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41.玄瑞の忘れ形見
幕末小説 『梅と菖蒲』
 晋作が藩命により下関駐在の用所役国政方に任命されたのは九月六日のことだ。彼の病気を気遣って、卯乃の近くに置いてやろうという小五郎の配慮であり、晋作にしてもありがたく受けたわけだが、数日して彼の所に世子定広の使者として八木隼雄という男が訪れた。そして、
 「高杉様、今後の藩の取るべき道のため、ぜひお知恵をいただきたいと世子様がおおせになられます。幕府は朝廷に第二次長州征伐の勅許を得るとの噂がしきりで、藩主様も動揺を隠せないご様子でございます。かくなる上は、ぜひ山口に召され、良い対策をご伝授いただきとう存じます」
 と言う。長州の倒幕方針は藩主自らの決定事項のはずである。すでに武備を整えはじめ、この期に及んで「また揺らいでいるか……」と、晋作は頭を抱えた。
 「お卯乃、ちと山口に行って来るゆえ、留守を頼む」
 「へえ……」
 と、晋作は馬を走らせ山口に向かった。
 かつて松陰はこう言った。
 「例えば洞春公が今の時代に生まれたとしたら、この情況を見て何と言われるだろうか?かの陶賊はただ主君に叛いただけではないか。洞春公はそれを絶対に許さなかった。しかるにいま幕府は国患を養い、国辱を受け入れ、そして朝廷に背き、国外からは夷狄を引き入れ、国内にあっては諸侯を脅して国を治めている。しかるに幕府こそ一国の賊であり、征夷大将軍は天下の賊なのだ。今、幕府を討たなかったら、天下の民は私を罵倒し、万世に渡り汚名を残すことになってしまう。そして私達の祖である洞春公もまた、その屈辱を受けることになってしまう」
 と。“洞春公”とは藩祖毛利元就のことである。“今の時代の状況”というのは、黒船来航以来、諸外国の言いなりになる幕府に対し、何もすることができない日本国の現状であり、そこを陶賊を許さなかった洞春公に例えたのである。“陶賊”とは戦国時代の周防大内氏の重臣陶晴賢のことで、彼が主君大内氏を裏切ったことで、毛利元就は当時西国随一の戦国大名と言われていた大内氏を滅ぼすことができた。いわゆるこれが本能寺の変と並ぶ戦国時代の大事件大寧寺の変であるが、その勝利の因を作った陶晴賢の功績を讃えるどころか、元就はその裏切り行為をけっして許すことはなかったという逸話である。しかるに幕府は日本国を外国に売り、日本の民を裏切ったと断じる松陰にとっては、幕府こそ許すべからざる存在であり、その幕府の行為に屈することは、自分達が藩祖をも裏切ることにもなのだと訴えたのだ。
 松陰のその主張は、やがて彼自身への仇となり、ついには処刑へと導かれていくわけだが、死を前にして松陰の志は折れるどころか、ますます光を放った。その厳たる人間精神があったればこそ、真の後継者が生まれたと言ってもよい。いま晋作にはその師の心が、手に取るようによく解った。
 彼は山口政事堂の世子と藩首脳の面々に、「幕府に絶対に屈してはならない」と、その話を通して強く訴えると、藩主に対しては、
 「幕府と手をお切りください。そして洞春公の気迫をもって幕府軍に立ち向かって欲しい」
 と建白書を提出して下関へ戻ったのだった。
 案の定、大坂から京都に入った将軍徳川家茂は、朝廷に対して長州征伐の勅許を願い出た。そして九月二十一日には第二次長州征伐の勅許が降り、その翌日、家茂は参内してそれを賜り、幕府にしてみれば日本国の内乱においては絶対にはずせない大儀名文を手に入れた。これにより長州は、大儀上再び朝敵とされたわけである。
 しかし、第一次長州征伐とは明らかに違う動きが生じていた。薩摩の大久保一蔵(利通)が西郷吉之助に宛てた書簡にこうある。
 「万民が納得しない非義の勅命に、薩摩藩は従うべきでない」
 と。表向きには幕府の方針に従う姿勢を見せておきながら、裏ではそれまで西郷が地道に手を打ってきた効果が次第に見え始めていたのである。もちろん龍馬や慎太郎の周旋の力もあったわけだが、この小さな変化は、歴史を大きく動かす原動力になっていく。
 その事を伝えようと龍馬は長州へ走った。あたかも桂小五郎が木戸貫治へと改名した時のことであり、晋作は晋作で御用所役に任命され、内用係国政方の事務を聞く勤務を命じられ、また馬関駐在応接方越荷方対州物産取り組み駆引方を命じられた時である。なにやら訳の分からない職名であるが、要するに対幕に備えた外交と交易の一切を担う重職である。
 「よう聞け!長州再征の勅命が降りたが、薩摩藩はこの戦には出兵しないぜよ!」
 山口に到着した龍馬は政務役の広沢兵助に会ってそう告げた。
 「それは誠か?」
 「誠も誠じゃい!西郷さんの口からはっきり聞いたんじゃ!それより桂さんはどこじゃ?」
 「桂さんなら下関だ。つい先日、木戸貫治と名を改めた」
 「木戸さんかい?おお、良い名前じゃ!」
 龍馬はそう言ったかと思うとろくに挨拶もせずに下関へ向かった。まこと嵐のようにやって来ては、嵐のように去っていく男であった。
 長州は幕府軍再征に備え兵制を整え、各攻防戦の舞台になるであろう領域の警備を訓令した。下関にいた木戸貫治は、このところ晋作らと時局の議論に余念がない。幕府軍が長州を攻めるとしたら、五つの藩境からであろうと地図を広げた。五つの藩境、つまり萩口、芸州口、大島口、石州口、小倉口の五箇所であり、その五箇所を死守することが山口の政庁を護る砦になるはずだと木戸は言った。そして武器の購入成功に話が至ったとき、木戸は懐から短刀を取り出して晋作に見せた。
 「これは中岡君から頂戴した左行秀の脇差だ。彼はこれを自分の命じゃと言って私に預けたのだ。長州が最新式の武器を手に入れることができたのは、彼や坂本君の情熱のおかげじゃ。長州はその誠意に報いなければならんな」
 晋作はその短刀を手にして鞘を外した。
 「所詮薩摩も、長州が幕府に負けたら、倒幕に動くことはないでしょう。今は様子見をしちょるのですよ。かといって薩摩をうまく使わなければ、長州は圧倒的に不利になる。だがなんといっても倒幕の要は長州じゃ。絶対に負けるわけにはいきません、松陰先生のためにも……」
 晋作は短刀の刃をしみじみ見つめながら「それにしても見事な刀ですね」と言いながら、慎太郎の牛面を思い浮かべて笑った。そして、その相棒として周旋に走り回る坂本龍馬という男の事を考えながら刀を鞘に納めた。
 「彼らに何かお返しをしなければいけませんな」
 「そういえば明日、坂本龍馬君と会うことになったので、大坂屋に酒席をもうけてある。よければ晋作も同行しないか?なにか幕府との戦の対応策が見えるかも知れん」
 「ほう、そうですか。いいでしょう」
 と、木戸に誘われた晋作は、その翌日、稲荷町の大坂屋で龍馬と会うことになる。慶応元年十月三日のことだ。
 龍馬は小広い座敷にやや横柄な態度で木戸の対面に座ると、「すまんのう、こんな席をもうけていただき。じゃ遠慮なくいただくぜよ」と言ったかと思うと、さっそく膳の盃に酒を注いで口に含み、
 「木戸さんとの約束は果たしたぜよ。それにもう一つ、今日は土産話を持ってきたんじゃ。薩摩は今度の幕府の長州攻めには参加せんぞ」
 と言った。脇には晋作が控えている。龍馬はそれに気づいているのかいないのか、膳の肴を美味そうに口に運んだ。木戸は「物事には順序があるだろう」と龍馬の態度に苦笑しながら、やがて晋作を紹介した。
 「おお、知っちょる。以前、江戸で一度お会いしたことがあるがぜよ。確かあの時は久坂さんと一緒だったけん」
 と、晋作に顔を向けるとにやりと微笑んだ。どうも晋作は、長州藩以外の人間と会って話をする事が苦手らしい。この龍馬という男に対してけっして好印象は持てなかったが、しかし何年も前の、江戸でのたった一度の一瞬の出会いを覚えているとは、「この男、なかなかあなどれんな」と、にやりと笑い返した。
 そうして木戸がようやく膳に箸をつけると、それを待っていたかのようにつつっと木戸に歩み寄った龍馬は、その盃に酒を注いだ。次いで晋作にも同じように、
 「さっ、高杉さんも飲んでください!わしの酒じゃないがの!」
 と哄笑したかと思うと、再び自分の席に戻って料理を食い始めた。まったく意外な男である。江戸で見かけた龍馬は、けっしてこれほど気さくでなく、どちらかというと剣の修行に一途な、立身出世を夢見る田舎侍にすぎなかったはずなのだ。
 「さて木戸さん。さっそくのお願いで申し訳ないんじゃがの、武器の購入と引き替えに、薩摩藩への兵糧米のご提供を約束していただきたいが、どうですかの?」
 「よかろう。明日、書状にて確約しよう」
 そう答えた木戸は、開手を打って芸妓を座敷に呼び寄せた。取り引きの話さえついてしまえば、あとは飲んで遊ぶだけである。そうして座敷には数人の芸妓が登場し、その場は宴会へと変わっていった。ほろ酔いの晋作は木戸に勧められ三味線を握ると、自作の都々逸を唄って場を盛り上げた。それには龍馬も大喜びで、木戸と肩を組んで時局を議論しあったりしている。その日大坂屋からは、遅くまで芸妓の笑い声が響いていた。

 龍馬はその後しばらく下関に滞在し、晋作の口利きで白石正一郎宅に身を寄せる。それにしてもまったくどうしたものか、晋作と龍馬はなぜか非常に気が合った。気が合ったというのは語弊があるが、それは同じ目的を目指す同志ででもあるかのように、話す内容の節々でその考え方や心がピタリと一致するのである。晋作にはそれが不思議でならなかった。
 「坂本さんはその考えをどこで学んだのか?」
 あるとき晋作は聞いてみた。“その考え”とは、世界の中の日本という国のあり方を論じた龍馬の考え方である。
 「わしは勝先生より学んだがぜよ。勝先生は幕府の人だが、本当に広い視野を持った大人物じゃけん。幕府じゃ長州じゃと言っちょる向こうの、日本国っちゅう国家を指向しちょるがじゃ」
 「勝海舟……」
 晋作はその名前くらい知っている。以前、井上聞多も会ったことがあり、彼から傑出した人物だとは聞いてはいたが、所詮幕府の役人など晋作にとって尊敬の対象にはならない。
 「わしゃ先生の構想を実現しとうて、亀山社中っちゅう商社を作った。この世襲制でがんじがらめの日本に、民主主義っちゅう世界の考え方を打ち立てたいんじゃ!これからは自由じゃけん!ビジネスじゃけん!武器を持って天下を争う世の中は終わり、今後の日本は商業で世界に対抗できる力をつけにゃいかんがぜよ!わしのようなちいっぽけな人間でも、大統領になれるっちゅう新しい日本を創りたいんじゃ!」
 「ほう……、確かに聞こえはよいなあ。坂本君は商人になり、大統領になりたいのか?」
 晋作は龍馬の話を興味深げに聞きながら、にやりと笑った。
 「それは方便じゃ。わしゃ新しい日本を創りたいだけぜよ!」
 龍馬の言葉に嘘は見えない。しかし世界を知らない者が聞いたら、龍馬の言葉は妄想以外のなにものでもない。ところが晋作には言いたいことがよく理解できた。というのは、松陰は一君万民を究極の理想としたが、頂点に天皇を立てること以外においては、龍馬の目指す民主主義もさほど違いはないと思えたからだ。
 「大同小異だが、大枠ではボクと同じ考えのようだ。しかし幕府はどうする?現実的には幕府が存在していたのでは実現は不可能じゃと思うが」
 「だから薩長同盟が必要なのがじゃ!そのためにわしゃ動いちょる!」
 「なるほど、坂本君の考えは演繹的で、ボクの考えは帰納的といったところか……。しかし幕府は武力で我らを鎮圧しようとしている以上、我らは武力で対抗するしかなかろう。他に方法はあるか?ビジネスで幕府が倒せるか?」
 「それよ!それが問題ぜよ!できればわしゃ戦は避けたい。しかし、どうも今のこの日本では無理のような気がする」
 「ほうれ見よ。君の勝先生はなるほど立派なことを考えているようじゃが、道筋が不明瞭じゃ」
 晋作は龍馬が師と仰ぐ人物に対して、それ以上言葉にはしなかったが、勝のことを「所詮幕府の役人」と思っている。役人というのはお上の犬で、あてがわれる部署によって、また仕事の内容や立場によって、言うことも行うことも一八〇度変わることを知っている。脱藩浪士のように幕府を飛び出してでも己の主張を成し遂げようとするのであれば聞く耳も持ったかも知れないが、そうでない以上信用するには値しない。
 しかし龍馬は違う───
 と晋作は思った。勝の弟子を名乗りながら、自らは土佐を脱藩した身分も何もない一介の浪士であり、自らの理想を実現しようと必死に行動しているのだ。
 勝と龍馬との違いはなんだ───?
 晋作は龍馬の顔をじっと見つめた。
 誤解のないようにここで勝海舟に対して若干の補足をしておく。後に勝は西郷との会談で江戸城の無血開城という歴史的偉業をやってのけた。これは勝が幕臣だったからこそできた大仕事で、ここで晋作が思ったように、仮に彼が幕府を飛び出していたら、長州における四境戦争後も戦に戦を重ね、どうにも収集がつかない事態になっていたかも知れない。そして国力を失った日本は、やがて諸外国の植民地になっていたかも知れない。勝は幕府古臣の家に生まれたから、幕府や将軍を裏切ることなど最初からできない運命だったのだろうが、革命に燃える若き晋作は、適材適所で役人を配置することは知っていても、役人には役人にしかできない天命があるということをまだ知らなかった───。
 ともあれ勝と龍馬の決定的な違いを探ったとき、晋作は龍馬の中に“志”の一字を見つけ出した。
 この男、志で動いちょる───
 そう思った瞬間、晋作の心にまるで旧友に出会ったときの懐かしさと歓びが、果てしない親しみとなってむくむくと湧いてきた。
 「坂本君、以前江戸で会った時には、ボクは君に今ほどの志は感じなかった。いったい、いつからそのような行動する情熱を身につけられたか?やはり勝先生の影響なのかい?」
 龍馬は「なぜそんな事を聞くか?」といった表情で晋作を見つめると、「いいや」と首を横に振り、やがて懐かしそうに、
 「久坂さんじゃき」
 と答えた。晋作は「はっ!」と目が覚める思いがした。
 龍馬はもともと土佐藩の下級武士の次男として生まれ、寝小便が治らず泣き虫で、漢学塾でもいじめられっ子という、なにかいまひとつぱっとしない幼少期を送った。剣術修行のため初めて江戸へ出たのが嘉永六年(一八五三)のことで、この年浦賀沖に黒船が来航する。北辰一刀流に入門して剣術に励む一方、佐久間象山の私塾に入門したが、実際象山に師事したのはごく短期間で、その後いったん土佐へ帰国し、二度目の剣術修行を申請して再び江戸に出たのが安政二年(一八五五)のことだった。このときの寄宿場所だった築地の土佐藩邸中屋敷には、間もなく土佐勤皇党を結成する武市半平太もおり、龍馬が土佐へ帰国した安政五年(一八五八)には、安政の大獄〜桜田門外の変(安政七年)と、時代が大きく動き出していた。そのころ立ち起こった尊皇攘夷運動は、たちまちのうちに若い志士たちの使命感に似た熱を呼び覚まして世の中を席巻し、その波に乗って土佐藩でも、公武合体の藩論を尊皇攘夷に導こうとする土佐勤皇党が、文久元年(一八六一)八月に産声をあげたのだった。当然、龍馬も武市半平太に誘われ、その若き志士集団の中に名前を連ねることになるが、当初龍馬はその取り組みに非常に消極的だった。というのも政治を論ずるにはまだ知識が乏しく、尊皇攘夷と騒いだところで世の中など変わるものではないと、半分茅の外の悪あがきのように思っていたからである。そんなことより下級武士の龍馬にとっては剣術の腕を磨き、藩内で出世を遂げることの方が現実的で、黒船来航による時代の変化を薄々感じていたとはいえ、自分がそのうねりの中で雄飛することなど考えてもいなかった。
 武市半平太にとってはそんな龍馬が大きな不満だった。なんとかその目を開かせようと、諸藩の動向を肌で感じてもらうため、土佐勤王党の同志を四国や中国、九州などへ動静調査のための派遣を思いつく。その一人に選んだ龍馬に、
 「この手紙を長州の久坂玄瑞に届けてほしい」
 と、文久元年(一八六一)十月、彼を丸亀藩への剣術修行の名目で萩に向かわせる。
 龍馬は丸亀から大坂を経由して、やがて長州は萩に向かう。そして文久二年(一八六二)正月十四日、半平太から預かった書簡を、江戸から一時帰藩した久坂玄瑞に渡すのである。このとき龍馬二十八歳、玄瑞は二十三歳だった。玄瑞の当時の日記『江月斎日乗』にはこうある。

 十四日 翳、土州坂本龍馬携武市書翰来訪、托松洞、夜前街の逆旅に宿せしむ
 十五日 晴、龍馬来話、午後文武修行館へ遣はす、(後略)
 十七日 晴、訪土人薩人
 二十一日 晴、土人の寓する修行館を訪、中谷と同行
 二十三日 晴、是日を以土州人去、午後訪薩人

 十四、十五日の日記には「龍馬」と書いていたものが、十七、二十一、二十三日の日記には「土人」あるいは「土州人」となっている。明らかに龍馬を軽視するような何かがあったと思われるが、おそらく半平太の手紙には、「坂本龍馬を一級の尊皇攘夷思想家にしてほしい」などの依頼が書いてあり、それを受けて久坂玄瑞は龍馬を文武修行館へ宿泊させたとも取れる。『文武修行館』とは他国修行者用の無料宿泊施設であり、すぐ近くには藩校明倫館がある。宿泊者はここで学問を講じたり、武道の試合などを行うわけだが、龍馬も例外にもれず、ここで藁束を斬ったり、少年剣士と試合をしたらしい。北辰一刀流の達人として長州藩は龍馬を受け入れたものだろうが、ここで立ち合いをした龍馬は、こともあろうに萩の少年剣士に敗れてしまうのだ。
 「いやはや!参った、参った!降参じゃ!わしゃ、まだまだ修行が足りんがぜよ!」
 と苦笑いをした龍馬だが、北辰一刀流免許皆伝ほどの腕の男が、地方の田舎少年に負けるわけがない。そう、龍馬には端からやる気がなかったのだ。
 玄瑞はそんな龍馬に尊皇攘夷の意義や必要性を懇々と説き、
 「尊攘貫徹の大義に殉ずるなら、藩候の命を待たずに挙兵上洛し、それで藩国が滅亡したとしても悲しむことはない」
 と一途な情熱をぶつけてみた。君主絶対の当時にあっては、その常識を根底から覆す問題発言であろう。ところが、龍馬はそれに対してもただへらへらと笑うだけ。ついに玄瑞は、
 「君には大和男児の心意気がないのか?」
 と言ったきり、「これは使い物にならん」と、その後は龍馬を軽くあしらって、間もなく武市半平太宛に手紙を持たせて帰らせた。それが龍馬と玄瑞が初めて会った際の真相であろう。
 龍馬にしてみれば五歳も年下の若僧にそんな事を言われて、けっして愉快な気持ちにはなれなかったが、玄瑞がそこまで情熱を燃やしている尊皇攘夷の正体がさっぱり理解できずに、土佐へ帰る道すがら、とても気になる玄瑞から預かった半平太宛の手紙をこっそり読んでみた。
 「竟に諸侯(諸大名)恃むに足らず。公卿もまた恃むに足らず。在野の草莽を糾合し、義挙の外には迚も策これ無き事と、私共同志みな申し含みおり候事にござ候」
 文面の中の“草莽”という言葉が目に飛び込んだとき、俄に龍馬はわなわなと打ち震えた。さらに手紙はこう続く。
 「失敬ながら尊藩(土佐藩)も幣藩(長州藩)も、滅亡しても大義なれば苦しからず」
 つまり欧米の列強諸国が日本という国を侵略しようとしている時に、藩などどうでもよいことではないかと半平太を煽っているのである。この瞬間、龍馬の身体に電撃が走った。当時の龍馬には、藩を越えて何かを成すという発想など皆無だったのだ。
 「久坂さんは日本っちゅう国のため、そして『草莽(民衆)』が基盤をなす社会実現のために戦っておるがじゃ……!」
 それに気づいたとき、龍馬は愕然と肩を落とした。
 それに比べてわしはどうか───?これといった志も持たず、ただ平々凡々と剣の腕を磨いて、立身出世を願うだけのつまらぬ虫けら同然じゃ……!
 その衝撃は、間もなく彼を脱藩せしめる。これは龍馬の心境の変化を物語る重要な出来事であるが、当時脱藩といえば捕まれば死罪、まさに命を賭けた行動である。おそらくそれは、
 己は何のために生きているのか───?
 という人生究極の問いに突き動かされた、その答えを探求するための旅だった。これこそ龍馬の心に志の炎が点った瞬間だったに相違ない。
 土佐を去った龍馬は、その後長州下関の白石正一郎を訪ねたりするが、その他の詳しい行動は分かっていない。しかしその間、京都では四月に寺田屋事件が起こり、八月には生麦事件が起こりと、薩摩藩内の尊攘派が世の中を大きく騒がした。
 「薩摩に遅れてはならじ!」
 と、長州藩内の尊攘派、つまり玄瑞や晋作らが中心の後の御楯組が外国公使暗殺を企て、その同盟を求めに武市半平太を訪ねたのが文久二年十一月十二日のことだった。このときは龍馬も江戸におり、それが晋作と会った最初ということになる。ところがその計画は無謀であると判断した武市半平太は、土佐藩主の山内容堂を介して長州藩の世子毛利定広に伝え、結果的にその計画は中止させられた。藩の命令とはいえ納得いかない御楯組は、十二月十二日、建設中の英国公使館を秘密裏のうちに焼き払う。
 龍馬が尊皇攘夷というものに燃え上がったのはまさにこの時だった。
 玄瑞の考えるところの尊皇攘夷とは、日本をひとつにするための手段であり、目的ではない。幕府体勢の日本の体質を変革するためには、新しい思想、つまり尊皇攘夷思想を日本国内で沸騰させる必要があった。そのための外国公使暗殺計画であり、英国公使館焼き討ちだった。龍馬はそれを薄々感じていた。ところが脱藩したものの、“尊皇攘夷”が日本を変えるとはどうしても思えなかった。そんな龍馬に玄瑞は厳然と言い放った。
 「坂本君はまだこんな所でくすぶっているのか?成すべき事が分からない時は、目前のことに不惜身命で打ち込んでみることだ。さすればおのずと道は見えてくるものじゃ」
 そう言い残して去っていった。その玄瑞がまぶしかった。ところが、結局世子定広に外国公使暗殺計画を遮られたのを見て一度はがっかりした龍馬だったが、そのおよそ一ヶ月後、彼らが英国公使館を焼き払うという無謀な攘夷表明をやってのけた事を知る。
 「あやつら、まっこと命を捨てちょる……」
 と、その『狂』に心の底から震撼したのだった。
 「久坂さんの言ったとおり、このままじゃにわしゃ本当に時代に取り残されてしまうのう……。とりあえず、尊皇攘夷っちゅうもんになってみるがぜよ!どうもそうせんと、わしの将来が見えんようじゃ……」
 と、そのときたまたま話に出ていた幕府官僚の勝海舟襲撃計画に乗り出したというわけである。その後の顛末は前述した通りだ。
 その後玄瑞は、尊攘派を巧みに操り、藩や朝廷を動かして日本をまとめていくことを指向した。なるほど考えてみれば、禁門の変以前の京で、水面下で天皇の権力を見事に利用し工作し、幕府権威の失墜に大きな成功をおさめた玄瑞と、いまようやく定めた志を果たそうと、倒幕に乗り出しその最初の布石になるであろう薩長同盟実現のため、人知れず動き回っている龍馬とは、心なしかどこか似ているようにも見える。龍馬は木戸を前にして平伏し、
 「木戸さん!上京して西郷さんに会うてくれんかの?でないと、わしゃ死んでも浮かばれんがのう!」
 と叫んでいる。その体当たりでぶつかる龍馬を見ながら、晋作は嬉しそうに微笑んだ。
 「久坂め、こんなところに忘れ形見を残しておいてくれたか……!」
 晋作は玄瑞の才を改めて賛嘆しながら、「久坂が生きておったら、龍馬と同じことをしていたかも知れんな……」と呟いた。