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26.世音を観ぜ
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 晋作がこの平尾山荘に潜伏して十日あまりが経った十一月二十日のことである。
 中村円太が息を切らせてやって来た。
 「高杉さん、大変じゃ!俗論党がついに正義派の三家老を切腹させ、更に蛤御門の時の四人の参謀を斬首刑にしたぞ!」
 「なんじゃと!」
 三家老というのは福島越後、国司信濃、益田右衛門介のことで、四参謀というのは佐久間佐兵衛、宍戸佐馬之介、竹内正兵衛、中村九郎である。いずれそうなるだろうとは予想の範囲だったが、いざ現実のものとなった時、驚きとともに果てしない怒りが心の底から噴き上がった。円太は話を続けた。
 「それで三家老の首を広島に布陣する幕府に引き渡したそうじゃ。すると幕府は、今度は五卿を他藩に移転することを要求してきた。要求を飲まなければ幕軍を進軍させると言ってな!」
 五卿を匿っていることは、長州にとって尊皇を示す最後の砦なのだ。それを奪われてしまったらもはやどんな言い訳をしても、朝敵の汚名を晴らすことなど不可能になってしまう。
 「西郷の狸め!やはりやりおったか!」
 晋作は怒髪が天に突く勢いで目の前の草をむしり取った。
 「どうなさいます?」
 「どうするもないわ!いますぐ長州へ帰る!」
 「か、帰るって言ったって、いま、高杉さんに味方する者など一人もいませんぞ」
 「わかっちょる!」
 「もう少し様子を見た方が……!」
 「このまま抛っておいたら五卿はおろか、長州は五、六万石に減俸され、ついには東国あたりに国替えされてしまうわ!西郷のやることなど目に見えちょる!」
 「し、しかし……、お、お命が……」
 「うるさい!早よ港に行って舟の用意をしちょけ!」
 晋作は我を忘れたように怒鳴ると、草庵の中へ駆け入った。
 「どうなさいましたか?」
 尋常でない晋作の様子に、中で夕餉の下ごしらえを清子と一緒にしていた望東尼が驚いたように尋ねた。
 「望東殿、世話になった。ボクはこれより長州に帰る」
 脇にいた清子の幼い顔が急に女の顔に変わった。こわばった晋作の表情で、望東尼には長州でのっぴきならない事態が起こったことを直ちに察した。
 「これからでございますか?もう日が暮れます。明日になさったら……?」
 「すまんが時間がありません。これから発ちます。短い間じゃったが、望東殿には本当に世話になった。このご恩は一生忘れません。いつか必ずお返しいたそう」
 望東尼は晋作の“狂の眼”をじっと見つめて、引き留めるのを諦めたふうに静かに微笑んだ。
 「しばしお待ちを……」
 彼女はそう言い自分の寝室に入ると、なにやら持ち出してきて晋作に手渡した。一つは真新しい着物である。
 「これをお召しになって行って下さい。この日のためにこの老婆が祈りを込めてこしらえたものでございます。きっと高杉様を賊漢の弓矢から守ってくれるでしょう」
 と言い、二首の和歌と一緒に晋作に手渡した。

 まごころをつくしのきぬは国の為たちかえるべき衣手にせよ
 やまくちの花ちりぬとも谷の梅のひらく春辺をたへてまたなん

 着物を広げて見れば羽織と袴と襦袢である。晋作はその真心に涙しながら
 「かたじけない」
 と受け取った。もう一つは、横二寸、縦四寸ほどの縦長の薄葉紙を三十六枚綴ったもので、そこには細く美しい文字で漢文が書かれていた。
 「これは……?」
 「法華経の観世音菩薩普門品でございます。拙下が書き写しました。どうかお守りにお持ちください」

 妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五───無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間 悲體戒雷震 慈意妙大雲 樹甘露法雨 滅除煩悩焔 諍訟経官処 怖畏軍陣中 念被観音力 衆怨悉退散……
 (南無妙法蓮華経───観世音菩薩は汚れのない清浄な光を具え、その智慧の太陽は諸々の闇を破り、よく災いの風と火を抑えて、あまねく明らかに世間を照らす。衆生の苦を悲しむ心を本体とする戒は雷のように響き、慈しみの心の妙は大雲のように衆生を包んで、甘露の法雨を注ぎ、煩悩の炎を消し去る。争いごとをし、役所の処断を経て、軍隊の陣列の中で恐怖にとらわれているときにも、かの観音の力を念ずれば、多くの敵はすべて退散するであろう。……)

 それは望東尼が晋作に託した願いであった。思えば数日前の夜、清子を含めた三人で、観世音菩薩について論じあったばかりである。西郷と会うよう説得された夜から、晋作はたまに望東尼のことを、半分は尊敬で、半分は冷やかしで観音殿と呼ぶことがあったのだ。それを受けて、
 「高杉様は何を信仰しておりましょうか?」
 と、望東尼が質問したのがきっかけだった。
 「ボクは天満宮を仰いじょる」
 「菅原道真公でありますね。どうりで頭がおよろしいこと。『東風吹かば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ』───道真公は梅を愛していたと言います。京のお庭の梅がここ筑前の大宰府に飛んで来たという飛梅伝説があるほどですから。高杉様もほんと梅のようです……」
 「お察しのとおり梅は大好きです。そういう望東殿は何を信仰しちょりますかな?」
 「さて、困りました。私は仏道に入ったものの、これといって信仰心を持っていないのかも知れません。しいて言うなら観音経が好きでございます」
 と、法華経に説かれた観世音菩薩について話し始めた。
 観世音菩薩とは世音を観ずる菩薩、すなわち世の中の衆生の苦しみや悲しみの声を大きな慈愛で受け止め、抱きかかえるようにしてその声に応えていくことであると望東尼は言った。
 「不肖ながらこの私もそう願いながら尊皇運動などに傾倒しております」
 そう語る清らかな目は、本当に観音菩薩のようであった。
 「ところが今の世を顧みるに、国家の主導は乱れ、民はことごとく恐怖と不安に喘いでおります。いったいどうすればよいのか、この老婆には分かりません。しかし高杉様になら世の平和をなすことができるのではないかと思いました。それで西郷様と是非お会いしていただきたいと思い、出過ぎたことをいたしました……」
 「かいかぶりすぎじゃ。ボクは松陰先生のご構想を実現したいだけじゃ……」
 「吉田松陰先生はお幸せですね。こんなにすごいお弟子さんをお持ちになられて……。でも私は思うのです。崇高な思想だけでは世の中は変わりません。その思想を実現するために命をかけて行動する者がいなければ。高杉様はまさにその行動をお示しですが、私はそれでもまだ足りないものがあると思うのです───」
 「何じゃ?教えてください」
 「観世音でございます。民衆の声に真摯に耳を傾けることでございます。そして民衆のために尽くすことでございます。さすれば皆、高杉様について参りましょう」
 「草莽崛起……」
 と晋作は呟いた。そして奇兵隊を結成した当時のことを思い起こした。確かにあの時は、松陰の残した思想に基づいて決起したが、集まって来た者の動機は、みな徳川幕府の身分制度に対する怒りが引き金となっていた。彼らは松陰の思想に集まって来たのであって、晋作のもとに集まったわけではない。証拠に彼が総督を罷免される時も、引き留めようとする者のなんと少なかったことか。加えて野山獄につながれた時も、手紙をよこす者も面会に来る者もほとんどなかった。それと比較して久坂などは人を惹きつける魅力にかけては第一級のものを持っていた。後輩に対する面倒見の良さもあっただろうが、禁門の変で自害する時などは寺島忠三郎のように死を共にする者までいたのである。晋作はそれを自分の人徳のなさとして諦めていたが、望東尼はそれではいけないと言った。
 「ならばどうすればよいのじゃ?」
 「対話でございます。人の言うことに耳を傾けるのでございます。観世音とはまず世音を聞き、次に対話をして迷いの根本を見極める。それを『観』というのでございます。物事を観じ、そして世を救うを菩薩と言うのでございます」
 「対話のう……。確かにボクは人の話をあまり聞かないかも知れない」
 晋作は、あれほど西郷と引き合わせようとした彼女の心がやっと理解できたような気がした。続いて彼女は、
 「福岡黒田藩には全国の諸藩に負けない素晴らしい慣習がございます」
 と前置きした後、『異見会』という非公式ではあるが、藩主に対して何を言っても良い会議形式があることを教えてくれた。当然、意見の中には的はずれの埒もないものも多いというが、家臣の誰がどういうことを考えているか、また、対立した意見であってもその中に貴重な判断要素があるのだと言う。例えそれが耳の痛い厳しい意見であっても、それを喜んで聞くのが上に立つ者の度量であると言った。
 「観世音とは聞き上手の異名なのです」
 晋作は彼女の博学に今さらのように驚いた。
 「高杉様、お耳をすませて風や虫や鳥の声をお聞きくださいませ。私には、それら皆が世を哀れむ嘆きの声に聞こえます。高杉様は長州にあって、長州は日本というお国にあって、長州はお国を変える要なのでございます。長州がお取り潰しにでもなれば、薩摩であろうと、福岡であろうと、幕府に対抗したところで、もはや日本の将来は変わりません。まずは高杉様が観世音となり、毅然と一人お立ちになり、次にこうして耳をすませ、一人ひとりの声に耳を傾ければ、必ずや二人三人百人と、更には千人万人と、民衆は倒幕のために決起するでありましょう。高杉様、自らが観世音菩薩になって下さいませ。それがこの老婆のたったひとつの願いでございます」
 話を聞きながら清子の表情が紅潮していた。
 「ボクにそのようなことができるかの……?」
 「申し訳ございません。今の話は老婆の戯言と思い、お聞き流しください」
 「できますわ!」
 脇で清子が笑いながら言った。
 「だって高杉様は、幕府の軍隊を率いる西郷様を前にして、平気でおならをしてしまうのですもの。そんな肝の座ったお方、私は見たことも聞いたこともございません。あれはわざとしたのでございましょう?あれは高杉様流の対話だったのでしょう?」
 清子の言葉に晋作は笑っただけだった。そして望東尼も「あの時は驚きましたねえ」と和歌の師弟はさもおかしそうに笑いあうのだった。しかし晋作だけは望東尼の言葉を深く考えて、行燈の光を見るともなしに見つめていた───。
 そのとき語った観音経が、いま手渡された薄紙に書いてある。晋作は一枚々々めくって目を通した。観音の力を念ずればいかなる障害もないであろうと書いてあるようだが、その真意は難解で意味がいまひとつ理解できない。

 假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没 或在須彌峯 為人所推墜 念彼観音力 如日虚空住 或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛 或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊 或囚禁枷鎖 手足被杻械 念被観音力 釋然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者 念被観音力 還著於本人……
 (たとえ危害を加えようとする心を起こす者がいて、大きな火の坑に突き落とそうとしても、かの観音の力を念ずれば、火の坑は変じて池となるだろう。あるいは大海原を漂流して龍や魚、あるいは諸々の鬼神に襲われるような難があったとしても、かの観音の力を念ずれば、大きな波浪でも沈没することはない。あるいは、この世界の頂点である須弥山の峯にいて人に突き落とされたとしても、かの観音の力を念ずれば、太陽のように虚空に止まって落ちないでいることができる。あるいは悪人に追われて、この世界の果てにあって世界を取り巻くという金剛山(鉄囲山)から落ちてしまったとしても、かの観音の力を念ずれば、毛筋一本すら損なうこともない。あるいは怨賊に囲まれ、それぞれが刀を執って害を加えようとする危難に値ったとしても、かの観音の力を念ずれば、その賊は皆ことごとく即座に慈悲の心を起こすであろう。あるいは権力者からの迫害の苦しみに遭って、処刑される事態に臨んで、命が終わろうとしたとしても、かの観音の力を念ずれば、刀が急に段々に壊れてしまうだろう。あるいは首かせをはめられ鎖で縛られても、手足に手かせ、足かせをはめられたとしても、かの観音の力を念ずれば、首かせなどがぱっと消えて、自由な身になるだろう。呪いや諸々の毒薬で身を害そうとする者がいたとしても、かの観音の力を念ずれば、かえって加害者本人にその危害が及ぶであろう。)

 「ありがとうございます。が、ボクにはよく分かりません。少しずつ勉強して参ります」
 と言うと、晋作はその観音経が書かれた薄葉紙を懐にしまい入れ、自分にあてがわれていた二畳の部屋に入っていった。
 「お清ちゃん、身支度のお手伝いを」
 「はい」と言った清子の目に涙がたまっていた。
 部屋に入った晋作は、清子に手伝ってもらいながら望東尼から授かった着物を着た。
 「お清殿にも本当に世話になったのう。飯やら風呂やら洗濯に布団干しまで……」
 帯締めを手伝い終えた清子に晋作が言った。清子は「いいえ……」と言ったものの、すっかりいつもと様子が違う。晋作は小さな机に半紙をひろげると、筆を執って漢詩をしたためた。

 自愧知君容我狂(自ら愧ず君が我が狂を容るるを知る)
 山荘留我更多情(山荘に我を留めて更に情多し)
 浮沈十年杞憂志(浮き沈み十年杞憂の志)
 不若閑雲野鶴清(若かず閑雲野鶴の清)

 気付くと背中ですすり泣きの声がする。見れば清子が泣いていた。
 「どうしたのじゃ?」
 言った瞬間、清子は晋作の背中に抱きついた。
 「死なないで下さいませ……」
 それは清子が初めて抱いた淡い恋心だった。晋作は清子の頭を優しく数度叩くと、その若い身体を遠ざけそのまま部屋を出た。清子は涙を拭いてその後を追いかけた。
 そして望東尼の前に来たとき、晋作は立ち止まっていま書きあげた漢詩を差し出し、ひとつ目礼をしたかと思うと、何も言わずに草庵を飛び出した。その後を更に追いかけようとする清子の腕を、望東尼はぐっと掴んで静かに首を横に振った。
 「殿方には例え負けると分かっていても、命を賭して戦わなければならない時があるものなのです。おなごはそれを笑顔で送り届けてやるのが努めです。行かせてあげましょう。いいえ、高杉様はけっして負けはいたしません。あの方は革命の申し子なのですから……」
 清子の顔はこぼれ落ちる涙でくしゃくしゃだった。そして唇を噛んで望東尼の腕を静かにはなすと、「わかっています……」と頷いて、
 「お待ちくださいませ!」
 晋作の後を追って出て行った。その声に立ち止まった晋作に、追いついた清子は自分の懐から真新しいお守りを取り出し手渡した。
 「天満宮様のお守りでございます。昨日、太宰府に行って買い求めて参りました。これを……。どうか高杉様にご加護がありますように……」
 晋作は清子の手を握って笑顔で受け取った。
 「ありがたく頂戴する。達者での!」
 清子は自分の懐にあるもう一つの対のお守りを強く握りしめながら、涙の表情を無理矢理微笑みに変え、旅立つ晋作の後ろ姿を見送った。視覚をさえぎる涙でその姿は霞んでいった。
 いま晋作は、自分の“死に場所”に向かって走っていた。
 「長州の問題は長州人で始末する───」
 彼の心には師吉田松陰の仇討ちの炎が燃えていた。ねらいは正義派による政権の奪還、そして倒幕───。
 しかし彼を待ち受ける長州は、幾万という幕府軍に包囲され、幾千という俗論党に支配された八方塞がりの敵陣なのだ。国土に着いたら最期、四面楚歌の大火の中。それを覚悟でたった一人で乗り込むのだ。勝算などあろうはずがない。
 「やっとボクにも死に場所が与えられたか───」
 いま、維新回天の火種は、日本広しといえど、この長州の英傑高杉晋作という男の中にしか認められなかった。