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2.松陰の双璧
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 その宵、長州藩邸を訪れた晋作は久坂玄瑞と一献傾けた。
 「やっちょるのぉ。ボクもせいぜい冷やかしてやったが、あんな行列ごときで世の中が変わるとは思えん。でも少しくらいは将軍様の面目を潰すことはできたかな?」
 開口一番、晋作は笑いながらそう言った。久坂は苦笑して、
 「相変わらずじゃの。お主なら将軍を斬るか?」
 と晋作の盃に酒を注ぎながら言った。
 「どうじゃ? くり出さぬか? 島原あたりでパーっとやろうではないか。ボクは京は初めてじゃ。江戸の吉原も良かったが、島原にはそれ以上の極玉がおりそうじゃ。こんな辛気くさいところでは息が詰まる。はよ、はよ……」
 「お主は気楽でいいの。将軍が上洛中になんとしても攘夷決行の命令を出させにゃならんのに。それどころじゃないよ」
 「つまらん男じゃ……」
 晋作は早くも手枕で寝転がった。
 「あの夜以来だな。みな無事に逃げたか?」
 久坂が言った。”あの夜“とは昨年(文久二年(一八六二))の十二月十二日、久坂はじめ同志十二人と共に、品川御殿山に幕府が建設中の英国公使館を焼き払った晩のことである。最初は薩摩藩がイギリス人四人を殺傷した事件(生麦事件)同様に、外国公使の暗殺計画を実行に移すところだったが、計画が同盟を求める土佐藩士から漏れ、藩主の子である世子定広に未然に中止させられてしまったのである。晋作は、
 「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば……」
 と、計画を公使館焼き打ちに切り替えて決行したものだが、火を放った後は十二人の同志は何があっても秘密裏のうちに、各自は各自の責任において散会するとの盟約で、放火後、てんでに散ったその後の同志のことを久坂は心配しているのだ。
 晋作は「ああ無事だ」と身体を起こして酒を含みながら頷いた。
 「先生の遺骨を若林に移してくれたそうだな」
 再び晋作は「ああ」と答えた。若林とは江戸長州藩抱屋敷がある場所の地名である。久坂は表情を崩さず遠くを見つめたような目で、
 「すまん。かたじけなかったなあ」
 と頭を下げた。
 この二人、松下村塾以来の腐れ縁である。吉田松陰はそんな彼ら門下生をこよなく愛した。
 久坂玄瑞が松下村塾に入門したのは十七歳の頃。もともとは貧しい藩医の家の生まれで、十五歳のとき兄が死に、その前後に両親も失って家督を継ぐことになった苦労人である。一方晋作は二百石取りの上級武士の家に生まれている。十七歳で九州に遊学した久坂は、帰国後、松本村で自宅謹慎中の松陰に遊学中の今で言うレポートを提出し、そこから文通が始まった。久坂の書信を見た松陰は、その並外れた英才ぶりに大いに喜ぶが、あえて、
 「あなたの議論は浮いていて思慮が非常に浅いですね。これが本当にあなたの心より出たものとは到底思えません。今あなたのために、あなたに従い、死のうとしている者は何人いますか?そしてあなたのために力を出し、銭を出す者は何人いますか? 真に賢い者とは議論ではなくて行動にこそあるのですよ」
 と戒めの返信をしたのだった。納得いかない久坂は松陰のもとを訪れるが、松陰の見識の深さと人格に魅せられてそのまま入門したと言われている。入門後、松陰からは「防長年少第一流の才気ある男」と褒められ、その将来を大いに嘱望された秀才中の秀才だった。松陰の妹を嫁にとったところだけでも、その信頼は絶大だったと言える。
 そんな久坂の誘いで初めて松下村塾に顔を出したのが晋作十九歳の時。一つ違いの二人は幼い頃からの顔見知りだった。ところが晋作の父小忠太は、松陰の思想教育に危険を感じ、松陰に師事することを認めなかった。父思いの晋作にとっては辛いところだったが、松下村塾の門下生となったことは告げずに通う日々が続くのだ。
 松陰に出会ってからの晋作は、はじめて学問というものに打ち込むようになった。その進歩は目覚ましく、学問のみならずその言動もますます磨かれ、塾生の中で頭角を現すようになっていく。その才をいち早く見抜いた松陰は、晋作の競争心をあおるように久坂をライバルに仕立て上げるのだ。
 「暢夫(晋作)の識を以って、玄瑞の才を行ふ、気は皆其れ素より有するところ、何おか為して成らざらん。暢夫よ暢夫、天下固より才多し、然れども唯一の玄瑞失うべからず」
 後に晋作は、
 「あのときほど学問に夢中になったことはない」
 と言ったほどだ。松陰は晋作のことを『鼻輪も通さぬ放れ牛、束縛されない人』と評価し、久坂のことを『政庁に座らせておけば、堂々たる政治家』と評価した。「玄瑞の才」、「晋作の識」、松陰の教育者としての偉さは、二人を競争させて向上させようとしただけではない。互いの競争心をあおりつつも、互いの優れた点を認めさせ合い、協力しゆくよう促していた点である。いつしか、久坂が、
 「晋作の大識見にはかなわんなあ」
 と言えば、晋作は、
 「いやあ、やっぱり、おぬしの才は当世一じゃ」
 と、互いに称え合うような関係になっていた。そして後に、二人は松下村塾の双璧と呼ばれるようになったのだ。
 その松陰が幕府に殺された時、久坂は江戸におり、晋作は長州は萩に戻る途中だった。時に安政六年(一八五九)十月二十七日の事である。伝馬町の獄で処刑された松陰の遺体は、その後、小塚原の回向院に送られた。小塚原の回向院といえば、刑場での刑死者を供養するために創建されたのが始まりで、もとを正せば水死者や焼死者や横死者などの無縁仏や、犬猫までも埋葬する宗派もクソもない幕府の便利勝手な墓地である。桂小五郎と同行した久坂等数人の松陰門下生は、そこで師の屍に対面する。悔し涙に暮れながら、門下達は亡骸に衣服を着せて、持参した瓶に納めてその場所の片隅に丁重に葬るのである。
 その時久坂は師の志の如く、自身の命の行き方を覚悟したのであろう。その死に対して、同じ門下の入江 九一に宛てた手紙の中で久坂はこう言う。
 「先生の悲命を悲しむことは無益です。先生の志を落とさないことこそが肝要です」
 と。一見、冷血的な感情を感じるが、松陰が刑死に先立ち門下に残した言葉はこうだった。
 「諸君は私の志をよく知っているでしょう。だから私の刑死を悲しまないでほしいのです。私を悲しむことは私のことを知らない証拠です。私を知っているならば、私の志を継ぎ、大いに私の志を実現してほしい」
 まさに久坂は師の言うとおりの言動を示した。
 一方晋作は───
 松陰の訃報が届いたのは萩に着いてしばらくしてからのことだった。晋作はその報を聞くや、師がいるはずもない松下村塾へ、松本村へ向かって飛び出した。そして途中の松本橋の上で立ち止まり、川の流れをじっと見つめるのだった。すると、ふいに涙が込み上げ、橋の欄干につかまり子供のように泣いたという。その後、周布政之助に宛てた手紙の中で晋作はこう言う。
 「松陰先生の首を幕府の役人の手にかけたことは残念でなりません。弟子として、この敵を討たないでは到底心もやすまりません」
 と。師の大和魂を間違いなく継承した二人ではあったが、その言動は対照的である。師の松陰に対して久坂は智動の人であり、晋作は熱動の人だった。
 それから三年後の本年一月五日、晋作は松陰の遺骨を小塚原の回向院から若林村(現世田谷)の長州藩の敷地内に移葬する。途中わざわざ上野寛永寺の将軍しか通ってはならないという御成橋を強行通過して───。
 その話に久坂は笑いながら、
 「お主らしいが、京ではあまり目立つことはせぬ方が良い。周布様もお困りだ」
 と晋作に忠告を促しながら酒を注いだ。周布様とは周布政之助のことで、藩の重役では最も革新的な若手志士達の理解者として、陰に付け日向につけ彼らの尊王攘夷運動を庇護している長州藩官僚である。晋作も幾度となく彼の藩主への申言に助けられている。
 久坂は晋作をじっと見つめて、
 「次は石清水八幡宮への行幸じゃ」
 と言った。久坂の考えは、今日の加茂神社行幸は幕府権威を失墜させるため、次の石清水行幸は攘夷決行を朝廷命令として幕府に受け入れさせるためであると言う。なるほど八幡宮といえば武家の信仰対象であり、そこに将軍が朝廷と一緒に攘夷祈願をするということは、そのまま『即時攘夷』を誓うことになると言うのだ。すでに各国と通商条約を結び、横浜には外人居留地を作って世界と貿易を始めてしまっている幕府にとっては、とてもそんなことなどできるはずがなかった。そんなことをすれば、幕府は攘夷の矢面に立つことになり、諸外国を相手にやがては幕府存亡の危機につながりかねない。かといって朝廷に背くこともできない幕府は、窮地に追い込まれるのである。
 「さすが才の玄瑞じゃ。すべてお前の画策か?」
 晋作はあきれたように久坂を見つめて微笑んだ。
 「攘夷が決まればあとは決行期日の問題だけじゃ。そしたらわしは馬関(下関)へ飛ぶ。そして長州の兵力を結集して海峡を渡る外国船を片っ端から砲撃するのだ。高杉、お主はどうする?」
 晋作はゴクリと音をたてて酒を飲み込み、しばらく即答を控えた。
 「まさかお主、石清水行幸中の将軍を斬るなんてことは考えていないだろうな」
 図星であった。久坂は顔色を失った。
 「例え旧友であろうとそれだけは絶対に許さん。将軍をやっと上洛させ、ここまで事を運ばせるのにどれだけの手を尽くしたと思っているのだ。そんなことをすれば幕府が一斉に長州を攻めてくる。それでもやるというのであれば、今この場でお主を斬る!」
 久坂の檄に触れた晋作は、やがて、
 「そんなことはせん」
 と盃を静かに膳に置いた。ほっと胸をなで下ろす久坂であるが、何をしでかすか分からない晋作のことである。内心心配でたまらない。
 「剃髪しようかと思うちょる」
 晋作の思わぬ発言に、久坂はあっけにとられた表情で彼を見つめた。
 「どうやら京にはボクのすることはなさそうじゃ。江戸からここに来るまでの道々ボクは考えた。晴れて松陰先生は世に出ることができた。だが先生の葬儀すらろくに行っておらんからの。しばらくのあいだ僧道に入り、先生のため喪に服そうかと……」
 「そりゃ妙案じゃ!そうしてくれ」
 晋作は皮肉いっぱいの笑みを浮かべて舌打ちした。
 松陰は生前晋作に「十年間、実力を磨け」と言っていたことがある。それは久坂も知っている。また、晋作が「男子たる者の死」について質問したとき、松陰はこう答えている。

 死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず。
 道尽き心安んずる、便ち是死所。
 世に生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。
 心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。

 死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。
 
 いま晋作は、自分が出る幕ではないことを感じていた。ならば師の言われた通り、向こう十年間は学問を磨き、時が自分を必要としたときに再び表舞台に出るのを待つべきだと久坂を見ていて考えた。「将軍暗殺」と「剃髪」という両極端の決断を自分に迫ったとき、時勢からして後者を選択するしかなかった。
 「仕方がないのぉ……。しかしボクの喪は盛大じゃぞ!松陰先生に喜んでいただけるよう、京中の妓を集めて楽しく執り行わにゃならん。ちと金がかかるが、工面しといてくれ」
 「相分かったゆえ、本当におとなしくしていてくれよ。で、いつ周布様に隠居願いを出すのじゃ?」
 久坂は急かしながら、ようやく安心したように酒をどんどん勧めた。