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(38)不埒な心

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 城田は愕然と膝を落として放心状態になった。そして誰かが「救急車!」と声を挙げようとした時、聞き違いだろうか、宙ぶらりんの子ども達の中から、大きな笑い声が挙がったのである。城田が阿鼻叫喚の声と聞き違えたのは、あろうことか恐怖感から思わず湧いて出た子ども達の笑い声だった。
 「おっかねかった〜!」
 「死ぬかと思った!」
 中には宙ぶらりんになっているのをいいことに、
 「牧君のお父さん! ちょっとクレーンを揺らしてみてよ!」
 悪ふざけの牧社長はクレーン車の操作席から「よっしゃあ!」と大声を挙げると、小刻みにクレーンの先端を揺らし始めた。すると命綱にぶらさがったままの百五十九人の子ども達は大はしゃぎ。キャッキャ、キャッキャと、まるで大きな遊園地にあるメリーゴーランドにでも揺られているような雄叫びを挙げて大喜びしているではないか。奇しくも城田は、その子ども達の満面の笑顔に救われたのだった。
 幸い怪我をした者は一人もない。しかし大きな課題を残して、その日の全体練習は終わったのである。

 全身に虚脱感を残したままの城田は、よろけるように愛のところにやってきて、
 「教師生命が終わったかと思いましたよ……」
 と、苦笑いを作ってその場に崩れ落ちるように腰をおろした。
 「大げさですね。命綱をしてるんだから大丈夫ですよ!」
 愛は元気づけようとしてそう言ったが、内心、塔が崩れたのは自分のせいではないかと思っている。というのは、塔を組む際、全員の心を一つにしなければならないところを、城田と一緒に中心的な立場で推進してきた自分であるにも関わらず、フェンス越しから同じ光景を見つめる紅矢春子の存在が気になって、希がてっぺんで立ち上がろうとした瞬間、ほんの一瞬ではあったが、けっして考えてはならない事をイメージしてしまった自分がいたことに気付いていたからである。塔が崩れたのはまさにその直後だったのだ。愛は、その恐ろしい心の中の悪魔的自分を隠すように、
 「そういえば春子さんが来てますよ」
 と、クレーン車の方を指さした。
 「え? 春子先生が?」
 虚脱感でくすんだ城田の両目に光が宿ったのを感じた愛だったが、春子の姿は既になく、急に城田が憎らしくなった愛は、
 「あれ? さっきまでいたのに。会いに行ったらどうですか?」
 と、つっけんどんな態度で冷たくあしらった。
 そこへ、「いや〜! 惜しかったなあ! あと少しで成功したのに!」と、陽気な声で近づいて来る二人の男がいた。金髪の中村とアゲハのヤッシャンである。体中から例の香水の匂いをプンプンさせながら、城田と愛の脇で立ち話をしている鶴田先生とガリ先生の間に割り込んで、
 「美由紀先生、会いたかったです!」
 と、ガリ先生を突き飛ばして鶴田先生の正面に立った。その香水の甘い香りは、愛や城田のところにまで漂ってきた。途端、美由紀先生は頭を押さえ、
 「ご、ごめんなさい……、急に具合が悪くなってきた……」
 と言ったと思うと、そのまま校舎に向かって歩き出した。
 「ちょっと待って下さい、美由紀先生! ゆっくりお話ししましょうよ〜!」
 「そうですよ! 一週間ぶりに会えたんだから、これからお昼、ご一緒しません?」
 二人は彼女の後を追いながらあれこれと口説き始めたが、美由紀は一瞬立ち止まり、
 「ほ、ほんと、ごめんなさい……。私、ちょっとムリ……」
 と言って逃げるように駆け出してしまった。そこへタイミングよくやって来たのはガリ先生。
 「君たち、今日のところは諦めたまえ。きっと十段円塔の失敗で、想像以上の気力を使い果たしてしまったのだよ。なにせ彼女は養護教諭だからね。怪我人が出たらどうしようとか、薬や包帯は足りるだろうかとか、我々が考える以上に心配していたに違いない。君たちは男だろう? 男だったら愛する女性のことを気づかって、ゆっくり休ませてあげるのが優しさじゃないのかね?」
 「でも、先週も話ができなかったし……」
 「でもじゃない! また来週という機会があるじゃないか。君たちの思いは必ず通じる! その香水をつけていれば必ず彼女は振り向いてくれる! だから来週もその香水をたっぷり体に染み込ませて来るのだよ」
 中村とヤッシャンは言いくるめられて、そのまま帰るしかなくなった。腑に落ちないその二人の後姿を見送りながら、ガリ先生は眼鏡の奥で笑っていた。
 「それにしても、とってもいい香りですね……」
 愛が寄って来てそう言うと、「強烈すぎだろ」と城田が付け加えた。
 「シャネルの5番ですよ。悪い虫は早めにおっぱらっておかないとね……」
 ガリ先生は無表情でポツンとつぶやくと、そのまま美由紀先生を追いかけるように、校舎に向かって歩いて行ってしまった。
 「どういう意味?」
 愛は首を傾げたが、城田の脳裏には今年度当初に行われた新任職員の歓迎会の席で、鶴田美由紀先生が語っていたある事柄が思い出された。それは、歓迎される側の席に座っていた城田のところに、美由紀先生がお酌に回って来た時のこと。
 「城田先生はお酒、お強そうですね」
 愛嬌のある美しい笑顔で酒を注ぐ美由紀先生が自己紹介を始めると、それを邪魔するようにほろ酔いのガリ先生が加わって来て、城田に酒を注ぎながら、
 「私、理科専任の土狩辰美と申します。以後お見知りおきを。学生時代からガリ、ガリと呼ばれておりまして、トガリだからガリなのか、ガリ勉だったからガリなのかよく分かりませんが、私は勝手にガリレオのガリだと解釈しています。ですのでガリ先生と呼んでください」
 と一方的な自己紹介を済ませたかと思うと、
 「あれ? 鶴田先生、今日は上品な香水をお召しですね〜」
 と、美由紀先生に酒を勧めてからは、城田のことなどおかまいなしで、二人で香水談議を始めてしまったのだった。「何という香水か?」と問われた美由紀先生は、
 「クロエのオードパルファム。ほのかなアンバーグリスとシダーウッドの香りが好きなの。なんか蜂蜜っていうか、高級石鹸みたいな香りがするでしょ? っま、男の人に言っても分かんないか」
 「そんなことありません」とガリ先生は知識をひけらかすように、
 「アンバーグリスってマッコウクジラの腸内にできる結石のことでしょ? 日本や中国では龍涎香とも呼ばれる香料ですが、もともとの発祥はアラビアなんですよ。知ってました?」
 城田が話に割り込む隙を与えず、次はシダーウッドについて語り出す。こうしてあれこれ二人で話しているうちに、やがて嫌いな匂いについての話題になった。城田は「ラグビーの部室と、蒸れた膝サポーターほど臭いものはない!」と言って笑いを取ろうとしたが、ラグビーを知らない二人にスルーされてしまってからは、あとは作り笑顔で聞いていただけだった。その美由紀先生が大嫌いという香水がシャネルの5番≠セった。
 そのときの話によると、数年前に彼女の母親が病気で亡くなったそうなのだが、母の遺体を前にして美由紀は涙に暮れたのだと言う。そしてお通夜に親戚中が集まって来たわけだが、その中の一人、東京からやってきた伯母さんの体から漂っていた匂いがそれだった。微かに香るくらいなら気にもならなかったのだろうが、その匂いはあまりに強烈過ぎた。線香の匂いとシャネルの5番が持つムスクの匂いが混ざり合い、悲しみに堪えながらしくしくと泣く美由紀の嗅覚と涙腺を容赦なく襲った。その晩、伯母さんは美由紀の家に泊まり、お風呂に入ってあがったと思えばまた化粧水のようにシャネルの5番を体中に塗りたくる。その伯母さんとは納棺、出棺、火葬、告別式、お斎の席までずっと一緒にいなければならなかった。
 「ホントに耐えられなかったのよ〜」
 と、今となっては笑い話だがと可笑しそうにしていたが、結果的に、母の死についての感情が、悲しいものだったのか臭いものだったのかも分からなくなり、以来、その体験がいわゆるトラウマとなってしまい、シャネルの5番の匂いを少しでも嗅いだだけで、あの時の複雑な感情がよみがえり、胸が辛く切なくなる上に、頭痛までもよおすようになってしまったのだと話した。
 城田の脳裏にはそれと同時に、学校内の独身女性に対して、毎日の室温をその日の気分の色鉛筆を使って書いてもらい、そのデータをもとに女心を研究していると言っていたガリ先生のことも思い出した。
 あのとき気圧と月齢に注目していたガリ先生は、美由紀先生の女心をこんなふうに洞察していた。つまり彼女の固有基本色は紫だが、満月の日と気圧が1015ヘクトパスカル以上の日には茶系統の色鉛筆で室温を書き込んで来ることから、普段は気位が高いが、高気圧で満月の日は真逆の性格になる。つまりその日にお洒落なスーツを着こんで高級レストランなどに彼女を誘えば、気位の高い彼女の心は容易に動くだろうというような話をしていたことである。城田が勘ぐって「ひょっとして口説こうとしているのか?」と冗談で言ったつもりの言葉が、ガリ先生の慌てようといったら尋常でなかった。
 「なるほどね〜」
 城田はほくそ笑んで、彼の白衣の後姿を見送りながら納得した。
 「なるほどって、なにがです?」
 愛が知りたげな顔で聞いたが、「いえ、なんでもありません」と、ガリ先生の美由紀先生に対する感情について話すことはしなかった。城田にはそんなことより、先ほどの十段円塔がなぜ崩壊したのかの方が重大だった。
 「どうして崩れたんだろう……」
 彼はつい先ほど正に立たんとしていた巨大な塔があったグランドの中央に目を移し、小さな落胆のため息を落とした。その消沈した声に、愛は心のわだかまりを隠しておくことができなくなって、たまらず、
 「私のせいかもしれません」
 と口走った。城田は不思議そうに、「どうしてそうなるの?」と聞き返したが、愛は返答に窮したまま何も答えることができなかった。
 言えるはずがない。あのとき城田の愛する紅矢春子に気を奪われていて、心を合わせることができなかったなど、彼に対する愛の告白をするようなものだ。咄嗟に、
 「希さんが立ち上がろうとしたとき、私、関係のないことを考えてしまっていたの……」
 と、言葉を替えてすまなそうに告げた。
 「なんだ、桜田先生もか……」と、城田の言葉は意外だった。
 「―――桜田先生にはまだ話していませんでしたね」
 城田は遠くをみつめてやがて話し出した。
 「実は僕には同じ教師をしていた親友がいたのですが、最初に十段円塔をやると言い出したのは彼だったのです。名を大悟といいました。ところが十一年前、その練習中に塔が崩れて大惨事です。まるで今日のように……。たまたま今回は命綱をしていたから良かったものの、あの時は大勢の怪我人が出ました。そして今日希ちゃんがまさに立とうとしたとき、僕はあの十一年前、大悟が十段円塔を成功させようとしたまさにその瞬間、ほんの、ホントにほんの一瞬でしたが、『大悟のやつ、失敗すればいいな』と思ってしまった自分がいたことを思い出してしまったのです。そんなふうに思うなんて本当に恐ろしいことだ。それまで一心一体になって絶対成功させようと苦楽を共にした親友に対してですよ! 僕は僕の中にそんな悪魔のような心があったなんて信じられなかったし許せなかった。結局誰にも打ち明けられず、やがて大悟は死んでしまいました。僕は時間の力を借りてその記憶を葬り去ったのですが、今日、希ちゃんが立とうとした瞬間、あの十一年前の記憶が再び鮮明によみがえり、僕は成功させることを忘れて、大悟のことばかり考えていました―――なぜあんな不埒な心が湧いたのかと、申し訳なかったと、大悟を陥れたのは僕ではなかったかと―――」
 城田の目には涙がたまっていた。なぜあのとき、心にもないはずの『失敗すればいい』などと思ってしまったのか? 彼は彼なりに何度も何度も考え、考え抜いた。もしかしたらそれは、自分より大きな事を成し遂げようとする親友に対するライバル心から出たものだったかも知れないし、成功した暁には、春子の気持ちが大悟へと大きく傾くかも知れないという独占欲とか嫉妬から出たものかも知れないとも考えた。しかしそれは断じてない! と自分に言い聞かせたものだった。当時の兵悟と大悟と春子三人のつながりは、そんなに薄っぺらで脆いものではないと信じて疑わなかったからである。
 「もしかしたら九段目と十段目の間には、人の心を喰い尽す、目には見えない巨大な魔物が棲んでいるのかも知れない……」
 城田は愛を見つめてポツンとつぶやいた。
 「いずれにしても、十段円塔の中心者が二人ともこれじゃあ成功するはずがないね……」
 と、やがて城田は力なく笑った。