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1.留め置かまし者たち
幕末小説 『梅と菖蒲』
 そりゃもうたいへんなドンチャン騒ぎ。
 幕末志士の遊蕩ぶりときたら、大酒に大酒をあおって芸妓をはべらせ、三味に踊りに馬鹿笑い。ときたま怒声が鳴り渡ったかと思えば刀を抜いて、
 「お前は攘夷か?開国か?」
 と、いきなり斬り合いがはじまる始末。
 そんなことは日常茶飯事で、妓楼の女たちは「またか」とさほど驚く様子もなく、なにごともなかったかのように三味や太鼓を打ち鳴らす。いつ、どこで、誰に斬られるかなど知るか!という時代の革命の申し子たちの熱と力は、人斬りとか襲撃とか戦でなければ、そんなところで持て余すエネルギーを爆発させるしかない。
 後に幕末と呼ばれる世の有り様は、まさに”狂“の一文字に象徴される。
 歴史好きなら一度は学んでみようと試みるも、その時代背景や複雑に交錯する思想や思惑に翻弄され、結局理解できずに戦国時代の方へ学習の視野を戻してしまうケースが多いのではなかろうか。実は筆者もその口である。
 まず『攘夷』という言葉が解らない。これはもともと中国の言葉で、「攘」とは追い払う意、「夷」とは「夷狄=野蛮な異民族」のこと、つまり外国人を実力行使で排斥しようとする考え方である。それに対して「開国論」がある。最低限、これが判らなければ幕末物は読まない方がよろしいかもしれない。そういう筆者もにわか仕込みなのだから、本編も読者と共に学びながらという思いで進めよう。

 嘉永六年(一八五三)六月、アメリカのペリーが浦賀に来航して以来、それまで鎖国をしていた日本は見たこともない異人の登場に騒然とする。そのときアメリカは日本の開港を要求。翌年、江戸湾に再航したペリーは横浜において徳川幕府と、日本に不利な和親条約を結んでしまう。
 その出来事は世界の文明の発達による必然ではあったかもしれないが、世界というものにあまりに無知だった日本においては、それまでの徳川政権による安泰を根底から崩す空前未曾有の出来事となった。徳川二代将軍秀忠の時代に始まり三代家光の時代に完成した鎖国政策は、当初キリスト教禁止の名目で行われ、一部の港で中国(明朝と清朝)とオランダのみとの国交を許しただけだったが、その内実は外交や貿易の権限を徳川幕府だけに制限、管理しようとしたものである。ところがペリーの来航により、それまで二百数十年の国交断絶のツケが、大きな波となって一気に押し寄せてきたのである。それは同時に安泰の世で静かに成長してきた武家社会が音をたてて崩壊する時でもあった。
 そもそも徳川幕府は日本全土において実権を握る最高権力者であったが、日本という国の不思議は、日本書紀の昔からいつの時代においても頂点に必ず天皇が在していることである。他国の歴史を見ても国王や皇帝はいても、時代の趨勢や覇権争いによって必ず交替の時を迎えるのが常である。それに対して神代の昔から純粋な血筋を継承し続ける日本の天皇の存在とはいったい何であるのか? しかもその『勅』といえば絶対なのである。徳川の代々の将軍ですら、天皇より委任される「征夷大将軍」という地位なのだ。
 その一方で、天皇は時の権力者に利用され続けてきた。足利時代の南北朝然り、戦国然り、これより後の太平洋戦争然り。徳川家康などはその絶対的権力を恐れ、政治的実権を剥奪し、石高も一万石から三万石程度の経済基盤しか持たせなかった。その上、禁中並公卿諸法度という法律まで作り、言動までも厳しく制限したのである。それが江戸時代二六〇年間一度も改正されることはなかった。そうして築いた幕府安泰の歴史であった。
 ところがペリー来航に伴う対応で、幕府は独断では処理できなかったため朝廷に判断を仰いだ。それは前例にないことであり、およそ自分達で作った鎖国政策でありながら、開国か鎖国継続かといった重大問題を、他に頼ること自体無責任といえば無責任に見える。当時の幕府の軟弱化は、そのあたりからも推測できるが、やがてそれが天皇の権威回復と幕府権威の失墜へとつながることになっていく。いわゆる「尊皇」思想の復活である。背景に江戸中期から興った国学の普及も大きく影響するが。
 日本における内在的権力と時の権力とのゆがみが、話を一層複雑にする。外国人などには解ろうはずもないかも知れない。
 徳川幕府といっても巨大ではあるが一つの家には違いなかった。全国にある諸藩を統制しているとはいえ、その本質は藩を成す家と同等のものである。その巨大な家が世界の情勢も文化も思想も知らないままに、結果、安直に「開国」の方針をとったのだった。
 果たして諸外国との貿易が始まると、金銀の比価の違いから金貨が大量に出まわり、対策として発行された万延小判の品位の低さなどで物価が高騰した。すると幕府がとった開国策と不平等条約への批判と不満がすさまじい勢いで噴出した。時代を動かすのはいつの世も社会の底流にあるそうした庶民たちなのだ。
 江戸幕府大老に就任した井伊直弼は、安政五年(一八五九)六月、朝廷の勅許を得ることなく、日米修好通商条約というこれまた開港領土や海外貿易において日本に不利な不平等条約を結んでしまう。また国内においては将軍後継問題で、朝廷の意向を無視して紀伊藩の徳川慶福(家茂)を決定するといった強硬政治を行った。
 時の孝明天皇は外国人を極度に嫌っていた。無論、京都の朝廷は開国には反対である。そこで幕府側に公武合体を求め、幕府の臣下であるはずの水戸藩をはじめとする御三家と、御三卿などに対して戊午の密勅を下す。その内容を要約すると、一、勅許なく日米修好通商条約に調印したことへの呵責とその詳細説明の要求。二、御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体を実現し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。そしてこの二点の内容を諸藩に廻達しなさいというものである。こうしたことから幕府に不満を持つ攘夷派が、朝廷の攘夷派公卿たちと結び付くという構図ができあがった。
 これに対して井伊直弼は、世に言う安政の大獄を発した。いわゆる反幕府思想を持つ者や疑いのある者に対する弾圧事件である。その犠牲者の数は一〇〇人以上にものぼったが、その中に長州藩の吉田松陰の名も挙げられる。
 報復は報復を生むのが歴史の常である。安政七年(一八六〇)、大老井伊直弼は桜田門外の変で暗殺された。
 さて、ここからがいよいよ本格的な維新の開幕である。井伊暗殺を契機に諸藩の下級武士達が立ち上がる。
 尊皇攘夷───。
 これこそ幕末から明治維新まで、青年の血で血を洗う激闘の中で打ち立てられた潮流だった。

 物語は文久三年(一八六三)から始めることにする。
 場所は───
 幕末の激震地はなんといっても京都であろう。京都には天皇がいた。明治維新への道のりは、表面上から見れば朝廷の奪還劇ともいえるからだ。
 あのゴタゴタ時代の京都の政治的体制をおおまかに大別すると、まず薩摩藩を中心とした公武合体論派と、長州藩を中心とした尊皇攘夷論派、そして新撰組に象徴される会津藩を中心とした幕府恭順派、いわゆる佐幕派とに分けられる。とはいえこれはあくまで理解しやすく筆者が勝手に分けただけで、各藩内においても尊皇攘夷の熱狂に支配された若い志士達の統制には苦労している。例えば前年四月の薩摩藩の同士討ちとなった寺田屋事件などはその象徴である。
 幕末におけるもうひとつの大別のしかたは、藩などの組織や階級を取り払ったところでの、その時を生きた年代による分け方である。例えば年代別に古老、中堅、若手とした場合、古老年代の人達はそれまでの徳川政権に恩を感じ、幕府に従おうとする保守的な姿勢を示し、逆に急進的な資質を持つ若手階層の人達は、外国人の登場に日本の将来を危惧し、攘夷こそ大事と血気盛んに行動を起こす世代。その中間を取り持つ中堅世代は、若手の言い分も分かるし古老の気持ちも分かる。しかし激動の中で舵取りを誤らすわけにはいかないから漸進的に物事を進めようとする世代。それらが混在するわけだから藩の立場や方針を示す諸藩の藩論というものも、朝礼暮改の忙しさでコロコロ変わる。時の流れの速さが異常といえばこれほど異常な時代もない。幕府や藩の打ち出しに、若手は一喜一憂し時には反駁し、古老はおろおろするしかなかっただろう。
 藩論において最終決定をするのは藩主である。諸藩においてそれは同じで、藩主命令は絶対だった。この点も日本固有の文化といえるが、そのため脱藩して志を遂げようとする若い武士も続出したのである。藩は幕府統制下に置かれているとはいえ、藩政は独立していた。そのため開幕以来徳川家は、諸藩の財力を蓄えさせないようにするため参勤交代を行ったのだ。特筆すべきは、関ヶ原の戦い以来苦渋を舐めてきた毛利長州藩と島津薩摩藩から、この維新の激波が立ち起こったことである。
 尊王攘夷思想は、権威を維持しつつ開国を進めた幕府にとっては天敵である。逆に尊皇攘夷の志士達にとっては自分達の理想実現のためには幕府こそ邪魔だった。それが倒幕思想へと発展していくことになる。
 文久三年の京都は長州藩がいわゆる政局を握っていた。それまで藩内で公武合体の開国論を推し進めていた長井雅楽が前年起こった坂下門外の変を契機に失脚し、攘夷の気運が一気に盛り上がった。この年の年頭といえば、天皇側近の攘夷派の公卿達を味方に付け、攘夷決行を征夷大将軍職にある将軍、つまり幕府命令として発令させようと必死になっていた頃である。「征夷大将軍」とは本来「夷」の征討に際して任命された将軍であるから、「開国」の方針を決めた姿勢とは矛盾する。まだ外国文明の脅威を知らない攘夷派の青年達の目には、その方針をとった幕府は弱腰としか映らない。
 そんなに攘夷がしたければ、したい者だけで勝手に外国と交戦すればいいと思う人がいるかもしれないが、戦争をするには膨大な費用と大義名分が絶対不可欠なのである。増して武士道思想が行動の規範を決定している以上、下手な行動をして後世に汚名を残すことなど論外だ。
 そんな時代にかたくなに筋を通し、思想戦をもって革命を決行しようとしたのが若き長州藩士達である。その思想の志士こそ、あの安政の大獄で処刑された吉田松陰に源流をなす松下村塾門下生の面々だった。
 「識の高杉、才の久坂」と称され「松下村塾の双璧」と呼ばれた高杉晋作と久坂玄瑞をはじめ、吉田稔麿や入江九一、後の日本初代総理大臣となる伊藤俊輔(博文)もまた後期の末弟である。加えて、当時長州藩の中核として活躍していた桂小五郎もまた、塾生ではないが松陰門下の一人である。
 当時長州藩には明倫館という藩校もあったが、私塾であった松下村塾の大きな特徴は、武士や町民などの身分の隔てなく塾生を受け入れていたことである。

 天下は一人の天下

 いわゆる「一君万民論」といわれる思想は松陰哲学の根幹をなすものであり、その意味は、ただ一人君主にのみ生来の権威と権限を認め、その他の臣下、人民の間には一切の差別や身分差を認めないとするものである。この思想は開幕以来武士の威厳を保つため生まれた士農工商の身分制度で維持されてきた社会概念を根底から覆すもので、松下村塾の精神そのものだったに相違ない。
 松陰自身、燃えるが如くその短い生涯を駆け抜けた。ただ机上に向かい、論だけをもてあそぶような観念主義者ではなかった。あるときは脱藩して東北遊学をして時の情勢をその目で確かめた現場主義者であり、黒船が来たと聞けば浦賀に飛んで、まだ誰も海外になど行ったことがない時代、独断で外国留学を決意し、二度までも密航しようとしたほどの行動主義者でもあった。幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結した時などは、激怒して討幕を表明して老中の暗殺まで計画したほどの過激な一面も持ち合わせていた。そのため何度も投獄され、最後は幕府に捕らえられ斬首刑に処せられるのだ。
 そんな松陰が弟子達に教えてきたこととはいったい何であったか? それを一言で表せば、
 『志』
 である。志こそ松陰の魂であった。
 松下村塾に集い来た門下生は、ごく限られた地域の、最初はどこにでもいるごく平凡な書生達だったに違いない。しかも塾が開かれていた期間もわずか二年半あまり。しかしそれが松陰の秘めた巨大な魂に触れた時、生命の奥底の志が覚醒し、激しく光りだした。当時国内にいた青年層のごく一握り、たった数十人の松陰門下の熱と力が、時代の大きなうねりをつくっていくのである。

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

 これは松陰辞世の句である。日本の歴史はじまって以来の空前の激動時代を前に、自分は志半ばで武蔵野の地に果てるが、革命を起こすべく大切な弟子達を留め置いたと言うのである。
 この言葉に触れた弟子達は、師の大和魂をそのまま我が魂とし、いま火の玉となって燃え上がっていた。いわば長州藩松下村塾生における倒幕運動は、恩師の敵を討つべく仇討ち劇でもあるのだ。

 さて話は京である。
 昨年九月、朝廷は江戸へ勅使を遣わし、幕府に攘夷の実行を迫っていた。そしてこの年三月、ついに将軍徳川家茂は、期限付きを条件に上洛を果たすことになる。すべて長州藩の政治工作だが、幕藩体制以来、将軍が朝廷のもとに来ることなどありえない事態だった。およそ久坂玄瑞か誰かが幕府権威の失墜を天下に示すため、
 「将軍を江戸から引きずり出し、天子様の下にひざまずかせよう」
 と、長州藩の革新派官僚の周布政之助に進言して藩の公式意見とし、宮廷の過激攘夷派の公卿を動かして実現させたものであろう。
 そして将軍が上洛して三月十一日は、お膳立て通り孝明天皇が攘夷祈願のために賀茂神社へ行幸する日であった。それには将軍家茂も従わざるを得ない。
 天気は小雨まじりであったが、その華やかさは平安時代の絵巻を思わせるほどで、天皇を乗せた鳳輦(屋形の上に金銅の鳳凰をつけた輿)と、親王を乗せた輿、そして関白の輿に左右大臣を乗せた輿。あとは公卿であろうが将軍であろうが諸大名であろうが、すべて等しく単衣冠に太刀を帯びた服装で、行列は延々続いた。長州藩からは藩主毛利敬親の養子、世子定広が将軍と同じ身なりで参列していた。幕府権威の衰弱を示すにはそれだけで十分だった。
 沿道はその歴史的光景をひと目見ようと、数日前から京につめかけた人々でぎっしりうめつくされ、中には神仏でも見るように柏手を打って拝む者もいたという。
 その群衆の中に高杉晋作の姿もあった。
 彼は十日ほど前まで江戸にいたが登京の命を受け、京都で面白いものが見られると聞いてそれならばと、この行列を見物に来ていたのである
 天皇の御姿はいまだかつて晋作も見たことがない。師の松陰は天子を無上唯一の存在と位置づけ敬ったが、生涯においてその御姿を見ることなく処刑されてしまった。ところがいま自分は、その松陰の果たせなかったひとつの夢を、師になり変わって現実のものにしたのだと思うと、胸の奥から熱いものが込み上げていた。
 ところが、将軍家茂が彼の面前を通り過ぎようとしたとき、晋作は思わぬ声をはりあげた。
 「よっ!征夷大将軍!」
 その将軍を馬鹿にしたような声に、周囲の視線が一斉に晋作に集中した。馬上の家茂も頬をヒクヒクさせて彼を睨みつけた。ところが当の晋作は、そんな反応には全く無頓着で薄笑いを浮かべたままだった。
 長い徳川幕府政権の歴史でも、将軍に面と向かってそんな事を言った者は後にも先にも晋作ただ一人だけである。さすがに長州藩士達も顔色を失った。これが幕府主宰の行事であったら、処刑されることは間違いないし、藩にこうむられる責任問題もただではすまない。高杉晋作という人間は、一歩間違えば命を落とし、周囲にかかる迷惑などもあまり考えずに、重大な事をしたり顔でやってのけてしまう器を持っていた。革命の途上にあって死ぬ覚悟はいつでもできているとはいえ、死に場所を選ぶことに慎重だった武士とは一線を画する。それは藩にとっては要注意の危険因子に違いなく、ひとつ使い方を誤れば、藩の存亡にもつながることを至極心配している。
 
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2.松陰の双璧
幕末小説 『梅と菖蒲』
 その宵、長州藩邸を訪れた晋作は久坂玄瑞と一献傾けた。
 「やっちょるのぉ。ボクもせいぜい冷やかしてやったが、あんな行列ごときで世の中が変わるとは思えん。でも少しくらいは将軍様の面目を潰すことはできたかな?」
 開口一番、晋作は笑いながらそう言った。久坂は苦笑して、
 「相変わらずじゃの。お主なら将軍を斬るか?」
 と晋作の盃に酒を注ぎながら言った。
 「どうじゃ? くり出さぬか? 島原あたりでパーっとやろうではないか。ボクは京は初めてじゃ。江戸の吉原も良かったが、島原にはそれ以上の極玉がおりそうじゃ。こんな辛気くさいところでは息が詰まる。はよ、はよ……」
 「お主は気楽でいいの。将軍が上洛中になんとしても攘夷決行の命令を出させにゃならんのに。それどころじゃないよ」
 「つまらん男じゃ……」
 晋作は早くも手枕で寝転がった。
 「あの夜以来だな。みな無事に逃げたか?」
 久坂が言った。”あの夜“とは昨年(文久二年(一八六二))の十二月十二日、久坂はじめ同志十二人と共に、品川御殿山に幕府が建設中の英国公使館を焼き払った晩のことである。最初は薩摩藩がイギリス人四人を殺傷した事件(生麦事件)同様に、外国公使の暗殺計画を実行に移すところだったが、計画が同盟を求める土佐藩士から漏れ、藩主の子である世子定広に未然に中止させられてしまったのである。晋作は、
 「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば……」
 と、計画を公使館焼き打ちに切り替えて決行したものだが、火を放った後は十二人の同志は何があっても秘密裏のうちに、各自は各自の責任において散会するとの盟約で、放火後、てんでに散ったその後の同志のことを久坂は心配しているのだ。
 晋作は「ああ無事だ」と身体を起こして酒を含みながら頷いた。
 「先生の遺骨を若林に移してくれたそうだな」
 再び晋作は「ああ」と答えた。若林とは江戸長州藩抱屋敷がある場所の地名である。久坂は表情を崩さず遠くを見つめたような目で、
 「すまん。かたじけなかったなあ」
 と頭を下げた。
 この二人、松下村塾以来の腐れ縁である。吉田松陰はそんな彼ら門下生をこよなく愛した。
 久坂玄瑞が松下村塾に入門したのは十七歳の頃。もともとは貧しい藩医の家の生まれで、十五歳のとき兄が死に、その前後に両親も失って家督を継ぐことになった苦労人である。一方晋作は二百石取りの上級武士の家に生まれている。十七歳で九州に遊学した久坂は、帰国後、松本村で自宅謹慎中の松陰に遊学中の今で言うレポートを提出し、そこから文通が始まった。久坂の書信を見た松陰は、その並外れた英才ぶりに大いに喜ぶが、あえて、
 「あなたの議論は浮いていて思慮が非常に浅いですね。これが本当にあなたの心より出たものとは到底思えません。今あなたのために、あなたに従い、死のうとしている者は何人いますか?そしてあなたのために力を出し、銭を出す者は何人いますか? 真に賢い者とは議論ではなくて行動にこそあるのですよ」
 と戒めの返信をしたのだった。納得いかない久坂は松陰のもとを訪れるが、松陰の見識の深さと人格に魅せられてそのまま入門したと言われている。入門後、松陰からは「防長年少第一流の才気ある男」と褒められ、その将来を大いに嘱望された秀才中の秀才だった。松陰の妹を嫁にとったところだけでも、その信頼は絶大だったと言える。
 そんな久坂の誘いで初めて松下村塾に顔を出したのが晋作十九歳の時。一つ違いの二人は幼い頃からの顔見知りだった。ところが晋作の父小忠太は、松陰の思想教育に危険を感じ、松陰に師事することを認めなかった。父思いの晋作にとっては辛いところだったが、松下村塾の門下生となったことは告げずに通う日々が続くのだ。
 松陰に出会ってからの晋作は、はじめて学問というものに打ち込むようになった。その進歩は目覚ましく、学問のみならずその言動もますます磨かれ、塾生の中で頭角を現すようになっていく。その才をいち早く見抜いた松陰は、晋作の競争心をあおるように久坂をライバルに仕立て上げるのだ。
 「暢夫(晋作)の識を以って、玄瑞の才を行ふ、気は皆其れ素より有するところ、何おか為して成らざらん。暢夫よ暢夫、天下固より才多し、然れども唯一の玄瑞失うべからず」
 後に晋作は、
 「あのときほど学問に夢中になったことはない」
 と言ったほどだ。松陰は晋作のことを『鼻輪も通さぬ放れ牛、束縛されない人』と評価し、久坂のことを『政庁に座らせておけば、堂々たる政治家』と評価した。「玄瑞の才」、「晋作の識」、松陰の教育者としての偉さは、二人を競争させて向上させようとしただけではない。互いの競争心をあおりつつも、互いの優れた点を認めさせ合い、協力しゆくよう促していた点である。いつしか、久坂が、
 「晋作の大識見にはかなわんなあ」
 と言えば、晋作は、
 「いやあ、やっぱり、おぬしの才は当世一じゃ」
 と、互いに称え合うような関係になっていた。そして後に、二人は松下村塾の双璧と呼ばれるようになったのだ。
 その松陰が幕府に殺された時、久坂は江戸におり、晋作は長州は萩に戻る途中だった。時に安政六年(一八五九)十月二十七日の事である。伝馬町の獄で処刑された松陰の遺体は、その後、小塚原の回向院に送られた。小塚原の回向院といえば、刑場での刑死者を供養するために創建されたのが始まりで、もとを正せば水死者や焼死者や横死者などの無縁仏や、犬猫までも埋葬する宗派もクソもない幕府の便利勝手な墓地である。桂小五郎と同行した久坂等数人の松陰門下生は、そこで師の屍に対面する。悔し涙に暮れながら、門下達は亡骸に衣服を着せて、持参した瓶に納めてその場所の片隅に丁重に葬るのである。
 その時久坂は師の志の如く、自身の命の行き方を覚悟したのであろう。その死に対して、同じ門下の入江 九一に宛てた手紙の中で久坂はこう言う。
 「先生の悲命を悲しむことは無益です。先生の志を落とさないことこそが肝要です」
 と。一見、冷血的な感情を感じるが、松陰が刑死に先立ち門下に残した言葉はこうだった。
 「諸君は私の志をよく知っているでしょう。だから私の刑死を悲しまないでほしいのです。私を悲しむことは私のことを知らない証拠です。私を知っているならば、私の志を継ぎ、大いに私の志を実現してほしい」
 まさに久坂は師の言うとおりの言動を示した。
 一方晋作は───
 松陰の訃報が届いたのは萩に着いてしばらくしてからのことだった。晋作はその報を聞くや、師がいるはずもない松下村塾へ、松本村へ向かって飛び出した。そして途中の松本橋の上で立ち止まり、川の流れをじっと見つめるのだった。すると、ふいに涙が込み上げ、橋の欄干につかまり子供のように泣いたという。その後、周布政之助に宛てた手紙の中で晋作はこう言う。
 「松陰先生の首を幕府の役人の手にかけたことは残念でなりません。弟子として、この敵を討たないでは到底心もやすまりません」
 と。師の大和魂を間違いなく継承した二人ではあったが、その言動は対照的である。師の松陰に対して久坂は智動の人であり、晋作は熱動の人だった。
 それから三年後の本年一月五日、晋作は松陰の遺骨を小塚原の回向院から若林村(現世田谷)の長州藩の敷地内に移葬する。途中わざわざ上野寛永寺の将軍しか通ってはならないという御成橋を強行通過して───。
 その話に久坂は笑いながら、
 「お主らしいが、京ではあまり目立つことはせぬ方が良い。周布様もお困りだ」
 と晋作に忠告を促しながら酒を注いだ。周布様とは周布政之助のことで、藩の重役では最も革新的な若手志士達の理解者として、陰に付け日向につけ彼らの尊王攘夷運動を庇護している長州藩官僚である。晋作も幾度となく彼の藩主への申言に助けられている。
 久坂は晋作をじっと見つめて、
 「次は石清水八幡宮への行幸じゃ」
 と言った。久坂の考えは、今日の加茂神社行幸は幕府権威を失墜させるため、次の石清水行幸は攘夷決行を朝廷命令として幕府に受け入れさせるためであると言う。なるほど八幡宮といえば武家の信仰対象であり、そこに将軍が朝廷と一緒に攘夷祈願をするということは、そのまま『即時攘夷』を誓うことになると言うのだ。すでに各国と通商条約を結び、横浜には外人居留地を作って世界と貿易を始めてしまっている幕府にとっては、とてもそんなことなどできるはずがなかった。そんなことをすれば、幕府は攘夷の矢面に立つことになり、諸外国を相手にやがては幕府存亡の危機につながりかねない。かといって朝廷に背くこともできない幕府は、窮地に追い込まれるのである。
 「さすが才の玄瑞じゃ。すべてお前の画策か?」
 晋作はあきれたように久坂を見つめて微笑んだ。
 「攘夷が決まればあとは決行期日の問題だけじゃ。そしたらわしは馬関(下関)へ飛ぶ。そして長州の兵力を結集して海峡を渡る外国船を片っ端から砲撃するのだ。高杉、お主はどうする?」
 晋作はゴクリと音をたてて酒を飲み込み、しばらく即答を控えた。
 「まさかお主、石清水行幸中の将軍を斬るなんてことは考えていないだろうな」
 図星であった。久坂は顔色を失った。
 「例え旧友であろうとそれだけは絶対に許さん。将軍をやっと上洛させ、ここまで事を運ばせるのにどれだけの手を尽くしたと思っているのだ。そんなことをすれば幕府が一斉に長州を攻めてくる。それでもやるというのであれば、今この場でお主を斬る!」
 久坂の檄に触れた晋作は、やがて、
 「そんなことはせん」
 と盃を静かに膳に置いた。ほっと胸をなで下ろす久坂であるが、何をしでかすか分からない晋作のことである。内心心配でたまらない。
 「剃髪しようかと思うちょる」
 晋作の思わぬ発言に、久坂はあっけにとられた表情で彼を見つめた。
 「どうやら京にはボクのすることはなさそうじゃ。江戸からここに来るまでの道々ボクは考えた。晴れて松陰先生は世に出ることができた。だが先生の葬儀すらろくに行っておらんからの。しばらくのあいだ僧道に入り、先生のため喪に服そうかと……」
 「そりゃ妙案じゃ!そうしてくれ」
 晋作は皮肉いっぱいの笑みを浮かべて舌打ちした。
 松陰は生前晋作に「十年間、実力を磨け」と言っていたことがある。それは久坂も知っている。また、晋作が「男子たる者の死」について質問したとき、松陰はこう答えている。

 死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず。
 道尽き心安んずる、便ち是死所。
 世に生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。
 心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。

 死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。
 
 いま晋作は、自分が出る幕ではないことを感じていた。ならば師の言われた通り、向こう十年間は学問を磨き、時が自分を必要としたときに再び表舞台に出るのを待つべきだと久坂を見ていて考えた。「将軍暗殺」と「剃髪」という両極端の決断を自分に迫ったとき、時勢からして後者を選択するしかなかった。
 「仕方がないのぉ……。しかしボクの喪は盛大じゃぞ!松陰先生に喜んでいただけるよう、京中の妓を集めて楽しく執り行わにゃならん。ちと金がかかるが、工面しといてくれ」
 「相分かったゆえ、本当におとなしくしていてくれよ。で、いつ周布様に隠居願いを出すのじゃ?」
 久坂は急かしながら、ようやく安心したように酒をどんどん勧めた。
 
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3.奇僧東行
幕末小説 『梅と菖蒲』
 藩に許しを乞うより先に剃髪して頭を丸めた晋作だったが、周布政之助との面会は意外にも向こうの方からの呼び出しによって実現した。加茂行幸から四日後のことである。
 周布政之助は晋作の坊主頭を見て目を丸くした。
 「なんじゃ? その頭は……。入道にでもなるか?」
 「お察しの通りでございます。拙者、今日よりは東行と名乗り修行いたしたく、暫しの間、お暇を頂戴したく存じます」
 そういって晋作は切り落とした自分の切髪を周布に上納した。『東行』とは平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて文人として活躍した西行法師の名をもじったもので、その根底には東の江戸へ行って幕府を倒すという堅い意志が込められている。
 「ちと待て。何の前ぶれもなく突然暇乞いか? もう少し分かるように説明してみよ」
 「なれば……」
 晋作は以前からの持論である『防長割拠論』を説いた。防長割拠論とは、防州と長州の二州を幕府から割拠させ、富国強兵を睨みながら長州藩の結束を更なる強固なものにしようとする考え方である。いわゆる長州独立国家の建設である。それを上役の周布の前で懇々と話し出した。その論説は桂小五郎から聞いて周布も知っている。最後まで聞かないうちに、
 「お前の言う通りかもしれんが、そりゃあまりに急激だ。今から十年もすればそういう時機もこようがのう。それより今は少しでも幕府の力を弱めることが大切なんじゃ。だからそれまでお前は学習院御用の仕事でもやっておれ」
 晋作はむくれ、
 「そのような事を言われるのではないかと思っておりました。晋作、そんなつまらぬ職はいりませぬ。だからこうして頭を丸めたのでございます。十年後にそういう時機がくるとおっしゃるのであれば、十年間のお暇をいただきたく存じます。図らずながら松陰先生も脱藩の罪により獄に入り、その罪が許された折り、将来の毛利公のお役に立つため十年間の他国修行を願い入れました。不肖の弟子ではございますが、私もそれに習いたい」
 言い出したら聞かない晋作の性格は政之助もよく知っていた。「やれやれ……」と困った顔を作りながら、
 「実はな、今日呼び出したのは……」
 と話し出した。
 話の趣意は簡単だった。先日の加茂行幸の折り、なぜあのような大衆の中で将軍を冷やかすような奇声をあげたのかということだった。世子様が毛利家のことを心配されてひどくご立腹である。しばらく萩に帰っておれと言うのである。
 「これはしたり。江戸には心配で置けず、京へ呼んでおいてはまたお払い箱か。ボクもとんだ邪魔者ですな。こうして頭を丸めたのです。萩には帰りません」
 政之助は広い額をポンと叩いた。
 「ならばなぜあのような野次をとばした。あの行幸を成功させた時点で、幕府は天子の家臣であることは満天下に示せたはずだ。野次の心を申してみよ」
 「なれば───」
 晋作はつるつるの坊主頭を光らせながら、その本意を淡々と述べた。一見吹いてしまうような情景ではあるが、当の本人は大真面目なのである。
 「あの行幸で確かに君臣の分はただされました。だが、それだけでよいのかという諸藩、公卿たちに対する皮肉でございます。松陰先生は黒船がやってきたとき、『これで日本武士もふんどしを締め直すだろう。非常に喜ばしいことだ』と言われました。ところがあれから十年も経ち、先生を小塚っ原から世に引っぱり出してきたというのに、我が藩はふんどしを締め直すどころか、先生が武蔵野に埋めてきた大和魂はいっこうに芽を出さない。これでは公武合わせて列強諸国の餌食だ。ざまあねえ、バカヤロウ! という意味です」
 晋作は以前留学で上海に渡り、植民地化されつつある中国の原地人の悲惨な状況をその目で見てきた。上海港には幾千にもおよぶヨーロッパの商船や軍艦が碇泊し、陸上には城のような商館が建ち並ぶ景色の中で、自分の領土であるはずの支那人が、勝手気ままに振る舞う外国人に奴隷のように酷使されていた。
 『実に上海の地は支那に属すと雖も、英仏の属地と謂ふもまた可なり』
 と、日本もその二の舞になることを何より恐れている。
 「お前はふたこと目には松陰先生だ。わしとて松陰やお前の心が分からぬほどまだ耄碌しておらんわ。だがな、物事を進めるには何事も順序というものがある。急いては事をし損じるのじゃ」
 「いくらお話ししても無駄のようです。ボクは今日より東行になる。それに京ではまだすることがございますので萩にはまだ帰りません。世子様にもそうお伝えいただき、これより十年間のお暇をいただきます」
 晋作はそう言うとスクッと立ち上がり、背を向けて歩き出した。上役の命令を聞かないなど、それなりの覚悟がなければできないことである。その点長州藩は他藩に比べて藩士に対してあまい面を持っていた。それがあの幕末という混乱期を縦横無尽に対応していく力になったとも考えられるが、特に政之助にあっては、若手攘夷派の藩士達には将来の藩の行く末を深く案じた上で絶大な期待を寄せていた。政之助はもう晋作の賜暇願いを世子定広に伝達する以外になかった。
 「おい、玄瑞から聞いたと思うが、例の石清水の件はおとなしくしちょれよ!」
 政之助は晋作の背中に向かってそう言った。晋作はそのまま立ち去った。その翌日、晋作の切髪を手にした世子は、ひどく嘆息したと言う。

 さてその日から、久坂に語ったところの松陰の死に対する晋作流の喪中の儀式が始まった。
 墨染めの衣を着て、頭には大きな坊主笠をかぶり、首には頭陀袋をかけていて、腰には六、七寸の短刀を吊るした奇妙な格好で、連日、酒におぼれて何人もの芸妓をはべらせ、洛中狭しと市街を横行しはじめたのだ。その振る舞いは傍若無人の極みで、狂人のごとくあったと言う。
 土佐勤王党の田中光顕がちょうどこの頃晋作と出会い、その遊興振りを目撃している。
 場所は東山のある料亭───。
 晋作は首に頭陀袋をかけていた。そこに芸妓がよってたかって頭陀袋を物珍しそうに、その出家して間もない奇僧をからかいはじめたと言う。
 「お坊さん、これはなんどすえ?」
 「これか? これは死人の所持品だ」
 と、頭陀袋から中の物を取り出そうとした。
 「ひゃあ! やめてくださいまし。気色わるいわあ!」
 芸妓はキャッキャと声をあげながら飛び退いたが、晋作はかまわず取り出すと、それは普通の物よりひとまわり小さな折りたたみ式の三味線だった。生前、松陰から貰った物である。今となってはそれがたった一つの形見となった。晋作は酔いで上半身をグルグル回しながら、おぼろげな手つきで組み立てた。そして“ビャン”と弦を弾いたかと思うと、

 三千世界の烏を殺しぬしと朝寝がしてみたい

 と謡いだした。その腕前に再び芸妓がキャッキャと湧いた。すると晋作は坊主頭をペコンと叩いて、さも陽気な声で再び謡い出す。

 坊主頭をたたいてみれば安い西瓜の音がする

 その滑稽な言い回しと三味の調子に、もう周囲の芸妓達は笑いころげて大騒ぎだったと。
 そんな光顕が晋作に「志士とはどのように生きるべきか?」と質問したことがある。すると晋作はこう答えた。
 「一つに、人は死ぬときは死ぬし、生きるときは生きるもんじゃ。今は学問をすべき時ではないかのう? 二つに、英雄とは平時は地にもぐっておるもんじゃ。いざとなったら竜になればよい。どうじゃ? そして三つに……」
 光顕は目を凝らした。
 「何とかなるもんじゃ」
 そんな飄逸な態度を田中光顕は生涯忘れることができなかったらしい。

 学問どころか遊び呆けていたこの期間、晋作に貸し渡された住処は当時寺町にあった妙満寺敷地内のひと部屋だった。外へ遊びに出ない時などは、そこに仲良くなった小梨花という名の芸妓を連れ込んでは、三味線を片手に都々逸を歌って時を過ごした。そしてときには周旋に駆け回る諸藩の志士達が立ち寄って、そこは密談をかわすに恰好な場所にもなっていた。剃髪したとはいえ、京都全体に漂う緊迫した空気と激しい志士たちの意気に触れ、晋作の革命の血が騒がないはずがない。
 あるとき入江九一がそこを訪れ、晋作は酔った勢いで血盟書を制作しはじめた。家茂が江戸に戻ろうとする噂を聞いて、それを阻止するため将軍が滞在している鷹司邸へ押し入って、あわよくば将軍の首をいただこうと言うのである。周布に呼び出しをくらってまだ一週間も経っていない頃だ。
 入江九一は吉田稔麿と並んで松下村塾の四天王に数えられた一人である。松陰が幕府の無勅許による日米修好通商条約を締結して激怒し、老中暗殺計画を企んだ際も、晋作はじめ四天王のうち三人は猛反対したが、九一だけは賛成して計画に加わった。このとき松陰から、
 「久坂君たちは優秀だが度胸がない。しかし君だけは国のために死ねる男児である」
 と高く評価された、ある意味晋作よりも過激なテロリストである。
 九一は晋作からその計画を聞きにんまり微笑むと、難なく血判書に署名血判した。そうして十数名の同志が集まった。そして三月二十二日、作戦を決行して鷹司亭へ押し掛けるのだ。
 ところが当の晋作は、酒の臭いをぷんぷんさせながら、その出で立ちも剃髪以来の奇僧姿のままだった。最初は威勢よく門を破ったまでは良かったが、ものの数分もしないうちに幕府の役人達に取り押さえられてしまった。まさに茶番劇である。
 「バカモノ!」
 と、周布政之助は怒髪が天を突く勢いで叱責した。久坂もあきれて言葉も出なかった。
 「石清水行幸を控えたこの大事な時にことを荒立てやがって!いますぐ萩へ帰れ!」
 晋作は髪がわずかに生えたいが栗頭をあげて「お言葉ながら……」と言おうとしたが、
 「これは藩命じゃ!」
 と、政之助に世子直筆の命令書を突きつけられてしまった。
 ”藩命“と言われてしまえばもはやそれに従うほかない。晋作にとっても藩命は絶対だった。長州藩の上流武士の家に生まれた彼の身体には、生まれながらに長州藩士の血が流れている。武士としての誇りも高かったし、逆に言えば晋作ほど長州狂いの志士もない。生涯他藩の志士達との交わりもあまりせず、一筋に長州藩のために戦ったのである。それは父小忠太からの授かり物であり、戦国から引き継がれている毛利家への忠信の血であった。松陰からは「鼻輪も通さぬ放れ牛」と称されつつも、その毛利家への忠誠心はダイヤモンドの如く純粋であるのだ。
 晋作は奥歯をかみしめて、
 「分かり申した」
 と答えた。

 われ去ればひとも去るかと思ひしに人々ぞなき人の世の中

 かくして京の桜を見ないうちに、晋作は生まれ故郷の萩に向かうことになる。

 さて天皇の石清水行幸である。
 その計画は四月十一に実行された。ところがそれより数日前、京都を脱走した過激派公卿中山忠光が長州浪人と結託して行幸途中の天皇の駕籠を奪い、将軍を殺害するという噂が広まった。長州側でも予想はしていたが、明らかに幕府側の画策である。当時後見職にあった一橋慶喜は、それを理由に行幸中止を朝廷に申し入れたが、長州藩の反対によって押し切られたという経緯がある。果たして当日、絶体絶命の窮地に追い込まれた幕府だったが、苦し紛れにとった行動は一橋慶喜による”仮病作戦“だった。
 「将軍家茂公は風邪をひいてしまわれた。申し訳ないが供奉を辞退いたします」
 と前日になって言うのである。そしてその代理人として行幸に参列した慶喜だったが、攘夷祈願をすませた天皇が攘夷の節刀を授けさせようと慶喜を社前に来るよう命じるのだが、山下の寺院に控えていた慶喜は、これまた「腹が痛い」と仮病を使って応じなかった。
 怒ったのは長州藩士達である。将軍に更なる攘夷実行の圧力をかけるべく、ますます世論を高めるあの手この手の画策を放った。一方幕府側には一刻も早く江戸へ戻らなければならない事情があった。昨年薩摩が起こした生麦事件の賠償問題で、返答の内容によってはイギリスが攻撃を仕掛けてくるというのである。かといって攘夷決行問題をうやむやにして帰れば勅命に背くことになるし、それより京の町にはそんな将軍の命を狙おうとする過激攘夷派の浪人の輩が都狭しとうようよしているのだ。
 遂に苦渋の選択を強いられた幕府は、将軍退京の勅許を条件に、攘夷期限五月十日という約束を諸大名に通達したのである。
 五月十日───。
 四月二十日、その報を耳にした久坂玄瑞は、喜び勇んで直ちに馬関へと走った。こうして馬関戦争(下関戦争)の火蓋が切って落とされることになる。物語の舞台は長州へと移る。
 
> 【 風雲の章 】 > 4.小忠太と雅
4.小忠太と雅
幕末小説 『梅と菖蒲』
 後に言う下関戦争が始まった頃、晋作は萩近くの松本村の奥地、団子岩あたりの小さな庵で隠棲生活をしていた。庵は京から萩まで同行してきた堀真五郎の手配によるもので、近くには松陰の生家、杉家の山屋敷がありひどく気に入った。藩より賜暇をもらい、萩に戻って隠棲生活を始めたからには、向こう十年間は本当に学問に打ち込もうと思っている。後に伊藤博文は晋作のことを「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と表現したほどに、まさに活動を発した時の彼の勢いと力は神がかり的な影響力を周囲に及ぼすが、逆に静の姿勢を決め込んだ時は、石の如く、また小川のせせらぎの如く、何もせずにじっと何かに没頭して静寂の時を数えるのも彼の不可思議な性質だった。晋作は今、師の残した留魂録を精読している。

 京を立ち、萩の生家に到着したのは四月九日の夕暮れ時だった。萩の実家は菊屋横町と呼ばれる通り沿いにある。家に着くと晋作は真っ先に父小忠太の部屋へ帰宅の挨拶に入った。
 「ただいま戻りましてございます」
 小忠太は書き物の手を休めて晋作に目を移した。
 高杉家は代々藩主側近の役所を務めてきた地元では名士と呼ばれる家柄である。小忠太においても同じで、昨年は直目付、学習館御用掛に任じられ、上洛して長州藩と朝廷、幕府の交渉役を務めていたが、今年一月その任を終えて帰国した、いわば長州藩士のなかではエリートクラスに属する。しかし晋作にとってはただの平凡な親父で、尊敬しているというふうではないが、実は父親だけには逆らえない。別に弱みを握られているわけでもないし、怖いわけでもない。ただ同じ血が流れているという一点だけで、敬わなければならないと子供の頃から感じていた。雅を嫁にとった時もそうだった。そう、晋作には雅という名の正妻がいる。それはこのあと触れよう。
 小忠太は久しぶりに見た我が子の顔に微笑んだ。
 「賜暇を頂戴したそうだな? まあしばらく家でのんびり暮らすがよい」
 「ありがたいお言葉ですが、実は晋作、出家いたしました。松本村の山奥に庵を見つけておりますので、早速今日よりそちらに寝所を移そうと思います。申し遅れました、法名を東行と申します。これよりはそうお呼びください」
 小忠太は苦笑して身体を晋作の正面に向けて対座した。
 「どのような心境の変化か? それよりもうちと雅のことを考えてあげたらどうか?」
 雅とは婚儀を終えた一月後、藩命により軍艦教授所に入って航海学の修行を始めるため家を出てから、かれこれ三年以上会っていない。晋作はその艶麗な顔すら忘れかけている。一方小忠太にとっては高杉の血筋を絶やさないため、一人息子の晋作に子ができることこそ重大問題だった。そのため「防長一の美人」と噂されていた山口町奉行の井上平右衛門の次女だった雅を、高杉家へ迎え入れたのである。幼少の頃から野放しにしておいたら何をしでかすか分からない気質は、父親としても悩みの種だった。そこで女に対しては人一倍面食いの息子を家に留まらせるため、日本一の美人を娶らせるというのが兼ねてからの小忠太の思惑だった。ところが晋作ときたら、
 「ボクは三十歳まで妻帯しない」
 と宣言しており、しかもその縁談話が持ち上がったのは、松陰が殺されてからまだ一ヶ月も経っていない時だった。とても所帯を持つ気になどなれない。ところが小忠太は一方的に結納を済ませてしまい、断れない状況を作り出してしまったのだった。結局親への孝を重んじる晋作が折れたのである。
 小忠太はまだ髪の生えきらない晋作のイガ栗頭を困り顔で眺めなら、
 「はよう子をつくれ」
 と言おうとした。と、そのとき静かに襖が開き、三つ指をついた雅が茶菓子を運んで入って来た。
 「失礼いたします」
 雅は煎じた茶を小忠太の前に置き、次いで晋作の前に差し出しながら、
 「お勤め、ご苦労様でございます」
 と静かな声で言った。
 雅は武家の女としては非のつけどころがない出来過ぎた妻女に違いなかった。町奉行の家で育ち、結婚する以前は、断りきれないほどの縁談話があったほどの器量良しでもある。このとき雅は十八歳。いまだ男を知らない生娘のままである。結婚したときは十四歳で、晋作にとっては童児同然、女として抱く気も起こらなかった。ところが今、女として熟れ初めたその美しい妻の顔にはじめて晋作は見惚れた。けっして嫌いではない。いままで関係してきた多くの妓の中でもこれほど美しい者はいなかった。しかし晋作にとっては、武家の形式に凝り固まった彼女の日常の生活スタイルに合わせることが窮屈で仕方がないのだ。
 ついこの前まで江戸に滞在しているとき、小三という馴染みの芸妓と恋仲に落ちていた。ちょうど英国公使館焼き払いを行う前で、彼女は『武蔵屋』という店におり、よく桂小五郎や井上聞多、それに伊藤俊介らを伴って遊びに行ったものである。小三は目を引くほどの芸達者で、和歌を読み、その美貌も他の芸妓の群を抜いていた。風雅の心も増して強く、そうでない男はたとえ身分が高いといえどもけっして相手にしないほど気位も高かったという。そんな小三が晋作と会い、二人は恋仲に落ちたというから、晋作の風雅の心もまんざらでない。また晋作の方も、教養が高くて頭の回転も早く、プライドも高い現代でいえばバリバリのキャリアウーマン的な美人が好みだったようであるが、教養ある知性の女性といえば雅もけっして負けてはいない。ただ雅は武家育ちの硬い一本気の心の持ち主だった。そのうえ古来、日本固有の文化として成長してきた“お家”という型にはめられた生活の中では、愛とか恋とかいうものとは無縁の感情しか湧いてこないのだ。
 「ボクは出家して僧になった。しばらく松本村の庵で隠棲生活をするのでそのつもりでいよ」
 雅は小さく「かしこまりました」と言った。
 「それがよいわ。三年も経ったというのにお主らは新婚同然じゃ。近くに舅など口うるさい者がおったらやりにくかろう。身の周りの物には不自由するじゃろうが、それがええ」
 と、小忠太が言った。
 「ちと待ってください。ボクは僧門に入ったのです。女性など近くに置いとくわけにはいきません。一人で静かに勉強したいのです」
 京であれほどの馬鹿騒ぎをしておいて晋作も虫のいい話である。おまけに江戸で別れた小三から贈られた袱紗まで、いまも大事に持っているのだ。
 「何を申すか。嫁の相手もせんで飛び回って、やっと帰ってきたと思ったら今度は一緒に住めんとは。もうちと世間の常識を知れ!」
 「これまでの常識が崩れかけちょる世の中ですから。新しい常識を作り出さなきゃならんのです」
 親子喧嘩が始まるすんでのところを、
 「もういいのですよ、お父様。この人の好きなようにさせてくださいまし……」
 と、雅のか細い声が制止させた。
 雅は薄々感じていた。江戸や京での夫の風聞を耳にするたび、とても自分のような武家育ちの堅物に、高杉晋作という型破りな武士の妻など努まらないことを。これがもし百年も前の平穏な時代に巡り合わせていたとしたら、飲んだくれの浮気亭主のケツを箒で追い回すような夫婦になることもあったかもしれないが、時代がそうさせてはくれなかった。せめてそんな男であることを婚儀の前に知っていればと、あるいは性格の不一致で離縁しようかと、現代の普通の女性なら思うかもしれないが、雅は後悔する教育は受けていない。一筋に武家の女としての教育を受けた。今の高杉家における自分の立場と状況においては、ただ”耐える“ということだけが努めであり、それが武士の妻としての美徳であると信じて疑わない。
 「なにかご用意するものはございますか?」
 雅は少し悲しげな目を晋作に向けて言った。それでも夫に尽くすのが武士の妻だと信じて疑わない。一生を棒に振ろうとも。
 「そうじゃの、ボクの勉強部屋の書棚から松陰先生のものを全部荷造りしといてくれ」
 「かしこまりました」
 雅はそう言って小忠太の部屋を出ていった。
 「まったく不憫な嫁じゃ……」
 小忠太のつぶやきに晋作は何も答えず「では」と言って立ち上がった。
 「夕餉ぐらい食って行くんじゃろ?」
 「歩きながら団子でも買って食いますから、心遣いは無用です」
 それから間もなく雅が用意してくれた荷を抱え、晋作は菊屋横町の屋敷を出た。荷の中には彼が所望した松陰の書物の他、カミソリやら硯箱やら手拭いやら、頼んでもない生活用品が入っていた。
 「まったく細かなところに気の効く女ごじゃ……」
 それから山に篭もった後も、何日かにいっぺんは雅がにぎりめしを持って庵に訪れ、晋作の身の周りの世話を細々とやって、夕暮れには菊屋横町の家へ帰って行った。そのようなお節介は小忠太の気廻しであることはすぐに知れたが、雅がせっせと働くその間、ずっと書物に釘付けの晋作だった。
 
> 【 風雲の章 】 > 5.草莽崛起
5.草莽崛起
幕末小説 『梅と菖蒲』
 晋作が浮き世を離れて生活している頃、馬関ではいよいよ攘夷の火蓋が切って落とされた。
 最初にその報を晋作に届けたのは従兄弟の南亀五郎という男である。藩校の明倫館に学び、藩の情勢にもなかなか詳しい。下関戦争勃発の八日前、五月二日のことである。
 「いよいよ夷人との戦さが始まるぞ。藩兵が馬関に集結しはじめた。こちらは長府藩の毛利元周様が総指揮官に立つらしい」
 幕府が攘夷決行期日を打ち出したことは既に風の噂で晋作の耳にも届いていた。久坂玄瑞も馬関(下関)かと思うと、晋作の心は俄に騒いだ。
 「で、当藩の兵力は?」
 「藩兵と浪士の軍あわせて一千といったところだろう。向こうは最新式の大砲やピストルを持っているに違いない。弓矢や火縄銃でどこまで対抗できるやら」
 「こっちにも大砲はあるじゃろう」
 「海峡沿いに砲台を作って備えはじめたらしいが、これもせいぜい五十門くらなものだ。しかも旧式だからどこまで役に立つものか……」
 「お主もそう思うか?」
 亀五郎は静かに頷いた。
 実は晋作も隠棲して様々な書物を読む中で、果たして攘夷を行い戦争になったとして、本当にこちらに勝ち目があるのかと疑問を抱くようになっていた。過激な攘夷熱にとらわれて、夷敵の文明の力には目もくれず、ひたすら武士の精神のみを信奉して阿呆のように「攘夷、攘夷」と叫んでいた日々が、本当に正しかったのかと思い返すようになっていた。それは、忙殺の中ではけっして気づくことができない、静かな生活の中ではじめて見えてきた客観的な思考から湧いた疑問であった。
 「お主は馬関へ行かんのか?」
 亀五郎が言った。
 「なあに、久坂がいれば安心じゃ。ボクは藩に願って暇を頂いている身。今さらのこのこ出ては行けぬわ」
 亀五郎は「それはそうじゃの」と笑いながら、やがて帰って行った。

 果たして攘夷期日の文久三年の五月十日───。
 何も知らずに下関海峡を通りかかっていたのは、アメリカ商船ベンプローク号だった。長州藩は既に海峡沿いに砲台を整備し、藩兵および浪士軍からなる兵力一、〇〇〇の陣営をもって、帆走軍艦丙辰丸と庚申丸、蒸気軍艦壬戌丸と癸亥丸の四隻を配備し、張りつめた空気の中で海峡封鎖の態勢を整えていた。
 「夷人の船を発見いたしました!田ノ浦沖に停泊中であります!」
 最初にその船を発見したのは見張りに立っていた一人の藩士。緊迫に緊迫を重ねた凍り付いたような緊張が走ったのは朝未明のことである。
 ところが総指揮を執る毛利元周は躊躇していた。いくら待っても「攻撃開始!」の命令が出ないのである。というのは、幕府からの布告は「攻撃されたら打ち払え」というもので、外国からの攻撃がない限り、その命令は出せないとだんまりを決め込んでいたのだ。相手は商船である。攻撃などしてくるはずがなかった。
 いきり立ったのは久坂玄瑞、入江九一らを筆頭とする過激攘夷の党派だった
 「攘夷命令はすでに出ている!元周は腰抜けじゃ!」
 と、独断で行動を開始したのである。攘夷の旗を掲げ、それを現実のものにした彼らの意気は軒昂だった。軍艦庚申丸の艦長松島剛蔵を説き伏せ、決死隊を船に乗り込ませると、一気にベンプローク号に近づき、轟然と二十四ポンドのカノン砲をぶちかます奇襲攻撃に出たのだった。さあ、それを合図にドンパチが始まった。
 驚いたのはアメリカのベンプローク号の乗組員達だ。幕府と通商条約を結んでいるのに、まさか攻撃されるとは夢にも思っていない。慌てて錨を上げて周防灘へ逃げ出した。それを逃すまいと長州藩は、武器を持たない商船に向かって、庚申丸と癸亥丸と陸からと一斉砲撃を浴びせたのである。
 ところがベンプローク号の船足ときたら速い速い。技術文明の差は歴然だった。悲しいかな、この時長州から放った砲弾が命中したのはわずか三発あまり。それでも大勝利の凱歌でわき上がった。その報を受けた朝廷は、はじめて外国船を打ち払った功績により、褒勅の沙汰を出した。藩の志気はますます高揚した。
 長州攘夷戦の二隻目の犠牲者は、横浜から長崎へ向かう途中のフランスの通報艦キャンシャン号だった。これは最初の攻撃より十三日後の二十三日のことである。
 キャンシャン号はまだベンプローク号が攻撃を受けたことを知らず、これまたふいをつかれて船に損傷をこうむった。フランス側は交渉のため書記官を乗せたボートを陸へ向かわせるが、それに向かって藩兵が銃撃を加え、フランス側に四名の犠牲者を出した。キャンシャン号は慌てて逃げ出し、損傷しつつもこれまた庚申丸と癸亥丸をゆうゆう振り切り長崎へと逃航していった。
 続いて二十六日、今度は長崎から横浜へ向かうオランダ東洋艦隊所属のメジューサ号。彼らはこの事件の事を知ってはいたが、古くから日本と交易のあるオランダには攻撃してこないだろうと判断していたらしい。ところが長州藩はそんなことなどおかまいなしで、一時間ほどの激しい砲撃戦の末、オランダ側は死者四名と船体には大きな損傷を受けてメジューサ号は周防灘へ逃走して行った。
 勝利に沸き立つ長州藩であったが、この頃京都で攘夷派公卿の姉小路公知が暗殺された。薩摩藩と会津藩に不穏な動きがあるとの報告を受けた久坂玄瑞は、馬関を後に急いで京へと登って行くのであった。

 ちょうどそのころ晋作は、松陰の書き残した文書の中に、
 『草莽崛起』
 の文字を見つけてじっと凝視していた。
 『草莽』とは孟子において草木の間に潜む隠者のことで、転じては一般大衆を指している。また『崛起』とは一斉に立ち上がることを言う。安政の大獄で監獄に入れられる直前、松陰は友人の北山安世に次のような書状を送っている。
 「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」
 これが松陰がこの言葉を使った最初である。
 「民衆よ! 立ち上がれ!」
 晋作は「ハッ!」と、松陰のその叫びを聞いた。
 「これじゃ、これしかない……」
 晋作は急いで筆を執った。同じ松陰門下の久保清太郎に、来たるべき出発に備え、二尺五寸以上の太刀を購入するよう依頼したのだ。その手紙の日付は五月二十日。まさに風雲は急を告げていた。
 米商船ベンプローク号が攻撃されたことを知らされた米艦ワイオミング号のデービット・マックドガール艦長は驚き、直ちに報復攻撃を決定して横浜湾を出港していた。そして六月一日、下関海峡に入ったその軍艦は、港内に停泊する長州藩の軍艦庚申丸、壬戌丸、癸亥丸の三隻に砲撃を加えたのだった。たちまちのうちに撃沈あるいは大破させられてしまった長州藩は、何もできずに、海峡沿いの砲台まで甚大な被害をこうむった。力の差は歴然である。たった一隻のたった一回の攻撃で、長州海軍は壊滅状態に追い込まれてしまったのだから。
 続いて六月五日、今度はフランス艦隊が報復攻撃をかけてきた。仏東洋艦隊バンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号とタンクレード号の大型艦二隻は、前田と壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加え、陸上戦に持ち込んだかと思うと、あっという間に砲台を占拠した。もはや長州藩兵は逃げ腰だった。戦国以来戦いを忘れ、国の治安にだけ心血を注いでいた武士など、戦さの実践の上ではクソの役にも立たなかった。フランス兵は民家を焼き払い、大砲を破壊し、我がもの顔で暴れ回った末、やがてそそくさと撤収してしまう───。ここではじめて長州藩は、夷敵の脅威に蒼白となるのである。

 「このままでは我が藩は『弱い』という汚名を天下にとどろかせてしまう!」
 「さよう。だいだい攘夷の口火を切った我々が夷国に負けたとあっては面目丸つぶれじゃ」
 「いやいや、これは長州一国の問題にあらず。このままでは皇国全体の志気に関わる一大事じゃ。なんとか必勝の手だてを講じなければ」
 「そうだ。汚名返上のためにも良将を陣頭に立て、一刻も早く馬関へ送らなねばならん。誰か適任はおらぬか?」
 山口の政事堂で行われた御前会議は騒然とした。この頃長州藩の政事堂は萩から山口に移転されていた。上座の藩主毛利敬親と世子定広親子は、話の成り行きを何も言わずに伺いながら、特に藩主敬親などは「うん、うん」と首を頷かせるだけである。ところでこの藩主、あまり政治に興味がなかったのか、家臣の意見に対して異議を唱えることが全くなかった。何か重大な決断を迫られた時も、
 「うん、そうせい」
 と返答していたため、家臣達からは『そうせい侯』とあだ名されていた。一見、無能で愚かな藩主に見えるが、実はその底知れない大らかさと寛大な性格こそ、有能な家臣を生み出し、若い才能を育て、それらの人材を活躍させることで窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末有数の雄藩にすることができたという評価もある。実に吉田松陰の才を有名たらしめたのも、彼の力であるのだ。
 やがて御前会議は万策尽きて、敬親公の頷きの回数も減っていった。すると誰かがこう言った。
 「そうじゃ。長州一の暴れ牛がおるじゃろ」
 高杉晋作のことである。
 「ああ、京都で将軍にむかって野次を飛ばしたという。彼なら留学の経験もあるから外国の状況にも詳しいはずだ」
 「しかし彼は今、確か十年間の賜暇を受けて隠居中のはずだが……」
 「かまわん、連れてこい」
 世子が言った。彼は京都で晋作が勝手に剃髪したことを根に持っている。あのとき預かった切髪が湿気の多い所に放置していたためか、最近腐りかけて臭って仕方がない。
 「殿、この件、高杉晋作こそ適役かと」
 家臣達の視線が一斉に藩主敬親に向けられた。
 「うん、そうせい」
 この一言で会議は散会。直ちに藩主直命の早馬の使者が萩に飛んだ。六月五日のことである。
 
> 【 風雲の章 】 > 6.奇兵隊
6.奇兵隊
幕末小説 『梅と菖蒲』
 藩命とあらばどんな理由があろうと直ちに山口へ向かわねばなるまい。
 晋作は早馬の報を受けると、小忠太に簡単な挨拶をしてからそのまま馬を飛ばした。馬上の彼は内心「時が来た」と喜んでいる。
 そうして山口に到着したのはすっかり夜の帳に包まれた時分、政事堂ではその日馬関でのフランス軍との抗戦における大敗の報がもたらされたばかりで、上を下への大騒ぎの様相であった。
 世子定広は待ちかねていた様子で晋作を部屋に迎え入れると、「ほれっ」と言って黒いひとかたまりの物体を晋作のひれ伏す面前に放り投げた。異臭が鼻を突く。
 「これは何でございましょう?」
 「見覚えがないか? そちの頭毛じゃ。臭くてたまらん、そちに返す。賜暇は取り消しだ。馬関へゆけ。そちに馬関防御の任を命じる」
 「はて、困り申してございます。今年に入ってまだ半年にもなりませぬのに、江戸から京に呼ばれ、かと思ったら萩に帰れとたらい回し。やっとお聞き入れいただいた十年の賜暇のお約束も、わずか二月たらずで今度は馬関にむかえと仰せになられる。これでは武士の分が通りません」
 「まあ、そう申すな」
 「ならば拙者の愚策をお聞き入れいただけますでしょうか? そしたら馬関ゆきも考えないではございません」
 これこそ晋作の思惑だった。松陰奇想の草莽崛起を具現化した部隊の創設を、この際藩の方針として受け入れさせてしまおうと考えたのだ。
 「なんじゃ? 申してみよ」
 「されば……。新しい部隊を結成したいと考えております。聞くところによれば撰鋒隊は腰抜け侍ばかり、今回の戦闘でも何の吉報ももたらしていないようでございます」
 撰鋒隊とは長州藩内における藩士と武士からなる戦闘部隊の名称である。
 「そこで晋作は考えました。今の情勢不安はもはや藩士のみの問題ではございません。士族、農民、商工人、婦女以下万民、童に至るまで、これことごとく安泰の世を求めておりまする。その志気を思い計るに、下手な武士や藩士達よりよほど勇敢かつ強情と見えます。これらの力を一斉蜂起し、戦力にしない手はございません。有能な者は即部隊に加え、藩士と藩士以外の武士、庶民からなる混成部隊を結成したく存じます」
 「なに? 農民、町民をも部隊に入れるというのか?」
 「そうです。撰鋒隊が正規兵なら、この部隊は名付けて『奇兵隊』───」
 「奇兵隊……?」
 世子は晋作の光る双眸をじっと見つめた。「無理じゃ、無理じゃ。農民、町人に何ができる」と言おうとしたが、晋作の鋭い睨みがそれをさえぎった。「今は下手な事は言わない方がいい。またへそを曲げられてはなだめるのにひと苦労じゃ」と、そう考えた世子は、
 「好きなようにせい」
 と、晋作の要請を丸飲みしたのであった。

 こうして士分の身分を取り戻した晋作は、翌早朝、山口を発ち馬関へと向かった。その間晋作の頭は目まぐるしく回転していた。
 新しく部隊を立ち上げるといってもまず最初に軍資金の問題があった。また、いくら志気盛んな百姓や町人を召し抱えるといっても、組織として統制を持たせるには格となる理念とか目的が必要だった。晋作はその点『志』というものこそ相応しいと考えた。国を良くしようという志、あるいは国を守ろうとする志、国のために働こうとする志、この『志』こそ現在藩に当然の如く存在する正規兵に最も欠けているものだと見抜いていたのだ。現に奇兵隊は結成当初、別名『有志党』と称されることもあった。軍、あるいは隊ではなく党とは、その組織団体の持つ体質が、兵としてよりも政治的色彩が強かったことの現れだろうが、いずれにせよ『志』に指標を置くのであれば、藩などの権威によって上からの命令で組織されるものではなく、底辺から湧き出すように、志を持つ者同士の堅い連帯によって形成されていかなければならない。それならば、当然資金も藩から出させるものではなく、あくまで有志からの援助によって工面されなければならない───。
 晋作の頭には一人の商人の名が浮かんでいた。
 白石正一郎
 である。馬関の竹崎で小倉屋という大きな店を営んでいる豪商である。
 晋作はまだ一度も彼に会ったことはなかったが、彼の名前は久坂に聞いて知っている。久坂玄瑞もまた三年前に、白石邸に泊をとっているはずだった。
 もともと小倉屋は、西国交通の要衝であった馬関という地の利を活かし、長州藩はじめ多くの諸藩から仕事を受けて、米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱ったり、その他質屋を営み酒も造って巨大な富を築き上げていた。家主白石正一郎は商人には珍しく学問好きで、以前は鈴木重胤から国学を学び、その門下生を通じて文久元年には薩摩藩の御用達になるほど西郷隆盛とも親しいと聞く。月照上人、平野国臣、真木和泉らとも親交があったため、彼らの尊皇攘夷の志に強い影響を受けており、坂本龍馬をはじめ幕末期に白石家を訪れた志士の数は四百人以上にものぼる。
 西郷隆盛は彼のことを「温和で清廉、実直な人物である」と評したが、正一郎の不思議は、そうした志士たちを家に泊めるだけでなく、家の一室を密談や談合の場として提供し、また彼らが家を出るときなど金がないと分かれば快く路銀を与えていたことや、彼らの志に対しては例え私財を投げ打ってまでもその協力を惜しまなかった点である。商売という枠だけではけっして計れないその行動の原点とは一体なんであったろう? 莫大な財力を持ちながら、商人の身分ではけっして政治の場に口をはさむことができなかった当時、彼もまた若い志士達同様に、思うようにならない世の中の情勢に苦痛な歯がゆさを感じていたに相違ない。白石正一郎にとって、子ほど年の離れた幕末の志士たちの存在は、我が子よりも愛おしい新時代をつくりゆく夢だったのかもしれない。

 馬関に到着して晋作は、まず光明寺に駐留する入江九一を訪ねた。そこには松下村塾四天王の最後の一人、吉田稔麿もいるはずだった。
 「久坂はおるか?」
 晋作は光明寺境内に無造作に上がり込むと、まだ眠そうに寝転がっていた九一に話しかけた。
 この光明寺は攘夷戦争が始まった時から、彼らの駐屯場所として用いられていた。久坂玄瑞を中心に、そこに集まった攘夷派浪士達の集団は『光明寺党』と呼ばれ、総裁にはひそかに京都を脱して長州藩に身を投じた公卿、中山忠光をかついでいる。
 「よう高杉。なんじゃお前、隠棲しておるのではなかったのか? 玄瑞なら京に戻ったぞ」
 「坊主はやめじゃ。藩命によりこうして馬関に参った」
 「お前も余程のお人良しじゃの」
 九一は、自分の意志のままに行動している久坂に対して、この半年の間だけで江戸から京、京から萩、そして萩から馬関へと、藩の言いなりになってたらい回しにされている晋作の身の上のことを言っている。晋作は腰の刀をはずすと九一の前に対座した。
 「おっ、新しい刀を買ったのか。相変わらず長いのう」
 「実は頼みがある」
 と、そこで奇兵隊の構想を同志にはじめて打ち明け、淡々と話しはじめた。
 「草莽崛起か……。面白そうじゃの。松陰先生が甦ってきたようじゃ」
 やはり同じ門下の九一なだけに飲み込みも早い。晋作の頭の中では、その具体的な編成から訓練の仕方まで既に構想はできあがっている。
 「奇兵隊の具体的な運営には松陰先生の『西洋歩兵論』を用いようと思う」
 『西洋歩兵論』とは吉田松陰が説くところの、西洋に習った歩兵の必要性と必勝術が書かれた論文である。そこでは戦闘の勝利を決定するものは、旧来の武士軍が得意としているものを存分に働かせつつも、「精練の節制」たる西洋の歩兵部隊に対して不敗の地位をかためるためには、自分達もそれ同様の歩兵を作らなければなるまいと述べている。「精練の節制」とは、松陰が目にした西洋の歩兵部隊の、規律正しく節度ある行動に統制された光景に驚いたものだろうが、それに対抗し得るにはゲリラ的部隊が必要だと言うのだ。
 更に松陰は「兵は正を以て合ひ、奇を以て勝つ」という孫子の言葉を引いて、

 正は堂々正々の陣法にて、是れ節制練熟の兵に非ざれば、是れに当ること能はず。
 奇は紛々紜々の戦勢にて、是れ精悍剛毅の兵に非ざれば、是れを任ずるに足らず。

 と言う。「正」とは戦術とか戦略あるいは対外交渉のことで、「奇」とはその作戦決行の実行部隊のことである。晋作はあえて「奇」の方を部隊名に冠し、この論文に『農兵をも訓練し』とあるように、草莽崛起の言葉通り、かつて日本史上誰も試みたことのない士農工商一体の部隊創設へと動きだしたのだ。
 「これが成功すれば我が藩内はもちろん、やがて全国の諸藩もこれに習ってこれまでの常識が根底から覆されることになるぞ。倒幕はもちろん、やがては松陰先生が夢見た『一君万民』も現実のものになるのじゃ」
 晋作の目が爛々と輝いていた。それに応えるように九一が言う。
 「おお……、久しぶりに胸が騒いできたぞ。で、おれは何をすればよい」
 「藩には既に話は通しておいた。さっそく志を持つ農民、町民を集めにゃならん。お主は奇兵募集の張り紙を作り、この町はもちろん、藩内中にばらまいちゃれ」
 「合点!」
 その後晋作は九一を伴って、先日来報復攻撃を受けた惨状を視察しようと港に出た。フランス軍が上陸した辺りは家屋が倒壊し、焼かれ、畑も荒らされ、いまだ火がくすぶっているところもある。無惨に破壊された砲台に立てば、遠く九州側を通過する外国商船が、長州を嘲笑うかのように通過していくところであった。
 「あんなに小倉側ギリギリのところを通られたのでは大砲の弾も届かん。奴らはそれを知っちょるのよ」
 九一が悔しそうに言った。すると、
 「バカヤロウ!」
 と、その外国船に向かって石を投げつけるみすぼらしい農民姿の女があった。無論、投げた石はその外国船に届くはずもない。次に鍬を片手に「出ていけ!」と叫ぶ老年が続いた。と、みるみるうちに数十人のそうした農民、町人が人だかりを作ったかと思うと、口々に船に向かって罵声を浴びせたり石を投げたりし始めたのだ。
 「おとといのフランスの上陸で、家を失った者達じゃ。可哀想にの……」
 九一が教えてくれた。晋作はその爆発した彼らの志気を感じ取って、
 「奇兵隊は必ず成功する」
 と確信した。
 「ところで高杉、部隊をつくるのはいいが、軍資金はあるのか?」
 「それよ。それが問題よ……。これから後援者を見つけにゃならん。どこかにボクの志を理解してくれる金持ちはおらんかの?」
 「そんなことを言うて、既に目星をつけておるのじゃろ? 白石正一郎か?」
 晋作は静かに頷いた。
 「あいつは大物だぞ……」
 九一は「お前にできるか?」というような顔で笑った。
 
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7.小倉屋
 
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8.此の糸
幕末小説 『梅と菖蒲』
 実は筆者はこの項から物語を書き出そうと思っていた。
 この項は本編の主人公である高杉晋作と愛人お卯乃がはじめて出会う場面であるが、ここに至るまでの経緯を述べるうち、知らず知らずに分量がかさんでしまった。最初は流して書こうと思ったのだ。ところがこの時代を書こうとすると、薩摩藩から見た幕末もある、徳川幕府から見た幕末もある、あるいは新撰組や坂本龍馬のように固有の集団や個人の視点から見た幕末もある。しかしどれを語るにしても、結局それは複雑に絡み合った紐をほどくのに似て、高杉晋作の一時期を取り上げただけでも、思うほど簡単には済ませられなかったわけだ。ともあれここまで話が進んだ。
 高杉晋作は梅の花をこよなく愛したと言う。一方お卯乃は菖蒲を愛した。よってこの物語のタイトルを『梅と菖蒲』としたわけだが、二人の関係にまつわるエピソードは、それほど多くは残っていない。しかし英雄の陰には必ずそれを支えた女性がいると捕らえた時、桂小五郎には幾松がおり、坂本龍馬にはお龍がいた。高杉晋作にもいたとすればそれは正妻の雅ではなく、愛人のお卯乃である。と、筆者は思う。幾松にせよお龍にせよ、この二人はどちらも幕末という激動期にあって、志士たる夫の命を守ったという強烈なエピソードを持つ凄腕の女性達である。それに対してお卯乃は今で言う天然ボケだったようだ。江戸の小三にしろ雅にしろ、教養ある女性が好みの晋作にしては意外だが、いわば時代を動かした天才の男と天然ボケの女性、この奇妙な組み合わせに魅力を感じるのは筆者だけではないはずだ。高杉晋作の奇蹟ともいえる後の逆転劇を考えるとき、その陰にあったお卯乃の役割は想像以上に大きかったはずである。
 ちなみに『お卯乃』とは当て字である。普通はひらがなで『おうの』と書くが、文章を読みやすくするねらいで漢字をあてたことをご了解いただきたい。

 江戸の頃より馬関は、商人の町として西の大坂といわれるほどの賑わいを見せていた。栄える場所には人が集まり、人が集まれば酒屋ができ、酒屋が増えれば遊郭街ができる。馬関のそれは稲荷町だった。現在の赤間町付近、竹崎の白石正一郎宅からはおよそ二キロ程度の距離にある。北浦街道沿いには大坂屋などの大きな楼閣もあり、その賑わいは江戸の吉原、京都の島原や祇園にも劣らなかったであろう。ところがこの日は、夷国の攻撃の影響か、往来の人の数はめっきり少なく、町を賑わす赤い灯も心なしか寂しく感じられた。
 晋作が正一郎と会ったその翌日、奇兵隊結成の祝宴をしようと晋作はじめ白石正一郎、入江九一、また九一と一緒に光明寺党に属していた吉田稔麿や赤根武人、滝弥太郎、山県狂介そして正一郎の次弟白石廉作は血気盛んに稲荷町に向かっていた。日中の打ち合わせで、ほぼ結成の手はずを整え、翌日六月七日には正一郎宅を拠点にいよいよ奇兵隊を発足させる予定となった。晋作馬関に入って一日たらず、まさに電光石火の早技である。
 その日のうちに九一は赤根らと、さっそく奇兵隊員募集のビラを作り、手分けしてそこらじゅうにばらまいた。
 『陪臣、軽卒、藩士を選ばず、農民、町人といえども志ある者は、急至小倉屋に馳せ参じ候べし。身分を問わず力量ある者は、必ず部隊に召し抱えるもの也』
 そのビラを見た平民達は、最初なんのことやら意味が分からなかったであろう。
 一方晋作は白石邸において、藩に提出する奇兵隊結成綱領をまとめあげ、河上弥一に託して彼を山口の政事堂へ向かわせた。同時に五箇条に渡る軍規を書きあげた。言ってみれば奇兵隊は異種雑多の集団である。松陰の構想を実現させ、来るべき外国や幕府との戦闘に勝利するためには、それに属する個々の才能と実力を存分に発揮できるような統制と訓練が必要であろう。それには隊を統率する厳しい規則が不可欠と考えたのだ。
 晋作は呼吸を整えると、一気に筆を走らせた。

 一、隊員は伍長に従い、伍長は総督に従うこと。肝要なるは一隊一和也
 一、隊中では勝手に外出をなすべからず
 一、酒宴、遊興、淫乱、高声を禁ずるもの也
 一、喧嘩、口論すべて無用のこと
 一、陣中敵味方、強弱の批判は是相成らぬこと

 現にこの軍規は厳守された。これより少し後、軍規を犯した笹村陽五郎という男は、皆の見ている目の前で切腹させられたくらいである。
 この奇兵隊の結成を皮切りに、長州藩内では同年末までに遊撃隊、荻野隊、八幡隊、集義隊、義勇隊、膺懲隊などの平民を取り入れた諸隊が続々と誕生することになる。そしてこれらの諸隊がその後藩内の旧体制を打破する先兵としての役割を担いゆくことになるのは、これよりもう少し先の話である。
 ともあれ奇兵隊の形が具体的になったことにより、酒場に向かう彼らの足取りは軽かった。やがて稲荷町に入ると、九一らの行きつけという裏町の『堺屋』という店に宴の座をもうけた。
 さあ、宴会のはじまりである。こうなっては彼らのお決まり、浴びるほどの酒を飲んで芸妓を踊らせ、どら声を張り上げてわめき出すのは時間の問題だった。
 「だが高杉よ、五箇条の法令とは全くよいが、果たしてお主に守れるかが問題じゃ! 第三項、酒宴、遊興、淫乱、高声を禁ずるもの也!これはどうじゃ? お主には無理と思うが。いっそ省いておいた方が後々のためじゃと思うがの!」
 九一が勢い良く晋作に酒を注ぎながら哄笑した。晋作の左隣には、早くも彼に肩を抱き寄せられて酒を飲まされている芸妓がひとり。一見、物静かに見える梅の蕾のような唇が印象的な美人である。ついさっきまで踊る芸者の横で三味線を弾いていた女に違いない。
 「ほうれ、隅に置けぬ。もう女をたぼらかしたか。やはりお前にゃ無理じゃ!」
 「同感です。奇兵隊総督になる人間が、掟を破ったとあらばそれこそ部下は付いてきませんよ。少しは慎まなければなりませんね高杉さん」
 今度は吉田稔麿が笑いながら言った。
 吉田稔麿は足軽の子である。松下村塾の四天王の一人であることは前に触れたが、松陰からは特に可愛がられ、『無逸』という字まで付けられた逸材である。無駄口は聞かず謹直重厚な人柄で、松陰は彼に対して、
 「才気鋭敏にして陰頑なり。稔麿は心に秘めた非常に強い意志を持っている。それは人により安易に動かされるものではない。足下の質は非常なり」
 と高く評価している。そんな彼にとっては、これから一隊を統率しようとしている晋作の奔放さが気がかりでならない。
 「まあ吉田君、そう固いことを言うなよ」
 晋作は軍規のことなどどこ吹く風で、隣りに置いた女をかまいたくて仕方がない。その様子を正一郎は目を細めて見守っていた。
 「名はなんと申す」
 晋作は隣りに座らせた女に聞いた。
 「へえ、此の糸と申しやす」
 言葉に京訛りがあるが、遊郭などでは一般的で特に不思議なことではない。此の糸と名乗った女は余程無口と見えて、聞いたこと意外答えない無粋さで、そうなるといかにしても自分に気を向かせたくなる晋作だった。
 「生まれはどこじゃ?」
 「へえ……」
 と言ったきり、此の糸は暫く座敷で芸者と一緒にばか踊りをする九一と弥太郎の滑稽な姿を見つめ、笑んだまま何も言わない。
 「生まれはどこじゃと聞いておる」
 晋作は同じ問いを繰り返した。すると此の糸はやっと晋作に顔を向け、
 「へえ……、生まれどすか? はあ……、覚えておりまへん」
 と言った。「この女、阿呆か?」と晋作は思った。
 「いつからこの店におる?」
 「へえ、十一のときからどす。気がついたらここにおりましたさかい」
 「それは気がつくのが遅かろう。それにしても三味がえろう上手のう」
 晋作は、先程芸者の脇で三味線を弾く彼女をずっと見つめていた。自分も三味線をたしなんでいることもあり、その腕前に感心しながらも、彼女の美しい顔に見惚れていたのだ。
 「三味線師匠をしとりやす。見えまへんやろ?」
 そう言ったかと思うと、此の糸は柄にもない自分の立場を思い出し、よほどおかしかったのか、初めて晋作を見ながら声を出して笑った。その表情が晋作の目に美しく映った。
 「三味はええのう。ボクも三味の音は大好きじゃ」
 すると此の糸は一層大きな声で笑い出した。あまり笑い転げるので「何がそんなにおかしいか?」と聞けば、
 「だって旦那はん、自分のことを“ボク”なんて言わはんのやもん。そない言うお侍はん、旦那はんが初めてですわ」
 と再び涙を流すほどに笑い出す。晋作は「この女、本当に阿呆か?」と思った。
 しばらく話すほどに、晋作はすっかり此の糸が気に入った。知的さの微塵も感じられないが、人の話を面白がって聞いて笑って、時々政治の話をすればぽかんと眠そうに欠伸をする。奔放といえばこの女も奔放だった。
 ふと、晋作は尿意をもよおした。
 「此の糸、ちと壁の方に頭を向けてみろ」
 「こうどすか?」
 此の糸は言われるとおり、身体を晋作に向けた姿勢のまま、首だけを壁側に向けて静止した。素直というか、愚直というか、あからさまで腹に一物を持たない純粋さに触れ、ついついからかいたくなってしまう晋作である。
 「そうじゃ。そのまま動くでないぞ。ボクはちと小便がしとうなった。厠に行ってくるから暫くそのまま待っちょれ」
 「へい、このままですね……」
 「ここにいる連中はみな女癖が悪いからの。もし話しかけられたとしても受け答えはならん。口を聞いてはならんぞ。ボクが戻るまで、ずっとそのままの姿勢で待っちょれ。よいな」
 「へい……」
 晋作はそう言うと座敷を出た。おそらくその瞬間、九一やら弥太郎やらがよってたかって此の糸を口説きはじめるに違いなかった。困り果てる此の糸の顔を思い浮かべると、晋作は可笑しくて仕方がなかった。
 外は涼しげな風が吹いていた。縁側の廊下を渡り、厠はその一番奥にある。用を足した晋作は、座敷に戻る途中、ふと、庭先に咲く菖蒲の花に目をとめて立ち止まった。
 「早いもんじゃのう。もう菖蒲が咲く季節か……」
 晋作は裸足のまま庭に降りると、紫色のその花を一輪摘んでじっとみつめた。
 「先生、お喜びください。いよいよ明日、四民平等の理念に基づいた奇兵隊が発足します」
 晋作は、菖蒲の花を師の吉田松陰に見立ててそう呟き、江戸遊学中に師からもらった他見無用の手紙のことを思い出していた。
 『十年後、もし貴方も僕も無事であったら、その時こそきっと大計を謀ろうではないか。それまでは各人の場で、思うことをじっくりと行動していれば、自然に心や意見の通じる人も出てくるでしょう。それまで世の動きを十分に洞察していきなさい』
 思えばあの手紙は、松陰が老中暗殺計画を進めている時ではなかったか。「申し難いから、推察してほしい」ともあり、松陰は晋作に後事を託すつもりで書いたものであることは松陰の死後にわかに気付いた。いわば遺言であった。
 「二人でやろうとおっしゃっていたのに、先生は先に逝ってしまわれた。久坂は既に京にて数々の成果をあげておるようじゃが、先生、ボクの方はいよいよこれからです」
 晋作はこのように、いつでも師と心を通わせようとする癖があった。萩で松陰の斬首刑の報せを受けて、涙が尽きるほど泣いた松本橋で、倒幕を固く誓った彼の心にいつしか松陰が住みついた。松陰ならどうするか? 松陰なら何を言うか? それが晋作が行動を起こすときの大きな判断基準であり、それは藩の仕事をしている時も、他藩の志士と話をするときも、極端な場面でいえば遊興にふけっている時でさえ全く同じであった。
 晋作は手にした菖蒲を見つめながら、
 「菖蒲、しょうぶ、勝負……」
 と呟いて、胸の奥からふつふつと込み上げてくる歓喜に目を潤ませた。
 そんなことで四半時ほど経過してしまっただろうか。いやもう少し経っていただろう。晋作はふと思い出したように宴たけなわの座敷に戻った。
 「おい高杉、おまえどこに行っちょった」
 さっそく九一がからんできて、ふざけて抱きついてきた。
 「厠じゃ」
 「それにしちゃあ、やけに長かったのう。お前さんのことだから、色っぽい妓のケツを追い回していたんじゃろ。まあいいわい、お姫さんがお待ちかねじゃぞい!」
 九一が指さす方を見れば、そこには壁を向いたままの此の糸が座っている。
 「お前、あの妓に何を言ったんだ? さっきからああしたまんまで、俺達が何を話しかけても見向きもせんわ」
 晋作は「ほう……」と微笑んで、此の糸の隣りに戻って座った。
 「そなた、ずっとその恰好でおったのか? もうよいぞ」
 此の糸は晋作に気が付くと、「へえ、死ぬかと思ったわあ!」と言いながら晋作の膝の上に身体を崩した。
 「いったい何をしていなはったん? わて、もうダメかと思いましたわ」
 その言葉には刺も嫌味も全く感じられない。晋作の言いつけを素直に守って、それがどういうことで何を意味するかなど考えることもなく、ただ言い付けどおりのことをすることだけが此の糸には問題だったようである。
 「けったいなおなごじゃの。ほれ、土産じゃ」
 晋作は先程摘んだ菖蒲を渡した。
 「まあ!きれいなお花どすわ! これ、ほんま、うちにくれはるの?」
 此の糸の喜び様は、まるで宝石でももらったかのようである。
 「そんな物で喜んでもらえるなら、毎日摘んできてあげるぞ」
 「ほんまどすか? いややわあ、そんなことされたらわて、旦那はんのことが本当に好きになってしまいますわ」
 晋作は此の糸の両頬を両手で押さえ、その幼さの残る切れ長の瞳をじっと見つめた。
 「ボクはもうそなたに惚れちょるぞ」
 此の糸は一瞬驚いたような目をした。いくら鈍いとはいえ、惚れたという深い意味くらいは分かるらしい。
 「名はなんと言う?」
 「此の糸どす」
 「それはさっき聞いた。本当の名じゃ」
 「卯乃と申しやす……」
 「お卯乃か……。そなたを落籍せてよいか?」
 「落籍せるって……?」
 遊郭のお抱え芸者をやっていればそれくらいの意味は知っている。落籍せるとは女郎小屋からその身を買い受けるという意味である。それには庶民の立場では莫大なお金が必要なことも知っている。それにしてもあまりに唐突で、普通なら「ご冗談を」と軽く笑ってあしらうところだが、卯乃は早くも真に受けて、返答に窮したまま黙りこくってしまった。といっても彼女の迷いは、この男は本当に自分を好いてくれるのかとか、ゆく末の将来を案じるとかいう類いのものでなく、店の主人になんて話せばいいかとか、仲間にはどういう顔をすればいいかというような目先の心配で、晋作のその言葉が冗談か本気かすら考える余裕もない。と言うより「ボクの妾になれ」という真意すら分からない。
 一方、晋作は本気である。思いついたら一瞬にして炎のように燃え上がり、後先をあまり考えずに行動を起こす動物的鋭い直感が働くのだ。
 「白石どの」
 晋作は隣で静かに酒を飲んでいる正一郎に話しかけた。
 「ちと、この女の身請け金を用意してはもらえまいか? 奇兵隊が動きだしたら、白石どのの家の女達だけでは手が足らんじゃろう。この女を白石どのの家に置いていただき、台所を手伝ってもらおうと思うが……」
 都合の良い言い分もあったものである。囲い込んでしまえば軍規にも触れずに済むというわけだ。正一郎は晋作を見つめてにこりと微笑むと、
 「分かり申した。必要経費と言うわけですな。私の財産は、既に高杉様にお預けしております。どうぞお気兼ねなく」
 と哄笑した。晋作も晋作なら、正一郎も正一郎だった。
 もっとも晋作にあっては、もともと私金と公金との区別がつかない、金に対して特異な無頓着さを持っている。つい昨年も、上海から帰った長崎で、二万両で売りに出ていたオランダの蒸気船を見つけ、少しのためらいもなく独断で注文したことがあった。半植民地化した清の現状に、ただならぬショックを受けたことによる衝動買いである。
 「我が藩は今のままではまずい。これからの世、船は藩にとって大いに有益であろう」
 と、純粋にかつ単純に思ったのだ。結果的には二万両もの金策がつかず、長州藩とのその契約は立ち消えとなるが、これより後にも、晋作の周りにはそうした金がらみの逸話は後を絶たない。彼にとって金は稼ぐものではなく、人に頼んで工面させるものなのだ。
 卯乃は自分の身に関わる重大問題の行方を、ただぽかんとした表情で眺めていた。このとき彼女は二十歳である。
 
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21.政権交代
幕末小説 『梅と菖蒲』
 片方の危機は去った。下関は平和を取り戻し、架空の人物である宍戸刑馬の評判は、専ら“馬関の町を救った英雄”として町人達の間でもてはやされた。
 「いったいどんな素敵なお方であるんやろ……?」
 と、傍らにいた卯乃まで熱をあげている様子で、晋作との会話もけんもほろろにポウッと頬を赤く染めている。彼女はあの日、晋作が着ていた鎧直垂の意味を、全く気付いてないし、また詮索しようともしていない。「この女、本当に鈍感じゃ……」と呆れながらも、晋作自身「あれはボクじゃ」と野暮は言わない。それでも、
 「旦那はんは、あの宍戸刑馬様を知ってなはるの?」
 と言うから、「ああ、よう知っている」と答えた。
 「今度会わせておくれやす」と本気で言うから「あやつは大風呂敷のこんこんちきさ。ボクの方がずっと男前だ」と言ってやった。
 「あら、旦那さま?焼き餅を焼いていなはるの?」
 卯乃は浮気の仕返しだとばかりに、嫌味のない笑顔を浮かべた。そういうところはやはり女であった。自分の夫は自分の方を向かせていたいという本然的な欲求を持っている。そこは雅とは違い、露わにしてくるところは芸妓育ちであった。そこが晋作には可愛いのだ。
 「でも外国はんとの話し合いなら、旦那はんでも務まるんやありまへん?」
 卯乃はときどき不思議なことを言う。
 「それはどういう意味じゃ?」と聞けば、
 「だって旦那はんは神出鬼没で何をお考えなのかわてにもさっぱり分かりまへん。外国はんと同じどすわ。それに……、少し怖い───」
 卯乃は外国と晋作がそういう意味で同じだから対等に話ができると単純に言っている。しかし「そうかも知れない」と納得できる。その単純でありながら鋭い洞察力に時々はっとさせられるのだ。「お卯乃は愚かでなく、とてつもなく利発なのではないか」と感じる時がある。「お卯乃が男で生まれていれば、きっと大きな仕事ができたであろう」と、甚だ惜しいと思う。
 「宍戸刑馬とこの高杉晋作と、夜伽を過ごすとしたらどちらを選ぶか?」
 晋作は意地悪にそう聞いた。
 「そりゃいまお噂の宍戸刑馬様……」
 卯乃はそう言うと無邪気に抱きつき、何度も何度も接吻した。
 「お卯乃、知っておるのか?」
 「なんのこと……?」
 晋作は「どちらでもよいか……」と、卯乃の身体にまとわりついている赤い小袖を優しく撫でた。

 さて、山口の政事堂である。
 一難去って、今度は幕府の長州征伐の対応に追われる長州藩だったが、それに対して幕府に恭順すべきと唱える保守的勢力が増大していた。その中心人物が門閥出身の椋梨藤太で、彼が率いる俗論派は、
 「長州藩が今の危機を打開し、安泰を保つためには、もはや幕府に徹底的に従順するしかない。一刻も早く恭順の意を表し、謝罪すべきだ」
 とする『純一恭順』をもって藩論をまとめ上げようとしていた。過激な尊皇攘夷運動を経験して倒幕論に傾いている正義派にしてみれば、俗論派は獅子身中の虫であったわけだが、確かに現状の兵力で幕府軍に対抗するには無理があることは誰の目にも明らかだった。そんな状況の中で、九月に入って藩主は藩内に恭順を諭した。そこで正義派は、
 「一時的に外へは恭順の姿勢を見せておき、その間軍備を整え、しかるべき時が来たら幕府と戦うべきだ」
 とする『武備恭順』を主張して、藩内の意見は真っ二つに割れた。俗論派は正義派に対し、尊攘活動の中で起こした禁門の変をはじめとしたさまざまな失態や、多くの尊攘派藩士達を失った責任を厳しく追及し、
 「長州藩の危機を招いたのは正義派の連中だ!」
 と、全盛期に比べ勢いの衰えている正義派を、藩の仇敵として駆逐を開始していく。そんな中で行われた御前会議であった。九月二十五日のことである。
 晋作はそこにはいなかった。正義派は二十二歳の最年少家老清水清太郎を弁者に立て、毛利登人、前田孫右衛門、山田宇右衛門、渡辺内蔵太ら老中クラスと井上聞多等、先の講和交渉に立ち合った面々が出席し、俗論派側は椋梨藤太をはじめ、中川宇右衛門、井原主計、熊谷式部らが同席して首席家老の毛利伊勢を弁者に立てて熱弁をふるった。
 朝早くから始められた会議は、両者の主張が激しくぶつかりあり、最初はいっこうに決着がつかない様相だったが、清水清太郎が若い分、次第に経験豊富で論も巧みな毛利伊勢の方に論調が傾いていった。
 「武備恭順などという子供騙しが幕府に通用するとでも思っておるのか?本気で恭順する気がないと気付かれたら最後、我が藩の十倍もの兵力で押し寄せてくるのじゃ!せいぜい武備を整えていたとして、どれほどの対抗ができるというのか!残された兵力、財政面において、もはや幕府に抵抗するのは無理なのじゃ!現実を見よ!」
 もともと彼らには少しばかりの野心もなく、その日その日を平穏に暮らすことだけに執着してきた小市民の集まりだった。つまり徳川幕府の作り出した社会システムに安住することによって、自らの存在価値を見出してきたいわゆる役人の集団である。世の中がどう傾こうと、上役の言うことに忠実に従い、自分達の暮らしが守られているならば特に文句も言うことはなかった。ところがそれを脅かす状況ができたとき、計り知れない不安が彼らの激情をあおりたてたのだ。時代の流れにあまりに鈍感だったツケがまわってきたわけだったが、保身から出たエネルギーは、彼らの身を守るためにこそ最大の力を発揮した。しかし、藩のとった攘夷方針が失敗だったと判断したとき、それに変わる新しい方針を模索し実現していく力は彼らにはない。ひたすら元の鞘に納めようと躍起なのである。
 長いものには巻かれろ───。とにかく幕府には今までのことはひた謝りに謝り、今後永遠に恭順することを信じてもらうしかない。
 いかにも役人らしい発想だったろうが、困ったことに、病気の人間が気を弱くするように、体力が弱った藩にはその俗論派の言葉がもっともに聞こえた。正義派の意見を代弁する清水清太郎の弁論は、毛利伊勢に押されて説得力は次第に薄れていった。そしてお昼も過ぎていた頃である。
 「なかなか結論が出ないようじゃのう。暫く休憩しようではないか」
 と藩主が言った時である。押されぱなしの清水に業を煮やして、井上聞多がいつものように藩主に喰ってかかった。
 「殿!そのような悠長なことを言っている場合ではございませんぞ!」
 と、俗論派の方をかっと睨みつけ、
 「伊勢殿に聞きたい。貴公らは恭順、恭順と純一恭順を申すが、幕府の言うことは全て無条件に受け入れよと言うのであるな?」
 「無論!もはや長州に残された道はそれしかない」
 毛利伊勢は答えた。
 「幕府がお人好しの集まりとお思いか?我らが恭順を示せば、奴らは殿と若殿に切腹を要求してくるぞ!貴公らはそうした要求にも目をつむって恭順するおつもりか!」
 休憩しようと言った藩主毛利敬親と定広の表情が俄に変わった。誰もがはばかって言えないことを、聞多がずけずけと言い放ったのだ。しかも聞多の言うことはもっともであり、俗論派も藩主を目の前にしてさすがに「そうだ」とは言えない。
 「まさかそんなことは言ってこまい……」
 毛利伊勢が苦し紛れに答えた。
 「どうしてそんなことが言えるのか?現に奴らは長州を征伐しようとしているのじゃ!恭順というのは降伏じゃ。戦に負ければ、藩主の首を出せと言われて然るべきじゃ!」
 藩主に対する不吉な言葉に耐えかねて、
 「聞多よ、そんな簡単に切腹だの、首を斬るだの申すでない」
 と世子が言った。
 「若殿!本当に事の重大性を分かっておられるのか?今日の会議はそういう話し合いでござるぞ!安易に伊勢殿らの言っていることを真に受けたら、殿等は死ぬことになるのです!」
 そう言われては藩主父子も他人事でない。やがて世子はこう言った。
 「うむ。聞多の言う通りじゃ。幕府に対しては反省すべきところは反省し、従える範囲の中で従い、今は武備をかためて、それでも許さぬと幕府が言ってきたら、その時は防長を灰にしても戦う覚悟を決めようではないか。これより我が藩は武備恭順でいく!」
 藩主毛利敬親も、
 「うん、そうせい!」
 と言った。これにてようやく藩の方針が決定したのである。俗論派の連中は鋭い視線で聞多を睨みつけた。
 そんなとき、政庁内に正義派にとっては信じがたい凶報がもたらされた。
 「ただいま周布政之助殿、ご切腹!」
 聞多はじめ正義派の連中は耳を疑った。周布政之助といえば京都における長州の全盛期時代より、尊皇攘夷運動の中心的存在として活躍してきた重臣である。聞多にとっては英国行きの便宜を図ってくれた気の良い上司である。晋作が野山獄に入れられている時に獄門を破り、以来謹慎中の身であった。
 周布は藩の革新政策に限界を感じていた。俗論派の台頭に伴い、自らの政策の失敗を自覚したのだった。
 「正義のために藩に多大な迷惑をかけてしまった───」
 ここでいう“正義”とは藩内の政治用語で正義派のことである。
 「もはや自分の出る幕は終わったのだ。人は死すべき時に死せざれば、かえって辱めを受けてしまうものだ───」
 そう言って深夜、山口矢原の地でひとり命を断ったのだった。
 その報により俗論派の勢いはヒートアップした。その日の夜、政事堂から自宅に帰る途中の聞多が、その駆逐の犠牲者となったのだ。
 聞多が政事堂を出たのは夜の八時頃だった。一応は藩主の『武備恭順』の方針を得、周布の切腹に複雑な気持ちで正義派の連中と軽く酒を飲み交わしながら、「これは周布様ばかりではすまないかもしれんな」と言った矢先のことである。もともと山口郊外の湯田には彼の実家があり、そこには兄の五郎三郎と母の房が住んでいた。山口にいるときの彼はそこを滞在場所にしていたので、ほろ酔い気分で従僕の浅吉が持つ提灯の明かりだけを頼りに、五、六キロほどの真っ暗な夜道を歩いていたのだ。
 湯田の入り口に袖解橋がある。その辺りまで来た時、
 「井上聞多さんですね……?」
 闇の中で声をかける男があった。
 「そうだが、なにか用か?」
 と次の瞬間、男は刀を抜いたかと思うと、いきなり聞多に斬りかかった。それも一人ばかりでない。三、四人いる。すっかり酔いが覚めた聞多はかろうじて最初のひと太刀はかわしたものの、土壁に追いつめられて、頭、背、顔面、腹、腕、足……、瞬く間に何箇所となく思い切り斬りつけられた。従僕の浅吉は驚いて、そのまま逃げだし聞多の家に知らせに走った。
 幸いだったのは暗闇だった事と家が近かった事。聞多はめった斬りにされながら、それでも転げるように逃げて近くの芋畑に飛び込んだ。
 「どこに行きやがった!」
 「畑の中に逃げ込んだぞ!」
 聞多は追っ手に気付かれないように手で口をふさぎ、うめき声を押さえた。おびただしい血で身体はビチョビチョだ。すぐ頭の上を刺客達が歩く気配を感じていた。やがて、
 「どのみちあの傷じゃ助からん。引きあげよう」
 という声を聞いた。聞多は意識も朦朧とする中、やっとの思いで近くの農家までたどりつき戸を叩くと、出てきた家の者は泥と血まみれの人間に驚愕した。
 「井上五郎三郎の家まで運んでくれ……」
 聞多は息も絶えゝゝにそれだけ伝えると、もう声も出ない。慌てた農家の者は彼をモッコに乗せて、井上の家まで運んだのである。
 浅吉の連絡に家を飛び出した五郎三郎が現場に到着した時はもう誰もいなかった。彼は暫く周囲を探してみたが、諦めて家に戻った時は、既に聞多は虫の息。
 「聞多!何があった!しっかりしろ!」
 五郎三郎の声に聞多は激痛に耐えながら最後の力で「介錯を頼む」と言おうとしたが、もう声も出ず、わずかに指先だけでそれを伝えるだけだった。しかし兄には彼の言わんとしていることが判った。
 「分かった!いま楽にしてあげるからな!」
 五郎三郎は涙を飲んで刀を抜いて上方に振り上げた。
 「なにをしやるか!」
 咄嗟に聞多の身体に覆い被さったのは母の房である。
 「斬ってはならん!どうしても介錯するというなら、この母もろとも斬りなさい!」
 まだ息のある腹を痛めた我が子の死を目の当たりにするのは、あまりに忍びなかったのである。涙をボロボロこぼして鬼のような形相で兄を睨み付けた。
 「なにをしている!はよう医者を呼んでこんかい!」
 母の叫びに五郎三郎は刀をおさめて家を飛び出した。間もなくやって来たのは漢方医の所郁太郎だった。
 「こりゃ手の施しようがない……」
 顔、頭、背、腹、足などに負った深手の傷を一目見て、郁太郎はさじを投げた。
 「何を言いやる!あんたは医者だろうが!なんとかしてください……」
 房は郁太郎の手を握って拝むように懇願した。
 「分かりました。やるだけのことはやってみましょう。ただし命の保障はありませんぞ」
 房子は「お願いします」と、手術中、聞多の手をずっと握りしめていた。騒ぎを聞いて二人の医師も駆け付けており、三人は協力しあいながら傷口に焼酎を吹きかけ、小さな畳針で次々と傷口の縫合を開始した。聞多は既に気を失っている。そうして五、六十針は縫っただろうか、手術が終わった時には東の空が白々としていた。
 母の愛によってか、聞多は奇跡的にその一命を取り留めたのだった。
 「自分は母に二度産んでもろうた」
 と後年彼は語るが、俗論派の駆逐はそれだけにとどまらず、間もなく賊魁の財満新三郎と嶋尾五郎右衛門ら六百名を清光寺に集め、俗論派過激部隊となる撰鋒隊を結党するに至り、次々と正義派志士が狙われ、その狂気の行動に正義派の幹部達は震え上がった。
 周布の自刃と聞多の暗殺未遂───、この二人が藩政治の舞台から姿を消したことにより、いよいよ俗論派は政治の主導権を握り、それまで政庁の役人を務めていた正義派の毛利登人、前田孫右衛門、山田宇右衛門、渡辺内蔵太らは、追い込まれてぞくぞくと辞表を出してしまうのだった。そうして政務座役等の官僚をことごとく俗論派の人間で占めさせ、いわゆる政権交代をやってのけたのである。
 晋作の身もいよいよ危険だった。一刻も早く身を引こうと、十月十六日、病気を理由に萩に隠遁することにした。病気というのはあながち嘘でもなかった。たまにどこか身体がだるい日があったからだ。それより何より、去る十月五日には長男梅之進誕生の吉報が舞い込んでいたのである。辞職を提出するにはちょうど良いタイミングでもあった。
 萩に帰ると聞いて、卯乃はいらいらしている。
 「今度はいつお戻りにならはるの?」
 「わからん。運に聞け……」
 「赤子に会いたいんやろ?わてはやっぱり独りぼっちや……」
 「おなごの目にはやはりそう映るか。しかし今ここにおったらボクの命が危ういのじゃ」
 晋作はひとつの漢詩を詠んだ。

 内憂外患迫吾洲(内憂外患わが洲に迫る)
 正是邦家存亡秋(まさにこれ邦家存亡の秋)
 将立回天回運策(まさに回天回運の策を立てんとす)
 捨親捨子亦何悲(親を捨て子を捨つるまた何ぞ悲しまん)

 卯乃には詩の意味はよく分からなかったが、家に最期の別れの挨拶をしに行くのだろうと直感した。すると、またすぐに会えるような気がした。
 「旦那はんはこういうご時世にお生まれになったんやもんな……。わては旦那はんに選ばれた女や。あの床の間の梅を旦那はんと思い、ずっと待っておりますわ」
 卯乃は梅の鉢に水を差した。
 「旦那はんは梅の花がお好きなのやろ?白石様がそう申しておりましたわ」
 晋作は静かに笑った。我が子に“梅之進”と命名したほど好きなのだ。
 「次に会う時はその梅の花を一緒に見ようぞ」
 思えば萩の菊屋横町の実家にも梅の木があった。幼少の頃はよくその木に登って遊んだものである。また、松下村塾のすぐ近くにも梅の木があった。松陰と一緒にその梅の木の袂で語った。冬の終わりに咲く梅の花は、春の訪れを待たずして散ってしまうが、百花繚乱の季節の中で、自分だけはしっかり実をつけるのだ。
 晋作は梅を見ると松陰を思い出す。新しい時代の夜明けの春を見ることなく逝った松陰だが、彼の留めおいた思想はやがて実をつけると信じて疑わない。いや、弟子として実を結ばせなければならないのだ。それが弟子の使命なのだ。その思いが強ければ強いほど晋作は焦った。
 ところが現状はどうか?俗論党にしてやられて、もはや松陰の大和魂は朽ち果てようとしているのではないか?
 現に周りを見渡せば、松陰から直接薫陶を受けた志士達はいま何人残っているだろうか……?禁門の変で久坂も九一も死んだ、その前の池田屋で吉田稔麿も死んだ。あの松下村塾で席を並べて師を仰いだ魂の同志達は、いまことごとく師の元へ逝ってしまったのだ。そのうえ周布政之助まで死んだ。聞多もやられた───。わずかに残された者と言えば伊東俊輔くらいか……。しかし農民育ちの彼には武士の何たるかの本質の意味が分かっていない。とうてい頼れる存在とは言い難い。頼みの桂小五郎も、禁門の変以来どこかへ姿をくらましたままである。
 同志の死を思うと胸が苦しくなった。だから考えないようにしているが、ときたま堰を切ったように悲しみが襲ってくる時がある。その彼の心を見透かしたように、
 「旦那はんは梅の花のようどすなあ……」
 ふと、卯乃がそう言った。
 「どうしてじゃ?」
 晋作はみつめ返して言った。
 「今年の冬、この梅の花が咲いたとき思ったんな。もう少し待てば春が来るのに、春を待って他のお花はんと一緒に咲けば楽しかろうに、なんでひとりぼっち先に咲いてしまうんやろって……。なんだか旦那はん見とると淋しそうやさかい……」
 「お卯乃と同じじゃの。だからボクらは気が合うのかもしれん……」
 卯乃はにこっと嬉しそうに笑った。
 
> 【 回天の章 】 > 22.勝と西郷
22.勝と西郷
幕末小説 『梅と菖蒲』
 長州藩の実態を遠くから、強かに且つ冷静に分析する男がいた。
 「もはや長州には人材がおらぬでごわす。しかて言うなら桂小五郎と高杉晋作。そいどん桂は逃げ隠れ、高杉とて一人では何もでけん。わざわざ長州くんだりまで兵を連れて行かなくても、内部争いを引き起こせば、幕府が手を汚すまでんなく長州は勝手に滅びもす」
 という恐ろしい計算をしている。その男こそ薩摩の西郷吉之助こと西郷隆盛である。
 長州は思想集団であり、薩摩は政治集団であったとは、かの司馬遼太郎氏の見解であるが、なるほど幕末における両藩の性質は一線を画す。対して幕府は何かと問えば、それは役人集団であったと言える。それに付随する会津などは役人右翼集団であり、長州俗論派もそれになろうとしている。端からこの三者は相容れるものではなく、あえていうなら政治的に物事を判断する薩摩こそ、その中性的な資質で情勢を変える可能性があったといえる。しかし薩摩藩という雄藩でも幕府を相手にしては反抗できるほどの勢力はなく、強大な幕府の中ではいかに有利な立場で政治の主導を握るかが目下の課題であって、長州正義派のようにあからさまに倒幕を示すような行動は間違ってもしない。幕府が長州征伐と言えば、政治的にそれに従うのは当然であった。
 そのころ西郷は征長軍参謀に任命され、総督徳川慶勝に長州処分を委任される。そして、
 「防長二州は長州征伐に功績のあった諸藩で分割する」
 と、征伐成功後の褒賞まで考えていた。ところが幕府側の重臣であった勝海舟と大坂で面会し、その考えを少しずつ改めていくことになる。
 この勝海舟という男、文政六年(一八二三)に江戸で生まれた古参の幕臣である。父小吉はうだつのあがらない旗本だったが、幼名麟太郎こと勝は剣術修行を経て蘭学を学び、猛勉強を積みながらどんどん実力を蓄えていく。そして佐久間象山の勧めもあって西洋兵学を修め私塾を開くが、この頃ペリー来航という大事件を迎える。このとき勝が応募した海防に関する意見書が老中阿部正弘の目にとまり、そこから彼の栄転がはじまった。その後、長崎の海軍伝習所に入門し更なる学問を積み、ついには日本を代表してアメリカへ渡るのである。ここに吉田松陰との決定的な違いがある。片や革新運動家、片や幕府役人。そして勝がアメリカへ行っている間に安政の大獄が起こる。そして、片や処刑、片や出世。松陰は天皇を頂点とした万民平等の新しい国家のあり方を指向し、勝は幕府旧体制を危惧しながらも世界の列強諸国に対抗し得る国家体制を指向した。松陰の一君万民論は日本が世界に対抗し得るための社会を構成する個々人内部からの革命論だったことに対し、勝は時勢を見つめた上で幕府、諸藩の枠を取り払った組織的な総合力で世界に対抗しようとした。皮肉にも考え方こそ違え、その目指すところは非常に似ていた。
 西郷との一回目の会見当時、勝は幕府軍艦奉行を罷免され、蟄居生活を送る最中であったが、それまでに神戸に海軍操練所を設立し、薩摩や土佐のはみ出し者や脱藩者を受け入れるような官僚らしからぬ官僚として、坂本龍馬をはじめ多くの人材群を輩出している。その一面だけ見ても役人集団の中では極めて異例の傑出した人物であったと言ってよい。海軍というものにおいても、それは幕府のものではなく『日本の海軍』を建設すべきだと主張し、そのため幕府内の保守派からも睨まれていたのである。
 会談は、神戸港開港延期による列強諸国の反発に対して、どう対処すべきかを西郷が勝に意見を求めたことに加え、話は日本国の未来像にまで及んだ。
 「幕府はもうダメだ───」
 そう語る勝に西郷は驚いた。少なくともその頃の薩摩は幕府に従うしかないとの方針だったから、幕臣である勝の口からそんな科白を聞くとは思いもよらなかったのだ。生来口数の少ない西郷は勝をみつめた。その威厳だけで会話を成立させてしまう凄味がある。
 「まったく幕府が打つ手といったら時代錯誤も甚だしい。一昨年前も幕府復権の策に何をするかと思って見ておれば参勤交代の妻子の江戸在住制度の復旧だ。政局の中心はすでに京にあるのに、江戸でそんな政策を行って何になる?諸藩は今どこも財政難だ。反発を買うばかり。この度の長州征伐令においても、将軍自らが進発と言っているにもかかわらず、恐れ入る者もなければ奮い立つ者もない。みな責任は上司まかせの役人根性の集団に成り下がり、それを立て直そうとする逸材が出るどころか、そのことに気付いてすらおらん。これじゃあ戦など起こしても、わずか長州一藩相手に負ける可能性だってある」
 勝はまるで他人事のように言う。
 「そいどん幕府は幕府でごわす。腐っても鯛と言うではあいもはんか」
 「腐った物は喰えんぞ。俺は腐った魚を食って腹をこわしたことがある。西郷さんは丈夫そうだがね」
 と、勝は気さくに笑った。人の心を手玉に取る才は天下逸品なのだ。
 「それに長州藩に同情する藩も多いと聞く。幕府がいくら何十万という人を集めたとしても、戦争だ参勤だと言われて集まった一人ひとりは忠誠を立てるどころか腹を立てておる。そんな人間で構成された軍など、見かけは豪勢に見えても内実は砂城と同じだよ」
 「勝さんは長州征伐に反対でごわすか?」
 「日本国内でつまらぬ内部争いをしておる場合じゃないと言っている。幕府じゃ藩じゃとドングリの背比べをしている間に列強諸国に喰われてしまうぞ」
 その点勝も晋作と同じ危機感を持っていた。勝は万延元年(一八六〇)日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節として咸臨丸に乗って米国へ渡った。その帰りアメリカの植民地となっていたハワイに立ち寄り、そこで奴隷の如くアメリカ人に扱われるハワイ原住民の姿を見ている。日本もそうなってしまえば、もはや幕府だ薩摩だ長州だなどと言い争える状況ではなくなってしまうと主張した。ついには、
 「幕府は西郷さんが言ったとおり腐っている。俺の口からこんなことを言ったらおかしいか?だが、俺は幕府の民ではなく日本国民なのだ。いま日本に必要なのは、雄藩連合による共和政治をおこなうべき事なのだよ」
 と討幕を示唆しながら、幕府の最高機密をあからさまに洩らすのだった。
 後に明治維新の三傑に名を連ねる西郷隆盛にして驚愕した。世界の中の日本国民という視野で物事を考えている勝のスケールの大きさに「幕府にもこげんすごか人間がいたか」と言葉を失った。この会談を終えて西郷は、
 「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」
 と、同胞の大久保利通に宛てた書簡に書いている。一方、勝にしてみれば、西郷ほどの人材を薩摩という小さな枠の中で働かせておくのは惜しいと考えたに相違ない。後に、この二人の会談によって、江戸城無血開城という歴史的大偉業がなされることになる。ともあれ勝の知略と度量にすっかり啓発を受けた西郷は、倒幕への意識を芽生えさせつつ、戦わずして長州征伐を終結させる方法を模索するのであった。それがこの項の冒頭で述べた策略である。彼の耳には、既に長州が俗論派と正義派で分裂していると情報が入っている。それを利用しない手はない。

 晋作は萩にいた。
 ところがそのころ萩は椋梨藤太ら俗論党の手中にあった。幕府に対し恭順の姿勢を示すため、藩主親子を萩城に引き込ませ、それに伴い政庁も山口から萩に移動していた。そもそも近年、内陸部にある山口へ政庁を移動したのは、幕府や夷敵等外部からの侵入を防ぎ、戦意を示して威嚇するためであったから、藩主を山口から萩に移すことは恭順の意思を示すことになるわけである。加えて遂に俗論党は、晋作はじめ正義派の政務座役や目付役、また禁門の変の際参謀を務めた宍戸左馬介、中村九郎、竹内正兵衛らの逮捕に乗り切ったのである。更に奇兵隊結成以来、各地で盛んに作られていた諸隊に対して、解散命令を下す。晋作の身の危機はすぐそこに迫っていた。
 ところが逮捕令が出たことは当然晋作の耳には入らない。しかし不穏な空気が日に日に深まっていくのを肌で感じていた。
 そして十月二十五日、宍戸左馬介が捕まり野山獄に投獄される。
 その噂を聞いた晋作は、
 「逃げねば───」
 と咄嗟に判断した。実は数日前の夜、同じ政務座役を務めていた楢崎弥八郎を訪ね、一緒に脱走しようと勧めたばかりであった。ところが彼は、
 「わしは逃げぬ。逃げれば我ら正義派が間違っていると認めるようなもの。俗論党め!お縄にするならしてみよ!」
 と聞かない。「捕まれば殺される」と必至に説いたが、結局彼は動こうとはしなかった。
 やむなく晋作は一人で逃げることにした。脱走前、酔っぱらい町人を装うため古びた単物を着、手拭いで頬被りをして瓢箪の徳利を雅に用意させた。雅は言われるままに身支度を手伝いながら、「どこに行くのだろう?」と思いながらも言葉には出さなかった。
 「雅、暫く戻らぬからそのつもりでいよ」
 「はい───。家のことはご心配なさらないでくださいませ」
 晋作のそういう行動にはもう慣れてしまっているのか、雅は別に悲しい顔もしなかった。小忠太も藩の情勢をよく知っていたから何も言わない。「無事に逃げよ」という目だけでうなずいた。
 晋作は生まれたばかりの梅之進の顔を見た。赤子の静かな寝息は、世の諍い事を悠々と見下ろしているようでもあった。
 「雅、梅之進を頼んだぞ」
 晋作はそう言い残すと、家の裏口から外を警戒するように飛び出して行った。
 それから間もなく菊屋横町の屋敷に、数人の奉行所の役人が「高杉晋作はおるか?」とやって来た。野生の感とでも言おうか、天に導かれたとでも言おうか、晋作、まさに間一髪だった。
 彼はそのまま山口へ向かう。脱走したにも関わらず、俗論党の本拠地と化した政事堂のある山口に向かったのは、どうしても会っておかなければならない者がいたからである。そう、井上聞多である。正義派のために命を狙われ、なんとか命は取り留めたものの、今は動くこともできずに自宅で寝込んだままのはずである。晋作自身いつ死ぬか分からぬ身、今生の別れを告げるとともに、彼の一途な勇気を讃え、見舞ってやりたかったのだ。
 井上五郎三郎宅のひとつの部屋に、身体中に晒を巻かれた聞多が、寂然と布団の上に横たわっていた。晋作は部屋に案内されると、そのまま布団の脇に胡座をかいて聞多の右手を握りしめた。
 「聞多、ボクじゃ。しっかりせい」
 「高杉さん……」
 聞多は声にならない声をあげると、身体を起こそうと身じろぎをした。
 「動くな。そのままでよい」
 聞多の両目から耳の方に向かって涙が流れ落ちた。
 「分かっているよ。何も心配するな。あとはボクに任せろ……」
 二人の間に言葉はいらなかった。聞多は右手から伝わる晋作の両手の熱と力から、これから俗論党に対して反転攻勢をかける決死の決意を感じ取った。「自分も連れて行ってください!」と聞多の右手が言った。
 「何を申すか。気持ちは分かるが、その身体では足手まといじゃ」
 聞多は晋作の手を握り返したが、筋肉が弱化して、晋作にはどれほどの感触にもならなかった。だがその思いは弾丸のように晋作の胸を突いた。
 「もう世が明ける頃です。昼間は危険ですから、うちでゆっくりお休みいただき、夜発たれた方が良いでしょう」
 五郎三郎は晋作の身を案じてそう言った。晋作は五郎三郎の好意に甘えることにした。そして聞多の母房が作った飯を食べ終えると、そのまま聞多の横にごろりと寝ころんで、深い眠りについた。そしてその夜、
 「聞多よ、生きておったらまた会おう」
 と、晋作は恍惚とした表情で聞多のもとを去ったのだった。

 さて、どうするか……。
 晋作は身の危険を感じながらも山口に宿をとって善後策を考えることにした。この頃の晋作の変名は谷梅之助と言う。藩内の状況を把握するため、従兄弟の南亀五郎を呼んで話を聞こうと、その名を使って彼がいるはずの政事堂に遣いを出したのだ。
 その間いろいろ考えてみた。政事堂に談判に行き、俗論党になった役人達の前で腹をかっ斬ろうかとも考えてみたが、そんな事で命を落としてみても後が続かない。もはや松陰の流れを継ぐ正義派の火種は自分にしかないのだ。残されたこの自分一人から、略奪された政権をひっくり返すしかないのだ。
 「奇兵隊───」
 ふと、頭の中にその名称が浮かんだ。紛れもなく彼はその開闢総督なのだ。
 奇兵隊はいま、三田尻の徳地にその屯所を構え、松下村塾生の山県狂介が軍監を務め、禁門の変で死んだ入江九一の弟である野村和作もいるはずだった。第三代総管の赤根武人はこのころ正義派と俗論党のいざこざに耐えられなかったのか、帰郷して姿を消している。既に俗論党は諸隊に解散命令を出していたが、このとき奇兵隊は、藩の命令のままに解散するか、逆に藩に反抗して武装を強化し、独自に倒幕の道を進むかの厳しい選択を迫られていた。晋作の望みは、草莽崛起の思想から生まれた四民平等武装集団という、幕府開始以来下層階級で苦しめられてきた農民、庶民達の幕府に対する怒りに期待することだった。
 奇兵隊をもって俗論党の撰鋒隊と一戦交え、それに勝利すればあるいは正義派に流れがなびくかも知れない───。
 ただ、この頃の奇兵隊の人数は二〇〇名程度である。
 やはり、無理か……。
 そんなことを考えているうちに亀五郎がやってきた。
 「こんなところにおりましたか」
 と開口一番、藩が晋作を捕縛しようとしていることを告げた。
 「やはりそうであったな……」
 亀五郎の話によると、宍戸左馬介のあと楢崎弥八郎、中村九郎、佐久間佐兵衛らも野山獄に入れられ、他の正義派元幹部が捕まるのも時間の問題だろうとのことである。そして諸隊の長が藩庁に召喚され、俗論党は給与その他の援助を打切り、解散命令を出したと言い、かろうじて奇兵隊や八幡隊などの一部がその召喚に応じなかったことを伝えた。
 「まだ脈はあるな───」
 そう思った晋作は、亀五郎に礼を述べると奇兵隊に一縷の望みを託し、そのまま徳地の屯所に向かって走り出した。
 ところが出迎えた山県狂介の顔は、いかにも苦渋に満ちていて、とても俗論党と一戦交えて政権を奪還しようという気概の微塵もない。彼が悩んでいることといえば、藩庁の召喚を蹴ったものの、これからどのように隊を維持していこうかという消極的なもので、その問題を晋作に問いかけるほどだったのだ。山県狂介は松下村塾生ではあったが、入塾して数カ月後に松陰は獄に下ったため、直接薫陶を受けた期間は極めて短い。加えて、もともと足軽以下の身分であったため、士分としての誇りも非常に薄く、晋作は期待した自分が愚かであったことを知る。山県の志気によっては「これより俗論党を討ちにゆくぞ!」と言うところであったが、
 「ボクは九州に行く」
 と、突然方針を変えて伝えたのみだった。なぜ九州なのか首をひねるところであるが、晋作にはきちんとした裏付けがある。
 「九州へ……?いったい何をしに?」
 「同志を募り、義軍を編成する。そしてそいつを率いて俗論党を潰す……」
 山県は何も言わなかった。深い闇の中で燈火が沈々と揺れていた。

  ともし火の影細く見る今宵かな

 晋作は一首の詩を詠んで紙にしたためた。すると山県は、
 「高杉さん、奇兵隊に留まっていたほうが安全ですよ……。私達が守りますから」
 と、晋作を引き留めようとした。晋作は「志気の失せた今の奇兵隊に世話になった方が危険じゃ」と言おうとしたが、言うのもバカらしくなって、
 「もうよい。時間がない。ボクは行く───」
 と、そのまま奇兵隊屯所を発ち、三田尻の招賢閣に向かった。
 招賢閣に陣所する忠勇隊には、福岡藩を脱藩した中村円太という男がいた。そのころ忠勇隊総督には土佐脱藩浪士の中岡慎太郎が就任している。中村円太といえば禁門の変で戦死した真木和泉と並んで尊攘派浪士を代表する人物だったが、禁門の変に間に合わず死に場所を逸した意味においては悲劇の浪士だった。当時、彼は野唯人という変名を名乗って三田尻にいたが、晋作が彼に興味を示したのは、彼が唱える『九州連合策』なる戦略論においてだった。
 「長藩における正義派の勢力を得せしめるがためには、外から九州連衡の勢力を以てこれを助けるのが一番である」
 と───。晋作が九州に行くと言ったのは、福岡藩出身の彼の人脈を利用しようとしたことに他ならない。以前、京都で出会った中岡慎太郎に要件だけ話すと、円太への書状を託し、そのまま富海から船に乗って、ひとまず卯乃の待つ下関へと向かうのだった。
 
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23.談合尽く
幕末小説 『梅と菖蒲』
 「まあ、旦那はん!」
 卯乃は晋作に飛びついた。
 「今日は酒屋の丁稚奉公のような恰好どすなあ。お侍はん、やめますのん?」
 思えば萩の家を飛び出したままの服装だ。手拭いを首に巻き、瓢箪の徳利を腰に巻き付け、けっこう気に入ってはいるが、そんな恰好で山県や中岡に会っていたのだ。自分ながらおかしくなる。
 「それもあるいはいいかも知れんな。どうじゃ?酒屋の女房になるか?」
 「毎日お酒が飲めて楽しおすわ」
 その楽観ぶりに晋作は苦笑した。
 「お卯乃、せっかく来たがゆっくりしておれん。これから白石殿のところに行くが一緒に行くか?」
 「へえ、行きやす」
 まるで思慮のない即答に、晋作は顔をしかめながら白石正一郎宅に向かって歩き出した。残された最期の時間を、少しでも彼女といたかったのだ。季節はすっかり冬に入った。卯乃は丹前の衿を首に巻き付けたような恰好で彼の後を歩く。
 「寒いか……?」
 「へえ……」
 「歩いておれば身体も温まる」
 晋作は自分の法被を卯乃に被せた。
 「長州藩ももういかん……」
 いつにない彼の険しい表情を、卯乃は脳天気に笑いながら見つめ返した。
 「いかんて……?これから、どないなってしまうん?」
 「そうよの……」
 晋作は歩きながら考えた。幕府恭順ということになれば長州は幕府の傀儡となる。幕府が日本の主となれば、いずれ日本は列強の植民地となる。植民地となれば苦しむのは名もない一介の庶民達だ。晋作の頭にはそういう方程式がある。
 仮にそうなったとして───
 晋作は卯乃が心配する末の世の中を想像してみた。
 植民地になったとして、いったい庶民の生活の営みにどんな変化があるというのか?彼らは時の権力や趨勢の中に置かれながらも、いつの時代も力強くまた逞しく生きてきたではないか?あるいは恭順派のように、長いものには巻かれた方が、彼らを苦しめずにすむのではないか?
 ふと、保守的な見地に立ってそんなことも考えてみた。
 ───否、やはりそれは違う。
 晋作は即座に否定した。
 あの植民地化された上海を見たではないか。あの光景のどこに幸福があるというのか。国家が個々人へ圧力をかけたとき、総体は死へと向かうのだ。権力への服従は、それはそのまま個々人の魂の死となっていくのだ。生きながらの死とはそのことなのだ。
 「そうよの……、長州が潰れたら、日本国の民がことごとく死んでしまうなあ……」
 「ええっ!旦那はんも、わても……?そりゃ困ります!」
 国家とは、個々人の生への総合力によって形成されるべきものであり、それが松陰の描いた壮大な構想なのだ。松陰の言う“志”こそ個々人を“生”たらしめる起爆剤なのである。ところが今の日本に、この志を抱いた人間がどれほどいるか。いま自分が屈したら、日本人の魂は死ぬ。松陰が留め置いた大和魂が死んでしまうのだ。
 いまの自分の使命とは何かと問えば、それは屈しないことだ。負けないことだ。たとえ死んでも……。人生とはその死に場所を探す旅なのだ。晋作はそう達観している。
 晋作は立ち止まって卯乃を見つめた。
 「心配するな。ボクは死なんつもりじゃ、この体が滅びてもな。それに連なるお卯乃も死なんよ」
 「それを聞いて安心したわ」
 卯乃は花のように笑った。その可憐さに彼女の行く末を思った。正妻の雅には守る家もあり、子もある。ところが彼が死んでしまったら、卯乃には守るべき何もないではないか。それを思うと哀れでならない。別の男と一緒になって、彼女が幸せになるのであればそれもよい。しかしこの不器用さではそうした望みも非常に薄い。結局は馬鹿な男に利用され、挙げ句は捨てられ、途方に暮れるのは目に見えている。ならば自分の妻女として、余生を生きることの方が幸福に違いない。
 「のう、お卯乃。ボクが死んだら墓守りになってくれぬか?そうよの、ボクの墓は吉田松陰先生の隣りがよい。久坂玄瑞や九一や稔麿など、ボクの友達も一緒にな……」
 「おかしいわあ。いま死なないって言いはったばかりやおまへんか?」
 「死なんのはボクの大和魂じゃ。この身体は滅ぶかもしれん」
 卯乃は悲しそうな顔をした。と、晋作の手を握り、自分の頬にぐっと押し当てた。
 「卯乃はどこも行くとこおまへんさかい。ずっと旦那はんと一緒や」
 木枯らしが二人の体温を奪い去った。晋作は卯乃を抱きしめた。

 二人が白石宅に着いたのはお昼を過ぎた頃だった。
 「これはこれは高杉様。お卯乃さんとご一緒とは珍しい。さっ、どうぞ、どうぞ」
 正一郎はそう言うと、二人を奥座敷へ招いた。
 「萩では俗論党が大沸騰しておる。次々と正義派の中心人物が捕まり牢に入れられている。ボクの身も危うくなったので逃げてきた。暫く匿うてくれ」
 正一郎は藩政の意外な展開に表情を曇らせた。外国との講和交渉を成功させて、喝采をもって迎えられるべき晋作達正義派が、わずかひと月半程度しか経っていないというのに、形勢が逆転して命を狙われているとは。奇兵隊への援助により、正一郎の資産も底をつきはじめている。しかし晋作に付いていくという腹は既に決まっている。
 「ここに潜伏していれば安心です。我が家と思うてお使いくだされ」
 「いつもかたじけないのう……」
 晋作は深々と頭を下げた。
 「そんなことより、そうとなってはいかがなさるおつもりです?」
 正一郎は心配そうに火鉢の炭に火をおこしながら言った。
 「筑前に渡ろうと思う」
 卯乃は晋作の横顔を驚いたように見つめた。
 「筑前に……?対馬藩ですな。義軍を募るおつもりですか……」
 さすが正一郎である。のみ込みが早い。晋作は静かに肯いた。
 対馬藩と長州藩は尊攘運動が絶頂期にあった文久二年に同盟を結んでいる(対長同盟)。それには桂小五郎も絶大な尽力をしており、以来両藩は非常に友好的な関係を保っていた。八月十八日の政変以来、蛤御門、四カ国戦争と、長州の尊皇攘夷体制が崩壊していく中にあって、対馬藩では同盟国長州の屈辱を果たそうと、脱藩してまで長州勢に加わる藩士も続出していたほどなのである。
 「しかし宛がありますか?」
 正一郎が言った。その頃、対馬藩士に平田大江という男がいた。当時彼は田代領(現在の佐賀県東部の鳥栖市と基山町)を任されており、福岡藩を仲介にして対長と薩摩が同盟を組むことを指向しており、勝海舟と同じ雄藩連合論を立てていた。そんなことは晋作も知らないが、唯一、漠然とした宛があるといえば彼だった。
 「三田尻に元福岡藩の野唯人という男がおる。彼にここに来るよう言付けておいた」
 「野唯人……?ああ、中村円太様のことですな。尊攘運動の時は真木和泉様と並び称されていたお方と聞いておりますが、禁門の変に間に合わず、その後はなにやら遊蕩にふけっているという噂がしきりのようですが……」
 「藩内の正義派勢力だけではとても俗論党を倒せない。奇兵隊もあてにならんし、外に望みを託すしかないのじゃ……」
 正一郎は暫く黙っていたが、やがて、
 「それならば博多で海運業をしている石蔵屋に行くとよいでしょう。主人の石蔵卯平は勤皇志士との交わりも深い。私から紹介状を書いておきます。そうだ、末の弟をお供に付けましょう」
 と、奉公人を呼び寄せ、正一郎の末の弟である大庭伝七を呼ぶよう使いに走らせた。
 そうして間もなく大庭伝七が来て、酒など酌み交わしながら円太の到着を待っていると、夜半になって九州の久留米から渕上郁太郎という男が白石宅に訪れた。
 「はて、どちら様でございましょう」
 「久留米の渕上郁太郎と申す。石蔵屋からこちらに荷が届いておると思うが受け取りに来た」
 「ああ、聞いております。まあ、どうぞお上がりください」
 と、先程話に出たばかりの石蔵屋のこともあって、「これも何かの引き合わせかもしれません」と晋作に告げたところ、「会おう」ということになった。
 この渕上郁太郎という男、以前から久留米藩士の過激攘夷派の真木和泉に師事し、久留米藩校明善堂の教授を務めたが、文久三年に脱藩して上京し尊攘運動に加わって以来、長州のために奔走している男であった。あの池田屋事件でも急死に一生を得、禁門の変にも参加したが、敗れて後は筑前に下り、久留米藩の同志と今後の取るべき行動を模索していたのである。
 正一郎は郁太郎に盃を注ぎながら、
 「こちらが長州藩の高杉晋作様でございます」
 と紹介した。晋作は卯乃の膝枕で横になりながらぶっきらぼうに挨拶した。
 「あなたが高杉様……。私は長州藩の政情を詮索に参ったが、このたいへんな時に、あなたは女を傍らに酒を飲んで、こんなところで何をしているのですか?」
 「今生の思い出に妻をはべらせて悪いか?」
 「妻……?」
 郁太郎は卯乃の顔をじろりと睨んだ。
 「こわいお顔やわあ……」
 卯乃は晋作に寄り添うように下を向いた。
 「おなごを怖がらせるようでは大きな仕事はできんぞ」
 正一郎は「まあ、まあ」と言いながら、晋作の置かれた状況を細かに郁太郎に話し出した。晋作はようやく体を起こした。
 「長州はもういかんよ。俗論党にのっとられてしもうたわ」
 晋作は郁太郎の盃に酒を注ぎながら気さくに話しかけ、そのうち郁太郎の表情も和らいでいくのが見て取れた。
 「では其処元は、これから筑前に渡るというのですか?」
 話がそこに至って郁太郎の表情が曇った。
 「対馬藩の状況はどうか?何か知っておったら教えてくれぬか」
 晋作の問いに、郁太郎は「義軍を募るのは難しいだろう」と、すまなそうに話を始めた。
 対馬藩の尊攘派の牙城は日新館という近年できた藩校だった。尊攘運動全盛期の頃は、そこで文武を備えた多くの精鋭の志士達を輩出してきたが、そこまでは晋作も知っている。ところが先月と言うからつい最近の話である。幕府の長州征伐令によって、そのとばっちりを恐れた対馬藩重臣の勝井五八朗は、攘夷派勢力を一掃させるクーデターを藩内で起こしたと言うのである。あたかも長州で起こっているのと同じことが対馬藩でも起きていた。藩内のいざこざに追われ、藩外の情報にはとんと気を回す余裕のなかった晋作は驚いた。そのクーデターによって、日新館を創設した元家老大浦教之助は捕らえられ獄死し、それに連鎖して幾度八郎も自害、更には日新館派一〇〇名もの志士達が次々と非業の最期を遂げたと言うのである。そして現在、勝井五八朗は自らが奥家老となり、対馬藩の政権の座を牛耳ったと落胆したように言うのであった。そして、
 「いま対馬藩にはとても長州に加勢するほどの余力はないと見る。私も対馬の平田大江さんに頼まれて長州の情勢を探り、できるならば援軍を頼みに来たのじゃ……。平田さんも高杉さんと同じ様な立場じゃ。こうしている間にも勝井に狙われておる……」
 晋作は俄に笑い出した。郁太郎はこの期に及んで笑う余裕の晋作に呆れた。
 「考えることは同じじゃのう。追い込まれた者同士がお互いを頼っているとは皮肉なもんじゃ。お互い打つ手がなくなったな……」
 晋作は卯乃に酒を注がせ、ふいに、
 「お卯乃、お前だったらどうする?」
 と聞いた。
 「もう、いじわるやわ!わてにそんな難しいことわかるわけおまへんやん」
 卯乃はそう言うと、晋作の盃を奪って酒を飲み干した。
 「でもな、わて時々馬関の港に立って思うんや。すぐ向こうに九州の山が見えるのに海があって行けへんやろ。何でこんな近くなのに行けへんのやろうって、そう思わへん?わてなら、どうせ死ぬと分かっているのやったら、死ぬ前にいっぺん九州に行ってみたいなあ」
 晋作は愉快に笑い出した。
 「お卯乃の言う通りじゃの。ここにいても埒が明かん。しかし動けば瓢箪から駒が出ることだってあるかも知れんからな。死ぬ前に九州物見遊山も悪くない。お卯乃、一緒に行くか?」
 「へえ!行きやす!」
 また思慮のない卯乃のはしゃぎように、さすがに正一郎が引き留めた。
 「それはあまりに無謀でございましょう。今の話では向こうに渡ったとしても確実に高杉様は狙われます。お卯乃さんを伴っては足手まといになるだけですぞ!」
 「女同伴の方が敵を欺けよう」
 「駄目でございます!」
 晋作にしてみれば自分が死んで卯乃を一人残すより、いっそ死ぬときは一緒の方が後腐れもなく良いと思ったが、そこは正一郎の方が紳士であった。
 「───だとさ……。白石殿には逆らえんのう」
 晋作は卯乃の盃を取り返すと、手酌で飲んだ。
 「残念どすわあ。また今度、どこかに連れて行っておくれやす」
 「ボクの命があったらな……」
 晋作は再び笑って酒を口に運んだ。
 「ところで中村円太様はいつ来るのでしょうか?」
 今まで会話に入れず大人しく飲んでいた大庭伝七がつぶやいた。
 「まあ、そう慌てるな。志があればそのうちに来るよ」
 晋作は伝七にも酒を注いだ。そんな会話に、
 「中村君なら下関の長太楼におりますぞ。私は彼にも会いに来たのですから」
 と、郁太郎が言った。
 「ほう、それは都合がよい。渕上さん、ひとつ彼を迎えに行ってくれませんか?お察しの通り、いま長州は対馬に援軍を送れる状態ではない。しかしどちらかを優先しなければならんとすると、長州と対馬、どちらだと考える?例えば対馬を立て直したとして、それが幕府に対抗し得る力になるか?やはり長州が先じゃ。長州が立て直せば対馬もなびく。どうじゃ?」
 「その通りだ」と、やがて郁太郎は円太を呼びに、下関の長太楼に向かった。
 そして翌々日、円太が白石宅にやって来た。郁太郎は別件で三田尻に行かなければならない用事があると言ってそのまま発った。そこで、晋作、円太、伝七の三人が筑前に行くことになり、十一月に入って一日、彼らは正一郎と卯乃はじめ、集まった数人の同志と別杯を交わし、冷たい海路、筑前へと渡る。

 内憂外患迫吾州(内憂外患吾が州に迫る)
 正是危急存亡秋(正にこれ危急存亡の秋)
 唯為那君為那国(唯邦君のために邦国のために)
 降殫名姓又何愁(名姓が降殫るもまた何ぞ愁えん)

 三人が商人の町、博多の石蔵屋に到着したのは三日のことだった。
 石蔵屋は江戸時代初期から博多商人として、海運業、水産業、酒造業を営んできた老舗である。当時は対馬藩御用達商人として、多くの尊攘派志士達との交わりも深く、主人の石蔵卯平は対馬と福岡両藩士のために金銭を供給し、あるいは家に志士を庇ったり、あるいは志士の依頼で各地の状況を偵察する、対馬藩士平田大江との深い内通者でもあった。
 晋作が筑前に入った密報を受け、さっそく石蔵屋には福岡藩士尊皇派の月形洗蔵や加藤司書らが集まり、倒幕のための九州連合策についての計画を練り、六日には筑前藩の同志を伴って田代の平田大江に会いに赴いて行くことになる。
 ここで驚いたのは商業の町福岡にあって、九州連合に伴って長州と薩摩が和解すべきであるという意見が強かったことである。国内での内乱は、国家存亡の危機に関わるとした筑前福岡藩主黒田長溥の考えであった。古来福岡は地理的事情から朝鮮、支那、南蛮との交易による大きな富を築いてきた。しかし外国と国内との狭間で生きる藩にとっては、ひとたび有事となれば、その両方からの圧力に耐えなければならない。壬申の乱以来、『筑紫は国の守り』と位置づけられ、殺戮を繰り広げられてきた筑前の宿命ともいえる立場であった。英国や米国といった外国の脅威が現実のものとなっているこの幕末期においては、貿易を表とすると背後にある国力こそ大きな心配の種だったのだ。幕府の衰退する権威を知り、日本という国家を意識したとき、雄藩である薩摩と長州との和解は、早急に解決しなければならない問題としてとらえられていたのである。しかしながら時勢から、表向きは薩摩と同じ公武合体論を取っている。長州が追い込まれている今にあっては、倒幕派が粛清されているというのが現状だった。
 「高杉さんさえその気になっていただけるのでしたら、一度、薩摩の西郷さんと会っていただけませんか?」
 月形洗蔵が提案した。彼は西郷隆盛から「志気英果なる、筑前においては無双というべし」と称えられるほど、西郷とは懇意なのだ。
 「西郷……?」
 晋作は渋面で答えた。すると中村円太が話を継いだ。
 「ここだけの話だが、実は近々西郷吉之助が福岡に来る。下関に久留米の渕上郁太郎という男が来たろう。実は彼はその密報を長州にいる福岡藩士達に知らせるためじゃ」
 「福岡藩と何の密談をする?」
 「それは分からんが、おそらく日本の将来に関わる重大な内容になるだろう」
 円太が神妙な顔付きで言った。晋作は鼻で笑った。
 「高杉さんが今ここにいるなんてことは奇蹟です。長州と薩摩が和解せよとの天の導きかもしれません。どうかお考えいただけませんか?」
 晋作にとっては薩摩との和解などありえない。生来長州ナルシストのこの男にとっては、攘夷を開国に変えることはあっても、長州を追い込んだ薩摩はどこまでいっても“薩賊”なのだ。九州連合はあっても薩長和解など論外だ。そんなことより長州の建て直しが先決である。
 「ありえん。ボクは西郷と会うために筑前に来たのではない。九州連合実現のためじゃ」
 晋作は臭いものに蓋をするように一笑して、話を九州連合の方へ戻した。
 しかし九州連合を実現しようにも、わずか長州一藩のために九州諸藩を動かすことは至難の技に違いない。さしあたっては長州と同盟関係にある対馬藩の動向ひとつで、後の体勢に大きな影響を及ぼすことになるはずだった。逆にいえば、対馬を説得できなければ、九州連合など夢のまた夢なのだ。
 ところが───、というより予想通り、対馬の平田大江に会ってみれば、
 「長州の俗論派政権が、幕府に屈服しているような状況の中で、倒幕の義軍を要請されても、他藩も積極的にはその計画に乗ることはできんだろう。加えていま対馬藩は、長州に援軍を派遣できるほどの余力がござらんのじゃ……。わかってほしい……」
 と、識の晋作の交渉術を持ってして、かたくなに首を縦に振ることはなかった。皮肉にも平田の置かれた立場は、晋作にも痛いほど理解できた。おそらく自分が同じ立場であっても、了解することはけっしてなかっただろうと思うのだ。
 万策尽きた───。
 ここに至って晋作は、情勢を変えることの困難さをしみじみと思い知った。おそらく、きっとそれは、禁門の変の時、久坂玄瑞が鷹司卿の足元で味わった屈辱と同じものであったに相違ない。晋作は果てしない孤独の闇の中に、突き落とされた心境に陥った。
 「しばらく時期を待つしかありませんな……」
 月形洗蔵が言った。もはや逃げ隠れる場所もない。同行の中村円太は、ここでは福岡藩を脱藩しているお尋ね者である。ひとたび見つかったら最期、晋作もろともお縄になって、晋作は俗論党のもとに引き渡されてしまう。打つ手がなくなった円太と洗蔵は暫く話し合い、やがて、
 「よい隠れ家があります」
 と、晋作を福岡郊外の平尾山荘に住む野村望東尼という尼僧の所へ潜伏させることにした。馬関を一緒に発った大庭伝七とは既に石蔵屋を出てより別れており、晋作は二人に招かれるまま、周囲を丘陵で囲まれた草深い田園地帯、松の大木の間にひっそりと建つ草庵に入っていった。十日のことである。
 
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24.平尾の望東尼
幕末小説 『梅と菖蒲』
 法名、招月望東禅尼───、本名野村モトという女流歌人である。尼僧であり歌人でありながら彼女には奇癖がある。それは尊皇運動に傾倒し、住まう平尾山荘に勤皇の志士たちを庇護し、隠れ屋として提供することを吝かとしていない点においてである。城下からもさほど離れていない場所にあった平尾山荘だが、まさか尼の立場で政治的な大それたことに関わっているとは誰も思わない。よってこの山荘は、勤皇の志士達の絶好の隠れ蓑になっていたわけである。
 文化三年(一八〇六)九月の生まれであるというから、晋作が彼女のもとを訪れた時は五十八歳になったばかり、当時でいえば既に老婆である。ところが初めて会って、晋作は妙な親しみを覚えた。その知的な振る舞い、しなやかな物腰、発する言葉は美しく、母と言うには愛おしく、女と言うには老いていた。しかしその親近感は、守ってやりたくもあり、甘えたくもあり、男女の関係にはとうてい発展し得るものではなかったが、あと三十年早く生まれていればと後悔させるほどの魅力があった。九州に渡って、何ひとつ実り得るものはなかったが、平尾山荘でのわずか十日間ほどの滞在で、
 「もしかして、ボクは彼女に会うために筑前に来たのかもしれぬ……」
 と思えるほどの充実感を覚えるのである。それはあるいは国を憂う詩人同士の共鳴であったかも知れない。望東尼の方も少なからず驚いたふうで、
 「世の中にこういう若者がいましたものか……」
 と、恋に近い感情を覚えていた。
 「実はボクにも法名があります。東に行くと書いて東行といいます。望東殿の名を聞いて似ていることに驚きました。東に望むとはいったいどのような意味があるのですかな?」
 「それは偶然でございましたね……」
 もとより仏道に入った彼女は偶然など信じていない。きっとこの若者と出会うべくして出会ったと感じている。
 「本名をモトと申しますので、『望』『東』というのは当て字でございます。でも、ほんに不思議な縁でございます」
 と、息子というわけでなく、勤皇の志士というわけでなく、歌の門弟というわけでなく、増して恋人というわけでない晋作を、一人の人間としてこの山奥の草庵に迎え入れたのである。
 彼女は福岡藩士浦野勝幸の三女として生まれ、十三の時に家老宅に行儀見習い奉公に入り、十七で同藩士石郡利貫と結婚するが、わずか半年余りで離婚した後、二十四で知行四百十三石の同藩士野村貞貫の後妻として再婚した根っからの武家育ちの教養を持っていた。その後、四人の子をもうけるが皆幼くして亡くし、先妻の三人の子をよく養育したものの、家督を継いだ長男も自害して子には恵まれないという人生の悲しみも知っていた。
 二十七のころ夫とともに福岡の歌人大隈言道に入門して以来、彼女は歌人となり、長男に家督を継いだ時にこの平尾の山荘に隠棲したが、安政六年(一八六一)、夫の他界により剃髪して望東尼を名乗った。
 その後、かねてからの念願だった京都に出たのは文久元年のことである。そのとき彼女五十四歳、大坂に滞在していた歌の師匠大隈言道との再会を果たしながら、京都では嵯峨の直指庵に隠棲していた勤皇家の津崎村岡局や、また女流歌人であり陶芸家の太田垣蓮月尼など多くの文化人との交流を果たした。ところが彼女の滞在した文久元年から二年にかけての京都と言えば、尊皇攘夷運動のまっただ中で、その政治情勢も異常に緊迫していた。全国においては土佐では永福寺門前事件、江戸では坂下門外の変、武蔵の国では生麦事件等が起こり、次第に彼女の身の周りにも諸藩の勤皇志士達が増えていく。その中のひとり、特に福岡藩御用立の呉服商人、馬場文英からの時勢の話は、後の彼女の思想に大きな影響を与えた。日本の近代は嘉永六年のペリー来航に始まるという見方を初めて示した彼の『元治夢物語』を見れば、その詳しい見聞に驚く。当然、吉田松陰から端を発した『尊皇攘夷』の背景や経緯も、望東尼の耳に入っていたことであろう。そして彼女が福岡に帰ろうとする頃には、もっとも身近な京都の地において寺田屋事件が起こる。そうした多難の国事の現実を目のあたりにした時、彼女ははからずも憂国の情を燃え上がらせた勤皇女流歌人というべきものに変身をとげたのだった。
 福岡に戻ってからの彼女は、京都の馬場文英と密かに情報交換をし合い、いつしか平尾山荘は志士達の集うサロンのような役割を果たすようになっていた。平野国臣たちとの交流が深まり、やがては彼らをかくまったり、密会の場所として提供したりするようになる。勤王僧月照をはじめ、熊本藩の入江八千兵衛、対馬藩の平田大江、福岡藩の中村円太、月形洗蔵、早川養敬などは、彼女を深く敬愛する志士達だった。
 晋作が来てから平尾山荘には、望東尼の和歌の門弟である一人の少女が給仕の手伝いをしていた。名を清子という美しい娘である。美しいとはいっても年の頃なら十五、六、目が合うたびに笑う靨からは幼さがにじみ出ている。しかし彼女の無垢な微笑みに、晋作は愛想のない笑みを返すだけ。
 ある時、寒々とした庭を眺めながら、晋作が望東尼に言った。
 「望東殿の歌にも“大和心”を歌ったものがあるが、大和心とは何であるかの?」
 もてあます時間の中で、彼は彼女の書きためている和歌をこっそり読んでいる。望東尼は「まあ、お恥ずかしい」と言いながら、
 「大和心は私達が日本という国の民であることの証しでございましょう」
 と答えた。そもそも大和心とは本居宣長の国学から生まれてきた言葉であろう。彼女は昔を懐かしそうに、晋作をここに連れて来た月形洗蔵とは歌人大隈言道の同門の門弟であることや、まだ夫がいる頃、彼らといっしょに太平記を読みながら王政の真を論じ合ったこと、あるいは師を囲んで蘭医の百武万里や尊王医師の陶山一貫らと親交を深め、楠正成の祠を祭り、勤王の志を練っていたことなどを話してくれた───。晋作は優しい笑みでそれを聞きながら、松陰のことを思い出した。
 それから、ぽつり、
 「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂……」
 と呟いた。
 望東尼は驚いた表情で晋作を見つめた。それは長らく会っていない旧友に、突然街角で出くわしたような表情である。
 「いったい誰のお歌でございましょうか?力強さに満ち充ちた切迫した使命感を感じます。この老いた身体の震えが止まりません……」
 晋作は意外に思った。この山奥に住むひとりの老婆が、松陰のたったひと言に触れただけで、前身を身震いさせながら興奮しているのである。
 「吉田松陰先生のお歌じゃ。ボクの師です……」
 「吉田松陰……」
 望東尼は当然その名を知っていた。そしてしみじみと晋作の頭からつま先までを、まるで仏様を拝んでいるかのように見つめた。晋作は今の心境をそのまま伝えた。
 「いま長州が潰れたら、松陰先生の大和魂も消えてしまう……」
 彼の目に涙が溜まっていた。およそ人前で涙などとは無縁であったが、望東尼の懐の広さに触れたとき、晋作の苦しみの全てはその心に包み込まれているような安心感にとらわれたのだ。
 「高杉晋作様───。ほんに日本第一のお人でございますなあ……」
 望東尼の瞳にも、もらい泣きの涙が浮かんでいた。
 と、傍らにいた給仕の清子が、小さな声で一首の和歌を詠んだ。

 われもまた同じ御国に生れきて大和心を知らされめやは

 晋作は清子を見つめて微笑んだ。
 「うまいのう。お清殿はまこと望東殿のお弟子さんじゃ」
 「この子ったら……、知らない間にずいぶんとお歌が上手になりましたね。ほんに真の魂というものは、人から人へと伝播するものでございましょうな」
 と、三人は、行く末の見えない社会の闇の中で、身を寄せ合うように笑いあった。

 ちょうどそんな話をしている頃である。伴も連れずに密かに月形洗蔵が山荘に訪れた。そして、
 「高杉さん、いま薩摩の西郷吉之助さんが福岡に来ておる……」
 と周囲を警戒しながら小声で告げた。望東尼は神妙な顔付きで耳をそばだてた。そして、
 「この間の薩長和解の件、考えていただけましたでしょうか?こんな機会、二度とございません」
 と言う。晋作は「またその話か」と顔をしかめた。彼は西郷になど興味もない。単純に宿敵である。面会の余地など皆無なのだ。
 「月形さんもしつこいの。ボクはいま長州のお尋ね者だ。話し合っても埒もない」
 「西郷さんは長州正義派の三家老の切腹を命じ、山口城の破却を条件に長州藩の降伏を認めたそうです。長州はそれを受け入れましたぞ」
 瞬間、晋作の目が光った。それと同時に体がわなわなと震えだした。月形は話を続けた。
 「西郷さんはそれを受けて長州征伐停戦への周旋をはじめております。この度の来福もそれが主な目的です。薩摩には少なからず倒幕の意思が見え隠れしております。いま長州と薩摩が手を結べば、幕府も容易に長州に手を出せなく……」
 突然、晋作の怒声が言葉をさえぎった。
 「ありえん!」
 望東尼も清子もびくりと体を跳ね上げた。
 「倒幕を前提にして、俗論党どもが薩摩と手を組むと思っておるのか。やつらは腰抜けの集まりぞ、考えが甘いわ!それよりボクは西郷が大嫌いじゃ」
 「そこを伏して!」
 「帰れ!西郷の話など聞きとうない。長州の問題は長州自らでおとしまえをつける!もうどこも頼らん!」
 「そこを!」
 晋作は「くどい!」と吐き捨てて、荒い足取りで山荘を飛び出した。立つ瀬を失った月形は、何も言わずにやがて帰って行った。
 夜───。
 晋作は草庵の庭に湧く月明かりが反射する泉の水面を、ひとりじっと見つめていた。こうして一人でいると、脳裏に浮かぶのは決まって松陰の事だった。
 彼はいま、江戸の伝馬町牢屋敷に投獄された松陰と、最期の時を過ごした日々のことを思い起こしていた。その頃、松陰門下のほとんどは萩におり、江戸にいた晋作は頻繁に伝馬町に通って、師のために様々な便宜をはかるのに忙しかった。蒲団や下帯や手拭い、あるいは書物や半紙、時には牢名主に貢ぐ金銭や酒の面倒まで、松陰の要望に忠実にこたえて差し入れをした。
 「ボクが江戸にいる間は決して心配なさいませんように。度々手紙を送ります。先生からは議論をされ、ボクは愉快に過ごしています」
 と、萩の久坂に報告したが、その晋作の松陰に対する随従給仕は、二人の決定的な師弟関係の成立となったといえる。
 松陰と晋作のそうしたマンツーマンのやり取りは、面会こそ叶わなかったが、萩の松下村塾さながらだった。いや、心と思想の交流においては、それよりもっと深い次元でなされた師弟のドラマであった。死を覚悟する師に対して、その意志を継承しようとする弟子の間には、二人にしか感じることのできない燃えるような情熱がほとばしっていた。男子たる者の死について、あるいは政治情勢について、あるいはこれから成すべき事柄について……。晋作持論の防長割拠論もそんな師との文面での対話から生まれたものである。
 晋作にとってただひとつ悔いることは、藩命とはいえ帰国が決まり、松陰の死に目に立ち会えなかったことである。あの時はまだ若く、親や藩命に逆らうことなど考えも及ばなかったのだ。しかし師は萩に帰る弟子にあてて、
 「急な帰国で非常に忙しいと思います。それなのに、後々の事までいろいろ処置していただいて、本当にありがとう」
 と書き、更にその翌日にも重ねて、
 「この度の災厄に、君が江戸にいてくれたので大変に幸せでした。ご厚情を深く感謝します。急に帰国と聞いて本当に残念でなりません……」
 とまで言っていただいたのである。今から思えば、たとえ脱藩しても江戸に残るべきだった。そのことだけが深い後悔の念となっている。そしてその手紙の続きには、生前、誉める事で各人の才能を発掘していた松陰が、門下一人ひとりに対しその欠点を挙げながら、晋作にその面倒を見るようにと託すのである。
 なんとありがたい師匠であるか……。
 晋作は泉の水面にむかって小石を放り込んだ。いまはその師に託された願いまでも、ろくに果たすこともできない。広がる同心円に月明かりが揺れた。ふと、久坂玄瑞の顔が浮かんだ。入江九一の顔が浮かんだ。吉田稔麿の顔が浮かんだ。そして次の瞬間、彼の心に果てしない絶望と悲しみの濁流が襲った。
 「なぜ死んだ!」
 晋作は自分でも気付かないような慟哭の声をあげていた。しかし果てしない暗闇は、そんな声など墨汁に真っ白な牛乳を垂らすように、何の意味ももたらさなかった。
 「こんなところにおりましたか……?」
 背中で美しく落ち着いた女の声がした。振り向けば、彼を見守るように望東尼が立っている。晋作は涙をぬぐった。
 「これはとんだところを見られてしまいましたな……」
 「いいえ……、勾玉のように美しい雫でございます……」
 望東尼は晋作の脇に寄り添い泉をみつめた。

 さながらに澄める泉はかはらねどけふ墨染めの影ぞ見えける

 「夫が死んだ時に詠んだ和歌でございます……。夫の貞貫はほんとうに清廉実直で、正義感の強きお人でございました。しかし人はいつか死ぬるものでございます。でも私は思うのです。残された者が、死んだ者の意志を受け継いで生きるとき、死んだ者は生きる者と共に、永遠に生き続けるのだと……。だから夫はいまも生きております。きっと吉田松陰先生も、高杉様と一緒に生きていることでしょう」
 望東尼は生死を達観しているようにつぶやいた。
 「望東殿、教えてください。ボクはいま、何をしたらよいのだろうか?」
 「さて、こまりました……」
 望東尼はしばらく考え込んだように遠くをみつめた。が、やがて、
 「お気を悪くしないで聞いてください」
 と前置きした後、
 「薩摩の西郷様と会われてみてはいかがでしょう?」
 と言った。晋作は「望東殿までそんなことを申すか」というような表情で、彼女をじっと見つめかえした。ところが彼女のその表情には、政略の匂いも、駆け引きの怪しさもない。ただ純粋に平和を願う母の崇高な魂を感じるのみだった。
 「私の望みは、尊皇をもって日本というお国を立てることにございます。日本の始まりが天皇なのですから、それをおろそかにして日本という国はありません。日本という国は、尊皇があってはじめて自然の姿に返ることができ、英米諸国とも対等に話し合えるお国になると思うのです。徳川様の時代が長く続きましたが、ここに来てようやくその時を迎えたのです。しかし、その先陣を切って尊皇を推し進めてきた長州様は閉塞し、心ある志士達もいまはすっかり陰をひそめてしまいました。このままでは唯一の希望であった長州様が滅びてしまいましょう。聞くところによれば、薩摩様も徳川様をあまりよく思っておられないご様子。浅はかな女の知恵とお思いでしょうが、今は薩摩様と一緒に時勢をつくっていくことが急務ではないでしょうか?」
 晋作は眉間に皺を寄せ、厳しい顔つきをした。
 「薩摩には大和魂がない。奴らは時勢とともに方針をころころ変え、私腹を肥やそうと考えているだけじゃ」
 長州も攘夷から開国に大きく方針を変えたが、それは対外的な姿勢の問題で天皇を犯すことにはならない。今は幕府や薩摩等の画策で朝敵とされてしまったが、尊皇の方針はまったく変わっていない。ところが薩摩はどうか?尊皇から公武合体へと方針を変えたではないか。これは天皇を捨て、徳川と組んだということだ。言葉を変えれば精神次元での裏切りである。特に西郷などは安政の頃、一度は尊皇攘夷の志士として働きながら月照と入水自殺を図ったものの、挙げ句は自分だけ生き残ってその方針を変えたのだ。その最たるや晋作には許せない。それこそ日本国存続の根幹に関わる重大問題なのだと彼は言う。そのことを時勢によってころころ方針を変えると言っている。信念のない根無し草のような薩摩などとは、とうてい手を組むことなどできないと断じているのだ。
 望東尼は悲しそうな顔をした。しかしここまで話が詰まってくると、彼女にも説得の言葉は見つからなかった。
 「しかし、西郷様は立派なお方でございますよ……」
 「百歩譲って奴が立派な人物であったとしよう。しかし奴らはボクの大事な仲間を何人も殺したのじゃ。許せるはずがなかろう!」
 「それは薩摩様も同じことでございましょう。西郷様も長州様から追われて亡くされたご友人もいるに違いありません。いけないのは喧嘩でございます。どこかで報復の連鎖を断ち切らなければ、永遠に争い事が続きましょう……。苦しむのは庶民でございます」
 望東尼は最期にもう一度、祈るような気持ちで繰り返した。
 「日本のお国のために、西郷様と会っていただけませんか?」
 と、晋作の手を優しく握りしめた。勤皇の母の手が冷気のためか、凍るように冷たかった。
 「そこまで申すか……。本当に望東殿は観音様のようなお人ですの……」
 晋作はついに観念した。望東尼がそう言うからにはそれなりの意味があると思ったし、彼女の民衆の平和を願う心に打たれ、その誠意に応えようとするところが晋作の優しさでもあった。
 「わかり申した。望東殿がそこまで言われるのであれば西郷と会おう。ただし、会うことは会うが、ボクは何も喋らんぞ。ヤツに話すことなど何もない。それでもよろしいか?」
 望東尼は顔の皺を何倍にも増やして嬉しそうに微笑んだ。そして、
 「会うことが大事なのでございます」
 と言った。
 決まれば話は早い。その日のうちに、晋作が西郷と会う事を承諾したという報が月形のもとに届けられた。そして翌日の夜、長州と薩摩、この巨人二人の対面が実現したのである。
 
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25.屁
幕末小説 『梅と菖蒲』
 さて、福岡の平尾山荘で、本当に高杉晋作と西郷隆盛が面会したかというと、決定的な証拠はないようである。ただその根拠としては、当時平尾山荘に給仕としていた清子が後年語ったとされる言葉の中に、『今から思うと西郷さんらしい人が訪ねて来られての密談の時に限って尼は妾を遠ざけられたことがある。この人が多分西郷さんで、その時が薩長連合の成立した時ではないかと思う』とあることだ。ただしこれは正史としては扱われておらず、“西郷さんらしい”という言い回しは信憑性にも欠ける。一説には明治以降に作られた贋作だと言う者もいるが、別のところを調べれば、中岡慎太郎の記録の中に、元治元年の十二月十四日に「大坂屋にて西郷、高杉と面談」とある。大坂屋というのは下関の稲荷町にあった大きな料亭で、晋作と卯乃が出会った堺屋のすぐ近くだ。また、元治元年十二月といえば晋作が望東尼の草庵にいるときから約一ヶ月後のことで、こちらの方はかなり信憑性が高い。
 薩長同盟といえば真っ先に頭に浮かんで来るのは坂本龍馬の名であるが、実は彼や中岡慎太郎が本格的に動き出す以前から、勝海舟や九州諸藩の中で、薩摩と長州を結ばせようとする動きがあったことはこの小説でも述べてきた。これが現実であろう。今日のように龍馬が一世を風靡するほどの人気を得たのは、かの司馬遼太郎氏の玉筆によるところが大きいと筆者は考える。例えば薩長同盟の過程における龍馬の功績を抜いて考えたとき、当時長州と薩摩を和解に導こうとした場合、当然、両藩の誰と誰を引き合わせるかという話になる。薩摩の方は西郷隆盛でも大久保利通でも小松清廉でもよいが、長州の方には高杉晋作しかいない。桂小五郎はこの時期どこにいるか分からないからである。そうなると、高杉晋作と西郷隆盛が会っていないと断言することにも首を傾げたくなり、あるいは晋作が九州に渡ったのは逃亡のためではなく、西郷と会うためではなかったかという勝手な想像にまで至ってしまうのだ。そこで、筆者は空想家であるので、この小説では対面したことにして話を進めることにする。

 すっかり夜の帳に包まれ、冷たい空気が屋内に流れ込んで来た頃、西郷吉之助は月形洗蔵と中村円太に連れられて、いそいそと望東尼の草庵にやってきた。西郷は二人の薩摩藩士を伴って、月形も円太も周囲を気にしてきょろきょろしているものだから、いかにもこれから密談を画策しようという怪しげな光景だった。もちろん隠密であるが、西郷の大きな体格は、暗闇の中でもよく見えた。
 玄関に一行を迎えた望東尼は、ひとつ丁重に挨拶すると、
 「高杉様がお待ちかねです」
 中に五人を招き入れた。当の晋作は別に待ちかねていない。望東尼に説得されて、仕方なく面会することにしたのだ。中では清子が食事の用意をして待っていた。
 もともと隠居用に作られた建物である。玄関を入って狭い板の間の他は、二畳の狭い部屋がふたつと中央に六畳の座敷、あとは望東尼が寝室に使っていた三畳だけの間取りである。中に入れられた西郷一行は一番広い六畳の座敷に案内されると、やがて上座の中央に置かれた座布団の上に、西郷は荒い息で呼吸しながらのっそりと正座して座った。そしてその両脇に従えてきた二人の薩摩藩士を座らせ、それを見計らってすかさず清子が三人の前にお茶を運んだ。六畳程度の部屋は、西郷一人が座っただけでひどい圧迫感があった。
 「まったく狭いところで申し訳ございませんのお」と円太が苦笑いすると、薩摩藩士の一人が「いえいえ、おかまいなく」と言った。西郷の側近に違いない。
 「高杉様は……?」
 月形が望東尼に小声で聞いた。こわばった表情は、前代未聞の大会見であることを物語っていた。話の動向によっては、歴史的な大事件になるはずなのだ。
 「隣のお部屋にいらっしゃいます。いまお呼びいたしましょう」
 望東尼はその重さに耐えかねて震えていた。
 「先生、お体が震えておいでです。もう少し落ち着いてくださいな」
 門弟の清子が他人事のように笑う。
 「あなたは気楽でいいわね」
 と、望東尼は愛想笑いで清子のお尻をポンと叩くと、やがて震える腕で晋作のいる二畳の部屋の襖を開けた。
 「高杉様、西郷様がお見えです」
 晋作は手枕で横になっていた。こんな狭い草庵では言わずも気配で知れている。
 「なんじゃ、もう来たのか……」
 別に挑発しているわけでなかったが、声は隣の部屋に筒抜けだ。晋作は面倒臭そうに「よっこらしょ」と声を出して立ち上がると、そのまま西郷のいる座敷につながる襖を無造作に開けた。
 刹那、二人の視線がぶつかりあった。
 ずんとした体つきに紺の羽織り袴を纏い、そこに丸太い頭を乗せて、ご太い眉にぎょろりとした双眸を光らせ、髭を剃った青々とした顎の皮膚の中央には堅くへの字に結んだ口、東南アジア系の凄味のある威厳で、西郷はじろりと晋作を見つめた。
 一方、晋作は飄々とした町人姿で、体つきは西郷と比べればひと回りもふた回りも小さい。大きさだけで圧倒されるところだが、その馬面の両目から放たれる鋭い眼光には、松陰譲りのあの凄まじい『狂』の光が西郷の精神をじりじりと追い込んでいた。
 ここに長州と薩摩、敵対関係にある二人の巨人の対面が現実のものとなった。西郷が山なら晋作は雷雲だった。晋作が燃えさかる炎なら西郷は海だった。西郷が凪なら晋作は嵐。晋作が噴火によって生まれた岩なら西郷は八千代にむす苔だった。
 もしその二人の間に泣きやまぬ赤子を置いたなら、たちまちのうちに泣きやんでしまったであろう。その飛び散る火花の激しさは、狭い草庵にいる者達を圧倒し、暗闇に包まれた庭の生き物達までもしんと静まり返って、一種の真空状態を作り出していた。
 「さっ、高杉さん、こちらへ……」
 円太が西郷の真向かいに置かれた座布団をひっくりかえすと、そこに晋作を招き寄せた。晋作は無愛想に「ああ」と言いながら、そこに西郷と同じように正座して座った。斬り合おうと思えば太刀が届く距離である。
 座敷の壁は行燈の光でゆらゆら揺れる、二人の影を不気味に映し出していた。やがて清子が晋作の前にもお茶を運び、晋作はそれを無造作にずずずと音をたてて飲みほした。
 「さて……」
 と、月形が仲介に入って話をはじめる。いよいよ薩長和解に向けての歴史的第一歩となる会見のはじまりであった。少なくとも月形も望東尼も、そして円太も、その興奮の中で無上の倖せをかみしめていた。
 「こちらが薩摩藩西郷吉之助先生でございます」
 月形はまず西郷を晋作に紹介した。
 ───ところが西郷ときたら、晋作を見つめたまま頭も下げない。途端、草庵の中は気まずい空気に覆われた。部屋の外の板の間で中の様子をうかがっている望東尼も気が気でない。月形は仕方なく話を続ける。
 「こちらが長州藩高杉晋作先生でございます」
 すると晋作も、西郷を見つめたまま頭を下げない。月形の表情からさあっと血の気が引いた。二人は微動だにせず、睨み合ったままなにひとつ口を開かなかった───。
 ますます空気が重くなる。月形と円太は焦燥して冷や汗をだらだらと流しはじめた。
 「まっ、堅苦しいのもなんですから、足をくずしませんか?」
 月形は自分から足を崩して胡座をかいたが、当の西郷と晋作は足を崩すどころか正座したまま身動きひとつしない。その重い空気に耐えかねて、月形は再び正座しなおした。
 「この季節は九州も寒くていけませんな……」
 話が詰まった時は天候の話題に限る。円太はすかさず言葉を挟んだが、そんな世間話など二人の巨人は全く聞いていない。狭い部屋には西郷の太い身体から漏れるぜいぜいという小さな息づかいだけが異常に大きく聞こえた。
 「お二人はもう筑前煮は食いましたかな?せっかく博多に来たのですから、ぜひ筑前煮を食って行ってくださいよ。地元では“がめ煮”とか言われてますがね。なんせ筑前は大陸文化の影響が強いですから、ここから全国に広がった食文化なども多いのですよ……」
 円太は今度は食の話を持ち出してみたが、まったく甲斐がない。更には博多名物や太宰府の話など二人の興味を引こうと次々話題を持ち出してみたが、結局話題を取り次ごうとする月形や望東尼の三人の会話になるだけで、西郷も晋作もまるで乗ってこなかった。
 そしてついに話題も尽きた───。そうなると、無言の重い空気だけが座敷に残った。人里離れた小さな草庵に、八人の人間がいながら何ひとつ会話がないのである。一分が一時間にも二時間にも感じられた。
 「高杉様は本当に何も話さないおつもりですわ……」
 望東尼はそう思った。確かに西郷と会うとは約束したが、「何も喋らん」と言った彼の言葉を思い出した。一度口にしたことをそうやすやす違える男ではない。となれば、西郷から口を開かさなければ、このまま何もないまま終わってしまう。ところが西郷は口数の少ない男だと聞いている。また、梵鐘のようだとも言う。強く叩けば大きく返ってくるが、弱く叩けば小さく返ってくると聞いている。うまく話を切り出さなければ、うんともすうとも言わないだろう。
 こんな調子で無駄に時間ばかりが経過してしまった。肝心の薩長和解に話が進むどころか、このまま決裂してしまうだろうと、やがて月形は意を決し、
 「ところで薩摩藩と長州藩のことですが……」
 と、単刀直入に切り出した。ところが熱心に語る月形に対して、西郷と晋作は相槌も打たなければ、耳すら傾けない。すっかり月形の一人演説に終わったまま、状況はなにひとつ最初と変わっていなかった。月形も円太も途方に暮れた。
 さすがに望東尼も耐えかねて、
 「お食事のご用意ができていますが、いかがいたしましょう?」
 と、座敷の中に声をかけた。月形は「助かった」とばかりに「どうでしょう、食事にでもしましょうか?」と西郷に目をやったが、すかさず、
 「もう時間がありもさん。後にしていただけもすか」
 と、西郷の脇に座る側近があっさり答えた。
 これではどうにもならない───。座敷はすっかり諦観のムードに支配され、声を出すのもはばかるほどの雰囲気になっていた。
 どれほどの時間が過ぎていくのだろうか?依然、西郷も晋作も、最初に作ったままの姿勢と表情で、まるで銅像にでもなってしまったかのようにいっこうに動く気配がないのだ……。
 外で吹く風が、雨戸をがたがたと震わせた。
 耳をすませば外で啼く夜行性の鳥の声が聞こえる。望東尼は詩心を起こして、外の気配を感じていた。すると、木々のさざめきが聞こえ、ともすれば泉に湧く水の音さえ聞こえるようだった。
 しかし草庵の中に意識を戻せば、そこには依然、緊迫した張りつめた空気があるだけ。物音ひとつ立てただけで睨まれそうである。
 そして緊張したままの時間は、更に無情に流れていく───。
 駄目だ、これは……
 誰もがそう思っていた時である。
 ふいに晋作の身体が上下に動いた。
 一枚の写真のように、凍りついて固まったままの状態である。その小さな動きひとつであったとしても誰もが見逃すはずがなかった。皆の視線が一斉に晋作に向けられた。
 「やっと高杉様が何か言ってくれる───」
 と、全ての希望を晋作に託したそのとき、まったく意外な音が漏れた。それはすぼめた風船の濡れた口から、力なく空気が漏れるような音である。月形も円太も、そして望東尼もその脇にいた清子まで、四人は耳を疑った。それは晋作の尻の穴から放たれた屁の音だった。
 ぷうっ〜
 思わず思春期の途上にある清子は「ぷっ」と吹きだした。
 月形と円太と望東尼は、唖然と晋作の表情を見つめたが、「失礼」の一言もなく彼は何事もなかったかのように、もとの表情に戻って西郷を睨んでいる。一方、西郷は音が聞こえなかったのか、まったく前と同じ顔のまま───。
 そんな、おならの音が聞こえたのに聞こえなかったことにしようとする大人の社交の中で行われている慣習が、若い清子にはおかしくてたまらない。そのうち変な臭いが空気中を漂って清子の嗅覚を通りすぎた後、薩摩側に座る西郷の側近の鼻元に届いて、それまで表情ひとつ変えずに真面目な顔で正座していた側近の一人が、思わず鼻をくんくんとさせたものだから、清子はその滑稽さにどうにも堪えきれず、
 「ぶ、ぶっ!」
 と大きく吹き出した。そうなったら最後、笑いのツボにはまって「くすくす、くすくす……」と笑いが止まらなくなってしまった。
 笑いというのは伝染するもので、それまで必至に堪えていた望東尼までもが釣られて、清子に「笑いを堪えなさい」と何度も膝をつつくものの、小さな笑い声は月形の耳にも届いた。暫くは緊張と弛緩が複雑に混じり合った奇妙な空間をつくり出していたが、当の西郷と晋作は、相変わらずかたくなに動かなかった。
 ようやく清子が笑いのツボから抜け出して、部屋には前と同じ張りつめた空気だけが残った。やがて月形が、
 「ご両人様、なんとか言って下さいませんか。これじゃお二人を引き合わせた意味がまったくないではありませんか」
 とぼやいたとき、今度は西郷の身体が上下に動いて、
 ぼわ〜っ!ぶり、ぷりっ
 と屁をこいた。
 これは身体が大きい分、晋作のより音が大きい。やっと笑いのツボから解放された清子だったが、これにもたまらず「ぷっ!」と吹き出して、今度ばかりは声をあげて笑い出す。もう止まらない。望東尼も耐えきれずに同じように声をあげて笑い出せば、追い討ちをかけるように異様な臭いが部屋中に充満して、それが晋作のよりかなり臭かったので円太もたまらず笑い出し、ついには西郷の連れてきた二人の藩士も笑い出し、最後に一番緊張していた月形までもが笑い出した。ついにそれまでの緊張のたがが外れて、部屋は爆笑の渦に飲まれた。しばらくはその声が外に漏れ、闇に孤立する草庵は宴会さながらの賑やかさだった。
 ところが西郷と晋作だけは笑わない。が、やがて、笑いの中に置かれてついに恥ずかしくなったか、
 「ちとイモを食い過ぎたようでごわす」
 と、初めて西郷が口を聞いたこれが最初の一言だった。「こいつ、ここに来る前に薩摩芋を食ってきやがったか───」と連想した瞬間、思わず晋作もおかしくなって、
 「ぷっ」
 と心なくも吹き出した。かくも憎い男ではあったが、薩摩を代表して活動するお堅い政治家としての鉄のような顔の中に、薩摩芋という地元特産の食文化を通して、晋作と同じ故郷を愛する人間味を見たのである。
 こいつもやはり人か───。
 晋作は「望東殿にしてやられたわい」と思いながら笑い出した。その様子を見てやっと西郷も笑い出した。
 笑いというのは奇妙なものである。この瞬間、敵対関係にあった二人のかたくなな強情が、太陽の熱で氷が溶けるようにいっぺんに和んでいった。そして、
 「高杉さん、今度ぜひ薩摩においでくいやんせ。おいしか薩摩イモをご馳走しもす」
 晋作の笑いを受けて、ついに西郷が喋ったのだった。望東尼の目に涙が浮かんだ。「会う事が大事」と言った彼女の心はこれだった。瓢箪から駒が生まれる場合もある。晋作は望東尼には負けたと思いながら西郷に言った。
 「西郷さん、ボクは薩摩が嫌いじゃ」
 せっかく和やかになったのに彼はいったい何を言い出すかと、月形も円太も冷や汗をかいた。晋作はかまわず続けた。
 「だからボクに薩長同盟を説いても無駄じゃ」
 「高杉さん!」
 月形が晋作の言葉をさえぎろうと叫んだ。
 「まあ聞きなさい月形さん」と、晋作は更に話を続けた。
 「だが、一人の浪士を紹介しよう。土佐の中岡慎太郎と申す。今は脱藩して長州におる。彼をどのように使うかは西郷さん、あんたの自由だ。だが、この件についてボクは関与するつもりはない。薩摩の手を借りずとも長州の問題は長州人で解決しちゃる」
 「おいどんも長州を助ける気などありもさん。ただ日本国の将来を慮るのでごわす」
 ここでの言葉は勝海舟の請け売りである。しかし、
 「中岡慎太郎でごわすな───」
 と呟くと、満足したように西郷は、望東尼が用意した食事も取らずに帰っていった。
 結局この会見では、二人の巨人は屁をこきあった事と、二言三言の会話をしただけにとどまったが、晋作が中岡慎太郎を紹介したことにより、西郷と中岡は間もなく会うこととなる。そして宿敵長州と薩摩は、維新回天の大きな波とともに、同盟に向かって少しずつ動き出していく。

 もののふの大和心をよりあわせただひとすじの大綱にせよ

 この日、望東尼が詠んだ和歌である。できたてのその詩を聞いて、
 「まだまだ遠い道のりよの……」
 と、晋作は澄んだ夜空に輝く星々を眺めて呟いた。その後姿をじっと見つめて、清子は頬を赤く染めていた。この歴史的会見が、この一人の少女によって成功なさしめたという秘話は、この小説だけのものにしておこう。
 
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26.世音を観ぜ
 
> 【 回天の章 】 > 27.ひとり
27.ひとり
幕末小説 『梅と菖蒲』
 晋作が下関に到着したのは二十五日のことである。町人姿のままの彼は、舟を降りると人目をはばかってそのまま白石正一郎宅に潜伏した。
 「高杉様、よくお戻りになられました」
 正一郎は安堵の色を浮かべ、晋作を奥の座敷に通した。
 「お卯乃を呼んでくれ」
 「はい」と、さっそく使用人に卯乃を呼びに走らせると、正一郎は知りうる限りの長州藩の情況を話し出した。
 「藩政府の解散命令を蹴って、奇兵隊以下の諸隊はいま長府藩主毛利元周様を頼って長府におります。彼らは三条実美様ら五人の公卿を奉じ、功山寺に潜居させてございます」
 「そうか!五卿を匿ったか」
 「どうなさるおつもりで……?」
 晋作は両目に不気味な色をたたえると、
 「このまま朽ち果てるより、俗論党と刺し違えて死んだ方がよかろう」
 と言った。
 「奇兵隊を説得するのですな……」
 晋作は何も言わなかった。筑前に行く前、徳地に駐屯していた奇兵隊宿所を尋ね、そこでの軍監山県狂介の態度を思い出していたのだ。
 「いま総督は誰が務めておる?」
 「まだ赤根武人様でございましょう。いっとき姿が見えませんでしたが、正義派幹部の切腹の報を聞き、出てきたそうです。長府の覚苑寺に入ってからは隊と一緒にいるはず。もっとも今は総督とは言わず総管と言っているようですがね」
 「総管ね……」
 総管という呼び名は他の諸隊より格が上であるとの見栄であり、三代総督に就任した赤根が言い出したものである。晋作は鼻で笑った。
 「奇兵隊以外の諸隊で解散命令を受け入れなかったのはどこか?」
 「はあ、遊撃隊、御楯隊、南園隊、膺懲隊、集義隊といったところでしょうか。いずれも長府城下周辺に屯所しているようです」
 「せいぜい一、〇〇〇といったところか……。俗論党にはとうてい及ばぬな……」
 「高杉様……」
 正一郎は神妙な顔付きだった。
 「やはり蜂起などというお考えはおやめください。いくら高杉様といえども、今度ばかりは命を捨てに行くようなもの。私は反対です……」
 そんな話をしているうちにやがて卯乃が姿を現した。
 「旦那さま!おかえりやす!」
 卯乃は晋作の脇に駆け寄って座ると、悪気もなく「お土産は?」と言った。
 「こりゃすまん、うっかりしておった」
 晋作は卯乃の頭を抱き寄せた。
 「嘘や。わては旦那はんがご無事でお帰りになれば何もいりまへん……」
 「では、ごゆるりとしてくだされ。ただいま酒肴を用意させます」
 正一郎は気を使って席をはずして出ていった。

 さてその二日後、晋作は奇兵隊が宿営している長府の覚苑寺に向かった。時を逃せばもはや逆転のチャンスは永久になくなると読んでいる。奇兵隊以下、藩政府に抵抗している勢力を結集する以外に方法などない。彼自身開闢総督である奇兵隊を決起させれば、あとは全ての流れを変えていけると信じていた。鍵は奇兵隊にある───。出迎えた山県狂介は、晋作を屯所の座敷に通すと、五卿を三田尻の招賢閣から長府の功山寺に移したことを、まるで鬼の首を取ったかのような話しぶりで威勢良く語った。晋作は「ようやったな」と一応は誉めたが、「ただちに決起して俗論派政府を討とう!」と言った瞬間、山県の表情は俄に曇った。
 「なぜ拒む?この時を逃したら正義派に勝ち目はないのだぞ!」
 「いま赤根さんが諸隊解散命令を撤回させるため、懸命に藩政府と交渉している最中なのです」
 晋作は頭をもたげた。俗論党と和解したところで幕府恭順という方針の何が変わるというのか。五卿を匿ったのも人質としてであり、結局は自分達の保身のためにやった事であることが見え見えではないか。そう思った途端、
 「お前らはバカか!」
 と、いつもの晋作なら怒鳴るところであったが、ここは望東尼の観音経を思い出した。
 「赤根はどこにおる?」
 「赤根さんは今、萩に行って交渉を進めちょります」
 その悠長な言葉に、「君らは勤皇の志をどこに置いてきたか!」と、再び怒鳴ろうとした晋作は、怒りをぐっとこらえ、
 「至急、諸藩の総督達を召集してほしい」
 と穏やかな口調で言った。
 「俗論党討伐を説くのでございますか?」
 「無論!」
 山県は「ちょっと待ってください」と言わんばかりに、
 「しかし彼らも皆、藩政府の出方を待っているところで、仮に賛同を得たとしても……」
 「君には聞いちょらん!」
 堪忍袋の緒が切れて、ついに晋作がそう怒鳴ったところへ、ちょうど萩から戻った赤根武人がひょっこり姿を現した。
 「高杉さん……、九州に行ったと聞きましたが、いつ戻られました?」
 赤根はそう言いながら山県の隣りに胡座をかいて座った。山県は交渉の事が気がかりな様子で、
 「赤根さん、萩の方はどうでした?」
 と小声で聞いた。赤根は「まだ結論は出ん」と首を横に振った。
 「赤根!お前はいったい何を考えちょる!俗論党に迎合して奇兵隊をどうするつもりじゃ!」
 いきなり晋作が怒鳴った。赤根は晋作を睨んだ。
 「それはどういう意味か?私は奇兵隊を存続させるために尽力しておるのじゃ」
 「俗論党政権の元で奇兵隊を存続させて何になる!松陰先生の草莽崛起の結党精神を忘れたか!奇兵隊はもともと外国と交戦するために、そして幕府体制に対抗するために作った部隊、あのとき赤根もいただろう!俗論党に和平交渉など本末転倒じゃ!」
 「わずか二〇〇そこらの奇兵隊の兵力で、いったい何ができますか!今解散させられたらもともこもないのです。私とて苦渋の選択を迫られている。分かってください……」
 赤根は晋作より一つ年上である。もともとは僧月性の清狂草堂に学び、その後、安政三年春に松下村塾の門を叩くが滞在期間はわずか二ヶ月あまり、その後長州を訪れていた梅田雲浜と会い、師事して上京してから雲浜の望南塾で学んでいる。松陰同様、梅田雲浜も安政の大獄で幕府に捕縛されるが、その際、雲浜の証拠となる書簡をすべて焼き払ったという行為を見ると、赤根は松陰門下というよりも雲浜門下と言うべきであり、その後、英国公使館焼き打ち等で晋作や久坂玄瑞ら松下村塾門下生らと尊王運動に奔走したり、奇兵隊結成にも関わっていたとはいえ、晋作ほど松陰に対する思いは強くない。田舎の医者の家に生まれたせいか、どちらかというと武士というより事務的な計算能力に優れ、晋作のような野性的行動など理解しようにもできない資質の持ち主なのだ。
 「奇兵隊が決起すれば他の諸隊はなびく。いまが最期の機会なのじゃ!」
 晋作は必至に赤根を説いたが、その言葉を取り合おうともしない赤根は、
 「諸隊を集めたところで兵力は千にも満たないでしょう。対して俗論党はざっと見積もっても優に二千以上になろう。どうやって戦うのじゃ?現実を見るならば今は自重し、兵力を蓄えねばならん。高杉さんにもそのくらいのことは分かるはずじゃ!」
 と反駁した。彼の言い分は、幕府征長軍から藩を守るためには俗論派と正義派との内戦を回避することが不可欠だという発想から出ていた。彼には彼なりの勝算を練っている。晋作の言う藩内クーデターなど起こされれば、奇兵隊の存続どころか長州藩の存続すら危ぶまれるのだ。
 そんな赤根の考えを真っ向から否定して晋作は吠えた。
 「なぜ分からん!俗論党は幕府に無条件に恭順と言っておるのじゃ!仮に貴様の思惑が成功したとして、奇兵隊が残ったとしよう。しかしそれはもはや奇兵隊ではなく幕府の飼い犬じゃ。尊皇は失われ、もとの木阿弥、徳川幕府政権の復活じゃ!ボクらはそんなもののために戦ってきたのではない!」
 「ですから、今は時期尚早なのです!時を待ちましょう」
 「時は今じゃ!ええい!こんな腰抜けと話をしても埒があかん!山県!」
 「は、はい」
 「諸藩の総督達を集めろ!」
 山県は赤根の表情を伺った。
 「高杉さんは言い出したら聞かない。ここは思うようにさせてやりましょう」
 赤根の言葉を受けて山県はようやく重い腰をあげた。
 その晩晋作は奇兵隊宿舎に泊まり、果たして翌日、諸隊の幹部達が奇兵隊陣所に集められた。そして晋作は彼らの前に立ち、「今こそ決起するのじゃ!」と柄にない大演説をぶった。
 「確かに数の上ではボクらが不利だ。しかし、諸隊が決起したと聞けば、俗論党に解散の苦汁を舐めさせられた者達も必ず立つ!勝機はある!」
 ところが集まった者達はみな赤根と同じ慎重論に立ち、口々に「無理じゃろう」とか「時期尚早だ」と言いながら顔を見合わせるだけ。晋作は業を煮やした。
 「君たちはこの赤根武人に騙されているのだ!そもそも赤根は村医者の平民出で、とても国家の大事や藩主父子の危急を知る者ではない!しかしボクは毛利家三百年来の家臣じゃ!君らも長州藩の兵ならば、赤根ごとき土百姓に従うのではなく、このボクに命を預けてほしい!」
 必至に訴えた晋作の長州藩士の誇りがこの時ばかりは裏目に出た。集まった諸隊の幹部達は、そのほとんどが平民だったのだ。結局、赤根を出汁に平民を卑下したと受け取られ、その演説は顰蹙を買うだけの大失敗に終わってしまうのである。
 『観世音とは聞き上手の異名なのです。高杉様が観世音になってください───』
 そう諭した望東尼の言葉が、今さらのように脳裏に浮かんだが後の祭りである。
 「望東殿、ボクには無理じゃ……」そう心で呟きながら、晋作は愕然と肩を落とした。
 「分かった……。君たちが立たぬなら、ボクはひとりで萩に乗り込むまでだ……。もう会うこともないだろう……」
 晋作は用のなくなった奇兵隊宿所を出て、ひとりとぼとぼと馬関に向かって歩き出した。その後姿を見送りながら、赤根は小さくほくそ笑んでいた。

 ひとり───
 まさに独りだった。松陰が死に、幕府への復讐を誓ってより、師の言う尊皇を立てて同志と共に様々な事を画策し、藩のために戦い、尽くし、守り抜き……、ふと周りを見渡せば、国は俗論党に支配され、周囲は幕府に包囲され、あげくは自らの手で作った諸隊にも見放され、気付けば天涯孤独のはぐれ獅子だった。道すがら晋作は、周防灘の海に向かって立ち尽くした。しかし久坂の名前を叫んでも、風は虚しく応えるだけで、松陰の面影を思い起こしてみても、どんよりとした空はぼんやりとした師の輪郭を映すだけだった。
 それでもまだ頼れる者はないものかと、ふと、
 「聞太はどうか?俊輔はどうか?」
 と思ってみても、井上聞太は傷が癒えていたとはいえ本調子というにはほど遠く、聞くところによれば、萩へ護送されて斬刑に処されるところを、いまだ病身の身の上、しばらく処分が猶予されていると言う。今は湯田の自邸で幽閉の身となり、日夜監視されて動きもとれない。一方伊藤俊輔は、四カ国との止戦講和を終えて間もなく、修交特使であった井原主計に従って、イギリス軍艦に便乗して横浜に行ったままだったから、おそらく正義派がこのような窮地に追い込まれていることも詳しくは知らないでいることだろう。
 「まったく呑気な奴よ……」
 正真正銘のまったくの孤独を改めて確認すると、晋作はやりどころのない憤りで路傍の石を蹴った。無駄死にと知っていながらここが自分の死に場所と諦めて、ひとり萩城に殴り込みをかけようか───。そう思いながら、筑前に一緒に渡った大庭伝七の邸宅に向かった。
 白石正一郎の末弟である伝七はもともと長府藩士である。福岡の石蔵屋での密談の後、料亭でドンチャン騒ぎをしてから別れたままだった。一応、帰国の挨拶かたがた、長府の情勢を聞こうと思ったのである。伝七は「これはこれは、その節はありがとうございました」と、気さくに晋作を邸内に迎え入れた。
 「三条実美様ら五卿がいま長府の功山寺に移されております」
 「知っちょる」
 「幕府は五卿を藩外に移すよう要求しております」
 「知っちょる」
 「九州から帰って来たばかりというのに、さすがお耳が早い」
 と、伝七は苦笑した。
 「一応奇兵隊以下諸隊は、五卿の警護という形でいま長府におりますが、藩政府は諸隊を解散させようと躍起になっています。解散が先か、五卿移送が先か、いずれにせよ時間の問題です。薩摩の西郷さんあたりは、諸隊の説得にしきりに動いているようですがね」
 「ちっ、西郷め……」
 長居をするつもりのない晋作は、間もなく伝七の家を出た。そして長府城近くを通りかかったとき、
 「高杉!」
 と声をかける者があった。振り向けばそこに牛面の一人の男が立っている。中岡慎太郎である。
 「なんじゃ、中岡か……」
 「“なんじゃ”はなかろう。聞いたぞ、本当にたった独りで萩に行くつもりか?」
 「お主もそうとう耳が早いの。仕方がない……。ボクと共に決起しようと言う者が一人もおらんのじゃ。諸隊も腰抜けばかりじゃ。それとも中岡、お前だけでもボクと一緒に行くか?」
 「おっと、犬死は御免じゃけ。勝ち目のない無意味な戦はしとうない」
 晋作は鼻で笑った。と同時に、西郷吉之助に彼を紹介したことを思い出した。
 「おお、そういえば福岡で西郷と会ったぞ」
 「なに……?西郷とはあの薩摩の西郷か……?」
 「そうじゃ。福岡藩の者がしきりに会え々々と勧めて、ついに断りきれんかった」
 「で、何を話したのじゃ?」
 「何も話さんさ。薩賊を前にしてあんまり腹が立ったから、一発、屁を喰らわせてやったわ」
 慎太郎は「高杉らしいの」と笑った。
 「それだけか?そんなはずはなかろう。それからどうした?」
 「西郷の野郎、ボクよりでっかい屁を返してきやがった」
 慎太郎は一瞬言葉を忘れて、やがて「そいつは傑作じゃ!」と、笑いはなかなか止まらない。
 「中岡……」
 晋作は神妙な顔付きで慎太郎を見つめた。
 「ボクは遅かれ早かれもうじき死ぬわ。しかしその後の長州藩主父子の事が心配じゃ。西郷の狸は幕府につきながら、どう長州を利用しようかと考えちょる。場合によっては長州と手を組んで倒幕を狙う腹づもりもあるやもしれん」
 「なんじゃと……?薩長が同盟を……?そりゃ面白い!高杉はどう思う?」
 「薩摩と手を組むくらいなら死んだ方がましじゃ。ボクは防長割拠あるのみだと考えちょる」
 そこまで話して晋作は言葉を止めた。仮に割拠したとしても、現実的には強大な幕府を相手に対抗し得る勢力にはならないことを知っている。松陰が死んだとき抱いた倒幕の夢を実現するには、福岡藩の月形が言うように、薩摩でなくとも他の藩と連合するしかない事くらいは、晋作でなくても思いつくのは容易なことだ。晋作は「しかし……」と言葉を次いだ。
 「もしボクが死んだら、その後の長州がとるべき道筋は君に委ねようと思う。実は西郷に君を紹介しておいた。福岡に月形洗蔵という者がおる。近いうちに声がかかるだろう。中岡……、そしたら君は、君の志のままに日本の将来をつくってゆくとよい……」
 「それは、長州と薩摩とを、手を組ませろということか?」
 晋作は慎太郎を見つめたまま何も言わなかった。
 「高杉……」
 「どうじゃ?一生を懸けても余りある大仕事じゃろ?」
 慎太郎も何も言わずに微笑んだ───。

 それから間もなく十二月に入って頭に、中岡慎太郎は下関の大坂屋で月形洗蔵と会うことになる。そして、同月四日には九州の小倉において、彼は西郷吉之助と初会見を果たした。歴史の中の維新回天の流れは、こうして長州正義派の存亡と、薩長両藩の行方にその運命を委ねたわけである。いずれも“無理”と言ってしまえばそれで終わりの、果てしなく無謀な挑戦に違いない。しかし“無謀”が歴史を大きく変えることもある。
 薩長同盟といっても、まずは長州正義派の起死回生がなければ話にもならない。長州あっての同盟なのだ。しかしこのとき長州藩をとりまく幕府軍の勢力を記せば、三十五の諸藩の連合軍の総勢はおよそ一五〇、〇〇〇だったと言われる。
 十五万───。
 そんな巨大な化け物を相手に、晋作は師吉田松陰から授かった大和魂を燃えたぎらせ、たったひとりで立ち向かおうとしているのであった。
 
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28.力士隊と遊撃隊
 
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41.玄瑞の忘れ形見
幕末小説 『梅と菖蒲』
 晋作が藩命により下関駐在の用所役国政方に任命されたのは九月六日のことだ。彼の病気を気遣って、卯乃の近くに置いてやろうという小五郎の配慮であり、晋作にしてもありがたく受けたわけだが、数日して彼の所に世子定広の使者として八木隼雄という男が訪れた。そして、
 「高杉様、今後の藩の取るべき道のため、ぜひお知恵をいただきたいと世子様がおおせになられます。幕府は朝廷に第二次長州征伐の勅許を得るとの噂がしきりで、藩主様も動揺を隠せないご様子でございます。かくなる上は、ぜひ山口に召され、良い対策をご伝授いただきとう存じます」
 と言う。長州の倒幕方針は藩主自らの決定事項のはずである。すでに武備を整えはじめ、この期に及んで「また揺らいでいるか……」と、晋作は頭を抱えた。
 「お卯乃、ちと山口に行って来るゆえ、留守を頼む」
 「へえ……」
 と、晋作は馬を走らせ山口に向かった。
 かつて松陰はこう言った。
 「例えば洞春公が今の時代に生まれたとしたら、この情況を見て何と言われるだろうか?かの陶賊はただ主君に叛いただけではないか。洞春公はそれを絶対に許さなかった。しかるにいま幕府は国患を養い、国辱を受け入れ、そして朝廷に背き、国外からは夷狄を引き入れ、国内にあっては諸侯を脅して国を治めている。しかるに幕府こそ一国の賊であり、征夷大将軍は天下の賊なのだ。今、幕府を討たなかったら、天下の民は私を罵倒し、万世に渡り汚名を残すことになってしまう。そして私達の祖である洞春公もまた、その屈辱を受けることになってしまう」
 と。“洞春公”とは藩祖毛利元就のことである。“今の時代の状況”というのは、黒船来航以来、諸外国の言いなりになる幕府に対し、何もすることができない日本国の現状であり、そこを陶賊を許さなかった洞春公に例えたのである。“陶賊”とは戦国時代の周防大内氏の重臣陶晴賢のことで、彼が主君大内氏を裏切ったことで、毛利元就は当時西国随一の戦国大名と言われていた大内氏を滅ぼすことができた。いわゆるこれが本能寺の変と並ぶ戦国時代の大事件大寧寺の変であるが、その勝利の因を作った陶晴賢の功績を讃えるどころか、元就はその裏切り行為をけっして許すことはなかったという逸話である。しかるに幕府は日本国を外国に売り、日本の民を裏切ったと断じる松陰にとっては、幕府こそ許すべからざる存在であり、その幕府の行為に屈することは、自分達が藩祖をも裏切ることにもなのだと訴えたのだ。
 松陰のその主張は、やがて彼自身への仇となり、ついには処刑へと導かれていくわけだが、死を前にして松陰の志は折れるどころか、ますます光を放った。その厳たる人間精神があったればこそ、真の後継者が生まれたと言ってもよい。いま晋作にはその師の心が、手に取るようによく解った。
 彼は山口政事堂の世子と藩首脳の面々に、「幕府に絶対に屈してはならない」と、その話を通して強く訴えると、藩主に対しては、
 「幕府と手をお切りください。そして洞春公の気迫をもって幕府軍に立ち向かって欲しい」
 と建白書を提出して下関へ戻ったのだった。
 案の定、大坂から京都に入った将軍徳川家茂は、朝廷に対して長州征伐の勅許を願い出た。そして九月二十一日には第二次長州征伐の勅許が降り、その翌日、家茂は参内してそれを賜り、幕府にしてみれば日本国の内乱においては絶対にはずせない大儀名文を手に入れた。これにより長州は、大儀上再び朝敵とされたわけである。
 しかし、第一次長州征伐とは明らかに違う動きが生じていた。薩摩の大久保一蔵(利通)が西郷吉之助に宛てた書簡にこうある。
 「万民が納得しない非義の勅命に、薩摩藩は従うべきでない」
 と。表向きには幕府の方針に従う姿勢を見せておきながら、裏ではそれまで西郷が地道に手を打ってきた効果が次第に見え始めていたのである。もちろん龍馬や慎太郎の周旋の力もあったわけだが、この小さな変化は、歴史を大きく動かす原動力になっていく。
 その事を伝えようと龍馬は長州へ走った。あたかも桂小五郎が木戸貫治へと改名した時のことであり、晋作は晋作で御用所役に任命され、内用係国政方の事務を聞く勤務を命じられ、また馬関駐在応接方越荷方対州物産取り組み駆引方を命じられた時である。なにやら訳の分からない職名であるが、要するに対幕に備えた外交と交易の一切を担う重職である。
 「よう聞け!長州再征の勅命が降りたが、薩摩藩はこの戦には出兵しないぜよ!」
 山口に到着した龍馬は政務役の広沢兵助に会ってそう告げた。
 「それは誠か?」
 「誠も誠じゃい!西郷さんの口からはっきり聞いたんじゃ!それより桂さんはどこじゃ?」
 「桂さんなら下関だ。つい先日、木戸貫治と名を改めた」
 「木戸さんかい?おお、良い名前じゃ!」
 龍馬はそう言ったかと思うとろくに挨拶もせずに下関へ向かった。まこと嵐のようにやって来ては、嵐のように去っていく男であった。
 長州は幕府軍再征に備え兵制を整え、各攻防戦の舞台になるであろう領域の警備を訓令した。下関にいた木戸貫治は、このところ晋作らと時局の議論に余念がない。幕府軍が長州を攻めるとしたら、五つの藩境からであろうと地図を広げた。五つの藩境、つまり萩口、芸州口、大島口、石州口、小倉口の五箇所であり、その五箇所を死守することが山口の政庁を護る砦になるはずだと木戸は言った。そして武器の購入成功に話が至ったとき、木戸は懐から短刀を取り出して晋作に見せた。
 「これは中岡君から頂戴した左行秀の脇差だ。彼はこれを自分の命じゃと言って私に預けたのだ。長州が最新式の武器を手に入れることができたのは、彼や坂本君の情熱のおかげじゃ。長州はその誠意に報いなければならんな」
 晋作はその短刀を手にして鞘を外した。
 「所詮薩摩も、長州が幕府に負けたら、倒幕に動くことはないでしょう。今は様子見をしちょるのですよ。かといって薩摩をうまく使わなければ、長州は圧倒的に不利になる。だがなんといっても倒幕の要は長州じゃ。絶対に負けるわけにはいきません、松陰先生のためにも……」
 晋作は短刀の刃をしみじみ見つめながら「それにしても見事な刀ですね」と言いながら、慎太郎の牛面を思い浮かべて笑った。そして、その相棒として周旋に走り回る坂本龍馬という男の事を考えながら刀を鞘に納めた。
 「彼らに何かお返しをしなければいけませんな」
 「そういえば明日、坂本龍馬君と会うことになったので、大坂屋に酒席をもうけてある。よければ晋作も同行しないか?なにか幕府との戦の対応策が見えるかも知れん」
 「ほう、そうですか。いいでしょう」
 と、木戸に誘われた晋作は、その翌日、稲荷町の大坂屋で龍馬と会うことになる。慶応元年十月三日のことだ。
 龍馬は小広い座敷にやや横柄な態度で木戸の対面に座ると、「すまんのう、こんな席をもうけていただき。じゃ遠慮なくいただくぜよ」と言ったかと思うと、さっそく膳の盃に酒を注いで口に含み、
 「木戸さんとの約束は果たしたぜよ。それにもう一つ、今日は土産話を持ってきたんじゃ。薩摩は今度の幕府の長州攻めには参加せんぞ」
 と言った。脇には晋作が控えている。龍馬はそれに気づいているのかいないのか、膳の肴を美味そうに口に運んだ。木戸は「物事には順序があるだろう」と龍馬の態度に苦笑しながら、やがて晋作を紹介した。
 「おお、知っちょる。以前、江戸で一度お会いしたことがあるがぜよ。確かあの時は久坂さんと一緒だったけん」
 と、晋作に顔を向けるとにやりと微笑んだ。どうも晋作は、長州藩以外の人間と会って話をする事が苦手らしい。この龍馬という男に対してけっして好印象は持てなかったが、しかし何年も前の、江戸でのたった一度の一瞬の出会いを覚えているとは、「この男、なかなかあなどれんな」と、にやりと笑い返した。
 そうして木戸がようやく膳に箸をつけると、それを待っていたかのようにつつっと木戸に歩み寄った龍馬は、その盃に酒を注いだ。次いで晋作にも同じように、
 「さっ、高杉さんも飲んでください!わしの酒じゃないがの!」
 と哄笑したかと思うと、再び自分の席に戻って料理を食い始めた。まったく意外な男である。江戸で見かけた龍馬は、けっしてこれほど気さくでなく、どちらかというと剣の修行に一途な、立身出世を夢見る田舎侍にすぎなかったはずなのだ。
 「さて木戸さん。さっそくのお願いで申し訳ないんじゃがの、武器の購入と引き替えに、薩摩藩への兵糧米のご提供を約束していただきたいが、どうですかの?」
 「よかろう。明日、書状にて確約しよう」
 そう答えた木戸は、開手を打って芸妓を座敷に呼び寄せた。取り引きの話さえついてしまえば、あとは飲んで遊ぶだけである。そうして座敷には数人の芸妓が登場し、その場は宴会へと変わっていった。ほろ酔いの晋作は木戸に勧められ三味線を握ると、自作の都々逸を唄って場を盛り上げた。それには龍馬も大喜びで、木戸と肩を組んで時局を議論しあったりしている。その日大坂屋からは、遅くまで芸妓の笑い声が響いていた。

 龍馬はその後しばらく下関に滞在し、晋作の口利きで白石正一郎宅に身を寄せる。それにしてもまったくどうしたものか、晋作と龍馬はなぜか非常に気が合った。気が合ったというのは語弊があるが、それは同じ目的を目指す同志ででもあるかのように、話す内容の節々でその考え方や心がピタリと一致するのである。晋作にはそれが不思議でならなかった。
 「坂本さんはその考えをどこで学んだのか?」
 あるとき晋作は聞いてみた。“その考え”とは、世界の中の日本という国のあり方を論じた龍馬の考え方である。
 「わしは勝先生より学んだがぜよ。勝先生は幕府の人だが、本当に広い視野を持った大人物じゃけん。幕府じゃ長州じゃと言っちょる向こうの、日本国っちゅう国家を指向しちょるがじゃ」
 「勝海舟……」
 晋作はその名前くらい知っている。以前、井上聞多も会ったことがあり、彼から傑出した人物だとは聞いてはいたが、所詮幕府の役人など晋作にとって尊敬の対象にはならない。
 「わしゃ先生の構想を実現しとうて、亀山社中っちゅう商社を作った。この世襲制でがんじがらめの日本に、民主主義っちゅう世界の考え方を打ち立てたいんじゃ!これからは自由じゃけん!ビジネスじゃけん!武器を持って天下を争う世の中は終わり、今後の日本は商業で世界に対抗できる力をつけにゃいかんがぜよ!わしのようなちいっぽけな人間でも、大統領になれるっちゅう新しい日本を創りたいんじゃ!」
 「ほう……、確かに聞こえはよいなあ。坂本君は商人になり、大統領になりたいのか?」
 晋作は龍馬の話を興味深げに聞きながら、にやりと笑った。
 「それは方便じゃ。わしゃ新しい日本を創りたいだけぜよ!」
 龍馬の言葉に嘘は見えない。しかし世界を知らない者が聞いたら、龍馬の言葉は妄想以外のなにものでもない。ところが晋作には言いたいことがよく理解できた。というのは、松陰は一君万民を究極の理想としたが、頂点に天皇を立てること以外においては、龍馬の目指す民主主義もさほど違いはないと思えたからだ。
 「大同小異だが、大枠ではボクと同じ考えのようだ。しかし幕府はどうする?現実的には幕府が存在していたのでは実現は不可能じゃと思うが」
 「だから薩長同盟が必要なのがじゃ!そのためにわしゃ動いちょる!」
 「なるほど、坂本君の考えは演繹的で、ボクの考えは帰納的といったところか……。しかし幕府は武力で我らを鎮圧しようとしている以上、我らは武力で対抗するしかなかろう。他に方法はあるか?ビジネスで幕府が倒せるか?」
 「それよ!それが問題ぜよ!できればわしゃ戦は避けたい。しかし、どうも今のこの日本では無理のような気がする」
 「ほうれ見よ。君の勝先生はなるほど立派なことを考えているようじゃが、道筋が不明瞭じゃ」
 晋作は龍馬が師と仰ぐ人物に対して、それ以上言葉にはしなかったが、勝のことを「所詮幕府の役人」と思っている。役人というのはお上の犬で、あてがわれる部署によって、また仕事の内容や立場によって、言うことも行うことも一八〇度変わることを知っている。脱藩浪士のように幕府を飛び出してでも己の主張を成し遂げようとするのであれば聞く耳も持ったかも知れないが、そうでない以上信用するには値しない。
 しかし龍馬は違う───
 と晋作は思った。勝の弟子を名乗りながら、自らは土佐を脱藩した身分も何もない一介の浪士であり、自らの理想を実現しようと必死に行動しているのだ。
 勝と龍馬との違いはなんだ───?
 晋作は龍馬の顔をじっと見つめた。
 誤解のないようにここで勝海舟に対して若干の補足をしておく。後に勝は西郷との会談で江戸城の無血開城という歴史的偉業をやってのけた。これは勝が幕臣だったからこそできた大仕事で、ここで晋作が思ったように、仮に彼が幕府を飛び出していたら、長州における四境戦争後も戦に戦を重ね、どうにも収集がつかない事態になっていたかも知れない。そして国力を失った日本は、やがて諸外国の植民地になっていたかも知れない。勝は幕府古臣の家に生まれたから、幕府や将軍を裏切ることなど最初からできない運命だったのだろうが、革命に燃える若き晋作は、適材適所で役人を配置することは知っていても、役人には役人にしかできない天命があるということをまだ知らなかった───。
 ともあれ勝と龍馬の決定的な違いを探ったとき、晋作は龍馬の中に“志”の一字を見つけ出した。
 この男、志で動いちょる───
 そう思った瞬間、晋作の心にまるで旧友に出会ったときの懐かしさと歓びが、果てしない親しみとなってむくむくと湧いてきた。
 「坂本君、以前江戸で会った時には、ボクは君に今ほどの志は感じなかった。いったい、いつからそのような行動する情熱を身につけられたか?やはり勝先生の影響なのかい?」
 龍馬は「なぜそんな事を聞くか?」といった表情で晋作を見つめると、「いいや」と首を横に振り、やがて懐かしそうに、
 「久坂さんじゃき」
 と答えた。晋作は「はっ!」と目が覚める思いがした。
 龍馬はもともと土佐藩の下級武士の次男として生まれ、寝小便が治らず泣き虫で、漢学塾でもいじめられっ子という、なにかいまひとつぱっとしない幼少期を送った。剣術修行のため初めて江戸へ出たのが嘉永六年(一八五三)のことで、この年浦賀沖に黒船が来航する。北辰一刀流に入門して剣術に励む一方、佐久間象山の私塾に入門したが、実際象山に師事したのはごく短期間で、その後いったん土佐へ帰国し、二度目の剣術修行を申請して再び江戸に出たのが安政二年(一八五五)のことだった。このときの寄宿場所だった築地の土佐藩邸中屋敷には、間もなく土佐勤皇党を結成する武市半平太もおり、龍馬が土佐へ帰国した安政五年(一八五八)には、安政の大獄〜桜田門外の変(安政七年)と、時代が大きく動き出していた。そのころ立ち起こった尊皇攘夷運動は、たちまちのうちに若い志士たちの使命感に似た熱を呼び覚まして世の中を席巻し、その波に乗って土佐藩でも、公武合体の藩論を尊皇攘夷に導こうとする土佐勤皇党が、文久元年(一八六一)八月に産声をあげたのだった。当然、龍馬も武市半平太に誘われ、その若き志士集団の中に名前を連ねることになるが、当初龍馬はその取り組みに非常に消極的だった。というのも政治を論ずるにはまだ知識が乏しく、尊皇攘夷と騒いだところで世の中など変わるものではないと、半分茅の外の悪あがきのように思っていたからである。そんなことより下級武士の龍馬にとっては剣術の腕を磨き、藩内で出世を遂げることの方が現実的で、黒船来航による時代の変化を薄々感じていたとはいえ、自分がそのうねりの中で雄飛することなど考えてもいなかった。
 武市半平太にとってはそんな龍馬が大きな不満だった。なんとかその目を開かせようと、諸藩の動向を肌で感じてもらうため、土佐勤王党の同志を四国や中国、九州などへ動静調査のための派遣を思いつく。その一人に選んだ龍馬に、
 「この手紙を長州の久坂玄瑞に届けてほしい」
 と、文久元年(一八六一)十月、彼を丸亀藩への剣術修行の名目で萩に向かわせる。
 龍馬は丸亀から大坂を経由して、やがて長州は萩に向かう。そして文久二年(一八六二)正月十四日、半平太から預かった書簡を、江戸から一時帰藩した久坂玄瑞に渡すのである。このとき龍馬二十八歳、玄瑞は二十三歳だった。玄瑞の当時の日記『江月斎日乗』にはこうある。

 十四日 翳、土州坂本龍馬携武市書翰来訪、托松洞、夜前街の逆旅に宿せしむ
 十五日 晴、龍馬来話、午後文武修行館へ遣はす、(後略)
 十七日 晴、訪土人薩人
 二十一日 晴、土人の寓する修行館を訪、中谷と同行
 二十三日 晴、是日を以土州人去、午後訪薩人

 十四、十五日の日記には「龍馬」と書いていたものが、十七、二十一、二十三日の日記には「土人」あるいは「土州人」となっている。明らかに龍馬を軽視するような何かがあったと思われるが、おそらく半平太の手紙には、「坂本龍馬を一級の尊皇攘夷思想家にしてほしい」などの依頼が書いてあり、それを受けて久坂玄瑞は龍馬を文武修行館へ宿泊させたとも取れる。『文武修行館』とは他国修行者用の無料宿泊施設であり、すぐ近くには藩校明倫館がある。宿泊者はここで学問を講じたり、武道の試合などを行うわけだが、龍馬も例外にもれず、ここで藁束を斬ったり、少年剣士と試合をしたらしい。北辰一刀流の達人として長州藩は龍馬を受け入れたものだろうが、ここで立ち合いをした龍馬は、こともあろうに萩の少年剣士に敗れてしまうのだ。
 「いやはや!参った、参った!降参じゃ!わしゃ、まだまだ修行が足りんがぜよ!」
 と苦笑いをした龍馬だが、北辰一刀流免許皆伝ほどの腕の男が、地方の田舎少年に負けるわけがない。そう、龍馬には端からやる気がなかったのだ。
 玄瑞はそんな龍馬に尊皇攘夷の意義や必要性を懇々と説き、
 「尊攘貫徹の大義に殉ずるなら、藩候の命を待たずに挙兵上洛し、それで藩国が滅亡したとしても悲しむことはない」
 と一途な情熱をぶつけてみた。君主絶対の当時にあっては、その常識を根底から覆す問題発言であろう。ところが、龍馬はそれに対してもただへらへらと笑うだけ。ついに玄瑞は、
 「君には大和男児の心意気がないのか?」
 と言ったきり、「これは使い物にならん」と、その後は龍馬を軽くあしらって、間もなく武市半平太宛に手紙を持たせて帰らせた。それが龍馬と玄瑞が初めて会った際の真相であろう。
 龍馬にしてみれば五歳も年下の若僧にそんな事を言われて、けっして愉快な気持ちにはなれなかったが、玄瑞がそこまで情熱を燃やしている尊皇攘夷の正体がさっぱり理解できずに、土佐へ帰る道すがら、とても気になる玄瑞から預かった半平太宛の手紙をこっそり読んでみた。
 「竟に諸侯(諸大名)恃むに足らず。公卿もまた恃むに足らず。在野の草莽を糾合し、義挙の外には迚も策これ無き事と、私共同志みな申し含みおり候事にござ候」
 文面の中の“草莽”という言葉が目に飛び込んだとき、俄に龍馬はわなわなと打ち震えた。さらに手紙はこう続く。
 「失敬ながら尊藩(土佐藩)も幣藩(長州藩)も、滅亡しても大義なれば苦しからず」
 つまり欧米の列強諸国が日本という国を侵略しようとしている時に、藩などどうでもよいことではないかと半平太を煽っているのである。この瞬間、龍馬の身体に電撃が走った。当時の龍馬には、藩を越えて何かを成すという発想など皆無だったのだ。
 「久坂さんは日本っちゅう国のため、そして『草莽(民衆)』が基盤をなす社会実現のために戦っておるがじゃ……!」
 それに気づいたとき、龍馬は愕然と肩を落とした。
 それに比べてわしはどうか───?これといった志も持たず、ただ平々凡々と剣の腕を磨いて、立身出世を願うだけのつまらぬ虫けら同然じゃ……!
 その衝撃は、間もなく彼を脱藩せしめる。これは龍馬の心境の変化を物語る重要な出来事であるが、当時脱藩といえば捕まれば死罪、まさに命を賭けた行動である。おそらくそれは、
 己は何のために生きているのか───?
 という人生究極の問いに突き動かされた、その答えを探求するための旅だった。これこそ龍馬の心に志の炎が点った瞬間だったに相違ない。
 土佐を去った龍馬は、その後長州下関の白石正一郎を訪ねたりするが、その他の詳しい行動は分かっていない。しかしその間、京都では四月に寺田屋事件が起こり、八月には生麦事件が起こりと、薩摩藩内の尊攘派が世の中を大きく騒がした。
 「薩摩に遅れてはならじ!」
 と、長州藩内の尊攘派、つまり玄瑞や晋作らが中心の後の御楯組が外国公使暗殺を企て、その同盟を求めに武市半平太を訪ねたのが文久二年十一月十二日のことだった。このときは龍馬も江戸におり、それが晋作と会った最初ということになる。ところがその計画は無謀であると判断した武市半平太は、土佐藩主の山内容堂を介して長州藩の世子毛利定広に伝え、結果的にその計画は中止させられた。藩の命令とはいえ納得いかない御楯組は、十二月十二日、建設中の英国公使館を秘密裏のうちに焼き払う。
 龍馬が尊皇攘夷というものに燃え上がったのはまさにこの時だった。
 玄瑞の考えるところの尊皇攘夷とは、日本をひとつにするための手段であり、目的ではない。幕府体勢の日本の体質を変革するためには、新しい思想、つまり尊皇攘夷思想を日本国内で沸騰させる必要があった。そのための外国公使暗殺計画であり、英国公使館焼き討ちだった。龍馬はそれを薄々感じていた。ところが脱藩したものの、“尊皇攘夷”が日本を変えるとはどうしても思えなかった。そんな龍馬に玄瑞は厳然と言い放った。
 「坂本君はまだこんな所でくすぶっているのか?成すべき事が分からない時は、目前のことに不惜身命で打ち込んでみることだ。さすればおのずと道は見えてくるものじゃ」
 そう言い残して去っていった。その玄瑞がまぶしかった。ところが、結局世子定広に外国公使暗殺計画を遮られたのを見て一度はがっかりした龍馬だったが、そのおよそ一ヶ月後、彼らが英国公使館を焼き払うという無謀な攘夷表明をやってのけた事を知る。
 「あやつら、まっこと命を捨てちょる……」
 と、その『狂』に心の底から震撼したのだった。
 「久坂さんの言ったとおり、このままじゃにわしゃ本当に時代に取り残されてしまうのう……。とりあえず、尊皇攘夷っちゅうもんになってみるがぜよ!どうもそうせんと、わしの将来が見えんようじゃ……」
 と、そのときたまたま話に出ていた幕府官僚の勝海舟襲撃計画に乗り出したというわけである。その後の顛末は前述した通りだ。
 その後玄瑞は、尊攘派を巧みに操り、藩や朝廷を動かして日本をまとめていくことを指向した。なるほど考えてみれば、禁門の変以前の京で、水面下で天皇の権力を見事に利用し工作し、幕府権威の失墜に大きな成功をおさめた玄瑞と、いまようやく定めた志を果たそうと、倒幕に乗り出しその最初の布石になるであろう薩長同盟実現のため、人知れず動き回っている龍馬とは、心なしかどこか似ているようにも見える。龍馬は木戸を前にして平伏し、
 「木戸さん!上京して西郷さんに会うてくれんかの?でないと、わしゃ死んでも浮かばれんがのう!」
 と叫んでいる。その体当たりでぶつかる龍馬を見ながら、晋作は嬉しそうに微笑んだ。
 「久坂め、こんなところに忘れ形見を残しておいてくれたか……!」
 晋作は玄瑞の才を改めて賛嘆しながら、「久坂が生きておったら、龍馬と同じことをしていたかも知れんな……」と呟いた。
 
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42.乙丑の獄
幕末小説 『梅と菖蒲』
 このところ晋作が寝泊まりしている入江和作の茶室には、みすぼらしい姿をした農民達が、手に手に収穫された農作物や、海で捕れた豪勢な魚介類を持ち、ひっきりなしに訪れるようになっていた。近頃体調が思わしくなく、横になることが増えていた晋作を心配して、見舞いの品を届ける奇兵隊や諸隊の隊士達の家族である。
 「旦那はん、作次はんとかのお父様という方が、鯛を届けてくれはりましたが、いかがいたします?」
 「そうか、会おう……」
 そのたび晋作は重い体を起こして、茶室に迎え入れる。無論作次などという男は知らないが、見舞いを持って来るといえば奇兵隊の新入りや下級隊士の親であることに違いはない。
 「高杉様、いつもせがれがお世話になっちょります……。これは周防灘で捕れた魚でございます。高杉様、はよ良くなっておくんなさい」
 「ありがたく頂戴しましょう」
 晋作はそんな名もない農民達にいちいち会っては、他愛ない世間話をして迎え入れていた。どういう心境の変化か、以前なら相手にするのも億劫がっていたのに、最近ではそんな彼らが愛おしくて仕方がないのだ。農民達にしてみれば、少し前の世の中ならば一生農民として生きていかなければならなかったはずのところを、晋作の創設した奇兵隊のおかげで、家から武士を出すことができたと喜んで、彼らにとって晋作はまさに菩薩様だった。中には入江和作の茶室の入り口の前に立っては、「ありがたや」と手を合わせる老婆もあるくらいで、そんな姿を見ては、
 「ようやくボクも観世音菩薩になれたのかの?」
 と、晋作は望東尼のことを思い出しながら卯乃に言う。
 「旦那はんが観音様……?ほな、わては何ですのん?」
 卯乃は「こんなお酒好きな菩薩がいるものか」とケラケラ笑い出す。
 「そうじゃのう、お卯乃は観音菩薩の妾ということになるの」
 「まあ!おなご好きな観音様やわ!」
 晋作は卯乃を抱き寄せて、襟元から手を忍ばせる。
 「それだけ元気があれば大丈夫どすな。はよようなっておくれやす」
 卯乃は晋作の唇に自分のそれを合わせて涙ぐんだ。

 薩摩藩が薩長同盟になかなか踏み切れなかった理由のひとつに、九州福岡藩の動向がある。
 長州俗論派が政権を握ったとき、九州連合を模索して福岡に渡った晋作が見たものは、薩長和解を実現しようと奔走する加藤司書をはじめとした月形洗蔵や中村円太といった福岡勤皇派志士達の姿だった。
 第一次長州征伐のとき、幕府と長州の間に入り、西郷の指揮のもと幕府軍を解兵したのは福岡藩であったと言っても過言でない。そして幕府軍総督であった尾張藩主慶喜に解兵を果たさせた人物こそ福岡勤王派のリーダー的存在だった加藤司書であり、彼はその功績が認められ、今年に入って二月の藩内人事異動で、実質的に藩政の中心的役割を担う御財用元締郡町浦受持の家老職に大抜擢されたのだった。それにより、福岡藩の要職には大量の勤王派が就任するに至る。すなわち家老には黒田播磨、大音因幡、矢野相模といった勤王派の面々、他にも大目付や小姓頭、御用聞や勘定奉行等にも勤皇派が配属され、月形洗蔵も町方詮議役に就任している。しかも婚姻関係による結びつきも深く、福岡藩政は勤王派がその中心軸になっていく。この人事には諸藩も注目し、西郷吉之助などは、
 「筑前(福岡)、久留米の両藩は力を尽し候得ば、其の益必ずこれあるべき事にて、薩摩の片腕には相成る藩に御座候」
 と、大きな期待を寄せていた。これによって薩長和解に向けても大きく動き出していくはずだった。
 ところが───である。
 勤皇派人事が確立されて慶応元年三月初旬、勤王派が藩の上層部を占めたことに加え、司書らは藩政改革を強く推し進めるあまり、旧来の保守派との間に大きな軋轢が生じた。藩論は真っ二つに割れ、事態は収拾がつかない状態に陥ったのだった。その動揺をおさえようと、司書らが藩主黒田長溥に提出したのが『藩論基本の建議書』なるものだった。これがいけなかった。
 「時勢は乱世である。このような時だからこそ藩論を確立したい。政の第一は人心の一和にある。これは藩祖からの方針である。そのことをしっかりわきまえ、及ばずながら富国強兵の方向で補佐したい」
 と、その内容は、まるで全てを知っているかのような高みから、藩主を戒めるようだった。また、
 「主君の率いるところがどこにあるかによって、一家中に党派が発生してしまう。上下一致して偏らず、藩論を一定することが肝要である」
 と、現在の混乱が、藩主のせいだといわんばかりに聞こえる内容に加え、
 「時勢の変化に応じ皇国に尽くすには、いつも幕府の機嫌ばかりをうかがってもいられない。公然と討幕とまではいわないにしても、条理が立つのなら幕府の忌憚に頓着することはあるまい。わが筑前藩は九州枢要の国。有事の節は一藩の独立をも考えるべきであろう。いまのままでは何事もうまく運ばない。富国強兵の実をあげるためにも、およそ割拠するぐらいのお心でやってもらいたい」
 とまあこんな具合である。勤皇主義者が書いた建議書(意見書)だから、言いたいことは分かるが、もう少しオブラートで包み込めなかったものかと筆者でも思う。案の定、これを読んだ藩主は激怒した。
 「これは私に対する説教か!」
 その怒りを知った保守派は、「それチャンスだ」とばかりに勤王派の追い落としにかかるのだった。建議書は藩を立て直すどころか、やがては自分達の首を絞めることになっていく。
 その他勤皇派政権が行った政策のひとつに中老右筆所詰の廃止がある。右筆所とは本来藩主側用人の詰所であるが、福岡藩では年輩者が用人として仕官し、藩主に直接進言することが多々あった。しかしそれでは余計な話も藩主の耳に入ってしまい、明確な判断を鈍らせることになると考えた司書らは、その側近政治を払拭するために廃止した。しかしこれもまた失敗に終わり、ついに政権を担いはじめてから僅か四ヶ月で、追い討ちをかけるように『犬鳴山別館築造事件』と言われる致命的な出来事が起こる。
 事の発端は六月十八日夜、勤王派の衣非茂記と黒田大和(黒田播磨の甥)の密談が露見したことによる。その密談の内容というのは、黒田播磨の知行地である三奈木に太宰府の五卿を動座し、その後薩摩に移して九州勤王派を決起させるという計画で、藩主黒田長溥がその計画に賛同しなかった場合は藩主を犬鳴山別館に移し、その子長知を担ぎ上げて挙藩一致体制(勤王)を構築しようとするものだった。これは話ができすぎで、あるいは密談自体、保守派の陰謀だったとも考えられている。
 そもそも犬鳴山別館というのは藩主を守護するための別邸のことで、この築造計画は、当初から勤王派主導で進められていたことは確かであるが、その意図するところは、
 「嘉永以来黒船の来航などで騒然とした時代様相にあって、海岸に近い福岡城は砲火の洗礼を受けやすい。よって有事に備え藩主をかくまうための別邸が必要」
 というもので、藩内においてもそれは認知されているはずだった。その計画は今年に入ってから進められ、五月頃には既に完成していたが、誤解を招く要因があったとすれば、その築造規模がかなり大がかりだったことで、事件が大問題に発展した直接的な原因は、築造された犬鳴山別館に、幕府の嫌疑がかけられたことである。
 かつて徳川幕府は、全国の大名の統制と軍事力の抑制を目的とし、元和元年(一六一五)に一国一城令を発した。これにより福岡藩には福岡城だけが残されたが、幕末動乱期における築造だけにこの別館がそれに反するとされ、幕府に謀反を企てていると見なされたのである。更に幕府は長州との緊張状態の中で、福岡藩は長州と気脈を通じているという嫌疑をかけた。
 それを利用しようと謀ったのが保守派勢力だった。世間では「藩主の別邸にしては、茶屋以上の構え」との風説も広がっており、おまけに先程述べた勤王派決起の密談の露見である。たちまちのうちに、
 「加藤司書、謀反!」
 との噂が広がった。『藩論基本の建議書』で藩主から怒りを買っていた司書は、ついに謹慎を命じられると同時に、それまでの素行を調査されることになってしまったのだ。そして、七月二十一日に謹慎処分を受けた司書に対して、それから約三カ月後の十月二十五日に切腹の命令が下る。悲劇は司書一人だけに留まらず、勤皇派の大弾圧にまで発展したことにある。勤皇派官僚は全員逮捕され桝木屋の獄に入牢となり、加藤司書をはじめとし、衣非茂記、建部武彦、斉藤五六郎、万代十兵衛、森勘作、尾崎惣右衛門ら七名は切腹させられ、月形洗蔵、梅津幸一、鷹取養巴、伊丹真一郎ら十七名は斬首、さらには勤皇派を助けた十五名が流刑となり、勤王活動に加担した疑いのあるすべての者に処罰が与えられたのである。その数は延べにして一八〇余名とも言われており、これがいわゆる幕末福岡藩における 『乙丑の獄』である。
 この事件によって福岡藩は多くの人材を失い、実質的に筑前勤王派は潰減して尊壌運動は挫折する。同時に福岡藩主の西南諸藩における主導権も崩壊し、ついには薩摩や長州とも離れて、譜代大名以上に佐幕的性格を鮮明にして幕末を迎えることになり、その歴史から抹消された。歴史の厳しい審判ともいえるだろう。
 薩摩藩においては福岡藩の存在を頼りにしていただけに、薩長同盟に対して躊躇せざるを得なくなった。下手なところで長州との歩み寄りが露見してしまえば、福岡藩の二の舞を見ることになる。龍馬と慎太郎は、新たに生じた情勢に苦しめられながら、執念の周旋を繰り返していた。
 ところが反長州感情の風向きが少しずつ変化していくことになる。九月十六日、幕府が長州征伐の勅許を願い出た時、日本の海外貿易において新たな流れが生じていた。それは英仏米蘭の連合艦隊九隻が兵庫沖に集結し、条約勅許と早期に兵庫を開港するよう強く要求してきたのである。京都にいた将軍家茂はその対応に頭を痛めるが、朝議の末、兵庫開港は不勅許にしたものの、条約の方は勅許とし、それによりそれまで二〇パーセント前後だった輸入税率が、一律五パーセントと、日本にとっては植民地並みの不利な税率での貿易を強いられることになったのだ。日本の将来を危惧する者達の反幕府感情は高まり、加えて長州再征の勅許は下りたものの、その再征理由がはっきりしないと言って長征に反対する大名も出はじめたのだ。その背景には、出兵によって発生する莫大な費用の心配がある。そういったことが重なり、幕府に対する不満が次第に高まってきたのである。世論が動けば薩摩も動く。薩長同盟に現実味を帯びながら時は流れ初めていたのである。
 さて話を戻す───福岡勤皇派で弾圧された者の中に、勤王家の母としてそれまで多くの志士達を助け支援し、また、かつては晋作をも草庵に匿った野村望東尼がいた。女性でありながら、流罪という厳しい処分を受けなければならなかった彼女は、十一月十四日、玄界灘の海にぽつねんと浮かぶ姫島に流された。御年六十歳。畳もない四畳の板敷きの獄舎で、彼女はその年の冬を耐えなければならなかった。

 うき雲のかかるもよしやもののふの大和心のかずにいりなば

 例え疑いをかけられようと、大和心を持つ志士の一人に数えてもらえるのなら本望であると望東尼は詠んだ。しかし獄舎での生活は、想像以上の苦しみがあったに相違ない。火さえ使うことを許されない獄舎で、彼女は寒さを凌ぐため、着物や風呂敷などを部屋に張りめぐらしたが、そんな物で暖を取ることなどできなかった。そしてやがて春が訪れたとしても、部屋にはムカデや蜘蛛がわんさと出没する環境の中で、病に犯され衰弱することもあった。そんな彼女を支えたのは島の民の温かい思いやりだった。彼らは火をこっそり用立てたり、家族へ手紙を届けてくれたりもした。

 暗きよの人やに得たるともしびはまこと仏の光なりけり

 劣悪な環境下、望東尼は日記を書き続け、処刑された同志のために、萱で指を切って滴る血液で、麻布に写経し歌を綴って供養した。
 「もう再び、生きて帰ることはないでしょう……」
 望東尼は懐かしい過去の出来事を思い出し、とめどなくこぼれ落ちる涙の始末に困った。

 病床に耽ることが多くなっていた晋作は、各地の情況を探るため、奇兵隊士を町人姿で要所々々に諜報者として忍び込ませている。もともと町人や農民出身の彼らは、そういう仕事には打ってつけだった。福岡藩に忍ばせている諜報者から、そんな福岡藩の情況は耐えず報告されていたが、うちわもめに晋作はあまり興味がなかった。
 ところが十一月下旬のことだった。野村望東尼が姫島に流刑されたと耳にした瞬間、
 「なにっ!」
 と重い身体を起こして表情をこわばらせた。仮にも彼女から一宿一飯の恩義を受けた身である。その夜、晋作は鼓動が高鳴り、なかなか寝付くことができなかった。
 
> 【 倒幕の章 】 > 43.木戸、京へ
43.木戸、京へ
幕末小説 『梅と菖蒲』
 慶応元年十一月七日、ついに幕府は諸藩にむかって長州征伐のための出兵命令を発した。
 それに先だって幕府は長州の内情を探るべく、大目付永井主水正尚志を正使とした訊問使団一行を岩国領(長州藩)との国境にある広島に向かわせた。その中には新撰組局長近藤勇らの姿もあった。彼らは長州訊問使の話を聞きつけ、「我らも是非に!」と長州行きに願い出たのである。彼らの長州憎しの執念も尋常でない。
 同十六日、広島に到着した一行に対し、長州側から派遣された使者は宍戸備後らで、両者は同二十日に広島の国泰寺で対面することになる。
 「長州に不審な動きがあるとの噂がしきりだが……」
 と、永井が八カ条に渡り厳しく訊問を開始した。それに対して長州側は、あくまで恭順の姿勢を示さなくてはいけない。宍戸備後は訊問される内容を事前に予想していたのであろう、その八カ条に対して巧みな釈明で切り抜けていった。
 ひと通りの訊問を終えたところで、永井は懐から一枚のメモを取り出して宍戸に見せた。そこには近藤勇をはじめとした同行してきた新撰組隊士らの名前が記してあった。
 「その者たちは元新選組の隊士であるが、このたび私が召し抱えました。貴公が帰国する際、この者たちを同行させ、親しく長州の実情を見聞させたいと思う。さすれば、幕府の長州に対する疑惑も大いに解けるであろう。左様に取り計らいなさい」
 新選組といったら、現在京都で長州藩士はじめ尊攘、倒幕派浪士達の取り締まりに躍起になっている荒くれ者集団ではないか。そんな集団の幹部らを長州に連れ込んだらとんでもないことになる。宍戸は機転を利かせてこう答えた。
 「只今かような方々に国許へ来て頂くことは、いたずらに長州の幕府に対する感情を悪くするばかりかと思います。また、万一幣藩の民どもが危害でも加えたりなどすれば、それこそ幕府と長州との関係をますます悪化させる結果になると思われます。どうかご容赦を」
 もっともな回答であった。永井は取り出したメモを引っ込めた。
 こうして訊問は修了したが、長州入国を拒絶された近藤勇らは諦めきれず、単独行動で入国を図って、長州藩士の広沢兵助に面会を求めた。しかし広沢に面会を拒まれ、次に同藩士大津四郎右衛門に面会を求めたが、ここでも入国は叶わなかった。しかし近藤は諦めない。広島滞在を延長してまで再び広沢兵助に面会を求め、二度目とあって断りきれない広沢はようやく会って話を聞くが、結局近藤の要望については拒絶した。近藤勇のすごいところは、これでもまだ諦めなかったことである。さらには岩国藩を通して入国を試みた。しかしそこでも拒絶され、ここに至ってようやく帰京の途についた。ところが彼はまだ諦めていなかった。翌年正月、長州処分を伝える小笠原壱岐守の使節に伴って再び広島に訪れる。しかしこのころ長州は、すでに幕府と対立する構えを見せており、近藤の入国はついに実現することはなかったが、この執念の正体は一体何であろうかと、筆者は悩むばかりである。

 一方龍馬は、長州から兵糧米の調達成功の報告を西郷に伝えるため上京し、長州へ使者を派遣することを依頼した。それを受けて黒田了助(清隆)らを長州に赴かせることになる。永井尚志が長州訊問の使いとして派遣されたという情報が龍馬の耳に入ったのはその頃で、幕府の新しい動きに対して長州の反応を確かめるため、龍馬は再び下関に向かった。十一月二十四日のことである。
 ところが龍馬が下関に着いてみると、近藤長次郎が購入までこぎつけた蒸気軍艦ユニオン号の使用権をめぐって、話が拗れている真っ最中。
 「まったく何をやっちょるか!」
 と、龍馬はそのまま長崎へ向かうことになる。
 そもそも薩摩名義で蒸気軍艦を購入すると木戸と約した龍馬は、その仕事を亀山社中の近藤長次郎に任せていた。長次郎の商業の才を高く評価していたからである。そして長次郎は購入に際し、薩摩名義で買えるよう薩摩藩の官吏を説得し、ついにグラバー商会から軍艦ユニオン号を三万七千五百両で購入することに成功した。そこまでは良かった。
 井上聞多との密談の末、桜島丸と命名されたユニオン号は、
 一、船の代金は長州藩が支払う
 二、船の名義は薩摩藩とする
 三、そしてその運営は亀山社中がおこなう
 といういわゆる『桜島丸条約』を結ぶ。もちろん代金を支払う長州藩が船を必要とする際は、自由に使用できるというものだが、条約を交わした聞多にしてみればこれまで長州の武器類調達に骨を折ってもらった長次郎に対して恩義を感じていたのかも知れないし、あるいは薩摩名義を獲得する際、長州が運用すると言ったら薩摩が承諾しなかったのかも知れないが、その根底には、長次郎の亀山社中を世界に雄飛させたいという夢といえば聞こえはいいが、要するに亀山社中の私利私欲が見え隠れするのである。いずれにせよ条約の内容を知った長州の海軍局は、当然その聞多と長次郎の間で結ばれた密約に大きな難色を示す。
 「船の代金は長州が支払うのじゃ!亀山社中が運用するとはどういうことじゃ!」
 「これは貴藩の井上様と交わした約束ゆえどうかお飲みください。それに蒸気船の運航には熟練された技術が必要ですけん。まだ船の代金は未払いゆえ、このままではこの話自体が流れてしまいます!どうかご承諾を!」
 と、長次郎は喰い下がった。来る幕府との戦いに備えるにはどうしても蒸気軍艦が欲しい長州との間で、俄に亀裂が生じようとしていたのである。
 長崎に入った龍馬は長次郎を一喝した。
 「おまんはせっかくここまで築いた長州との信頼を、すべてご破算にするつもりかいの!」
 「しかし世界を相手にビジネスをするには、亀山社中に船は絶対必要なんです!こんな絶好の機会は二度とないかもしれません!」
 「おまんの言うことはよう分かるぜよ。じゃがな、今はそんな自分のことばかり考えておる時じゃのうて、幕府を倒すのが先じゃろう!わしらの夢見る世界は、その後に必ず来る!そうなったらおまえ、船なんぞいくらでも手に入れることができるんじゃ!」
 龍馬は長次郎を説き伏せると、長州海軍局総官の中島四郎と話し合い、先の条約を破棄して新たに『桜島丸攻守条約』を締結したのであった。これにより亀山社中に関する部分は削除され、ユニオン号の運営は長州藩海軍局のものとなり、船の名称も『乙丑丸』と改名されることになる。
 そんな亀山社中と長州藩の間での対立だったが、長州が軍艦と武器を得ることができた背景には絶大なる長次郎の尽力があったことも事実であった。聞多と俊輔はその功労を藩に推挙し、やがて長次郎に対して莫大な恩賞金を与えたのである。
 長次郎の私欲があからさまになったのはこの時である。長州からもらったその金を亀山社中の同志に秘密にしたまま、異常なほどの向学心に支配されたままグラバーにイギリス留学を依頼したのだ。しかしその留学計画が同志に露見し、亀山社中の盟約によって長次郎は腹を切った。享年二十九歳、志を私欲のために燃やした悲しい結末だったと言えるだろう。龍馬はその死を惜しみ、
 「術数あまりあって至誠たらず。近藤氏の身をほろぼすゆえんなり」
 と手帳に記した。ともあれ乙丑丸と改名されたユニオン号は長州に来た。これによって木戸は、龍馬に対してますます信頼を深めることになる。

 西郷吉之助の使者として、黒田了助が下関に到着したのは十二月十九日のことだった。黒田は木戸に対面すると、
 「この度の兵糧米の件、西郷吉之助より心より感謝を申し上げるよう承って参りました。西郷は今、京を離れることができません。つきましては木戸様にご上京いただき、今後の日本について談議したいと、くれぐれもよろしく伝えるよう西郷に言われて参りました。せめてご上京はいつ頃になるかだけでもお伝えいただきたい」
 と平伏して告げた。木戸は「いよいよきたか」と黒田をじっと見つめ返したが、即答するには及ばなかった。というのもいくつもの心配事が頭をかすめていたからである。
 一つ目は西郷に対する不信感である。今年の閏五月、一度は下関に来ると約束した西郷は、結局京都に行ってしまい、木戸は待ちぼうけをくらった末に、その約束を違えられた事だ。
 二つ目はいまだ根強く残る藩内の薩賊感情である。特に主要部隊である奇兵隊内の反発は大きく、一部ではあるが旧保守派による幕府恭順論すらくすぶっているのである。こういう状況では京都に行っている間に、藩論が覆されてしまう可能性も残されている事だ。
 三つ目は仮に京都に赴いた場合の命の危険性である。もし薩摩が本気で会談に臨むのであれば、長州人にとって最も危険な京都に招誘するなど、配慮を欠くにも甚だしい。別に命が惜しいわけではないが、これまでの経緯を考慮すれば、薩摩の方からこちらに代表者を送るのが筋ではないかと譲らなかった事である。
 木戸は苦慮の末、
 「ちと当方の思っていることと違うようじゃ」
 と、その日は黒田を退かせてしまった。
 しかし現実的に長州が生き残るたった一つの道は、薩摩と和解、提携する以外にないということは、知識人であれば誰の目にも明らかなのだ。木戸の身近な人物でさえ、晋作はじめ山県狂介も井上聞多も佐世八十郎もみな薩摩との提携を支持しており、「木戸さんを上京させた方が良いだろう」と意見を一致させていたのである。
 それから数日後、新地藩会所の一室で、木戸を囲んで晋作や山県、そして俊輔、佐世らが集まって、今後の善後策について語り合った。みな西郷の使者として訪れた黒田の人物評などしながら、「やはり藩のためには京に行った方が良いのではないか?」という意味の事を、遠回しに木戸の表情を伺いながら言い合った。木戸は言葉少なに酒を飲むだけで、話の本意には気づかない素振りで静かに笑って聞くだけだった。やがてこのままでは埒が明かないと、ついにしびれを切らせた晋作は、木戸に酒を勧めながら単刀直入に本題に入った。
 「木戸さん、中岡君と坂本さんがようやくここまで運んでくれた話です。木戸さんが京に行かれている間の藩のことはボクがなんとかします。縷々心配事があるのは分かりますが、長州のため、ここは西郷と会ってみてはどうでしょう?」
 木戸は「ついにそのことを言ってきたな」と不敵な笑いを浮かべて晋作に盃を返した。そもそも俗論政権をひっくり返した晋作に、藩の心配はいらないと言われては、先に述べた二つ目の拒む理由を持ち出すことはできない。木戸は、
 「別に西郷と会うのを拒んでいるのではない。晋作は物事に筋を通すべきだとは思わないのかい?まして藩の進退に関わる大事じゃ。筋をはずせば揚げ足をすくわれる」
 と、三つ目の拒む理由を、長州人特有の理を持って答えた。
 「残念ながら、長州には今そんなことを言っている余裕はないはずです。それに体面にこだわる必要もないでしょう」
 と、晋作の言うことはいちいちもっともだった。木戸は不愉快そうに晋作から返った盃の酒を飲み干した。
 木戸貫治が腰を上げない理由を数え挙げればきりがない。しかしその深層部の出どころを探れば、それはただ一点、薩摩憎しの感情だけだった。表向きでは奇兵隊や藩内の薩賊感情とか言っているが、実は木戸自身が長州の誰より薩摩を憎んでいたのである。それは誰よりも長州を愛する証拠でもあり、極端な話を持ち出せば、禁門の変の時、愛する同志達の命を奪ったのは薩摩であるとの激しい憎しみが、いまだ心を覆って許すことなどできなかった。木戸ほどの頭の切れる男であるから、晋作が言うことは百も承知であるが、それにも増して拭いきれない薩賊感情が、彼の判断を躊躇させているのである。薩摩と組むくらいなら防長一丸となって邦国が焦土と化すまで幕府と戦うのみだ。口にはしないが、これが木戸の本心なのだ。
 木戸は何も言わずにまた晋作に返杯した。
 何も言わないが、晋作はそのことを知っていた。晋作自身、あるいは木戸以上に薩摩など呪い殺してやりたいと思っていた口なのである。しかし彼の場合、福岡で望東尼と会い、中岡慎太郎の情熱に突き動かされて、これまで最も嫌いな西郷という男と二度までも会ってきたのだ。そしてその結果、『憎い』という感情をついに乗り越え、長州の存亡を正視眼でとらえられるようになっていた。
 会えば道は開ける───、望東尼に教えてもらった、それが晋作の信条となっていたのだ。
 何も答えない木戸に思いあまって、ついに晋作はこう言った。
 「なんじゃ、逃げの小五郎の性根が出てきたか?」
 その瞬間、その場にいた者達の表情はこわばり、和やかさを装っていた空気がピンと凍りついた木戸に対してそんなことを言えるのは晋作だけだ。木戸の過去を知っていればいるほど、それは決して口にしてはいけない禁断の句なのである。瞬転、木戸はかっと頭に血をのぼらせると、
 「もういっぺん言ってみろ!」
 目の前の膳を部屋の壁に叩き飛ばした木戸は、脇に置いた刀を引き抜いた。
 「もういっぺん言ってみろ晋作!いくらお前といえども許さんぞ!」
 抜いた刀の切っ先を、晋作の喉元に突きつけて木戸は同じ言葉を繰り返した。
 「斬るなら斬れ!どうせ生い先短い身の上じゃ!木戸さんに斬られて死ぬならボクも本望!」
 二人はしばらくそのままの姿勢で睨み合った。周りの者達は微動だにせず、目をまん丸くしたまま固唾を呑み込んだ。
 その緊迫した時間は永遠のようにも思えた。
 が……、
 やがて木戸は刀を鞘におさめ、何事もなかったかのように胡座をかきなおした。そして、
 「私はどうにも薩摩が憎いのじゃ……」
 と呟いた。
 「やっと本音を漏らしたな」と晋作は、自分も痛いほど分かるその感情に心で泣いた。
 「分かりましたよ、木戸さん。この度の京へは、ボクが行きましょう」
 木戸は突然なにを言い出すかといった表情で晋作を見つめた。
 「ボクならば薩摩の人間も納得するでしょう」
 晋作は本気である。長年の付き合いで木戸にはすぐ分かる。
 「何を申すか、これは薩人の罠なのかも知れんのだぞ!」
 「西郷のやり方は確かにずるがしこいが、そこまで人非人じゃありゃしませんよ」
 「待て!それにお前は病気じゃないか!途中で死んだらそれこそ犬死にじゃ!」
 「ボクが死んだら長州の士気はますます高まると信じちょる。けっして犬死にはならないよ」
 やがて晋作は静かに立ち上がった。
 「待て!晋作!」
 木戸は晋作の腕を掴んだ。そしてその双眸をひしと見つめた。
 「わかったよ、晋作……。これは私の仕事だ。京都へ行こう」
 木戸はそうしてにこりと笑った。
 「あとのことは頼んだぞ!」
 晋作も眼に涙を溜めて微笑み、こうして木戸貫治の京行きは決まった。
 十二月二十一日、藩主は木戸を呼び、京都の形勢視察を名目として、いよいよ正式に木戸に対して上京の命を下す。そして同二十七日、木戸貫治は薩摩藩士の黒田了助とともに、御盾隊の品川弥二郎、奇兵隊の三好軍太郎、遊撃隊の早川渡、そして晋作の代理として土佐浪士の田中顕助らがその護衛となって、一行は三田尻より船上の人となった。
 こうして慶応元年という年は暮れていく。
 
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44.薩長同盟
 
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45.二人の妻女
幕末小説 『梅と菖蒲』
 龍馬が京の薩摩藩邸に匿われている頃、下関の晋作は非常に厄介な問題に直面していた。厄介といっても天下の時勢に関わる問題とか、藩内の政治的な問題とか、そういう高度な社会的なものではない。それはあくまで私的なものであり、晋作ほどの男が……と、思わず破顔一笑してしまいそうな家庭的事情である。
 正妻の雅が母の道と一緒に萩から下関に来ると言うのだ。その手紙を手にした晋作の表情はみるみるこわばっていく。
 「旦那はん、どうかなさいましたかえ?」
 鏡を見ながら髪の手入れをしていた卯乃が、その手を休めて言った。
 「いや、なんでもない……」
 と答えたが、暫くして、
 「お卯乃、雅が萩から馬関に来ると申したらどうする?」
 と晋作は戸惑いを隠せない様子で呟いた。
 「えっ?ご新造様が来なはるの?」
 卯乃は急にそわそわとしだしたかと思うと、「ほな、うち、また堺屋さんの所へ引っ込んでますわ」と、妙に聞き分けのいい返答が、一層晋作を悩ませた。
 実は木戸が京へ旅立つ前からこれまでの間に、晋作は何度か萩に帰省していた。そして今年の正月は萩で迎えた。それとなく病のことを家族に知らせておかなければいけないと思ったのと、生い先短いだろう最期の家族との共有の時間を持とうとした、彼なりの親孝行のつもりでもあった。しかし慶応二年元旦の詩を読む限り、心はけっして充たされることはなかった。

 父母妻児皆在家(父母妻児みな家に在り)
 迎春只独滞天涯(迎春ただ独り天涯に滞る)
 微官却喜少公事(微官却って喜ぶ公事の少なきを)
 静対梅花坐煮茶(静かに梅花に対し坐して茶を煮る)

 床の間の梅を見ながらそんな漢詩を詠んでいたところに、晋作の身体を案じた母の道が、
 「いくら職務とはいえ、萩に妻を残したままほとんど家に帰らず不摂生を重ねるから身体を壊すのです。このまま馬関に赴任するのであれば、一家で身の周りの世話をしに参るのは武家として当然でございましょう」
 と言い出した。晋作が馬関に妾を囲っているという事は風の噂でみな知っている。「この際、妾と手を切らせよう」と考えた父の小忠太も、
 「そりゃよい!藩の方へお願いしてみよう」
 とかなりの乗り気であった。もともと保守派の小忠太は、革新的な藩政にいいように使われている晋作を見るにつけ、家庭を抛りだして家にもろくに帰ってこない情況をけっして良しとはしていない。一人息子の晋作には、自分が長州一の美人と言われた雅という女を娶ってやったのだ。「妾などもってのほか」と思っている。しかも一才と三ヶ月になる長男の梅之進もいるのだ。「少しは父親らしいことをしろ」とも思っている。小忠太にとっても道の提案は非常に都合のよいものだった。
 「父上、それには及びません。妻が家を抛りだして主人の赴任地に押し掛けたとしたら、それこそ世間の笑い者ですよ。ボクはなに一つ不自由はしておりません。それに梅之進の養育の方が大事です。ボクが不在でも家をしっかり守るのが武家の妻の当然の努めでしょう、のう?お雅」
 雅は小さな声で「はい」と答えたが、どうもこの二人はいまだに夫婦としてしっくりいかない空気がある。そのうえ雅にしてみれば妾のことが頭をよぎるから尚更のことだった。それから晋作は逃げるようにして馬関に戻ったが、間もなく小忠太の希望が藩に受け入れられて、雅と道が下関に行くよう命が下ってしまうのである。そして二月に入って中頃に、新地藩会所に萩より雅の荷物が届く。晋作は柄にもなくただおろおろと戸惑ってしまった。
 最大の問題は、下関に下る母と正妻を、どこに住まわせるかということである。卯乃のいる入江和作の茶室に二人の妻女を同居させるわけにもいかないし、かといって卯乃を追い出すわけにもいかない。だからといってまさか旅篭に置いておくわけにはいかないし、結局困った時の何とやらで、菓子折を持ち、届いた雅の荷物を持って、いそいそと向かった先が白石正一郎の邸宅だった。かくかくしかじかと赤面しながら事情を話したところ、正一郎は嫌な顔ひとつせず、
 「どうぞお気遣いなく。ご自由にお使いください」
 と笑顔で言ったが、この頃の正一郎は破産寸前であり、しかもその原因のほとんどは晋作の創設した奇兵隊等への出資が主なのである。それなのに、
 「何ならば母君様とご新造様をお迎えする面倒は、すべて私が引き受けましょう」
 とまで言ってくれるのである。
 雅が梅之進を抱き、母の道と使用人の井上という男を伴って下関に来たのは二月二十三日のことだった。当時の交通手段は駕籠である。晋作は奇兵隊士の数人に命じて、一行をそのまま白石家に向かわせ投宿させることにした。

 曽為食客避喧嘩(かつて食客となって喧嘩を避けた)
 又是提携寄一家(又これに提携して一家を寄宿させる)
 自愧艱難与安楽(自ら恥じる艱難と安楽と)
 馮他友義送生涯(他の友義によって生涯を送る)

 正一郎への恩義を感じながら、「この革命期の最大の功労者は白石殿である」とは、晋作が常々本心から思っている事である。ともあれ、正妻と愛妾の二人を同時に見なければならなくなった晋作の心境は、これまで多くの艱難を乗り越えて来た男にしては可哀想になるくらいのたじろぎようで、女郎遊びも極めたかの男が、ある意味、実生活における男女の問題においては人一倍不器用だったともいえるだろう。裏を返せばそれだけ純粋なのだ。
 この頃、木戸に書き送った書状にはこうある。
 『ボクもこの度は妻子が馬関に引っ越してきて、愚妾(お卯乃)の一件かれこれで金には困り、胸のうちは雑沓のように困窮しています。死に遅れ、人には悪く言われ、難儀なことは日毎に多くなり、内心ひどく泣きさけび、黄泉に行った人たちを羨ましく思っています。どうかお憐れみ下さい』
 こんなことになるくらいなら最初から妾など持つべきではなかったと、今さらながらに思うが、小忠太に押し付けられた良妻賢母を絵にしたような嫁は、晋作のような生き方には非常に不釣り合いで、武家という型にはまった生活の中で一緒にいること自体息が詰まった。結局は自分で見つけた天真爛漫な卯乃の方がしっくりときて、気も使わず悠々と暮らすことができるのだ。この境遇は運命だったと諦めるより仕方がない。
 それにつけても悶々とした日々には耐え難いものがあり、これでは治る病気も悪化の一途を辿るばかりであったろう。藁にもすがりたい晋作の耳に、薩摩とイギリスとの間で『薩英会盟』が締結されるという思ってもない好都合な風聞が聞こえてきたのはこの頃である。
 「こりゃ都合のよい口実ができた!」
 とばかりに、木戸に「長州もこれに参加すべきだ!」と手紙を書いた。
 「ボクと伊藤俊輔を薩英会盟に同席させてほしい。ついては小松帯刀と西郷吉之助の船に同乗し、薩英会盟が行われる長崎に行きたいのだ」
 と要望を出し、そのための周旋を依頼した。晋作の内情を知る木戸は「仕方のないやつじゃ」と手をまわし、二人を長崎へ派遣させることにしたのである。晋作は厄介から逃れられる事にほっと胸を撫で下ろすが、出航するまでの間は、とにもかくにも二人の妻女に気を使いながらの生活をするより仕方がない。
 そして、恐れていたその日はそれから間もなくやってきた。
 白石宅に投宿していた雅だったが、晋作の世話をするためせっかく馬関まで越して来たというのに、当の晋作はここでも雅のところには帰って来ない。ついに切れたのは母の道の方だった。
 「いったいお雅の亭主はどこにいるのでございます?ご存知なのでございましょう?」
 と、顔を真っ赤にして正一郎に詰め寄った。
 「高杉様はお忙しいのでございましょう……」
 「そんなことは承知の上です。ですから私達は晋作の身の回りの世話をするため、わざわざ萩から馬関にまで来たのです。こんな所で投宿するためではございません!私はともかく、雅だけでも晋作のいる場所へ連れて行ってくださいまし!」
 晋作の母に激しくこう言われては、さすがの正一郎も返答に窮した。ついに押し切られて、子を母に預けた雅を入江和作の家に案内することになったのである。
 まさかそんなことになるとはつゆ知らず、卯乃の膝枕で耳を掻いてもらいながら晋作は、天下の事を考えながらぼんやりと庭を眺めている時だった。突然垣根の扉が開いたかと思うと、正一郎に連れられた雅の姿をとらえた。次の瞬間、雅の瞳孔が見開かれるのがありありと見てとれた。驚愕した晋作は、慌てて身体を起こして脇に置いた吸いかけの煙管をふかして惚けて見せた。
 「高杉様、お雅殿をお連れしました」
 雅を連れた正一郎が、苦笑いをしながら庭に侵入して言った。
 「まあ、おなごの膝枕でお仕事にお忙しいことですこと!」と、普通の女なら嫌味の一つも言っただろうが、雅は平然とした様子を繕いながら、ひとつぺこりと頭を下げた。
 一方、卯乃の方は、晋作の慌てように驚いたふうだったが、なぜ慌てているのか暫くは気づかず、「雅じゃ」と言われてはじめてびっくりして、乱れた襟元を正して俯いてしまった。
 「白石殿、来るなら来ると前もって言っていただかないと、ボクにも都合というものがある」
 「申し訳ございません。母君様に是非にと詰め寄られまして……」
 おどおどしながら晋作は、ひとまず雅を茶室に上げ、卯乃に茶を入れるよう促した。
 「お気遣いはいりませぬ」
 きっぱりとした雅の言葉の裏には、「なぜ妾の入れた茶を飲まなければいけないのか?」という嫉妬の声が聞こえてくるようだった。卯乃はもはやおろおろし通しで、どうしていいか分からない。やがて、
 「お卯乃、さがっておれ」
 という晋作の言葉に助けられて、部屋を出ようとしたところを、
 「かまいません。そこにお座りください」
 と、雅に差し止められて、仕方なく卯乃はその場に正座した。
 「では、私は家主に挨拶をして参ります」
 気まずい空気から逃れようと、正一郎はそそくさとその場を退いてしまい、残された晋作は、発する言葉も見つからないまま、上目遣いに雅を見つめた。
 「あなたがお卯乃さん……ですね?」
 雅は平静を装ったまま、晋作の後で正座する卯乃に話しかけた。
 「へえ……」
 卯乃は顔を真っ赤にして肯く。
 武家育ちの雅の中には楼閣の女に対する蔑みの念がある。それは差別意識というより階級社会が作り出した概念であるが、常々晋作からも「武士の妻たる者は」と、古風な武家に嫁いだ女のしきたりを聞かされてきたから、なおさら卯乃に対する不信感があった。いかにして主人をたぼらかしたのかと、その手口を見定めようと鋭い目力を卯乃に向けていた。一方、武士の精神と遊蕩の心を持ち合わせている晋作にとってはその情況はたまらない。彼にしてみれば、雅に言ってきた事も、卯乃に対する態度も出どこは同じ自分なのだ。矛盾といえばそれに違いないが、その二つが一つの肉体の中におさまっているのだから仕方がない。
 「高杉の世話をしていただいているようですね。私からお礼を申し上げます」
 雅は武家の嫁らしく慇懃に頭を下げた。そして「へえ」とだけ答える卯乃の様子を見ながら、いったいこの女のどこに自分の主人を娶るだけの力があるのかと首を傾げた。
 「うちの人は乱暴者ですから、さぞ気苦労も多いことでしょう。どうかご勘弁ください」
 雅は晋作をそのように思っている。なんせ結婚したとはいえ、一緒に過ごした日数など数える程しかないのだ。前ぶれもなく家に戻ってきたかと思えば、いつの間にかどこかに行ってしまう。その上いない間、聞こえてくる主人の風聞といえば、国を騒がすような騒動ばかりなのだ。晋作という人間をよく知らない人が彼を評価すれば、なるほどその行動は乱暴者に映るかも知れないが、夫婦とはいえ、雅の晋作に対する印象もその程度なのである。
 「乱暴……?いいえ、旦那はんはとっても優しい人どすえ」
 卯乃はおかしな事を言う人だなと思いながら、ぽつりと答えた。
 「優しい……?」
 雅は怪訝な顔をして晋作をみつめた。

 細君将到我閑居(細君将に我居に到らんとす)
 妾女胸間患有余(妾女は胸間患余り有り)
 従是両花争艶美(是より両花艶美を争う)
 主人拱手莫何如(主人は手を拱いて如何ともするなし)

 どうにも晋作はいたたまれない。師の松陰は、生涯患わすことのなかった夫と妻という複雑な男女関係である。「先生はこんな時どうしたことだろう?」と、ついに答えを見いだせず、
 「ちと、野暮用を思い出した……」
 と立ち上がった。
 「私とお妾さんを残して、どこに行くつもりでありますか?」
 「まあ、そう目くじらを立てるではない。仲良くやろうじゃないか……」
 説得力のない晋作の言葉を最後に、三人のいる空間は深く気まずい沈黙の時を刻んだ。
 地獄にいるかのような長い時間を経て、そこへ入って来たのは入江和作である。
 「これはこれは高杉様の奥様でございますか!私はこの家の家主で入江和作という者でございます。いつも旦那様にはお世話になっています。ぜひ奥様にご案内したい店があるのですが、これから一緒に参りましょう!」
 と助け船を出す背後で正一郎がすまなそうに笑っていた。地獄に仏とはこのことで、
 「そりゃよい!お雅もせっかく馬関に来たのだから、こちらのうまい料理を食わせちゃる」
 和作の提案に呼応して、晋作はすぐさま立ち上がり、すかさず正一郎も「さっ、参りましょう」と雅を誘ったものだから、雅は抵抗する間もなく三人に連れられて、やがて一行は稲荷町へと向かって行った。残された卯乃はほっとため息を落とすと、その場にうつ伏せに寝転がり、なにやら意味不明のおかしさにとらわれて、くすくす笑いが止まらなかった。
 正一郎を伴った和作の案内で、晋作と雅は大坂屋に入って、中でも高級な座敷に食事の席をもうけた。雅は建物の造りや装飾品を、終始をきょろきょろと眺めながら、
 「このようなところへはよく来るのでございますか?」
 と晋作に聞いた。質実を常としている彼女にとっては、世俗離れした店の高級感が、よほど珍しかったのである。
 「そうじゃの、付き合いでな。こういう場では愉快に過ごすものじゃ」
 と、晋作はさっそく芸妓を呼んで三味などを弾かせて雅を歓待したが、妻を喜ばそうとするのにそれはないだろうと誰もが思う。思えば夫婦で外へ出かけた事など一度もない晋作にとっては、それが最高のもてなしに違いないのだ。雅は愉快に振る舞う主人にあわせて笑っていたが、心の内ではちっとも楽しくない。やがて晋作は酒を飲みながら、
 「お雅、実は藩より命が下り、長崎に行くことになった」
 とぶっきらぼうに言った。
 「えっ……?」
 と答える雅を正視できない。
 「母上と私はどうすればよいのでございましょう?」
 「そうじゃのう……。しばらく馬関で物見遊山でもしたら、萩に戻るがよい」
 雅は黙り込んでしまった。おそらく言いたい事は山ほどあったろうが、そこは慎ましやかに晋作を見つめ返しただけだった。彼女には分かっていた。高杉晋作という主人は、もう自分の所には戻ってこないということが。武家に生まれ武家に嫁いだその世界の中でしか生きられない自分が。この男はそんなちっぽけな枠の中では到底生きていくことができないのだ。かといって、自分を高杉家に招いた小忠太を恨むなど思いもつかない。ただ自分の境遇に耐え忍び、それを自分の一部として生きることが、武士の妻たる努めであると信じて疑わなかった。
 「そういたします……。どうぞお勉めを全うしてくださいまし……」
 晋作は「うむ」と言いながらまた酒を飲んだ。
 
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59.おもしろき世
 
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60.東行庵
 
> あとがき
あとがき
幕末小説 『梅と菖蒲』
 高杉晋作に関わる書物は、世の中にたくさんある。
 しかしあえて彼を扱って物語を書いてみようと思ったのは、彼と吉田松陰との関係において、どれもいまひとつしっくりいかないことを感じていたからである。今、『師弟』というものがおろそかにされているような現実を見たとき、松陰の在世中から物語を追うのではなく、弟子である晋作の生き様の中に師というものを脈々と感じることのできる話を書きたいと思った。
 とはいえ、晋作の生涯の記録を残す資料は膨大で、それを整理するだけでも大変な作業であり、しかも筆者は幕末の時代背景や経緯について、書き出し当初はほとんどまともな知識を持っていなかった。増して複雑なそれらの事象、事柄についての解釈の仕方も、様々な研究の中でなから落ち着いてきてしまっているというやりにくさがあった。ともすれば先に描かれている様々な人達による高杉晋作像の、二番煎じになる可能性が大なのである。
 それでも新しく筆者なりに新解釈を加えた箇所がある。───と思っている。
 一つは『風雲の章』で描いた京都での晋作である。京都狭しとバカ騒ぎする晋作を、松陰の喪に服すという設定で書いてみたこと。二つは『回天の章』で日柳燕石に披露した漢詩で晋作が「猛気更に余す十七回」と詠んだ場面である。一般的には十八回の誤りではないかと言われるが、筆者は弟子たる者が師のことを誤るはずがないと考えた。そして三つは『倒幕の章』の最後、晋作と野村望東尼とのくだりである。更に福岡で晋作と西郷吉之助が会談したという話は、あまり取り扱っているものはなく、筆者も結構好きな場面である。
 坂本龍馬に対する見解は、龍馬ファンにとっては不愉快にさせてしまう要素も多く含んでいると思うが、浅学な筆者の一存であるので一笑に付していただいてかまわない。描きたかったのは、松陰から発した『大和魂』の連鎖反応なのである。
 この小説の執筆中、実は萩と下関を訪れた。そして萩の街並みの中で歴史の重厚さを思い、対して下関は近代化が進んでおり残念に思った。しかし大坂屋跡地に立つホテルのすぐ近くにあった「維新村」という店では、店員の方に貴重なお話しを聞かせていただくことができた。『倒幕の章』で登場させた無敵幸之進勝幸もそこで知った人物である。最大に感謝申し上げたい。
 それにしても激動の幕末期を思うとき、現代はなんと平和であることだろう。反して、『志』というもののなんと低くなってしまったことだろう。私たちは、歴史というものからもっと多くの事を学んでいかなければいけないのだと強く感じいった次第である。
 最後に、この小説を書くに当たって、ネット上に公開されている膨大な情報を参考にさせていただいた、多くのサイト運営者様に深く感謝申し上げます。

 二〇一一年八月十三日 はしいろ まんぢう