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痴呆の都
> 第2章 > (三)かわらぬ思いとプロポーズ
(三)かわらぬ思いとプロポーズ
“オレオレ詐欺”の騒ぎが、様々な機関やマスコミなどの働きかけによってようやく鎮まってきたかと思えば、今度は“悪徳リフォーム”の話題が盛んに取り沙汰されていた。いずれも高齢者の弱みにつけ込んだ巧みな話術を利用したお金を騙し取る事件である。日本経済全体の景気は上向き傾向にあったとはいえ、庶民の実感としてはけっして生活が楽になったと感じるレベルではない。雇用状態の悪さから職にも就けず、また債務返済で生活に困ったあげくに犯罪に手を染めた人のなんと多いことか。若者世代の動機不明瞭な犯罪の増加と並行して、社会問題はますます増加しているように見えた。
特に百恵には、社会的弱者と呼ばれる高齢者を食い物にし、お金を騙し取る輩には腹が立った。コスモス園においても通所サービスを受ける一人暮らしの老人が、すんでのところで“振り込め詐欺”にひっかかりそうになるケースがあった。その時は介護スタッフの迅速な行動でなんとか免れることができたが、最近では介護スタッフといえど介護知識だけでなく、そのような犯罪に巻き込まれないための知識も必要になってきているのだ。朝の朝礼当番だった百恵は、一言その事に触れて話を締めた。
俊介から電話があったのは、昼食を済ませて七瀬とコーヒーを飲んでいる時だった。
「今晩、会えない?」
いつもの誘い文句の中に、少し緊張した様子が感じ取れた。百恵は少し気になったが、「分かったわ」と答えた。苦しいときも、いつも近くに俊介がいた。百恵の心に別の男がいるのを承知で、彼はずっと彼女の心が自分に向くことを待っているのだ。そんな健気な俊介に対して、たまに無性に心が痛む時がある。浩幸の心が自分に向かない今となっては、俊介の思いを拒む事がいけない事のようにも思えてくるのだ。携帯電話を切りながら、
「だあれ……?新津さん?」
七瀬の言葉に頷いた百恵は、小さなため息をついた。
「もういい加減山口先生の事なんか諦めて、モモも新津さんと結婚しちゃえば?」
“モモも”の“も”の字が気になった百恵は七瀬の顔を見つめた。
「実は私、お見合いしたの。ちょっとダサイけど優しい人……。もたもたしてたら私たち三十でしょ。そろそろ年貢の納め時かなって思ってる……」
「結婚するの?」
百恵は驚いたように言った。七瀬は小さく頷いて、
「入所のおじいちゃんやおばあちゃんの話聞いてると、昔はほとんどがお見合い結婚でしょ。それでなんだかんだとやってきてるじゃない。もしかしたら第三者の引き合わせで一緒になった方が、客観的に二人を見ているからうまくいくのかも知れないわ。主観はどうしても感情が先に立っちゃうでしょ」
「私の思いも感情なのかな?」
「恋愛なんてみんな感情よ。何かの縁に紛動されて変わるものよ」
「教えて光ッチ、私、山口先生の事、あきらめられる?」
七瀬は微笑みながら頷いた。
仕事を終えて家に帰ると、百恵はちょっとオシャレをして俊介の連絡を待った。腕には以前彼からもらったホワイトパールのブレスレッドをつけた。大きなためらいがあったが、もうこれ以上自分のわがままで俊介を待たせるわけにはいかないという理性が働いたのだ。もし浩幸の気持ちが少しでも自分に向いていてくれるなら、それは“わがまま”にはならなかったが、そうでない上に俊介が嫌いでない以上、何年も自分の事を待ってくれている彼に対して、わがままの次元に達している事を感じていたのだ。七瀬の結婚の話も助けて、百恵はついに浩幸を諦める努力をしてみようと決心していた。
俊介と入ったのは長野市街にある中華料理の店だった。「中華なんて珍しいわね」と百恵が言うと、「今日は給料日だったんだ。好きなものを何でも食べて。俺のおごりだからさ」と彼は笑った。
酢豚に海老チリソースにフカヒレスープ、北京ダックに麻婆豆腐、あとは野菜炒めとチャーハンなどを俊介は適当に選んで注文すると、最初に運ばれてきた飲茶を飲んだ。
「そんなに食べられないわ。どうするのよ」
「いいの。時間をかけてゆっくり食べれば。多分、時間をかけないと俺、話せないから」
百恵は首を傾げた。それにしても百恵の腕のブレスレッドを見つけてからの俊介は、始終嬉しそうだった。会社での出来事や大学時代の仲間の近況を陽気に話す。一通りの料理を一口ずつ口にすると、百恵はすぐにお腹がいっぱいになってしまった。
「もう食べられない。新津君、責任持って食べてよ!」
「わかってるよ」と意気込んで食べる俊介も、さずがに全部は食べきれず、野菜炒めとチャーハンを残すとお腹をおさえて大きなため息をはいた。その様子を見て百恵は笑い出した。
「なんだか久しぶりに見るな、百恵のその笑顔……」
俊介は精算を済ませると、「食べ過ぎた。少し歩こう」と言って、須坂に戻るとがりょう公園に車を止めた。
二人は暗がりの池のほとりをゆっくり歩き、池を渡すがりょう橋の中央で立ち止まった。
「この池は人工の池なんだよ、知っていた?」
俊介が暗い水面を見ながら言った。百恵は「えっ?」と呟いた。浩幸にがりょう山の伝説を聞いてから、山を見れば「この山は竜になったりょう姫の体なんだ……」、百々川を見れば「竜の吐いた息と血のせいで石がみんな赤いんだ……」と思い込むようになっていた自分がいたのである。
「この池は竜が暴れた時にできたんじゃないの?」
「え?何のこと……?」
俊介は不思議そうに百恵の顔を見つめた。
「知らないの?がりょう山の伝説……」
百恵は大切にしまっておいた物語を俊介に伝えようとしたが、「なんでもない……」と池を見つめた。すると、
「いつまで待てばいいかな……?」
と、俊介も池を見つめてぽつんと呟いた。百恵は悲愴な彼の顔を見つめた。
「まだあの先生の事、忘れられない?」
俊介は内ポケットから小さな箱を取り出して百恵に渡した。
「実は今日、俺、百恵にプロポーズしようと思って誘ったんだ。開けてみて……」
箱を開けばそこに小さな指輪が光っていた。
「新津君……これ……?」
「婚約指輪のつもりだよ。ううん、今しろなんて言わない。百恵の気持ちが整理できてからでいいんだ。だけどその指輪は、それまで百恵に預かっていて欲しいんだ……」
百恵は俊介に対する申し訳なさで涙がにじみ出た。そして静かに左手を俊介の前に差し出した。
「新津君、ごめんね……。私、山口先生の事諦めようと思ってる。でもね、先生の顔を見てしまうと胸が苦しくなってしまうの……。でも新津君、私の心の事はもういいから、この指輪を強引にはめて……。そうすれば私、諦めがつくかも知れない……」
「百恵……」
俊介は困った顔をしたが、やがて指輪を取ると、百恵の白い左手の薬指にゆっくり差し込んでから、その細い身体を強く抱きしめた。
この世は痴呆の都───
やがてすべてを忘れてく
盛んに人生を生きたって
楽しい事も 嬉しい事も
苦しみも悲しみも
この住み慣れた街も 家さえも
年老いればその全てを忘れてしまうのだろうか
親しく遊んだ友達も姉弟も
お世話になった人もみな そして───
愛した人さえも
もしかしたら私が生きていたこの事実さえ
やがて人の心から消えていくのかしら
そんな人たちが住んでる ここは都会
翌日は水曜日で、百恵はその指輪をしたまま仕事に行った。仕事の浩幸はいつものように、淡々と診察者の身体を診察しながら、百恵にはまるで無頓着な様子でカルテに状況を書き込むのだった。百恵は左手の指輪を右手で覆い隠すようにして、じっと浩幸の顔を見つめていた。
この日は、もう一つ嫌な仕事が残されていた。それは先日入所相談に来た小林と名乗った男に入所不許可の連絡をしなければならない事だった。その事については七瀬ともだいぶ議論もしたが、結局自分達の力ではどうにもならないという結論を導き出すしかなかった。結局電話をしずらくて、受話器を取ったのは早番で帰ろうとする間際の事だった。七瀬は百恵の肩を叩くと、そのまま帰ってしまった。
「もしもし、小林様のお宅でしょうか?私、コスモス園の馬場ですが、先日の入所相談の件でお電話したのですが……、たいへんに申し訳ありません。私の力不足で許可が下りませんでした……。本当にすみません!」
男は電話口の向こうで、「そうですか……」と小さく呟いて電話を切った。百恵はやるせない気持ちを押し込めて、受話器を置いた。
晴れない気持ちのままで屋上へ上がった。どこまでも青い秋の空は、ほんの少しだけ彼女の心を慰めた。椋鳥の群にはっと我に返ると、近くに浩幸がコーヒーを片手に煙草を吸っていた。今日は水曜日である事をすっかり忘れていたのだ。この時間帯は必ず彼が煙草を吸いに来るのを知っていたから、極力屋上には近づきまいとしていたのだが。百恵は慌てて、「ごめんなさい。おやすみなさい───」と立ち去ろうとした。
「そんな慌てて逃げなくてもいいでしょ?」
百恵は立ち止まった。浩幸は煙草の煙を吐きながら「この季節の空は気持ちがいいですね」と言った。
「先生、あの、私……、結婚しようかって思ってます」
百恵は浩幸に対する恋愛感情を自ら断ち切るために、そう言った。
「それはおめでとう。診察の時もそうでしたが、貴方の左の薬指に指輪が光っていたので、もしかしたらって思ってました」
浩幸は煙草の火を消すと、もう一本取り出して再び火をつけた。
「相手が誰か気になりませんか?」
「どうして?貴方の相手は、僕以外であれば誰でもいいと思ってましたから」
「そんなに私の事、嫌い……?」
「嫌い?どうして?そんな事を言った覚えは一度もありませんよ。ただ、貴方のような純粋な心の女性を、僕のような薄汚れた男の手によって汚してはいけないと思っただけですよ。でもよかった……。どうか幸せになって下さい」
百恵は「さようなら」と言い残して浩幸の前を立ち去った。
浩幸は青い空に向かって、白い煙草の煙をゆっくり吐き出した。
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