> ほくろ
ほくろ


 六月───。
 今日も鬱陶しい雨が降っている。
 天気予報によると、北上してきた梅雨前線が本州中部にさしかかり、この辺り一帯を雨にしているというのだが、僕にしてみればそのような理屈などどうでもよかった。現在、いま現実に降っているこの雨をどうにかしてほしかった。
 僕はこのところ不愉快な心持ちで、傘を右手に街を歩いていた。
 折角の白いズボンも、歩くたびに飛び散る泥で、見憎い斑模様をつくっている。
 何かのテレビ番組で見たことだが、泥はね防止には内股で歩くのが良いそうであるが、今の僕は半分やけくそになっていた。雨故に起こる様々な不快事態に対し、開き直りの念がそうしていたのだろうか。
 隣りを走り去った車が僕の顔に泥を飛ばした。
 僕はむくむくと込み上げる憤慨を笑みに変えて、その車を睨みつけた。条件反射的にワイシャツの袖口で顔の泥をふき取ったが、次の瞬間、深い水たまりに左足が浸っていた。僕は力任せにその無抵抗の泥水をけとばした。
 そんな僕に、背後から駆け寄る一人の女性がいた。
 当然そんな気配には気付かず歩を進めていたが、その女性は駆け寄りざまに僕の名を呼んだ。
 「良ちゃん!」
 聞き覚えのある声で、振り向きざまに推理するとやはり彼女だった。
 同じ会社に勤務していて、六カ月ほど前から僕と付き合い始めている富田美代である。
 僕は丁度デパートのショーウィンドーの前で立ち止まり、美代が追いつくのを待った。
 彼女は傘を持っておらず、ビッショに濡れていた。
 「どうしたの?」
 そんな質問に応えようともせず、美代は息を弾ませながら僕を見詰めている。
 髪は濡れて額に垂れて、薄化粧のうえを流れる雨水は絶えることを知らない。濡れた衣服は肌に吸い付き、危ない曲線を浮び上がらせている。
 僕は生唾を飲み込んだあと、右手の傘を美代に伸ばそうとした……、
 刹那、
 彼女の右手が、僕の左頬を殴っていた。
 一瞬の出来事で、僕には何が起こったのか理解できず、 暫時は雨の音さえ忘れていた。
 彼女は殴ったままの姿勢で僕を睨んでいる。その視線でようやく我に返った僕は、殴られた理由を必死に探求し始めていた。
 「誤解だよ!あの女性は高校の時の同級生で、傘を持ってないって言うから家まで送ってやったんだ……」
 僕は、きっと昨日のこの事だろうと咄嗟に判断して、彼女の許しを求めた。
 「えっ?」
 美代は突然何を言い出すのかといった表情で睨むのをやめた。
 「違うの?」
 僕は別の理由を探し始めた。
 「あ、判った、智子の事だろ。彼女とはもうとっくの昔に別れたんだよ。君がやきもち焼くことなんかないじゃないか」
 「智子?誰よそれ……」
 また違った───。
 この思いと同時に、彼女の知らなくていいことを、適当に口走ったことを後悔した。
 「良ちゃんていう人は私の知らないところで、いろんな女の人と遊んでいるのね……。見損ったわ……」
 僕は少なからず焦燥していた。
 彼女が僕を殴ったのには、それなりの理由があるはずである。早くそれを見つけ出して謝罪しなければ、このまま破局ということにもなりかねない。
 必死になっていると、ある事柄が確信をもって僕の脳裏に閃いた。
 きっとこのことに間違いない───。
 僕は、会社の同僚に話した事柄を思い出した。
 「西松の奴、君にあの事、言ったのか?」
 美代はふく膨れた顔で、
 「あのことって……?」
 大分、気分を損ねているらしく、荒い口調で言った。
 「君のあそこに、……ほくろがあるって事……」
 「えっ? ま、まあ!」
 美代は、更に怒った口調で僕を叱咤した。
 「あなたは人に、そんなことまで話すの? や、やだ!私、明日から西松さんに会えないじゃないの!」
 言葉の終わりには、もう泣き出す寸前だった。
 「ばか!」
 美代はこう言い残すと、僕の隣りを小犬のように走り去ってしまった。
 「まずいこと、言っちゃったかなあ……」
 僕は、良くないことを、また雨のせいにしようと仏頂面で空を見上げると、生憎晴れ間がのぞきだし、西の空には夕陽がほの赤く、僕の顔を照らし始めていた。
 その、彼女に殴られた左頬には、いつできたのやらほくろがひとつ、夕陽に一層黒々とした色をたたえていた。
 そのほくろが、 薮蚊の死骸によってつくられたものとも知らず、僕は傘をたたんで歩き出した。

  一九八六年六月二十七日