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42.乙丑の獄
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 このところ晋作が寝泊まりしている入江和作の茶室には、みすぼらしい姿をした農民達が、手に手に収穫された農作物や、海で捕れた豪勢な魚介類を持ち、ひっきりなしに訪れるようになっていた。近頃体調が思わしくなく、横になることが増えていた晋作を心配して、見舞いの品を届ける奇兵隊や諸隊の隊士達の家族である。
 「旦那はん、作次はんとかのお父様という方が、鯛を届けてくれはりましたが、いかがいたします?」
 「そうか、会おう……」
 そのたび晋作は重い体を起こして、茶室に迎え入れる。無論作次などという男は知らないが、見舞いを持って来るといえば奇兵隊の新入りや下級隊士の親であることに違いはない。
 「高杉様、いつもせがれがお世話になっちょります……。これは周防灘で捕れた魚でございます。高杉様、はよ良くなっておくんなさい」
 「ありがたく頂戴しましょう」
 晋作はそんな名もない農民達にいちいち会っては、他愛ない世間話をして迎え入れていた。どういう心境の変化か、以前なら相手にするのも億劫がっていたのに、最近ではそんな彼らが愛おしくて仕方がないのだ。農民達にしてみれば、少し前の世の中ならば一生農民として生きていかなければならなかったはずのところを、晋作の創設した奇兵隊のおかげで、家から武士を出すことができたと喜んで、彼らにとって晋作はまさに菩薩様だった。中には入江和作の茶室の入り口の前に立っては、「ありがたや」と手を合わせる老婆もあるくらいで、そんな姿を見ては、
 「ようやくボクも観世音菩薩になれたのかの?」
 と、晋作は望東尼のことを思い出しながら卯乃に言う。
 「旦那はんが観音様……?ほな、わては何ですのん?」
 卯乃は「こんなお酒好きな菩薩がいるものか」とケラケラ笑い出す。
 「そうじゃのう、お卯乃は観音菩薩の妾ということになるの」
 「まあ!おなご好きな観音様やわ!」
 晋作は卯乃を抱き寄せて、襟元から手を忍ばせる。
 「それだけ元気があれば大丈夫どすな。はよようなっておくれやす」
 卯乃は晋作の唇に自分のそれを合わせて涙ぐんだ。

 薩摩藩が薩長同盟になかなか踏み切れなかった理由のひとつに、九州福岡藩の動向がある。
 長州俗論派が政権を握ったとき、九州連合を模索して福岡に渡った晋作が見たものは、薩長和解を実現しようと奔走する加藤司書をはじめとした月形洗蔵や中村円太といった福岡勤皇派志士達の姿だった。
 第一次長州征伐のとき、幕府と長州の間に入り、西郷の指揮のもと幕府軍を解兵したのは福岡藩であったと言っても過言でない。そして幕府軍総督であった尾張藩主慶喜に解兵を果たさせた人物こそ福岡勤王派のリーダー的存在だった加藤司書であり、彼はその功績が認められ、今年に入って二月の藩内人事異動で、実質的に藩政の中心的役割を担う御財用元締郡町浦受持の家老職に大抜擢されたのだった。それにより、福岡藩の要職には大量の勤王派が就任するに至る。すなわち家老には黒田播磨、大音因幡、矢野相模といった勤王派の面々、他にも大目付や小姓頭、御用聞や勘定奉行等にも勤皇派が配属され、月形洗蔵も町方詮議役に就任している。しかも婚姻関係による結びつきも深く、福岡藩政は勤王派がその中心軸になっていく。この人事には諸藩も注目し、西郷吉之助などは、
 「筑前(福岡)、久留米の両藩は力を尽し候得ば、其の益必ずこれあるべき事にて、薩摩の片腕には相成る藩に御座候」
 と、大きな期待を寄せていた。これによって薩長和解に向けても大きく動き出していくはずだった。
 ところが───である。
 勤皇派人事が確立されて慶応元年三月初旬、勤王派が藩の上層部を占めたことに加え、司書らは藩政改革を強く推し進めるあまり、旧来の保守派との間に大きな軋轢が生じた。藩論は真っ二つに割れ、事態は収拾がつかない状態に陥ったのだった。その動揺をおさえようと、司書らが藩主黒田長溥に提出したのが『藩論基本の建議書』なるものだった。これがいけなかった。
 「時勢は乱世である。このような時だからこそ藩論を確立したい。政の第一は人心の一和にある。これは藩祖からの方針である。そのことをしっかりわきまえ、及ばずながら富国強兵の方向で補佐したい」
 と、その内容は、まるで全てを知っているかのような高みから、藩主を戒めるようだった。また、
 「主君の率いるところがどこにあるかによって、一家中に党派が発生してしまう。上下一致して偏らず、藩論を一定することが肝要である」
 と、現在の混乱が、藩主のせいだといわんばかりに聞こえる内容に加え、
 「時勢の変化に応じ皇国に尽くすには、いつも幕府の機嫌ばかりをうかがってもいられない。公然と討幕とまではいわないにしても、条理が立つのなら幕府の忌憚に頓着することはあるまい。わが筑前藩は九州枢要の国。有事の節は一藩の独立をも考えるべきであろう。いまのままでは何事もうまく運ばない。富国強兵の実をあげるためにも、およそ割拠するぐらいのお心でやってもらいたい」
 とまあこんな具合である。勤皇主義者が書いた建議書(意見書)だから、言いたいことは分かるが、もう少しオブラートで包み込めなかったものかと筆者でも思う。案の定、これを読んだ藩主は激怒した。
 「これは私に対する説教か!」
 その怒りを知った保守派は、「それチャンスだ」とばかりに勤王派の追い落としにかかるのだった。建議書は藩を立て直すどころか、やがては自分達の首を絞めることになっていく。
 その他勤皇派政権が行った政策のひとつに中老右筆所詰の廃止がある。右筆所とは本来藩主側用人の詰所であるが、福岡藩では年輩者が用人として仕官し、藩主に直接進言することが多々あった。しかしそれでは余計な話も藩主の耳に入ってしまい、明確な判断を鈍らせることになると考えた司書らは、その側近政治を払拭するために廃止した。しかしこれもまた失敗に終わり、ついに政権を担いはじめてから僅か四ヶ月で、追い討ちをかけるように『犬鳴山別館築造事件』と言われる致命的な出来事が起こる。
 事の発端は六月十八日夜、勤王派の衣非茂記と黒田大和(黒田播磨の甥)の密談が露見したことによる。その密談の内容というのは、黒田播磨の知行地である三奈木に太宰府の五卿を動座し、その後薩摩に移して九州勤王派を決起させるという計画で、藩主黒田長溥がその計画に賛同しなかった場合は藩主を犬鳴山別館に移し、その子長知を担ぎ上げて挙藩一致体制(勤王)を構築しようとするものだった。これは話ができすぎで、あるいは密談自体、保守派の陰謀だったとも考えられている。
 そもそも犬鳴山別館というのは藩主を守護するための別邸のことで、この築造計画は、当初から勤王派主導で進められていたことは確かであるが、その意図するところは、
 「嘉永以来黒船の来航などで騒然とした時代様相にあって、海岸に近い福岡城は砲火の洗礼を受けやすい。よって有事に備え藩主をかくまうための別邸が必要」
 というもので、藩内においてもそれは認知されているはずだった。その計画は今年に入ってから進められ、五月頃には既に完成していたが、誤解を招く要因があったとすれば、その築造規模がかなり大がかりだったことで、事件が大問題に発展した直接的な原因は、築造された犬鳴山別館に、幕府の嫌疑がかけられたことである。
 かつて徳川幕府は、全国の大名の統制と軍事力の抑制を目的とし、元和元年(一六一五)に一国一城令を発した。これにより福岡藩には福岡城だけが残されたが、幕末動乱期における築造だけにこの別館がそれに反するとされ、幕府に謀反を企てていると見なされたのである。更に幕府は長州との緊張状態の中で、福岡藩は長州と気脈を通じているという嫌疑をかけた。
 それを利用しようと謀ったのが保守派勢力だった。世間では「藩主の別邸にしては、茶屋以上の構え」との風説も広がっており、おまけに先程述べた勤王派決起の密談の露見である。たちまちのうちに、
 「加藤司書、謀反!」
 との噂が広がった。『藩論基本の建議書』で藩主から怒りを買っていた司書は、ついに謹慎を命じられると同時に、それまでの素行を調査されることになってしまったのだ。そして、七月二十一日に謹慎処分を受けた司書に対して、それから約三カ月後の十月二十五日に切腹の命令が下る。悲劇は司書一人だけに留まらず、勤皇派の大弾圧にまで発展したことにある。勤皇派官僚は全員逮捕され桝木屋の獄に入牢となり、加藤司書をはじめとし、衣非茂記、建部武彦、斉藤五六郎、万代十兵衛、森勘作、尾崎惣右衛門ら七名は切腹させられ、月形洗蔵、梅津幸一、鷹取養巴、伊丹真一郎ら十七名は斬首、さらには勤皇派を助けた十五名が流刑となり、勤王活動に加担した疑いのあるすべての者に処罰が与えられたのである。その数は延べにして一八〇余名とも言われており、これがいわゆる幕末福岡藩における 『乙丑の獄』である。
 この事件によって福岡藩は多くの人材を失い、実質的に筑前勤王派は潰減して尊壌運動は挫折する。同時に福岡藩主の西南諸藩における主導権も崩壊し、ついには薩摩や長州とも離れて、譜代大名以上に佐幕的性格を鮮明にして幕末を迎えることになり、その歴史から抹消された。歴史の厳しい審判ともいえるだろう。
 薩摩藩においては福岡藩の存在を頼りにしていただけに、薩長同盟に対して躊躇せざるを得なくなった。下手なところで長州との歩み寄りが露見してしまえば、福岡藩の二の舞を見ることになる。龍馬と慎太郎は、新たに生じた情勢に苦しめられながら、執念の周旋を繰り返していた。
 ところが反長州感情の風向きが少しずつ変化していくことになる。九月十六日、幕府が長州征伐の勅許を願い出た時、日本の海外貿易において新たな流れが生じていた。それは英仏米蘭の連合艦隊九隻が兵庫沖に集結し、条約勅許と早期に兵庫を開港するよう強く要求してきたのである。京都にいた将軍家茂はその対応に頭を痛めるが、朝議の末、兵庫開港は不勅許にしたものの、条約の方は勅許とし、それによりそれまで二〇パーセント前後だった輸入税率が、一律五パーセントと、日本にとっては植民地並みの不利な税率での貿易を強いられることになったのだ。日本の将来を危惧する者達の反幕府感情は高まり、加えて長州再征の勅許は下りたものの、その再征理由がはっきりしないと言って長征に反対する大名も出はじめたのだ。その背景には、出兵によって発生する莫大な費用の心配がある。そういったことが重なり、幕府に対する不満が次第に高まってきたのである。世論が動けば薩摩も動く。薩長同盟に現実味を帯びながら時は流れ初めていたのである。
 さて話を戻す───福岡勤皇派で弾圧された者の中に、勤王家の母としてそれまで多くの志士達を助け支援し、また、かつては晋作をも草庵に匿った野村望東尼がいた。女性でありながら、流罪という厳しい処分を受けなければならなかった彼女は、十一月十四日、玄界灘の海にぽつねんと浮かぶ姫島に流された。御年六十歳。畳もない四畳の板敷きの獄舎で、彼女はその年の冬を耐えなければならなかった。

 うき雲のかかるもよしやもののふの大和心のかずにいりなば

 例え疑いをかけられようと、大和心を持つ志士の一人に数えてもらえるのなら本望であると望東尼は詠んだ。しかし獄舎での生活は、想像以上の苦しみがあったに相違ない。火さえ使うことを許されない獄舎で、彼女は寒さを凌ぐため、着物や風呂敷などを部屋に張りめぐらしたが、そんな物で暖を取ることなどできなかった。そしてやがて春が訪れたとしても、部屋にはムカデや蜘蛛がわんさと出没する環境の中で、病に犯され衰弱することもあった。そんな彼女を支えたのは島の民の温かい思いやりだった。彼らは火をこっそり用立てたり、家族へ手紙を届けてくれたりもした。

 暗きよの人やに得たるともしびはまこと仏の光なりけり

 劣悪な環境下、望東尼は日記を書き続け、処刑された同志のために、萱で指を切って滴る血液で、麻布に写経し歌を綴って供養した。
 「もう再び、生きて帰ることはないでしょう……」
 望東尼は懐かしい過去の出来事を思い出し、とめどなくこぼれ落ちる涙の始末に困った。

 病床に耽ることが多くなっていた晋作は、各地の情況を探るため、奇兵隊士を町人姿で要所々々に諜報者として忍び込ませている。もともと町人や農民出身の彼らは、そういう仕事には打ってつけだった。福岡藩に忍ばせている諜報者から、そんな福岡藩の情況は耐えず報告されていたが、うちわもめに晋作はあまり興味がなかった。
 ところが十一月下旬のことだった。野村望東尼が姫島に流刑されたと耳にした瞬間、
 「なにっ!」
 と重い身体を起こして表情をこわばらせた。仮にも彼女から一宿一飯の恩義を受けた身である。その夜、晋作は鼓動が高鳴り、なかなか寝付くことができなかった。