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5.草莽崛起
幕末小説 『梅と菖蒲』
 晋作が浮き世を離れて生活している頃、馬関ではいよいよ攘夷の火蓋が切って落とされた。
 最初にその報を晋作に届けたのは従兄弟の南亀五郎という男である。藩校の明倫館に学び、藩の情勢にもなかなか詳しい。下関戦争勃発の八日前、五月二日のことである。
 「いよいよ夷人との戦さが始まるぞ。藩兵が馬関に集結しはじめた。こちらは長府藩の毛利元周様が総指揮官に立つらしい」
 幕府が攘夷決行期日を打ち出したことは既に風の噂で晋作の耳にも届いていた。久坂玄瑞も馬関(下関)かと思うと、晋作の心は俄に騒いだ。
 「で、当藩の兵力は?」
 「藩兵と浪士の軍あわせて一千といったところだろう。向こうは最新式の大砲やピストルを持っているに違いない。弓矢や火縄銃でどこまで対抗できるやら」
 「こっちにも大砲はあるじゃろう」
 「海峡沿いに砲台を作って備えはじめたらしいが、これもせいぜい五十門くらなものだ。しかも旧式だからどこまで役に立つものか……」
 「お主もそう思うか?」
 亀五郎は静かに頷いた。
 実は晋作も隠棲して様々な書物を読む中で、果たして攘夷を行い戦争になったとして、本当にこちらに勝ち目があるのかと疑問を抱くようになっていた。過激な攘夷熱にとらわれて、夷敵の文明の力には目もくれず、ひたすら武士の精神のみを信奉して阿呆のように「攘夷、攘夷」と叫んでいた日々が、本当に正しかったのかと思い返すようになっていた。それは、忙殺の中ではけっして気づくことができない、静かな生活の中ではじめて見えてきた客観的な思考から湧いた疑問であった。
 「お主は馬関へ行かんのか?」
 亀五郎が言った。
 「なあに、久坂がいれば安心じゃ。ボクは藩に願って暇を頂いている身。今さらのこのこ出ては行けぬわ」
 亀五郎は「それはそうじゃの」と笑いながら、やがて帰って行った。

 果たして攘夷期日の文久三年の五月十日───。
 何も知らずに下関海峡を通りかかっていたのは、アメリカ商船ベンプローク号だった。長州藩は既に海峡沿いに砲台を整備し、藩兵および浪士軍からなる兵力一、〇〇〇の陣営をもって、帆走軍艦丙辰丸と庚申丸、蒸気軍艦壬戌丸と癸亥丸の四隻を配備し、張りつめた空気の中で海峡封鎖の態勢を整えていた。
 「夷人の船を発見いたしました!田ノ浦沖に停泊中であります!」
 最初にその船を発見したのは見張りに立っていた一人の藩士。緊迫に緊迫を重ねた凍り付いたような緊張が走ったのは朝未明のことである。
 ところが総指揮を執る毛利元周は躊躇していた。いくら待っても「攻撃開始!」の命令が出ないのである。というのは、幕府からの布告は「攻撃されたら打ち払え」というもので、外国からの攻撃がない限り、その命令は出せないとだんまりを決め込んでいたのだ。相手は商船である。攻撃などしてくるはずがなかった。
 いきり立ったのは久坂玄瑞、入江九一らを筆頭とする過激攘夷の党派だった
 「攘夷命令はすでに出ている!元周は腰抜けじゃ!」
 と、独断で行動を開始したのである。攘夷の旗を掲げ、それを現実のものにした彼らの意気は軒昂だった。軍艦庚申丸の艦長松島剛蔵を説き伏せ、決死隊を船に乗り込ませると、一気にベンプローク号に近づき、轟然と二十四ポンドのカノン砲をぶちかます奇襲攻撃に出たのだった。さあ、それを合図にドンパチが始まった。
 驚いたのはアメリカのベンプローク号の乗組員達だ。幕府と通商条約を結んでいるのに、まさか攻撃されるとは夢にも思っていない。慌てて錨を上げて周防灘へ逃げ出した。それを逃すまいと長州藩は、武器を持たない商船に向かって、庚申丸と癸亥丸と陸からと一斉砲撃を浴びせたのである。
 ところがベンプローク号の船足ときたら速い速い。技術文明の差は歴然だった。悲しいかな、この時長州から放った砲弾が命中したのはわずか三発あまり。それでも大勝利の凱歌でわき上がった。その報を受けた朝廷は、はじめて外国船を打ち払った功績により、褒勅の沙汰を出した。藩の志気はますます高揚した。
 長州攘夷戦の二隻目の犠牲者は、横浜から長崎へ向かう途中のフランスの通報艦キャンシャン号だった。これは最初の攻撃より十三日後の二十三日のことである。
 キャンシャン号はまだベンプローク号が攻撃を受けたことを知らず、これまたふいをつかれて船に損傷をこうむった。フランス側は交渉のため書記官を乗せたボートを陸へ向かわせるが、それに向かって藩兵が銃撃を加え、フランス側に四名の犠牲者を出した。キャンシャン号は慌てて逃げ出し、損傷しつつもこれまた庚申丸と癸亥丸をゆうゆう振り切り長崎へと逃航していった。
 続いて二十六日、今度は長崎から横浜へ向かうオランダ東洋艦隊所属のメジューサ号。彼らはこの事件の事を知ってはいたが、古くから日本と交易のあるオランダには攻撃してこないだろうと判断していたらしい。ところが長州藩はそんなことなどおかまいなしで、一時間ほどの激しい砲撃戦の末、オランダ側は死者四名と船体には大きな損傷を受けてメジューサ号は周防灘へ逃走して行った。
 勝利に沸き立つ長州藩であったが、この頃京都で攘夷派公卿の姉小路公知が暗殺された。薩摩藩と会津藩に不穏な動きがあるとの報告を受けた久坂玄瑞は、馬関を後に急いで京へと登って行くのであった。

 ちょうどそのころ晋作は、松陰の書き残した文書の中に、
 『草莽崛起』
 の文字を見つけてじっと凝視していた。
 『草莽』とは孟子において草木の間に潜む隠者のことで、転じては一般大衆を指している。また『崛起』とは一斉に立ち上がることを言う。安政の大獄で監獄に入れられる直前、松陰は友人の北山安世に次のような書状を送っている。
 「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」
 これが松陰がこの言葉を使った最初である。
 「民衆よ! 立ち上がれ!」
 晋作は「ハッ!」と、松陰のその叫びを聞いた。
 「これじゃ、これしかない……」
 晋作は急いで筆を執った。同じ松陰門下の久保清太郎に、来たるべき出発に備え、二尺五寸以上の太刀を購入するよう依頼したのだ。その手紙の日付は五月二十日。まさに風雲は急を告げていた。
 米商船ベンプローク号が攻撃されたことを知らされた米艦ワイオミング号のデービット・マックドガール艦長は驚き、直ちに報復攻撃を決定して横浜湾を出港していた。そして六月一日、下関海峡に入ったその軍艦は、港内に停泊する長州藩の軍艦庚申丸、壬戌丸、癸亥丸の三隻に砲撃を加えたのだった。たちまちのうちに撃沈あるいは大破させられてしまった長州藩は、何もできずに、海峡沿いの砲台まで甚大な被害をこうむった。力の差は歴然である。たった一隻のたった一回の攻撃で、長州海軍は壊滅状態に追い込まれてしまったのだから。
 続いて六月五日、今度はフランス艦隊が報復攻撃をかけてきた。仏東洋艦隊バンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号とタンクレード号の大型艦二隻は、前田と壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加え、陸上戦に持ち込んだかと思うと、あっという間に砲台を占拠した。もはや長州藩兵は逃げ腰だった。戦国以来戦いを忘れ、国の治安にだけ心血を注いでいた武士など、戦さの実践の上ではクソの役にも立たなかった。フランス兵は民家を焼き払い、大砲を破壊し、我がもの顔で暴れ回った末、やがてそそくさと撤収してしまう───。ここではじめて長州藩は、夷敵の脅威に蒼白となるのである。

 「このままでは我が藩は『弱い』という汚名を天下にとどろかせてしまう!」
 「さよう。だいだい攘夷の口火を切った我々が夷国に負けたとあっては面目丸つぶれじゃ」
 「いやいや、これは長州一国の問題にあらず。このままでは皇国全体の志気に関わる一大事じゃ。なんとか必勝の手だてを講じなければ」
 「そうだ。汚名返上のためにも良将を陣頭に立て、一刻も早く馬関へ送らなねばならん。誰か適任はおらぬか?」
 山口の政事堂で行われた御前会議は騒然とした。この頃長州藩の政事堂は萩から山口に移転されていた。上座の藩主毛利敬親と世子定広親子は、話の成り行きを何も言わずに伺いながら、特に藩主敬親などは「うん、うん」と首を頷かせるだけである。ところでこの藩主、あまり政治に興味がなかったのか、家臣の意見に対して異議を唱えることが全くなかった。何か重大な決断を迫られた時も、
 「うん、そうせい」
 と返答していたため、家臣達からは『そうせい侯』とあだ名されていた。一見、無能で愚かな藩主に見えるが、実はその底知れない大らかさと寛大な性格こそ、有能な家臣を生み出し、若い才能を育て、それらの人材を活躍させることで窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末有数の雄藩にすることができたという評価もある。実に吉田松陰の才を有名たらしめたのも、彼の力であるのだ。
 やがて御前会議は万策尽きて、敬親公の頷きの回数も減っていった。すると誰かがこう言った。
 「そうじゃ。長州一の暴れ牛がおるじゃろ」
 高杉晋作のことである。
 「ああ、京都で将軍にむかって野次を飛ばしたという。彼なら留学の経験もあるから外国の状況にも詳しいはずだ」
 「しかし彼は今、確か十年間の賜暇を受けて隠居中のはずだが……」
 「かまわん、連れてこい」
 世子が言った。彼は京都で晋作が勝手に剃髪したことを根に持っている。あのとき預かった切髪が湿気の多い所に放置していたためか、最近腐りかけて臭って仕方がない。
 「殿、この件、高杉晋作こそ適役かと」
 家臣達の視線が一斉に藩主敬親に向けられた。
 「うん、そうせい」
 この一言で会議は散会。直ちに藩主直命の早馬の使者が萩に飛んだ。六月五日のことである。