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(30)恩師

 ネット小説ランキング>一般・現代文学 コミカル>大運動会 ←励みになります!  => 十段円塔配置図
 その二日後の夕方、STBニュースで全体練習の様子が放送された。瑠璃の子どもキャスターへの転身ぶりも見事なもので、周防アナと一緒にテレビに映っており、また、区長とPTA会長もインタビューに答え、地域の期待もますます高まったようである。
 一方、瑠璃が抜けたことで再び頂点を努めることになった希だが、情況をよく理解していて愚痴ひとつ言うことなく快諾したのだった。そして瑠璃の替わりとして白羽の矢が立ったのは、桜田のクラス4年敬組の原田輝という男子児童。彼は『日の出食堂』の息子であり、6年の萌の弟でもある。城田は『夕焼け弁当クック・モット』の娘である希との関係を危惧しながらも、体重順で考えれば彼が適任であることに納得するしかなかった。
 残業の先生方は、普段は見ることもない職員室のテレビをつけて、そのニュースに釘付けになっていたが、教務主任の高橋一郎先生だけは、然有らぬ体を装って何かの書類をまとめる業務に専念していた。そして放送が終了して半時も経たずして校長室の電話が鳴った。烏山校長の電話口の向こうは五木市長で、
 「烏山先生、いやはや困ったことになったよ。そっちには県教委から何の連絡もないかね?」
 と話し始めた。
 「こちらには何の連絡もありませんが……」
 「そうですか、きっと井ノ原教育長のところで止めているのでしょう」と言ったあと、
 「さっきのSTBのニュースが終わった直後、県教委から『中止したはずなのにどうなっているのだ!』とお叱りの電話があってね、わたしゃあれこれ言い訳を言って電話を切ったんだが、そしたらたったいま国会議員から電話でね、『県教委の命令に従わなければ文部科学省に訴えるぞ』だとさ。いよいよ私の首も危うくなったぞ」
 「国会議員? 誰です?」
 「ほら長野一区から出ている友愛党の国立是清衆議院議員だよ。国立議員っていったら今の文部科学大臣とツーカーの仲だっていうじゃないか。こりゃそのうち内閣総理大臣が出てくるぞ」
 五木は冗談を言いながら力のない笑い声をあげ続けた。
 「決闘に負けたとき、この件に関して既に私は烏山先生の従僕だ。烏山先生が十段円塔は中止だと言ってくれれば、私も君も辞職は免れる。どうだい? 考え直すわけにはいかないのかね?」
 烏山校長は言葉を詰まらせた。自分ひとりが校長を辞する覚悟ならすでにできていたが、そのために市長まで巻き添えをくわすことは本意でない。申し訳なさで胸をいっぱいにして返答に窮していると、
 「一蓮托生というわけだね」
 ぽつんと市長が言った。そのあっけらかんとした一言で烏山は次の言葉を見つけた。
 「いま一度、城田先生と話をしてみます。折り返しご連絡しますので、少しだけ考える時間をください」
 校長は受話器を置くと、城田先生を校長室に呼ぶよう事務の山際聡美先生に言いつけた。
 丁度そのとき城田も電話中で、彼の相手はクック・モット社長の水島友作だった。「運動会まで2週間を切ったというのに、弁当の発注はまだか?」という問い合わせであるが、先ほどのテレビ放送に気持ちが高揚しているのだろう、「今週中に注文をもらえないと仕入れが間に合わない」とひどく急かした。安易に返事をしてしまったら、日の出食堂の原田の腹の虫もおさまらないだろう。城田もまた頭を抱えながら受話器を置いたとき、
 「城田先生、校長先生がお呼びですよ」
 と事務の山際先生の声が聞こえた。そのとき職員室に、一人のキリッとした初老の女性が現われて、職員室の空気がぱっと明るくなった。
 「わたくし、六年敬組の成沢輝羅々の祖母でございます」
 女性は入り口でハリのある声でそう言うと、「一郎ちゃん、ちゃんとお仕事やってる?」と、まるで母親が子供に向って心配するようなセリフを言いながら、高橋一郎先生のデスクに向って一直線に歩み寄った。
 「こりゃまた森口先生! 突然学校へいらっしゃるなんて、一体どうされました?」
 高橋はその女性に気付くと直立不動で立ち上がった。″森口≠ニいうのは彼女の旧姓であり、彼女は彼の小学校時代の恩師なのだ。結婚して姓を成沢と改め、教師を退職してからは婦人会などを足場にして広く社会活動に取り組むいわば地元の女性名士である。隣のデスクの城田は自分の椅子を彼女に勧め、そのまま校長室へ向かおうとすると、
 「あなたが城田先生ですね」
 成沢タケ先生は愛嬌のある明るい声で城田を呼び止めた。
 「輝羅々がいつも申しておりますの。今日の十段円塔の練習で、城田先生がこんなことを言った、あんな事を言ったと。よほど楽しいのでしょう、毎日の夕食の話題はそればかり。それでね、今日運動会のプログラムが配布されましたでしょ、『蛍ヶ丘の光よ、ひとつになれ!』って。このテーマは自分が中心になって決めたんだって、あの子ったら自慢げに言いますのよ―――。そしたら夕方のニュースで運動会のことが取り上げられているじゃありませんか。わたくし、体がうずいてしまって矢も楯もたまらず学校に来てしまいましたわ!」
 成沢は話し出したら止まらない女性特有のおしゃべりを続けた。全日本婦人連合会理事長という肩書を持つだけあって、彼女のおしゃべりには箔があり、かつ説得力があった。城田は校長室に行くタイミングを見つけていたが、なかなかその隙を与えてくれない成沢は、ようやく「今日は城田先生にお話があって参りましたの」と本題に入ったのである。続けざまに「まあ城田先生もお座りになって」と、6年信組の八木先生の椅子を持って来て座らせたものだから、ついに席を立つ機を失った。
 「これは若いお母さん方の噂ですのよ」と前置きして、成沢タケが話し始めた内容を要約すると、現在小学校に通う子を持つ母親の間で、ある噂話がまことしやかに囁かれているという。それは城田先生とクック・モットの女店長が、あやしい男女の関係であるというもので、これから二人はどうなるかと、まるで芸能人のスキャンダルを話すような調子で二人がまつりあげられているらしい。城田は立つ瀬を失い顔を真っ赤にして聞いていたが、
 「まあ城田先生も独身だし、相手の女性も未亡人といいますから、私に言わせれば勝手にやってちょうだいって感じですけど」
 と成沢は一笑に伏した。「で、これも噂で私の耳に入ってきたのですが」と話は次の展開へと移っていく。それは、クック・モットと日の出食堂は以前から犬猿の仲だという話は町内でも有名だが、運動会の弁当の受注をめぐってその争いが激化し、いまや喧々囂々として両店舗には区民も近寄りがたくなっているという内容で、
 「いったい城田先生はどちらにお決めになるおつもりですか?」
 と、まるで当事者でもあるかのように詰め寄った。
 「実はまだ決めかねておりまして……」
 城田が言うと、すかさず「そこでご相談なのよ!」と成沢が言った。
 話を聞きながら自分には無関係と思い始めた高橋は、「私は関係ないようなので席をはずします」と言って立ち上がると、
 「なに言ってるの一郎ちゃん。みんなで一つのことを成し遂げようとしているのに、あなただけ席をはずすなんて許されません。座りなさい!」
 「はい……」と高橋はシュンとなって再び腰を下ろした。
 「で、ご相談というのは?」
 城田が言った。成沢はフッと笑むと、
 「その運動会当日の昼食なんですが、婦人会に任せていただけません?」
 「と言いますと……?」
 「炊き出しをさせていただきたいんですよ!」
 「炊き出し……?」
 「そうです! おむすびと、あとは豚汁でもすいとんでも何でも作ります。最近はそうした婦人会の出番がめっきり少なくなって人数も減る一方。顔を合わせても愚痴ばかりでしょ。組織というのは外に敵がいなくなると内部分裂が始まってしまうものです。これは婦人会にとっても大きなチャンスととらえてご協力させて下さいませんか。ああ、もちろん食材費は学校持ちということで……」
 城田の表情がみるみる変わった。
 「そりゃイイ! 願ってもない申し入れです! ぜひお願いします!」
 と、トントン拍子に話が決まり、城田と成沢は握手を交わした。それを横目で見ていた高橋は、馬鹿にしたように鼻で笑ったのを成沢は見逃さなかった。
 「一郎ちゃん、さっきから何か変ね。腑に落ちないことでもあるの?」
 さすが元担任である。教え子の一瞬の仕草で、心に潜むわだかまりを見ぬいてしまった。
 「一郎ちゃんはね、自分に不都合なことがあると、眉毛をヒクヒクさせるのよ。小学生の時のままね」
 成沢はケラケラと笑った。
 「森口先生、その一郎ちゃん≠ニ呼ぶのはやめてもらえませんでしょうか!」
 城田を前にして自分の過去が暴かれていくのがよほど屈辱なのだろう、高橋は不愉快な口調で言った。
 「いいじゃない。私にとってはいくつになっても一郎ちゃん≠諱v
 高橋は観念したように自分の思いを語り始めた。
 「私は最初から反対なのです、十段円塔なんて! 失敗でもしたらそれこそ取り返しがつかない。しかも失敗の可能性の方が大きいのです。そんな危険な事を子ども達にやらせることなどできません!」
 「あら? おかしいわね……?」と成沢は首を傾げた。
 「輝羅々が言ってましたよ。『全員が一つになれる思い出づくりをしたい』と高橋先生に相談したら、先生は『なにができるか先生も考えてみるね』と言ってくれたと、とても喜んでいたのに……。一郎ちゃん、子どもには自分の気持ちとは反対の事を言ったというの?」
 「仕方がなかったのです。子どもがやる気になっているのを、無下に『ダメだ』とは言えないでしょう」
 成沢の高橋を見つめる双眸が、慈愛に変わったのを城田は見た。
 「偉いわ、一郎ちゃん。私は定年まで教師を務めたけど、現職の時は忙しくて自分の仕事について考えている余裕もなかったけど、辞める最後の最後にこう思ったのよ……。教師とは、けっして夢とか希望を捨てない仕事なのだと。そして、嫌いな人であってもとことん人と関わり合いを持って行く仕事なのだと。教師は子どもを守るのが使命。広い意味でね。そして関わった子どもは生涯見守っていかなきゃいけない。目の前の出来事がその子の人生にどんな影響を与えるかなんて神様じゃないから分からない。でも、その時に、精一杯その子を愛することならできるでしょ? 私はそれでいいと思うのよ」
 「森口先生……」
 高橋は師から教えを乞う弟子のような眼で成沢を見つめ返した。
 「一郎ちゃんが小学4年生の時でした―――」
 成沢は懐かしそうに昔話をしはじめた。それは今から四十年以上前、成沢つまり当時は森口タケ先生が教員となり、はじめて担任を受け持ったクラスの中に、まだ十歳のイガグリ頭をした高橋一郎先生がいた遠い昔の話である。
 ―――「今日はみんなの将来の夢を聞きたいと思います」
 そこにいたのは、戦争を知らない世代に生まれた親たちが産んだ、新しい価値観が芽生え始めた時代に生きる子ども達だった。森口タケは今の子ども達が自分の将来の夢に対してどのような事を考えているのか興味津々で、何になりたいのか? またどうしてそう思ったのか? を手元のノートに書き留めながら、窓際の前列から順に聞いていったのだ。
 当時多かったのは、男子ではプロ野球選手や医者、科学者とかマンガ家、父親の跡継ぎとか警察官や消防士、中には総理大臣と言う者もいて、女子では小学校・幼稚園の先生や看護婦、歌手とかお花屋さんやケーキ屋さん、またお母さんという答えも多く、それは時代を反映した職業に違いなかった。
 そしてイガグリ頭の高橋に順番が回ってきたとき、すくっと立ち上がった彼は、ぶっきらぼうに、
 「鳥!」
 と答えたのだった。途端クラスに爆笑がわき起こった。その理由を聞けば「自由に空を飛びたいから」と言い、次の瞬間、「そんなのムリだよ!」「人間が鳥になれるわけがないと思う」「羽がないのにどうやって飛ぶんだよ」とか「鳥ってスズメ? ツバメ? ヒヨドリ?」とか、一斉に高橋を責めるブーイングの嵐が吹き荒れた。森口タケは鎮めようとしたが、集中砲火を浴びせられた高橋は頭に血が上っていた。
 「飛べるさ! 見せてやる!」
 言ったと思うと二階の窓から両手を広げてそのまま空に舞い上がったのだ。タケは悲鳴を上げた。一郎の体は地球の引力に逆らうことなく地面に落ちた。
 「救急車! 早く救急車を!」と、一時学校は騒然となったが、幸い一郎は足を骨折した程度で済み、以来彼の夢は旅客機のパイロットに変わったのだと成沢はまたケラケラ笑った。
 「高橋先生も案外やんちゃだったんですね」
 と、城田が言った。
 「やんちゃもやんちゃ、ある時なんか隣町の女の子に石をぶつけて、私、一緒に謝りに行ったのよ」
 「あれは、たまたま投げた石の先に立っていたのがいけないのです」
 「でも怪我をさせたのは一郎ちゃんでしょ? まだあるのよ」
 「もうやめませんか。僕はぜんぜん面白くありません!」
 まだまだ話したげな成沢は、これ以上昔話を暴露すれば高橋の癇癪が破裂することを知っている。
 「そうね、今では蛍ヶ丘小学校の教務主任様ですものね」
 急に真面目な顔に戻って、「この年になって最近思うのよ……」と、持論の教育観を述べ始めた。
 「子どもはちょっと無茶をさせた方が良いと思うの。一番いけないのは、大人が最初から『駄目だ』『無理だ』と決めつけてしまうことじゃないかって。ほら、子どもって失敗と成功の体験から様々なことを学ぶでしょ。その無茶な体験をさせない今の教育体質こそ、現代教育の欠点じゃないかってね……」
 そのとき三人の背後で手を叩く音がした。振り向けばそこに烏山校長が立っており、
 「まったく同感です!成沢先生の教え子にして高橋先生あり≠ナすね。感動しました! ああ私? 学校長の烏山です。いやあ、いくら待っても城田先生が来ないもので、こちらから来てしまいました。成沢先生、ご活躍は常々伺っております」
 烏山と成沢は旧知の同志のように挨拶を交わした。城田は校長室に行けなかった事情を告げると、
 「城田先生、実はまた問題発生です。そうだ、これも何かの縁でしょうから成沢先生にもご相談に乗っていただきましょう。高橋先生もね」
 烏山に連れられた三人は、やや神妙な顔付で校長室に入った。