校長や成沢先生と婦人会メンバー、伸兵衛老人らが歓談しながら様子を見守っている。やがて十五分間の休憩をはさみ、いよいよ城田は十段円塔を組み上げることにした。
 まずは入退場の練習である。子ども達の演技は、最初、V字バランスや補助倒立、サボテンや扇などの比較的簡単な技を披露した後、本部席を前に縦横一列に並び″エグザエル回転≠竅鵠g≠演じる。その間、大人達が入場して場ミリのしてあるところに一チームずつ付き、配置が完了した時点で四段目の子ども達から演技をやめて、命綱のあるところへ駆けて行く。子ども達が腰にロープを結んでいる間に「一段目を組め」のホイッスルを鳴らし、次に「二段目を作れ」のホイッスルに続いて「三段目を作れ」の合図を鳴らす。そして命綱を結び終えた四段目の子ども達が更に続くという流れである。そこでは大人達が入場にかかる時間と、子ども達がロープを結ぶのに何分かかるかが課題だったが、それさえクリアしてしまえば、退場は大人と子どもは反対方向に走ってはけるだけなので問題ない。
 「それでは実際にやってみましょう!」
 ということで、十段円塔を組み上げるのは一番最後に置いておき、入退場だけの練習を何度か繰り返し、やがてスムーズに流れるようになっていった。
 時計を見れば十一時を回っていた。午前中には解散すると伝えていたので、そこでもう一回休憩をはさんだ城田は、いよいよ最後に残された最大の課題である十段円塔にチャレンジすることにした。
 体操台に立った城田はマイクを握った。手からは脂汗が滲み出ていた。
 「それでは、実際に十段円塔を組み上げて、最初から最後まで通しでやってみたいと思います! 成功しても、失敗しても、本番まではこれが最後の練習になります。どうか心を一つにして、必ず成功させましょう! では最初の位置についてください!」
 城田は天を仰いだ。大悟よ! 力を貸してくれ! ―――と。
 グランドのフェンス沿い、子ども達が命綱を結ぶ場所には愛がいた。彼女も胸の前で両手を強く握りしめ、祈るような気持ちで体操台の城田の姿を見つめていた。ふと背後に、それよりも強い″念≠感じて振り向けば、道路に置かれたクレーン車の陰から、隠れるようにしてグランドの様子をうかがう一人の女性が立っている。
 「希さんのお母さん―――否、春子さん……」
 愛は話しかけようとしたがしなかった。否、できなかったのである。春子の視線はグランドの中央を凝視したまま、微動だにしない。悪くいえば何かにとり付かれでもしたような、その目は血走っているようにも思えた。よく見ればその細い身体は小刻みに震えている。愛は自分でも気づかない心の奥で、激しい嫉妬の炎に苦しめられていた。少なくとも十段円塔を成功させるために、城田先生とは春子などより自分の方が、ずっと長い時間一緒にいたはずなのだ。それなのに、この強い一念はいったいどこから出て来るのだろうか? 愛は思わず奥歯を噛みしめていた。そして、
 「この女性にはかなわない……」
 という果てしない敗北感に涙が出て来た。
 そこへ、怒涛のように四段目の子ども達が走ってきた。
 「桜田先生! ロープが一本足りません!」
 はっ≠ニ我に返った愛は、慌てて涙を拭き取って、子どもと一緒にロープを探したが、その一本のロープは先ほどからずっと自分が握りしめていたことに気が付いた。
 「ごめーん! 先生が持ってた……」
 「なにやってんだよ! 先生、ダメじゃないか!」
 子どもに叱られながら、愛はもやい結びを手伝うと、四段目の子ども達はあっという間に走り去り、続いて五段目の子ども達がカラスの大群のように押し寄せロープを結んで走り去った。こうして六段目以降の子ども達もロープを結び終え、グランド中央に目を移せば、すでに八段目の五人の子ども達が全員がしゃがんだままの塔をよじ登り始めたところだった。
 「希! しっかり!」
 出動を待つ希に震える声をかけたのは、クレーン車の脇に立ち細い指でフェンスを握る春子であった。希はその声に振り向いて、母の姿を認めるとひとつニコリと微笑んだ。そして「九段目登れ!」の掛け声とホイッスルを合図に、希はまだ沈む巨大な塔の脇へと走って行った。
 城田は「十段目、登れ!」と叫んでホイッスルを鳴らした。
 希は小さな体全体を使いながら、塔を構成する人間たちの肩や背中に足を掛け、腕を掴んでグイグイとてっぺん目指して登りはじめた。途中、誰かの命綱に足をひっかけて、ヒヤリとする場面もあったが、そこに、全員しゃがんだ十段円塔ができあがったのである。
 城田はクレーンのフックが円塔の中心上空にあるのを確認すると、「それではこれから一段ずつ立ち上がっていきますので、クレーン車の牧さん、お願いします!」と叫んだ。「合点でい!」という返事が返ってきた。
 「ではホイッスルに合わせて、一段目から同時に、ゆっくり、立ち上がっていきます! 呼吸を合わせて下さい! ではいきます!」
 『ピーーッ!』という音が天空に響いた。すると、グラリとよろけながら、一段目六四〇人の男性を中心に構成した大人たちは、「せーのっ!」という太い大きな掛け声と共に立ち上がった。思わず本部席テントの校長や成沢も立ち上がり、拍手をせずにはいられない。
 「では二段目、いきます! 呼吸を合わせて下さい!」
 『ピーーッ!』という合図で、二段目三二一人の女性を中心に構成した大人たちは、少し甲高い「せーのっ!」という掛け声を挙げながら立ち上がった。今のところ、まだ不安定な個所は見当たらない。クレーン車のブームも、高さに合わせて調節してくれている。フックは細いワイヤーで吊り下げられているため、あまり長く伸ばすとそれだけ不安定になってしまうのだ。その辺りはさすが職人の勘だった。
 「では三段目、いきます! 呼吸を合わせて!」
 『ピーーッ!』
 三段目は比較的体重の軽そうな大人たちで構成した一六〇人が、「せーのっ!」と言いながら立ち上がった。ここまではほぼ予想通りだった。一段目には力のある男性陣を中心に配置し、二段目は女性陣中心、三段目は体重の軽い陣営で構成したことが功を奏しているようだ。後はバランスと持久力の問題だった。四段目からは体育の授業でも練習を重ねてきた子ども達の番である。城田はその持久力を気にしながら、
 「四段目、立て!」と叫んでホイッスルを鳴らした。
 四段目の子ども達は、不安定な足場にも関わらず、練習通り見事に立ち上がった。続いて一番心配している萌と友太がいる五段目も立ち上がり、更に六段目、七段目と続き、ついに八段目の五年生五人も見事に立ち上がった。いよいよ一番軽い四年生の番である。
 「九段目、立て!」
 ホイッスルの音と共に、てっぺんに希を乗せた三人の四年生が、ヨロヨロとしたぎこちない体勢で立ち上がった。そのはずである。足場は不安定な上に、塔全体が心なしか傾いでいる。高さもすでに一〇メートルを越えんとし、上空は地上とは違う強い風が吹いているはずなのだ。
 「ガンバレー!」
 どこからともなく声援が飛び交った。何の騒ぎかとグランドに集まってきた地域住民達の声だった。
 「がんばれ!」「頑張れ!」「ガンバレ!」
 ついに城田は「十段目立て!」の声を挙げた。
 希が身体をガクガクさせながら、ゆっくり立ち上がろうとしたその時である。
 ――――――城田の双眸にフラッシュバックしたのは、十数年前に見たあれと、全く同じ光景だった。
 塔の中段だったか、下段だったか、一部がポロリとバランスを崩したかと見えた瞬間、巨大な塔が雪崩のように崩れ落ちたのだった。
 「あっ!」という声を挙げる間もなく、そこには命綱によって宙ぶらりんになっている子ども達の阿鼻叫喚の声がこだましていた。城田は呆然とその光景を見つめる以外なかった。