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22.勝と西郷
幕末小説 『梅と菖蒲』
 長州藩の実態を遠くから、強かに且つ冷静に分析する男がいた。
 「もはや長州には人材がおらぬでごわす。しかて言うなら桂小五郎と高杉晋作。そいどん桂は逃げ隠れ、高杉とて一人では何もでけん。わざわざ長州くんだりまで兵を連れて行かなくても、内部争いを引き起こせば、幕府が手を汚すまでんなく長州は勝手に滅びもす」
 という恐ろしい計算をしている。その男こそ薩摩の西郷吉之助こと西郷隆盛である。
 長州は思想集団であり、薩摩は政治集団であったとは、かの司馬遼太郎氏の見解であるが、なるほど幕末における両藩の性質は一線を画す。対して幕府は何かと問えば、それは役人集団であったと言える。それに付随する会津などは役人右翼集団であり、長州俗論派もそれになろうとしている。端からこの三者は相容れるものではなく、あえていうなら政治的に物事を判断する薩摩こそ、その中性的な資質で情勢を変える可能性があったといえる。しかし薩摩藩という雄藩でも幕府を相手にしては反抗できるほどの勢力はなく、強大な幕府の中ではいかに有利な立場で政治の主導を握るかが目下の課題であって、長州正義派のようにあからさまに倒幕を示すような行動は間違ってもしない。幕府が長州征伐と言えば、政治的にそれに従うのは当然であった。
 そのころ西郷は征長軍参謀に任命され、総督徳川慶勝に長州処分を委任される。そして、
 「防長二州は長州征伐に功績のあった諸藩で分割する」
 と、征伐成功後の褒賞まで考えていた。ところが幕府側の重臣であった勝海舟と大坂で面会し、その考えを少しずつ改めていくことになる。
 この勝海舟という男、文政六年(一八二三)に江戸で生まれた古参の幕臣である。父小吉はうだつのあがらない旗本だったが、幼名麟太郎こと勝は剣術修行を経て蘭学を学び、猛勉強を積みながらどんどん実力を蓄えていく。そして佐久間象山の勧めもあって西洋兵学を修め私塾を開くが、この頃ペリー来航という大事件を迎える。このとき勝が応募した海防に関する意見書が老中阿部正弘の目にとまり、そこから彼の栄転がはじまった。その後、長崎の海軍伝習所に入門し更なる学問を積み、ついには日本を代表してアメリカへ渡るのである。ここに吉田松陰との決定的な違いがある。片や革新運動家、片や幕府役人。そして勝がアメリカへ行っている間に安政の大獄が起こる。そして、片や処刑、片や出世。松陰は天皇を頂点とした万民平等の新しい国家のあり方を指向し、勝は幕府旧体制を危惧しながらも世界の列強諸国に対抗し得る国家体制を指向した。松陰の一君万民論は日本が世界に対抗し得るための社会を構成する個々人内部からの革命論だったことに対し、勝は時勢を見つめた上で幕府、諸藩の枠を取り払った組織的な総合力で世界に対抗しようとした。皮肉にも考え方こそ違え、その目指すところは非常に似ていた。
 西郷との一回目の会見当時、勝は幕府軍艦奉行を罷免され、蟄居生活を送る最中であったが、それまでに神戸に海軍操練所を設立し、薩摩や土佐のはみ出し者や脱藩者を受け入れるような官僚らしからぬ官僚として、坂本龍馬をはじめ多くの人材群を輩出している。その一面だけ見ても役人集団の中では極めて異例の傑出した人物であったと言ってよい。海軍というものにおいても、それは幕府のものではなく『日本の海軍』を建設すべきだと主張し、そのため幕府内の保守派からも睨まれていたのである。
 会談は、神戸港開港延期による列強諸国の反発に対して、どう対処すべきかを西郷が勝に意見を求めたことに加え、話は日本国の未来像にまで及んだ。
 「幕府はもうダメだ───」
 そう語る勝に西郷は驚いた。少なくともその頃の薩摩は幕府に従うしかないとの方針だったから、幕臣である勝の口からそんな科白を聞くとは思いもよらなかったのだ。生来口数の少ない西郷は勝をみつめた。その威厳だけで会話を成立させてしまう凄味がある。
 「まったく幕府が打つ手といったら時代錯誤も甚だしい。一昨年前も幕府復権の策に何をするかと思って見ておれば参勤交代の妻子の江戸在住制度の復旧だ。政局の中心はすでに京にあるのに、江戸でそんな政策を行って何になる?諸藩は今どこも財政難だ。反発を買うばかり。この度の長州征伐令においても、将軍自らが進発と言っているにもかかわらず、恐れ入る者もなければ奮い立つ者もない。みな責任は上司まかせの役人根性の集団に成り下がり、それを立て直そうとする逸材が出るどころか、そのことに気付いてすらおらん。これじゃあ戦など起こしても、わずか長州一藩相手に負ける可能性だってある」
 勝はまるで他人事のように言う。
 「そいどん幕府は幕府でごわす。腐っても鯛と言うではあいもはんか」
 「腐った物は喰えんぞ。俺は腐った魚を食って腹をこわしたことがある。西郷さんは丈夫そうだがね」
 と、勝は気さくに笑った。人の心を手玉に取る才は天下逸品なのだ。
 「それに長州藩に同情する藩も多いと聞く。幕府がいくら何十万という人を集めたとしても、戦争だ参勤だと言われて集まった一人ひとりは忠誠を立てるどころか腹を立てておる。そんな人間で構成された軍など、見かけは豪勢に見えても内実は砂城と同じだよ」
 「勝さんは長州征伐に反対でごわすか?」
 「日本国内でつまらぬ内部争いをしておる場合じゃないと言っている。幕府じゃ藩じゃとドングリの背比べをしている間に列強諸国に喰われてしまうぞ」
 その点勝も晋作と同じ危機感を持っていた。勝は万延元年(一八六〇)日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節として咸臨丸に乗って米国へ渡った。その帰りアメリカの植民地となっていたハワイに立ち寄り、そこで奴隷の如くアメリカ人に扱われるハワイ原住民の姿を見ている。日本もそうなってしまえば、もはや幕府だ薩摩だ長州だなどと言い争える状況ではなくなってしまうと主張した。ついには、
 「幕府は西郷さんが言ったとおり腐っている。俺の口からこんなことを言ったらおかしいか?だが、俺は幕府の民ではなく日本国民なのだ。いま日本に必要なのは、雄藩連合による共和政治をおこなうべき事なのだよ」
 と討幕を示唆しながら、幕府の最高機密をあからさまに洩らすのだった。
 後に明治維新の三傑に名を連ねる西郷隆盛にして驚愕した。世界の中の日本国民という視野で物事を考えている勝のスケールの大きさに「幕府にもこげんすごか人間がいたか」と言葉を失った。この会談を終えて西郷は、
 「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」
 と、同胞の大久保利通に宛てた書簡に書いている。一方、勝にしてみれば、西郷ほどの人材を薩摩という小さな枠の中で働かせておくのは惜しいと考えたに相違ない。後に、この二人の会談によって、江戸城無血開城という歴史的大偉業がなされることになる。ともあれ勝の知略と度量にすっかり啓発を受けた西郷は、倒幕への意識を芽生えさせつつ、戦わずして長州征伐を終結させる方法を模索するのであった。それがこの項の冒頭で述べた策略である。彼の耳には、既に長州が俗論派と正義派で分裂していると情報が入っている。それを利用しない手はない。

 晋作は萩にいた。
 ところがそのころ萩は椋梨藤太ら俗論党の手中にあった。幕府に対し恭順の姿勢を示すため、藩主親子を萩城に引き込ませ、それに伴い政庁も山口から萩に移動していた。そもそも近年、内陸部にある山口へ政庁を移動したのは、幕府や夷敵等外部からの侵入を防ぎ、戦意を示して威嚇するためであったから、藩主を山口から萩に移すことは恭順の意思を示すことになるわけである。加えて遂に俗論党は、晋作はじめ正義派の政務座役や目付役、また禁門の変の際参謀を務めた宍戸左馬介、中村九郎、竹内正兵衛らの逮捕に乗り切ったのである。更に奇兵隊結成以来、各地で盛んに作られていた諸隊に対して、解散命令を下す。晋作の身の危機はすぐそこに迫っていた。
 ところが逮捕令が出たことは当然晋作の耳には入らない。しかし不穏な空気が日に日に深まっていくのを肌で感じていた。
 そして十月二十五日、宍戸左馬介が捕まり野山獄に投獄される。
 その噂を聞いた晋作は、
 「逃げねば───」
 と咄嗟に判断した。実は数日前の夜、同じ政務座役を務めていた楢崎弥八郎を訪ね、一緒に脱走しようと勧めたばかりであった。ところが彼は、
 「わしは逃げぬ。逃げれば我ら正義派が間違っていると認めるようなもの。俗論党め!お縄にするならしてみよ!」
 と聞かない。「捕まれば殺される」と必至に説いたが、結局彼は動こうとはしなかった。
 やむなく晋作は一人で逃げることにした。脱走前、酔っぱらい町人を装うため古びた単物を着、手拭いで頬被りをして瓢箪の徳利を雅に用意させた。雅は言われるままに身支度を手伝いながら、「どこに行くのだろう?」と思いながらも言葉には出さなかった。
 「雅、暫く戻らぬからそのつもりでいよ」
 「はい───。家のことはご心配なさらないでくださいませ」
 晋作のそういう行動にはもう慣れてしまっているのか、雅は別に悲しい顔もしなかった。小忠太も藩の情勢をよく知っていたから何も言わない。「無事に逃げよ」という目だけでうなずいた。
 晋作は生まれたばかりの梅之進の顔を見た。赤子の静かな寝息は、世の諍い事を悠々と見下ろしているようでもあった。
 「雅、梅之進を頼んだぞ」
 晋作はそう言い残すと、家の裏口から外を警戒するように飛び出して行った。
 それから間もなく菊屋横町の屋敷に、数人の奉行所の役人が「高杉晋作はおるか?」とやって来た。野生の感とでも言おうか、天に導かれたとでも言おうか、晋作、まさに間一髪だった。
 彼はそのまま山口へ向かう。脱走したにも関わらず、俗論党の本拠地と化した政事堂のある山口に向かったのは、どうしても会っておかなければならない者がいたからである。そう、井上聞多である。正義派のために命を狙われ、なんとか命は取り留めたものの、今は動くこともできずに自宅で寝込んだままのはずである。晋作自身いつ死ぬか分からぬ身、今生の別れを告げるとともに、彼の一途な勇気を讃え、見舞ってやりたかったのだ。
 井上五郎三郎宅のひとつの部屋に、身体中に晒を巻かれた聞多が、寂然と布団の上に横たわっていた。晋作は部屋に案内されると、そのまま布団の脇に胡座をかいて聞多の右手を握りしめた。
 「聞多、ボクじゃ。しっかりせい」
 「高杉さん……」
 聞多は声にならない声をあげると、身体を起こそうと身じろぎをした。
 「動くな。そのままでよい」
 聞多の両目から耳の方に向かって涙が流れ落ちた。
 「分かっているよ。何も心配するな。あとはボクに任せろ……」
 二人の間に言葉はいらなかった。聞多は右手から伝わる晋作の両手の熱と力から、これから俗論党に対して反転攻勢をかける決死の決意を感じ取った。「自分も連れて行ってください!」と聞多の右手が言った。
 「何を申すか。気持ちは分かるが、その身体では足手まといじゃ」
 聞多は晋作の手を握り返したが、筋肉が弱化して、晋作にはどれほどの感触にもならなかった。だがその思いは弾丸のように晋作の胸を突いた。
 「もう世が明ける頃です。昼間は危険ですから、うちでゆっくりお休みいただき、夜発たれた方が良いでしょう」
 五郎三郎は晋作の身を案じてそう言った。晋作は五郎三郎の好意に甘えることにした。そして聞多の母房が作った飯を食べ終えると、そのまま聞多の横にごろりと寝ころんで、深い眠りについた。そしてその夜、
 「聞多よ、生きておったらまた会おう」
 と、晋作は恍惚とした表情で聞多のもとを去ったのだった。

 さて、どうするか……。
 晋作は身の危険を感じながらも山口に宿をとって善後策を考えることにした。この頃の晋作の変名は谷梅之助と言う。藩内の状況を把握するため、従兄弟の南亀五郎を呼んで話を聞こうと、その名を使って彼がいるはずの政事堂に遣いを出したのだ。
 その間いろいろ考えてみた。政事堂に談判に行き、俗論党になった役人達の前で腹をかっ斬ろうかとも考えてみたが、そんな事で命を落としてみても後が続かない。もはや松陰の流れを継ぐ正義派の火種は自分にしかないのだ。残されたこの自分一人から、略奪された政権をひっくり返すしかないのだ。
 「奇兵隊───」
 ふと、頭の中にその名称が浮かんだ。紛れもなく彼はその開闢総督なのだ。
 奇兵隊はいま、三田尻の徳地にその屯所を構え、松下村塾生の山県狂介が軍監を務め、禁門の変で死んだ入江九一の弟である野村和作もいるはずだった。第三代総管の赤根武人はこのころ正義派と俗論党のいざこざに耐えられなかったのか、帰郷して姿を消している。既に俗論党は諸隊に解散命令を出していたが、このとき奇兵隊は、藩の命令のままに解散するか、逆に藩に反抗して武装を強化し、独自に倒幕の道を進むかの厳しい選択を迫られていた。晋作の望みは、草莽崛起の思想から生まれた四民平等武装集団という、幕府開始以来下層階級で苦しめられてきた農民、庶民達の幕府に対する怒りに期待することだった。
 奇兵隊をもって俗論党の撰鋒隊と一戦交え、それに勝利すればあるいは正義派に流れがなびくかも知れない───。
 ただ、この頃の奇兵隊の人数は二〇〇名程度である。
 やはり、無理か……。
 そんなことを考えているうちに亀五郎がやってきた。
 「こんなところにおりましたか」
 と開口一番、藩が晋作を捕縛しようとしていることを告げた。
 「やはりそうであったな……」
 亀五郎の話によると、宍戸左馬介のあと楢崎弥八郎、中村九郎、佐久間佐兵衛らも野山獄に入れられ、他の正義派元幹部が捕まるのも時間の問題だろうとのことである。そして諸隊の長が藩庁に召喚され、俗論党は給与その他の援助を打切り、解散命令を出したと言い、かろうじて奇兵隊や八幡隊などの一部がその召喚に応じなかったことを伝えた。
 「まだ脈はあるな───」
 そう思った晋作は、亀五郎に礼を述べると奇兵隊に一縷の望みを託し、そのまま徳地の屯所に向かって走り出した。
 ところが出迎えた山県狂介の顔は、いかにも苦渋に満ちていて、とても俗論党と一戦交えて政権を奪還しようという気概の微塵もない。彼が悩んでいることといえば、藩庁の召喚を蹴ったものの、これからどのように隊を維持していこうかという消極的なもので、その問題を晋作に問いかけるほどだったのだ。山県狂介は松下村塾生ではあったが、入塾して数カ月後に松陰は獄に下ったため、直接薫陶を受けた期間は極めて短い。加えて、もともと足軽以下の身分であったため、士分としての誇りも非常に薄く、晋作は期待した自分が愚かであったことを知る。山県の志気によっては「これより俗論党を討ちにゆくぞ!」と言うところであったが、
 「ボクは九州に行く」
 と、突然方針を変えて伝えたのみだった。なぜ九州なのか首をひねるところであるが、晋作にはきちんとした裏付けがある。
 「九州へ……?いったい何をしに?」
 「同志を募り、義軍を編成する。そしてそいつを率いて俗論党を潰す……」
 山県は何も言わなかった。深い闇の中で燈火が沈々と揺れていた。

  ともし火の影細く見る今宵かな

 晋作は一首の詩を詠んで紙にしたためた。すると山県は、
 「高杉さん、奇兵隊に留まっていたほうが安全ですよ……。私達が守りますから」
 と、晋作を引き留めようとした。晋作は「志気の失せた今の奇兵隊に世話になった方が危険じゃ」と言おうとしたが、言うのもバカらしくなって、
 「もうよい。時間がない。ボクは行く───」
 と、そのまま奇兵隊屯所を発ち、三田尻の招賢閣に向かった。
 招賢閣に陣所する忠勇隊には、福岡藩を脱藩した中村円太という男がいた。そのころ忠勇隊総督には土佐脱藩浪士の中岡慎太郎が就任している。中村円太といえば禁門の変で戦死した真木和泉と並んで尊攘派浪士を代表する人物だったが、禁門の変に間に合わず死に場所を逸した意味においては悲劇の浪士だった。当時、彼は野唯人という変名を名乗って三田尻にいたが、晋作が彼に興味を示したのは、彼が唱える『九州連合策』なる戦略論においてだった。
 「長藩における正義派の勢力を得せしめるがためには、外から九州連衡の勢力を以てこれを助けるのが一番である」
 と───。晋作が九州に行くと言ったのは、福岡藩出身の彼の人脈を利用しようとしたことに他ならない。以前、京都で出会った中岡慎太郎に要件だけ話すと、円太への書状を託し、そのまま富海から船に乗って、ひとまず卯乃の待つ下関へと向かうのだった。