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8.此の糸
幕末小説 『梅と菖蒲』
 実は筆者はこの項から物語を書き出そうと思っていた。
 この項は本編の主人公である高杉晋作と愛人お卯乃がはじめて出会う場面であるが、ここに至るまでの経緯を述べるうち、知らず知らずに分量がかさんでしまった。最初は流して書こうと思ったのだ。ところがこの時代を書こうとすると、薩摩藩から見た幕末もある、徳川幕府から見た幕末もある、あるいは新撰組や坂本龍馬のように固有の集団や個人の視点から見た幕末もある。しかしどれを語るにしても、結局それは複雑に絡み合った紐をほどくのに似て、高杉晋作の一時期を取り上げただけでも、思うほど簡単には済ませられなかったわけだ。ともあれここまで話が進んだ。
 高杉晋作は梅の花をこよなく愛したと言う。一方お卯乃は菖蒲を愛した。よってこの物語のタイトルを『梅と菖蒲』としたわけだが、二人の関係にまつわるエピソードは、それほど多くは残っていない。しかし英雄の陰には必ずそれを支えた女性がいると捕らえた時、桂小五郎には幾松がおり、坂本龍馬にはお龍がいた。高杉晋作にもいたとすればそれは正妻の雅ではなく、愛人のお卯乃である。と、筆者は思う。幾松にせよお龍にせよ、この二人はどちらも幕末という激動期にあって、志士たる夫の命を守ったという強烈なエピソードを持つ凄腕の女性達である。それに対してお卯乃は今で言う天然ボケだったようだ。江戸の小三にしろ雅にしろ、教養ある女性が好みの晋作にしては意外だが、いわば時代を動かした天才の男と天然ボケの女性、この奇妙な組み合わせに魅力を感じるのは筆者だけではないはずだ。高杉晋作の奇蹟ともいえる後の逆転劇を考えるとき、その陰にあったお卯乃の役割は想像以上に大きかったはずである。
 ちなみに『お卯乃』とは当て字である。普通はひらがなで『おうの』と書くが、文章を読みやすくするねらいで漢字をあてたことをご了解いただきたい。

 江戸の頃より馬関は、商人の町として西の大坂といわれるほどの賑わいを見せていた。栄える場所には人が集まり、人が集まれば酒屋ができ、酒屋が増えれば遊郭街ができる。馬関のそれは稲荷町だった。現在の赤間町付近、竹崎の白石正一郎宅からはおよそ二キロ程度の距離にある。北浦街道沿いには大坂屋などの大きな楼閣もあり、その賑わいは江戸の吉原、京都の島原や祇園にも劣らなかったであろう。ところがこの日は、夷国の攻撃の影響か、往来の人の数はめっきり少なく、町を賑わす赤い灯も心なしか寂しく感じられた。
 晋作が正一郎と会ったその翌日、奇兵隊結成の祝宴をしようと晋作はじめ白石正一郎、入江九一、また九一と一緒に光明寺党に属していた吉田稔麿や赤根武人、滝弥太郎、山県狂介そして正一郎の次弟白石廉作は血気盛んに稲荷町に向かっていた。日中の打ち合わせで、ほぼ結成の手はずを整え、翌日六月七日には正一郎宅を拠点にいよいよ奇兵隊を発足させる予定となった。晋作馬関に入って一日たらず、まさに電光石火の早技である。
 その日のうちに九一は赤根らと、さっそく奇兵隊員募集のビラを作り、手分けしてそこらじゅうにばらまいた。
 『陪臣、軽卒、藩士を選ばず、農民、町人といえども志ある者は、急至小倉屋に馳せ参じ候べし。身分を問わず力量ある者は、必ず部隊に召し抱えるもの也』
 そのビラを見た平民達は、最初なんのことやら意味が分からなかったであろう。
 一方晋作は白石邸において、藩に提出する奇兵隊結成綱領をまとめあげ、河上弥一に託して彼を山口の政事堂へ向かわせた。同時に五箇条に渡る軍規を書きあげた。言ってみれば奇兵隊は異種雑多の集団である。松陰の構想を実現させ、来るべき外国や幕府との戦闘に勝利するためには、それに属する個々の才能と実力を存分に発揮できるような統制と訓練が必要であろう。それには隊を統率する厳しい規則が不可欠と考えたのだ。
 晋作は呼吸を整えると、一気に筆を走らせた。

 一、隊員は伍長に従い、伍長は総督に従うこと。肝要なるは一隊一和也
 一、隊中では勝手に外出をなすべからず
 一、酒宴、遊興、淫乱、高声を禁ずるもの也
 一、喧嘩、口論すべて無用のこと
 一、陣中敵味方、強弱の批判は是相成らぬこと

 現にこの軍規は厳守された。これより少し後、軍規を犯した笹村陽五郎という男は、皆の見ている目の前で切腹させられたくらいである。
 この奇兵隊の結成を皮切りに、長州藩内では同年末までに遊撃隊、荻野隊、八幡隊、集義隊、義勇隊、膺懲隊などの平民を取り入れた諸隊が続々と誕生することになる。そしてこれらの諸隊がその後藩内の旧体制を打破する先兵としての役割を担いゆくことになるのは、これよりもう少し先の話である。
 ともあれ奇兵隊の形が具体的になったことにより、酒場に向かう彼らの足取りは軽かった。やがて稲荷町に入ると、九一らの行きつけという裏町の『堺屋』という店に宴の座をもうけた。
 さあ、宴会のはじまりである。こうなっては彼らのお決まり、浴びるほどの酒を飲んで芸妓を踊らせ、どら声を張り上げてわめき出すのは時間の問題だった。
 「だが高杉よ、五箇条の法令とは全くよいが、果たしてお主に守れるかが問題じゃ! 第三項、酒宴、遊興、淫乱、高声を禁ずるもの也!これはどうじゃ? お主には無理と思うが。いっそ省いておいた方が後々のためじゃと思うがの!」
 九一が勢い良く晋作に酒を注ぎながら哄笑した。晋作の左隣には、早くも彼に肩を抱き寄せられて酒を飲まされている芸妓がひとり。一見、物静かに見える梅の蕾のような唇が印象的な美人である。ついさっきまで踊る芸者の横で三味線を弾いていた女に違いない。
 「ほうれ、隅に置けぬ。もう女をたぼらかしたか。やはりお前にゃ無理じゃ!」
 「同感です。奇兵隊総督になる人間が、掟を破ったとあらばそれこそ部下は付いてきませんよ。少しは慎まなければなりませんね高杉さん」
 今度は吉田稔麿が笑いながら言った。
 吉田稔麿は足軽の子である。松下村塾の四天王の一人であることは前に触れたが、松陰からは特に可愛がられ、『無逸』という字まで付けられた逸材である。無駄口は聞かず謹直重厚な人柄で、松陰は彼に対して、
 「才気鋭敏にして陰頑なり。稔麿は心に秘めた非常に強い意志を持っている。それは人により安易に動かされるものではない。足下の質は非常なり」
 と高く評価している。そんな彼にとっては、これから一隊を統率しようとしている晋作の奔放さが気がかりでならない。
 「まあ吉田君、そう固いことを言うなよ」
 晋作は軍規のことなどどこ吹く風で、隣りに置いた女をかまいたくて仕方がない。その様子を正一郎は目を細めて見守っていた。
 「名はなんと申す」
 晋作は隣りに座らせた女に聞いた。
 「へえ、此の糸と申しやす」
 言葉に京訛りがあるが、遊郭などでは一般的で特に不思議なことではない。此の糸と名乗った女は余程無口と見えて、聞いたこと意外答えない無粋さで、そうなるといかにしても自分に気を向かせたくなる晋作だった。
 「生まれはどこじゃ?」
 「へえ……」
 と言ったきり、此の糸は暫く座敷で芸者と一緒にばか踊りをする九一と弥太郎の滑稽な姿を見つめ、笑んだまま何も言わない。
 「生まれはどこじゃと聞いておる」
 晋作は同じ問いを繰り返した。すると此の糸はやっと晋作に顔を向け、
 「へえ……、生まれどすか? はあ……、覚えておりまへん」
 と言った。「この女、阿呆か?」と晋作は思った。
 「いつからこの店におる?」
 「へえ、十一のときからどす。気がついたらここにおりましたさかい」
 「それは気がつくのが遅かろう。それにしても三味がえろう上手のう」
 晋作は、先程芸者の脇で三味線を弾く彼女をずっと見つめていた。自分も三味線をたしなんでいることもあり、その腕前に感心しながらも、彼女の美しい顔に見惚れていたのだ。
 「三味線師匠をしとりやす。見えまへんやろ?」
 そう言ったかと思うと、此の糸は柄にもない自分の立場を思い出し、よほどおかしかったのか、初めて晋作を見ながら声を出して笑った。その表情が晋作の目に美しく映った。
 「三味はええのう。ボクも三味の音は大好きじゃ」
 すると此の糸は一層大きな声で笑い出した。あまり笑い転げるので「何がそんなにおかしいか?」と聞けば、
 「だって旦那はん、自分のことを“ボク”なんて言わはんのやもん。そない言うお侍はん、旦那はんが初めてですわ」
 と再び涙を流すほどに笑い出す。晋作は「この女、本当に阿呆か?」と思った。
 しばらく話すほどに、晋作はすっかり此の糸が気に入った。知的さの微塵も感じられないが、人の話を面白がって聞いて笑って、時々政治の話をすればぽかんと眠そうに欠伸をする。奔放といえばこの女も奔放だった。
 ふと、晋作は尿意をもよおした。
 「此の糸、ちと壁の方に頭を向けてみろ」
 「こうどすか?」
 此の糸は言われるとおり、身体を晋作に向けた姿勢のまま、首だけを壁側に向けて静止した。素直というか、愚直というか、あからさまで腹に一物を持たない純粋さに触れ、ついついからかいたくなってしまう晋作である。
 「そうじゃ。そのまま動くでないぞ。ボクはちと小便がしとうなった。厠に行ってくるから暫くそのまま待っちょれ」
 「へい、このままですね……」
 「ここにいる連中はみな女癖が悪いからの。もし話しかけられたとしても受け答えはならん。口を聞いてはならんぞ。ボクが戻るまで、ずっとそのままの姿勢で待っちょれ。よいな」
 「へい……」
 晋作はそう言うと座敷を出た。おそらくその瞬間、九一やら弥太郎やらがよってたかって此の糸を口説きはじめるに違いなかった。困り果てる此の糸の顔を思い浮かべると、晋作は可笑しくて仕方がなかった。
 外は涼しげな風が吹いていた。縁側の廊下を渡り、厠はその一番奥にある。用を足した晋作は、座敷に戻る途中、ふと、庭先に咲く菖蒲の花に目をとめて立ち止まった。
 「早いもんじゃのう。もう菖蒲が咲く季節か……」
 晋作は裸足のまま庭に降りると、紫色のその花を一輪摘んでじっとみつめた。
 「先生、お喜びください。いよいよ明日、四民平等の理念に基づいた奇兵隊が発足します」
 晋作は、菖蒲の花を師の吉田松陰に見立ててそう呟き、江戸遊学中に師からもらった他見無用の手紙のことを思い出していた。
 『十年後、もし貴方も僕も無事であったら、その時こそきっと大計を謀ろうではないか。それまでは各人の場で、思うことをじっくりと行動していれば、自然に心や意見の通じる人も出てくるでしょう。それまで世の動きを十分に洞察していきなさい』
 思えばあの手紙は、松陰が老中暗殺計画を進めている時ではなかったか。「申し難いから、推察してほしい」ともあり、松陰は晋作に後事を託すつもりで書いたものであることは松陰の死後にわかに気付いた。いわば遺言であった。
 「二人でやろうとおっしゃっていたのに、先生は先に逝ってしまわれた。久坂は既に京にて数々の成果をあげておるようじゃが、先生、ボクの方はいよいよこれからです」
 晋作はこのように、いつでも師と心を通わせようとする癖があった。萩で松陰の斬首刑の報せを受けて、涙が尽きるほど泣いた松本橋で、倒幕を固く誓った彼の心にいつしか松陰が住みついた。松陰ならどうするか? 松陰なら何を言うか? それが晋作が行動を起こすときの大きな判断基準であり、それは藩の仕事をしている時も、他藩の志士と話をするときも、極端な場面でいえば遊興にふけっている時でさえ全く同じであった。
 晋作は手にした菖蒲を見つめながら、
 「菖蒲、しょうぶ、勝負……」
 と呟いて、胸の奥からふつふつと込み上げてくる歓喜に目を潤ませた。
 そんなことで四半時ほど経過してしまっただろうか。いやもう少し経っていただろう。晋作はふと思い出したように宴たけなわの座敷に戻った。
 「おい高杉、おまえどこに行っちょった」
 さっそく九一がからんできて、ふざけて抱きついてきた。
 「厠じゃ」
 「それにしちゃあ、やけに長かったのう。お前さんのことだから、色っぽい妓のケツを追い回していたんじゃろ。まあいいわい、お姫さんがお待ちかねじゃぞい!」
 九一が指さす方を見れば、そこには壁を向いたままの此の糸が座っている。
 「お前、あの妓に何を言ったんだ? さっきからああしたまんまで、俺達が何を話しかけても見向きもせんわ」
 晋作は「ほう……」と微笑んで、此の糸の隣りに戻って座った。
 「そなた、ずっとその恰好でおったのか? もうよいぞ」
 此の糸は晋作に気が付くと、「へえ、死ぬかと思ったわあ!」と言いながら晋作の膝の上に身体を崩した。
 「いったい何をしていなはったん? わて、もうダメかと思いましたわ」
 その言葉には刺も嫌味も全く感じられない。晋作の言いつけを素直に守って、それがどういうことで何を意味するかなど考えることもなく、ただ言い付けどおりのことをすることだけが此の糸には問題だったようである。
 「けったいなおなごじゃの。ほれ、土産じゃ」
 晋作は先程摘んだ菖蒲を渡した。
 「まあ!きれいなお花どすわ! これ、ほんま、うちにくれはるの?」
 此の糸の喜び様は、まるで宝石でももらったかのようである。
 「そんな物で喜んでもらえるなら、毎日摘んできてあげるぞ」
 「ほんまどすか? いややわあ、そんなことされたらわて、旦那はんのことが本当に好きになってしまいますわ」
 晋作は此の糸の両頬を両手で押さえ、その幼さの残る切れ長の瞳をじっと見つめた。
 「ボクはもうそなたに惚れちょるぞ」
 此の糸は一瞬驚いたような目をした。いくら鈍いとはいえ、惚れたという深い意味くらいは分かるらしい。
 「名はなんと言う?」
 「此の糸どす」
 「それはさっき聞いた。本当の名じゃ」
 「卯乃と申しやす……」
 「お卯乃か……。そなたを落籍せてよいか?」
 「落籍せるって……?」
 遊郭のお抱え芸者をやっていればそれくらいの意味は知っている。落籍せるとは女郎小屋からその身を買い受けるという意味である。それには庶民の立場では莫大なお金が必要なことも知っている。それにしてもあまりに唐突で、普通なら「ご冗談を」と軽く笑ってあしらうところだが、卯乃は早くも真に受けて、返答に窮したまま黙りこくってしまった。といっても彼女の迷いは、この男は本当に自分を好いてくれるのかとか、ゆく末の将来を案じるとかいう類いのものでなく、店の主人になんて話せばいいかとか、仲間にはどういう顔をすればいいかというような目先の心配で、晋作のその言葉が冗談か本気かすら考える余裕もない。と言うより「ボクの妾になれ」という真意すら分からない。
 一方、晋作は本気である。思いついたら一瞬にして炎のように燃え上がり、後先をあまり考えずに行動を起こす動物的鋭い直感が働くのだ。
 「白石どの」
 晋作は隣で静かに酒を飲んでいる正一郎に話しかけた。
 「ちと、この女の身請け金を用意してはもらえまいか? 奇兵隊が動きだしたら、白石どのの家の女達だけでは手が足らんじゃろう。この女を白石どのの家に置いていただき、台所を手伝ってもらおうと思うが……」
 都合の良い言い分もあったものである。囲い込んでしまえば軍規にも触れずに済むというわけだ。正一郎は晋作を見つめてにこりと微笑むと、
 「分かり申した。必要経費と言うわけですな。私の財産は、既に高杉様にお預けしております。どうぞお気兼ねなく」
 と哄笑した。晋作も晋作なら、正一郎も正一郎だった。
 もっとも晋作にあっては、もともと私金と公金との区別がつかない、金に対して特異な無頓着さを持っている。つい昨年も、上海から帰った長崎で、二万両で売りに出ていたオランダの蒸気船を見つけ、少しのためらいもなく独断で注文したことがあった。半植民地化した清の現状に、ただならぬショックを受けたことによる衝動買いである。
 「我が藩は今のままではまずい。これからの世、船は藩にとって大いに有益であろう」
 と、純粋にかつ単純に思ったのだ。結果的には二万両もの金策がつかず、長州藩とのその契約は立ち消えとなるが、これより後にも、晋作の周りにはそうした金がらみの逸話は後を絶たない。彼にとって金は稼ぐものではなく、人に頼んで工面させるものなのだ。
 卯乃は自分の身に関わる重大問題の行方を、ただぽかんとした表情で眺めていた。このとき彼女は二十歳である。