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3.奇僧東行
幕末小説 『梅と菖蒲』
 藩に許しを乞うより先に剃髪して頭を丸めた晋作だったが、周布政之助との面会は意外にも向こうの方からの呼び出しによって実現した。加茂行幸から四日後のことである。
 周布政之助は晋作の坊主頭を見て目を丸くした。
 「なんじゃ? その頭は……。入道にでもなるか?」
 「お察しの通りでございます。拙者、今日よりは東行と名乗り修行いたしたく、暫しの間、お暇を頂戴したく存じます」
 そういって晋作は切り落とした自分の切髪を周布に上納した。『東行』とは平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて文人として活躍した西行法師の名をもじったもので、その根底には東の江戸へ行って幕府を倒すという堅い意志が込められている。
 「ちと待て。何の前ぶれもなく突然暇乞いか? もう少し分かるように説明してみよ」
 「なれば……」
 晋作は以前からの持論である『防長割拠論』を説いた。防長割拠論とは、防州と長州の二州を幕府から割拠させ、富国強兵を睨みながら長州藩の結束を更なる強固なものにしようとする考え方である。いわゆる長州独立国家の建設である。それを上役の周布の前で懇々と話し出した。その論説は桂小五郎から聞いて周布も知っている。最後まで聞かないうちに、
 「お前の言う通りかもしれんが、そりゃあまりに急激だ。今から十年もすればそういう時機もこようがのう。それより今は少しでも幕府の力を弱めることが大切なんじゃ。だからそれまでお前は学習院御用の仕事でもやっておれ」
 晋作はむくれ、
 「そのような事を言われるのではないかと思っておりました。晋作、そんなつまらぬ職はいりませぬ。だからこうして頭を丸めたのでございます。十年後にそういう時機がくるとおっしゃるのであれば、十年間のお暇をいただきたく存じます。図らずながら松陰先生も脱藩の罪により獄に入り、その罪が許された折り、将来の毛利公のお役に立つため十年間の他国修行を願い入れました。不肖の弟子ではございますが、私もそれに習いたい」
 言い出したら聞かない晋作の性格は政之助もよく知っていた。「やれやれ……」と困った顔を作りながら、
 「実はな、今日呼び出したのは……」
 と話し出した。
 話の趣意は簡単だった。先日の加茂行幸の折り、なぜあのような大衆の中で将軍を冷やかすような奇声をあげたのかということだった。世子様が毛利家のことを心配されてひどくご立腹である。しばらく萩に帰っておれと言うのである。
 「これはしたり。江戸には心配で置けず、京へ呼んでおいてはまたお払い箱か。ボクもとんだ邪魔者ですな。こうして頭を丸めたのです。萩には帰りません」
 政之助は広い額をポンと叩いた。
 「ならばなぜあのような野次をとばした。あの行幸を成功させた時点で、幕府は天子の家臣であることは満天下に示せたはずだ。野次の心を申してみよ」
 「なれば───」
 晋作はつるつるの坊主頭を光らせながら、その本意を淡々と述べた。一見吹いてしまうような情景ではあるが、当の本人は大真面目なのである。
 「あの行幸で確かに君臣の分はただされました。だが、それだけでよいのかという諸藩、公卿たちに対する皮肉でございます。松陰先生は黒船がやってきたとき、『これで日本武士もふんどしを締め直すだろう。非常に喜ばしいことだ』と言われました。ところがあれから十年も経ち、先生を小塚っ原から世に引っぱり出してきたというのに、我が藩はふんどしを締め直すどころか、先生が武蔵野に埋めてきた大和魂はいっこうに芽を出さない。これでは公武合わせて列強諸国の餌食だ。ざまあねえ、バカヤロウ! という意味です」
 晋作は以前留学で上海に渡り、植民地化されつつある中国の原地人の悲惨な状況をその目で見てきた。上海港には幾千にもおよぶヨーロッパの商船や軍艦が碇泊し、陸上には城のような商館が建ち並ぶ景色の中で、自分の領土であるはずの支那人が、勝手気ままに振る舞う外国人に奴隷のように酷使されていた。
 『実に上海の地は支那に属すと雖も、英仏の属地と謂ふもまた可なり』
 と、日本もその二の舞になることを何より恐れている。
 「お前はふたこと目には松陰先生だ。わしとて松陰やお前の心が分からぬほどまだ耄碌しておらんわ。だがな、物事を進めるには何事も順序というものがある。急いては事をし損じるのじゃ」
 「いくらお話ししても無駄のようです。ボクは今日より東行になる。それに京ではまだすることがございますので萩にはまだ帰りません。世子様にもそうお伝えいただき、これより十年間のお暇をいただきます」
 晋作はそう言うとスクッと立ち上がり、背を向けて歩き出した。上役の命令を聞かないなど、それなりの覚悟がなければできないことである。その点長州藩は他藩に比べて藩士に対してあまい面を持っていた。それがあの幕末という混乱期を縦横無尽に対応していく力になったとも考えられるが、特に政之助にあっては、若手攘夷派の藩士達には将来の藩の行く末を深く案じた上で絶大な期待を寄せていた。政之助はもう晋作の賜暇願いを世子定広に伝達する以外になかった。
 「おい、玄瑞から聞いたと思うが、例の石清水の件はおとなしくしちょれよ!」
 政之助は晋作の背中に向かってそう言った。晋作はそのまま立ち去った。その翌日、晋作の切髪を手にした世子は、ひどく嘆息したと言う。

 さてその日から、久坂に語ったところの松陰の死に対する晋作流の喪中の儀式が始まった。
 墨染めの衣を着て、頭には大きな坊主笠をかぶり、首には頭陀袋をかけていて、腰には六、七寸の短刀を吊るした奇妙な格好で、連日、酒におぼれて何人もの芸妓をはべらせ、洛中狭しと市街を横行しはじめたのだ。その振る舞いは傍若無人の極みで、狂人のごとくあったと言う。
 土佐勤王党の田中光顕がちょうどこの頃晋作と出会い、その遊興振りを目撃している。
 場所は東山のある料亭───。
 晋作は首に頭陀袋をかけていた。そこに芸妓がよってたかって頭陀袋を物珍しそうに、その出家して間もない奇僧をからかいはじめたと言う。
 「お坊さん、これはなんどすえ?」
 「これか? これは死人の所持品だ」
 と、頭陀袋から中の物を取り出そうとした。
 「ひゃあ! やめてくださいまし。気色わるいわあ!」
 芸妓はキャッキャと声をあげながら飛び退いたが、晋作はかまわず取り出すと、それは普通の物よりひとまわり小さな折りたたみ式の三味線だった。生前、松陰から貰った物である。今となってはそれがたった一つの形見となった。晋作は酔いで上半身をグルグル回しながら、おぼろげな手つきで組み立てた。そして“ビャン”と弦を弾いたかと思うと、

 三千世界の烏を殺しぬしと朝寝がしてみたい

 と謡いだした。その腕前に再び芸妓がキャッキャと湧いた。すると晋作は坊主頭をペコンと叩いて、さも陽気な声で再び謡い出す。

 坊主頭をたたいてみれば安い西瓜の音がする

 その滑稽な言い回しと三味の調子に、もう周囲の芸妓達は笑いころげて大騒ぎだったと。
 そんな光顕が晋作に「志士とはどのように生きるべきか?」と質問したことがある。すると晋作はこう答えた。
 「一つに、人は死ぬときは死ぬし、生きるときは生きるもんじゃ。今は学問をすべき時ではないかのう? 二つに、英雄とは平時は地にもぐっておるもんじゃ。いざとなったら竜になればよい。どうじゃ? そして三つに……」
 光顕は目を凝らした。
 「何とかなるもんじゃ」
 そんな飄逸な態度を田中光顕は生涯忘れることができなかったらしい。

 学問どころか遊び呆けていたこの期間、晋作に貸し渡された住処は当時寺町にあった妙満寺敷地内のひと部屋だった。外へ遊びに出ない時などは、そこに仲良くなった小梨花という名の芸妓を連れ込んでは、三味線を片手に都々逸を歌って時を過ごした。そしてときには周旋に駆け回る諸藩の志士達が立ち寄って、そこは密談をかわすに恰好な場所にもなっていた。剃髪したとはいえ、京都全体に漂う緊迫した空気と激しい志士たちの意気に触れ、晋作の革命の血が騒がないはずがない。
 あるとき入江九一がそこを訪れ、晋作は酔った勢いで血盟書を制作しはじめた。家茂が江戸に戻ろうとする噂を聞いて、それを阻止するため将軍が滞在している鷹司邸へ押し入って、あわよくば将軍の首をいただこうと言うのである。周布に呼び出しをくらってまだ一週間も経っていない頃だ。
 入江九一は吉田稔麿と並んで松下村塾の四天王に数えられた一人である。松陰が幕府の無勅許による日米修好通商条約を締結して激怒し、老中暗殺計画を企んだ際も、晋作はじめ四天王のうち三人は猛反対したが、九一だけは賛成して計画に加わった。このとき松陰から、
 「久坂君たちは優秀だが度胸がない。しかし君だけは国のために死ねる男児である」
 と高く評価された、ある意味晋作よりも過激なテロリストである。
 九一は晋作からその計画を聞きにんまり微笑むと、難なく血判書に署名血判した。そうして十数名の同志が集まった。そして三月二十二日、作戦を決行して鷹司亭へ押し掛けるのだ。
 ところが当の晋作は、酒の臭いをぷんぷんさせながら、その出で立ちも剃髪以来の奇僧姿のままだった。最初は威勢よく門を破ったまでは良かったが、ものの数分もしないうちに幕府の役人達に取り押さえられてしまった。まさに茶番劇である。
 「バカモノ!」
 と、周布政之助は怒髪が天を突く勢いで叱責した。久坂もあきれて言葉も出なかった。
 「石清水行幸を控えたこの大事な時にことを荒立てやがって!いますぐ萩へ帰れ!」
 晋作は髪がわずかに生えたいが栗頭をあげて「お言葉ながら……」と言おうとしたが、
 「これは藩命じゃ!」
 と、政之助に世子直筆の命令書を突きつけられてしまった。
 ”藩命“と言われてしまえばもはやそれに従うほかない。晋作にとっても藩命は絶対だった。長州藩の上流武士の家に生まれた彼の身体には、生まれながらに長州藩士の血が流れている。武士としての誇りも高かったし、逆に言えば晋作ほど長州狂いの志士もない。生涯他藩の志士達との交わりもあまりせず、一筋に長州藩のために戦ったのである。それは父小忠太からの授かり物であり、戦国から引き継がれている毛利家への忠信の血であった。松陰からは「鼻輪も通さぬ放れ牛」と称されつつも、その毛利家への忠誠心はダイヤモンドの如く純粋であるのだ。
 晋作は奥歯をかみしめて、
 「分かり申した」
 と答えた。

 われ去ればひとも去るかと思ひしに人々ぞなき人の世の中

 かくして京の桜を見ないうちに、晋作は生まれ故郷の萩に向かうことになる。

 さて天皇の石清水行幸である。
 その計画は四月十一に実行された。ところがそれより数日前、京都を脱走した過激派公卿中山忠光が長州浪人と結託して行幸途中の天皇の駕籠を奪い、将軍を殺害するという噂が広まった。長州側でも予想はしていたが、明らかに幕府側の画策である。当時後見職にあった一橋慶喜は、それを理由に行幸中止を朝廷に申し入れたが、長州藩の反対によって押し切られたという経緯がある。果たして当日、絶体絶命の窮地に追い込まれた幕府だったが、苦し紛れにとった行動は一橋慶喜による”仮病作戦“だった。
 「将軍家茂公は風邪をひいてしまわれた。申し訳ないが供奉を辞退いたします」
 と前日になって言うのである。そしてその代理人として行幸に参列した慶喜だったが、攘夷祈願をすませた天皇が攘夷の節刀を授けさせようと慶喜を社前に来るよう命じるのだが、山下の寺院に控えていた慶喜は、これまた「腹が痛い」と仮病を使って応じなかった。
 怒ったのは長州藩士達である。将軍に更なる攘夷実行の圧力をかけるべく、ますます世論を高めるあの手この手の画策を放った。一方幕府側には一刻も早く江戸へ戻らなければならない事情があった。昨年薩摩が起こした生麦事件の賠償問題で、返答の内容によってはイギリスが攻撃を仕掛けてくるというのである。かといって攘夷決行問題をうやむやにして帰れば勅命に背くことになるし、それより京の町にはそんな将軍の命を狙おうとする過激攘夷派の浪人の輩が都狭しとうようよしているのだ。
 遂に苦渋の選択を強いられた幕府は、将軍退京の勅許を条件に、攘夷期限五月十日という約束を諸大名に通達したのである。
 五月十日───。
 四月二十日、その報を耳にした久坂玄瑞は、喜び勇んで直ちに馬関へと走った。こうして馬関戦争(下関戦争)の火蓋が切って落とされることになる。物語の舞台は長州へと移る。