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ヴィジェ=ルブラン
 会社の出勤途中に保育園がある。慌ただしく動きだした一日、くすんだ社会に、なぜかそこだけ輝く。子供を送り届ける母の姿は、なんと微笑ましく、さわやかな透明感を孕んでいるものか。

 母に子があり、子に母はあり。その一枚の絵に描かれた母と娘の視線は、この麗しき愛情を見よとばかりに、優しく僕に微笑みかけていた───。

 一九九八年、パリ───。

 我が夫婦が新婚旅行に行ったのは、結婚して二年目の冬だった。本来ならば、結婚式を挙げてそのままハネムーンといきたかったところだが、その時お金がなかった。(今もないが……。)近か間のTDLで済ませたが、国内は思ったより費用がかさんだ。これなら、格安チケットを探せば、 グァム や 韓国 には行けたなと後悔しながら、しばらくは「海外にいきたいなあ……」という妻の切ない要望に頭を悩ます日々を送った。

 ところが願いというのは通じるもので、結婚して二年目の秋、なんと、妻が応募した「 アテネ ・パリの旅」格安ツアーが抽選で当たった。格安とはいっても当時の家計ではかなり高額だったが、願ってもないチャンスになけなしの貯金をはたき、滞在費を切りつめるだけ切りつめようという無謀な計画で、「行こう!」ということになった。

 フランスである。 パリである。金持ちで、何度も海外に行っている連中にはこの喜びは分かるまい。パリ市街の空気は、僕の芸術的感性に絶えず刺激を与えてくれた。死ぬならば、この街で死にたいとまで本気で思った。

 とにかく短い滞在日数だった。まともに見学すれば一、二週間はかかるといわれるルーブル美術館も、半日で回らなければならないという強行スケジュールだった。はじめは、新婚当初に戻って「ああでもない、こうでもない」といちゃつきながら仲良く見学する予定だったが、僕も見たいものがあり、妻も見たいものがありで、どうも歩調が合わない。いいかげん嫌気がさした二人は、何時にどこどこで待ち合わせようということになって、別行動をとることにした。今から思えば、言葉も通じない異国の地で、よくあんな大胆なことができたものだと感心する。

 僕は、特に「モナリザ」をはじめ、ルネッサンス期から印象派に至る絵画を中心に見て回りたかった。パリである。ルーブル美術館である。もしかしたら二度と来れないかも知れないと思うと、足はおのずと早足になった。今までの人生において、絵画を観賞する上で、あれほど充実した時間はあっただろうか?

 ちょうど、ロココの時代から新古典主義と呼ばれる画風に移り変わるところの辺だったと思う。一枚の絵に僕の足が釘付けにされた。

 「ヴィジェ=ルブラン夫人とその娘」───。

 当然、フランス語で書かれた銘板を読めるはずもなく、ただただ、その絵から放たれる気品と母性愛に魅せられて、呆然とその場にたたずむことしか知らなかった。

 セピア色の背景に、ギリシャ風の衣裳をまとった母娘。母の表情は娘に対して限りなく優しく、しかもその中には我が子を守ろうとする厳めしさを含み、しなやかな腕は、娘をきつく抱きしめているようにも見え、そっと包み込んでいるようにも見える。娘は無邪気に母親の頬に額をつけ、首にぎゅっとしがみついて無防備で無邪気な微笑みでこちらを見つめている…………。

 僕は妻の事など忘れて、しばし、その絵を堪能した。

 最初この絵は、モデルのルブラン夫人の旦那が描いたものだろうと思いこんでいた。よほど透徹した画家か身内でないと、これほどの母性愛を描けないのではないかと思ったからである。(まだ子供がいなかった僕は、生意気にそう思った。)ところが、帰国して調べていくうちに、あの絵はヴィジェ=ルブラン夫人本人が描いた肖像画であることが分かった。ヴィジェ=ルブラン───、十八世紀末にフランスで活躍した女流画家である。

 彼女は一七五五年の生まれ。肖像画家だった父に絵を学び、若いうちから絵の才覚が認められ、二十一歳の時、画商ルブランと結婚する。そして二十四歳の時に、あのマリーアントワネットに気に入られ、宮廷画家として迎えらるようになった。そしてその翌年、絵のモデルである娘のジャンヌを産んだ。まさにこの期間の彼女は、全てを幸運に変えゆく勢いがあり、わがままなマリーアントワネットには頭を悩ませたかもしれないが、我が家の生活とは比較にならないほど裕福だったろう。

 「ヴィジェ=ルブラン夫人とその娘」を描いたのは一七八九年、彼女三十四歳、娘ジャンヌが九歳に成長した時。母としての幸せの絶頂を一枚の絵に昇華させたまさにその直後、あのフランス革命が勃発するのだ。彼女の幸福は、その激動とともに崩れた。九十三年のルイ十六世とマリーアントワネットの断頭台、翌年には夫のルブランと離別。歴史的な絶対王政の崩壊とともに、彼女はフランスを後にする。その後、 ウィーン や ベルリン 、 ロンドン などで宮廷画家を続けたが、再びフランスに戻ったときは、すっかり彼女の存在は忘れ去られ、晩年は淋しく余生を過ごしたという。

 時代は変わり、人は変わる。男も、女も、ヴィジェ=ルブランの運命も例外ではない。しかし、あの一枚の絵の中に残された母と子の光彩だけは、どんなに時代が変わろうと、どんなに人が変わろうと、不滅の美しさをたたえていくに違いない。女性には、そんな不思議な輝きを放つ一瞬があるのだろう。

2000年2月15日