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(六)面接
 昨夜は結局夜明けの五時頃うつらうつらしてきて、気が付くと朝の八時を過ぎていた。
 母も父もとっくに出かけ、かろうじて中学生の弟の太一が「遅刻だ!」と言って家を飛び出す姿を見たのだった。昨日の朗報を両親に伝えられなかった事を気にしながら、百恵はさっそくコスモス園に電話して、十時に面接する約束をとった。
 急いで着替えて化粧をすると、朝食も食べずに家を出た。
 「しまった……。忘れた……」
 車を運転しながら目的地近くまで来たとき、ブローチをすることを忘れたことに気が付いた。
 「男女の関係なんて薄情なものね。あんなに心配してくれた新津君からの贈り物、付けてくるの忘れるなんて……」
 現地に到着し、百恵は車を降りると、襟を正して施設長室へと足を運んだ。
 コスモス園は、身体もしくは精神上などの理由や経済的理由により、居宅において養護の困難な高齢者の看護や介護、あるいは機能訓練など、その他必要な医療と日常生活上の世話などのサービスを提供する老人介護施設である。入所定員一〇〇名程度、通所定員五〇名程度の規模で、施設長はじめ、理事、看護士以下七〇名程度の介護スタッフでそのすべてを運営している。
 施設長を高野といい温厚そうな人柄だった。それに面接をしたのはもう一人、事務長の須崎は少し几帳面そうな顔をしていた。最初緊張した百恵も、次第にその雰囲気に慣れ、介護の現状や問題点などを聞くたび、初めて飛び込もうとしている世界に多少尻込みした。特に痴呆症老人の話はショッキングだった。百恵の祖母もアルツハイマー型痴呆症と診断されたが、まだ症状は軽く、ひどくなる前に天寿をまっとうしたが、コスモス園に入所する高齢者たちは皆要介護認定を受けた方たちである。一抹の不安を隠しながら、百恵は必死に笑顔を作っていた。しかし面接とは形ばかりで「急に欠員が出たのでどうしようかと思ったが、とても助かるよ」を繰り返すだけで、面接らしい質問もなかったが、一つだけ「なぜ介護の仕事をしたいのか」という問いに対して、祖母の介護をできなかった悔しさを正直に話した。高野施設長は「明日からでも来てほしい」と言ってくれたが、様々な手続きの関係上、須崎理事からは翌週からの出勤を認められ、即、採用が決定したのである。
 本当に自分にできるのだろうかと不安になりながらも、一方では就職が決まった喜びで心ははずんだ。

 午後はコンビニのバイトで、店長にバイトを辞めたい旨を話した。最初は「あなたのようにテキパキと動き、細かな所に気の付く店員をなくすのは大きな痛手だ」と言って渋ったが、百恵の決意に承諾せざるを得ない様子で、「あなたがそちらの職場に行くまでに、新しい人員をなんとかしよう」と、納得してもらった。
 思えば、最後の遅番の勤務である。
 九時も近づくと、百恵の心である男のことが気になりだした。
 「もうあの男性に会えなくなるのか……」
 一抹の寂しさは、百恵の心を動揺させた。「今日は大樹君と一緒かしら……、最後にお名前を聞こうかしら……、何か一言でいいからお話ししたい……」あれこれ考え出すと、それはため息となって口からこぼれた。
 男が来たのは、百恵が勤務を終えようとする十時近くの事だった。彼の脇には子どもはいなかった。このまま会わずに帰った方が、どれだけ気持ちが楽だったか。百恵はいつも通り「いらっしゃいませ!」と言った。
 男はいつもの通りカップラーメンを取ると、ビールとプリンを選んでレジに持ってきた。「奥さんと食べるのかしら……」ふと心で思った時、「煙草も下さい……、いつもの」と、咄嗟にマイルドセブンを差し出すと、肝心な事はついには言えず、
 「七百五十二円になります」
 男は財布から丁度の金額を取り出すと、「はい」と言って百恵に手渡した。男はレシートも受け取らず、何も言わずに去っていった。
 「またおこし下さいませ!」
 マニュアル通りの言葉が、これほど冷たく感じたことはない。