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43.木戸、京へ
幕末小説 『梅と菖蒲』
 慶応元年十一月七日、ついに幕府は諸藩にむかって長州征伐のための出兵命令を発した。
 それに先だって幕府は長州の内情を探るべく、大目付永井主水正尚志を正使とした訊問使団一行を岩国領(長州藩)との国境にある広島に向かわせた。その中には新撰組局長近藤勇らの姿もあった。彼らは長州訊問使の話を聞きつけ、「我らも是非に!」と長州行きに願い出たのである。彼らの長州憎しの執念も尋常でない。
 同十六日、広島に到着した一行に対し、長州側から派遣された使者は宍戸備後らで、両者は同二十日に広島の国泰寺で対面することになる。
 「長州に不審な動きがあるとの噂がしきりだが……」
 と、永井が八カ条に渡り厳しく訊問を開始した。それに対して長州側は、あくまで恭順の姿勢を示さなくてはいけない。宍戸備後は訊問される内容を事前に予想していたのであろう、その八カ条に対して巧みな釈明で切り抜けていった。
 ひと通りの訊問を終えたところで、永井は懐から一枚のメモを取り出して宍戸に見せた。そこには近藤勇をはじめとした同行してきた新撰組隊士らの名前が記してあった。
 「その者たちは元新選組の隊士であるが、このたび私が召し抱えました。貴公が帰国する際、この者たちを同行させ、親しく長州の実情を見聞させたいと思う。さすれば、幕府の長州に対する疑惑も大いに解けるであろう。左様に取り計らいなさい」
 新選組といったら、現在京都で長州藩士はじめ尊攘、倒幕派浪士達の取り締まりに躍起になっている荒くれ者集団ではないか。そんな集団の幹部らを長州に連れ込んだらとんでもないことになる。宍戸は機転を利かせてこう答えた。
 「只今かような方々に国許へ来て頂くことは、いたずらに長州の幕府に対する感情を悪くするばかりかと思います。また、万一幣藩の民どもが危害でも加えたりなどすれば、それこそ幕府と長州との関係をますます悪化させる結果になると思われます。どうかご容赦を」
 もっともな回答であった。永井は取り出したメモを引っ込めた。
 こうして訊問は修了したが、長州入国を拒絶された近藤勇らは諦めきれず、単独行動で入国を図って、長州藩士の広沢兵助に面会を求めた。しかし広沢に面会を拒まれ、次に同藩士大津四郎右衛門に面会を求めたが、ここでも入国は叶わなかった。しかし近藤は諦めない。広島滞在を延長してまで再び広沢兵助に面会を求め、二度目とあって断りきれない広沢はようやく会って話を聞くが、結局近藤の要望については拒絶した。近藤勇のすごいところは、これでもまだ諦めなかったことである。さらには岩国藩を通して入国を試みた。しかしそこでも拒絶され、ここに至ってようやく帰京の途についた。ところが彼はまだ諦めていなかった。翌年正月、長州処分を伝える小笠原壱岐守の使節に伴って再び広島に訪れる。しかしこのころ長州は、すでに幕府と対立する構えを見せており、近藤の入国はついに実現することはなかったが、この執念の正体は一体何であろうかと、筆者は悩むばかりである。

 一方龍馬は、長州から兵糧米の調達成功の報告を西郷に伝えるため上京し、長州へ使者を派遣することを依頼した。それを受けて黒田了助(清隆)らを長州に赴かせることになる。永井尚志が長州訊問の使いとして派遣されたという情報が龍馬の耳に入ったのはその頃で、幕府の新しい動きに対して長州の反応を確かめるため、龍馬は再び下関に向かった。十一月二十四日のことである。
 ところが龍馬が下関に着いてみると、近藤長次郎が購入までこぎつけた蒸気軍艦ユニオン号の使用権をめぐって、話が拗れている真っ最中。
 「まったく何をやっちょるか!」
 と、龍馬はそのまま長崎へ向かうことになる。
 そもそも薩摩名義で蒸気軍艦を購入すると木戸と約した龍馬は、その仕事を亀山社中の近藤長次郎に任せていた。長次郎の商業の才を高く評価していたからである。そして長次郎は購入に際し、薩摩名義で買えるよう薩摩藩の官吏を説得し、ついにグラバー商会から軍艦ユニオン号を三万七千五百両で購入することに成功した。そこまでは良かった。
 井上聞多との密談の末、桜島丸と命名されたユニオン号は、
 一、船の代金は長州藩が支払う
 二、船の名義は薩摩藩とする
 三、そしてその運営は亀山社中がおこなう
 といういわゆる『桜島丸条約』を結ぶ。もちろん代金を支払う長州藩が船を必要とする際は、自由に使用できるというものだが、条約を交わした聞多にしてみればこれまで長州の武器類調達に骨を折ってもらった長次郎に対して恩義を感じていたのかも知れないし、あるいは薩摩名義を獲得する際、長州が運用すると言ったら薩摩が承諾しなかったのかも知れないが、その根底には、長次郎の亀山社中を世界に雄飛させたいという夢といえば聞こえはいいが、要するに亀山社中の私利私欲が見え隠れするのである。いずれにせよ条約の内容を知った長州の海軍局は、当然その聞多と長次郎の間で結ばれた密約に大きな難色を示す。
 「船の代金は長州が支払うのじゃ!亀山社中が運用するとはどういうことじゃ!」
 「これは貴藩の井上様と交わした約束ゆえどうかお飲みください。それに蒸気船の運航には熟練された技術が必要ですけん。まだ船の代金は未払いゆえ、このままではこの話自体が流れてしまいます!どうかご承諾を!」
 と、長次郎は喰い下がった。来る幕府との戦いに備えるにはどうしても蒸気軍艦が欲しい長州との間で、俄に亀裂が生じようとしていたのである。
 長崎に入った龍馬は長次郎を一喝した。
 「おまんはせっかくここまで築いた長州との信頼を、すべてご破算にするつもりかいの!」
 「しかし世界を相手にビジネスをするには、亀山社中に船は絶対必要なんです!こんな絶好の機会は二度とないかもしれません!」
 「おまんの言うことはよう分かるぜよ。じゃがな、今はそんな自分のことばかり考えておる時じゃのうて、幕府を倒すのが先じゃろう!わしらの夢見る世界は、その後に必ず来る!そうなったらおまえ、船なんぞいくらでも手に入れることができるんじゃ!」
 龍馬は長次郎を説き伏せると、長州海軍局総官の中島四郎と話し合い、先の条約を破棄して新たに『桜島丸攻守条約』を締結したのであった。これにより亀山社中に関する部分は削除され、ユニオン号の運営は長州藩海軍局のものとなり、船の名称も『乙丑丸』と改名されることになる。
 そんな亀山社中と長州藩の間での対立だったが、長州が軍艦と武器を得ることができた背景には絶大なる長次郎の尽力があったことも事実であった。聞多と俊輔はその功労を藩に推挙し、やがて長次郎に対して莫大な恩賞金を与えたのである。
 長次郎の私欲があからさまになったのはこの時である。長州からもらったその金を亀山社中の同志に秘密にしたまま、異常なほどの向学心に支配されたままグラバーにイギリス留学を依頼したのだ。しかしその留学計画が同志に露見し、亀山社中の盟約によって長次郎は腹を切った。享年二十九歳、志を私欲のために燃やした悲しい結末だったと言えるだろう。龍馬はその死を惜しみ、
 「術数あまりあって至誠たらず。近藤氏の身をほろぼすゆえんなり」
 と手帳に記した。ともあれ乙丑丸と改名されたユニオン号は長州に来た。これによって木戸は、龍馬に対してますます信頼を深めることになる。

 西郷吉之助の使者として、黒田了助が下関に到着したのは十二月十九日のことだった。黒田は木戸に対面すると、
 「この度の兵糧米の件、西郷吉之助より心より感謝を申し上げるよう承って参りました。西郷は今、京を離れることができません。つきましては木戸様にご上京いただき、今後の日本について談議したいと、くれぐれもよろしく伝えるよう西郷に言われて参りました。せめてご上京はいつ頃になるかだけでもお伝えいただきたい」
 と平伏して告げた。木戸は「いよいよきたか」と黒田をじっと見つめ返したが、即答するには及ばなかった。というのもいくつもの心配事が頭をかすめていたからである。
 一つ目は西郷に対する不信感である。今年の閏五月、一度は下関に来ると約束した西郷は、結局京都に行ってしまい、木戸は待ちぼうけをくらった末に、その約束を違えられた事だ。
 二つ目はいまだ根強く残る藩内の薩賊感情である。特に主要部隊である奇兵隊内の反発は大きく、一部ではあるが旧保守派による幕府恭順論すらくすぶっているのである。こういう状況では京都に行っている間に、藩論が覆されてしまう可能性も残されている事だ。
 三つ目は仮に京都に赴いた場合の命の危険性である。もし薩摩が本気で会談に臨むのであれば、長州人にとって最も危険な京都に招誘するなど、配慮を欠くにも甚だしい。別に命が惜しいわけではないが、これまでの経緯を考慮すれば、薩摩の方からこちらに代表者を送るのが筋ではないかと譲らなかった事である。
 木戸は苦慮の末、
 「ちと当方の思っていることと違うようじゃ」
 と、その日は黒田を退かせてしまった。
 しかし現実的に長州が生き残るたった一つの道は、薩摩と和解、提携する以外にないということは、知識人であれば誰の目にも明らかなのだ。木戸の身近な人物でさえ、晋作はじめ山県狂介も井上聞多も佐世八十郎もみな薩摩との提携を支持しており、「木戸さんを上京させた方が良いだろう」と意見を一致させていたのである。
 それから数日後、新地藩会所の一室で、木戸を囲んで晋作や山県、そして俊輔、佐世らが集まって、今後の善後策について語り合った。みな西郷の使者として訪れた黒田の人物評などしながら、「やはり藩のためには京に行った方が良いのではないか?」という意味の事を、遠回しに木戸の表情を伺いながら言い合った。木戸は言葉少なに酒を飲むだけで、話の本意には気づかない素振りで静かに笑って聞くだけだった。やがてこのままでは埒が明かないと、ついにしびれを切らせた晋作は、木戸に酒を勧めながら単刀直入に本題に入った。
 「木戸さん、中岡君と坂本さんがようやくここまで運んでくれた話です。木戸さんが京に行かれている間の藩のことはボクがなんとかします。縷々心配事があるのは分かりますが、長州のため、ここは西郷と会ってみてはどうでしょう?」
 木戸は「ついにそのことを言ってきたな」と不敵な笑いを浮かべて晋作に盃を返した。そもそも俗論政権をひっくり返した晋作に、藩の心配はいらないと言われては、先に述べた二つ目の拒む理由を持ち出すことはできない。木戸は、
 「別に西郷と会うのを拒んでいるのではない。晋作は物事に筋を通すべきだとは思わないのかい?まして藩の進退に関わる大事じゃ。筋をはずせば揚げ足をすくわれる」
 と、三つ目の拒む理由を、長州人特有の理を持って答えた。
 「残念ながら、長州には今そんなことを言っている余裕はないはずです。それに体面にこだわる必要もないでしょう」
 と、晋作の言うことはいちいちもっともだった。木戸は不愉快そうに晋作から返った盃の酒を飲み干した。
 木戸貫治が腰を上げない理由を数え挙げればきりがない。しかしその深層部の出どころを探れば、それはただ一点、薩摩憎しの感情だけだった。表向きでは奇兵隊や藩内の薩賊感情とか言っているが、実は木戸自身が長州の誰より薩摩を憎んでいたのである。それは誰よりも長州を愛する証拠でもあり、極端な話を持ち出せば、禁門の変の時、愛する同志達の命を奪ったのは薩摩であるとの激しい憎しみが、いまだ心を覆って許すことなどできなかった。木戸ほどの頭の切れる男であるから、晋作が言うことは百も承知であるが、それにも増して拭いきれない薩賊感情が、彼の判断を躊躇させているのである。薩摩と組むくらいなら防長一丸となって邦国が焦土と化すまで幕府と戦うのみだ。口にはしないが、これが木戸の本心なのだ。
 木戸は何も言わずにまた晋作に返杯した。
 何も言わないが、晋作はそのことを知っていた。晋作自身、あるいは木戸以上に薩摩など呪い殺してやりたいと思っていた口なのである。しかし彼の場合、福岡で望東尼と会い、中岡慎太郎の情熱に突き動かされて、これまで最も嫌いな西郷という男と二度までも会ってきたのだ。そしてその結果、『憎い』という感情をついに乗り越え、長州の存亡を正視眼でとらえられるようになっていた。
 会えば道は開ける───、望東尼に教えてもらった、それが晋作の信条となっていたのだ。
 何も答えない木戸に思いあまって、ついに晋作はこう言った。
 「なんじゃ、逃げの小五郎の性根が出てきたか?」
 その瞬間、その場にいた者達の表情はこわばり、和やかさを装っていた空気がピンと凍りついた木戸に対してそんなことを言えるのは晋作だけだ。木戸の過去を知っていればいるほど、それは決して口にしてはいけない禁断の句なのである。瞬転、木戸はかっと頭に血をのぼらせると、
 「もういっぺん言ってみろ!」
 目の前の膳を部屋の壁に叩き飛ばした木戸は、脇に置いた刀を引き抜いた。
 「もういっぺん言ってみろ晋作!いくらお前といえども許さんぞ!」
 抜いた刀の切っ先を、晋作の喉元に突きつけて木戸は同じ言葉を繰り返した。
 「斬るなら斬れ!どうせ生い先短い身の上じゃ!木戸さんに斬られて死ぬならボクも本望!」
 二人はしばらくそのままの姿勢で睨み合った。周りの者達は微動だにせず、目をまん丸くしたまま固唾を呑み込んだ。
 その緊迫した時間は永遠のようにも思えた。
 が……、
 やがて木戸は刀を鞘におさめ、何事もなかったかのように胡座をかきなおした。そして、
 「私はどうにも薩摩が憎いのじゃ……」
 と呟いた。
 「やっと本音を漏らしたな」と晋作は、自分も痛いほど分かるその感情に心で泣いた。
 「分かりましたよ、木戸さん。この度の京へは、ボクが行きましょう」
 木戸は突然なにを言い出すかといった表情で晋作を見つめた。
 「ボクならば薩摩の人間も納得するでしょう」
 晋作は本気である。長年の付き合いで木戸にはすぐ分かる。
 「何を申すか、これは薩人の罠なのかも知れんのだぞ!」
 「西郷のやり方は確かにずるがしこいが、そこまで人非人じゃありゃしませんよ」
 「待て!それにお前は病気じゃないか!途中で死んだらそれこそ犬死にじゃ!」
 「ボクが死んだら長州の士気はますます高まると信じちょる。けっして犬死にはならないよ」
 やがて晋作は静かに立ち上がった。
 「待て!晋作!」
 木戸は晋作の腕を掴んだ。そしてその双眸をひしと見つめた。
 「わかったよ、晋作……。これは私の仕事だ。京都へ行こう」
 木戸はそうしてにこりと笑った。
 「あとのことは頼んだぞ!」
 晋作も眼に涙を溜めて微笑み、こうして木戸貫治の京行きは決まった。
 十二月二十一日、藩主は木戸を呼び、京都の形勢視察を名目として、いよいよ正式に木戸に対して上京の命を下す。そして同二十七日、木戸貫治は薩摩藩士の黒田了助とともに、御盾隊の品川弥二郎、奇兵隊の三好軍太郎、遊撃隊の早川渡、そして晋作の代理として土佐浪士の田中顕助らがその護衛となって、一行は三田尻より船上の人となった。
 こうして慶応元年という年は暮れていく。