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(十五)心の痴呆
 早番が終わり、帰ってから少し眠ろうと考えていた百恵の携帯電話が鳴ったのは、家に着いて車を降りた時だった。
 「夕方、ちょっと会えないかな?」
 声の主は大学のサークル仲間の彩香で、電話では話しずらいと言うので、仕方なく駅前の喫茶店で会う約束をしたのだった。あの日から一週間が過ぎようとしていた。仕事仲間の七瀬とはあれ以来お互いを気遣って、浩幸の話も山中の話も出さないようにしていた、そんな折りである。
 「なあに?急に呼び出して。こっちは早番で眠いんだから」
 店内にはヴィバルディが流れていた。運ばれたモカにミルクを流しながら百恵が言った。
 「ごめん、ごめん。モモには言っておこうと思って……」
 彩香は少し笑みを浮かべた表情で、言いずらそうにモカを一口飲んだ。
 「言わないなら私、帰るわよ」
 彩香はもう一口モカを飲むと、バックからセーラムライトを取り出すと火をつけた。百恵は顔の前にきた煙を右手で払いながら、「煙草やめなさいよ」と言った。
 「実はね……、しちゃった……」
 突拍子もない彩香の言葉に、左手で鼻を押さえながら百恵の右手が止まった。
 「“しちゃった”って、なにを?」
 「何をって、その……あれよ……エッチ……」
 一瞬、百恵の頭が真っ白になった。
 「まさか、相手は山中さん……?」
 彩香は嬉しそうに笑いながら頷いた。思わず百恵は「バカ!」と叫んだ。
 「なによ、いきなり!モモなら『頑張ってね』って言ってくれると思ったから話したのに……。あ〜あ、言って損しちゃった!」
 彩香は先日のゴーコンから現在に至るまでの経緯を照れながら話すと、最後に「応援してね」と呟いた。百恵は返答に窮したまま、
 「なんでよりによって山中さんなのよ!それに物事には順序ってものがあるでしょ、どうしていきなりそうなっちゃうわけ?」
 と、その場にいたたまれなくなり立ちあがった。
 「ちょっと待ってよ。そんなに興奮して怒ることないじゃない。出会って最初にエッチくらいしたっていいでしょ。それともなあに?モモは山口百恵の『ひと夏の経験』、信じてるんだ?」
 「何よそれ!」
 「“♪あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ”って。今時、貞操もなにもないでしょ。それともひょっとしてモモ、新津君とまだしたことないの?」
 図星の表情に「だから怒ってるんだ」と、彩香は笑い出した。百恵は「帰る!」と言ったきり、「ちょっと待ってよ」と言う彩香の言葉を振り払って店を出た。
 翌日は、七瀬に会わせる顔がなくて、スタッフルームへも入ることができなかった。仕事ならいくらでもある。休憩をとろうと思わなければ出勤から退勤まで働き通す事もできる。百恵は介護の手をフル稼働させながら、頭では彩香の事や七瀬と山中の事を考えていた。

 もとを正せば、私が山中さんと彩香を引き合わせたのがいけなかったのよね。あ〜あ、光ッチには何て話せばいいんだろう……。それにしても会ってすぐに肉体関係を持つなんて許せない。彩香も彩香だけど、山中さんも山中さんよ!でも、それって、みんなしている事なの?世の中では当たり前の事なの?私が変なのかしら?

 「モモ、今日はやけに忙しいのね」
 七瀬の声につかまってしまったのは、お手洗いを出て、その日はお誕生会の準備当番だったので、その準備のため食堂へ向かう途中だった。
 「どうしたの?なんだか私を避けているみたい……。何かあった?」
 七瀬の不満そうな声に「そんなことないわ。今日は忙しくて……」と歩き出す百恵の腕を、七瀬は離そうとしなかった。
 「ごめんね、光ッチ……私……」
 しかし、どうしても次の言葉が見つからず、百恵は七瀬の腕をはずすと、そのまま小走りに食堂へ行ってしまった。不審そうに首を傾げる七瀬は、やがて百恵とは反対方向に歩き出した。
 食堂ではリハビリスタッフの数人が、お誕生会の飾り付けを進めていた。その中に山中もいて、百恵の姿を見つけると親しそうに寄ってきて、「この間はどうも」と軽く肩を叩いた。百恵は軽い笑顔で返したが、心の奥で軽蔑の念が湧いているのを感じていた。百恵は丸腰の指示に従いながら、机や椅子を移動させたり、次いで配膳の準備に取りかかった。
 そうこうしているうちに、食堂に事務職員の大塚という男がやってきて、それに合わせて丸腰が「百恵さん、ちょっとこれやっていてくれる?」と、皿にケーキを盛る仕事を言いつけて行ってしまった。百恵は気にもしないで仕事を続けていると、山中がつかつかと百恵の脇に寄ってきて、
 「あの二人、知ってる?」
 と、小声で言った。百恵がぶっきらぼうに「何ですか?」と言うと、山中は少し意地悪そうな顔付きで、
 「何でも不倫してるって噂だよ」
 と言った。百恵は驚愕した。丸腰といえば、コスモス園に勤めはじめてから、何も知らない介護の仕事のいろはを丁寧に教えてくれた尊敬する先輩である。三十路の独身であることは知っていたが、事務の大塚といえば四十代半ばの妻子ある男ではないか。百恵は「うそでしょ……」と笑うより仕方なかった。
 「嘘なもんか。だってみんな知ってるよ。何なら七瀬さんにも聞くといいよ」
 丸腰が戻ってくると、山中は慌てて持ち場に戻ってしまった。百恵は言葉を失ったまま上目遣いに丸腰を見れば、心なしか先程より浮かれた様子の彼女を知る事ができた。
 誰かがつけた食堂にあるテレビのニュースでは、どこかの中学教師が教え子である女子生徒を暴行して捕まったという報道がされていた。百恵の頭は混乱していた。

 いったい何が正しくて何が間違っているの?これじゃ、道理も倫理もないじゃない!もしかして、みんな痴呆症?この世の中の人すべてが痴呆症かしら……?そう、心の痴呆───。
 彩香も───、山中さんも───、丸腰さんも───。
 いいえ、あの人も───、この人も───、テレビに映ってる彼も彼女も───。みんなみんな心の痴呆症にかかっているんだ。
 みんな何かを忘れてしまって、どんどん大切な事を思い出せなくなって、だからどんどん悲しい事件が起きているのよ。神戸の十四歳の少年が小学生を殺害した酒鬼薔薇事件をはじめ、佐賀でのバスジャック事件、大分の一家六人殺傷事件、豊川市の主婦刺殺事件に、長崎での十二歳の少年が幼児に性的いたずらを加え、高所から突き落として殺害した事件───。青少年の犯罪総件数は減っているっていうけれど、その分凶悪な犯罪は増えているでしょ。もしかしたら表面に出てくる犯罪が減った分、潜在的な犯罪は倍増しているんじゃないかしら。だって、正しい事といけない事、私にだって分からない。分からなくなってしまったの。これって犯罪につながるって事よね。そんな大人達が正しい事を、子どもたちに教えられる道理がないもの。
 もしかして人間なんて、本能のおもむくまま生きていればいいのかもしれない。だって現に私だって、好きになってはいけない男性を好きになっているじゃない……。痴呆よ、心の痴呆……。現代社会が生み出した大きな病気。どうすることもできないわ……。

 勤務時間を終了すると、百恵は一人施設の屋上に立ち、まだ残雪の残る北信五岳を見つめた。北信五岳とは、信州北信地方では西側に見える山並みの総称で、須坂からだと南から戸隠山、飯綱山、黒姫山、妙高山、斑尾山の順に眺望できる景観で、晴れた日には更にその南側に北アルプスを望むことができる。その風景の中で、百恵は大きなため息を落とした。
 「モモ」
 振り向くと七瀬が二人分のコーヒーを持って立っていた。
 「まだ車があったから施設内だと思って……。ずいぶん探しちゃった……。何考えてるの?」
 百恵は渡されたコーヒーを「ありがとう」と受け取ると、何も言わずにベンチに腰掛けた。
 「なんだか私、分からなくなっちゃって……」
 「何が?」
 「私、痴呆高齢者を相手にするようなこんな仕事はじめちゃったけど、ほんとは痴呆なのは私の方じゃないかって……。いいえ、私だけじゃない、痴呆高齢者を介護する人たち、もっといえば痴呆老人を生み出した社会全体が心の痴呆症にかかっているんじゃないかって……」
 「心の痴呆か……。なんだか様子が変だと思っていたら、そんな事考えていたの?」
 「丸腰先輩、不倫してるって本当?」
 百恵は耐えかねて質問した。
 「誰から聞いたの……?私も単なる噂だって信じたいけど、ホテルから出てくるところを見たって人もいる……」
 「そうなんだ……。尊敬してたのに、なんだかガッカリ……」
 「まあ、あまり気を落とさないで。生きていれば良い事もあるわよ」
 「本当に良い事なんてあるのかしら……」
 百恵は中庭で散歩する老人の姿を見ながら言った。
 「モモ……、なんだかおかしいわよ」
 「そう、おかしいの。昨日まで信じることができた人が急に信じられなくなったり、自分の事すら分からなくなったり……。ねえ、山中さんの事だけど、諦めた方がいいかも知れない」
 「なによ、急に」
 「なんか、彩香とうまくいってるみたい……」
 瞳を曇らせた七瀬を正視できず、百恵は目をそらした。
 「なんだ、そういう事だったのか……。どうりでモモが私を避けていたわけね」
 「ごめんね、私が二人を引き合わせてしまったばっかりに……」
 「いいよ、いいよ、仕方がないじゃない。好きな男性が別の女性を好きなら、それを応援するしかないじゃない。恨んだところでどうなるわけでもないし、横恋慕のささやかな幸福……」
 「光ッチ……、強いのね……」
 「強くなんかないわよ。多分、半年くらい引きずるかな……。そうだ、モモが山口先生のこと好きなら、私、新津さんに迫っちゃおうかしら、優しそうだし、いいかも……」
 百恵は何も答えることができなかった。
 「冗談よ、冗談。でも私、モモには幸せになってもらいたいけど、新津さんを悲しませてほしくはないの。これ本心よ……」
 北信五岳の空はどこまでも透き通り、二人に冷たい風をおくっていた。