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21.政権交代
幕末小説 『梅と菖蒲』
 片方の危機は去った。下関は平和を取り戻し、架空の人物である宍戸刑馬の評判は、専ら“馬関の町を救った英雄”として町人達の間でもてはやされた。
 「いったいどんな素敵なお方であるんやろ……?」
 と、傍らにいた卯乃まで熱をあげている様子で、晋作との会話もけんもほろろにポウッと頬を赤く染めている。彼女はあの日、晋作が着ていた鎧直垂の意味を、全く気付いてないし、また詮索しようともしていない。「この女、本当に鈍感じゃ……」と呆れながらも、晋作自身「あれはボクじゃ」と野暮は言わない。それでも、
 「旦那はんは、あの宍戸刑馬様を知ってなはるの?」
 と言うから、「ああ、よう知っている」と答えた。
 「今度会わせておくれやす」と本気で言うから「あやつは大風呂敷のこんこんちきさ。ボクの方がずっと男前だ」と言ってやった。
 「あら、旦那さま?焼き餅を焼いていなはるの?」
 卯乃は浮気の仕返しだとばかりに、嫌味のない笑顔を浮かべた。そういうところはやはり女であった。自分の夫は自分の方を向かせていたいという本然的な欲求を持っている。そこは雅とは違い、露わにしてくるところは芸妓育ちであった。そこが晋作には可愛いのだ。
 「でも外国はんとの話し合いなら、旦那はんでも務まるんやありまへん?」
 卯乃はときどき不思議なことを言う。
 「それはどういう意味じゃ?」と聞けば、
 「だって旦那はんは神出鬼没で何をお考えなのかわてにもさっぱり分かりまへん。外国はんと同じどすわ。それに……、少し怖い───」
 卯乃は外国と晋作がそういう意味で同じだから対等に話ができると単純に言っている。しかし「そうかも知れない」と納得できる。その単純でありながら鋭い洞察力に時々はっとさせられるのだ。「お卯乃は愚かでなく、とてつもなく利発なのではないか」と感じる時がある。「お卯乃が男で生まれていれば、きっと大きな仕事ができたであろう」と、甚だ惜しいと思う。
 「宍戸刑馬とこの高杉晋作と、夜伽を過ごすとしたらどちらを選ぶか?」
 晋作は意地悪にそう聞いた。
 「そりゃいまお噂の宍戸刑馬様……」
 卯乃はそう言うと無邪気に抱きつき、何度も何度も接吻した。
 「お卯乃、知っておるのか?」
 「なんのこと……?」
 晋作は「どちらでもよいか……」と、卯乃の身体にまとわりついている赤い小袖を優しく撫でた。

 さて、山口の政事堂である。
 一難去って、今度は幕府の長州征伐の対応に追われる長州藩だったが、それに対して幕府に恭順すべきと唱える保守的勢力が増大していた。その中心人物が門閥出身の椋梨藤太で、彼が率いる俗論派は、
 「長州藩が今の危機を打開し、安泰を保つためには、もはや幕府に徹底的に従順するしかない。一刻も早く恭順の意を表し、謝罪すべきだ」
 とする『純一恭順』をもって藩論をまとめ上げようとしていた。過激な尊皇攘夷運動を経験して倒幕論に傾いている正義派にしてみれば、俗論派は獅子身中の虫であったわけだが、確かに現状の兵力で幕府軍に対抗するには無理があることは誰の目にも明らかだった。そんな状況の中で、九月に入って藩主は藩内に恭順を諭した。そこで正義派は、
 「一時的に外へは恭順の姿勢を見せておき、その間軍備を整え、しかるべき時が来たら幕府と戦うべきだ」
 とする『武備恭順』を主張して、藩内の意見は真っ二つに割れた。俗論派は正義派に対し、尊攘活動の中で起こした禁門の変をはじめとしたさまざまな失態や、多くの尊攘派藩士達を失った責任を厳しく追及し、
 「長州藩の危機を招いたのは正義派の連中だ!」
 と、全盛期に比べ勢いの衰えている正義派を、藩の仇敵として駆逐を開始していく。そんな中で行われた御前会議であった。九月二十五日のことである。
 晋作はそこにはいなかった。正義派は二十二歳の最年少家老清水清太郎を弁者に立て、毛利登人、前田孫右衛門、山田宇右衛門、渡辺内蔵太ら老中クラスと井上聞多等、先の講和交渉に立ち合った面々が出席し、俗論派側は椋梨藤太をはじめ、中川宇右衛門、井原主計、熊谷式部らが同席して首席家老の毛利伊勢を弁者に立てて熱弁をふるった。
 朝早くから始められた会議は、両者の主張が激しくぶつかりあり、最初はいっこうに決着がつかない様相だったが、清水清太郎が若い分、次第に経験豊富で論も巧みな毛利伊勢の方に論調が傾いていった。
 「武備恭順などという子供騙しが幕府に通用するとでも思っておるのか?本気で恭順する気がないと気付かれたら最後、我が藩の十倍もの兵力で押し寄せてくるのじゃ!せいぜい武備を整えていたとして、どれほどの対抗ができるというのか!残された兵力、財政面において、もはや幕府に抵抗するのは無理なのじゃ!現実を見よ!」
 もともと彼らには少しばかりの野心もなく、その日その日を平穏に暮らすことだけに執着してきた小市民の集まりだった。つまり徳川幕府の作り出した社会システムに安住することによって、自らの存在価値を見出してきたいわゆる役人の集団である。世の中がどう傾こうと、上役の言うことに忠実に従い、自分達の暮らしが守られているならば特に文句も言うことはなかった。ところがそれを脅かす状況ができたとき、計り知れない不安が彼らの激情をあおりたてたのだ。時代の流れにあまりに鈍感だったツケがまわってきたわけだったが、保身から出たエネルギーは、彼らの身を守るためにこそ最大の力を発揮した。しかし、藩のとった攘夷方針が失敗だったと判断したとき、それに変わる新しい方針を模索し実現していく力は彼らにはない。ひたすら元の鞘に納めようと躍起なのである。
 長いものには巻かれろ───。とにかく幕府には今までのことはひた謝りに謝り、今後永遠に恭順することを信じてもらうしかない。
 いかにも役人らしい発想だったろうが、困ったことに、病気の人間が気を弱くするように、体力が弱った藩にはその俗論派の言葉がもっともに聞こえた。正義派の意見を代弁する清水清太郎の弁論は、毛利伊勢に押されて説得力は次第に薄れていった。そしてお昼も過ぎていた頃である。
 「なかなか結論が出ないようじゃのう。暫く休憩しようではないか」
 と藩主が言った時である。押されぱなしの清水に業を煮やして、井上聞多がいつものように藩主に喰ってかかった。
 「殿!そのような悠長なことを言っている場合ではございませんぞ!」
 と、俗論派の方をかっと睨みつけ、
 「伊勢殿に聞きたい。貴公らは恭順、恭順と純一恭順を申すが、幕府の言うことは全て無条件に受け入れよと言うのであるな?」
 「無論!もはや長州に残された道はそれしかない」
 毛利伊勢は答えた。
 「幕府がお人好しの集まりとお思いか?我らが恭順を示せば、奴らは殿と若殿に切腹を要求してくるぞ!貴公らはそうした要求にも目をつむって恭順するおつもりか!」
 休憩しようと言った藩主毛利敬親と定広の表情が俄に変わった。誰もがはばかって言えないことを、聞多がずけずけと言い放ったのだ。しかも聞多の言うことはもっともであり、俗論派も藩主を目の前にしてさすがに「そうだ」とは言えない。
 「まさかそんなことは言ってこまい……」
 毛利伊勢が苦し紛れに答えた。
 「どうしてそんなことが言えるのか?現に奴らは長州を征伐しようとしているのじゃ!恭順というのは降伏じゃ。戦に負ければ、藩主の首を出せと言われて然るべきじゃ!」
 藩主に対する不吉な言葉に耐えかねて、
 「聞多よ、そんな簡単に切腹だの、首を斬るだの申すでない」
 と世子が言った。
 「若殿!本当に事の重大性を分かっておられるのか?今日の会議はそういう話し合いでござるぞ!安易に伊勢殿らの言っていることを真に受けたら、殿等は死ぬことになるのです!」
 そう言われては藩主父子も他人事でない。やがて世子はこう言った。
 「うむ。聞多の言う通りじゃ。幕府に対しては反省すべきところは反省し、従える範囲の中で従い、今は武備をかためて、それでも許さぬと幕府が言ってきたら、その時は防長を灰にしても戦う覚悟を決めようではないか。これより我が藩は武備恭順でいく!」
 藩主毛利敬親も、
 「うん、そうせい!」
 と言った。これにてようやく藩の方針が決定したのである。俗論派の連中は鋭い視線で聞多を睨みつけた。
 そんなとき、政庁内に正義派にとっては信じがたい凶報がもたらされた。
 「ただいま周布政之助殿、ご切腹!」
 聞多はじめ正義派の連中は耳を疑った。周布政之助といえば京都における長州の全盛期時代より、尊皇攘夷運動の中心的存在として活躍してきた重臣である。聞多にとっては英国行きの便宜を図ってくれた気の良い上司である。晋作が野山獄に入れられている時に獄門を破り、以来謹慎中の身であった。
 周布は藩の革新政策に限界を感じていた。俗論派の台頭に伴い、自らの政策の失敗を自覚したのだった。
 「正義のために藩に多大な迷惑をかけてしまった───」
 ここでいう“正義”とは藩内の政治用語で正義派のことである。
 「もはや自分の出る幕は終わったのだ。人は死すべき時に死せざれば、かえって辱めを受けてしまうものだ───」
 そう言って深夜、山口矢原の地でひとり命を断ったのだった。
 その報により俗論派の勢いはヒートアップした。その日の夜、政事堂から自宅に帰る途中の聞多が、その駆逐の犠牲者となったのだ。
 聞多が政事堂を出たのは夜の八時頃だった。一応は藩主の『武備恭順』の方針を得、周布の切腹に複雑な気持ちで正義派の連中と軽く酒を飲み交わしながら、「これは周布様ばかりではすまないかもしれんな」と言った矢先のことである。もともと山口郊外の湯田には彼の実家があり、そこには兄の五郎三郎と母の房が住んでいた。山口にいるときの彼はそこを滞在場所にしていたので、ほろ酔い気分で従僕の浅吉が持つ提灯の明かりだけを頼りに、五、六キロほどの真っ暗な夜道を歩いていたのだ。
 湯田の入り口に袖解橋がある。その辺りまで来た時、
 「井上聞多さんですね……?」
 闇の中で声をかける男があった。
 「そうだが、なにか用か?」
 と次の瞬間、男は刀を抜いたかと思うと、いきなり聞多に斬りかかった。それも一人ばかりでない。三、四人いる。すっかり酔いが覚めた聞多はかろうじて最初のひと太刀はかわしたものの、土壁に追いつめられて、頭、背、顔面、腹、腕、足……、瞬く間に何箇所となく思い切り斬りつけられた。従僕の浅吉は驚いて、そのまま逃げだし聞多の家に知らせに走った。
 幸いだったのは暗闇だった事と家が近かった事。聞多はめった斬りにされながら、それでも転げるように逃げて近くの芋畑に飛び込んだ。
 「どこに行きやがった!」
 「畑の中に逃げ込んだぞ!」
 聞多は追っ手に気付かれないように手で口をふさぎ、うめき声を押さえた。おびただしい血で身体はビチョビチョだ。すぐ頭の上を刺客達が歩く気配を感じていた。やがて、
 「どのみちあの傷じゃ助からん。引きあげよう」
 という声を聞いた。聞多は意識も朦朧とする中、やっとの思いで近くの農家までたどりつき戸を叩くと、出てきた家の者は泥と血まみれの人間に驚愕した。
 「井上五郎三郎の家まで運んでくれ……」
 聞多は息も絶えゝゝにそれだけ伝えると、もう声も出ない。慌てた農家の者は彼をモッコに乗せて、井上の家まで運んだのである。
 浅吉の連絡に家を飛び出した五郎三郎が現場に到着した時はもう誰もいなかった。彼は暫く周囲を探してみたが、諦めて家に戻った時は、既に聞多は虫の息。
 「聞多!何があった!しっかりしろ!」
 五郎三郎の声に聞多は激痛に耐えながら最後の力で「介錯を頼む」と言おうとしたが、もう声も出ず、わずかに指先だけでそれを伝えるだけだった。しかし兄には彼の言わんとしていることが判った。
 「分かった!いま楽にしてあげるからな!」
 五郎三郎は涙を飲んで刀を抜いて上方に振り上げた。
 「なにをしやるか!」
 咄嗟に聞多の身体に覆い被さったのは母の房である。
 「斬ってはならん!どうしても介錯するというなら、この母もろとも斬りなさい!」
 まだ息のある腹を痛めた我が子の死を目の当たりにするのは、あまりに忍びなかったのである。涙をボロボロこぼして鬼のような形相で兄を睨み付けた。
 「なにをしている!はよう医者を呼んでこんかい!」
 母の叫びに五郎三郎は刀をおさめて家を飛び出した。間もなくやって来たのは漢方医の所郁太郎だった。
 「こりゃ手の施しようがない……」
 顔、頭、背、腹、足などに負った深手の傷を一目見て、郁太郎はさじを投げた。
 「何を言いやる!あんたは医者だろうが!なんとかしてください……」
 房は郁太郎の手を握って拝むように懇願した。
 「分かりました。やるだけのことはやってみましょう。ただし命の保障はありませんぞ」
 房子は「お願いします」と、手術中、聞多の手をずっと握りしめていた。騒ぎを聞いて二人の医師も駆け付けており、三人は協力しあいながら傷口に焼酎を吹きかけ、小さな畳針で次々と傷口の縫合を開始した。聞多は既に気を失っている。そうして五、六十針は縫っただろうか、手術が終わった時には東の空が白々としていた。
 母の愛によってか、聞多は奇跡的にその一命を取り留めたのだった。
 「自分は母に二度産んでもろうた」
 と後年彼は語るが、俗論派の駆逐はそれだけにとどまらず、間もなく賊魁の財満新三郎と嶋尾五郎右衛門ら六百名を清光寺に集め、俗論派過激部隊となる撰鋒隊を結党するに至り、次々と正義派志士が狙われ、その狂気の行動に正義派の幹部達は震え上がった。
 周布の自刃と聞多の暗殺未遂───、この二人が藩政治の舞台から姿を消したことにより、いよいよ俗論派は政治の主導権を握り、それまで政庁の役人を務めていた正義派の毛利登人、前田孫右衛門、山田宇右衛門、渡辺内蔵太らは、追い込まれてぞくぞくと辞表を出してしまうのだった。そうして政務座役等の官僚をことごとく俗論派の人間で占めさせ、いわゆる政権交代をやってのけたのである。
 晋作の身もいよいよ危険だった。一刻も早く身を引こうと、十月十六日、病気を理由に萩に隠遁することにした。病気というのはあながち嘘でもなかった。たまにどこか身体がだるい日があったからだ。それより何より、去る十月五日には長男梅之進誕生の吉報が舞い込んでいたのである。辞職を提出するにはちょうど良いタイミングでもあった。
 萩に帰ると聞いて、卯乃はいらいらしている。
 「今度はいつお戻りにならはるの?」
 「わからん。運に聞け……」
 「赤子に会いたいんやろ?わてはやっぱり独りぼっちや……」
 「おなごの目にはやはりそう映るか。しかし今ここにおったらボクの命が危ういのじゃ」
 晋作はひとつの漢詩を詠んだ。

 内憂外患迫吾洲(内憂外患わが洲に迫る)
 正是邦家存亡秋(まさにこれ邦家存亡の秋)
 将立回天回運策(まさに回天回運の策を立てんとす)
 捨親捨子亦何悲(親を捨て子を捨つるまた何ぞ悲しまん)

 卯乃には詩の意味はよく分からなかったが、家に最期の別れの挨拶をしに行くのだろうと直感した。すると、またすぐに会えるような気がした。
 「旦那はんはこういうご時世にお生まれになったんやもんな……。わては旦那はんに選ばれた女や。あの床の間の梅を旦那はんと思い、ずっと待っておりますわ」
 卯乃は梅の鉢に水を差した。
 「旦那はんは梅の花がお好きなのやろ?白石様がそう申しておりましたわ」
 晋作は静かに笑った。我が子に“梅之進”と命名したほど好きなのだ。
 「次に会う時はその梅の花を一緒に見ようぞ」
 思えば萩の菊屋横町の実家にも梅の木があった。幼少の頃はよくその木に登って遊んだものである。また、松下村塾のすぐ近くにも梅の木があった。松陰と一緒にその梅の木の袂で語った。冬の終わりに咲く梅の花は、春の訪れを待たずして散ってしまうが、百花繚乱の季節の中で、自分だけはしっかり実をつけるのだ。
 晋作は梅を見ると松陰を思い出す。新しい時代の夜明けの春を見ることなく逝った松陰だが、彼の留めおいた思想はやがて実をつけると信じて疑わない。いや、弟子として実を結ばせなければならないのだ。それが弟子の使命なのだ。その思いが強ければ強いほど晋作は焦った。
 ところが現状はどうか?俗論党にしてやられて、もはや松陰の大和魂は朽ち果てようとしているのではないか?
 現に周りを見渡せば、松陰から直接薫陶を受けた志士達はいま何人残っているだろうか……?禁門の変で久坂も九一も死んだ、その前の池田屋で吉田稔麿も死んだ。あの松下村塾で席を並べて師を仰いだ魂の同志達は、いまことごとく師の元へ逝ってしまったのだ。そのうえ周布政之助まで死んだ。聞多もやられた───。わずかに残された者と言えば伊東俊輔くらいか……。しかし農民育ちの彼には武士の何たるかの本質の意味が分かっていない。とうてい頼れる存在とは言い難い。頼みの桂小五郎も、禁門の変以来どこかへ姿をくらましたままである。
 同志の死を思うと胸が苦しくなった。だから考えないようにしているが、ときたま堰を切ったように悲しみが襲ってくる時がある。その彼の心を見透かしたように、
 「旦那はんは梅の花のようどすなあ……」
 ふと、卯乃がそう言った。
 「どうしてじゃ?」
 晋作はみつめ返して言った。
 「今年の冬、この梅の花が咲いたとき思ったんな。もう少し待てば春が来るのに、春を待って他のお花はんと一緒に咲けば楽しかろうに、なんでひとりぼっち先に咲いてしまうんやろって……。なんだか旦那はん見とると淋しそうやさかい……」
 「お卯乃と同じじゃの。だからボクらは気が合うのかもしれん……」
 卯乃はにこっと嬉しそうに笑った。