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朝鮮通信使
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 豊臣秀吉の小田原征討の最中、九州より海を渡った対馬で一組の夫婦が誕生していた。対馬領主宗氏第二〇代当主宗義智と、小西行長の娘妙である。妙の方は父行長の勧めで洗礼を受けており、キリシタンの間では“マリア”と呼ばれているが、このとき義智二十二歳、妙はまだ十五歳の生娘であった。もっともこの時期義智の方は大忙しで、ろくに婚礼の儀などしている暇がなかったので、後日改めてという話で妙も納得していた。
 ここで読者に思い出してほしいのは、末蔵という男が朝鮮へ渡った時の話である。確か天正十六年(一五八八)の初春であった。当時対馬領主は宗義調であったが、秀吉の「一年以内に朝鮮国王を従属させ上洛させよ」という無謀な命令を受け、その調停のため朝鮮王朝との板挟みの中で、彼はその年の十二月に仕事半ばでこの世を去っていた。その後領主になったのが義智というわけだが、義調から引き継いだ難題の遺産はそのまま大きな悩みとなる。
 義調は苦慮の末、実現不能な秀吉の“朝鮮国王上洛要求”を、それでも見込みのありそうな“日本国統一祝賀のための通信使派遣要請”に話をすり替え、国使の名のもとに柚谷康広という男を朝鮮へ派遣したが、帰国した柚谷が秀吉と面会した際、
 「どうも彼らは日本への海路がわからぬと申しまして──」
 朝鮮側の言葉をそのまま伝えると、秀吉は、
 「ばっかもん、そんな稚児のような返事を聞くために朝鮮まで行ったのか!」
 と大激怒。根掘り葉掘り聞かれてついに柚谷は、朝鮮側の本心を「我が聞き出したのだ」と鼻高々に話してしまう始末。つまりその理由として、一つに書簡の内容が傲慢であること、二つにもともと日本は身分の低い者が国王になってしまう低俗国家であること、三つに日本は明国に属さないので要請に応える必要はないと言われた事である。それをそのまま伝えたわけではないだろうが、「交渉の失敗はおのれの裏切りによるものじゃ!」と秀吉の逆鱗に触れた柚谷は、哀れにも処刑されてしまうのだ。
 その後、何の進展もない朝鮮国王上洛問題において、秀吉が宗義智に対して遅参の責めを問うたのが天正十七年(一五八九)三月の事。慌てた義智は同年六月、先般柚谷と共に朝鮮へ行った対馬以酊庵(後の西山寺)の僧景轍玄蘇を正使に立て、義智自身は副使となって、家臣柳川調信や博多の豪商島井宗室ら二十五名を伴って再び朝鮮へ渡ったのだった。
 そしてなんとか朝鮮側を説得し、翌年三月、つまり秀吉が北条攻めに動き出した頃、三〇〇名を有する朝鮮通信使は首都漢城府を発った。四月二十九日には釜山から海を渡った一行は、対馬に一ケ月ほど滞在した後、義智と共に京都へ向かう。
 その際、壱岐で一行を出迎え、そこから同行したのが小西行長である。その際、対馬へ帰る一隻の舟に飛び乗ったのが小西マリアこと妙であった。新郎はこれから朝鮮使節団を連れて京へ向かうというのに、祝言の儀式もせずに、新婦はこれから対馬の金石城へ嫁ごうというのである。
 そもそもこの縁談を持ち出したのは小西行長である。
 もともと大坂堺の商人の出で、瀬戸内海の制海権を握っていた村上水軍らを統括する力を持っていた行長は、貿易で同じ海を行き来し、また義智に同行して朝鮮へ渡った島井宗室とは旧知で家臣のような関係だった。加えて、水軍統率力に長けた行長が南肥後十五万石を与えられた背景には、秀吉の計画している唐入りと深く関係している。その意味からも朝鮮への玄関口ともいえる対馬の存在は極めて重大で、できることなら掌中に抑えておきたい腹があったのだった。現に以前秀吉からの耳打ちを受け、先代の宗義調に対してアプローチもしていたが、なかなか接触できないままで、ようやく島井宗室に朝鮮国での見聞を求める機を得たのが、彼が帰国して直後のことである。
 「ときに宗室、対馬の宗義智殿はいまおいくつになるのかな?」
 「さて? 二十歳は過ぎていると思いますが、なかなかどうして、まだお若いのに細かなところにまで気をまわされ機転の利く方でございます。そのくせ肝が据わっておりますな」
 と、朝鮮の漢城府での出来事を好意的に評価する。つまりそれは、朝鮮国王宣祖に謁見した義智が、再度通信使の派遣を強く要請した一部始終である。
 「海路が分らぬならわたくし自らが水先案内人を務め申す」
 と義智が宣祖に申し出た。仮にも日本を代表して参内した使者であり、対馬の国の領主でもある。その彼自らが水夫にもできる案内を「私が」と言ったところに宗室は深く感銘したと言う。ところが朝鮮側は「誠意を見せてほしい」と、数年前に倭寇が引き起こした事件を持ち出した。
 「対馬へ逃亡した謀反人、沙乙背同を引き渡せ」
 と要求してきたのである。朝鮮人の罪人など対馬に逃亡していると言われても、どこをどう探してよいか分からない。しかしこの無理難題に対して義智は、すぐさま同行の柳川調信を対馬に帰し、短時間で見事にやってのけてしまったのだと、その機転の早さを宗室は褒めた。それによってついに断る理由をなくした朝鮮側は、通信使派遣を約束したという経緯があると語った。更に義智はその返礼を忘れず、宣祖に孔雀と火縄銃を献上したのだと宗室は感心しきり──。そこで行長は、
 「ところで義智殿に細君はおられるのかな?」
 と意味深に聞く。
 「まだのようです。なにせ先代の義調様が亡くなられてから、朝鮮のことで頭がいっぱいでございますからなぁ、それどころではありますまい」
 「そうか!」と行長は手を叩いた。
 「実はわしには十五になる娘があってな、親の口から言うのも難だがなかなかの器量良し──」
 「ひょっとして縁談話ですか?」
 宗室には一つだけ気にかかる点があった。行長の娘小西マリアといえば商人にまで聞こえるキリシタンの強信者である。伴天連追放令が出てまだ間もないのに、その娘を宋家が受け入れてくれるかという心配である。
 「先方がどういう反応を示すか分かりませんが、行長様の意向はお伝えいたしましょう」
 と一応宗室は承ったが、その心配をよそに、宗家にとってもけっして悪い話ではなかった。というのも、小西行長といえば瀬戸内海の荒くれた海賊たちをまとめ上げた極めて優秀な外渉能力の持ち主であり、伴天連追放令の時などは自らがキリシタンでありながらそれを逆手にとって振る舞った上に、小豆島一万石から南肥後十五万石への大出世を遂げた稀に見る調整能力の持ち主だったからだ。その反面、陰ではかつてのキリシタン大名たちを匿い、その家臣たちを引き取ったという噂も耳にしており、単なる世渡り上手というわけでなく、義理堅い面も持つ男のようだという噂も耳にしていた。一見つかみどころがないように見えるが、義智が注目したのはその場、その状況における行長の巧みな交渉力だった。加えて関白秀吉からの買われようもたいしたもので、義智にとってけして損な話でない。
 「願わくば小西行長殿の力、是非とも対朝問題を解決するに欲しい」
 と利害が一致したのである。
 縁談はとんとん拍子で進み、ひと月もかからないうちに、「朝鮮の使節団を京都へ連れて行くので、壱岐で落ち合い嫁をもらい受けよう」と話がまとまった。つまりあからさまな政略結婚であり、このときの妙は、行長にとっては対馬を買う手付金のようなもので、宗家にとっては行長の才を手に入れるための人質のようなものだった。
 「ふつつか者ですが、どうぞよろしゅう」
 「こちらこそよろしくお願い申す」
 この壱岐での一瞬の対面が義智と彼女との最初の出会いであり、婚姻の誓いの言葉といえばそれだった。その後小西マリアこと小西妙は、数奇な運命をたどることになるわけだが、このとき行長は三十二歳、義智とは十ばかり離れた義父となったのだった──。
 義智の最大の心配事は対馬国の未来である。予てより明や朝鮮との貿易により栄えてきたこの小国は、両国間の友好的な関係こそ生命線なのだ。それを秀吉から威嚇されるように「交渉に失敗したら朝鮮に出兵する」などと言われ、万一それが現実のものとなってしまえば、もはや対馬が栄え生き残る道などない。
 「なんとしても戦だけは避けたいのだ」
 道中、義智は行長の目を見つめてすがるように吐露した。
 「こうとなっては嘘は貫き通すしかあるまいな……」
 行長の言う“嘘”とは、このたび来日している朝鮮使節は、秀吉にとっては服属の意を示すものであるのに対し、当の使節団にとっては、表向きは単に国家統一の祝賀を装ってはいるが、その腹は、秀吉による朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめる意図がある──いずれにせよその大きな認識の喰い違いのことである。その発端を作ったのは紛れもなく対馬宋氏であり、それを嘘と言われては、義智も「やはりまずかったであろうかのう?」と、苦悩の声でうつむいた。
 「否、そうとも限らん。現に関白様の言葉をそのまま朝鮮側に伝えていたとしたら、今ごろ北条征伐など後回しにして、とっくに朝鮮征伐じゃ!とわめいているに違いない。そなたらの策は苦肉にしてやむを得ぬ判断だったと思うぞ。実を申すとわしも戦より商売の方が好きじゃ。戦などせずに、共に栄える道を探りたいものじゃ。なあに、どんな難問だってどこかに蟻の隙間ほどの打開策はあるものじゃて」
 行長の含みある言葉は、義父としての優しさであったか、義智はその手を握った。
 「とりあえず今は、この嘘が関白様に露見せぬよう、万全の手を尽くすことじゃ」
 二人は景轍玄蘇と柳川調信を交えて様々な謀議を凝らすのである。
 朝鮮通信使一行が、宿舎にあてがわれた京の紫野にある龍宝山大徳寺に到着したのは七月二十一日のことだった。これより後の世になり、朝鮮からの使節団は四度に渡りこの寺を宿坊とすることになる。このとき豊臣秀吉は小田原からまだ帰っていない。

 朝鮮側の正使の名を黄允吉と言いこのとき五十四歳、副使の名を金誠一と言いこのとき五十二歳の尊老の臣だった。
 当時の李氏朝鮮の政治は大きく西人と東人と呼ばれるいわゆる二大派閥によって構成されており、黄允吉は西人、金誠一は東人に属していた。現代でいえば与党と野党のような感じだろうが、形で言えば西人は首都である漢城府より西側に住んでいた者が多く、東人は東側に住んでいた者が多かったことからそう呼ばれるようになったが、思想的な面から言えば、朱子学の解釈の違いによって政治の進め方も大きく異なり、特に国王宣祖の時代は激しい勢力争いの渦中にあった。このときは政権が西人にあったため黄允吉が正使となったのであろうが、他には書記官として許筬という男も同行している。ちなみに彼は、後にハングルで書かれた最古の小説と言われる『洪吉童伝』の作者となる人物であり、他は何十人もの輿持ちや旗持ちや護衛など様々な役割を担った役人たち、その総勢三〇〇人というからには中には管楽衆と言う町を移動するときにパレードを行ったり、一行が暇を持て余さないように芸能を披露するような、艶やかな衣装の五〇名余りもの芸人たちも伴っていた。
 一行が対馬に滞在する一ケ月の間に、こんな出来事があった。
 景轍玄蘇の以酊庵で、通信使を接待した時の話である。自国不在の間に溜まっていた雑務処理のため、通信使を待たせてしまった義智は時間に遅れ、やがて駕籠に乗ったまま門をくぐり、石段の手前で駕籠から降りた。それを見た金誠一は、
 「無礼者! 籠に乗ったまま門をくぐるとは何事だ!」
 と激怒したのである。“礼”を深く重んじる儒教の国では重大な作法違反だったらしい。金誠一は「帰る!」と怒鳴って席を立つ。死ぬ思いでやっとここまで事を運んで来た義智は蒼白になって、駕籠かきの男をその場で打ち首にして許しを請い、なんとか事なきを得たのである。
 その後の宴で金誠一のご機嫌をとるため玄蘇は彼に近づいた。ところがこの二人、なんとも気が合い、互いの身の上を話すうち、すっかり意気投合するのである。
 やがて、玄蘇は対馬の置かれた微妙な立場を話すに至り、金誠一の同情を引き出すことに成功した──と書けば下心があるようでいやらしく思われるが、国家間の問題といっても、それを打開するのは所詮一個の人と人との繋がりなのである。
 二人は相談して、宣祖から秀吉に宛てられた国書の一部を改竄して、当たり障りのない文章に書き替えた。
 それにしても秀吉が凱旋する日程を見越して入京したというのに、当の秀吉はなかなか帰ってこない。そこで小西行長は秀吉に会うため小田原方面へ向かい、小田原城を落としたあと奥羽に行っていた秀吉が帰る途中の駿河で会うことが叶う──それが八月二十日のこと。
 「朝鮮の者が来たそうじゃな。しかし話が違うぞ、わしは国王に上洛せよと命じたのじゃ」
 「はい。しかしながら仮にも一国の王たる者、なにかと忙しいのでございましょう。しかし此度はこうして服従の意を示す使節を送って来たのでありますから、宋義智の尽力が徒労とならぬようお計らいを……」
 「まあ仕方がない──。そういえば娘を宗家に嫁がせたそうじゃな?」
 秀吉は石田三成あたりから聞いた情報を機嫌良さそうに言った。
 「はい、これで朝鮮、明国への足掛かりができてございます」
 「相変わらず抜け目がないのう。期待しておるぞ」
 話しは二言三言で終わったが、朝鮮が服属したという印象を植え付けることには成功したのだった。
 ところが九月一日に大阪城に凱旋した秀吉は、なかなか使節団と面会しようとしなかった。そこには「国王のいない使節団ごときに会っている暇なんぞないわい」と言うような、明らかに朝鮮を見下し「我こそ日本国および朝鮮国の王である」といった権威を植え付けようとした意図がある。さすがに正使の黄允吉も、
 「いったいどうなっておるのだ!」
 と腹を立てたが、玄蘇になだめられた金誠一に制止させられ、待つしかないと諦めるより仕方なかった。
 こうして小田原凱旋から二か月以上待たされた十一月七日、ようやく聚楽城においてその日を迎えたのである。そして彼らの面前に現れた秀吉は、彼らの表現によれば、
 「背たけが低く醜い上に、顔はやつれて褪せた黄黒い色をしており、威厳もないただのおじさんだった。ただ眼光だけが閃々として人を射るようであった」
 と伝える。式典の場は宴席が設けられ、朝鮮管楽衆の演奏が披露され、通信使は玄蘇と金誠一によって一部改竄させられた、当たり障りのない日本統一を祝賀する内容の国書を提出するが、ここで一旦秀吉は中座する。そして再び現れた時には普段着に着替え、まだ一歳と六か月の我が子鶴松を抱いていたのであった。すると鶴松は無邪気に部屋の中を飛び回り、そこにいた者達は顔を伏せ畏まったままだったが、秀吉だけはひどく上機嫌でその様子を見ていたと言う。ところが鶴松がお漏らしをしてしまう。それを見た秀吉は大笑い、侍女を呼んで後始末をさせるが、それには国賓扱いを受けていると思っていた通信使たちも驚愕するよりない。対馬で駕籠に乗ったまま門をくぐった義智の無礼どころでない。一応、正使と副使はそれぞれ銀四〇〇両を受け取り、その他の者は身分相応な褒美が与えられその場はおさまるものの、一行が秀吉と面会したのは、この半日程度のただ一度きりであった。
 秀吉からの返書もないまま帰路についた通信使は、返書を待って大坂堺で半月も逗留し、ようやく届いたそれを読んだ義智と玄蘇は血の気を失った。
 そこには──
 冒頭に「朝鮮国王閣下」とあり、「予(秀吉)はここ三、四年の間に乱れた六十余州もの国々を統一した。もともと予は日輪の申し子である」という趣意の前置きをした後、
 『作敵心者、自然摧滅、戦則無不勝、攻則无不取』
 つまり、「予に対して敵心があればおのずと摧かれ滅びるであろうし、予が戦えば必ず勝利し攻め落とせぬものなどない」とある。続けて、
 『一超直入大明国、易吾朝之風俗於四百餘州、施帝都政化於億萬斯年者、在方寸中』
 つまり、「一気に明国に入って我が国の風俗を大陸の隅々にまで行きわたらせ、未来永劫に続く帝都を築くのは我が心中にあるのだ」との野心が綴られ、極めつけに、
 『貴国先駆而入朝……後進者不可作許容也』──つまり、「貴国は先駆して予の属国として明国に入れ。遅れることは許さぬ」。『予入大明之日。』──つまり、「予は大明国に入る日輪だ」と豪語する。そして文末には、
 『則弥可修隣盟也』──「いよいよ朝鮮国は我が国と同盟を結ばねばならぬ」、『予願無他、只顕佳名於三国而已』──「予の願いはただ一つ、三国に我が名を顕し遺すのみ」──。そして最後に『方物如目録領納』──つまり「方物は目録通り領納されよ」とあった。
 「どういう意味か?」
 黄允吉が問うた。どういう意味もない──秀吉は唐入りするにあたり、朝鮮国服属を前提にした国書を綴っているのだ。しかも義智に対しては、文中の『予入大明之日、将士卒臨軍営、則弥可修隣盟也』の意味について、国書を届けに来た使者に「もし明国を攻める際は、朝鮮には道案内をさせよという意である」との伝言まで伝えたのである。そうはいっても──義智と玄蘇は冷や汗をかきながら偽りの説明で誤魔化すより仕方ない。すると金誠一が、
 「ならばこの“閣下”と“入朝”と“方物”というのはおかしい。書き直してもらえ」
 と厳しい口調で責めた。儒教に厳格な彼らに言わせると、“閣下”というのは君主以外の閣僚、臣下などに用いる敬称なので削除し、“入朝”というのは使いが朝廷に参内することで、我が王様は秀吉の使いでないので言い改める必要があり、“方物”というのは位の上の者から下の者へ贈る貢物のことなので別の言葉に改めよと言うのである。ところがこの時点で黄允吉の堪忍袋の緒が切れた。
 「もうよい! いつまでもこんな低俗な国にはおられん! 早く帰って王様にありのままを伝えようぞ!」
 と、けんもほろろに帰国してしまうのであった。
 このことが原因となり、両国間の関係は悪化の一途をたどる。その流れはもはや行長にも義智にも止めることはできなかった。