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(29)高所恐怖症

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 さて、全体練習の日曜日が訪れた。
 大人の参加者は全員というわけにはいかなかったが、およそ半数くらいが集まって、更にSTBの取材も入った。今回の取材は事前に申し入れがあった上での来校で、「十段円塔の途中経過をカメラに収めたい。内容によっては二日後のSTBニュースで放映したい」と言うので、烏山校長も快く許可を出したわけだ。
 参加者が集まりはじめた校庭には、案の条悶巣蛇亜のアゲハのヤッシャンと金髪の中村光也の姿も見えて、二人は盛んに周囲をキョロキョロ見回し誰かを探している様子で、やがて城田のところにやって来ると、
 「鶴田先生は今日は来ないのですか?」
 と聞いてきた。城田は二人の体からプンプン匂ってくる香水の薫りに顔をしかめて、
 「そのうち来ると思いますよ」
 と答えると、二人は嬉しそうに集団の中へ戻って行ったが、その芳しい薫りに誘われて、彼らの周囲には早くも四、五十代の婦人たちが色目を使って集まり出し、「あなたたち、何の香水しているの?」と、たちまち熟女たちの人気を集めた。その様子を遠くで見ていたガリ先生は眼鏡の奥で笑っている。
 体操台の前に不規則に整列した集団は、やがて台の上に立った城田の説明を聞き、グループ毎に分かれて練習を開始した。まずは一段目の土台を構成する五人一組の肩の組み方から始め、その上に三人一組のグループが立ち、更にその上に一人が立つという、全体の一、二、三段目を構成する個別の三段円塔までいければ今日のところは目標達成の計画だった。もちろん人数がそろっていないので部分的にはなってしまうが、九人一組それぞれのグループ毎に相談してもらい、もっとも強固な立ち位置を模索してもらいながら、実際に身体で体験してもらうことも大きな目的である。一方子ども達は、四年生を交えて七、八、九、十段目の四段円塔を成功させることを目標にしていた。そしてその練習の様子をSTBのカメラが追っている。
 城田は大人たちの練習は大人達に任せて、四段円塔の指導についていた。お昼休みの練習では、4年生の四人はすでに三人の上に一人が立つ二段円塔ができるようになっていたから、頂点に立つ瑠璃も意気揚々として、母親の周防アナウンサーと一緒にその意気込みを笑顔に乗せてテレビカメラにおさまった。
 「いよいよ今日は四段円塔の練習と聞いていますが、調子はどうですか?」
 と、周防アナ。
 「調子はいいです。今までは4年生だけで二段円塔の練習をしてきましたが、今日は5、6年生と一緒に初めて四段に挑戦するので、とても緊張しています。でもがんばります!」
 「とても力強い言葉ですね。では怪我のないように頑張ってください!」
 「はい!」
 瑠璃はいかにもカメラ馴れした笑顔で集団の中へ入って行った。
 城田は裸足の子ども達を整列させると「ピッ!」と大きな音で笛を吹いた。七段目の十人が校庭の中央に進み出て円陣を組んでしゃがみ、次の合図で八段目の五人が進み出てその上に登って肩を組み、更に次の合図で九段目の4年生の三人がよじ登ってしゃがんで肩を組んだ。まったく統制のとれた小気味よい動きである。
 そして次の笛の合図で、いよいよ一番てっぺんの瑠璃がカメラの前でにっこりと笑ってVサインを作ると、円陣の周囲で補助を務める先生方の心配をよそに、威勢よく塔のてっぺん目がけて登り始めた。そして全員がしゃがんだ状態で四段円塔ができあがったのである。STBのテレビカメラが回り、あとは下の方から一段ずつ立ち上がっていくのである。
 城田が「七段目立ち上がれ」の合図の笛を吹いた。すると最下段の子ども達がゆっくり立ち上がった。周囲で練習している大人たちの視線も、おのずと子ども達の演技に集まり、最下段が立ち上がっただけで俄かに緊張が走り、まばらな拍手が起こった。その時である、
 「キャ〜〜ッ! ムリ、ムリ、ムリッ!」
 と声がした。最初、どこから聞こえてくるのか分からなかったが、出何処を探すと、四段円塔のてっぺん、しゃがみこんだままの瑠璃が、猫のように背を丸めて大声で叫んでいるではないか。
 「瑠璃ちゃん! どうしたの?」
 下で補助についていた桜田先生が聞いた。
 「ムリ、ムリ! おろしてッ!」
 城田は何が起こったかと焦りながら、
 「七段目、笛を合図にゆっくりしゃがめ! もう一度言う! 七段目、笛を合図にゆっくりしゃがめ!」
 と叫んでから笛を吹いた。最下段の子ども達がゆっくりしゃがむと、瑠璃は転げ落ちるようにして下に降りて来て、桜田の太腿にしがみついた。そこへ「瑠璃、いったいどうしたの?」と周防アナが駆け寄ると、瑠璃は半分泣きべそをかきながら、
 「ママ、怖い―――」
 と言った。周防は「大丈夫、大丈夫」と言いながら瑠璃を抱きしめたが、ふと、ある事を思い出したように呆然と立ち上がった。
 「瑠璃ちゃんのお母さん、どうしました?」
 桜田が不審に思って聞くと、
 「どうしましょ、私、すっかり忘れていましたわ……。瑠璃、高所恐怖症でしたの……」
 よく晴れた上空を、一羽のスズメが通り過ぎた。城田と桜田は衝撃の一言の意味を理解できず、暫くは思考能力が麻痺してしまったかのように周防を見つめたままだった。
 「こ、高所恐怖症って、どういうことでしょうか?」
 ようやく我に返った城田が言った。
 「言葉のとおりですわ。瑠璃が幼稚園の頃だったかしら、遊園地に行って観覧車に乗ったのですが、瑠璃ったら少し上に上がっただけで『怖い』と言って大泣きしてしまいまして、私の膝に顔をうずめて一周する間中ずっと泣いておりましたの。それから2年生の時にスカイツリーに行ったのですが、展望台にあがった途端、恐怖からか足が動かなくなりましてね、結局景色を見ることなく、私、抱っこしたまま降りて来ましたのよ。そうでした、瑠璃ったら高い所がダメだったんです。忘れてましたわ―――」
 周防アナはおちゃめな笑みを浮かべて舌を出した。
 「ちょっと待ってください……では十段円塔で一番上をやるというのは……」
 「瑠璃には無理かもしれませんネ。なんせこの子、高い所が苦手ですから、ホホホ……」
 「ホホホじゃありません!」と喉まで出かかったが、城田は怒りを抑えて「では、どうしましょう?」とできるだけ穏やかに言った。周防と瑠璃はしばらく何か話し合っていたが、やがて、
 「仕方がありませんので、子どもレポーターということで、私と一緒に十段円塔の実況をすることにしますわ」
 周防が性懲りもなく言った。呆れて開いた口がふさがらない城田と桜田は相談し、瑠璃の替わりに別の4年生を選出して、一番てっぺんは当所の予定どおり紅矢希にやってもらうしかないということで話がまとまった。それにつけても周防美沙江という女には振り回されっぱなしの城田は、気付かれないように彼女を横目で睨みつけた。
 ともあれ瑠璃の辞退で予定の四段円塔の練習はできなくなり、体育の時間と同様の四段目から八段目の練習に終始することになる。
 大人たちの方もなからコツを掴んだ様子で、区長やPTA会長などはSTBのマイクを向けられ、それぞれ意気込みを話していたようだが、やがてその日の練習は無事終了し、城田はなけなしのポケットマネーで買ったホームランバーを配って、体操台に立ってマイクで講評を述べた。
 「本日はたいへんにお疲れ様でした。今日はそれぞれのグループ毎に三段の円塔を作っていただきましたが、実際は更にその上に子ども達が乗ることになります。計算しますと、一人当たりおよそ五〇キログラムの重さを支えていただくことになります。重さも去ることながらそれにも増して重要なのは全体のバランスです。どうか重心を常に円塔のセンターへと心がけていただき、心を一つにしたいと思います。今日は全体の半数くらい集まっていただきましたが、来週の日曜日は全体でできる最後の練習となります。そして、いよいよ十段円塔を立ててみようと思っています。どうかご協力お願いします」
 みなホームランバーをしゃぶりながら、「成功させよう」という拍手が起こり、城田は確かな手ごたえを感じたのだった。
 「それと―――」
 と城田は話を続けた。校長から言われた命綱を使用するにあたり、クレーン車を扱える人員を探そうとしたのだ。すると、
 「クレーン車ならうちの旦那が運転できますけど」
 と手が挙がった。見れば5年信組の牧航貴の母親で、彼女の家は牧建設株式会社という建設会社の経営をしており、重機は日常的に使っているのだと言う彼女は社長夫人というわけで、
 「当日仕事が入ってなければ、旦那と一緒にクレーン車も貸してあげるわ」
 と笑った。すかさず携帯電話で連絡を取ってもらうと、「任しとけ!」と快い返事が返ってきて、命綱の件は鮮やかに片付いたのだった。
 全体練習は昼前には解散となり、城田と桜田はその散会する様子を見送った。するとにやけ顔のヤッシャンと中村が近寄ってきて、隣にいた鶴田先生に話しかけた。
 「鶴田先生! 会いたかったです」
 と、どうした訳か美由紀先生は一瞬顔をしかめると、
 「ごめんなさい、今日はちょっと忙しいのよ」
 と、逃げるように去って行った。それを追いかけようとしたヤッシャンと中村の腕を掴んだのはガリ先生である。
 「君たち、野暮はよしたまえ」
 「なんだよ、手を離せ!」
 「きっと君たちの香水の香りにうっとりして、混乱してしまったのだ。女心というものをよく理解してあげて、また来週出直したまえ」
 ヤッシャンと中村は「さもあろうか」と納得した様子で鶴田の後姿を見送った。それにしても二人の体から匂う香水の香りは強烈で、そこにいた桜田と城田は怪訝そうに二人を見つめた。