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6.奇兵隊
幕末小説 『梅と菖蒲』
 藩命とあらばどんな理由があろうと直ちに山口へ向かわねばなるまい。
 晋作は早馬の報を受けると、小忠太に簡単な挨拶をしてからそのまま馬を飛ばした。馬上の彼は内心「時が来た」と喜んでいる。
 そうして山口に到着したのはすっかり夜の帳に包まれた時分、政事堂ではその日馬関でのフランス軍との抗戦における大敗の報がもたらされたばかりで、上を下への大騒ぎの様相であった。
 世子定広は待ちかねていた様子で晋作を部屋に迎え入れると、「ほれっ」と言って黒いひとかたまりの物体を晋作のひれ伏す面前に放り投げた。異臭が鼻を突く。
 「これは何でございましょう?」
 「見覚えがないか? そちの頭毛じゃ。臭くてたまらん、そちに返す。賜暇は取り消しだ。馬関へゆけ。そちに馬関防御の任を命じる」
 「はて、困り申してございます。今年に入ってまだ半年にもなりませぬのに、江戸から京に呼ばれ、かと思ったら萩に帰れとたらい回し。やっとお聞き入れいただいた十年の賜暇のお約束も、わずか二月たらずで今度は馬関にむかえと仰せになられる。これでは武士の分が通りません」
 「まあ、そう申すな」
 「ならば拙者の愚策をお聞き入れいただけますでしょうか? そしたら馬関ゆきも考えないではございません」
 これこそ晋作の思惑だった。松陰奇想の草莽崛起を具現化した部隊の創設を、この際藩の方針として受け入れさせてしまおうと考えたのだ。
 「なんじゃ? 申してみよ」
 「されば……。新しい部隊を結成したいと考えております。聞くところによれば撰鋒隊は腰抜け侍ばかり、今回の戦闘でも何の吉報ももたらしていないようでございます」
 撰鋒隊とは長州藩内における藩士と武士からなる戦闘部隊の名称である。
 「そこで晋作は考えました。今の情勢不安はもはや藩士のみの問題ではございません。士族、農民、商工人、婦女以下万民、童に至るまで、これことごとく安泰の世を求めておりまする。その志気を思い計るに、下手な武士や藩士達よりよほど勇敢かつ強情と見えます。これらの力を一斉蜂起し、戦力にしない手はございません。有能な者は即部隊に加え、藩士と藩士以外の武士、庶民からなる混成部隊を結成したく存じます」
 「なに? 農民、町民をも部隊に入れるというのか?」
 「そうです。撰鋒隊が正規兵なら、この部隊は名付けて『奇兵隊』───」
 「奇兵隊……?」
 世子は晋作の光る双眸をじっと見つめた。「無理じゃ、無理じゃ。農民、町人に何ができる」と言おうとしたが、晋作の鋭い睨みがそれをさえぎった。「今は下手な事は言わない方がいい。またへそを曲げられてはなだめるのにひと苦労じゃ」と、そう考えた世子は、
 「好きなようにせい」
 と、晋作の要請を丸飲みしたのであった。

 こうして士分の身分を取り戻した晋作は、翌早朝、山口を発ち馬関へと向かった。その間晋作の頭は目まぐるしく回転していた。
 新しく部隊を立ち上げるといってもまず最初に軍資金の問題があった。また、いくら志気盛んな百姓や町人を召し抱えるといっても、組織として統制を持たせるには格となる理念とか目的が必要だった。晋作はその点『志』というものこそ相応しいと考えた。国を良くしようという志、あるいは国を守ろうとする志、国のために働こうとする志、この『志』こそ現在藩に当然の如く存在する正規兵に最も欠けているものだと見抜いていたのだ。現に奇兵隊は結成当初、別名『有志党』と称されることもあった。軍、あるいは隊ではなく党とは、その組織団体の持つ体質が、兵としてよりも政治的色彩が強かったことの現れだろうが、いずれにせよ『志』に指標を置くのであれば、藩などの権威によって上からの命令で組織されるものではなく、底辺から湧き出すように、志を持つ者同士の堅い連帯によって形成されていかなければならない。それならば、当然資金も藩から出させるものではなく、あくまで有志からの援助によって工面されなければならない───。
 晋作の頭には一人の商人の名が浮かんでいた。
 白石正一郎
 である。馬関の竹崎で小倉屋という大きな店を営んでいる豪商である。
 晋作はまだ一度も彼に会ったことはなかったが、彼の名前は久坂に聞いて知っている。久坂玄瑞もまた三年前に、白石邸に泊をとっているはずだった。
 もともと小倉屋は、西国交通の要衝であった馬関という地の利を活かし、長州藩はじめ多くの諸藩から仕事を受けて、米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱ったり、その他質屋を営み酒も造って巨大な富を築き上げていた。家主白石正一郎は商人には珍しく学問好きで、以前は鈴木重胤から国学を学び、その門下生を通じて文久元年には薩摩藩の御用達になるほど西郷隆盛とも親しいと聞く。月照上人、平野国臣、真木和泉らとも親交があったため、彼らの尊皇攘夷の志に強い影響を受けており、坂本龍馬をはじめ幕末期に白石家を訪れた志士の数は四百人以上にものぼる。
 西郷隆盛は彼のことを「温和で清廉、実直な人物である」と評したが、正一郎の不思議は、そうした志士たちを家に泊めるだけでなく、家の一室を密談や談合の場として提供し、また彼らが家を出るときなど金がないと分かれば快く路銀を与えていたことや、彼らの志に対しては例え私財を投げ打ってまでもその協力を惜しまなかった点である。商売という枠だけではけっして計れないその行動の原点とは一体なんであったろう? 莫大な財力を持ちながら、商人の身分ではけっして政治の場に口をはさむことができなかった当時、彼もまた若い志士達同様に、思うようにならない世の中の情勢に苦痛な歯がゆさを感じていたに相違ない。白石正一郎にとって、子ほど年の離れた幕末の志士たちの存在は、我が子よりも愛おしい新時代をつくりゆく夢だったのかもしれない。

 馬関に到着して晋作は、まず光明寺に駐留する入江九一を訪ねた。そこには松下村塾四天王の最後の一人、吉田稔麿もいるはずだった。
 「久坂はおるか?」
 晋作は光明寺境内に無造作に上がり込むと、まだ眠そうに寝転がっていた九一に話しかけた。
 この光明寺は攘夷戦争が始まった時から、彼らの駐屯場所として用いられていた。久坂玄瑞を中心に、そこに集まった攘夷派浪士達の集団は『光明寺党』と呼ばれ、総裁にはひそかに京都を脱して長州藩に身を投じた公卿、中山忠光をかついでいる。
 「よう高杉。なんじゃお前、隠棲しておるのではなかったのか? 玄瑞なら京に戻ったぞ」
 「坊主はやめじゃ。藩命によりこうして馬関に参った」
 「お前も余程のお人良しじゃの」
 九一は、自分の意志のままに行動している久坂に対して、この半年の間だけで江戸から京、京から萩、そして萩から馬関へと、藩の言いなりになってたらい回しにされている晋作の身の上のことを言っている。晋作は腰の刀をはずすと九一の前に対座した。
 「おっ、新しい刀を買ったのか。相変わらず長いのう」
 「実は頼みがある」
 と、そこで奇兵隊の構想を同志にはじめて打ち明け、淡々と話しはじめた。
 「草莽崛起か……。面白そうじゃの。松陰先生が甦ってきたようじゃ」
 やはり同じ門下の九一なだけに飲み込みも早い。晋作の頭の中では、その具体的な編成から訓練の仕方まで既に構想はできあがっている。
 「奇兵隊の具体的な運営には松陰先生の『西洋歩兵論』を用いようと思う」
 『西洋歩兵論』とは吉田松陰が説くところの、西洋に習った歩兵の必要性と必勝術が書かれた論文である。そこでは戦闘の勝利を決定するものは、旧来の武士軍が得意としているものを存分に働かせつつも、「精練の節制」たる西洋の歩兵部隊に対して不敗の地位をかためるためには、自分達もそれ同様の歩兵を作らなければなるまいと述べている。「精練の節制」とは、松陰が目にした西洋の歩兵部隊の、規律正しく節度ある行動に統制された光景に驚いたものだろうが、それに対抗し得るにはゲリラ的部隊が必要だと言うのだ。
 更に松陰は「兵は正を以て合ひ、奇を以て勝つ」という孫子の言葉を引いて、

 正は堂々正々の陣法にて、是れ節制練熟の兵に非ざれば、是れに当ること能はず。
 奇は紛々紜々の戦勢にて、是れ精悍剛毅の兵に非ざれば、是れを任ずるに足らず。

 と言う。「正」とは戦術とか戦略あるいは対外交渉のことで、「奇」とはその作戦決行の実行部隊のことである。晋作はあえて「奇」の方を部隊名に冠し、この論文に『農兵をも訓練し』とあるように、草莽崛起の言葉通り、かつて日本史上誰も試みたことのない士農工商一体の部隊創設へと動きだしたのだ。
 「これが成功すれば我が藩内はもちろん、やがて全国の諸藩もこれに習ってこれまでの常識が根底から覆されることになるぞ。倒幕はもちろん、やがては松陰先生が夢見た『一君万民』も現実のものになるのじゃ」
 晋作の目が爛々と輝いていた。それに応えるように九一が言う。
 「おお……、久しぶりに胸が騒いできたぞ。で、おれは何をすればよい」
 「藩には既に話は通しておいた。さっそく志を持つ農民、町民を集めにゃならん。お主は奇兵募集の張り紙を作り、この町はもちろん、藩内中にばらまいちゃれ」
 「合点!」
 その後晋作は九一を伴って、先日来報復攻撃を受けた惨状を視察しようと港に出た。フランス軍が上陸した辺りは家屋が倒壊し、焼かれ、畑も荒らされ、いまだ火がくすぶっているところもある。無惨に破壊された砲台に立てば、遠く九州側を通過する外国商船が、長州を嘲笑うかのように通過していくところであった。
 「あんなに小倉側ギリギリのところを通られたのでは大砲の弾も届かん。奴らはそれを知っちょるのよ」
 九一が悔しそうに言った。すると、
 「バカヤロウ!」
 と、その外国船に向かって石を投げつけるみすぼらしい農民姿の女があった。無論、投げた石はその外国船に届くはずもない。次に鍬を片手に「出ていけ!」と叫ぶ老年が続いた。と、みるみるうちに数十人のそうした農民、町人が人だかりを作ったかと思うと、口々に船に向かって罵声を浴びせたり石を投げたりし始めたのだ。
 「おとといのフランスの上陸で、家を失った者達じゃ。可哀想にの……」
 九一が教えてくれた。晋作はその爆発した彼らの志気を感じ取って、
 「奇兵隊は必ず成功する」
 と確信した。
 「ところで高杉、部隊をつくるのはいいが、軍資金はあるのか?」
 「それよ。それが問題よ……。これから後援者を見つけにゃならん。どこかにボクの志を理解してくれる金持ちはおらんかの?」
 「そんなことを言うて、既に目星をつけておるのじゃろ? 白石正一郎か?」
 晋作は静かに頷いた。
 「あいつは大物だぞ……」
 九一は「お前にできるか?」というような顔で笑った。