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1.留め置かまし者たち
幕末小説 『梅と菖蒲』
 そりゃもうたいへんなドンチャン騒ぎ。
 幕末志士の遊蕩ぶりときたら、大酒に大酒をあおって芸妓をはべらせ、三味に踊りに馬鹿笑い。ときたま怒声が鳴り渡ったかと思えば刀を抜いて、
 「お前は攘夷か?開国か?」
 と、いきなり斬り合いがはじまる始末。
 そんなことは日常茶飯事で、妓楼の女たちは「またか」とさほど驚く様子もなく、なにごともなかったかのように三味や太鼓を打ち鳴らす。いつ、どこで、誰に斬られるかなど知るか!という時代の革命の申し子たちの熱と力は、人斬りとか襲撃とか戦でなければ、そんなところで持て余すエネルギーを爆発させるしかない。
 後に幕末と呼ばれる世の有り様は、まさに”狂“の一文字に象徴される。
 歴史好きなら一度は学んでみようと試みるも、その時代背景や複雑に交錯する思想や思惑に翻弄され、結局理解できずに戦国時代の方へ学習の視野を戻してしまうケースが多いのではなかろうか。実は筆者もその口である。
 まず『攘夷』という言葉が解らない。これはもともと中国の言葉で、「攘」とは追い払う意、「夷」とは「夷狄=野蛮な異民族」のこと、つまり外国人を実力行使で排斥しようとする考え方である。それに対して「開国論」がある。最低限、これが判らなければ幕末物は読まない方がよろしいかもしれない。そういう筆者もにわか仕込みなのだから、本編も読者と共に学びながらという思いで進めよう。

 嘉永六年(一八五三)六月、アメリカのペリーが浦賀に来航して以来、それまで鎖国をしていた日本は見たこともない異人の登場に騒然とする。そのときアメリカは日本の開港を要求。翌年、江戸湾に再航したペリーは横浜において徳川幕府と、日本に不利な和親条約を結んでしまう。
 その出来事は世界の文明の発達による必然ではあったかもしれないが、世界というものにあまりに無知だった日本においては、それまでの徳川政権による安泰を根底から崩す空前未曾有の出来事となった。徳川二代将軍秀忠の時代に始まり三代家光の時代に完成した鎖国政策は、当初キリスト教禁止の名目で行われ、一部の港で中国(明朝と清朝)とオランダのみとの国交を許しただけだったが、その内実は外交や貿易の権限を徳川幕府だけに制限、管理しようとしたものである。ところがペリーの来航により、それまで二百数十年の国交断絶のツケが、大きな波となって一気に押し寄せてきたのである。それは同時に安泰の世で静かに成長してきた武家社会が音をたてて崩壊する時でもあった。
 そもそも徳川幕府は日本全土において実権を握る最高権力者であったが、日本という国の不思議は、日本書紀の昔からいつの時代においても頂点に必ず天皇が在していることである。他国の歴史を見ても国王や皇帝はいても、時代の趨勢や覇権争いによって必ず交替の時を迎えるのが常である。それに対して神代の昔から純粋な血筋を継承し続ける日本の天皇の存在とはいったい何であるのか? しかもその『勅』といえば絶対なのである。徳川の代々の将軍ですら、天皇より委任される「征夷大将軍」という地位なのだ。
 その一方で、天皇は時の権力者に利用され続けてきた。足利時代の南北朝然り、戦国然り、これより後の太平洋戦争然り。徳川家康などはその絶対的権力を恐れ、政治的実権を剥奪し、石高も一万石から三万石程度の経済基盤しか持たせなかった。その上、禁中並公卿諸法度という法律まで作り、言動までも厳しく制限したのである。それが江戸時代二六〇年間一度も改正されることはなかった。そうして築いた幕府安泰の歴史であった。
 ところがペリー来航に伴う対応で、幕府は独断では処理できなかったため朝廷に判断を仰いだ。それは前例にないことであり、およそ自分達で作った鎖国政策でありながら、開国か鎖国継続かといった重大問題を、他に頼ること自体無責任といえば無責任に見える。当時の幕府の軟弱化は、そのあたりからも推測できるが、やがてそれが天皇の権威回復と幕府権威の失墜へとつながることになっていく。いわゆる「尊皇」思想の復活である。背景に江戸中期から興った国学の普及も大きく影響するが。
 日本における内在的権力と時の権力とのゆがみが、話を一層複雑にする。外国人などには解ろうはずもないかも知れない。
 徳川幕府といっても巨大ではあるが一つの家には違いなかった。全国にある諸藩を統制しているとはいえ、その本質は藩を成す家と同等のものである。その巨大な家が世界の情勢も文化も思想も知らないままに、結果、安直に「開国」の方針をとったのだった。
 果たして諸外国との貿易が始まると、金銀の比価の違いから金貨が大量に出まわり、対策として発行された万延小判の品位の低さなどで物価が高騰した。すると幕府がとった開国策と不平等条約への批判と不満がすさまじい勢いで噴出した。時代を動かすのはいつの世も社会の底流にあるそうした庶民たちなのだ。
 江戸幕府大老に就任した井伊直弼は、安政五年(一八五九)六月、朝廷の勅許を得ることなく、日米修好通商条約というこれまた開港領土や海外貿易において日本に不利な不平等条約を結んでしまう。また国内においては将軍後継問題で、朝廷の意向を無視して紀伊藩の徳川慶福(家茂)を決定するといった強硬政治を行った。
 時の孝明天皇は外国人を極度に嫌っていた。無論、京都の朝廷は開国には反対である。そこで幕府側に公武合体を求め、幕府の臣下であるはずの水戸藩をはじめとする御三家と、御三卿などに対して戊午の密勅を下す。その内容を要約すると、一、勅許なく日米修好通商条約に調印したことへの呵責とその詳細説明の要求。二、御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体を実現し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。そしてこの二点の内容を諸藩に廻達しなさいというものである。こうしたことから幕府に不満を持つ攘夷派が、朝廷の攘夷派公卿たちと結び付くという構図ができあがった。
 これに対して井伊直弼は、世に言う安政の大獄を発した。いわゆる反幕府思想を持つ者や疑いのある者に対する弾圧事件である。その犠牲者の数は一〇〇人以上にものぼったが、その中に長州藩の吉田松陰の名も挙げられる。
 報復は報復を生むのが歴史の常である。安政七年(一八六〇)、大老井伊直弼は桜田門外の変で暗殺された。
 さて、ここからがいよいよ本格的な維新の開幕である。井伊暗殺を契機に諸藩の下級武士達が立ち上がる。
 尊皇攘夷───。
 これこそ幕末から明治維新まで、青年の血で血を洗う激闘の中で打ち立てられた潮流だった。

 物語は文久三年(一八六三)から始めることにする。
 場所は───
 幕末の激震地はなんといっても京都であろう。京都には天皇がいた。明治維新への道のりは、表面上から見れば朝廷の奪還劇ともいえるからだ。
 あのゴタゴタ時代の京都の政治的体制をおおまかに大別すると、まず薩摩藩を中心とした公武合体論派と、長州藩を中心とした尊皇攘夷論派、そして新撰組に象徴される会津藩を中心とした幕府恭順派、いわゆる佐幕派とに分けられる。とはいえこれはあくまで理解しやすく筆者が勝手に分けただけで、各藩内においても尊皇攘夷の熱狂に支配された若い志士達の統制には苦労している。例えば前年四月の薩摩藩の同士討ちとなった寺田屋事件などはその象徴である。
 幕末におけるもうひとつの大別のしかたは、藩などの組織や階級を取り払ったところでの、その時を生きた年代による分け方である。例えば年代別に古老、中堅、若手とした場合、古老年代の人達はそれまでの徳川政権に恩を感じ、幕府に従おうとする保守的な姿勢を示し、逆に急進的な資質を持つ若手階層の人達は、外国人の登場に日本の将来を危惧し、攘夷こそ大事と血気盛んに行動を起こす世代。その中間を取り持つ中堅世代は、若手の言い分も分かるし古老の気持ちも分かる。しかし激動の中で舵取りを誤らすわけにはいかないから漸進的に物事を進めようとする世代。それらが混在するわけだから藩の立場や方針を示す諸藩の藩論というものも、朝礼暮改の忙しさでコロコロ変わる。時の流れの速さが異常といえばこれほど異常な時代もない。幕府や藩の打ち出しに、若手は一喜一憂し時には反駁し、古老はおろおろするしかなかっただろう。
 藩論において最終決定をするのは藩主である。諸藩においてそれは同じで、藩主命令は絶対だった。この点も日本固有の文化といえるが、そのため脱藩して志を遂げようとする若い武士も続出したのである。藩は幕府統制下に置かれているとはいえ、藩政は独立していた。そのため開幕以来徳川家は、諸藩の財力を蓄えさせないようにするため参勤交代を行ったのだ。特筆すべきは、関ヶ原の戦い以来苦渋を舐めてきた毛利長州藩と島津薩摩藩から、この維新の激波が立ち起こったことである。
 尊王攘夷思想は、権威を維持しつつ開国を進めた幕府にとっては天敵である。逆に尊皇攘夷の志士達にとっては自分達の理想実現のためには幕府こそ邪魔だった。それが倒幕思想へと発展していくことになる。
 文久三年の京都は長州藩がいわゆる政局を握っていた。それまで藩内で公武合体の開国論を推し進めていた長井雅楽が前年起こった坂下門外の変を契機に失脚し、攘夷の気運が一気に盛り上がった。この年の年頭といえば、天皇側近の攘夷派の公卿達を味方に付け、攘夷決行を征夷大将軍職にある将軍、つまり幕府命令として発令させようと必死になっていた頃である。「征夷大将軍」とは本来「夷」の征討に際して任命された将軍であるから、「開国」の方針を決めた姿勢とは矛盾する。まだ外国文明の脅威を知らない攘夷派の青年達の目には、その方針をとった幕府は弱腰としか映らない。
 そんなに攘夷がしたければ、したい者だけで勝手に外国と交戦すればいいと思う人がいるかもしれないが、戦争をするには膨大な費用と大義名分が絶対不可欠なのである。増して武士道思想が行動の規範を決定している以上、下手な行動をして後世に汚名を残すことなど論外だ。
 そんな時代にかたくなに筋を通し、思想戦をもって革命を決行しようとしたのが若き長州藩士達である。その思想の志士こそ、あの安政の大獄で処刑された吉田松陰に源流をなす松下村塾門下生の面々だった。
 「識の高杉、才の久坂」と称され「松下村塾の双璧」と呼ばれた高杉晋作と久坂玄瑞をはじめ、吉田稔麿や入江九一、後の日本初代総理大臣となる伊藤俊輔(博文)もまた後期の末弟である。加えて、当時長州藩の中核として活躍していた桂小五郎もまた、塾生ではないが松陰門下の一人である。
 当時長州藩には明倫館という藩校もあったが、私塾であった松下村塾の大きな特徴は、武士や町民などの身分の隔てなく塾生を受け入れていたことである。

 天下は一人の天下

 いわゆる「一君万民論」といわれる思想は松陰哲学の根幹をなすものであり、その意味は、ただ一人君主にのみ生来の権威と権限を認め、その他の臣下、人民の間には一切の差別や身分差を認めないとするものである。この思想は開幕以来武士の威厳を保つため生まれた士農工商の身分制度で維持されてきた社会概念を根底から覆すもので、松下村塾の精神そのものだったに相違ない。
 松陰自身、燃えるが如くその短い生涯を駆け抜けた。ただ机上に向かい、論だけをもてあそぶような観念主義者ではなかった。あるときは脱藩して東北遊学をして時の情勢をその目で確かめた現場主義者であり、黒船が来たと聞けば浦賀に飛んで、まだ誰も海外になど行ったことがない時代、独断で外国留学を決意し、二度までも密航しようとしたほどの行動主義者でもあった。幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結した時などは、激怒して討幕を表明して老中の暗殺まで計画したほどの過激な一面も持ち合わせていた。そのため何度も投獄され、最後は幕府に捕らえられ斬首刑に処せられるのだ。
 そんな松陰が弟子達に教えてきたこととはいったい何であったか? それを一言で表せば、
 『志』
 である。志こそ松陰の魂であった。
 松下村塾に集い来た門下生は、ごく限られた地域の、最初はどこにでもいるごく平凡な書生達だったに違いない。しかも塾が開かれていた期間もわずか二年半あまり。しかしそれが松陰の秘めた巨大な魂に触れた時、生命の奥底の志が覚醒し、激しく光りだした。当時国内にいた青年層のごく一握り、たった数十人の松陰門下の熱と力が、時代の大きなうねりをつくっていくのである。

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

 これは松陰辞世の句である。日本の歴史はじまって以来の空前の激動時代を前に、自分は志半ばで武蔵野の地に果てるが、革命を起こすべく大切な弟子達を留め置いたと言うのである。
 この言葉に触れた弟子達は、師の大和魂をそのまま我が魂とし、いま火の玉となって燃え上がっていた。いわば長州藩松下村塾生における倒幕運動は、恩師の敵を討つべく仇討ち劇でもあるのだ。

 さて話は京である。
 昨年九月、朝廷は江戸へ勅使を遣わし、幕府に攘夷の実行を迫っていた。そしてこの年三月、ついに将軍徳川家茂は、期限付きを条件に上洛を果たすことになる。すべて長州藩の政治工作だが、幕藩体制以来、将軍が朝廷のもとに来ることなどありえない事態だった。およそ久坂玄瑞か誰かが幕府権威の失墜を天下に示すため、
 「将軍を江戸から引きずり出し、天子様の下にひざまずかせよう」
 と、長州藩の革新派官僚の周布政之助に進言して藩の公式意見とし、宮廷の過激攘夷派の公卿を動かして実現させたものであろう。
 そして将軍が上洛して三月十一日は、お膳立て通り孝明天皇が攘夷祈願のために賀茂神社へ行幸する日であった。それには将軍家茂も従わざるを得ない。
 天気は小雨まじりであったが、その華やかさは平安時代の絵巻を思わせるほどで、天皇を乗せた鳳輦(屋形の上に金銅の鳳凰をつけた輿)と、親王を乗せた輿、そして関白の輿に左右大臣を乗せた輿。あとは公卿であろうが将軍であろうが諸大名であろうが、すべて等しく単衣冠に太刀を帯びた服装で、行列は延々続いた。長州藩からは藩主毛利敬親の養子、世子定広が将軍と同じ身なりで参列していた。幕府権威の衰弱を示すにはそれだけで十分だった。
 沿道はその歴史的光景をひと目見ようと、数日前から京につめかけた人々でぎっしりうめつくされ、中には神仏でも見るように柏手を打って拝む者もいたという。
 その群衆の中に高杉晋作の姿もあった。
 彼は十日ほど前まで江戸にいたが登京の命を受け、京都で面白いものが見られると聞いてそれならばと、この行列を見物に来ていたのである
 天皇の御姿はいまだかつて晋作も見たことがない。師の松陰は天子を無上唯一の存在と位置づけ敬ったが、生涯においてその御姿を見ることなく処刑されてしまった。ところがいま自分は、その松陰の果たせなかったひとつの夢を、師になり変わって現実のものにしたのだと思うと、胸の奥から熱いものが込み上げていた。
 ところが、将軍家茂が彼の面前を通り過ぎようとしたとき、晋作は思わぬ声をはりあげた。
 「よっ!征夷大将軍!」
 その将軍を馬鹿にしたような声に、周囲の視線が一斉に晋作に集中した。馬上の家茂も頬をヒクヒクさせて彼を睨みつけた。ところが当の晋作は、そんな反応には全く無頓着で薄笑いを浮かべたままだった。
 長い徳川幕府政権の歴史でも、将軍に面と向かってそんな事を言った者は後にも先にも晋作ただ一人だけである。さすがに長州藩士達も顔色を失った。これが幕府主宰の行事であったら、処刑されることは間違いないし、藩にこうむられる責任問題もただではすまない。高杉晋作という人間は、一歩間違えば命を落とし、周囲にかかる迷惑などもあまり考えずに、重大な事をしたり顔でやってのけてしまう器を持っていた。革命の途上にあって死ぬ覚悟はいつでもできているとはいえ、死に場所を選ぶことに慎重だった武士とは一線を画する。それは藩にとっては要注意の危険因子に違いなく、ひとつ使い方を誤れば、藩の存亡にもつながることを至極心配している。