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24.平尾の望東尼
幕末小説 『梅と菖蒲』
 法名、招月望東禅尼───、本名野村モトという女流歌人である。尼僧であり歌人でありながら彼女には奇癖がある。それは尊皇運動に傾倒し、住まう平尾山荘に勤皇の志士たちを庇護し、隠れ屋として提供することを吝かとしていない点においてである。城下からもさほど離れていない場所にあった平尾山荘だが、まさか尼の立場で政治的な大それたことに関わっているとは誰も思わない。よってこの山荘は、勤皇の志士達の絶好の隠れ蓑になっていたわけである。
 文化三年(一八〇六)九月の生まれであるというから、晋作が彼女のもとを訪れた時は五十八歳になったばかり、当時でいえば既に老婆である。ところが初めて会って、晋作は妙な親しみを覚えた。その知的な振る舞い、しなやかな物腰、発する言葉は美しく、母と言うには愛おしく、女と言うには老いていた。しかしその親近感は、守ってやりたくもあり、甘えたくもあり、男女の関係にはとうてい発展し得るものではなかったが、あと三十年早く生まれていればと後悔させるほどの魅力があった。九州に渡って、何ひとつ実り得るものはなかったが、平尾山荘でのわずか十日間ほどの滞在で、
 「もしかして、ボクは彼女に会うために筑前に来たのかもしれぬ……」
 と思えるほどの充実感を覚えるのである。それはあるいは国を憂う詩人同士の共鳴であったかも知れない。望東尼の方も少なからず驚いたふうで、
 「世の中にこういう若者がいましたものか……」
 と、恋に近い感情を覚えていた。
 「実はボクにも法名があります。東に行くと書いて東行といいます。望東殿の名を聞いて似ていることに驚きました。東に望むとはいったいどのような意味があるのですかな?」
 「それは偶然でございましたね……」
 もとより仏道に入った彼女は偶然など信じていない。きっとこの若者と出会うべくして出会ったと感じている。
 「本名をモトと申しますので、『望』『東』というのは当て字でございます。でも、ほんに不思議な縁でございます」
 と、息子というわけでなく、勤皇の志士というわけでなく、歌の門弟というわけでなく、増して恋人というわけでない晋作を、一人の人間としてこの山奥の草庵に迎え入れたのである。
 彼女は福岡藩士浦野勝幸の三女として生まれ、十三の時に家老宅に行儀見習い奉公に入り、十七で同藩士石郡利貫と結婚するが、わずか半年余りで離婚した後、二十四で知行四百十三石の同藩士野村貞貫の後妻として再婚した根っからの武家育ちの教養を持っていた。その後、四人の子をもうけるが皆幼くして亡くし、先妻の三人の子をよく養育したものの、家督を継いだ長男も自害して子には恵まれないという人生の悲しみも知っていた。
 二十七のころ夫とともに福岡の歌人大隈言道に入門して以来、彼女は歌人となり、長男に家督を継いだ時にこの平尾の山荘に隠棲したが、安政六年(一八六一)、夫の他界により剃髪して望東尼を名乗った。
 その後、かねてからの念願だった京都に出たのは文久元年のことである。そのとき彼女五十四歳、大坂に滞在していた歌の師匠大隈言道との再会を果たしながら、京都では嵯峨の直指庵に隠棲していた勤皇家の津崎村岡局や、また女流歌人であり陶芸家の太田垣蓮月尼など多くの文化人との交流を果たした。ところが彼女の滞在した文久元年から二年にかけての京都と言えば、尊皇攘夷運動のまっただ中で、その政治情勢も異常に緊迫していた。全国においては土佐では永福寺門前事件、江戸では坂下門外の変、武蔵の国では生麦事件等が起こり、次第に彼女の身の周りにも諸藩の勤皇志士達が増えていく。その中のひとり、特に福岡藩御用立の呉服商人、馬場文英からの時勢の話は、後の彼女の思想に大きな影響を与えた。日本の近代は嘉永六年のペリー来航に始まるという見方を初めて示した彼の『元治夢物語』を見れば、その詳しい見聞に驚く。当然、吉田松陰から端を発した『尊皇攘夷』の背景や経緯も、望東尼の耳に入っていたことであろう。そして彼女が福岡に帰ろうとする頃には、もっとも身近な京都の地において寺田屋事件が起こる。そうした多難の国事の現実を目のあたりにした時、彼女ははからずも憂国の情を燃え上がらせた勤皇女流歌人というべきものに変身をとげたのだった。
 福岡に戻ってからの彼女は、京都の馬場文英と密かに情報交換をし合い、いつしか平尾山荘は志士達の集うサロンのような役割を果たすようになっていた。平野国臣たちとの交流が深まり、やがては彼らをかくまったり、密会の場所として提供したりするようになる。勤王僧月照をはじめ、熊本藩の入江八千兵衛、対馬藩の平田大江、福岡藩の中村円太、月形洗蔵、早川養敬などは、彼女を深く敬愛する志士達だった。
 晋作が来てから平尾山荘には、望東尼の和歌の門弟である一人の少女が給仕の手伝いをしていた。名を清子という美しい娘である。美しいとはいっても年の頃なら十五、六、目が合うたびに笑う靨からは幼さがにじみ出ている。しかし彼女の無垢な微笑みに、晋作は愛想のない笑みを返すだけ。
 ある時、寒々とした庭を眺めながら、晋作が望東尼に言った。
 「望東殿の歌にも“大和心”を歌ったものがあるが、大和心とは何であるかの?」
 もてあます時間の中で、彼は彼女の書きためている和歌をこっそり読んでいる。望東尼は「まあ、お恥ずかしい」と言いながら、
 「大和心は私達が日本という国の民であることの証しでございましょう」
 と答えた。そもそも大和心とは本居宣長の国学から生まれてきた言葉であろう。彼女は昔を懐かしそうに、晋作をここに連れて来た月形洗蔵とは歌人大隈言道の同門の門弟であることや、まだ夫がいる頃、彼らといっしょに太平記を読みながら王政の真を論じ合ったこと、あるいは師を囲んで蘭医の百武万里や尊王医師の陶山一貫らと親交を深め、楠正成の祠を祭り、勤王の志を練っていたことなどを話してくれた───。晋作は優しい笑みでそれを聞きながら、松陰のことを思い出した。
 それから、ぽつり、
 「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂……」
 と呟いた。
 望東尼は驚いた表情で晋作を見つめた。それは長らく会っていない旧友に、突然街角で出くわしたような表情である。
 「いったい誰のお歌でございましょうか?力強さに満ち充ちた切迫した使命感を感じます。この老いた身体の震えが止まりません……」
 晋作は意外に思った。この山奥に住むひとりの老婆が、松陰のたったひと言に触れただけで、前身を身震いさせながら興奮しているのである。
 「吉田松陰先生のお歌じゃ。ボクの師です……」
 「吉田松陰……」
 望東尼は当然その名を知っていた。そしてしみじみと晋作の頭からつま先までを、まるで仏様を拝んでいるかのように見つめた。晋作は今の心境をそのまま伝えた。
 「いま長州が潰れたら、松陰先生の大和魂も消えてしまう……」
 彼の目に涙が溜まっていた。およそ人前で涙などとは無縁であったが、望東尼の懐の広さに触れたとき、晋作の苦しみの全てはその心に包み込まれているような安心感にとらわれたのだ。
 「高杉晋作様───。ほんに日本第一のお人でございますなあ……」
 望東尼の瞳にも、もらい泣きの涙が浮かんでいた。
 と、傍らにいた給仕の清子が、小さな声で一首の和歌を詠んだ。

 われもまた同じ御国に生れきて大和心を知らされめやは

 晋作は清子を見つめて微笑んだ。
 「うまいのう。お清殿はまこと望東殿のお弟子さんじゃ」
 「この子ったら……、知らない間にずいぶんとお歌が上手になりましたね。ほんに真の魂というものは、人から人へと伝播するものでございましょうな」
 と、三人は、行く末の見えない社会の闇の中で、身を寄せ合うように笑いあった。

 ちょうどそんな話をしている頃である。伴も連れずに密かに月形洗蔵が山荘に訪れた。そして、
 「高杉さん、いま薩摩の西郷吉之助さんが福岡に来ておる……」
 と周囲を警戒しながら小声で告げた。望東尼は神妙な顔付きで耳をそばだてた。そして、
 「この間の薩長和解の件、考えていただけましたでしょうか?こんな機会、二度とございません」
 と言う。晋作は「またその話か」と顔をしかめた。彼は西郷になど興味もない。単純に宿敵である。面会の余地など皆無なのだ。
 「月形さんもしつこいの。ボクはいま長州のお尋ね者だ。話し合っても埒もない」
 「西郷さんは長州正義派の三家老の切腹を命じ、山口城の破却を条件に長州藩の降伏を認めたそうです。長州はそれを受け入れましたぞ」
 瞬間、晋作の目が光った。それと同時に体がわなわなと震えだした。月形は話を続けた。
 「西郷さんはそれを受けて長州征伐停戦への周旋をはじめております。この度の来福もそれが主な目的です。薩摩には少なからず倒幕の意思が見え隠れしております。いま長州と薩摩が手を結べば、幕府も容易に長州に手を出せなく……」
 突然、晋作の怒声が言葉をさえぎった。
 「ありえん!」
 望東尼も清子もびくりと体を跳ね上げた。
 「倒幕を前提にして、俗論党どもが薩摩と手を組むと思っておるのか。やつらは腰抜けの集まりぞ、考えが甘いわ!それよりボクは西郷が大嫌いじゃ」
 「そこを伏して!」
 「帰れ!西郷の話など聞きとうない。長州の問題は長州自らでおとしまえをつける!もうどこも頼らん!」
 「そこを!」
 晋作は「くどい!」と吐き捨てて、荒い足取りで山荘を飛び出した。立つ瀬を失った月形は、何も言わずにやがて帰って行った。
 夜───。
 晋作は草庵の庭に湧く月明かりが反射する泉の水面を、ひとりじっと見つめていた。こうして一人でいると、脳裏に浮かぶのは決まって松陰の事だった。
 彼はいま、江戸の伝馬町牢屋敷に投獄された松陰と、最期の時を過ごした日々のことを思い起こしていた。その頃、松陰門下のほとんどは萩におり、江戸にいた晋作は頻繁に伝馬町に通って、師のために様々な便宜をはかるのに忙しかった。蒲団や下帯や手拭い、あるいは書物や半紙、時には牢名主に貢ぐ金銭や酒の面倒まで、松陰の要望に忠実にこたえて差し入れをした。
 「ボクが江戸にいる間は決して心配なさいませんように。度々手紙を送ります。先生からは議論をされ、ボクは愉快に過ごしています」
 と、萩の久坂に報告したが、その晋作の松陰に対する随従給仕は、二人の決定的な師弟関係の成立となったといえる。
 松陰と晋作のそうしたマンツーマンのやり取りは、面会こそ叶わなかったが、萩の松下村塾さながらだった。いや、心と思想の交流においては、それよりもっと深い次元でなされた師弟のドラマであった。死を覚悟する師に対して、その意志を継承しようとする弟子の間には、二人にしか感じることのできない燃えるような情熱がほとばしっていた。男子たる者の死について、あるいは政治情勢について、あるいはこれから成すべき事柄について……。晋作持論の防長割拠論もそんな師との文面での対話から生まれたものである。
 晋作にとってただひとつ悔いることは、藩命とはいえ帰国が決まり、松陰の死に目に立ち会えなかったことである。あの時はまだ若く、親や藩命に逆らうことなど考えも及ばなかったのだ。しかし師は萩に帰る弟子にあてて、
 「急な帰国で非常に忙しいと思います。それなのに、後々の事までいろいろ処置していただいて、本当にありがとう」
 と書き、更にその翌日にも重ねて、
 「この度の災厄に、君が江戸にいてくれたので大変に幸せでした。ご厚情を深く感謝します。急に帰国と聞いて本当に残念でなりません……」
 とまで言っていただいたのである。今から思えば、たとえ脱藩しても江戸に残るべきだった。そのことだけが深い後悔の念となっている。そしてその手紙の続きには、生前、誉める事で各人の才能を発掘していた松陰が、門下一人ひとりに対しその欠点を挙げながら、晋作にその面倒を見るようにと託すのである。
 なんとありがたい師匠であるか……。
 晋作は泉の水面にむかって小石を放り込んだ。いまはその師に託された願いまでも、ろくに果たすこともできない。広がる同心円に月明かりが揺れた。ふと、久坂玄瑞の顔が浮かんだ。入江九一の顔が浮かんだ。吉田稔麿の顔が浮かんだ。そして次の瞬間、彼の心に果てしない絶望と悲しみの濁流が襲った。
 「なぜ死んだ!」
 晋作は自分でも気付かないような慟哭の声をあげていた。しかし果てしない暗闇は、そんな声など墨汁に真っ白な牛乳を垂らすように、何の意味ももたらさなかった。
 「こんなところにおりましたか……?」
 背中で美しく落ち着いた女の声がした。振り向けば、彼を見守るように望東尼が立っている。晋作は涙をぬぐった。
 「これはとんだところを見られてしまいましたな……」
 「いいえ……、勾玉のように美しい雫でございます……」
 望東尼は晋作の脇に寄り添い泉をみつめた。

 さながらに澄める泉はかはらねどけふ墨染めの影ぞ見えける

 「夫が死んだ時に詠んだ和歌でございます……。夫の貞貫はほんとうに清廉実直で、正義感の強きお人でございました。しかし人はいつか死ぬるものでございます。でも私は思うのです。残された者が、死んだ者の意志を受け継いで生きるとき、死んだ者は生きる者と共に、永遠に生き続けるのだと……。だから夫はいまも生きております。きっと吉田松陰先生も、高杉様と一緒に生きていることでしょう」
 望東尼は生死を達観しているようにつぶやいた。
 「望東殿、教えてください。ボクはいま、何をしたらよいのだろうか?」
 「さて、こまりました……」
 望東尼はしばらく考え込んだように遠くをみつめた。が、やがて、
 「お気を悪くしないで聞いてください」
 と前置きした後、
 「薩摩の西郷様と会われてみてはいかがでしょう?」
 と言った。晋作は「望東殿までそんなことを申すか」というような表情で、彼女をじっと見つめかえした。ところが彼女のその表情には、政略の匂いも、駆け引きの怪しさもない。ただ純粋に平和を願う母の崇高な魂を感じるのみだった。
 「私の望みは、尊皇をもって日本というお国を立てることにございます。日本の始まりが天皇なのですから、それをおろそかにして日本という国はありません。日本という国は、尊皇があってはじめて自然の姿に返ることができ、英米諸国とも対等に話し合えるお国になると思うのです。徳川様の時代が長く続きましたが、ここに来てようやくその時を迎えたのです。しかし、その先陣を切って尊皇を推し進めてきた長州様は閉塞し、心ある志士達もいまはすっかり陰をひそめてしまいました。このままでは唯一の希望であった長州様が滅びてしまいましょう。聞くところによれば、薩摩様も徳川様をあまりよく思っておられないご様子。浅はかな女の知恵とお思いでしょうが、今は薩摩様と一緒に時勢をつくっていくことが急務ではないでしょうか?」
 晋作は眉間に皺を寄せ、厳しい顔つきをした。
 「薩摩には大和魂がない。奴らは時勢とともに方針をころころ変え、私腹を肥やそうと考えているだけじゃ」
 長州も攘夷から開国に大きく方針を変えたが、それは対外的な姿勢の問題で天皇を犯すことにはならない。今は幕府や薩摩等の画策で朝敵とされてしまったが、尊皇の方針はまったく変わっていない。ところが薩摩はどうか?尊皇から公武合体へと方針を変えたではないか。これは天皇を捨て、徳川と組んだということだ。言葉を変えれば精神次元での裏切りである。特に西郷などは安政の頃、一度は尊皇攘夷の志士として働きながら月照と入水自殺を図ったものの、挙げ句は自分だけ生き残ってその方針を変えたのだ。その最たるや晋作には許せない。それこそ日本国存続の根幹に関わる重大問題なのだと彼は言う。そのことを時勢によってころころ方針を変えると言っている。信念のない根無し草のような薩摩などとは、とうてい手を組むことなどできないと断じているのだ。
 望東尼は悲しそうな顔をした。しかしここまで話が詰まってくると、彼女にも説得の言葉は見つからなかった。
 「しかし、西郷様は立派なお方でございますよ……」
 「百歩譲って奴が立派な人物であったとしよう。しかし奴らはボクの大事な仲間を何人も殺したのじゃ。許せるはずがなかろう!」
 「それは薩摩様も同じことでございましょう。西郷様も長州様から追われて亡くされたご友人もいるに違いありません。いけないのは喧嘩でございます。どこかで報復の連鎖を断ち切らなければ、永遠に争い事が続きましょう……。苦しむのは庶民でございます」
 望東尼は最期にもう一度、祈るような気持ちで繰り返した。
 「日本のお国のために、西郷様と会っていただけませんか?」
 と、晋作の手を優しく握りしめた。勤皇の母の手が冷気のためか、凍るように冷たかった。
 「そこまで申すか……。本当に望東殿は観音様のようなお人ですの……」
 晋作はついに観念した。望東尼がそう言うからにはそれなりの意味があると思ったし、彼女の民衆の平和を願う心に打たれ、その誠意に応えようとするところが晋作の優しさでもあった。
 「わかり申した。望東殿がそこまで言われるのであれば西郷と会おう。ただし、会うことは会うが、ボクは何も喋らんぞ。ヤツに話すことなど何もない。それでもよろしいか?」
 望東尼は顔の皺を何倍にも増やして嬉しそうに微笑んだ。そして、
 「会うことが大事なのでございます」
 と言った。
 決まれば話は早い。その日のうちに、晋作が西郷と会う事を承諾したという報が月形のもとに届けられた。そして翌日の夜、長州と薩摩、この巨人二人の対面が実現したのである。