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断ち切れぬ恋慕
はしいろ☆まんぢう作品  

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 話は前年の北条氏が敗れ、秀吉が天下を完全統一した時に戻る──。
 小太郎はゆるやかな足取りで京に向かおうとしていた。
 菖蒲を失い生きる希望をも失い、落胆の日々を過ごすうち、ふと脳裏に浮かんだのが竹馬の友である末蔵のへらへらとした笑い顔だった。
 末やんは今どこにおるのだろう──
 小田原で会ったお銀が伝えた京から姿を消したという末蔵に会えるとは思ってないが、行き先の何か手掛かりはあるはずだ。末蔵と会って酒でも飲み交わし、尽きない切なさやあふれ出る涙の思いを話さなければ、暗雲とした小太郎の胸は張り裂けそうだった。
 と──、その歩みをぴたりと止めた彼は、振り向きもせず、誰もいない進行方向へ向かって大声を挙げた。
 「どこまでついて来る気じゃ!」
 小太郎から二、三十歩あまり離れた後方に十くらいの少女が一人、着の身着のまま家を飛び出したふうの着物をまとい、顔は泥を含んだ涙でうす汚れ、鼻をすすりながら小太郎が立ち止まるのに合わせて歩みを止めた。菖蒲の帰りを待ち続けていた蓮に相違ない。
 「大きな声出さなくたって聞こえるもん!」
 泣き腫らした真っ赤な目で言い返したその言葉は、やはり涙で震えていた。かれこれ四半日は歩き通しているというのに、いくら追い返しても子犬のようにつきまとって来るのだ。
 それにしても質の悪い童だ。松井田の崇徳寺からずっと後を付けている。寺を発ってすぐに、辻で巻いてしまおうと、曲がったところで物陰に隠れて息を潜めたが、難なく探し当てられたのをはじめに、あるいは、姿が見えなくなるまで先を走って、高い木の上に隠れ潜んでも、追い付いたその童にすぐに見つけられてしまう。子供相手にそんなかくれんぼのようなことを何度も繰り返したが、忍びで鍛えた隠遁術がこの蓮には全く通用しない。あまり気味が悪いので「なぜわしのいる場所が分かる?」と聞いた。すると、
 「だって息が聞こえるもん」
 蓮は涙で腫れ上がった瞳で答える。呆れた小太郎は諦めて、とっとと歩みを進めるうちに、臼井峠の手前まで来てしまったという訳である。
 「もう日が暮れる。迷子になっても知らんぞ!」
 「ならないもん!」
 「勝手にしろ!」
 小太郎は再び歩き出す。その後を、蓮は距離を保って小走りに追いかけた──。
 伊助に菖蒲を殺されてすっかり生気を失った小太郎は、それでも彼女の遺言を果たすべく、託された笛と燃え残った着物の片袖を小田原に届けはしたが、既に北条氏照はこの世の人でなく、墓前に供えてそのまま松井田へ来たものだ。
 「夫婦になったら蓮と三人で暮らしたかった──」
 菖蒲が言い残したその童女には、彼女の最期を伝えなければいけないと、使命にも似た感情を抱いたのだ。無論菖蒲とその童女がどのような関係であるかなど知らないが、松井田の崇徳寺に着いた時、蓮は相変わらず毬遊びに興じており、小太郎はその童女が蓮であることをすぐに知った。
 かすかな足音に気づいた蓮は、見慣れない男の顔を驚いた様子で凝視していたが、やがて寺の中に駆け込んでしまうと、暫くして中から虎之助が姿を現わした。虎之助は、境内に呆然と立ち尽くす男が、以前京から大坂に向かう道中で会い、大坂城の大手門前でも仕損じた伊賀の甲山小太郎であることを認めると、
 「何の用じゃ!」
 と太刀の柄に手をかけた。八王子城に潜伏していた菖蒲からの密書で、なから小太郎の動きや事の流れは掌握していたが、もとより彼を信用しているわけでない。しかし戦闘意思の微塵もないその呆とした力ない眼を見て、あざ笑うかのように太刀から手を離した。
 小太郎は心ここなしといった小さな口調で、
 「ここに蓮という童がおるじゃろう。伝えてくれ、菖蒲はもう戻らん──と」
 そう言うと、力の抜けた様子で立ち去ろうとしたのだった。
 「待て、どういうことだ?」
 「死んだ……」
 それは聞こえるか聞こえないかほどの小さな声である。虎之助にはよく聞き取れず、「何と申した?」と聞き返そうとしたが、それより早く、小太郎の足にしがみついたのは、寺の中からキジのように飛び出して来た蓮であった。目を真ん丸に見開き、今にも泣き出しそうな顔で「ヤダ!」と叫んだ。
 「離せ、申した通りじゃ。もうここに用はない」
 「ヤダ!ヤダ!」
 「ヤダと言われても死んだものは死んだのだ! 離せ!」
 「ヤダもん!」
 虎之助も菖蒲が死んだと知って唖然としたが、必死で駄々をこねる蓮の剣幕に同情して、
 「伊賀者、もう少しその童に分かるように説明してやれ。ずっと菖蒲様の帰りを待っているのだ」
 「そういえばお主の仲間の蜻蛉とかいう甲賀者も死んだぞ……お主も僧なら線香の一本もあげてやれ」
 「なに? どういうことだ?」
 「二人とも風魔にやられたのだ」と言ったきり小太郎は口をつぐんだ。その話をするのに最も辛いのは彼自身なのだ。しかしその童の無垢な涙を見た時、堰き止めていた感情が俄かに暴発した。
 「そうよ!わしのせいじゃ! わしは菖蒲を守ると約束しておいて守れなんだ。お前が蓮か、わしを恨め!わしが菖蒲を殺してしまったのだ!」
 小太郎はたまりかねて蓮を蹴とばすようにして跳ね除けると、そのまま逃げるように立ち去った。その後ろを転げるように蓮が追いかけた。
 「蓮! 待て、戻れ!」
 すかさず虎之助も追いかけようとしたが、その腕を、どこからともなく現れた飛猿が掴んだ。
 「行かせてやれ。小太郎とて子供相手に無下なことはすまい」
 「し、しかし……」
 「蓮は菖蒲殿にしかなつかんかった。わしらにはもう留めておくことはできんよ」
 虎之助と飛猿は、小太郎の後をちょこちょこと追いかける蓮を見送ったのだった──。

 空を茜色に染めた夏の陽が暮れようとしていた。上空をいくつものカラスが透き通った声をあげて飛んで行ったとき、小太郎はようやく立ち止まり、まもなく蓮が追いついた。
 「いま一度言う。わしについて来ても菖蒲には会えん。菖蒲は死んだ。だから帰れ。足手まといだ!」
 「ヤダ!」
 「お前はヤダしか言えんのか? 帰れ!」
 「ヤダもん!」
 蓮は鼻水を垂らしてわんと泣き出した。
 「だって菖蒲お姉ちゃんと約束したもん! 帰って来たら折り紙して遊ぶって!」
 「うるさい、泣くな! わしだって泣きたいのだ!」
 「泣けばいいやん!」
 「ばかやろう、大の大人が泣けるか!」
 と言ったそばから小太郎の眼から涙がボロボロとこぼれだした。すると逆に蓮はきょとんとした顔で泣きやみ、
 「なんでお兄ちゃんも泣くの?」
 「うるさい!」
 蓮も再び泣き出して、二人はすっかり陽が沈むまで泣き続けた。ところが人間いつまでも泣き続けていることはできないもので、くしゃくしゃの顔をしている蓮に気づいた小太郎は、
 「おい、洟が垂れてるぞ」
 と、自分の袖口でそれを拭き取ってやると、再び垂れてきた鼻水が提灯を作った。それには思わず蓮も吹いて、二人の涙は笑いに変わった。
 気づけばすっかり夜の帳が降りている。
 「腹が減ったなあ……」
 その言葉を待っていたように蓮のお腹もぐうっと鳴る。人間どんなに悲しくても腹は減る。小太郎は四つん這いになって地面に耳を押し当てた。
 「なにしてるの?」
 「川を探している。今晩はそこで野宿だ」
 「川ならあっち」と蓮がどこぞを指さした。
 「なぜわかる?」
 「だって音が聞こえるもん」
 蓮が指さした方向を目指せば、二人はほどなく渓流沿いに出た。小太郎は蓮の耳の良さに驚きながら、小枝や木材を集めて火を起こし、川に入ってイワナやヤマメやコイなどを捕まえて来ると、細い枝に刺して焼き始めた。火を囲んだ無言の二人の顔に、赤い陰影が揺れている。
 小太郎は懐から菖蒲から手渡された三寸ほどの銀のマリア像を取り出した。
 「あっ、菖蒲お姉ちゃんの観音様──」
 蓮は「どうして持ってるの?」といった表情でつぶやいた。
 「観音様? どうやらこれはわしに渡したのではなく、お前に託したもののようだ。菖蒲の形見じゃ、蓮が持っておれ」
 蓮は奪う様に握りしめると、じっとマリア像を見つめて「お姉ちゃん」とつぶやいた。
 「わしはこれから京に向かうが宛はない。友人を探して流浪の旅になるやも知れん。悪い事は云わんから真田に帰れ」
 「一緒に行く……」
 小太郎はふと蓮の耳の穴をふさいでいる詰め物に気が付いた。
 「なんじゃ、耳栓をしておるのか?」
 蓮はコクリと頷いた。
 「虎之助おじちゃんも飛猿のおじちゃんもキライ。幸村のおじちゃんはちょっと好きだけど、帰りたくない……みんな嘘つき……」
 「うそはキライか?」
 蓮はまたコクリと頷いた。
 「わしも嘘つきじゃぞ。大ウソつきじゃ。嘘を付くのが仕事だからのう」
 「でも菖蒲お姉ちゃんはお兄ちゃんのこと好きなんでしょ? だから一緒がイイ」
 小太郎は言葉を詰まらせた。目の前の子童は、何もかも知っているかのような純粋な目をしていた。
 「わしの周りには怖〜いおじさんたちがうじゃうじゃ寄って来るぞ。わしと一緒にいたら捕まって食べられてしまうぞ」
 「怖くないもん!」
 「まあいい、喰え」
 小太郎は焼きあがった魚を蓮に渡した。余程腹を空かせていたのだろう、蓮はそれをむさぼるようにして食べると、やがて小さな寝息をたてて眠ってしまった。その顔に、どことなし菖蒲の面影を見た小太郎は、ひとつ笑んで夜空に輝く天の川を仰いだ。

 それにしても妙な道連れができてしまったものだ。
 小太郎は高山右近にも菖蒲の死を伝えておかなければいけないと思い加賀を経由したが、右近はまだ帰っておらず、一か月ほど滞在してから京に向かった。
 京に着いた小太郎は真っ先に吉兆屋に顔を出し、お銀から朝鮮通信使が来ている事や才之進がその動きを探っている事など様々な情報を入手するが、
 「それにしても小太郎ちゃんも隅に置けないねえ、で、相手は誰なのさ?」
 と、お銀の関心は、今は店先で一人地面に絵を描いて遊んでいる蓮の存在だった。
 「だからわしの子ではないと申しておろう。行きずりの童じゃ」
 「へえぇ、小太郎ちゃんは理由もなく旅先で出会った童を連れまわすのかい? あぁ!分かった!妙に顔立ちが整った子だし、大きくなったら自分の女にしようという魂胆ね?」
 「アホ申せ! なぜわしがそんな何十年も先の嫁の心配をせにゃならん。そんなに待つくらいなら手っ取り早くお銀さんを貰ってやるわい」
 「何十年なんて大げさぁ、女の子の成長は早いんだよ、あと五、六年もすればあんな洟垂れ童女でも女に化ける。それにしても五、六年は少し長いか──私の方はいつでもいいけどねぇ〜」
 お銀はからかうように色目を向けて小太郎の襟元に指先を忍ばせた。
 「お銀さん、こんな昼間っから冗談はよせ。蓮に聞こえるぞ」
 「聞こえるわけないでしょ、お子ちゃまはお外でお絵かきに夢中でちゅぅ」
 すると、遊びに興じていたはずの蓮がすくっと立ち上がったと思うと、つつつとお銀の前に立ち尽くし、怒った目つきで彼女を睨んだ。
 「あらやだ、聞こえちゃったの?……なによその目、ひょっとしてこの子ったら嫉妬してる?」
 「そんなわけはなかろう。それよりわしは末やんの手掛かりを聞くためにここに来たのだ。何でもいい、知ってることを全部教えてくれ」
 「末やん?ああ末蔵さんのことかい。前も話した通り聚楽焼の長次郎さんとこ出たきり行方知れずさ。本阿弥光悦さんとこ行ってみなよ。何か手掛かりがつかめるかも」
 聞くが早いか小太郎は吉兆を飛び出した。
 「ああ、この子どうすんのさ!」
 「抛っておいても付いて来る。蓮は犬の鼻より耳が利く」
 お銀を首を傾げたが、お銀を睨んだままの蓮は、
 「小太郎兄ちゃんに手ださないで」
 そう言い残すと、後を子犬のように追いかけて行った。
 「なによあの小娘! 子供の振りしてすっかり女じゃない!」
 お銀は呆れて舌を出して見送った。