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45.二人の妻女
幕末小説 『梅と菖蒲』
 龍馬が京の薩摩藩邸に匿われている頃、下関の晋作は非常に厄介な問題に直面していた。厄介といっても天下の時勢に関わる問題とか、藩内の政治的な問題とか、そういう高度な社会的なものではない。それはあくまで私的なものであり、晋作ほどの男が……と、思わず破顔一笑してしまいそうな家庭的事情である。
 正妻の雅が母の道と一緒に萩から下関に来ると言うのだ。その手紙を手にした晋作の表情はみるみるこわばっていく。
 「旦那はん、どうかなさいましたかえ?」
 鏡を見ながら髪の手入れをしていた卯乃が、その手を休めて言った。
 「いや、なんでもない……」
 と答えたが、暫くして、
 「お卯乃、雅が萩から馬関に来ると申したらどうする?」
 と晋作は戸惑いを隠せない様子で呟いた。
 「えっ?ご新造様が来なはるの?」
 卯乃は急にそわそわとしだしたかと思うと、「ほな、うち、また堺屋さんの所へ引っ込んでますわ」と、妙に聞き分けのいい返答が、一層晋作を悩ませた。
 実は木戸が京へ旅立つ前からこれまでの間に、晋作は何度か萩に帰省していた。そして今年の正月は萩で迎えた。それとなく病のことを家族に知らせておかなければいけないと思ったのと、生い先短いだろう最期の家族との共有の時間を持とうとした、彼なりの親孝行のつもりでもあった。しかし慶応二年元旦の詩を読む限り、心はけっして充たされることはなかった。

 父母妻児皆在家(父母妻児みな家に在り)
 迎春只独滞天涯(迎春ただ独り天涯に滞る)
 微官却喜少公事(微官却って喜ぶ公事の少なきを)
 静対梅花坐煮茶(静かに梅花に対し坐して茶を煮る)

 床の間の梅を見ながらそんな漢詩を詠んでいたところに、晋作の身体を案じた母の道が、
 「いくら職務とはいえ、萩に妻を残したままほとんど家に帰らず不摂生を重ねるから身体を壊すのです。このまま馬関に赴任するのであれば、一家で身の周りの世話をしに参るのは武家として当然でございましょう」
 と言い出した。晋作が馬関に妾を囲っているという事は風の噂でみな知っている。「この際、妾と手を切らせよう」と考えた父の小忠太も、
 「そりゃよい!藩の方へお願いしてみよう」
 とかなりの乗り気であった。もともと保守派の小忠太は、革新的な藩政にいいように使われている晋作を見るにつけ、家庭を抛りだして家にもろくに帰ってこない情況をけっして良しとはしていない。一人息子の晋作には、自分が長州一の美人と言われた雅という女を娶ってやったのだ。「妾などもってのほか」と思っている。しかも一才と三ヶ月になる長男の梅之進もいるのだ。「少しは父親らしいことをしろ」とも思っている。小忠太にとっても道の提案は非常に都合のよいものだった。
 「父上、それには及びません。妻が家を抛りだして主人の赴任地に押し掛けたとしたら、それこそ世間の笑い者ですよ。ボクはなに一つ不自由はしておりません。それに梅之進の養育の方が大事です。ボクが不在でも家をしっかり守るのが武家の妻の当然の努めでしょう、のう?お雅」
 雅は小さな声で「はい」と答えたが、どうもこの二人はいまだに夫婦としてしっくりいかない空気がある。そのうえ雅にしてみれば妾のことが頭をよぎるから尚更のことだった。それから晋作は逃げるようにして馬関に戻ったが、間もなく小忠太の希望が藩に受け入れられて、雅と道が下関に行くよう命が下ってしまうのである。そして二月に入って中頃に、新地藩会所に萩より雅の荷物が届く。晋作は柄にもなくただおろおろと戸惑ってしまった。
 最大の問題は、下関に下る母と正妻を、どこに住まわせるかということである。卯乃のいる入江和作の茶室に二人の妻女を同居させるわけにもいかないし、かといって卯乃を追い出すわけにもいかない。だからといってまさか旅篭に置いておくわけにはいかないし、結局困った時の何とやらで、菓子折を持ち、届いた雅の荷物を持って、いそいそと向かった先が白石正一郎の邸宅だった。かくかくしかじかと赤面しながら事情を話したところ、正一郎は嫌な顔ひとつせず、
 「どうぞお気遣いなく。ご自由にお使いください」
 と笑顔で言ったが、この頃の正一郎は破産寸前であり、しかもその原因のほとんどは晋作の創設した奇兵隊等への出資が主なのである。それなのに、
 「何ならば母君様とご新造様をお迎えする面倒は、すべて私が引き受けましょう」
 とまで言ってくれるのである。
 雅が梅之進を抱き、母の道と使用人の井上という男を伴って下関に来たのは二月二十三日のことだった。当時の交通手段は駕籠である。晋作は奇兵隊士の数人に命じて、一行をそのまま白石家に向かわせ投宿させることにした。

 曽為食客避喧嘩(かつて食客となって喧嘩を避けた)
 又是提携寄一家(又これに提携して一家を寄宿させる)
 自愧艱難与安楽(自ら恥じる艱難と安楽と)
 馮他友義送生涯(他の友義によって生涯を送る)

 正一郎への恩義を感じながら、「この革命期の最大の功労者は白石殿である」とは、晋作が常々本心から思っている事である。ともあれ、正妻と愛妾の二人を同時に見なければならなくなった晋作の心境は、これまで多くの艱難を乗り越えて来た男にしては可哀想になるくらいのたじろぎようで、女郎遊びも極めたかの男が、ある意味、実生活における男女の問題においては人一倍不器用だったともいえるだろう。裏を返せばそれだけ純粋なのだ。
 この頃、木戸に書き送った書状にはこうある。
 『ボクもこの度は妻子が馬関に引っ越してきて、愚妾(お卯乃)の一件かれこれで金には困り、胸のうちは雑沓のように困窮しています。死に遅れ、人には悪く言われ、難儀なことは日毎に多くなり、内心ひどく泣きさけび、黄泉に行った人たちを羨ましく思っています。どうかお憐れみ下さい』
 こんなことになるくらいなら最初から妾など持つべきではなかったと、今さらながらに思うが、小忠太に押し付けられた良妻賢母を絵にしたような嫁は、晋作のような生き方には非常に不釣り合いで、武家という型にはまった生活の中で一緒にいること自体息が詰まった。結局は自分で見つけた天真爛漫な卯乃の方がしっくりときて、気も使わず悠々と暮らすことができるのだ。この境遇は運命だったと諦めるより仕方がない。
 それにつけても悶々とした日々には耐え難いものがあり、これでは治る病気も悪化の一途を辿るばかりであったろう。藁にもすがりたい晋作の耳に、薩摩とイギリスとの間で『薩英会盟』が締結されるという思ってもない好都合な風聞が聞こえてきたのはこの頃である。
 「こりゃ都合のよい口実ができた!」
 とばかりに、木戸に「長州もこれに参加すべきだ!」と手紙を書いた。
 「ボクと伊藤俊輔を薩英会盟に同席させてほしい。ついては小松帯刀と西郷吉之助の船に同乗し、薩英会盟が行われる長崎に行きたいのだ」
 と要望を出し、そのための周旋を依頼した。晋作の内情を知る木戸は「仕方のないやつじゃ」と手をまわし、二人を長崎へ派遣させることにしたのである。晋作は厄介から逃れられる事にほっと胸を撫で下ろすが、出航するまでの間は、とにもかくにも二人の妻女に気を使いながらの生活をするより仕方がない。
 そして、恐れていたその日はそれから間もなくやってきた。
 白石宅に投宿していた雅だったが、晋作の世話をするためせっかく馬関まで越して来たというのに、当の晋作はここでも雅のところには帰って来ない。ついに切れたのは母の道の方だった。
 「いったいお雅の亭主はどこにいるのでございます?ご存知なのでございましょう?」
 と、顔を真っ赤にして正一郎に詰め寄った。
 「高杉様はお忙しいのでございましょう……」
 「そんなことは承知の上です。ですから私達は晋作の身の回りの世話をするため、わざわざ萩から馬関にまで来たのです。こんな所で投宿するためではございません!私はともかく、雅だけでも晋作のいる場所へ連れて行ってくださいまし!」
 晋作の母に激しくこう言われては、さすがの正一郎も返答に窮した。ついに押し切られて、子を母に預けた雅を入江和作の家に案内することになったのである。
 まさかそんなことになるとはつゆ知らず、卯乃の膝枕で耳を掻いてもらいながら晋作は、天下の事を考えながらぼんやりと庭を眺めている時だった。突然垣根の扉が開いたかと思うと、正一郎に連れられた雅の姿をとらえた。次の瞬間、雅の瞳孔が見開かれるのがありありと見てとれた。驚愕した晋作は、慌てて身体を起こして脇に置いた吸いかけの煙管をふかして惚けて見せた。
 「高杉様、お雅殿をお連れしました」
 雅を連れた正一郎が、苦笑いをしながら庭に侵入して言った。
 「まあ、おなごの膝枕でお仕事にお忙しいことですこと!」と、普通の女なら嫌味の一つも言っただろうが、雅は平然とした様子を繕いながら、ひとつぺこりと頭を下げた。
 一方、卯乃の方は、晋作の慌てように驚いたふうだったが、なぜ慌てているのか暫くは気づかず、「雅じゃ」と言われてはじめてびっくりして、乱れた襟元を正して俯いてしまった。
 「白石殿、来るなら来ると前もって言っていただかないと、ボクにも都合というものがある」
 「申し訳ございません。母君様に是非にと詰め寄られまして……」
 おどおどしながら晋作は、ひとまず雅を茶室に上げ、卯乃に茶を入れるよう促した。
 「お気遣いはいりませぬ」
 きっぱりとした雅の言葉の裏には、「なぜ妾の入れた茶を飲まなければいけないのか?」という嫉妬の声が聞こえてくるようだった。卯乃はもはやおろおろし通しで、どうしていいか分からない。やがて、
 「お卯乃、さがっておれ」
 という晋作の言葉に助けられて、部屋を出ようとしたところを、
 「かまいません。そこにお座りください」
 と、雅に差し止められて、仕方なく卯乃はその場に正座した。
 「では、私は家主に挨拶をして参ります」
 気まずい空気から逃れようと、正一郎はそそくさとその場を退いてしまい、残された晋作は、発する言葉も見つからないまま、上目遣いに雅を見つめた。
 「あなたがお卯乃さん……ですね?」
 雅は平静を装ったまま、晋作の後で正座する卯乃に話しかけた。
 「へえ……」
 卯乃は顔を真っ赤にして肯く。
 武家育ちの雅の中には楼閣の女に対する蔑みの念がある。それは差別意識というより階級社会が作り出した概念であるが、常々晋作からも「武士の妻たる者は」と、古風な武家に嫁いだ女のしきたりを聞かされてきたから、なおさら卯乃に対する不信感があった。いかにして主人をたぼらかしたのかと、その手口を見定めようと鋭い目力を卯乃に向けていた。一方、武士の精神と遊蕩の心を持ち合わせている晋作にとってはその情況はたまらない。彼にしてみれば、雅に言ってきた事も、卯乃に対する態度も出どこは同じ自分なのだ。矛盾といえばそれに違いないが、その二つが一つの肉体の中におさまっているのだから仕方がない。
 「高杉の世話をしていただいているようですね。私からお礼を申し上げます」
 雅は武家の嫁らしく慇懃に頭を下げた。そして「へえ」とだけ答える卯乃の様子を見ながら、いったいこの女のどこに自分の主人を娶るだけの力があるのかと首を傾げた。
 「うちの人は乱暴者ですから、さぞ気苦労も多いことでしょう。どうかご勘弁ください」
 雅は晋作をそのように思っている。なんせ結婚したとはいえ、一緒に過ごした日数など数える程しかないのだ。前ぶれもなく家に戻ってきたかと思えば、いつの間にかどこかに行ってしまう。その上いない間、聞こえてくる主人の風聞といえば、国を騒がすような騒動ばかりなのだ。晋作という人間をよく知らない人が彼を評価すれば、なるほどその行動は乱暴者に映るかも知れないが、夫婦とはいえ、雅の晋作に対する印象もその程度なのである。
 「乱暴……?いいえ、旦那はんはとっても優しい人どすえ」
 卯乃はおかしな事を言う人だなと思いながら、ぽつりと答えた。
 「優しい……?」
 雅は怪訝な顔をして晋作をみつめた。

 細君将到我閑居(細君将に我居に到らんとす)
 妾女胸間患有余(妾女は胸間患余り有り)
 従是両花争艶美(是より両花艶美を争う)
 主人拱手莫何如(主人は手を拱いて如何ともするなし)

 どうにも晋作はいたたまれない。師の松陰は、生涯患わすことのなかった夫と妻という複雑な男女関係である。「先生はこんな時どうしたことだろう?」と、ついに答えを見いだせず、
 「ちと、野暮用を思い出した……」
 と立ち上がった。
 「私とお妾さんを残して、どこに行くつもりでありますか?」
 「まあ、そう目くじらを立てるではない。仲良くやろうじゃないか……」
 説得力のない晋作の言葉を最後に、三人のいる空間は深く気まずい沈黙の時を刻んだ。
 地獄にいるかのような長い時間を経て、そこへ入って来たのは入江和作である。
 「これはこれは高杉様の奥様でございますか!私はこの家の家主で入江和作という者でございます。いつも旦那様にはお世話になっています。ぜひ奥様にご案内したい店があるのですが、これから一緒に参りましょう!」
 と助け船を出す背後で正一郎がすまなそうに笑っていた。地獄に仏とはこのことで、
 「そりゃよい!お雅もせっかく馬関に来たのだから、こちらのうまい料理を食わせちゃる」
 和作の提案に呼応して、晋作はすぐさま立ち上がり、すかさず正一郎も「さっ、参りましょう」と雅を誘ったものだから、雅は抵抗する間もなく三人に連れられて、やがて一行は稲荷町へと向かって行った。残された卯乃はほっとため息を落とすと、その場にうつ伏せに寝転がり、なにやら意味不明のおかしさにとらわれて、くすくす笑いが止まらなかった。
 正一郎を伴った和作の案内で、晋作と雅は大坂屋に入って、中でも高級な座敷に食事の席をもうけた。雅は建物の造りや装飾品を、終始をきょろきょろと眺めながら、
 「このようなところへはよく来るのでございますか?」
 と晋作に聞いた。質実を常としている彼女にとっては、世俗離れした店の高級感が、よほど珍しかったのである。
 「そうじゃの、付き合いでな。こういう場では愉快に過ごすものじゃ」
 と、晋作はさっそく芸妓を呼んで三味などを弾かせて雅を歓待したが、妻を喜ばそうとするのにそれはないだろうと誰もが思う。思えば夫婦で外へ出かけた事など一度もない晋作にとっては、それが最高のもてなしに違いないのだ。雅は愉快に振る舞う主人にあわせて笑っていたが、心の内ではちっとも楽しくない。やがて晋作は酒を飲みながら、
 「お雅、実は藩より命が下り、長崎に行くことになった」
 とぶっきらぼうに言った。
 「えっ……?」
 と答える雅を正視できない。
 「母上と私はどうすればよいのでございましょう?」
 「そうじゃのう……。しばらく馬関で物見遊山でもしたら、萩に戻るがよい」
 雅は黙り込んでしまった。おそらく言いたい事は山ほどあったろうが、そこは慎ましやかに晋作を見つめ返しただけだった。彼女には分かっていた。高杉晋作という主人は、もう自分の所には戻ってこないということが。武家に生まれ武家に嫁いだその世界の中でしか生きられない自分が。この男はそんなちっぽけな枠の中では到底生きていくことができないのだ。かといって、自分を高杉家に招いた小忠太を恨むなど思いもつかない。ただ自分の境遇に耐え忍び、それを自分の一部として生きることが、武士の妻たる努めであると信じて疑わなかった。
 「そういたします……。どうぞお勉めを全うしてくださいまし……」
 晋作は「うむ」と言いながらまた酒を飲んだ。