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27.ひとり
幕末小説 『梅と菖蒲』
 晋作が下関に到着したのは二十五日のことである。町人姿のままの彼は、舟を降りると人目をはばかってそのまま白石正一郎宅に潜伏した。
 「高杉様、よくお戻りになられました」
 正一郎は安堵の色を浮かべ、晋作を奥の座敷に通した。
 「お卯乃を呼んでくれ」
 「はい」と、さっそく使用人に卯乃を呼びに走らせると、正一郎は知りうる限りの長州藩の情況を話し出した。
 「藩政府の解散命令を蹴って、奇兵隊以下の諸隊はいま長府藩主毛利元周様を頼って長府におります。彼らは三条実美様ら五人の公卿を奉じ、功山寺に潜居させてございます」
 「そうか!五卿を匿ったか」
 「どうなさるおつもりで……?」
 晋作は両目に不気味な色をたたえると、
 「このまま朽ち果てるより、俗論党と刺し違えて死んだ方がよかろう」
 と言った。
 「奇兵隊を説得するのですな……」
 晋作は何も言わなかった。筑前に行く前、徳地に駐屯していた奇兵隊宿所を尋ね、そこでの軍監山県狂介の態度を思い出していたのだ。
 「いま総督は誰が務めておる?」
 「まだ赤根武人様でございましょう。いっとき姿が見えませんでしたが、正義派幹部の切腹の報を聞き、出てきたそうです。長府の覚苑寺に入ってからは隊と一緒にいるはず。もっとも今は総督とは言わず総管と言っているようですがね」
 「総管ね……」
 総管という呼び名は他の諸隊より格が上であるとの見栄であり、三代総督に就任した赤根が言い出したものである。晋作は鼻で笑った。
 「奇兵隊以外の諸隊で解散命令を受け入れなかったのはどこか?」
 「はあ、遊撃隊、御楯隊、南園隊、膺懲隊、集義隊といったところでしょうか。いずれも長府城下周辺に屯所しているようです」
 「せいぜい一、〇〇〇といったところか……。俗論党にはとうてい及ばぬな……」
 「高杉様……」
 正一郎は神妙な顔付きだった。
 「やはり蜂起などというお考えはおやめください。いくら高杉様といえども、今度ばかりは命を捨てに行くようなもの。私は反対です……」
 そんな話をしているうちにやがて卯乃が姿を現した。
 「旦那さま!おかえりやす!」
 卯乃は晋作の脇に駆け寄って座ると、悪気もなく「お土産は?」と言った。
 「こりゃすまん、うっかりしておった」
 晋作は卯乃の頭を抱き寄せた。
 「嘘や。わては旦那はんがご無事でお帰りになれば何もいりまへん……」
 「では、ごゆるりとしてくだされ。ただいま酒肴を用意させます」
 正一郎は気を使って席をはずして出ていった。

 さてその二日後、晋作は奇兵隊が宿営している長府の覚苑寺に向かった。時を逃せばもはや逆転のチャンスは永久になくなると読んでいる。奇兵隊以下、藩政府に抵抗している勢力を結集する以外に方法などない。彼自身開闢総督である奇兵隊を決起させれば、あとは全ての流れを変えていけると信じていた。鍵は奇兵隊にある───。出迎えた山県狂介は、晋作を屯所の座敷に通すと、五卿を三田尻の招賢閣から長府の功山寺に移したことを、まるで鬼の首を取ったかのような話しぶりで威勢良く語った。晋作は「ようやったな」と一応は誉めたが、「ただちに決起して俗論派政府を討とう!」と言った瞬間、山県の表情は俄に曇った。
 「なぜ拒む?この時を逃したら正義派に勝ち目はないのだぞ!」
 「いま赤根さんが諸隊解散命令を撤回させるため、懸命に藩政府と交渉している最中なのです」
 晋作は頭をもたげた。俗論党と和解したところで幕府恭順という方針の何が変わるというのか。五卿を匿ったのも人質としてであり、結局は自分達の保身のためにやった事であることが見え見えではないか。そう思った途端、
 「お前らはバカか!」
 と、いつもの晋作なら怒鳴るところであったが、ここは望東尼の観音経を思い出した。
 「赤根はどこにおる?」
 「赤根さんは今、萩に行って交渉を進めちょります」
 その悠長な言葉に、「君らは勤皇の志をどこに置いてきたか!」と、再び怒鳴ろうとした晋作は、怒りをぐっとこらえ、
 「至急、諸藩の総督達を召集してほしい」
 と穏やかな口調で言った。
 「俗論党討伐を説くのでございますか?」
 「無論!」
 山県は「ちょっと待ってください」と言わんばかりに、
 「しかし彼らも皆、藩政府の出方を待っているところで、仮に賛同を得たとしても……」
 「君には聞いちょらん!」
 堪忍袋の緒が切れて、ついに晋作がそう怒鳴ったところへ、ちょうど萩から戻った赤根武人がひょっこり姿を現した。
 「高杉さん……、九州に行ったと聞きましたが、いつ戻られました?」
 赤根はそう言いながら山県の隣りに胡座をかいて座った。山県は交渉の事が気がかりな様子で、
 「赤根さん、萩の方はどうでした?」
 と小声で聞いた。赤根は「まだ結論は出ん」と首を横に振った。
 「赤根!お前はいったい何を考えちょる!俗論党に迎合して奇兵隊をどうするつもりじゃ!」
 いきなり晋作が怒鳴った。赤根は晋作を睨んだ。
 「それはどういう意味か?私は奇兵隊を存続させるために尽力しておるのじゃ」
 「俗論党政権の元で奇兵隊を存続させて何になる!松陰先生の草莽崛起の結党精神を忘れたか!奇兵隊はもともと外国と交戦するために、そして幕府体制に対抗するために作った部隊、あのとき赤根もいただろう!俗論党に和平交渉など本末転倒じゃ!」
 「わずか二〇〇そこらの奇兵隊の兵力で、いったい何ができますか!今解散させられたらもともこもないのです。私とて苦渋の選択を迫られている。分かってください……」
 赤根は晋作より一つ年上である。もともとは僧月性の清狂草堂に学び、その後、安政三年春に松下村塾の門を叩くが滞在期間はわずか二ヶ月あまり、その後長州を訪れていた梅田雲浜と会い、師事して上京してから雲浜の望南塾で学んでいる。松陰同様、梅田雲浜も安政の大獄で幕府に捕縛されるが、その際、雲浜の証拠となる書簡をすべて焼き払ったという行為を見ると、赤根は松陰門下というよりも雲浜門下と言うべきであり、その後、英国公使館焼き打ち等で晋作や久坂玄瑞ら松下村塾門下生らと尊王運動に奔走したり、奇兵隊結成にも関わっていたとはいえ、晋作ほど松陰に対する思いは強くない。田舎の医者の家に生まれたせいか、どちらかというと武士というより事務的な計算能力に優れ、晋作のような野性的行動など理解しようにもできない資質の持ち主なのだ。
 「奇兵隊が決起すれば他の諸隊はなびく。いまが最期の機会なのじゃ!」
 晋作は必至に赤根を説いたが、その言葉を取り合おうともしない赤根は、
 「諸隊を集めたところで兵力は千にも満たないでしょう。対して俗論党はざっと見積もっても優に二千以上になろう。どうやって戦うのじゃ?現実を見るならば今は自重し、兵力を蓄えねばならん。高杉さんにもそのくらいのことは分かるはずじゃ!」
 と反駁した。彼の言い分は、幕府征長軍から藩を守るためには俗論派と正義派との内戦を回避することが不可欠だという発想から出ていた。彼には彼なりの勝算を練っている。晋作の言う藩内クーデターなど起こされれば、奇兵隊の存続どころか長州藩の存続すら危ぶまれるのだ。
 そんな赤根の考えを真っ向から否定して晋作は吠えた。
 「なぜ分からん!俗論党は幕府に無条件に恭順と言っておるのじゃ!仮に貴様の思惑が成功したとして、奇兵隊が残ったとしよう。しかしそれはもはや奇兵隊ではなく幕府の飼い犬じゃ。尊皇は失われ、もとの木阿弥、徳川幕府政権の復活じゃ!ボクらはそんなもののために戦ってきたのではない!」
 「ですから、今は時期尚早なのです!時を待ちましょう」
 「時は今じゃ!ええい!こんな腰抜けと話をしても埒があかん!山県!」
 「は、はい」
 「諸藩の総督達を集めろ!」
 山県は赤根の表情を伺った。
 「高杉さんは言い出したら聞かない。ここは思うようにさせてやりましょう」
 赤根の言葉を受けて山県はようやく重い腰をあげた。
 その晩晋作は奇兵隊宿舎に泊まり、果たして翌日、諸隊の幹部達が奇兵隊陣所に集められた。そして晋作は彼らの前に立ち、「今こそ決起するのじゃ!」と柄にない大演説をぶった。
 「確かに数の上ではボクらが不利だ。しかし、諸隊が決起したと聞けば、俗論党に解散の苦汁を舐めさせられた者達も必ず立つ!勝機はある!」
 ところが集まった者達はみな赤根と同じ慎重論に立ち、口々に「無理じゃろう」とか「時期尚早だ」と言いながら顔を見合わせるだけ。晋作は業を煮やした。
 「君たちはこの赤根武人に騙されているのだ!そもそも赤根は村医者の平民出で、とても国家の大事や藩主父子の危急を知る者ではない!しかしボクは毛利家三百年来の家臣じゃ!君らも長州藩の兵ならば、赤根ごとき土百姓に従うのではなく、このボクに命を預けてほしい!」
 必至に訴えた晋作の長州藩士の誇りがこの時ばかりは裏目に出た。集まった諸隊の幹部達は、そのほとんどが平民だったのだ。結局、赤根を出汁に平民を卑下したと受け取られ、その演説は顰蹙を買うだけの大失敗に終わってしまうのである。
 『観世音とは聞き上手の異名なのです。高杉様が観世音になってください───』
 そう諭した望東尼の言葉が、今さらのように脳裏に浮かんだが後の祭りである。
 「望東殿、ボクには無理じゃ……」そう心で呟きながら、晋作は愕然と肩を落とした。
 「分かった……。君たちが立たぬなら、ボクはひとりで萩に乗り込むまでだ……。もう会うこともないだろう……」
 晋作は用のなくなった奇兵隊宿所を出て、ひとりとぼとぼと馬関に向かって歩き出した。その後姿を見送りながら、赤根は小さくほくそ笑んでいた。

 ひとり───
 まさに独りだった。松陰が死に、幕府への復讐を誓ってより、師の言う尊皇を立てて同志と共に様々な事を画策し、藩のために戦い、尽くし、守り抜き……、ふと周りを見渡せば、国は俗論党に支配され、周囲は幕府に包囲され、あげくは自らの手で作った諸隊にも見放され、気付けば天涯孤独のはぐれ獅子だった。道すがら晋作は、周防灘の海に向かって立ち尽くした。しかし久坂の名前を叫んでも、風は虚しく応えるだけで、松陰の面影を思い起こしてみても、どんよりとした空はぼんやりとした師の輪郭を映すだけだった。
 それでもまだ頼れる者はないものかと、ふと、
 「聞太はどうか?俊輔はどうか?」
 と思ってみても、井上聞太は傷が癒えていたとはいえ本調子というにはほど遠く、聞くところによれば、萩へ護送されて斬刑に処されるところを、いまだ病身の身の上、しばらく処分が猶予されていると言う。今は湯田の自邸で幽閉の身となり、日夜監視されて動きもとれない。一方伊藤俊輔は、四カ国との止戦講和を終えて間もなく、修交特使であった井原主計に従って、イギリス軍艦に便乗して横浜に行ったままだったから、おそらく正義派がこのような窮地に追い込まれていることも詳しくは知らないでいることだろう。
 「まったく呑気な奴よ……」
 正真正銘のまったくの孤独を改めて確認すると、晋作はやりどころのない憤りで路傍の石を蹴った。無駄死にと知っていながらここが自分の死に場所と諦めて、ひとり萩城に殴り込みをかけようか───。そう思いながら、筑前に一緒に渡った大庭伝七の邸宅に向かった。
 白石正一郎の末弟である伝七はもともと長府藩士である。福岡の石蔵屋での密談の後、料亭でドンチャン騒ぎをしてから別れたままだった。一応、帰国の挨拶かたがた、長府の情勢を聞こうと思ったのである。伝七は「これはこれは、その節はありがとうございました」と、気さくに晋作を邸内に迎え入れた。
 「三条実美様ら五卿がいま長府の功山寺に移されております」
 「知っちょる」
 「幕府は五卿を藩外に移すよう要求しております」
 「知っちょる」
 「九州から帰って来たばかりというのに、さすがお耳が早い」
 と、伝七は苦笑した。
 「一応奇兵隊以下諸隊は、五卿の警護という形でいま長府におりますが、藩政府は諸隊を解散させようと躍起になっています。解散が先か、五卿移送が先か、いずれにせよ時間の問題です。薩摩の西郷さんあたりは、諸隊の説得にしきりに動いているようですがね」
 「ちっ、西郷め……」
 長居をするつもりのない晋作は、間もなく伝七の家を出た。そして長府城近くを通りかかったとき、
 「高杉!」
 と声をかける者があった。振り向けばそこに牛面の一人の男が立っている。中岡慎太郎である。
 「なんじゃ、中岡か……」
 「“なんじゃ”はなかろう。聞いたぞ、本当にたった独りで萩に行くつもりか?」
 「お主もそうとう耳が早いの。仕方がない……。ボクと共に決起しようと言う者が一人もおらんのじゃ。諸隊も腰抜けばかりじゃ。それとも中岡、お前だけでもボクと一緒に行くか?」
 「おっと、犬死は御免じゃけ。勝ち目のない無意味な戦はしとうない」
 晋作は鼻で笑った。と同時に、西郷吉之助に彼を紹介したことを思い出した。
 「おお、そういえば福岡で西郷と会ったぞ」
 「なに……?西郷とはあの薩摩の西郷か……?」
 「そうじゃ。福岡藩の者がしきりに会え々々と勧めて、ついに断りきれんかった」
 「で、何を話したのじゃ?」
 「何も話さんさ。薩賊を前にしてあんまり腹が立ったから、一発、屁を喰らわせてやったわ」
 慎太郎は「高杉らしいの」と笑った。
 「それだけか?そんなはずはなかろう。それからどうした?」
 「西郷の野郎、ボクよりでっかい屁を返してきやがった」
 慎太郎は一瞬言葉を忘れて、やがて「そいつは傑作じゃ!」と、笑いはなかなか止まらない。
 「中岡……」
 晋作は神妙な顔付きで慎太郎を見つめた。
 「ボクは遅かれ早かれもうじき死ぬわ。しかしその後の長州藩主父子の事が心配じゃ。西郷の狸は幕府につきながら、どう長州を利用しようかと考えちょる。場合によっては長州と手を組んで倒幕を狙う腹づもりもあるやもしれん」
 「なんじゃと……?薩長が同盟を……?そりゃ面白い!高杉はどう思う?」
 「薩摩と手を組むくらいなら死んだ方がましじゃ。ボクは防長割拠あるのみだと考えちょる」
 そこまで話して晋作は言葉を止めた。仮に割拠したとしても、現実的には強大な幕府を相手に対抗し得る勢力にはならないことを知っている。松陰が死んだとき抱いた倒幕の夢を実現するには、福岡藩の月形が言うように、薩摩でなくとも他の藩と連合するしかない事くらいは、晋作でなくても思いつくのは容易なことだ。晋作は「しかし……」と言葉を次いだ。
 「もしボクが死んだら、その後の長州がとるべき道筋は君に委ねようと思う。実は西郷に君を紹介しておいた。福岡に月形洗蔵という者がおる。近いうちに声がかかるだろう。中岡……、そしたら君は、君の志のままに日本の将来をつくってゆくとよい……」
 「それは、長州と薩摩とを、手を組ませろということか?」
 晋作は慎太郎を見つめたまま何も言わなかった。
 「高杉……」
 「どうじゃ?一生を懸けても余りある大仕事じゃろ?」
 慎太郎も何も言わずに微笑んだ───。

 それから間もなく十二月に入って頭に、中岡慎太郎は下関の大坂屋で月形洗蔵と会うことになる。そして、同月四日には九州の小倉において、彼は西郷吉之助と初会見を果たした。歴史の中の維新回天の流れは、こうして長州正義派の存亡と、薩長両藩の行方にその運命を委ねたわけである。いずれも“無理”と言ってしまえばそれで終わりの、果てしなく無謀な挑戦に違いない。しかし“無謀”が歴史を大きく変えることもある。
 薩長同盟といっても、まずは長州正義派の起死回生がなければ話にもならない。長州あっての同盟なのだ。しかしこのとき長州藩をとりまく幕府軍の勢力を記せば、三十五の諸藩の連合軍の総勢はおよそ一五〇、〇〇〇だったと言われる。
 十五万───。
 そんな巨大な化け物を相手に、晋作は師吉田松陰から授かった大和魂を燃えたぎらせ、たったひとりで立ち向かおうとしているのであった。