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(八)スキャンダル
 その日遅番で仕事に就くと、周囲の人の視線が妙に気になった。不審の眼差しというか、気兼ねしているというか、百恵と目が合った瞬間、まるで汚らわしいものでも見てしまったかのような表情で視線をそらすのである。ある者は壁の陰に隠れるようにして百恵の姿をのぞき込みながら噂話をする様子がうかがえたり、信頼する後輩たちまでも、何か避けているかのような口振りだった。そんな空気は職場にきて三十分もしないうちにすぐ分かる。さすがに気になった百恵は、三年下の後輩を捕まえて、「何か私を避けてない?」と聞いてみた。
 「い、いえ……、別に……」
 後輩は逃げるようにしてどこかに行ってしまったのである。
 そんな時、トイレの前を通りかかると、今日は早出残業だった七瀬が小声で百恵を呼んだかと思うと、人目をはばかるように手を引いて、彼女を女子用トイレの中に連れ込んだのだった。その表情はとても心配そうに見えた。
 「光ッチまで……、いったいどうしちゃったの?私、わけ分からない」
 「どうしたの?って、あなたよくそんなに平然といられるわね……」
 七瀬は介護服のポケットから二つに折りたたんだ雑誌を取り出した。それはスキャンダル雑誌に違いなかった。コスモス園のロビーには、いわゆる三流と呼ばれる雑誌の類も無造作に置かれているのである。開いたページには一面を使って、暗闇に抱き合う男女の写真が掲載されていたのだ。見出しを見て言葉を失ったのは当然の事だった。
 『介護施設統合の立て役者“山口浩幸”夜の顔!お相手は同施設勤務二十八歳美形』とあるではないか。写真の“二十八歳美形”を指す女性は紛れもない、どう見ても百恵の横顔に相違なかった。
 「ねえ、ねえ、この日って菅平で研修があった日でしょ?どうりで……、スキーに誘っても来なかったのは、こういう事だったのね?」
 「ちょ、ちょっと待ってよ。違うわよ!」
 百恵は血相を変えて記事を目で追った。
 『山口浩幸(四十二)は、本年秋に予定される老人介護施設コスモス園と山口脳神経外科医院統合の立て役者。介護の未来形を模索する理想の介護医療実現のため、様々なマスコミにも取り上げられ、美談ばかりを並べてきた聖職者……?と思いきや、実は過去に二度の結婚に失敗してる天下の女ったらしなのだ。写真のお相手は十四歳も年下の同介護施設勤務二十八歳の美女。一月中旬の長野県は菅平。介護員研修を名目に行われたホテルの駐車場でそのラブラブ振りを見せてくれた。降りしきる雪の中、二人は時間を忘れていつまでも抱き合っていた。………………』
 とんでもない報道に驚きながら、浩幸を陥れようとする悪意がまざまざと見てとれた。ところが一方では、浩幸と自分が祭り上げられている内容にある種の喜びがあった。まるで人ごとのように写真を見れる自分がいて、「額に入れて飾っておこうかしら」と本気で思うのだった。
 「これ、本当に私……?」
 「なに言ってるのよ、この髪のまとめ方はモモに違いない。それにここ見て、後の方に映ってる車。これ私の。だって窓にプーさんがぶらさがってるでしょ。これはあの日の晩の菅平に間違いない!まさか自分じゃないとでも言い張るつもり?」
 「一体、誰が撮ったんだろう……?」
 「そういう問題じゃないと思うけど!ここにこうしてあなたと山口先生が映ってるって事が問題でしょ?」
 「でも私たち、いけない事は何もしてないわ……」
 「だからそういう問題じゃなくて……、なんて言うかな、この時期、ものすごい大事な時なのよね。コスモス園の統合にしても。いわば山口先生は私達の親分になるわけでしょ?その親分がスキャンダル起こしたなんて事になると、大問題なわけ。分かる?信用問題よ。このままいけば、山口先生、降ろされるわよ」
 「ええっ?本当に……?私、どうすればいい?」
 「それが問題よ……」
 七瀬と百恵は顔を見合わせながらため息をついた。暫く無言が続いたが、やがて、
 「私ね、モモの事が心配なのよ……」
 七瀬がつぶやいた。
 「モモがね、山口先生のこと好きなのは分かる。でもね、このままじゃ二人ともダメになっちゃう……」
 七瀬の瞳には涙がたまっていた。
 「ありがとう、光ッチ……。でも、私はぜんぜん平気よ。心配なのは山口先生……。先生は見送りはいいと言ったのに、私が無理に車までついて行ってしまったの。だからこんなふうに……」
 「もし、モモが仕事辞めるような事になったら、私も辞めるからね……」
 「光ッチ……」
 百恵は七瀬の涙にもらい泣きしていた。
 「大丈夫よ!心配ないってば!」
 とは言ったものの、その日は一日中陰険な重い空気の中で仕事をしなければならなかった。どんな言い訳をしようと、あの日浩幸に抱きついたのは事実だった。非があるとすれば自分が百パーセントで、浩幸には何の咎もないではないか。万一、彼が役職を下ろされるような事態に発展したとなれば、その責任は全て自分にあるではないか───。そう思うと矢も楯もたまらなくなった。仕事も手につかず、就業時間が終わって気づけば、百恵は浩幸の自宅の前に立っていた。
 玄関のインターホンのボタンを押すのに、どれほどの勇気が必要だったことか。出てきた浩幸の表情は笑っていた。そして、百恵は十畳ほどの居間に通されるとソファに座った。既に十一時も近いというのに、そこでは大樹がお気に入りのゲームに夢中だった。
 「こら、大樹、あいさつしなさい!」
 大樹はゲームをしながら「こんばんは」と言った。
 「まったくゲームばかりしているんですよ、こいつは……。コーヒーでいいですか?」
 浩幸はメーカーに水を注ぐと、コーヒーを沸かしはじめた。
 「すみません、こんな遅くに……。しかも突然……」
 百恵が言った。
 「あの雑誌の事でしょ?今日一日中、電話が鳴りっぱなしでした。その対応だけで一日が終わってしまいましたよ。ここに来たのを誰かに見られませんでしたか?」
 百恵はハッとすると、「ごめんなさい!そんな事まで頭が回りませんでした」としょぼくれた。
 「いいです、いいです。雑誌に一度出てしまったものは、二度出ようが三度出ようが同じ事です」
 浩幸は二つのマグカップにコーヒーを注ぐと、ひとつを百恵の前のテーブルに置き、「大樹いいかげんにもう寝なさい!」と言いながら向かいに座った。
 「こら、大樹!言う事を聞かないとそのゲームを取り上げてしまうぞ!」
 「あと五分、あと五分……」
 大樹の言葉に、百恵は「そのゲーム、楽しそうね」と言った。
 「でも、明日学校でしょ?寝床が嫌なら、お姉ちゃんのところにおいで……」
 百恵は両手を広げて大樹を見つめた。大樹は暫く百恵と見つめ合った後、ゲームをやめて百恵の胸に抱きついたかと思うと、ものの一分もしないうちに静かな寝息をたてはじめた。その一部始終を見ていた浩幸は、驚いた表情で「現金なやつだ」と苦笑した。
 「大きくなりましたね……」
 大樹を抱きしめながら百恵が呟いた。
 「年が増える毎に生意気になる。最近はことのほか手をやく……」
 浩幸は煙草をふかしながらコーヒーを飲んだ。
 「どうですか?雑誌に出た気分は?」
 浩幸はいきなり本題に入り始めた。
 「僕はともかく、馬場さんの事が心配でした。落ち込むのは当然です。こんな事をする人間はだいたい目星がついていますがね……」
 それを受けて百恵は胸の内をいっぺんに告げた。
 「私が全部いけないんです!先生は何も悪くない!私、雑誌の出版社にかけあって真実を全部話そうと思います。それでダメならコスモス園を辞めて責任をとります!もし、先生が辞めるなんて事になったら、私、もうどうしていいか分からない!」
 その声に反応して、大樹が首の向きを変えた。浩幸は「貸して」と言って大樹を抱き上げると、そのまま寝室に連れていって戻ってきた。
 「出版社に行ったところで相手にはしてもらえませんよ。彼等は面白ければ何でも記事にするんです。商売ですから。それに馬場さんが辞める必要はない。貴方のような有能な介護員を失うのは大きな損失です。いいですか、ただでさえ僕をよく思わない人が大勢いる。だから、今回の事業で揚げ足をすくおうという人間がいたってけっしておかしくない。彼等にとってはスキャンダルなんて常套手段なんですよ。僕を陥れるのにかっこうの材料じゃないですか。三流雑誌がよく使う手口だ。今でなくともいずれでっち上げのスキャンダル事件のあらすじを考えたでしょう。たまたま今回は運悪く、その相手が君だった……。それだけの事です」
 「それだけのことって……」
 「だが、相手が君だった事で、僕にとっては苦しい立場に追い込まれた。“愛”とかじゃないけど、僕は君の事が好きになってしまったようだ……」
 「せ、先生……?」
 「僕はこんなことで挫折するような人間じゃありません。かといって僕が統合後の法人の代表をおりなければ世間は納得しないでしょう。君も辞めない、僕も辞めない秘策……」
 「───そんなこと、できますか?」
 浩幸はコーヒーを再び飲んだ。
 「貴方も飲んでください。せっかく入れたんですから」
 百恵は「はい、いただきます」と言ってコーヒーカップを口にした。
 「僕と結婚しましょうか?」
 百恵は口に含んだコーヒーを吹き出して咳こんだ。
 「二十年前の僕の答えではありませんが、僕たちが結婚するとなれば万人が納得しますよ。二人とも辞める必要はなくなる。それに馬場さんは永遠のアイドル“山口百恵”になれます。……それとも、愛のない結婚は嫌ですか?」
 百恵は返答に窮した。これほど愛した男性に突然結婚を突きつけられた時、思わぬ躊躇が湧いて出たのである。心の整理もできていないままの心境で、百恵に即答する勇気はなかった。それに百恵の中では“結婚”というものは、お互いが愛し合っているというのが大前提の行為であると信じていた。それを状況がそうなったからといって、浩幸の愛も確認できないまま結婚するとは、既成概念には全くなかった事といってよい。
 浩幸は急に笑い出した。
 「冗談ですよ、冗談───」
 百恵は安堵した半面、即答できなかった自分に後悔しながら肩を落とした。
 「人の噂も七十五日と言うじゃありませんか。ほとぼりが冷めるのを待ちましょう。それしかありません」
 浩幸は一連の事件を人ごとのようにあしらうと、残りのコーヒーを飲み干した。