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7.小倉屋
ネット小説ランキング>歴史>幕末小説 『梅と菖蒲』
 その夜、晋作は白石正一郎が営む小倉屋の敷居をまたいだ。九一も同行しようと言ったが断った。およそ大きな交渉事をするのに二人で行っては相手に見下されてまともな話もできないだろうと思ったのだ。
 廻船問屋として巨万の富を得たその邸宅の裏門は「浜門」と呼ばれ、海のすぐ近くにある。その門からほんの数歩降りれば、本当にもうそこは小舟が行き交う海なのだ。晋作は邸内に入り込むと、
 「頼もう! 白石正一郎殿はおるか?」
 と声をあげた。
 すると中から女中らしき者が現れ、晋作は自分の素性をあかすと、難なく奥のこぢんまりとした部屋に通された。暫くしてやがて正一郎が姿を見せると、彼はその大兵肥満な身体を晋作の方へ向け、その大きな体つきには似合わないほど静かに正座した。このとき正一郎満で五十一歳、一方晋作は満二十三歳、これが親子ほどに離れた巨人同士の初対面だった。およそ『志』を抱く者、一瞬会っただけで互いの全てが解るものである。
 「これはこれは、貴方が高杉晋作様でございますか。お噂はかねがねお聞きしております」
 正一郎は「およそ資金調達の頼みに来たのであろう」と、早々晋作の魂胆は見抜いている。しかし安物の人間に差し出す金などない。彼は彼なりに人物を見極め、志があればそれ相応の資金を工面しようと決めている。正一郎は今、目の前に座しているこの男の器にこそ興味があった。
 「で、今日は何のご用件で?」
 「実は……茶を一杯ご馳走願いたい」
 晋作は対面早々、やや横柄な口調でそう言った。
 「これはこれは気付きませんで」
 正一郎は手を打って女中を呼び寄せると「この御仁に清国のお茶をお出ししなさい」と言った。しばらくすると茶が運ばれ、晋作はズルズルと音をたてて飲み干した。
 「いやあ、実にうまい茶である。馳走になった。そういえば朝から何も食っておらなんだ。ついでに晩飯もご馳走願えまいか?」
 正一郎は一笑すると、言われるとおり晋作の前に膳を運ばせた。晋作はうまそうに膳の魚に箸をつけると、今度は物欲しそうな目つきで正一郎を見つめた。
 「うまいめしじゃの。少し酔いたい気分だ。酒などあると至極よいが……」
 と、これまた横柄につぶやいた。
 「これは気付きませなんだ」
 と、正一郎は言われるままに今度は酒を運ばせた。晋作は、これまたうまそうに飲み始めるのだった。
 「これはまたうまい酒じゃ!どこの酒ですかの?」
 「薩摩の酒でございます」
 「そうか!やつらめ、こんなうまい酒を飲んでおったか」
 晋作はやがて足を崩して飲み始めた。「白石殿もどうじゃ」と勧めながら、遠慮の微塵も感じられない。
 そうして二人は暫くらちもない世間話に興じはじめたが、ふと晋作は、床の間に飾ってある綺麗なガラスの工芸品を見つけた。
 「こりゃまた綺麗なガラスじゃの」
 晋作は飲む手を休めてつかつかと床の間に近寄り、その飾り物を目の前にかざしてまざまざ眺めた。
 「オランダ製の置き物です。よろしければ差し上げましょう」
 「そうか? それじゃ遠慮なく頂戴する」
 と、袖の中にしまいこんだ。すると今度はその脇にある金で装飾された煙管を見つけた。
 「これもまた見事なものですな。こんなキセルでたばこを吸ってみたいもんじゃ。これもボクにくださらんか?」
 「お気にめしたのであればどうぞどうぞ」
 と、その煙管も袖の中にしまい込んだ。こうして酒を飲みながら、晋作は部屋に置いてある高貴な品を珍しそうに見つけては、「これもくれ、あれもくれ」とその品々を正一郎に所望してまわりはじめた。ついには襖を勝手に開けて隣の部屋まで詮索しはじめる。しかもその品々がだんだん高級な物になっていく。正一郎は「こやつ、何が魂胆か?」と当惑しながらも、晋作に所望されたものを惜しげもなく全部あげてしまうのだった。
 と、次の座敷の床の間に飾られている黒漆の鞘に納められた太刀を見つけた晋作は、
 「ほう、見事な刀じゃ。これもボクにくださらんか?」
 と酔ったふうな口調で言った。「丸に十の字」の金彫りが入っている。薩摩藩島津家の家紋だ。正一郎は少し慌てた口調で、
 「それは駄目でございます」
 と言った。
 「なぜじゃ?」
 「それは薩摩の西郷様より頂戴したもの。やたら人には差し上げられません」
 「ほう……」
 晋作は鞘から刀を抜き、まじまじと見つめた。行燈の光が反射して、彼の顔に不気味に映えた。
 「ならばボクの刀と取り替えてくださらぬか?」
 正一郎は「正気か?」と、刀を見つめる晋作の目付きを確認した。いきなり家に押し掛けてきて、資金調達の願い入れをするかと思えば、突然飯や酒を催促した上、高級な品々を要求してくる。挙げ句に家宝にも近い西郷隆盛からの頂き物をやすやすこれもくれろと言う。盗賊でなければ強請か集りか。もし正気であるなら、「俺と西郷とどちらを取るか?」と言っているのと同じことではないか。正一郎は俄に目の前の男を警戒した。ところがその目付きからはほろ酔いの、ただの馬面の真抜けな印象しか受け取れない。彼は目の前の男が馬鹿なのか正気なのか判断しかねて、返答に窮したままだった。
 「なんだか少し酔うてきたわい。こうなると妓が欲しくなるのう。白石殿、ちと五、六人ばかりご用意願えまいか?」
 晋作は刀を納めてそう言った。
 正一郎はほっと胸を撫で下ろす。「やはりただの馬鹿か」と思ったのだ。藩主から馬関防御を命じられて来たと言うから、それなりの人物かと思って待遇してみれば、性根は女にうつつを抜かすただの荒くれ藩士ではないか。小遣いくらいは出してお引き取り願おうと、
 「申し訳ございません。当方は芸妓は扱っておりません。どうかほかへ」
 と愛想のない言い方であしらった。
 「そうか。扱ってないならば仕方がないの。では別の物を所望したいが」
 「高杉様、要件は何でございましょう?」
 正一郎はついにしびれを切らせてそう言った。
 「いや、その話に入る前に、もう一つ所望したい物がある」
 晋作は相も変わらず子供のように駄々をこねて聞かない。
 「分かりました。しかしそれが最後でございますよ。で、何が欲しいのですか?」
 晋作は今までの横暴振りがまるで別人であるかのような姿勢に返って、正一郎の二つの目を凝視した。正一郎はハッと驚き、その眼光に身震いする思いで彼の顔を見返した。古今東西様々な志士達と親交を交わしてきたが、これほど恐ろしい眼には出会ったことがない。その光は薩摩の西郷隆盛にも土佐の坂本龍馬にもない、松陰譲りの『狂』の光だった。
 「『小倉屋』の看板を頂戴したい」
 正一郎は何も言えずに晋作の目を見続けた。看板を頂きたいということは、この家の全財産を頂きたいということではないか。この男は何者か? そして、それほど大きな事業とは一体なんであるのか? 一瞬そんなことを考えた。しかしそんなことより、この高杉晋作という男が気になりだして仕方がなくなっていた。ひょっとして、と言うよりおそらく、否、確実に、この男はこれまでの「あれもくれ、これもくれ」といった埒もないやり取りの中で、正一郎自身の度量を見極めようとしていたのだ。様々な物をねだってみていたのは、「俺にはいくらの金を出せるか?」という駆け引きであり、逆に言えば「おまえはこの晋作にいくらの値打ちをつけるか?」という問いをずっと投げかけていたのである。そう気付いたとき、正一郎は既に晋作に惚れていた。
 「看板を頂戴したい」という晋作の投げかけからどのくらいの時間が経過していたのか分からない。しかしやがて正一郎は、
 「本気でございますな」
 と呟いた。晋作は「やっと気付いたか」というような笑みを浮かべ、静かに頷いた。
 正一郎はひとつ固唾を飲み込み、
 「相わかりました。商人白石正一郎、及ばずながら高杉様について参りましょう。その西郷様よりいただいた刀も差し上げましょう」
 と覚悟を決めたのだった。晋作の「狂」の眼光に掛けた、まさに一瞬の決意であった。
 そうと決まれば話は早かった。晋作は奇兵隊の発想の経緯からその役割、師の吉田松陰のことから、そして将来予想される世の中に与える影響力まで、夜を徹してすべて正一郎に伝えたのである。
 「商人ではありますが、これで私も奇兵隊の一員ということですな」
 「さよう」
 正一郎はこの若き志士にしてやられたというように愉快に笑った。
 「ならば、私は武器を持つのは苦手ですので、会計役をやらせていただきましょう。そうだ、私の弟もぜひお仲間に加えていただきましょうかな」
 こうしてここに奇兵隊結成への大きな一歩を踏み出すことができたのであった。