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(十三)結託
 須崎理事長のデスクの電話が鳴った。それを無愛想に取った須崎は、「はあ、はあ」と何度も繰り返しながら、「どちらさん?」と大きな声で言った。
 「林弁護士事務所?弁護士さんが何の用です?」
 しばらく会話をしているうちに、須崎は小声になっていった。
 「この間のスキャンダル記事を雑誌社に持ち込んだのはあなたですね?隠してもダメです。ちゃんと裏は取ってある。なあに、心配はいりませんよ。私も山口医院の院長先生には大きな借りがある者で……。ちょっとお会いしてお話がしたいのですが、お時間をいただけませんか?けっして悪いようにはしませんよ」
 「何の話ですか?」
 「一緒に借りを返そうと言っているんです。詳しくはお会いしたときに話しますよ」
 そうしてその日の夜に会う約束をした須崎は、考え事をしたままの姿勢で電話を切ったのだった。

 その日の百恵は遅番だった。新婚旅行中の七瀬の代わりの業務も担い、合わせてトメじいさんの部屋でひと悶着あったから、一日中息もつかせないほどの忙しさだった。
 出勤一番、後輩の「モモ先輩、助けて!」という言葉に連れられてトメさんの部屋へ行ってみれば、見舞いに来た奥さんと大騒動になっていた。
 「お前!俺の知らない間に浮気しやがって!いったい昨日の晩はどこへ行っていたんだ!」
 トメさんは叫ぶが早いか奥さんの恵さんに殴りかかったのである。
 「あんた!気を確かにしてよ!あたしはどこへも行ってやしないよ!」
 「じゃあ、あの男は誰なんだ?お前、手を引かれて出ていったじゃないか!」
 近年、トメさんの痴呆は悪化していた。介護のたびに「どうも、うちの妻が浮気しているらしい」とぼやくのを何度も口ずさむようになっていたのである。どうやら夜中に妄想にとらわれ、現実との区別がつかなくなっているらしいのだ。
 「トメさん!奥さんがそんな事するはずがないじゃない!昨日も夜遅くまでトメさんの世話をしていたのよ。私、知ってるのよ!」
 百恵は咄嗟にトメじいさんの身体をおさえて暴力を止めた。
 「やい!離せ!これは夫婦の問題だ!あんたは関係ないだろ!」
 トメじいさんは力任せに百恵を押し倒すと、再び妻に襲いかかった。慌てて駆け付けた男性介護スタッフがトメじいさんをおさえたが、
 「貴様が浮気相手だな!」
 と、今度はその男性介護スタッフが標的になってしまった。てんやわんやの大騒ぎの末、ようやく疲れておとなしくなったトメさんは、看護士の持ってきた精神安定剤を服用して、やがて静かに眠りについたのである。
 妻の恵は疲れ果てたように百恵に相談を持ちかけた。入所相談室に移動した二人は、重い空気の中で話を進めた。
 「なんせ警察なんてお堅い職業に就いていましたから、昔から表面上は厳格な人でした。でも、過去に何度か浮気をしたんですよ。本人は、私は知らないと思っていましたけど、全部お見通し。根は助平衛なんですよ……」
 恵は大きなため息をついた。
 「やっぱり!私もよくお尻を触られました!」
 思いつきで喋った言葉は、重い空気をいっぺんに転換させていた。それを肌で感じると、
 「本来ならセクハラで訴えられるところですけど、なんだかトメさん、憎めなくて……」
 あどけない百恵の言葉に、恵は笑い出した。
 「馬場さんて、楽観的なんですね」
 「よく言われます。楽観的じゃないと、こんな仕事やってられないんです。重度のアルツハイマー病の介護者だって、きっと良くなるって、私、信じてるんです。医学的に快復の見込みがないといったって、それは医学上の問題であり、人間の可能性ってそんなものじゃ測れないって思います。きっとトメさんも良くなりますよ!」
 精一杯の励ましは、恵の心を明るくしていた。
 「そうでしょうか?なんか馬場さんと話をしていると、本当にそうなるような気がします。きっと、あれでしょうね。自分がしてきた浮気が、ボケた今になって妄想となって出てきたんでしょうかね?」
 「そうかも知れませんね。でも、もしそうだとしたら、昔の事を思い出したってことでしょ?いい事じゃないですか!どうか、お気を落とさずに。私も介護の立場からしか関われませんが、絶対良くなるって信じて接してますから!」
 やがて恵を見送った百恵は、小さな自責の念に駆られていた。それは、トメさんの痴呆が良くなる確証などないくせに、まるで良くなると断言した口調で話をしてしまった事である。しかし希望のある介護と、ない介護とでは、前者の方がより価値があると信じて疑わなかった。事実はどうあれ、介護に疲れ果て、暗い気持ちで生きるより、少しでも希望を見いだして、楽観的に生きる方が幸せであろうと思うのである。当事者の苦労も知りつつ、そう生きる介護人生の中に、事実を超える人間の真実があると思うのだ。
 百恵は、「間違いない、間違いない」と心で呟きながら、いつまでも彼女の後ろ姿を見送った。

 ちょうどその頃、長野市街のとある料亭で、二人の男が会っていた。二人は名刺を交わし合うと、酒と料理を前にして、小声で密談を始めた。
 「単刀直入に申し上げます。お呼び立てしたのは他でもない。山口医院の院長を一緒に干そうという相談です。どういう経緯があるか存じませんが、須崎さん、あなたもあの先生には恨みがある様子だ」
 男は美津子の現夫である林武に違いない。
 「実は私も同じ口でして、以前担当した医療裁判で二度までも、あの山口による反証で敗訴に陥れられました。まあ、恨みの理由などどうでもいい。ここは手を組んで一緒に恨みを晴らそうという相談ですよ。いかがでしょうかね?」
 須崎は林と名乗る男に目を細めた。
 「面白そうな話だが、何か妙案でも?」
 「まあ、一献やりながら、ゆっくり話しましょう」
 武は須崎の盃に酒を注いだ。それを飲み干した須崎は、盃を武に返し、酒を注いだ。
 「あなたの恨みも相当のようだ。商談成立というわけですな……」
 武はそういうと注がれた酒を飲み干した。二人は不気味な笑い声をあげた。
 「聞かせてもらいましょう、その策を」
 「まあまあ、そう慌てず。まずは料理でも食べましょう」
 二人は世間話などしながら、お互いの腹を探り合うような口振りで、暫く話し込んでいたが、やがて武が本題に入り始めた。
 「ここ数ヶ月中に奴は医療ミスを犯す」
 「ほう……、どういうことですかな?」
 「私の娘が看護士としてあの医院に潜んでいる。実は血のつながらない娘です。何を隠そう、奴の実の娘だ。恥ずかしい話ですが、私の妻は奴の前妻でして……」
 「これはこれは、夫婦揃ってお恨みとは、愉快、愉快……」
 「娘は幼い頃から手なずけておりますから、私や妻の言うことなら何でも聞きます」
 「ほう……」
 「医療ミスを犯したら、直ちに私はその被害家族に取り込んで、あらゆるマスコミを使って騒ぎ立てます。あなたにしてほしい事はその後です」
 武はさき程のスキャンダル記事が掲載された雑誌を広げると、
 「医療ミスで世間が騒いでいる中へ、これと同等のものを雑誌社にたれ込んで頂きたい。奴に追い討ちをかけるのです。なあに、でっちあげでもいい。“医療ミスで騒がれている最中、反省の色ひとつ見せずに逢い引き”という具合に、奴の信用をガタ落ちにさせるんです。この間のスキャンダル騒ぎもあるし、きっと奴は、二度と立ち上がれないでしょう」
 須崎はにんまり笑った。
 その日、その料亭の一室から漏れる明かりは、夜遅くまで消えなかった。